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世の中全体、小ざかしいのがトレンドなのか誰も彼もが数字や結果成果ありきで理論理屈を展開しやがるのである。で、結果、顧客消費者を欺いてもなんら恥じるところのない傲慢な経営者と化し、そいつがまた不動産を買いあさったり高級車に乗り換えたり邸宅のお庭が立派になっていく様を見て次々とそれに続く者たちが現れるって図式である。で続く連中もわかったような顔で数字を語り、訳知りに経営を語り、そして語るに落ちるが如く彼らは内部告発と言う形で世間に恥を晒す。偽装してました。水増ししてました。二重帳簿でした。手抜きでした。利益を上げるためにはそれしかありませんでした。なんて残念なせりふ何台ものをテレビカメラの前で吐かねばならぬのは一体どんな気分だろう。数字を追うなんて誰にでも出来るのに、まるで自分しかそれが出来ないように思い込んでしまうのはつまり無能さの裏返しであろう。もうちょっと哲学持てばいいんですよ。それが肝要。俺には金こそが哲学なんだ、みたいな知恵の足りない台詞吐いてないで、ちゃんと哲学持ってくださいよ。おねがいしますよ。ほんと。ね、経営者の皆さん。
2008.10.27
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人間、金を持つと頭を使わなくなるらしい。とは言っても金儲けのための計算や計画や企画や予定なんかは立てられるところを見るに全然頭を使ってないわけではなくて想像する能力を失くすか、完全に失くさぬまでも著しく矮小化してしまうのである。地元石垣島の人、島ナイチャーを問わず此処で経営者と呼ばれる人たちの多くが語るところによると従業員スタッフ社員バイト君パートさんなんかの代わりはいくらでもいるとの事。逆は真なりであるから、つまりその言葉をひっくり返すと経営者の方々は自分こそオンリーワンである。俺様の代わりはどこにもいない。この会社を切り盛りできるのは俺様をおいて他にないのだ。と、そう思っていると言うことだ。正味、幸せな方々である。幸せな気分に浸れるなら私も斯くなる経営者の方々に倣ってみたいが、なにせ想像力があるのでそうも思えないのである。じゃ、私が不幸せな気分かと言うとそんなことはない。オンリーワンなスタッフや仲間たちと仕事ができることは、それだけで充分に満たされた気分であるから。
2008.10.26
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この夏、島の観光が好調である。昨年後半からの冷え込みが嘘のように春すぎから観光客が島へと流れ込み、経営的に一息つけた業者も多いようだ。で、観光客各位、島のあちこちで列を成し群れを作りレンタカーを飛ばし島中を駆け巡っていくわけだが、何故だか彼らの多くはこちらと視線を合わさないのである。例えばどこぞの飲食店で私が店の主なんかと話をしているときに二人連れの観光客が入ってきて近くに座るとしよう。で、こちらの話が台風ネタだったりすると観光客二名にも話を振ってあげるわけだが、これが何故だが視線すら合わせようとはしない風情の方が少なくなかったりする。「このあいだの台風はこちら(石垣島)でも大した被害がなかったけど本土のほうはどうだったんですか。お住まいになってる地域でも何事もなく通り過ぎていきましたか?」なんて具合に至極常識的に軽いタッチの問いかけをしてみるに、大抵彼らはチラっとこちらを一瞥した後にあらぬほうを向きつつ、「いや別に…」なんて返事をしてくれちゃったりするのである。私も別に友達になろうとかナンパしてやろうとか思って問いかけている訳じゃないのでどうだっていいのだが、観光で島に来て、たまたま入った島の店にて軽やかな会話のひとつもあったなら、キミらの旅もまたイイ感じになるんじゃないかと思ってフツーに軽い話題振っただけなのに明後日のほう向いて視線も合わさず気のない返事するってどーゆー事よ。で、やっぱり観光客の多くはどこで会っても視線を合わさない。私の前を歩くババァ二人連れの観光客がどう見てもうろうろと道に迷ってる風情だから「どこかの店でもお探しですか」とやっても、ろくに振り向きもせずに「いえいえ、大丈夫です。おかまいなく」なんて具合だし、カップルや夫婦もんに至っては男のほうが【俺に任せろ】的に振舞っているから、女性側が私に道や店を尋ねてきても男のほうがその問いを遮ったりするし、渋々ながら道や店を自分の連れが私に尋ねるのを容認しても、男のほうはやっぱり明後日のほうを向いたまま私から道順を聞くだけ聞いたら視線も合わせず立ち去るのである。「ほら、早く行くぞ。予約に遅れちゃうよ」なんて連れの女を急かしつつ。実に気分の悪い方々である。ガイドブックとナビだけ見つめて勝手にレンタカー走らせてな。ってとこかな(笑
2008.10.23
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自分が社長になったつもりで働け。考えろ。なんて事を使用人に対しておっしゃる社長さんってのが巷間どれほどいるのかわからないが、少なくとも八重山・石垣島には結構いたりするのである。私が直接知ってるだけでも三名。友人知人の話に登場する同様の社長さんまで合わせれば軽く十名を超えるのであって、狭い島の中の、私個人のさして広くない社交状況にて二桁を数えるのだからこれはもうある種の流行の経営スタイルと言ってもいいかも知れない。しかしである。社長になったつもりで働け考えろなんて社長は言うが、こちらの給料と社長の報酬とは桁も違うし根本的に算出方法が違うのだからなかなか社長の気分にはなれるものではない。あんたが月に200万円取っている時こっちは月給16万5千円・残業代20時間でカット・1回遅刻したから皆勤手当もカットなんて具合の実にせせこましい計算のうえに成り立っている給料を強いられているのである。そんなんで社長になったつもりになんてなれるわけがないのである。どだい。ま、それでも不貞腐れてばかりいても薄給はいつまでも薄給のままであるから私は一念発起。今日からは心を入れ替え、社長になったつもりで頑張ろうと相当意気込んで出社出勤したならば折りしも社長は急の東京出張とのこと。社長の目の前で『社長なったつもりで働く宣言』をやらかし社長さんを喜ばせてやろうとの心積もりだったのに残念!やっぱり使用人は使用人らしく如何に上手にさぼるかに腐心すべきなのかと心が折れかけるもそれじゃ逆戻りじゃないかと自らを叱咤激励!よしわかった!社長がいなくても社長になったつもりで頑張ろうと心に決め、何はともあれ私は社長なったつもりで考えたのである。どうすれば利益が出るのか。どうすればお客さんが喜んでくれるのか。どうしたら従業員の皆が活き活きと働けるのか。私は社長なったつもりで必死で考えた。考えて考えて考え抜いて、午前中一杯を考える時間に当てていたら同僚からはさぼりだと糾弾されるも社長になったつもりで考えているのだから仕方ない。さぼっているように見えるのも又社長であるが故なのだ。そうして夕闇が秋の空に下りてきた時分になってようやく答が出た。そうだ。まずは取扱商品を入れ替えよう。我が社の商品には色々と能書きが付いていて『体にやさしい』だの『自然の力』だの『島の恵み』だの『有機栽培』だの謳っているがそんなものは嘘八百とは言わぬまでも単なるお題目である。何の意味もない、単なるイメージ向上のためにくっつけているばかりのナンセンスなコピーなのである。商品の中には昨今問題となってる中国からの原材料を主としているものも多数あるし、工場でライン生産されたものをひとつひとつ手作りですよと偽っているものもあるし、こんなんじゃダメだ。いかん。間違ってる。客を欺くとはまさに天に唾するようなものであるとの認識の下、私は大幅な商品の入れ替えに着手断行。これまでよりも仕入れ価格はかなり高いものの真に安全で安心な商品を取り寄せたのである。加えて従業員が快活に働いてもらうために現行の30分単位での勤務時間計算を撤廃。1分単位で出勤退勤残業時間を管理することにした。もちろん残業を20時間でカットするのも併せて廃止したし、パートさんも社員も合わせて全従業員の給与のベースアップもした。我が社は業界1位の売り上げを誇っているしパートさんばかりで構成された我が社の人件費は対収益で見た場合に業界最低であるから、社長が日ごろ言うほどに経営状態は苦しくなんかないし、時給650円のまま長いこと働いてもらっているパートさんが相当数いるなんて状況は業界1位の会社として対外的に恥ずかしいのである。更には、社長に特別に可愛がられている従業員には辞めてもらった。可愛がられている理由に正当なものがあれば別に問題とはならないが、単に社長の親戚であるとか、従業員同士の愚痴やさぼり具合を裏で社長にチクっているから可愛がられているような社長のスパイみたいな従業員は社内の士気を著しく低下させるのでやめてもらうしかなかったのである。くだらぬ商品と社長の犬は一掃して社内の雰囲気は随分と良くなった。皆が笑みを取り戻し、自社の商品に自信と誇りを得て接客もおのずと変わった。おっつけ業績は上がってくる筈である。と思ったところに社長が一週間の出張から戻ってきたので私は一連の業務改革を報告。社長がいないあいだ社長になったつもりで頑張ったと胸を張ったのだが何故だか社長は激怒。私は即日解雇の憂き目に遭ったのである。社長になったつもりで頑張れと社長が言うからそうしたのに。まったく解せない。社長とは斯くも支離滅裂な人格であると思い知らされた八重山の秋である。いと寂し。
2008.10.14
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島は、基本、身内贔屓きである。身内贔屓。知らない方のために説明しておこう。例えば島の製麺所なんかにイレギュラーの(急の)注文が二件あったとして、でも製麺所の在庫量は一件分の注文にしか応じられないとしよう。一件は麺一玉40円で卸している従兄弟経営の食堂からの注文であり、もう一件は麺一玉65円で卸している島ナイチャー経営の『カフェ居酒BAR』みたいなカテゴリーのはっきりしない店からの注文である。利益を優先するなら当然後者・島ナイチャー経営のカフェ居酒BARの注文に応じるべきであるが、島の製麺所はノーチョイスで、微塵の迷いもなく前者・従兄弟経営の食堂へ在庫麺のありったけを配達するのである。25円も高く卸している店を優先すべきであると誰しも思うかも知れない。なんとも愚かな身内贔屓であるとナイチャー誰しも憤慨するかも知れない。しかし違うのである。島の身内贔屓は決して愚かなる行いであるどころか完全に正しい行いであり、先々を見据えたかなり計算高い選択なのである。シマンチュに阿るがために言っているのではない。フツーに現実を認識し、展開予測を為すならば身内贔屓しか選択肢がないのだ。仮に一玉65円で卸してるナイチャー経営のカフェ居酒BARを従兄弟の食堂よりも優先したとしよう。で、優先的に卸すからには卸価格も下げて、一玉38円にしよう。かかるにナイチャーのカフェ居酒BARは儲かり、更に繁盛する。一方、従兄弟の食堂はジリ貧となり、開業から二年と持たず店じまいの破目に。じゃナイチャーがその儲けた金をどうするかと言うと通販で一杯買い物をして、そこんちの嫁さんと子供なんかが年に何度も本土へ帰っては東京や大阪あたりの夜の街で派手に散財するばかりで、居住地である八重山は石垣島へ落とす金額なんか精々が微増程度だ。加えて、親の具合が悪くなったとか子供の進学を考えてとか島には碌な仕事がないとか色々と理由をつけてはすぐに本土へと戻ってしまうのだから始末が悪い。仮に大勢のシマンチュがナイチャー盛業の為の道案内となり、彼らの事業や企画に賛同協力し、サポートし、盛り立ててやっても結局はなんら島の為にならなかったするわけだ。得てしてそうなんである。だから島に三年や五年住んだくらいじゃシマンチュはナイチャーを信用し切ってなんかくれない。半分様子見である。でも島で商売を始めようなんてナイチャーの居住年数は大半がそこらへんであるし、そのような時期にシマンチュや島の業者や行政などから非優先的に扱われて憤慨するケースが多いのだ。更に言うと、商売を始めようとするナイチャーの多くは「自分は切れ者である。非常にクレバーな人間である。私を尊べば、それがすなわち島の活性化につながるのである。田舎者のキミたちに商売のノウハウを、真髄を、極意を特別にレクチャーしてやるんだからありがたいと思いなさい」ぐらいに思っているからシマンチュからちょっとでも軽んじられると余計に憤慨する。激怒する。逆ギレする。いやはや、あまりにdokuzenに過ぎて、扱いがたいへん面倒な方たちである。
2008.10.13
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島へ流れ着いてから十三年あまりの時間が経過し、最近は人との出逢いも多くて、何故に島へ移り住んだのかを問われることがしばしばある。で、何が良くてこの島へ腰を落ち着けたのかを改めてもつらつら考え、あれこれ考え、色々と思い返し、上空十万メートルあたりまで上昇して思索の宇宙を飛び回ったのであるが、要は肌に合ったってことに尽きるのである。つまりフィットしたのである。分刻みで時計を確認するでもなく、義務だ責任だと騒ぎ立てるでもなく、遅れようとも失敗しようとも阿るでなく媚びへつらうでなく気に病むでなく、ビーサン引きずりTシャツ姿でたらたらやってるシマンチュの、その生きていく形が不思議なほどバシッと我が心の内の理想系と噛み合ってしまったのである。これぞ積年追い求めたる究極の生き方ぞ、ぐらいにあたしゃ思ったんだけどさ、思い同じくする本土の方もいりゃあ、逆に「いやいや、そうじゃないだろ。どう考えたってシマンチュの考え方は今後深く改めてもらわんといかんだろ。出鱈目、遅刻、失敗、欠勤、二日酔い、親族優先。そんなもの、現代では常識では許されないんだよ。タイムイズマネーなんだよ。島は生まれ変わらなきゃダメなんだよ!わかるかね仁科くん!」なんて具合に激昂する輩もいるわけよ。ま、斯くなる連中も大概は数ヶ月とか、精々が数年のうちに帰っちまうんだけど、なかには変に粘り強いっつうか『島は変わらにゃいかん!』みたいな使命感でも帯びちゃってんのか本土に帰らず島ン中で不平不満たらたら言い続けてんのがまた妙に可笑しかったりして、俺なんかはこんなブログ書いたりして外野から連中を煽るわけ。ま、違うって事を認められない了解できないのは、それはそれで辛いことなのだろうと存ずるが、辛い生き方を理想としてる本土の方に何を言っても馬耳東風…じゃなかった、端っから聞く耳持たないようであるから斯くなるせめぎ合いは今しばらく続くのである。to be continue.
2008.10.08
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例えば私が本を出したとする。例え話であるから内容はどうでもいいのであるが、ま、どうして北海道から石垣島までわざわざ自転車こいでやってきたのかみたいな独白本だとしよう。出版の名義はあくまで仁科たかし個人だ。なれば本文には旅の理由やら旅のエピソードやら北海道での暮らしやら東京時代の思い出やらが長々と書き連なり、親兄弟や友人たちなんかにも触れることになる筈である。で、色々と思いの丈を披瀝開陳せしめる中で、我が主張・我が人格・徳の有無・才能や能力・思想性などなどを補強もしくは裏付けるべく北海道の友人やら石垣島でお世話になってる人たちやら学生時代の恩師なんかに証言者として登場願うとしよう。【高校のときの仁科くんは既に窃盗放浪記という題名の長編小説を書いてました。話の中にはツバメ返しなんて万引き技が出てきたりして、ホントかよ!みたいに思いましたが、窃盗技の真偽のほどはともかく(笑)やはり当時から文筆の才能あふれるやつでしたよ。窃盗放浪記、すげぇ面白かったですね。それに彼はパンクバンドのボーカリストとしても特異な才能を披瀝してました。一度こんなことがあったんです。高3の夏休みに俺たちが企画したライブで彼は~】と、ま、そんな具合である。無論、そこは仁科名義で出してる仁科の独白本であるから仁科に都合の悪いネタなんか載せはしない。高校時代の友達が私の人格を貶めるに相応しい実話を書いてきても、そんな原稿、速攻ボツである。であるから仮に10名の証言者がいたとして10名とも仁科絶賛、仁科肯定、仁科万歳、仁科サイコー、ブラボー、LOVE YOU!ってな事になるのであろうが、果たしてそのような提灯記事をそのまま、まっすぐに、疑念を挟むことなく読む方はいるのだろうか。いるのである。これが。世間の方々はどうやら『本を出すような人は作り話なんか書かない。仮に著者が作り話を載せようとしても出版社側がそれを了承する筈がない』ぐらいに思っているのである。どうやら。でも了承するのである。出版社は。無論、場合にも程度にも担当者にもよるだろう。でも基本了承である。それに、自叙伝を出すような人ほど話の三つや四つ五つ簡単に作ったり誇張したりチョー余裕でやらかすのである。とは言え、それをデマとか作り話とか自作自演とか言ってしまうと聞こえも悪いし、書くほうも載せるほうもある種の罪悪感を覚えてしまうのでストレートな呼称は用いずに『演出』と言い慣わすことになる。演出、OKである。いまどきはセルフプロデュースなどと欧米風に呼びならわすようだが、要は自分に都合の悪いことは伏せ、隠し、見なかったことにしたり気付かなかったことにしたりして、反対意見や敵対する者や批判者の声は徹底的に排除し、てめぇの主張を裏付けることと補強してくれる情報ばかりを取捨選択して取り繕うわけだ。この手法を用いれば不肖仁科たかしも聖人君子になったり素朴なナチュラリストに変貌を遂げたり、才気あふれるカリスマと化したり自由自在である。すごいことである。凄いし、ましてや私に多少の地位や名誉や財産、現金があれば尚更に演出は大掛かりとなり、著者サイドに都合よいセルフプロデュースに難色を示すような出版社は切り捨て、ひたすらなびき、擦り寄ってくる出版社や各種メディア、業界人著名人文化人なんかを重用すれば完璧だ。そう容易く自作自演と一般にバレはしない。でも、もし仮に本を出すようなことがあっても私はそんなやりかたは絶対用いない。なぜならば、読む人が読めばそのような体裁は演出みえみえで、それだけでこちらの徳の低さを喝破されてしまうだろう。徳の低さをそのまま売りにするのはありだが、低い徳をさも高そうに見せるのは駄目である。ダメダメである。まだしも文章のテクニックで高そうに見せるならともかく、自分で選んだ友人知人に都合のよい証言をさせて徳を高くみせるなんて手法はやっぱり恥ずかしい。少々格好も悪い。でもって、そのようにしてセルフプロデュースされた虚像の上っ面が剥がれる時は呆気ないほど一瞬である、たいていの場合。どうせセルフプロデュースするなら容易くは壊れない虚像にしておかないと枕を高くして眠ることも出来ない。とは言え、間違って私が本業で有名になることがあろうとも自叙伝など間違っても出さないわけだが。自叙伝を出すってことは自分自身を売り物にすることに他ならず、つまりそれはタレント志望の強烈なる発露である。タレント志望が悪いなんて言うつもりは寸毫なくも、我が心の内にタレント志望の一片たりとも持ち合わせてなくば肯定も叶わないのである。私的には。で、なんでこんな事を書くのかって?昨今こんな手合いの駄本が多いよなぁと少々辟易し、それを読んだ方々が又喜んで他人に薦めているのを見るにつけ、程度こそ低いが、虚像を世に広めるとはある種の社会的害悪であるよなぁと軽く憤慨もするからである。
2008.10.05
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「ぼくは小学校しか出てないよ。ぼくらウミンチュに学歴は要らないさ」と語る島の男性。島の男性って一人か二人じゃなくて一般名詞としての島の男性。で、ウミンチュとは日本語でいうところの漁師であるから、言葉足らずが八重山のコモンスタイルにつき冒頭の言葉を勝手に日本語に意訳させてもらえば「漁師になるのに高校や大学までいく必要はないし、高校や大学になんて行ったら漁師になんかなれないのよ。わかる?」となるのである。高校ぐらい行っとけ。なんてことを世間一般の親や教師は言う。高校までの学歴を得ておけばあとは色々と道が拓ける。一応の学歴さえ修めておけばあとは努力次第でどんな職業にも就ける。仮に成りたいものに成れない場合でも最低限の学歴があれば生活するに困らないから。なんてことを滔滔と述べるのが日本国本土のコモンセンスであるわけだが、正味これは嘘である。これって、つまり高校まで行っときゃなんとかなる的人生訓。そんなもんは嘘ってことである。高校や大学までの学歴を得ておけばあとは小市民的努力が伴えばなりたいものになれるなんて信じていたら思いっ切り足をすくわれるのがオチなのだ。例えば冒頭のウミンチュ。彼らの多くは中卒なんて学歴で、なかには小卒なんて場合も少なくなくて、その卒業したはずの小学校も半分も通っていなかったりする(本人談ww)。しかるに彼らは無学無教養であり、漢字も碌に書けなかったり、足し算引き算にも困る場合だってある。じゃあ、そんな彼らが生きては行けないのかと言うと勿論そんなことは全然ない。ウミンチュとして漁師として立派に人生を送っているのである。更に言えば、高校や大学の学歴がないからこそ彼らは立派な漁師にウミンチュになれたのである。私が何を言わんとしているのか頭の良い方々は気付かれたことと思う。成りたいもの。やりたい事。得たい感覚や手業。それ如何によっては学歴なんざ無用の極み、無用どころか逆に余計な学歴を得たがために失ってしまう才能や感覚があるってことを知っておくべきだろう。荒れた海や高い波もものともせず、我々一般人には測り様もない潮の流れなんぞを読みつつ日々の獲物を手に入れるウミンチュをもし仮にどこぞの四年制大学にでも通わせて卒業させてみよう。おそらくは二度と再び彼はウミンチュに戻らないだろうし、仮に海の漁場に戻ったところで彼はもはや潮も読めず、高精度の魚探も顔負けだった第六感も失い、なによりも荒れた海に漕ぎ出す勇気を失っている筈である。ま、これは例え話に過ぎないのであるが、高校までは出とけなんて言葉に大した意味がないのは確かである。我が身をもって経験しているので間違いない。高校、専門学校まで通って無用に失ってきた感覚。学歴を得るまでにごてごてと塗りつけられた体裁やジョーシキを削ぎ落とすのにもがいてもがいて気付いたらもう四十の坂を登っている。くだらない学校や授業に時間を割いたおかげで人生半分無駄にしたような気さえする。ウミンチュに倣う学歴無用の生き方。それが本来あるべき姿や感覚に立ち返れる唯一の方法なのだろう。学歴なんて言葉や体裁やジョーシキが幅を利かせるようになって百年足らずである。学歴が下らぬとは言わない。それが必要な人、必要な職業も世にあって然るべきだろう。でもやはり万人に必要なものでないのもまた然るべきなのである。
2008.10.02
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