2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全14件 (14件中 1-14件目)
1
昨年の末も近くなった頃、当ブログは登録カテゴリーやタイトルなんかを少々いじったのであるが、それからアクセス数が若干ながら減ったんである。アクセスが減った増えたと言っても数十の差でしかなく、それ自体に特に感慨はない。それに、昨年後半あたりから八重山や旅のことから離れて多少自由なテーマで書くようになったこともアクセス数の変動とかReaderの入替えとかに繋がったのかも知れない。昔から常識的で惰性的な世情のきれいごとを書き連ねるのに抵抗があったわけだが、昨今その傾向に拍車が掛かり、それを書かないというよりは敢えてそこを取り挙げ、疑問を提示したり投げやりになったり批判したりやりだして中には耳が痛い人も随分と居たようだ。その言葉を発している自分のほうが既に耳が痛かったり、目が痛かったりもしたが。で、今回も更にアクセスが減って読者の入れ替わりが促進されるようなテーマだったりする。あの、大変心苦しいのであるが実は俺、ビートルズが全然良い音楽だと思えないのである。ずっと以前から。遠い昔のあの日からずうっと。勿論、俺の周りにもビートルズファンはそれこそ山ほど居るから彼らの楽曲は折々にほとんど聴いてきた。って言うか聴かされてきた。「な、いい曲だろ。名曲だよ、これ」「詩、読んでみてよ。書いたのは勿論ジョン。どう?深いでしょ?」「これこれ、これが名盤中の名盤だね。これ聴かないでビートルズは語れないよ」みたいにして。しかしどうだ。聴くだけ聴いたが何とも感じないのだ。サイコー?そうかな。名盤中の名盤?はぁ…。ジョンの書く詩が深い?ま、軽薄ではないかな。みたいにして。ま、悪い曲だとかは思わない。どれもよく出来た曲だと思う。でもやっぱりコマーシャリズムにどっぷりと浸かった曲だと感ずるのである。ジョンレノンは大いに悩んでいたかもしれない。とても才能あるメロディメーカーであることは確かだろう。でも彼を偉人視するには疑問を感ずる。彼らを称して革命的とさえ言う人もいる。シタールを楽曲に持ち込んだから?インドへ瞑想しに行ったから?世界的なヒットをたくさん飛ばしたから?でも、シタールなんて欧米圏の連中があまり知らなかっただけだし、瞑想なんて今も昔も何百万人か何千万かの人たちが連綿と続けてきたことだし、世界的なヒットとか行ってもやはりそれも欧米圏で見た全世界でしかなく、中近東やキューバや西アフリカあたりじゃ誰もビートルズなんて知らないし聞いてないわけで。ま、ビートルズの曲は聴いたことぐらいあってもメンバーの名前まで知らない連中が圧倒的多数派であるのは間違いない。そうやって考えれば考えるほど、聴けば聴くほどビートルズへ与えられている評価の高さが理解できない昨今なのである。しかしそうは言ってもビートルズである。一介のリスナーに過ぎぬ俺のごとき弱小の主張が、数百万か数千万かの大ビートルズファンの誰に認めてもらえるわけでもなく、俺は今日の今日まで口を噤んできたわけだが、堪え性がないばかりに墓場へ辿りつくまで黙っていることが出来なかった。大ビートルズファンならびにジョンレノン信奉派の皆さんは愛と平和を知る心広き方ばかりだと聞き及びます。ブログでこのようなことを申し上げたからには赦してくれとはいいません。でも、スルーしてやっていただければ幸いかと、そう存じます。
2008.01.29
コメント(2)
コメント、BBSにトラックバック。それらにアダルト関連の書き込みや誘導等がない日はない。彼らは昼夜の別なく書き込む。消されても消されても負けじと書き込む。手を変え品を換え、文章を変えてひたすら書き込む。なかには自動書き込みの方もいらっしゃって、皆さんそれがお仕事と言うか、それで収益を得ているものとお見受けするが、まぁ、ご苦労様なことよと思わず頭が下がることがある。すごいバイタリティだよなあ、と。エロは儲かるというのは昔からの定説であるが、あれらアダルト関連の書き込みや誘導はどれほどの実益を生むのであろうか。コストパフォーマンスはどれほどのものなのだろうか。あの日夜粘り続ける彼らの情熱はいったい何処から来るのだろうか。本当に儲かっているのだろうか。実は、労力に見合った収益は上がっていないのではなかろうかと私は心配になることがある。あの粘り強く、不退転のバイタリティを向けるべき天職があなたがたにはある筈である。確実にある。間違いなくある。私はそう思う。
2008.01.25
コメント(0)
旅するってどういうことなのか僕は知らずに旅に出た。ただただ鬱陶しくて煩雑で、自分が何処で何をやってるのかすら次第に判然としなくなっていく毎日の生活が嫌で、そこから抜け出したくて旅に出た。旧所名跡なんて一つも知らず、ガイドブックも持たず、言葉も知らず旅に出た。そこに行くとどんな顔の、どんな肌の色の、どんな言葉を喋る人がいるのか想像すらしていなかった。東南アジア。インド亜大陸。中近東。東欧。欧州。シベリア。中国。大陸を歩いたり、バスに乗ったり、列車に揺られたりしてほぼ一周してみた。路上生活者。乞食。物乞い。病人。泥棒や詐欺師。物売り。お節介。乱暴者。売春婦。ゴミや鉄屑を拾い集め、社会の底辺で暮らす人々が旅する僕の目には映り込んだ。こちらを不思議そうに覗き込む子供の顔が映り込んだ。楽しげに、恥ずかしげに笑う女の顔が映り込んだ。旅人をもてなす男の顔は頼もしげで優しい顔だった。何もかもが見たことのないリアルだ。考えたことも、触れたこともなかった。そんな阿呆な僕にはお構いなしに世界には色んなリアルが在って、そう、それは実に様々な形状をしているうえに何百万か何千万かの色に塗り分けられていて理解なんてとてもじゃないが適わない。解し、評し、論ずるなんてどうでもいい。ただ無限とも思えるリアルに身をゆだね、両の手で触り、匂いを嗅ぎ、音や声を聞く。そうして僕は覚える。自覚する。僕は自由だってこと。物乞いや乞食になる自由もあれば、音楽家になる自由もある。百メートルを九秒七で走る努力をする自由もあれば、何もかも放棄して引きこもったっていい。法律や社会から解放されるわけじゃないが、僕は魂を解放する自由を持っているのだ。自由に愉しみ、自由に苦しめるのだ。泣くのも笑うのも僕の自由だ。それを知るのが旅するってこと?うん。そうだ。間違いない。そう思ったらとても嬉しくなった。それでまた旅したくなる。
2008.01.24
コメント(0)
我々日ノ本の国の領民は小中高と学歴を得、あきらめざる事情がないかぎりは大学課程をも修め、高収入高所得の道を開き、快適な家屋、豪華な乗用車、高級な衣類、凝った趣味、持て余すほどの美食に嗜好品、それら享楽のうち一つでも多く、できればその全てを手に入れることを目的として生きるよう訓練調教されている。そしてそれがすべての人、世界中の国や地域の人すべてに当て嵌まる原則であり、最良最善、至高の生き方だと断じている。でも我々はインドへ足を踏み入れて初めて知るのである。ディズニーランドもクリスマスも高級車もマクドナルドも瑣末で矮小な現実の一つでしかないことを。ハリウッドが作るものが冗長なだけのコマーシャルに過ぎないことを。物は売り買いするために在るのではなく、金は価値を表す記号ではない。全ての道がローマ(アメリカ)に通じているわけでもなければ、誰もがひとつところを目指しているわけでもない。平等も平和も人権も声高に主張すれば得られるようなものでもない。人が生きていく様子とは単行本に書き表してセールスできるような類のものではなく、残酷なまでに自由で多様で崇高であることを我々は、かの国を訪れて初めて知り得るのである。そこで我々は大抵ひどく驚き、考えあぐね、色々と仮説を立てて理解しようと企む。宗教に解を求めるのも無論その企みのひとつであるし、他の企みが空振りに終わることが多いのに対して現世利益を約束する宗教は必ず何がしかの回答を提示してくれるから費用対効果が高く、徒労感は少なくて済むし、すべからず効率の良さを求める米国的価値観に漬かり切った我々日本人にとって宗教は非常に具合のいいアイテムとなってくれる。現世利益を約束しないまでも宗教が誰にでもわかりやすい回答をしてくれるのは必定である。わかりやすくしておかないと悩んでいる人間が聞いてくれないからだ。それこそバカでもわかるような訓話や教条で世界や人類が救えるなら誰も苦労はしないのに。インドから帰ってきた後に悪い波動だ混沌だと口走るようになった友がかの国で何を見て、何を思ったのかはわからない。しかし神秘主義やオカルティズムに走ったとて何が解決されるわけでもなく、生半可な業に救いを求めても己の首を更に絞めることにしかならないのはよくある話で、実際その友と一緒にインドへ行き、同じように「波動が波動が」と口走っていた別の者は、その後まもなくして精神病院へ入院するのである。幸いか否かよくわからないが友のほうはその後しだいに脳味噌の金縛りが解けたようで、数年後には普通にお話ができるようになった。昔に比べるとやっぱり少々固さはあるものの軽口をたたき、冗談をとばし、笑えるようにもなった。バンドマンとしては未だに芽が出てこないところをみると何か別の道に職を求めたのかも知れぬが、今はもう付き合いがなくなってしまったので詳細はわからない。彼が元気でいてくれたならそれが何よりである。 【了】
2008.01.23
コメント(0)
亜大陸インドにて我々日本人が初めてお目にかかる不可蝕民、物乞い、乞食、聖者、ヒンドゥー教徒、そして様々なる市井の人々。彼らが織り成すインド世界は実に複雑多様であり、直に視覚に飛び込んでくるものだけでも我々日本人はそれを容易には処理できない。インド世界の日常に在る現実を咀嚼するための判断材料を、残念なことに我々は持ち合わせてはいないのだ。我々は戦後復興を進めて行く過程においてGHQが先導した画一的で、偏狭なる社会システムの中に安住し、挙句、米国の属州の如きものとなり果て、人工的で合理的なものばかりを尊ぶようになった。米国人のように過度に死や老いを恐れ、死や老いを忌むべきものと見做し、日常のすべてから死を遠ざた。米国人の如き心性を得た我々はハリウッドが大量供給する破壊とセックスとホラーに悦び、クリスマスイブを無意味に祝い、マクドナルドに通い詰め、米国文化の象徴とも言えうべきディズニーランドをも自前でこさえ、一方、自前の文化は無残なまでに粉微塵に打ち壊して文化や生活を米国化させるのと同時に、米国が世界中で仕掛ける戦争を陰に日向に支援し、それに加担することで思想や魂をも米国に同化させて戦後を今日までしのいできた。その果てが、この平成の世である。平成の若者が例えばインドへ行く。インドへ旅行に行って、そこで詐欺をはたらく輩を目の当たりにしても、日本人は詐欺師を見たことがないのでそいつを詐欺師とさえ容易には見抜けない。私が出逢った日本人旅行者の中には詐欺師を称して”ちょっとおしゃべり好きな親切なインドの友人”とすら言い表した者がいて、私は愕然となった。『なぜ騙されていることが理解できないのだろう。なぜ親切ごかしやオベンチャラを言ってくる者を友人と思い込めるのだろう。あなたの心の内がまるでわからぬ』と。確かにそれは喜劇のような一幕であり、私からしてみれば悪夢と言うべき旅行者の現実であり、それは、物事や人を見たり見通したり見抜いたりする能力の明らかなる欠如であることは間違いない。更に言えば詐欺師を友だちとまで言わずとも子供だましのような馬鹿げた手口に簡単に引っ掛かる旅行者は後を絶たず、またそれとは逆に旅の最初から最後までインド人を警戒することばかりに終始。それに病気にでもなったらそりゃあ一大事と、上等なホテルのレストランだけで飯を済ませ、それ以外で食べたのはファーストフード店のハンバーガーだけと言う者さえ珍しくはないのである。ま、確かにそれは極端な反応に近いほうの方々かも知れない。だが、壊れかけた犬小屋のごとき家屋にうずくまる最貧民や、四肢なき物乞いや、道路に死体の如き様で横たわる幼児の姿を見つけて多くの日本人旅行者は思考停止に陥る。硬直気味の脳味噌がやっとのことで働き出しても思い至るのは精々が『可哀想…』である。可哀想。本当にそうだろうか。様々な姿や形でインドに生きる無辜の人々は可哀想な存在なのだろうか。否。あれは必死に生きる姿である。生きて行くひとつの形なのである。断じて可哀想な人間なんかではない。絶望しようと苦しかろうと痛かろうとなにがなんでも生きていくと言う決然とした姿だ。それを可哀想などとは口が裂けても言えぬし、そのように表現するべきではない。ただ、あなたや私とは異なると言うことでしかないのだ。 【続く】
2008.01.22
コメント(0)
こちらが挨拶なんかしても連中はまともに返そうとしない。食堂で隣り合わせようと、同宿に居合わせようと、同じ長距離バスに乗り合わせようと彼らは『キミたちみたいな何もわかっていない上に物質文明にドロドロにまみれた煩悩の虜どもとは関わりたくないんだよねェ。わかるゥ?俺って解脱者だから。ね。わかる?いや、わからないかも知れないけど俺、解脱してるから。キミらとは違うから。そこんとこ夜露死苦』とでも言いたげな高慢ちきでエラそうな顔をしてみせるだけなのである。連中の行き先といやぁどいつもこいつもバラナシ、バラナシ、バラナシ、バラナシ、バラナシ、バラナシって具合で、時折それにラダックとかリシケシュとかチベットよりの地域も混ざったりはするところみると基本的に彼らの目にはガンジス川とチベット山脈しか映っていないようだ。これは推察でしかないが、彼らの視界には人の顔などほとんど映っていない筈である。勿論、特定の人種を除いて。彼らの目に映りこむその特定の人種とは言うまでもなく聖者様、教祖様、尊師様なのだろう。それとも釈迦か。ま、なんにせよ彼らは一様に家庭や家族や会社、学校なんかの各種団体の、更に言えば日本という社会制度の呪縛から解き放たれたような素振りでは一見あるのだが、結局は宗教という名の団体に入り直しているに過ぎないわけで、やっぱり誰かお父さんになってくれる人がいないと不安でしょうがないのかと。以前は私は、その手の男性と東京の街でお逢いする機会があったが、彼は自らを語るストーリーの中で、自分はチベットの秘境で厳しい修行の果てに世界と森羅万象のすべてを手中におさめた者だと主張しつつちょっと胸を張ったぐらいにするので笑っちゃったことがあった。だめだよぉ~そんなこと自慢げに他人に話しちゃ~。ってな感じだろうか。でもよく考えてみるに、お父さんが居てくれて、すごいねすごいねって認めてくれる友がいないとやっていけないんじゃまるで市井の者であるところの私なんかと一緒である。せっかく秘境まで行ってツライ思いをしてきたのに元の処へ戻ってしまったのだろうか。あと、修行の地に行くのに”地球の歩き方”や”ロンリープラネット”を大事そうに携えている人とか、日本人とは喋らないって頑なに決めてる日本人女性の修行者とか、まぁまぁまぁまぁ妙な方が沢山、大勢、五万と居て、それらの方々の生態や言動を観ているだけでもインドは面白い。これ、皮肉でもなんでもない。本当に面白いのである。 【続く】
2008.01.19
コメント(0)
偉くもないのにエラそうに振舞う輩と言うのは巷でよく見かける。それが単なる性格的なものなら笑ってスルーできるのだが、そやつ目が宗教と言う名のマントなんか羽織ってやがると、エラそうを少々超えて威厳じみたり、神秘めかした言動に出やがるからスルーしたくても出来なかったりする。宗教家とでも言えばいいのか、宗教マニアという表現が相応しいのかよくわからないが、そういう方々は日本国内にもわりと沢山いて、奇抜で珍妙で斬新で独自な解釈によって構築された意見を自ら吹聴して回るので彼らは人ごみに紛れようと、都会の雑踏に放り込まれていようと、その姿形を見分けるのは非常に容易である。昨今ではご本人や、そのお弟子さんたちがブログなんかも開設してくれるので彼らの思想信条から所在地から普段の生活から交友関係に至るまで見透かすことができてこちらとしては少し安心感があったりもする。PCが全国津々浦々に行き渡り、ブログなんぞで誰もが自己主張をやらかすようになる以前は彼らの羽織っているマントが安物なのかバーゲン品なのか、はたまたまがい物なのかの情報がつかめず、こちらとしては目に見える威厳じみて神秘めかした言動ばかりが気になって少々薄気味悪い思いもしたのである。初めて私にそういう薄気味悪さを覚えさせてくれたのは高校からの友人だった。当時は札幌の高校を卒業して五年余りが経ち、互いに東京を根城とした生活をしていた。私は六本木界隈で毎晩賭博に明け暮れ、彼はなかなか芽の出ないバンドマンとして日々を送っていたのであるが、彼はそうこうしているうちにバンド仲間数名と連れ立って印度へと出掛ける。三ヶ月して印度から戻ってきた時、楽しげな土産話の二つか三つも期待して会いに行った私を迎えてくれたのは、無闇に勝手に達観した挙句にすっかり変容してしまった彼の暗く重い眼差しだった。印度へ行く前までは冗談が好きで、軽口ばかり叩いていた彼はいったい何処へ行ってしまったのか。こちらが何か言う度に、返ってくるのはおまえらは、何もわかっていない…。ってな台詞。それをさも重たげな抑揚で繰り返すだけだから、会話らしい会話も出来ないままに私は彼の家をあとにしなければならなかったのである。上記の台詞以外で彼が言ったことといえば【波動】だの【バイブレーション】だの【混沌】だの【カオス】だの、日本語と英単語で同じようなことを繰り返すばかりであったわけだが、私はその数年後に初めて渡航した海外の地にて、その変節の友人と同じ目をした大勢の輩と出会うことになった。同じ目って、無論、威厳の色に塗られた重く暗い目であり、その海外の地って、勿論、インドである。連中は、変節の友と同じくひどく宗教臭いオーラで武装していた。 【つづく】
2008.01.19
コメント(0)
読んで聞いて目にしてどうもすっきり呑み込めない言葉というのがある。 【消費者マインド】先日、八重山のローカル紙で見つけた言葉である。JTAと言う航空会社の方が吐いたコメントとして掲載されていたわけであるが、この言葉の前までつらつらと読み進んでいたのにこの言葉で途端に引っ掛かった。なんじゃこりゃ。そういう感じである。消費者マインドって…いったい。消費者心。消費者精神。消費者心得。消費者魂。そんな感じだろうか。訳すると。かのJTA担当者は八重山地方への観光客が減少傾向にあることを指して『消費の冷え込みが原因である』みたいなコメントを吐いたつもりなのだろうが、消費者マインドが冷え込んでいると言ったことになっているのだ、文面どおりならば。もしこれがコメントそのままであると仮定しても、編集側(ローカル紙)は読者が解し易い言葉に置き換えるべきだと私は思う。って言うかそれが新聞と言う公器編集の原則ではなかろうか。カタカナ英語ってのはジジババには解りづらいものである。マインドってなんだ?あの野球のピッチャーが投げるところか。違う?。あ、あれはマウンドか。じゃあマインドって何よ。新しい食べ物か何かか。と言う展開がその朝、八重山地方の各家庭であったのは間違いないと思う。ましてや【消費者】という日本語の単語と合体させての使用方法は、【マインド】単体で用いるよりも不潔な感じがする。そう。植民地語の臭いがぷんぷん漂うのである。ま、我が国においてそんなのは今に始まったことでもなんでもないが、ともかくも【消費者マインド】がジジババに優しくない言葉であることは間違いないし、消費者の意味を解し、マインドの意味も解したとて消費者マインドはやっぱりちょっと意味不明である。ちなみにその翌日の同紙の文面には性懲りもなく【消費マインド】って言葉が用いられていて、私はひどく落胆したのである。言葉を職業の術とする者たちが安易な植民地語を安直に使い回すことに。
2008.01.16
コメント(0)
まずもって覚醒剤やその他の弱小ドラッグ類に破滅的な作用・効力があるなんて完全に幻想である。習慣性ではニコチンに勝るドラッグはないし、精神的な依存性で言えばアルコールは相当に強いドラッグであり、覚醒剤もヘロインもコカインもマジックマッシュも有機溶剤も、そして大麻なんざニコチンやアルコールに比したら屁みたいな習慣性と依存性しかないのである。ただし、各弱小ドラッグを肯定するつもりも私にはないので誤解なきよう断っておけば、弱小ドラッグ各種はそれぞれが独特の精神作用を持ち、その効用のピーク時に訪れる感性の変化変容の苛烈さはニコチンやアルコールの比ではない。それこそがまさに向精神性である。ドラッグ業界の方々は、その苛烈な変化変容に対応することを【乗りこなす】と表現するが、乗りこなすこと自体はそれほど難しいことではない。ニコチンだってアルコールだって初めて摂取した時は大抵の方がある種の戸惑いを感じたはずである。「なにこれっ?気分悪くなってきた…」「うわぁ、気持ちいいのか悪いのかわからん。変な感じ」でもそれも最初の数回だけの話であり、煙草なら三箱目には平然と吸えるし、酒は個人差が大きいが飲む回数を重ねるうちに肉体も気持も変化変容に慣れてくるし、変化変容に至るまでの摂取量も次第と増えてくる。専門用語で言うところの『耐性が作られる』という状態である。如何に苛烈な変化変容であろうと乗りこなすには薬物(毒物)に対する耐性を得る必要もあるが、ニコチンやアルコールを持ち出すまでもなく耐性なんざ容易に獲得できるのである。単純に頻度と量の問題でしかない。そして摂取当初は耐性を得るために頻度と量を次第に増やしたが、そこに理性による制御が入り込めなくなってきた状態が【依存】である。ただし依存には肉体的な依存と精神的な依存の両方があるのだが、ここでは話をわかりやすくする為に肉体的依存を習慣性に含めることとする。で、依存性と習慣性を増幅させて行った先にあるのが中毒であるが、中毒にも急性と慢性があって話を整理するためにより重大で重症度の高い慢性症状のほうを指しての中毒の意とする。では強い効力を持つ筈の弱小ドラッグが酒や煙草と比べてそれほどまでに取り扱いの難しい薬物なのかと言えば、それはまったくのプロパガンダである。主に官が流すプロパガンダによると弱小ドラッグ各種には強烈な習慣性があり、苛烈な中毒症状を引き起こすことになっている。実際のところ中毒の一般的な肉体的症状は以下の通りで、嘔吐や頭痛、眩暈、顔面蒼白、発疹、四肢の痺れなどである。幻覚や幻聴なんていうのもあるが、これすべてアル中の症状であり、殊更に弱小ドラッグだけが引き起こす症状ではない。要は、すべてのドラッグは同様なのだ。酒に溺れたり、酒で失敗するのは酒が悪いわけではなく、結局は本人の気持や精神、内面の問題であろう。覚醒剤やコカインだって同様である。非合法ドラッグにラリって凶悪犯罪に走ったわけではなく、凶悪犯罪に走るだけの病んだ内面精神気持を薬物をやる前から本人が既に持っていたと言う事に他ならない。国家権力や警察機構が弱小ドラッグを取り締まるのはドラッグが犯罪を引き起こすからなんかではない。二十代の一時期、私の周りには大勢の非合法ドラッグの使用者がいて、指折り数えたわけではないが、おそらくその数は百人をくだらない。でもその中に凶悪犯罪に手を染めているものなどただの一人としていなかった。みんな、東京の夜の街で一生懸命に働いている奴ばかりだった。恋人がいて、家族がいて、他人を思いやり、歪んだ世相に心を痛めながらも普通に暮らしている奴らばかりだったのである。そう。連中が犯している唯一の罪と言ったら非合法なドラッグを使用していると言うただそれだけだ。盗みも突っ込みも殺しもやらないのに、連中はドラッグで捕まれば晴れて後ろ指さされる犯罪者となった。コカインを5g買ったとか、インドから運んだ大麻を隠し持っていたとか、そんな罪である。コークやガンジャをきめて誰かに暴力を振るったわけでもなく、幻覚を見て放火をしたわけでもない。それこそただ上手にドラッグを乗りこなして、テレビを観てバカ笑いしたり、音楽に聴き入ったり、飯を食べ過ぎたりしていただけなのに、ドラッグ所持で捕まれば連中のたいして大きくもない背中には悪人のレッテルが貼られてしまうのである。実に馬鹿馬鹿しい。くだらない。ニコチンとアルコール。その二大ドラッグがもたらす莫大な権益を守るためとはいえ、あまりにくだらないと思う。テレビを観てバカ笑いしてる奴をドラッグ所持で捕まえるのにも税金が投入されているわけで、そんなことに税金使ったり人員割いたり、時間使ったりしているよりも他に真にやらなきゃいけない事が沢山ある筈で。しかし、ま、当局が主導し、マスメディアが乗っかるプロパガンダが如何に事実を捻じ曲げているにしても、弱小ドラッグ各種を肯定するつもりはない。で、ついでに言うと合法ドラッグであるところのニコチンやアルコールも肯定しない。したくない。でも、もっと言うと否定もしない。ニコチンもアルコールも弱小非合法ドラッグも否定しない。したくない。二大ドラッグであれ、弱小ドラッグであれ、いかれた奴が使えばいかれた事になるし、その逆も又あるのである。楽しむ為だけに使うことも、病んで荒んだ心の内をさらけ出す為に用いるのも、今にも押し潰されそうな精神世界を空想の自由に解き放ってやるのも全ては本人の自由である。でも無関係の人をその自由に巻き込む自由など如何なるドラッグにもない。各ドラッグ使用者にはそこんところを忘れないでいただきたいものである。
2008.01.15
コメント(0)
二大ドラッグ撲滅キャンペーンであるから実は一回では終わらない。で、今節はニコチンとアルコールの害悪からのアプローチではなく、二大ドラッグ以外の弱小ドラッグを取り上げてみたい。覚醒剤、ヘロイン、コカイン、マジックマッシュ、有機溶剤系、大麻などが一般的な弱小ドラッグにカテゴライズされるわけだが、ここでいう弱小とはその効力や向精神性の度合いを指しての意ではなく、あくまで流通量の多寡を表しての大小であるのでそこんところは注意されたい。これら弱小ドラッグがいくら暴力団や各種マフィア、反政府組織などの資金源となっているからと言って、二大ドラッグであるところのニコチンとアルコールから重課税を吸い上げることで国家権力が得ているものと比べれば、まさに弱小。仮に国家権力が二大ドラッグから得ているものをアフリカ象50頭分程度の大便だとすれば、暴力団や反政府組織が弱小ドラッグから得ているものなんぞ幼児一人分の目くそと鼻くそを併せたもの程度でしかない。まさに弱小である。殊に日本なんざ他の国と比べても二大ドラッグに過分な重税を課しているのを忘れてはならず、弱小ドラッグを警察機構に取り締まりさせているのは二大ドラッグの莫大な権益を守るために他ならない。ドラッグから上がる甘い汁を勝手に吸われてなるものか。ふざけんじゃねえ。誰が好き勝手させるかっつうの。こっちの管轄以外のドラッグなんざ全部潰してやるからな。勝手に覚醒剤だのコカインだの流してるマル暴も、こそこそと大麻栽培してやがる糞ガキも片っ端から捕まえて、懲役喰らわして、二度とふざけたまね出来ないようにしてやるぜ。そのような事情に加えて弱小ドラッグの多くは効力や向精神性が強力、または苛烈であり、中毒症状も重くなる傾向があれば長期間に渡って重課税を吸い上げるには不向きなドラッグである。つまり、一年で潰れる覚醒剤使用者から年間一万円の収益があがってくるよりも、五十年に渡って酒を飲み続ける者から毎年二千円づつのあがりがあるほうが安定的収益を求める上で非常に具合が良い。でも実際のところ、覚醒剤使用者みんなが一年で潰れるかと言えば…って、あれっ。いつの間にか”権”の話。搾取事情になっていた。失礼した。気を取り直して弱小ドラッグのことについて…と思ったが、それは又明日、第三回目で。
2008.01.14
コメント(0)
世は禁煙嫌煙ブームである。各種テレビ番組やネット上や雑誌書籍にはニコチンの害悪がこれでもかと書き連ねてある。曰く。喫煙者が肺癌になる危険性は吸わない人の○○倍。喫煙者の夫を持つ妻が肺癌になる率は非喫煙者の夫を持つ場合の○○倍。喫煙は百害あって一利なし。ニコチンという名の猛毒。喫煙者のマナー違反の数々。云々。と、ま、タバコを吸う者や喫煙行為は糞みそに言われたりするから当然その反動として昨今では喫煙を文化的もしくは精神衛生的に捉えることで肯定し、煙草の復権を目論む動きも一部では活発である。しかし、ま、趨勢は完全に禁煙嫌煙側にあるのは間違いない。喫煙者連合が忌むべきノースモークムーブメントを消滅せしめんとするならば武闘より他にもはや道はないのであり、これを読んだ後、ただちに嫌煙者どもへ宣戦布告。実力行使の果ての勝利をつかみ取るしかないのである。そうして嫌煙者どもを根絶やしにでもしないかぎり喫煙者に未来はない。そのようにして煙草たるもの今やすっかり見る影もないからには、非合法ドラックに認定されるのも時間の問題。あと半世紀もすれば煙草を吸うためにオランダへ行ったり、著しく脆弱な警察力しか持たない第三国に非合法喫煙ツアーを組んだり、レジスタンス活動の一環としてスモーキング・アジトを持つむなどして青色吐息やっとのことで煙草を吸うような侘しき日々が訪れるのはほぼ確実だ。いっぽう二大ドラッグの片割れであるアルコールはどうだろう。言わずもがな興隆の一途を辿るばかりである。ビール、ウイスキーのコマーシャル番組を見ない日はあらずして、飲酒とは崇高なる文化的行為にして酒は人類必須のアイテム、最大の友、百薬の長などとの大々的洗脳がまかり通っている。ニコチンとアルコール。昭和の頃までは並び立っていたドラッグの両雄には、もはや埋めがたい差がついてしまった。これ、不公平ではないだろうか。そう。ニコチンの側に立てばこれはあまりに理不尽である。何故なのだ。どうすればいいのだ。どうしたら又再び両者は肩を並べる事が出来るのであろうか。先にも申し上げたようにニコチン復権は闘いを以って臨むより他なく、ま、言ってみればそれは非常識と言うか、現実的とは言い難い方策である。ならば方法は一つだ。アルコールを貶めればいいのである。アルコールの害悪を並べ立て、飲酒がもたらす犯罪や事故、疾病の数々を白日の下に晒し、酒が如何に苛烈なドラッグなのかを世間一般に知らしめることでニコチンが舐めてきたのと同じ辛酸をアルコールにも舐めていただくのである。それで両雄は又再び肩を並べる事が出来る。ま、肩を並べたとて、それはもはや”両雄”とは呼べないわけだが、そんなことは俺の知ったこっちゃない。しかし、ま、アルコールの害悪なんぞは俺がここで書き連ねるまでもなく誰しもよくご存知なのではなかろうか。アルコール中毒を患った者が身の周りに一人もいない方なんていないだろうし、アル中で廃人同様となった挙句に死に至る者は珍しくもなく、慢性ならずとも急性アルコール中毒で死ぬ者も又、年に何名もいて、それで子供を亡くした親がつくる『イッキ飲み防止連絡協議会』なんて団体もあるくらいだ。飲酒の果ての人身事故、自損事故は車社会の現代それはもはや日常である。自分も他人も殺さないまでも我々の周囲には何百万篇もの『酒で失敗した話』が転がっているのに『酒で成功した話』なんてのは殆どない。百薬の長が聞いて笑わせるではないか。百薬で何故ひとが苦しむのか。吐きまくり、ぶっ倒れ、記憶をなくし、まっすぐも歩けず、人を轢き、救急車で運ばれ、手足が震え、呂律が回らなくなり、死に至ることさえ珍しくない百薬の長とはいったい何なのか。根本的に意味の破綻した言葉である。世の中には義に駆られ麻薬(ドラッグ)を忌み嫌い、否定し、撲滅せしめんと活発に発言したり行動する者は少なくないが、アルコールの害悪を説いて回る者は極めて少数である。つまりそれは世の中には飲酒癖を持つ者が強大な多数派を占めるが故なのであろうし、アルコールいう名のドラッグが強烈な習慣性と依存性を持っている証でもある。要するアルコールと言うドラッグは金になるのである。少し前まではニコチンもそうだったし、国家と言う名の権力機構は搾取するための手段としてアルコールとニコチンを専売としたのである。ま、ついでに言えば専売としたのは塩もであるが、塩化ナトリウムはドラッグではなく人体にとっての必須栄養素であればここでは除外とする。金になるから毎日毎日コマーシャルが流れるのである。コマーシャルに乗っかちゃった連中がこれまた肯定しまくる。いちドラッグなんて事実を忘却したかのように「酒はサイコー」「酒は百薬の長」「酒は人生。酒は汝。酒は我」とか意味不明な教示を垂れ流す。では国家がなんで麻薬を禁止にするかと言えば、それはアルコールやニコチンが独占している重課税分が他の薬物に分散することで目減りしてしまうからであり、これから又新たに覚醒剤にもコカインにもヘロインにも大麻にも各カテゴリーを設け、段階課税するシステムを構築するよりも全てを違法とし取り締まるほうが簡単だからである。それに何より麻薬権益なるものは何処の国家も警察の管轄であり、警察機構そのものが事実上独立した強大な権力機構であるから政も管も民も容易くは手が出せないのである。あっ。じゃあ、やっぱりアルコールで我慢しとくより他に庶民にドラッグを選ぶ権利はないわけか。誰しも権力機構に睨まれるのは避けたいだろうし、せっかくここまで長いことドラッグについて書き連ねたのに、なんだが残念な結末。搾取か…。すべてのドラッグに向って。合掌。【追記】でも、民と民が向かい合って各種ドラッグを否定しあうようなつまんない真似はやめましょうや。それこそが”権”の思うつぼってところで。私がここでニコチンやアルコールを持ち出したのは権の話に行き着くまでの導入部でしかない。喫煙者ならびに飲酒癖のある方々がこれを読みまして気分を害されましたら謹んでお詫び申し上げます。
2008.01.13
コメント(0)
島の北部にある某食堂で昼飯を頂いていたところ、隣席にどやどやと観光客とおぼしき一団がやってきた。中年のオバ様数名とお子様方が数名である。中に一人か二人、かなりきつめの香水などを全身に振り掛けている方がいらっしゃるようで、既に飯を食い始めている私なんぞはもうそれだけで「おい、勘弁せぇよ。香水振ってメシ喰いに来んじゃねえよ。臭くて飯が美味くないではないか。他人への配慮ってものも少しは考えないと。いい歳してんだから」などと憤ったのであるが、無論それは内心での話。本土あたりの中年のオバ様たちに無闇に因縁をつけたりするほど私もバカではない。いや。バカかも知れないが、私は小心者の上に臆病なので、譬え私が100%正しくて、オバ様たちが100%間違っていたとしても私はオバ様たちに難くせをつけたりはしないのである。日常における彼女らの数々の悪行非道外道などに対して私は基本的にスルーの立場をとっている。ま、そういう次第であるから彼のオバ様たちがいくら香水べたべたでもスルーするのである。なるべく鼻で息をしないようにしたりしながら。でもオバ様たちはさすがに手強い。まずお連れのお子様を大泣きさせる。オバ様同士のお喋りに夢中で手元がおぼつかないのか座らせようとしたお子様の足をテーブルに強打させてしまったのである。推定三歳半ばと思われるお子様はぎゃんぎゃん泣いた。いてぇいてぇと泣き叫ぶ。かなりやがましかったが、ま、子供が泣くのは仕方ない。当方もけっして物静かとは言えぬ子供を二名も抱える身であるからお子様が泣くのは我慢しよう。スルーしちゃおう。いくらやがましくてもオーケーだよ。うん。大丈夫。およそ三分ほどでお子様は泣き止んだが、今度はオバ様、消してあったテレビに目をつける。無論、食堂のテレビだから客の為のものであろうし、私がとやかく言う筋のものではないので、リモコン持ち出してきてバチバチバチと執拗にチャンネルを変えようとも、音量をやがましいくらいに上げようとも私はスルーだ。基本姿勢通りにスルーである。しかし、ま、オバ様なにを思ってかアメリカ人の通販番組を最終的に選びやがったのである。あの、例の、チョーやがましい番組である。べらべらべらべらべらアメリカ人が喋りまくる通販番組だ。それもダイエット器具の。装着するだけでOK!驚異の効果!セクシーなボディを手に入れろ!!みたいな日本語の吹き替えをビージーエムに、オバ様たちは喋りまくり、そして驚異のボディが画面に映し出されると画面に食い入るが、それでもお喋りの口の動きがけっして止んだりはしないのである。ま、お喋りもスルーだ。オバ様たちからお喋りを取ったら何も残らないのだから、いくらやがましくてもお喋りはオーケーである。お喋りは彼女らのアイデンティティである事ぐらいは理解しているつもりだ。だがアメリカの通販番組は…最果ての島にグループ旅行で訪れても尚通販番組を見なくちゃならないのだろうか。それも旅行者の間で話題になってる食堂にて昼飯をいただきつつも、どうしても通販番組なのだろうか。昼飯を食うのに全身に香水を振りかけ、大切な筈のお子様をお喋りに夢中で手荒に扱い、挙句、大音量の通販番組に食い入るオバ様たちを私はスルーしなきゃいけないのか。彼女らの蒙昧なる振る舞いに怒りの鉄槌をくだしていけないのか!このぉ!くそバ…と、私はまるで小林某なる漫画家のごとく激しくも憤りそうになったのであるが、でもやっぱりスルーしたのである。まず、私は小林某を軽んじているので同じような真似はしたくなく、何よりオバ様たちが怖かった。一人はブルドッグの如き垂れ頬をぶるんぶるんと奮わせ、一人は狡猾極まりない女狐のごとき。もう一人も推して知るべし。お子様がたはテレビのリモコンを母の手から奪おうと激しく動き回るばかりであれば私のごとき臆病の小心者が太刀打ちできる筈もなく。そう。オバ様たちのグループと書いたが、旦那さまと思しき男性もお一人混じっていた。彼だって彼女らの振舞いにはなんら関与せず寡黙に飯を喰らっていたのである。たとえどんなにやがましぐても他人である私が口出しなどできる筈もない。嗚呼、2008年、正月早々やっぱり今年も日本の未来が暗く見えて仕方なかったりするのである。
2008.01.07
コメント(0)
【What a wonderful world】 Louis Armstrong石垣島を大津波が襲い、もし首尾よく逃げ延びることなんかが出来て、その時に何か一つだけ音源を持っていけるなら、俺はこいつを選ぶ。無論、他にも悩ましい候補はいくらでもいる。マービン・ゲイもボビー・ウマックもダニー・ハザウェイも持って行きたい。サムクックやオーティス・レディングは当然の事、アレサ・フランクリンやメルバ・ムーア、ロバータ・フラック、アニタ・ベイカーなどの女性ボーカル陣が外し難いのは言うまでもない。当然の事ながらサッチモも手に取ろうとする俺の前には御大ジェームス・ブラウンが立ちはだかり、メシオやフレッドウェズレーらがその脇を固める。ディアンジェロ、エリカバドゥ、ジョーなんかのR&B陣が黙ってないのは当然であるが、やはりスーパーエンターテイナーであるところのプリンスがひと際に光り輝く。でも、やはり俺は【この素晴らしき世界】を手に取り、急ぎ逃げるのである。何もかもを飲み込んだ津波が去った後の、その廃墟に立ち戻りすべてをやり直そうとした時、支え、助けてくれるのはこの曲をおいて他にないような気がするのである。
2008.01.04
コメント(2)
新年一発目から泥酔ネタである。ま、それはそれで新年らしいかも知れず、今も日本中のあちこちで何万人かの方たちがめでたく泥酔しているわけで。で、幼児型などと言っても本当に幼児が泥酔しているわけではないのは言うまでもない。あくまでも持て余さんばかりの幼児性や手に負えないほど根深き小児性を抱え込んだまま飲酒癖を持つに至った大人の方々を指しての意である。ま、それでも八重山界隈では子供が飲酒するにそれほど障害はない。寛容と言うのか酒文化と言うのかよくわからないが、ことあるごとに大人は子供に酒を飲ませる。酔ってふらふらになった我が子や親戚の子を見て笑い、小学生や中学生が酒盛りするのを見て見ぬ振りをするのである。そうして八重山では幼き頃から、と言うか幼児性が残る時分から酒を覚えるに至り、それがまた泥酔十態幼児型形成の一因となっているのでないだろうかと私は勝手に類推している。とは言え、まず彼らは泥酔するまでが既に幼児だったりする。どのように幼児かと言うと、幼児は幼児であるがゆえに自分が世の中の中心であることに疑義を挟まない。他人の注目が自分へと向けられるのは至極当然のこと、注目が自分のほうに向いてないと気分が悪い。であるから自分に注目を向ける為の努力を何よりも惜しまない。しょうもない話ひとつやるにも煽るにいいだけ煽り、引っ張るだけ引っ張り、衆目を一身に浴びようとする。ボクを見て。ボクだけを見て。ボクを愛して。嗚呼。プリーズ、プリーズ、プリーズ。と、どこかで聞いたような台詞を直接的に吐けるぐらい明確なる自覚があればそれはそれで幼児性を昇華させることも可能であるが、幼児型の方々の多くは持て余さんばかりに肥大した幼児性小児性に気付かない。気付こうとしない。と言うか、気付きたくない。だってボクは世の中の中心なんだから。で、世の中心であるべく彼は神のごとく振る舞う。気に入らないものに鉄拳制裁を加えるようと滅茶苦茶に手を振り回したり、行く手を阻むものを排除しようと目論む。言いつけや約束を守らない妻や彼女には顔面パンチを入れ、それで別れ話などを持ち出されたらまさしくそれは自分を世の中の中心から退けようとする行為に他ならないので無視する。無視するしかない。それでも尚しつこく離縁を求めてくる女には蹴りをいれる。顔面でも腹でも背中でも滅茶苦茶に蹴りつけて黙らせようとするが、それでも起き上がってきて離縁離縁離縁離縁離縁離縁離縁離縁離縁離縁とうわごとのように繰り返されたら仕方なくお母さんとお父さんに相談する。無論お母さんもお父さんも彼の味方である。蹴る息子も悪いけど蹴られることをしたあなたも悪いのよと離縁を撤回するよう一心同体、息子を世の中の中心から外されないよう獅子奮迅の大立ち回りを見せるのであるが、その甲斐もなく彼は独り身に…妻や彼女から見放され、同級生たちにも軽んじられ、頼みの綱の両親は老いさらばえ今夜もまた彼は独りで泥酔に及ぶ。千鳥足の彼は両親と暮らす家には向わず、別れた女の家を目指した。家の場所は密かに調べておいたのだ。ストーカー?ふざけんじゃねえ。オレ様を誰だと思ってやがる。ストーカーが怖くて酒が呑めるかっつうの。くそっ。全部あの女が悪い。うん、間違いない。あの女のせいだ。売春婦。淫売女。待ってろよ。今、抱いてやるから。よがらせてやるからよ。でも口ほどにもなく女の家を目前に彼は行き倒れる。見知らぬアパートの前に見覚えのある車が停まっていたのだ。別れた女が乗っていたものと同じ車種の。もう歩けない。酔っ払って、眠くって目も開かない。よし。これ以上進めないならせめて女の車…。ダイハツ・ミラのボンネットの上。彼は泥睡に落ちる。身体を丸め、股間に両の手を突っ込み、首をすくめ、小さくなって彼は眠る。そう。それはまるで幼子の形である。
2008.01.01
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1
![]()

