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幸せは生たまごに似ている。幸せという名のたまごを、パカリと殻を割って、そっと皿の上に乗せてみる。透明な白身。こんもりとまろい黄身。なにものにも代えがたい美しさ。人はそれを守りたいと思う。雑に扱っては割れてしまう。薄い膜から、幸せが流れ出てしまう。握り締める掌から、乾いた砂がこぼれおちるように。しかし、大切にしているつもりで、大事に大事に皿の上に置いておいたならば、やがてそれは腐りゆくだろう。幸せを金庫にしまっておくことはできないのだ。大切にする、ということは、動かすことであり、使うことだ。幸せはいつも、動きのなかにある。のなかには、幸せはない。それを守ろうとすればするほど、幸せは壊れやすくなる。もちろん、つねに動かし、使い、そうやって大切にしたとしても、何らかの原因で、いや、なんの理由もなくても、それが壊れてしまうこともある。いわんや、雑に扱ったり、自分だけのものにしようとしたり、その生命(ながれ)を止めようとしたならば、それはまたたく間に消え去ってしまう。幸せは生たまごのようなものだ。やわらかく、壊れやすく、デリケート。しかし、大切に扱いさえすれば、おいしくいただけるのである。大切に扱うコツに気づけるかどうかだ。ところで、今日でこのブログも2周年を迎えました。みなさまがいつも読んでくださっているおかげです。ありがとうございます。
2007年01月30日
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何かのせいにする生き方は、かならず不満に満ちあふれている。自分以外をあてにする者は、いつも空虚な気持ちをかかえている。誰かが何かをしてくれると思っている人ほど、誰かに何かをしてあげようとはしない。人のせいにする生き方は、たのしくない。他人に依存する生き方は、もろい。何もかもを自分のせいにして生きるのは、潔い。我が身にふりかかることを背負っていくのは、カッコイイ。周りがどうとか言う前に、自分がどうあるかを見つめることだ。誰かがどう思うとか言う前に自分がどう思っているかをはっきりし、表明することだ。それは言わば、ワガママかもしれない。良いワガママと悪いワガママがある。良いワガママは、自分のせいにするワガママだ。悪いワガママは、他人のせいにするワガママだ。前者は「自分はワガママだ」と言ってワガママを言うことだ。後者は「自分は正しい」と思ってワガママを言うことだ。気づきがあるかないかで、ワガママの質がまったく違う。いい人を演じることはない。なにかを演じて幸せになった人はいない。ある種の罪悪感を背負うべきだ。しかし無用な罪悪感にさいなまれることもない。自分の身に起こることを、幸も不幸も自分のせいにする生き方。そんなスタンスが大事だと思っている。
2007年01月28日
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なにかをはじめたときぼくらは よごれるなにかをとおりぬけるたびぼくらは よごれていくまっしろのままではいられないぼくらが せおっているものぼくらが せおっていくもの過去や 嘘や そしてよろこびとかなしみはじめてではないという つよみ何度めかという ためらいと恥 そして後悔それでもぼくらはなにかをはじめるはじめてのそれを 経験するよごれるままに よごれていく みだれていくそのなかに純粋をたもちつづけるものはあるかこの けがれたこころとからだのなかにひとすじの光のようになにものにも おかされないまっすぐな まっすぐな まっすぐな・・・このけがれたからだとこころにそれはなお うつくしく 咲くその小さな ちいさなかがやきをぼくは 信じたいと思う
2007年01月28日
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冬来たりなば、春遠からじ。今日は昼下がりに髪を切ってきました。思ったよりサルっぽくなってしまいました。「かゆいところないですか?」に対して「真ん中らへん」と答える目論見は失敗しました。そのあと、椿なんとかという神社にいきました。予想通り道に迷いました。草もちを買ってきました。うますぎて、車内で5個中3個がなくなりました。おかげであんまり夕飯が食えません。ごはんと納豆とキムチとマイタケのバター炒めにしました。最近は料理をよくします。たのしい。明日は朝から出勤です。がんばります。あー、くそつまらん日記の完成です。
2007年01月27日
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身体の分化の進み具合と身体の魅力は比例する。以前にも少し書きましたが、AV女優は職業柄とてもセクシーですね。あれは、身体がやわらかいからです。腰まわりはもちろん、背中の柔軟性、胸まわりの分化、股関節の潤滑のよさなどが優れているのです。いわゆる「女豹」のポーズなども、腰背のやわらかさがないとできません。セクシーな女を目指す人は、まずカラダを分化するところからはじめたらいいと思います。動きの固い人がむやみに露出しても、セクシーどころか害悪にさえなる場合もあります。露出とセクシーはほとんど関係がない。倖田來未だって、分化したカラダをさらしているからエロカワなのであって、あれでダンスがヘタだったらただのエロです。カラダの分化をしろ、といわれてもどうしていいか分からないと思いますが、手軽なのはダンスなどをはじめるとよいかと思います。それもカラダのパーツをひとつひとつ意識するような訓練をするのがよいでしょう。ぜんぜん知らなかったが、新体操というのもかなり背骨や胸を意識して動かすようですね。(ただ腸腰筋に関しては知らない模様)背骨の「波動」などは合気道の身遣いとそっくりでした。だから古風な人なら合気道を始めるのもよいと思いますが、まあ身体を上手に使える人がなかなかいないので、ダンスの方がよいと思いますね。(いても教えてくれない可能性大)とにもかくにもそういう訓練を続けたら、かならず身体はセクシーで魅力的になるでしょう。2の腕や太ももや、お腹の肉などはついたままでもかまわないのです。ヤセとかぽっちゃりとかはセクシーに関係ない。部分ヤセとかやってる場合ではない。あくまで分化しているかどうか、なのです。カラダの分化が進んだら、つまりカラダがやわらかくなれば、姿勢もよくなります。先に姿勢だけよくしようとしてもダメなんです。たまに「私は美人よ」という感じでピンと胸を張っている人がいますが、滑稽です。同時に「笑顔が大事」というのを鵜呑みにして強制的に笑顔を作っているのも怖いです。笑顔が大事、というのは、笑顔が出るような心持ちが大事、ということです。笑顔は結果なのです。おなじように、姿勢はやわらかさの結果なのです。やわらかいから、姿勢がスッとなる。身体から見れば、いろんなことが見えると思います。くだらない知識にとらわれず、自分の目でモノを見ていけば、見えてくるのです。
2007年01月26日
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人を愛するということは、全人類に平等に与えられた喜びだ。いや、そこにしか平等はないのだ。ぶっちゃけた話、愛されるということは平等ではない。容貌や体型などの見た目から、境遇、状況、環境までさまざまな要因があるが、どうしたってその点はかなしくなるくらいに不平等だし、不公平だ。そこは人間というよりオスとメスの世界だと思う。愛されるものは愛される。愛されないものは愛されない。その偏重ははげしく、格差は広がり2極分化する。表現は悪いが、「売れる商品は売れる。売れない商品は売れない」という小売業の法則に似ている。もちろん「タデ食う虫もすきずき」ということもあるが、それでもその偏りをただすまでには至らない。けっきょく、何もしていないのにモテてしまう人と何もかもをしているのにモテない人に分かれてしまう。これでは不公平ではないか!!後者はそう嘆くだろうか。そう、この法則は不公平で不平等なのだ。しかしここにひとつの盲点がある。それは観点が「愛される」というところにあることだ。「愛される」ことに観点を置くから、人生が不平等に見える。損しているように感じる。観点を設定する、というのは基準を決めることだ。ものを見るものさし(スケール)を置くことだ。3次元の世界を2次元化する、ともいえるだろう。受身の観点を設定したら、それがどんな見方だとしてもかならず不公平になる。そもそも「観点を設定する」ということが「順位をつけること」だし、それはすなわち不平等を自ら設定するということなのだ。じゃあ一体なにが平等なのか。それは、愛することだ。愛されることは万人にできることではないが、愛するということは誰にでもできる。こんな当たり前の結論では納得ができないだろうか。だけど今、僕に言えるのはそれだけだ。幾多の女性誌があおっている「愛され」「誉められ」は実は多くの女性を不幸にしかしないと思う。さっきも言ったが、受身の観点をあおっては、2極分化が進むだけだ。つまりモテる人がよりモテるようになるだけ。しかしたとえどれだけモテたとしても、愛することがなければ、絶対に幸せにはなれない。ぼくは断言する。たしかにチヤホヤされるのは嬉しいかもしれない。だが、年をとれば確実にチヤホヤされなくなるし、そのときまでに愛する喜びを知らなければ、あとは破滅が待っているだけだ。畢竟、モテるかモテないかなどは幸せに関係ない。愛せるか愛せないか、が問題なのだ。愛する喜びを知ることは、喜びを創り出すことだ。喜びを与えてもらうのではなく、喜びを創り出す生き方。それは他人に頼らないということ。頼らないから、安らいでいる。何かをなくす不安がない。去っていってしまう不安がない。愛することは誰にでも出来る。誰もが幸せになることができる。しかし、それは容易いことではないのだと、覚悟を決めねばならない。髪型やメイクを変えただけで幸せになろうだなんて、甘っちょろすぎるのだ。根本が間違っている。幸せをナメている。「愛され」の不公平を嘆いているヒマはない。愛することに関しては、誰もが平等だ。そのことさえ忘れなければ、幸せはかならず見つかると思う。
2007年01月26日
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この世界が嘘につつまれているとしたら、けっきょく嘘など 何もないのだ約束など信じるな言葉などあてにするな自分じしんを信じろ嘘などひとつもないのだここにあることすべてが真実
2007年01月25日
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なにかをもらおうとするのではなく、なにかをあげる生き方。それが博愛なのかもしれないと思った。どことなく、博愛なんてうさんくさい匂いがする。それにもちろん、僕が博愛を体現できているとも思わない。それでも最近、捧げることの喜びを感じている。ギブ is テイク。そんな実感を胸に。ギブ&テイクという言葉があります。「あげる」と「もらう」ですね。たいていはこれが普通、とされている。質量保存の法則があるからね。これでちょうどバランスがとれる、というのが一般的な意見です。それがちょっと進むと、ギブ&ギブというふうになっていく。見返りを求めない、愛。まあ愛といってしまうとちょっと広すぎるけどね。他にいい表現が見つからない。とにかく、人間の成長の度合いによって、ギブとテイクの割合は変わっていくのだね。赤ちゃんはテイク&テイクの生き方です。食事も愛情もうんちのお世話も、「もらう」のがいわば「仕事」です。そうやってすべてをもらいながら、成長しテイク。そのうちに、だんだんと与えることを覚えていく。誰かの笑顔が見られる喜びを知っていく。しかしそれも急にとはいかない。赤ちゃんの性質は心身にこびりついている。あげればあげただけ、何かがもらえると思っている。これがギブ&テイクの段階。そのあとに先述したギブ&ギブの生き方に近づいていく。しかしギブ&ギブというのは、どうしようもなく聖人だ。見返りを求めない愛を与え続けることが、僕にできるだろうか。そこまでは自信がない。それに、与えるだけというのはバランスが崩れるから、この世の摂理に反している。そこで僕が考えている、「ギブisテイク」ということがでてくる。つまり、「与えることはもらうことだ」という考え。ギブとテイクに時間差がない。同時進行。捧げる、というその事じたいが、喜びなのだ。ギブした時点でテイクしている。そう考えると、何かをもらおうという気持ちが極端に少なくなる。それにこの「ギブisテイク」という考え方は、積極的に喜びを見つける考え方でもある。みずから幸せをつかみとる考え方だ。「テイクの生き方」はつねに不安なのである。相手に頼っているから心配だし、相手に依存しているから、喜びがいつなくなるかわからない。そんな不安な生き方が面白いだろうか。みずから身を捨てるように与えていく。そしてそのことが喜びになる。これ以上カンタンなことはないのではないかと思う。与える生き方は、信じる生き方だ。信じるってことは、「ウソかホントウか」を考えないことだ。信じることは、覚悟を決めることだ。信じることは、だから明るい。「大切に抱きしめてた宝物がある日急に偽物と明かされても 世界中にすり込まれている嘘を信じていく」 Mr.children フェイクより信じる生き方は、けっして裏切られることがない。ギブisテイク。この実感を、大切にしたい。
2007年01月25日
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テレビのない生活なので流行には疎いです。そうしたらなんでも最近、「あるある大辞典」で捏造(でつぞう)があったらしいね。「納豆でダイエット」っていうのはヤラセでしたって。で、なんでそれをみんなが騒ぎ立ててるのか不思議です。テレビをヤラセじゃないと思ってみている人がいるのか?捏造ごときでキーキー言うなよ。ヤラセを楽しむのがオトナでしょう。納豆ダイエットのヤラセ番組作る人も、それ見て走って納豆買いに行く人も同じレベルだよ。そんなに目くじら立てるなよ、と思うね。こういうくだらないことが多いので、テレビがない生活のほうがよっぽど有意義なのです。
2007年01月24日
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しあわせには足が生えていないと同時に、不幸せにも足が生えていない。幸せはやってこない。幸せは去っていかない。不幸せはいなくならない。不幸せは転がりこんでこない。いつもぼくらはこの手で、しあわせや不幸せをつかんだり手放したりしているのだ。自分じしんの この手で。その法則に、気づけるだろうか。
2007年01月24日
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ぼくがいま ここにいることが不思議だいまが昨日のあした今日があの頃の 未来結局 ぼくの未来予想図はすべて やぶけてどっかからかぽろりとこぼれてきた奇妙なそれがぼくの いまになったそんなもんなのかなもどる 戻る もどる偶然な 予感自転車で駆けたあの道を4輪のクルマで塗りつぶしていくそこにきた理由<わけ>意味はないとしても共有することは分断することだそれは よろこびか はたまた かなしみかいのち 時間 部屋 食い物ぼくがきみのベッドを塗り替えていくああ なにもかもが ひらかれている空 無 愛狂おしいほどの自由人間の真価は 自由だ自由は引力だ たしかにこの胸にある何かとけっしてわからない 明日このもどかしさ結論のない この詩を結論のない この詩を結論のない この詩を 捧ぐ
2007年01月22日
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キムチのことをキムティって言ってみてはどうだろうか。
2007年01月20日
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長いながい休日を過ごしました。おとといは、12時まで働いていました。それから家に帰って寝ればいいものを朝4時くらいまで、自分のサディスティックな部分を開発しながらぐーたらしていました。そしたら知らぬ間に寝ていたらしく、次に目が覚めたのは8時くらいでした。意外に遅くなってしまったので、「そうだ、京都いこう」という話はお流れになりました。それからちょっと仕事をしたり、洗濯をしていると11時になった。腹も減ってきたので、ピザを頼みました。なんかモチの乗ったピザにしました。その後昼過ぎには家を出て名古屋に向かいます。はじめは電車で行くつもりでしたが、BoAの新しいアルバムを聞いていたらノッてきたので、そのままクルマで、行くことにした。例によって道に迷いましたが、どうにかこうにか大須に着きました。街中にある立体駐車場を初体験。名古屋でクルマを止めるのは困難です。大須・矢場町あたりをブラブラしました。防御力のアップするアイテムを買ったりした。寒かったので、マルケーことサークルKに寄りました。肉まんの新しいやつで、「ポリンまん」というわけのわからんのが売っていました。それがすごくヒワイな形をしているので、男性諸君、今度サークルKにいったら、ぜひ買ってみてください。かならず「似てるなー」と思うはずです。でもレジで店員にお願いするとき、意外に恥ずかしいので注意してください。そのあと、池下に向かいました。というのも、その日はむかしのバイトの集まりがあったのです。辞めて4年近くになるのにいまだに集まれるのはけっこうすごいことなんじゃないかと思います。飲み会は11時半くらいまで続きました。そしたら、家に帰るのが面倒になってきた。名古屋~津間で2時間くらいはかかります。それでいっそ泊まってしまおうということになった。カラオケにも行きたかったので、部屋にカラオケのあるようなホテルを探しました。千種でいいところを見つけたので、即決定即チェックイン。なかなかいい部屋で、風呂が広かった。3曲くらい歌いました。それからまた、自分のサディスティックな部分を再開発しながら、眠りに就きました。起きたのは9時56分でした。ビビリました。7時くらいにはチェックアウトするつもりが、ホリエモンもビックリの想定外です。そのときはじめて気がついたのですが、部屋に窓がないんですね。だからぜんぜん時間の感覚がなかった。してやられたという感じです。結局、10時間以上もいたものだから、延長料金が加算されてしまいました。システムがよくわからん。そのあと、ふらりと実家に行くことにしました。年末も正月も帰っていなかったので、顔を忘れられる前に行こうと思ったのです。急に行ったので驚かれましたが、うなぎなどで歓待してもらい、ひさびさに温かいものを食べました。それからフルーツも久方ぶりでした。雑煮も食べることができた。感謝。昼飯のあとは、近くの公園に行って腹ごなし。ちょっとぶらりとしてから、さて、帰路に着きます。長い旅路です。だけど案外迷わなかった。時と場所が変われば人も変わるものです。たまの渋滞で、どうだろう、3時間半くらいはかかったろうか、それでも割とスムーズに家に着きました。クルマのなかではシリトリなどをしていた。なぜか僕の番のときは、「かならず下ネタで」という制限があったので、負けてしまった。真顔で下ネタを連発する僕は、どう考えても変態でした。それからひとつ新しい日本語を覚えました。「笑いのツボにハマる」というのを「ツボる」というのです。これはかなり使えます。今年の流行語にしましょう。車中でたくさんお菓子を食べたので、あんまり腹が減っていません。結局また夕食が、キムチとチョコとそしてバームクーヘンになってしまった。それから乾いた納豆。まあそれでもよいです。若いから。ジジ臭いとよく言われますが、実はまだ若いんです。だからこんな濃密な2日間を過ごせた。いろいろありすぎて、頭が混乱しています。日記を書いてみたものの、書けなかった部分がたくさんある。紙幅の問題や、いろいろな事情で。なにはともあれ、明日からの仕事もがんばろうと思った。
2007年01月20日
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判断はあざなえる縄のごとし。何が正しいか。何が間違っているのか。あるときの判断が正解だったかどうか、それは未来永劫わかることがない。何らかの決断があり、それはその直後、「正しかった」と思われた。しかし数年後、それが「間違っていた」という評価をうけることがある。だが、それは歴史的に見れば正しかったかもしれない。だが、宇宙の摂理にはかなっていなかったかもしれない。けっきょく、わからんのです。正しいかどうか、正しかったかどうかなんてことは。だから、小さな目で見てちょっと自分があっていたからといって、驕るのはマヌケだ。小さいことに踊らされてはならない。大きなことを見よう。
2007年01月19日
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壊れるということは戻ることができない。この世の中のどんなものでさえも、いったん壊れたら、もとには戻らないのだ。一見、直ったように見えるものもある。しかしそれは結局、意識のなかのできごとなのである。認識の問題であって、事実ではない。ぼくらは世界を捉えている。分析している。理解している。たとえば言葉によって。ぼくらにとって、世界はそれである。まるごとの事実ではなく、認識が世界だ。だからいったん壊れたものがまるで直ったように見えるのだ。しかし、どんなものも一度こわれたら元に戻りはしない。それは、時間が流れるからだ。電車のなかでジャンプしたとき、同じ場所に着地したと思っても、実際には数メートル進んでいる。そんな感じ。その意味では、壊れるということも創るということも不可逆なのであって、どんな一歩も、過去と今を壊し、未来を創る行為なのだ。「同じに戻る」なんてのは、甘い考えだ。ぼくらは絶対に引き返すことが出来ない。それだけは肝に銘じておくべきだと思う。一歩一歩が、大事だ。
2007年01月19日
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最近は昼夜ないような生活をしています。寝たんだか寝てないのだかもよくわからず、睡眠時間が計算できません。それでも意外に元気なのは少食のせいです。食べ過ぎるとダメだ。眠い。ダルい。腹八分にしておけば、問題ないです。眠いには眠いが、ダルくはない。働くには支障がない。そんな生活に、朝が来ました。最近は朝風呂どころか昼風呂が普通だったのですが、昨晩は、今日こそはその日のうちに風呂に入ろうねと決めていました。それでちゃんと実行した。ただいまと言って部屋に入るなり、風呂そうじをして、湯をためる。そして、入る。それから、ちょっとふやけて、出る。まだ午前1時!早!それで、さあ寝ようかということになったが、これがどうしてなかなか眠れません。そりゃ、サイクルがあるからね。前の日の夜が遅けりゃ、オメメはパッチリだよね。寝酒で、梅ワインを飲んでみました。ちょっと眠くなる。そうしたら、ウダウダしてるうちに寝ていたようです。3時半ごろだろうか・・・。わからん。7時半にアラームが鳴りました。朝だ。浅田真央。久しぶりにゴミだしに行こうと思いましたが、あまりに眠くて断念。ゴミ屋敷になりつつあります。なんとかしてください。朝8時までに出すこと。って無理です。それで、コーヒーを淹れることにしました。こぽこぽとお湯をそそぐ。たちのぼる湯気。曇り空からかすかに差し込む朝陽。パジャマ。そしてcoffeeの馨り。朝だ。朝が来た。「家族」そんな単語が浮かびました。家族が寝ぼけまなこで食卓を囲んでいたあのころ。朝はコーヒーが常でした。それを思い出した。ああ、ぼくが実家<いえ>に居たころのにおいが、今ここに芽吹きはじめている!!ぼくは、新しくあたらしくつねに前に、走り続けている。そのつもりが、いつのまにか、誰知らぬ間に、もといた「ふるさと」に回帰しようとしていた。この不可思議。この世の皮肉。そして運命。「人と共に」と書いて「供える」と読む。「そなえる」とは捧げること。「そなえる」生き方。我が身を天に捧げること。みずからを投げ出すこと。抗えない何か。それに身を任せてみてもいいのかもしれない。
2007年01月18日
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近ければ欲し、遠かれば欲さず。
2007年01月16日
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寒空のした暖房とストーブの中で校内写生大会うわのそらの学生なにも描かないでじっとしている犬を追い回すなにもしないほうがめんどうだよと学級委員長(メガネ)が言うるり色を伸ばしながらぼくは絵筆をとりだした僕は絵筆をとりみだした空 空 空 空 空 空青 青 青 青 青 青塗る塗る塗る塗る塗る塗るヌルヌルヌルヌルヌルヌル完成した途端に 雲ぼくのキャンパスは いつも 不完全だ ちくしょう仕方ないから 雲 雲 雲 モクモクモクほとばしる 白 白 白あ空が抜けた青もない 空高気圧のせいだよときみは言って雲をひとつ塗りつぶしたはじめての校内写生大会
2007年01月16日
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時代の流行が24年でサイクルしている、という説があるらしい。もちろん、時代は進んでいくのだけど、なんていうのかな、いわば螺旋状に?時代サイクルを繰り返しているらしいんだね。そんな話をむかし聞いて、心の片隅で覚えていた。ところで今日、自分のお店にCDが入荷しました。すごい大量だったんだけど、そのなかに吉田拓郎のがあった。あっ、と思って、なんとなく聞いてみたいなと思った。それは、そのジャケットの雰囲気に惹かれたのです。古くさいと思っていたそれが、なぜか最近は新鮮に感じるのだ。70年代の、空気。僕も吸ってみたいと思った。荒削りだけれど、パワーがある。すさんでいるけど、エネルギーがある。僕は自分が生まれる前の「70年代」にそんなイメージを抱いている。しかしそれは、「僕の」イメージなのだ。70年代に、もはや枯れていた人もいただろう。保守派だって、たくさん居ただろう。70年代に、つまらない青春を送った人もいただろう。じゃあ一体70年代は、誰にとって若さ燃ゆる季節だったのか?それは、親父だ。そして、母だ。ぼくの両親が青春を過ごした時代。それが70年代なのだ。僕が生まれる前の、物語。僕が生まれるころの、逸話。たぶん僕は無意識のうちにそれを知りたいと思っている。そして、みんなもそう思っている。だから時代は24年サイクルを繰り返す。自分はなぜ生まれたのか、そしてどこから生まれたのか。怖くて、興味深くて、恥ずかしくて、知りたくもない、そんなどうしようもないことをみんなが知ろうとして、時代の流れを作っている。そんな気がしてならないんです。どうにもならない運命だけど、僕はけっこういとおしく感じている。
2007年01月16日
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昨日気づいたことですが、人を見つめるときってのは、意外にどこを見ていいかわからんもんです僕の右目で左目を左目で右目を見る、ということはできないわけです。どうしても両方の目で、相手の片方の目を見てしまいます。それで、キョロキョロしちゃうんですね。チョコボールですね。目が合うってのは、なんだか不思議な現象だと思います
2007年01月15日
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今日のごはんは、わかめごはんとキムチとコーヒーとチョコレート今日も私は元気です
2007年01月15日
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最近、オトコは見栄をはることも大事だな、と感じます。虚勢でもなんでもいいから、自信を演じる。堂々としているフリをする。それが意外にもバレないのだね。いや、本来的にはバレているのだけど、温かく見守ってもらえる。僕の尊敬する先生の一言です。「つよがりも一生続ければホンモノだ」たしかに。
2007年01月14日
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さっきまで「月刊 秘伝」を読んでいました。コーヒーを飲みながら。今月号は堀川先生の特集です。むかし僕が特集してくれと頼んだから、それが実現したのだろうか。あまたいらっしゃる先生のなかでも僕は堀川先生が好きなのです。大切にしたい2月号です。そういえば、うまれてはじめて目の前で「Y字バランス」を見ました。感動して尊敬しました。さて、表題「ミクシーについて」ですが、最近はミクシー本がたくさん出ていますね。僕もそれに倣って、ミクシーについて書いてみたいと思います。まず、ミクシーは良いか悪いか、ということです。答えは「良いものです」。それは僕がよい人間だからです。よい人間が使えば、ミクシーはよいものです。つまり、ミクシーは道具です。道具は使う人の心に染まります。ミクシーはとても便利であります。そしてとても有益だ。いろんな出会いや、色んな語らいや、いろんな悲喜こもごもがある。そこには特殊な個人がある。「第一印象」が言葉(自己紹介欄)と写真(の選択)。「性格」は参加コミュニティで判断。「あいさつ」はメール。「会話」もメール。そうして仲を深めていく。何かが足りないようで、しかしほぼすべて揃っている。すべてそろっているようで、何かが足りない。それが何なのかはよくわからない。「こころのふれあいがない」、なんて、ありきたりな言葉では表現できない何か。ミクシーは怖い。ミクシーは危険だ。変なやつもいっぱいいる。文章みれば、だいたい「イッちゃってる」やつは見当がつくが。ミクシーは、危ない。じゃあ、そんな危険なミクシーはやめた方がいいのか?答えはNOだ。そもそも、本当に便利な道具は危険なものだ。危険だからエネルギーがある。デンジャラスだから、魅力がある。刃物にはじまり、クルマ、原子力・・・。どれも素晴らしい発明は、危険なのだ。そこに、われわれの心が試される。道具を使うことができるか。道具に使われるか。けっきょくミクシーで何をか犯してしまうような輩は、ミクシーがなくても何をかやらかしてしまう人間なのだ。保守的な人間は、その過ちを新しい道具のせいにする。ネットがいけない。2ちゃんがいけない。電脳化がいけない。ミクシーがいけない。そうではない。結局、道具に負けてしまう弱い精神が問題なのだ。新しいものを否定するのはカンタンだ。新しいものがもつ必然、つまり失敗をあげつらえばいいからだ。だが、大切なことは新たに生まれたものをいかに有効活用するか、なのだ。否定が何かを生むことは、まれだ。僕は、ミクシーを続ける。
2007年01月14日
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何にも知らないまま きみを抱きよせた何かをかくしたまま きみを抱いた何かがわかると思った何もわからなくてもいいと思ったそのくちびるから伝わる きみの歴史そのからだの蠢きが語る 秘密物憂げな視線の先の 現実未来のために閉じられた 過去何もかもが 曖昧だっただけどその中に、曖昧ではないものがあったぼくを変えた ひかりぼくを奮わせる 希望ぼくをうるわせる オアシス知っているか知らないかではなく信じるかどうかだ朝陽に照らされた”みずうみ”をおだやかに眺めた暴かれた真実を ぼくは大切にしよう
2007年01月14日
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甘える、ということは期待するということだと思うんです。期待されるということ。これは言ってみれば、誰かから何かを要求されることです。人から何かを要求されるというと、ちょっとマイナスのイメージがありますね。「自分はこうありたいのにこうなければならない」「あげたくもないのに金銭を要求される」といった感じの強制感をイメージしてしまい、「要求される」というのは、いい感じがしないのです。しかし、実際には「人から何かを要求される」ということは、かなりの割合で、嬉しい場合が多いのです。それはつまり、何かモノ(コト)を要求されたことによって、自分じしんが必要とされていると思えるからです。前にも書いたように、僕らは自分じしんを見ることができない。言ってしまえば、自分じしんが存在するかどうかを確認するすべをもっていない、ということです。だから、「僕はここにいるんだろうか」という不安がいつでも陰をひそめているわけです。僕らは紙に塗られた透明なノリのようなものです。他人からの要求は、そこに振りまかれる砂のようなものです。他人(の要求)があってはじめて、僕らの姿があらわれる。そういった本質があると思います。だから、僕らは甘えたらいいのです。誰かにお願いするということが、けっして「迷惑をかける」ということではなく、いやたとい迷惑をかけたとしても、それはそれで、透明なノリに砂を振りかけたことになるのです。甘えられた人間は嬉しい。期待された人間は張り切る。自分という存在が見えたことが、何より嬉しいのです。体力やお金を使うことなど、どうでもいいのです。自分がここにいるのだ、ということを実感したいのです。甘えると、何かがもらえます。100の要求をしたら、最低でも3くらいはもらえます。だからたくさん期待すればいいのです。どんどん要求すればよいのです。ただ、100要求して3もらえたとき、「97くれなかった」と嘆いたり悲しんだり人は不幸です。3もらえれば十分なのです。今度は10000を望めば、300もらえるのです。要求する。甘える。期待する。そしてもらえたものに感謝する。それだけでいいのではないでしょうか。欲しくないよなんてうそぶいていると、カミサマは、くれるものもくれないと思います。だから、「甘えよ、さらば与えられん」
2007年01月12日
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久しぶりに対人稽古やりました。相手はまたもシロウトさん。正座して、思いっきりもってね~と言って、ぴょい~んと跳ね飛ばす。お相手はあまりの意外さに目を丸くしてました。その呼吸法を2回だけやって、「これが合気道パワーじゃ」と言って、やめました。以上。
2007年01月12日
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「ウソツキ」そう言われてからも、そんな言葉は俺と無縁だと思っていた。まったくの無意識だったが、よく考えたら、自分にウソはつかなくても、他人にウソをついていた。傷つけるか、ウソをつくか。いずれにせよ、悪だ。
2007年01月12日
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信じてもらうには、ある程度の繰り返しが必要だ。
2007年01月11日
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リリーさんの「東京タワー」を、借りました。本屋のくせに本屋大賞の本を読んでなかったのですね。っていうか小説読まないしね。貸し人曰く「本を読んで泣いたのはこれがはじめて」うむ~、どんな内容なのかな。泣くかな~、泣かないかな~。泣いたら、報告します。
2007年01月10日
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この乾いた世界を潤すものはなにか愛よろこび希望・・・そんな甘ったるいことがあるかこの世界を潤すものそれは なみだ瞳から溢れるひとつぶのなみだ頬をしたたる一条のなみだとめどなく零れる なみだ なみだ笑いが世界を乾燥させるよろこびが世界を高揚させる愛が世界を膨張させるそこにふりそそぐ神の采配なみだ希望に満ち溢れた世界など、嘘だ!!喜びの数だけ、悲しみがある。戦争がなくなって、世界が平和になっても、悲しみはなくならないなみだは永遠だあなたのなみだが誰かの希望に変わるあなたのよろこびが、誰かの なみだに かわるしかばねのうえに 立っている僕らひっそりと そして 傲慢になみだはよろこびだよろこびは なみだだ
2007年01月10日
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家の片付けをしてゴミを棄てたら、一緒に正義も棄ててしまうのがよい。およそ人間において、一番やっかいな種類は、正義を持った人間である。正義を持った人間には思想があっても、思考がない。正義ほど醜いものはない。正義は脳の回転を必要としない。僕は、ここ数年で正義を棄てる努力をしてきました。2年前の日記を見ればわかりますが、そこには正義があふれている。つまり、自分は正しいと思っている。いや、自分が正しいと思っている。僕にとって、合気道の文化はまさにカルチャーショックだった。力を抜くこと、脱力、自然体、陰陽のむすび、正反合・・・。禅や宗教に通ずる真理。合気道はそれ自体が僕のバイブルだった。どんな難しい問題も、それで解けると思っていた。だからこそ、僕には社会が間違っているように思えてならなかった。周りが、なんと浅薄で狭窄で、ゆがんでいるのだろうと思った。僕は「真理」をみんなに伝えたかった。しかし、話始めると多くの人が耳をふさいだ。僕はなげいた。なぜみんなはこの素晴らしい「真理」を知ろうとしないのか。なぜ、ここに「宇宙の大法則」があるのに、それを見ようとしないのか。僕は、理解されないことが苦しかった。なんで解ってくれない!どうしようもない閉塞感だった。しかし今思えば、僕こそがもっとも解りにくい、正義を押し付けるうざったい輩だったのだ。当時では気づけなかった。周りを変えることはできない。変えることができるのは自分だけだ、という事実に。他人を変えようとする人は苦しむのだ。自分を変えようとする人は喜ぶのだ。周りのズレを嘆く必要はない。周りとのズレを威張ることもおかしい。ズレているのはズレているという事実であって、たんにそれだけのことだ。良いことでも悪いことでもない。僕は実生活において、「真理は口に出してはいけない」ということを学びました。それは、意味がないからです。真理は、それが実際の行動として現れない限り、何の意味も持たないどころか、うざったい教義にしかならないのです。妙に話に説得力がない人はこれです。話す一言ひとことがうさんくさくて、一緒にいる時間がムダでムダでしょうがないですね。「受け売りマン」はほんとうに無価値です。真理についての学びは、自らを知ることから始まります。僕の場合は「合気道やっている」という誇りを棄てるところからでしたね。武道やってる人って多いんですが、自分が武道やってることに惚れてるんです。道着が、見慣れない人にはカッコイイと思ってるんです。それに「自分は強いのだ」という、めめしいアピールなのです。「エイヤー」とやってる自分大好きなのです。「合気道やっててね」といえば、女の子が「きゃー、武道カッコイイ!」なんて言うに違いない、というはなはだしい勘違いをしているのです。それが僕でした(笑)だからまずは、「合気道やってる」ということが「アニメオタクである」ということに近いということに気づくことからはじまります。なるたけバレないようにする、ということです。悪いことじゃないんですよ、アニメも合気道も。ただ、一般的ではない、ということです。その一般的ではない、マニアな世界なのだ、という気づきが大切なのです。それで最近は、合気道をやっていることをこのブログ以外では大々的には言いません。聞かれたら話すくらいです。そのほうが、自分も相手も楽しいのです。若者の会話に、「武道から見た世界の真理」なんて要らないのです。たといそれが真実であろうとも、まず「つまらない話をする」というところが間違っているのです。誰かと過ごす時間は、楽しむことが本義です。真理のお勉強をする時間ではない。正しいことを知る時間でもない。目の前の人を大切にしないで、宇宙の真理を語るというのはバカのやることです。何も見えていない。自分の思想を持つことは良いことです。というか僕は自らの思想を持たねばならないと思っている。しかし、その思想はまったく個人的なものであることに気づかないといけない。それが正義を捨てるということ。自らの思想に固執すれば、かならず人が離れていく。敬遠されていく。疎まれていく。人との出会いを喜び、人との触れあいを楽しむのに、思想はいらないのです。正義を知ることは、「ここが世界の端っこだ」と知ることです。自分というのは不思議なものです。ある先生は「自分」というのは「自然」の「部分」なのだ、と仰っています。つまりある意味で、自分はつねに世界の中心であり、ある意味で、つねに世界の端っこに位置しているのです。その意識が正義を捨てることにつながる。正義を捨てれば、とたんにラクになる。それに色んなものが入ってくる。学びの姿勢が取れる。最後にこんな一言でまとめてみよう。「ただしいことより、たのしいことが大切なのだ」
2007年01月10日
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僕らは、名前をつけるのが大好きです。僕らはまた、自分のことが大好きなのです。だから自分を名づけたくてしょうがない。できればいい名前がいいが、もしあやふやになりそうなら、このさい、嫌な名前でもその限りではない。それでついつい自分に「ダメ」という名前をつけてしまうのだ。その「名前」は一般にレッテルとも言わレッテル。I WAS BORNで僕らは生まれてきた。自らの意思なく。だから自分が何なのか分からないのです。だから自分が何なのか知りたくてたまらないのです。だから自分を規定してくれる何かを待っている。本当は自分で規定したいのだけど、あまりに分からないので、自分ではできないのだ。周りが、なんやかんやと言ってくる。赤子には、それがすべてなのだ。それが真実なのだ。僕らは幸か不幸か、自分じしんを見ることができない。この世界という鏡を通じてしか、自分を捉えることができない。だから、周り(環境・世界)の言動を通じて、自らを知る。「かわいいね」と言われれば、「ああ、自分は可愛いのか」と思い。「邪魔よ」と言われれば、「ああ、自分は邪魔なのだ」と単純に思ってしまう。これが純粋無垢の弱さ!!純粋ということはもっとも強く、そしてもっとも弱いのだ。オトナになるにつれてどうしても濁ってくる。それが正しい。オトナになるにつれて、弱くなる。そして、強くなる。小さい頃は周りがすべてだった。周りの評価に左右されていた。オトナになったらどうか。それは、ほんの少しだけ自分で評価できるようになる。でも基本的には周りの評価が9割なのだ。どんなに自立している人でも、会う人会う人に「お前はブサイクだな」と言われたら、「自分はブサイクなんだろうか」と思うだろう。とにかく、僕らの評価、つまり「自分は何ものなんだろうか」という疑問はつねに曖昧で不安定で、頼りない。だからこそ、「ボクはこうなのだ!」ということが言いたい。それには名前をつける必要があるのだ。「自分は何ものなのか」さえわかれば、「自分はダメだ」という負の評価にも甘んじるのだ。これは、恋愛において妙に気のあるフリをするくらいなら、初めから「見込みがない」と言ってくれ!というのに似ている。名前をつけるというのは、白黒つけるということだ。分けるということ。区別するということ。決するということ。名前をつけると安心する。体調不良、よりも「風邪」のほうが安心する。決する、ということは安心することなのだ。好きな人にフラれて、なぜか安心した経験はないだろうか。僕らは、曖昧がいちばん嫌いなのだ。だからオトナになるということは、その曖昧性をどこまで受容できるかということになる。白黒つけない。グレー。だから、濁っている。本来的に、いのちの流れはグレーゾーンなのだ。もう、いかようにも捉えようがない。混ざっているのか、ひとつなのかもわからない、無形の、流れ。曖昧さを許容するのだ。ときに名前をつけることがあっても、決して悪い名前をつけてはいけない。「素晴らしい人間」も「ダメな人間」もない。ただ、そういった意識があるだけなのだ。他人の評価に左右されずに、あるがままの自分を愛するなんて難しいよ。それよか、他人に評価されるように行動するのがよいのだ。そうしたら、自然とその自分を好きになるだろう。他人に評価されるように、というのはもちろん、他者にこびへつらうことではない。むしろその逆。自分のしたいことを素直にし、自分の言いたいことを勇気を持って言うということだ。自分の欲望に従うということが、他者からの評価を生む。ある意味で、皮肉な話だね。ああ、話のとりとめがないが、いきおいで書いてしまった。もう一体なにを言っているのか分からないね。まあまだ、頭ん中ぐちゃぐちゃだから。もうすこし経験を積んだら、体系化できるかも?まあ、なんでもよし。
2007年01月08日
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僕らがいちばん好きな音のひびきを知っているだろうか。それは自分の名前なのである。
2007年01月08日
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失敗は成功の母。こんなことわざがあります。何かでミスってへこんでいるときに、励まされるような言葉です。たしかに失敗の経験を活かして、次の成功につなげることもできると思う。何をか行動する人のほうが失敗し、そして経験を重ねて成功を積んでいく。しかし、失敗の重ね方にも良いと悪いがあると思う。悪い失敗の重ね方とは何か。それは失敗のクセ付けである。多くの物事は、クセで決まることが多い。人生のパターンといってもいいだろう。よくない失敗のクセ付けとは、この人生のパターンを悪い方向に持っていってしまうのだ。何かしらの失敗をする。それは誰でもある。みんな失敗する。要は、その捉え方だ。「ああ、またやってしまった。やっぱり俺はダメだ」「ほら、うまくいくわけなかったんだ」という人は、失敗を無駄遣いしている。もともと潜在意識が「自分はダメだ」からはじまっている。だからその潜在意識に基づいて行動しその「自分はダメだ」という仮説を証明しようとするのである。これは不思議なことだ。なんで自分から悪い方向に持っていってしまうのか。まあいろいろ要因はあるのだろうけど、要は、環境がそのような意識を植え付けてしまったのだろう。だから、「自分はダメだ」という思いはまず、たんなる意識である、と気づくべきだ。それは、事実ではない。積極的に失敗しなければならない。つまり自分から何かやってみる、ということ。それは、この世界に自分じしんという仮説を提出することだ。「こうしたらどうなる?」「これをこうしたら?」「この場合は?」自分はまた、世界の実験台でもある。みずからを俎上(まな板)に載せ、みずからで調理するのだ。そういったときの失敗は、なんら自分を陥れない。「ああ、こうやったらこうなるんだな」という「結果」が得られるのである。その結果は大きくわけて、成功か失敗かのどちらかだ。そのとき、どちらから学ぶかが重要となる。俺が思っているのは、「成功から学ぶ」ということ。これは俺が合気道をする中で思っていたことだったが、あるビジネスセミナーでも言っていた。誤解をおそれずに言えば、失敗をいくら重ねてもムダなのだ。自分がダメだということを目くじら立てて証明して、それを他人に否定してもらおうというのは甘えなのだ。失敗を繰り返せばいいなんて甘いものではないのだ。失敗から、何を見出すのか。そしていかに次につなげるのか、が肝要なのではないか。矛盾したように聞こえるかもしれないが、結局のところ、成功からしか学ぶことはできないのだ。学ぶということは真似するということでしょう。漢語で言えば、再現するということなのです。失敗を再現するわけにいかない。つまり、失敗から学ぶことはできない。失敗からは、「気づく」ことしかできない。失敗でわかるのは、「やってはいけない」ことだけである。「どうすればいいか」ということは脳みそしぼって考えるしかないのだ。その「どうすればいいか」を考え、そしてやってみる。何事もそこから始まるのである。ただ、待ちの姿勢で消極的失敗を繰り返してもなんの意味もない。「仮説」を持って生きる。という姿勢が大事だと思う。
2007年01月08日
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友人へのメールの最後に書いた一言が自分で気に入ったので、ここに書いておこう。「健闘を祈れ!!」この傲慢さが、素敵でしょ。
2007年01月07日
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届かなかったラブレターはよいにしても、使われない道具に、意味はないのだ。カタチを整えるは自己満足。まずは機能を整えよ!
2007年01月07日
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俺は悪口というのは技術だと思うね。もちろん陰口じゃないよ。相手を目の前にして、憎まれ口を叩くのだ。けっきょく人間関係というのは「バカ」という言葉を使いこなせるかどうかにかかっているといっても過言ではない。「バカ」というほど相手を侮蔑した言葉もないし、「バカ」という言葉ほどいとおしい言葉もない。悪口は技術なのだ。相手を見極めて、そのギリギリをつかないといけない。踏み込んではいけない領域がある。そこを見極めること。相手の短所をブスリと突くのだから、これはキケンな試みである。しかしそれだけに効果は絶大。うまくいけば、誉めるよりも効果がある。相手を観察することが大事だ。見ていれば、その人が何を大事にし、何を大事にしていないかが分かるだろう。大事にしていない部分なら、どんなにけなそうと相手は笑ってくれるのだ。俺もある。触れてはいけないポイントが。そこを突かれると、キレるね、うん。それから、すべてがポイントの人もいるね。すこしも悪口を許容できないような狭量の人が。そういう人は、もう相手にしないのです。適当におだてておけば、調子に乗っているでしょう。ほっとけ。すこし話は変わりますが、最近思うのは、いわゆる目上よりも目下のほうが心が読みにくいということです。お子チャマならお手の物だけどね。しっかりものの「後輩」というのは怖いものです。まあ何はともあれ、人波にもまれてみるのは面白いとおもうよ。だいたい人間なんて大差ないし、同時に、本当にいろんな人がいる。いろいろ実験してみるのがよい。それで自分なりの人間論をつくっていくのだ。地域性っていうのは本当にあります。転勤してはじめて知りました。
2007年01月06日
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孫氏だけどさ、あれって、兵卒や軍を管理する術が書いてあったりするじゃん?もちろん、現代の生活やビジネスや人間関係に応用もできると思うけど、「女の兵隊」に関してはあんまり書いてないんだよね。ちょっとは書いてあるらしいけど。「女の兵隊」を管理する術を方法論としてまとめたら、それが現代版の孫氏になると思うね。ソフトバンクが乗り出したら粋だよなあ。
2007年01月06日
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つまり他人というのは、ボクが思っているよりももっともっと人間なのだ。オモテに現れないところを見よ!!ウラを想像せよ!!それは、信じることだ。
2007年01月05日
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ぎゃー。難しいなあ。人をまとめるのは。なに、人望って?どれだけ「孫子」を読んでもいかんよ。そんなに怖いですか?ボク。フレンドリーじゃないすかね。わからんわ~。たしかに「ナメられたら終わり」っていう信条は小さい頃からあったけどね。たしかにほおっておいたら俺の顔はマジメそうで怖いらしいけどね。そのぶん笑顔が素敵よ、なんて言われるんですが(笑)ダメですか?考えさせられるわ~。うむ~。
2007年01月05日
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がんばるのはカンタンなんです。なにせアタマを使わなくてよいからです。がんばるということは自己満足です。自分はがんばっているのだ、という勘違いに酔っているのです。好きな人に100万円の指輪をあげるのはカンタンなことです。しかし、好きな人がほんとうに喜ぶものを探すのは難しい。安易な人は、前者を選びがちです。人の心を読んだり見たりするのが面倒なので、とりあえずお金をかければいいだろう、と。それが自己満足というやつなのです。がんばるというのはそういうことなのです。仕事だって、そうなのです。体系や仕組みについて考察しないで、「ただ私ががんばればいい」と自己満足しているから、生産性があがらない。そして「俺はこんなにがんばっているのに」となる。2007年は、「妙なること」を模索したいと思います。がんばるのではない。かといって、だらけるのではない。俺は俺に君臨する。そしてまた、誰かを幸せにするということ。誰かというか、周りですね。もう俺は十分に幸せだからね。がんばらず、だらけず、淡々と、みんなを楽しく、ちょっとだけ幸せに。そんなのが今年の目標的なものだったりします。
2007年01月03日
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「管理」という言葉があります。管理人・管理職・管理体制・・・。なんだか堅苦しいイメージです。管理ってなんなんだろうと最近おもいます。そもそも、なんで「管(くだ)の理(ことわり)」なのか。気になる。管理されるのはいいものじゃないですが、ラクだと思う。管理するのは大変だけど、できたときは快感だ。管理というのを、和語でいうと今のところ「捉える」という言葉がいちばん近い。スケジュール管理:スケジュールを捉える時間管理:時間を捉える漢語なら、「把握する」というのも近いだろう。責任を持つ、ということも仲間の語だろう。むかしは、こういうのが大嫌いだったけど、最近は管理もなかなか楽しいな、と思う。まあそれもちょっと「孫子」を読んだからなんだけど。仕事は戦争の論理だ。戦だ。そのバイブルが孫子。だけど、読んでいくとかなり合気道に通じる部分がある。合気道の論理と仕事の論理を孫子がつないでいる。とにもかくにも、捉えること。毎日のお客さんの動向を捉える。売上の上下を捉える。商品の位置を捉える。バイトの出勤や働きを捉える。自らのスケジュールを捉える。捉えるには先手必勝だ。先の先まで読まねばならない。敵(仕事)に後れをとってはいけない。まさに先んずればこれを制し、後るれば、これに制さるる。つねに準備がされていること。ああ、こうやって書いてたら、仕事がうまく回っているときのコツがでてきたな。これは儲けもんだ(笑)明日も先手必勝でがんばろう。
2007年01月03日
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ボクは、書式とか作るのがけっこう好きDESU。だいたい、人が作った書式というのは使いにくい。そんなものをタラタラ使うよりは、自分の使いやすいように作ってしまうのがいちばんです。で、なんで人の書式が使いにくいかと言ったら、それは脳が違うからですね。つまり、「捉え方」が違う。見る視点が違う。分析(分割)の仕方、構築の仕方が違う。書式がマトモに作れない場合、その仕事をマトモに把握できてないと思ってもよいだろう。=======================パッと書式を出されると、ふっと「こういうもの(仕事)なのか」と思ってしまう。しかし、実際は違う。仕事は、もっと捉えがたく、カタチのないものなのだ。その無形である仕事を有形にしたのが、書式なのだ。だからある意味で、書式は常に間違っている。つねに、変化の可能性を秘めている。「はじめに仕事ありき」なのだ。書式などいくらでも変えられるし、変えねばならない。======================書式は外にあふれでた脳だ。その書式が見にくい、分かりにくいとき、書式を作った人の脳は混乱している。整然としていない。脳みそを切り開くことはできない。その代わりに書式があるのだ。僕は書式というものを大切にしたいと思っている。
2007年01月03日
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今日書くのは俺が本を読んで勝手に実践してる健康法です。やりたい人はやってもいいけど、何かあっても、責任はとれませんのでよろしく。「よくテレビゲームはリセットできるけど、人生はリセットできない!」なんて説教たれる人がいますね。しかし、僕は思うのです。人生もリセットできるんじゃないかと。たしかにこぼれた水はお盆には帰らないけど、お盆に帰らなければ、正月に帰ればいいわけで、(屁理屈)こぼれたミルクを嘆いてもムダだけど、まあもう一回そそげばいいのだし。要は、まったく同じには戻らないけど、「まあ同じかな」くらいにはなりますよ、という発想。前置き長くなったね。で、健康法の話なんで、身体だね、身体をリセットしようと。それは基本的に毎日やるのです。それはメルマガhttp://www.mag2.com/m/0000199960.htmlで紹介しているような体操だったり、食事法だったりするのだけれど、とにかく毎日「みそぎ」をするということ。デトックスね。毒を毎日排出する。でもやっぱり少しずつは汚れがたまっていく。それを吐き出す。最近やっているのが、「減眠減食健康法」。というか昨夜からやってみた。まずは夕食の量を減らします。といっても腹7分くらいは食べてもよい。脂ものが食べたければ、牛丼などでもOk。それから、夜は寝ません。本を読むと寝てしまうので、ネットか何かをしながら、夜を明かします。腹が減りますが、何も口にしません。あまりに空腹になったら、ハチミツを吸います。ひとくちチョコも可。黒砂糖のかたまりを食べるのも可。要するに、血糖値を高めて、空腹をごまかす。胃に負担はかけない。やがて朝がきます。眠気の限界がきたら数時間眠ってもよい。驚くほど早く、深く眠れる。また数時間の睡眠にもかかわらず、アタマがパッとしている。動きも軽い。空腹でふらつくようなら、血糖値をあげてごまかす。みそ汁を飲むも可。ただ、「重い」ものだけは食べない。このような空腹状態を続けると、胃が休まり、腸の働きが活発になる。そこで、何かしらの刺激があると、(緊張するようなこと、四股踏み、冷え、)一気に排泄がおこる。東洋医学の考え方で「吸収は排泄を抑制する」というのがあるそうだ。つまり「食べ過ぎると、逆に便秘になりますよ」ということなのだ。その逆もまた真なりで、「食べなければ、排泄が促進される」のだ。これは本で読んだ知識だったが、自分でやってみて、はっきりと実感できた。それで胃腸が軽くなると、アタマも軽くなる。無駄なエネルギーが浪費されないからだろう。睡眠時間も短くて済む。「腹八分に医者要らず」の論理は、すこぶる近代的で合理的だ。ことわざの力はすごい。古いどころか、新しい。というわけで思いっきり「石原先生」の受け売りみたいな内容になってしまったが、すべて自分が実践してみたものばかりである。今後も自分なりの健康法を研究したいと思っている。
2007年01月02日
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天下統一しました!三国志のゲームですが。朝の5時になってしまいました。三国志クリアしたのってはじめて。すげー、うれしい。今年初の「初体験」。今年も初体験を増やすぞ~。
2007年01月02日
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悪<ワル>は幸福だ。悪の定義は、責任を持つこと。欲望に忠実なこと。したいことをしたいと言える幸福。したいことをする勇気。ワルの反対語は?「いい人」「いい人」って何の略?「いいわけする人」たとえばエロ本を読む高校生の集団を考えてみよう。5,6人で集まって、本屋に行けば、高校生ならだいたいエロ本コーナーに行きますね。そのとき、まっさきに先導するやつがワルです。ついていくやつが「いい人」です。「いい人」はいいわけの人だから、なかなか自分の欲望を言いません。言わないどころか、欲望を隠すのです。それは自分ではない自分を演じているのです。本当はエロ本が読みたい。けれど、そんな「エロ本を読む自分」を誰かにはバレたくないと思っているのです。だから、ワルがまっさきにエロ本コーナーを目指せば、「しょうがないなあ」という顔でついてくる。「俺は読みたくないんだけどね」みたいな雰囲気で。で、読み出すと、そいつがいちばん必死になって読んでいる。「か、過激や・・・!」なんて内心思いながら、鼻血をガマンしつつ満喫している。一方、ワルには余裕がある。エロ本なんていつも読んでいる。読みたいときは、いつでも読んでいる。だから特別なことでもなんでもない。日常だ。しかし「いい人」にとっては、重大事である。自分ひとりでは読めない。だからワルが「読みたい」と思った隙に、何食わぬ顔で、エロ本を読むしかない。だから、必死になる。その、何食わぬ顔の醜いこと。「ホントは見たくないんだけどね」という、そのスカした顔の醜さよ。何が醜いのかといえば、「エロさ」の責任をとってないからだ。ワルがエロくて、自分はエロくない。そういう虚像をみんなに認めさせようとしているのだ。だから、醜い。女子が通りかかったときに、まっさきにエロ本を閉じるのは、「いい人」だろう。ワルは、自分の責任を背負っている。「ほしいもんはほしいんだから仕方がない」という潔さがある。理屈ではない。ある種、諦めの哲学。自分が自分であることを、ゆるしている。難しいことではない。けれど、これが結構むずかしかったりする。善人には違いないが、昔に比べれば、俺もワルくなった。それで明らかに幸福になっているのだから、やはり何事にも素直に当るのが良いと思います。
2007年01月02日
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ああ、2007年もあと365日しかありません。時が経つのは早いなあ。今年もいいことがいっぱい起こる気がします。目標立てよう、ざっくばらんに。「自由」己を解き放て!!「素直」自分だけにはウソをつくな!!「虚無恬淡」頑張るな!具体的にはそうね、合気道の術理をまた一段階は発展させたいな。それにどこか新しい合気道道場を探して、そこに飛び込んでみる。それに自宅道場も使っていかないと。まあ、あとはもう「今を生きる」をできるだけ実践してね、どこまでいけるかは分からないよ。「具体性」ってのは時に裏目に出る。なんでもやってみろ!挑戦してみろ。失敗してみろ。恥かいてみろ。伸び盛りだ。今年もやったことないこと、いくつかやってみよう。
2007年01月01日
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