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パパゴリラ! @ Re:老老介護の考え方(07/26) 病気が重篤になればなるほど、自宅での介…
Jun 25, 2026
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カテゴリ: カテゴリ未分類
ドイツ菓子ユーハイムやゴンチャロフ製菓と並び、神戸の菓子ブランドのひとつとして有名な「モロゾフ」。

このフョードルはロシア革命が勃発すると、家族を連れて中国の黒竜江省ハルビンへ逃れます。
ハルビンを拠点に貿易を行い、反革命側の白軍を支援しようとしましたが計画は頓挫。
1923年、家族とともにハルビンを離れアメリカのシアトルへ移住したが生活が成り立たず、1924年シアトルを離れ日本の神戸へ移住しました。
神戸では初め羅紗(ラシャ)の卸売を行っていたのですが、日本が急速に西洋化しようとしていることに目をつけ、西洋の食料品を売る事業を興そうと考えます。
そして白系ロシア人の菓子職人を雇い神戸トアロード103番地に「モロゾフ」を開店するのです。


このフョードルが神戸に来たとき始めた羅紗の販売は何もフョードルの専売特許ではなく、当時、日本に住んでた白系ロシア人がこぞって手を染めた職種だったのですね。
その行商が日本人の間に洋服を広めるひとつの要因になったのです。

日本は歴史上、亡命者や難民をほとんど受け入れてこなかった国です。
ところが戦前のある時期だけ、一度にまとまった数の亡命者を受け入れたことがあるのです。

その亡命者とは1917年3月、ロシアで起こったレーニンを中心とする革命軍によって命の危険を感じた反革命側の200万の人々が安住の地を求めて国外に亡命したのですね。
ロシア人の主な亡命先は欧州の近隣諸国が多かったのですが、日本にも約1,600人が亡命を希望し、日本政府はこれを受け入れたのです。
1,600人と云う数字は正式な登録を行った者だけなので、未登録の者まで含めると、実際には数千人規模にまで膨れ上がったと考えられてます。
日本にやってきたロシア人たちは釧路や旭川、函館、東京、横浜、神戸、長崎などに分散し、各地で生活を営みました。
日本の地を踏んだ彼らの中には、一度落ち着いた後に、別の国に向かう人もいましたが、なかには日本にうまく同化し、余生を日本人として送った人も多かったのです。

昭和の大横綱 大鵬幸喜の父親はウクライナ出身です。
大鵬はサハリン生まれですが、ウクライナ東部ハルキウ出身のウクライナ人であるマルキャン・ボリシコと、日本人の母との間に生まれました。
マルキャンはコサックの血を引く騎兵隊将校で、ロシア革命後に日本領だった樺太(サハリン)へ渡り、その後ソ連軍の進駐によって家族離れ離れになりました。
冒頭で述べたフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフの息子ヴァレンティンは、太平洋戦争終戦後に「コスモポリタン製菓」を設立します。

また日本にパン食が浸透してなかったロシア革命当時、ロシア人が主食としていたパンはロシアパンとして驚きをもって迎えられました。
その他にはボルシチやピロシキが広まったのも彼らの功績です。

ピロシキと云えば私たち関西人は「パルナス」のピロシキ。
1947年(昭和22年)に神戸で創業し、後に大阪に移転したロシア風菓子店です。
オーナーは日本人でしたが、ロシアの女性菓子職人イェヴドキヤ・オージナが技術指導を行い本格的な「パルピロ(ピロシキ)」を販売してました。

日本にバレエを普及させた最大の功労者は、ロシア出身の舞踊家エリアナ・パヴロバです。
1927年に来日して鎌倉に日本初の本格的なバレエスタジオを開設。
全国を巡業してバレエの魅力を広め、多くの後進を育成して日本のバレエ界の基礎を築きました。
彼女のスタジオからは、後に日本のバレエ界を牽引する東勇作、服部智恵子、貝谷八百子などのスターダンサーが多数輩出されました。
彼女は1937年に帰化して霧島エリ子と名乗りました。
日本の野球界にもロシア人投手がいました。
沢村栄治と並ぶ日本プロ野球黎明期の大投手で、長身からの角度のある豪速球のスピードは沢村とも並び称され、巨人の第1期黄金時代の中心投手として活躍したヴィクトル・スタルヒンです。
1937年春~1940年まで5シーズン連続で最多勝利を獲得したスゴイい投手です。
スタルヒンはウラル山脈のふもとペリムと云うとこでロシア貴族として生まれました。
ロシア革命によって革命軍の標的になることを恐れた一家はロシアを脱し、中国のハルビンに向かいます。
そこから日本に亡命しようとしたのですが、日本の白系ロシア人受け入れ条件は厳しく、亡命者ひとりにつき1,500円(現在の約170万円)の所持が必要でした。
一家は家族3人分4,500円を工面するため、持ってきた宝石を売り払ったのですね。

入国を認められた一家は北海道の旭川に落ち着き、そこで行商を始めました。
商売は軌道に乗り、数年後にはミルクホールを経営するまでになったのですね。
スタルヒンも旭川の生活になじみ、野球を始めると持ち前の豪速球でたちまち注目の選手になります。
そして迎えた高校3年のとき、来日したアメリカ大リーグ選抜チームと対戦するために結成された全日本選抜チームに選ばれ、その後、このチームを母体に設立された「大日本東京野球倶楽部」に引き抜かれたのです。
この大日本東京野球倶楽部こそ、現在の読売ジャイアンツです。
しかし旭川では地元を捨てた裏切り者よばわりされ、夜逃げ同然で東京に向かったそうです。
スタルヒンはプロ入り3年目から頭角を現し、1937年には28勝、翌年は33勝、さらに翌年には68試合登板し、当時、日本記録の42勝をマーク。
この年の巨人の勝ち星は66勝だったので、スタルヒンひとりで2/3を上げたことになります。
そんな英雄的投手にも関わらず、スタルヒンは亡命者と云うことで国籍がありませんでした。
そのため遠征にいくたび警官から取り調べを受け、また、街中では理由もなく憲兵に絡まれたりしました。

そして1939年にノモンハン事件が起こるなど、日ソ間の関係が悪化したことから、スタルヒンは軍部からスパイの容疑を受けます。
スタルヒンは軍部に呼び出され、水道橋駅から後楽園球場へ行く途中、船で軍需物資を運搬しているため橋の上から神田川をのぞき見ることの禁止、球場の外野スタンドに立てられた旗を見ることは旗から風力・風向など天気情報を見極めてソ連に伝達することを懸念して禁止されます。
この状況下で、エースであるスタルヒンが憲兵に潰されてしまうことを懸念した名古屋金鯱軍代表の赤嶺昌志の勧めにより、1940年にスタルヒンは須田博に改名しました。

しかし、太平洋戦争が激化した1944年には巨人から追放され、敵性人種として軽井沢で幽閉同然の生活を送ることになります。
戦後、プロ野球が再開されると、巨人からの誘いを断り、パシフィックに入団。
引退後は司会業などをしてましたが、1957年、不慮の事故で帰らぬ人になってしまいました。





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Last updated  Jun 25, 2026 05:05:25 AM
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