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かくて中君恋しさに、『中君には安心してもらえる後ろ見に徹しよう』との思いには従わず、むしろ以前よりは細々と、ともすれば堪えきれない気持ちを見せながら、せっせとお文を差し上げるのでした。されど中君は『困ったことになってしまった』と、思い嘆くのでした。『まったく見も知らぬ人ならば取り合うこともなく放っておくところだけれど、昔から他の男とは違う頼もしい人と思い込んできて、今更仲たがいするのもバツの悪いことでしょう。懸想されるのはさすがに困るけれど、中納言の心遣いやお振舞いの有難さを、私はよく知っている。さりとて気持ちが通じ合っているように応対するのは慎むべきことでしょうし、私はどんなふうに振る舞ったらいいのかしら』と、あれこれ思い乱れていらっしゃいます。相談できそうな若い女房たちはみな中納言に通じているように思えますし、見慣れた人と言えば宇治の山里から来た古女房しかおりません。中君の思いを察して親しく話せる人のないまま、故・大君を懐かしく思い出さぬ日はないのでした。『姉上がご存命でいらしたなら、中納言もきっと私への懸想などなさらなかったでしょうに』と、ひどく悲しくて宮の冷淡な態度に対する嘆きより、苦しく思うのでした。中納言も中君恋しさに、宮がご不在の物静かな夕暮れに二条院に起こしになりました。中君は簀の子の間に御茵を差し出させて、「ひどく気分が悪うございますので、お話相手ができかねまする」と、女房を介して仰せになります。それを聞くにつけても中納言はひどく辛くて涙がこぼれそうになります。人目がありますので強いて紛らわせて、「ご気分がすぐれないとしましても、祈祷の僧などはお傍近くに参りますでしょうし、医者にしても御簾の内に伺候するではありませんか。こんな遠くにいて女房が取次する対応では、参上した甲斐がございませぬ」と申し上げて、ひどく不愉快そうなご様子でいらっしゃいますので、先夜のお二方の親し気なご様子を見ていた女房たちは、「ほんに中納言様のおっしゃる通りですわ」「御簾の外では失礼というもの」とて、夜居の僧が祈祷する席に中納言を入れ奉るのでした。中君はつわりで本当に苦しいのですが、女房たちの言うとおり『今までとあまりに違う対応をするのもいかがなものか』と遠慮されて、気が進まないものの少しいざり出て、簾越しに対面なさいます。
April 28, 2025
大輔の君はそれを中君のお目にかけたりしないのです。以前からこのような贈り物は常のことで改まって返礼などすることでもなく、これをどうするべきかなど考えもせず女房たちの前に広げましたので、それぞれ気に入ったものを自分のものとしています。中君に近くお仕えする女房たちは特に着飾る必要があります。けれども、ひどく着古してよれよれの衣を纏っている下仕えどもは、白い袷などで目立たないものの方が反って見やすいのです。このように細やかな心遣いをして中君の後見をしてくださる人が、中納言の他にいるでしょうか。もちろん宮は並々ならぬご情愛のほどで中君を大切にお世話しようとお思いなのですが、細かな生活のことまでは思い寄らないのでした。皇子でいらっしゃいますから大切にかしづかれることに慣れておいでで、世の中で貧しい暮らしがいかに不如意で物寂しいことか、ということをご存じないのはお道理なのでした。何とない寒さを苦労と思い、花の露を味わいながらこの世を過ごすべきものと思うよりはまだ、恋しく思う中君のためならば、必要な折節につけて細やかなご配慮をしてくださることは、珍しく、ありがたいことではあるのでしょう。しかしそれを、「宮さまがそこまでお世話なさるのはどんなものか」など非難がましげに言う御乳母もいるのでした。中君にお仕えする女の童でみっともない見なりをしているのが時々おりますので、中君はとても恥ずかしく、『二条院は私のような者には住みにくいところだわ』と、みじめさを覚えることがありますのに、ましてこの頃は世に評判の六条院の華やかさに比べますと、宮の内の人々がどんなにみずぼらしく思うだろうと思い乱れることがあって嘆かわしく、それを中納言の君がよく推し量って、『親しくない所にはありきたりでいいとしても、中君に対しては、侮るわけではないけれど、大げさに仕立てたような顔をして贈ると反って不審に思う人がいるかもしれぬ』と、心遣いなさったのでした。この度も又いつものように気の利いた衣装などを整えられ、中君のためには御小袿のための綾などを織らせ、女房たちにも生絹を贈るのでした。中納言の君も匂宮に劣らず格別大切にかしづき育てられましたので、傍から見ても尊大に振る舞い、世の中を悟りきったように超然とした態度で、高貴なご気質はこの上ないのでしたけれども、宇治の故・八宮の質素な御山住みをご覧になってから、『侘しい住まいの哀れさは格別であったことよ』とお気の毒におぼされて、その頃から世の中を思いめぐらし、深い同情の心を抱くようになったのでした。さてもたいそう勿体ない感化を受けたものでございます。
April 25, 2025
一方中納言の君は、匂宮が二条院の中君のお部屋にこもりきりでいらっしゃると聞くにつけても『どうしたものか』と気がもめるのでした。『仕方がない。これも私の愚かしさの結果だ。初心に戻って、中君の暮らしが立つようにお世話だけを考えるべきなのか』と強いて思い直しながらも、宮がご結婚なさっても中君を大切にしていらっしゃることを嬉しくも思うのでした。『そういえばお側に仕える女房たちの衣装が古ぼけてみすぼらしかったようだ』と思い出されて、母・女三宮のお部屋に参り、「女の装束で使えるものがございましょうか。使いたいことがございますので」と、申し上げます。尼君は、「来月のご法要のために白い衣装があるかもしれませんよ。染めたものは尼の私には不要ですけれども、もし御入用でしたら急いで染めさせましょう」とお返事なさいます。「いえいえ、それには及びませぬ。大袈裟な必要でもございませぬ故、そのまま頂きとう存じます」とて、御匣殿などにお言いつけになり、女の装束を幾重ねにも、また立派な細長や白い練り絹の織物などと白いままの絹や綾も添えてお贈りになりました。中君への贈り物にはご自分の御召料として用意してあった打ち目のうつくしい紅の絹に白い綾などをたくさんお贈りになりましたけれども、女の袴はありませんでした。それなのにどうしたわけか裳の引き腰が一本ありましたのでそれを結んで差し上げました。「結びたる 契りことなる下紐を ただ一筋に 恨みやはする(宮と縁を結んでおしまいになったあなた様を、どうして私がお恨み申しましょうか)」とお書きになって、中君に仕える大輔の君という女房に、「間に合わせのもので見苦しくはあるけれど、そなたからうまく取り計らっておくれ」と仰せになり、中君の御召料は目立たないようですけれども箱に入れて丁寧に包んでお渡しになりました。
February 24, 2025
12月13日が昨年最後の受診日だったのだが、血液検査の結果が非常に悪かったようで、17日に入院の支度をして外来に来いという主治医からの宣旨が下った。入院期間を尋ねても、17日の検査結果次第で一週間になるか来年になるか分からないというので、私は困ってしまった。主治医は歯ブラシとタオルくらいで十分。寝巻もあるし、コンビニもあるから荷物はもたなくていいというのだが、女はそうはいかない。下着類はある程度必要だろうし、パソコンやスマホの他に電源用延長コードも要るだろう。化粧品は最小限でも洗面用具は必要だし、寝巻の上に羽織るローブだって必要だ。結局旅行用の小さいカートに詰め込んだのだが、情けないことに体調がイマイチなのでアタマが働かず集中力がなくて荷物をうまく纏められない。 確かに数か月前からいつになく倦怠感が強く、一日中寝ていることが多くなってはいた。食事はちゃんと食べていたつもりだが、久々に測ってみると体重が3キロ減っていた。料理もしていたつもりだが、考えてみると買い物に行っては一眠りし、一品作って力尽きていたから、まともな食生活でなかったのかもしれない。 今回は採血の結果白血球数が6万を超していたので、主治医がちょっと慌てたようだった。今までハイドレアという薬を7年間、薬数を加減しながら服用してきたのだが効果が薄く、半年ほど前にはインターフェロンを勧められたこともあったが、副作用に「自殺企図」という項目をみてしまっては、さすがに怖くなってお断りした矢先だった。 主治医からの指示で13日の夜から、一日二回20時、8時に「ジャカビ(ルキソリチニブリン酸塩)」という抗がん剤を17日まで服用した上で入院することになった。 入院など思いがけないことだったが仕方ない、覚悟を決めることにした。『こうなったらもう、今まで逃げ回っていた骨髄穿刺も潔く受けましょう、ジャカビもちゃんと飲みましょう』という心境になった。 ジャカビを服用して4日目、白血球数は4万に落ちたものの、脾臓が肥大していて本来は肋骨の中に納まっているのに、私の場合はへそのところまで巨大化しているという。道理で診察の度に転ぶな、事故に遭うな、角っこにぶつけないようにと注意されていて、私は「いいお返事」をしていたものの、実はあまり深刻に考えてはいなかった。 しかし考えてみれば息切れや動悸、ふらつきが頻繁に生じていたのは確かで、昨年正月明けにマンションの廊下を、ゴミを持って走って突然倒れ、まともに顔を打って傷だらけになったことがあったが、あれは貧血が原因だったかもしれない。 寝汗は少ないもののパジャマの襟もとが一晩でぐっしょり濡れては乾きを数回繰り返し、皮膚の痒みが激しく眠れないことも多かった。 ところがあら不思議。ジャカビが著効を奏して、上げ膳据え膳の入院中にそれらの症状がほとんど消失したのだ。からだのだるさと頭痛は相変わらずだが、服用して一週間後から発熱と発汗、それに皮膚掻痒が消失した時は本当に嬉しかった。食後に食器を下げに行くと息切れと動悸がするのだが、主治医によると脾臓が腫れているので、満腹になるまで食べないで一日4食に小分けせよという。 もともと胃腸は丈夫であり、しかもがんセンターのお食事はいつもアツアツでおいしく、病人のくせに毎回恥ずかしいほど完食してしまう。同室の患者さんたちとのおしゃべりも楽しく、しかも7階の女性の看護師さんたちはそれぞれに若くきれいで優しいひとばかり。おばあちゃんとはいえとても楽しく入院生活がおくれたというわけだ。退院前に輸血するかもしれないと言われたのだが、嬉しいことにこれもギリ!セーフだった。 ハイドレアは一日おきに1カプセル、2カプセルの服用だったが、薬剤師のくせに適当だったことを大いに反省し、一日おきに1カプセルを、ジャカビはタイマーをかけて8時と20時に正確かつ律儀に服薬している。 さて年内に無事自宅に戻ったのはいいのだが、今度はクルマに問題が生じていた。 実は13日に病院からの帰り、パネルにドアが開いているとの表示が出ていたので、途中で止めて全ドアを開け閉めしたのだが消えない。トランクは開けた記憶がないので確認しなかったのだが、これがいけなかった。その足でディーラーにまで行けばよかったのだが、病院帰りで早く横になりたくてつい家に帰ってしまったのもよくなかった。入院する前日、クルマを出そうとしたら、ドアが開かないではないか。カードキーについている小さなキーを挿して回したが、これでも開かない。家に戻ってリモートスターターを使ってみたのだがこれも利かない。入院時はクルマに乗ってくるなと言われていたし、仕方ない、入院してから保険屋とディーラーに相談しようと思い、暗い気持ちで入院したのだが、何とこれは故障ではなくバッテリー上りが原因であることが判明した。退院後にディーラーさんが来てくれてバッテリー・ジャンピングとかいう処置をした後引き取って2日ほどかけて充電してくれた。 昨年はいろいろなことのあった年で、夏にはマンションの友達と3人で函館まで二泊三日のドライブ旅行をしたのだが、その帰りに白老で高速を降りて食事した後クルマが故障してレッカーされるはめになってしまった。見知らぬ人に「いいクルマだね」と褒められた愛車ではあるが、すでに14年も経っている。故障してもおかしくない年齢だ。だから私の処置が悪かったのに、てっきり故障と思い込んでしまったのもよくなかった。 年を取ると考えにバイアスがかかってしまって、ちゃんとした判断ができなくなることを実感した一年だったが、とにかく自分の病気もクルマも、だましだましではあるけれど、動けるようになったことが何よりうれしい。
January 8, 2025
翌日もお二人はゆっくりと寝過ごして、御洗面やお食事をご一緒になさいます。高麗や唐土からの舶来品でご立派に飾り立てた六条院を見慣れた目には、二条院の女房たちはみすぼらしい身なりで数も少なく見えるのでした。中君はやわらかい練り絹の薄紫色の単衣の上に撫子襲の細長を着て、くつろいだご様子でいらっしゃいます。きらびやかに飾り立てた六の君のご装束に比べましても、盛りを過ぎたとはいえ中君は決して引けを取ることがなく、もの柔らかで風情がありますのも、宮が大切にしていらっしゃるからなのでございましょう。以前は丸々と可愛らしく肥えていらしたのですが、ご懐妊のために少しほっそりとして、ますます色白になられて上品でうつくしいのです。以前から、他の人より愛敬があって可愛らしいとお思いでしたから、『兄弟ならまだしも、他の男が近しく言い寄って、中君の声や気配に見慣れるなどしていれば、自然心惹かれることにもなるであろう』と、ひどく抜け目のない浮気心の御くせで、すぐお気付きになります。『証拠になるような文などあるかもしれない』と、中君の御厨子や小唐櫃などをさりげなく調べても、恋文ではなく、言葉少なく生真面目で平凡な文がそれとなく物に取り交ぜてありますので、『これは怪しい。文はこれだけではあるまい』と、お心が騒ぐのもお道理なのでした。『中納言の容姿も、心ある女であればきっと心動かされるであろうから、言い寄ったりしたら中君とて拒み通すことはできまい。二人は良い相手だから相愛になってもおかしくはない』と思いますと、侘しく腹立たしく妬ましくなるのでした。そんなお気持ちのまま、その日は二条院にずっとおいでになります。六条の君には、二度三度とお文を差し上げなさいますので、「たったニ、三日ですのに」「あちらではずいぶんとお文が積もったことでしょうね」と、皮肉を言う老女房たちもいるのでした。
January 6, 2025
単衣をお着替えになっても香りはあやしく、意外なほど中君の身に染みているのでした。『これほど香るとは、きっと何かあったに違いない』と、お問い詰めになるのですが、中君にとってはひどく辛く身の置き所もない心地がなさいます。「私はあなたさまを特に大切に思っておりますのに、あなたさまの方が私に背くなど、卑しい身分の者がすることですよ。あなたのお心が離れるほど長く六条院におりましたでしょうか。情けないことをなさるのですね」と、ひどく恨めし気におっしゃって、お返事もできない中君のことが憎らしく、「また人に なれける袖の移り香を 我が身に染めて 恨みつるかな(私という夫がありながら別の人に慣れ親しむなんて。その移り香を私は身に染みて恨んでいるのですよ)」女君はあまりに責められてお返事のしようもなく、「みなれぬる 中の衣と頼みしを かばかりにてや かけ離れなむ(日ごろ親しんだ仲でいらっしゃるあなたさまを頼みにしておりますのに、このようなことで別れることになるのでしょうか?)」とお返事してお泣きになるご様子がひどく可憐ですので、『中納言が好きになるのも無理はない』と気がもめて、思わず宮もほろほろと涙をこぼしていらっしゃいますのも、好色なお心のせいなのでございましょうか。どんな過ちがあったとしても、とても恨み通せないほど可愛らしくいじらしいご様子の中君でいらっしゃいますので、一方ではなだめすかして中君のご機嫌をとっていらっしゃるのでした。
December 27, 2024
匂宮は今までの無沙汰に心を痛められて、急に二条院へお帰りになったのでした。中君は、『宮さまを、お恨みすることなどできないわ。すねている様子もお見せするまい。宇治へ行きたいと思っても、頼りとする中納言様が困った料簡をお持ちになるのですもの。どうしたものやら』と思いますと、世の中がひどく窮屈で生きづらく、『やはり女は辛い身の上なのだわ。ならばせめて生きている間は成り行きに任せて穏やかに暮らそう』との思いに至って、可愛らしく素直に振る舞っていらっしゃいますので、宮はたいそう嬉しくお思いになり、長い間の無沙汰を限りなくお慰めになります。中君はお腹も少し目立つようになり、腹帯が引き結ばれている様子などがたいそう愛らしく、妊婦をご覧になったことがありませんので珍しくお思いになります。いままで気の置けない六条院にいらしたので、二条院にお帰りになりますと万事が気楽で懐かしくお思いになって、あれこれ優しくお約束なさいます。中君は、『男の人というものは、こんなに口の上手いものなのかしら』と、昨夜もしつこかった中納言の様子も思い出されて、『長い間ご親切なお方でいらっしゃると思い込んできたけれど、昨夜のような下心を見てしまっては、あるまじき事と思うにつけても、この先のお約束など頼みになるまい』と思いながらも、少しは心を惹かれるのでした。『それにしても、すっかり油断させておいて御簾の内に入ってくるなんて、何ということをなさるのでしょう。お姉さまと実事がなかったということはほんに奇特ことではあるけれど、やはり中納言には心を許すべきではないわね』と、用心なさるのですが、宮のお越しが途絶えがちになりますと、中納言がこの時とばかりにやって参りますのでひどく恐ろしく、それをはっきりおっしゃることはできませんけれども、以前よりは宮を引き留めておくようお振舞いになります。宮はそのような中君をたいそう愛おしくお思いになります。それでも世の常の香りとは違った中納言の移り香が、はっきりと中君の衣にしみ込んでいますので不審にお思いになり、「中納言と、なにかあったのですか?」と、お尋ねになります。中君は言い訳のしようもなく黙り込んでいらっしゃいますので、「やはり!こんなこともあろうかと不安に思っていたのです。今までずうっとおかしいと疑ってはいたのですが」と、お胸がどきどきなさるのでした。
December 24, 2024
夜がまだ深いうちに中君の元へお文が届きました。いつものように表面はさり気ない立文にして、「いたづらに わけつる道の露しげみ むかし思ゆる 秋の空かな(せっかくあなたさまのお傍まで参りましたのに無駄足になってしまいました。いつかの宇治での空しさを思い出される秋の空でございます)あなたさまの冷淡なお振舞いにつけましても、わけの分からぬ辛さばかりがいいようもなく募りまして、恨めしうございます」とあります。お返事なさいませんのも女房たちが変に思うかもしれないと思い、「お文、拝見いたしました。今はひどく辛うございますので、お返事は致しません」とだけ、お書きになります。中納言は物足りなくて、昨夜の可愛らしかった中君のご様子ばかりを恋しく思い出されるのでした世の中を少しはお分かりになったからでしょうか、驚き呆れていらしたけれども、ものなれた奥ゆかしい態度でこちらを辱しめないよううまく言い繕って、体裁よくお返しになった手際よさなどを思い出されますと、宮のことが妬ましくも悔しくも思うのでした。中君は宇治にいらした頃よりも成長なさったように思われます。『宮がお見捨てになっていらっしゃるならば、私を頼みにしても良いではないか。世間に知られるのは困るとしても、このまま宮に見捨てられるより人目を忍びながらでも、私こそ拠り所となるべきであろう』など、ひたすら中君のことを考え続けますのも、呆れたお心でいらっしゃいます。このように思慮ありげで賢しくおいでですのに、およそ男というものの心情とは、こんなにいやらしいものなのでしょうか。大君を失ったことは取り返しのつかない悲しみではあっても、こんなに苦しくはありませんでした。そのせいでしょうか、人妻である中君に対してはあれこれ思い慕われるのでした。「今日は宮さまのお渡りがございます」など、女房が言うのを聞くにつけても後見としての気持ちはすっかり失せて、胸がつぶれるほど苦しく、宮がひどく羨ましく思われるのでした。
December 23, 2024
男君は昔を悔いる気持ちを抑えがたいのですが、今夜もやはり思いのままに振る舞う事がお出来にならないのでした。恋愛関係での細やかに語り続けることが苦手でいらっしゃるのですが、このまま帰るには来た甲斐がありません。とはいえ女房たちの目も気になりますので、「まだ宵の口と思っておりましたが明け方になってしまいました。これでは見咎める人がいて、面倒なことになりかねません。これもあなたさまの不名誉にならぬための思いやりなのですよ」と、二条院をお立ち出でになるのでした。『中君がひどく悩ましげにしていらしたのは、ご懐妊ゆえのことだったのか。あの腹帯を見てしまっては、可哀そうで手出しもできなかった。我ながらいつも間抜けだな』とは思うのですが、『非情な行為は私の本意ではない。感情に任せた後は一層いたたまれない気持ちになるであろうし、そうかといって逢瀬を忍び歩くのは、私にとっても中君にとっても気苦労なことだ』と冷静になって考えるのですが、情熱は抑えられず中君が恋しくてたまらないのでした。逢わずにいられないほど狂おしいのも、どこまでも煮え切らないご自身のお心のせいなのでしょう。中君は以前より少し痩せておいででしたが、優雅で可愛らしいご様子は昔のままで、もう中君以外のことは考えられなくなってしまいました。宇治に行きたいとの願いを叶えてあげたいものだと思うのですが、『果たして宮はお許しになるであろうか。とはいえ、勝手にお連れするのは良かろうはずがない。体裁よくうまく果たせるには、どうしたらよかろう』と、考えてぼんやりお庭を眺めて臥していらっしゃいます。
December 22, 2024
中君は、『やはりこんなことになるのね。ああ、なんと嫌なこと』とお思いになって、お返事もなさらず中へ引き込んでしまわれました。すると中納言は中君について中に入り、ひどく馴れ馴れしい様子で添い臥していらっしゃいます。「宮には内緒で宇治においでになるほうが、私にとっては嬉しいことではございます。まさか聞き違いかと存じまして思わず御簾の内に入ってしまいました。それにしてもよそよそしい態度でいらっしゃるとは情けないことでございますな」と、お恨みになりますので、中君はお返事もできず反って中納言を憎らしく思ってしまうのでしたが、気持ちを抑えて、「思いがけないことをなさるのですね。女房たちがどう思いましょう。浅ましいことですわ」と、泣きそうな気配なのもお道理ですので、たいそうお可哀そうなのです。「このようなことで咎められはしないでしょう。これくらいのことは宇治にてもご経験済みでいらっしゃいましょう。故・大君のお許しもございましたのに、反って不自然でございます。私には好色者のような不埒な気持ちなどございませんので、どうかご安心くださいまし」と、たいそう落ち着いたお振舞いをなさるのですが、匂宮に譲ってしまった無念さ、悔しさを募らせていったことをよくよく訴え続けて、捉えたお袖を離す様子もありません。中君はどうしようもなく困惑していますのも、世の常というものです。なまなか気心の知れた間柄でもありますので、恥ずかしくまた悔しくついお泣きになります。中納言は、「おや、お泣きになるとはずいぶん子供っぽい」と、言ってはみたものの、言いようもなく可憐でありながら思慮深く、気品のある態度が、昔宇治で添い寝した時よりも殊の外女らしく成長なさったご様子を目にして、『自分で宮に譲ったくせに、今更こんなにくよくよするなんて』と、悔しさに「音ぞのみ鳴く」のでした。近くにお仕えする女房は二人ほどいるのですが知らない男が入ってきたならともかく、お二人とも親しい間柄でいらっしゃいますのでお側にいるのは具合が悪く、知らぬふりをしてその場を離れてしまいました。
December 21, 2024
さて中納言は次の日の夕方、二条院にお越しになりました。人知れず中君をお思いでいらっしゃいますので、自然身なりに気を配っていらっしゃいまして、柔らかなお召し物をぷんぷん匂わせておいでなのは、宮さまがあまりに仰々しくいらっしゃるからなのです。丁子染めの扇にたとえようもないほどの移り香で、中君のお部屋にお渡りになりました。中君もいつぞやの怪しい夜の事などを思い出されることが無きにしも非ずですので、匂宮とは違った真心のこもったお気持ちを見るにつけても『この方とご一緒になっていたならば』と、お思いになることもあるのでございましょう。中君はもう、幼いご年令ではいらっしゃいませんので、匂宮への恨めしく思うお気持ちを思いますと、何事につけても良くしてくださると思われるからでございましょうか。いつも几帳や簾を隔てていることが多いのも気の毒にお思いになり、今日は御簾のうちにお入れ申し上げて、ご自分は少し奥の方に引き入りてご対面になります。「先日のお文では特に『お召し』というのではございませんでしたが、いつになく参上をお許しくださいました嬉しさにすぐにでも参りとうございましたが、宮さまがお渡りなさると承りましたのでご遠慮申しておりましたところ、今日になってしまいました。さても御簾のうちに通されましたとは、年頃お世話申して参りました私の心のしるしを、やっとお分かりいただけたかと、嬉しく思っております」と仰せになりますので、中君は『やっぱり打ち解け過ぎたか』とひどく恥ずかしく、返す言葉もない心地がするのでしたが、「父のために法要を営んでくださいましたことを嬉しく存じておりましたが、ただ黙って過ごしておりましてはあなた様のご厚意に対して失礼になると存じまして、文を差し上げたのでございます」と、たいそうきまり悪そうに仰せになる声がひどく奥の方でほのかに聞こえてきますので、じれったくなって「おや、ずいぶん遠くにいらっしゃるのですね。あれこれお話ししたい世間話もございますのに」と仰せになります.中君は『なるほど』とお思いになり、身じろぎしながら近寄っておいでになります。中納言はその気配を耳になさるにつけてもお胸がどきどきなさるのですが、さりげないご様子で、『宮の御情愛は、さては決して深くはいらっしゃらないのだな』と察して、一方では宮をお諫めになり片方では中君を慰めもして、あれやこれやとお話しになります。中君は宮への恨めしさなど中納言に申し上げるべきことではないと思っていますので、ただ「世やは憂き」というふうに、言葉少なく紛らわせながら「宇治の山里に連れて行ってくださいませんか」と、たいそう熱心にお訴えになるのでした。「それは私の一存で承ることではございませぬ。やはり宮に直接申し上げてお願いなさり、宮のご意向に従うのがようございましょう。そうでなければ軽々しい考えを起こすことかなど、宮様の思し召しと行き違いがございましたらいけないことかと存じます。不都合がございませなんだら、宇治への送り迎えも私がいたしましょう。後ろ暗いところがなく、他の人にはない私の心のほどは宮もごぞんじでいらっしゃいますから」などと言いながら、中君を自分のものにできたのにみすみす宮に譲ってしまった過去の悔しさを忘れたことはなく、機会さえあればと、中君を取り返したい気持ちをそれとなくほのめかしつつ暗くなるまで御簾の内に居座っておいでになりますので、中君はひどく鬱陶しく思えて、「そのようなお話しでございましたら、気分も苦しうございますので、また心地のよろしい時にでも承りたく存じます」とて、奥へお入りになる気配がします。中納言は慌てて、「それでは、宇治へはいつ頃お越しになるのでしょう。ひどく繁った道の草も、それまでに少し払わせておきましょうから」と、ご機嫌をとるためにおっしゃいますと、しばし動きを止めて、「この月はもう過ぎてしまいましょうから、九月の一日あたりにでも、と思っておりました。ただ人目につかぬようにして参るのがよろしかろうと存じますので、宮さまのお許しを得る必要などございましょうか」と、仰せになる声が大君にたいそう似て可愛らしくお感じになり、いつになく昔を思い出でられてとてもお気持ちを抑えることができず、寄りかかっておいでになる柱の側に御簾の下からそっと腕を伸ばして中君のお袖を引きました。
December 19, 2024
ご婚儀の後は六条院の姫君のもとにいらして、二条院には心安くお渡りにもなれません。宮は重いご身分でいらっしゃいますので、夜はもちろん昼間も思うようにお出かけができず、昔紫の上が住んでいらした六条院の南の町におわします。六の君を避けているように思われてはなりませんので、日が暮れましても二条院にはようお帰りにはなれないまま過ごしていらっしゃいます。中君は宮のお越しのないまま待ち遠になる折々がありますのを、『こうなることはよく分かっていたはず』と思うのですが、『こんなに簡単に捨てられてしまうなんて。思慮があれば物の数にも入らぬ我が身を自覚して、高貴なご身分の方々と付き合うべきではなかったのだわ』と、宇治の山路を出てきたことがうつつとも思えず、悔しく哀しく思われて、『やはり何とかして宇治に帰りたい。宮さまとのご縁を断ち切ってしまうのではなく、しばらくの間宇治で気持ちを慰めたいだけなの。それならば宮さまに背くことにはならないと思うもの』など、あれこれ考えては思い余って、恥ずかしいとは思いながら薫中納言殿にお文を差し上げました。『先日は故・父の法要を営んでくださいましたことを宇治の阿闍梨からの消息文で詳しく承りました。今でも昔をおわすれにならないあなた様のご親切なお取り計らいがございませんでしたら、どんなに父が気の毒だったかと思いますと、感謝に堪えませぬ。つきましてはお目にかかって直接お礼を申し上げとう存じます』と書いてあります。引き繕ったところもなく、檀紙に生真面目なふうに書いていらっしゃるのも、たいそう風情があります。故・八宮の御忌日には追善のご供養などをたいそう厳めしくおさせになりましたことを中君が喜んでいらっしゃる様子が、仰々しくはありませんけれどもお分かりになったからでございましょう。いつもはこちらから差し上げるお文のお返事さえも気を許ずかしこまっているように思われましたのに、今日は「お目にかかりまして」とさえありますのを珍しく嬉しく、心ときめくのでございましょう。匂宮はちょうど六の君という新しい女君に気持ちが傾いている時ですので、疎遠にされた中君がお気の毒に思われて、何ということのないお文ですのに下に置きもせず、何度も何度も読み返していらっしゃいます。お返事は、「お文、拝見いたしました。法要の日はあなた様にも告げず私の一存で、人目を忍んで宇治に参りましたのも、理由あってのことでございました。あなた様は『名残』と書いておいででしたが、いかにも私の好意が浅くなったようで、恨めしく存ぜられます。そのうち御前に参上いたしまして詳しくお話し申し上げましょう。あなかしこ」と、ごわごわした白い色紙に生真面目にお書きになりました。
December 15, 2024
中納言は妻戸を押し開けて、「ほら、あの空を見て御覧なさい。十八夜のうつくしさを知らずに寝ていられましょうか?風流人を気取るわけではありませんが、秋の夜長をまんじりともせずに過ごす夜な夜なの寝覚めには、後の世のことまで思いやられてしみじみと哀れな気持ちになるのですよ」などとごまかして、お立ち出でになります。中納言は特に女房を喜ばせるような言葉を尽くしたりなさいませんが、優雅で上品なご様子でいらっしゃるからでしょうか、薄情者と思われることもなく、ちょっとしたお戯れであっても『もっとお側近くでお姿を拝見していたい』と思う女房がいて、すでに尼となられた母宮に無理やり縁故を求めて奉公しているので、身分相応に可哀そうなことも多いのでした。一方匂宮は、昼の間に六の姫君のお姿をご覧になって、そのうつくしさにすっかり夢中になっておしまいでした。からだの大きさが程よく、優美で、髪の下がり具合や頭つきなどがとくにみごとなのです。お顔の色つやがまるで匂うほどつややかで、重々しく気品のあるお顔の目元は見る人が恥じらうほど気高く愛らしく、非の打ち所のないお方なのでした。二十歳を一つ二つ越えていらっしゃいますので子供という年齢ではなく、未熟で不足なところがなく、今を盛りの花と見えるうつくしさです。大殿が限りなく大切にご養育なさいましたので、不完全なところがなく、ほんに親としてはこの娘に心もとろけてしまうほどでありましょう。もの柔らかで愛敬があり可愛らしいことでは、かの対の中君を第一に思い出されるのですが、六の君はお返事なさる時も恥じらっておいでですけれども、おぼつかないと言うことはなく、何事も見どころと才気がありそうなのです。お傍には若く美しい女房が三十人ほど、童が六人、みな醜いのはなく、装束などもいつものとは様子を変えて意匠を凝らして揃えてありました。北の方腹の大君を春宮に差し上げた時よりもこのご婚儀を特に大切にお世話なされたのも、匂宮のご声望やお人柄によるものだったのでございましょう。
December 12, 2024
三条の宮に帰りますと、薫中納言の前駆の者たちで十分な禄がもらえなかった男たちが、ため息をつきながら、「中納言殿はどうしてすんなり大殿の婿君にならなかったのだろう」「お一人身でいらっしゃるなんて、つまらないのにな」と、中門のところで不平まじりにつぶやくのをお聞き付けになって、『なるほど』とお思いになるのでした。『夜が更けてもあの人たちはもてなしを受けて、今頃は心地よく酔いつぶれて寝ているのだろう』と羨ましく思ったのでしょう。中納言の君はご自分のお部屋にお入りになって、『それにしても結婚の儀式というものはきまりの悪いものだな。親しい間柄とはいえ赤々と灯火を灯して、誰彼となく杯を勧め、それを宮はうまく受け答えなされたものだ』と、感心した様子で思い出していらっしゃいます。『なるほど、私だって可愛い娘を持っていたならば、この宮にこそ差し上げたいと考えるだろう。世間では誰もかれもが娘を匂宮にと思う一方で、やはり私にこそという声もあるらしい。つまり私の信望も悪くないということだろう。しかし私はあまり面白味がなく年寄りじみているのだがな』などとうぬぼれたり卑下したりしているのでした。『女二宮を賜るという帝の思し召しが本当ならば名誉なことではあるが、気の進まない話でどうしたものか。故・大姫に似ていらしたならどんなに嬉しかろう』と、お思いになるのは、さすがに女二宮に無関心ではいらっしゃらないという証拠ではないでしょうか。いつものように寝覚めがちでいらっしゃいますので、日ごろからご寵愛の女房の、按察の君の局にお越しになってその夜を明かしていらっしゃいます。そこで夜を明かしても咎める人などありませんのに、いかにも困惑したように急いでお起きになりますので、按察の君は不満に思ったのでしょう。「うち渡し 世に許しなき関川を みなれそめけむ 名こそ惜しけれ(あなたさまのお相手としてこの世では認められぬ私ではございますが、その許されぬ関川を越えての逢瀬で嫌われましては口惜しゅうございます)」中納言は可哀そうに思ったのでしょう。「深からず 上は見ゆれど関川の 下のかよひは 絶ゆるものかは(関川は表面から見ると浅いように見えますけれども、人目を忍んで関を越えてきた私の心は絶えることがないのですよ)」情愛が深いとおっしゃってもとてもあてになりそうもなく、うわべは浅いなどと言われては、按察も気がもめることでしょう。
December 11, 2024
三日夜の日でしたが、明石中宮のお具合がよろしくないとのことで、宮は参内なさいました。誰もがみな心配して参集なさるのですが、ちょっとしたお風邪で特に心配はないとのことで、大殿は三日夜のご用意のためにまず昼間のうちに参内をお済ませになりました。薫中納言の君をお誘いになって一つの御車で六条院へお帰りになります。大殿は『今夜の儀式をできる限り盛大にしよう』とお考えなのですが、ご法度というものがありますのでむやみなことはおできになりません。中納言の君に対して気恥ずかしくは思うのですが、ご自分の一族でもあり今夜の晴れがましい席には格好の御方でいらっしゃるからのご招待なのでしょう。中納言はいつになく急いでお帰りになり、六の君を匂宮にとられてしまったことを残念に思うでもなく、あれこれと大殿と心を合わせてお世話なさいますので、大殿は心ひそかに憎らしくお思いになるのでした。匂宮は宵を少し過ぎた頃にお越しになりましたので、寝殿の南の廂の、東寄りのお座にご案内申し上げます。高坏八つにご馳走のお皿などを上品に美しく乗せ、小さな台盤二脚に花足のついた銀のお皿などにたいそう今風にお飾りになったお餅を乗せてあります。このような儀式など珍しくもないことを書くのは、いかにも気の利かない事ではございます。大殿は宴席にお越しになって、「夜が更けてしまいましたから」と、婿君のお越しをご催促申し上げるのですが、匂宮は六の君のお部屋で女房たちとおふざけになってお出ましになりません。大殿の北の方のご兄弟の左衛門の督と藤の宰相がお越しになります。宮がやっと宴席にお見えになった時は、さすがにみる甲斐のある心地がいたします。主人役の頭中将が婿君にお盃を差し上げてご馳走をお勧めになります。人々も次々に杯をお重ねになります。薫中納言が宮にたいそうお盃をお勧めになりますので、宮は少しにっこりなさいます。いつぞや、「大殿のところは格式張って、どうも窮屈なところですね」とおっしゃったことがあったのをお思い出しになったからでしょう。しかし中納言は知らぬ顔をして、まじめくさっておいでになります。やがて東の対にお出でになり、お供の人々をおもてなしなさいます。世に信望ある殿上人がたいそう多くおいでになります。その中の四位六人には女の衣装に細長を添え、五位の十人には三重襲の唐衣と裳を、六位の四人には綾の細長、袴などそれぞれの位に応じた品を被けます。しかし一方では、祝儀の禄に限度があることを残念に思っていらっしゃいましたので、物の色合いや仕立て方などに特に贅を尽くしていらっしゃいます。雑役を司る召次や舎人などの中には過分の禄で、昔の物語ではこれほど賑わしく華やかなことなどを第一に書き立てるでしょうけれど、とても詳しく数えることができないほどだったとか。
November 7, 2024
「光る君へ」が面白い。実際の源氏物語で語られる内容と、一条天皇や道長をメインとした宮廷生活とを有機的に結び付けて進むストーリーが斬新で、来週はどうなるのかと楽しみになる。定子をていし、彰子をしょうしと音読で習った身には、訓読されると脳内変換が難しかったのだがそれも慣れてきたし、紫式部も娘の反抗期には手を焼いていたようで、なかなか面白い。劇中「子ゆえの闇(人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に惑いぬるかな)」もチラッとでてきて、「はいはい、今も変わりませんよ」と苦笑しながら見ている。もう退場してしまったが、夫の宣孝が火桶の灰をかけられた姿は、源氏物語の鬚黒大将を思わせて楽しかった。中で一番驚いたのは、賢子が夫・宣孝ではなく道長の子であるという設定ではなかろうか。「へーえ、そうくるんだ!」と、思い切った展開に道長と賢子がどう絡むのかを期待したのだが、今の所まだ先は読めない。先というと、彰子に愛情いっぱい育てられた定子の息子・敦康親王のことが気にかかっている。二人の親密さに、母を亡くした光源氏が義母の藤壺中宮を慕う姿に重ねるのは、私だけではあるまい。今はまだ髪をみずらに結った可愛らしいこども姿であるが、元服したら彰子中宮の寝所を密かに訪うのではないかと危惧している。お部屋の名前も藤壺ではないか。音楽も先週はチェロであったが時には和楽器あり、ホルンあり、リュートまで聞こえてきてそれも楽しい。曲想はどこかで聞いたことのある映画音楽やラフマニノフ風といったところだが、それも楽しく聞いている。年末近くになると急にドラマがドタバタ進展して終わるのだが、最後まで丁寧に楽しませてくれることを期待したい。
October 5, 2024
宮はいつにもましてしみじみと中君にお話しなすって、「お食事を召し上がらないと、お身体に障りますよ」と、仰せになりおいしそうなお菓子をお召し寄せになります。さらに料理人には食欲の出るような料理を特別お命じになるのですが、中君は一向に手をお付けになりません。「全く困ったことですね」と、ため息をついていらっしゃいましたが、日が暮れてしまいましたのでご自分の寝殿にお渡りになりました。秋風が涼しく吹いて、空の景色も風情ある季節になりました。宮は当世風の派手好みでいらっしゃいますのでこの季節にふさわしく、ことさらあでやかでいらっしゃるのですが、中君のお心の中は悲しみでいっぱいで、風情ある景色も蜩の啼く声にも宇治の山荘ばかりが恋しくて、「おほかたに 聞かましものをひぐらしの 声うらめしき 秋の暮かな(宇治で暮らしていたころは聞き流していた蜩の声も、この秋の暮は恨めしく思われてなりません)」。宮は、まだ夜が更けぬうちにお出ましになります。中君は御先払いの声が遠ざかるのをお聞きになりながら、海士が釣りするほど涙が流れ、『我ながらみっともない嫉妬心よ』と思いながら臥していらっしゃいます。『宮さまの夜離れは今始まったことではなく、宇治で出会ったころからだった』と思いますと、今更こんなに嫉妬するご自分を疎ましく思っていらっしゃるのです。『苦しいつわりも、この先どうなることやら。父君も母君もそれに姉君まで短命でいらしたから、出産の機会に私も命を落とすことになるかもしれない。命は惜しくないけれど、後にお残しする宮さまやお子に対して、罪深い行いになるわね』など、眠れぬままに思い明かしていらっしゃるのでした。
September 20, 2023
立派な衣装に埋もれるような格好でしたので、女房たちは後朝のお遣いの禄であることを察します。「いつの間にお文をお書きになったのかしら」と、不安に思う女房もいるようでした。宮は、今更中君に隠すことではありませんけれども、やはりこんなにあからさまではお可哀そうですので、『少しは気遣いしてもよさそうなものを』と、忌々しくお思いになるのですが仕方がありませんので、女房を介してお文をお受け取りになります。『どうせなら隠し事のないようにしよう』と思召して、中君の前でお文を開けてご覧になりますと、姫からではなく継母の二宮のお手によるものでした。それで少し安心なさって、下にお置きになります。たとえ代筆であってもさすがに後ろめたいのでございましょう。『姫にはお返事なさるよう勧めたのでございますが、ひどく気分が悪そうにしておりますので、差し出がましいとは存じますが代筆いたしました。女郎花 しをれぞまさる朝露の いかにおきける 名残りなるらむ(姫はすっかりふさぎ込んでおります。あなたさまはどのようにつれないお扱いをなさったのでございましょう)』と、上品に風情あるように書いていらっしゃいます。「姫の悩ましさを私のせいにするなんて、煩わしいことです。しばらくはあなただけを守って気楽に暮らしたかったのですが、思いがけないことになってしまいました」とおっしゃるものの、一人の妻しかもたない普通の人こそ本妻の嫉妬に同情するでしょうけれど、宮の場合はとても困難で、いつかはこうなる運命なのでした。きょうだいの宮と申し上げる中でも春宮にふさわしいと、世の人が思い申し上げるのはこの宮でいらっしゃいますので、何人女人をお持ちになりましても非難されることがありません。ですから、世の人も中君に同情するはずがないのでした。むしろ物々しいほどかしずかれていらっしゃる中君は「幸せ者」と人々は申し上げるのでした。中君は、『今まで大切にしていただいたことに慣れてしまい、そこへ急に六の姫とのご結婚となったことが嘆きの原因かもしれない。昔物語や人の噂話を聞くにつけても、どうして男女の仲で悩むのだろうと不思議に思っていたけれど、我が身になってみると本当に辛いものね』と、思い知られるのでした。
September 17, 2023
とはいえ中君とご一緒の折にはご情愛が変わるような気配もなく、後の世まで変わらぬお約束を、言葉を尽くしておっしゃいます。それを聞くにつけても辛くて、「ほんにおっしゃる通り、この世はたいそう短くていつか薄情なお気持ちをお見せになるのでございましょうから、この世を頼みにするよりも後の世のお約束だけでも違わないようにと願います故、宮さまのお言葉を性懲りもなくお頼み申し上げましょう」と、たいそう堪えていらっしゃるのですが、今日はたまらずお泣きになります。六の君のことでこんなに宮を恨んでいることを悟られまいと、今まで何とか紛らわしていたのですが、亡き父君や姉君、宇治での暮らしなど様々思い起こすことが多く、とても我慢がおできにならなかったのでしょうか、こぼれる涙を止めることがおできになりません。それが恥ずかしくて宮からお顔を背けていらっしゃいますと、無理にこちらにお引き向けになって、「思った通りの可愛らしいお方と拝見しておりましたが、やはり他人行儀なお気持ちを抱いていらしたのですね。それともこの一夜の間にお心変わりなさったのでしょうか」と、ご自分のお袖で涙を拭っておあげになりますと、「宮さまこそ夜の間にお心変わりなさったのではございませぬか」と、少しにっこりなさいます。「おやまあ、それはずいぶん子供っぽい言い方ですよ。しかし私にはやましいところがありませんから、ご安心なさいませ。言い訳したとしてもあなたさまには私の本心がお分かりになりましょう。あなたさまが、夫婦の道理をご存じない幼さが可愛らしい反面、私は困ってしまうのですよ。私の立場になって考えて下さいまし。私は思い通りに生きられない身分なのです。もし私が春宮となり帝となるような世であれば、あなたさまを中宮とする深いこころざしをお分かりいただけましょう。しかしこれはたやすく口にするべきことではありませんから、その時までどうか長生きしてくださいませ」など細々仰せになりますうちに、六条院へのお遣いが祝い酒にひどく酔って戻って参りました。こんな時には少し遠慮するべきことも忘れて、すっかりいい気分になって西の対の南面にやってきたのです。
September 13, 2023
宮はたいそう心苦しくお思いになりながらも、好色なご性質でいらっしゃいますから、六の姫からも立派な男と思われたくて、優雅な香を焚きしめておいでになるご様子はいいようもなく上品でいらっしゃいます。宮をお迎えになる六条院でもたいそう豪華に飾り付けをしてお待ち申し上げます。『六の姫はどうも小柄で華奢な方ではなく、ほどよく成長しておいでのようだったが、お人柄はどんなであろうか。大げさに勿体ぶって柔和なところがなく、高慢なお方であったらどうしよう』などお思いでしたが、そのような姫君ではなかったのでしょう。宮もまんざらではないようにお見受けしました。秋の夜長ですのにご来訪が遅かったせいでしょうか、ほどなく夜が明けました。二条院にお帰りになっても西の対へはすぐにお渡りにならず、しばし寝殿でお寝みになってから六の君に後朝のお文をお書きになります。おそばにお仕えする女房たちは、「あのご様子では、六の姫さまがお気に召したのでございましょう」と、互いにつつきながら話しています。「宮さまはあちらもこちらもご寵愛なさるけれど、これでは西の対の御方がお気の毒ですわね」「いずれは圧されるでしょうかしら」長い間中君にお仕えし馴れている女房たちですので、面白からず言うこともあり、どうしても妬んでしまうのでした。宮は六の君からのお返事を『寝殿で読もう』とお思いでしたが、昨夜離れていたことがお可哀そうで、寝起きのまま急いで西の対にお渡りになります。お部屋にお入りになりますと、中君は臥しておいででしたが少し起き上がってお顔がぽうっと赤みがかかって、格別に可愛らしく見えますので、わけもなく涙ぐまれてしばしじっとお顔をご覧になります。中君は恥ずかしくお思いになりうつむいていらっしゃるのですが、髪の多さといいかかり具合といい、申し分のないご様子でいらっしゃいます。宮も昨夜の細々した事はきまりが悪いせいでしょうか、すぐには言い出せず、「あなたはどうしていつまでもご気分がすぐれないのでしょう。暑さのせいとおっしゃるので秋になるのを待っていましたが、涼しくなってもすっきりしないのは困ったものですね。あれこれ手を尽くして修法をさせているのに効験がないようですね。それでも加持祈祷は日延べしてやらせてみましょう。効験のある僧がいないものでしょうか。あの、何某の僧都を夜居の修法に伺候させるべきでしたね」などと真面目なことを仰せになりますので、こんなに調子のよいことを言う宮が嫌だとお思いになるものの、お返事もなさらないのは良くないので、「私は昔から人とは違ったところがございまして、宇治でもこのように患うことがございました。でも自然に治りますので修法をなさるまでもないと存じまして」と仰せになります。宮は、「おや、ずいぶんあっさりした物言いですね」とお笑いになって、『人懐こく、愛嬌のある方では、中君に並ぶ人は他にないものだな』とお思いになりながら、一方では六の姫をお慕いになるお気持ちが生じますのは、やはりご執心でいらっしゃるからなのでございましょう。
September 11, 2023
松風の吹き荒れる音も荒々しいのですが、宇治の山おろしに比べますとここ二条院はたいそう穏やかで暮らしやすいお住まいなのです。でも今宵はとてものんびりしてはいられず、宇治で聞いた椎の葉の音にさえ劣っているように思えます。「山里の 松の蔭にもかくばかり 身に染む秋の 風はなかりき(宇治の山里の寂しい松蔭のすまいにも、こんなに身に沁みる秋の風は吹いてこなかったわ)」来し方の辛い思いを、中君は忘れてしまったのでしょうか。老女房などは、「もう奥へお入りなさいませ。月を眺めるのは不吉なことでございますよ。ちょっとした果物さえ召し上がろうとなさらないから、困ってしまいますわ」「ほんにお体に悪うございますよ。大君さまは何も召し上がらないでおなくなりあそばしたのですから、どうか少しでもお召し上がりくださいませ」と口々にお進め申し上げます。若い女房たちは『嫌な世の中だわ』というふうにため息をついて、「ああ、これからどうなることやら」「六の姫さまとご結婚なさっても、よもや中君さまをお見捨てにはなさいますまい」「もともと深いご情愛で結ばれた間柄というものは、すっかり切れてしまうことはないと申しますからね」などと言い合っています。中君にはそれがとても聞きづらく、『こんな事情の時にあれこれ言わないでほしいわ。ただ宮さまのなさりようを見守るしかできないのですもの』と思っています。『私が宮さまをお恨み申しても、他人には非難されたくない』とお思いだからなのでしょう。
April 24, 2023
女君は日ごろから万事につけ思い悩むことが多いのですが、それを何とか顔色に出さないようにしようと堪えながら何気なく振る舞って過ごしておいでですので、頭中将の来訪にも格別気にしない様子で、おっとりと振る舞っておいでの態度は、反って気の毒になるのです。宮はさすがに六の姫君の方も気がかりですので、六条院に参ろうとなさいまして、「じきに帰って参ります。一人で月を見てはいけませんよ。私もあなたを残して行くのは心苦しいのですから」と申しおおきになりまして、それでもやはり後ろめたいので物陰から寝殿の方へお渡りになります。その後ろ姿を見送る中君は、嫉妬はしないつもりであったのに、涙で枕が浮くような心地がして、『情けないのは人の心なのね』と、我ながら思い知るのでした。『考えて見ると幼いころから私たち姉妹は心細く哀れな身の上で、世捨て人のような父君だけをお頼み申して、あの宇治の山里で長い年月を暮らしてきたわ。年中手持無沙汰で物寂しい思いはしてきたけれど、こんなふうに心の底から世の中が憂きものと思い知ることはなかった。母君に続いて父君、姉君がお亡くなりになった時は、もう私は片時も生き残っていたくない、こんなに悲しいことは他にあるだろうかと思ったものだけれど、命長らえて今まで生きていると、世間の人が浮気な宮さまに捨てられるであろうと予想したよりは人数に入るような境遇にもなったわ。それも長続きしないとは思うものの、宮さまの優しいお心やお振舞いに私もだんだんと気苦労が薄らいで今日まで暮らしてきたけれど、このたびの辛さはたとえようもなく、もう宮さまとのご縁はこれきりと思わざるを得ない出来事になってしまった。とはいえ、たとえ夜離れなさるとしても、この世にいなくなった人ではないのだから、時々でもお逢いできるのだと思うべきなのに、こうして私を見捨ててお出かけになる辛さに、来し方行く末が混乱して心細く、悲しく、恨めしくて我ながら気持ちのやり場が見つからない。私が生き長らえておれば、宮さまのお心がこちらに向いてくださるかしら』と心をなだめてみるのですが一向に慰められず、姥捨て山の月ばかりがくっきりと昇って、夜が更けるままに思い乱れていらっしゃるのでした。
April 23, 2023
中納言は今でもやはり中君のおん気配を聞き給うたびごとに『どうして大君の意向に背いて中君を譲ってしまったのであろう。いやいや、今更後悔したとて、自分が招いたことではないか』と反省なさるのでした。大君を失ってからはずうっと念仏修行に励む毎日なのでした。母・女三宮は今でもたいそうお若くおっとりとして、どこか気の利かないところがおありなのですが、こうした中納言のご様子には、さすがに出家遁世でもしかねないとお思いになり、「私の命は幾世もないのですよ。せめて私が生きている間は、見る甲斐のある立派な人でいてくだされませ。このような尼姿の母が出家をお止め申すべきではありませんが、あなたさまが出家なさったら母は心惑いのために罪を得るように思います」と仰せになりますのが勿体なく、お気の毒でもありますので、母宮のお前ではお気持ちを抑えておいでになります。左の大殿におかれましては、六の姫君と匂宮とのご婚儀のために六条院の東の御殿を立派にしつらえてその日を待ち望んでいらっしゃいましたけれども、十六夜の月が高くさしあがっても音沙汰がありませんので心もとなくて、『ひょっとするとお気に召さぬ縁談なので、お越しいただけぬのであろうか』と不安になり、使いの者をおやりになってお尋ねになりますと、「宮さまはこの夕つかた内裏からお帰りになって、二条院においでなさるとのことでございます」と申します。匂宮には想いをかけておいでの中君がいらっしゃるので、大殿はたいへん不愉快に思っているのですが、せっかく万事を整えた吉日に、宵を過ぎてしまっては人笑いになりますので、ご子息の頭中将をお迎えの使者として消息をなさいました。「大空の 月だにすめるわが宿に 待つ宵すぎて 見えぬ君かな(大空に澄んでいる月でさえも入ってくる我が家ですのに、宵を過ぎてもあなたさまがお越しにならないとは、残念なことでございます)」匂宮は、『婚儀に出かける姿を、中君に見せたくない。そんな残酷な事』とお思いになって、二条院には帰らず内裏から中君にお文をおあげになりました。そのお返事はどういう内容だったのでしょうか。やはり中君を愛おしくお思いになったようで、こっそりと二条院にお帰りになったのでした。中君の可愛らしい有様を見捨てて出かける気にもなれず、あれこれとお約束をしながら慰めかねて、ご一緒に月を眺めておいでのところに、頭中将がやって来たのでした。
April 22, 2023
話題作というので、公開初日に見に行った。 ネットで座席予約した時はまあまあの入りという印象だったが、翌日行ってみたらほぼ満席状態。年代では50代後半から80代のご夫婦や2~3人の女性グループが目立った。安楽死や尊厳死に対する関心が高まる年代なのだろう。 ゆくゆくは安楽死や尊厳死を是認する社会になって欲しいと願う私は多少の期待感があったのだが、うちのマンションの友人たちは、好奇心はあるものの「75歳って、何よ。ちょっと早いじゃない」「せいぜい85歳にしてほしいと思うわ」という抗議的な意見が多かった。 昔の団塊世代の始まりがちょうど今年75歳になるので、多分それを基準にしたのだと思うが、今の70代はまだまだ元気なのだ。 主人公は仕事を解かれた78歳の女性で、エレベーターもない古い市営住宅のようなところに住んでいる身寄りのない独居老人だ。仕事仲間だった仲良しの女性が孤独死しているのを目撃し、衝撃を受ける。話し相手を失い「PLAN75」で安楽死までの精神的フォローをする女性と長電話するのが唯一の楽しみという設定だった。もう一人応募した老人は、お役所でPLANを推進する若い事務員のおじである。 安楽死を施す建物は灰色で大きく暗く人影もない。女性は一人でバスに乗ってそこに向かい、おじは甥のクルマに乗ってやってくるのだが、なぜかみんなたった一人で歩いて入って行く。それもまた不思議なシーンだし、独居老人とはいえ、友達の一人もいないなんてありえない設定ではないか。 その施設では遺体の始末や死者の持ち物を、使えるものと捨てるものを振り分ける従業員がいるのだが、どうもアウシュビッツを連想させて嫌な気持ちになった。あの場面にはどんな意図があるものやら、私にはおぞましさしか感じ得なかった。 赤い夕陽の中で主人公は死を思いとどまり帰って行くのだが、話題作とはいえタイトルだけがセンセーショナルなだけで、何ともお粗末なストーリーだと思った。 人間は多様な人生を生きているのであり、様々な価値観、人生観、死生観を持っている。安楽死あるいは尊厳死という選択を前にした時、たった二人の登場人物でその多様なシニアの雑多な人生を描くのは乱暴というものである。 私は「安楽死・尊厳死」という選択があることに救いを感じるのだが、この映画に救いはなかった。救いどころか死は暗いものであり、否定されるべき選択肢である事を暗示している。「結局何がいいたいの?」 映画が終わって館内が明るくなった時、前の座席の女性3人組の一人が言った。私もまさに同感だった。
June 28, 2022
土曜日の夕方、メールに返事を書いていたら、いきなり左の鼻孔から何かが流れてきた。指で拭うと真っ赤な鼻血。あわててティッシュ・ペーパーで抑えたがお構いなしにどんどん出てくる。しかも15分経っても出血の勢いは止まらない。 困った私はどうしようか考えた。たかが鼻血でかかりつけ病院である国立のがんセンターに電話していいものだろうか。しかし他にかかりつけ医はいない。逡巡した挙句5時近くになって、診療券に記された電話番号をもとにがんセンターに電話した。すると危惧した通り、近くの救急当番医院と夜間病院を紹介された。そこに電話してだめなら、もう一度こちらに電話くださいと心強いことを言ってくださる。 しかしこんな時一人暮らしは不便なもので、老眼鏡をかけるにも電話番号をメモしようにも片手が鼻から離せない。離すとドボドボ零れ落ちるのだ。電話機のほうを離しながらメモして電話してみたが、救急病院は5時で終了、夜間病院は7時からとのアナウンスが流れるだけでどうにもならず、結局がんセンターにお願いするしかなかった。電話するとありがたいことに受け入れてくれることになった。 自分で運転して行ける状態ではないので、タクシーを呼んだ。その間に着替えようと思ったのだが、何せ手を離せる状態ではない。出血のため団子になったティッシュを取り換えようとしたら、巨大な血のりが鼻の奥からずるずると出て来て再び出血がはじまった。もうやけになって、その団子の下にポリ袋をあてがい、タオルでそれを隠してタクシーに乗った。 病院に着くと守衛のおじさんが救急の入り口で「大丈夫かい」と言いながら待っていてくださった。若い女医さんが鼻の奥にガーゼを突っ込んで止血を試みてくださったのだが、どうにも止まる気配がない。 最初は左の鼻孔だったのに、止血を施されると右の鼻に血が回ってきて呼吸ができなくなった。しかも口の中に落ちてくるのでそれを飲み込むと、鼻の孔から血がぷっと吹き出す始末。 さすがのドクターも、これは専門医でなくては処置できないと判断したようで、耳鼻科のドクターを呼んでくださった。30分もしないうちに若い男性の耳鼻科医が来てくださって、鼻孔の血液を吸引し、出血場所を見定めて強く抑えたあと焼いて止血してくださった。「細~い動脈からぴゅーぴゅー出血していた」そうで、「早く病院に来てよかったですよ。動脈なら自然に止血しませんからね」と言われて、鼻血で耳鼻科医まで呼んでしまったことに心苦しさを感じていた私は、救われたような気持ちになった。 そんなこんなで家に帰ってきたのが夜8時。帰るとやたら冷たい水が飲みたくて、寒気がするのにがぶがぶ飲んだら気持ち悪くなってしまった。瀉血の経験はあるのだが、こんなに口が乾いたことはなかった。それほど出血が多かったのだろうと考えて「塩とライチ」を水に溶かして飲んだらおいしくて、やっと落ち着いた。その夜は微熱が上がって37.8度になり、震えながら湯たんぽを入れて、それでもぐっすり眠った。 たかが鼻血なのに大変な目に遭ったが、守衛のおじさんはじめ、ドクターや看護師さんたちの親切に深く感謝した一日だった。
June 3, 2022
「世の憂きよりは山里のほうが良いと昔の人は歌に詠んだものですが、そのような事を考えもせずに暮らして参りました。今では静かな生活をしたいと思うのでございますが、それも叶わぬことなれば、宇治に残して参りました辨の尼を羨ましく存じます。この二十日過ぎは父君の三回忌でございますれば、宇治の山荘に近い寺の鐘の音を聞きたくも思いまして、私を目立たぬように連れて行っていただけないものかと、お頼み申しあげたいと思っておりました」と仰せになります。「あなたさまが山荘を荒らさぬようにとお思いでいらしても、どうしてお連れ申せましょう。道中は荒々しい山道でございますから、男でも気軽に出かけられるところではなく、私も気にかけながらなかなか行けずにおります。故・宮のおん忌日につきましてはかの阿闍梨にしかるべき法要を言い置いております。山荘はあのままにしてお置きになり、尊い御寺としてお譲りなされませ。私も山荘を訪れるたびに昔を思い出して心の惑いが絶えませぬ。この罪障を消滅するためにもと存じますが、あなたさまはどのようにお考えでいらっしゃいましょうか。私はともかくあなたさまのお考えに従いとう存じますので、どんなことでも遠慮なくおっしゃってくださいまし。それが私の本意でございます」と、真面目な様子で申し上げるのです。中君はこの機会にかこつけて『宇治に引き籠ってしまいたい』といったご様子なので、「そんなことをしてはいけませぬ。何事も鷹揚にお考えなさいませ」とお諭しになります。日が昇りますと女房たちが集まって参ります。あまり長居をしては二人の間を邪推されそうですのでお立ち出でになります。「御簾の外に置かれます事に慣れておりませんから、どうもきまりの悪い思いがいたします。それでもまたお伺いしましょう」匂宮の『どうして私が不在の折に来たのだろう』と気を回すご性格が煩わしいので、侍所の別当の右京の大夫をお召しになって、「夕べ宮が内裏から退出なさったと聞いたので参ったのだが、お帰りでないとは残念だ。今から参内しようと思うが」と仰せになりますと、「今日はきっとお帰りになりましょう」「それではまた、夕方にでも参ろう」とて、お帰りになりました。
May 15, 2022
「秋の空は常より物思いが勝るような心地がいたします。そのつれづれの慰めにしようと存じまして宇治に参りましたけれども、山荘の庭も籬もひどく荒れ果てておりまして、耐えがたい寂しさを感じました。かつて六条院がお亡くなりなされるニ三年前に、出家なされて棲んでいらした嵯峨の院や六条院に参りましても同じでございまして、木や草の色につけても水の流れにつけても悲しみを慰めることができず、涙にくれたまま邸に帰ったものでございます。六条院にお仕えしていた人々は身分の上下を問わず、皆が深く嘆き悲しんでおりました。六条院に住んでいらしたご婦人方もみな退出なさって散り散りになりまして、それぞれ俗世を離れた出家の生活にお入りになりました。はかない身分の女房などは落ち着く先もなく、分別を失って山や林に籠り、あるいは何のあてもないまま田舎者になるなど、哀れに散らばっていく者が多くいたものでした。そうして六条院が荒れ果て、忘れ草が生い茂るようになりました後に、左の大臣が移り住みまして、明石中宮腹の姫宮たちもおいでになり、六条院も昔にかえったように賑やかになったのでございます。この世に類ない悲しさと私が思いましたほどの事も、年月が経ちますとその悲嘆を思い諦める折がやってくるものだ、悲しみにも限度があると、その時に思ったのでございます。とは申しましても、あのころの私はまだ幼くて、あまり感じなかったのでございましょう。大君がお亡くなりになられた悲しみこそ慰む方もないように存ぜられますのは、世の常なき悲しみとはいえ、罪の深さにおいては勝っているのではなかろうかと、ひどく情けなく思うのでございます」とて、泣いていらっしゃるご様子は、たいそう愛情深いのでした。特に大君に縁のなかった人でさえ、中納言が執着なさるご様子を拝見しますと、何となくもらい泣きしそうですのに、まして中君はご自分も宮の冷淡なことに不安を感じていらっしゃいますので、いつもより一層大君が恋しく哀しく思い、お返事もようおできにならず、涙ばかりが流れるのでした。こうして中納言も中君も、互いにしみじみと悲しみに浸るのでした。
May 7, 2022
中君はいつもより沈み込んでいらっしゃいます。『きっと六の姫とのご結婚に思い悩んでいらっしゃるのだろう』と可哀そうにお思いになって、細やかに世の中のあれこれを、まるで兄妹のように教えお慰めになります。もともと声は大君に似ておいででしたが、今はまるで大君その人が目の前にいらっしゃるようで、もし人目がなければ簾垂を引き上げて中に入り、差し向かいで悩みを伺いたいほどなのです。『それにしても、真面目な人であっても女のために物思いをしない人は、この世にいないものだな』と、痛切にお感じになるのでした。「私は他人が望むようなきらびやかな出世には縁遠く、それゆえ不遇のために嘆き悲しむことも、心に思い悩むこともなく生きていけるものと思って参りました。しかしおのずから悲しみを得、ばかばかしくも悔しい物思いまでいたしまして、あれこれ気持ちが休まらずくよくよ思い悩んでおりますけれど、それも甲斐のないことでございます。世間の人が重大なこととする官位に悩むのは道理ですが、私の悩みはそれより罪が深いように思います」など言いながら、持っていらした朝顔の花を扇に置いて見ていらっしゃいましたが、萎れてしだいに赤みを帯びていきますのも反って風情があるようにお感じになって、そっと簾垂の中に差し入れて、「よそへてぞ 見るべかりける白露の 契りか置きし 朝顔の花(かつて亡き大君が身代わりにとてお約束したあなたさまを、やはり私のものとしてお世話すべきでした)」ことさら露を落とさないように持って来たわけでもありませんのに、露を置いたまま枯れていく様子ですので、中君、「消えぬ間に 枯れぬる花のはかなさに おくるゝ露は 猶ぞまされる(露が消えぬ間に枯れてしまう花の儚さよりも、残された露の身である私のほうが儚さではまさっております) 何を頼りにしての命でございましょう」と、たいそうひっそりと仰せになって、慎まし気に言葉を言い消していらっしゃるご様子に、『やはり大君によく似ていらっしゃる』と思うにつけても悲しいのでした。
May 1, 2022
夜が明けていくにつれて、霧が立ち上る空の景色には風情があるのですが、『宮がご不在とのことだから、女房たちはきっとしどけなく朝寝坊していることだろう。格子や妻戸を叩いて案内を乞うのはいかにも野暮というものだ。ずいぶん早朝に来てしまったのだな』と思いながら中門の開いているところから中を覗いてご覧になりますと、従者が、「御格子などもみな上げてございましょう。女房が立ち歩く気配などもいたします」と、申しますので、車を降りて霧に紛れて対の方へお入りになります。若い女房たちは、「きっと宮さまがお忍び歩きからお帰りになったのだわ」と話していたのですが、朝露に湿った中納言の香りが漂って参りますので、「やはり中納言さまは他の人とは違いますのね」「でも気取っていらっしゃるところが憎いじゃありませんか」などと互いに言い合うのでした。女房たちは、朝早く、しかも突然の訪問にもかかわらず驚き慌てた様子もなく、品のよい立ち居振る舞いで御敷物を差し出すのでした。「ずいぶん遠いお席のように感じますが。やはりまだ私を信用できず、どうしても御簾の外にお置きになりたいのですね。これでは情けなくて、度々ご訪問もできませんな」と言いますと、女房たちは困惑して、「では、どのようにいたしたらようございましょう」と申し上げます。「北面のような目立たない部屋なら、私のような老人が伺った時にふさわしい休息の場になりましょう。それもただ中君のお心ひとつですから、文句は言いますまい」とて、長押に寄りかかっていらっしゃいます。女房たちは、「やはり御簾の前にお出でなされませ」と、中君にお勧め申します。もとより中納言はゆったりしたご性格で、性急に荒々しい態度をお見せにならないお人柄でいらっしゃいますけれども、近頃は一層しんみりと沈んでいらっしゃいますので、かつては気づまりであったことも次第に薄らぎ、顔なじみになるに従い中君ご自身でお話しになるのでした。ご気分の優れない中君に、「どうなさったのです」とお尋ねになるのですが、はかばかしいお返事もようおできにならないのでした。
April 30, 2022
格子を上げたまま眠れずに夜をお明かしになって、朝顔の花が開くのを一人でご覧になるのでした。お側に仕える者を召して、「三条の宮邸に参るから、目立たない車を出させよ」とお命じになります。従者は、「宮さまは昨日から内裏におわします。供人が夕べ御車を引いて帰って参りましたので」と申します。「構わぬ。対のおん方がご病気でいらっしゃるから、その見舞いに参る。今日は私が参内する日だから、日が高くならぬうちに」と仰せになり直衣をお召しになります。出かけるついでにお庭に下りて花の中にお立ちになるご様子も、特に風流に振る舞わなくともあでやかで風雅で、不思議なほど優美でいらして、こちらが恥ずかしくなるほどなのです。ひどく気取った色好みどもとは比べようもありません。朝顔を取ろうとお引き寄せになりますと、露がほろほろとたいそうこぼれます。「けさの間の 色にやめでむおく露の 消えぬにかゝる 花と見るみる(露の消えぬわずかな間に咲く、はかなく脆い花と知りながら、その色香にどうして心惹かれるのであろう)何と愚かなことよ」と独り言ちながら花を折って持っていらっしゃいます。なまめき立っている女郎花には目を止めずお立ち出でになります。
April 27, 2022
陰鬱として寒々とした漁村での、キリスト教系牧師一家のお話である。 厳格で禁欲的な父親の死後、二人の姉妹が細々と礼拝を守っていたが、信者たちは老いて愚痴っぽく、互いにいがみ合って罵り合うしまつ。 ある晩、嵐の中をフランス人女性がやってきて、家政婦をすることになる。彼女の名前がバベット。 バベットが14年務めたころ、宝くじに当たって1万フランという大金を手にした。そのお金を使って、牧師の生誕100年の祝賀晩餐会を開きたいと申し出る。「そんなお金があれば、楽に暮らせるでしょうに」 姉妹の一人の宗教者らしからぬ世俗的なセリフが、さりげなく印象的だった。 バベットは3日の休暇をもらい、その間に村人が見たこともないような食材や年代物の高級ワインを用意する。1万フラン全額を使って! 招待された信者たちは誰もが貧しく、粗末な食事に甘んじて暮らしていたので、どんなに嬉しかろうと思うのだが、誰も喜びを表さない。「食事の事は話題にするな」「舌は神を称えるためにある」というわけだ。宗教は、時に人間の素直な喜びや楽しみさえゆがめる、精神の枷になるものだと私は感じた。 おいしい食事に驚きながら、誰もその食事を作ってくれたバベットに思いを致さない。食事の席で「互いを愛せ」と言いながら、互いとは誰か、自分たちのために料理を作ってくれているバベットを、その「互い」から疎外していることに気づかない独善的な宗教観にも皮肉なものを感じた。 食事が終わってみれば、礼拝で罵り合っていた仲間たちが和解し、互いに許し合うようになっている。これも「おいしい食事は(宗教よりも)人間の心を満たす力がある」と言っているようである。 私は宗教を否定はしないが、ちょっとつつかれるとヒステリックになって議論にならない宗教者の包容力のなさや、独善的な偽善性を好きにはなれない。 この晩餐会で高級フレンチのフルコースを堪能した老信者たちは、その後人生観が変わっただろうか。もちろん芸術家を自称するバベットは、そんなことを期待していなかっただろう。彼女はただおいしいものをご馳走して、みんなに幸福感を味わってほしかっただけだから。私はこの一見ほのぼのとした映画に、静かだが宗教者に対する強烈な批判を感じないわけにいかなかった。
April 20, 2022
『大君を失って思うのだが、帝の女二宮を賜ると仰せ下されても嬉しくない。それより中君を得られたらどんなに嬉しかろうと思う気持ちの方が次第にまさってくる。大君の妹であると思うだけで諦められないのだ。このお二方はこの上なく仲の良い姉妹で、いまわの際にも『中君を私とお思いくださいまし。あなたさまには不満も不服もございません。ただあなたさまが中姫と結婚してくださらないことだけが口惜しく恨めしく、それが心残りでございます』と仰せだった。されば今の中君については、きっと私を恨んでいらっしゃることだろう』一人寝し給う夜な夜なは、風の音にも目が覚めて、こんなふうに人の世の味気無さをしみじみと思いめぐらしていらっしゃるのでした。そんな寂しさの慰めには、親しい話し相手にもなる女房や身近に使い慣らしているお気に入りの女房もいるのですが、あっさりしたもので中納言のお心にとまるような人はいないのでした。とはいえ、宇治の姫君たちと同じような身分でありながら、時世によって衰退し心細い生活をしている女君たちを三条の宮に大勢お引き取りになっていらっしゃるのでした。その中にも『出家する時に罪障となるような女人はつくるまいと用心したのに、大君を恋慕したために帝の二宮にも気乗りしなくなるとは、我が心ながらひねくれ者よ』と、まどろみもせず夜をお明かしになります。朝になって霧の籬から花の色々が風情ありげに見渡せる中に、朝顔の花がはかなげに混じって咲いているのに、特に目が留まるような心地がなさいます。「夜明け前に咲いて」とか、無常の世にも比べられるので、可哀そうに思うのでしょう。
April 13, 2022
中納言殿もお聞きになって、『なんともお気の毒なことよ。派手好きで浮気な宮でいらっしゃるから、中君を可愛いとお思いになるとしても、きっと新婦にお心移りなさるに違いない。何と言っても里方がたいそうしたたかでいらっしゃるから、きっと宮をお放しにはなるまい。そうなれば独り寝に慣れていらっしゃらない中君は宮を待って過ごすことになろう。お気の毒なことだ』とお思いになるにつけても、『私は今までなにをしてきたのであろう。どうして中君を宮に譲り申してしまったのか。私が大君に恋慕してからは、俗世を離れて悟りきっていた心もすっかり濁ってしまって、ひたすら大君のことをあれこれ思いながら、それでもさすがに大君のお許しがあってこその結婚だと遠慮していた。ただどうしたら心を開いてくださるものか、何とか打ち解けた様子をみたいものよと先に望みをかけていたのだが、大君はそう思っていてはくださらなかった。かといって私をはねつけるお気持ちもないように思えたのだが、姉妹であるからと言って私が望みもしない中君を押し付けになったのが辛くて、無理やり宮に取り持ったのだった。あの頃を思い出すと全く怪しからぬ料簡だったと返す返す悔しく思う。宮も、六の姫を娶るとしても、当時の私の奔走をお思い出しになれば多少の慎みがあってもよろしいではないか』と、匂宮を憎くお思いになります。それも中納言ご自身があまりに大君お一人に執着なさる性癖のために、浮気な男はみな非難されて当然と見ていらっしゃるからなのでした。
April 11, 2022
『故き姉上は、頼りなくもの儚いご様子に見えたけれど、心の底には芯の強いところがおありだったわ。中納言殿がいまだに姉上をお忘れにならず、お越しになるたびいつも悲しんでいらっしゃるけれど、もし生きていらしたら私のように結婚を後悔なさったかしら。いえ、そんな苦悩を味わうまいとして尼におなりだったかもしれない。今思うと姉君は本当に深くお考えになっていらしたのね。あの世にいらっしゃる父宮もお姉さまも、私の事をきっと軽薄な者と見ていらっしゃるでしょうね』と、恥ずかしく悲しくお思いになるのですが甲斐もありませんので、宮にはそのような気配もお見せにならず、ひたすら堪えて六の姫のことは知らないふりをして過ごしていらっしゃいます。匂宮は心配させまいといつもより一層優しい態度で、起き伏しにつけしみじみとお話しになり、この世ばかりかあの世までの長いお約束をなさいます。それもこの五月あたりから中君のご気分のすぐれない事があるからでした。ひどく苦しがりなどはなさらないのですが、いつもよりお食事が進まず臥してばかりおいでになりますのを、宮はまだ懐妊した女人の様子をご存じありませんので、暑さのせいだろうと思っていらっしゃるのでした。それでもさすがに『ひょっとして』とお思いになることもあって、「どうしたのです。お子ができた人がそんなふうになるというけれど」と仰せになるのですが、中君はひどく恥ずかしがってさり気なく振る舞いますので、おそばに仕える女房も差し出がましく言えないのでした。八月になりますと六の姫との婚儀の日取りなども聞こえてきます。宮は隠し立てしようというおつもりはないのですが、言い出すのが心苦しくて何もおっしゃらないのでした。それを女君はいかにも辛くお思いになるのです。『ご婚儀のことは世の中で広く知られているのに、その日取りさえおっしゃってくださらないなんて』と、恨めしく思うのでした。中君が二条院にお移りになりましてからは、宿直をなさらず、他の女君のもとにお忍び通いなさることもありませんでしたけれども、このご婚儀の後急に夜離れすることをどう思われるかと心苦しく、それを紛らわすためにこの頃では時々おん宿直なすっていらっしゃるのも、中君にとっては薄情なお仕打ちと哀しくなるのでした。
April 10, 2022
何事も進展を見ないまま年は変わりました。女二宮も母女御の一周忌が終わりましたので、婚姻には何の憚りもありません。「中納言殿がお申し出でになるなら、帝はご結婚をお許しになられるお心積もりでいらっしゃいますよ」と、中納言に進言する人々もありますので、『あまり知らぬ顔をしているのも失礼なことだ』と思い、しかるべき折には中納言もお文で意中をお伝えになりますので、人伝に『婚姻の日取りをお決めになられたとか』などお聞きになるにつけても、お心内ではやはりあの亡くなられた大君のことが忘れられないのでした。『こんなに忘れられずに悲しく思うほど因縁の深かった人が、どうして夫婦にもならずに逝ってしまったのであろう。たとい身分が低くても大君に似た人がいるなら、心も慰むであろうものを。昔、漢の武帝の時代にあったという反魂香の煙につけてでも、今一度お会いしたいものだ』とばかり思われて、女二宮とのご婚姻を急ぐお気持ちはないのでした。一方、左の大殿は六の君のご結婚をお急ぎになりまして「八月あたりに」と、匂宮にお申し出でになりました。それをお聞きになった二条院の対にお住いの中君は、「ああ、やはり思ったとおりになってしまったわ。これではとても末を全うすることはできないでしょう。物の数でもない私は人からの笑われ者になって、きっと辛い目に遭うに違いない。宮さまが浮気なご性分でいらっしゃることもみんな覚悟のうえで今まで過ごしてきたけれど、一緒に暮らしてからは特に薄情なお気持ちもなく、深い契りをお約束してくださったわ。でも六の姫とのご結婚が決まって急に私へのお気持ちが冷めたらどんなに辛い事でしょう。身分の低い夫婦の間柄のようにすっかりご縁が切れることはないにしても、今後は心やすらかではいられないでしょうね。私はもとの山住に帰らなくてはいけないのかしら。このまま都から姿をくらまして宇治に帰ったとしても物笑われの種でしょうけれど」と、返す返すも故・父宮のご遺言に背いて山荘を離れてしまった軽率さを、恥ずかしくも辛くも思い知られるのでした。
March 13, 2022
「今は帝さえも婿探しをなさる末世軽薄なご時世でございます。まして臣下の娘が婚期を逃すというのも困ったもので、どうしたものかと案じております」と、明石中宮にまで非難がましく仰せになって、「我が家の六の姫をぜひ兵部卿の宮に」と、たびたび真顔で懇願なさいますので、中宮もお困りになって、「お兄さまがそのようにお考えでいらしたとは、たいそうお気の毒なことですよ。それなのにあなたは意地悪く避けていらしたなんて、ずいぶん薄情ではありませんか。親王というものは、良くも悪くもおん後見によって運勢が決まるのですよ。お上も『我が治世も末になりつつある』とおっしゃっておいでです。臣下は本妻が決まってしまえば、他の女に心を移すことが難しくなるのです。お兄さまもたいそう真面目なご様子をなさりながら、こなたかなた両方を上手に扱っていらっしゃいますよ。ましてあなたが立坊ともなれば、おそばに何人置いてもよろしいではありませんか」と、いつになく長々とお話しになり、もっともらしくご説得なさいます匂宮はもともと六の姫を嫌っていらしたのではありませんので、おとなしく母宮のお説教を聞いていらっしゃいます。ただ、結婚するとなると大殿の几帳面で堅苦しい家庭に束縛されて、今まで自由気ままだった生活ができなくなることを辛くお思いになり、気乗りがしないのでした。それでも、『母上がおっしゃるように、この大臣に恨まれると不利になるだろうな』と、次第に母・中宮のご説得に負けてしまうのでした。とはいえ浮気性でいらっしゃいますから、按察使大納言の紅梅のおん方についてもいまだにお諦めきれず、花や紅葉につけてもお文をお上げになりながら、六の姫とともにゆかしく思っていらっしゃるのでした。
February 16, 2022
「霜にあへず 枯れにし園の菊なれど 残りの色は あせずもあるかな(霜に耐え切れず枯れてしまった菊のような女御ではあるが、残された娘は器量よしですぞ)」と仰せになります。帝がこうして折につけ女二宮との結婚を仰せになりますのを承りながらも、慎重なご性格の中納言は飛びついたりなさいません。『いやいや、もとよりこれは私の本意ではない。これまで中君や六の君との縁談をやりすごしてきたのだから、今更結婚など聖僧が還俗するようなものではないか』とお思いになりますのも、おかしな例え方というものです。『それに今上の婿になろうとして、女二宮にご執心な人も多くいると聞く』とは思いながら一方では、『せめて明石の后腹でおありなさるならまだしも』と、あまりにも身分不相応な事をお思いになります。左の大殿は、『我が家の六の姫には気乗りのしない中納言であったが、私の方から頼み込んだなら拒み通すことはできまい』とお思いでしたのに、帝のご意向を伝え聞いて、『思わぬ伏兵が出現したものだ』と、妬ましく思います。匂兵部卿の宮は、六の君に対して特に熱心というわけではないにしろ、折につけ興味のある様子で絶えずお文をくださるので、『それはそれで一時の好色であるとしても、宿縁があるなら六の君にお心が留まることがあるかもしれぬ。固い契りを約束してくれる婿が望ましいが、平凡な身分の妻に成り下がるようでは、これまた外聞が悪く勿体ないことだから、ここはぜひ匂宮を婿に迎えたいものだ』と思い至るのでした。
February 14, 2022
『中納言は何事につけても宮たちに引けを取ることがあるまい。たとえ思い人がいるとしても、女二宮に薄情な扱いをすることはなかろう。しかし本妻を定めてしまう前に、それとなくほのめかしたいものだが』と、折につけ思召すのでした。女二宮とご一緒に碁などをお打ちになる夕暮れの、時雨が風情ありげに降る折に、白菊の花の色が夕日に映えるのをご覧になって、人をお召しになり、「只今、殿上に誰がいるか」とお尋ねになりますと、「中務の親王、上野の親王、薫中納言の朝臣が仕えております」と奏上します。「では中納言の朝臣をこちらへ」との仰せ事で、薫中納言が参上いたします。ほんに、こうして御前にお召し出しなさるにつけてもその甲斐があり、その上遠くからでも薫ってくる匂いからも、ほかの人とは違っていらっしゃるのでした。「今日の時雨はいつもより格別にしめやかだけれども、喪中ゆえに管弦の遊びなどできないところだから、たいそう所在ないのですよ。暇つぶしの遊びとしては碁がよろしいでしょう」と仰せになり、近くへお召し寄せになります。いつもこうしてお呼び寄せになりますので慣れてはいるものの、帝はご意向を悟られたのではと思召して、「よい賭けものではないけれども、軽々しく渡すことのできぬものとしては他にはあるまいと思いましてね」と仰せになるご様子に、中納言ははっとお気づきになって、たいそうかしこまっておいでになります。帝は三番勝負で一番をお負けになり、「残念だね。今日賭けものを渡すべきなのですが、まずこの菊の花一枝を許すことにしよう」と仰せになります。中納言は黙ってお庭に下りて、風情のある一枝を折って参りました。そうして、「世の常の 垣根に匂ふ花ならば 心のまゝにて 折りて見ましを(世間並みの家の垣根に咲く花でございましたら、思う通りに折ってみましょうけれど)」と、奏上なさいます。帝はその態度に頑ななものをお感じになるのでした。
February 5, 2022
身分の低い女官などまで、お偲び申し上げない者はいないほどでした。お上が、まだお若い女二宮が心細く悲しい思いに沈んでいらっしゃることを聞し召して、気の毒にも可哀そうにも思召し、おん四十九日が過ぎますと、目立たぬようにして宮中にお呼び寄せになり、毎日お部屋にお出ましになってお見舞いあそばします。女二宮は黒い喪服をお召しになり、少しやつれておいでになるご様子はたいそう可愛らしく上品さが勝っていらっしゃいます。お振舞いも大人びておいでで、母女御に比べましても慎み深い落ち着きがより備わっていらっしゃいますので、帝もご性質の点では安心しておいででしたが、ご内心では『おん母方においても、後ろ身として頼りにできる伯父のような人もいない。かろうじて大蔵卿や修理の大夫という者がいるが、女御とは異腹であったな。それに彼らは世間からの信望も篤くはない。このような身分の者を後見にしても頼りなく、辛い事が多いに違いない。それも可哀そうなことだ』と、苦慮なさるのでした。清涼殿のお庭の菊の花が霜のためにすっかり萎れ果て、空模様もしみじみと哀しく時雨れが打ち振るのをご覧になっても気がかりに思召して、女二宮のお部屋で母女御がご存命でいらしたころのお話などをしみじみなさいます。女二宮はおおようにおっとりしていらっしゃるのですが、子供じみたところがなく、お返事などもきちんとなさいますので、帝は可愛いとお思いになります。『こんなに可愛い姫の良さを理解して、大切にしてくれる人がいないものか』と昔、朱雀院の六の姫を六条院の殿に降嫁なすった折の事などをお思い出しになられて、「あの当時は『いくら何でも姫宮の降嫁とは不本意な。それなら未婚のままでおありなさるほうがよろしいのに』と、朱雀院に申し上げた人もあったようだ。しかし女三宮が出家なさった後のおん後ろ見には、人より優れた子息の源中納言が大切にお世話しているから昔ながらのご声望も衰えず、今でもやんごとなきご様子で長らえていらっしゃるのだ。そうでなければ思いがけず不幸な目に遭って、人から軽んじられることもあったであろう」などとお思い続けられて、「ともかく我が在世中に、ぜひとも後ろ身を決めたいものだ」とお考えになりますと、この中納言以外よろしかるべき人がいないのでした。
January 31, 2022
故・左大臣殿の女二宮が藤壺女御として入内なさいました頃の事でございます。今上がまだ春宮と申し上げた当時、明石中宮より先に参内なさいましたので、おん仲はたいそう睦まじく、ご情愛も深くていらっしゃるのですが、立后なさるようなご様子もないまま年を過ごしておいででした。明石中宮には多くの宮たちがお生まれになりご成長なさいますのに、ただ女宮お一所だけをもうけていらっしゃるのでした。「私は明石中宮の勢いに圧されたてまつる宿世だけれど、それを嘆かしく思わずに、この女二宮の養育だけを楽しみにして大切にお世話しましょう」と、かしづいていらっしゃるのでした。女二宮のご容貌はたいそうお綺麗でいらっしゃいますので、帝も可愛く思召していらっしゃるのでした。とはいえ、明石中宮腹の女一宮を世に類なきまで大切にしてかしづいていらっしゃいますので、世の覚えは及ぶべくもないのですが、内々でのお扱いは、劣ることがありませんでした。今でも父・左大臣殿のご威勢の盛んだったころの名残りが衰えていませんので、特に経済的な心配もなく、お側に仕える女房たちの身なりをはじめとして調度品なども立派に整え、季節に応じて今風に風雅に暮らしておいででした。女二宮が14歳になり給う年の春、母・藤壺女御がおん裳着の儀式の用意を急ぎはじめられまして、すべて並々ならぬようにと、母方に昔から伝わるおん宝物どもを「この折にこそ」と探し出してせっせと集めていらしたのですが、夏ごろから物の怪にお患いになった挙句、たいそうあっけなくお隠れになってしまいました。今更嘆いても仕方のないことながら、お上もお悲しみあそばされます。気立ての優しい懐かしいところのおありだった御方ですので殿上人も異口同音に「何と残念なことよ」と惜しみ申し上げます。
January 28, 2022
「中納言はこちらにおいででしたか。おや、簀の子にご案内なさるとは、ずいぶんよそよそしいおもてなしですな。以前は私が嫉妬するほど行き届いたお世話をしてくださった人ではありませんか。私としては何か起こるのではと、心配ではありますけれど、むげに隔てを置くのも罪作りというものです。もっと近くにお寄りになって昔の思い出話でもなさいませ。とはいえ、あまり油断なさってもいけませんよ。中納言の下心がわかりませんからね」と、宮は相反したことをおっしゃいますので、中君は煩わしく思うのですが、中納言の親切を身に沁みて感じてもいらっしゃいますから、『中納言殿がおっしゃるように、大君のおん身代わりと思い申し上げて、私の感謝の気持ちをお見せする機会もあることでしょう』とお思いになりながらも、宮は何かにつけて中納言との仲を疑っていらっしゃいますので、息苦しくお感じになるのでした。
January 12, 2022
近頃宮は二条院にばかりいらして、中君とたいそう仲睦まじく暮らしていらっしゃるご様子に、中納言は一安心なさるのですが、やはり匂宮に中君を取り持ったことが悔やまれるのです。されど、ご本心では中君のおんためにはこれで良かったのだと納得していらっしゃるのでした。匂宮とあれこれおん物語をしていらっしゃいましたが、宮は夕方に参内なさるとのことで御車の用意をなさるやら、お供の人々が大勢集まって参りまして落ち着かず、西の対にいらっしゃる中君の御部屋においでになります。中君は山里での生活からすっかり変わって、御簾の中を奥ゆかしく上品に住みなしていました。御簾から透き影がほのかに見える可愛らしい童女を介して案内を伝えますと、女房がおん褥をさし出しました。きっと宇治での昔を知る女房なのでしょう。中納言の前に出てきまして、中君からのお返事を申し上げます。中納言は、「こちらのお邸とは目と鼻の先ではございますが、さしたる用事もなくお文を差し上げましては反って馴れ馴れしいと宮からお叱りがあろうかとご無沙汰をしておりますうちに、世の中が変わってしまったような心地がいたします。お庭の梢が霞を隔てて見えるにつけましても、哀しいことが多くございました」と申し上げて、じっと物思いにふけっていらっしゃる御様子がいかにも悲しそうなのです。『ほんに姉君が三条のお邸においでであれば思い通りに行き来出来、折々に見聞きする花の色や鳥の声もお互いに楽しんで過ごすことができたでしょうね』など、思い出されるにつけても、世間から離れて過ごしていらした宇治での心細さよりも、大君亡き今の京での暮らしは飽かず悲しく無念なことが多いのです。女房たちも中君に、「世間並みに他人行儀におもてなし申してはいけませんわ」「ほんに、中納言殿の有難い御心のほどが、はっきりお分かりになりましたでしょう」など申し上げるのですが、人を介さずに直接お礼を申し上げることなど気が引けてお出来にならず、ぐずぐずなさる間に宮が参内なさるとて中君のお部屋にお渡りになりました。たいそう上品に容姿を整え化粧をなさって、ほれぼれするようなお姿でいらっしゃいます。
January 10, 2022
一方左の大殿は、藤典侍腹の六の姫と匂宮とのご結婚を『この二月に』と決めていらっしゃいましたのに、宮が思いがけない人を『この結婚より先に』とばかりに二条院に迎えて、宮中からも六条院からも離れてかしづいていらっしゃいますので、ひどく不愉快に思っていらっしゃいます。宮はそれをお聞きになるにつけてもバツが悪く、六の姫へのお文は時々おあげになります。六の姫君の御裳着の儀式も世間では評判ですし、父・左大臣も急いでいらっしゃることですので、日延べするなど人笑いの種になりそうですから、二十日すぎに行われました。左大臣は、『私と中納言は兄弟であるから、六の姫と結婚しても珍しいことではない。他人の婿にするには勿体ないから、できれば中納言を迎えてもいいのだが。近頃思い人を亡くして心寂しく物思いにふけっているようだから、好機かもしれぬ』と思いつきなされて、しかるべき人を立てて中納言の意向をお確かめになられたのですが、「大切な人を亡くしまして世の儚さを間近に見たせいでしょうか、ひどく心憂く、こうして生きている我が身もゆゆしく思われますので、とても気が進まないのでございます」と、結婚に関心がないご様子でいらっしゃいます。左大臣がお聞きになって、「これはまあ、どうしたことか。宮どころか中納言までも私が恐る恐る申し出た縁談を断るとは」と、お恨みになるのです。このお二方は親しいご兄弟でありながらも、中納言の御人柄はこちらが気恥ずかしいほどでいらっしゃいますので、さすがの左大臣も無理強いはなさらないのでした。花盛りの頃になりますと、二条院の見事な桜をご覧になるにつけても「主なき宿」の宇治の山荘が思いやられますので、中納言は、「宇治の桜は、誰の気兼ねもなく心やすく散るのだろうな」とつぶやき給いて、宮のおんもとに参上なさるのでした。
January 8, 2022
途中の嶮しい山道の様子を初めてご覧になって、『宮さまのお越しが遠のくのが辛くてたまらなかったけれど、こんなに嶮しい山道では無理もないことだったわ』と、少しお分かりになるのでした。七日の月がすっきりと差し出でまして、まわりがおもしろく霞んでいるのをご覧になっても、車でのお出かけなどしたことがありませんので辛いのでした。「ながむれば 山より出でて行く月も 世にすみ侘びて 山にこそ入れ(こうして眺めてみれば、山から出て空をゆく月と同じように、私も京に住みかねて宇治の山に帰るのかもしれないわ)今は迎えられて行くけれど、宮さまのお心変わりで見捨てられて帰るなら、私はどんなにみじめかしら」とばかりお考えになりますと不安でたまりません。『今まで宇治で何を考えていたのかしら』と、昔を取り返したいようなお気持になるのでした。宵を過ぎたころ、やっと二条院に到着しました。今まで見たこともないような御殿が三棟も四棟も並んでいる中に車を引き入れますと、今か今かと待っていらした宮がお迎えになってご自身で中君を降ろしておあげになります。二条院のしつらいなどは贅を尽くして飾り立ててあり、女房たちの局まで宮ご自身がお心配りしてご用意なすったことがはっきり分かるのでした。他人には「一体どのような待遇を受ける女人なのか」と思われていた中君でしたが、こうして並々ならぬご待遇に「宮さまはたいそうご執心でいらっしゃるのだ」と世間の人も驚くのでした。中納言は新築中の三条のお邸に、この二十日過ぎにお引越しになるとて、この頃は日々三条の宮で工事の具合を見ていらっしゃいましたが、二条院とは近いあたりですので中君の様子も知りたいと思っていらっしゃいました。夜が更けるまで三条のお邸においでになりましたが、宇治におやりになった前駆の人々が帰って参りましてお引越しの様子などをご報告申し上げます。中君が二条院をたいそうお気に召したことや、宮が大切にもてなしていらしたことなどをお聞きになるにつけても、嬉しいと思う一方でお胸が痛むのでした。「昔を取りもどすことができるなら…」と、返す返すも残念で、「しなてるや 鳰(にお)の湖に漕ぐ舟の まほならねども 逢ひ見しものを(中君と実事はなかったけれども、かつては共寝をした仲だったのに)」と、ついけちをつけたくなるのでした。
January 6, 2022
お部屋の中をきれいに掃除し、あれこれ取りしたたためていますと、お迎えの御車が参りました。乗っている人々は四位や五位の身分の高い人がたいそう多いのです。宮ご自身もお迎えに参じたいと強くお思いでしたが、それではあまりに事々しくて都合が悪かろうとお邸で今か今かと待っていらっしゃいます。中納言からも数多くの人々をお迎えにお寄こしになりました。大方の事は宮が御指図なさったようですけれども、内々の細かなお世話は中納言が行き届いたお世話をして差し上げるのでした。供人が、「日が暮れてしまいます」と申しますし、女房たちからも出発をご催促申しますので、中君は気もそぞろで『京はいったいどんなところかしら』と思うにつけても心細く悲しくなるのでした。お供として一緒に車に乗る大輔の君という人が、「あり経れば 嬉しき瀬にも逢ひけるを 身を宇治川に 投げてましかば(生きていればこそ、こんな嬉しい機会にも出会うのですね。辛いからと言って宇治川に身を投げていたらどんなに悔しかったことでしょう)」と、嬉しそうににっこりしながら言いますので、中君は、『亡き大君を思ってくれる弁の気持ちとは、ずいぶん違うことを言うのね』と、不愉快な気持ちで見ていらっしゃいます。他の女房も、「過ぎにしが 恋しきことも忘れねど 今日はた先ずも ゆく心かな(亡き大君さまを恋しく思う気持ちも忘れてはいませんけれど、また一方では京へ行く喜びもひとしおですわ)」と言います。この二人の女房は長年仕えた者たちで、かつては大君に心を寄せていたように思えたのですが、今ではこんなふうに心変わりして、大君のことを忌んで口に出さないのも恨めしく思えますので、何も言わず車にお乗りになるのでした。
January 5, 2022
弁は中納言とお話しになったことを中君に語りながら、中納言殿のありがたい親切心に反って大君の死を慰めがたく涙にくれ惑うのでした。女房たちは老いて背中が曲がった自分の姿も知らず、身なりを取り繕いながら、せっせと物を縫ったりしてお引越しの準備をしています。弁は反対にますます身をやつして、「人はみな 急ぎたつめる袖のうらに ひとり藻塩を 垂るゝあまかな(女房たちはみな中君のお供をする用意で急ぎ立っておりますけれども、尼姿の私は一人残ってお袖の中に涙を流しております)」と嘆きます。中君は、「塩垂るゝ あまの衣に異なれや 浮きたる浪に 濡るゝ我が袖(そなたは塩に濡れる袖というけれど、私だって頼りない波に浮かぶ憂き身ですもの。塩に濡れるのは私も同じなのよ)宮さまのお邸に参ったとしても、事情によってはこちらに戻らなくてはなりませんから、すっかり離れてしまうことはありませんよ。そうなればまたそなたと対面することもありましょうけれど、しばしの間でも寂しい思いをさせて残していくことになりますから、気が進まないのです。たとえ尼姿になっても、必ずしも世間から離れて引き籠ることもないようですから、世間並みの尼とお思いになって時々は京においでなさいね」など、親しみを込めてお話しになります。大君が生前身近に使っていらした御調度の品々は、みなこの山荘に残し置きなされて、「そなたが他の女房たちより深く姉君のことを思って悲しんでくれるのを見ていますと、前世でも特別なお約束があったに違いないと思われて、そなたを特に大切に可哀そうに思うのです」と仰せになりますので、弁の尼はますます名残を惜しんで子供の様に泣くのでした。
January 3, 2022
弁の尼はひどく老いていましたが、昔の優雅さを偲ばせる髪の毛をそぎ落としてしまいましたので、尼姿の額のあたりの様子が優雅で、少し若くなったようにも見えます。中納言は大君のことをお思い出しになって、『どうして弁のように尼姿にでもして差し上げなかったのであろう。その功徳で寿命が延びたかもしれないのに。尼となれば心ゆくまで真剣に仏道を語りあっていたであろう』と、ひどく口惜しくお思いになります。弁の尼にさえ羨ましくなりますので、几帳を少し引きのけて細やかにお話しをなさるのでした。弁はすっかり年老いているのですが、物を言う様子や心遣いなどは見劣りせず、由緒ある人であったことが偲ばれるのでした。「さきに立つ 涙の川に身を投げば 人におくれぬ 命ならまし(大君さまが先立たれました悲しみの涙の川に身を投げますならば、死に遅れることもなかったのでございますが、情けないことにこうして今でも生き残っております)」と泣き顔になって申し上げます。「涙の川に身を投げるというのも罪深いといいますよ。極楽に行けず、地獄の深い底に沈んでしまうのもつまらないではありませんか。この世の執着から離れて、すべてが空しいことと悟るべきなのですよ。身を投げむ 涙の川にしづみても 恋しき瀬々に 忘れしもせじ(そなたが身を投げたいと訴える涙の川に沈んだとしても、私には恋しい人を忘れることはできないでしょう)とはいえ、私だっていつになったらこの気持ちを慰めることができるやら」と、やるせないお気持ちになるのでした。日も暮れてきたのに帰る気にもなれず、じっと物思いにふけっていらっしゃいましたが、特に用事もないのに泊まることになれば、宮からいらぬ邪推を受けて責めを受けることにもなろうかと、仕方なく京にお帰りになるのでした。
January 2, 2022
お部屋の中に風がさっと吹き、紅梅の香とともに中納言の御匂も運んで参ります。橘ではありませんけれどもつい大君が思い出されます。『お姉さまはつれづれの紛らわしにも、世の憂さの慰めにも紅梅にお心をとどめていらしたものを』と中君は思いが溢れてしまいます。「見る人も あらしに迷ふ山里に むかし思ゆる 花の香ぞする(花が咲き乱れる山里には、お姉さまを思わせる花の香りがするけれど、私が京に行ってしまったら、もう見る人もいなくなるのでしょうね)」誰に言うともなくほのかに聞こえてきます。中納言は懐かしそうにお歌をうち誦じて、「袖ふれし 梅はかはらぬ匂ひにて 根ごめうつろふ 宿やことなる(以前私とお袖がふれたあなたさまは、昔と変わらぬ匂うようなお美しさでいらっしゃる。その美しい梅が、根もろとも異なる宿に移植されましては、私と無縁になってしまうのでしょうか)」悲しみに堪えきれない涙を体裁よく隠して、多くをお話しになりません。「とはいえ、やはり今まで同様に、あなたさまのお世話をいたしましょう」と仰せになり、女房たちには京へのお引越しに必要な事などをお申しつけになって座をお立ちになります。こちらの宿守には、かの鬚がちの宿直人などが残りますので、近くの御庄どもの世話を申しおくなど、細やかなことまでお定め置きになります。弁は、「かように光栄なお供をするにつけましても思いがけず長生きしておりますのが辛く思えますし、他人さまも老人のお供を不吉と思いましょうから、人に知られず世を捨てたいと存じまして」とて、尼になってしまいました。それを無理にお召し出でになりまして、たいそう可哀そうにお思いになります。いつものように昔の話などをおさせになりまして、「ここには今後も時々たずねて参りましょうから、知己がないのは心細いものですし、こうして山荘にそなたが残ってくれるなら私はたいへん嬉しく思いますよ」など仰せになりながらお泣きになります。「厭えば厭うほどのびる命が辛く、また大君はどのようなお気持ちで私をお見捨てになられたかと恨めしく、この世の何もかもが辛くなりまして、あれこれともの思いに沈んでおりましたので、どんなに罪が深いことかと存じますが」と、訴えかけますのも愚痴っぽいようなのですが、中納言はそれをたいそう上手にお慰めになります。
January 1, 2022
9月から今月7日まで、道立近代美術館で展示されているというので先月行ってきた。今回の展示物はみなレプリカなのだが、色鮮やかで精緻な細工が鮮明でとても感激だった。実は去年の10月、奈良の国立博物館・正倉院展で実物を見てきたのだが、館内がひどく込み合ってすっかり疲れてしまい、あまり記憶が定かではない。しかもお目当てだった螺鈿紫檀の五弦琵琶は、同時開催だった東京の博物館に出張中で見られなかったのだ。レプリカとはいえ、今回展示されたものは奈良でのものよりずうっと多彩で、しかも展示品が多かったように思う。螺鈿紫檀の五弦琵琶は下に鏡が置かれていて、楽器の反対側が見られるように工夫されていた。そのおかげで裏面の見事な装飾も見ることができ、これを抱えたらずいぶん重かろうと思うほど重厚だった。館内でこの琵琶の音を流してくれていたが、音楽というより音色を楽しむ楽器だったのではないか、という印象を受けた。鮮やかな緑色の、上品でセンスのいい鏡は「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」。このきれいな色は何でできているかというと、宝物のなかで唯一の七宝なのだそうだ。深みのある緑色の中に紺と金色が施されていて、その鮮やかな美に圧倒される。装束では、伎楽の呉女がお面を被った格好で、華麗な衣装をまとった立ち姿が印象的だった。私は呉女のぽってりとしたかわいらしいお面が大好きで、法隆寺での聖徳太子没後1400年法要だったかでみられる伎楽の呉女を、youtubeで眺めて楽しんでいたことがある。最近ちょっと体調がよろしくないのだが、まだ数日あるのでもう一度行きたいと思っている。
November 3, 2021
中納言はこちらが恥ずかしくなるほど上品で優美でいらして、この度は以前よりも一段と勝っていらっしゃるほどご立派でいらっしゃいます。中君は大君をお思い出しになって、感慨深く中納言をご覧になるのでした。「今日はおめでたいお引越しの前日ですから、大君への尽きない思い出話もご遠慮いたしましょう」とおっしゃってからためらいがちに、「あなたさまがお移りになる二条院の近くの三条の宮に、私もいずれ移るはずでございます。親しいものは『夜中、暁』行き来いたしますのに好都合だと世間の人が言うようでございますから、どのような御用件でもあなたさまが遠慮なくお申し出でくださいますなら承りまして、私が世に居ります限りお世話申して過ごしたいと存じますが、いかがでございましょう。とはいえ人の心というものは様々でございますから、あなたさまが迷惑に思召すのではないかと決心することができずにおります」と申し上げます。「宇治のこの住まいから離れたくないと思う気持ちが深うございますのに、あなたさままでご近所にとおっしゃるにつけましても、あれこれと心が乱れまして、何と申し上げてよろしいやら」と、とぎれとぎれにおっしゃりながらいかにも哀しそうにしていらっしゃるご様子が、大君にたいそう似ていらっしゃるのです。中納言はご自分のせいで中君を他人のものにしてしまったと悔しくお思いになるのですが、今更致し方ありませんので、あの夜の事を忘れたように何もおっしゃらず、きっぱりとした態度でいらっしゃるのでした。中君の御前に近いお庭の紅梅の色も香も懐かしく、鶯さえも去り難げに啼いて渡りますので、まして大君を偲んで心を悩ましていらっしゃるお二方のお話しは、普段よりもしみじみと感慨深く思われるのでした。
October 23, 2021
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