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始めての流鏑馬撮影を追う。この日は16:40にリハビリを予約しているので、15時には帰路につくことに。9月19日(火) 14:15本殿前の広場から西側へ出て馬場へ。この辺りは神嶽山神苑入口の南側。狭い観客席を北側へ進み、この先は流鏑馬の馬溜まり(終点)になっている。目の前に「三の的」があった。ロープで囲われた馬場は馬のために掘られていた。疾走する馬がこのロープを外れることはないのか危険予知は。三の的の横には諸役用の椅子が三席用意されていた。撮影場所はこの辺りにすることに。的は一尺八寸四方の檜板に網代を編んだもので、その表面に白紙を貼り青黄赤白紫の5色の円形の的が描かれている。また、的の背後には季節の花が飾られている。14:25撮影場所を確認して社務所前へ。本殿での祭典を終え社務所前では「天長地久 (てんちょうちきゅう) の式」が行われていた。天長地久の式は、奉行は諸役とともに中央に向かい「五行の乗法」を実施する。馬に乗って左に3回、右に2回進み、中央で馬を回転させて止める。神前で目礼をし、鏑矢を弓につけて天と地に向かって満月のように弓を引く。天下泰平・五穀豊穣を願う。残念ながらこの光景は撮影できなかった。社務所前では射手が乗馬した馬が7頭?回転していた。廻りには射手が佇む。射手には寒川神社の神職も奉仕される。ズームアップ。ズームアップ。式が終わり奉行・射手・諸役は「序の太鼓」に合わせて参道を進み馬場のスタート地点へ。 女性の射手はいなかったようだ。14:25行列の最後尾。放送で流鏑馬の終了時間は16時頃とのことで、リハビリをキャンセルするために電話。14:30キャンセルの電話を終え撮影場所へ、既に多くの人が馬場そばに待機。馬場には奉行を先頭にお披露目行列がなされていた。始めての撮影挑戦で勝手がわからず撮影場所の確保に苦慮。先頭の奉行が馬末(終点)で折り返し戻って来ていた。前方は日頃は開かれ駐車場へ行ける。右側に三の的がある。撮影場所をここに決める (黄色の☆マーク)。奉行、諸役の行進。この後、奉行は記録所に入り諸役はそれぞれの場所(的の傍)に移動する。馬場を射手が進む。三の的のそばには既に諸役が着席。馬場を進む馬。流鏑馬時の砂ぼこりが心配。前の射手とは頭の射笠(いがさ)が違う。14:35全ての行列が終え、最後に射手が乗馬した馬が数騎。14:37三の的諸役も着席しいよいよ流鏑馬が始まるようだ。14:42馬場の左の方から馬の走る音がし一頭目が「素馳 (すばせ)」。まず的を射らず馬に全力疾走させ足慣らしをさせる。直ぐに、二頭目の素馳。目の前を疾走するのでピントが合わずボケる。三頭目の素馳。撮影場所が違ったようだ。横ではなく正面から撮影する必要があった。14:43約1分間で七頭が素馳したか。14:45素馳した七頭が馬場の馬末から戻ってきた。14:48素馳した後、数分後には「奉射 (ほうしゃ) 」を開始。馬場には的が3つ並べられており、射手は馬を全速力で走らせつつ、腰に差した鏑矢を取り出して重藤の弓にはめ、的を順番に射抜いて馬場を走り抜ける。一頭目は的に当たらなかった。決められた回数の奉射が行われる (関係者に聞くと2回行うと)。14:491分後には二頭目が奉射。見事に的を射た。ズームアップ、騎乗の射手はボケているが矢は的に当たっている。的に矢が当たると諸役が立ち上がり紙垂を上下させ記録所へ連絡。14:50約1分後に次の射手も的を射る。同じように諸役が立ち上がり紙垂を上下させ記録所へ連絡。14:53次の奉射を待つ諸役。馬の疾走にピントが合わずカメラセットをするがこの間に数騎が疾走した。一回目最後の射手も的前から矢を構え見事に的を射た。この間スマホで動画撮影したが早くて一瞬の内に通過していた。14:53一回目の奉射を終え、馬場の馬末から戻ってきた。各自の矢を諸役から手元へ。14:54この後2回目の奉射が行われるので別の場所へ移動。14:59馬場の馬場本から二回目のスタート準備。疾走を待つ白馬。ゴーサインが出ると一瞬の内にスタートしていた。15:00馬も馴らされているのか狭い馬場を全力で疾走していた。15:02次の出番を待つ馬。係の方に聞くと、この後は別の班が的を小さくし射ると。演目は競射 (きょうしゃ) であろう。15:03一応流鏑馬を見たので帰宅し、リハビリへ行くことに。再度リハビリセンターへ連絡をし「空いているのでOK」とのことで帰路に。次回は撮影テクニックを勉強し再度挑戦してみたいものです。寒川神社の参道を南下、振り返り大鳥居 (二の鳥居) を見上げる。寒川郵便局辺りから寒川神社の森を望む。この先が稲刈り後、「寒川 冬のひまわり」会場になるのか。いつもの道を南下。右側をJR相模線が走る。稲穂も実りそろそろ稲刈りに。先日のニュースで肥料が多すぎると稲が伸びすぎて倒れると。小出川に架かるJR相模線の橋梁。小出川に架かる寺尾橋から上流側を望む。9月23日(土)10時から小出川彼岸花まつりが開催される。第16回 小出川彼岸花まつり 2023年9月23日(土) 10:00 ~ 15:00 小雨決行 雨天時順延 ところ 小出川沿い 大黒橋 ~ 寒川町青少年広場 3km 鑑賞期間 9月下旬 ~ 10月上旬 (見頃 お彼岸の頃) 催 し 式典 (打戻会場)、模擬店、休憩所など スタンプラリー開催! 9月23日(土) 9時から15時まで。同橋から下流側。15:35小出県道の高田交差点を左折し、田村通り大山道(伊勢原藤沢線)を進む。熊野神社境内から彼岸花がフェンス越しに白い彼岸花。彼岸花をズームアップ。境内に咲く彼岸花。白の彼岸花の方が早く咲くようで赤色もちらほらと咲いていた。 END
2023.09.22
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写真は寒川神社公式サイトより引用。このような写真が撮りたくて訪れたのだが。今年寒川神社を参拝した時、9月20日の例大祭の前日に流鏑馬があることを知りネットで調べ14時から開催されると。駐車場の心配があるので愛車のリンちゃんで訪れた。又この日は16:40にリハビリを予約しておりそれまでに帰宅する必要があった。以下は寒川神社の案内をネットから引用、寒川神社例祭《 祭 典 》 9月19日(火) ・午前10時 商工祈願祭並献灯奉告祭 ・午後 1時 例祭宵宮祭 ・午後 2時 流鏑馬神事(やぶさめしんじ) ※御本殿において祭典後、馬場にて執り行います。 9月20日(水) ・午前10時 例 祭寒川神社流鏑馬神事の概説流鏑馬の起源は、人皇二十九代欽明天皇の御世、国の内外が(新羅、高麗、百済)戦乱にて乱れたのでこの乱世を平定するに先立ち、天皇は豊前国宇佐の地(宇佐八幡宮の鎮座地)に神功皇后・応神天皇の二柱をおまつりになり、神前に於て天下平定、五穀成就を祈らせ、馬上にて三韓になぞらえた三つの的を射たのが、矢馳馬の起源である。寒川神社の流鏑馬神事は、例祭の前日九月十九日に、天下泰平と五穀豊穣を祈念して行われ、其の歴史は古く鎌倉時代より、小菅家(神戸と称す)に於て奉行を奉仕してきたが、時代の推移と共に馬の飼育者がなくなり更に射手もなくなったので昭和四十一年九月より、武田流司家金子有鄰に依頼して、一門による流鏑馬を御奉納頂くことになった。昭和五十五年よりは、弓馬軍礼故実司家武田流第三十五代金子家教氏により奉納され、当神社神職も門人として奉仕している。流鏑馬神事馬場配置図流鏑馬はスタート地点の馬場本 (黄色丸)から北方向へ走り馬場末へ約150メートル程か。的は、一、二、三の的と3ヵ所ある。中央付近に記録所。9月19日(火) 寒川神社へは自宅から7キロで自転車で約30分かかるので自宅を13時に出発した。13:20JR相模線香川駅自宅を出てから寒川神社への近道を頭に浮かべ進んだ。この日も夏日で暑かった。いつになったら秋になるのか。香川駅前に立っていた「香川諏訪神社」の案内板。香川諏訪神社 当駅より東四三〇メートル御祭神 建御名方之神 (タケミナカタノカミ) 八坂刀賣之神(ヤサカトメノカミ)例祭神 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 六月第一日曜日 例大祭 七月 (海の日) 浜降祭 八月十四日 夏越祭 戦没者慰霊祭 九月三日 諏訪稲荷神社例祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大 祓JR香川駅駅構造は、単式ホーム1面1線を有する地上駅。茅ヶ崎駅管理の業務委託駅 (JR東日本ステーションサービス委託)。自動券売機と自動改札機が設置されているほか、早朝など駅係員が不在時のために乗車駅証明書発行機が設置されている。利用状況は、近くに県立北稜高校があり2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は5,330人。小出川の上流に相模線の橋梁。小出川に架かる鷹匠橋13:30寒川駅南口へ、寒川神社まではもう直ぐ。駅前は北口側の方が整備されている。かつての相模線・西寒川支線があった跡地で、現在は南西方向が一之宮緑道になっている。大門踏切前交差点を渡ると、参道入口に寒川神社の一の鳥居と大きな社号標石。寒川神社への参道は上下線が仕切られており、提灯で飾られていた。提灯には「御祭禮」と。新しい提灯。三の鳥居と神池橋。13:40交通整理の方に駐輪場を聞き「駐輪場は参集殿に無料で用意しております」と。自転車のメーターは自宅から7キロで、予定どうり約30分で到着した。神池橋前三角地に「例祭提灯献灯」で多くの提灯。神賑行事のひとつで、9月1日(金)~24日(日) まで飾られている。寒川神社参集殿神池橋前に射手が乗馬した馬が二頭。ズームアップ。この日は暑く射手も大変であろう。13:45参道を進み神門前へ。流鏑馬の馬場は左側 (参道の西) を南北に走り抜ける。境内のスピーカから流鏑馬についての説明が流れていた。【寒川神社流鏑馬神事次第】1、出陣 (しゅつじん) 奉行が鳴らす「寄せの太鼓」を合図に射手や諸役一同が神門前に集合。2、願文奏上 (がんもんそうじょう)・鏑矢奉献 (かぶらやほうけん) 神前に鏑矢を捧げた奉行は天長地久の祈願を述べた後、鏑矢を頂戴して退場する。3、天長地久 (てんちょうちきゅう) の式 奉行は諸役とともに中央に向かい「五行の乗法」を実施する。 馬に乗って左に3回、右に2回進み、中央で馬を回転させて止める。 神前で目礼をし、鏑矢を弓につけて天と地に向かって満月のように弓を引く。 天下泰平・五穀豊穣を願う。 式が終わり奉行・射手・諸役は「序の太鼓」に合わせて馬場へ向かう。 奉行は記録所に入り諸役がそれぞれの場所についたことを確認して「破の太鼓」を鳴ら す。馬場の上・下の扇方は扇で準備ができたことを知らせ、射手は順に「素馳」を行う。4、奉射 (ほうしゃ) 馬場には的が3つ並べられており、射手は馬を全速力で走らせつつ、腰に差した鏑矢を 取り出して重藤の弓にはめ、的を順番に射抜いて馬場を走り抜ける。 的は一尺八寸四方の檜板に網代を編んだもので、その表面に白紙を貼り青黄赤白紫の5 色の円形の的が描かれている。 的の背後には季節の花が飾られている。5、競射 (きょうしゃ) 的は土器2枚を合体させて作り、中に色とりどりの切紙を仕込む。 矢が当たると土器は割れて、中の切紙が花吹雪のように飛んでいく。 競射が終わると奉行は記録所で「止めの太鼓」を鳴らして奉行・射手・諸役は一列に並 んで神門前へ向かう。6、凱陣 (がいじん)の式 神前に並んだ射手たちは、的に当てた数で競い合う。 最も多く的に当てた者は、奉行の元へと歩み寄り、的を差し出して膝をつく。 奉行は扇を広げて的の穴を確認する。 扇を閉じて刀の鞘を外すと、太鼓が「ドン、ドン、ドン」と鳴り響く。 奉行が「エイ、エイ、エイ」と叫ぶと、射手や諸役たちも「オー」と声を合わせ、これ を3回続けて勝利を祝う。7、直会(なおらい) 神門での凱陣の儀式が終わった後、奉行や射手や諸役は神酒を受け取り、流鏑馬の神事 は全て完了する。社務所前に射手が乗馬した白馬と黒馬が二頭。馬は円を描いて回っていたがこの後行われる「天長地久の式」の準備をしていたのか。社務所前には射手が数名。流鏑馬は小笠原流と武田流があり、寒川神社は武田流を継承していると。寒川神社で毎年例祭の前日に行われるこの流鏑馬は、現在は武田流(公社)大日本弓馬会が奉納しており射手として寒川神社神職数名が仕えて、人馬一体の見事な技を披露しますと。❖ 武田流射手の正装 ❖ 資料は寒川神社公式サイトより引用。馬を「天長地久の式」に慣らすために動いていたのか近くで撮影できた。射手と馬をズームアップ。客殿前の白馬、馬の名前が放送されていたが。毛並みが綺麗な黒馬。射手の腰には的が三個のため矢も三本。弓の大きさも2メートル程あったか。馬の脚は競馬馬の如く細かった。13:55記念写真であろうか。この後、奉行・射手・諸役が揃い記念写真をしたが神事次第が判らずタイミングを逃す。記念写真を終え本殿での祭典へ。14:00奉行を先頭に諸役、射手が並び神門を潜り本殿へと進む。諸役の中には記録担当も。流鏑馬の射手も最後に続く。流鏑馬の射手は何人いたか。正月にはねぶたで飾られる神門。14:05手水舎の裏側の馬場。既に多くの人がカメラ、スマホを構えていた。良い撮影場所を確保するために数時間前から待機していると。この先に二の的があり記録所がある。馬は左側から疾走してくる。馬が走る馬場はロープが張られていた。杭が立つこの穴は普段は蓋がされているようだ。馬場の幅は2メートルもない狭いものであった。手前の観客席との間も2メートル程であったか。馬場は狭く5メートル程の所に馬場、干渉路、観客席があった。赤い幕は南側のスタート地点馬場本。撮影ポイントを探すが狭い。救急車のサイレンの音がし馬場近くで停車、暑くて気分を悪くした人がいたようだ。撮影場所を探したが狭くて人が多いので別の場所へ。手水舎から社務所を見る。祝例祭限定御朱印を初穂料五百円で授与すると。本殿前ではまだ祭典が行われていた。本殿前に並ぶ諸役。14:15本殿前から西側へ出る。本殿の西側にある、神嶽山神苑入口前から南側を望む。ここが流鏑馬の馬溜まり(終点)になっており馬場は南北に100~200メートル。写真は今年8月20日(日)に訪れた時撮影。 ー 続く ー
2023.09.21
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水道記念館・水の広場の見学、散策を終え次の場所へ。8月29日(火) 11:10目久尻川に架かる「いこい橋」を渡り西方向にある寒川浄水場へ向かう。寒川の名産「梨」を販売していたが既に完売。販売所の脇に石祠があったが詳細は不詳。農道?の南側に、神奈川県企業庁の「水道水質センター」を過ぎJR相模線の踏切。西側にはさがみ縦貫道路(首都圏中央連絡自動車道)の高架橋。この辺りは右方向(北側)に東海道新幹線を越える高架橋になっているので2階構造になっている。踏切には「水道第三踏切 相模線 6K350M 幅員2.7M」と。水道第三踏切を渡ると、道路脇にあった看板。寒川浄水池〔災害用指定配水池〕この浄水池は、寒川浄水場で浄水された水を貯えて、湘南・西湘及び県央地域の皆様に供給するために築造されたものです。また、この浄水池は地震などの災害が発生した場合に、応急給水に必要な飲料水を貯えておく施設として指定されており、浄水池に貯えられた水は給水区域内の市や町の給水車などに注水します。 神奈川県企業庁寒川浄水場寒川浄水場平面図概 要 構 造 鉄筋コンクリート造 大 き さ 第2浄水場 56.0m×28.0m×3.0m×2池 第3浄水場 (72.0m×13.0m×4.0m+72.0m×6.3m×2.2m) ×4池 容 量 28,376m3(6池) 確保水量 (災害時)19,620m3左側には新しい設備「活性炭注入設備」が建っていた。門扉の横の壁に「寒川浄水場 活性炭注入設備」。設備の建屋には、名 称 粉末活性炭内 容 貯蔵槽 50m3 × 3槽活性炭注入設備の西側から。神奈川県企業庁 寒川浄水場所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4271業務内容 ・相模川の表流水を寒川取水堰から取水し、浄水処理(凝集沈澱・ろ過・消毒)と水質管理 を行い、安全な水を安定して供給しています。また、配水池やポンプ所等の監視や制御を 行うための配水運用管理システムを設置し、その運用管理を行っています。 ・寒川浄水場では、浄水した水道水を次の11市4町に給水しています。 平塚市、茅ケ崎市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、逗子市、厚木市、大和市、伊勢原市、 海老名市、綾瀬市、寒川町、大磯町、二宮町、葉山町。門柱には、神奈川県知事 内山岩太郎書の「寒川浄水場」の銘板。相模川の河川敷にある「川とのふれあい公園 野球場」。所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮この野球場ではかつて何度も試合を行っているが最近は球場確保が難しく。神奈川県企業庁 寒川取水施設所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮川とのふれあい公園 野球場の横を通り抜けるとフェンスに囲まれた寒川取水施設。フェンスにはいろんな看板が掲示されていた。ステンレス製の門扉に「神奈川県企業庁 寒川取水施設」と。フェンス越しに見る。ズームアップするが寒川取水施設辺りは、平塚市になる。寒川取水施設概要寒川取水施設は、取水せき、取水口、導水路、沈砂池、等の構造物からなっており、神奈川県、横浜市、横須賀市の各水道事業者に安定した水を供給するために建設されたものです。●取水せきの高さは6m、長さは全長270mあり、せきには洪水吐水門幅20mx高さ2.5mが3門、 土砂吐水門幅13mx高さ3mが1門あります。●魚道はH10年度に、より多くの魚類が遡上できるよう、船通しデニール式(流水幅7.2m )に 改修しました。●取水口には流芥よけのスクリーンが5門取付けられ、取水ゲートが4門あります。●導水路は2本あり、長さが約300mで最大毎秒18.155m3の水を導水し沈砂池に連絡しています。●この施設は各水道事業者の共同事業として建設され、神奈川県企業庁が委託を受けて管理して います。 神奈川県企業庁相模川水系ダム管理事務所寒川取水施設概要取水せきの配置。左から、デニール式魚道、呼び水水路、呼び水水路、階段式魚道。右側には、洪水吐水門×3門、右に土砂吐水門。右上には沈砂池への取水口、取水ゲート。水利権水量各事業所の最大取水量水利使用標識二枚の看板は、「注意」、「水利使用標識」。注 意神奈川県条例 第94号に基づき寒川取水えん堤上流端の上流800メートルから神川橋上流端までの水域においては非常災害その他緊急やむを得ない場合及び漁業権に基づき漁業を営む場合を除き次に掲げる行為を禁止する。(1) 水泳及び水浴・水上スキー等。(2) 舟艇・いかだ・その他これらの類する物の運行・けい留・浮遊。 神奈川県取水せきの後方には、大山、丹沢連峰。対岸からは違った写真に。神奈川県企業庁 寒川取水施設のゲートは施錠され設備もフェンスで囲まれていた。上流側から、寒川取水施設を見る。手前の取水口には流芥よけのスクリーンが5門取付けられ、取水ゲートが4門ある。取水せきには洪水吐水門×3門、土砂吐水門×1門。下流側にはフェンス越しに伊勢原藤沢線(県道44号線)の神川橋。以下2枚の写真は神川橋上から (撮影:2021年5月8日(土))その時のブログは「平塚から寒川町ー4」👈をクリック願います。寒川取水堰所在地は、左岸:神奈川県高座郡寒川町宮山字十二天 右岸:神奈川県平塚市田村字天神下 上流側を東海道新幹線が横切っている。ズームアップ。寒川取水堰は、高度経済成長で急増する水需要に対し、城山ダムから放流された水に加えて、ダム下流域の流量を取水することを目的に、相模川総合開発共同事業の基幹施設として、昭和39年(1964年)に完成した。その後、相模川高度利用事業で取水堰の増強が行われている。寒川取水施設から戻り寒川神社参集殿へ。11:40寒川神社参集殿所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3835-1参集殿は、相模国一之宮「寒川神社」の結婚式場。古式ゆかしい婚礼の儀に則った厳かな神社挙式。「八方除 はっぽうよけ」の神様、寒川大明神がふたりの絆を結びますと。寒川神社参集殿南側。参集殿内の1階にはレストランあおば。お料理は、和・洋・中・デザート(甘味)を取り揃え、寒川神社名物「八福餅」も召し上がれますと。参集殿入口に掲げられている扁額「参集殿」。入口左側に建つこの像は「浄明正宜 寒川神社宮司・・・・」と。参集殿前の三角地に「八重紅枝垂」が植えられている。例祭があるのか業者が木々の刈込、パイプで棚を造営していた。12時前になりこの日も暑く、ここで引返すことに。寒川行政センター所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山165寒川神社参集殿からの帰路、途中にあった寒川町役場へ立ち寄る。寒川町役場入口寒川町は、神奈川県の湘南地域北部に位置し、高座郡に属する町。相模国一之宮である寒川神社が町の中央に鎮座する。2022年1月1日現在、茨城県阿見町に次いで東日本で2番目に人口の多い町であり、神奈川県の三浦市、南足柄市を上回っている。町の木「もくせい」、町の花「すいせん」、町の鳥「だいさぎ」。館内に入ると「町の市章?」「相模國高座郡寒川町」と。庁舎内に入り。令和5年8月1日現在の人口及び世帯総数:48,624人 (男:24,670人、女:23,954人)世帯:20,656世帯、人口密度:3,623人/平方キロメートル町役場入口から。寒川町は標高は約5〜27mで、おおむね平坦な地形で、東部は相模野台地の南西部に位置し、そのほかは相模川、小出川及び目久尻川によって形成された沖積低地となっています。台地部分は宅地と畑が大部分を占め、山林はわずかしかありません。沖積低地は、水田の割合が多いものの、昭和30年代以降の埋立てにより宅地化された地域もかなりあります。また、江戸時代は11か村に分かれ、多くの旗本の知行地に分割されていましたが、その中には大岡忠相や田沼意次といった著名人もいたと。中庭に建っていた「寒川町民憲章」碑。寒川は相模川のほとり、水とみどりに恵まれた自然と、歴史と伝統にはぐくまれた文化のあるまちです。わたくしたちは、このまちを愛し、限りない発展をねがってここに町民憲章を定めます。1 木とみどりを大切にし、住みよいまちをつくりましょう。1 ゆずりあい、力をあわせ、助けあいましょう。1 きまりを守り、だれにも迷惑をかけないようにしましょう。1 元気に働き、幸せな家庭をつくりましょう。1 学びあい、明るい豊かな心を育てましょう。 昭和55年3月〇日制定中庭に建つ像「水辺」。ヨーロッパではこのような裸婦像は美術館内にあると。鳥のオブジェ。中庭から戻り右側に町役場庁舎。産業道路の寒川町役場前交差点から寒川駅への道。寒川町役場前の左奥の花壇には「さむかわ花物語」の看板。道路の街路樹には夏の花サルスベリが咲いていた。この道はいつもは車で走るのだが、いつのまにか稲穂も色づいていた。右側の架線はJR相模線。稲穂をズームアップ。この夏の暑さでコメの出来高はどうであろうか。12:20中華 洛神 (らくじん)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田5丁目4-44昼食は以前から気になっていた中華の「洛神」へ立ち寄る。駐車場のスペースは9台。ちょうど昼時で店内は満席であった。中国人の方が経営されているようで厨房では中国語が飛びまわっていた。五目チャーハンをオーダー、650円と割安。すべて完食したが量が多かった、二人で違うものをオーダーしてシェアーした方が良い。寒川町の寺社史蹟巡りは北部地区の宮山、倉見が残っておりますが、今年は残暑が厳しいので秋らしくなった時期に訪れたいと思います。 ー 続く ー
2023.09.03
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水道記念館・水の広場の散策を続ける。8月22日(火) 15:20水道記念館入口。入口には「神奈川県企業庁 水道記念館」と。館内に入り受付。夏休みで家族連れの方が数組訪れていた。係員の方からダムカードを頂きました。寒川取水堰型 式:重力式可動扉付フローティングコンクリート堰ゲート:ローラーゲート × 4門堤 高・堤頂幅 :6.0m・270.0メートル本体着工/完成年:1962/1964年英国製獅子頭共用栓これは獅子頭共用栓をイメージしたレプリカで、残念ながら獅子頭はないと。英国製獅子頭共用栓日本初の近代水道が、神奈川県により明治初期に創設した横浜市において、高さ107cmの鋳鉄製獅子頭共用栓がH.Sパーマーによって英国グレンフィールド社から購入され、市民が集まりやすい交差点近くなど市内各所に600基が設置されました。ここにあるのは、それをイメージしたレプリカで、残念ながら獅子頭はありません。蛇口の下に「水横」[Glenfield」と書かれています。近代水道の説明は2階にあります。館内に入ると壁面に「近代水道百選の証」が掲げられていた。水道記念館「太陽光発電システム」現在の日射強度:0.03kW/㎡、現在の発電電力:0.2kW、本日の発電電力量:11.3kW/h。この施設の太陽光発電設備は「グリーン電力基金」からの助成を受けて設置されました。来館者のサイン入り色紙も飾られていたが・・・。館内案内(右側から)1F アクアラウンジ、エントランスホール、アクアプレイランド2F 水源探検ゾーン、水道まるみえゾーン館内にはパネルが掲示されていた。かながわの水源皆さんが使っている水はどこからくるのでしょうか?神奈川県営水道の給水区域相模原市 (ほぼ全域)、平塚市 (ほぼ全域)、鎌倉市、藤沢市、小田原市 (一部)、茅ヶ崎市、逗子市、大和市、伊勢原市、海老名市、綾瀬市、葉山町 (ほぼ全域)、寒川町、大磯町、二宮町、箱根町 (一部)、愛川町 (一部) になります。神奈川県営水道のはじまり湘南地方は早くから自然的、社会的条件に恵まれ住宅地、観光地、保養地として発展しこれに伴い水需要も増加しました。この地方には民間会社経営の水道があるものの、多くは井戸水を飲用しており、水質不良や水量不足で困窮している状態で、上水道布設の必要性が叫ばれていました。・・・・(後略)水道記念碑について水道記念館の南側、旧寒川浄水場門を出たところに、高さ4mあまりの石碑があります。この記念碑は、我が国初の県営広域水道事業の竣工を記念して、県営水道期成同盟会によって昭和11年に建てられたもので、当時の人々の県営水道に懸ける決意、水道管敷設に当たっての努力、また、完成した県営水道に対する誇りが感じられます。『神奈川県営水道施設群 (記念館他)』が、土木学会選奨土木遺産に認定されました。神奈川県営水道は、昭和8年4月に我が国初の県営広域水道として、湘南地域の1市9町を給水区域としてスタートし、平成25年4月に80周年を迎えました。このたび、県営水道創設期に建設された水道記念館 (旧送水ポンプ所) や配水池の県営水道施設群が、「土木学会選奨土木遺産」に認定されました。土木学会選奨土木遺産とは社会へのアピール、土木技術者へのアピール、まちづくりへの活用などを促すことを目的に、幕末から昭和20年にかけて完成した土木関連構造物の中から、技術的・デザイン的にすぐれたものや、由来やエピソードが豊富なものを対象として、公益社団法人土木学会が認定している賞です。県内では、平成12年に「猿島要塞」(横須賀市)が認定されてから、「小倉橋」(相模原市)ニヶ領用水 (川崎市)など、これまでに10施設が認定されています。認定された施設『神奈川県営水道施設群 (記念館他)』水道記念館 (旧送水ポンプ所)、大磯配水池 (現大磯低区配水池)、茅ヶ崎配水池、藤沢配水池、鎌倉配水池 (現在助配水池)、逗子配水池の6施設。認定理由神奈川県営水道施設群は、湘南地域1市9町に創設され、現在は12市6町に拡大した我が国初の県営広域水道の歴史を永く県民に伝える貴重な土木遺産であるため。県営広域水道区域県営水道施設マップ各地の浄水場、ダム、取水ぜきの位置が記されている。旧ポンプ所内部水道記念館は、神奈川県企業庁が県営水道の創設50周年を記念して計画した「いこいの広場」の一角に、昭和59年3月に設置されました。そして創設70周年を迎えた平成15年3月、展示設備を一新し、新たな水道記念館としてリニュアルオープンしました。ここは寒川浄水場の跡地であり、県営水道発祥の記念施設である旧ポンプ所の建物で、近代水道百選にも選ばれています。1階の「アクアプレイランド」。1階から2階へ上がり「水源探検ゾーン」。水源探検ゾーンにあった「寒川浄水場のジオラマ」。上は相模川で手前の川は目久尻川、水道記念館は右下にある。2階から1階を見下ろす。2階には「水道まるみえゾーン」。水道まるみえゾーン上水が下水への流れを説明であろうか。シールには「強羅水道 消火栓蓋」。強羅水道強羅水道は、大正7年3月に起工し、大正12年に竣工しました。給水区域は現在の箱根町強羅の一部で、給水人口は約2,000人でした。小田原電気鉄道株式会社の経営で、昭和3年1月に日本電力株式会社に合併されるものの、同年8月に同社より分離し、箱根登山鉄道株式会社となった後、昭和32年3月に神奈川県営水道に買収統合されました。この消火栓は、珍しい小判型のもので、横浜市水道局の第二拡張工事 (明治43年 ~大正4年) の際のものと同じ仕様となっています。江戸時代の水道用木管江戸時代の水道用木管この木管は桧製で、今から約30年前、江戸中期に築造された日本最古の水道用木管と継手です。水道用木管の断面をズームアップ。寸法は、150mm×150mmであったか。近代水道のはじまり安政6年 (1859) 横浜港が開港され、人口が急激に増えだす。明治6年 (1873) 木の樋を使った水道で、多摩川から水を引く。明治15年 (1882) 水事情が悪く、コレラや腸チフス、赤痢がはやり、木樋の水道 会社も倒産。明治20年 (1887) 神奈川県がイギリス人ヘンリー・S・パーマーに依頼した、わが 国初の近代水道が横浜に完成。昭和8年 (1933) 湘南地方の1市9町を給水区域として県営水道が創設。昭和11年 (1936) 相模川下流の寒川地区を新規水源とする県営 (湘南) 水道施設 が完成。昭和17年 (1942) 相模川上流の川尻地区 (現城山町谷ヶ原) を新規水源とする県営 (相模原) 水道施設が完成。昭和27年 (1952) 地方公営企業法の施工に伴い、湘南、相模原水道事業を合併、 神奈川県企業庁水道局が設置される。江戸時代の水道用木管と英国製獅子頭共用栓のパネル。英国製獅子頭共用栓日本初の近代水道が、神奈川県により明治初期に創設した横浜市において、高さ107cmの鋳鉄製獅子頭共用栓がパーマーによって英国グレンフィールド社から購入され、市民が集まりやすい交差点近くなど市内各所に600基が設置されました。それをイメージしたものが1階にあるアクアバーの共用栓です。この様な獅子頭共用栓のオリジナルやレプリカは、横浜市内の開港資料館、勝烈庵や道志村役場前、横浜水道道 (町田市) などに保存展示されています。水道の歴史井戸水から木の樋を使った水道、そして鉄管を使った近代水道へー。神奈川県は日本で最初に近代水道をひいた地域です。県がヘンリー・S・パーマーに依頼し、明治20年(1887)に完成したその近代水道は、3年後に横浜市に移管され、横浜市営水道が誕生しました。一方、県営の水道は昭和8年(1933)、湘南地方の1市9町を給水区域としてその第一歩を踏み出しました。水道記念館から裏庭に出て、水道関連の部品が展示されていた。2010年12月、茅ヶ崎市内で発生した鋳鉄管Φ600mmの漏水箇所。2010年12月、茅ヶ崎市内で発生した鋳鉄管Φ600mmの漏水箇所と修理後の状態。口径900mm 電動式バタフライ弁この弁は、浄水場の「ろ過池」に設置され、「水」を流したり、止めたりして、約30年間使われていました。水道管の配管コーナー水道管は、道路に埋設されている「配水管」と、それから分岐して家庭まで引き込まれている「給水管」があります。「配水管」は、主に鋳鉄管を使用して、模型 (配管モデル) のように、いろいろな形の菅をつないで管路をつくっています。また、水道管を管理するための仕切弁 (水を止める) や消火栓などを設置しています。水道管の配管コーナー子ども達の課外授業ように設けられているようだ。こちらには「漏水体験コーナー」道路に埋設されている「配水管」の漏水体験。コンクリート製のパイプの中には、配水管の耐震継手:地震の時に、継手部が左右に約5cm (青の部分) 動く構造である。家庭への給水管の取り出し (口径 20mmのステンレス管)。水道記念館・水の広場の南東部に、かつての「水道記念館・水の広場」の正門。右奥に寒川神社の一之鳥居近くから入る駐輪場がある。水道記念碑についてこの水道記念碑は、我が国最初の広域水道として行われることとなりました「神奈川県営水道事業」の最初の工事が、昭和八年五月の起工以来、昭和十年八月の全線通水を経て、昭和十一年四月に完成したことを記念して、県営水道期成同盟会によって建てられたものです。この文面からは、当時の人々の県営水道に懸ける決意、水道管布設に当たっての努力、また、完成した県営水道に対する誇りが感じられます。碑に刻まれている文章を現代文に直したものです。湘南の地は、気候が温和で名勝史跡に富んでおり、かつ帝都に近く、将来ますますその発展が期待できます。しかも葉山にはすでに畏れ多くも御用邸を設置いただき、常に行幸啓を仰ぎご滞在の長いことは他にその比を見ません。従って聖域付近の衛生状態を改善し、防火保安の完備を図ることは最も緊要であり、水道敷設の議論は、はやくから官民の間で提唱されており、県は芦ノ湖の利用調査を遂げ、あるいは横浜市と共同の計画を講じ、その他各種の立案を試みましたが、いずれも実現するには至りませんでした。しかしながら当局者は絶えず問題解決のためにますます技術に財政に調査研究を重ね関係市町村もまた県営水道既成同盟会を組織し、熱烈な運動を開始しましたところ、県は昭和六年についに給水区域を平塚市外九ケ町とし、別に既成の横須賀市水道に対し、上水供給の目的をもって水源を相模川下流の伏流水に求め、ポンプでの送水による最も経済的水道布設の案を定め、通常国会の議決を経て八年三月に主務省の認許を得ました。五月に水源地寒川を挙げ、それ以来、日夜の工事を監督し十年八月全線の通水を見て、本年四月についに工事を完成しました。工事は実に五百五十五万円で、うち百四十七万余円を横須賀市の負担としました。そもそも、本水道の給水区域たるや東は茅ヶ崎、藤沢、片瀬、腰越、鎌倉、逗子、葉山、横須賀、浦賀の各市町の及び、送水管延長四万一千六百メートル、西は平塚市、大磯町にしてその延長九千八百余メートルに達します。おそらくは県営水道は我が国史上かって類例なく、全くこれをもって先駆けとなしたのです。かえりみますとこの事業は本県の宿年の懸案にして調査開始以来、年を経ること十三年、その間に幾多の波乱曲折を経ましたけれども、所期の目的を達成することを得ましたことは、まことに誇りとするに足りここにその沿革と概要を石にきざみこみ永く子孫に伝えます。 昭和十一年四月 神奈川県知事従四位勲三等 半井清 撰水道記念館・水の広場の正門。右側の門柱に「水の広場」。ロータリの植え込みに中に「水道記念」碑。水道記念碑には、湘南ノ地タルヤ、氣候温和ニシテ名勝史跡ニ富ミ且ツ帝都ニ近ク将来益其ノ發展ヲ期待セラル而シテ葉山ニハ既に畏クモ御用邸御設置アラサラレ常ニ行幸啓ヲ仰キ御駐輦ノ長キ他ニ其ノ◯ヲ見ス従テ聖域附近ノ衛生状態ヲ改善シ防火保安ノ完備ヲ期スルハ最モ緊要ト為シ水道布設ノ議ハ夙ニ官民ノ間ニ提唱セラレ縣ハ蘆ノ湖利用調査ヲ遂ケ或ハ横濱市ト共同ノ計畫ヲ講シ其ノ他各種ノ立案ヲ試ミタリシカ◯レモ實現スルニ至ラス然レトモ當局者ハ斷エス本問題解決ノ為ニ益技術ニ財政ニ調査研究ヲ重ネ關系市町村亦縣營水道期成同盟會ヲ組織シ熱烈ナル運動ヲ開始セリ時ナル哉縣ハ昭和六年遂ニ給水區域ヲ平塚市外九箇町トシ別ニ既設横須賀市水道ニ對シ上水供給ノ目的ヲ以テ水源ヲ相模川下流ノ伏流水ニ求メ唧筒送水ニ依ル最モ經濟的水道布設ノ案ヲ定メ通常縣會ノ議決ヲ經テ八年三月主務局ノ認許ヲ得五月水源地寒川村ニ於テ起工式ヲ擧ケ爾来日夜工事ヲ薫督シ十季八月全線ノ通水ヲ見本季四月竟ニ工事ヲ完成シタリ工費實ニ五百五拾五萬圓内百四拾七萬餘圓ヲ横須賀市ノ負◯ト為セリ抑本水道ノ給水區域タルヤ東ハ茅ヶ崎藤澤片瀬腰越鎌倉逗子葉山横須賀浦賀ノ各市町ニ及ヒ送水管延長四萬壹千六百餘米西ハ平塚市大磯町ニシテ其ノ延長九千八百餘米ニ達ス蓋シ縣營水道ハ我カ國水道史上曽テ類例ナク全ク之ヲ以テ◯矢ト為ス顧フニ本事業ハ本縣宿年ノ懸桉ニシテ調査開始以◯季ヲ関スルコト十有三其ノ間幾多ノ波瀾曲折ヲ經タリト雖克ク所期ノ目的ヲ達成スルコトヲ得タルハ洵ニ本縣ノ誇トスルニ足ル爰ニ其ノ沿革概要ヲ石ニ勒シテ永ク後世ニ傳フ 昭和十一年四月 神奈川縣知事従四位勲三等 半井 清 撰水の広場には四阿があり、せせらぎの流れる日本庭園になっている。せせらぎの流れる日本庭園。広場には桜の木も多く植えられており開花時には地域の方が訪れる憩いの場になっている。15:50水道記念館・水の広場の見学、散策を終え次の場所へ。HAYASHI テニスパーク さむかわ (寒川町営テニスコート)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4014テニスコートの北側に、6月に完成したばかりの寒川学校給食センターが建つ。16:00目久尻川に架かる「いこい橋」。下流側に水管橋。いこい橋の親柱に水滴が垂れるオブジェ。上流側にも水管橋。 ー 続く ー
2023.09.02
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今日は関東大震災が起きてから100年目、東京での被災報道が多いが神奈川県下でも甚大な被害があったようだ。寒川町の史蹟巡りを続けた。8月29日(火) 10:25旧国鉄 寒川支線跡レールがあるのでトロッコ列車でも運行したらどうか・・・。相模線・西寒川支線神奈川県の「橋本 ~ 茅ヶ崎」間を走る相模線の「寒川駅」からかつて1本の支線が出ていて「西寒川支線」と呼ばれていました。この線路は全長1.9Kmの路線で非電化でした。西寒川という名前は昭和19年に改称された名前で以前は「四之宮」と言う駅名でした。開業は大正11年で当時は相模川の砂利を輸送するのが目的の貨物線でしたが昭和19年に旅客営業を開始しています。後に砂利採取が禁止され貨物営業を廃止し旅客路線となりましたが、昭和59年(1984)3月一杯で廃止となってしまいました。私も昭和46年から茅ヶ崎市民になっており乗車したことはないが記憶がある。地図は、昭和45年(1970)の寒川地区でまだ線路が描かれている。駅名看板を模した園名版公園内の線路脇には駅名の看板を模して製作された園名板が設置されています。令和2年3月に老朽化のため、木製からアルミ製に更新しましたと。公園内にはレンタル自転車も設置されていた。自転車は電動アシスト。一之宮公園管理事務所車の駐車場があったか、トイレも設置されている。一之宮緑道の北方向からの一之宮公園入口。一之宮公園入口の旧国鉄 寒川支線の車輪。暑い中、路面ブロックの張替え工事が行われていた。一之宮緑道の北方向を望む。一之宮緑道は、北側より順に、ゲート広場、カツラの小径、サクラの小径、四季の小径、八角広場となっており、それぞれ異なるコンセプトの緑道が組み合わさっています。カツラの小径と四季の小径では、公園愛護会の活動が盛んで、緑道整備の一翼を担っております。緑道の一部には、旧国鉄相模線の西寒川支線の線路が当時のまま残っており、撮影スポットとしても人気があります。この辺りにはサクラの木が植えられベンチも置かれている。次回はサクラの開花時期に訪れたいものです。一之宮緑道の掲示板に貼られていたポスター。第16回 小出川彼岸花まつり 2023年9月23日(土) 10:00 ~ 15:00 小雨決行 雨天時順延 ところ 小出川沿い 大黒橋 ~ 寒川町青少年広場 3km 鑑賞期間 9月下旬 ~ 10月上旬 (見頃 お彼岸の頃) 催 し 式典 (打戻会場)、模擬店、休憩所など スタンプラリー開催! 9月23日(土) 9時から15時まで。寒川ロータリークラブ長期継続事業「桜植樹」協力:寒川町下段には「桜の植樹事業参加者」ボーイスカウト寒川第2団、寒川神社少年館 2019年2月24日(日)寒川ロータリクラブでは「桜を観ることで子ども達の豊かな感性を育み、”ふるさと・寒川” を慈しむ心を育てたい」という願いを込め、長期継続事業として桜の植樹を行っています。寒川青少年広場 (2013年:40本)、川とのふれあい公園 (2014年:13本) に続き、2017年度は、一之宮緑道に10本の植樹を行いました。これからも ”ふるさと・寒川” で桜を楽しむことができますよう、10年後、20年後の未来へ思いを託し、引き続き植樹してまいります。一之宮緑道の北側入口。ゲート広場に立つ道路標識。ゲート広場から寒川神社参道入口にある大門踏切前交差点を望む。一之宮緑道の南方向。かつての相模線・西寒川支線はこの辺りから左方向へ走っていた。一之宮緑道の一番北側にある「ゲート広場」。西寒川支線は寒川駅を出るとしばらく本線と平行して走り、駅から数百メートルの所で南西方向へ湾曲してここゲート広場へ。寒川神社参道入口にある大門踏切へ電車。Googleマップに載っていた「川寒川支線分岐点跡」。所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮4丁目1西寒川支線の他にも、砂利運搬路線の川寒川支線があったようだが資料が少ないと。踏切は寒川神社参道入口にある大門踏切。橋本行きのワンマン電車。左側の道路が川寒川支線の跡であろうか。線路を挟んだ右側の森の中は、水道記念館・水の広場である。大門踏切を渡り、参道入口にある寒川神社一之鳥居。鳥居の右側には社号標石が建っている。寒川神社への参道は上下線が仕切られている。参道の森は「かながわの美林50選 寒川神社の森」に指定されている。参道脇に「← 水道記念館・水の広場、テニスコート、自転車置場」の案内板。自転車の駐輪場があるようだが年寄りには傾斜がきつい。要改善では!入口は金網のフェンスで囲われていた。水道記念館・水の広場へは既に8月22日(火)に訪れているのでここで引返す。水道記念館・水の広場利用時間 午前九時三十分 ~ 午後四時三十分休みの日 (1) 月曜日(ただし祝日・休日の場合はその翌日) (2) 二月の第四週(月 ~ 金) (3) 年末年始 十二月二十九日 ~ 一月三日参道に戻り進むと、松の木の根元が石垣で囲まれていた。参道の ”いこいの広場入口交差点” 。 この交差点を左折して、水道記念館・水の広場へ。10:45いこいの広場入口交差点を左折すると直ぐに、さむかわ庭球場・水道記念館駐車場がある。さむかわ庭球場・水道記念館駐車場は無料。仮駐車場は16時30分で施錠します。ここからの「水道記念館」の写真は1週間前に訪れた時のものです。8月22日(火) 15:10この日は車で訪れたので駐車場に車を停め散策。足が不自由な中、水道記念館・水の広場へ数百メートル歩いて向かうことに。”水と緑と光” 寒川浄水場いこいの広場この寒川浄水場は、昭和8年に県営水道が創設されたときに、その”かなめ”となる浄水場として設けられ、今日まで皆様の大切な飲料水を一日も休まずに造りつづけております。この広場は、県営水道が50周年をむかえたことを記念して、その発祥の地であります寒川浄水場の一部を利用し、水と緑と光をテーマに「水道記念館と水の広場」、「プール(寒川町営)」、「テニスコート」をそなえた広場です。「水」についての知識を深めていただくとともに、「緑と光」のなかで、水に親しみ、スポーツを楽しんでいただき、いつまでも皆様の ”いこいの広場” としてご利用ください。 昭和59年3月 神奈川県企業庁寒川学校給食センター所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4018当センターは、寒川町立小学校及び中学校における安全安心で安定した学校給食提供を実施し、もって児童及び生徒の心身の健全な発達を図るため、令和5年(2023)6月に設置されました。門扉には「寒川学校給食センター」。今年6月に完成したばかりの給食センター。水道記念館・水の広場へ向けて進むと、左側にプールがある。HAYASHI ウォーターパーク さむかわ場内には25mプール、幼児プール、スライダープールの3つのプールと、人工芝の多目的広場があります。プールサイドではキッチンカーも営業していた。HAYASHI ウォーターパーク さむかわ所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4007入場料金:小人 (小学生) 100円、中・高生 200円、大人 300円。15:15水道記念館 (水の広場)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4001県営水道発祥の旧ポンプ室を利用した、水について遊びながら学べる施設です。館外には、せせらぎの流れる日本庭園「水の広場」があり、春は桜が見事ですと。急に雨が降り出し掲揚されていた日の丸が納められていた。水道記念館・水の広場のご案内水道記念館・水の広場は、神奈川県企業庁が県営水道50周年を記念して、昭和59年3月に設置されました。創設70周年を迎えた平成15年3月、水道記念館の展示設備を一新するとともに、水の広場にも遊具を設置しリニュアルオープンしました。ここは、県営水道発祥の記念施設である旧送水ポンプ所の建物で、「近代水道百選」にも選ばれています。館内には水をテーマにした楽しい展示が盛りだくさんです。どうぞご自由にご覧ください。 〇 開館時間 午前9時30分~午後4時30分 〇 休 館 日 月曜日(月曜日が祝日の場合は、次の日) 年末・年始(12月29日から1月3日) 2月の第4週の月曜日から金曜日の5日間 〇 入 館 料 無 料 神奈川県企業庁赤レンガの水道記念館の前に噴水、大きなポンプ。サクラの木が聳える、せせらぎの流れる日本庭園「水の広場」。水道記念館は、県営水道創設50周年を記念して、昭和59年3月に県営水道発祥の記念施設である旧ポンプ所の跡地に誕生した。あわせて和風庭園の「水の広場」が整備された。水道記念館の前庭の円形の池に「河童」の像。河童をズームアップ。渦巻ポンプ「通称ゐのくちポンプ」。東京帝國大學工科大学機械工学科 (現東京大学工学部) の井口在屋博士が完成させた渦巻ポンプ(羽車で水流に遠心力を与えて送出するという原理) の通称をゐのくちポンプと言います。記念館入口では、第一送水ポンプとして実際使用していたものを展示している。ポンプの台座に「送水ポンプ」の銘板。15:20水道記念館の入口。いろんな扁額があったので受付で尋ねパンフレットを頂き丁寧に説明していただきました。入口上の扁額「永頼其慶 (えいらいきけい)」訓読みで「永く其の慶びを頼む」と読み、「慶びを忘れることなくこの事業を永く頼み伝えてほしい」という希望の意味が込められています。入口の左側に並べられていた2枚の扁額。左側:「無盡蔵」右側:「磋乎水哉 (あ ああ みず かな)」 ー 続く ー
2023.09.01
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この夏はいつまでも猛暑、夏休みも最後の週になり宿題に追われる子供達もいる中、気ままな爺さんはいつものように愛車のリンちゃんで出かけ、寒川町の寺社史蹟巡りを行った。8月29日(火) 9:25田村通り大山道(伊勢原藤沢線)を西に進む。日蓮宗 本在寺(ほんざいじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7-38田村通り大山道の南側に建つ山門。詳細は「茅ヶ崎の寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。田村通り大山道(伊勢原藤沢線)を西へ進み小出県道高田交差点と合流。赤羽根一図大山街道脇沿いの道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根93高田交差点の東側にある道祖神でGoogleマップに記載されていたので立ち寄った。明治時代初期に赤羽根村は15に区分され、それぞれに「一図」~「十五図」と名付けられた。田村通り大山道には「六図(ろくず)バス停」があり「一図」はそのなかの一つである。「図」とは一般には「小字」であると。民家の間に広場があり「文字道祖神」が保存されていた。奥の民家の庭先に咲くサルスベリが満開。国道1号の本村交差点から北上する新しい道で、茅ヶ崎北部の香川、松風台、みずきを抜け大岡越前通りと合流する。左が香川地区、右が松風台地区。大岡越前通りの下寺尾交差点を左折して西へ進む。丘陵地を下り小出川を渡り、JR相模線の大曲踏切。大曲踏切相模線 4K260M 幅員 6.5M、起点の茅ヶ崎駅から4.26キロ。茅ヶ崎駅行のワンマンカ―。運転間隔は昼間は約15分で4両編成。県道45号線 (旧田村通り大山道・丸子中山茅ヶ崎線) を寒川へ向かい、神奈中バス停「筒井」。天台宗 窪田山 景観寺(けいかんじ)旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)と中原街道(県道45号線:丸子中山茅ヶ崎線)が合流する角にあり、右折すると中原街道になる。この日は一之宮緑道へ行くので直進。景観寺前から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を西へ向かい。梶原景時館跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で訪れる人が多くなった史跡である。何度も訪れているので今回はスルー「寒川町の寺社史蹟巡り」👈 をクリック願います。梶原景時館跡の西側にある県道46号線(産業道路:相模原茅ヶ崎線)の一之宮小入口交差点。交差点を通り抜け県道47号線(藤沢平塚線)を西へ。交差点の「一之宮小入口」。SOPHIA CHIGASAKI所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮7丁目4交差点の西側にある集合住宅で県道47号線(藤沢平塚線)の南側に建つ。寒川町内に建っているが「茅ヶ崎」と。ソフィア 茅ヶ崎 案内JR相模線寒川駅より徒歩17分、寒川町一之宮7丁目に佇む緑に囲まれたマンションです。1986年1月築。マンション敷地内にテニスコートと公園があり、気軽にお楽しみいただけます。緑の植栽も多く、落ち着いた環境です。総戸数457戸のビッグコミュニティ。鉄筋コンクリート造9階建の建物がA~Eの5棟ございます。南向きのため陽当たり良好であると。ソフィア 茅ヶ崎の東側にある公園。公園の入り口には「天神下第2公園」と。浄土真宗 浄徳寺 (じょうとくじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目28-13Googleマップでこのお寺の所在を知り訪れた。県道47号線(藤沢平塚線)沿いの北側に建っておりお寺と思えない佇まいである。看板には「浄土真宗 浄徳寺 湘南分院」。分院とあるので本堂等は別の場所にあるのか。県道を進み浄徳寺を振り返る。県道47号線(藤沢平塚線)は斜め右方向へ。左方向へ進むと相模川沿いの工業団地へと進む。門柱には、「株式会社 ニコン 相模原製作所 湘南分室」。環境マネジメントシステム規格「ISO 14001」認証取得とあったが何を製造しているのか。ニコン 相模原製作所 湘南分室の先に森。神奈中のバス停は「八角広場前」。八角広場所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮6丁目2-251984年に寒川支線が廃止された後、平成元年(1989)3月、相模線西寒川駅跡地を整備して閉園したもので、西寒川支線の線路跡を利用した一之宮緑道の終点にあたります。広場には旧大山街道の「田村の渡し」の様子 (江戸時代) をあらわした双六の碑が建っています。石碑には「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」。石碑の裏面には、ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠 (昭和20年 敷地704,000㎡) の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工業立地に恵まれ、跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安穏を祈る。 建立 相廠会及び協力企業 昭和63年春八角広場には一部線路が遺されている。八角広場には公衆電話ボックス、ポストがあった。ー之宮緑道ー之宮緑道は、緑のネットワークの一環として旧国鉄相模支線跡地を利用して、昭和60年度より整備を行ったものです。延長は約900mあり、広場及び3つのタイプの園路から構成されています。みなさんでご利用ください。広場の中央には八角形の噴水があったが停止中。公園に旧大山街道の「田村の渡し」の様子 (江戸時代) をあらわした双六の碑。「一の宮 田村へ 十八丁 三十五」。台座には「鎌倉・江ノ嶋・大山、「新版往来雙六」 神奈川県立博物館蔵八角広場から旧国鉄相模支線跡地を利用した一之宮緑道を北上。前方は県道47号線(藤沢平塚線)を横切る交差点。八角広場を振り返るが草が伸び放題になっていた。県道47号線(藤沢平塚線)を横切る押しボタン式信号。東方向の茅ヶ崎方面。道路標識には「 ⇐ 丸太広場、八角広場 ⇒ 」と。支線が廃止された1984年の6月に一之宮公園の一部が開園した。当時、寒川青年会議所により設置された「丸太広場」があったことから、一之宮公園は「丸太広場」とも呼ばれていたとのこと。一之宮緑道を進み南方向を振り返る。遊歩道脇には花壇が設置されており秋に色づくコキアも植えられていた。一之宮緑道を進み、一之宮公園。線路が敷設され車輪が置かれていた。一之宮緑道の南方向を望む。オートバイ・自動車 乗入禁止。南側の一之宮緑道の廃線跡遊歩道。一之宮公園一之宮公園は住宅地の中にある自然あふれる公園で、地域住民の憩いの場となっています。地域の方からは、『丸太の広場』の愛称で親しまれています。これは、開園当時に設置されていた木製の大型アスレチックに由来するものですが、残念ながら老朽化により撤去されており、現在は愛称のみ残っている状況です。公園内には、管理事務所棟があり、集会場は地域の方の交流の場となっています。また、かながわの公園50選にも選ばれています。一之宮緑道は、北側より順に、ゲート広場、カツラの小径、サクラの小径、四季の小径、八角広場となっており、それぞれ異なるコンセプトの緑道が組み合わさっています。カツラの小径と四季の小径では、公園愛護会の活動が盛んで、緑道整備の一翼を担っております。緑道の一部には、旧国鉄相模線の西寒川支線の線路が当時のまま残っており、撮影スポットとしても人気があります。一之宮緑道の廃線跡一之宮緑道内には旧国鉄相模線の西寒川支線の線路の一部が、現在も姿を残しています。(カツラの小径、サクラの小径、八角広場で見られます)木製の枕木の上にレールが敷設されているが草で覆われていた。公園内に設置された遊具。公園の低地に鑑賞池 (調整池)。鑑賞池 (調整池)現在水はありませんが、調整池としての機能を備えております。ゲリラ豪雨の際の遊水地になるのであろうか。一之宮公園管理事務所所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目21-1公園内には管理事務所が設置され、年末年始を除き日中は管理人が駐在しています。管理事務所内の集会場には、和室が2部屋、洋室が1部屋あり、地域の集会やレクリエーションの場としても使われています。一之宮公園管理事務所10:25芝生広場公園内には芝生の広場があり、子どもから大人まで利用しています。木に囲まれて道路からも離れているため、ボール遊びやかけっこにも十分な広さがありますと。この日は暑い中、NPOシニアの方が除草作業をしておられた。使用器具は綺麗に並べられていた。 ー 続く ー
2023.08.31
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倉見神社の参拝を続ける。8月20日(日) 9:50倉見神社の拝殿前から境内を見る。本 殿本殿は寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿 (寒川町重要文化財指定)を、明治二十八年に移築されたものである。本殿そばには柵があり近寄れない。柵下から本殿を見上げる。倉見神社の後方を東海道新幹線が走る。新幹線を建設時に倉見神社の敷地は建設予定地になったのか。この辺りは約五分位の間隔で新幹線が高速で通過する。JR相模線の倉見駅辺りに新駅の計画がもう何年も前に決定しているのだが。その後の計画はどうなっているのか。社務所からの回廊も寒川神社から譲与され移築されたのか。であれば我が結婚式時にはこの回廊を歩いたのだが。社殿の左側に廻り本殿を見る。本殿の北側は道路を挟み東海道新幹線が走る。防音対策の防音壁も設けられている。新幹線をズームアップ。倉見神社北側の新幹線下の通路。「制限高 1.5M」と低い。背をかがめて歩かないと。第二原倉見Bv (49K325M)東京駅から、49キロ325メートル地点。静かな境内に戻る。9:55寒川神社から譲与され移築された倉見神社の拝殿。今の寒川神社の拝殿とはスケールが違うがどこか懐かしい雰囲気を感じた。この後、もうひとつの寒川神社の神輿殿へ向かう。10:10寒川神社の南東部にある駐車場に駐車、三の鳥居前へ。寒川神社には何度も参拝しており今日は神輿殿を探しに訪れた。寒川神社所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916神池の傍に建つ社号標石「相模國一之宮 國弊中社寒川神社」。寒川神社前交差点の先に建つ「寒川神社参集殿」。三の鳥居と神池橋。石製の太鼓橋の「神池橋」。三の鳥居下から、神池橋を振り返る。寒川神社御祭神 寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと ) 二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。例祭日 九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)由 緒 当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上 品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史 を有しています。 以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に 神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心 をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田 信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から の崇敬は極めて篤いものがありました。 明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において 国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。 その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和二十年八月十五 日、大東亜戦争の終戦後、同年十二月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃止されま した。昭和二十一年二月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を目的として、 全国の神社及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本庁による包括神社 となっています。 戦後、日本全体の復興とともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努め、全国の崇敬者 からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。社 殿 平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われ ました。境 内 神聖なる神嶽山(かんたけやま)を背に、約一万五千坪を有しており、平成二十一年には御本殿 奥庭の禁足池を「神嶽山神苑」として開苑致しました。 左側の「境内のご案内」に神輿殿の存在がなかった。三の鳥居を潜り石畳の参道を進む。こちらの「境内のご案内」にも神輿殿の存在がなかった。手水舎新型コロナの関係で、感染防止のためまだ柄杓は置かれていなかった。正月には迎春ねぶたが飾られる「神門」。左側には「おみくじ」の縄。御本殿旧拝殿は平成四年(1992)の寒川神社の「平成の御造営」にあたり先程参拝した倉見神社へ譲与され、平成六年(1994)九月に移築された。境内に聳える「御神木」。左側に「神門」、右側に「客殿」があり御祈願受付。境内に植木屋さんがおられたので神輿殿の所在地を尋ねると、「神輿殿はなく祭儀倉庫として神輿・用具を納めており一般者は見れない」と。今年7月17日の浜降祭に参加した時の「一之宮 寒川神社」の神輿。海岸での禊に向かう提灯を掲げた寒川神社の神輿。多くの担ぎ手がいるが、寒川神社へは往復共に「車輌」で移動。御本殿の左側にある「神嶽山神苑」入口。入苑は御本殿にて御祈祷(お祓い)を受けられた方に限られる。以前息子が御本殿で厄払いをした時、入苑券を頂き入ったことがある。神嶽山神苑入苑案内 ■ 期 間 三月上旬 ~ 十二月十三日 ※ 毎週月曜日は休苑(祝祭日は開苑) ■ 時 間 午前九時 ~ 午後四時 ◎ 入苑は御本殿にて御祈祷(お祓い)を受けられた方に限ります。 ◎ 神苑受付にて入苑券をお渡し下さい。 神苑内施設のご案内 ■ 茶屋【和楽亭】 ・季節の菓子と抹茶 (拝服料五百円より思し召し) ・午前九時三十分 ~ 午後三時三十分 (受付は三時終了) ■ 方徳資料館 ・方位信仰に関する資料の展示・公開神嶽山鳥瞰図寒川神社の西側は南北に「流鏑馬」の場所になっている。次に訪れたのはGoogleマップに載っていた「道祖神」。寒川神社の玉垣の一角にあった。所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916左右に双体道祖神、中央は?。左側には「寛政五○○○○」と。前の四角の石は?。寒川神社の西側を走る道路脇にある道祖神。ズームアップ。寒川町長選挙ポスター掲示場近くで立候補者の「無所属 杉﨑たかゆき」の応援演説が聞こえた。自民党からの応援で小泉進次郎の応援演説が聞こえてきた。次に訪れたのはこちらもGoogleマップに載っていた「神照寺跡」。道祖神から北上し欅であろうか古木が聳えていた。スマホの案内はここを左折して路地へ。路地を入ると前方に墓地があり「神照寺跡」。神照寺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山墓地だけが残っており説明板等はなかった。墓地の中には古い墓石が多くあった。笠付きの立派な墓塔。古い墓石には「能條・・・」と刻まれた墓石が多かった。神照寺跡から南下、寒川神社の玉垣の一角に道祖神。寒川神社の南門近くにある売店「八福餅八福餅」と。人形奉斎殿駐車場近くにあり、お人形さんを納める場所でお祓いをしていただける。車椅子対応をしている。10:45浜降祭参加の寒川地区の神社6社すべてに参拝した。この後、朝確認した岡田にある「安楽寺」へ参拝することに。 END
2023.08.25
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寒川地区にある浜降祭参加の神社を訪れた続編です。浜降祭に参加した寒川地区の神社は6社で、今回の参拝は赤色の2社。 ① NO.5 宮山 寒川神社 高座郡寒川町宮山 ② NO.6 岡田 菅谷神社 高座郡寒川町岡田 ブログアップ済 ③ NO.7 倉見 倉見神社 高座郡寒川町倉見 ④ NO.8 一之宮 八幡大神 高座郡寒川町一之宮 ブログアップ済 ⑤ NO.13 芹沢 腰掛神社 茅ヶ崎市芹沢 ブログアップ済 ⑥ NO.14 堤 八坂神社 茅ヶ崎市堤 ブログアップ済8月20日(日)の朝、野球の朝練に顔を出したので近くにある、倉見神社、寒川神社を訪れた。8:30朝8時に集合して練習だが、今年は暑くこの時間でも猛暑になっていた。いつもはグランドの草は延びているのだが8月25日に、JX金属㈱倉見工場の花火打ち上げがあるので綺麗に整備されていた。自分は6月以降右足を痛めているので練習には参加しなかった。バックネットに絡みついて咲いていたアサガオ?。グランド近くのフェンスに、「通行する皆様へ この道路は、花火打上げに伴う安全確保の観点から、 2023年8月25日(金)17:00~20:40 の間、完全通行止めとなります。 (雨天の場合は中止とします) JX金属㈱倉見工場」と。 9:30JR相模線倉見踏切練習の途中で早めに去り倉見神社へ。相模線の車両は新型に。倉見神社相模線 8K854M 巾員 9.0M 茅ヶ崎駅から8K854M。カーナビを「倉見神社」にセット。倉見踏切から産業道路へ出て北上、途中右折して東方向へ進み十二天交差点。東海道新幹線の高架を潜り東へ。9:40カーナビの案内で進むと道路沿いに森があり道路脇に二つの鳥居が建っていた。右に「倉見神社」左に「浅間大神」の鳥居。境内に車を駐車し散策開始。倉見神社所在地:神奈川県高座郡寒川町倉見46浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで7番目の神社である。熊野社と称していたが、明治二年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、倉⾒大神となった。その後、昭和十八年(1943)に倉見神社と改称された。門前に社号標石「倉見神社」。嵩上げされた石鳥居が建つ。鳥居前には地域の方が自転車で訪れ参拝しておられた。鳥居の扁額は石製で「倉見神社」と。倉見神社御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ) 熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと) 倉見大神と称する御由緒 御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、 神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始まりと伝えられる。 以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社 に列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり現 在に至る。 往時に於ける社殿の規模などは詳らかでないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)六 月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。 現在の本殿は、明治二十七年 寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八 年移築したものである。尚この本殿は寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三 年 寒川町重要文化財に指定されている。 拝殿は、平成四年、寒川神社「平成の御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の「御大 典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年九 月に移築されたものである。鳥居を潜ると右側に「夫婦欅」が聳える。夫婦欅を見上げる。倉見神社本殿 (くらみじんじゃほんでん) 寒川町指定重要文化財第四号 昭和五十三年十ニ月一日指定寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の江戸時代の彫刻が配置されています。夫婦欅 (めおとけやき) 寒川町指定重要文化財第五号 昭和五十三年十ニ月一日指定樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅とよばれています。幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。 寒川町教育委員会浅間大神所在地:神奈川県高座郡寒川町倉見倉見神社の敷地内にあり境内の南西部に鎮座しており正面に大きな石碑。右の阿形像は風化のためか下顎が欠けていた。また子狛を連れていた。左側の吽形像は玉を持っていた。天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。「浅間大神」は、明治十六年(1883年)二月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。昭和六十年(1985年)十月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。浅間大神の玉垣も風化。近い将来浄財を集め修復か。右に夫婦欅が聳え、奥に社務所。左奥に社殿が建つ境内。右側の狛犬。左側の狛犬。どちらの狛犬も口を開け歯を見せている。右側の狛犬の後方に石碑が建っていた。神徳天地漲至誠自神通 記皇紀〇〇四九年 御代は平成〇復元 この○○○を移築し 記念事業と〇す 奇しくも本殿○○○○百年を○○○○なり茲に氏子○○○○○○○○碑を建立し後世に伝える処也 平成六申戌年十月二日 倉見神社建設委員会 相模國一之宮寒川神社宮司瀧本王〇謹書倉見神社拝殿改築奉賛者名 高額奉賛金者名から刻まれていた。倉見神社の鳥居を振り返る。夫婦欅の根が伸びる。手水舎。右側の社務所から回廊で拝殿が結ばれている。社務所からの回廊を経て拝殿へ。社務所社務所には「第9回 さむかわ神輿まつり」のポスター。令和5年7月17日(月) 海の日 午前9時30分より寒川駅前公園10時頃より 式典10時30分頃より 神輿パレード (寒川町商工会前まで)茅ヶ崎市南湖の浜から戻ってきた町内3基の神輿が寒川駅前公園に集結します。寒川神社の神事を含め式典を実施した後、御旅所としている町商工会までの間、お神輿に祭りばやしも加わり賑やかなパレードを行いますと。社務所には新しい注連縄。手水舎、正面は客殿であろうか。新しい建物は客殿であろうか。神輿殿、拝殿。拝 殿拝殿は平成四年(1992)の寒川神社の「平成の御造営」にあたり譲与されたもので、平成六年(1994)九月に寒川神社から移築されたものである。倉見神社へ譲与される前の寒川神社拝殿 (昭和46年に撮影)。拝殿前には神木。どこか懐かしい・・・。古いアルバムを出し懐かしい写真を見つけた。自分の結婚式を寒川神社の拝殿で昭和46年(1971)10月10日に行った。あれから半世紀以上を経て懐かしい寒川神社の拝殿と対面したのだ。この灯籠も寒川神社から移築されたものであろう。拝殿の扁額「倉見大神」。拝殿の扉に映える境内。拝殿の左側に神輿殿。神輿殿の扁額「神輿殿」。今年7月17日の浜降祭に参加した時の「倉見 倉見神社」の神輿。ズームアップ。9:50拝殿前から境内を見る。 ー 続く ー
2023.08.24
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安楽寺の駐車場に駐車させていただき近くの史蹟を散策することに。旧中原街道は右上から斜め左下に (破線)。今まで寒川駅前は何度も通っているが今回はじめて散策することに。左上の破線が旧中原街道になる。8月20日(日) 11:00安楽寺の次に訪ねたのが安楽寺の西側にある「大塚古墳公園」。安楽寺から数百メートルの所にある公園である。大塚古墳公園所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田51-1大塚古墳公園 (大神塚周辺古墳群E号噴について)「大塚古墳公園」の名称につきまして、この周辺の小字の「大塚」と、古墳が発掘されたことに由来しています。平成17年から平成23年にかけて、寒川駅北ロ地区土地区画整理事業に伴い、発掘調査が実施されました。この公園はその、岡田西河内遺跡の北東部分に位置しています。その中でも、この公園では、明治期に調査がされ記録しか残っていなかった、古墳時代後期(7世紀ごろ)の古墳(大神塚周辺古墳群E号墳)の石室及び周溝が再発見され、フェンスで囲まれている部分に、調査された古墳の石室が保存され、貴重な文化財を後世に残しています。この他、岡田西河内遺跡では、弥生時代中期の大集落や、近世の溝や道状遺構など多くの遺跡が発見されました。 寒川町教育委員会大神塚の周辺には、5基の古墳があったと記録されています。そのうち、D、E号墳は発掘され、D号墳はレプリカが作成され、文化財学習センターで展示され、E号墳は公園内に保存されています。公園内には、E号墳、石室の位置が示されていた。「古墳は6世紀末から7世紀のものと推定。同時期の古墳がこの周辺には5基あったと考えられる。古墳の石室の形態が、切り石積横穴式石室は神奈川県内では川崎、横浜市を中心とする多摩川・鶴見川流域でよく見られ、相模川流域ではあまり見られない。保存されている古墳の石室です。石室は遺体が安置されていた場です。切り出した石を組み石室の壁としました。本来は壁は高く、天井石や土盛りもありましたが既に無くなっており、石室と古墳のまわりをめぐらせた溝(周溝)のみ発見されました。次に訪れたのが大塚古墳公園からスマホの案内で「如是庵墓と韓人墓」。道路下の墓地の片隅に見つけたが、下に下りる道がなかったので車で移動することに。墓は新興住宅地の擁壁の下に並べられていた。如是庵墓と韓人墓の上の道路から、先程訪れた大神塚を見上げる。大神塚はブロックで擁壁され、北側はシートで覆われ住宅予定地になっているようだ。車で移動するため安楽寺駐車場へ戻る。七沢石について「皇国地誌稿本」(明治初年) 又、「愛甲郡制誌」(大正十四年刊) には、信州高遠の石工に依って開発採掘、明治二十七年・八年の日清戦争後、戦死者の墓石、石垣次に搗臼が大量に生産され、「専売うす」と称して遠く東北・北海道にまで販売が進出、石工の数も最高で百人を越え、七沢石の採掘地である。鐘ヶ嶽には石工の打つ金槌の響四方の山々にこだまして誠に壮観を呈していた様である。尚、鐘ヶ嶽山頂から湘南・房総・東京副都心・遥か、筑波山までも望める。安楽寺の駐車場から住宅街を進み北側へ移動。墓地の横に駐車、南西方向を見る。ズームアップすると道路脇の柵の中に地蔵。道祖神・地蔵尊所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山975-2柵内には「双体道祖神・地蔵尊」が並んでいた。東方向の三叉路を望む。右斜め方向が「中原街道」。11:15東方向の三叉路。右方向が中原街道で前方に説明板を見つける。右方向に道路標識があり「7-9、13-15 は歩行者・自転車」とあり違反ではなかった。まず、目的地の「如是庵墓と韓人墓」へ行くことに。墓地から南方向に大神塚、ガードレールは先程歩いた道である。如是庵墓と韓人墓所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山墓石群は平成17年から平成23年にかけての、寒川駅北ロ地区土地区画整理事業に伴い移設されたのであろう。墓地の西側の新しい擁壁下に移設された墓石群。如是庵墓と韓人墓経 緯 この墓所は、昭和十七年に相模海軍工廠(現日東化工付近)を開設する為に、同地にあった 「妙光寺と南泉寺の墓地」から、移送埋設された墓石群を改葬したものです。 ここには、如是庵墓「歴代僧墓、無縁地蔵墓、四地蔵尊」と韓人墓「權仁出氏墓・黄仁必 氏墓(共に、寒川村・朝鮮人会一同の建立)」が合祀されました。如是庵 如是庵は、「伊勢原市在山・天台宗・浄発願寺」の末寺として近世初頭に創建、無住の時期 を経て、十八世紀中頃、僧・括空禅阿によって、再興されました。 江戸中期に「高座郡南部二十四地蔵尊・九番札所」となって堂宇に巡礼者を迎えるも、次第 に寂れて、幕末期頃に廃寺となりました。現在は、墓石だけが遺されています。韓人墓 この權氏と黄氏の二名は、大正六年開設「相模鉄道」の砂利採掘員として渡来し、寒川村 で逝去されました。昭和三年に、朝鮮人会の方達により追弔建基されます。 昭和五十年代に、「寒川町郷土研究会」の有志数名が、何度も韓国を訪れて親族の方を探す も、不明の儘でした。 平成二年に来寒したソウル新聞の記者が『徴用韓人墓、守りながら子孫探し十三年』とい う記事の中で、地域貢献をした韓人に対する寒川町民の尊敬の念を讃えています。 帰依仏 帰依法 帰依僧 令和二年・秋彼岸 南泉寺・妙光寺 合掌説明板が新しいので配置図が欲しかった。中央後列に、四地蔵尊であろうか。墓石群の左側に四角墓石の韓人墓、右に「權仁出氏墓」左に「黄仁必氏墓」と読めた。右側には、「如是庵墓の歴代僧墓、無縁地蔵墓」であろうか。墓地から旧中原街道に戻る。中原街道江戸虎ノ門(東京都南区)を起点に中原(平塚市)に至る脇街道で、寒川町内では大蔵(おおぞう)・小谷(こやと)・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました。古代・中世にもこのルートを通る道があったとされますが、江戸時代初期に徳川家康が鷹狩りの拠点である中原御殿や、駿府(静岡市)への往復に頻繁に通行するようになり、中原街道として整備されました。江戸時代中期以降は物資輸送にも広く利用され、中でも中原近在で生産した「成瀬酢(なるせず)」を江戸へ運ぶのに使われたため「お酢街道」の別称もありました。町内では、ここ宮山の根岸地区や、小谷などに江戸時代の街道の名残をみることができます。 平成三十年三月 寒川町教育委員会説明板の後方から中原街道の西方向を見る。墓地の隅に石碑が建っていた。石碑には、 整備竣工記念 悠久の敬迎を祈念し 塔婆立花立 全面舗装を施工し後世を期す 平成元年七月一日 整備委員の名、南泉寺・妙光寺住職」が刻まれていた。説明板の前から大神塚を見上げるが家が建つと景観も変わる。11:30JR相模線寒川駅北口岡田、宮山地区の寺社史跡を訪ね、昼も近くなり家路につく。寒川駅前公園所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田1086-1寒川駅と道路を挟み北側にある新しい公園で、トイレ、多目的トイレが設置されている。公園では様々なイベントが行われている。公園内から寒川駅を望む。ステンレスのパイプに釣り鐘。観光地では「幸せの鐘」であるが。鐘にはロープ or 鎖がついていなかった。公園の北側から公園を見る。町内の神輿が集結する「さむかわ神輿まつり」や、山の日に開催される「さむかわ夏祭」など、様々なイベントが行われている公園です。クリスマスが近くなると、寒川駅前公園にはイルミネーションが点灯し、寒い冬を温かい光が飾りますと。中原街道の岡田交差点前の花壇ではボランティア活動であろうか、暑い中整備作業。寒川町内の道路の花壇は町民が定期的に花を植え綺麗に飾っている。 ー 続く ー
2023.08.23
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この日は野球の朝練があったのでいつもの寒川町倉見のグランドへ、愛車のノートで出かけた。朝練に顔を出した後「浜降祭に参加した寒川町の神社」「寒川町の寺社史蹟巡り」を行った。8月20日(日) 8:30塔の塚から次の目的地は西方向にある「安楽寺」。寒川の尾根(丘陵地)を車で下る。坂を下り中原街道へ。中原街道と合流。右の森の中は日産工機でかつてはここでも野球の試合を行った。交差点を渡り振り返る。中原街道の交差点から西へ上ると道路脇に「道祖神・庚申塔」が立っていた。左の階段を上ると一段高いところに「大塚児童遊園地」がある。上って来た道を振り返り、中原街道の交差点を見る。道祖神、庚申塔の間には風化破損した庚申塔であろうか。一段高いところにある「大塚児童遊園地」。道祖神の前を左折して安楽寺へ向かう。路地を南方向に進むと右側に目的地である「安楽寺」を確認。野球の朝練に顔を出してから再度訪れることに。10:40高野山真言宗 安楽寺所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目6-1朝練後再度訪れ、安楽寺へ入ると右側に参拝者用の駐車場があったので駐車。門前に寺号標石「高野山真言宗 安楽寺」。安楽寺は今回初めて参拝したが寒川町内では最古の寺院であると。参道左手に石仏群。六地蔵があるのだが。この池は湧水によるものであると。池の中央には石祠もあった。境内にはサクラの古木が数本聳える。安楽寺本尊 大日如来像 寒川町指定重要文化財第十二号 昭和六十一年六月二十日指定大日如来は、古くは寒川神社の別当であったと伝えられる安楽寺の本尊です。穏和な全体感、浅めでおとなしい彫技などの特徴から、平安時代の作と考えられています。寒川町内最古の仏像です。 像高一〇一・五センチメートル 木造寄木造 寒川町教育委員会社の下に「弘法大師坐像」が三体。これは「相模国準四国八十八箇所」の弘法大師坐像であり、中央は第6番である安楽寺、右は廃寺となった末寺の観護寺(第71番)、左は同じ末寺であった宝塔院(第75番)の「弘法大師坐像」がそれぞれ安置されている。本 堂元中本寺。相模国準四国八十八箇所第6番。古くは寒川神社の別当寺であった。現在は高野山高室院の末寺。国分寺の創建より古い718年(養老2年)開基と伝わる古刹であり、相模國一之宮である寒川神社の別当寺として創建された。寒川町内では最古の寺院で、御本尊である木造の大日如来坐像 (平安時代作) は寒川町の重要文化財に指定されている。江戸時代には中本寺格の寺院として発展し、現在の寒川町、海老名市、藤沢市にまたがる18ヶ寺の末寺を持ち、「一之宮門中」、「大塚門中」と称された。1633年(寛永10年)の『関東真言宗古義本末牒』には「法談所」と記されており、この地域における真言宗僧侶の養成機関としての役割を担っていたと考えられる。また、1821年(文政4年)には「相模国準四国八十八箇所」の霊場として弘法大師坐像が安置されたと (ウィキペディアより)。本堂の扁額「安楽寺」。本堂前から参道のサクラを振り返る。左側は寺務所。寺務所の前にサクラの古木。寺務所の前に、 「安楽寺の御詠歌 後の世と おぼつかなくも たのみしか この世うさぞ 安くたのしき 奉納 金子長志」寺務所の入口に、このお寺は ◎ 宗旨は高野山真言宗です ◎ 御本尊は大日如来 ◎ 御本尊の御真言はオンアビラウンケン バザラ ダドバン ◎ 総本山は高野山金剛峯寺です真言宗の ◎ 根本の御本尊は大日如来であリます ◎ 大日如来の御真言はオンアビラウンケン バザラ ダドバン ◎ 宗祖弘法大師(御名は空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺に御誕生 承和ニ年(八三五)三月ニ十一日 高野山に御入定 ◎ 宗祖大師御宝号は 南無大師遍照金剛 ◎ 立教開宗は大同ニ年(八〇七) ◎ 根本の経典は大日経 金剛頂経であり 宗祖大師の御著作とともに教義の基本とします教義と信仰 いきとしいけるものは字宙の根源的な大生命である大日如来の顕現であり すべての仏・菩 薩・明王・天神などは 大日如来の御徳の一面をあらわしておられます この大日如来を中心とした胎蔵・金剛界の両部曼荼羅は 整然とした宇宙の秩序と 永遠 なる宇宙の生命をあらわし 現実世界のそのまゝが理想世界となることを示しております (蜜源国土) わたくしたちは 大日如来に帰一するために 手に印を結び(身密)口に真言を唱え(口蜜)心 を本尊と同じ境地におく(意密)三密行を実践することによって この身に本来仏性がそなわ っていることを自覚し その体現につとめます(即身成仏) 宗祖弘法大師は みずから大日如来すなわち遍照金剛となられて 社会の安泰と人びとの福 祉のために尽力され 未来永劫にわたって衆生を救済しようという御請願のもと 高野山奥 の院に御入定なされておられます 大師御入定の聖地である高野山祖廟を信仰の中心に置き 大師のみ救いを信じ 大師のみ教 えを現実社会の中に生かすことがわたくしたちのつとめであります境内に枝垂桜が植えられていた。サクラの開花時期に再度訪れたいものです。水掛観音像本堂の裏に「大(応)神塚古墳」がGoogleマップに載っていたので訪れることに。安楽寺の左側の階段を上ると墓地があり「護国霊塔」が建っていた。護国霊塔寒川町の戦没211柱を祀った慰霊塔で、昭和26年11月18日に遺族後援会によって建立された。護国霊塔の左側には石碑があり、寒川町の戦没者211柱の名が刻まれていた。護国霊塔の左に「詩碑」、横書きで刻まれていた。戦後五十余年が経過し 戦争を知らない世代が大半を占める今日平和とはごく当たり前のことであり 戦争とは歴史上の出来事でしかない遠い存在になっておりますこの戦争によって多くの犠牲者を出し 悲しみに耐えながらも残された家族が一丸となって生活を支え今日に至る方が多数おいでになること そして復興再建の労苦によって現在の平和日本が存在することも忘れかけているのが事実でありますさて 護国霊塔は昭和二十六年に寒川町遺族後援会によって 国の為に心魂を捧げられた寒川町に在住した英霊をお祀りし戦争の悲惨さを後世に伝え同じ過ちを二度と繰り返さない教訓を培うことを目的に建立されましたが 歳月と風雨によって傷みも著しく老朽化が目立ってきておりましたそこで寒川町遺族會におきましては 護国霊塔建立五十年を記念し 諸先輩方の思いをさらに後世に伝えるため 平成十三年度に修繕をいたしました 平成十三年九月 寒川町遺族会右側の石碑にはその「護国霊塔修繕寄付者名簿」も刻まれていた。名前だけが刻まれ、平成十三年九月。大(応)神塚古墳護国霊塔の右側、安楽寺の本堂裏にある古墳である。石碑、説明板が立っていた。説明板の中央に「古墳厳探記念碑」と刻まれた石碑。大(応)神塚周辺小型古墳発掘記念碑この記念碑は1908年(明治41年)に大(応)神塚周辺の小型古墳の発掘調査を記念して建てられたものです。この調査は、大(応)神塚の発掘調査と同時に行なわれたもので、東京帝国大学教授坪井正五郎氏が調査を担当しました。小型古墳は5基の円墳があったと考えられており、そのうち3基が調査されました。1基からは理葬施設である石室が検出され、内部より数体分の人骨と副葬品として耳環、勾主、管玉、切子玉等の装身具と直刀、鏃(やじり)等の鉄製品が出土しました。この記念碑はその古墳の付近にありましたが、区画整理にともない、平成19年2月にこの場所に移設されました。 平成19年2月 寒川町大神塚 (おおじんづか)全長約五十メートル、後円部径約三十メートル、同高さ約五メートルの帆立貝形を呈する大きな前方後円墳である。明治四十一年四月、寒川神社宮司蒐田茂丸氏の提唱で坪井正五郎博士により発掘調査が行われた。出土した和鏡二面、漢鏡一面、直刀三振や、陪塚から出土した金銀環、勾玉、管玉等は寒川神社に展示されている。古墳の築造は五世紀と推定される。 寒川町教育委員会大神塚を東側から見上げる。大神塚にはサクラの木が植えられていた。大神塚の頂きに上ると正面に石碑。石碑には「發掘記念碑」。發掘記念碑往尓神社由緒調査事業乎企留尓方利斯乃塚上傅説寒川大神廟屈乃碑銘在尓基伎明治四十一年四月發掘乎遂氣調査上最母有益奈留副葬品遠得多利詳細波神社志尓悉世利嘻能久是難事業乎完了令為波全久寺院止村民止乃贊翼乃令被然䖏爰尓安樂寺檀徒惣代事蹟乃堙滅乎憂比此碑乎建留尓迨比有志亦克久其業乎資久允尓有有終之美止云布可伎哉 明治四十四季三月一日 寒川神社宮司蒐田茂丸撰并書裏面には、「明治四十四年三月一日建之 安楽寺 寒川村 富田嘉石刻」と。10:55大神塚は高さ約五メートルの帆立貝形を呈する大きな前方後円墳である。サクラの木が植えられており開花時には地域の方が訪れるのであろう。 ー 続く ー
2023.08.22
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浜降祭参加の寒川地区の神社を巡った時の「寒川町の寺社史蹟巡り」です。8月16日(水) 10:40湘南公園墓地茅ヶ崎霊園所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾542茅ヶ崎市の北部にある霊園で近くに「下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡」がある。関連ブログは「茅ヶ崎の寺社史蹟」👈 をクリック願います。野菜、めだか直売所所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾676寒川町への途中、妻に頼まれていたので新鮮野菜を@\100で購入。小田原から来たと言う奥さんが「娘が近くにいるので」と購入しておられた。県道47号線(小出中央通り)を西へ進み茅ヶ崎市から寒川町へ。左側には「湘南公園墓地 茅ヶ崎第二霊園 正面入口」と。湘南公園墓地 茅ヶ崎第二霊園の事務所。西の方向には富士が見えるのだが。我が墓地も左奥の南側にある「湘南公園墓地茅ヶ崎霊園」に確保している。寒川青少年広場野球場所在地:神奈川県高座郡寒川町大蔵スマホの案内で県道47号線(小出中央通り)から北側に入り「越の山横穴墓群」を目指す。センター後方は「小出川の彼岸花会場」の起点になっている。近くには新興住宅地があり、丘陵地の傾斜地に説明板を見つける。越の山横穴墓群 (こしのやまおうけつぼぐん)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目21越の山横穴墓群厚い関東ローム層が浸食されてできた小出川の谷に面する斜面につくられた墓群である。昭和ニ十八年八月、赤星直忠氏による発掘調査で丘腹中程に六基発見された。 また、昭和六十年十ニ月、三基の横穴がここより南側約ニ百メートルのところに出土したことから、一キロメートルに及ぶ斜面一帯に墓が分布する可能性が強くなった。この墓は膨張アーチ型横穴とよばれ、七世紀代のものと推定される。昭和ニ十八年の調査で出土した直刀、耳環、刀子、勾玉等は町民センターに展示されている。 寒川町教育委員会昭和ニ十八年八月に赤星直忠氏による発掘調査で、丘腹中程に六基発見されたが、現在は埋め戻されているようだ。昭和六十年十ニ月にはここより南側約ニ百メートルのところにも三基の横穴が出土した。左側の住宅地と傾斜地に沿って南下すると約ニ百メートルのところにも説明板。越の山横穴墓群厚い関東ローム層が浸食されてできた小出川の谷に面する斜面につくられた墓群である。昭和ニ十八年八月、赤星直忠氏による発掘調査でここより北側ニ百メートルの丘腹中程に六基発見された。また、昭和六十年十ニ月の調査によりこの三基の横穴が出土したことから、一キロメートルに及ぶ斜面一帯に墓が分布する可能性が強くなった。この墓は膨張アーチ型横穴とよばれ、七世紀代のものと推定される。昭和ニ十八年の調査で出土した直刀、耳環、刀子、勾玉等は町民センターに展示されている。 寒川町教育委員会ここを右折して丘陵地へ上る。丘から曲がりくねった道を下る。茅ヶ崎もそうだが寒川町の道も区画整理されていない。この辺りも戦争による空襲がなかったのであろう。その一角に木が聳える。かつてはここの門前に大山灯籠が建っていたが2020年以降取り止められたと。東守神社 (とうずじんじゃ) (跡地)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目17-1東守神社 (跡地) 新編相模風土記稿に「東守権現社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、例祭九月九日観護寺持云々」とあります。神社明細書に御祭神は「天忍穂耳命」と記されており、明治四十二年に菅谷神社に合祀されました。その昔、郷内に疫病がはやった折、村人が祈願を執り行ったところ、たちまちに治った故事があり、以来疫病平癒の霊験あらたかなる神として信仰されてきました。近年は東守権現の御神徳を慕う人々により、毎年九月十八日にお祭りが行われています。 平成八年三月 寒川町教育委員会境内の奥に「社殿」。御祭神は「天忍穂耳命 (あめのおしほみみのみこと)」で、日本神話に登場する神。アマテラスの子で、地神五代の2代目。神武天皇の高祖父である。社殿の扁額「東守神社」。社殿前から南側の境内を見る。入口に生える曲がった松の木。この後スマホの案内で「岡田中町の大山灯籠」へ。岡田中町の大山灯籠所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目8-26スマホの案内で進むと突然道路脇に大山灯籠を見つける。大山灯籠は大山の夏山 (7月27日~8月17日) の期間中に灯籠が建てられる。寒川町ではここと田端地区の3ヵ所で、神之倉、田端宿、田端東に建つ。ここの大山灯籠は田端地区の大山灯籠と違って字が書かれている。灯は紙で囲まれ字が書かれているのはここだけだと。大山の方向に面した面には「奉納 大山阿夫利神社」と書かれている。こちらの面には「五穀豊穣 国家安全」「交通安全 町内安全」と。たまたま現在大山灯籠を管理している方が来られ「台風でどうなっているか見に来た」と。また、現在は地域の10人が交代で管理していると。紙に書かれているので雨天時にはどうするのか・・・。民家の入口にお盆用の「門前飾り」。門前飾りご先祖様の霊をお迎えするのが迎え火、お送りするのが送り火だがこのような伝統的なことはいつまで行われるのか。大山灯籠を建てる穴も日頃は蓋をされているのであろう。灯籠が納められる17日の夜訪れたがローソクの灯は灯っていなかった。岡田中町の大山灯籠から次に近くにあるGoogleマップに載っている「観護寺跡」を目指す。スマホの案内で「塔の塚」への坂を上るが「観護寺跡」は見つからず。右上のフェンスの中が「塔の塚」。坂の途中で南方向を振り返る。スマホの案内では「この辺りが観護寺跡」であったが説明板がなく判らず。 次に向かったのがこれもGoogleマップに載っている「等覚寺跡」。塔の塚への坂道を右に入ると斜面に墓石。等覚寺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目3ここも説明板がなく詳細は不明であるが、南面下には墓碑が並んでいた。ブロック塀で囲まれた2基の風化した石像。ズームアップするが風化して・・・。南面の斜面を下り、一段下の場所には広い墓地があった。斜面に取り付けられたステップ。西側は丘陵地の住宅の擁壁下には、新旧の墓石。集められた多くの墓石が並んでいたが説明板が欲しい!東側にも古い無縫塔・墓石が並んでいた。東側から西側を望む。北側の法面を見上げる。法面にはつつじが多く植えられていた。開花時も彩るのであろう。丘の上に上がり南方向の湘南公園墓地茅ヶ崎霊園を望む。小出川の手前は11月上旬に「寒川みんなの花火」会場になり、町民の募金をもとに開催される花火大会で、約20分600発が秋の夜空を彩ると。ここは絶景ポイントでは!。等覚寺跡から坂道へ戻り塔の塚へ。11:30塔の塚 (とうのつか)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目4塔の塚はフェンスに囲まれ立入禁止に、この場所は寒川町の最高地点であると。 ー 続く ー
2023.08.21
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寒川地区にある浜降祭参加の神社を訪れたが、併せて寒川町の寺社史蹟を巡った。宮山緑地から次の目的地は浜降祭に参加した「一之宮 八幡大神」。8月12日(土) 16:30さむかわ中央公園所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山275建物はさむかわ中央公園内にある「シンコースポーツ寒川アリーナ(寒川総合体育館)」。寒川総合体育館前の道路から東側の路地へ入ると坂の角に石祠。説明板はなかったが風化した庚申塔。側面には「七月七日」と読めたが他は・・・。上って来た道を振り返る、正面はシンコースポーツ寒川アリーナ(寒川総合体育館)。寒川町立寒川小学校所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山934緩い坂道をフェンス沿いに登ると寒川小学校の正門へ。門柱には「寒川小学校」。明治32年10月21日 高等寒川小学校開校。高等科と実業補習学校を併置 (一之宮、 旭は尋常小学校となる)。昭和19年8月22日 横須賀市より集団疎開の学童来町。正門前から進むと寒川小学校前交差点右後方は寒川小学校の校舎。寒川小学校前交差点から東へ進むと「道祖神・庚申塔」が立っていた。一段高いところにある「大塚児童遊園地」の前に立っている。右側は日産工機の敷地。道祖神、庚申塔の間には破損した庚申塔であろうか。階段を上ると大塚児童遊園地。大塚児童遊園地の隅に石碑。日枝・八坂神社合祀記念碑所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目20-2423-4寒川町には小さな石(またはコンクリ)の祠でできた神社や、合祀された後、記念碑だけが残った神社がある。説明板がなく詳細は不明。道路側から石碑の裏面を見るが。「明治〇十二年七月廿三日菅谷神社合〇之為 大正十三年十月建之 〇氏子中」と刻まれていた。大塚児童遊園地前から坂を下り中原街道へ。左側の茂みの中は日産工機敷地。交差点の手前にあるシャトレーゼ駐車場。交差点を右折して、中原街道を南下して目的地の一之宮八幡大神へ向かう。この交差点を直進、坂を上ると塔の塚へ至る。中原街道を南下、景観寺前交差点を右折して県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を進む。旧大山街道沿いに大きな石鳥居が建っている。背の高い石鳥居を潜り振り返る。浜降祭に参加する神社の鳥居はどこも背が低いがここの鳥居は神輿の通過もスムーズに。一之宮 八幡大神所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目21-10浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで8番目の神社である。社殿前に建つ神輿殿。今年7月17日の浜降祭に参加した一之宮 八幡大神の神輿。社殿の右側(東)にある広い境内には、屋台保存殿、神楽殿が建つ。境内に咲いていたユリこのユリは繁殖力・生命力が強くいろんなところで咲いている。神輿殿前から南方向を見る。ここからは別の日に撮影。8月16日(水) 12:20田端宿の大山灯籠田端宿の大山灯籠を見るため、萩園通りを南下して田端宿交差点へ。大山の夏山 (7月27日~8月17日) の期間に灯籠が田端地区の3ヵ所に建てられる。その場所は田端地区の神之倉、田端宿、田端東。この他寒川町では他の場所にも飾られる。田端宿交差点に立つ大山灯籠。この灯籠は個人宅の敷地内に設置されている。後日(17日)日没後に訪れたが灯はついていなかった。田端山 医王院 (いおういん)所在地:神奈川県高座郡寒川町田端529田端宿交差点の南東方向にある寺院。右側の民家で野菜を販売していたがこの日はなかった。門前に「田端山 醫王院」「本尊薬師如来」の寺号標石が建つ。田端東の大山灯籠所在地:神奈川県高座郡寒川町田端502医王院前の道路を東へ進み、Googleマップに載っていた「大山燈籠」の設置場所。集会所の敷地内に建っている。電線が繋がっていたので夜は点灯するのであろう。萩園通りの田端宿交差点方向を見る。東方向から集会所を見る。田端東の大山灯籠は入り口横に建っているが興味がない人は・・・。田端東の大山灯籠から西へ数百メートル戻り、田端宿交差点角に建つ田端宿の大山灯籠。かつては大山詣での人の為の道案内に。大山の夏山が終る8月18日には納められるのだ。神之倉の大山灯籠所在地:神奈川県高座郡寒川町田端 神之倉田端地区には神之倉、田端宿、田端東の3ヵ所に大山灯籠がある。大山灯籠は萩園通りの田端南交差点の南西方向にあるのだが今回も建っていなかった。この道を東方向へ直進すると田端南交差点の南側へ。日本ホーリネス教団 萩園キリスト教会所在地:神奈川県高座郡寒川町田端1480-8県道44号線 (伊勢原藤沢線) の田端神之倉交差点の南側にある教会。 8月16日(水) 12:35圏央道の高架下を走る県道44号線 (伊勢原藤沢線)。 ー 続く ー
2023.08.19
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寒川地区にある浜降祭参加の神社を訪れたが、併せて寒川町の寺社史蹟を巡った。菅谷神社から次の目的地はGoogleマップに載っていた近くの「十三塚(おこり塚)」にセット。8月12日(土) 15:45スマホの案内で進みこの辺りに「十三塚」が存在する。通称「中原街道」・主要地方道丸子・中山・茅ヶ崎線に沿って点在する塚で、現在は5基ほどが残っている。中でも最大の規模をほこるのが、小谷交差点南側にある「おこり塚」とよばれるもので、塚を盗掘した者が瘧(おこり)、という病にかかったという言い伝えがある。十三塚は、日本各地に分布する民間信仰による土木構造物。起源は定かではないが、13人の落武者を葬ったとか埋蔵金を埋めたとかいう伝承が多いと。一般には13基の高塚で構成されているが、必ず13というわけではないようだ。当地の十三塚も元々は15基の塚で構成されていたとの事。フェンスに囲まれた十三塚 (おこり塚) の中に説明板を発見。十三塚 (おこり塚)十三塚は、北は岩手県、南は鹿児島まで分布しており、神奈川県ではニ七か所が知られています。配列はほぼ一直線に並ぶのが基本と考えられ、村境や街道筋に沿ったものが多く、当地の十三塚もその一例といえます。おこり塚は、かつて15基存在したと伝えられる塚の中で最も大きな規模となっています。昭和62年(1987)に実施した発掘調査の結果、中世後半(室町~戦国時代ごろ)に築造されたと考えられています。 寒川町教育委員会この辺りの十三塚の配置図<凡 例> ■ 現存する塚 ● 消滅した塚① 亀の子塚 ② 小僧塚 ③ おこり塚 ④ ~ ⑮十三塚は中原街道の小谷(こやと)交差点から南側に点在している。中原街道沿いにある「十三塚(おこり塚)」。おこり塚は最大規模の塚で塚を盗掘した者が瘧(おこり)という病にかかったという言い伝えが名称の起源のということ。昭和62年に発掘調査が行われていて、中世から戦国時代頃に造られたらしいと。北側にある中原街道の小谷(こやと)交差点。この先に、「オートバックス」「日本一たい焼き」がありよく来るところであるが。十三塚(おこり塚)の南側にも塚があったが説明板がなく不明。中原街道を南下、東側にある県営住宅入口に立つ「寒川もくせいハイツ」の石柱。ここから折り返し北上。旧道?を北上すると塚の上に木。左側が中原街道で旧道に挟まれて塚が存在している。十三塚 (小僧塚)おこり塚と道路を挟んだ向かい側の駐車場の隅に隣の家の裏に隠れるようにして「小僧塚」があり、木が聳えるのがおこり塚。小僧塚は説明板がなく詳細は不明。この後、十三塚の北側にある次の目的地「弥陀堂跡」をスマホにセットし北上。16:05弥陀堂跡所在地:神奈川県高座郡寒川町大蔵スマホに従い中原街道から路地を東側に入ると道路沿いに小さな社が見えた。社の前にはお供えの花瓶等があったが・・・。石像の下には、「第六十四番 南無大師遍照金剛 四国八十八ヶ所之内、相模八十八ヶ所」の札。頭巾をかぶった石像。社の横には風化した「○○文化十四○○○○○○」の石柱。弥陀堂はこの辺りにあったようだが現在は墓地だけになっているようだ。木の下には古い墓石が並んでいた。弥陀堂跡から中原街道へ戻り「セブン イレブン 寒川小谷1丁目店」の向いに旧家の立派な門。次の目的地を「寒川調圧水槽」にセットし中原街道を南下。小谷交差点の手前にある「日本一たい焼き」。甘党の私は度々購入に訪れる。十三塚(亀の子塚)はこの辺りにあるのだが?。中原街道の小谷交差点を右折し日産工機の塀沿いを走る。道路脇に大きなタンクを見つけ振り返る。寒川調圧水槽 (さむかわ ちょうあつすいそう)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1050-9寒川調圧水槽構 造 ● 鋼板製 (直径14m、高さ16.84m)完 成 ● 昭和39年3月この調圧水槽は、寒川取水ぜきから取り入れた水を小雀浄水場まで運ぶための導水路の一部で、水を送る圧力を調整する役割があります。約12kmの距離を3時間かけて水が流れています。この調圧水槽は、横浜市や横須賀市へ水道水を送るための重要な施設です。 横浜市水道局 小雀浄水場寒川取水ぜき ~ 小雀浄水場小雀浄水場 (こすずめじょうすいじょう)所在地:神奈川県横浜市戸塚区小雀町2470小雀浄水場は、神奈川県の中央を流れる相模川を水源としています。昭和40年(1965)に、横浜市(上水道、工業用水道)と横須賀市の共同施設として竣工し、その後2回の拡張工事を経て、現在の浄水処理能力は1日当たり1,009,200m3(横浜スタジアム約3杯分)になっています。浄水処理された水は,横浜市の港南区、旭区、金沢区、港北区、戸塚区、栄区、泉区など南部方面を中心に給水しているほか、横須賀市にも給水しています。横浜市全体の約3分の1、横須賀市全体の約2分の1を受け持っています。水槽の大きさは、鋼板製で直径14m、高さ16.84m。寒川調圧水槽前を通り抜け、寒川小学校裏交差点。ここを直進すると寒川神社へ。かつては寒川小学校裏交差点角には公園があったのか?切倒されたイチョウの木の残骸。宮山遺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山寒川小学校裏交差点から寒川神社方向へ進み振り返る。右側は寒川小学校のフェンス。左側のフェンスに説明板。宮山遺跡 (みややまいせき)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山時 代 : 弥生時代後期 ~ 古墳時代前期、中世発掘調査 : 平成9年(1997年)マンションの建設工事に伴う発掘調査 : 平成14年(2002年)宅地造成にともなう発掘調査主な遺構 : 方形周濠墓 19基、住居跡 8軒、V字溝 1条主な遺物 : 弥生土器、石器、銅銭、かわらけ ※ 出土土器の一部や遺跡の写真パネルは、一之宮小学校内にある文化財学習センターで見る ことができます。方形周溝墓:弥生時代から古墳時代初期にかけて造られた墓の一つの形です。中心に遺体を 理葬する主体部を設け、その周囲に方形の溝をめぐらせて造られました。 写真のものは大型のもので、古墳時代になって築かれたものと考えられます。V 字 溝 : 断面の形がアルファベットのVの字に見えることからこの名が付けられました。 弥生時代には集落を囲う「環濠」として盛んに造られました。弥 生 土器:出土した土器は、東海地方で用いられたものとよく似た特徴が認められ、当時、 この地に住んだ人々が東海地方と深い関わりをもっていたことがうかがわれます。 平成15年3月 寒川町教育委員会宮山遺跡もマンションの建設、宅地造成で現在は狭い公園に変化。その公園も管理が行き届かず草が伸び放題に!。遊具施設も設置されているが、暑いので草刈りも大変であろうが。宮山緑地所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1303-1宮山遺跡から寒川神社方向へ50mほど坂を下るとある宮山緑地。入口に立っていた自然石に「宮山緑地」と。宮山緑地は寒川町にある周辺の自然環境と景観を守るためにつくられた都市緑地で、昭和後期につくられた公園である。根岸弁天池に架かる太鼓橋を渡ると中央に「根岸弁財天」。根岸弁財天由来根岸弁天池は、寒川町のほぼ中央にあって、その発祥の年代は定かではないが土地の古老より伝え聞くところによれば、天正年間というから今から約五百年前と推察される。当時の湧き水の豊富なこの池は、これより下流新橋地区(現在の役場庁舎附近)までの水田の用水として永年利用されていた。徳川の代に入り元和六年(1616)よりこのあたり宮山村千百七拾七石を知行していた旗本杉浦正次氏により池の整備と弁財天を造ったのが始まりと云うことで、以来明治年代杉浦大八郎氏まで杉浦氏の下に在った。明治二十二年に石造りの社が建立された。昭和六十年に寒川町より公園緑地として整備される機会に有志合寄り根岸町内住民を中心に昭和六十一年三月弁財天石像を建立して古き良き時代を忍びつつ、地域住民の連帯と協調の輪を広げるべくここに由来を記すものである。 昭和六十二年 六月吉日 根岸弁財天保存会 祭 神 弁財天 例祭日 4月初巳日 功 徳 商売繁盛・学問・技芸・音楽の発達 又、女人には愛嬌を授け美人となり 良縁を得 子宝を授かる根岸弁財天の前に朱色の鳥居。石碑には「根岸弁才天」。鉄製の鳥居には「弁財天」。太鼓橋を渡ると「奉納 根岸弁財天 根岸弁財天保存会」の幟旗。根岸辨才天建立記念碑石碑には「発起人御芳名 昭和六十一年三月吉日」が刻まれていた。正面に、弁財天と蛇の像、右側には古い石祠。弁財天は商売繁盛、学問、諸芸能の発達の神様としても有名だが、女性には愛嬌を授け、美人となり、良縁を得て子宝にも恵まれるとも言われている。また、蛇は弁財天の使いとして、富をもたらす存在として知られる根岸弁財天前から太鼓橋。根岸弁天池にはコイも泳いでいた。宮山緑地にはトイレ施設もあり憩いの場となっている。木々の間から木漏れ陽。16:30宮山緑地の南側を寒川神社への道が横切る。 ー 続く ー
2023.08.18
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浜降祭参加の寒川地区の神社を巡るため寒川町へ。8月12日(土) 15:05諏訪神社から更に県道47号線(小出中央通り)を西へ進み茅ヶ崎市から寒川町へ。左側には「湘南公園墓地 茅ヶ崎第二霊園 正面入口」の看板。小出川に架かる一ツ橋。一ツ橋上から上流を望む。川面のシラサギをズームアップ。小出川の下流側を望む。左上には「湘南公園墓地茅ヶ崎霊園」が広がる。川沿いにはサクラ並木が続く。一ツ橋の親柱には「ひとつばし」と。県道47号線(小出中央通り)から北側に入り新興住宅地へ。湘南東送水管 小出川水管橋所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田8丁目 辺り看板には、「ご協力をお願いします「護岸の整備を行っています」。 令和5年8月31日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00 一級河川小出川河川改修(護岸工)工事(その1)」。小出川もこの辺りの川幅は十数メートルあるが、左側の上流方向は数百メートルで川幅が5メートル程になり秋の彼岸花の散策路になる。水管橋を見上げる。銘板には、湘南東送水管 小出川水管橋しゅん功 昭和43年4月21日口 径 鋼管 1,500mm圣 間 全長 28.4m企 業 者 神奈川県企業庁水道局施 行 者 司建設 ㈱ 東京支店口径が1,500mmの水管橋。どこの浄水場へ送水されるのか?この後、スマホの目的地を「菅谷神社」にセット。県道47号線(小出中央通り)を西へ進み、スマホの案内で途中右折して坂を登る。坂の上にGoogleマップに載っていた「塔の塚」。緩い坂を登りきると説明板が立っていた。塔の塚 (とうのつか)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目4塔の塚はフェンスに囲まれ立入禁止に、この場所は寒川町の最高地点であると。塔の塚 (とうのつか) 寒川町指定重要文化財第十号 昭和五十五年十一月一日指定平成十三年・十九年に行われた発掘調査で、中世に造営された塚であることが明らかになりましたが、築造の目的などはわかっていません。地域では、江戸時代に観護寺(安楽寺末、明治三十七年一九〇四年廃寺)の僧が入定した塚と伝えられ、入定塚の別名があります。また、塚の頂に建っていた塔が日光に反射して、相模湾の魚が捕れなくなるので南湖(茅ヶ崎市)の魚売りが倒しに来たとの伝承もあります。 寒川町教育委員会 寒川町のマンホール。町の花水仙をデザイン。下部に「さむかわ」「おすい」の文字が入った汚水管マンホール蓋寒川町で一番高いところだけあって、かつてここからは南湖が見えたのであろう。スマホの案内で進み途中に、中原街道の東側にある県営住宅「寒川もくせいハイツ」の石柱。岡田遺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目1岡田遺跡は寒川もくせいハイツの敷地内にあり現在は「越公園」で埋め戻されているようだ。寒川もくせいハイツの敷地内にある「越公園」。日本て最大級 ! ? 縄文時杙の巨大集落 ー 岡田遣跡 ーこの岡田もくせいハイツの足下に、縄文時代に多くの人々が暮らしていた村がありました。それも、日本でも最大級の縄文時代の村と知ったら、みなさんどう思いますか?昭和57年、県営岡田団地の立て替えと共に、発掘調査がはじまり平成元年まで延べ8年にわたり行われました。その結果、縄文時代中期(今から約4000年~5000年前ごろ)の巨大な集落址が発見されました。確認された住居の数は、実に500軒を上回るものでした。しかし確認された500軒をこす住居址も、遺跡全体からすれば、1/2から1/3ほどで、全体の住居の数は、1000軒~1500軒を推定することができ、全国的にみても、縄文時代の住居址としては最大級の遺跡だと言うことができるでしょう。住居の他にも、お墓であると思われる、墓壙(ぼこう)(円形、又は楕円形に掘られた穴)や埋甕(うめがめ)(甕を土中に埋めたもの)等も発見されました。遺跡からは、土器や石器といったものもたくさん発見され、矢じりなどの狩りに使う道具や、魚を取るときに使った網のおもりと思われる、石錘(せきすい)や土錘(どすい)といったものなども多く出土しました。また、弥生時代後期(3~4世紀ごろ)の住居址や方形周溝墓なども同遺跡からは確認がされています。現在、これらの土器や石器、住居のレプリカ等は寒川町文化財学習センター(一之宮小学校内)で見ることができます。 平成12年3月 寒川町教育委員会上段:第7次調査区全景中段:調査風景下段:出土土器県営寒川もくせいハイツは、28号棟はあるようで3階建の建物。こちら側は古いようで2階建、庭先の草も生い茂る。折しも寒川町長立候補者の選挙カー、「町長を1年務めると退職金は1,500万円で私は町の税状況を考えると受領しない」と。「4年務めると×4」だと。投票日は8月27日スマホの案内で廻り込み正面に鳥居。菅谷神社所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目20-39浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで6番目の神社である。鳥居の左側には、「初宮詣・交通安全・厄除・家内安全・商売繁昌 他の祈祷 地鎮祭・上棟祭・竣工祭・住居清祓 御奉仕致します 菅谷神社」。 社号標石「菅谷神社」。鳥居を潜ると左側に手水舎。右側に、社務所。楠の下に「天の宮合祀百周年紀念碑」。社殿の前の境内中央に「縁結びの木・梛(なぎ)」が2本。境内の右側には「神楽殿」とその奥に「神輿殿」。天保神輿 (てんぽうみこし) 寒川町指定重要文化財第七号 昭和五十四年十ニ月十五日指定天保九年(一八三八)国府祭(こうのまち)の帰路、馬入で馬入の若衆と喧嘩となり川に流され、茅ヶ埼南湖(なんご)の浜で孫七にひろわれた元寒川神社の神輿を改装したものです。 平成三十年三月 寒川町教育委員会 今年7月17日の浜降祭に参加した菅谷神社の神輿。縁結びの木・梛が社殿前中央に2本。梛の葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っているが、実は針葉樹。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びている。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったと。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。紙垂でつながれた梛(なぎ)。梛(なぎ)は御神木であろうか。右側の狛犬。新型コロナも第5類になり狛犬もマスクを外す。左側の狛犬。記念碑當神社はもと神明宮(通称天宮)と称し岡田小谷大蔵の鎮守として往昔よりこの地に鎮座せらる明治四十ニ年七月二十三日各部落内の五社を合祀して社号を菅谷神社と改む 今年偶々合祀並に社号改称 五十年記念大祭を執行するに当りこれが由緒の堙滅せんことを虞れ茲に往時に於ける各社の鎮座地等を刻み以てこれを後昆に伝う鎮座地 社 号 御祭神 例祭日 岡 田 神明宮 天照大神 七月二十三日 小 谷 稲荷社 倉稲魂命 十月十一日 大 蔵 諏訪神社 建御名方神 八月二十七日 西岡田 八坂神社 素盞嗚命 七月十五日 東岡田 東守権現社 天忍穂耳命 九月九日 岡 田 日枝神社 大山咋命 九月二十九日 大 蔵 第六天神社 大蔵総鎮守大蔵山王社裏面には、「昭和三十三年七月二十三日建之 菅谷神社氏子中 宮司竹内武雄撰並書」と。内陣を見る。内陣に掲げられている扁額「菅谷神社」。拝殿前から東方向を望む。神輿殿の右奥には「石碑・石像群」。庚申塔は5基?あったが、風化、損傷が大きいものが多く残念な状態に。一体だけ衣装を着ていた。菅谷神社境内から「越公園」を見る。岡田遺跡の発掘跡は埋め戻され公園になっている。木立の中に本殿が建つ。15:40社殿横から南方向の鳥居を望む。 ー 続く ー
2023.08.17
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梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ戻り、松戸橋跡交差点を左折し北上、花川用水を追うことに。現在地は、左下の「南部公民館」の北側(赤矢印)。4月3日(月) 15:50南台畑交差点を北西方向へ進むと県道44号線へ至る。南台畑交差点近くにある「花川用水路第15号橋」を振り返る。南台畑交差点近くから北方向を望む。進むと相模線の寒川駅へ至る。この時期(4月3日)の花川用水にはゴミが多く落ちているが。田植えが始まる頃には清掃されるのであろう!。花川用水路第13号橋所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目13第15号橋から北へ進み、この先から民家の裏を廻り右方向に大きく蛇行する花川用水。スクリーンが設置されていた。南方向を振り返る。この辺りの川にもゴミが多く散乱していた。スクリーン上の用具箱に寒川町・花川用水組合と、中には何が入っているのか。粗目のスクリーンには多くのゴミ。民家の裏を廻り右方向に大きく蛇行する花川用水。県道47号線(藤沢平塚線)の交差点。向かい側には居酒屋の「具志堅の家」があったが、元ボクサーの具志堅用高とは関係ないと。寒川駅へは交差点を渡りこの間を進む。JR相模線の大山踏切。踏切手前左側数十メートルに目的地の花川用水路10号橋がある。右へ進むと寒川駅。花川用水路10号橋所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮2丁目1-6コンクリ製水門は金網で囲まれていた。フェンスの金網に、「お 願 い この場所は、一般のゴミ置場ではありません。ゴミを捨てないで下さい。 寒川町・花川用水組合」とあったが、ゴミが置かれていた。フェンスの金網を廻り込み、水路には、昭和の雰囲気が漂うコンクリ製水門で、ゲートは珍しい木製であった。水路の上はコンクリ製蓋で覆われていた。北側はJR相模線。花川用水路10号橋から南側は、住宅街の間を流れている。南側へ流れ、寒川町の一之宮、田端、茅ヶ崎市内の萩園の水田を潤す。大山踏切を北側に廻り込み、相模線越しに花川用水路10号橋を望む。寒川駅方向。県道47号線(藤沢平塚線)へ戻り、南東方向へ進む。渡辺製パン所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目9-9工場直売の安くて美味しいパン屋さんであると。揚げパンの旗が気になり立ち寄る。入口に「平日のみ営業 11時開店 売り切れ次第閉店 土 日 祝日 休み」。小さな町工場の入り口で、ショーウィンドウに惣菜パンからデザートパンまでいろいろな種類のパンを売ってた。どれもリーズナブルな価格であった。気になった揚げパンの値段は、140円だったので3個購入。水曜日は120円になると!渡辺製パン工場。学校給食専門の製パン工場だが、店先で揚げパンなどを売っているとのこと。いろんなパンがあるので再度水曜日に訪れたいものだ!相模稲荷神社所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田渡辺製パンから県道45号線(中原街道)の用田踏切を渡り左折して寒川駅近くにある神社へ。相模線寒川駅の南東50m程の所にあり背後に相模線。駅北口の再開発で整備されたようだ。正一位相模稲荷大明神 ・商売繁盛 ・交通安全 ・家内安全 ・安産祈願 ・五穀豊穣社殿の前にキツネ稲荷神社では狛犬の代わりにキツネの像が安置されている。それらのキツネは境内を守っているのではなく、ご祭神である稲荷神のお使い(神使)なので境内に控えていると。社殿の前に進み。内陣を覗き見る。提灯には「相模稲荷大明神」と。社殿前から約一間幅の参道を見る。16:12相模稲荷神社から帰路につき、小出川に架かる寺尾橋から上流側を望む。ズームアップすると上流側に県道47号線(小出中央通り)に架かる一ツ橋。寺尾橋から下流側にはJR相模線。河川敷には菜の花が咲き乱れていた。寺尾橋から砂利道を上流側へ進み、対岸に湘南公園墓地のサクラ並木。寺尾橋から砂利道を北上し、菜の花とサクラのコラボ。サクラ並木の東側には湘南公園墓地が広がっている。県道47号線(小出中央通り)の寒川町と茅ヶ崎市の境に架かる一ツ橋。一ツ橋から上って来た小出川の下流側を見る。左側の丘に「湘南公園墓地」。湘南公園墓地下に寺尾橋までの遊歩道がある。湘南公園墓地から香川駅前通りを香川駅方向へ進み。右に入ると、熊澤酒造㈱本社がある。地ビールの湘南ビール、レストランがある。香川駅前通り沿いにある「直売 伊右衛門」。ダイコン、春キャベツを購入して帰る。16:50千ノ川に戻る。ここのサクラも散り始めていた。空にはお月さんが。満月前のお月さん。サクラにピントを合わせると葉ザクラに。今年は多いにサクラを楽しんだ。 END
2023.05.29
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水道道から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)へ戻り西へ向かう。4月3日(月) 15:10重要文化財(建物)?に申請中の敷地にクスノキが聳える。更に西へ進むと、「日蓮宗 妙光寺」。妙光寺は最近訪れているので今回はスルー。松戸橋跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮旧大山街道の交差点角にあり、かつては橋があり川が流れていたが今は川は埋められている。八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の三町の屋台が各町内から出発し、太鼓、笛、鉦(かね)等による囃子にのってここ松戸橋に集結して、三基揃って巡幸しながら宮入りする。南部文化福祉会館所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5-20南部文化福祉会館は、公民館と老人福祉センターとの複合施設で、教育文化活動の学習の場として、また高齢者の健康増進、生きがいの創造の場として広く町民の教育文化の向上、増進に資することを目的として設置された二つの機能をもつ施設である。南部文化福祉会館の南側に立っていた「高座郡寒川町南部土地改良区」の石碑。高座郡寒川町南部土地改良区本地区は明治初年士族伊藤勇氏により土地の丈量地番等級その他道水路等が設定されて以来百年有半 幾多の変遷を経て今日に至ったが 東は県道海老名寒川茅ヶ崎線に西は相模川に接し 南は茅ヶ崎市に境し 北は国鉄相模線より県企業庁水道局浄水場に至るまでの面積約二百五十ヘクタールの広域に及び 水田地帯は中央部より東南部延び 島畑は各所に点在し畑地帯は相模川の控堤に沿うて位置し 道路は狭隘 区画もまた極小複雑 その管理には甚しい不便を託つていたが時代の推移は更にその感を深めつつあった 昭和二十九年高座鎌倉地方事務所の土地改良事業の勧奨は一之宮部落の有志をいたく動かすものがあり これに田端中瀬大曲ひいては岡田小谷大蔵の一部の人々までが相呼応し翕然としてこれに参画したのであった。昭和三十年土地改良区設立の申請 翌年三月認可・・・後略 昭和四十八年六月吉日花川用水 (はなかわようすい)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目4-30南部文化福祉会館の南側にある説明板。説明板は読みずらかったがネットから。花川用水は、基幹用水路として、江戸時代から利用されています。当時は、宮山村地内に設けられた大柳堰(現在のクリーンセンター付近と考えられている)から目久尻川の水を取り、宮山村以下、小谷村、大蔵村、岡田村、中瀬村、大曲村、一之宮村、田端村と茅ヶ崎市内の萩園村の九ケ村に供給していました。そのため九ケ村用水とも呼ばれていました。用水を利用するにあたって、施設の管理・運営、利害を調整した用水組合があり、江戸時代では用水を分流する堰をめぐって用水組合内部で争いが多く起こっています。当時、用水の確保がいかに重要だったかがうかがえます。その後、昭和15年(1940)に相模川左岸用水路の一部として再編されましたが、現在も基幹用水路として利用されており、町内の多くの水田に用水を供給しています。 平成16年(2004)3月 寒川町教育委員会説明板の裏側に三猿が陽刻された板碑型「庚申塔」があった。横には小さな文字道祖神があった。三猿をズーム、左に文字道祖神。入沢家弁財天堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5。花川用水からスマホの案内で「入沢家弁財天堂」へ進むが入り口がなく廻りは新興住宅地に。どうにか入口へたどり着くが門扉が閉まっていた。入沢家弁財天堂は、入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立された。中へ入れなかったので写真はネットから。弁財天堂 寒川町指定重要文化財第十五号 昭和六十三(1988)年八月二十六日指定この建物は、財宝をもたらす幸福の神といわれる弁財天を祀るためのお堂である。総欅造で随所に彫刻を飾り化粧面漆塗とするなど近世の装飾性豊かな建築の特徴をよく示していると共に、この地域に於ける建築水準を理解する上での基準的な建物として貴重である。堂内に保存されていた棟札から天明二(1782)年の建立と推定される。 寒川町教育委員会新興住宅に囲まれた「入沢家弁財天堂」から戻り、南部文化福祉会館手前を左折して路地を進むと朱の鳥居が姿を現した。両替子育地蔵尊堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7-7右側の稲荷神社を背にして両替子育地蔵尊堂が建っていたが、案内板等が設置されていないので由緒等は不明である。立派な社の右側に新しい「両替子育地蔵尊」。社の中には「子育地蔵」が納められていた。道路を挟んで向かい側には別の社が建っていた。Googleマップでは「祠」と。こちらも案内板等が設置されていないので由緒等は不明である。社の左側に「妙法大神」と刻まれた石碑があった。廻りに住宅地がありその一角に三つの社。後世への伝承のためには説明板が欲しいものです。県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)に戻り、南側に立っている石碑「濱降祭駐輿記」。濱降祭駐輿記相模國一宮國幣中社寒川神社濱降祭有里古例爾依里七月十五日神輿茅ヶ崎南湖濱爾渡御在良世良留此乃日近郷近在十数社乃神輿供奉志縣下唯一乃盛儀奈里還幸乃途次一ノ宮當所爾御休憩御發輿爾當里清淨乃地爾栽培世志麥〇爾火乎〇自神輿爾投牙掛久留故事有里當地乃舊家川崎家爾氏代々奉仕世里茲爾其乃所以乎刻志永久後世爾傳閉牟登須留爾當里需爾依里記須事斯久乃如志 昭和8年6月 國幣中社寒川神社宮司正七位橋本甚一撰書濱降祭駐輿記碑横に駐輪して、梶原氏一族郎党(七士)の墓へ。以前来た時より住宅地がより近くなっていた。2年前の状況は「寒川町の寺社」👈 をクリック願います。梶原氏一族郎党(七士)の墓所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7-1伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓廻りが住宅に開発されているので台座の上に集められた石塔群が並ぶ。伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏に復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓ここへは濱降祭駐輿記碑横から廻り込む。広場には枝垂れ桜が植えられている。西町集會所(薬師堂)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31車の場合はここへ駐車可能。先程訪れた「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」は左方向にある。集会所の入り口横に地蔵。入口上には「西町集會所 薬師堂」。この辺りの案内図。梶原景時館跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6ここには駐車場がないので、先程の西町集會所 (薬師堂) へ駐車して100メートル程歩く。現在は狭いスペースになっているが入口に「梶原景時館址」の石柱。梶原景時館跡梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会石碑には「天満宮遺蹟碑」。一之宮天満宮天満宮の社は、梶原氏の風雅をたたえ里人によって創建されたと伝えられている。現在の梶原景時館跡は、子供たちの遊び場になっているようで遊具もある。広場の隅に社が立っていた。広場に聳えるイチョウの木。お地蔵さん所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-24Googleマップに載っている、梶原景時館跡の近くにあるお地蔵さんであるが由来等は不明である。15:45梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ戻り進む。右側に「西町集會所 (薬師堂)」。 ー 続く ー
2023.05.28
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景観寺から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を西へ向かう。4月3日(月) 14:45旧大山街道沿いに大きな石鳥居が建っている。石鳥居の扁額には「八幡大神」。鳥居の下に「一之宮八幡大神」の丸い社号標石。一の鳥居横に建つ石碑「いちのみや 大山道」。裏面には、東海道の四ツ谷(藤沢市)を起点に大山へ至る街道、田村の渡しで相模川を渡ることから田村通り大山道と呼ばれ、江戸から鎌倉・江ノ島を経由して大山詣りをする際によく使われた。特にここ一ノ宮は中原道とも交わる交通の要衝で、旅館 茶屋をはじめさまざまな商店が軒を連ね賑わいをみせた。 令和元年五月吉日建立 和田 邦夫 鳥居前から大山道を振り返り、中瀬大神の鳥居を望む。参道の奥に八幡大神の社殿。参道脇の掲示板には「平成四年 八幡大神境内整備(大鳥居建立・玉垣建設) 特別協賛者ご芳名金額と多くの協賛者の名が書きだされていた。一、金 五百万円也 一之宮生産組合 一、金 参拾万円也 十数名一、金 弐百万円也 寒川神社 一、金 弐拾万円也 十数名一、金 壱百万円也 若林孝治 一、金 拾五万円也 二名一、金 七拾万円也 小泉彦一 一、金 拾万円也 多数一、金 五拾万円也 五名 一、金 壱仟円也 多くの人が協賛八幡大神(はちまんおおかみ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目21-10長い参道を進むと正面に二の鳥居、手水舎、社殿、左側には神輿殿。 神輿殿の扁額「神輿殿」。社殿の前に二の鳥居。宗教法人 八幡大神一、鎮座地 高座郡寒川町一之宮一丁目二十一番地十号一、御祭神 誉田別尊、大日貴神、倉稲魂命、大山咋命、 奥津比古命、奥津比女命、大雀命、菅原天神一、由 緒 元禄十年(1697)八月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃三夜牟 良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されていたと 推定される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺持よ り村持となり、社格制度制定により同六年、村社に列せられ、更に村内の数社を合せ 祀り一之宮の氏神様としての姿を整える。 大正十二年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同十五年本殿他を再建す。昭和 二十年の終戦により宗教法人となる。 同五十九年、境内整備事業により社殿の改修、神楽殿、社務所の新築を奉行する。 平成二十一年一月二十一日、明治の御代に合祀されてより正に百年目に当たる吉き日 に八幡大神に縁深き氏子等参列のもと、合祀百周年記念奉告祭が斎行された。 八月一日例祭。宵宮に氏子三町より奉納される屋台巡行は明治より連綿と受け継がれ 殷賑を極める。一、祭 事 歳旦祭 一月一日、 節分祭 二月節分、 虫送祭 六月夏至に近い日曜日、 浜降祭 七月第三月曜日(海の日) 例 祭 八月一日、 七五三祝祭 十一月上旬、 煤払祭 十二月二十八日、 月次祭 毎月一日 平成二十一年一月二十一日社殿の右側(東)にある広い境内には、屋台保存殿、神楽殿が建つ。右側に新しい手洗い場の水鉢には「心洗」。左側の古い水鉢には「○○○」と。玉垣手前の石碑に「記念 社務所神楽殿新築落成及社殿屋根葺替竣工竝神輿殿奉製」。右側の狛犬(阿形像)。左側の狛犬(吽形像)。左側の狛犬の座には「奉献 昭和三十一年一月」と。社殿を左前方から。拝殿の扁額「八幡大神」。拝殿の前に置かれていた賽銭箱。二の鳥居をくぐると社殿左側手前に同一台座上に2つの石碑。左側に、大正4年の「玉垣建造碑」。右側に「大震災紀念碑」、「大正十二年九月一日午前十一時五十八分 大震災紀念碑」。裏面には、殃死者18名の氏名と年齢が刻まれている。後方の朱色の鳥居は個人宅の稲荷社。左に「御大典奉祝記念」碑。右側に「故陸軍歩兵一等卆鈴木庄蔵君之碑」。紙垂で飾られた「御大典奉祝記念」碑。碑には「大鳥居並玉垣建造の碑」と刻まれ由来が、 平成四年十一月吉日社殿左奥にある境内社の「稲荷大明神」。境内社手前のクスノキ?が紙垂で飾られていた。稲荷大明神の社殿。境内の左奥に集められた石碑群。常夜燈、竪空地神塔、二十三夜供羪塔、石祠、石碑、双体道祖神が並べられていた。常夜燈、竪空地神塔、二十三夜供羪塔、石祠。一之宮八幡大神 屋台神賑行事(やたいしんしんぎょうじ) 寒川町指定重要文化財第三号 昭和五十一年七月一日指定八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の三町の屋台が各町内から出発し、太鼓、笛、鉦(かね)等による囃子にのって松戸橋に集結して、三基揃って巡幸しながら宮入りする。制作は愛川町半原で、明治時代の初期に始まったと伝えられている。 寒川町教育委員会石碑には、創立三十周年記念碑 相川一之宮屋台ばやし保存會 とんとこ とんとん とことん とろすく 平成十七年八月吉日石碑の裏には、一之宮屋台ばやし保存會 創立三十周年寄附者会長、副会長、顧問、理事一期生 ~ の名前が刻まれていた。神楽殿、右奥に社務所。八幡大神を後にする。三基の屋台が巡幸する屋台神賑行事を見てみたいものだが。15:02社殿前から参道、一の鳥居を望む。右折して旧大山街道を西へ向かう。和菓子 豊月堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23-13八幡大神から旧大山街道を100メートルほど進み交差点の北側にある老舗和菓子店。NHK大河ドラマの影響でレーズンの入った洋風な「景時まんじゅう」が人気だと。同交差点の西側に建つタウンニュースに載っていた古住宅。所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目辺り重要文化財(建物)?の申請を検討していると。元は医院であったか?庭に聳えるクスノキ。木の根元には「保存樹木(樹木名 クスノキ)寒川町。庭は綺麗に整備されていたが。金刀比羅宮所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目1-20県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)の南側に鎮座する金刀比羅宮。鳥居は鉄製。境内には子供用の遊具があり、奥に社殿。曹洞宗 西光寺跡所在地:神奈川県寒川町一之宮8丁目辺り。金毘羅宮の南の道を西へ進むと、住宅地の一角がブロックに囲まれ3基の石碑が建っていた。右側から「馬頭観世音 大正十年」「無縁供養塔」「観音像}」。15:10西光寺跡から萩園通りへ戻り、水道道の入口(南東方向を望む)。 ー 続く ー
2023.05.27
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茅ヶ崎市内のサクラを追いかけたが、その合間に訪れた寒川町の寺社史蹟巡りです。往復20キロ以内であるので愛車のリンちゃんで動いた。4月3日(月) 14:05茅ヶ崎市北部にある新興住宅地のみずき地区の道路脇に咲いていたハナミズキ並木。後方の森はスリーハンドレッドクラブのゴルフコース。ハナミズキは、ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。植物学における標準和名アメリカヤマボウシの別名。北米原産で日本へは1912年(大正元年)にワシントンD.C.に贈ったサクラの返礼として贈られた木として知られている。春先に枝を切ると水が滴るので「はな水木」。花弁に見えるのは総苞片で、本当の花は中心部にある(画像は未開花)。庭木や街路樹によく使われており秋には赤い実がつき葉が紅葉する。【今回は寒川駅の南側を散策した】 このエリアは既に訪れているが見落としているものが多く再度訪れた。上記地図の右下から県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) を北西方向へ進み寒川町へ。天台宗 窪田山 景観寺(けいかんじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目18-15旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)と県道45号線の景観寺前交差点の角にあり、右折すると県道45号線(中原街道・丸子中山茅ヶ崎線)になる。サクラの花びらが飛び散る境内に駐輪。境内のサクラが満開の景観寺。景観寺の開山は行基、創建年代は天平宝字元年(757)との伝承があるが、寺容が整ったのは、棟札等によれば天文五年(1536)頃と考えられる。本尊の十一面観音立像は室町時代の作で、ヒイラギ材の素木を用い雅やかな作風である。境内西側の小高い岡の上には鐘楼堂があり、明和七年(1770)鋳造の鐘が時を告げていたが、戦時中に供出された。その後、新しく平成十二年(2000)十二月吉日に鋳造された。山門前右側の石碑は古く「十一面観世音菩薩」と。左側には新しい「窪田山 景観寺」。景観寺本尊「十一面観世音菩薩立像」 寒川町指定重要文化財第一号 昭和四十五年十一月二十日指定 室町時代の作と推定される。 座高 一〇五・三センチメートル 木造割矧造玉眼宝篋印塔(ほうきょういんとう)景観寺の僧回国行者念求は享保八年(1723)から三年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保十二年(1727)七月十日願いが成就してこの塔は建立された。 寒川町教育委員会山門を入ると左側に、「伝教大師・最澄像」。像の座には「一隅を照らす 此れ即ち国宝なり 伝教大師聖句」。右側には「相模国準四国八十八ヶ所巡り」の第54番札所の「弘法大師坐像」が安置されていた。この弘法大師坐像は景観寺の西にある「南泉寺」から移されたものであると。弘法大師坐像が安置されている社の南側に、地蔵、五輪塔、石祠が置かれていた。満開のソメイヨシノ。本堂前の左側に宝篋印塔、右側に手水舎。手水場手水場にサクラの花びら。本堂の扁額「景観寺」。本堂の窓ガラスに映える満開のサクラ。本堂前から山門を見る。二基の塔があり左側に「南無阿弥陀佛一万日回向 供養塔」、右側に「宝篋印塔」。右側の「南無阿弥陀佛一万日回向 供養塔」。塔の右側面に「願以長時 称名功徳 法界衆生 共生浄利」。左側には「享保十九甲寅歳七月廿三日 願主當寺現住寂明空阿」と刻まれている。宝篋印塔(ほうきょういんとう)景観寺の僧回国行者念求は享保八年(1723)から三年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保十二年(1727)七月十日願いが成就してこの塔は建立された。本堂前に立つ「水子観世音菩薩」像。本堂裏の墓地の一角に歴代住職の墓碑が並ぶ。県道45号線(中原街道・丸子中山茅ヶ崎線)の西側にある景観寺本堂と墓地。境内から本堂満開のソメイヨシノ景観寺を後にし、旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)を西へ向かう。景観寺前交差点から北方向は、県道45号線(中原街道・丸子中山茅ヶ崎線)となる。中瀬大神 (なかぜおおかみ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目18-17県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を西へ進み景観寺の直ぐ西隣にある。鳥居を潜ると景観寺の境内西側の小高い岡の上に鐘楼堂が建っている。中瀬大神への階段横に「奉献 神明宮」と刻まれた石塔。一段高いところに社殿が建つ。中瀬大神の創建年代等は不詳ながら、天平年間(719-749)創建と伝えられる景観寺の鎮守として、寺建立と同時期に創建したとされ、その後中瀬の氏神として尊崇されるようになったといわれる。明治二年村社に列格、中瀬大神と改称されている。社殿前の西側に石祠、道祖神、庚申塔が並ぶ。中央の双体道祖神は天明二年(1782)。中瀬大神に隣接して景観寺の鐘楼堂。かつての明和七年(1770)鋳造の鐘は戦時中に供出された。その後、新しく平成十二年(2000)十二月吉日に鋳造された。梵鐘には右側に「南無阿弥陀仏」、正面に「十一面観世音菩薩」と刻まれていた。鐘楼堂前にはつつじが咲いていた。後方には景観寺のサクラが満開。Googleマップに載っている「境内の道祖神・石祠・庚申塔」を見上げる。14:45西側の駐車場から中瀬大神、景観寺の鐘楼堂を見上げる。 ー 続く ー
2023.05.26
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相模川に架かる湘南銀河大橋から上流側を愛車のリンちゃんで散策した。2月23日(木) 14:50県道47号線 (藤沢平塚線) は急カーブで路面は色塗られ、左側を目久尻川が流れる。右側角に、一之宮不動堂が建っている。一之宮不動堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮26入り口横には「一之宮河原集会所」の看板がぶら下がり、建物前には大山道標が立っている。一之宮不動堂の扁額「一之宮 不動堂」。内陣を見る。不動堂前には力石や大山道標。江戸の人達が、二百三十年前頃に奉納したものである。不動明王をかたどった道標には「右 大山道」と刻まれている。裏面には奉納年月、側面には「江戸浅草」。河原不動尊本尊は、不動明王坐像と二体の眷属 (けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦三年 (1753) に江戸芝口 (東京港区) の初音屋平吉が修理した。との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制咜迦(せいたか) 童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、詳細は定かではありません。 平成十九年十二月 (一之宮河原地区住民による) 不動尊維持管理会大山街道と一之宮不動堂江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発達しましたが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース 〜 東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み、大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる 〜 この道でした。この不動堂の、堂内には不動明王が安置されています。堂の外には、江戸の人が奉納した力石や不動をかたどった道標があり、当時の街道の隆盛を今日に伝えています。 寒川町教育委員会江戸から西への街道は、東海道、中原街道、矢倉沢往還の三つがあり、大山街道はこれらの街道を横切っている。黒の実線が、大山街道(田村通り大山道)である。一之宮不動堂前から県道47号線 (藤沢平塚線) を進むと、目久尻川に架かる河原橋。橋桁に「河原橋」と刻まれている。河原橋から一之宮不動堂を振り返る。右側は目久尻川の左岸でここを上って来た。一之宮不動堂は一之宮河原集会所になっているようだが・・・。15:00押ボタン式交差点から、北側の一之宮公園方向。民家の間に、旧相模線支線跡地を遊歩道にした一之宮緑道が南北に。同場所から南方向に八角広場を望む。西寒川駅跡(西寒川駅跡)八角広場の片隅に建っている。石碑には「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡 寒川町長書」。裏面には、ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安穏を祈る。 建立 相廠会及び協力企業 昭和63年春八角広場に残された線路跡にレール。昭和55年(1980)10月の時刻表によると、寒川ー西寒川の列車の本数は、朝1往復、夕3往復の1日4往復のみで、通勤に特化した利用だったと。八角広場八角広場にタイル。 「一の宮 田村へ 十八丁 三十五」鎌倉・江ノ嶋・大山、「新版往来雙六」 神奈川県立博物館蔵一之宮緑道一之宮緑道は、緑のネットワークの一環として旧国鉄相模支線跡地を利用して、昭和60年度より整備を行ったものです。延長は約900mあり、広場及び3つのタイプの園路から構成されています。みなさんでご利用ください。左側の赤矢印が現在地。公園前には神奈中のバス停「八角広場前」前方は藤沢平塚線 (県道47号線) の工業団地入口交差点。八角広場の南側から。八角広場から相模川に東側の工業団地を下る。寒川第一排水樋管への河川。寒川第一排水樋管をズームアップ。更に下り、こちらは寒川第二排水樋管。排水樋管をズームアップ。この辺りの相模川の河川敷とは落差があり普段は自然流出であろうが、相模川の水位が上がると逆流の恐れも。寒川第二排水樋管入口の橋の名は「弥生橋」。一之宮第二排水路に架かる「やよいばし 昭和38年3月埈功」。今回の散策はここで終え帰宅することに。一之宮第二排水路から葉物野菜を購入するために医王院の山門へ。医王院の北側の道路 (大山灯籠が飾られる道) 脇に「ほうれんそう」と掲示されている。医王院の山門。民家の庭先に咲いていた紅梅。民家の入口に野菜棚。「全品 100円、ほうれんそう、こまつな、キンカン」が置かれていた。持つていたのが500円硬貨で民家の奥さんに両替をお願い。しかし新鮮であったので、ほうれんそう、こまつなを5個購入500円であった。奥さんに折角両替してもらったのにとおわび。奥さんが私が持っていたカメラを見て「我が家でも梅が綺麗に咲いていますよ」と言われ、廻り込み塀外から撮影。庭先では紅白の梅が綺麗に咲いていた。紅梅も昨年は数キロ収穫できたと。医王院前で新鮮野菜を購入して、県道45号線 (旧田村通り大山道) へ戻り「河童徳利公園」へ。上流は小出川に架かる大曲橋、河川敷は「西久保堰」。西久保堰の所在地は、茅ヶ崎市西久保。西久保堰の下流にある「大曲樋管」。今日も富士山は見えなかった、大曲樋管の所在地は寒川町大曲である。大曲樋管をズームアップ。小出川の河川敷には菜の花が満開。JR相模線沿いを走る。15:55JR相模線北茅ヶ崎駅傍の踏切。今日の愛車のリンちゃんでの走行は20キロであった。寒川町の散策もこれからは寒川駅の北側へ挑戦。 ー 続く ー
2023.03.30
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この日も天気が良く、愛車のリンちゃんで満開に近い小出川沿いの梅林、河津桜を見に出かけ、その後、寒川町の寺社史蹟巡りで相模川に架かる湘南銀河大橋から上流側を散策した。2月23日(木) 13:10小出川沿いの鶴嶺の梅林鶴嶺通りの新鶴嶺橋から上流の浜園橋の間に紅白の梅が植えられている。近くに鶴嶺八幡宮もあり、地元民の散策コースになっている。白梅をズームアップ。13:25萩園橋から上流側にある河津桜まつり会場を望む。今年も新型コロナウイルスの関係でまつりは中止になった。満開前の河津桜。河津桜、菜の花とのコラボ。この後、相模川に架かる湘南銀河大橋へ向かう。14:05 河津桜まつり会場から県道44号線 (伊勢原藤沢線) を西に走り相模川へ。寒川町が管理する田端スポーツ公園第二野球場。湘南銀河大橋の下流側にある、田端スポーツ公園 親水広場。富士が眺望できる場所であるがこの日は雲の中であった。対岸の平塚側の河川敷にも数ヶ所の野球用グランドがある。相模川の東側の河川敷には湘南銀河大橋を挟んで寒川町の野球場、陸上競技用トラック、サッカー場がある。湘南銀河大橋の上流側にある、田端スポーツ公園第一野球場。第一野球場の北側には広い広場があり、各種の練習場になっている。この日も某大学がブラスバンドとの練習を行っていた。指導者は堤防上から見おろして指示。指揮者は壇上に上がり指揮棒を振っていたが、高所作業で危険ではと!河川敷にも色づいた桜。ズームアップ、河津桜であろうか。このような大会があるのであろうか。堤防上には散歩途中の人が見学していた。更に上流では別のグループがブラスバンドを交えて練習していた。近くには工場があるだけで騒音に対する苦情はなさそうだが、堤防下の公園入口に田端スポーツ公園管理棟が有り寒川町の許可を得ているのであろう。河川敷の平塚側には野球用グランド、後方の左には箱根の金時山、中央に矢倉岳。富士は見えなかったが、手前には河津桜。14:30寒川第二排水樋管所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮更に相模川の左岸 (東岸) を上ると、寒川第二排水樋管。ゲートは二門。下流側を振り返る。排水樋管とは、堤防を横断する水路のことを樋管や樋門、水門といいます。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門 (※1) といいます。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門といいます。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たします。(※1)樋門と樋管には明確な定義はなく、一般的に、断面が比較的小さいものを樋管、大き なものを樋門と呼びます(ネット情報)。二枚の銘板があり、構造物名称:寒川第二排水樋管工 事 名 称:H27相模川寒川第二排水樋管改築工事工 期:自) 平成27年9月30日 至) 平成28年6月20日河川占用許可標識河川敷に下り排水樋管の全景。相模川への放流口。堤防上から寒川町田端、一之宮を見下ろす。この辺りは工場地帯で川を挟んで南側に、新明和工業 特装車事業部寒川工場、北側に旭ファイバーグラス 湘南工場がある。川は一之宮第二排水路で、川を挟んで田端 (南側)、一之宮 (北側) の境界になっている。寒川第二排水樋管を後にし更に上流側へ進む。散歩コース、ランニングコースになっている。左下は相模川に合流する目久尻川。寒川第一排水樋管所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮まだ新しい設備でロープが張られ立入禁止になっていた。ゲートは一門。ステージへは立入禁止に!機側操作盤をズームアップ。遠隔操作になっているのか。盤にはゲート、水位計 (川表側・川裏側) 。寒川第一排水樋管の上流側から下流を望む。右下は目久尻川。下流の相模川に合流する目久尻川、湘南銀河大橋をズームアップ。河川敷に下り寒川第一排水樋管を見上げるが土砂改良工事を行っているので立入禁止に。二枚の銘板があり、構造物名称:寒川第一排水樋管工 事 名 称:R1相模川左岸寒川樋管設置他土砂改良工事工 期:自) 令和元年11月21日 至) 令和3年6月30日河川占用許可標識寒川第一排水樋管の放流口は目久尻川。ゲートは、形 式:ステンレス製ローラーゲート純径間 × 扉高:2.000m × 1.400mこの辺りも工場地帯で寒川町一之宮。工場の間を流れるこの川の名は一之宮第一排水路であろうか?。寒川第一排水樋管から上流に走り圏央道の一之宮高架橋下から振り返る。右下は目久尻川。高架橋下越しに湘南銀河大橋をズームアップ。14:50目久尻川の上流に、県道47号線 (藤沢平塚線) の河原橋。 ー 続く ー
2023.03.29
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南泉寺を後にし、寒川町の一之宮地区の散策を続ける。2月17日(金) 16:35南泉寺の南にある豊月堂前から、県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) の交差点を望む。この交差点を南下すると、萩園通りを進み茅ヶ崎へ至る。豊月堂 (ほうげつどう)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23-13昭和初期創業の老舗和菓子店。寒川の悠久の歴史を古木の年輪で表現した銘菓「寒川の年輪」(神奈川県指定銘菓) は、代々受け継がれた餡の風味を存分に楽しめる贅沢な逸品であると。一方、景時にちなんだ「MANJU KAGETOKI」は、ベースの白餡にバターやレーズンを加えた洋風和菓子。地元の若者がデザインしたスタイリッシュな包装で、お土産に喜ばれそう。桜餅、柏餅、水羊羹・・・と、季節の和菓子も充実している。甘党の私はいつか最中を食したいと!稲荷社所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23豊月堂の前の道路を北西方向へ百メートル程進み駐車場の奥にあった稲荷社。稲荷社の裏側には塀を挟んで先程訪れた「南泉寺」があり本堂が見える。社の中には榊、お神酒が供えられていた。鉄製の鳥居には「正一位」と。県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) を西へ進み次の目的地「妙光寺」へ進む。道路沿いの駐車場から県道の東方向を振り返る。掲示板には、「今月の聖語 この生(しょう)を空しうする ことなかれ 日蓮聖人ご遺文 守護国家論」門柱には「日蓮宗 如日山 妙光寺」とお題目碑。お題目碑には「南無妙法蓮華経」。山門を入ると左側に「稲荷社」。稲荷社の扁額には「正一位 稲荷大明神」と。稲荷社の右側には石碑、石祠、石仏が並んでいた。宗 旨名 稱 日蓮宗宗 祖 日蓮大聖人開 宗 建長五年四月二十八日 (鎌倉時代 西暦一二五三年)本 尊 久遠の本師 釈迦牟尼佛題 目 南無妙法蓮華経教 義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経 典 妙法蓮華経 (法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌境内の石畳の先に新しい本堂。妙光寺は、僧日念が開基となり天文元年 (1532) に創建、唯常院が開山した。本堂の扁額「妙光寺」。本堂左手前に「日蓮大聖人尊像」。こちらには「日蓮大聖人御幼児 善日麿之像」。日蓮大聖人は安房の国(現在の千葉県)小湊にお生まれになる。父貫名重忠・母梅菊の子として御誕生になり、幼名を善日麿と名付けられた。日蓮聖人も幼い頃は可愛いかったが年輪と共に・・・。本堂の裏に咲いていたロウバイ。露出を変えて別の方向から。松戸橋跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮5妙光寺前の県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) を西へ進むと松戸橋交差点南にある。かつては橋があり、川が流れていたが今は川は埋められている。寒川町南部教育発祥の地この地付近は江戸時代 大山街道の宿場として大いににぎわい明治六年 (一八七三年) に至りこの地に博習学舎が設けられ明治九年一之宮学校と改称された。現在の一之宮小学校の前身であり寒川町南部の教育発祥の地である。 ・・・・・・・・・・・・・竣工に当り 昭和五十八年二月建立石碑への彫り込みが浅いため写真では読み取りにくい!北側に県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) の松戸橋交差点がある。この交差点を左折して西へ進むと梶原景時館跡等梶原氏一族の碑がある。関連のブログは「寒川町の (その2) 梶原景時館跡」👈 をクリック願います。次に訪れたのは松戸橋交差点を右折して東へ進み、南側に鳥居。金刀比羅宮所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目1-20参道の右側にあったのが「金刀比羅会館」。幕で飾られた社殿。社殿の裏側 (南) に飾りが置かれていたが?社殿横から北側を望む。境内には子供用の遊具があり、奥に金刀比羅会館。鉄製の鳥居の先に県道44号線 (田村通大山道・伊勢原藤沢線) が走る。17:00飲み会の開始時間が17時半のため寒川駅北側へ戻ることに。この交差点を渡り豊月堂の右側を北上し寒川駅の南口へ進むことに。南泉寺の前を通り抜け振り返る。正面に山門がある。左側には第六天神社 (北町集会所) があり、入口に石鳥居が建っていた。その左手の植え込みの中に「道祖神」。道祖神から北上、南泉寺北側交差点を過ぎ寒川駅南口自転車等駐車場へ。東方向に寒川駅駅舎。南口から自由通路を渡り北口へ、みどりの窓口は閉まっていた。駅舎上から北口のロータリーを見下ろす。ブロンズ像「遥か」。彫刻家・故 原田純成さんの作品である。後方から。17:15天の魚(てんのさかな)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田1丁目15-1 フジタビル2F野球仲間も集まってきていた、昨年も納会をここで行った。入口に、筆で書かれたメニュー。店は2階で店内に入ると、ラグビーボールのような大きなカボチャが飾られていた。会場は個室で掘りごたつで年配者には優しい。天の魚のシェフの案内、シェフは茅ヶ崎の某有名店で修業。現在は毎日、お客様に提供する食材を吟味し、「今美味しいもの」を届けるため、魚は漁師さんや、市場から・・・野菜は農家さんより直接仕入れている。お米にまで目を光らせ、美味しい物を探して仕入れています。季節によって変わるお薦め料理、そして新鮮なお魚を堪能するなら当店へぜひお越し下さいと。一人3,500円の会費で飲み代は別とのことで宴会を開始。洋食の如く、各自にお皿で順次出される。前回も出たが「ナスの味噌料理」。刺し身は「アジ」頭と骨はフライにしてほしかったが。今年豊漁の「いわしと豆腐の煮付」。いわしは骨まで食べれ豆腐にも味が染みて美味しかった。魚の天麩羅、旬のフキが入っていたか?。これも前回出た「牡蠣料理」。20:15最後の仕上げは「焼きおにぎりとアサリの吸い物」。21頃宴を終了。前回の料理は6品であったが今回は7品であった。会計は飲み放題で一人7,000円となり各自より5,000円を徴収、残りは部費から補助とした。 ー 続く ー
2023.03.28
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この日は13時から14時まで愛車のリンちゃんで散策。夜は、野球の新年会が寒川駅前で開催されるので早めに自宅を出て寒川駅廻りを散策することに。2月17日(金) 15:35JR相模線北茅ヶ崎駅を東側より。中華「のんち」所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパートJR北茅ヶ崎駅東側にある中華料理店で、いつもお客さんが行列をしている人気の店である。ティクアウトメニュー居酒屋もある。JR相模線北茅ヶ崎駅舎。飲み会は17時半からだが15:40発の橋本行きへ乗車。15:49寒川駅へ到着。乗降客が少ないので自動改札機も2基。この時間帯は「みどりの窓口」も開いている。コンコースに「町案内図 寒川町観光協会」左側:主な社寺・史蹟 既に訪れたところもあるが今回の散策で全てを訪れたい。右側:主な公共施設主な社寺・史蹟は、25箇所あるようだ。寒川駅北口のタクシー乗り場。寒川駅北口周辺案内図寒川駅北口周辺案内図の「文化財」は、12箇所。この案内を元に今後散策したい。寒川駅の北側は、岡田一、二丁目。駅前のロータリー沿いにある店だが人が歩いていない。15:55寒川駅北口のロータリー建物は「JAさがみ 寒川支店」だが駅前にしては人通りが少ない。寒川駅駅舎駅舎は南北の連絡通路になっている。こちらはコミュニティバス乗り場。今夜の飲み会の会場はこの先の「天の魚 2F」。寒川町観光協会所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田1丁目2-31A寒川町の寺社史蹟巡りを行っているので、観光ガイドマップ等をいただく。館内に入り許可を得て撮影。館内には「大鎧」、「鎌倉本体の武士 梶原景時 ゆかりの地」の看板。看板には、'22.7.10付の中村獅童のサインがあったがこの日はトークショーの日 係の方に「昨年、鎌倉殿の13人で梶原景時役を演じた中村獅童のトークショーを申し込んだが抽選漏れになった」と聞くと「私たちもとれなかった」と。寒川町民が優先であったのかと・・・。寒川神社のミニチャー御輿、右には「遠州新居手筒煙火」も飾られていた。寒川駅北側の踏切。飲み会まで1時間半あるので寒川駅の南側にある寺社史跡を歩いて巡ることに。まず最初に「車地蔵」へ。橋本行きの電車が通過。車地蔵所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮2丁目16スマホの案内で「車地蔵」へトウチャコ。寒川町一之宮車地蔵 (田端生往寺持) は、木像の地蔵尊を祀ったお堂です。供車 (ともくるま) 地蔵とも言います。「車地蔵沿革史」によれば、堂宇の建立は、慶長二年 (1597) 三月十五日、江戸初期に一之宮に居住していた大森菊地泰次とその家老の秋元金平によると言います。秋元は、人びとの模範となるような忠臣でしたが、あいにく嗣子がありませんでした。そのためこのままでは家が衰微すると察した主君の泰次は自らの長子、菊之丞を養子とし、併せて禄高の一部を分知してその後継としました。このことで主君に対する金平の忠誠心は益々深まりましたが、泰次もその至情を承け、安産子育地蔵尊を共に祀ったと言います。明治初年、堂宇の衰微により、本尊は日向薬師(伊勢原市)へと移管されましたが、明治二十七年 (1894) 火災により焼失したそうです。昭和十一年 (1936)、後裔の霊夢を契機に堂宇の再建が企てられ、また本尊も再刻され今日に至ります。右側の、朽ち果てた石碑。この場所に「宝篋印塔」があったようで、現在は田端生往寺へ遷している。石碑に「金量院殿菩提 (菊地泰次妻) 宝篋印塔 コノ地ヨリ田端生往寺ヘ遷ズ 平成三十年八月」と。隙間から内陣を覗くが、いつも生花が供えられている。講中奉納による前立の石の地蔵尊は江戸期のものである。左:1715年 (正徳5年) 作、右:1665年 (寛文5年) 作。毎月24日の縁日には、地蔵講中による奉仕が現在も続いていると。車地蔵堂この地蔵堂は、小田原城主大森実頼の孫菊地泰次 (田端生往寺開基) が慶長ニ年 (一五九七) 三月建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられている。霊験あらたかな子育地蔵として江戸期には講を組織して参詣する人も多かった。 寒川町教育委員会車地蔵堂の西側から。次に訪ねるのは近くにある「南泉寺」へ。16:25真言宗 南泉寺所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23-1山門前右側に「大師霊跡 南泉寺 南無阿弥陀佛」碑。山門にかけられた「高野山真言宗」。南泉寺 高野山真言宗 山王山・明王院・南泉寺天正元年 (一五七三)、僧善清による開山、「村民五右衛門の先祖」による開基 (『新編相模国風土記稿』、「社寺明細帳」より)。本尊は不動明王。堂字に薬師堂 (現寒川町薬師会館)、天神社があった。江戸初期より、十三仏信仰を奉持する檀家寺として、各檀徒の回忌法要を執行して来た。本堂に十三体の十三仏像を祀置する。境内には宝永六年 (一七〇九) の六地蔵像、明和五年 (一七六八) の宝篋塔、相模国八三番札所を示す弘法大師石坐像、三界万霊墳、守護本尊八体仏、徳本行者足跡碑等の他、無宗派合祀供養塔がある。山門から本堂を望む。本 堂本堂の扁額「南泉寺」。本堂前の「遍照金剛像」。本堂前から石畳の境内の先に山門。境内右手に様々な八体の仏像が名前入りで並ぶ。右側から、「千手観世音菩薩」「虚空蔵菩薩」「文殊菩薩」「普賢菩薩」「勢至菩薩」 「大日如来」「不動明王」「阿弥陀如来」。紅梅が綺麗に咲いていた。山門の手前に「不動明王像」。陽も下がり足長爺さんに。境内の東側に「聖観世音菩薩」、背の低い「水子地蔵?」が並ぶ。本堂手前左側には塔、宝篋印塔、六地蔵、大師堂が並ぶ。聖観音菩薩像明和五年 (一七六八) の宝篋印塔。宝永六年 (一七〇九) の六地蔵像。六地蔵の右側に「大師堂」があり堂内には弘法大師石坐像。相模国準四国 第八十三番。境内の南側に古い墓石等が並べられていた。どれも歴史を感じさせる石塔類が移設されているのであろう。本堂の裏に廻り「南泉寺歴代住職の墓」へ。本堂裏の駐車場脇に、南泉寺歴代住職の墓があった。本堂前に戻り本堂。新しい六地蔵も。無縁之霊の廻りには古い石仏が並んでいた。16:35南泉寺を後にし、まだ飲み会まで1時間ほどあるので次の場所へ進む。 ー 続く ー
2023.03.27
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寒川町の南東地域の大曲を2月16日と17日の両日愛車のリンちゃんで散策したブログです。2月16日(木) 15:40道祖神から進むと直ぐに民家の一角に鳥居が建っていた。正一位お稲荷さん所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目7-12Googleマップに記載されていたので今回訪れたが、説明板もなく由緒等は不詳である。お稲荷さんは角地にあり民家の敷地内にあるのか?。この辺りは旧家が多く各家の庭先にお稲荷さんが建っていたがスマホの案内でトウチャコ。立派な社殿の前には狛狐。15:45大曲神社へ戻る。大曲神社から県道45号線 (旧田村通り大山道) へ戻り寒川駅方向へ進む。15:50景観寺前交差点。直進すると県道44号線 (旧田村通り大山道)、右折すると県道45号線を北上し旧中原街道へ。ここから先は後日散策することにして引返す。小出川に架かる水管橋。撮影場所は寒川町で対岸は茅ヶ崎市になる。水管橋はステンレス製で高額に!銘板には「神奈川県企業庁茅ヶ崎水道営業所」と。水道管の径は800Φであったか。寒川側の水道みちから、茅ヶ崎側の水道みちをみる。小出川では水管橋で渡っている。水道みちは新興住宅地の中を南東方向へ。小出川の上流側には聖天橋が架かる。ネットは「香川グリーンゴルフ」。下流側は大曲橋、高架は茅ヶ崎JCT料金所。小出川の川面にはサギ、カモが多くいた。エサを求めて泳ぎまわっていたが。16:10県道45号線 (旧田村通り大山道) へ戻り南下、小出川を渡り茅ヶ崎市へ。この後、いつも行っている ”焼き鳥屋” でいっぱいやることにし茅ヶ崎駅前へ進む。16:30焼き鳥屋 よしこ所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町4丁目 辺りいつもの居酒屋で大徳利を注文。開店以来のメニューがぶら下がっているが焼き鳥以外はその日の仕入れ状況による。刺し身はいろんなものがあるがこれも仕入れによりかわる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・翌日、昼食後再度愛車のリンちゃんで寒川町の大曲地区の散策へ。2月17日(金) 13:25小出川に架かる鷹匠橋 (たかじょうばし)、上流はJR相模線の寺尾跨線橋。小出川の下流側。茅ヶ崎のみずき地区を流れる駒寄川。スマホの目的地を「地蔵尊 (東福寺跡)」にセットして来たのだが。新興住宅地の中にある墓地へ。その一角に石碑があったが判読できなかった。石碑には「○○○○○○○○」と。鈴木慶助君仙蔵君之一子○資性頼敏臨事勇断果決當・・・判読できず中略・・・前衆議院議員勲四等○○○○スマホで位置を確認、小出川に架かる聖天橋 (しょうてんばし) へ進む。住宅地の南側に墓地がありその一角に「地蔵尊 (東福寺跡)」。墓地の隅には移設されたのであろう宝篋印塔や多くの石仏が並んでいた。小出川に架かる聖天橋へ。JR相模線香川駅の西に位置している新しい橋である。聖天橋から上流側に進むと堤防下に小さな社が建っていた。13:30地蔵尊 (東福寺跡)所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲2丁目6-28入口の石柱に「東福寺跡 大曲共有墓地」と。地蔵尊 ・舟形光背地蔵尊 右 江戸時代 (寛文三年・一六三三) 船型の光背をそなえた地蔵菩薩立像です。 風雨にさらされているにもかかわらずきれいに残っています。 ・地蔵尊菩薩立像 中央 江戸時代 (明和八年・一七七一) ・光明真言供養供養塔 左 江戸時代 (文化七年・一八一〇) 塔身の正面上部に弘法大師坐像が陽刻されています。東福寺跡 新編相模風土記稿に「東恵山と号す。古義真言宗岡田村安楽寺未、本尊薬師」とあります。 墓地が聖天橋の北側にあり、歴代住職の墓石 (無縫塔または卵塔) も残っています。 平成八年三月 寒川町教育委員会社は北向に建っている。社の中に三体。右側に「舟型光背地蔵尊」中央に「地蔵尊菩薩立像」左側に「光明真言供養供養塔」、塔身の正面上部に弘法大師座像が陽刻されている。西側から社を見る。強風で倒壊するのではと心配になる構造だが。大曲地域集会所所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲2丁目8-18地蔵尊そばの聖天橋から西へ向かい、県道45号線 (旧田村通り大山道) の手前にある。集会所前の左奥に石碑が確認された。入口にかけられていた「大曲地域集会所」。寒川町の地域集会所は、地域住民の連帯感の育成と地域文化活動の推進に寄与するための施設で、寒川町地域集会所運営委員会連絡協議会が管理を行っている。このような施設は茅ヶ崎市では公民館だが。大曲地域集会所の敷地内の西側にあった石碑群。以前は大木があったようで切断された枯木。石面を確認できなかったが庚申塔or道祖神であろうか。大曲地域集会所の場所は「下大曲神社跡」であると。庚申塔と下大曲神社の碑。旧 下大曲神社の碑昔は下大曲の地は下大曲村として独立し一七〇〇年に大岡忠相が領主となり 氏神様として「下大曲神社」が建立された。当時は十戸足らずの小さな集落であった。その後明治に入り田端の貴船神社と合祀されたものの大正時代に入り再び下大曲の地に戻された。昭和四十九年 (一九七四年) 七月「大曲児童館」建設のために境内敷地の一部を寒川町に貸与し、今般、同施設の老朽化に伴い「大曲集会所」として建て替えることとなり地域発展の為に協力することとなった。しかし境内の相当部分を提供することとなり、また下大曲神社の建物も老朽化が進み更に神社前の道路は交通量が急増し境内で祭典を催すことは非常に危険な状況となった。一方、大曲地区の世帯数は壱千世帯を超えたものの氏子の数は減少を続け、将来的に神社の管理運営が困難な状況に陥る可能性も出てきた等々を勘案し氏子の同意の元に、今般、合祀することとなった。 平成二十二年 (2010年) 三月二十八日 十二神社 下大曲神社合祀委員会 庚申塔 寒川町指定重要文化財第十四号 昭和六十二年六月三十日指定承応ニ年 (一六五三) 九月銘のこの石塔は、四臂の青面金剛像と二猿、雌雄の鶏が刻まれた庚申塔としては全国で最も古く、茅ヶ崎、藤沢、平塚、寒川で確認されている七体の中でも最古のものである。 石造笠付角柱型 総高九十センチメートル 寒川町教育委員会 庚申塔台座には「下大曲村講中」と。石碑の後方から。人口は増えても信仰する氏子が減少して二つの神社が合祀されたと。今後このようなケースが多くなるのであろうと痛感した。次の目的地を「高安前塚」にして進む。民家の塀の中に朱色の鳥居。道路の両側の家にも朱色の鳥居が建っていた。この辺りは旧家が多く、信仰深い氏子も多くおられるのであろうが、神社の建て替え修復には多額の費用が発生する。筒井地域集会所所在地:神奈川県高座郡寒川町中瀬25-1高安善塚 (こうあんぜんづか) 所在地:神奈川県高座郡寒川町中瀬26 辺り前回訪れた時この場所がわからず、旅友に聞き再度訪れたが筒井地域集会所の裏にあった。道路脇にあり小さな社が木陰に隠れていた。正面から。高安善塚 ~ 伝説 美女塚物語 ~榎 戸 (えのきど)ここより三十m南側の旧大山街道沿いに一軒の茶屋かあり、洒あるいは雑貨を売る旅人の休み所でした。そこに昔から大きな榎があるところから「榎戸」と呼ばれ、現在も昔の面影を残す何代目かの榎がある。~ むかしむかし、その大きな榎の木の下に、海老名の国分尼寺よりつかわされた美人の若い尼さんが榎堂と呼ばれるお堂を建て、下寺尾の海円院 (七堂術藍) の堂守りとして毎日通っていましたが、ある日、七堂伽藍の輝きで魚がとれず困っていた漁師を助けたい一心で、見守ってきた人達のことも考えす焼き払ってしまい、その罪で火あぶりの刑を受け悶死したという伝説がある。その尼さんを供養したものが、昔この東方にあった美女塚であり、あまりの荒廃ぶりに有志の方によって現在この地に移され、「高安善塚」と呼ばれ供養されている。供養碑は、妙光寺境内に安置されている。 寒川町教育委員会内陣には位牌が安置されており「高安善塚之諸霊位」と。14:00このような状態ではわかりずらい。また、Googleマップにも記載されておらず。今夜、ここ寒川で飲み会があるのでここで帰宅することに。 ー 続く ー
2023.03.26
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この日は気温が高かったので昼食後、寒川町の寺社史蹟巡りで寒川町の南東地域の大曲を愛車のリンちゃんで散策した。2月16日(木) 13:35新湘南バイパスの高架下を西へ向かう。西久保地下道 歩道入口。JR相模線と県道44号線(伊勢原藤沢線)が交差する地下道である。車道と歩道・自転車道が分離されている。西久保地下道。西久保地下道を抜けると、県道45号線 (丸子中山茅ヶ崎線) との茅ヶ崎中央インター交差点。寒川方面はここを右折するのだが、直進して萩園へ立ち寄る。15:05河童徳利ひろば所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲4丁目4-211-3県道45号線 (旧田村通り大山道) の茅ヶ崎市と寒川町の境界に位置している。道路脇に「間門川 伝説 河童徳利」の看板。道路標識も茅ヶ崎市から「寒川町」へ。小出川に架かる大曲橋手前の看板には「間門川 伝説 河童徳利 発祥の地」と。河童徳利ひろばは昨年の3月28日にオープンした。以前訪れた時のブログは「茅ヶ崎の民話」👈 をクリック願います。民話「河童徳利」伝承について民話「河童徳利」は、むかし西久保に住んでいた五郎兵衛さんという人物が、この付近にあった間門橋(現在の大曲橋)のたもとで河童と出会ったことから始まります。馬の尻尾にかじりついた河童は、村人たちに捕まりますが、五郎兵衛さんが河童を助けてあげました。そのお礼にと河童からもらった徳利は、底を3回叩くまでいくらでもお酒が出るものでした。五郎兵衛さんは朝から晩までお酒を飲み続け、すっかり怠け者になってしまいましたが、ある日大切にしていた馬がやせ細っていることに気づき、徳利の底を3回叩きお酒が出てこないようにし、もとの働き者に戻りました。西久保には遥か古来よりこの河童にまつわる伝説が民話として伝わっており、現在に至るまで多くの人々に愛されてきています。 茅ヶ崎市大曲橋から小出川の下流側を望む。下流の高架橋は新湘南バイパス、圏央道の茅ヶ崎JCT辺り。河川敷に「西久保堰」、右岸に「大曲樋管」がある。河童像が持っている徳利から流れ出る井戸水が池になっている。河童像は高さ約1.2メートルの銅像。彫刻家の高崎哲さんが作った原型をもとに、都内の企業が鋳造した。茅ヶ崎市を後にし寒川町へ。寒川町観光協会 イメージキャラクター「咲夢 (さむ) くん」「花笑 (かわ) ちゃん」で二人合わせて「さむかわ」。神奈川県立寒川高等学校所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮9丁目30-1寒川高等学校前から南側に田畑が広がる。南には圏央道の高架橋が東西に走る。県道45号線 (旧田村通り大山道) に戻り、水道みちの北西方向。上水道は、寒川取水堰から取水し、寒川町から逗子市まで続いています。配水管は茅ヶ崎市域では主に大山街道に埋設しましたが、大山街道の下を通らない部分は用地買収をして、水道管を埋めました。その地上部で道路として使用を許可された道が「水道みち」と呼ばれています。水道みちの北西方向をズームアップ。直線道になっている。水道みちの南東方向。水道みちは、寒川町大曲を通り、香川の間門からJR相模線の大山街道踏切の東まで、直線で通っています。ここから水道管は大山街道の下を通り、鶴が台中の北側から分かれて、再び水道みちになります。相模川左岸用水路、小出県道(県道遠藤茅ヶ崎線)と交差し、松林公民館の北側から再び大山街道の下を通ります。以前は田んぼばかりだった香川の間門の「水道みち」ですが、小出県道から東の赤羽根の部分が道路として整備されると、松林小に通う子どもたちの通学路になりました(茅ヶ崎の轍より)。南東方向をズームアップ。この先で小出川になっている。大曲地蔵堂跡 (大曲共同墓地)所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目17住宅街の中にある大曲共同墓地で、東福寺 (廃寺)、地藏堂 (廃堂) があった場所である。当初の札所地蔵堂は宝永四年 (1707) 円心が建立したもので、東恵山 東福寺 (今は廃寺:古義真言宗岡田村安楽寺末、本尊薬師) 持ちであった。新編相模国風土記稿に「地蔵堂、宝永四年 (1707) 四月 僧円心建、東福寺持」とあるとのこと。現在、大師石像は共同墓地の一角の小堂に六地蔵と共に一番右端に納められていた。右端に、相模国準四国八十八ヶ所札所第14番の「弘法大師坐像」。六地蔵 享保五年 (1720):6体の地蔵が六道を巡り、六道衆生を救済すると信じられている。第1:地獄・・・大定智悲地蔵 第2:餓鬼・・・大徳清浄地蔵第3:畜生・・・大光明地蔵 第4:修羅・・・清浄無垢地蔵第5:人道・・・大清浄地蔵 第6:天道・・・大堅固地蔵六地蔵の左側に、観音講供養塔 (右)、不動明王坐像 (左)。大曲地蔵堂跡を後にしスマホの案内で「大曲神社」へ向かう。民家の庭に咲く紅梅が満開になっていた。15:25大曲神社 (旧十二神社)所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目16-10明治維新の際、十二天社を十二神社と改称した。明治42年荒廃神社併合が国で決められた時、神社を存続させるためにはやむを得ないと反対を押し切って神輿を売却し、神社を存続させた石塚善太郎氏の功績は今も語り継がれている。十二神社は平成22年 (2010) 、下大曲神社と合祀され、大曲神社となった。鳥居前の社号標石には「大曲神社」と刻まれていた。裏面には「平成二十二年 (2010年) 三月二十八日 十二神社と下大曲神社合祀」と。大曲神社 (十二神社)新編相模国風土記稿に「十二天社 社頭に安永八年 (1779) の鐘あり、岡田村宝幢院持」とある。明治維新の際、十二天社を十二神社と改称。明治末年の神社合祀の際、単独で神社を存続させる財源確保のため、こちらの神輿を180円で茅ヶ崎の八雲神社へ売却したといわれている。右側の狛犬(阿形像)。台座の裏には、「氏神の守りは かたし七十余年 けうぞ謝すなり えりをただして」。左側の狛犬(吽形像)。こちらの台座の裏には、「唐獅子や みたまと共に とこしへに まもりつづけよ このみやしろを」。 旅友のブログには扁額「大曲神社」があったが・・・。社殿の右側に「十二神社」と刻まれた石碑。拝殿の裏にビニールフェンスで囲まれた本殿。この社号標石は下大曲神社と合祀前は鳥居脇の大曲神社社号標石の位置にあったと。裏面には「昭和五十一年九月吉日 寒川町大曲 鈴木忠勝 奉納」と。 十二神社の裏口に「道祖神」「庚申塔」「石祠」があったが移設されたのか。木の下に無造作に置かれていた。境内にはタブノキの大木も聳えており、遊具も多くあった。鳥居の横に社号標石の「大曲神社」が立っている。境内は子供たちの遊び場になっている。鳥居前からタブノキを見る。大曲神社から次の場所へ移動、途中立派な長屋門が。この辺りは旧家が多いのか広い敷地内に各家でお稲荷さんを建てておられた。15:35十二神社そばの道祖神所在地:神奈川県高座郡寒川町大曲1丁目18-38 付近大曲神社 (十二神社) から「正一位お稲荷さん」への途中、民家の石垣の間に道祖神があった。石垣の間にあり自転車に乗っていると見落とす。道祖神は破損したのか補修されていたようだ。 ー 続く ー
2023.03.25
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この日は気温が高かったので愛車のリンちゃんで寒川町の南西地域の田端を散策した。2月4日(土) 15:05貴船大神 (きふねおおかみ)所在地:神奈川県高座郡寒川町田端824生往寺の北側に位置している神社で、境内には遊具もあり地域の子供の遊び場になっている。宗教法人 貴船大神鎭座地 高座郡寒川町田端八ニ四番地御祭神 加具土命 (貴船大神)、倉稲魂命 (稲荷大神) 譽田別命 (若宮八幡宮)、大雀命 (若宮八幡宮) 大山咋命 (日枝大神)、日本武命 (御嶽大神)境内地 一、ニ四六平方米由緒沿革 建久年間の創建と傳ふ往古に於ける社殿の規模は明らかてないが現存する萬治ニ年 社殿 再興の楝札及び其の後の修覆再建等の棟札造營の沿革を知ることが出来る。社名について は文政七年の差出帳に「鎮守貴船宮社地十五間四方釣鐘一口云々」と記し 新編風土記には 「貴船社鎮守なり例祭 九月ニ十九日云々」とあり又棟札には貴船大明神と記し区々である が明治ニ年村社に列格の際 貴船大神と改稱す 明治四十一年田端地内の無格社若宮八幡宮 並に境内三社稲荷大神・日枝大神・御嶽大神を合併 大東亞戦後社格改廃に依り現在 神社 本庁所属となる。御祭事 元旦祭 一月一日 祈念祭 ニ月十七日 雹 祭 四月 初寅 虫送祭 七月十六日 例 祭 九月ニ十九日 感謝祭 十一月ニ十三日鳥居の左側に鐘楼が建つ。鳥居を入ると正面に拝殿。狛犬(阿形像)狛犬(吽形像)拝殿の扁額「貴船宮」境内の右側には「田端地域集会所」が建つ。社殿の裏側に廻り東側を望む。鐘楼をズームアップ、横にはトイレがある。境内の左奥に「殉国碑」。関東大震災で倒れた先代の鳥居を使った「震災記念碑」。震災記念碑の奥に「田端土地改良完成記念碑」が建つ。境内の南側から社殿を見る。3本のイチョウの木が聳え下には銀杏が転がっていた。貴船大神横の稲荷社所在地:神奈川県高座郡寒川町田端貴船大神を出て北側の道路脇にある稲荷社。朱の鳥居には「正一位」と書かれている。社殿の前には小さな狐。圓妙山 萬部寺所在地:神奈川県高座郡寒川町田端805貴船大神から北側に百メートルほどの所にあるお寺である。門前には新しい石柱が2本。その新しい寺号標石には「日蓮宗 圓妙山 萬部寺」。左側には題目碑「南無妙法蓮華経」。山門の正面にトタン葺きの本堂。本堂の扁額「円妙山」。本堂右前に日蓮聖人像。台座には「立正安國」と。境内では住職の奥様が草取り中であった。田端西町 地神塔所在地:神奈川県高座郡寒川町田端1235萬部寺から北側へ進み左折すると道路脇の社の中に石像がおさめられていた。田端西町 田端一二三五番地地神塔 一基 総高 八○.○センチメートル 唐破風付笠塔婆型・地神像 江戸時代 (安永八年・一七七九年) 建之・一八名 方型の台座上に、正面に地神立像を陽刻した角柱の塔身を立て、正面に唐破風を飾った笠 を置く。銘文は塔身の左右側面、台座の左右側面にある。地神立像をズームアップ。民家の一角に建っている地神塔。田端西町地神塔から、スマホの案内でさらに北側へ進み道路脇の敷地に双体道祖神を見つける。道を挟んだ西側は開発され新興住宅の売り出し中であった。田端地区のこの辺りは「大谷芍薬園」があり芍薬を栽培している。田端西町双体道祖神所在地:神奈川県高座郡寒川町田端907享保二年 (1717) の双体道祖神で神奈川県内でも古い部類に属すると。後方から双体道祖神を見る。双体道祖神はブロック塀で囲われ保存されていた。この後、東にある「医王院」へ行くことに。田端西町から萩園通りへ戻り、斎藤自動車の角地にあった「道祖神」。ここもブロック塀に囲まれた文字道祖神。北側からの道祖神左側は萩園通り、道祖神が綺麗に管理されており地元の方の史蹟保存に対する熱意を感じた。萩園通りを南下、田端宿交差点。この辺りにもGoogleマップでは大山灯籠があったが何もなかった。ネットで調べると「大山灯籠を探そう!」と。大山の夏山 (7月27日~8月17日) の期間に灯籠が田端地区の3ヵ所に建てられる。その場所は今回廻った、神之倉、田端宿、田端東。この他寒川町では他の場所にも飾られる。今年はこの光景を撮影しブログアップしたいものです。乞うご期待!田端宿交差点角にあった「田端薬師 医王院」。15:30田端山 医王院 (いおういん)所在地:神奈川県高座郡寒川町田端529門前に「田端山 醫王院」「本尊薬師如来」の寺号標石が建つ。本 堂当院は、田端にある高野山真言宗、もと古義真言宗の寺院。山号を田端山といい、岡田の安楽寺末。本尊は薬師如来で「医王院縁起」によれば、承和元年(834)、摂津の僧龍海による開山とするが、『新編相模国風土記稿』は、永禄三年(1560)に再興した伝誉を中興とする。江戸時代は鎮守貴船大神と稲荷社を支配したが、神仏分離にともない医王院は寺院として存続し、貴船大神は斎藤龍太夫に管理させる旨の願書が明治二年(1869)に作成されていると。本堂の扁額「醫王院」手水舎墓地には古い墓石が多くあった。廣田家の墓地には古い墓石が並んでいた。本堂の裏に廻り込み。歴史を感じる古い墓石が並んでいた。新しい石灯籠と墓石、庚申塔が建っていた。三猿庚申塔元禄三年 (1690) 正面と左右に各一匹の三猿。医王院から東へ進み、Googleマップに載っていた「大山燈籠」の設置場所。所在地:神奈川県高座郡寒川町田端502東方向から大山灯籠が設置される場所を見る。15:45田端東町道祖神所在地:神奈川県高座郡寒川町田端294-2 付近大山灯籠から更に東へ進み道路の角地にある道祖神。新しい文字道祖神と双体道祖神。廻りには毛糸の帽子をかぶった石仏が並んでいた。道祖神をズームアップ。田端地区の民家の敷地内には稲荷社が多く建っていた。各地域に道祖神も多く、大山灯籠の設置場所も三ヵ所あり地域の信仰の深さを感じた散策でした。この後、寒川神社方向へ廻ったので、自宅へは17時に到着、走行距離は22キロであった。寒川の史跡巡りのこの日 (2月4日) はここで終え、後日散策することにした。 END
2023.02.28
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事故現場を後にし、県道44号線 (伊勢原藤沢線) の田端南交差点を左折、萩園通りを北上。今回は寒川町の南西地域を散策した。2月4日(土) 14:45萩園通りを北上、右側にバス停があり傍に朱色の社が建ち、後方には墓地。神奈中バス停「田端 (たばた) 」。後方の墓地は、この後訪れる「医王院」の墓地であろうか。社の右側には歴史を感じさせる石塔が三柱立っていた。字が刻まれていたが風化して判読できなかったが右側には「南無妙法蓮華経法界無縁供養塔」とどうにか判読できた。後方からも同様に風化して判読できなかったが説明板が欲しい。社の中には石像が立つ。五体の石像が立っていたがこちらも由緒がなく?。社の左側の木の下にも石像。反対側のバス停下に石碑があった。伊勢講成就の碑碑には「伊勢講成就」「右馬入みち」と彫られている。伊勢講とは伊勢参宮を目的とした講で、江戸時代以前から多くの人々に広く信仰されていました。この碑の側面には「左なんご道」、「右馬入みち」と彫られており、道標でもあったことがうかがい知れますと。こちらの面には「左なんこ道」と刻まれている。田端南町の道祖神、稲荷社所在地:神奈川県高座郡寒川町田端759萩園通り西側の住宅街の道路脇にある、道祖神、稲荷社。生往寺の手前に位置している。道祖神の南側には朱色の鳥居。中央に文字道祖神、廻りには集められたのか多くの石塔群。道祖神の左側に建つ稲荷社。Googleマップには載っているが由緒等の説明板がなく詳細は不明。2本の木が聳えていたが落葉、夏場には木陰になっているのか。稲荷社の中には、小さな狐。14:52東岳山 生往寺 (しょうおうじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町田端756門前の寺号標石には「浄土宗 東岳山 生往寺」。山門からの本堂小田原城を築城し初代小田原城主となった大森氏の子孫、泰次が慶長元年(1596)に開創した寺。明応四(1495)、北条早雲に小田原城を奪われた後、一時甲斐国に逃れ、後、寒川へ来ました。大森泰次・泰定父子の墓が生往寺にあります。また、慶長二年(1597)泰次は一之宮へ車地蔵を建立しました。本尊は阿弥陀如来である。本堂の扁額「東岳山 生往寺」、絵は寅の姿であろうか。本堂前から山門を見る。本堂前に立つ地蔵菩薩像。境内の南東部右側に「永代供養塔」、台座には「倶会一処」と。左側に「無縁墓所の遠山氏」。無縁墓所の遠山氏永代供養塔 阿弥陀如来の意 仏法を不明ならしむる塵垢や災禍の因業を遠く離れて、清浄無垢なる世界へいざなわん 倶会一処 (くえいっしょ) 阿弥陀中の一節 倶に一つの処 (極楽浄土) でお会いできるという意味無縁墓所の遠山氏 茅ヶ崎市萩園村の領主、徳川家に仕え、初代安吉は天正十八年(1590)家康と共に関東へ 入国。三代安重の時には五三○石を知行した。 以降幕末まで代々徳川家の元で萩園村を治めた。生往寺には初代から九代までの墓石碑 が残る。墓地の一段高い所に立派な墓地が建っていた。階段下には「本墓所の使用権はありません 住職」の立札と「立札番号 ⑩」。その墓地の前には、「本墓所において、使用者と連絡がとれず護持会費・出来抜も未納となっております。 墓地使用者もしくは関係者の方は寺務所まで申し出て頂きたくお願い申し上げます。また 令和四年八月六日までに 本墓地使用者、もしくは関係者からの申し出がない場合には墓地の返却手続きをさせてい ただき、それにかかわる費用は祭祀継承者に講求いたします。 令和三年八月五日 生往寺 住職 立札番号 ⑩」と。こちらには「歴代上人之墓」。東岳山永法院生往寺歴代上人開 山 貞蓮社大譽上人頑石文賀大和尚 元和二年二月十日五 世 本蓮社性譽上人崇公大和尚 寛文七年十一月十一日六 世 頓蓮社相譽上人玄達和尚 寛文十二年四月十九日 ・ ・二十九世 見蓮社敬譽上人得阿大慶宗順大和尚 平成二十八年九月十三日宝篋印塔が立ち並ぶ。生往寺 (しょうおうじ) 新編相模国風土記稿に「東岳山と号す。浄土宗増上寺末、本尊阿弥陀、開山文賀元和中 (1615 ~ 1624) 卒」とあります。文賀和尚は小田原の人、開基は菊地下総守泰次 (藤原 姓大森一族) です。宝篋印塔 (ほうきょういんとう) 左 大森泰次墓 東岳院殿往誉生西居士 中 大森泰次妻墓 円鏡院殿生誉妙西大姉 右 墓 碑 永法院殿天誉妙道大姉●永山安重墓 (萩園の旗本) 平成九年三月 寒川町教育委員会宝篋印塔、墓石が並ぶ。宝篋印塔の台座に、 左 大森泰次墓 東岳院殿往誉生西居士 中 大森泰次妻墓 円鏡院殿生誉妙西大姉 右 墓 碑 永法院殿天誉妙道大姉 と刻まれている。3基の宝篋印塔の左側に建つ墓石。宝篋印塔金量院殿菩薩 (菊地泰次妻)金量院殿菩薩 (菊地泰次妻)宝篋印塔 一之宮台畑ヨリコノ地ヘ遷ス 平成三十年八月県道44号線 (伊勢原藤沢線) 沿いに建つ「生往寺 墓地分譲受付中」の看板。先程の事故現場を見るとパトカーが来て検証中。境内に植えられていた河津桜は開花まじか。15:03つぼみをズームアップ。 ー 続く ー
2023.02.27
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この日は寒川町の寺社史蹟巡り2度目の散策に愛車のリンちゃんで出かけた。今回は萩園通りを北上、寒川町の南西地域へ。2月4日(土) 13:55国道1号沿いの鶴嶺八幡宮大鳥居から参道松並木を北上。鶴嶺八幡宮は、平安時代の終わり頃ともいわれる起源をもつ古社である。「八幡大菩薩佐塚大明神両社之記録」という文書に、戦乱により荒廃した神社を復興した別当寺常光院の上人朝恵が、江戸時代はじめ (1650年頃) に東海道 (現国道1号) までの約420間 (約760m) に松を植え、参道を整備したとある。また参道は市指定史跡に、松並木は天然記念物に指定されている。参道の幅が狭く松並木は歩道上にある。参道松並木を北上すると鶴嶺通りの鶴嶺八幡宮前交差点。交差点から鶴嶺通りを西へ進み、小出川に架かる新鶴嶺橋。ここから小出川上流の東側に紅白の梅の木が植えられている。約2百メートルにわたって紅白の梅が植えられており、地元民の散歩道になっている。梅の花の香りが漂っていた。紅梅のつぼみが膨らみ満開前になっていた。ズームアップ。白梅も咲き始めていた。浜園橋は架け替え工事中。川を挟んで東側は「浜之郷地区」西側は「萩園地区」、高架橋は新湘南バイパス。新湘南バイパスの高架橋も耐震工事中。下は浜園橋。小出川の護岸に神奈川県藤沢土木事務所の看板が2枚。「川をきれいに!!」「親水護岸 (しんすいごがん) 」 この堤防はみなさんが水辺に親しむ場所として造られました。 事故のないよう (特に下のことに) 注意して下さい。 (1) 小さい子供たちだけで遊ばないようにしよう。 (2) 川の水が多いときは下に降りないようにしよう。 (3) 危険な遊びをしないようにしよう。 (4) 川をきれいにしよう。 神奈川県藤沢土木事務所 浜園橋架替工事小出川の上流側からの工事現場。現浜園橋上から上流側を望む。新浜園橋の土台。浜園橋架替事業「橋の土台を造っています」令和5年3月10日まで 時間帯 9:00 ~ 17:00浜園橋橋りょう整備工事 (下部工)請負代金額 \253,000,000発 注 者 茅ヶ崎市 建設部 道路建設課施 工 者 亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体 事業目的 本事業は、一級河川小出川において、大雨や台風時に川の水を安全に流すため、橋の架け 替えを行い、川幅を広げ、堤防を整備するものです。 橋の架け替えに伴い今回の工事では、橋の土台の築造を行います。整備スケジュール (予定) 現在の橋の上流側に新橋を建設するようで、令和6年度末に「新橋供用開始予定」と。新橋建設辺りから小出川の上流側を望む。小出川の西側にソメイヨシノの並木があり3月末には咲き乱れる。上流側に萩園橋が架かる。萩園橋からの上流側に圏央道の高架橋。小出川河津桜会場へ立ち寄るがまだ開花前。いつもはこの上流側から下って来る。河津桜の蕾も膨らみ開花は1週間後ぐらいか?萩園通りに出て北上。左側は、珈琲豆自家焙煎の「ビーンズハウス茅ヶ崎」。今日の主目的地(黄色丸内)、寒川町の南西地域。茅ヶ崎市の萩園八坂神社。寒川町の大山灯籠3ヶ所、生往寺、貴船大神、萬部寺、田端西町地神塔、医王院、道祖神数ヶ所。14:15萩園八坂神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園旧萩園村の領主の一人である本多氏の屋敷に、鬼門除けとして勧請されたと伝えられている。何度もこの辺りに来ていたがここ八坂神社もGoogleマップで所在を知り訪れた。萩園通り沿いの西側にあり、寒川町との境界に近い。社の廻りには大きな木が数本聳えていた。社の前には真新しい注連縄。後方から、小さな社である。萩園通りを進み茅ヶ崎市から寒川町に入り、振り返る。寒川町に入り、圏央道下を走る県道44号線 (伊勢原藤沢線) の田端南交差点へ。田端南交差点14:30萩園通りの田端南交差点から戻り、スマホの案内で「大山灯籠」を目指し西方向へ向かう。所在地:神奈川県高座郡寒川町田端 神之倉スマホの案内は「目的地へ到着しました」と、しかし説明板等何もなく見つからなかった。ネットから大山灯籠を探そうと!大山の夏山 (7月27日~8月17日) の期間に灯籠が田端地区の3ヵ所に建てられる。その場所はここ神之倉、他に田端宿、田端東とのこと。この辺りは茅ヶ崎市と寒川町との境界地になっており畑が残っている。道路のマンホールを見ると「さむかわ」、よってここは寒川町であるようだ。大山灯籠から次の目的地「田端二本松の道祖神」へ。スマホの案内で西へ進み県道46号線 (産業道路) を横切る。田端二本松の道祖神所在地:神奈川県高座郡寒川町田端1500付近この辺りも茅ヶ崎市との境界地で新興住宅地になり開発がすすみ道路工事中であった。その角地の一角に所在していた。入口側は工事中であった。宝暦十二年の文字道祖神と廻りに多くの五輪塔が並んでいた。萩園との村境に立っていて綺麗にお祀りされているが、ここも現在田端西地区土地区画整理事業の区域内になっている。果たして道祖神の運命や如何にと(ネットの書き込みから)。県道46号線 (産業道路) と県道44号線 (伊勢原藤沢線) が交差する田端二本松交差点。日本ホーリネス教団 萩園キリスト教会所在地:神奈川県高座郡寒川町田端1480-8県道44号線 (伊勢原藤沢線) の田端神之倉交差点を南下すると、先程訪れた大山灯籠の北側に位置している新しい建物の教会である。上記写真を撮影していて、突然「ガシャッ、パーン」と音がし北側の道路を見ると事故。音がする前の写真をズームアップすると事故車は青信号で停止?事故後の田端神之倉交差点を撮影。回覧板をもつおじさんと「事故ですね」と野次馬で交差点へ急ぐ。事故現場の県道44号線 (伊勢原藤沢線) の田端神之倉交差点。交差点の中に事故車の乗用車と軽トラックが停車。事故車の二人はそれぞれ携帯電話で電話中。運転手は女性で電話中、幸いに両者ともに怪我はなかったようだった。ズームアップ、フロントガラスは破損していなかった。事故車の相手は軽トラックで、男性運転手。14:40乗用車が交差点で交通の邪魔になっていたので軽トラックの運転手が代わり交差点外へ移動。右側の、軽トラックの右側後輪がパンクしていた。軽トラックの側面には大きな破損はなかったが果たしてどのような状況で事故に?軽トラックの信号無視? ー 続く ー
2023.02.26
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寒川神社を参拝後は廻りの寺社史跡を訪れた。2月1日(水) 12:35宮山神社 (みややまじんじゃ)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3854宮山地区に鎮座していた七社の神さまを祀る地域の氏神様です。ここの神社もはじめての参拝である。道路脇に立つ社号標石「末社 宮山神社」。鳥居の扁額「宮山神社」。神池に架かる石橋。寒川神社末社 宮山神社一、御祭神 八柱の神 (合祀神社名) (御祭神名) (旧鎮座地) 琴平社(ことひらしゃ) 大物主神(おおものぬしのかみ) 神戸鎮座 八劍社(やつるぎしゃ) 須佐之男神(すさのおのかみ) 八劍鎮座 雷社(いかづちしゃ) 健御雷之男神(たけみかづちのおのかみ) 雷 鎮座 若宮八幡社 大雀命(おおささぎのみこと) 旭 鎮座 祢岐志社(ねぎししゃ) 聖神(ひじりのかみ) 根岸鎮座 稲荷社(いなりしゃ) 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 中洲鎮座 三峰社(みつみねしゃ) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 上合鎮座 伊邪那美命(いざなみのみこと)一、祭典日 月次祭 毎月 一日 午前八時半 例 祭 九月二十九日 午前十時一、御由緒 寒川神社末社宮山神社は、古くよりこの宮山各地区に鎮座しておりました。 七社の小祠を、現在の社地に御社殿を建て合祀いたしております。 明治四十一年十二月琴平社に八劍社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社が合祀され、 大正三年九月稲荷社が合祀されました。 大正十二年の関東大震災により、社殿が半倒壊するなどの被害を蒙りましたが、昭和 五年国費を以って復旧いたしました。 昭和四十四年九月、三峰社が合祀されております。一、御神徳 宮山神社に白豆腐をお供えして祈ると母乳に恵まれる、と云われています。 子供の安産の願い、母子の健やかな生育を願う祈願等の信仰が今に伝えられています。 また、御祭神の御神徳は厚く、家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣の神 として、宮山地区の人々はもとより、広く一般に崇敬されております。石橋を渡り社殿。社殿を左前から。球体の御影石に「和光」と刻まれた石碑。平和塔 和光今般、大東亜戦争終結二十年を迎え、宮山部落では、往時を回顱し、今後戦争は絶対に之をさけ、永遠の平和をになう意味に於いて、この平和塔「和光」を建立するに至りました。材料は総白みかげ、柱及び玉は磨とし台は八方除に因みて八角、柱は三本にて夫々戦歿者・遺族・国民の三者を象徴し上に支える玉は平和を表すものであります。 昭和四十年八月十五日 宮山区民一同この平和塔は、寒川神社 神鹿苑内に建立されていましたが、神鹿苑整備工事に伴い平成二十一年十一月 宮山神社境内のこの地に移設されました。寒川神社の「神池」から連なる水路に架かる石橋。宮山神社西側の県道を北上、JR相模線の宮山駅への道でもある。道路脇では駐車呼び込みのおばさんが頑張っていた。道路脇に老舗感がある「そば処 八福茶屋」所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3830古民家風で、一階は椅子席が20席 座敷が8席と小さめな店舗で二階は10名~28名席のご宴会が出来るお部屋がありますと。そば処 八福茶屋自家製の二八蕎麦をはじめ季節の食材を使った料理や、日本全国から店主が選んだ美味しい日本酒が常時10銘柄以上、神奈川県の地酒10銘柄と、そば焼酎を手ごろな価格で取り揃えております(ネットから)。今回のシリーズ「寒川町の寺社史蹟巡り」で訪れたいものです。八福茶屋の先に目久尻川に架かる新旧の橋、右には「寒川大橋」の案内板。12:50左は旧道の「宮山橋」、右は新道の「寒川大橋」。新旧の橋の袂には「宮山橋」の碑、親柱であろうか?宮山橋の手前に、「地蔵堂」所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3812-2地蔵堂の社が建ち、廻りには多くの石塔が建っていた。 縁 起地 蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あつ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病息災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平成五年一月現在、六十戸を数えるようになった。 (昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グループ・皆川起司・金子潔之輔氏作成 の文章をもとに作成した。)地蔵堂の前には、右に「道祖神」左に「庚申塔」。地蔵堂内にニ体の地蔵立像があり赤い衣装をまとっていた。子育て地蔵として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをするとのことで後世に伝承されているようだが。目久尻川に架かる宮山橋。目久尻川越しの西側には、JR相模線、圏央道の高架橋。寒川町のマンホール町の花水仙をデザインしている。下部に「さむかわ」「おすい」の文字。寒川神社前の道路脇に朱色の社があったが個人宅のものであった。政治家のポスターの手前に古い石碑。新しい台座の石碑には「馬洗戸橋」と。13:15龍寶山 興全寺 (こうぜんじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1785相模国一之宮、寒川神社代々の神官が祀られており、徳川家康公とも縁のある興全寺は寒川神社の東隣に創建された曹洞禅宗の寺院である。興全寺山門山門前には二本の寺号標石「龍寶山」と「興全禅寺」。山門を入ると右側に神輿殿が建っていたがお寺に神輿殿があるのは珍しい。表札には「湘南連合神輿保存會」と。興全寺は、天正年間(1573-1592)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。当地には、かつて大観寺と称する寺院があったと伝えられる。看板には『水子供養・子授け安産御祈祷 相模地蔵菩薩』と。本堂前には香炉が置かれていた。一段高い所に建設された本堂本堂の扁額「興全禅寺」曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来 大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんし)伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し 脚下照顧して己の足下を見つめ自然(宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが 禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に先ず合掌境内では寒川町の花、スイセンが綺麗に咲いていた。畜霊碑とペンドレーバグルボーイ二世号之墓碑の由来についてこの蓄霊碑は、寒川町内で飼育され人々の食生活のために貢献した家畜に対し感謝し、その霊を慰めるため昭和四十二年にこの場所に建立したものである。また、高座豚の元祖であるペンドレーバグルボーイ二世号の功績を讃えた碑が畜霊碑の隣に建てられているが、ペ号は昭和六年に全国に先駆けて当時の郡農会が品種改良のために英国から輸入したもので、寒川では昭和九年から管理され種付け頭数も六百余頭に及び全国にその名声を博せる高座豚の基礎を確立した。毎春、畜産会員及び関係者により供養のため畜霊祭をおこなっている。 維時平成二十四年六月 寒川町畜産会畜霊碑とペンドレーバグルボーイ二世号之墓境内には左側に「とんがらし地蔵」、右側に二基の「宝篋印塔」が並ぶ。とんがらし地蔵昔からいぼとり地蔵として有名で地蔵の前の線香の灰をイボにつけるとイボが取れるといわれており、合掌しながらじっと対面すると、心がなごみ、和らぎを感じられるそうです。イボが取れたお礼には、自分の年の数だけトウガラシを数珠にしてかけることになっていますと。二基の、宝篋印塔宝篋印塔* 右 貞治七年 北朝年号(一三六八)建立* 左 貞治六年 北朝年号(一三六七)建立 寒川町指定重要文化財第十一号 昭和六十年四月一日指定宝篋印塔は「宝筐印経記」によると応和元年(九六一)、中国より日本に伝えられたもので、「宝篋印陀羅尼経」を塔中に納め礼拝すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわるという功徳が説かれていたが、鎌倉中期以降墓碑塔、供養塔に変化していった。この塔は地蔵信仰にかかわりのある宝篋印塔で、寒川町内最古のものである。 寒川町教育委員会境内に聳える「相模地蔵尊」子供たちが親や人生の先達を敬い、自分が人々の力によって生かされていることに感謝する心をもち、お互いを尊重し合い、心を養うことができるよう願いを込めて建立されたと。相模地蔵尊の足元には多くの地蔵尊。子安地蔵興全寺の本堂13:30信玄芝原公園 (しんげんしばらこうえん)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1766-1興全寺東側の県道46号線を挟んだ東側の田んぼの中にある公園。県道46号線 (相模原茅ヶ崎線) を振り返る。進入路がせまく駐車場がないので県道沿いに車を停め訪れた。公園は寒川神社の東に位置し、公園の周りの道は狭いです、駐車場は有りませんので要注意!(寒川町観光協会ブログ等より)。また、寒川駅周辺マップにも記載されていない隠れた史跡である。公園の西側入口の門廻りは整備されていた。公園入口には「信玄芝原公園」。公園に聳えるケヤキ。永禄十二年 (一五六九)、武田信玄が小田原攻めの途中、戦勝祈願のため寒川神社に立ち寄った際に、兵を休めたところと伝えられています。この時奉納されたと伝えられる、天文六年 (一五三七) 明珍房宗作の六十二間筋兜は寒川神社に保存され、平成十一年 (一九九九) 神奈川県指定重要文化財となりました。 寒川町教育委員会公園内にはこの説明板が一枚あった。公園の北方向、廻りは田んぼ。フジ棚の下にはベンチが置かれていたので訪れる人もいるのであろう。入り口方向。13:50小出川の河津桜会場信玄芝原公園からの帰路、小出川の河津桜の開花状況を見に立ち寄った。ところどころ咲いていたがまだ蕾は固い。2月中旬が見頃になるのか。14:15かつや 茅ヶ崎今宿店遅い昼食をとりに、いつものかつやへ立ち寄る。ロースカツ定食 (792円) を食べる。今回は100円の割引券があり税込みで約700円。今回も豚汁が美味しかった。 END
2023.02.20
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この日は寒川神社へ古いおふだを納めた後、南にある端午橋、西善院を参拝し寒川神社へ。2月1日(水) 12:10相模の國一之宮 寒川神社所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916相模國一之宮。式内社で、旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。 関東地方における著名な神社の一つであり、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れる。初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多い。太鼓橋の神池橋。神池橋の先に三之鳥居寒川神社の詳細は「寒川神社」👈 をクリック願います。三之鳥居は、境内にある桧造りの明神島居。平成ニ年(1990)・皇紀二六五〇年奉祝記念事業として建て替えられた。神池橋の上から南を望む。前は寒川神社前交差点で駐車場への車でいつも渋滞。右斜め方向に参集殿がある、手前に道路に挟まれた三角地帯。寒川神社御祭神 寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと ) 二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。例祭日 九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)由 緒 当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献 上品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の 歴史を有しています。 以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に 神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されま した延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の 中心をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武 田信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜 (神奈川県指定重要文化財) が奉納 されるなど特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より 武家からの崇敬は極めて篤いものがありました。 明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭におい て国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。 その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和二十年八月 十五日、大東亜戦争の終戦後、同年十二月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃 止されました。昭和二十一年二月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を 目的として、全国の神社及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本 庁による包括神社となっております。 戦後、日本全体の復興とともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努め、全国の崇 敬者からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。社 殿 平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行 われました。境 内 神聖なる神嶽山を背に、約一万五千坪を有しており、平成二十一年には御本殿奥庭の禁足 地を「神嶽山神苑」として開苑致しました。境内のご案内神嶽山神苑 ⑪ への入苑、また方徳資料館 ⑫ への入館は、御祈祷を受けた方に限ります。私も一度入苑したが。神池の噴水の先に「石橋 (しゃっきょう)」が見えた。石橋 (しゃっきょう)昭和45年から、毎年8月15日に開催される「相模薪能」の20回目を記念して作成されたもの。寒川町在住であった彫刻家、原田純成氏の作品である。参道の左手に大きな石碑と下部には詳細な案内碑があった。重修寒川神社太鼓橋記 陸軍大将大勲位熾仁親王篆額相模國高座郡の寒川神社は、平安朝の延長五年(九ニ七)、延喜式に大社と記載される国家公共の祭場であるあり、明治四年(一八七一)六月に天皇の大命によって國幤中社に列せられた。古記によって創建を考えると神亀四年(七ニ七)、・・・(後略)相模国一之宮寒川神社「神池橋」記「重修寒川神社太鼓橋記」によりますと、鎌倉時代以降、多くの武将たちの崇敬をあつめ、広壮な御神域と御社殿を有した寒川神社は、天正年間以後次第に御神域が荒廃し、明治の初めには、昔の姿を留めていなかったとあります。・・・(後略)参道の右側に置かれている鳥居。一ノ鳥居 記この鳥居は当神社の一ノ鳥居で寛政八年 (西暦一七九六年) 木内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政二年江戸大地震、大正十二年関東大震災、二度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約三・三m)柱間一丈(約三m)明神鳥居。当時をしのびここに設置する。 寒川神社社務所参道右側に「石灯籠」。石灯籠の先に「祝奉 天皇陛下御即位二十年記念植樹 平成二十年十二月二十三日」の立札。右手に「梛(なぎ)」、左に「黒松」が植樹されている。黒松と梛松は日本を代表する木であり寿命が長く冬の寒さに耐え常に緑を保つことから長命の表象と仰がれております。梛は古来その葉に神霊が宿るとされこれを守り袋に秘めて災難除にするなど縁起のよい木として崇められております。この度は謂れのあるこの二本の木を記念植樹し皇室国家の弥栄と氏子参拝者の守護をお祈り致します。 寒川神社社務所 御祈祷のご案内八方除(はっぽうよけ)について八方除とは、東 (卯) 西 (酉) 南 (午) 北 (子) の四方と東北 (艮:うしとら) 東南 (巽:たつみ)西北 (乾:いぬい) 西南 (坤:ひつじさる) の四隅のことで古来より、この八方を基本にして、これに陰陽五行・十干十二支・九星八宮等を配当して家相・方位・運勢等の吉凶が判断されております。現代社会において生活する我々にとりまして、理想的な方位の法則に従って行動することは不可能な場合が多くあります。八方除信仰は寒川大明神に御析念を捧げることによって建築・転宅・開業・縁組・旅行等、私たらの暮らしに関わる方位の不安を解消してわる方位の不安を解消しご家族皆様方の暮らしに無病息災・福徳開運をもたらす御神徳があります。寒川神社は唯一の八方除の守護神として、八方除祈祷と八方除神礼の授与を行っております。御祈願 初穂料 中 式 三千円 以上 板剣神札・御守・御神土・御箸・御神供・御神酒 大 式 五千円 以上 板剣神札・八方札(九体)・御守・御神土・御箸・御神供・御神酒 当座式 一万円 以上 当座式御幣束・板剣神札・八方札(九体)・御守・御神土・・・・ 一代式 三万円 以上 一代式御幣束・板剣神札・八方札(九体)・御守・御神土・・・・ 永代式 五万円 以上 永代式御幣束・板剣神札・八方札(九体)・御守・御神土・・・・境内のご案内① 御本殿 、② 神門、③ 神馬舎、④ 手水舎、⑤ 南門、⑥ 納札殿、⑦ 客殿 ~ ⑭ 馬場⑭の馬場では、毎年9月19日に流鏑馬神事が行われているとのことで今年は訪れたい。大東亜戦争後の翌年の元旦に昭和天皇が詠まれた大御歌(おおみうた)「御製 松上雪 ふりつもる みゆきに耐えて 以呂(いろ)かへぬ 松ぞ雄々しき 人もかく阿禮 (あれ)」深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を、雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われた大御歌である。手水舎コロナの関係で水は流れていたが柄杓は無かった。手水舎に掲げられていた「二月の祭典」一日 午前八時 月次祭 一般の方もご参列可能と。節分の日 午前十一時・午後二時 節分祭十一日 午前十時 紀元祭十七日 午前十時 新年祭 並 田打舞神事二十日 午前八時三十分 月次祭二十三日 午前十時 天長祭手水舎の東に社務所、左に客殿。神門の迎春ねぶたタウンニュースで正月の風物詩である迎春ねぶたが昨年12月20日、同社神門に設置されたと。設置期間は2月23日(木)までで、日没から午後10時まで点灯すると。これを見たくてこの日訪れた。制作を手掛けたのは、ねぶた祭で県知事賞等の受賞歴を持つ青森ねぶた師の北村春一さん。今年は「家族の絆」をテーマに、国家安泰と五穀豊穣の神様・瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)と、安産と子授けの神様・木花咲耶 (このはなさくや) 姫を題材に制作したと。ズームアップ。左側に「瓊瓊杵尊と木花咲耶姫 北村春一 作」と。左側には、「おみくじ結び処」があり多くのおみくじが結ばれていた。ズームアップ。右側の狛犬左側の狛犬神門の左側にはバリアフリーの通路が設置されている。車椅子に乗って直接社殿まで行ってお参りできますと。神馬舎 (しんめしゃ)昭和天皇在位50年を記念し作成された。中には、神様の乗り物である白馬と白馬を守る猿の彫刻が納められている。彩色木彫家の平野富山氏の作品で、鞍の彩色が見事で迫力があると。神門を入ると正面に拝殿、本殿。御本殿前の境内は石畳になっており車椅子での移動がスムーズになっている。御本殿前左側に御神木の杉の木が聳える。御本殿を見上げる。平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われた。御本殿内では御祈祷が行われていたが撮影禁止に!御本殿前からの神門、廻廊。平成の御大典記念事業として平成五年に再建された神門。新しい「絵馬付破魔矢、お守り等」を購入することに。2月になり販売所も少なくなっていた。御本殿を振り返り引き上げることに。神符守札授与所この時期売り切れの品物が多くなっている。神門の脇門から御本殿を見る。新しく整備された植栽エリア。さざれ石 (天然記念物) 岐阜県伊吹山産出この石は学名「石灰質角礫岩 」といい、石灰岩が永い年月かけて雨水で溶解され、その粘着力の強い乳状液 (鍾乳石 と同質) が小石を凝結しながら次第に巨巌に成長し河川の浸蝕によって地表に露出した後に苔むしたものです。「君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」と平安時代に編纂された古今和歌集に納められ詠まれたのがこのさざれ石であり、日本の国と国民が共に千代に栄える様願った慶賀の石です。 寒川神社社務所新しく植えられた「彬姫櫻 (あきひめざくら)」が2本。3月になると彬姫櫻や横浜緋桜、珍しい緑桜などがみれる。彬姫櫻 (十六夜桜 新種)植藤造園 (京都市) の第十六代当主 佐野藤右衛門氏によって発見された十六夜桜の新種です。薄紅色の花をつけるこの桜を彬子女王殿下がとても好まれたことから、女王殿下のお名前の一文字を入れた「彬姫櫻」と命名することを藤右衛門氏がご提案され、快くご了承いただきました。平成ニ十九年十ニ月ニ十一日に彬子女王殿下の御台臨を仰ぎ彬姫櫻植樹式が盛大に挙行され女王殿下がお手植えされた慶賀の桜です。 寒川神社社務所12:35神門に掲げられた迎春ねぶたを見、寒川神社を後にした。 ー 続く ー
2023.02.19
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寒川神社神門の迎春ねぶたが2月23日(木)まで設置とのことで、古いおふだを返しに車で出かけた。併せて今年は寒川町の寺社史蹟を巡るので、その手始めに寒川神社廻りを散策した。2月1日(水) 11:40JR相模線の踏切を渡ると、寒川神社一之鳥居。一之鳥居横に建つ大きな「寒川神社表参道」の石碑。寒川神社表参道は一方通行になっている。梅の花が開花していた。JR相模線の「大門踏切」寒川神社表参道を進むと、寒川神社二之鳥居。寒川神社廻りには多くの駐車場があるがどこも「満車」で入庫待ち状態。個人が運営している有料駐車場は正月は1,000円であったがこの時期は500円と割安に。県道46号線沿いにある寒川神社第四駐車場は無料でスムーズに入庫できた。第4駐車場から歩いて南下、寒川神社へ。前方は、寒川神社第三駐車場 二輪車駐輪場で二輪車のお祓いを行っている。寒川神社が運営する駐車場は無料でここは神社に近いので混雑していた。まず古いおふだを返却に「南門」へ。南門前に建つ狛犬(右側)狛犬(左側)南門を入ると社務所前に「おふだ納め所」。正面には客殿祈禱受付があり多くの人が訪れていた。古いおふだを納めた後、寒川神社二之鳥居まで南下。この鳥居は昭和41年(1966)完成、幅22.3mの鉄筋コンクリート製の神奈川県内最大級である。寒川神社二之鳥居の北側にある「目久尻川水管橋」。水管橋に付けられていた銘板には、「横浜市水道局 目久尻川水管橋 昭和39年1月竣工 三菱日本重工業株式会社 横浜造船所 製作」と。三菱日本重工業株式会社とは、戦後、旧三菱重工業の解体により1950年発足した東日本重工業(株)は1952年三菱日本重工業(株)に社名変更、1964年(昭和39年)3社の合併により再び三菱重工業(株)となった。水管橋には「限りある水を大切に! 横浜市水道局・横須賀市上下水道局」と。水管橋下から目久尻川の上流側を望む。目久尻川に架かる「端午橋(たんごばし)」端午橋から下流側を望む、左前方には寒川神社二之鳥居、下流にも寒川浄水場からの水管橋。端午橋の西側からの水管橋。西側の欄干には「端午橋」。端午橋の上流側に架かる、目久尻川水管橋。横須賀水道共同施設「寒川取水事務所」で取り入れた水道原水を「小雀浄水場」へ送る導水管。導水管は、支間長 38.5m、口径 200cm。橋上から見上げ口径は2メートルもあったか?橋の東側に4基の新旧石碑群。一番右の石碑には「◯明橋」と。左側には「文字道祖神」。平成二年十二月建立の新しい石祠。左側に寒川神社参集殿があり、右斜め方向に進むと寒川神社。正面の三角地帯には「石燈籠(八方燈籠)」があり、春先には「八重紅枝垂桜」が咲く。寒川神社手前にある、高野山真言宗 霊信山西善院。寒川神社へはもう何度も参拝しているがここにお寺があることをGoogleマップで知る。高野山真言宗 霊信山西善院 (さいぜんいん)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3925本堂前の境内には二つの常夜燈が建っている。入り母屋造りの本堂弘誉法師が寛文11年(1671)に創建、貞誉法印が開山したと伝わる。当院は寒川神社の供僧として、節分の際に神酒を供え、1・6・11月の8日祭、12月の不動仏供を執行する役目がを担っていた。明治維新後の神仏分離令により当院は寒川神社から独立した。本尊は阿弥陀如来坐像。本堂の扁額「西善院」。左右に木鼻があり、左側の木鼻。木鼻 (左) をズームアップ。本堂の正面には見事な彫刻。本堂前の右側に「握手大師」像。この握手大師と握手をすれば弘法大師と縁を結ぶとされる。足もとには「握手をして弘法大師様と縁を結びましょう 南無大師遍照金剛」と。木造地蔵菩薩及両童子立像 (附胎内納入地蔵菩薩坐像) 寒川町指定重要文化財第十三号 昭和六十一年六月ニ十日指定この立像は、寒川神社の別当寺であった薬王寺の本尊でした。中尊は通常の尊容であり、脇侍として掌善、掌悪両童子を伴っています。地蔵善薩の像容は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ一般的な姿です。何度か改修されたようであり、中世から近世の作と思われます。胎内に地蔵菩薩が納人されています。坐像で南北朝時代(1332~1356)の作と考えられます。また、両童子は明和八年(1771)江戸時代の作です。 像 高・・・中 尊 八十・五cm 掌善童子 四十四・七cm 掌悪童子 四十四・〇cm 胎内納入像 十一・三cm 品質・構造・・・地 蔵 寄木造・玉眼・漆箔 (新補) 胎 内 仏 一木造・彫眼・彩色・金泥・文様入 平成二十一年三月 寒川町教育委員会霊信山 西善院御本尊 阿弥陀如来宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同ニ年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊那郡高野町宗 祖 弘法大師 (空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和ニ年(八三五)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御法号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕れであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現す るために、生かせいのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の 御宝号念誦運動(ごほうごうねんじゅうんどう)は、弘法大師の共利衆生の精神に立 って、すべてがいのちを共にしている社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は、未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥之院に入定留身 されています。 同行二人の信仰のもと 大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの努めで あり喜びです。客殿入口にかわいいミッキーマウスの石像。こうやくん平成27年の高野山開創1200年に向け、平成の高野聖として「こうやくん」が誕生した。本堂前の左横に、修行大師立像。台座には「南無大師遍照金剛」。大師の姿は墨染の衣を裾短に着て檜笠をかぶりゴザを背負う特徴的な姿である。本堂前から境内を望む。境内の北側に「西善院大師堂」と六地蔵。六地蔵石碑には「西善院本堂・客殿・庫裡建設寄附者芳名」碑。高額奉納者は、壱千五百萬圓、壱千萬圓、五百萬圓、四百五拾萬圓、参百萬圓、弐百五拾萬圓は各一名、弐百萬圓は十三名、・・・・・低額でも、弐拾五萬圓が一名、弐拾萬圓が一名、壱拾萬圓が七名、参萬圓が一名と会社 平成元年四月吉日境内の山門右側に、移設されたのか歴史を感じる古い石仏・墓石が残されていた。中央に、地蔵菩薩の梵字と立像「享保十五庚戌年 (1730) 十二月廿日」と刻まれていた。修行大師後方から山門を見る。12:10西善院を後にし寒川神社へ向かう。 ー 続く ー
2023.02.18
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西町集會所(薬師堂)から旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)を東へ進む。5月8日(土) 14:05旧大山街道に小さな案内板「梶原伝七士の墓」、「この奥右」と。一宮館址案内図道路から南側に入ると石碑が建つ石碑には、「濱降祭駐輿記」相模國一宮國幣中社寒川神社濱降祭有里古例爾依里七月十五日神輿茅ヶ崎南湖濱爾渡御在良世良留此乃日近郷近在十数社乃神輿供奉志縣下唯一乃盛儀奈里還幸乃途次一ノ宮當所爾御休憩御發輿爾當里清淨乃地爾栽培世志麥〇爾火乎〇自神輿爾投牙掛久留故事有里當地乃舊家川崎家爾氏代々奉仕世里茲爾其乃所以乎刻志永久後世爾傳閉牟登須留爾當里需爾依里記須事斯久乃如志 昭和8年6月 國幣中社寒川神社宮司正七位橋本甚一撰書石碑の横に駐輪し奥へ入る梶原伝七士の墓梶原源太景季公梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永3年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「磨墨」共に武名をあげる。同年2月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿し 「かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん」と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。 平成20年5月 梶原公顕彰会二十周年記念事業伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓集められた石造もあるようだ伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治2年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏に復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。 平成21年3月 寒川町教育委員会この辺りは宅地化され散らばっていたものが集められているようだ県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)の松戸橋交差点南側にある、松戸橋の橋標と、寒川町南部教育発祥地の碑。かつては橋があり、川が流れていたが今は川は埋められている14:11県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ進む。北側に「日蓮宗 妙光寺」日蓮宗 如日山妙光寺所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目24-35宗 旨名称 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長5年4月28日(鎌倉時代西暦1253年)本尊 久遠の本師 釈迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人のし あわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌新しい本堂本堂の扁額「妙光寺」本堂前に、日蓮大聖人尊像境内の片隅に社扁額は「正一位 稲荷大明神」14:18旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)沿いに建つ一の鳥居一の鳥居の扁額「八幡大神」一の鳥居横に建つ石碑裏面には、東海道の四ツ谷(藤沢市)を起点に大山へ至る街道、田村の渡しで相模川を渡ることから田村通り大山道と呼ばれ、江戸から鎌倉・江ノ島を経由して大山詣りをする際によく使われた。特にここ一ノ宮は中原道とも交わる交通の要衝で、旅館 茶屋をはじめさまざまな商店が軒を連ね賑わいをみせた。 令和元年5月吉日建立 和田 邦夫 八幡大神(はちまんおおかみ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目21-10社殿の前に二の鳥居、手水舎社殿の扁額「八幡大神」社殿前本殿の右側(東)にある広い境内には、屋台保存殿、神楽殿宗教法人 八幡大神一、御祭神 誉田別尊、大日貴神、倉稲魂命、大山咋命、奥津比古命、奥津比女命、大雀命、 菅原天神一、由 緒 元禄10年(1697)8月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃三夜牟良 (さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されていたと推定 される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺持より村持 となり、社格制度制定により同6年、村社に列せられ、更に村内の数社を合せ祀り一之宮 の氏神様としての姿を整える。 大正12年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同15年本殿他を再建す。昭和20年の 終戦により宗教法人となる。 同45年、屋台保存殿を新築、同58年12月、社殿の屋根葺替並改築・神楽殿、社務所の新 築に着手し、氏子崇敬者の浄財により同59年6月完成し、本遷座祭並奉祝祭を齋行す。 一、境内地 三二四坪(一〇六九平方米)一、境内社 稲荷社一、祭 事 歳旦祭 1月1日、節分祭 2月節分、虫送祭 6月夏至に近い日曜日、浜降祭 7月 第3月曜日海の日、例祭 8月1日、七五三祝 11月上旬、大祓式 12月28日 平成21年1月21日社殿左奥にある境内社の稲荷社ここの石造群も集められたのか竪空地神塔、二十三夜供〇塔 ほか社殿横から二の鳥居二の鳥居をくぐると左側に同一台座上に2つの石碑がある。右側が大震災紀念碑で殃死者18名の氏名と年齢が刻まれ、左側は大正4年の玉垣建造碑社殿前から、参道、一の鳥居をのぞむ14:25旧大山街道からの一の鳥居14:28旧大山街道(県道44号線:伊勢原藤沢線)の景観寺前交差点天台宗 窪田山 景観寺(けいかんじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目18-15開山は行基、創建年代は天平宝字元年(757)との伝承がありますが、寺容がととのったのは、棟札等によれば天文5年(1536)ごろと考えられています。本尊の十一面観音立像は室町時代の作で、ヒイラギ材の素木を用い、雅やかな作風です。境内西側の小高い岡の上には鐘楼堂があり、明和7年(1770)鋳造の鐘が時を告げていましたが、戦時中に供出されたため、今は堂のみが残されています景観寺本尊「十一面観世音菩薩立像」 寒川町指定重要文化財第一号 昭和45年11月20日指定 室町時代の作と推定される。 座高 105.3センチメートル 木造割矧造玉眼宝篋印塔(ほうきょういんとう)景観寺の僧回国行者念求は享保8年(1723)から3年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保12年(1727)7月10日願いが成就してこの塔は建立された。 寒川町教育委員会山門を入り境内へ町内に現存する最古の建造物。内部は天和3年(1683)に再建された状態を遺している景観寺本堂本堂の扁額「景観寺」山門を入ると寄進 お大師堂 平成十年秋 寄進者名こちらには地蔵さま本堂前に建つ宝篋印塔景観寺の僧回国行者念求は享保8年(1723)から3年半をかけ全国の霊場を行脚し、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保12年(1727)7月10日願いが成就してこの塔は建立された境内西側の小高い岡の上には鐘楼堂があり、明和7年(1770)鋳造の鐘が時を告げていましたが、戦時中に供出されたため、今は堂のみが残されていますとあったが新しく鋳造されたようで、平成12年12月吉日十一面観世音菩薩こちらの面には「南無釈迦牟尼佛」本堂前に戻る14:36景観寺を後にする15:10旧大山街道を走り自宅へ到着、帰宅時のバッテリー残量は、80%で走行可能距離は72km。従って今日の走行距離は、92-72=20km でした。歩行数は3,700歩。 END
2021.06.28
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川とのふれあい公園から圏央道高架橋下へ。このあと、今日の目的でもある、「水道記念館」を目指す。5月8日(土) 12:44ちょうど昼時で、道路脇に車を停め車中で休憩。右側は寒川浄水場神奈川県企業庁 寒川浄水場所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4271業務内容 ・相模川の表流水を寒川取水堰から取水し、浄水処理(凝集沈澱・ろ過・消毒)と水質管理 を行い、安全な水を安定して供給しています。また、配水池やポンプ所等の監視や制御を 行うための配水運用管理システムを設置し、その運用管理を行っています。 ・寒川浄水場では、浄水した水道水を次の11市4町に給水しています。 平塚市、茅ケ崎市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、逗子市、厚木市、大和市、伊勢原市、海 老名市、綾瀬市、寒川町、大磯町、二宮町、葉山町門柱の「寒川浄水場」12:50浄水場の公道に道路標識道路脇にあった看板寒川浄水池〔災害用指定配水池〕この浄水池は、寒川浄水場で浄水された水を貯えて、湘南・西湘及び県央地域の皆様に供給するために築造されたものです。また、この浄水池は地震などの災害が発生した場合に、応急給水に必要な飲料水を貯えておく施設として指定されており、浄水池に貯えられた水は給水区域内の市や町の給水車などに注水します。 神奈川県企業庁寒川浄水場寒川浄水場平面図概要 構 造 鉄筋コンクリート造 大きさ 第2浄水場 56.0m×28.0m×3.0m×2池 第3浄水場 (72.0m×13.0m×4.0m+72.0m×6.3m×2.2m)×4池 容 量 28,376m3(6池) 確保水量 (災害時)19,620m3神奈川県企業庁寒川浄水場排水処理施設寒川浄水場排水処理施設PFI事業で、某社が平成18年4月1日から20年間に渡り、維持管理・運営並びに浄水発生土の再生利用を行うことになっておりますと。神奈川県企業庁 水道水質センター所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山4058-2主な業務:水道水質管理の企画・調整、水質の検査、水質の調査・研究目久尻川に架かる「いこい橋」上流側の水管橋下流側にも水管橋いこい橋のこれは?12:58”水と緑と光” 寒川浄水場いこいの広場この寒川浄水場は、昭和8年に県営水道が創設されたときに、その”かなめ”となる浄水場として設けられ、今日まで皆様の大切な飲料水を一日も休まずに造りつづけております。この広場は、県営水道が50周年をむかえたことを記念して、その発祥の地であります寒川浄水場の一部を利用し、水と緑と光をテーマに「水道記念館と水の広場」「プール(寒川町営)」「テニスコート」を備えた広場です。「水」についての知識を深めていただくとともに、「緑と光」のなかで、水に親しみ、スポーツを楽しんでいただき、いつまでも皆様の”いこいの広場”としてご利用ください。 昭和59年3月 神奈川県企業庁臨時休館のおしらせ!!令和3年1月9日(土) ~ 当面の間新型コロナウィルス感染拡大防止のためお休みさせていただきます。 「水の広場」にも入ることはできません。この貼り紙で、今日の目的であった「水道記念館」の見学は出来ず。寒川浄水場いこいの広場から、目久尻川の上流のいこい橋と水管橋。仕方がなくあきらめて帰ることに、いつになったら見学できるのか・・・・・・・・・さむかわのおすいマンホール蓋寒川町のマンホールには町の花のスイセンがデザインされています。マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて花を咲かせて、円の中心で3個の蕾の先端がくっついている。13:10昼も過ぎお腹が空いたのでいつも行く、とんかつ店へ立ち寄ることに。隣にはまだ入ったことがない「そば膳処」もとんかつ水龍 寒川店所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山126-1寒川の人気とんかつ店である二階の座敷へ案内されるが、和室のテーブル席へ席もコロナ対策でアクリル板で区切られているこの時はアルコールを注文できたが、現在はどうなっているか、当然アルコール類は出ないであろうが注文の「とんかつ定食」900円キャベツ、ご飯はお代わり自由13:40久しぶりのとんかつを食べ店を出る。次回はワンランク上げて寒川駅前通りから振り返る県道46号線(相模原茅ヶ崎線)を南下、梶原景時館跡へ向けて進む。この先の一之宮小入口交差点を左折して県道44号線(伊勢原藤沢線)13:48一之宮小入口交差点を左折してすぐ南側に位置する「梶原景時館跡」所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6駐車場がなく広場へ駐輪するが個人用で移動梶原景時館跡梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。 平成21年3月 寒川町教育委員会一宮館跡案内図寒川町梶原公顕彰会会報(梶原) 八〇〇年記念特集号の図をもとに作図石鳥居を潜ると、「梶原景時館址」、「浩宮徳仁親王殿下 御成記念」浩宮徳仁親王殿下 御成記念 昭和54年9月11日 現天皇が19歳の時の訪問で、鎌倉時代or源頼朝に興味が有られたのか後日(6月8日)訪れた、伊東市の「伊東祐親の墓所」にも石碑が建っていた。訪問日は確認できなかったが、伊東祐親(すけちか)も流罪にされた源頼朝を伊東で預かった人物である記念樹 梶の木梶原公顕彰会 建立 平成23年3月これも何かの跡であろうか、説明板がなく不明。石碑には「天満宮遺蹟碑」。下方に文字が刻まれていたが風化して読みとれず。二本の樹に挟まれた天満宮石碑の奥にある天満宮の祠は、梶原氏の風雅をたたえ里人によって創建されたと伝えられている。隅にも社があったが。小さな祠であるが南側からの天満宮。館跡の隅に「角落とし」。角落とし両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流の調整をしたり、堰き止めなどする装置。西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けられ増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。 平成28年3月13:57梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ進むと直ぐにある。西町集會所(薬師堂)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31車の場合はここへ駐車可能であろう。梶原景時と一宮館址梶原平蔵景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさまざまな重職に携わりました。頼朝の死後、・・・・・・・・・・・(後略)(追)土肥実平公夫妻の像がJR湯河原駅前に建っている。ロータリーに立つ『土肥實平(どいさねひら)公並夫人像』と『土肥氏館阯』碑2020年3月6日(金) 撮影梶原氏の足跡治承 4年(1180) 石橋山の合戦で敗退した頼朝を助ける。 ・ ・ (中略) ・建久10年(1199) 頼朝死す。 将軍頼家「古書始」に十三宿老の一員として列席、侍所別当と傍注あり。正治 1年(1199) 景時公弾劾の署名を66人の御家人が提出、一宮館に下向。正治 2年(1200) 一宮館を後に京を目指す。 途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)にて合戦、一族滅亡。因みに2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、悲劇の梶原景時を、歌舞伎役者・俳優の中村獅童さんが演じられます。以下二枚の写真は説明板から梶原景時館址〔一之宮天満宮〕(昭和3年、寒川名所絵はがき)(伝)七士の墓(昭和30年頃、臼井彦太郎氏撮影)一宮館址案内図集会所となっている薬師堂西町集會所 薬師堂集会所の入り口横に地蔵 — 続く —
2021.06.27
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