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誰かにならなくていいんだ。一生懸命、俺は俺になれ。ランキングとかいうのに入ってみました。面白い!共感できる!と思ったらクリックしてやってください。
2006年01月31日
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キーキー言わないほうがいいような気がしてきた。昨今の若者は・・・とか現代の日本は・・・とかこの企業の体質は・・・とか、小泉首相は・・・とかキーキー言ってもしょうがない。自分が何かできるわけではない。じゃあ、言わないほうが自分のためにもみんなのためにもいいように思う。あとは、自己卑下もしないほうがよいと思う。やっぱりに口にするならよい言葉のほうがいいんだよ、きっと。オモロイ!と思ったらクリックお願いします。
2006年01月30日
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最近、なんかよくヘコんでいた。自分を謙虚に見つめなおそうと思ったまでは良かったが、謙虚が行きすぎて半分くらいは自己卑下になってしまい、「俺はダメ人間なのではないか」という妄想にとらわれていた。まあ病的躁的全能感に歯止めをかけるには、「自分を見つめなおす」のもいいものだが、やりすぎれば、ストップするどころか後退してしまいかねない。なんでもほどほどに。というか「歯止め」は周りがかけてくれるものだから、自分で抑えたりする必要なないかもしれない。自分というのは「忘れる」もので、「じっくり見つめる」ものではないのかもね。誰だったか、「自我を忘れたとき、自己がもっともいきいきと輝いている」とかいうようなことを言っていた。うんうん、そんな気がするよ。さて、表題「いいじゃんか、それでも」。これはあれですよ、「俗欲」を認めようってこと。俺は、真理・原理原則・中心・抽象・深さといったものが好きだから、どうしてもそっちに傾きがちだ。要点をつかむのが上手いのはよいのだが、具体的手法に乏しかったり、極端に「清く」なりがち。勧善懲悪・純愛・100%。存在しないものを求めてしまいがちなのだ。だから意識的に「浅く」「悪く」「中途半端」で「俗な」ことを頭に置かないと、非常にストイックでかたくるしく、自由度の少ない思考に偏ってしまう。やっぱり基本的にマジメなんだね。だが、やっぱりそれでは面白みがない。それで、俗欲も認めようと思ったのだ。「いいじゃんか、それでも」やさしい自分が自分にこういったとき、息がふうっと抜け、胸が軽くなった。俺が軽視していた俗欲。「豪邸に住み、いいクルマに乗って、ゴージャスな生活」「ちょいワルで、ちょいモテ」「有名になりたい」「すごいと思われたい」「カッコイイと言われたい」「セレブな服装でセレブな場所でセレブな食事」「出世したい」「いい大学に入りたい」まあ本や雑誌にしたら売れそうな感じの欲求ですよ。俺はこれらをバカにしていた。「自分は合気道を通じて真理を探究しているのだ。 俗人はチャラチャラしてればよい」というのが俺の内心。でも、そうやって否定してしまうのは何かもったいない気がしてきた。別にそんなにカタく考える必要ないじゃんって。上のような「俗欲」ってのは非常に人間味があって、可愛らしく、ほほえましいんだよね。人間の「遊び」、つまり余裕の部分でもあると思うし。だから素直な「俗欲」ってのはある意味で美しい。醜いのは、大義や名分に隠された俗欲だよね。それだけ暴けば、いいんじゃない?「人は見た目じゃない。中身だ」っていうけれどアンタ、体がなかったら幽霊だよ。
2006年01月30日
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高校だかの書道の時間に、先生が「紙に墨を乗せるのではなく、紙をけずる(彫る)ように書くのです」みたいなことを言っていた。当時は何を言っているのかさっぱりだったが、最近になって、もしかしてこういうこと?という感じが分かった。字がうまく書けるとき、というのがある。調子の良いときは、苦手な字もまあまあに書けるし、好きな字ともなれば、自分で「うまいっ!」と言いたくなるくらいに良く書ける。反対に調子の悪いときは、得意な字までもがうまくかけないし、嫌いな字にいたっては全然ダメ。そういう差があるので、できればこれをコンスタントにしたい、つまりは調子のいいときの条件をつかみたいと思っていた。で、最近になって気づいたのが「覚悟」ということ。筆、といっても筆ペンまたはボールペンが主だが、それが紙に触れたら、あとは「まかせる」ことなのだ。筆が紙に触れてから、うじうじ悩んで、こんな線にしよう、あんな線にしようと迷っても仕方がない。うじうじした線になるだけ。カッと触れたら、ピッと線を通す。「イったれ!」という気持ちで思い切りよく。そうすると、自分としては良い字が書けるんだね。そのときの気分が楔形文字。あのメソポタミアの。カッと触れて、ピッと通す。そのときに、あ、と気がついて、「紙を彫る」ってのはこういうことなのかも、と思ったわけ。この意識で書くと線質が格段に上がる(と思う)。そう、やっぱり線質なんだね。これも書道の先生が言ってた。「書道は形じゃないんです。本質は線なんです」と。なんとなく分かる。で、あとは緩急ね。ピッと通すところは速くていいんだけど、カッと触れて呼吸を置く瞬間がないと、ただの雑な字になる。これだから字を書くのは楽しいよね~。
2006年01月30日
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武術の本で、「浮き」という言葉がよく使われる。「あの先生は浮いている」などと言う。というのは、空気が読めてないという意味ではない。じゃあ、どういう意味なのか。今日思いついたのは、人が「浮いている」と表現するとき、その対象は極端に上下動が少ないのではないか、ということ。たとえば、クルマがでこぼこな地面を走れば、当然クルマは大きく揺れるだろう。これは地に接しているからだ。だが「未来のクルマ」にはタイヤなどない。反重力なんとかで、「浮いている」。こうなると、地面のでこぼこは関係ない。つまり地球の中心から一定の距離を保つことができる。これを人間で言えば「腰の高さが変わらない」が「浮き」に相当するのではないか、と考えたのだ。腰の高さがまるで上下しない人間を観たとき。僕らはその人間が浮いていると錯覚してしまうのではないか。今日は仕事中にそんな仮説が思い浮かんだ。
2006年01月29日
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良薬は口に苦し。されど苦きこと、かならずしも良薬ならず。つまり、良い薬は苦い。言い換えれば、「良い薬」は「苦い」に含まれる。もっと分かりやすく言えば、苦いからといって、良い薬ではない。その判断が難しい。ただの苦い毒もあるからね。長年飲み続けたら死ぬからね。どんな薬を飲むかは自分で決めないとね。これが難しいんだなあ。
2006年01月29日
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朝の旅番組でのレポーターの一言。「今はこの寒ブリの季節なんですね。あ~、脂が乗って、はい、それではいただきます。ん~、口の中で一瞬にとろけますぅ。もうこれは魚じゃないみたい!まるで中トロのようです!」
2006年01月29日
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やっぱりね、「いいこと」したあとは気持ちいいよ。偽善も善のうち。自己満足も、たまにはいいんじゃない?
2006年01月27日
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★真剣な告白「あ、あの、わたし、えっと、その あなたのことが、す、す、す、 スキありぃぃぃぃっ!!!きょえぇぇぇい!!」「ちぃっ!おぬしできるな。 恋はつねに真剣勝負。キミの気持ちを真剣白刃取り!!」★新しい敬称。〒123ー4567 東京都足立区●●台1-2-3××ビル内 株式会社△○□× ウォンチュゥっ!★もうなんかどうでも良い詩(誰か作曲して!!)冬の晴れた朝 突き抜けた空凛とした空気が肌を刺す駆けるクルマ 会社へと向かう道ふとミラーのぞけば、後ろのやつなんか歌ってるよあー、声は聞こえないけれど、なんか鯉みたいに口をパクパクさせてやがるマヌケだなあオッケェ、今日も胃腸は軽いぜ通勤時間5分弱聴ける歌も一曲未満それでも一緒に歌っちゃうんだオーイェイ しびれるサウンド マイケルジャクソン俺の顔もマヌケかな 英語わかんねえしちくしょう しみったれた社会さくだらない本一冊1000円そんなもんたまに買っちまうのに、昼飯のパン136円よりも98円選ぶのさおお このふざけきった世界をデッカク笑い飛ばそうぜって、ニヤって笑ったらくちびる切れた~冬は油断大敵ってね そんなことわざないよなああ 嫌いな奴なぐりとばせ 好きな奴抱きしめろ 怒りたいとき怒鳴れ 泣きたいとき涙流せ 笑いたいときは笑えって、 ガハハって笑ったらくちびる切れた~ ガハハって笑ったらくちびる切れたのさ
2006年01月27日
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こんな一言どうですか?「多忙には熱情を」
2006年01月27日
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このごろ気に入っている立ち方。足裏の重心を偏らせずにふわっと立つというもの。ふわっと立つとなんか地面からの反発がない感じ。文学的に表現すれば、「地球と仲良くなった」感じ。踵やつま先に重心を持ってくると、地面とぶつかる感じがする。拇指丘(前足底)と踵のあいだで重心を前後させて、「あっ」というその瞬間、ふわっとしたその瞬間の場所。これがなんかいい感じ。効果は不明だけど、気持ちいい。これと、最近ざぶとんなしで固い床に座っても脚が痛くならないのとなにか関係あるかもしれない。
2006年01月27日
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前腕を解放するのが良いのでは?と最近思う。前腕を解放するというのは、手首と肘の癒着をなくすということ。つまりは肩が上がらないようにできるということ。僕の場合は左がかなり癒着しているようで、右はまあまあ自由度がある。この前腕の解放が「あずけ」的な技法につながる、のかもしれないなあ。
2006年01月27日
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身体の各部位なかにある「水」がはねたり、凍ったりするのは良くない感じがする。どこまでも滑らかに、面に沿って水が這うような感じが今、自分としては良い。これは吉丸先生の言われる「円滑運動」にも近いのでは?と勝手に思っている。
2006年01月24日
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そうそう、人を観るのに「華(はな)」という観点がある。あれは不思議だね。なんかいるんだよね、「華(はな)」のある人。オシャレとかじゃなくって、なんか華やか。良くも悪くも、うん。
2006年01月24日
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最近、肘っていろんな人が言うように大切かも、と思いだした。というのは、肘は体幹としっかりつながっている感じがするのだ。力を抜けば肘は垂れる。肩も垂れる。その状態を保ったまま、肘を「出す」。最近は、すこし肘に意識がいくようになっている。肘を出すと、前腕が軽い。いや、なんか重感はあるんだけれど、軽く上がるというか、そう、上げるというか「上がる」という感じ。肩が支点では疲れてくるが、そうでないため、一人挙げ手をやりつづけてもほとんど疲労はない。でもまだ木刀を持つと、ちょっと乳酸がたまる。昨日は、弟にやったらすっと上がった。全体重を乗せてくれたのでやりやすかったのだろう。PS合気通信その1:最近、「一教抑え抜け」を開発。開発してから誰にも抑えられたことがない。これは身体の大きな筋肉を使うという強引な技だが、それなりに面白いと自分では思っている。その2:無敗を誇っていた新空中腕相撲で負けてしまった。相手の手首と肘使いにやられた感じ。要研究。
2006年01月24日
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ヒトはヒトを「見る」ことができないから、なんらかの「基準」が必要になってくる。簡単に言えば、「あの人の性格は?」と聞かれても、ぱっとは言えないということ。「やさしい人」だよと適当に答えるにしても、そのまえに「やさしさ」という「基準」を持ってくる必要がある。ほかに「意志の強さ」「人あたり」「自尊心」「気の強さ」などの「基準」をもうけることにより、だんだんとその人の性格が見えてくる。逆に言えば、そういう規矩(きく)がなければ、人の性格などは表しようがない。そういう意味で、俺が自他の心身を観るときに最近使っている規矩がある。今日はそのお話。まずは一つ目。その名を「丹D」はい、下丹田のパクリ(笑)自分に「肚(はら)」が足りないという自覚から、他の人はどうだろう、と気になって観はじめた。丹Dのある人の特徴は「すごみ」である。にらまれると怖い。逆に丹Dのない人がどれだけにらんでも、怖いどころか滑稽である。それから「NEWER(ニューワー)」。これは柔和さである。人あたりのよさとも言えるかもしれない。身体の特徴としては、「胸のやわらかさ」だと思う。まだはっきりは観えない。3つ目はいわゆる「中心軸」。仏像まじすごい。これは、その強弱はあるとしても、基本的に社会人にはそなわっている。中高生・大学生にはほとんど見られない。(厳しい体育会系の学生は別。シッカリしている)駅で見れば、一目瞭然と思う。しっかり働いてきたおじいさんとか、スッとしていると思う。あとは、リング上で見た和泉元彌はキレイだったなあ。とりあえず最近気にしている規矩はこのようなところ。また発見したら書きます。
2006年01月23日
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「いいとも」でのタモリの名言。テレフォンショッキングのゲストが「タモリさんって不規則な生活してるけど、 お身体は健康ですよね~」に対して、「何を言ってるんですか。 不規則が健康のもとです」みたいなことを言っていた。最近は、それを実感する。社会人になって、それなりに不規則な生活を強いられている。寝るのは12時だったり、夜の3時だったり昼ごはんは12時だったり3時だったり、夜ごはんは4時だったり、夜の11時すぎだったり。朝9時に起きて朝飯、12時に昼飯食べてから出勤。ちょっと働いて4時に夕飯、とかもざらにある。だが、俺は健康そのものだ。学生の頃より何倍も健康に感じる。小さい頃、「正露丸」が常備薬だった。高校の頃は、毎日筋トレをしていたけど、よく風邪を引いていた。だが、今は違う。風邪をすこし引いたとしても、働いていれば大抵は治ってしまう。他の人と比べたら分からないが、昔の俺と今の俺では確実に身体がつよくなっている。これは最近の、不規則で夕食もろくに食べない生活と「身体を練っ」ていることの効能だと思う。この泥くさい生活が、俺の健康を支えているのだ。まさしく「無浄」。清濁あわせのむ生活。最近の健康ブームはあまりにキレイすぎる。なんとか物質が身体によくない。睡眠は十分に8時間。サプリメントで栄養もたっぷり。こんなもんこそビョーキである。なにが「科学的」だ。「ケンコウ、ケンコウ」ってあわてふためいている姿はどうみたってビョーキである。オマエは「徒然草」の著者のファンか。(←吉田兼好)「健康ブーム」って良いことのはずなのに、なんかキモチワルイと思ってたら、そういうことだったんだね。結論。健康は理論ではない。感覚でつかむものだ。
2006年01月23日
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表題のような考え方を思いついた。陰の稽古とは、いわゆる「がんばる稽古」相手の技をかからないようにがんばり、あるいは力を抜き、相手の力をいなし、とにかくいやらしくやる。陽の稽古とは、いわゆる型稽古。明るく楽しく、お互い技を感じながら掛け合う。「諦めの稽古」でもある。一説によれば、あきらめるとは「明らかに究める」ということだそうだ。明るさの極地ということ。そう、お互い本気になれば、相当の実力差がないかぎり技が掛かることは無い。そのことを諦めること。認めること。だから、やはり技にかかってやり、なおかつ掛かってもらう必要性がでてくる。本当に投げれるような人がいれば別だと思うが、すくなくとも俺のような凡人がまあそこそこに稽古していくには、技に掛かってくれる人が必要である。だが、このような稽古の特徴といえば、「うさんくさい」ことである。ほおっておけば、変な方向に走りがちなのが、陽の稽古だと思う。それを現実に引き戻してくれるのが陰の稽古。それはそれはつまらないものだ。技がまったく使えないのだから、悔しいし、不快にもなる。だが、それでこそアブナイ方向にいかなくて済む。「自分は合気道をやっているから強いのだ」「上段突きはこう捌くのだ」「ローキックはこう捌くのだ」「相手がボクシング(柔道)の場合はこうするのだ」不思議と、陽の稽古をしていると気分が尊大になってくる。これは、合気道を稽古するものなら、誰もが感じたことがあると思う。でも、こんなものは妄想の類といっていいでしょう。だから俺は、陰の稽古と陽の稽古を組み合わせて稽古するのがよいと思う。先輩は、陰の稽古であれば後輩にも技が掛からないことを知る。後輩は、陽の稽古であれば、先輩にかなわぬことを知る。ふん、これはまた俺お得意の理想論かな。実際は、この観点を持った人でないと切り替えが難しいからね。陽の稽古がしたい気分でも、相手によっては勝手に陰の稽古を始めてくるし。そうなると俺も陰の稽古を始めて、つまらなくなる。それがお互いの同意のもとにあればいいけどね。まあとりあえず稽古が偏らないようにしたいね。ここ1年くらい、陰の稽古ばかり求めてきて、どんどん俺の技と性格が偏屈になっていったからなあ(笑)
2006年01月22日
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やっぱり中島美嘉の「雪の華」いいわあ~。声がいいよ、声が。癒される。あとは、なぜか山崎まさよしの昔の歌が流れているが、あれは意外に歌詞がいいね。「いつでも 捜しているよ どっかにきみの姿を 向かいのホーム 路地裏の奥こんなところにいるはずもないのに」「こんなところにいるはずもないのに」がいいよね~。それと、倖田來未はエロイだけかと思いきや、なんか明るくて可愛いな。
2006年01月22日
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「間違いだらけの合気論」「合気進化論」「合気のできる人 できない人」「続編 合気ができる人の歩き方、できない人の歩き方」「誰でもできる!カンタン合気テクニック」「合気したっていいんだよ。君は間違ってない」「萌え合気」「自宅でラクラク!合気で成功する方法」「たちまち同期に差をつける合気術」「生協の合気さん」「なぜ合気道道場は潰れないのか?」「合気の壁」こういう本が多いんですよ、ほんとに。
2006年01月22日
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ああ、なんてくだらない企画なんだろ。早く寝ればいいのに。「困難は分割せよ」⇒大きなチーズは割って食べよ(フランス)「仏の顔も三度まで」⇒らくだのコブも二つまで(アラビア)「アブ蜂とらず」⇒肉をも魚をも失う「犬もあるけば棒にあたる」⇒らくだもあるけば砂漠にでる(アラビア)「かっぱの川流れ」⇒らくだの脱水症状(アラビア)「言うは易し、行うは難し」⇒YOUはやすし、僕はきよし(大阪)「ローマは一日にしてならず」⇒ワインは一日にしてならず(フランス)「光陰、矢の如し」⇒真剣な人生は、パスタより短い(イタリア)その他・・・ヨーグルトにも五分の魂(ブルガリア)ミルコの目にも涙(クロアチア)ヒョードルのいぬ間に洗濯(ロシア)雨降って、地価高まる(東京)2階立てバスから目薬(イギリス)腐ってもムエタイ(タイ)そんなバナナ(フィリピン)まあ!ライオン(シンガポール)・・・、意味分からなくなってきた。もうやめよ。
2006年01月22日
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実は最近ミクシイをやってるのだが、知己からバトンをいただいたので、回答する。あつをさん、ありがとうございます!1.回してくれた人の印象をどうぞ。お会いしたことはないが、柔和な中に芯のある、知的な人と思います。2.周りから見た自分はどんな子に見られていると思いますか?お笑い系ちょいワルならぬ、ちょい変人系良くも悪くもプライド高い系勉強できる系合気道やってる系 3.好きな人間性について五つ述べてください。 芯がある知性がある恥ずかしがり屋根はいいのに口が悪い何かにハマる4.では反対に嫌いなタイプは? 知性がない常識・礼儀・伝統にとらわれているねちっこい愚痴・イヤミを言う偉そうにしている目が死んでるような奴5.自分がこうなりたいってありますか? 根はマジメなんだけど、人間味がある。うん、人間味のある人になりたいな6.自分のことを慕ってくれる人に叫んでください。 ていうか、ほんとマジありがと。7.そんな大好きな人5~15人にバトンタッチ!(印象つき) あっ!バトン落っことしちゃった!
2006年01月22日
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言ってみれば、ムダなことこそが男のロマンなのだ!
2006年01月21日
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今日は、ふと仏像の本が目に入ったので、チラ見してみたら、これがすごいのなんので!なんか観る目があるみたいなふりはしたくないんだけど、だから勘違いかもしれないんだけど、仏像ってマジで姿勢がいいんだね~。(と俺は感じた)ページをめくった瞬間に、座った仏像が目に入ったんだけど、そのまっすぐさといったらもう、こっちまで呼吸がすっとしてくるくらい!で、瞬間的に魅せられて、パラパラと見てみたんだけど、やっぱりどれもすごいんよね。はじめて国宝級という意味が分かった気がするよ。あ~、あの本欲しいわあ。てか社会の資料集とかでいいから仏像を眺めていたいわあ。今度本を注文しよ~っと。武道とかやってる人にはマジオススメっすよ、仏像。
2006年01月20日
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人はモノを観ることができない、という事実がある。モノ(対象)とコト(関係性)を、すべて「わかったつもり」で把握せねばならないということ。分かりにくい。ので、最近読んだ本に倣って、「自信」という観点から見てみよう。ちなみに、ここでいう「自信」とは表面上のつねに揺らいでいる「自信」のことをさしている。どちらかといえば、僕は「自信」があるほうだ。つまり実際の実力よりも、自分の評価が高い。いわゆるナルシストである。逆に「自信」のない人もいる。実際は嫌われてなどいないのに、「私なんか」とって謙遜してしまうようなタイプ。極論すれば、人間は「自信」のあるタイプか、「自信」のないタイプか、どちらかに属すると思う。そしてそのどちらもが、「正しく」自分を認識できていないのだ。僕のようなナルシストタイプは、不満を抱きやすい。「俺はもっとすごいのに。」「誰も理解してくれない」すぐにそういうことを言い出す。そして人が離れていく。「自信」のないタイプは、チャンスを逃しやすい。人をけなすことはないので、人が離れてはいかないが、その反面、利用されやすかったりする。どっちも極端に傾けば、病の気を含んでいく。逆に、誰もが病んでいるといえる。僕が思う真の自信とは、自分に対する評価がとても正しいことだと思う。ナルシストでもないし、自己卑下することもない。そこに、本当の自信があってはじめて、本当の謙遜が生まれる。僕は表面上のナルシスティックなソウ的「自信」があるために、「自信のある人間」と思われることもある。だが、本当はそうではなく、半ば病的な全能感に支配されているだけなのだ。思うに、本当の自信はぐらつかない。何があっても動じない。成功して浮かれず、失敗してへこまず。すべてを認めている状態。僕の言うところの「幸せ(仕合せ)」。禅の「花は紅、木は緑」(だったかな)の境地。あるがまま。あー、俺にはほど遠いこった。まー、でもやるしかないんで、合気道と仕事を通じて、悟りを目指したいと思うよ。
2006年01月19日
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最近は、自分の中で「水蜘蛛」と呼んでいる歩き方が気に入っている。前足が、地面につく寸前に後ろ足をぴょっと引っ張って浮かせる感じ。なにがどういいということもないが、なんとなく方向転換とかがラクな気がする。
2006年01月19日
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第3章「笑いと俺の関係」俺にとって、笑いはエッセンシャルなものだった。幼い頃から人を笑わすことをほぼ第一義としていた。その甲斐あってか、「面白い人ランキング」なるものがあれば、高1のころ、一度その座を奪われたものの、それ以外は一位の座に輝いていた。「あの人カッコイイよね」と誰かが言っても、「ああ、彼はカッコイイね」と言えるが、「あの人面白いよね」と聞くと、「いや、別に(俺のほうが面白いだろ)」と言ってしまうような性格。面白いということにかけては、俺は何かしらのプライドを持っていた。小学校の頃、先生の言葉尻を捉えては、授業を引っ掻き回していた。「このアラスカ半島には、イヌイットが・・・」「そんなことアラスカ!」こんなんでも小学生は爆笑していた。基本的には中学でも高校でもこんなことを言っていた。今でもクラスの爆笑をさそったギャグを覚えていたりする。それほど、俺にとって人を笑わせることは快感であった。しかし、だんだんと年をとるにつれ、「面白い俺」という存在が、InterestingなのではなくただのFunnyなのだと感じてきた。高校の終わりか、大学くらいだと思う。俺のFunnyは空虚であった。刹那のはしゃぎは、後のむなしさを生むだけだった。「優等生」であることをごまかし、「マジメ」でないことをアピールしたかったのかもしれない。それに気づいたとはいえ、そう簡単に変えることはできない。俺は人の揚げ足をとるのにかなり長けており、人の「隙」がよく見える。いったん見えてしまうと、それをつっこまざるを得ない。それにマジメな空気になると、それを壊したくなってしまう。その一方で、ときおり沈み込むときもあった。沈みこむといっても、暗くなったりするのではなく、やけくそになってモノにあたったりするのだ。俺は「軽」と「重」の間を激しく揺れ動いていた。かなり躁鬱の気があった。俺の元来の気質は「陰か陽か」でいったら、「陰」だと思う。ほっておけば、暗いほうへ暗いほうへ行ってしまう。それを引きとどめるのが「笑い」だった。他人を笑い、自分を笑い、世間を笑う。笑いの「陽」の力で、なんとかしてこの世界にとどまってこれたのだ。だから笑いは俺にとって、必要不可欠なものだ。逆に言えば、笑いの必要性が低くなったとき、俺に本当の自信が芽生えたときと言えるかもしれない。
2006年01月18日
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第2章「俺の運動遍歴」初めての習い事というのは、スイミングだった。たしか3,4歳から始めたろう。水が怖くて泣いていた、と母は後になって述懐していた。俺には記憶がない。ただ、スイミングは好きではなかった。入りたてのころから、「○年生(←何年だったか忘れた)になったら辞める」と決めていた。小学3年から、なんとなあく合気道をはじめた。幼稚園のころの先生が、小さな教室を開いていたのだ。好きでも嫌いでもなかったが、マジメだったのでとりあえず続けた。上手くも下手でもなかった。みんなと同じくらいだった。競争心もなかった。小学校4年の2学期からサッカー部に入部。みんなは1学期から入っていたのだが(それが慣例。男子の90%は入る)、なんとなく俺は躊躇していて、なぜか2学期から入部。今でこそ中田に似ていると言われるが、当時は顔も、実力もなんにも似ていなかった。つまりサッカーは下手だった。というか、ぶつかりあうのが好きではなかった。好戦的な性格ではあったが、それ以上に痛いのが嫌いだった。しかしリフティングは学年一というほど上手かったので、つねに「一軍」にいた。変な話だが、選手選抜はすべてリフティングの回数で決まったのだ。そういえば、一人で朝トレをしていた時期があった。(小3だと思う)どうなるかは気にしないで、なんか良いことがあるだろうと、みんなより30分くらい早く学校にいって、(それも走って!)ヒンズースクワットをしていたのだ。毎日数回ずつ回数を増やしていって、俺のあいまいな記憶によれば、最高のときで200回くらいやっていた気がする。小学6年のころ選抜で陸上部の補欠になって、しかもなんかの関係で、当日本当に出場するハメに。6レーン中のドベだった記憶がある。水泳部にも選ばれたが、水不足で大会は中止になった。中学・高校では卓球部。市内では活躍し、少しは名も知れたが、(中2で市大会優勝!)結局、井の中の蛙で地区大会では3回戦負けが相場だった。中学・高校では一貫して短距離走が遅かった。50Mを7秒台の中後半が最盛期。ハードルが苦手だった。長距離走は中学1年ののころ遅かったが、毎年、冬はよく走り、高3のころはまあ早いほうに属していた。1500M 5分17秒がベスト。高校3年間は筋トレに精を出した。大学の2年くらいまでは続けていた。つまり合気道を本格的に始めるまでは。休日の朝から総合体育館のジムに通ったりした。家では毎晩、寝る前に1時間くらいやっていた。よく友達に上腕二頭筋を誇示していた。つまりはこれくらいの「努力」をしなければ、俺は俺を好きでいられなかったのだ。朝っぱらから筋トレをしている自分が好きだった。腹筋が割れている自分が好きだった。なまけている自分は嫌いだった。堕ちていくのが怖かった。マット運動で一時期バク転ができてわりと身軽なくせに、跳び箱は苦手だった。そうじて、集団スポーツは苦手だった。バスケはわりかし好きだったが、それでも下手だった。バレーではトスのときに顔面にボールがぶつかるし、ハンドボールではあんまりボールが回ってこないし、遊びの野球での27連続空振りはもはや伝説だ。まとめれば個人競技で痛くないものはわりかし得意だったが、集団競技で痛いものは嫌いだし、下手だった
2006年01月18日
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ここを見てくれている人は別に俺の人生などどうでもいいだろうが、最近、自分を見直したいと思うので、ここに俺のことを書いていく。いい機会なので、ぶっちゃけてしまおう。裸になってしまおう。※一度書いてから恥ずかしくなり翌朝に削除しましたが、存外にも「面白かった」という意見をいただいたので、恥をしのんで再掲載します。第2夜も同様。第1章「学歴社会の寵児」俺は学歴社会の寵児だと自分で思っている。小学校の頃から、「優等生」だった。「お勉強」が得意だった。中学になっても、高校になっても、その状況はあんまり変わっていなかった。「ちゃんと勉強して偉いね」と言われ、「すごいね」と言われ、いい気になっていた。たしかに、俺は「お勉強」が嫌いなほうではなかった。知的好奇心は強いほうだし、本を読むのも好きだ。しかし、それ以上に、成績が落ちるのが怖かったのだ。たぶん当時、成績が落ちるということは、俺のアイデンティティが崩壊するのに等しかったのだろう。だから恐怖もひとしおである。「これ、教えてよ」「ノート見せてよ」俺は「お勉強」で頼られることによって、かろうじて自分を保っていたのだった。だが、当時はそんな内面に気づくべくもない。「自分は有能な人間なのだ」と思っていた。そしてそのまま大した志望もなく、偏差値で考えて、地元では有名な大学に入った。大学でもどちらかといえば「優等生」だった。すごくよく寝ていたが、ほとんど授業はサボらなかった。で、サボらないで授業に出るので、単位を落としたら時間がもったいない、ということで、単位はたしか一つしか落としていない。4年でキレイに卒業し、キレイに就職。まー大企業には就職できなかったので、エリートとは言えないけどね。そして、現在<いま>だ。俺は、何か人として大切な何かを忘れてきてしまったのではないか、とつよく感じている。「勉強だけできても仕方ない」「今は大学名の時代じゃない」口ではそう言いながら、俺はいやしくも密かな自慢心を持っていた。俺に足りないものは何か。心、いや違う。「肚(はら)」だ。俺には肚が足りないと思う。肚とは心の底からの自信だ。たしかにすこしの論理性と言葉の巧みさでは、多少の自信があるかもしれない。しかしそんなうわべの技術がなんになるというのか。もう23歳だけれど、また生き直したい。遅いスタートになったけれど、まだ間に合うはずだ。これから、これからだ。
2006年01月18日
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「そんなことどうでもいいだろ」そう思うことが増えているように思う。最近、というか昨日、新しい携帯を買った。機種はなんでも良かった。「どうでもよかっ」たので、パンフレットをチラ見して、なんか色合いのいい、えんじ色のやつにした。昨日は、機能など一つも知らなかった。写メの画素数?知らん。WIN?なにそれ?なんとか割引?安いのでいいよ。今って、携帯のサービスってさ、ホントにいっぱいあるんだね。なんとか配信とか、友だちなんとかとか着うた?とかなんとか・・・。まじ、どうでもいい。要は電話とメールができて、ちょっとの着メロがあればいいのだ。こういうのをオッサン化というのだろうか。でも23歳で、携帯いじくりまわしてヒマをもてあそんでるやつなんていないっしょ。それにしても「どうでもいいこと」が増えてきてる。クルマも車種はなんでも良かったし、パソコンもなんでもよかった。自分としては、「こだわり」がなくなってきて良い傾向とは思っているが、やっぱりオッサン化かなあ・・・(笑)
2006年01月17日
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「肘から先に力を集める」という話を聞いたことがあって、たぶんそれとは違うと思うけど、昨日から前腕に新しい感覚が生まれた。ちょっとこれを育ててみたい。正しいにせよ間違っているにせよ、先賢の言葉は色々な示唆をあたえてくれてありがたい。
2006年01月15日
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話半分に聞く。というのがすごく良い言葉に思えてきた。話半分:【はなしはんぶん】事実は話されたことの半分くらいで、あとはうそや誇張だということ。「―に聞く」どんなにえらい人の話も間違ったことがあるから、鵜呑みにすべきでない、というのは古来よく言われ続けていることだ。つくづくそう思う。結局は立場の問題だったりするのだ。「きみ、そこはそうしたほうがいいね」というのは、指導である場合もあるが、半分くらいは部下や後輩を仲間にしようとする誘導だったりする。上司や先輩とはいえ、「仲間」を獲得しようと必死なのだ。自分に同レベルの敵がいれば、後輩を仲間にしたいのはいわば必然の感情。ライバルがいるのは楽しいことだが、同時に不安なことだ。そんなとき後輩がついてくれば、自己を保てるのである。「後輩がついてくるということは、自分は間違っていないのだ」とすこし安心できるのだ。だから大抵、「上」の言う言葉というのはそんなものだ。客観的に教えてくれる人などほとんどいない。みんな主観にしたがって、指導するのだ。だから後輩の取り合いになることもある。「どっちの味方なんだ」と迫る。「下」としては、迷う。みんなそれぞれに言い分があり、どれも間違っていないような気がする。「どれが正しいんだろう?」だがそんなものは愚問。結局は、自分で決めたものが正しい。己を信じるしかない。だが、それまでに色んな話を聞かねば、決めるに決められない。そのときの態度が「話半分」ということだ。もちろん生返事は厳禁よ!ちなみに、どんな「目上」の話でも話半分に聞くかわりに、どんな「目下」の話でも半分は聞いてやるのがよいと思う。そういう意味で、話半分って大事だなあと最近思うわけです。
2006年01月14日
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上司、上司たらざるとも部下、部下たるべし。
2006年01月14日
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つくづく他人に期待して良いことはないと思う。他人に期待するということは、他人を操作しようという傲慢な思いだ。何かプレゼントをあげて、「ありがとう」を期待する。自分はこれをやるから、相手はこれをやるだろう。自分はこんなにやっているのに。相手は○○な立場なのだから、××をやるのが当然だ。これらはすべて、他人を自分の思惑通りに動かそうという自分勝手な考えだ。これをしたからこうなるというのは関数で設定された機械だけだ。いや、機械でさえ故障することがある。100%ではない。ましてや人間ではなおさらだ。相手は自分の思い通りには動かない。もちろん、基本的な関数というのはある。多くの人は、何かモノをもらったら嬉しくなくとも「ありがとう」と言ってしまう。だが少数の人が嬉しくないときに、ありがとうと言わないこともあるかもしれない。そんなとき、どう思うか。「せっかくあげたのに、ありがとうも言わない」と考えるだろうか。「あれ、嬉しくなかったのかな。今度はもっと喜ぶものをあげよう」と考えるだろうか。前者のような人間は、そのあとそばにいた人間に、こう言うはずだ。「あいつは、モノをもらってもありがとうも言わないんだ」これが愚痴である。他人に期待する人間は、他人の期待に応える人間だと思う。モノをもらったときは、嬉しくなくともありがとうと言うべきだ。そういう倫理を持っている。この他人に期待する甘えた論理を、だと思っている。つまり正しいと思っている。だから手に負えない。他人に期待したっていいことはない。少なくとも俺はそう思っている。「俺はこれだけやったのに」そう思うなら、やらなければいいだけだ。自分がこれだけやったら、相手はこれくらいやってくれるだろうという採算は、たいてい間違っている。そういう計算をしだすと、かならず相手が得をしているように見える。だから計算はしないで、したいことだけをすればいいと思う。勇気がいる大変なことだが、俺はそういうふうにしたいと思っている。
2006年01月14日
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最近になって、いわゆる「水蜘蛛」で、水上を駆けたという忍者の話が作り話でない気がしてきた。たぶん、本当にできたんだよ。そうだと願いたいね。「科学的に」無理だと誰かが言ってもさ。それと、やっぱりコロンブスの卵というのはすごいと思う。俺は卵を割ってるだけなのかもしれない。
2006年01月14日
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今日聞いた印象的な言葉。「その名前の通り生きている人は輝いている」これは興味深いよ。俺が、自分の名前が好きだ。もっと名前に近づきたいと言ったときに、その言葉を教えてもらった。世界的に活躍する写真家の言らしい。言霊・・・。俺はそんな世界を信用している。「名前」の深さというのは相当のものと思う。
2006年01月10日
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甲:「ああ、こんなもんか」って 叶っちまえば夢は夢じゃなくなるのさ。乙:むなしいことだな。甲:別に。そうじゃなきゃ新しい夢を見れないだろう。乙:前向きってことはいいことだ。甲:ふん、そうでなくてどうして生きていける。 努力してるんじゃねえ、必然なんだ。 生きるためにはな。乙:たまには後ろ向きにも進んでみろよ。甲:結局はお前も「進んで」んだ。 進むしかねえんだよ、俺たちは。乙:お前らしい結論だよ。 もう「忘れた」のか?甲;「忘れる」わけないだろう。 ぜんぶ背負っていくさ。乙:それが覚悟ってやつか。甲:そうとも言えるし、そうでないとも言える。 運命の大河には逆らえねえ。 だが、自分という船を操作することはできる。 滝つぼに嵌まるまではな。乙:みんな最後にはドボン。 だが、いや、だからこそ、か。甲;そういうことだ。
2006年01月10日
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人は不思議なもので、自分と反対のものに憧れもし、同時に軽蔑する。そして似ているものに親しみを覚え、そしてライバル心を感じる。―とも―共にあゆむ友。あらそいあう友。どんな愛も、つねに危うさを抱えている。だから魅力的なのかもしれない。
2006年01月10日
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「僕は君に似ている」そんなタイトルの歌が一時期売れていたが、言ってみりゃすげえインパクトのある言葉だ。
2006年01月10日
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今日は久しぶりに対人稽古をしたが、納得がいかない。ちょっとは「重さ」や「抜き」を使えているようだが、自分の技が気に食わない。前日に佐川先生の写真を見たのがいけなかったかなあ。なんでもいいけど、とにかく自信をなくした。だが、たかがこの程度のレベルで自信もへったくれもあったもんではない。やるっきゃない。やったれ!!
2006年01月09日
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なんか昨日、テレビでやったらしいじゃないか。細木数子六星占術カレンダーは非常に良いと。なんだい今日の注文の数は。細木カレンダーだけで20件弱の注文が入ったよ。みんな踊らされすぎだろ。情けないねー。自分の運不運をカレンダーに聞くなんて。人間を七つにわけて、みんなおんなじだったビックリするわ。いやね、俺は細木数子は嫌いじゃないよ。いつも良いこと、まっとうなことを言ってる。あの人の話を聞くのはタメになるよ。反論を恐れないで、若者を叱れるのはすごいと思うよ。けどさ、神様じゃないんだからさ、そんなみんなの一年の運勢まで分かるわけないじゃん。それを「ボクは何星人、ワタシは何星人って」。もちろん遊びでやるのは、面白いと思うよ。でもね、間違った星人の本を買って、「すいません、ボク金星人なのに、 木星人の本を買っちゃったんです。返金してもらえますか?」ってアンタよくそんなこと平気で言えるよな。恥ずかしくないのかね。運命なんてのは、基本のラインに過ぎない。もちろん運命というのはあると信じている。時勢に乗るときもあれば、不遇の時代もある。だが、そんなことは関係ない。大切なのは、つねに最上を尽くすことだ。運が良かろうが悪かろうが関係ない。いつもやるだけやればいいのだ。パーフェクトを求めるな。ベストを尽くせ。そしたらそんなカレンダー、絶対不要になる。ほんとに、いい加減にしてくれ。え、俺が何星人かって?俺は地球人だバカヤロー!!!どうだ参ったか!
2006年01月09日
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「考えすぎだよ。あんまり思い詰めるな」悩んでいる人を励ます常套句である。だが、俺は「思い詰める」ということは本当に大事だと思う。すこし悩むくらいではいけない。悩みに悩んで、思い詰めることが大事だ。思い詰めたのが、限界に来ると、パッと開けることがある。「あ、そうか。こうすればいいんだ」と。今まで、悩みつくして、「心をかえよう」と努力していたのがまったくウソのように心が晴れ渡る。小さな悟りを開くのだ。だが、自分の思い詰めの限界も知らねばならない。思い詰めるのは、つねに積極的な営みでなければならない。俺が思い詰めるのは、基本的に夜である。テレビを消し、部屋を薄暗くして抱えている問題を考え抜く。そのまま答えが出ることなどほとんどない。悶々として眠りに就くのだ。朝もそのまま暗い気持ちのときがある。だが仕事がある。朝飯を食い、スーツに着替えれば、不思議と元気が湧く。働いているときは悩んでいるヒマなどない。つねに時間との戦いだ。悩みは、放置プレイである。だが、そのときの体験や身体の動きなどが、その悩みを解決することがままある。だが、その悩みはその体験だけによって解決されたのではない。常なる思考があってこそ、ぱっと開けるのだ。つまり、思い詰めてばかりでは心を病むが、思い詰めなくては、本質的な解決はないと思う。思い詰めること、すなわち思考。忙しくすること、すなわち体験。そして思考と体験のあいだを移動するのが、自由であると、つまり能動的であるとよい。悩みに悩んでいるのだが、思い詰めの限界が来れば、「考えるのやーめた」といい、ぱっとテレビをつけ笑い、外に出て、空の青さを感じ、電話をして友の声を聞く。そうして楽しくすごしていても、一日一度は深く思考する。最近は、自分の思考と体験を、空から見ている自分をほのかに感じるのだ。
2006年01月09日
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自分を嫌いになるときというのは、自分にウソをついたときだと思う。なぜ自分にウソをつかねばならないのか。それは自分との約束をやぶった言い訳としてである。何かしたいことがあった。だが、それをさえぎるような、体面やプライドや恥ずかしさがあった。ほんとうは、それらの体面やプライドや恥ずかしさに負けて、したいことをしなかったのである。だが、それを認めることができない。だからウソをつく。言い訳をする。「まあ、ほんとはそんなに欲しくなかったしね」「したいといっても、そんなにしたいわけじゃないし」「やろうと思えば、できたけどね」「あとでやればいいし」こういうウソをつくのだが、心の底の底では知っている。「ほんとうは、したかった」ということを。たとえば誰かに告白しようと決心する。だが、どうしても勇気がでなくて告白できなかった。そのとき、「勇気が出なくて」といえるのはまだ良い。「まあ、好きといってもそんなに好きじゃないしね」とウソをついたとき、自分は自分を嫌っていく。自分との約束を守れなかった自分を信じられなくなっていく。まあ告白なんていうビッグイベントでなくても、小さなことの決心の繰り返しで人間は生きている。「あ、あれやってみよ」そう思ったときに、自分に素直になれるか。恥と体面とプライドをかなぐり捨てて、一度自分と約束したことを守れるか。成功とか失敗は関係ない。パッと思ったことをパッとする。その素直さこそが、その勇気こそが大事なのだ。毎日毎日繰り返される自分との小さな約束。それをすべて守るのにはかなりの勇気がいる。だからきっと全部に勇気を振り絞れればいいが、できないこともあるだろう。そんなとき、「勇気がなかった」と素直に認めるか、「別にホントはしたくなかったし」と自分にウソをつくか。これが分かれ道になると思う。幸か不幸かは、小さいことの繰り返しなんだろう。よし、がんばろ。
2006年01月08日
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野球選手の場合「今夜、キミにストライク」「あいにくキャッチャーミットがありませんの」サッカー選手の場合「キミにゴールを決めたい」「ふふ、オフサイドよ」ボーリング選手の場合「今夜、キミにストライク」「その口説き文句がガーターね」テニスの選手の場合(2度目のアタック)「やっぱりキミにスマッシュを決めたいな」「ダメよ。これでダブルフォールトね」ゴルフの選手の場合「今夜、キミにホールインワン」「もうちょっと風向きを読んだら」スケート選手「キミというリンクの上で滑りたいな」「そのセリフがもう十分すべってるわ」パソコンが好きな人「キミは僕のマザーボードだ」「あなたのは、ほんとにソフトそうね」読書好きな人「キミという名の本をもっと読みたいよ」「しおりはもう十分ありますので」ネットにはまってる人「キミの心をブロードバンドにしたい」「あいにくパンク状態ですの」名古屋嬢「俺のシャチホコはすげえんだぜ」「あら、青柳ういろうでなくて?」吹奏楽団「キミと一緒に新しい音楽を奏でたい」「すでに不協和音が流れているわ」料理好き「キミを食べてしまいたい」「知ってる?この包丁、よく切れるのよ」受付嬢「ボクのキモチは受け付けてくれないの?」「アポがあってもお断りいたします」文学好き「太宰なんかより俺のほうがいい男だよ」「あんた、人間失格よ」
2006年01月08日
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僕の仕事のひとつに、乱れた売り場を直すというのがある。人気の本や雑誌などはみんなが立ち読みをするので、ほおっておくと、売り場としては見るも無残な状態になってしまうのだ。それを、エレクトロン(静電気でほこりをとるやつ)片手に僕は直しにいく。心の中で「読んだ本はちゃんともとに戻せよな~」なんて思いながら、さっさか直す。だけどそんな愚痴を心に抱えているのは性に合わないので、またまた思考を発展させる。「待てよ。自分が客だったら、いちいち整然とした状態に戻すか?」いや、きっと戻さない。コンビニで立ち読みしたら、元の場所に戻すのではなく、戻しやすいところに戻していると思う。それ!戻しやすいところに戻す。本を読み終わって、ふっと気が抜けた状態。このとき、人の本性が出る。自然な状態の人間がある。だから人は、いちばん戻しやすいところに戻してしまう。棚が開いてそうなところを無意識にスっと発見し、そのをつくのだ。間の抜けた部分を、ふっと埋めてしまう。それが続くのを、理性の目で見ると、売り場はどんどん「乱れていく」。違う雑誌が重ねられ、クルマ雑誌とバイク雑誌の分類もごっちゃになり、お客さんにとっても店員にとっても、何がなんだか分からなくなる。だが、これは理性を持って売り場を見たからで、実際は売り場は乱れているのではない。自然に回帰しているだけなのだ。僕らの思う、「きちんと、整然と、美しく」ととのった状態=などというのは、あまりにも作為的すぎる。潔癖である。よく、部屋が汚くないと落ち着かないという人がいるが、それこそが自然な感覚だと思う。たしかにピカピカの状態もキモチイイのものだが、同時に人間としてはキモチワルイものでもあると思う。とはいえ、その「自然な状態」は「チェーン店の売り場」としは不自然だし、「悪」である。だから僕は明日も売り場に秩序を取り戻すのだ。
2006年01月08日
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A1:坊(ぼん)さんA2:おじと甥の関係A3:佐川子之吉A4:稽古後の飲み会A5:足の親指A6;天上天下唯我独尊A7:15時間36分40秒A8:犬A9;ハーモニカA10:雪の上を裸で転がる何問正解できましたか?
2006年01月08日
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Q1:久琢磨先生は、武田惣角先師からなんというあだ名で呼ばれていたか。Q2;植芝盛平先生と井上鑑昭先生はどんな関係にあたるか。Q3:佐川幸義先生のお父さんの名前は?Q4:六方会の岡本先生は、大東流を習いたてのころ、 何が楽しみで稽古に来ていたか。Q5:堀川幸道先生が怪我をしていたとき、弟子が今がチャンスだと思い、ある部分を握ったが投げられた。さて、そのある部分とは?Q6:藤平光一先生が若かりし頃、マジメすぎてつけられたあだ名は?Q7:木村達雄先生が、「一日にやれる勉強時間の限界」としたのは 何時間何分何秒?Q8:塩田剛三先生が飼っていた動物は?Q9:砂泊カン秀先生が得意とされている楽器は?Q10:武田惣角先生は風邪を引いたときどうやって治した?正解は明日以降!!
2006年01月07日
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とおくなった友よ青春の野原を駆けまわり身も心も泥にまみれたあの頃今は昔君の声も聞こえないけれどとおくなった女よ拭い去ろうとしてぬぐい切れぬ境界線にいらだちともどかしさを感じたあの頃今は昔貴女の肌を感じることもできぬけどとおくなった敵よ壊そうとするもの 潰そうとするものそれはそれで 面白い出会いだった今は昔お前の憎しみを背にとおくなった人たちよあなたたちが いま僕の心にむすぶものとおく しかし たかく忘れはしない進む道は違うけれど
2006年01月05日
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何度も言うようだけど、これは絵文字(絵で描いた文字)でなく、文字絵(文字で描いた絵)ではないのだろうか。それか文字絵文字。結局は、意志の伝達のレベルの問題かな。
2006年01月05日
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俺の最近の成長というのは、端的に言えば、落ち込んでいるときに、「落ち込んでいるなあ」と実感している俺がいるということだ。この感じは、昔の俺にはなかったこと。かつては落ち込んだときには、この世界を恨み、自分を嫌い、親を憎んだ。なにもかもがダメだと思いこんで、自分に浸っていた。それが、なくなった。叱られる。ヘコむ。しかし、それが観える。あ、心が小さくなってやがる。俺は気づく。がんばって明るくしようとも思わない。寝れば直るということは分かっている。落ち着いて、ヘコみの経過を待てばよいのだ。つまりは落ち込んだときに、落ち込んでいる自分を認めている。赦している。「また傷ついてしまった。俺は弱い人間だ。最悪だ」と自己嫌悪に逃げるのではなく、「はあ、今日は落ち込んでるなあ」と正面からぶちあたっている。だから、俺の定義と感覚から言えば、いつでも幸せなのだ。落ち込んでいるとか、気分がハイだとかは関係ない。おいしい食べ物とか、ぬくぬくしたコタツとか、恋人との甘い時間というのは、いわば「幸せを感じやすい状況」であって、そんなオイシイ状況ならば誰でも幸せを感じられるのだ。幸せというのは、いつでもどこでもどんな状況でも感じられるものだと思う。
2006年01月05日
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