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もう、完全に年末ですね。今年は転職したので、激動の年でした。あとは、色々あったけれども、総じて言えば、「早かったなあ」に尽きると思います。明日、名古屋に戻ります。半年ぶりだ。
2009年12月28日
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決断力とはやらないことを決める力だ。整体でも他の仕事でもそう。手段(手法)を精選し、バシっと決める。要らぬことをダラダラとやらない。やると決めたらやる。それだけなんだけどなあ。
2009年12月25日
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目が覚めたらゴソゴソと音がして、ふと見るとサンタが何やら準備していました。ぼくは気づかれちゃいけないと思い、必死で寝たふりをしていました。すると、枕元にガサっと大きなものが置かれていきました。そしてサンタはそのまま布団の中にイン!朝起きて開けてみると、手袋とロンTとシャツとマウスと苫米地先生の新刊でした。超「時間脳」で人生を10倍にするこれはどうしても欲しかったので、すごく嬉しかった。今日から読み始めます。さて、今日も仕事がんばるぞ!
2009年12月25日
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最近は家計が火の車なので、連れ合いをどこにも連れて行ってやれずにとても申し訳ない気分です。今日も、どこに外食に行けるわけでもないので家で小さなパーティをすることにしました。何か買ってかえろうと思ったのですが、「きみの欲しがったイス」がなかったので、不二家のケーキを買って帰りました。今日のごはんはステーキです。連れ合いが「ごはん」をそれらしく盛って、「ライス」にしてくれました。100均でグラスも買って、白ワインみたいなジュースで乾杯・・・!すごーくシンプルなディナーでしたが、とても美味しかった。しかし、来年こそは高級レストランで夜景を見ながら聖なる夜を過ごしたいと思います。がんばるぞ!
2009年12月25日
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燃やせ、情熱の灯火を。現状に満足しているのではないか?満足したら終わりだ。今のままでよいと思ったら最後。あとは落ちていくのみ。安定しようと思っても、安定などしない。いま、やるべきこととは?!考えろ。動け。動きながら考えろ。考えながら動け。日々向上。毎日が成長。学びの階段をのぼれ。世界を広げろ。慢心するな。まだまだこれからだ!!
2009年12月24日
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絶対的成功を目指すことが幸福だと思います。絶対的、というのは「人と比べない」ということです。じぶん自身のなかで納得のいく答え、納得のいく人生、納得のいく自分、それが絶対的成功です。よくそういうことを言うと、「それは自己満足ではないのか」という話になります。しかしそれはぼくのなかでは明確に違う。自己満足と絶対的成功は、まったく違うものなのです。絶対的成功というのは、おだやかです。そして静かです。自分の中での納得なので、誰かに認めてもらう必要もない。ただ、「これでいいんだなあ」とじぶんを受け入れる感じです。自己満足というのは「人に見てもらいたい」というのです。「ぼくはこれこれ、こういうふうだよ。見て!」という感じ。だから、たとえばブログというのは自己満足なものが多いと思います。もともと日記というのは自分用でしょう。それを「人に見せたい!」というのは、良い悪いは別にして自己満足なのです。絶対的成功は、納得です。納得しているものは、他人に自慢する気にならない。自慢するのは、他人に褒めてもらいたいからです。認めてもらいたいからです。裏を返せば、「わたしが良いと思っているものは本当によいのか?」という不安をつねに抱えているということです。「誰がなんと言おうと、これは良い!」という確信がないのです。だから自慢する。自慢するということは、絶対的成功にたどりついていないのです。絶対的成功へのカギは「やりたいこと」です。「やりたいこと」この6文字は、思った以上に大きいことなのです。そして「やりたいことをやる」というのは思った以上に難しいことなのです。しかしそれが出来たとき、絶対的成功が手に入る。ぼくはそう考えています。
2009年12月23日
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人間関係は、徐々に均される。昔はあんまり感じていなかったのだけど、最近は、自分は人見知りだと思う。はじめは自分が出せない。人に話しかけられない。新たにコミュニティに参加して、どう振る舞っていいかわからない。そんなところがあるなあと思う。しかし、時間が経つにつれ、ぼくも仲間に入れてもらったりする。そうすると、なんか「面白いこと」が言えるようになる。「こいつマジメに見えるけど、 たまに変なことも言うなぁ」というふうに見られるようになる。そうなるとすごく助かる。発言しやすくなる。「自分はここにいていいんだなあ」と思う。人があらたに集まると、いろいろな不均衡が起きる。目立つ人、目立たない人。評価の高い人、低い人。でこぼこが発生するのです。しかし徐々にお互いを知るにつれ、ぱっと見える部分だけでなく、互いの知らなかった部分、見えなかった部分がわかってくる。そうすると、不均衡がくずれ、バランスが出てくる。ぼくは人の集まりとはそういうものだと感じる。たとえば学生時代は、とくに小中学校などでモテる人、というのはある一定の人に集中する。しかしオトナになっていくにしたがって、互いにバランスのいい相手を見つけてくっつく。人間関係のスタートダッシュが苦手な人もいます。そのせいで「人間関係が苦手」だと感じている人もいるかもしれない。だけどそれは、単に機が訪れていないだけで、人間関係が苦手なのではないのです。焦らずに、待つ。そのことで活かされるチャンスがそっと巡ってくるのです。
2009年12月21日
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たくさん間違えた人が、正解だ。
2009年12月21日
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生きとし生けるもの、生かし生かされ生ききるのみ。ここ数日、やたらと「一人で生きているのではない。生かされているのだ」というメッセージをところどころで目にします。きっとそういう時機が来ているのでしょう。世間知らずだった少年時代から自分だけを信じて生きてきましたが、心ある人の支えの中でなんとかぼくは生きているだけなのですね。毎日の学び、ほんとうにワクワクします。
2009年12月19日
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その人の「機」を見るということ。人には人のリズムがあり、タイミングがあり、ステージがあり、フェイズがある。とくに心が折れているときは注意が必要。「『うつ』の人に『がんばれ』と言ってはいけない」というのは有名ですね。だから「この人はうつだよ」と聞くと、「がんばれとは言っちゃいけないんだ」という意識がはたらく。けれども、人は「うつ」でなくとも心が折れる瞬間というのがあるものです。それは数秒だったり、数分だったり、数日だったりするわけですけども、確実に「ふつうじゃない」状態になっている。何も考えられない。とにかく嫌だ。逃げ出したい。消えてなくなりたい。そんな「心が折れている瞬間」というのを誰しもが経験しているはずです。その瞬間には論理というものが全く通用しません。まるで子供のように「嫌だ嫌だー。もう嫌だよー」「全部放り出したい。投げ出したい」というように心が叫んでいるのです。もう、とにかく嫌なのです。どんなに正しいことを言われても、どんなにプラスの言葉を言われても、なんの反応もしません。そのとき大事なのは「受け入れること」。それに尽きます。「あなたはあなたでいいんだよ」ということを伝えるということ。そして「待つ」。折れた心が回復するのには、そのときに応じた「時間」が必要です。それを何もしないで「待つ」ということ。何もしないことは難しい。けれども何もしないで「待つ」ことで人は確実に回復してきます。人は、ほおっておけばよくなるようになっているのです。そうやって「待つ」うちに、その人が「機」を取り戻してきます。だからそれまでは決して励ましたり、鼓舞したり、説得したりしてはいけない。たとえそれが善意によるものであっても、相手にとってはとても負担なのです。そして逆効果なのです。追い詰めているだけなのです。善意の押し売りというのは、それほど怖ろしいものなのです。思いやりとは機を見て発するべきだと、ぼくは強く思います。
2009年12月18日
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街にはコミュニケーション不全があふれている。じぶん、じぶん、じぶん・・・他人の話は聴いたふり、自分の話ばかりする。はたから見ていて会話になっていない。二人が互いに一方通行。キャッチボールしていない。互いにボールを投げ続けるだけ。それで二人とも満足そうにしているから不思議だ。そしてその鈍感さを、誰かが「強さ」と呼ぶだろう。街のコミュニケーション不全に「気づき」、そして苦しくなってしまう、その感受性を、あるいは誰かが「弱さ」と呼ぶだろう。わかりあえない苦しみを知らない人は、わかりあえる喜びを知らないに違いない。知らない誰かが、どんなコミュニケーションをしようと自由だ。ぼくが干渉したり、批判したり、評価する権利はない。目には見えないほうがいいもの。忘れたほうがいいこと。知らないほうが良かったこと。気づかないほうが幸せなこと。「繊細」とは、そんな生々しい事実から目を背けない勇気があり、また目を背ける勇気がないということなのかもしれない。
2009年12月17日
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百のことを知っている人が百しゃべると、とってもウサンクサイ。万のことを知っている人が百しゃべると、すごく説得力がある。同じ事を言っても、ある人の言葉は響き、ある人の言葉はウサンクサイ。
2009年12月16日
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けっきょくは何にせよ「生活」というところに戻ってくるのではないか。ぼくらはえてして「ハレ」の舞台ばかりに目がいきがちです。しかし「ハレ」の場で活かされるためには、日常である「ケ」の土台がしっかりしている必要がある。「日々是道場」とは合気道か禅の言葉だったと思いますが、つまりは未来や過去に目を向けるのではなく、「いま」を生きるということ。そこに集約されてくるのではないでしょうか。「いま」に生きる。「いま」を生きる。何者にもとらわれなければ、そこが終着点なのかもしれない。
2009年12月16日
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<前回までのあらすじ>この学歴偏重社会において、実力以上に優遇されていたぼくは、本来そうでないものを「自信」と思い込んでしまった。そこに落とし穴があったのだった・・・!読みたい人は【回想シリーズ3】から読んでね♪==========================よくよく考えてみると、周りはぼくのことをきちんと評価していました。勘違いしていたのは、ぼくだけだったのです。つまり「お勉強が得意→周りから『すごい』と言われる→自分はよい人間だ」という勘違いです。でも周りの人は「ozekeyはお勉強が得意→それはそれとしてすごい→でもそれ以外は???」という評価だったのです。人間というのは、たとえ高校生といえども、いろいろな面から総合的に判断され、評価されるものです。勉強、スポーツ、身長、オシャレ度、性的魅力・・・。評価基準のモノサシがオトナとはぜんぜん違いますが、それでも多面的に見られるということは間違いがないのです。と、言いたくないので回りくどく書いてみましたが、まあ正直に告白すれば、学生時代はぜんぜんモテなかったのです。つまり性的魅力が極端に少なかった。いわゆる「愛の告白」というのもされなかったし、自分からしても玉砕、みたいな感じでした。受験勉強をしまくっているはずの高校3年の夏、うまれて初めての合コンを経験し、ある女の子と仲良くなったことはありましたが、けっきょく付き合う前に、終わってしまいました。そりゃあ、初デートで片道5km以上も歩き続けたらねぇ・・・(笑)だって、どうしていいかわからなかったんだもん。まあそんな失敗談はどうでもいいとして、つまりは「じぶん」というものを評価するさいに、一面的にしか見ることができなかったので、自分の自信がすぐにグラついていたのです。そして気分の差が激しかった。お勉強で褒められればウカレ気分になり、そのすぐあとに「でも、モテないなあ」と落ち込むような、ある面を見ては一喜一憂するような頼りなさです。そうなると、いくら日曜日に筋トレをしても、いくらお勉強ができても、自分に自信なんかついてくるわけがありません。パッと観点が変わるできごとがあると、すぐに落ち込んでしまう。それは心の弱さであり、もろさでした。「自信」というのは、言ってしまえば「良いところも悪いところも俺(わたし)なんだ」と自分を受け入れるということだと思います。だから「短所を直し、長所を伸ばす」というような短絡的な発想とはまったく違う。短所はいくら直しても直らないし、長所をいくら伸ばしても、自信にはならない。自信というのは、もっと別の観点なのです。考え方じたいが大元から違うのです。短所とか長所という単語じたいをなくしてしまう。人には短所も長所もなく、「特徴」しかないのだと考える。他人を分析してはいけないように、自分を分析してもいけないのです。まずは「それでいいのだ」と受け入れることがなによりも大事なのです。 <了>【回想シリーズ】はこれでひとまず終わりにします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。また別シリーズをお楽しみに!
2009年12月16日
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心を知る技術ちょっと古い本でアマゾンで180円で買いました。カウンセラーの先生の本です。この本によれば心の病を抱えている人は次の3段階を経て、改善していくようです。受容→気づき→自立そして何よりも大事なのは、はじめの「受容」であると。つまり「認めてもらえた」「分かってもらえた」という感覚が、心を病む人にとっていちばん大切だということです。そのことで、昨日おもしろい経験をしました。いま、整体の9日間の技術向上研修期間なのですが、そのとき仲間の先生と練習していて、ふと「ozekey先生は、人に気を利かせて神経使ってますもんねぇ」とボソっと言われたのです。ぼくは、それがすごく嬉しかったのですね。自分で、神経質なところがあるなあと思っているし、空気を読みすぎたりしてしまうところがあると自覚していたので、その一言で「なんか分かってもらえた!」と思ったのです。その一言を言ってくださった先生が内心でどんなことを考えていたかはわかりません。なんとなーく、言っただけかもしれません。でもぼくとしては「わかってくれて嬉しい」と思ったのです。そうしたら、一気に筋肉がゆるんで全身の血流がよくなりました。そして「これこそが整体の本質なのかもしれない!」という思いを持ちました。だって、たった一言です。全身の筋肉を揉んだりしたわけではありません。だけど、全身がバーっとゆるんできた。それってすごいことなんです。しかし「その一言」を言おうとすると出てこない。セリフみたいになってしまって、相手に響かない。けっきょくは、自分自身を鍛えて、「その一言」がスッと自然に出てくるようにならないと整体を極めることはできないのではないかと感じています。「誰かを理解する」ということは誰かを分析するということではなく、その人になりきり、その人を受容するということなのです。そしてその修行は、一生涯、続いていくのです。
2009年12月15日
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つまるところ整体というのはじぶん自身の「体」を「整」えるということではないのか。肉体的にも精神的にも、じぶん自身の「芯」がないと何の効果も出ない。たとえば凝っている筋肉をゆるませようとして「ゆるめ!ゆるむんだ!」と念じながらやっても効果は薄い。それは、焦りの気持ちが手に現れるからです。しかし逆に「この筋肉はゆるむに違いない」という信念を静かに持っていると、知らぬ間に筋肉がゆるんだりします。とはいえ傲慢になってしまい「これくらいすぐにゆるむさ!」という気持ちになるとまた、それはそれで効果が出ません。謙虚で、なおかつ信念に満ちた状態で、相手に集注しているときは、効果が高い。それには、しなやかでたくましい、柳のような心身が必要なのです。整体は肩コリ・腰痛を改善させる技法などではなく、もはや哲学であり、生き方であるように思います。
2009年12月15日
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仕事に貴賎なし。「すばらしい仕事」や「カッコイイ職業」などない。「みじめな職業」も「つまらない仕事」もない。ただ、誇りを持って遂行される仕事は美しく、仕事に誇りを持つ人間もまた、美しい。誇りもなく働くのは、仕事に対して失礼で、また自分自身を冒涜する行為である。
2009年12月15日
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神経言語プログラミング「NLP」では視覚・聴覚・体感覚のどれをよく使うかによって、ヒトを分類しています。視覚(Visual)、聴覚(Auditory)、体感覚(Kinesthetic)の頭文字をとって、「VAK」です。人によって「よく使う感覚」は違います。その「よく使う感覚」のことを代表システムと呼びます。たとえば「海」と聞いたときに、「青い海と白い雲」をイメージしたり(視覚)「心地よい波の音」を思い出したり(聴覚)「足にからみつくワカメ」を考える人もいるでしょう(体感覚)。このように、同じ言葉を聞いても捉え方は人それぞれなのです。そのことを理解していないと、(もしくは理解していてすら)コミュニケーションにおいてズレが生じてしまいます。先日、ウチでケンカがありまして、その原因がホントにくだらなかったのです。家には座椅子が二つあるのですが、一つは大きくて、白くて、表面が布っぽいのです。一つは、小さくて、茶色くて、表面がフワフワしてるのです。それで連れ合いが、「フワフワのほうの座椅子がさあ・・」と話し出したのですが、僕ははじめ、「フワフワってどっちだよ」と思いました。というのは、僕としては「茶色か白か」という捉え方だったので、座椅子の質感のことは考えていなかったのです。そして固定観念(偏見)で「ふつう、色で言うよなあ」とも思っていました。この「ふつう」というやつがクセモノなのですね。それで僕は「ああ、茶色い座椅子ね」と言いました。そしたら「え、うん、あの~フワフワのほうがさ」「いや、だから茶色の座椅子だろ?」「うん、で、そのフワフワの座椅子なんだけど」「で、茶色の座椅子がどうしたの?」と話がぜんぜんかみ合いません。で、どんどんこじれてしまい、しまいにはお互いダンマリの冷戦状態です。もう、座椅子がどうしたのかすら問題ではなくなっていました。そこまでいってはじめて「あ、これはVAK【代表システム】の違いだ!」と気づきました。その気づきに嬉しくなって、ついつい連れ合いに「なあなあ、すごい発見だよ。 俺たちのケンカはVAKの違いだったんだ! 俺は視覚タイプ、お前は体感覚だな! いやー、そういうことかぁ。これで仲直りだね!」と言ったのですが、どうやらこのウキウキ感が火に油をそそいでしまったようで、けっきょく冷戦が長引いたりしてしまいました。とまあ、そんな痴話ゲンカの顛末はどうでもいいとしても、VAKの違いは小さなことに思えるけれど、ほんとうはすごくすごーく大きな違いなのです。逆に、この相手がVAKのうちどのタイプかを見分けることができれば、ミスコミュニケーションがグンと減るということです。で、ウチのケンカが減ったかって?それはご想像におまかせします(笑)
2009年12月15日
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ぼくの卒論のテーマは「ダジャレ」でした。夏くらいから研究を始めて、1月までやったので、かなりのダジャレを覚えました。おかげで今は、「ダジャレがすべらない男」と称されるようになりました。というのはウソでぼくのは一種の「すべり芸」だったりします。中学の文集の寄せ書きに「キミのギャグはつまらない。 けれど、どこかあたたかい」と書かれました。「つまらないけど、いつかはウケるよ」とかさんざんです。最近では「もしかしたら俺はウザイのかなあ?」思い、覚悟を決めて聞いてみたら「今ごろ気づいたの?」とバッサリ。それで、これからもウザいキャラで生きていこうと決めました。で、そんな僕は、うちのネコ「みゅー」にダジャレを連発して言ってみたのですが、どうもネコの知能では理解できないようで、ついには寝てしまいました。ちなみに最近のお気に入りは「モンブランの下に、変なモン、ぶら~ん」というのがスキです。今日は東京に行きます。・・・明日も♪
2009年12月14日
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ずっとハイハイをしていたのですが、やっとのことでつかまり立ちができるようになりました。言葉はまだ「にゃー」くらいしか話せません。
2009年12月07日
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ミクシーニュースにあったものです。【彼女を『連れ』と呼ぶ男性9パターン】1:ボケとツッコミにシビア2:恋人のオノロケ話は美学に反すると考えている3:仕事に対する姿勢はマジメ4:すでに一緒に住んでいる5:結婚が前提6:ラブラブな生活よりも現実的な共同生活と捉えている7:お弁当を作ってもらっている。8:彼女を大切にしている9:イケメンであるけっこう当っていてドッキリ。とくに最後の項目などはバッチリ当てはまっているのでなおさらドキッとしましたね(笑)これ、どうやって分析したんだろう・・・。
2009年12月02日
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※【回想シリーズ1】から読んでください。「自分に自信がないから努力する」と聞くと、なんとなーく素晴らしいような感じがあります。けれどもそういう努力はえてして裏目に出ることが多い。それはなぜか?「自分に自信がない」というのは植物でいう根っこが弱い状態です。そうすると、そのもろい根っこの上にどんなに立派な幹があろうと、どんなに枝葉が生い茂ろうと、結局はもろいのです。つまり自分に自信がない状態でどれだけ自分に付加価値を付けても、それは本当の自信にはつながらないのです。それこそが「努力して自分を好きになる落とし穴」なのです。その人の能力とか社会的立場とか経済力とかそういうものは、すべて人間の付加価値です。そんなことは10代の高校生には分からなかった。だからぼくは一生懸命に筋トレをしていたし、また、お勉強にも精を出していました。というのはぼくは、「学校のお勉強」というのは性格的に得意だったのです。自慢ですが、卒業時の成績はオール5でした。今となっては関係のないことですが、過去の武勇伝です・・・(泣)で、「お勉強ができる」人間は今の学歴社会では圧倒的に有利なわけです。先生にも褒めてもらえるし、クラスでも授業中はチヤホヤされます。そうするとコドモのぼくとしては勘違いしてしまうわけですよ。「俺ってすごいのかな」って。そしてその感情が「自信」なのだと勘違いしてしまうのです。しかし、そういった一面的な評価がぼくを狂わせていったのです・・・。<続く>↓続きが気になる人はクリック!!↓
2009年12月01日
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全22件 (22件中 1-22件目)
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