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引き続きいろんな文献の引用。ってこれ引用の範囲超えているかねえ…雑だし。皆様買って頂き、著者の皆様に感謝!(今さらか。。。。絶版本は横浜市立図書館、三浦市立図書館、神奈川県立図書館のどこかにあります(本当に雑だ…年表でたどる上宮田三浦海岸シリーズ1長島文夫編p133年大地震、三崎で2.8m隆起。818年大地震。相模湾でM7.9.津波。三崎1.7m隆起。878年 地震。関東諸国でM7.4。地すべり、家屋崩壊。p31257年 関東何尾で地震。山崩れ、家屋に損害、地割れ。1293年 鎌倉で地震。死者2万3000人。1498年明応7年8月25日大地震。鎌倉由比ガ浜で大仏殿が流され200人溺死。p91703年元禄16年11月22日 南関東大地震M8.2 剣崎1.2m三崎1.6m隆起松輪福泉寺が津波で流出 大浦浜から現在地に移る。1707年宝永4年11月23日 富士山噴火。大地震。灰が降りてくる。P121770年まつわ村沖で赤潮。漁業の被害甚大。p131791年関東豪雨。小田原~江戸で津波(高潮?)p231853年 関東地方地震(小田原大地震)p241854年 第一回安政地震。津波で浦賀被害甚大。翌日に同規模の大地震。1855年 安政大地震(江戸大地震) 上宮田で多数死者。p281869年 三浦半島付近で群発地震。有感97回。3月20日~4月13日。p511923年関東大震災。各地で隆起。剣崎の灯台が倒壊。沖の島(高抜沖)近くまで海水が引く。1924年大地震。三浦海岸シリーズ(4)年表でたどる上宮田 増補新訂長島文夫編781年 富士山噴火 870年までたびたび噴火。1210年 この頃天変しきり。雷雨や地震が毎日。同年 ほうき星が東の方に発生。これで年号が変わる。1241年相模湾沖で大地震。1245年鎌倉大地震1252年も鎌倉大地震1305年にも鎌倉大地震1369年大雨と風で大仏殿倒れる。1433年関東で大地震1525年大地震。由比ガ浜の浜や川、入り江、沼が埋まり、平地となる1604年関東、東海大地震 津波が激しい。※1624年頃からイワシ漁のマカセ網が普及。1740年ごろまで大漁。しかしその後不漁。p75関東大地震だが、(上宮田は)津波は干潮のみあった(引く波だけ?)各地の津波、熱海で1.2m、三崎で6m関東大震災と三浦半島毛塚五郎著p32海軍工廠の検潮機が地震を予知?よこすか海軍工廠の検潮機の潮高曲線表は地震前の7時30分から振動を感じていた。絶えず、10年間の平均の高低を上回ったり、下回ったりしていた。p36油壷の陸軍陸地測量部が設置していた検潮機によると、震災後の平均の潮位は震災前より1m44cm下がっていた。逆に言えば土地が1m44cm隆起していたことになる。浦賀港の場合、沿岸より10mほどが干潮のようになった。三崎港も同様。船舶の航行は危険となった。連合艦隊が測量を開始。横浜より北の木更津側は変化なし。南側の土地が隆起。南にいくにしたがって隆起は著しい。房総半島は2尺隆起。館山で4~5尺隆起。洲崎付近で6尺隆起。三浦半島は横須賀、浦賀は2~3尺隆起。剣崎、三崎は4~5尺隆起。厨子、鎌倉、江ノ島は2尺隆起。伊豆半島。真鶴が2尺隆起、伊東が1尺、下田はさらに少し隆起した程度。ただし、真鶴崎の近く笠島は8尺隆起、初島では7尺隆起。また、伊豆大島は隆起なし。p38水深の変化。東京湾変化なし。相模、房総半島東側は1ヒロ浅くなっている。相模湾の一部で著しい変化のある箇所あり。大島乳ヶ崎の北方や6里から江ノ島南西8里にかけて水深が50ヒロも深くなった箇所が複数あった。さらに60ヒロ、70~100ヒロ浅い場所もあった。ただし、元々相模湾は凹凸激しく、隆起の範囲を明確に探ることはできなかった。また、測量の結果、一般航行には差し支えなかった。p58厨子、葉山では元々天候が悪く、海岸に出ている人や漁に行っている人もいなかったので、大津波が来襲しても被害者はいなかった。p60厨子の小坪では津波で村民5名が行方不明。田越川に津波が襲来し、橋が流された。葉山の真名瀬・中川亀三郎氏の話「地震後、海水が沖合へ後退。海底が現れた。そのうち、6~7mくらいの黄褐色に泡だった波が猛烈な速さで海岸、には家を乗り越え、かなり内陸まで押し寄せた。避難していたが、すぐそばまで波が押し寄せた。」p62三浦半島の隆起。小網代、諸磯、二町谷、宮川の港の潮は沖に引いた。それから十数分して沖から津波が押し寄せた。皆、争って丘の上に逃げた。その後2回津波が襲来。このせいで、あわび、いせえび、海草が死んだ。また東京湾では重油が漏れて、かき、あさり、ウナギが被害にあった。三崎の漁師が10月4日に出漁したら城ヶ島の南300mの海中(水深約13m)で幅約20m、長さ約160mのガスの噴出を発見。水路部が調査して発見。しかし16日の再調査では消滅していた。かまくらこども風土記 中p.7円覚寺の仏殿は1923年の関東大震災で壊れる。(円覚寺の位置は北鎌倉駅付近で内陸。)p.47神明神社の社殿は1648年の大地震で神燈が倒れ燃えた。p.251勧行寺は1923年の関東大震災でつぶれた。p.263龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)は1923年の関東大震災で全壊。このときは現在の場所ではなく、藤沢市片瀬地域内にあった飛地にあった鎌倉市津一番だった。p.265 龍口寺は、その明神社が昔隣にあったとされる。住所は藤沢だが、腰越とほぼ一緒。1923年の関東大震災で本堂と五重塔“以外”は全壊。かまくらこども風土記 上p.169海蔵寺にある本堂「龍護殿」は関東大震災で倒壊。p.212今から約700年前(本書は平成5年刊行)に、地震や火事などの災害が続いたので、日蓮が「立正安国論」を書いて、思想を正そうとした、それが1260年のこと。p.218鎌倉の大仏は1238年に木造の大仏となり、9年後に倒れた。これは嵐によるものという説がある。1252年い青銅の大仏を鋳造。その後地震や台風にあう。1495年の津波で流され、露座となる。1923年の関東大震災では約50センチすべった。p.242極楽寺は1259年に造られたといわれている。1333年に鎌倉攻めで寺は焼け、壊れた。その後も地震や大風で崩れ落ち、今は吉祥院のみが残る。p.2591910年 逗子開成中の生徒が七里ガ浜沖で遭難。この日は西風が強く暴風になった。行合川の沖で山のような大波によりボートが転覆した。(相模湾に入る潮流と行合川が海に注ぐため注意が必要とのこと p.270)p.268鎌倉高校前駅の背後の墓地にはかなり古い年代の墓もある。墓地の中央はこの海で遭難した無縁墓がある。p.3281180年源頼朝が鎌倉幕府を開くが、そのころから由比若宮とよばれる地域が元八幡と呼ばれるようになった。もともと由比ガ浜の八幡宮と呼ばれていたとされ、当時の地形からするとこのあたりは海になっており、神社は海に面していたと思われている。p.330妙長寺はもともと1299年に日蓮の弟子が船出した材木座の沼浦(由比ガ浜の沼ヶ浦)にあった。しかし1681年に大津波で寺が流され、今の場所に移った。p.341九品寺のあたりにある、ふだらく寺は別名竜巻寺といわれている。竜巻にあったり火災にあったりして寺のいわれを書いた文書が失われ、寺の由来がよくわからない。p.346光明寺にあった二尊堂は関東大震災で倒れてしまった。p.371鶴岡八幡宮の一の鳥居は、1923年の関東大震災のときに倒れた。かまくら風土記 別冊p.611241年に鎌倉の大地震が起こるp.691495年に鎌倉で大津波が起こり、大仏殿が壊れ、大仏が露座になる。p.721681年に大津波で妙長寺が流されるp.781923年に関東大震災で津波にも襲われる新版神奈川県の歴史散歩 上 新全国歴史散歩シリーズ14 山川出版社p.3878年第二次国府が大地震で、第一次国府(海老名あたりが有力)から大住郡へ移った増補 鎌倉の海p.94中村光夫の「鎌倉今昔」によると、震災前の鎌倉は別世界だったという。震災前の「きれい」で透明な海を懐かしく思うとのこと。(ただこの「キレイ」は震災というよりも、都市の発展で汚れた、という意味?)p.102那須良輔の「海と魚と漁師」によると、海がひどく荒れる夜は海鳴りの音が扇が谷の奥まで「ゴーッ」と聞こえる。翌朝になると海岸に死んだ魚やウミウが海草の中にくるまって転がっている。坂ノ下の岸壁でつり、七里ガ浜で夜釣りをし、由比ガ浜や材木座で投げつりを行った。黒鯛、イシモチ、シロギス、スズキがつれた。 鎌倉の海はナライ(北風)が理想。潮が緩くなる。東風(こち)になると海水温が下がって食いがとまる。夏場は南風が多く、晴れた日の正午ころから強く吹く。晩秋の西風は怖く、これは季節風である。伊豆に靄がかかっていれば風は出ないが、これが晴れ上がって富士山の姿が見えるようになると、風の速度が速くなり、波のうねりも大きくなる。鎌倉の海は遠浅で水深は7、8メートル。沖に出ても20メートルほど。鎌倉の沖で船釣りをすると釣れる魚の種類は大変多く、数十種類はいるだろう。渡り蟹が水面を泳いでいるのを見たことがある。p.146長谷の加藤さん→坂ノ下の「海月」さんという海水浴旅館の下の左脇に、いなり山が小屋(浜の小屋。文章のニュアンスでは茶屋のこと?)を造っていました。いなり山の小屋は古かったですよ。あそこの名前はなんといったか。司会の木村さん→関東大震災のときに津波で一家全滅した家ですね。坂ノ下の長田さん→そうです。あの小屋の看板はうちの親父が書いたんだ。p.147腰越の野村さんの話→海水浴場に適したのは大正12年の関東大震災で陸が2メートルほど隆起したから。七里ガ浜の磯伝いといっても、私の子供のころは磯には出なかった。それが1メートルの隆起で七里ガ浜の遠くの磯まで見えるようになった。地震による隆起で砂浜が広がったことが現在海水浴場に最適になった理由だろう。(今はむしろ海岸が侵食?)p.147の続き 極楽寺もドンブリ坂で、西浜も適していません(ドボンと深くて波が荒い)。東浜は腰越から鎌倉にかけては波が穏やか(東浜は海が遠浅。海水浴に適している)で、子供の遊泳に最適な場所ですが、海水浴に最適となったのは大正12年の大震災後です。地震で隆起したことで、井戸の水位が下がり、私の家は井戸側を二測も深くした。p.172吾妻鏡によれば1201年暴風雨によって由比が浦破船多し。p.173江ノ島旧記によれば1216年江ノ島の海、変じて道路となる(大干潮?)p.173 吾妻鏡によれば同年の3月7日に海水が赤変するp.173 吾妻鏡1222年由比ガ浜、腰越の海に死んだ鴨が大量に漂着する。p.173 吾妻鏡1224年近海で大量に魚が死んで、由比ガ浜に漂着する。p.173 吾妻鏡1227年腰越の海が赤変する。(このへんの記述を見ると、黒潮などで水温が高めに推移して、赤潮が発生し、魚が大量に酸欠で死んだのかなあ、などと思う)p.174 吾妻鏡1231年11月海が鳴動し、音雷のごとし。p.175 吾妻鏡1251年の1月と2月に由比ガ浜、和賀江、腰越あたりの海が赤変p.176 吾妻鏡1263年8月に暴風雨p.178 1293年に鎌倉大地震、本朝通鑑によれば1303年に鎌倉大風水、武家年代記によれば1305年にも鎌倉大地震、1316年に鎌倉大地震鎌倉市史 近世通史編p.2951703年、京都の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の社家・梨木祐之が江戸からの帰りに地震にあい、鎌倉の惨状を「祐之地震道記」にまとめた。切り通しの山が崩れ、円覚寺では泥水が吹き出た。p.297同。由比ガ浜には津波が寄せて往来ができないと言われ、向かわなかった。この地震の規模は関東一円におよび、津波の被害が沿岸地域に及んだ。p.303「東路の日記(明和4年1767年に書かれた江戸の富裕な婦人による紀行)によると、潮が引くと江ノ島に渡ることができる。左右から寄せる洲の道を渡って岩本院にいくという。p.4361703年の大地震は鎌倉の大仏が3尺ほど下がった。続きはまたいずれ。
2011.04.07
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郷土史はマイナーで地味ーな分野なのだが、今回の震災でとても重要な学問だな、と再認識している。というのは、本来であれば自分の街の歴史を知るというのは自分のおじいちゃんやおばあちゃんから聞いて、とかご近所のご老人から聞いて、というのがまず基本にあるわけだが、そういう血縁、地縁、ご近所づきあいは凄まじい勢いで失われているから。もし知っていれば、その土地に昔、田畑があったとか、池があった沼があった、埋め立て地だった、岩盤が弱いんだ、なんて歴史がわかり、前の地震であそこまで津波がきたとかわかるわけで。今回の震災も想定外と言われていたが、明治の津波があり、1000年以上前の貞観地震もあった。自分の住んでいる街の歴史を知るだけで、災害対策になるのならこれはぜひブームになってほしい学問である。まあ戦国武将を美男子にするようなことはでいないので、やっぱり地味なのだけど。んで、地元の人にとっては当たり前、ということも引っ越してきた人にはわからないし、私のように沿岸部を釣り歩いている人間にもわからないことばかり、というわけで、趣味で調べていた文献の引用等をこれからアップしていこうと思う。怖くなるのだが、地震大国の日本ではこんな歴史はたくさんある。どこへ行っても逃げられない。海には津波、平野は地割れや地震火事に地盤沈下、山は崩れる。だが、土地のことを知れば、最適な災害対策ができる、かもしれない。カッコは私の感想や補足。旧暦とかごっちゃです。新稿 三浦半島通史半島史研究会編安池尋逝幸監修では、関東大震災の話。P.285田浦町 海岸沿いの被害が大きく、ほとんど家屋全壊し、山際では全埋没もあったが、火災は発生していない。土地が60センチ隆起。浦賀町 90センチ隆起葉山村 1.5メートル隆起逗子 海岸1.2メートル隆起北下浦 砂地が1.5m陥没、公道も90センチ陥没南下浦 海水面1.5~1.8m干上がる初声 土地1ヘクタール崩壊長井 海岸1.2~1.5m隆起西浦 海岸1.4m隆起久里浜 土地90センチ隆起三崎 護岸370m崩壊 小さな津波発生 海岸1.5m隆起 以前と比べて干潮状態武山村 海岸1.2m隆起地震による津波被害が少なかった。土地の隆起は三浦半島全体では同一ではないよう。西側が大きく隆起。昭和4年(1929年)7月27日にも大地震があったが被害軽微。神奈川県史通史編 7近代・現代(4)からも、関東大震災の記述。P.13震源地に近かった神奈川県は東京以上の激震。津波まで襲来。震源地に近い小田原は家屋の倒壊・消失が90%。P.180関東大震災を境に小田原は衰退。小田原は深海漁業だが、震災後不漁。↓神奈川県史通史6 近代・現代(3)p.402によると、小田原沖は海底が急に400尋(1ヒロが1.5~1.8mだから600mあたりかね)ほどになる。沖ギスほかムツ、アコウ、オオヅシ、アブラウオが獲れる。もっとも中心はマグロ。ただし小田原海岸は波が高く、船貯まりのない砂浜で着岸はむずかしい。(小田原でマグロ漁が中心だったとは思わなかったなあ)通史7に戻ると、(関東大震災が)海底に一大変化をもたらした。100尋ほどの深さにある従来の漁礁は漁獲が減り、従来の漁具では不適当になり流失が相次いだ。(今回の震災も海底が大きく動きましたね、震源地は横25m×縦3mくらい動いていたとか)関東大震災史神奈川編P.700フランス大使の娘は逗子で海水浴中幾度となく高波に襲われて断崖に衝突したが、不思議にも一命をとりとめた。P.734横須賀市は丘が多く、いたるところで崖崩れ。夜に津波襲来の誤報。P.737三浦半島一帯はすべて被害が甚大。三崎町はわずかの住宅を残してほとんどつぶれて焼失。死傷者人口の6分。地震のため海底隆起して城ケ島と地続きになったといわれた。地震後5日その状態だっがた、海水が増してきて、20日過ぎには4尺(1尺=30cmとしたら1.2mですか)ばかりの水深になった。最初は少なくとも30尺(9m!?)以上土地が隆起していたといわれている。(文献を見ていると、ある文献とある文献で矛盾していることがある。それもまた興味深い。きっと地元の人が読めばいろいろ訂正したくなるだろう。それもまた面白い)鎌倉の御用邸もつぶれた。材木座の御別邸に山階宮妃佐紀子女王殿下(20歳)がいた。身重で、医学博士と侍女が一緒にいたが、みな亡くなった。P.740鎌倉はひどい自身のうえに火事と津波に襲われた。材木座・由比ヶ浜では地震後1時間で7,8町(1町=約109m。だから800mくらいですか。昔の単位も覚えていく)の沖合まで干潟になった。土地の漁師が「大津波がくるぞ」と騒ぐ間もなく、沖から山のような怒濤が真黒に押し寄せてきた。材木座の人は山に逃れていたが、由比ヶ浜ではだいぶ死者がでた。津波で流失した戸数は77戸。p.741片瀬町もほとんど全滅した。江ノ島は一時海中に陥没して姿を消したなどと伝えられたが、誤り。倒壊8戸、死者4名のみ。桟橋が流出し、行方不明50名を出した。(これ、別の文献では誤報だったそうですが…)由比ヶ浜、材木座、七里ガ浜等の海岸は約10町沖まで遠浅になり、江ノ島は1メートルも隆起。p.742逗子の小坪は津波のため84戸流出。葉山の御用邸幅約7尺の地割れ。さらに津波が押し寄せが被害は少なかった。鵠沼、茅ヶ崎も被害甚大。海岸の別荘はすべて「つぶれた」。厚木には沖積層があり、大亀裂を生じた。P.744国府津も地震はひどかったが、家は半壊が多く、被害戸数も全町の4割。小田原は全滅した。全くの無となった。道路に大亀裂。御用邸もあったが崩壊。寛子女王(18歳)も死亡。酒匂川の橋も墜落・埋没した。三尺以上の地割れや、6尺ぐらいの埋没もある。山津波があり、根府川では170~180戸が海中に陥没、列車も陥没。箱根一帯は一時全滅と伝えられたが、実際の被害は少なかった。滝が崩落。橋の崩落、山崩れ。小田原・真鶴の土地は5尺から6尺隆起した。静岡県史通史編5近現代一P.771(関東大震災で)静岡県下でもっとも大きな被害を被った田方・賀茂・駿東、静岡県史別編2自然災害史巻頭11安政東海地震(安政元年11月4日(1854年12月23日))、の津波に襲われた下田港(絵がある)巻頭17関東大震災の津波前の熱海と津波後の熱海(写真がある。海岸の木自体が変わっている)第一章P.4駿河湾と相模湾が急深であるのは西南日本の沖合にある海溝状の南海トラフ、続く駿河トラフ、日本海溝に続く相模トラフのためである。駿河湾は湾奥でも水深900m、湾口で水深2400m。東京湾や伊勢湾は湾口30mだ。そのため海岸は狭く、平滑。また、伊豆半島は全体が山である。中小河川しかなくリアス式海岸となる。もともと急峻だったのではなく1700万年前から隆起をはじめいまも続いている。伊豆半島には天城山ほか多くの火山が分布。P.15昭和5年の北伊豆自身では震源近くの田方が震度5~7.北伊豆自身は1000年周期。P.16リアス式海岸は地震のさいに津波が大きくなる。チリ地震津波や南海地震では御前崎や下田に津波が押し寄せた。静岡県下全域が山なので、山崩れは多い。P.21静岡県は現在も地殻変動の大きい地域である。P.122関東大震災では房総半島から伊豆半島の東岸まで津波が襲った。熱海・網代・下田に津波が襲った。熱海・伊東では家屋倒壊。p。142稲取では港の水が空っぽになったあと津波がきた。さらに山から見下ろすと港から水が引いて行き、東町から向井まで歩いていけそうだった。海岸にいるとだんだん上昇する海水をみて変だと気づき、津波に気付いた。寄せてくる波はじわじわとしているが、引く波は一度にすべて引きずり込んでしまう。稲取の流出家屋は19軒。三浦市古文書調査報告書 第一集相州三浦郡三戸村(前田家)文書 上巻三浦市教育委員会p101703年南関東大地震。三戸の海辺にあった蔵が流される。津波の前に米は高台に避難。あとでその米を近隣の村に送り助ける。p171855年関東大地震・津波。上宮田の市民センター付近にあった陣屋が全損。船の被害大きい。1851年 汐くらみ、10月6日ごろから海水が泥水のようになり海産物に被害。郷土史ハンドブック…三浦半島の歴史探訪郷土史研究会p12関東大震災、三崎港 干潟になるp181923年 関東大震災で大被害p.28初声にある「七面大明神」の石碑はかつて入江湾にあった波島(はしま)にまつられていた塔。波島は江ノ島のように陸につながっていた島。昭和40年代に埋め立てられて移された。地元には伝説があり「昔、大嵐のとき波島に大蛇が流れ着き、その蛇を見たものは病気になるといわれた。その蛇を祀るため七面堂を建てた(このへん関係ないけど、興味深いのでメモしたのをそのままコピペしてます)p53長者ヶ崎(下山口) 葉山の岬。地盤が軟弱。「大崩」(おおくずれ)と呼ばれる。三浦半島その風土と歴史を訪ねて辻井善弥p11久里浜の内川新田は水害が多いp14内川新田は泉水堀りができる。砂地の畑を1メートル掘ると水がでる。p16内川新田はうなぎが多かった。春になると川にのぼってくる。秋には川を下って海へいく。冬はうなぎが深く「ヌタ」の中にもぐっているので、掻いて捕った。p26走水は地下水に恵まれている。今も井戸がある。p31鴨居の観音寺の十一面観音は、かつて灯台のある観音崎にまつられていた。観音崎にはかつて鵜が群れですんでいて、洞窟に大蛇がすんでいた。船が沖に出ると大蛇が舟をくつがえした。p33鴨居は鯛と蛸つりが有名で、どちらも一本つりで捕る。鯛の場合は漁師はえさにこだわる。イソギンチャクを使うこともある。もっともよいえさは白エビ。p37三浦半島の地殻は活発に活動。地震の巣「相模トラフ」が三浦半島にとりまいている。p97剣崎には小山と呼ばれる丘がある。関東大震災で地盤が隆起するまでは「島」だった。ここにはかつて伝説があり、大蛇が住んでいて、付近の船(千石船ですら)転覆しかねない、といわれていた。剣神社はその大蛇をまつったもの。p99雨崎には大蛇がすんでいたという伝説がある。酒樽ほどの大蛇は、雨崎と房州を行き来し、海上で巨大な鎌首をもたげ、白波を立てて走る大蛇をみたときは漁師は熱病にうなされた。とくに五月雨のころは大蛇(浅間様と呼ぶ)が通るので雨崎には行くな、といわれていた。p104三崎の漁業は江戸時代から活発になる(近いから)。江戸時代は沿岸漁業。大正時代に動力船が主力に。潮風と八十八年加藤熊吉p16今の西野小公園のあたりに魚市場があって、そこから海を観察した。三崎の港の水がどんどん沖へ引いていった。見る範囲では被害が出るような津波はなかった。 三崎と伊豆大島の中間より少し西へ寄った地点が震源地らしい。当時震源地のあたりを航海していた人によると地震が発生したとき、海の中が黄色くなり、下のほうから海水がわくわかう盛り上がっているように感じた。地震のあとは大小の余震があって、津波が不安で高台に避難した人がいたが、自分は大丈夫だと思い、海外の低地にある家へかえった。しかし地盤が軟弱なので家は壊れていて、物置で寝た。潮がひいた三崎の水道ではトコブシなどを採っている人がいた。干上がった海底にイソメのような生き物がたくさんいた。その後、少しずつ海水が流入し、20日から30日で元に戻った。後で考えると地震の前兆があった。前日から東京の方角に向かって、今まで見たことのないような気持ちの悪い入道雲が出ていた。従兄弟とそのことを話したのをはっきり覚えている。p40関東大震災で海外の港は地盤が1m50cmも隆起した。底が浅くなり、船溜りとして使うのが不便になった。→工事して海底を掘削した。
2011.04.07
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伊豆伊東の春 伊東市は計画停電第5グループE湯河原の春 湯河原町は計画停電第3グループD真鶴の春 真鶴町も計画停電第3グループD三浦の春その1 三浦市も計画停電第3グループD三浦の春その2三浦の春その3ゴロタの春春は北上する。そして同じ春はこない。被災していない私達は春を大切にしませんか。楽しめない人も、辛い人も、怒っている人も、春を大切にしませんか。
2011.04.06
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