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「つばさ」(1927)のDVD。空中戦を描いたシーンで有名なアメリカ映画。たしかに迫力がある。どうやって撮ったのかと思わせる演出。危険極まりない撮影だったと推測する。リンドバーグの大西洋横断の当時の熱狂もあって大ヒットした。サイレント映画なので、軽快な音楽に講談調の語りがついているせいか、凄惨な場面もあるがどこか牧歌的な風情が漂っている。ロマンチック・コメディの要素もあるストーリーだからだろう。戦争がらみのラブストーリーは、兵士と故郷で待つ恋人という湿っぽいものが多いが、この映画ではヒロインは自動車部隊に入って活動する。「活動」はしても「活躍」はしないのが、戦争映画の紋切り型というべきか。ベトナム戦争では女性だけのベトコン部隊は男以上の残虐な優秀さを発揮したそうだが、「つばさ」ではヒロインはドジで明るい田舎娘を演じている。工場であれ、自動車部隊であれ、戦争によって女性の社会進出が高まったのは事実だろう。別の女性をめぐって親友だった二人の飛行士が仲違いし、戦場で悲劇的な結果をもたらす。誤って味方を殺してしまうという悲劇にもかかわらず、最後は強引にハッピーエンドにもっていく。つまるところ、出自や立場の異なるアメリカ人同士が戦争で団結する映画でもある。若い頃マッカーサーはウィルソン大統領に各州の兵士を集めた混成部隊の編成を提案し、その師団は「レインボー」と名付けられた。休暇中は、パリで美女に囲まれながら美酒に酔いしれるシーンもある。この映画を見たアメリカの若者は、空中戦やヨーロッパへの幻想をふくらませたに違いない。
2009年10月19日
「エンド・オブ・ウォー」をDVDで見る。独ソ戦を舞台にドイツ人とイギリス人の将校の交流を描く。敵同士だった二人が捕虜収容所から脱獄して「世界を揺るがす秘密」を連合軍に知らせようとする。途中でソ連兵に襲われているポーランド人女性を助けて、3人で森を抜けて連合軍に合流しようとする。 予想はしていたが、駄目な戦争映画の見本のような映画。ずっと甘ったるい音楽が流れ、雰囲気も展開も嘘くさい。ツッコミどころ満載のメロドラマである。「世界を揺るがす秘密」というのもスターリンならば当然の野望なので、驚きもサスペンスもない。観客のなかにはカチンの森の悲劇も知っている人は多いだろう。古処誠二の小説『ルール』を読んだ後だったので、なおさらこの映画はダメだと感じた。『ルール』は、レイテ戦でジャングルを彷徨う日本兵とアメリカ人捕虜を描いた壮絶な物語。体力もなくなって動物を捕まえることはできず、虫だけしか捕獲できない。はりついた蛭をつまんで食べる。人肉を食べる兵士まで出てくる。だがそうしたグロテスクな覗き見趣味を満たすだけでなく、マラリアで病死することがいかに無念であるかも深く濃く語られる。しかもアメリカ軍は沖縄に進軍し、もはやフィリピンで闘う意味はなくなっている。無意味な闘いを強いられたときに、各々がどのように自分を奮い立たせ支えようとするのか。 アメリカ人の捕虜の視点も導入することで、集団では愚かになるが個人では驚異的な忍耐力を発揮する日本人の特性が説得力をもって描かれている。主人公たちにとって敵はアメリカ軍とゲリラ、時には日本兵も敵として立ち現れるが、もうひとつの強大な敵は自然だ。隙あらば蠅は卵を産み付けて蛆を湧かせる。体力が落ちれば病原菌が入り込んでくる。そこには映画に出てくるような綺麗な負傷も綺麗な死体もない。生者も死者も輪郭を失って醜く自然へと還ろうとしている。組織のルールと自然界のルールの無慈悲な掟が日本兵を苦しめる。だが限界まで立ち向かおうとする姿が読者の胸をうち、息苦しい物語を最後まで読ませるのだ。
2009年10月15日
Bunkamuraミュージアムで「ベルギー幻想美術館」。デルヴォー、マグリット、アンソールなど一通りそろっている。象徴派いがいのリアリズムや宗教画にも目配りしているので、バランスが良いといえば良いが、意外な切り口でぐいぐい引きこまれるような構成にはなっていない。総花的な構成で落ち着いているのが物足りなかった。ベルギーはアフリカの植民地を背景に近代化を遂げて豊かになった。その反動としての幻想絵画というのはいかにも現実逃避的でありそうなのだが、だとすればもっと積極的に解説しきってしまうアプローチもありえたのかもしれない。例えば内面世界の探求が象徴派やシュルレアリスムへと分化していったときにその分水嶺となったのは、どういった問題だったのか。とはいえエミール・ファブリの「夜」、デルヴォーの「海は近い」、アンソールのユーモラスで活力みなぎる群衆描写などは見応えがあった。ブルージュやオステンドの街の魅力も伝わってきた。
2009年10月08日
「サブウェイ123」を渋谷で見る。トラボルタ扮する男たちが地下鉄を乗っ取り、身代金を要求する。交渉役には地下鉄職員のデンゼル・ワシントン。地下鉄そのもののアクションはほとんどなく、この二人の無線のやりとりが見所だ。人質たちは為す術もなく翻弄されるばかりだ。トラボルタは金が欲しいだけではなく、相手の痛いところをえぐろうとする。刑務所にぶちこまれて怨霊と化し、怒りのエネルギーをもてあましている。人質の命がかかっているから嘘は許されず、懺悔や贖罪といったキリスト教的な対話が展開される。対話を通じて二人のいわくつきの過去が明らかにされていく。何もかもがテレビ的な胡散臭い時代にあって、せっぱ詰まったダイアローグを書くには絶好のシチュエーションだ。 ツッコミどころはいろいろあるだろう。事件を起こすことで金融市場を変動させ、儲けようというのだが、金を儲けたところで脱出できそうにない。犯人たちは顔を隠すでもなく身元までバレてしまうので逃げきるのは難しそうだ。そもそもこういうリスクの高い劇場型犯罪は減ったように思う。この映画がリメイクだというのもよくわかる。本当の知能犯ならば地下鉄を乗っ取らずに巨万の富を稼ぐだろう。だがそれではこすっからいだけで、おもしろい人物にはならない。何か痛切に訴えたいことがあるので乗っ取ったと思わせるようなキャラクターでなければならない。 巷では「他人との会話を途切れないようにする方法」といった実用本が売られている。この映画はいい教材になるのではないか。映画ではとにかく時間を稼ぐために犯人と会話しようと試みる。「その調子でうまくやれ」という指示のもと、相手の懐に飛び込んでの丁々発止やり続ける。死者は出るが人間的なやりとりがあるぶんだけ、地下鉄サリン事件や9.11よりマシかもしれない。昔の娯楽映画を見たような気がしたのはそのせいだろう。
2009年10月07日
「ウィンター・ウォー――厳寒の攻防戦」をDVDで見る。フィンランド映画というのはあまり観る機会がない。小国フィンランドがソ連軍に善戦したことは史実として知っている。負けたソ連軍の将校たちはスターリンの逆鱗に触れて粛清された。森林のイメージから罠を仕掛け待ち伏せしてソ連軍を撃退したのかと思っていたが、この映画では第一次世界大戦の塹壕戦のような陣地の取り合いになっている。圧倒的な数的優位を誇るソ連軍がみるからに強そうである。戦闘機と戦車も備えたソ連軍に対して、火炎瓶で応戦するフィンランド軍。相当な戦力差があったにもかかわらず、よくぞ奮闘したものだと感心する。 前半では家族のやりとりが丁寧に描かれているにもかかわらず、誰が誰だかあまりよくわからないままに戦闘に突入する。キャラクターをしっかり造型してドラマティックに盛り上げるような配慮はないのが、戦争映画としてはかえってリアルである。固有名を剥奪されて一兵卒のまま戦場に送られる。爆弾があちこちで炸裂する。オレは悪運が強いんだと嘘ぶいていた男が次の瞬間には消滅している。死体も何も残っていない。爆弾が開けた穴が残っているだけである。 戦闘シーンも感動的なエピソードがあるわけでもない。砲弾が飛び交い、銃撃を続け、白兵戦で銃剣を付き合う日常が続く。だらだらといつ果てるともなく戦い続ける。海軍も空軍も落下傘部隊も出てこない。地面に這いつくばって待ち伏せるだけである。条約が締結されてあっけなく終わるのだが、現場の兵士からすれば幕切れというのはこんな感じなのだろう。権力の上層部の話し合いが成立すれば戦闘は停止する。それまでは肉と骨が砕け散る戦闘が飽くことなく遂行される。 映画では描かれていないが、結局フィンランドは枢軸国側としてソ連に参戦し、ソ連に屈服した後はドイツとの闘いを強いられ、勝つには勝ったが多大な犠牲を払った。フィンランド人としてはあまり見たくない現実だろうが、もしかしたらこうした闘いも映画化されているのかもしれない。
2009年10月03日
「ワルキューレ」をDVDで観る。ヒトラー暗殺計画を実行したシュタウフェンベルク大佐をトム・クルーズが演じる。ストーリーはすでにわかっている。暗殺は失敗するのだ。それでも意外に楽しめた。暗殺計画の規模がこれほど大掛かりなものだったとは知らなかった。暗殺計画は無数にあったそうだが、ゲッベルスの伝記によればこの暗殺計画以降、ヒトラーはめっきり老け込んでしまったという。それからはフューラー(指導者)をゲッベルスが指導することになったと解説する人もいる。ゲッベルスがヒーローに祭り上げようとしていたロンメルも関わっていたとなればショックは大きかったはずだ。 ヒトラーを暗殺しても権力を掌握できるわけではない。そこで情報戦となる。これからは自分たちが権力者だということを軍人や警官、国民にも納得してもらわなければならない。この映画では、電話局が担当者の判断で反乱軍につくかヒトラー一派につくか決める様子が描かれている。シュタウフェンベルク一派が通信網を放置したのは迂闊だった。ヒトラー暗殺に失敗したしても、電話線を切ってコントロールすれば反乱軍が勝てたという説もある。権力の歯車装置は、情報を統制したものが勝利する。上からの言葉は魔法のように作用する。反乱軍はゲッベルスを逮捕しようとする。逮捕が迫ったゲッベルスは、青酸カリらしきカプセルを口にふくんだまま侵入者と対峙する。先の伝記ではゲッベルスは意を決してピストルを用意したという記述があったが、映画では毒薬を口にふくむ。こういうディテールがおもしろく最後まで観させる。英語をしゃべるトム・クルーズに違和感があるが、これはまあ仕方がない。さかんに家族を案じるのだが、これは家族の絆を強調して感動させようという演出なのか。クーデターの真っ最中であっても家族のことなど考えないというのは、冷徹すぎるというのか。ラディカルなことを為そうとするときに足を引っ張るのが家族ということか。そういえばビリー・ワイルダーは映画館でヒトラーの隣に座ったことがあったという。「自分には二つのものが欠けていた、勇気とリボルバーが」と後に回想されることになる。そのときヒトラーが殺されていたら「ワルキューレ」は撮られなかった。そうしたらトム・クルーズはビリー・ワイルダーの役を演じていたかもしれない。「アドルフの画集」をDVDでみる。画家を目指していた頃のヒトラーとユダヤ人の画商との交流を描く。二人とも第一次世界大戦で一緒に闘った戦友だったが、帰還するとヒトラーには家族も家も仕事もない。絵描きとしてもぱっとしない。それに対して裕福な画商にはすべてがある。絵画と演説のどちらに才能があるのか煩悶するヒトラー。芸術か政治かという問いは、演説家としての才能が開花するにしたがって、芸術としての政治という考えに至る。「意志の勝利」のように政治そのものが芸術となる。残念ながらヒトラーの反ユダヤ主義が強調されすぎていて図式的な話になっている。途中でユダヤ人の画商がどうなるのか結末がわかってしまう。ただグロッスやエルンストといった名前とヒトラーが同じように扱われている当時の様子が――どこまで史実に即しているのかわからないが――おもしろい。画商はヒトラーを励まし続けるうちに、政治的な才能を美的な方向から支援してしまう。アウトバーンのような近未来的な都市と古代の壮大な建築、軍服のデザイン……画商はヒトラーのこうしたスケッチを評価する。未来派と古典主義の新たなる融合。だがそれは画商にとっても世界中の人々にとっても危険な融合だった。
2009年09月27日
「プール」を吉祥寺で見る。小林聡美ともたいまさこが出ているリゾート映画なので「かもめ食堂」や「めがね」と比較してしまうが、監督は違うようだ。小林聡美演じる女性がタイのゲストハウスで働いている。ギターで弾き語り、作詞作曲もこなす器用な人だと感心する。ある日、娘が卒業旅行という名目でタイにやってくる。加瀬亮が現地で働く親切な日本人の役で出ている。硫黄島や痴漢の冤罪裁判で苦労している姿が目立っていたが、ようやく楽園の地を見つけたようだ。余命いくばくもないはずの達観した女性をもたいまさこが演じ、タイ人の子供や犬猫豚たちが疑似家族を形成する。 長まわしと引きのショットが多用され、リゾート気分を味わえる。連休だからちょうどいい。広々とした景色、ゆったりとした時間、おいしそうな料理、気の良い人たち、懐かしげな商店、外国の文化や風習……。娘は美人だし、子供も可愛らしい。 それだけだとただの環境映像になる。ドラマがなくてはならないということで、母子関係に焦点が当てられる。自分を捨ててタイで暮らしている母親に、娘は我慢がならない。「自由奔放な母親」というのは、なにかと評判が悪い。非常識きわまりないという扱いを受ける。タイ人の子供も母親に捨てられた設定になっている。母だという女性が現れるが本人ではなかった。何も起こらない、風変わりな(オフビートの)映画かと思っていただけに、「自分勝手な」母親はキャラクターとして浮いている気がする。 母子の相克を抜きにすれば、人間的な暮らしとはどういうものなのかをこの映画なりに探っており、目の保養になる映像が楽しめる。ぼーっと眺めていられる。逆に言うとそれだけの映画ともいえる。そういう映画が何本も撮られていること自体が、今の日本の病理を象徴している。現代人は「普通に暮らす」こと自体が難しくなったことにもっと驚くべきなのだ。
2009年09月20日
渋谷で「女の子ものがたり」を見る。最近ナチスドイツのマッチョな映画を見た後のせいか、それとも年をとりすぎたのか、辛口で突っ込みたくなる展開が多かった。漫画家が若い頃の仲良し三人組のはしゃいだ日々とその後の過酷な現実を振り返りながら、最後は「ともだち」を作品に描く決意を固める。田舎の貧乏で陰惨な現実を描きながらも、さほど暗くない。むしろ明るい。昭和の昔の映像でみかけるような田舎の大雑把な顔をしたブサイクな女の子は出てこない。美少女三人組という選ばれし者たちの栄光と失墜を見ているような感じである。ブサイクに生まれついた者の耳をふさぎたくなるような呪詛は聞こえてこない。健康的で明るいテレビ的世界では封印されている陰にこもったパトスが描かれることはない。だから画面が明るい。青春映画の王道をいくようなショットが続く(それはそれで見た目に心地よく、ヒーリングにはなるが)。一人は病死し、一人は借金をつくって遁走。主人公だけが漫画家として成功し、過去をふりかえって作品に描く。遁走した彼女を主人公に据えたらどうなったのだろう? ゾラの『居酒屋』みたいな話に落ち着いたのだろうか。金払ってそんなビンボーな生活は見たくもないよと言われそうだ。「貧乏とDV夫=不幸な生活」という紋切り型に三人のうち二人もはまってしまうのが、どうにも軽い。わかりやすいビンボーというのは、人の心を揺さぶらない。殴られたアザだけではダメなのだ。下手すればギャグだ。「幸福な家庭はどれも似たものだが、 不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」というトルストイの言葉が想い出される。「幸せ」という「どれも似たもの」を目指して、囚われすぎた少女たち。その日のご飯がおいしく食べられたらそれでいいではないかと思うのだが、「幸せ」の呪縛というのは精神分析的にも強力なものがあるのだろう。そのうちにナントカの科学やナントカ実現党のような組織に惹きつけられていく。そこで周囲と同化して「どれも似たもの」となって安心するのだろうか。DV教祖だったらどうするというのだ? 『1Q84』はたしかそんな話だった。田舎だろうが都会だろうが、貧乏だろうが金持ちだろうが、女子はすべからく殺し屋を目指すべし。これがこの映画から得た教訓である。
2009年09月03日
「意志の勝利」を渋谷で見る。ちょっと前、夜に立ち寄ったときは満席で入れなかった。今日は平日の昼間だったが、けっこう客が入っていた。八割方、年配の男性である。ヒトラーの演説をカンフル剤がわりに夏バテ防止であろうか。映画史上最大の問題作だからだろうか。選挙の熱狂の後だけに興味深い。 ドキュメンタリーで一部の映像は何度も見ているが、スクリーンで観るのは初めてだ。ドイツでは上映禁止らしい。冒頭は雲の映像が続く。飛行機に乗ったヒトラーが古都ニュルンベルクにやってくる。鷲は舞い降りたというわけだ。空港からホテルまでの群衆の熱烈歓迎はビートルズの来日公演に、郊外に野営するヒトラー・ユーゲントのテントの群れはウッドストックに匹敵する。 あとはひたすら集会、演説、行進の映像が続く。ヒトラーと群衆のクローズアップを効果的に使うカメラワークが演説をさらに盛り上げる。ヒトラーは「ドイツのために団結しよう」と説き、副総統のヘスが「ヒトラーはドイツであり、ドイツはヒトラーである」とあからさまにプロパガンダの熱弁を奮う。このあたりの役割分担も周到に計算されている。 集会も行進も思考を停止させる。気ままな遊歩は思考を誘発するが、強制された行進は勇壮で単調な音楽の効果も利用しながら、思考を無にいたらしめる。疲れて朦朧としたところで、ヒトラーの雷鳴のような演説を聞かされる。地鳴りのような拍手と歓声がそれに応える。大会が開かれ映画が撮影された1934年は、ヒトラーが政権を奪取し、600万人いた失業者を300万人に減らした時期にあたるという。「救世主あらわる」というわけで、群衆の熱狂も肯ける。その約十年後にはドイツではなく連合国の意志が勝利することにより、ヒトラーは自殺し、ドイツは焦土と化す。大会の開かれたニュルンベルクでは戦犯を裁く裁判が開かれる。この映画で明るく笑う大群衆も数多くが命を落としたことだろう。だがすべてが灰燼に帰したわけではなく、このような「傑作」が世に残り、なにかに取り憑かれたようなヒトラーの鬼気迫る演説にある種の魅力があることは否定できない。私自身は、あんなに立ったまま話を聞かされるのはゴメンだが。
2009年09月01日
「デイズ・オブ・グローリー」。フランス語の原題は「原住民」とそっけない。モロッコやアルジェリアといったフランスの植民地部隊がドイツ軍と戦う。待遇や昇進といった軍隊内の差別。「オレたちにもトマトを食べさせろ」と集団抗議するシーンがあったが、トマトぐらい平等に配給すべきだと思うのだが、とかく軍隊というのは差をつけたがる(軍隊に限らないが)。「原住民」が命がけで奮闘しても、手柄は白人がかっさらっていく。 「アメリ」にも出ている例のフランスの人気コメディアンが登場する。日本では「少年隊」の植草に似ている人というぐらいの知名度だろうだから、感情移入もできまい。そもそもフランスが第二次大戦をどう戦ったのかも知らない人は多いだろう。植民地の兵の視点からみた第二次世界大戦というのはユニークだ。それをドイツと同盟国だった日本人が見るとどうなるのか。少しわかりづらかろうというので日本では未公開なのだろう。 「フランドル」。これも第二次世界大戦に参戦したフランスを描く。ただの戦争映画ではなく、フランドル地方の若者の生活や風景も丁寧に撮っている。退屈なほどのんびりした農村の暮らしと砂漠の戦場のコントラストが鮮やかだ。他方で、身持ちの軽い女が精神に狂いをきたしていくエピソードと並行して北アフリカ戦線が描かれる。現地の女性を輪姦するフランス人兵士たち。立場が逆転して捕虜となり、局部を切り取られて絶叫する兵士。命からがら助かった一人が農村で彼女と再会して「ジュ・テーム」「ジュ・テーム」と言うのだが、ラブストーリーの甘さはない。助けを求める叫びに聞こえる。「突撃」。原題はPaths of glory。スタンリー・キューブリック監督、カーク・ダグラス主演のモノクロ映画。第一次世界大戦のフランス軍を描く。戦争映画は、警察ものもそうだが「組織」を描いた傑作が多い。この映画は、敵前逃亡、味方への砲撃命令、軍法裁判といった組織内のゴタゴタがわかりやすく描かれている。味方同士でいがみあっている愚かしさだけでなく、組織の不条理も考えさせられる。「フランク・キャプラ 第二次世界大戦 戦争の序曲」。1942年にアメリカ政府の注文で作られたプロパガンダ映画。DVD六枚組で見応えがある。マホメットや孔子の引用にはじまり、世界史を復習しながら「なぜアメリカは戦わなければならないのか」が描かれる。連合国は自由の国、枢軸国は奴隷の国という善悪二元論には閉口させられるが、プロパガンダだということが今見ると逆におもしろい。 ニュース映画やドラマ映画も区別なく編集されているので、どこまでが真実なのかわかりづらい。これはプロパガンダではなくても現代でも臨場感を出すために使われる手法だ。BBCが制作した「ノルマンディー上陸作戦」のドキュメンタリーがNHKで放映されていたが、再現ドラマが事実のごとく編集されていて見づらかった。ドラマというのはわかりやすいが、まさにそれゆえに内容を軽くしてしまうようなところがある。うまく使わないと見ているほうがシラけてしまう。 このフランク・キャプラの戦争映画は、リズミカルにくどいくらいに編集することによって退屈せずに見られるが、そのぶん胡散臭さも気になるような仕上がりになっている。国家は「やむをえず」戦争に踏み切ることで大義を得る。そのためなら無茶もする。日本もアメリカも同じだということがあらためてわかる。
2009年08月31日
夜、散歩しているといろんなモノや光景にでくわす。ゴキブリを追いかける猫、逃げ去るネズミ、商店街の真ん中で立ったまま寝ているスーツ姿の男、空き缶集めに励む人……。歩いていたら頭上から「助けてください」という叫び声が聞こえた。見上げるとお婆さんから窓から乗り出している。火事か? と思ったが煙はあがっていない。「大丈夫ですか」と声をかけると「助けてください」と繰り返す。思わずケータイを探したが、散歩のときは持ち歩いていない。昔のように公衆電話もないので、こういうときに不便である。あたりを見回すと遠目に眺めている二人がいた。近所の人のようだ。ニコニコと落ち着いた様子だ。「警察は呼んだんですか」とこちらが声をかけると「呼んだんですけどね」との返事がかえってきた。家の人がいないので騒ぎになっているという。痴呆状態なのだろうか。よくあることなのか。のんびりした空気が流れている。火事でも強盗でもないようだ。「助けてください」と切実に言われると面食らう。とっさの判断を迫られる。学生が単位くださいと懇願するのとはわけが違う。生死がかかっている(と言われたほうは思う)。病院にも老人ホームにも世話になれない境遇であれば、頼りになるのか家族かご近所か。誰にも頼れない人だって多いだろう。年をとるのも大変だ。人生、歩けるうちが花かもしれない。
2009年08月29日
「HACHI――約束の犬」を新宿でみる。ストーリーはたいていの日本人だったら知っている。あとはラッセ・ハルストレム監督と主演のリチャードギアがどう料理するのか。犬の演技はきっと申し分ないように編集されているのだろう。なんといっても動物のイメージは強い。特に犬の訴えるような黒目がちの目、時に思慮深い表情も見せる顔には吸い寄せられる。映画館に来る途中の電車にも盲導犬が乗り込んでいた。ドア付近で行儀良くしていた。 ストーリーはわかっているので、飼い主との出会いから幸福な日々もどこか悲しげで儚い。ピアノを基調とした音楽も控えめに演出して雰囲気をつくっていく。街もこぢんまりとしたところで、駅前のホッドドッグ屋のオヤジといい、こすっからいところのある駅員といい、昔の商店街の人間臭さがある。HACHIは飼い主を待ち続けるとともに、この街に自分の居場所を見出したのだろう。 時折HACHIの視点からのショットが挿入されることで、寡黙な犬の孤独や心情が浮かび上がる。観客は、子供が一途に親を慕うような愛情、親が子供を慈しむ愛情に胸を打たれることだろう。日本もアメリカも関係なく普遍的な情愛に訴えかけるように撮られている。最終的にHACHIの運命は、「スターリングラード」の兵士たちの厳寒の最期と見た目には変わらないのだが、走馬燈のように飼い主との日々がよぎることで、悲惨さではなく出会った好運を感じさせるような後味に仕上がっている。
2009年08月20日
「スターリングラード」をDVDで見る。ジュード・ロウがスナイパーと闘う同名の映画ではなく、いわゆるドイツ版「スターリングラード」である。昔、映画館で観て衝撃を受けた。戦争映画の傑作だ。 人類の経験した最大にしてもっとも悲惨な闘いが独ソ戦だという説がある。たしかに歴史的記述を一瞥すると想像を絶する数字が並んでいる。ヒトラーの誇大妄想ぶりが全開の戦争である。この映画では、ドイツの兵士たちの視点からスターリングラード攻防戦とその舞台裏が生々しく描かれている。祖国愛も家族愛もラブストーリーも英雄主義的なカタルシスもないので、戦争映画にそういう要素を期待する人はきっと失望するだろう。戦争の悲惨さをひたすら訴える反戦映画だと勘違いするかもしれない。 人としての情に流されたり正論を貫こうとすれば、懲罰部隊に送られる。この映画の兵士たちも同じ目にあう。雪原に穴を掘ってソ連軍の戦車部隊をじっと待ち受ける。気が狂いそうなほどの緊張感に耐えて、爆弾を戦車に装着しようとする。この闘いで手柄をたてれば元の階級に戻ることができる。 犠牲を出しながら何とか帰還するが、すでに敗色濃厚で捕虜になるほかない。シベリアに送られれば助かる見込みは極めて低い。そこで脱走を試みる。別人になりすましてドイツへの輸送機に乗ろうとするが失敗する。兵士たちは、上官と残された食料を奪い取り、束の間の悦楽に耽る。レコードをかけ、美酒に酔う。ベッドには上官が飼っていたロシア女が紐でつながれている……。やがてある者は気が狂って自殺し、ある者は捕虜となる。「主人公たち」はロシアの大雪原へと逃亡する。もはや助かる見込みのない絶望的な脱走である。 果てしなく続く雪原で「主人公たち」は、一人二人と倒れていく。残ったのは一人。吹雪に凍えながら死体となった戦友と抱き合ったまま、彼も凍死する。何かの彫像のような雪と氷で一つの塊となった二人が映されて映画は終わる。
2009年08月19日
「サマーウォーズ」を新宿で。ケータイで座席を予約できるとは知らなかった。クレジットカードで払うのはパソコンだと日常的に慣れたが、ケータイの場合は抵抗感がある。旧世代の証だろうか。この映画は、そのへんのシステムへの不安感をうまく突いている。OZという仮想世界で人々はアバーターというキャラに扮して生活している。これはもうある程度現実に起こっていることだ。スクリーンのなかに片足突っ込んで分裂しているのか現代人の生活である。メール一本でどこであろうとすっとんでいかなければならないのは、その卑近な例だと言えるだろう。ネットワーク社会にどっぷりつながっている。 そうした「つながり」とは別のつながりが、この舞台となる田舎の大家族。快活でアクの強い人たちだ。腕白な子供たちが空気を明るくする。お婆ちゃんが矍鑠とした女傑で、ただものではない。これが爺さんだと家父長的な戦前の道徳になってしまうところだが、婆ちゃんなので語り口もソフトに生きる道を説いてみせる。やさぐれたチョイ悪叔父さんには、ナギナタで自決を迫る気迫の持ち主である。婆ちゃんの孫にある高校生の娘が後輩の少年に旅行に誘う。お婆ちゃんに自分の彼氏だと紹介するためだ。これは学園ドラマの定番で、「お婆ちゃんはすべてをお見通し」という展開になるはずである。偽のカップルを演じているうちに「嘘から出た真」でハッピーエンドになるかどうか、少年は男になれるかどうか試される。得意の数学がそこで威力を発揮する。大規模なサイバーテロが起きたのだ。その仮想世界のバトルがアニメーションの奔放な想像力によって描かれる。それはおもしろいのだが、バトルシーンがまったくテレビゲームと同じで、いまいち入っていけないものがある。 というのも今の時期、NHKがひじょうにおもしろい戦争ドキュメンタリーを連日流しているからだ。アニメ絵嫌いのリアリズム信奉者ではないつもりなのだが、戦闘シーンにせよ、花札の勝負にせよ、自分にとっては血湧き肉躍るシーンではなかった。正月にテレビゲームで盛り上がるファミリーの風景にしか見えない。だがそこで人類の運命を左右する大決戦が行われている。そこで疑問なのは、なんでこの田舎の家族の人たちがこんな大事な任務を遂行しているのかということだ。そんなことを問いかけること自体が野暮なのかもしれない。そこは虚構のファンタジー。一夏の大冒険を楽しんでもらえばいい。 武田家の重臣だった名家に生きる伝統的な品格ある生き方。そこに家族のエートスが加わってくる。甲子園目指す投手の姿もいかにも日本的である。他方で、アメリカ帰りの叔父さんが開発した悪魔のプログラム。敵はアメリカにあり、だろうか。それとも現代のテクノロジーなのだろうか。虚実混濁した現代にあって頼りになるのは、家族で一緒にメシを喰うこと。みんなでワイワイ過ごすこと。ピンチのときにはみんなで力をあわせればなんとかなるさ、という昔ながらの価値観をそれとなく伝えようとする教育的な配慮を感じさせる映画であった。
2009年08月12日
「サンシャイン・クリーニング」を日比谷で観る。ニューメキシコ州の街を舞台に犯罪や自殺の現場に特化した清掃業を始めるシングルマザーと妹を描く。こんなセンセーショナルな設定だと、現場から浮かび上がるドラマが気になるわけだが、死者たちのドラマは最小限にとどめ、あくまでも働く姉妹の奮闘に焦点が絞られている。問題児で転校を余儀なくされる息子、怪しげな商売に手を出して失敗する父親、自殺した母親といった家族を描いたドラマでもある。不倫相手の警官、片腕のない物知りで親切な店主が彼女たちの脇を固める。妹も「問題児」なので頼りになる片腕の店主の存在がきいている。母親の自殺というショッキングなトラウマをどう昇華するかは、ユーモラスなテイストもある映画だけに難しいところだ。女優を目指した母親がウエイトレス役でテレビドラマに出たというほんの一場面、若く美しかった時期のささやかで儚い映像が仲違いした姉妹を結びつける。高校時代は美人でチアリーダーという黄金の日々を享受したヒロインも、格差社会の下層へと追いやられるが、なんとかして旧友たちを見返そうする。虚栄心なのか自尊心なのかもはや本人もよくわからない。清掃業は不動産でリッチになるよりはるかに世の中の役に立っていると思うのだが、プライドが許さないらしい。結局、我が身の愚かさを知るための代償は高くつくことになる。起業というのは困難なものだ。同じような清掃業を二人で始めた知り合いがいるが、かなり苦労していると風のたよりに聞いた。映画では主人公は不倫相手の警官から商売のアイディアを得て、仕事まで斡旋してもらう。役所とコネがあると見入りのいい仕事が舞い込むようだ。だがヒロインは警官とのドロドロしたギブ・アンド・テイクの関係を断ち切って、爽やかに再出発を果たす。役者がそれぞれ持ち味を発揮してとても雰囲気のいい映画に仕上がっている。
2009年07月30日
「モンスター対エイリアン」を新宿で観る。3D吹き替え版。フランスの3Dのマンガを読んだときに感じたが、3Dのイメージと活字を同時には追いづらい。字幕版はけっこう目が疲れるのではないかと想像する。 入り口で専用メガネを渡される。予想以上の立体感と迫力である。前の席に座る必要がないくらい画面からキャラが飛び出してくるし、背景の絵もリアルな奥行きが感じられる。前の席は酔うから避けた方がいいと係員が言っていた意味がわかった。手をのばしたらキャラクターに触れそうだ。そうした技術を生かしたカット割りにもなっている。リュミエール兄弟の機関車の映像を思わせるシーンもあったが、ある意味で映画の原点に立ち返ったといえる。アニメーションという映像の魔術をあらためて堪能した。 アニメの吹き替えで祭日だが子供連れは少ない。年齢層は高めだ。子供には毒がありすぎるかもしれない。それに金券ショップを利用しても料金が高い。大人向けというのは知覚的にもそうだし、ストーリーもそうだ。ラブストーリーでハッピーエンドというよくある展開にはなっていない。コミカルな動きは子供でもわかるが、ユーモアや風刺は子供にはわかりづらい。しかも見たところどうやら過去作品のパロディやオマージュにも満ちているようである。例えばオバマ大統領のカリスマ性がクローズアップされたが、それも行き過ぎれば戦闘機に乗り込んで宇宙人と闘う「インディペンデンス・デイ」みたいなことになる。そのあたりのご都合ヒロイズムをコキおろすような演出も見られる。スタッフロールが長い。かなりの人数にのぼるのではないか。「人材発掘係」だけで25人近く名前が並んでいる。かなりの資金力や制作力がないとこういう迫力あるアニメーション映画というのは作れないのだろう。一度この手の3Dを見てしまうと、少なくとも同種のアニメは映画館の3D映像で見たくなる。そうなるとDVDの売り上げはどうなのだろう。自宅でもあのメガネをつけて楽しめるのだろうか。3Dアニメは白黒からカラーテレビの移行に匹敵すると制作者が述べていたが、大きな変化だということは間違いない。あとは映画館でアニメを見ることに抵抗のある客層をいかに来させるか。一度見させてしまえば技術の進歩は納得するだろう。将来的にはメガネをかけなくてもあの臨場感を出せるかどうかだ。さまざまな分野に応用されていくことになるだろうが、そうなるとますます仮想現実のリアリティを問題視する人も出てくるだろう。だがそれはまた別の話だ。とりあえず21世紀におけるアニメというだまし絵のイリュージョンの技術的達成を讃えたい。
2009年07月20日
「奇想の王国 だまし絵展」をBunkamuraで見る。見たのは先週。こう暑くなってくると美術館まで足を運ぶのもスタミナがいる。中に入れば涼しくて快適なのだが、渋谷は駅に降り立って街を歩くだけでもタイヘン。さいわいこの日は混んでいなかった。 古今東西のだまし絵が展示されている。もともと芸術とはだますものなのかもしれない。謎かけみたいなものだ。日常とは異なる時空を演出する装置である。空間、重力、不可逆的な時間の流れ。こうした必然を変えてみたいという願望があるのだ。展示のほうは、現代アートもアルチンボルドも歌川国芳も幽霊画もぜんぶまとめてしまうことで雑然とした感はあるが、集客的にはうまくいったようだ。 特にパトリック・ヒューズの「水の都」のまわりには人だかりができていた。今年は3Dアニメが本格的に日本上陸だそうだが、果たしてどうなのだろう。遠近法のイリュージョン。立川談志は「落語とはイリュージョンだ」と言ったが、さまざまなイリュージョンを満喫したいものである。
2009年07月16日
「ロシア革命アニメーション 1924-1979/ロシア・アヴァンギャルドからプロパガンダへ」をアップリンクで見る。プロパガンダのアニメーションというと紋切り型の表現が思い浮かぶ。ロシアなら、反ファシズムと反資本主義、共産主義の讃美。共産主義を讃美するといっても、現在からするとそれほど魅力的には映らない。行進曲にのって労働者たちが生き生きと工場に向かう光景。立ち並ぶ工場と煙突。最新鋭の機器。物資と人員を運ぶ機関車。宇宙開発。要するに生産至上主義の社会だ。科学の発展による楽観的な世界観。こうした近未来のヴィジョンはもはや現実味を失っている。そもそも共産主義自体が破綻してしまった。資本主義批判は、いまでも有効性を失っていない。むしろ当時から問題は何も解決していないことがわかる。だがその批判的なイメージはむしろ魅力的に映る。ニューヨークあたりをイメージした高層ビル街。車がビュンビュン走っている。ジャズが鳴り響くなか酒と女の頽廃生活。「求職中」のプラカードを首からさげてゾンビのように町をさまよう人々。共産主義が工場なら、資本主義は都市のイメージなのだ。思いのほか多彩な作品があることに驚く。プロパガンダの制約のなかでアーティストたちが意欲的に取り組んでいたことが感じられる。現在からするともはやありえないような表現が新鮮にみえる。野生のまま育った男の子を人間化させ、そこから訓練によって野獣に戻そうとするナチスドイツの話。射的場の的になる人間を探している怪しげな店の話などが印象に残った。同時代のプロパガンダというのはわかりづらいものである。21世紀の現在、巷に流れている映像のなかにも、後世の歴史家がプロパガンダに分類するものもおそらくあるに違いない。映像だけに限らない。よくある自己啓発本の類も思考停止を前提とするポジティヴ・シンキングを説くものが多い。あれも一種のプロパガンダではないのか。
2009年07月15日
都議選の自民の大敗。当然の帰結。小泉マジックとはいえ、そもそも郵政民営化選挙で自民が圧勝したこと自体が不思議だった。この十年の世の中に成り行きに目をやれば自・公連立政治が何をもたらしたのかは明白だった。大企業の優遇によって個人商店や起業が難しくなった。最近のセブンイレブンのオーナーの反乱はようやく堪忍袋の緒が切れたのだろう。労働者の収入も下がり、雇用も不安定になった。定額給付金も景気対策なのか貧困対策なのかはっきりしなかった。こんな額の金が支給されたって何がどうなるわけじゃない。天下りの役人が牛耳る組織で安く使われ、理不尽な解雇にあう人も増えた。そこには派遣制度の問題もある。外国人教師の労働環境もかなり劣悪だが、日本人にとってはよその国の話なのか、政府が本腰をいれて取り組む気配はみられない。あらゆる領域で予算がないからという理由で人が安く使われて捨てられている。そういう環境に耐えながら働いて老いたときの年金もどうなるかわかったものではない。要するに麻生内閣は何をどうすべきなのかを明示して、その達成度を国民にきちんと伝えるべきだったのだ。どこかで公表しているのかもしれないが、テレビをうまく使わないと伝わらない。結局のところ、生活実感のようなものがものをいう。いろんな意味で貧しくなったということだ。マクドナルドの大盛りサービス的なメニューの流行は、食文化の貧しさを象徴している。本もCDも売れなくなったのは、ネットだけが理由ではあるまい。あれこれ試してみるだけの可処分所得がなくなったのではないか。一部のベストセラーに偏るのもそんな背景がある気がする。笑顔が魅力の麻生総理は地金がすける前に解散すべきだった。剛胆な振る舞いは虚栄にすぎず、傲慢な態度だけがマスコミにとりあげられて目についた。それで強引なリーダーシップを発揮したわけでもなく、弱小派閥の長だからかあれやこれやのお偉方の意見に振り回されている印象だ。で、決戦のときを見誤った。しかも無策である。選対本部長の辞任というおまけつき。本部が迷走しているので各候補者は自らの持ち場で全力を尽くせという選挙戦である。前線で指揮をとるべき古賀は逃げた。総大将の麻生は八月をどう過ごすのだろう。選挙応援にまわるのだろうか。来て欲しくない候補者もいるのではないか。断られたら自宅で回想録でも執筆するのだろうか。クーラーのきいた部屋で葉巻をふかしながら、総理としての残り少ない日々を満喫してやろうと腹を決めたか。敗戦の弁を語るときのスーツを買いに出かけるのも気晴らしになるだろう。
2009年07月14日
「ベティの小さな秘密」をDVDで。原題はJe m’appelle Elisabeth。「私にはエリザベートという名前があるの!」と言い返すニュアンスは邦題には反映されていない。難しいところだ。1960年代らしいが、田舎のお屋敷の話なのでおとぎ話のような設定である。姉が寄宿学校に去り、両親の仲も悪い。精神病院の院長をしている父親とお手伝いをしている患者らしきおばさんとのやりとりが中心になる。このおばさんもおとぎ話的なキャラでいい味を出している。 学校では顔にあざのある転校生に一杯くわされる。ベティは同情からか好奇心からか孤立する少年に声をかける。すると少年はベティに打ち明け話をする。このアザは呪いをかけられた徴で、満月の夜に瓶につめた小便があればボクのあざは治る。信じてしまったベティは自分のお小水を献上するが、待っていたのはクラスメイトたちの残酷な仕打ちだった。このアザのある彼がおもしろい。「地球は死にかけた太陽なんだ」と三島由紀夫の金閣寺に出てくる障害者のプレイボーイを彷彿させる屈折した性格である。ベティが父親にそのことをただすと父親が「そうなんだよ」と肯定するのもおかしい。 ベティが脱走した患者をかくまい、安楽死寸前の野犬の救出に向かう。小さな冒険である。日本で公開されるフランス映画には、中年男女を中心とした大人の映画の系列と、こういった「子供映画」の系列があるようだ。ただし「子供映画」といっても必ずしも子供向けではない。この映画をディズニーがアニメで撮ったらどうなっていたのだろう。精神病院の患者をアニメ化するのに苦労しそうだ。ルネ・ラルーがアニメ化すれば成功したかもしれない。
2009年07月13日
「ぜんぶ、フィデルのせい」をDVDで。フィデルはカストロ議長のこと。子供の視点から70年代の政治運動に揺れた社会を描く。スペインのフランコ政権、チリの社会主義者アジェンデ政権および73年のクーデタ、68年のフランスの五月革命が背景にストーリーが展開してゆくので、こうした政治風土に縁遠い日本の観客にとってはわかりづらい映画かもしれない。フランスはスペインもチリさえも地続きのように政変が人々に影響を及ぼす。主人公が女の子だったから子供映画として日本で公開されたのではと邪推したくなるような「硬派」な内容である(この程度で硬派になってしまってはまずいのだろうが、それほど日本の映画興行は軟化しているように思われる)。 ブルジョワの両親が共産主義者に変貌してしまい、主人公の女の子はとまどう。ウーマン・リブの母親も娘はカトリック系の保守的な学校に通わせているのだが、そこでも一悶着起きることになる。今の日本では政治的イデオロギーや宗教的信条がここまでシビアにぶつからないせいかフランスのある時代を活写した記録としてはおもしろいが、映画としては何かピンとこない内容になってしまっている。これはおそらく個人的に共産主義にリアリティを感じないからだろう。 子供が親と政治的な議論もする習慣は、いかにもフランスらしいといえるだろうか。サルコジの統治をテーマにした「ぜんぶ、ニコラのせい」なんていう映画も出てきそうだ。日本で公開されるかはわからないが。
2009年07月12日
『ユリイカ――メビウスと日本マンガ』、2009年7月号。 日本でメビウスという名前はどれほどの人が知っているのだろう。フランスのマンガやイラストの巨匠でありながら翻訳がほとんどないのであまり知られていないのが実態ではないか。学生のみならずフランス文学の教授であっても名前すら知らないので驚いたが、それが現在の日本の状況を表している。フランス文学それぞれの作家の厳密な研究はもちろん重要であるし、これからも存続してゆくべき分野である。一方で文学は言語芸術だが、さまざまな形でイメージが入り込んでいるのも事実である。子供向けや新聞小説でなくても、イラスト入りの小説が刊行されることもある。その場合の作品の受容体験は活字だけの版とは変わってくるはずだ。こうしたテキストとイメージのナラティヴに関する研究はフランスでは一定の蓄積がすでにあるが、日本ではまだまだだという気がする。日本では文学、イラスト、漫画がそれぞれ専門分野として孤立し、その狭いところを深めることが優れた研究だとする風土がある。フロベールならフロベール研究のその道何十年の職人芸が貴ばれる。その結果のフランス文学の凋落である。今の多くの学生にとって(純粋な)フランス文学研究は興味をひくものではない。まずこの現実から出発するほかない(別に大学教育にこだわらないのであれば、勝手に凋落すればいいわけだが)。これはマンガについても言える。日本のマンガが世界のマンガであって、外国のマンガはあたかもなきものとして扱われている(それぐらい日本のMANGAが豊饒なマーケットだということもある)。日本文学が世界文学をイッテに引き受けているようなものだ。マンガ関連の新書は次々に刊行されているが、いずれ同質性や均質性のマンネリズムに閉塞して行き詰まるのではないか? 『ユリイカ』という活字主体の雑誌が、ほとんど翻訳のないマンガ家を特集するというのは、現在の日本の出版状況からするとユニークだし英断というほかない。もっともメビウスというのは影響関係がはっきりしていて日本マンガとかみ合わせのいい作家だし、特集しやすかったということもあるだろう。安心して受容できるタイプのマンガ家である。世論の反発で例のハコモノをつくるのも軌道修正する気配をみせているが、予算を有効に活用するということがいったいどういうことなのかをもっと知恵をしぼるべきだ。官僚主導社会、元総理の意向に左右される現職総理の迷走……現況に鑑みるとたとえ「軌道修正」したとしてもあまり期待できそうにないが。
2009年07月06日
「レスポールの伝説」をDVDで見る。レスポールといえばギターの名前だった。初めて手にしたギターがレスポールで、以来愛用している。持ち運ぶには少し重たいが、艶とのびのある音色が気に入っている。 レスポールは人の名前で、その人が35枚もアルバムを発表し、多重録音の機械も発明していたということは後から知った。90代でなお現役のミュージシャンとして活躍している。このドキュメンタリーで知ったことも多い。長いキャリアだ。ここまで来るとどんなプレイも許される立ち位置である。高座で居眠りこそしないが、リハビリと称してライヴ演奏する。グラミー賞を受賞し、キース・リチャーズやポール・マッカートニーらがリスペクトするアーティストが目の前にいるのだ。ありがたく拝聴するしかないではないか。テクニックだけならこの映画にも登場するトミー・エマニュエルのほうが遙かに上だろうが、なにしろ生きる伝説である。刻々と変化してゆくケータイなどとは違って、レスポールのギターは永遠に不滅なのではないか。デザインと音色でこれを凌駕するものを創り出すのは容易なことではない。それにしても研究に没頭する発明家でありながら、ステージに立ち続けているだけあって実に人なつっこい人である。エディ・ヴァン・ヘイレンもたじたじのジョークを飛びして呵々大笑する。ミュージシャンというのは理想の老人を体現するのにもっとも適した人たちかもしれないと思った。
2009年07月05日
ダニエル・オートゥイユ主演の映画を二本、DVDで見る。「やがて復讐という名の雨」。どういうわけか映画の邦題というのは意訳どころか「超訳」も許されている。原題は「MR73」という拳銃の名前で、この映画ではでそれなりの換喩的な意味合いがある。とはいえこのままのタイトルでは誰もDVDを手にとらないと判断したのだろう。だが、復讐に限った話でもないし、「羅生門」や「七人の侍」のように雨がそれほど重要な話でもない。優秀だけれどもダメ刑事というよくある役どころをダニエル・オートゥイユが演じている。最後の自滅的な最期は、「グラン・トリノ」のような一種の聖者伝を見た後ではものたらないかもしれないが、現実にはこのような結末になるほかないのだろう。「画家と庭師とカンパーニュ」。原題は「庭師との対話」。画家がロマンティック、カンパーニュというのがお洒落だという判断だろうか。主人公の画家はパリで成功し、裕福な生活をおくっている。そこにやってきた旧友の庭師。国鉄を退職し、今は庭師で生計をたてている。子供の頃は同じ学校に通った二人もいまやまったく違う世界に住んでいる。その二人の交流が自宅での対話を通じて描かれる。台詞のやりとりがほとんどを占めている映画である。庭師の甥は失業者だが、画家が知り合いに電話するとたちまちサッカー競技場の警備員の仕事が斡旋される。何年も仕事がみつからない失業者が電話一本で救われる。コネというのは恐ろしい。 体調不良に悩む庭師はその画家のコネで立派な病院で手術を受けることになる。だがコネだけではどうにもならぬ現実に遭遇する。画家なりの接し方や弔いが後半の中心テーマとなる。 初老のおっさん同士の友情の話。若い女性も出てくるが添え物的な扱いである。ジャン=ピエール・ダルッサン演じる庭師がいい。恵まれぬ境遇ながら人生を満喫しようとする純朴な人柄に好感をもつ。とはいえほとんどの人は、ダニエル・オートゥイユ演じるセレブな画家に憧れるのだろう。それも仕方があるまい。都会と田舎のいいとこどりをしたいのが人情というものだ。
2009年07月05日
村上春樹、『1Q84』、新潮社、2009年。 新刊が出るたびに社会現象になる作家なんてそうはいない。活字離れや文学の衰退など何処ふく風で売れまくっている。売れているから気になって手に取る人も出てくる。世の中の流れに遅れまいとひもとくと、そこにはいつもの村上春樹の世界がある。カフカほどではないにせよ寓話的で、食事や掃除や性交が端正に描写され、書物や「レコード」や映画の趣味が語られながら、そこからある種の美学みたいな価値観が紡ぎ出される。『ねじ巻き鳥』もそうだったが、戦争といった歴史の記憶も深く刻まれた作品である。そこにパラレルワールドに隔てられた男女の壁がラブストーリーを盛り上げる。 ある意味で描かれているのはテレビのない世界だといえる。テレビを見ない人たちの世界というべきか。テレビは俗悪なものであって、こういった世界には馴染まない。お洒落なバーにテレビが設置されていてやかましいCMが連呼されていたら雰囲気がだいなしである。この小説にはテレビからヒットした歌謡曲や映画も出てこない(マイケル・ジャクソンがちらりと登場するけれども)。もっともテレビは描かれないだけであって、テレビ的な世界の力学みたいなものは、予測不能な世の動きから察知することはできるだろう。村上春樹の小説を読むと、テレビ的な虚構と小説という虚構との違いについて考えさせられる。 殺し屋というのも浮世離れしているが、80年代の予備校講師というのも浮世離れしている職業だった気がする。いまや過酷なリストラと競争で訴訟も起きているくらい、世知辛い業界である。主人公が数学を教えて生計をたてながら、小説を書いている様子はなんともマイペースなライフスタイルで、現代人には癒しや憧憬をもたらすかもしれない。しかも人妻とのアバンチュール、少女との出会い、さらには初恋の女性のような永遠なる面影を求めて彷徨うわけだ。村上春樹の主人公に魅惑と同時に反撥を感じるとしたら、こうしたエンターテイメントな側面によるものかもしれない。もっとも、一回読んでもすっきりしないところがいくつもあるのでお買い得ともいえるし、情報処理的な時間の概念に抗っているともいえる。 この小説のおかげでヤナーチェックのCDがたいそう売れているらしい。いまや村上春樹はそういった啓蒙的な影響力も備えた作家なのだ。暗示や謎に満ちた村上春樹の世界に迫ろうと参照されている曲を聴きたくなるのだろう。巷で共通の話題になりうる小説というのも珍しい。あそこに出てくる活動家のモデルは誰々だといった話も耳にした。年配の世代の方でなければ知らないような人物名である。実際のモデルなのかはわからないが、いずれにせよ現実に起きた事件と似た出来事も書かれているからさまざまな記憶を誘発する歴史的な装置にもなっている。代筆という形で何人かの人間が結託したら社会的に大きな運動を起こせてしまうという展開も、現代の得体の知れぬ不気味な在りようを照らし出している。それもまた言葉の力である。不条理な現実への処方箋はカフカの小説と同様に存在しないが、愛や趣味、言葉に対する信頼の念は保たれている。だがストレートに訴えるのではなく摩訶不思議な言い回しや展開でやんわりと伝わってくるようになっており、そこに多くの人が惹かれるのだろう。
2009年07月05日
ロメールの「獅子座」を見た。親戚の遺産相続人に決まったと早合点した男が相続できずに落ちぶれていく様子をねちっこく描く。服が汚れ、革靴がぱっくり割れてハンカチで縛って街をさまよう。とにかくじっとしてはいられぬようなのだ。餌を求めてパリの街中をうろつく。セーヌ川のキラキラと光る水面を朦朧と眺めているショットが印象深い。ついには盗みを働き、ホームレスの相棒と物乞いをしてまわる。この相棒が陽気なのがせめてもの救い。寅さんみたく口上がうまい。この男はモンテカルロで全財産をすってしまった元億万長者だと紹介して笑いをとる。どんでん返しで遺産相続が決まり、それを知らせようと友人たちが男を捜す。タイトルになっているように占星術を信じる男の楽観主義が土壇場で運を呼び込む。同じ監督の「緑の光線」のように運命は最後には微笑むのである。だがそのラストはとってつけたように素っ気なく、描きたかったのは転落につぐ転落で半ば狂ったようにうわごとを呟きながら放浪するシーンだったのではないか。ラブシーンもなくシンプルにひたすら転落の道行きが最初から最後まで描かれる。そういえばパリのカフェでは物乞いや大道芸人とギャルソンのトラブルを見かけることがあった。店側にとっては迷惑なのだろう。この映画にもそんな場面がある。日本もどんどん貧しくなっていき、しまいにはそんな場面も街中で珍しくなくなるかもしれない。ドトールの店員に怒鳴られて店から追い出されるホームレス。占星術ではどうにもならぬ現実がそこにはある。
2009年06月09日
「橋の上の娘」。パトリス・ルコント監督。バネッサ・パラディとダニエル・オートゥイユが主演。川に身を投げようとしている絶望した女のもとに40過ぎのナイフ投げの男が「オレの的にならないか」と誘いかける。運はつかむものではなく作るもの、なんて台詞が出てくるが、運や運命について考えさせられる内容。相手を絶対的に信頼しないかぎり、ナイフの的になるなんて役は引き受けられない。バンドエイドが不可欠の生活。男と女の真剣勝負。いささかくどいくらいにナイフ投げの官能的な意味合いが描かれる。真剣勝負は恋愛遊戯に変わるのか。運まかせの綱渡りの男女の道行きの結末はいかに。ちょっといい男が視界にはいるとすぐにくっついてしまうバネッサに男は翻弄されるのだが、それだけ彼女に魅力があるともいえるし徹底して受け身だともいえる。バネッサが別の男と消えた後は、男のツキも腕も落ちて、若手に仕事を奪われてナイフ投げからサンドイッチマンへと転がり落ちていく。ついに男は自殺を考える。そうなるとラストはもう想像がつくだろう。救いの女神が現れるのだ。「青春シンドローム」。ビデオで見た。セドリック・クラピッシュ監督。原題はLe peril jeune。若者の危機というくらいの意味。アジア人の脅威を表す黄禍(peril jaune)にひっかけている。70年代のファッションや雰囲気がよく描かれている。高校生の放埒な生活、仲間意識、クラスメイトの女の子は口説きづらいという虚栄心、恋愛と友情。デモがどうやって組織されるのか、当時のLSDカルチャー。10イエーズ・アフターやザ・フーといったロックバンド。高校時代を回想しながら、旧友の出産に立ち会うかつての仲間たち。親友だった父親となるべき彼はすでに麻薬中毒でこの世にはいない。行き過ぎた反抗と放埒は破滅へと突き進むほかなかったのだ。生き残って成人した者たちは、病院の帰りにカフェでも立ち寄るかととぼとぼと歩いていく。帰りが遅くなってカミさんに叱られないかと心配しながら。「ベルサイユの子」は銀座で。若くして亡くなったギヨーム・ドパルデューの遺作。子供連れのホームレスの女が森の中で暮らしているホームレスの男と知り合う。女を抱いた代償なのか、女は男に子供を預けて行方をくらます。フランスの子供というのはイタリア絵画に出てくる天使のように可愛らしい。男は子供とホームレス生活を続ける。ホームレスが手を出せないように薬剤を散布してある残飯のシーンなどは生々しい。アジア系のホームレスとの縄張り争いで放火されたりと、山の中でも生存競争は過酷だ。結局、役所に出生届を出して男は子供の父親となる。やがて男は両親のもとに少年を残して去っていく。二度と戻ってこない。現実に彼が死んでしまったのと妙に一致する展開である。すると成長した少年のもとに彼を捨てた母親から連絡が来る。女は老人の介護施設で働いていた。自分の子供の世話が無理なので老人の世話をする仕事についているというのも皮肉だ。若すぎて生活保護を受けられず、学歴もコネもない彼女には仕事はなかなか見つからなかったのだ。少年は屈折した心情を抱えながら母親に会いに行く。
2009年05月24日
遅れて日記をつけるというのも奇妙なものだ。記憶というのは曖昧模糊としていてつかみ所がない。まるで人生のようだというのは紋切り型の例えかもしれないがまさにそんな感じだ。京都駅からバスで三十三間堂に行ったのだった。昨日のローカル線は閑散としていたが、観光客がぞくぞくとバスに乗り込んでくるといかにも観光という気分である。ただバスの本数が少なく人が多いので、満員で乗れずにやり過ごさなければならないのが厄介である。 三十三間堂といえば夥しい千住観音像だ。誰しもその量と無言の迫力に圧倒される。中央には大きな千手観音座像が控えていてバランスがいい。鬱蒼と生い茂る森林のように屹立する観音像の群れの前には二十八部衆像と呼ばれる彫像がならんでいる。それぞれ個性的なキャラクターで、そのまま映画や劇画に出てきてもおかしくない。軍神のような雄々しい彫像だけでなく普通の女性の像もあったりする。目下京都はマンガで町おこしをしているが、稲荷大社といいキャラクターを生かす伝統があるようである。 道路の向かい側にある京都国立博物館では、妙心寺展をやっている。臨済宗の総本山らしい。禅というと質実剛健なイメージがあるが、芸術の世界は必ずしもそうではないようで金屏風などは華やかである。高僧がまとっていた衣装もしかり。秀吉の子供が遊んだ船のオモチャやビーズで編んだ装飾、梵鐘などけっこうボリュームがあった。 京都国際マンガミュージアムでメビウスと村田蓮爾氏のトークショー。ご両人とも通訳の合間になにやら描いている。その様子をハンディカムで大画面に映し出す。描いている様子から作品の画像に切り替えたり、退屈させないように趣向を凝らしている。会場は盛況で大勢の人で賑わっている。だが外国語の壁もあって作品を買う人までは少ない。 ミュージアムは小学校を改造して作ったようだ。校舎の面影を残している。廊下にはびっしりマンガが並んでいる。小学生が座ってマンガを読んでいる。閉館の時間がせまっても粘って読んでいたが、これがマンガの原風景なのだろう。
2009年05月06日
出不精ということもあって京都に来るのは久しぶりだ。新幹線に乗るのも久しぶりということになる。車窓の景色は工場と企業の看板が目立つ。到着後、抹茶色の電車に乗って萬福寺に向かう。電車はゆったりと運行している。ずいぶんと田舎に来たかのような時間の流れだ。古都の観光はこうした時間の流れも売り物なのか。萬福寺は一風変わった中国風のお寺である。黄檗宗の隠元が開祖だそうだが、日本史の教科書で知っていた程度だ。入試のためだけに暗記して覚えていたが、実物がどんな建物なのかまったく知らなかった。なるほど異国情緒に溢れていて仏像もエキゾチックな風貌だったり、メタボな体型だったりする。横浜中華街に立ってそうな別館でやっていた加納鉄哉展を見る。伏見稲荷大社に行く。雨が降り出したのでコンビニで傘を買う。鳥居が延々と続く道を登っていく。呆れるほどどこまでも鳥居が林立している。紅色の強烈な色彩と山景色が幻想的な非日常性をかもしだす。道が三つに分かれているところに来る。どれもが鳥居でびっしり覆われている。ひたすら登っていくと、もはやこれは登山だと思うほど消耗する。鳥居が並んでいるだけでなく腰痛専門の神様やカエルの像など立ち寄れるスポットがある。必ず賽銭箱があってお金を徴収する現金な仕掛けになっている。お店なのか民家なのか、絵に描いたように年をとったお婆さんやお爺さんが山の上で暮らしているのに驚く。猫も人なつっこくつくづく牧歌的である。鳥居だらけの道を適当に曲がって降りていくと、知らないところに行き着いてしまった。だがケータイのGPS機能で現在地がすぐわかるので迷うことはない。便利な時代になったものだ。京都駅地下街で食事。消費者としては地下街が中心の町のようだ。連休ということもあるが、人が多く店が少なく感じられる。行列する店が多い。京都タワーにのぼる。通天閣より少し高いタワーのようだ。見知らぬ土地に来るとこうやって俯瞰して落ち着くのだ。銭湯に行く。雑居ビルにある怪しげな店である。中もボロく場末感がたちこめている。脱衣所では裸の男たちが黙って煙草を吸っており、そなえつけのテレビではロンドンハーツの番組が流れている。観光客が来るようなところではなく、風呂付きの家に住めない人たちが通ってくる銭湯だ。浴場は上の階にあり、まともな銭湯だった。電気風呂はビリビリして入れたものではなく、熱い風呂ばかりなので長湯はできなかった。
2009年05月05日
「ウォッチメン」を新宿で見る。ウォッチメンというスーパーヒーローたちの自警団がいたが、ヒーローの活動を禁止する法律によって彼らは引退する。彼らの親がスーパーヒーローだった者もいる。スーパーヒーローも世襲なのだ。とはいえ激務ではあるが。ケネディ暗殺、ベトナム戦争、キューバ危機にスーパーヒーローが関与していたというのは、愛国主義的なスーパーヒーローを皮肉ると同時に、世界正義を自任していたアメリカの混迷の歴史を物語る。 冒頭でガタイのいいオヤジがマスク姿の男に襲われる。このオヤジ、なかなか強い。いやかなりの強さだ。いったい何者かと思えばウォッチメンの一人「コメディアン」。だが抵抗空しく侵入者に殺される。「自警団」のそれぞれのヒーローがアメコミのキャラクターだというから、一種のドリームチームなわけだが、そのスーパーヒーローが敗れ去る。ボコボコにされてビルから突き落とされる。もっともこのオヤジ、殺されて当然の極悪非道なヒーローだった。ベトナムではずいぶん「やんちゃ」なことをしているから、彼が殺されることでアメリカ人の罪悪感にカタルシスを与えるのだ。と同時に犯人は誰だ、背後の勢力は何者だというミステリーへと観客を引き込む。 全体的に沈痛で瞑想的なストーリーで、予備知識がないと人間関係を把握するのも大変かもしれない。とはいえキャラは立っているので、見ているうちに慣れてくるだろう。特にトラウマからスーパーヒーローになったロールシャッハが禍々しい魅力を発散している。「ダークナイト」のジョーカーもそうだが、悪や暴力の魅力がある。ロールシャッハには怒りや憎悪の魅力もある。他のウォッチメンにはない人間性があったために後で命とりになるのだが。 核戦争の脅威をどう克服するのかという壮大なテーマへ拡がっていくのだが、ソ連なき今、リアリティがないかもしれない。とはいえ大国は核兵器を依然として保有し、新興国も核保有せんと血道を上げている。チェルノブイリの事故の頃は、核の恐怖を説いた本が売れたりしたのだが、21世紀の今、現代人は麻痺してしまって感じなくなっている。黒澤の「生き物の記録」は、ただの狂人を描いた映画に見えるかもしれない。米ソ冷戦時代に比べるとSFが描くのも厄介なほどに世界は複雑になってしまったとも言える。 実際の歴史とフィクションとして描かれた擬史を交錯させることで、実際の歴史の多面性に光を当てている。それは善という正義と悪という暴力が織りなす現実の多面性であり、生き延びて勢力を拡大するためには手段を選ばない個人や集団の盲目的な運動の多面性でもある。矛盾に満ちた現実を一気に解決するシナリオが壮大で破滅的な供犠として提示されているが、なんとも陰鬱な話である。もはやスーパーヒーローが束になって頑張ってどうなるレベルの話ではなくなっている。
2009年05月04日
「レッドクリフ Part2」を池袋で見る。前編はDVDで見た。赤壁の闘いまで行かなくても十分楽しめた。なるべく言葉で説明せずに――冒頭さんざん言葉で説明するからなおさらだ――ちょっとした微笑などで万感の思いを表そうと務めている。音楽で友愛を確かめ深める場面などは秀逸だ。為政者は風流や芸事を解していなくてはならない。そんな時代の戦争を描いているからどこか安心してみられる。お茶にこだわってハニートラップにはまった曹操も少しは同情できるというものだ。小説やマンガも三国志はおもしろい。今回の映画では、意外に孔明役の金城武に違和感がなかった。なんとなく賢者の風貌を想像させるキャラクターだが、理系文系を問わず当時の最新の知識を戦に生かした人物となれば、案外こういう新進気鋭の軍師もアリなのかもしれない。 あくまでも冒険活劇として楽しめる映画であって、つっこみどころは満載である。劉備や孫権が最前線で闘っている光景なんて実際にはありえない。あれだけの大軍を率いる曹操にしても愚鈍すぎる。主君が愚鈍ならば支えるべき部下も愚鈍ときている。あれだけ豊かな大国であれば孔明に比肩する聡明な軍師がいてもおかしくないはずだ。水軍を統括する地元出身の武将らもあっさり処刑されてしまう。曹操軍は、私欲まみれの卑怯でやたらと数が多いだけの悪役として描かれている。 対する弱小連合軍は一騎当千の超人ぞろい。ほとんど不死身なのだが、万が一死ぬ場合はそれなりの見せ場を演じてくれる。燃えさかる炎のなかの闘いは、やはり映画館で見るべきだ。爆裂のなか両軍が死力を尽くして闘う。敵味方の区別も困難な混沌とした戦闘を延々と描く。これから先も三国志は描かれていくだろうが、これだけのものが出てしまうと少なくとも赤壁の闘いに関しては、かなり高いハードルを超えなければならないだろう。
2009年05月02日
「スラムドッグ・ミリオネア」を新宿で観る。インドのスラム街を生き延びる兄弟と少女。弟は「クイズ・ミリオネア」に挑み、次々に正解していく。トラウマのようなおぞましい過去の記憶がヒントになって味方する。よくできた構成で、サスペンスを最後まで保っている。「どうせ最後には正解してリッチになるんでしょ」と思わせて中だるみさせないように趣向を凝らしている。 金のために酷薄になっていく人が多い中で、主人公を支えるのは幼なじみの女性への愛である。クイズ番組に出たのもそれが理由だ。観客は一途な彼を応援せずにはいられない。子供の成長物語には精神的支柱になるような大人がいるものだが、この映画に出てくる人たちは、誰もが餓鬼道に堕ちてしまったのか、司会者から警官からたちが悪い。そんな過酷な環境ならばこそ純愛や兄弟愛が引き立つように描かれている。 「ラブ・アンド・ピース」なんて言葉にしてしまったら安っぽいし、誰の心にも響かないが、スラム街を必死に駆け抜ける子供たちの映像を目の当たりにしたら自然と伝わってくるものがある。出題者がアトランダムに作成したクイズのひとつひとつが、少年の過去の細部を蘇らせる。彼が一日たりとも、いや一秒たりとも気を抜けない張りつめた日々を送ってきたことがわかる。 有無を言わさぬ弱肉強食には、有無を言わさぬヒューマニズムを。日本は物乞いの子供はまだ見かけないが、ヨーロッパあたりなら珍しくない。インドならなおさらだろう。この映画で描かれている世界は、決してフィクションではない。映画的に誇張しすぎなんて思ってほしくないものだ。ガンジス川だったか、そこに飛び込んでバタフライで泳いだという大学時代のエピソードをひっさげて入社試験に合格した女性がいた。若い女性がインドを一人旅。それだけで冒険なのだろう。その体験は本になり、クドカンが脚本を書いて長澤まさみ主演のドラマにもなった。インドがおもしろおかしく描かれていたが、あれこそフィクションというべきであろう。あのドラマで必死に物を売りつけようとしていた大勢のインド人のなかで浮かび上がれるのは一握りだ。宝くじのようなクイズ番組しか希望がないというのも、厳しい話である。だが最近の子供の虐待ニュースをみると、インドよりは見えづらいが日本も同様の状況になってきているようだ。
2009年04月30日
授業終了後、廊下に身おぼえのある学生が二人立っている。去年教えたクラスの学生だ。インタビューを撮りたいという。コンパで使うとのこと。なるほど、最近のコンパの余興はそういうことになっているのかとちょっと驚く。結婚パーティで「新郎新婦に一言」とデジカメを向けられたことはあったが、画像や動画が日常生活の一部になっていることを再認識する。デジカメで画像を撮り、動画機能でそのままインタビューとなった。スポーツ選手がインタビューで毎回おなじようなことを言わされているが、あれもある程度しかたがない。あらかじめ考えていなければそんなに気の利いたことを言えるはずもない。それでも観客や視聴者と共感するためのセレモニーになっているので繰り返される。「メッセージ」を求められたので「酔っぱらって全裸で騒がないように」と言っておいたが、居酒屋で映像が流れる頃にはこの「事件」はもう忘れ去られようとしているだろう。ホントは全裸で騒ぐぐらいどうということはない。むしろ一気飲みのほうが危険だ。「全裸ぐらいどうということはないよ」というニュアンスは、きっと映像や声音で伝わるだろう。そこが活字とは違うところだ。ニュアンスをそのまま伝えられる。立場上諭さなければならないからそう言っただけで、キャンパスライフを満喫してくださいというのが裏メッセージである。映像はニュアンスをそのまま伝えられるというのは、裏をかえせば何もかも暴露してしまうということだ。ちょっとした仕草や表情で発言の本意や下心まで明らかにしてしまうことがある。全裸にならずとも人は映像によって丸裸にされる。そこで社会的役割に適ったイメージを演じようとする。地デジやら醤油やら自動車やら草薙くんは、さまざまなイメージでがんじがらめになっていた。物を売りつけたいという大企業の思惑や理想の異性をみてとるファンの妄想に24時間縛られていた。映像でおのれの無意識をさらしてはならない。酔っぱらって夜の公園という暗闇に迷い込むことでようやく自由を味わうことができたのだろう。だが大声をあげてしまったために通報された。脱衣だけでなく叫びという動物的な欲望も解き放ってしまった。富士の樹海やどこかの森林ならば、裸になって叫んでも通報されなかった。昼間でも夜のごとく深く暗い森であれば、雄叫びをあげながら全裸で疾走しても誰にも文句は言われない。いや、もしからしたら「樹海を全裸で疾走する国民的アイドル」というタイトルでYou Tubeにアップされてしまうのかもしれない。いつのまにか処刑機械によって社会的に抹殺された北野誠の謝罪会見の映像を見た後、狼男のごとく吠えながら闇夜を走り抜ける地デジ大使の裸を目にすることになるのだろう。
2009年04月29日
「グラン・トリノ」を池袋で見る。クリント・イーストウッド演じるコワルスキーという男。昔フォードの工場で働き、今は悠々自適である。ビールを飲みながら通りを眺めて暮らしている。愛犬と余生を過ごす頑固で偏屈な爺さんなのだが、ひょんなことからタイ人の少年との交流が始まる。隣に引っ越してきたタイ人一家の息子で、大事な「グラン・トリノ」を盗もうとした少年である。 コワルスキーは金も学歴もコネもない少年に一から社会に出て行くイロハを教える。工場で働いていたせいもあって手先も器用だ。機械化されて市場では役に立たなくても家ではまだ役に立つスキルを持っている。ガレージにはありとあらゆる工具がそろっている。偏屈なりに人付き合いはあるようで、「男同士の会話」を教えるために少年を床屋に連れて行き、仕事を紹介するために建築現場にも行く。「男らしさ」が喜劇になった現在をユーモラスに描いている。戦場での男らしさを礼讃することもなく、朝鮮戦争のトラウマに苦しむ男がどうやって克服するかがテーマになっている。 朝鮮とタイの違いはあるが、タイ人の少年に自分の想いを伝えることがその克服の鍵だ。グラン・トリノという車はコワルスキーのプライドの証であり、朝鮮戦争の勲章はトラウマの醜い塊として描かれている。アメリカ人にとって、あるいはある年代の人たちにとって車がいかに象徴的な物であるかは、若者が車を買わなくなった現代の人々にはわかりづらいかもしれない。 「やられたらやりかえす」いうマッチョなテーマも女性にはピンとこないかもしれない。この映画は、「老人と海」のような自然との格闘という寓話的な話ではなく、現実にはびこる暴力とどう決着をつけるかという話でもある。国家間の戦争は勲章でケリをつけられてしまったが、現実は相変わらず暴力的なのだ。タイ人のチンピラたちは、少年を自分たちの仲間に引っ張り込もうとしつこく付きまとう。銃をもっているだけにたちが悪い。この映画はけっして後味のよい映画ではないかもしれない。相手は「チェンジリング」のような巨悪ではなく、身の回りにはびこる悪、からみついてきて引きずりおろそうと粘つく悪との闘いだからだ。「チェンジリング」同様、ここでも聖職者との対話が贖罪という宗教的な主題を浮き立たせ、無力なる宗教的な力が暴力という現実の力にどれだけ対抗できるのか、無能のままに終わるのかが試される。 したがって悪との闘いといっても「ダーティ・ハリー」のように爺さんがならず者たちを一網打尽にするようなカタルシスはない。お約束のスッキリした展開がないだけに後味は苦い。物語的にはこれ以上ない一打でケリをつけているのだが、悪人の若者にしても社会の犠牲者のようなチンケな存在なので虚しさも残るのだ。 コワルスキーというと「バニシング・ポイント」の主人公と同じ名前だ。あの映画も車がテーマだった。ベトナム戦争から帰還した男の自滅的な話だった。グラン・トリノとチャレンジャー、朝鮮戦争とベトナム戦争という違いはあるものの、どちらも悲劇的な話である。「グラン・トリノ」にはカーアクションはない。車は日常を超えるための機械ではなく、富をひけらかし女性にモテるためのアイテムでもなく、一人の男が苦労して積み重ねてきた日常のメタファーとして描かれている。ユーモアを忘れない遺言書によって、恩着せがましくなっていないのがいい。我が子可愛さという我欲に溺れずに、遠くの身内より近くの他人に尽くす生き様がいい。警察や教会……が無力をさらしているとき、矍鑠とした老人の臨機応変ぶりに圧倒される。まだまだこういう爺さんが頑張らないとままならぬ世の中なのだ。
2009年04月28日
「横浜人形の家」に行く。横浜はあまり行く機会はないのだが、ここは人形のみならず横浜の歴史や特色を知る機会にもなる。安政五年に横浜が開港し、昭和二年から日米の人形交流が始まる。互いに人形をプレゼントするという国際交流。今でも日本人形を外国の要人に贈る習慣はある。アメリカの人形は、少女漫画のような目がぱっちりした人形だ。日本の最初の少女雑誌は明治35年に創刊された『少女界』だといわれている。日本の少女文化に近代化が影響していることは言うまでもない。フランスやアメリカのイメージが満ち溢れている。人形の家にも「モンマルトルのハート」なんて人形もあった。明治以来の少女雑誌や少女漫画と西洋人形の関係はどうなっているのだろう。映画「ヤッターマン」にあわせてかドロンジョ様の人形もあったが、「レッドクリフ」の時節柄「三国志」の人形も見たいところだ。西洋のイメージだけでなく、ここには世界の人形が展示されている。目白の切手博物館もそうだったが、アフリカとかアラブあたりの人形がおもしろい。呪術に使いそうな怖そうな人形やユーモラスな顔の人形、斬新な色彩感覚を感じさせる衣装が印象に残った。ただ気になったのは、展示されている人形が玩具なのか贈答、鑑賞用なのか、儀礼に使うのか、どういう用途で使われていたのかがよくわからないということだ。文楽のコーナーもあったが、なぜ人形で表現する必要があったのかということも解説が欲しい。中華街に立ち寄る。迷路のような路地にはひたすら中華料理屋が続いている。たまに占いの店があったりする。吉本興業の店も目立っていた。東京タワーでも目立っていたが、その土地に根ざした文化ではないので違和感がある。客引きのバイタリティもチャイナタウンならではだ。「金メダリストのお店」という看板も見える。金メダルとってもスポーツじゃ喰えんのかと嘆息する。パンダ料理なんてあるわけないが、パンダのイラストもよく見かけた。それにしてもこれだけ似たような店が並んでいると差別化も大変だ。池袋もチャイナタウン化しておいしい中華の店もあるし、横浜中華街もうかうかしていられないだろう。
2009年04月09日
セドリック・クラピッシュ監督のPARISを銀座で見る。パリを舞台にした人間喜劇で、さまざまな人の多面的な視点からパリが描かれていく。心臓移植しないと助からないダンサーの青年は、部屋から外の景色を眺めて暮らしている。いわば末期の眼で世界を眺める日々を送っている。彼の姉がシングルマザーで仕事と子育てに追われつつ、弟のために彼女をつくってやろうと奔走する。姉が勤める福祉関連の職場ではリストラが進んでいるようでなかなかシビアな様子だ。彼女と市場で野菜を売っている男がちょっといい感じの関係で、この二人がどうなるのかを観客はヤキモキすることになる。他にもあっけなく交通事故死するヤンキーなマダム、彼女をとりまく男達も描かれる。歴史学の教授がおもしろい。テレビ出演してパリを解説する仕事を引き受ける。観光客向けのパリを象徴する人物である。父の死によって心身のバランスを崩し、精神分析を受けに行く。素直ではない理屈っぽい性格の患者にカウンセラーも閉口する。教え子に恋してストーカーと化して後をつけ回すが、逆に弄ばれてしまう。こうした人たちの恋愛遊戯の舞台にすらあがれない人たちも出てくる。ホームレスの男やアフリカからパリを目指す移民の人たちだ。出てくるのはほとんどが中高年の男女である。それで一つの都市が描かれる。あと数ヶ月の命の難病にかかった若者を取り巻く人たちのコメディでは「木更津キャッツアイ」というドラマがあったが、好対照をなしている。「木更津」のほうは若者たちの仲間がいて暖かく見守る大人たちがいるという設定で、似たもの同士で思う存分バカ騒ぎする。和気藹々とした仲間たちのやりとりのなかで観客をリラックスさせる趣向だ。「PARIS」でもホームパーティをやってバカ騒ぎするし、セレブのモデルたちが早朝の市場を訪ねてワイルドな男たちを「逆ナン」したりもする。どちらかというと男女の出会いの場という意味合いがあって、あっちでもこっちでもカップルが生まれたり生まれなかったりする。欠落を抱えた大人達が満たしてくれる幻影を求めて彷徨っている。人間模様があれやこれやと明滅し、流れていくうちに作品は終わる。強い感動を引き起す大仰な仕掛けがあるわけでもなく、淡いスケッチで素速く描いて組み合わせていく感じの作品である。
2009年04月06日
「チェンジリング」を新宿で観る。子供が失踪し、別の子供を引き取る羽目になる母親。これだけのプロットではおもしろいのかどうかわからないのだが、実際みるとまったく退屈させない。ただのサスペンスに終わらぬ余韻がある。さすがはクリント・イーストウッド監督、ありがちなお涙頂戴のドラマになっていない。 子供を誘拐した変質者の悪だけでなく、警察という組織の悪は、病院や市長などの行政とも通じている。人を人とも思わぬ歯車装置にヒロインは巻き込まれていく。他方、マスコミやそれと一体化した世間にも翻弄される。興味本位のセンセーショナリズムから義憤にかられたデモまでマスコミと世間は変化する。 警察は腐敗してはいても一枚岩の悪ではない。真相を闇に葬るまいとする捜査官も登場する。教会の聖職者を中心とした支援者も現れる。警察と彼女の支援者がマスコミと世論を自分たちのほうにたぐりよせようと駆け引きを繰り広げる。連続殺人犯にしてもただの「怪物」ではなく複雑な内面を抱えた人物として描かれている。 自分の子供を取り戻したいという母親の素朴な願いが、理不尽に蹂躙される社会。違う子供を無理やり育てさせようとする社会的圧力との葛藤。結局、母親の情念は裁判によっても癒されることはない。社会正義が勝利するという結末は、カタルシスのあるハッピーエンドにはならず、孤独で厳しい現実へと再び彼女を送り出して映画は終わる。社会制度ではすくい取れぬ部分に彼女はこだわり続ける。それが彼女の希望の源泉になっている。ダーティハリーのように彼女には彼女の流儀があるのだろう。世知に流されず己に忠実であろうとする態度は、ともすると意固地や未熟に映るものだが、そこは映像の魔術で見事に昇華している。不条理な現実と対峙し続けるハードボイルドな母性愛が美しく描かれた作品。
2009年03月16日
「土門拳の昭和」を日本橋三越でみる。雨の日はデパートが散歩にちょうどいい。クローズアップの仏像や職人の手は、ストレートな深みのある写真である。遊んでいる子供の顔は誰もがいい顔をしている。トカゲを頭にのせた友達をみて笑う子供。それに対してヒロシマの子供は暗い。見ないで通り過ぎる人もみられた。だがここを通り過ぎては、砂川闘争の写真のインパクトが減じてしまうだろう。古く懐かしい昭和にだけ浸ることになる。予科練や看護婦の訓練ぶりは、規律正しい雰囲気が伝わってくる。個性や批判精神を奪うが軍隊教育がいちばん簡単で効果的なのだ。街をあげての出征式などは、モンスターペアレンツどころではない緊迫した世相が写真から感じられる。上野の焼き芋泥棒はコントの一場面のようだ。戦後まもない銀座の夜の写真は、空襲の傷跡を感じさせず幻想的である。それに対して初詣で訪れたばかりの浅草は、昔も今とそれほど変わっていない。花見で有名な埼玉の幸手の写真も既視感があった。 写真嫌いの梅原龍三郎の写真は、エピソードがエピソードだけにおもしろい。この後に籐椅子を床に叩きつけたと聞いても納得の気難しい顔をしている。三島由紀夫は全身写真だとボディビルで鍛えたオーラが感じられない。むしろコミカルな印象だ。岡本太郎のふてぶてしい面構えの写真もあった。岡本太郎も縄文土器の写真など撮っていたが、どこか土門の写真と通じるものがある。ただ岡本の場合は古寺巡礼的な美の世界は拒絶するのだが。土門の絵も展示されていた。若年と晩年で画風が変わっている。ズバッと切り込む骨太な写真の印象があるが、メモ魔ぶりを示す手帳には細かい書き込みがある。イラストに色までついていたりする。仏像や桜景色、進駐軍専用の劇場、手術跡の生々しい被爆者までさまざまな日本を写し出す展示だった。
2009年03月06日
「七つの贈り物」を新宿で観る。あまり内容をよく知らないで見たので見終わって仰天した。そこまでやる話だったとは。イタズラ好きの「アメリ」をヒューマンにしたドラマかと思いきや、物議を醸すテーマといい、現代の聖者伝の趣があった。聖者とは狂人と紙一重の存在である。「悼む人」どころではない奇人変人だと思ったほうがいい。この映画のウィル・スミスは、もらう側の心理的負債を考えたことがあるのかと突っ込みたくなるくらいエゴの強い「聖者」である。競争社会の病理が生み出した現代のおとぎ話の感がある。 意味のある死に方とはいえ、タナトス的な破壊衝動が強すぎて「感動」する類の話ではない。末期の作法としては生々しい。クラゲ、氷、内臓……。結論から組み立てたかのような寓話的なストーリーを通じて、見る人があれこれ考えれてくださいというタイプの映画だ。シャルル・アズナブールのレコードをかける場面、ラストの二人の対面したときに名乗らずとも相手だとわかる場面などしみじみとしたシーンもあるにはあるのだが。 人は人を幸福にすることができる。他の方法はなかったのかと思わざるをえないのだが、映画とはそういった極端な言動を描いてみせることで、観客の心に波紋や余韻を残すさりげない贈り物なのだろう。
2009年03月04日
「ディファイアンス」を新宿で観る。007のダニエル・クレイグがポーランドの森の中でドイツ軍と闘う。とはいえ両親をナチスに殺されたユダヤ人のリーダーの役で、何百人も老若男女を率いなければならない。「ブラインドネス」と同じサバイバルもので、ホロコーストものとくれば、重苦しいのは想定内。いちおう史実に基づいているということで、結末はわかっている。ストーリーの展開が見せ所となるが、これもキャラクターの設定からどんな風になるかわかってしまう。少し甘さのある「ヒューマン」な主人公と残酷なまでにリアリストな弟という対比で想像がつく。出エジプト記になぞらえているが、超人的なリーダーとしては描かれていない。主人公は演説の才能もあり、銃の扱いなどは戦争前は何の仕事をしていたのかと思うほどあっぱれだが――英国の諜報員だったのか――後半はヘロヘロになる。生き残ることが復讐だというスローガンは勇ましいが、けっきょく汚れ仕事を誰かが引き受けなければ帳尻があわない。武器と食糧、とくに食糧の確保がうまくいかなくなれば、共同体は不満分子で爆発寸前になる。これで思い出したのは、NHKのロシアの国家資本主義の特集だ。ちょうどこの映画でもソビエト軍と共闘するくだりがあった。プーチンが映画の主人公だったら、身も蓋もないほど冷徹なリーダーとして描くほかなく、生存者が多かったとしても感動はなかっただろう。史実とやらも本当はそのあたりが真実だったのではないかと思ったりもする。資本主義のサバイバルは、展開も結末も見えない。階級の分断による孤立、そこから加速する競争の激化、資本を取り合う財閥と国家のパワーゲーム、翻弄される人々……。現実が不透明であればあるほど、この手の映画のわかりやすさが気晴らしになるのだろう。
2009年03月02日
笑顔測定器が発売されたというニュース。何パーセントの笑顔なのかを数値化するという。口角や目尻や皺の変化を読み取れば可能な技術なのだろう。現にカメラではスマイルシャッター機能というのがついており、必ず笑顔の写真が撮れるようになっている。現在の価格帯では笑顔測定器は、笑顔チェッカーとして企業の研修用に販売されるようだ。面接対策や「婚活」のニーズもあるかもしれない。お辞儀の三段階の角度の練習というのは、昔うけたことがある。気持ちがこもっていればいいじゃないかと思うのだが、管理する側はそれでは満足しない。体できっちりマスターしてもらいたいと思うのだろう。笑顔チェッカーもカラオケの歌唱力チェッカーのようにどんな数字が出たとおもしろがって測定するという手もあるが、嫌な感じがするのはぬぐえない。感情労働の負担が増すからだ。あいつのこちらに対する笑顔の数値はどうだなどという派閥抗争の忠誠度のチェッカーとして使う輩もいるかもしれぬ。もともとビジネスマナーの講師は笑顔チェックというのはしているが、それが機械になった。お辞儀チェッカーに笑顔チェッカー、続々と出てきたら鬱陶しいことになる。朝起きるといくつもの数値化のハードルを越えて業務をこなし、帰宅してようやく息を抜ける。帰宅してアルコールチェッカーや浮気チェッカー、イビキチェッカーをかけられる人もいるかもしれない。
2009年02月20日
篠田節子、『仮想儀礼』、新潮社、2008年。都庁に勤めていた男が作家になる夢に飛びついて退職する。一念発起して数千枚の大長編を書き上げる。だがそれは詐欺だった。本は出版されず原稿の山だけが残る。失業者となり、妻は去っていった。ある日、詐欺師と再会し、ひょんなことから一緒に新興宗教を始める。悩める現代、これが徐々に軌道にのってうまくいく。教義は例の長編小説で内容はゲーム用のファンタジーである。それが宗教のニーズとずばりはまった。中小企業の社長や上客にめぐまれて事業を拡大してゆく。一方で「生きづらい系」の若者たちのたまり場にもなる。自分探しどころではない、精神病の患者までやってくる。教祖というのは大変な仕事だというのがわかる。家族でもないのに悩める人を全身で受け止めなければならない。近所や世間の偏見、脱会させようと実力行使にでる家族。オウムのような過激な主張をするわけでもなく、心身の安定というサービスの提供に徹しようとするのだが、いつしかスキャンダルに巻き込まれていく。他のヤクザ系巨大宗教との対決、小賢しい仏具納入業者との癒着…。教義が一人歩きし、信者が教祖の自由を奪っていく。金もうけのための思想が狂信的な教義にいつしか変貌している。信者の中には教祖的な立場の信者も出てくる。芥川賞とおぼしき賞をとったこともある元作家の信者の悪魔的な弱さと狡猾さが印象に残る。他方で詐欺師にしか見えなかった盟友が、実はイノセンスというカリスマがあったことも次第にわかってくる。弱い人間が追いつめられて狂っていく過程が、社会システムと照らし合わしながらダイナミックに描かれている。システムを管理し、維持しようとする役人が夢想した虚構世界。そこでの管理や維持に教祖が追われる設定が皮肉だ。世間という共同幻想を信じられなくなった人たち、「生きづらい系」の人たちはどうすればいいのかという問いかけが感じられる小説である。最近では社会学が「生きづらい系」の人たちのニーズに応えているが、この小説は思い切った設定で、社会と個人の二つのリアリティの齟齬や桎梏について考えさせてくれる。上下巻でかなりのヴォリュームだが、無味乾燥な理論構築の言葉ではすくいとれない小説の醍醐味を味わえた。
2009年02月18日
シルク・ドゥ・ソレイユの「コルテオ」を原宿で見る。サーカスを生で観るのは初めてだ。この年で初めてというものはまだまだけっこう残っているが、そのうちの一つがサーカスだった。いまどきサーカスを観る機会は少ない。シルク・ドゥ・ソレイユはサーカスを総合芸術として現代に蘇らせた。DVDでは何度か見ているが、生で観るのはやはり違う。空間の認知からしてそうだ。劇場の臨場感というとありふれた言い方になるが、まだ始まる前からワクワクさせるような雰囲気がある。芸人の人たちが客席をまわって、開演前の雰囲気をさらに盛り上げる。とくに男たちの厳しい練習を感じさせる厚い胸板が印象的だ。客の缶ビールを取り上げようとおどけたりしている。「コルテオ」というのはイタリア語で行列を指すという。哀愁を帯びた音色からジプシーとかスペインのイメージがあったが、イタリア語だと言われてみると、フェリーニの映画を思い出したりもする。だが映画とは明らかに違う。風船につかまったヴァレンティーナが客の頭上を漂い、押してくださいと可愛らしく煽ってくる。客がプッシュするとまた浮かび上がり、場内をゆっくりと移動していく。3D映画が最近話題になっているが、こういう立体感はおそらく無理だろう。30分の休憩をはさんでの長丁場だが、20以上の出し物が次々と繰り出されるので長くは感じない。子供でも楽しめるわかりやすさも兼ね備えている。パジャマ姿の男女がトランポリンのようなベッドで飛び跳ねる芸などは、子供ならずとも楽しいシチュエーションだ。客席の子供がずっと質問なのか独り言なのか興奮して喋っている。とにかく退屈させないように考え抜かれている。つねに動いている。じっと演奏しているシーンでも舞台が回転している。時折ニホンゴを台詞に混ぜて笑いをとることも忘れていない。そういえばユニクロの宣伝も忘れていなかった。シルク・ドゥ・ソレイユというとダイハツだが、自動車産業の苦境にあってスポーツや芸術の世界でも不景気な話題には事欠かない。そこにユニクロがシルク・ドゥ・ソレイユをバックアップすることになった。あらかじめカラフルな服装で来るようにという客へのリクエストがあり、到着すると好きなストールをプレゼントされ、着用するように求められる。客席も色鮮やかに明るくしたいようである。ユニクロは日本人のライフスタイルすら変えてしまったが、ここでも何か仕掛けようとしている。CGアクションが当たり前になっても、いやそうなればなるほど、肉体勝負のサーカスは存在意義を高める。だが昔ながらの動物をつかったサーカスではダメだ。多国籍企業のシルク・ドゥ・ソレイユはそういったグローバルなニーズに応えて人気を保っている。フラットなスクリーンに向き合う世界にあって、立体と肉体を前面に出して非日常のイリュージョンを堪能させてくれる。とはいえもはやサーカスは庶民の娯楽とは言い難い。オペラのような入場料になっている。コミュニティの祝祭が形骸化した今、非日常というのはますます贅沢品になりつつあるようだ。
2009年02月17日
えげつないテレビのCMが増えたと思ったらネットの世界も同様のようだ。とうとうこのブログ、コーヒーの広告だけでなく包茎の広告も貼られてしまった。私は包茎ではないのだが、宣伝効果があるとみなされたのか、何かの語句に広告ロボットが反応したか。コーヒーと包茎の取り合わせなんてシュルレアリスムの詩のようだ。世も末である。そのうちに墓石にも包茎やバイアグラの広告が貼られることだろう。読売新聞に出ていたニュース。大阪府吹田市が正規職員(事務職)5人を募集したところ、約540倍にあたる約2700人の応募があったという。 テレビでは伝わらない現実がこうした何気ないニュースから透けて見える。本来なら一面トップのニュースではないのか。マスコミも現実隠蔽装置の機能を担っているのだろう。現実には続々と失業者が増えている。「経済の麻生」を自負する総理は「まだたいしたことはない」と言っていたが、事態の深刻さはまともな神経の持ち主ならわかるはずだ。資本主義と合理主義が行き着いた世界。一方で円天などの非合理主義的な詐欺に騙される人も後を絶たない。欲に我を忘れて現実が見えなくなっている。今日もカフェで、ケータイでわめいている人がいた。株の取引だ。この人も欲で周りが見えなくなっている。 これからは年金だけでなく他の税の徴収もままならず問題化するだろう。貧しくなれば何よりも生存を優先する。食料の調達が第一である。着る物などユニクロで十分だという価値観も浸透したので、デパートは慢性的な赤字に悩まされている。学費滞納の学生が問題になっているように、まずはそういったところから貧困が顕在化する。なりふりかまわない。これが今後のキーワードになるだろう。
2009年02月12日
「007 慰めの報酬」を新宿で観る。のっけから濁流をくだるかのようなカーチェイスに引き込まれる。細かすぎるほどのカットワークが「これぞカーチェイス」というムードを高め、テレビドラマやゲームのカーチェイスとは違うぞという監督の意気込みを感じさせる。なにがなんだかよくわからない迫力で、映画館で観なければならない類の映画になっている。復讐に我を忘れるボンドの激情を表すかのように疾走し転げ落ちていく。 シエナでは、そこまで追っかけるのか、そこまで逃げるのか、そこでそんなことをするのかという追走劇を見せてくれる。たまたま訪れたことのある街だったので身を乗り出して観た。どれくらいの怪我人が出た撮影か知らないが、石が砕け、おそらくは骨も肉も砕け、実に痛そうなアクションだ。久しぶりに観た007シリーズは、意外にして過酷な進化を遂げていた。キッチュなガジェットであっと言わせることもなく、今そこにあるものを瞬時に利用して危機を乗り越えていく。プロペラ飛行機、モーターボート、バイク……火あり水ありフルコースメニューを堪能できる。 前作「カジノ・ロワイヤル」を観ていなかったので、よくわからない箇所もあったが、後でDVDを観ると、ヴェスパーという女の復讐に駆り立てられたボンドの心理やマティスその他の脇役との関係もわかる。ラブストーリーやギャンブルの心理戦にシーンを割いている前作も見応えがあるが、「慰めの報酬」はもはや石油ではなく水をとりあうというテーマもきいているし、テンポがよく最後まで飽きさせない。オーストリアの劇場でオペラのシーンといい、ユーロの札束で支払う悪党といい、ヨーロッパを意識した作風に仕上がっている。豊かなヨーロッパに対して、貧しいボリビアで育ったヒロインもストイックな魅力がある。ボンドとベタベタしないのがいい。ラブストーリーは前作で十分描かれている。女のために危険な仕事を引退してカタギの仕事につこうとする前作のボンドには驚いた。ショーン・コネリーら歴代の007だったらありえない。時代に即した俳優や脚本に応じて修正しながら、このシリーズは人気を保っている。寡黙な殺人機械の魅力あふれるダニエル・クレイグのボンドは、シリーズをマンネリから救った。テクノロジーを駆使しながらも世界各地の現場に乗り込んでいく。今回は捕まって嫌と言うほど拷問されることもなく、仲間に捕まっても、エレベーターで一瞬のうちに全員倒してしまう超人的な活躍で最後まで突っ走る。復讐の虚しさを知ったボンドの行動が結末に余韻を残している。前作もホワイトの足を撃ったところで終わっていたが、やりすぎないところがこのシリーズの洗練された持ち味なのだろう。意味合いは違うが今回の悪役グリーンもあれこれ憶測を誘うような最期になっている。
2009年02月09日
西友でセルフレジが導入された。まだ試行錯誤するだろうし、定着するのかはわからないが、人件費削減を狙っているのはあきらかだ。客がレジの業務も担当する時代到来か。銀行振り込みのように、自分でやらないと法外な手数料をとられるようになったら大変だ。ATMのごとくセルフレジに行列ができて、レジ係のいるコーナーはガラガラになるだろう。ウォルマート傘下の西友は業績不振でラディカルな改革を迫られている。ガソリンスタンドのように人減らしが進んだ結果、ついにセルフレジ導入である。人件費削減によってさらに値引きが可能になるかもしれない。新奇なものに好奇心旺盛な人、買い物の中身を他の客や店員に見られたくないという潔癖な人、自分でテキパキ清算をすませたいという人には朗報であろう。人員削減のニュースが続いているが、ここまで人がいらなくなる時代というのはどうなのだろう。セルフレジには近未来SFのような薄気味悪さを感じた。昔流行らなかったものに無人コンビニというのがあって、人は人を必要としているという事実に安心した人も多かっただろう。だが、今回のセルフレジはどうか。人をロボットにしてしまえば実際のロボットの経費より安くつくという発想で突き進んできたスーパーマーケット業界も、ついに人間というロボットのリストラに踏み切るのであろうか。日本ではレジの人と挨拶してから買う習慣がないので、案外すんなりと定着するかもしれない。
2009年02月04日
映画はDVDを含めていろいろ見ているが、最近書くのが億劫でそのままになっていた。「プライド」という映画はたしか新宿で見たのだった。ドロドロしたマンガが原作だというのは聞いていたが、映画でもそのように描かれている。庶民とブルジョワ、それぞれ対照的なヒロインがオペラ歌手を目指す。一部キャスティングに難があるが、物語の展開がおもしろく、きっと脚本だけでなく原作も優れているのだろう。小さい配給会社なのか宣伝も乏しく、そのまま忘れ去られてしまいそうだが、満島ひかりが注目の女優としてブレークしたら見直されるようになるだろう。歌のシーンがいい。足の引っ張り合い、男の取り合いと醜い争いのなかで、銀座のクラブでデュエットしなければならないくだりが圧巻だ。競い合いながらも時には相手をたてながら歌い切らなければならない。音楽の業の深さとハーモニーの美しさが際だっていた。歌うという自己表現に立身出世や恋愛がからむ愛憎劇。何らかの形でリメイクしたらヒットするかもしれない。ここまでギラギラした欲望に駆り立てられたキャラクターは、いわば女版ヤクザ映画のようなまがまがしさがある(実際、ヒロインが日本刀で実母に斬りかかるシーンもあったりする。その後のミッチーの白刃どりもお見事)。あるいは若者が内向きになって留学しなくなったというから、ヒロインの夢や言動には共感しないかもしれないが。
2009年01月29日
老齢のホームレスが電車で頭を垂れて座ったまま微動だにしない。電車でもホームレスと判るのは、ホームレス焼けした肌と強烈な異質感があるからだ。隣の空いている席に座ろうとして躊躇する人、迷うことなく座る人、反応はさまざまである。このホームレスは何処かに向かっているのか、それとも暖を取っているだけなのか。「ヤング@ハート」を有楽町で見る。お年寄りの合唱団を描いたドキュメンタリー。メンバーの死を乗り越えながらリハーサルを繰り返し本番に臨む。刑務所の慰問などの「イベント」はあるが、基本的に練習風景が多いので退屈に感じる人もいるかもしれない。ドキュメンタリーというのは日常を追うので、編集を駆使しても日常の単調さがつい出てしまうものだ。 お年寄りは「ゆるキャラ」として消費されやすい。この映画でも観客の好奇の眼差しにさらされながら舞台に立って歌いきる。そこに感動が生まれる。仲間内でなれあうカラオケと違って、コンサートは見世物としての水準に達していなければならない。50代の壮年のリーダーがそこまでまとめるさまも見事で、物覚えが悪く体調も不安定なグループを粘り強く導いていく。 若者が不治の病で早死にする純愛ドラマと違って、老齢をまっとうした人の死は身内でないかぎり感情移入しづらいかもしれない。逆に言えばそれぐらい老いから目をそむけているともいえる。友人と再会すれば「変わってないね」と決まり文句のご挨拶。その意味からすれば、大スクリーンで老人たちの映像をひたすら見ることになるこの映画は、貴重な体験をもたらしてくれる。自己表現の衝動が、一緒に「歌う」という形で他の人々との喜びの共有へとつながっていく。歌詞が深くなるのもおもしろい。例えばお年寄りがパンクを歌うとまた違った味が出て、不撓不屈の精神を感じさせてくれたりする。お年寄りは、生の厳粛さを兼ね備えた「ゆるキャラ」として、硬直化して息づまる社会に新風を吹き込むのである。
2009年01月29日
「モンテーニュ通りのカフェ」をDVDで見る。パリに上京してきた女の子がカフェの「ギャルソン」として働くことになる。そういえば昔、物乞いや芸人を追い払おうと口論しているギャルソンを見かけたことがある。なかなかタフな仕事のようだが、モンテーニュ通りのカフェなら客層は良さそうだ。作曲家、画商、女優、学者といったお上品な人たちでカフェはにぎわっている。彼らの人間喜劇がテーマなので、ヒロインの冒険やラブストーリーを期待すると肩透かしをくらうだろう。 そもそも原題を直訳すれば「劇場の椅子」であって、カフェが中心となる話だと暗示されてはいない。よりよい席を求めて移動しようとする人間たちの飽くなき欲望を監督は描きたかったようである。「モンテーニュ通りのカフェ」というのは、お洒落なパリのムードを演出するためにつけた苦心の邦題なのだろう。なるほど、セレブな界隈で私もほとんど足を踏み入れることはなかった。 ロメールの「レネットとミラベル」も女の子たちがパリにやってくる話だったが、「モンテーニュ通りのカフェ」のヒロインのほうが輝いていて魅力的で、ハッピーエンドも納得する。とはいえカフェの嫌味な店主に啖呵を切って辞め、愛の力で一矢報いるという終わり方は、「おいしいコーヒーの真実」を見た後だと複雑なものがある。学歴もなく上京してきた娘が階級上昇を果たすチャンスはそれしかないのかと思うわけだが、逆にそういう夢もあると思って観客は家路につくのだろう。
2008年12月31日
「おいしいコーヒーの真実」をDVDで見る。だいたい予想通りの内容だった。恐ろしく安い賃金で働かされているエチオピアの農民たち。なんとかコーヒー豆を彼らから直接買うことはできないものかと思う。ネットでカード決済や代引きで購入できれば救われるはずだが、食の安全と信頼をどう確保するのかという問題がある。「フェアトレード」のための会社をヨーロッパではキリスト教系の団体が立ち上げて援助しているそうだが、日本ではまだまだ草の根の活動で目立たない。大企業の安いコーヒーに対抗するのは、並大抵のことではない。政府が税金面で優遇するぐらいのことをしないと南北格差は変わらないのかもしれない。 「パリのスタバに行くのが夢」という学生がいたが、20世紀はまさにアメリカの時代だった。21世紀はインドと中国が台頭するという予測がもっぱらだが、アフリカはどうなるのだろう。特典映像をみると、エチオピアだけでなくコロンビアでも似たような搾取が起きていることがわかる。これらの国々は、今世紀も搾取されるだけの貧しい地域のままなのだろうか。オバマが大統領に就任し、アフリカでは盛り上がっているようだが、ここまでの格差の是正に手をつけるのかどうか。フェアトレードを国策として推進すれば、大企業の猛烈な反発を招く。ますます暗殺されかねない。だが21世紀に求められるリーダーとは、大企業や資本家の利益の代弁者ではなく、例えば派遣切りのように中間搾取の構造に手をつけるような改革者ではないのか。労働者はまっとうな価格で、つまり普通に生活できる価格で、自分の労働力を売りたいのだが、「国際競争力」や「市場原理」の御旗のもとに大企業の論理に押し切られ、消費者も安い商品へと流れていく。政治家も国益や選挙区の利益を優先する。その結果、えらい非人間的な世界に行き着いてしまった。エチオピアやコロンビアだけの話ではすまないと感じた。
2008年12月29日
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