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(社内誌投稿分)
‘80年代の記憶
⑶
現場が転変、なぜ ?
⽇航機事故の謎
機影

特異な事件は多々あったが、なんと⾔っても⽇航ジャンボ機墜落事故は強烈だった。
1985
年 8
⽉ 12
⽇⼣、墜落現場に近い群⾺県上野村の県道で⾝動きできずにいた。報道や消防の⾞両と記者、地元団員らでごった返し、⾞列が前に進まない。清流・神流川沿いの細くて暗い道の前も後ろも、赤色灯の点滅が延々と続いていた。
何しろ現場が群⾺、埼⽟、⻑野と⼆転三転。各社が周辺の⽀局や東京、名古屋の両本社から数多くの記者を投⼊したからだ。我が社は 80
⼈余が現地⼊り。何とか現場近くの⼩さな⺠宿に前線本部ができたが、定員が10人ほど。夜は廊下に寝られたらマシなほうで、庭先でやぶ蚊に刺されほうだいの記者も多かった。
事故当夜、サブデスクを指示されたが、記者の多くが⼭中に入ったものの、無線機の電池切れのため通信不能になった。
情報不⾜のなか、現場と思われた御巣鷹⼭頂へ向け、全体で恐らく何百⼈もの記者が⼀番乗りを⽬指して、真っ暗な道なき道を登り始めたのだ。
明るくなってきて、搜索も本格化。昼近くになると、⽣存者発⾒とともに各社の⾏⽅不明 (
遭難 )
者が報じられ始めた。我が社も連絡不能者が何人も出る状況。当局に届けるかどうか迷った。
結局、全員が⼣⽅までに無事帰還したが、情報が昼すぎまで様々なルートから⼊り始め、大いに錯綜した。
情報元が多岐に分かれたままの段階で「⽣存者4⼈発⾒」の報が、時間を置いて2度⼊った。8人は、氏名はもちろん、性別・年齢も不明。確認のしようがない中、テレビで⼀時、「計8⼈⽣存」の速報が流れた。⼣刊最終版の降版間際だったが、Mデスクが冷静に「加算」を⾒送り、誤報は避けられた。
混乱は、520人という犠牲者の数や、墜落した山深い場所などから避けられないことと思っていた。だが仕事を離れた最近になって、どうもそれだけではなかった可能性も感じ始めた。
毎年の慰霊登⼭に続き、事故調査を疑問視する書籍などで様々に憶測を呼ぶことが目立つ。当初、圧⼒隔壁の修理ミスとされた事故原因はフライトレコーダー公開に法的な限界が明らかになり、詳細はなお不明瞭のまま。墜落場所さえ、上野村が村⺠らの⽬撃情報などを早くから通報していたのに、ひと晩中も二転三転した。振り返れば確かに不自然なことだ。
通報した 村長が戦時中の特攻隊員で的確に通報していたはず、民放のラジオ局員が夜のニュースで目撃情報を放送していた、米軍輸送機の機長が、炎上して飛行する機体を見て通報しているなどとする情報も流されている。これらに対し、当局側などが航空関係機関の飛行計画を示すなどして全面的に否定するが、議論がかみ合わないままの印象だ。
事故後、約 20
年をへて小説や映画にもなったが、地元紙で丹念な取材を続けてきた原作者が、それらをにおわすこともしていない。これらの情報の信ぴょう性が気になる一方で、飛行記録の全面公開などを求める遺族らの訴訟も行き詰まり、当時の見落としでは済まされない重みも感じるようになった。
事故後数か月の、刺激に満ちた取材ではあったが、かつてない広がりと複雑さを増す事故の様相を考えれば、ただただ⽚鱗を触ったに過ぎない思いがする。
地方取材回想① 選挙 2024.12.29
地方取材回想➁ 盗難 2024.12.29
地方取材回想④完 郷愁 2024.12.29