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「奇跡」。辞書で引くと、以下のように出てくる。きせき【奇跡】常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象当たり前だが、我々は「めったに奇跡など起こらない」と思っている。例えば、チリの炭鉱での救出劇。30人が2カ月に渡り地下に閉じ込められ、そして、彼らは無事に助けられた。事故自体めったやたらに起きるものではないし、また、中にいた方たちの極限状態における精神力・団結力も素晴らしかった。外にいた方たちの努力も奇跡の一つであろう。この事故のような例は、確かに我々の定義している「奇跡」に近いと言えるだろう。常識では起こり得ないような物事、だからだ。少し話題を変えよう。私の「父と母の出会った経緯」についてお話をしたい。父の生家(父は婿養子)と私の実家は近所であり、お互いに面識はあったものの、たいして仲が良いものでもなかったらしい。幼小時代でもあり、6歳の年齢の差は断崖絶壁のように大きかったのだろう。父は中学を出た後、当時よく言われていた「金の卵」として、すぐさま東京へ出、そして一生懸命働いた。6人兄弟だったこともあり、家計も苦しく、3人目だった父は、自ら働きに出ることとしたとのことだ。父が東京に出てから、10数年後。父の父(つまり私の祖父)が病気となり、東京にいた父が仙台に呼び戻されることになる。いつ亡くなるかというほどまでだったため、情が厚い父は東京での勤めを辞め、改めて仙台に住むこととした。当時、母は20歳をちょっと越えたくらいの美しい女性へと成長していた。(当時の写真をみると、二重のくっきりしたとても美人な女性であった。還暦の今、どちらかといえば「ガチャピン」に似ているが…)母には、当時気になる異性がいた。その人は、たまたま「父と同じ姓」だった。戻ってきた父は、家が近所であったこともあり、たまたまそんな母を見かけたらしい。そして父は母を一目で気に入った。その後、悩んだ末、電話することとなる。意を決して、父は電話でデートに誘ったわけであるが、ここで面白い誤解が生じていた。先ほど述べた母の気になる異性は、たまたま父の旧姓と同じ名字だった。母は気になる人と勘違いして、デートの現場に向かうこととなったわけだ。母はびっくりしただろう。近所にいるだけで、あまり面識のない父がその場にいたのだから。初デートは南町通りにあった「蕎麦屋」だったらしい。高度成長期の1970年代、もっと良さそうな場所があると思うのだが。。。父のセンスのなさがとてもイタイ感じがしてしまうけれども、母はそこに実直さや真面目さを感じ、好感を抱いたらしい。かくして、あれよあれよとお付き合いが深まり、父と母は結婚することとなる。父は大変真面目な性格だったため、幾度となくデートしたが、キスはおろか、手すらも母と繋ごうとしなかったらしい。結局初夜を迎えたのは、結婚旅行先の京都の旅館とのことだ(母談)。京都だった理由は、父が大の飛行機嫌いだったため、列車でも行ける場所を優先的に選んだとのこと。そして、その結婚旅行によって、私が誕生することとなる。さて、ここで私が誕生する確率を考えてみたい。・父が6人兄弟で東京に働きに出なかったら?・父が東京で一人身でなかったら?・祖父が病気せず、父が仙台に戻らなかったら?・帰仙した父が母を偶然見かけなかったら?・母が電話で勘違いしなかったら?・父が実直な性格じゃなかったら?・父が飛行機が嫌いじゃなかったら?・結婚旅行が京都じゃなかったら?もし、これらの問いに一つでも「NO」があった場合、私はこの世に誕生しなかったこととなる。これらの事象を鑑みると、確率的には途方もないほどの「天文学的確率」で私は誕生したと言えるだろう。(そもそも精子の受精を考えるだけでも1.5億分の1であるが・・・)これは、確率的にまさしく「奇跡」とは言えないだろうか?そして、さらにあえて言えば、先祖の数だけこの天文学的数字が繰り返されているわけで、それらをさらに掛け算して私は誕生しているということになる。宝くじなんか目じゃないね。奇跡だよ、奇跡。人が誕生することは奇跡なんだよ。序盤から引っ張りすぎて、だいぶ文章が長くなってしまったが、私が申し上げたいのは、「いわゆる奇跡というものは、特別なことではなく、常に日常に溢れているものではないか?」ということである。上記に記したとおり確率論的にいえば、「特定の恋人と人生で出会うこと」は奇跡といえるだろう。ましてや、「その人と結婚すること」はさらに奇跡。恋人までいかずとも、「同僚や友人と出会うこと」も奇跡。素敵なお店を見つけることも奇跡。気に入った音楽や映画と出会うことも奇跡。いやいや「道端での犬や猫とのすれ違い」すら奇跡になる。このような天文学的確率で人が何かに出会うならば、その出会いは「何らかのチカラに導かれて生じている」と感じないだろうか。(神とは行かないまでも)何かの命を受けて(それは何かわからないが)、我々はこの世に生を受けた。そして、それを全うするために、誰もが今を生きている。その一人一人が、一生懸命生き、そして互いに出会い、その結果、この世は複雑に形成されていく。こう考えると、ちょっとした日常の一つ一つの出来事も、薄汚れたツマラナイものだったもの、彩り豊かな大切なものへと変化していかないか。退屈でくたびれた人生も、実はそれは奇跡に鮮やかに彩られた素晴らしいものなのではなかろうか。そして、それらの中心に我々は存在しているのではないか。そう考えると、何となくやる気が出てきそうな感じがするね。
2010.10.30
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つい最近、実家の改築工事が終了した。特に変わったのが、お風呂場とトイレ。お風呂は、何だかよくわからんが、広く浅くという最新鋭(?)のものらしいし、トイレはウォッシュレットが完備されていることはもちろんのこと、とにかく強力に渦を巻いてウンコを連れ去ってしまうタイプが導入された。それらを「凄いべ~」と言いながら、自慢げに説明する親父に対し、「凄いね。ありがとう」とは返事しつつも、少し胸につかえるような、一抹の寂しさを感じてしまう自分もいた。何となく、自分の大切なものが一つ、無くなってしまったように感じていたからである。その昔、実家の風呂場は「薪風呂」だった。僕が大学に入る頃、ようやく普通のお風呂になったのだが、それまでは、ずっと「薪」でお風呂を沸かしていた。小学生の頃、薪をくべてお風呂を沸かすのが私の仕事だった。古びたストーブのような重い鉄の塊の中に薪を詰めこみ、下から新聞紙をうまく間に入れて、最後に火をつける。うまくいくと、やがて乾いた木の焼ける、心地良い香りがして、煙突を駆ける炎の音が「ゴー、ゴー」と周りに響きだす。この音が聞こえれば、もう安心。後は薪をドンドンくべればよい。なので、煙突から「ゴーゴー」という音を聴くと、「ふー、一仕事終えたぜ」という心地よい感覚を感じたものだ。もちろん、雨の日はなかなか火がつかない時もあったりして、当時7時から放送していた「ドラゴンボール」を見るために、焦りながら、一生懸命に火をつけたこともある。お会いしたくはない「お友達」も、沢山登場してくれた。特に、クモ君、毛虫君、げじげじ君、カマドウマ君には、よくお会いしたものだ。薪をどけた瞬間に、ワサワサと出てこられる恐怖感たるや、今でも忘れられないね。暖炉の置いてある場所は、半分屋外なうえ、とても温かい。彼らにとっても過ごしやすかったのだろう。まあ、そんなこんなで想い出のあったお風呂場は、今や存在せず、最新鋭のものに変わった。「時代は移ろいゆくもの」とよく言ったりするが、それに対して、「変わってほしい」という気持ちもあり、「変わらないでほしい」という気持ちもあり、矛盾するような甘酸っぱいような変な気持になったりすることがある。しかしながら、もちろん、そんな我々の気持ちとは全く関係も無く、無情に、そして可及的速やかに、ブルドーザーが森を押し倒していくような強引さをもって、「時代」は変わっていく。
2010.10.26
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蕎麦の中で一番美味いと思うのが、「鴨せいろ」である。 鴨の肉の旨みが染みた出汁。 鴨肉の引きしまった味わいと葱のほんのりとした甘さ。 ダシにつけた蕎麦が何とも香り良い。 それにしても、「鴨」と「葱」。 この組み合わせは誰が考え出したものだろうか。 まさに究極の組み合わせ。一体、誰が最初にそれを考えたのだろう。 不思議でならない。このような食における組み合わせは、 人間のあくなき探求心のなせる業であると考える。 好奇心。人間の好奇心が最高のタッグを生み出してきたのかな。 いろいろ考えつつ、大好きな鴨せいろを無心ですする。しかし、ふと「これを食べ終わったらまた仕事だ」、そう思ったら、途端に味気がなくなってしまったりする。 食事のときは、他の雑念を排し、好奇が旺盛な先人達に思いをはせながら、最高のタッグをゆっくりと味わいたいものである。
2010.10.23
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左耳の上の髪の毛をいじる。 それが私の癖である。 ふと気がつくと、髪の毛をいじっている自分に気づく。 決まって、深く物事を考えている時に、いじっているらしい。意識的に止めようと思うのだが、そうすると今度は、考えることに集中できず、段々とイライラしてくる。 まるで、「髪の毛をいじる癖」が、 「集中すること」へのスイッチのようだ。 ここまで来ると直そうとしても直らないので、 もう半分諦めてしまっている。一方で、自分ではなく、他人の癖というものは、 どうも気になってしまうものだ。 私は、最近まで近所のコンビニの店員の癖が、 気になってしょうがなかった。(最近、この店員は癖を改めたようだが。。。)その店員は20代の兄ちゃんだった。彼は、お釣りのコインを、何故か「レジに一度ぶつけて」から客に手渡していた。 店員A「ありがとうございましたー!(カツン♪)」 複数のコインを「整えている」、と最初は思った。 しかし、彼はお釣りがたとえ「1枚」であっても、レジに一々ぶつけていたのである。したがって、「コイン・レジ・カツン♪」は、彼の癖だ、という結論に至った。初めのうち、それが気になって気になって、仕様がなかった。 まあ、でも、毎日聞いていると、そのうち慣れてくるものだ。 そのうち、慣れてしまい、何とも思わなくなった・・・しかし、それもつかの間。 数カ月して、さらに驚愕することになった。 店員A「ありがとうございましたー!(カツン♪カツン♪)」 らくたろう「えっ!(ひやー! 二回になってる!)」 癖というものは、「進化」するものらしい。
2010.10.23
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