仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.05.06
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カテゴリ: 宮城
(前回 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1) から続く)

4 山村と八幡荘の場合

鎌倉時代の山村(やまむら)の地頭は関東御家人の大河戸氏で、文治奥州合戦の功により、在地領主を廃して任命されたものと考えられる。

八幡荘は国府の在庁官人中の有力者であった陸奥介(むつのすけ)氏が鎌倉時代の地頭で、藤原時代に陸奥介氏の私領であった。関東御家人以外に、平安以来の在地領主が地頭になることは大変少ない。それは奥州藤原氏の従者として組織されていて、その所領は謀反人跡として没収されたからである。陸奥介氏は、数少ない例外である。

ではなぜ陸奥介氏は生き残ることが出来たのか。それはこの荘が関東御領であったためと思われる。関東御領と推定する根拠は、この荘が鎌倉幕府の政所(家政機関)に召米(めしまい)を負担していたことにある。陸奥国内の関東御領としては好嶋(よしま)荘(いわき市平)が有名だが、この荘でも平安時代以来の在地領主岩城氏が地頭になっている。関東御領になったのは文治奥州合戦の3年前の文治2年(1186)。おそらく頼朝が藤原支配を切り崩すために、奥羽の要衝の地に関東御領を設定し在地領主を地頭に安堵したのだろう。

5 在地領主の立場

鎌倉時代には地頭がほとんど関東御家人で占められた中で、陸奥介氏や柴田氏は例外だった。しかし、その所領支配は苦闘の連続と推定される。

正治2年(1200)8月柴田次郎が追討され、9月工藤行光とその郎従藤五郎・藤三郎兄弟の協力を得た宮城四郎家業の手で、館が攻め落とされた。幕府からの召還命令に病と称して応じなかったのが理由であるが、真の理由は不明である。



こうして平安時代以来の在地領主であった陸奥介氏と柴田氏は、結局、関東御家人の前に鎌倉時代を生きぬくことができなかった。

6 北条氏所領の展開

関東御家人の地頭も、かならずしも順風ではなかった。鎌倉時代の後期には、かなりの部分(12のうち6つの所領。大谷保、名取郡、亘理郡、刈田郡、伊具荘、金原保)が北条氏の所領となっている。中には、名取郡の三浦氏のように、北条氏に仕掛けられて反乱を起こして敗れ所領を奪い取られたもの(宝治合戦、宝治元年(1247))もいた。

こうして鎌倉末期は関東御家人、なかでも北条氏の勢力が強く及ぶことになるが、次の南北朝内乱はその反発を一つのエネルギーとして展開するのである。


■難波、大石編『街道の日本史8 仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年から(大石直正執筆部分)





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最終更新日  2012.05.06 14:14:07
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Re:中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(05/06)  
犬連れ さん
書かれている事は間違いだと思います。
陸奥国府は信夫郡に在りました。
陸奥国府多賀城説は間違いです。
信夫郡に平安、鎌倉、南北朝、室町時代を通して陸奥国府がありました。解説本には嘘が書かれています。その時代の歴史記述をよく読んでみてください。
多賀城説の大間違いに気付くはずです。 (2012.08.15 09:53:33)

Re[1]:中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(05/06)  
犬連れさんコメントありがとうございます。

古代史の真相にはまだまだ判らないことが多いはずです。信夫は中央から見ても肝要の土地だったでしょうから大変興味深い考えだと思います。 (2012.08.18 07:59:59)

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