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なにが善で、なにが悪なのか。そんなことを一度は考えたことがあるでしょう。ぼくがいま持っている結論では、「自分が良いと思うことを行なうのが善、自分がしてはいけないと思うことをするのが悪」というふうに思います。いわば相対主義です。答えは、中にある。答えは問題のなかに内包されている。だからいっさいの善悪をぼくが決めることができる。そうすると「じゃあ、ぼくは殺人を善だと思うから、それを行ないます。 いいのですか?」とかなんとか言う人がいると思いますが、ぼくの論理でいけば「よい」という答えにしかなりません。しかしそんなことをいうやつは、実際には殺人を悪いことだと思ってるんです。だから「いいのですか?」なんて聞くんです。心の底で悪いことだと思っていれば、もし殺人を犯してしまったら、その後の人生は台無しでしょう。ほんとうに心から信じきらないとダメなんです。ちょっと話がズレますが、前から言っているとおり、ぼくは「人生には努力と勉強が大事だ」と言ってるんです。しかし、この人生訓はぼくにしか当てはまりません。人生は運だ!とか人生は直感で決めるのだ!とか人生は楽しみつくすことが大事だとかいろいろ自分の哲学があると思います。その自分の哲学に沿って行動するのが善だと思うわけです。「努力が大事なのにぼくは努力してないな~」というのがいちばんいけない。また「ぼくは努力しているのに、あいつは努力なしでいっつも勝っている。ズルい」というのもいただけない。努力というのは性分ですから、合う人と合わない人がいるのです。だから努力なんてクソ食らえと言っている人はしなくていいと思います。ただ、ぼくは努力をするのが性にあっているので、いろいろやってしまうんです。がんばり屋さんなんですね。これは自慢でも、自己卑下でもないんです。たんに自分の性格の問題です。話がそれましたが、善というのは自分で決めていいと思うんです。「仕事では大成功を収めたが、いい父親ではなかった」とか「仕事はそれなりにしかいかなかったけど、家族との時間はたくさんとれて思い出もたくさんだ」とか「一生嫁をもらわなかったが、 芸術に命をついやした」とか「夢はあきらめたけど、あたたかい家庭に恵まれた」とかそれぞれの善があり、それぞれの幸福があると思うんです。だから、ぼくらは誰をもうらやんではいけない。そして誰かを憐れんでもいけないのです。ぼくらは誰かを憐れむことで、自分の幸せを確認しようとすることがある。あまり知恵のない先生だと、食べ物を残す子供に「アフリカの子供が・・・」という話をしだす。給食をぜんぶ食べようが残そうが、遠い国の子供たちにはなんの関係もないのだ。そんなところでウサンクサイ偽善の想像力を働かせてどうなる。ぼくらの幸福<恵まれた環境>は誰かと比べて<恵まれている>というわけではないのだ。「自分ひとりで生きる」ということは「自分を生きる」ということだ。他人は基準ではない。あくまで「参考」なのだ。だからこそ、善も悪もすべて自分の中にある。そのなかの善を行なうことが、大事だとぼくは思うのである。
2008年01月30日
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人生は「思い込み」のとおりになる。思い込むっていうのは、「信じる」と言い換えてもいいですよね。「信じるものは救われる」というのはそういう意味なのです。なかなか伝わらないので、真意を言ってしまうとそういうことなのです。その意味では「信じるものは得をする」というのも真理と言えそうです。さて、思い込みによって行動が変わるとなると、今度は人にかける言葉にも注意が必要になります。たとえ相手が心配でも、あまりに心配するのは逆効果になることがあります。たとえば「病弱」な人がいて、みんなが「あなたは身体が弱いから、〇〇」たとえば「手伝ってあげる」「休んでいて」などと言われていると、その人は環境的に強くなんてなれないのです。みんなが「その人は病弱」であることを願っているようなものです。それからタバコを吸う人に「そんなに吸ったらガンになる」と言い続けるのも、その人をガンにしているようなものです。心配してやめさせようとするのは分かるのですが、「ボケ防止にいいんじゃ」と思い込んでいるかぎり、それはボケ防止のクスリなのであって、発ガン物質ではないわけです。つまり相手を変えようとしてなにかしらの脅しをかけることで、その相手を不幸にしてしまうことがあるのです。たとえば子供が勉強ができないとして、「お前はほんとうに勉強ができんなあ。ちゃんと勉強しろ」と言ってしまうと、子供は「ぼくは勉強ができないんだ」と思い込んでしまうわけです。そのあとの「ちゃんと勉強しろ」なんてセリフは耳に入らんわけです。ですから相手を心配するのもほどほどに。ぼくが大切にしているのは「おまえならだいじょうぶ」という言葉です。そして「おまえならだいじょうぶ」とう言葉を前提にして話を進めていくのです。心配で心配でなにかしてやりたくなるのですが、そこをグッとこらえて「信じて、待ってるから」と一言いう。正しいこと・客観的なこと・現実的なことを相手にあびせるのはカンタンなことです。そうしたら「自分の」不安を一挙に解消できるからです。しかしそれは自己満足に過ぎない。心配しているふりをしても、それは自分勝手な思い込みを相手に押し付けているだけなのです。その人を信じて、待つ。おまえならだいじょうぶ。おまえならできる。そうやって言われたなら、どれだけ力が湧いてくるでしょう。「思い込み」をいかにうまく利用するか。たのしく生きるヒケツはどうやらここにありそうです。
2008年01月30日
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さて、なんとか悪い経験→法則化→その証明のための悪い経験→法則化という悪循環スパイラルから抜け出さねばなりません。では、どうするか。ポイントはひとつ。「経験のとらえ方」です。ぼくらは望むと望まざるにかかわらず、いろんな経験をします。嬉しいことも、悲しいこともあります。そのひとつひとつの経験をどう捉えるか。つまり、ある経験からどんな法則を引き出すか、がいっちばん大切なわけです。さっきの例を引き合いに出すと、たとえば悪いオトコにひっかかって、傷ついたとします。そのとき「あーあ、悪いオトコに引っかかってしまった。あたしがバカだったな。でもいい勉強になった。今度はあんなのよりもっといい人見つけて幸せになろ♪」と捉えたとします。そうすると「悪いオトコにだまされてはいけない。気をつけろ」という法則が自分の中に生まれて、それを強化するような行動をとるのです。しかし「ほんとサイアク。マジサイテー。あたしは不幸よ。きっとまた悪いオトコにだまされるに決まってる。ヤダヤダ」と言って相手を責めながら「あたしは悪いオトコにダマされる人生だ」という法則を作って、それを強化・証明しようとそういう行動をとるわけです。わかりますか?同じ経験をしたのに、「その経験からどんな法則を導き出すか」によって、その後の人生に大きな差が生まれてしまうのです。「ものの見方」「とらえ方」というのは現在のことです。しかし、「いま」のとらえ方によって、くらい過去はいつでも美しく、そして不安な未来は、いつでも明るくすることができるのです。そうは言っても、思い込みを捨てるのはカンタンではありません。25歳なら25年間その思い込みをもって生きてきた、つまり思い込みは「自分の考え方の拠点」なのです。しかしうまくいっていない場合はその思い込みを捨てることでしか、じぶんの人生を変えることはできないのです。だーーーーれも、助けてくれません。もちろんお手伝いをしてくれる人はたくさんいます。でも最終的に「自分で決めて生きていく」という決心がなければ、誰かが決めた思い込みにハメられて生きていくしかないのです。それでいいのか?ぼくは嫌だ。だから、自分で決める。変わりたい人は、まず思い込みを捨てるまえに「自分が持っている『思い込み』に「気づく」ことが大事です」「●●は△△だ」と決め付けていることに疑いの目を向けてみることです。「ほんとうに●●は△△なのか?」「なぜ私は●●を△△と思うのか?」「どういう経験から、私は●●を△△を思うようになったのか?」そういうことを考えてみるのです。そうすると、ぼくらは自分じしんが持っている法則があまりにもあやういということに気づくはずです。たった2,3の事例から自分を不幸にする法則を導き出していたりするのです。まずは「俺はダメだ」「ぼくには金がない」「あたしはモテない」「仕事ができない」「不健康だ」などなどの自分で自分を不幸にする言葉に気づき、それを捨てることです。だいたいそういう言葉は「甘え」からきているのです。「ダメだから、助けてくれ」「金がないから、プレゼントもないけど許して」「モテないから、もっと誉めて」というような免罪符の役割を果たしているのです。その免罪符をかかげ、甘え、目の前のことから逃げているからこそ、どんどん不幸になっていくのです。まずは「言いわけの言葉」を捨てることです。自分の発する言葉を詳細に観察してみてください。自分も、周りのみんなも気分が悪くなるような言葉ばかり言っていませんか?思い込みは悪いことではありません。ぼくらには「思い込み」が必要なのです。じゃあ、それを有効活用しない手はないですよね。それでは、「思い込みの有効利用」を次の日記に書いていきます。 予想外にどんどん長くなるので、続く。
2008年01月30日
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いろんな本を読んだり、自分で経験してみたりして、最近思っていることがあります。「人生は思い通り!!」これです。なんつー傲慢な!と思った人。バカな若者だと思った人。現実を知らないって怖いなって批判する人。ちょっと待ってください。だまされたと思って読んでください。ぼくらの身体や行動は、思っている以上に「自分が考えていること」に反応します。いわゆる「思い込み」というやつです。ぼくらはほとんど、「思い込み」で生活しているのです。「プラシーボ効果」という言葉をどこかで聞いたことはないでしょうか。プラシーボというのは「偽薬」という意味で、患者にうどん粉などの薬理作用がない物質を「これはよく効く薬だ」と言って飲ませると、治ってしまう患者がいるというものです。(ちなみにプラシーボというのは、ラテン語の「喜ばせる」に由来するようです。英語のpleaseですね。)患者じしんが信頼している医者からそう言われると、「これでよくなる」と「思い込む」ので本当によくなってしまうそうです。また「疑心暗鬼」という言葉もあります。この言葉は「疑心暗鬼になる」みたいに「疑う・心配する」のような意味で使われていますが、厳密には間違っています。もともとは「疑心、暗鬼を生ず」といって、「不安や心配をしている(疑心)と、ほんとうに悪いこと(暗鬼)がおこる(生ず)」という意味なのです。(「間、髪をいれず」と同じ構造ですね。)上に挙げた二つは、人生は「思い」のとおりになる、という例です。もっといえば「人生は思い込みのとおりになる」と言うこともできるでしょう。身体ということでいえば、ぼくらの重大関心事は「健康」であります。なかでも大切なのが睡眠と食事ですが、これもほとんど思い込みによって決まるのです。「睡眠時間は6時間とらないとダメ」と思い込んでいる人は5時間睡眠の日は、ヘロヘロになってしまいます。しかし4時間睡眠が当たり前の人もいるわけで、けっして睡眠時間の基準というのはないのです。また食事に関しても「野菜をとらないと不健康」と思いこんでいる人は野菜と摂取していないと不安になります。野菜が不足しているから、その不安のせいで不健康になるのです。「野菜などいらん」と思い込んでいる人にはとくに野菜はいらないのです。またタバコもそうですが、「これは身体に悪いからなあ」と思って吸っているとほんとうに毒になります。しかし「タバコはボケ防止にいいんじゃ」と言って吸っていると、ほんとうにタバコのせいでボケません。(←うちのじいちゃん)また子供にむかって「冷えると風邪を引くよ」と言うとほんとうに寒くなると風邪を引いてしまうのです。だから愛するあまりに心配しすぎても、逆に子供は弱くなってしまうのですね。ぼくらの生活は、「思い込み」によって成り立っているといっても過言ではありません。その思い込みは何によって作られるかというと経験から思い込みが作られるのです。ここが面白いところです。ある経験から、ぼくらは「●●は■■だ」という法則を導き出します。そうすると、あるケース(具体的事例)から勝手に作りだしたその法則を「証明」しようとしてしまうのです。たとえ自分が不幸になったとしても。(←ここ大切!!)「たとえば、私オトコ運ないから」というやつ。2,3人の悪いオトコにひっかかっただけで、「自分にはオトコ運がない」と思い込んでしまう。2,3人との恋愛で失敗した、とそれを「経験(ケース)」として捉えるべきところを自分はこうである、という法則として捉えてしまうのです。そうするとその法則を証明しようとしてまたワルイ男にひっかかるわけです。そうして言う。「ほらね、私はオトコ運ないんだ」そうしてまた、自説(勝手な法則)の証明を強化してしまうのです。では、どうしたらこの悪循環スパイラルから抜け出すことができるのでしょうか。 長くなってきたので、続く。
2008年01月30日
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「部屋を楽しむ」という観点がもともとぼくにはなかったのですが、最近インテリアの本とかが気になっています。で、いろいろ見るのですが、やっぱりぼくは和の家に住みたいらしい。最近ではwahoo!っていうのかな。今の家は広くて13畳のキッチンと6畳の和室があるのですが、和室のほうをどんどん特化しています。きのうオサレな照明を買ってきて、さっそく灯してみました。わー。お店みたーい★休日は意味もなく外に飛び出してドライブなんかしてしまうぼくですが、家のなかをカスタマイズして楽しむのも悪くないなと思いました。
2008年01月30日
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「それぞれ」というのは大事なことだ。みんな人生はそれぞれ。早く咲く人。遅く咲く人。ぼくらは他人を見て、勝ち誇ったり、さげすんだりします。しかし人生を隣の誰かと比べることになにか意味はあるのだろうか。毎日を、そして一瞬を生ききれば、それはそれでいいのだ。しかしそれさえも、できるかどうかが難しい。他人から羨まれることが成功なのか。他人から馬鹿にされることが負け組なのか。世にぼくしかいなければ、ぼくの価値はなくなる。誰にもならなくていい。誰かの人生のマネをしなくたっていい。それぞれでいいんだから、自分から逃げずに、自分との約束だけは破らずに、自分に言い訳しないで、前へ前へと一歩ずつ、歩いていけたらそれでいい。それぞれの人生をそれぞれに、生きる。
2008年01月29日
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ああ ぼくらにはなんど失敗してもいいのだなあどれだけ失敗してもいいのだという思いが失敗というものをなくしてしまうまちがえることは あたりまえのことだからまちがえることは ただしい道なのだまちがえないということはまちがっているあかしなのだおそれることはないただ 神の思し召しのままに安らげよ魂よ 身体よ導かれるままにいのちが それを捨てたときにまったく生かされるようにゆだねた身体は 底からかがやきだす人生をにんげんを思い通りに動かそうとするななすがままに大きなものの流れに身をゆだねよ信じるのだいや信じるしかないのだわたしはどうでもいいわたしを捨ててしまえわたしよりも大切なものがあるわたしは限りなく透明になりたいわたしはかぎりなく透明になりたい
2008年01月27日
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今日もわりかし良い調子で仕事ができました。今日思ったこと。「できない部分ではなく、できた部分だけを見る」今日はちょっと売り場をいじりました。やっぱり売り場の演出がいちばん楽しいんだよね。ボクのゲイジュツの才能が試されるのです。それはいいとして、まあちょっとは売り場のカオが変わりました。でも「やることリスト」を見ると、まだまだやらにゃならんことがいっぱい。ぼくは正直げんなりしました。「まだこんなにやることあるのかよ~」で、あまりの仕事の多さについつい帰りたくなったのです。しかぁし!これも考え方しだいと思い、良いように考えてみました。「やることはいっぱいだが、今日はそのひとつを達成できた!」というふうに。そうしたらアゲ↑な気分になってきました。いわゆるハイテンションです。ハイテンです。日本語でいったら昂揚したというのです。カンタンにいうとワクワクしたのです。そうしたら、「ひとつひとつツブしていけばいいんだ」という考えになり、とてもラクになりました。仕事の量は変わっていないにもかかわらず、です。やはり考え方ひとつなのです。「できない・できていない」ではなく「できること・できたこと」で物事を考えていく。これは自分だけでなく、バイトの子に仕事を教えるときも同じだよね。それだけで色んなことが「うまくいく」んだなあ。よーし、明日もやるぞー!!
2008年01月27日
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今朝、本の「品だし」をしていたときのことです。品だしというのは、入荷してきた商品をお店に並べることです。開店して1ヶ月強なので、まだまだパートさんも慣れません。なので、社員のぼくが隣にいて一緒にやったり指示を出したりするわけです。ある棚のまえで、「本は出版社のあいうえお順に並べてください」というふうにぼくはパートさんに言いました。そしたら、どうも出版社の名前が読めないようなのです。「どれですか」といって見ると、「致知(ちち)出版社」でした。この出版社さんは「致知」というちょっと難しい雑誌を出しているのです。それで、「ここは「致知」を出してる出版社ですよ」というと、パートさん二人が驚いたような顔をして言いました。「乳を出してる出版社?!」とんだチチちがいでした。
2008年01月26日
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今日はバッチグーでした。昨日あまりにもふがいなくてかなり悔しかったので、今日は絶対に見事な仕事っぷりにしたる!と決めていました。その思い通り、7時までにはルーチンを片付け、9時まで改善業務ができました。やはり仕事は前に進まないと面白くないね。明日は今日よりよい仕事をする。明日は今日よりよいお店にする。よし、明日もやるぞ!
2008年01月26日
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ちょっと忙しいです。頭が忙しいです。仕事はまあ順調なんですが、やはり開店して1ヶ月というのはカオスです。どこから手をつけていいのやら、優先順位をつけるのが大切とは知りつつも、右往左往してしまいます。そんなこんなで家事が進まず、ますます部屋が汚くなってきます。腹が立ったので、夜ですが今洗濯しています。月に一度名古屋で研修があるので、それにむけて勉強もせにゃならんし、なんか課題もあった気がするが、面倒すぎる。それから2月には楽しいプランを計画しているのだが、なかなかそのことを考える時間がないのが悔しい。HPを改装中なのだが、なかなか作る暇がなく悔しい。筑波大学に一度行きたいのだが、それも時間なし。なにから手をつけていいのかわからんわい。というわけでブログを書いてしまいました。何やってんだ俺。
2008年01月25日
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ああ あなたの かなしみがかぞくという名の 大地に木漏れ陽のように 滴るああ あなたの さみしさが孤独という終末をこえて森の涙のように きこえる生きてくるのは 大変だったでしょうここまでくるのは 大変だったでしょうぼくの あい知らぬところで いろいろな苦労があったでしょうわかってあげられなくて ごめんねぼくの いのちが まだなかったからあなたと あなたと あなたと そしてあなたでそして ぼくがここにいるぼくにできることは なにかなあ?ひきつがれた いのちをたいせつにして先祖代々の血を洗うことはできるのかなあ?ああ あなたの かなしみがああ あなたの さみしさが愛し合うひとびとが流す汗のようにじわりじわりとにじむときぼくのいのちが 緋色にかがやきだすのです
2008年01月22日
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知識という鎧はなんともモロい。仕事をしていると「仕事のこと」を覚えてきます。ぼくの仕事だったら小売業なので、まずはレジのやり方から覚えて、それから商品の発注や在庫管理、書式・書類のつくり方などなどを覚えていきます。3年弱働いていたら、だいぶそういうことを覚えてきました。でもたまに思うんです。「それがどうした」って。ただ仕事の知識や「やり方」だけを覚えた人ってのは、なんだかすごく弱そうな感じがするんですね。「お前の言うことなんて聞くか」という気分になってくる。考えて見れば当たり前なんですが、「その仕事を知っているかどうか」っていうのは、ぜんぜん人間力と関係がないんですね。知っているっていうのは単なる知識なんです。人間力っていきなり言いましたが、いわゆる魅力というものだと思ってよいです。で、その魅力というのを出すには、だからやはり「仕事のこと」だけでなく、なにかもっと「別のこと」を磨いていかないといかんわけです。じゃあその「別のこと」ってなんだろうって、考えると、それはなんだかよくわからないわけです。でも「なんだかよくわからない別のこと」はどこにあるんだろうって探していきたいと思うのです。仕事というのは面白いものです。いろんなことを教えてくれます。うーむ、うまくまとまりませんでした。
2008年01月22日
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このごろ思ったのですが、「なんとなく地味だな」という印象の人は、腰の動きがやたらとカタいのです。腰がひとまとまりになってしまっている。プリプリ感がなくて、石のようになっている。ぼくは腰というのは、男女ともに「セクシーさ」つまり性的魅力がもっとも端的に現れる場所だと考えていますが、腰がカタい人はぼくにとって魅力があんまりない。いわゆる「肉付き」というのは関係ない。言ってみれば「骨付き」です。骨と骨が癒着していないと腰が自在なゆとりを持つのです。腰の可動性は、実際の動きを見なくても、外見からでもわかります。たとえば写真で見ても、その素材がやわらかそうかどうかは、だいたい分かるでしょう。人間の目ってのは、見た目でけっこう色々わかるものです。その感じで人の腰を見てみてください。魅力的だなという感じの人はたいてい腰がやわらかな雰囲気を持っています。腰はさすがに身体の要です。
2008年01月22日
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雪が降りました。なんて静かで美しいんだろう。
2008年01月17日
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最近は、感覚<センス>ということをよく考えるんです。センスがあると、非常にオシャレです。センスがないと、ぶざまです。ここで少し、お金の話を出してみます。安いものというのは一般にエネルギーが弱いんです。逆に高級品というのはエネルギーが強いんです。お金には頓着しないはずのozekeyが何を言っているんだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、このごろお金に対する考え方が変わってきて、上のように思うわけです。さて、値段によってモノのエネルギーは違ってきます。もちろん、「だから高級品を身につけろ」なんてことをぼくが言うはずもありません。そのエネルギーを使いこなせということなんです。ちょっとマニアックな話になりますが、剣術の世界では「重い剣を軽く、軽い剣を重く扱いなさい」というふうに言われるそうです。これは重ければいいのでもなく、軽ければいいというものでもない、ということを示しています。モノにその役割を十分に果たさせる、ということが大事なんですね。ですから、高級品には高級品の、安物には安物の価値があるわけです。それをつまびらかに理解し、合理的に利用するということが大切になってくるということです。先般、知り合いの高校生男子と話をしていて、カノジョにあげるクリスマスプレゼントは決めたのか、と聞くと「はい、」と言い、「ディズニーの・・・シャープペン」と答えました。さすがのぼくもこのKYぶりにイスから転げ落ちてしまいました。こういうのをセンスがないというのです。心だけで心が伝わると思ったら大間違いです。ちょっと話がそれましたが、モノのエネルギーの話でしたね。つまりそのエネルギーを見極め、それ相応の場所に利用すること、がなによりも肝要なのです。書道では筆に墨をたくさんつけるのを潤筆、ちょっと掠(かす)れた感じで書くのを渇筆といいます。これも、どちらがいいというものではないですね。墨のにじむような書風が好きな人もいれば、乾いてかすれたような書が好きな人もいます。もちろん筆の使い方は変わってきます。筆が潤沢に墨をふくんでいれば、それが活かされるように、筆にあまり墨をつけていないのであればそれが活かされるように、その特性を考えて書くでしょう。そのように、モノというのもそれがどれだけ活かされるかが大切なわけです。先のディズニーのシャープペンだって、たとえば小学生のお誕生会だったら活躍するでしょう。それはもらう人にとって「安物」ではないのです。逆に、高級品は身につけるのが大変です。大変というか、難しいのです。それはまるで素人がF1を運転するようなもので、性能がいいだけに、下手くそだと失敗するケースが多い。フェラーリでエンストしたらカッコ悪いでしょう?オッサンがパンツ一丁でオナラをしてもいいが、アルマーニのスーツで屁をこいてはいかんのです。そういうことです。このように高級品を身につけるときはヘタをするとイヤミがでて、とてもいやらしい。それはモノのエネルギーが強いからです。その人がしっかりしていないとモノ負けする。前に書いた、「高級ブランドを『持ってるだけ』のおばちゃん(ギャル・ギャル男)」になってしまうのです。『持ってるだけ』なら持たないほうがマシです。持つなら持つだけの覚悟が必要です。ぼくはその覚悟が「センス」になってくるんだと思うんですね。センスというのは直訳すれば「感覚」ですが、意訳すると「さりげなさ」だと思うんです。だからセンスがあるってことは、さりげないってことなんです。「さりげ」があると、センスはなくなってしまうのです。これはおもしろいことですね。センスがあると、お金にこだわらなくなると思います。センスがないと、高いか安いかばかりに眼がいってしまうのです。それはとてもかなしいことです。センスを身につける方法、それは「さりげ」をなくすことにあるのでした。(と強引にまとめる)
2008年01月15日
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大人になるということは「美」を知ることでありまた「微」を知ることでもあります。「微」というのは「微か」と書いて「かすか」と読みます。微というのは、「ほんの小さなこと」という意味です。幼いころ、若いころというのは「極」が好きなものです。やたらと偏ってしまう。だから数字でいうと、100とか0とかを好むわけです。また120%アップとか、10倍増量とか、50%オフなんて言い方がピタリとしっくりとハマるわけです。しかしだんだんと大人になってくるにつれて、その「あいだ」も粋だな、絶妙だなというふうに思えてくる。たとえば数字でいったら「46」とかです。もしくは「52」でもいい。幼い子供は1から100があったら、やっぱり0とか1とか50とか99とか100とかに興味があるわけです。非常にわかりやすくて単純なものをコドモというのは好むのです。色でいっても原色が好きでしょう。しかしいつのまにやら、以前は「中途半端」だと思っていた数字が、それはそれなりにいいじゃないか、というふうに思うようになる。そのへんの地味でなんの変哲もない数字が絶妙に味わい深く思えてくるのですね。滋味あふれるとでもいうんでしょうか。というのは、おそらくですけれど、50のまえには49があり、50のあとのは51がある、という「当たり前の事実」をだんだん理解してくるからなんです。数字はぜんぶつながっている、ということが見えてくると、キリのいい数字、目立つ数字ばかりでなく、途中の、ふつうの数字にも価値があるというふうに自然と実感してくるんですね。こういうことは異性関係においても言えます。小学生のころなんかはモテる人というのは決まってるんです。だいたい30人クラスで、3人か4人くらい、そういうモテるのがいて、なぜかその3,4人をみんなが「好きだ」というんですね。もう目立つ存在ばかりしか見えないんです。コドモは自分が見えないから、「つりあい」ということも考えずに好きになることができる。それが意外にも高校くらいまで続くんですが、突如大学に入ると、その神話が崩壊します。徐々に、みんなが「微」を理解してくるわけです。「彼は目立つ存在ではないけど、底に秘めたやさしさが素敵だわ」とか、「あの子は美人じゃないけれど、そばにいると安心するな」、とかそういう絶妙なところが分かってきて、また自分の程度もわかってきて、やっと恋愛というものが「下流階級」にまでめぐってくるんです。これも「微」を理解するということのひとつです。「極める」ということはとても美しいことです。しかしまた「中途半端」には思ってもみない味わいが潜んでいることもあるのです。そんなことを今日思いました。
2008年01月15日
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なぜ綿密な計画を立てるかといったら、その緻密なな計画がハプニングによって壊れていく破滅の快感を味わいたいからです。計画はやぶられるところに面白みがあるのです。
2008年01月15日
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ファッションという単語は、なんとなく言葉のイメージから「服装」とか「おしゃれ」みたいな意味だと思われがちだ。しかし「ファッション」の本当の意味は「流行」という意味なのです。なんとなくオシャレさんのことを「ファッショナブルだね」なんて言ってしまいますが、ファッショナブルというのは、オシャレかどうかは関係なく、たんに、「流行に乗っている」「流行っている」という意味なのです。だからぼくは思うんですが、ほんとうにオシャレになりたいんなら、ファッショナブルになってはいけないんじゃないでしょうか。服屋にいくと、次から次へと新製品が出て、ついつい目移りしてしまいます。しかし、その欲望のままに流行を追っても、一生オシャレにならんのではないかと思うわけです。だってそうでしょう?美は真理です。美しいものは時代に左右されないのです。こういう話をすると、「でも平安時代は『おたふく』が美人だったんでしょ?」という話をはじめる人が必ずいます。また、もちろん海外では、日本と美人の基準が違ったりします。しかし、やはり美には共通項があると思うんですね。たとえば「健康的」であるとか、「聡明そうだ」とか「子宝に恵まれそう」とか、そういった子孫を残す欲求に応える女性を「美しい」と思うように男はインプットされているわけです。その遺伝子は、時代や国柄に左右されない。これを「不易」というわけです。「易」は「かわる」「変化する」という意味ですから、「不易」というのは変わらないもの、という意味になります。その反対が「流行」です。ファッションのことです。ファッショナブルな服装というのは、次々と移り変わって、キリがない。だからファッショナブルであり続けることは逆に、死ぬまでオシャレさんになれないのです。オシャレというのは、普遍的なずっと変わらない(バランスや均整の)美しさを言うのです。もちろんファッションを楽しむのもよいと思うんです。これは遊びです。時代に乗ることは、楽しみのひとつであっていいと思うんです。やみくもにファッションを否定するのも、頭がかたくなっているだけなんです。ファッションも、おもしろいものです。でもそれは本質的にオシャレとは別物である、ということを知っておかないと、一生「流行のラットレース」から抜け出せず、美しいということも分からずに終わってしまう気がします。というわけで今日ファッションについて考えるところを書いてみました。
2008年01月15日
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海外留学もいいが、たまには体内留学してみるといいのです。ちょっとキモチワルイ言い方ですが、これは自分の身体を観察するということです。ぼくらは身体を置き去りにしていることが多いのです。考えるというとどうしても頭で考えてしまうのです。しかし、ほんとうは身体がある。どんな感情も身体で表される。<身体>というのは、言い換えれば<姿勢>であり、<筋肉の緊張の部分と度合い>であります。怒っているときは、お腹のなかがとても固くなっているのです。「はらわたが煮えくり返る」という慣用句はそれを表現しています。いま、あなたの首のうしろの筋肉は緊張していますか?ゆるんでいますか?わかりませんよね。触ってみるか、誰かに触ってもらってください。ほとんどの人は、固くなっていると思います。同様に、腰の筋肉はどうですか?背中の筋肉はどうですか?腿はどうですか?足の裏はどうですか?内臓はどうですか?「そんなこと、感じたことも考えたこともない」という方が多いのではないでしょうか?それが「身体を置き去りにしている」ということです。身体が不調のとき、自分じしんで観察しないで、お医者さんとクスリにばかり頼っていてはいけません。自分の身体は自分で大切にしないと誰も守ってくれないのです。自分の身体を観る、ということ。そして色々新しい動きをやってみるのです。たとえばドアを開けるというのでも、いろんなやり方があるのです。手首の使い方から、足、腰のありかた、肩の力の通し方、呼吸の仕方などなど、人間のパーツはたしか骨が200、筋肉が500くらいあったと思います。その使い方の組み合わせは無限です。いろいろやってみたら、ある日突然超合理的な身体の使い方を発見するかもしれません。そういう無限の面白さが身体にはあるのです。しかしぼくらは、どうしても面白いものを外に向かって探しがちです。「からだ」という何よりもおもしろいオモチャがあるのに、遊ばないのはもったいないと思います。からだを使って遊ぶ、のではなく、からだで遊ぶ、からだを遊ぶのです。それを体内留学といいます。それによって身体の可能性を知ることが、真の身体の豊饒性<ゆたかさ>につながっていきます。
2008年01月14日
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習慣は人為システムだ。習慣は人間的時間的体系<しくみ>だ。突発的な応急処置では、根本原因は治らない。本質的な変化はキャンペーンでは起こらない。「ふだん」を変えることが何よりも大事だ。習慣を変えれば、同じインプットでも質・量ともにまったく違うアウトプットができるようになる。習慣を変えることは、「結果製造装置」のスペックを上げることだ。「よいソフト」には限界がある。ハードを変えないと意味がない。あなたが毎日していることが「結果」になる。結果はいきなり生まれない。結果は、日々形づくられている。習慣を変える努力をせよ。習慣を変えないで努力をしても無駄骨に終わるだけだ。習慣さえ変えれば、あとは努力はいらない。
2008年01月12日
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あたたかいものは、保つ。つめたいものは、放つ。
2008年01月12日
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いま自分の人生に何パーセント満足しているだろう?たとえば80パーセント、たとえば60、たとえば30だとして、どうすれば100%、120%にすることができるだろう?何が足りないと、自分の心の奥底で思ってるんだろう?ぼくは何から逃げているんだろう?こわい、こわいよ。でも、聞いてみなきゃいけないんだろうな。ほら、答えてみなよ
2008年01月12日
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幸福にはコツがある。それは多様な価値観を身につけることだ。価値観というのは、何を大事にし、何を大事にしないか、という「偏り」のことである。「偏り」があるから、ぼくらは一般的に言う「しあわせ」になるのである。価値観というのは「思考の枠組み」と言ってもよいです。また、「感情の前提」とも言えます。たとえば、朝起きたら雨が降っています。多くの人は、「通勤が面倒だ」なんて思いますよね。でもカエルだったら、たぶんですけど、「やったー、雨が降ってきたゲロ」なんて思っていると思うんです。つまり雨はよいものでもわるいものでもない。図式にするとふつうの人:雨という現象→「雨は嫌だ」という「思考の枠組み」 →今日は雨だから嫌だという感情カエル :雨という現象→「雨はありがたいゲロ」という「思考の枠組み」 →今日は雨だから嬉しいという感情というふうになるわけです。ということは、ぼくらは雨の日はカエルになればいいのです。といっても何を言われてもゲーロゲロ、というわけではなく、「カエルの価値観」をいただくわけです。しかしそうカンタンにはカエルにはなれんわけですね。というのは、ぼくらはついつい自分の「思考の枠組み」にとらわれてしまうからです。「何を大切にし、何を大切にしないか」は人によって違う、ということを頭では分かっているのですが、いざ実際に誰かと話すと、「いや、それは違うよ」なんて言ってしまう。相手(の価値観)を理解するまえに相手をただし、諭そうとしてしまうのです。そういう人は、すぐに不幸になっていきます。というのは価値観の幅がせまければせまいほど、変化可能な思考の枠組みが少なければ少ないほど、「現場で起きる現象」に対応できないからです。Aというモノ・コトは幸福でBというモノ・コトは不幸、という価値観でしかものごとを見ることができないと、Bが起こったときにどうしようもないのです。考え方を変えれば、Bだって幸福になりうるのです。たとえば閑職につかされたとしても、「俺は役立たずだ」と思うか、「ヒマな時間を使って自分を高めよう」と思うかで、その後はまったく違ってくるのです。だからぼくらは「出来事そのもの」に囚われてはいけないのです。ぼくらがしっかり見据えるべきは、自らの価値観です。自分がどういう思考の枠組みを使って、ものを考え、どういう前提があるから、今の感情が生まれるのか、ということをゆっくり内省していくのです。だからぼくらは、つねに幸福になるように多様な思考の枠組みを駆使して、感情をコントロールしなければならない。勘違いしやすいが、「感情の前提」「思考の枠組み」を変えないかぎり、どれだけがんばっても、感情を変えることはできない。かなしいものを「かなしくない」と言い聞かせてもただ、かなしいだけです。さみしいときに「さみしくないぞ」と言ってしまったら、もっとさみしさが募るだけです。そうではない。「ぼくはなぜ悲しいのか」「私はなぜさみしいのか」「なぜ俺は怒っているのか」ということを自省するのです。すると、自分がどういう前提でものを考えているかがわかってくる。それがわかってはじめて、自分と違う価値観を受け入れることができる。自分の価値観が見えないうちは、「出来事そのもの」に価値が付随すると思い込んでいるのです。そのままでは、多様な思考の枠組みを身につけることはできない。あなたが大切にしていることはなんですか?あなたが大切にしないことはなんですか?ほんとうに欲しいものってなんですか?実は要らないモノってなんですか?
2008年01月12日
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パイレーツの第3弾見ました!アクションシーンさすがに面白い!ディズニー万歳!!しかし実はあんまりストーリーが分からなかったのです。前作・前々作を見てからあまりにも時間が経ってしまったので、「デイヴィ・ジョーンズ」って誰だっけ?「カリプソ」って何?みたいなレベルで、「これ誰だっけ?」なんて言いながら観ていました。けっきょく、最後までよくわからなかったんですが、それでも面白いのでOK!!(映画ファンに怒られそうですが・・・)というのはやっぱりジョニーデップだからです。ジョニーーデップの身体性はまったくもってすばらしい。ぼくは武術のDVDをたくさん持っていますが、かなり動きが似ているんですね。なんて味わい深い動きだろうと思います。よくある西洋風のムキムキヒーローじゃないところが良いね!あまりにカッコイイのでジャスコの中でマネしてみましたが、「恥ずかしいからヤメテ」と止められてしまいました。残念!家で練習することにします。
2008年01月11日
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連れがミスチルの「あんまり覚えてないや」(「HOME」収録)を歌っていました。「♪あんまり覚えてないや あんまり覚えてないや あんまり覚えてないや あんまり 世界中を幸せにするよーなーメロディー 確かにくちーずさんでたはずぅなのにぃ あんまり覚えてないや あんまり覚えてないや あんまり覚えてないや あんまり ・・・じいちゃんになったおばあちゃん♪」 ( ̄□ ̄;)壮絶な人生!
2008年01月11日
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人間には2種類がある。外へ外へと意識が向かう人間と中へ中へと意識が向かう人間である。あなたはどっちですか?もちろんどちらがいいということはないのです。どっちもいい。それが、愛の世界です。ぼくは、後者だ。いつも、自分を見つめている。ほおっておくと、中へ、内部へ、奥へと意識が入り込んでいく。だからわざと外部へ意識を運ぶことがある。たとえばオシャレしてみる、なんてのも外部を意識した結果なのである。誰しも「よく思われたい」という欲望があります。これが外部への意識です。そして「快適でありたい」という欲もあります。これが内部への意識です。これは、誰もがどちらをも持っていると思うんですね。その程度の差はあるにしても。「よく思われたい」という欲望があると、成長欲や向上心というのが大きくなります。これはこれで良いことで、よく思われたくてがんばって成果を出し、結果的にそれが社会に貢献するということがあるんです。しかし、あまりに「よく思われたい」願望が昂じると、「けっきょく自分は何がしたいのか」ということが分からなくなるんです。みんなから「良い」と思われているのに、当の本人は「何がいいのか全然わからない」というおかしな状態になってしまうわけです。これは幸福ではない。それから「快適でありたい」という欲求ですが、これは幸福に直結します。つまり自分の快適さを求めれば求めるほど、幸せになっていくのです。しかしそこに成長や向上、上達という観点はありません。社会的貢献や社会的評価とも関係がない。「自分がしたいこと」をやりたいだけ、やりたいように、自由にやる。それはそれでけっこうですが、ヘタをすると単なる自己満足、つまり「キモいオタク」に陥る可能性があります。だから内部へ向かう意識も外部へ向かう意識も、長短つけがたいし、どっちが正しいということもないのです。ただ、自分の意識がどっちに向きがちなのか、ということを知るのは、快適に生きるうえで大切なことだと思います。やはりPOORよりもRICHがいいんです。そしてRICHは「金持ち」ではなくて、「ゆたかさ」と訳さねばならない。「ゆたか」というのは何であるか。それは「構造の多様性」なのです。簡単に言えば、「どれだけ組み替えられる可能性があるか」ということが「ゆたかさ」の本質だと私は思うわけです。「多い」とか「大きい」とか「たくさんある」というのはゆたかさの一面ではあるけれど、本質ではない。構造が多様であればあるほど、「生かされのパーセンテージ」が高まるのです。つまり使用されている部分が多い、ということです。何に関しても「100パーセント利用されている」、というのはゆたかなことだと言っていい。ぼくらはゆたかにならねばならない。しかし、その「ゆたかさ」というのは決してひとつの答えにおさまらないのです。人の数だけ「ゆたかさ」の答えがある。あなたにとって「ゆたか」とはなんでしょうか。どうすれば、ぼくら自身はもっともっと生かされるのだろうか・・・。ぼくはなにがしたいのか。どうなりたいのか。 そうやって内部に意識を向けてみるのです。
2008年01月10日
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朝目覚めたのは、8時半ごろでした。すこし雲のあるものの、そうじてよい天気です。さすがは晴れ男と晴れ女。おでかけは基本的に晴れます。さて、今日は昨日買いそびれたブツを買いに朝から水戸駅前におでかけです。そのまえに不在届けがあったので、郵便局に寄っていきました。差出人はまえ勤務していたお店のバイトの子で、いったいなんだろうと思いながら、受け取り口にいきました。すると、それはなんと色紙だったのです。イロガミじゃなくて、シキシです。バイトの子たちがメッセージをしたためてくれたステキな色紙です。これはすごく嬉しかった。まさか色紙なんてもらえるとは思っていなかったので、とても感激した。もちろん、みんながみんな積極的に書いてくれたわけではないと思うけど、それでもそういうことを企画してくれた人がいたことには心から感謝しています。T田くんはじめ、お店のみんな本当にありがとう!!ということがあったので、すごくノリノリな気分になって、そのままドライブ出発です。10時半くらいには京成百貨店に着きました。やはり品揃えがすばらしい!!勇気を出してお店に入り、それでウダウダ、お店のおねいさんもまきこんで1時間半くらい迷っていました。でも、かならずいいものが見つかる、納得のいい買い物ができる、とは思っていたんです。そしたら、12時ちょうどくらいでしょうか。これだ!というのに出会いました。自分で組み合わせられるようなもので、なおかつオシャレで可愛らしくて、どちらかといえばカジュアルですが、フォーマルでもいけるようなシロモノです。キミに決めた!とポケモンのサトシばりに一喝して、購入しますた。それはそれは、胸のすくような買い物でした。連れも気に入ってくれたようで、ふたりとも大満足です。それで、よいことが重なって、アゲアゲな気分で今度は高速道路に乗りました。そして一路、福島へ!!うつくしまふくしです!何があるのかというと、「スパリゾート ハワイアンズ」です。あの映画フラガールの舞台となった、福島県いわき市で常夏気分が味わえる一大施設です。距離にして100kmくらいあるのですが、「上」を使えばラックラク、1時間強で到着。着いてみると、常夏なんですが、意外に市民プール的なにおいがします。んん?と思いながら、潜入すると、かなり年季の入った建物!いったいこれはいつ建設されたんだろうか。いや、しかしフラガールの舞台だし、楽しいに違いないと自分に言い聞かせながら、さっそく水着に着替えます。この真冬に水着というのはオサレでしょう?プールサイドにいったら、時間がぴったりで、あのフラダンスのショーがやっていました。シズちゃんがいないか探してみましたが、残念ながらいませんでした。もちろん蒼井優もいません。プールに浸かるととても寒い!!外にも出れるんですが、出たらなおさら寒い!!せんなくスパ、温泉のほうにいきました!あー、これであったまれると思いきや、ヌルイ!!ほげーーーーー!これでは身体が冷えるばかりです。ぼくらは温かいお湯をもとめて、ぶるぶるとさまよいました。そうしたら、ときたま熱めのお湯もありました。あとは、散在しているサウナとかで身体をあたためつつ、いろんなプールや温泉をめぐりました。ハワイアンズはどこか変なところで、食事どころや買い物どころで、水着の人と私服の人がまざってるんです。しかもハワイの服着てる人いるし。たまに「ここは水着でいいのか?」と不安になったりします。と思っていると、いきなり裸で入る温泉がでてきて、「ここは水着は禁止です」となっていて、じいちゃんが丸出しで着替えていて、そこにそうじのおばちゃんが乱入したりして、異次元の様相を呈していました。しかし、ついつい間違えて女風呂に入ってしまうような幸運にめぐり合うこともなく、2時間くらい遊んでいたら、そろそろ帰る空気になりました。あとは高速道路つかって帰るだけです。帰りに内ジャスに寄りました。そうしたら突然、つれがお返しといって服を買ってくれました。予想外のできごとにおどろきつつも、オサレ宣言をしてさっそく新しい服が増えたことはとても嬉しかったです。あんがちょ!!そのあと、ご飯食べました。今日はしゃぶしゃぶ食べ放題!これは上手い!やはり若人は肉だ!肉は最高だ!腹いっぱい食べました。そのあとは映画です。またかよ!と自分でも思いました。今夜は「ベオウルフ」北欧のむかしの神話的な物語です。それが意外にグロイのね。ファンタジックなのを期待していたんですが、人がすぐに食われるし、潰れるし、刺されるし、かなりキテました。15禁だよね、あれ。でもテーマは意外に面白く、ドキドキしながら見れました。で、そのあと家に帰りました。とそんな感じの二日間だったわけです。年末年始ロクに休みをとれなかったですが、ちょっと遅れて最高の休日が過ごせたので、余は満足であります。よいことがあるといろいろと感謝したくなります。ありがとう!!ちょっと尻すぼみな日記になりましたが、もう出勤せねばならないので、これくらいで。最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
2008年01月10日
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よく遊びよく働け。この休日は、ほんとによく遊びました。1月8日。朝から、すこし遅い初詣に出かけました。笠間稲荷は日本3大稲荷だそうで、3が日には全国からおよそ50万人が参拝に訪れるとのこと。さすがに8日だったので人手は少なく、余裕をもって、参拝できました。お参りしてから、出店をみたり、今川焼きを食べたり、ちょこっとぶらぶらしました。それから、水戸駅前へおでかけです。野暮用で、ちょっと買いたいものがあったんです。それでこれは茨城の百貨店なのか、京成百貨店というところにいきました。それでじろじろ探したんですが、なかなかいいものが見つからない。それで隣の0101(マルイ)やLIVINにもいったんですが、なかなか「これ!」というのが見つからない。それで水戸は内原まで戻ってきました。あの大きいイオンがあるところです。(って誰も知らんがな!)そのイオンで探したんですが、やっぱりなかなかハマらない!時間も夜の7時くらいになってきて、だんだん二人とも焦ってきたりします。しかしプレゼントというのは面白いですね。お互いの気持ちがいろいろ交錯して。あげるほうは、相手が欲しいものをあげたいんだけど、あまりに自分の好みじゃないのは嫌だし、もらうほうは、くれる人がくれたいものをくれればいいとは思うものの、さすがにKYなプレゼントは勘弁してよと思ったり、どこまでおねだりしていいものか探りながらお願いしてみたりしなかったり、あげるほうもちょっとカッコイイところを見せたいと思いつつも予算には限度があり・・・、みたいな、そういう心理の細かな動きがとても楽しい。だからプレゼントというのは好きです。いやおうなく男っぷりを見られてしまいます。そんなこんなでやっぱり内原のイオンでは決まらなく、そのうちにぼくはやっぱり駅前に戻りたくなってきました。というのもやっぱり品揃えが、駅前のほうがよかったんです。それで大急ぎで、駅前に戻りました。百貨店は8時に閉ってしまう!それまでになんとかすべりこむのだ!といってクルマをぶっとばすこと20分ほど。間に合いました!7時43分!が、どうもお店が暗い。見ると閉店時間は午後7時半!!ぎゃふん!と思わず叫んでしまいました。百貨店の偉そうな人になんとか見るだけでも!とお願いしてみましたが、ブツは金庫にしまってしまったということで、見ることもかないませんでした。仕方がないので、買うのは翌日にしました。それから内ジャス(内原のジャスコ(イオン)のこと)に戻って映画を見ました。映画は「椿三十郎!」織田裕二です。世界陸上の人です。(知ってるよ!!)評価は、「うーむ・・・、面白くないこともないといって差し支えないでしょうねえ、ええ、わたしもそう思いますよ、」くらいでしょうか・・・。そんな気分で帰路につき、そのあとは、することすませてもう寝ました。続く。
2008年01月10日
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今日は休日だったので、部屋の片づけをしたあとに、ちょっと水戸のイオンまでいってきました。それでこのダウンジャケットを買ってしまったわけです。(マフラーも一緒に)むかしはダウンジャケットって興味なかったんですが、このまえ、去年のイブですが、名古屋で買い物してるときに試着してみたんです。鏡で見ると、なかなか似合って気に入りました。そしたらめずらしく連れが「あ、カッコイイ」なんて言うわけです。お世辞は言えない人なので、めったに「カッコイイ」なんて言葉は口にしない連れがです。たぶん相当似合っていたんでしょう(笑)めずらしく誉められたので、ぼくは調子に乗って2008年にはぜったいダウンジャケットを買おうと思っていました。で、今日買いました。なんか身もフタもない展開だ。いやー、でもひさしぶりに服なんか買いました。お買い物は楽しいね!(オンナか!!)というわけで2008年はちょっと服装を一新してみたいと思います。ぼくのなかのイメージ維新を起こそう。2007はぜんぜん服を買わなかったからなあ。今まで、固い服が多かったので、今年は「ゆる系」にしてみたいです。というか着たこともないような服が着たい。誰かオサレな人、なんかオススメのアイテムとか雑誌とかショップとか教えてください。今は真っ赤なベルトが欲しいです。今年言われたい目標の言葉。「ozekeyのファッションって洗練されてるよね」なんだそれ(笑)
2008年01月05日
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人間、偏ると病気になるようです。相手が正しく自分は間違っている、とずーっと思い込むのも病気ですが、自分が正しくて、世間(会社・社会・友人・伴侶)が間違っていると思い込むのも病気です。「自分が正しい」の人は、批判ばっかりしています。「だからそのとき俺は言ってやったんだ。」「だからあのとき言っただろ?」「あれじゃダメだよ」批判している自分に酔っている。観る力がある自分に惚れてしまっている。批判を強く押し出せる自分が大好き。そのおかげで、批判することがどれだけ自分と周りの人を傷つけるかに気づいていない。「自分が正しい」の人は「教える」のが大好きです。相手が間違っている、あるいは未熟だと思い込んでいるため、「教えてやろう」という気持ちがとても強いのです。これはもちろん自分が正しく、成熟しているという気持ちの裏返しです。だから相手は心を閉ざす。そして自分は相手が心を開いてくれないと嘆く。そしてそういった精神的偏りが、実際に身体的な不調・病気となってあらわれる。これを自業自得というのです。読みながら、書き手のぼくに対して「これはお前のことじゃないか!」と思った人もあるでしょう。そう、まさしくぼくは上のようなタイプでした。また今でもそれを引きずっているかもしれない。(病気にまではなりませんでしたが)だから今年はもっとそれを直していきたいんですね。愛をもって。愛でもって、か。もちろん恋愛に限りません。去年の暮れでしたが、いきなり頭の中に「世界は愛で成り立っているんだなあ」という言葉がとつぜん浮かんできたのです。愛ってなんなんだろう。ぼくにはちっとも分かりません。でも愛ってすごく大切なことだというのはなんとなく実感しているんです。批判する人から愛する人へ。そんな2008年にしたいなあ。なんか話があちこちに飛んでしまいました・・・。
2008年01月05日
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言いたいことを言うのに、やたら時間のかかる人がいます。たとえば最近できたカノジョの話がしたいとして、そのはじまりが、「あー、最近電話代が高くてつらいな~」とかなんです。で、「なんで?」「いや、最近よく話すから」「誰と?」「いや、カノジョなんすけど」みたいな。あーーー!ウザってぇぇぇぇぇ!はじめからそう言えよ!!苦労自慢や睡眠不足自慢も同じです。こういうのは「話したい」のではなく、「聞いてもらいたい」んですね。できればこういう手合いと話をするヒマがあれば、ひとりで本を読んでいたい・・・。そしてそういう人間になりたくない!でもやっぱり寝てないときとかは誰かに言いたくなってしまうんだよなあ。もっと淡々とすなおに自然に生きたいなあ。目標は、何が起きようと「ほー、そうかい」ま、とりあえずセリフだけでも言ってみるか(笑)
2008年01月05日
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つくづく思うのだが、ボーリングというのは人間が出るスポーツだと思う。タマをころがしてピンを倒すだけの単純なスポーツなので、精神的なつよさよわさがモロに出てしまう。はじまる前から「ボクはヘタなんだよね」なんていう奴は信用がおけない。きっと仕事でも、いつもそうやって先に免罪符を提出してくるのだ。あとはスコアが低いとあからさまにヘコんでしまう人。チーム対決なんてすると、「ぼくのせいで申し訳ありません」みたいな顔で本気で自己嫌悪している人。みんなから責められるのが嫌なんだろう。ぼくの考えでは、ボーリング中はピンがたくさん倒れたら(表面上は)喜び、あまり倒れなかったり、ガーターになったら(表面上は)かなしむ、というのが自然で素直で美しい姿だと思う。(表面上は)と書いたのは、その表情や態度というのは仲間のためのものである、という意味である。つまり実際には、ピンが倒れようと倒れまいと淡々としているのが真の意味で美しいと思うのだ。ピンが倒れたら嬉しい、ピンが倒れなかったらかなしいというのはあくまでゲームをする人間が意味づけしたことである。だからピンが倒れた倒れないで、本質的に感情を揺さぶられるのもいただけない。スコアなど大したことはない。たかがゲームなのだ。ぼくらはプロじゃない。だが逆にゲームだからこそ、つまりみんなで遊びに来ているからこそ、ストライクをとったら「いえーい!」と喜び、ガーターになったら「しまったぁぁぁ」とかなしむのだ。それが楽しむということではないか。「たかがボーリングじゃないか」とニヒルを決め込んでは、楽しく遊ぶこともできない。心の奥では淡々としながらも表面上でよろこんだり、かなしんだりして楽しむ、というのがぼくのボーリング哲学なのである。え、アベレージ?それはヒミツです。た、たのしめばいいんだよ!!
2008年01月05日
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評価というのは評価するものの都合で決まるのだ。たとえば会社で評価の悪い人がいるとします。しかしそれはその会社で評価が悪いだけなのです。もっといえば、それを評価した直属の上司にとって「使えない」からそう評価されただけたのです。そんなことはよく言われていることなのだが、それを実感したとき、ぼくはとても虚しくなった。だから「客観的な評価」というものはありえないのです。かならず主観で決めている。「数字などの客観的な判断基準で」といっても、けっきょく数字を判断するのは主観でしょう。ぼくは「客観的に判断はできない」ということが悪いとは思いません。誰しもがそうなのです。しかし「自分は客観的に判断している」という思い込みは排除しなければならない。けっきょく自分が何か(誰か)を評価するときは、「自分にとって都合がいいかどうか」で判断している場合がほとんどなのです。評価というのはとてもむなしい。もちろん誰かから評価されて嬉しい、社会から評価されることのよろこび、というのはあると思うし、大切なんだろう。だが、最終的に評価というのはむなしい。そんなことを考えた1月4日。
2008年01月05日
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ぼくは幸せというのは比べることができないと思ってるんです。「俺はあいつより幸せだ」とか「彼よりは自分のほうが幸せだ」とか「わたしよりあの子のほうが幸せだ」とかまれにそんな使い方をするのを見る気がしますが、よく考えたら、それってちょっとおかしいんじゃないでしょうか。そもそも、幸せというのは「状況」のことではなく、自分で感じるものです。たとえば、ぼくは本を読むのが幸せでたまりませんが、本を読むのが苦痛な人もいるわけです。カキフライが好きな人もいれば、カキフライが嫌いな人もいるわけです。ぼくが思うに、しあわせというのは「自分の中の欲求がかなっている状態」だと思うんです。それでもっと言えば「自分の欲求が分かっている状態」でもしあわせと言っていいと思うわけです。というのも、好きなものを食べ、好きなことをし、好きなように歌い、好きなように踊り、好きなように遊び、好きなように働く、というのが幸せの基本概念だと思うんですね。つまり「好き」ということがとても大事になってくるのです。「好き」というのは自分の中のことですから、幸せというのは、ほんらい非常に「自己完結的」で、「ほかの誰か」はまったく関係がないと言っていいんです。好きなことができたら幸せ。バカみたいにシンプルな法則なんです。しかしぼくらはとらわれる。モノの価値をはかるときに「くらべる」という方法をあまりにいつも使っているので、「くらべない」という考え方が、腑に落ちないのです。ついついぼくらは「大きいのか小さいのか」「良いのか悪いのか」「正しいのか正しくないのか」などなど、いろいろと比較してしまうのです。しかし、「目の前のモノ、それ自体を見る」つまり「くらべない」ということをすると、途端に、いかに多くのことにとらわれていたのかに気づくのです。そして、「ああ、これはこれなんだ」ということに気がつくのです。ぼくはそれが幸せなんだと思うんですね。くらべたら、とても虚しいのです。「それ」は「それ」でよいのです。つまり「それ」は何よりどうで、何よりどうだということはどうでもよいのです。けっきょく「それ」は「それ」なんです。そう思うと、やっぱりぼくは幸せだなあと実感するのです。ぼくが幸せかどうかは、ぼく意外に決める権利はないのです。ぼくが幸せだといったら、ぼくは幸せなのです。でもこれが、他人に対する「つよがり」になっちゃこれまたいかんと思うんですね。つよがりで幸せぶっている人は弱い人だとぼくは思う。幸せ。幸福というのは研究してみるととても面白いと思います。
2008年01月04日
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努力というのは、本質的に「なまけ心」からするものである。人間誰しもズルしたいし、ラクしたいのだ。ラクがしたくて仕方がない。どーしてもラクしたい。だからこそ、ラクするために本気でがんばってしまうのだ。本末転倒のようにも思えるが、実はこれが本質なのである。つまり努力というのはすればするほど努力しなくてもよくなっていくのであり、努力し続けなければいけない状況が続いて改善されている様相を呈していない場合、努力の方向性が間違っているということである。努力することの目的はただひとつ。「ラクをすること」それに尽きる。努力は美徳でもなんでもないのです。努力家というのは、別に勤勉というわけではない。やればやるほど、ラクになっていくので、楽しくてついやってしまっているのである。「ラクしたい」その素直な欲求を認め、その欲求をかなえるためにまっとうに行動することに「努力」という名前がついているだけなのだ。
2008年01月04日
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選択基準軸を決める、ということです。なにかしらの軸があるから、選択することができる。たとえば「楽しいこと・嬉しいことは先にやる」という軸を持っている人はショートケーキのイチゴを先に食べるでしょう。「先憂後楽、楽しいことはとっておく」、という人はイチゴを最後に食べるでしょう。このように自分の中の基準軸で、ぼくらは日々の選択をしているわけです。逆に、直感で選択をしているうちに「自分にはこんな軸があるな」ということにも気づく。その軸をいかに遊ぶか、ということです。自分の軸がわかったら、わざとその反対をやってみる。ぼくは去年、自分のケチさに気がついたんですね。節約のつもりが、気づけばただのケチになっていた。「値段の安いものを選ぶ」という軸ができてしまっていたんです。それですこし考えを変えてみて、「自分の欲しいものを選択する」という基準に変えてみました。やっぱりはじめは努力がいるんですね。いや、今でも努力がいる。でも、多少高くても欲しいもの買ったときはとても気分がいいんです。それにモノを大切にするようになる。まわりから見れば大したことはないのかもしれませんが、ぼくにとっては、すごく大切なことを学んだ気がしました。まだ完全に変わったとは言えないですが、ちょっとでも自分が変われたな、と思えてすごく嬉しかったんです。ぼくらは毎日迷っています。でもそれは、自分の中の軸を知らないからだと思うんですね。自分が何をしたいのか。一度きりの人生で何を成したいのか。それが明確になって、それを選択の基準軸とすればきっと迷うことはだいぶ減ると思うんです。迷うには訳がある。ぼくらが迷うときは、かならず何かから逃げているんです。自分に正直になったとき、自分にまっすぐにぶつかっていったとき、迷いはまったく姿を消します。ぼくの選択基準軸は・・・、ヒミツです。
2008年01月03日
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宗教と科学をつなぐものは身体である。身体こそが、命なのだ。ぼくは、精神論とかスピリチュアルな話はとても好きで、神さまの存在も本気で信じています。うさんくさい人文書も大好きで、「愛を!祈りを!ゆるしを!」なんて本を見つけると嬉々として購入してしまいます。けれどけっこう世の人は、そういった類の本を毛嫌いしているようですね。「愛じゃ食っていけない」だとか「非科学的」だとか「非現実的」とかとってつけたような言い訳で、自分の理解できない考えを一生懸命否定しているようです。いわゆる「唯物論者」は「カミサマ」というのがどうしても気に食わないようなのです。なぜ唯物論者にカミサマの思想が入り込まないかといったら、世にあるカミサマ論が、あまりにも抽象的な表現を好むからだと思うんです。「愛することで癒されるのです」「あなたの敵を愛しなさい」「与えた愛はみずからにめぐってくるのです」などなどの文言は、唯物論者の心に届かないのです。ぼくもこういった文を好んで書きますが、こういうのは波長が同じ人でないと通じないのです。じゃあどうするかといったら、ここで身体が出てくるわけですね。精神のことを精神で語ってはいけないのです。ある精神があれば、それにともなう身体があるはずです。「愛する身体」があれば、「恨む身体」があり、「よろこぶ身体」や「かなしむ身体」があるわけです。よく「具体性がなく精神論に陥っている」という批判の仕方をしますね。だったら、「具体的な精神論」の話をすればいいわけです。たとえば「愛することは愛されることだ」といったら、「愛するとはなんですか」という疑問に答えられるようにならねばならない。「愛することはゆるすことです」というのでは説得力がないのです。分かる人だけ分かる、というのもアリですが、もっと科学的に説明できるようになればよいのです。身体(の実感)というものを大事にして生活すると、宗教と科学の境目がなくなってきます。そうすると、宗教が非常に科学的だと感じるし、また科学はかなり宗教色を帯びているということに気づいてくる。身体というものを重要視することです。身体(実感)からモノを観るのです。ぼくは今後、この身体を通して科学的宗教を研究したいと思う。それが哲学としての合気道である。それは同時に具体的な精神論でありたい。
2008年01月03日
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あけました2008.平成も20年でございます。また今年目の前で起きるすべての奇跡に感謝します。「いま」、「ここ」、に「ある」ことの奇跡。奇跡の軌跡こそが「日常」なのだ。大切に生きたいと思います。ことしもよろしゅうおねがいします。
2008年01月01日
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