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10、「江戸時代の山名氏(但馬)」因幡守護代山名豊定の長男山名豊数は豊定の地位を継承したが因幡の有力国人武田氏により国を追われ但馬の所領に戻った。そこで豊数の長男山名豊宗がうまれた。豊宗は後に鳥取城主宮部長房に仕えた。主家の宮部家は関ケ原の戦い後改易所領没収となったので子孫は但馬で帰農した。江戸時代(但馬 村岡)因幡の山名豊国は豊臣時代は無禄であったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康側につき、亀井茲矩の軍に加わった。山名氏は徳川氏とおなじく新田一族に繋がるということもあり、大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格の旗本に列せられた(江戸幕府の正式な家譜では松平家、酒井家と同格の血族とされた)。 江戸初期、但馬山名家が断絶したため、山名宗家は豊国が継承した。江戸時代初期の山名隆豊は旗本・福島家に生まれ、福島正則の曾孫にあたる。のち山名家の養子となった。第8代将軍徳川吉宗時代の当主山名豊就(山名豊政の孫)は徳川吉宗の信任を得、大番頭を、その後旗本としては異例の大名職である寺社奉行に任じられ、因幡守護山名氏の後胤として縁のある因幡守を称するなど、山名一族の長者として山名家の名を高めた。江戸時代中期の当主山名義徳は九州の筑後柳川藩の藩主立花貞俶の子として生まれ、山名家の養子となった。江戸後期の当主 山名義蕃は越前鯖江藩の藩主間部詮茂の子として生まれ、はじめ詮量と名乗った。のち山名義方の養子となり義蕃と改名し、1821年山名家を継承した。義蕃は、1818年まで、甥の間部詮勝(老中在職期間: (1840~1843)(1858~1859)の後見役を務めていた。幕末の動乱では、山名家は早い段階で新政府側に従った。明治2年(1869)、山名義済は1万1000石への高直しが明治政府に認められ大名と認定され、新たに但馬村岡藩を立藩した(いわゆる維新立藩)。その後明治4年(1871)廃藩置県となる。明治17年(1884)華族令の公布にともない、山名家は男爵を授けられた。*「山名 堯熙」(やまな あきひろ / たかひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。但馬の戦国大名時代但馬国の大名・山名祐豊の三男として誕生。長兄・棟豊次兄・義親の後を受け、山名氏を継承した。長命であった父・祐豊との共著の文書が多く残り、家督継承後も隠居の父の威厳が強かったと思われる。父・祐豊は、当初は但馬にまで侵攻した織田氏との抗戦後に織田方に属していた。天正3年(1575)に重臣・太田垣氏らが毛利氏の吉川元春と和睦してしまったため、織田信長から織田氏に離反し毛利氏についたとみなされ、天正8年(1580)に信長から中国地方攻略を命ぜられた羽柴秀吉に居城の有子山城を攻められ降伏した。父の祐豊は開城後、まもなく死去する。豊臣家家臣時代父と意見の合わなかった堯熙は開城前に隣国の因幡国へ逃れた。羽柴氏の陣を訪問したところ、秀吉に請われ家臣となる。天正8年(1580年)には因幡八頭郡に領地を給された。羽柴家から市場城主に任ぜられ、この城から山名豊国らの籠る鳥取城攻めに参加している。鳥取城が落城し、因幡平定が終了すると馬廻衆(親衛隊)の一人に加えられたという。天正10年(1582)には播磨国加古郡に転封となり2000石余を領した。秀吉の晩年に御伽衆の一人に加えられていたが、秀吉死後は子・堯政と共に豊臣秀頼の傍近くに仕えたという。堯政と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範や河内守護家の畠山政信らもいた。慶長17年(1612)9月28日にはさらに摂津国能勢郡与野村に596石2斗が秀頼より加増されている。大坂の陣後慶長20年(1615)の大坂夏の陣にて豊臣氏は滅亡。この戦いにて息子の一人である堯政も父に先立ち戦死した。堯熙は大坂の陣後は京都六条の屋敷にて閑居したともいわれている。没年および墓所については諸説有る(後述)。子孫は地方の藩の藩士になったほか、徳川将軍家の幕臣である清水氏の養子になった子孫がある。異説『寛永諸家系図伝』では「堯熙 生国 但州。出石の城に住す。秀吉の代にいたりて、但馬を去って浪人となる。」となっているが史実とは異なる。寛永4年(1627年)に死去。法名は円成院殿一翁紹仙居士。 墓は東林院内、従兄弟である山名豊国の墓の左隣にあると言う(諸説有り)。閑居の間には山名豊国の扶助があったとされるが、実際には父・祐豊晩年の時代にすでに有力家臣団は分裂、離反していた。清水正親(しみず まさちか)も天正18年(1590)から徳川家臣となっていた。堯煕の亡くなった嫡男の山名堯政には幼い山名煕政という息子がいた。堯煕は、この煕政を旧但馬守護山名家の後継者にさせることを嘱望していたとされている。豊臣方に味方した人物の子としては徳川家に仕えることが難しいという理由で幕臣(旗本)となっていた清水正親が自ら養子に引き取ることを願い出たのが認められ、煕政は正親の養子・清水恒豊(つねとよ)として幕臣に列することなった(山名豊国の計らいがあったといわれる)。以降は御家人や旗本として続いた。】
2024年06月13日
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14、「近現代における松平氏」王政復古後に明治新政府は徳川慶喜が朝敵であるため松平姓を称するのは不適当であるとして、慶応4年(1868年)1月27日に本姓に復するよう布告した。これにより、賜姓によって松平氏を称していた一族は本来の名字を名乗るようになり、十八松平に連なる一部の松平家(桜井松平家・大給松平家・滝脇松平家)も松平氏を改めた。それでも松平氏を称する華族は30家に及び、同じ名字を名乗る家の中では最も多い。中でも福井藩越前松平家は松平春嶽の功により侯爵となっている。また昭和前期には松平恆雄が外交官・宮中で活躍し、戦後には初代の参議院議長となっている。現在の子孫は、徳川・松平一門の会に所属し、その会員数は約600名である。松平氏の本姓について三代信光は賀茂氏あるいは源姓を称していたことが知られる。元来賀茂姓であったのを源姓に改めたものと見られる。三つ葉葵の家紋もまた賀茂氏に由来するともみられている。7代清康は清和源氏(源姓世良田氏)と名乗ったこともある。9代当主となった家康は、今川からの独立直後である永禄4年(1561年)に発給した菅沼氏への安堵状において「源元康」と署しており(「菅沼家譜」『久能山東照宮所蔵文書』)、永禄4年から6年の間に、5点の正文を含む6点に「源氏」の署名がみられる。家康の徳川改姓と叙爵の際、吉田兼右が万里小路家の文書を調査した結果、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見された。この件には近衛前久が関与しており、その経緯を子である近衛信尹に送った書状が現存している。このため家康の叙爵は「藤原家康」として行われ、以降家康も藤原氏を名乗った。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。米田雄介が官務である「壬生家文書」にある口宣を調査したところ、天正14年(1585年)の権中納言就任以前の口宣はすべて藤原姓であるが、天正15年(1586年)などは不明であり、天正20年(1592年)9月、徳川家を清華の家格とする「清華成り」の発給の際には源姓となり、以降一貫して源姓を称していたことが明らかになっている。米田は源氏改姓を天正20年と見ているが、笠谷は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、天正16年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている。以降の現存する発給文書でも源姓となっている。了
2024年06月11日
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12、「松平氏傍流」「その他の長沢松平家」· 傍系の松平清直は松平忠輝の付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月(1618年)に将軍家に召し出されて三河国宝飯郡形原に5、000石の所領を与えられ、交代寄合となったが、孫の信実の代に無嗣絶家。· 清直の弟・松平正世は忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、藩重臣の松平主馬家として存続した。また、同家の分家筋である松平正直は明治政府に官僚として出仕し、後に男爵に叙せられた。正世 - 正詮 - 正恒 - 正村(正勝) - 正恒(再襲) - 正明(正般) - 正惟 - 正郷 - 正義 - 正方 - 正一· 越後長岡藩牧野氏の家老・今泉氏も長沢松平氏の庶流の一つであるとされている。「五井松平家」(ごいまつだいらけ)は、松平信光の七男・松平忠景を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡五井(御油とも、現在の愛知県蒲郡市五井町)を領したことから五井松平家と称した。代々松平宗家(徳川氏)に仕え、5代・松平景忠は武功を立て、生涯徳川家康に忠誠を尽くした。7代・松平忠実の時に2代将軍・徳川秀忠から下総国海上郡に6千石を与えられた。大名に取り立てられなかったが、上級旗本であった。その後は、代々寄合で、御家断絶の危機も訪れず、幕末まで存続した。「深溝松平家」(ふこうず(ふこうぞ)まつだいらけ)は、松平忠定を祖とする松平氏の分枝。十八松平の一つ。先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。起源大永4年(1524年)、五井松平家2代・松平元心が松平宗家当主・松平長親の命により額田郡深溝城主・大場次郎左衛門を討ち獲るが、元心の戦功を譲られた弟・松平忠定によって深溝松平家は発足されたという。一方で、島原市の本光寺の記録によると、岩津家の松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。戦国時代から安土桃山時代その後も深溝城主であり続けた。2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠は酒井忠次の指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた。天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。江戸時代慶長6年(1601年)、関ヶ原での戦勝により家忠の子・松平忠利は、念願であった旧領復帰が叶い三河国深溝藩Ⅰ万石の大名となった。ところが、慶長17年(1612年)3万石に加増された上で同吉田藩へ移った。松平忠房の代に三河国刈谷藩、丹波国福知山藩と転封を続け寛文9年(1669年)6万5000石で肥前国島原藩に入った。寛延2年(1747年)、戸田忠盈と入れ替わりで下野国宇都宮藩へ移封。安永3年(1774年)再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後定着して明治維新を迎える。維新後、子爵。13、「岩津松平家」 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。
2024年06月11日
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「松平信重の子孫」松平信重は、『寛政重修諸家譜』及び家伝の系譜と系図によると松平親清の二男とされるが、中嶋次太郎著『松平忠輝と家臣団』では、松平康忠の近親者の可能性も指摘されている。なお、政信以降、姓は長澤となる。酒井忠恭の代に厩橋(前橋)藩が姫路へ転封されたため、その後の系図は姫路市城郭研究室所蔵の資料及び善導寺(姫路市)の過去帳によった。また、明治以降は戸籍簿による。 「大河内松平家」松平康直病没前の天正15年(1587年)、徳川家康の命で摂津源氏の末裔の大河内正綱が長沢松平家分家の松平正次の養子となる。この後は大河内松平家とも呼ぶ。この松平正綱の甥が正綱の養子となり、知恵伊豆と謳われる老中・松平伊豆守信綱(武蔵国忍藩、そして川越藩主)となる。またその末裔から小知恵伊豆と言われる老中・松平伊豆守信明(三河吉田藩主)も出す。大名を三家出し、旗本の家もあった。明治維新後、大河内松平家は全家が大河内姓に復している。長沢松平家の大名深谷藩 → 佐倉藩 → 川中島藩 → 高田藩(忠輝のとき改易)*三河吉田藩 - (大河内松平家)*大多喜藩 - (大河内松平家)*高崎藩 - (大河内松平家) 「長沢松平家」(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。ただし、正綱にせよ信綱にせよ長沢松平家の傍系へ入嗣したに過ぎず、大河内氏の流れではない長沢松平家の直系は存続している。長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。本拠地は長沢城であった。この長沢城は現在の豊川市立長沢小学校(愛知県豊川市長沢町字午新)周辺。今では旧東海道拡張のための国道1号建設により、城の丘は南北に分断されている。著名な人物には、徳川家康の従弟・松平康忠がある。康忠は戦功多く、徳川十六神将の一人にかぞえられている。文禄2年(1593年)、康忠の子・松平康直が嗣子無きまま病没したため、家康の七男・松千代を養子に迎えて家名存続を図った。その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。これが松平忠輝である。忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、ほんの僅かな期間に過ぎず、元和2年(1616年)、忠輝は異母兄の将軍・徳川秀忠により改易。長沢松平家の家名は断絶してしまう。ただし、忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っていた。それでも江戸幕府はなかなかこの家を認めず、享保4年(1719年)にようやく長沢松平家と認知した。天保5年(1834年)に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は新選組の前身である浪士組の取締役になった。
2024年06月11日
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明治以降 (明治17年)、18代・松平信正が子爵を授爵し、華族に列した。「大草松平家」(おおくさまつだいらけ)は、三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする。十四松平・十八松平の一つとされる。初めは岡崎松平家と称した。宗家に対抗的で、3代・松平昌安(信貞・弾正左衛門)の時に松平清康に叛したが敗れ、4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は一時追放されたが、再び一門に復し、7代・松平康安の時、徳川家康に忠を尽くして旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。出自・沿革文明年間(1469~1487年)、岡崎城主・西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退した。この時、信光は五男・松平光重(紀伊守・号榮金)に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させた。その後、光重の嫡子・松平親貞(左馬允)は無嗣のまま早世し、西郷頼嗣の実子とされる信貞が養子入りして親貞の跡を継いだ。信貞は一説に実父の西郷姓に復して、西郷弾正左衛門と称したとされ、新たに山中城を構え近隣を押領して、宗家・安城松平家の松平清康に叛意を示したが、属城の山中城を清康に攻め落とされると恐怖して降参した。信貞は祖父の先例に同じく岡崎城を清康に譲り、嫡女の於波留(おはる)を清康に嫁がせると、自らは父祖の地額田郡大草郷に移住した。以後子孫は暫く同地の大草城を根拠にしたので大草松平家と呼ばれた。信貞の子・昌久(七郎)は宗家の徳川家康に背き三河一向一揆に加担したが、一揆軍が敗北したため逃亡して所領の大草を没収され、これより一族は浪々の身となる。6代・松平正親の嫡男・康安が家康長男の松平信康の旗本として復帰したとされる[2]。松平康安(石見守・善兵衛)は家康の嫡子松平信康に、信康切腹後は家康に仕えた。鉄砲射撃を得意とし、足軽大将として対武田氏・北条氏戦で活躍し、最初期の大番頭になる。家康死後、将軍・徳川秀忠より6000石を給与された。7代・松平正朝は家康・秀忠に仕え、後に駿河大納言・徳川忠長付きとなったが忠長の改易・除封に連座して所領を収公された。後に水戸徳川家に仕官して家老になったが、子の正永は無嗣で絶家した。歴代*松平光重(みつしげ、通称は紀伊守・号榮金)*松平親貞(ちかさだ、通称は左馬允・岡崎左馬允)*松平信貞(のぶさだ、信貞・別名昌安(一説に法号)、通称は弾正左衛門、西郷を称す)*松平昌久(まさひさ、七郎)*松平三光(みつみつ・かずみつ、通称は善四郎・善兵衛・源太郎)*松平正親(まさちか、通称は善四郎・善兵衛)*松平康安(やすやす、通称は善四郎・善兵衛、官職名は石見守、官位は従五位下)*松平正朝(まさとも、通称は善四郎、官職名は壱岐守、官位は従五位下、)*松平正永(まさなが、通称は善四郎、官職名は壱岐守・因幡守、官位は従五位下) 「能見松平家」(のみまつだいらけ)は、三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。立家から安土桃山時代まで3代・松平重吉の頃から徳川家康に仕えた。家康の岡崎独立時代から豊臣秀吉死後の徳川家の覇権掌握の時期は、4代・松平重勝から5代・重忠の頃に相当する。その間、能見松平家は長篠の戦いや大坂夏の陣などの徳川宗家が関わった各戦場で戦功を挙げている。江戸時代元和2年(1616年)に下総国関宿藩2万6千石の大名となる。他の松平分家と比較すると遅い出世となるが、これは当主の松平重勝が家康の六男・松平忠輝の付家老であった為と考えられる。重勝の功績の数々が認められたため、忠輝の改易に連座することはなく、独立大名として取り立てられた。重勝の長男以外の子たちも大名として取り立てられ、それぞれ分家を興している。その後、本家は遠江国横須賀藩2万6千石、出羽国上山藩4万石、摂津国三田藩3万石、豊後国高田藩3万7千石と転封を続けたが、7代・松平英親の時に移封した豊後国杵築藩3万2千石に定着し、幕末まで存続する。幕末・明治時代以降14代・松平親貴のとき、戊辰戦争が起こると旧幕府側から離反し、新政府側に寝返る。のち廃藩置県を迎え、子爵に列せられた。「長沢松平家」(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。ただし、正綱にせよ信綱にせよ長沢松平家の傍系へ入嗣したに過ぎず、大河内氏の流れではない長沢松平家の直系は存続している。長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。
2024年06月11日
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家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[41]、結局北条氏の旧領国に移されることになった。秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。8月1日に江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。12、「松平氏庶流」「竹谷松平家」(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では最も古く、代々松平宗家に貢献した。6代家清は小田原征伐で宗家の徳川家康に従軍し、家康の関東移封後、武蔵八幡山1万石の大名となった。家清は関ヶ原の戦いでも功績を立て、三河国渥美郡吉田3万石に移封されるが、7代忠清に嫡子なく絶家となり、忠清の弟松平清昌が三河国宝飯郡に5千石を与えられ、蒲形(かまがた)陣屋を構えた。清昌の系統は帝鑑間詰の交代寄合の上級旗本として幕末まで続いた。歴代当主松平守家*松平守親*松平親善*松平清善*松平清宗*松平家清*松平忠清*松平清昌*松平清直*松平清当*松平義堯*松平義著*松平義峯*松平守惇*松平守誠*松平善長*松平清良*松平清倫*松平敬信* 「形原松平家」(かたのはらまつだいらけ )は、松平信光の四男・与副(与嗣とも[3])を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡形原(現・愛知県蒲郡市形原町)を領したことから形原松平家と称した。なお、与副の弟である松平光重(大草松平家)及びその三男である貞光も形原に拠点を持っていたとされ、初期(天文年間まで)には与副系統と貞光系統があったとする説もある。形原は天然の良港であり、この地を狙う近隣の深溝松平家や幡豆小笠原氏との所領争いが絶えなかった。そのため、形原松平家の動向もこの両氏との争いに左右されることが多く、一般的には4代・松平家広の頃より宗家の徳川家康に従ったとされるものの、家広の頃には今川氏に形原を奪われて今川方の奥平貞友が進出している時期があることや、桶狭間の戦い後に深溝松平家との争いをきっかけに今川氏真に寝返り、その後今度は今川方の幡豆小笠原氏との争いをきっかけに家康の下に帰参したことが明らかになっている。5代・松平家忠は長篠の戦いで武功を上げ、6代・家信も小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功を上げた。家康が関東に移封されると、上総国五井藩に移されるが、五井は地理的条件が形原に似ており、また当時の徳川水軍の一翼を担っていたとみられている[7]。江戸時代元和4年(1618年)、家信に故地である三河国形原藩1万石が与えられ、大名となる。その後、家信は翌年の摂津国高槻藩2万石への移封を経て、寛永12年(1635年)に下総国佐倉藩4万石へ移封された。高槻・佐倉への移封によって海上と切り離された形原松平家は譜代大名として新たな発展を遂げることになる[8]。寛永17年(1640年)、7代・松平康信は高槻に3万6千石で再封され、慶安2年(1649年)に丹波国篠山藩5万石へ移封された。しかし、11代・松平信岑が享保の大飢饉の最中に重税を課したことにより、寛延元年(1748年)に丹波亀山藩5万1千石に移封され、そのまま幕末まで存続した。
2024年06月11日
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「宇喜多 秀親」(うきた ひでちか)は、江戸時代前期の人物。宇喜多秀正の嫡男。母は優婆夷宝明神社の神職奥山宮内忠次(奥山忠久の次子)の娘マス。寛文9年(1669)、八丈島に配流された大名・宇喜多氏の嫡家(宇喜多孫九郎家)の嫡男として生まれる。父秀高の没後、家督を継承。その後、地役人菊池正武の娘イクノを娶り、1男秀保をもうける。元禄17年(1704)、曾祖父宇喜多秀家の木像を、その胎内に秀家・秀高・秀正の和歌の直筆、及び法名を納めて、宗福寺に安置する正徳2年(1712)、難破船の船員を原因とする天然痘の大流行がおこり、島内で1000人余りの死者を出す。宇喜多7家(孫九郎・忠平・半平・半六・半七・次郎吉・小平治)のうち、秀親を始め、浮田正忠(浮田忠平)・浮田秀心(浮田半平)・浮田継栄(浮田半六)・浮田継真(浮田半七)の5家の当主も天然痘により死去した。「宇喜多 秀徳」(うきた ひでのり)は、江戸時代中期の人物。浮田半平家の当主浮田秀真の長男。八丈島の宇喜多7家の1つ、浮田半平家の当主秀真の長男として生まれる。宇喜多本家(孫九郎家)の当主宇喜多秀保の死後、娘イワと結婚して孫九郎家を継ぐ。妻イワとの間に、イマ、ヤス、マスの3女をもうけるが、男子に恵まれず、別の分家・浮田半六家から秀道と秀美を婿養子に迎える。明和5年(1768)6月29日死去。「宇喜多 秀道」(うきた ひでみち)は、江戸時代中期から後期の人物。浮田半六家の当主浮田継了の長男。八丈島の宇喜多7家の1つ、浮田半六家の当主継了の長男として生まれる。宇喜多本家(孫九郎家)の当主宇喜多秀徳の婿養子となり孫九郎家を継ぐ。後に、本家の家督を弟秀美に譲り、自らは実家に戻り浮田半六家の家督を継ぐ。文政6年(1823)1月19日死去。「宇喜多 秀美」(うきた ひでみ)は、江戸時代中期から後期の人物。浮田半六家の当主浮田継了の次男。八丈島の宇喜多7家の1つ、浮田半六家の当主継了の次男として生まれる。父・継了の死後、宇喜多本家(孫九郎家)の家督を継いだ兄・秀道にかわり、浮田半六家を継ぐ。後に、兄・秀道から本家の家督を譲られ、宇喜多孫九郎を名乗る。天保11年(1840年)11月6日死去。宇喜多 秀種(うきた ひでたね)は、江戸時代後期の人物。浮田継朔の次男。文政11年(1828年)、八丈島に配流された大名・宇喜多氏の分家・浮田半六家に生まれる。天保15年(1844年)、秀邑の死去を受け、急遽、宇喜多嫡家(孫九郎家)に養子となり家督を継ぐ。後に、孫九郎家の家督を秀監(秀邑の弟)に譲り、自らは実家に戻り半六家の家督を継ぐ。慶応3年(1867年)、宇喜多秀親が宗福寺に奉納した宇喜多秀親の木像を、宗福寺より返還を受ける(孫九郎家は受け取りを辞退したため)。明治元年(1868年)、明治政府の恩赦により宇喜多一族は赦免され、明治3年(1870年)8月11日、宇喜多7家と村田家1家、計71名で八丈島を出帆する。東京での生活は、前田氏が板橋の前田家下屋敷に長屋を建て、衣食住の全面的な取り計らいを受ける。明治6年(1873年)、明治天皇より板橋に19900坪の宅地を下賜され、さらに前田家から金1000両を贈与を受け、宇喜多7家・村田家で分配し農業をもって自立する。その後、浮田半六家は土地を売り払い、伊豆大島の泉津村に移住する。「宇喜多 秀監」(うきた ひでかた)は、江戸時代後期の人物。宇喜多秀美の五男。文化9年(1812年)、八丈島に配流された大名・宇喜多氏の嫡家・宇喜多孫九郎家に生まれる。長兄・秀邑の死後、孫九郎家の家督は半六家から養子に入った秀種が継承したが、後に、秀種が半六家を継承することになり、秀監に孫九郎家の家督が譲られた。明治2年(1869年)の赦免状に見える宇喜多孫九郎は、秀監の子秀萃(ひでむれ)であることから、それ以前には没したと思われる。八丈島を離島後、孫九郎家は秀萃に後継男子なく、分家・浮田半平家から秀一(浮田秀典の子)を養子に迎えている。しかし、男子にめぐまれず、家系断絶をあやぶみ、秀萃の娘・春が養女を迎え、浮田忠平家の侍郎(浮田佐武郎の兄)を娶らせて「宇喜多」を名乗らせ、秀一の死後、家督は侍郎の子秀臣が継承している。了
2024年06月09日
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また、元和2年(1616)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まった、とも伝わる。八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした説もあり)などの逸話が伝わっている。また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている。明暦元年(1655年)11月20日、死去。享年84歳。このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。墓は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、前田家所縁の東京都板橋区板橋の丹船山薬王樹院東光寺、同じく石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺などにある。法名は尊光院殿一説には大坂夏の陣の後、加賀藩前田家からその所領のうち10万石の分与による家名の再興を勧められるが、秀家本人の豊臣家への忠誠から徳川幕府に仕えるのを潔しとせず、辞退したとも言われる。子孫安政の大獄で捕縛され、宇喜多秀家7世の孫で本性を「藤原」とする、京都の絵師の宇喜多一蕙(うきたいっけい)や、俳優の浮田左武郎(うきたさぶろう)も秀家の子孫と称していた。現在の宇喜多宗家の当主は、秀高から12代目の宇喜多秀臣(15代当主)とされており、岡山城築城400年式典の際に岡山県から招待され出席した。また2009年10月25日にも宇喜多堤築堤420周年記念事業における歴史学者による記念講演聴講のために早島町から招待され岡氏・花房氏・千原氏・金光氏の末裔とともに出席している。「宇喜多 秀高」(うきた ひでたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。宇喜多秀家の嫡男。母は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女の豪姫。官位は従四位下侍従。別名は秀隆。天正19年(1591)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の嫡男として生まれる。通称は孫九郎。慶長2年(1597)、従四位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜る。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。慶長11年(1606)、父の流罪に従い八丈島に流される。その後、百姓になり、八丈島奉行奥山忠久(縫殿助)の娘を娶る。母の実家加賀より毎年米70俵金70両を贈られ、それを流罪になった同族らで分配していた。慶安元年(1648)8月18日、父に先立って死去。享年58。「宇喜多 秀正」(うきた ひでまさ)は、江戸時代前期の人物。宇喜多秀高の嫡男。母は八丈島奉行奥山忠久(縫殿助)の娘。生涯[編集]慶安1年(1648)、八丈島に配流となった備前岡山の大名・宇喜多氏の嫡家(宇喜多孫九郎家)の嫡男として生まれる。秀正の生年に父秀高は没し、家督を相続する。その後、優婆夷宝明神社の神職奥山宮内忠次(奥山忠久の次子)の娘マスを娶り、2男1女をもうける。天和2年(1682)6月27日、死去。享年35歳。嫡家(宇喜多孫九郎家)は長男秀親が継承し、次男正忠は分家(浮田忠平家)する。「宇喜多 秀親」(うきた ひでちか)は、江戸時代前期の人物。宇喜多秀正の嫡男。母は優婆夷宝明神社の神職奥山宮内忠次(奥山忠久の次子)の娘マス。寛文9年(1669)、八丈島に配流された大名・宇喜多氏の嫡家(宇喜多孫九郎家)の嫡男として生まれる。父秀高の没後、家督を継承。その後、地役人菊池正武の娘イクノを娶り、1男秀保をもうける。元禄17年(1704)、曾祖父宇喜多秀家の木像を、その胎内に秀家・秀高・秀正の和歌の直筆、及び法名を納めて、宗福寺に安置する正徳2年(1712)、難破船の船員を原因とする天然痘の大流行がおこり、島内で1000人余りの死者を出す。宇喜多7家(孫九郎・忠平・半平・半六・半七・次郎吉・小平治)のうち、秀親を始め、浮田正忠(浮田忠平)・浮田秀心(浮田半平)・浮田継栄(浮田半六)・浮田継真(浮田半七)の5家の当主も天然痘により死去した。
2024年06月09日
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8、「大聖寺藩前田家」*「前田 利治」(まえだ としはる)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の初代藩主。小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であった。元和4年(1618)、加賀藩2代藩主・前田利常の三男として誕生する。寛永16年(1639)、父・利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に7万石を分封される。当初、鉱山の開発に力を注ぎ、領内に金山銀山を発見した。この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、後の九谷焼の生産に結びついた。万治3年(1660)に死去。享年43。跡を弟で養子・利明が継いだ。*「前田 利明」(まえだ としあき)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の第2代藩主。寛永14年(1637)12月14日、加賀藩2代藩主・前田利常の庶子(五男)として金沢に生まれる。万治2年(1659)、兄で大聖寺藩初代藩主であった前田利治の養子となり、翌万治3年(1660)に利治が死去したため跡を継ぐ。治水工事や新田開発、用水路改修や製紙業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した名君であった。元禄5年(1692)5月13日に死去し、跡を子の利直が継いだ。1917年(大正6年)11月17日、贈正四位。*「前田 利直」(まえだ としなお)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。寛文12年(1672年)6月25日、第2代藩主・利明の長男として江戸に生まれる。貞享元年(1684)に将軍・徳川綱吉に御目見して以降、綱吉の寵愛を受け、藩主になる以前の元禄4年(1691)に、外様大名の世子の立場にもかかわらず奥詰に任じられ、待遇も譜代大名並に扱われた。翌元禄5年(1692)に父親が死去したために跡を継ぐ。このとき、弟の利昌に1万石を分与して、支藩である大聖寺新田藩を立藩させた。綱吉の側近であった立場から江戸に在府し、国に戻って藩政を執るということがほとんどなかったため、藩政は家臣団によって牛耳られ、実権をめぐっての対立が絶えず、また江戸藩邸の焼失などで藩財政が圧迫した。しかも晩年の宝永6年(1709)、綱吉が死去すると奥詰を解任された上、弟の利昌が大和柳本藩主・織田秀親を刺殺して切腹処分となり、新田藩も改易となるなど、不幸が続く中で、宝永7年(1710年)12月13日に死去した。跡を養嗣子の利章が継いだ。*「前田 利章」(まえだ としあきら)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第4代藩主。元禄4年(1691年)3月16日、加賀藩主・前田綱紀の五男として金沢で生まれる。大聖寺藩の第3代藩主で大叔父にあたる利直の養子となり、宝永7年(1710)に利直が死去したため、翌年1月29日に跡を継いだ。しかし、実父の諫言も聞かずに放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を悪化させ、さらには凶作が原因で正徳2年(1712)に百姓一揆が起こり、享保17年(1732)には幕命による江戸城改修工事による出費でさらに藩財政を悪化させた。元文2年(1737年)9月9日に大聖寺で死去した。享年47歳。跡を長男の利道が継いだ。*「前田 利道」(まえだ としみち)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第5代藩主。享保18年(1733年)4月24日、第4代藩主・利章の長男として生まれる。元文2年(1737)の父の死去により跡を継ぐ。宝暦2年(1752)、東海道吉田大橋架け替えの手伝普請が命ぜられるが、完成した橋が半年ほど後に湾曲してしまう事態が生じた。井沢弥惣兵衛為永の子で工事を担当した勘定組頭の井沢弥惣兵衛正房は小普請組に降格され、利道には再度の手伝普請が命じられた。また、治世中に領内が災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫した。安永7年(1778)5月25日、家督を子の利精に譲って隠居し、安永10年(1781年)1月14日に死去した。享年49歳。 *「前田 利精」(まえだ としあき)は、加賀大聖寺藩の第6代藩主。宝暦8年(1758年)11月15日、第5代藩主・前田利道の次男として大聖寺で生まれる。宝暦9年(1759)に長兄・利貞が早世したため世子となり、安永7年1778年5月25日に父の隠居により家督を継ぐ。しかし安永10年(1781)、父が死去すると、遊郭に頻繁に通って女狂いとなり、無頼と交じって好き放題にふるまうなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった。このため天明2年(1782)8月21日、治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である利物に継がせた。寛政3年(1791年)9月15日に大聖寺で死去した。享年34歳歳。*「前田 利物」(まえだ としたね)は、加賀大聖寺藩の第7代藩主。
2024年06月04日
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7、「七日市前田藩」*「前田 利孝」(まえだ としたか)は、上野七日市藩の初代藩主。七日市藩前田家初代。前田利家の五男。父・利家の死後、兄の利長が、徳川家康と本多正信の画策した「家康暗殺計画」の疑惑をかけられたため、その弁明の証として利長の生母・芳春院(まつ)と共に人質として江戸に送られて幼年期を過ごした。大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616)12月26日、七日市に1万石の所領を与えられた。寛永14年(1637年)6月4日に死去し、跡を子の利意が継いだ。享年44歳。利孝の七日市藩領は、加賀の前田本家が参勤交代する際の中継地として、以後重要な役割を果たすこととなる。*「前田 利意」(まえだ としもと)は、上野国七日市藩の第2代藩主。七日市藩前田家2代。初代藩主・前田利孝の長男。母は本多康俊の娘。正室は戸田庸直の養女(戸田忠光の娘、のちに離縁し、二の丸殿と通称された)。寛永2年(1625)、江戸滝口邸にて生まれる。寛永14年(1637)、父の死去により跡を継ぐ。館林城代(正保元年(1644))や大坂御加番代を務め、貞享元年(1684)に将軍・徳川綱吉より朱章を賜る。貞享2年(1685)4月27日(もしくは4月28日)に61歳で七日市にて死去した。跡を子の利広が継いだ。法号は霊雲院殿桃岳宗吾大居士。墓所は群馬県富岡市の長学寺。『土芥寇讎記』の利広の項目に拠れば、利広は女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。一方利広の評価は「父親(利意)と比べて抜群に良い」ともされており、「父親(利意)は美女を好んで弊害が多く、浪費していた」とされている。*「前田 利広」(まえだ としひろ)は、上野国七日市藩の第3代藩主。七日市藩前田家3代。第2代藩主・前田利意の長男。正保2年(1645年)9月19日、七日市で生まれる。貞享2年(1685)、父の死去により家督を継ぎ、藩主となる。元禄元年(1688年)、大坂御加番代を務めた。元禄6年(1693年)7月9日、49歳歳で死去し、跡を長男の利慶が継いだ。『土芥寇讎記』に拠れば、女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。その評価は「父親と比べて抜群に良い」「父親と違って浪費しない」とされている。*「前田 利慶」(まえだ としよし)は、上野国七日市藩の第4代藩主。七日市藩前田家4代。第3代藩主・前田利広の長男。元禄6年(1693)、父の死去により家督を継ぐ。同年11月28日、下総国古河藩主・松平忠之の改易のとき、古河の在番を務めた。元禄8年(1695年)8月頃に病に倒れる。嗣子がなかったため、家督をこの時に弟の利英に譲ったといわれているが、利英は利慶の死後に家督を継いだとも言われており、定かではない。元禄8年(1695年)9月7日、江戸滝口邸にて死去した。享年26歳。墓所は群馬県富岡市の長学寺。*「前田 利英」(まえだ としふさ)は、上野国七日市藩の第5代藩主。七日市藩前田家5代。第3代藩主・前田利広の次男。元禄8年(1695)、兄で先代藩主の利慶が死去、もしくは病に倒れたときに家督を継いで藩主となったと言われている。元禄13年(1700年)、将軍・徳川綱吉に御目見した。宝永5年(1708年)1月頃から病に倒れる。嗣子がなく、一族(祖父利意の外孫でもあり従弟にあたる)の利理を養嗣子として迎えて、2月15日に七日市陣屋で死去した。*「前田 利理」(まえだ としただ)は、上野七日市藩の第6代藩主。七日市藩前田家6代。元禄12年(1699年)、七日市藩分家で2500石を領した旗本・前田孝始(苗木山前田家の孝矩の子で七日市藩初代藩主・利孝の孫)の長男として生まれる(生年は元禄13年(1700)1月18日説もある)。宝永5年(1708)に第5代藩主・利英(母方で従兄、父方でも又従兄にあたる)が死去したため、その養子として家督を継ぐ。正徳3年(1713)に大和守に任官され、後に従五位下・丹後守に叙位・任官する。しかし藩政は御用人で娘婿の保坂庄兵衛に任せきりで顧みなかったといわれる。享保8年(1723)に大坂加番代に任じられ、延享4年(1747)には駿府加番に任じられる。延享5年(1748)6月に朝鮮通信使の接待役を務めた。宝暦6年(1756年)11月7日、七日市で死去した。享年58歳。跡を四男・利尚が継いだ。*「前田 利尚」(まえだ としひさ)は、上野七日市藩の第7代藩主。七日市藩前田家7代。享保17年(1732年)、第6代藩主・前田利理の四男として生まれる(生年は元文2年(1737)9月27日説がある)。寛延3年(1750)12月18日、従五位下・大和守に叙位・任官する。宝暦6年(1756)、父の死去により家督を継ぐ。宝暦12年(1762)5月23日に駿府加番に任じられる。明和8年(1771)に旱魃で大被害を受け、税収入が激減したため、本家の加賀藩より援助を受けた。
2024年06月04日
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6、「富山藩前田家」利常は次男の利次に富山藩10万石を、三男の利治に大聖寺藩7万石を分与した(これにより加賀藩の前田本家は公称高102万石となる)。ほかに利家の五男・利孝を祖とする上野国七日市藩がある。大聖寺藩はさらに利昌に新田1万石を割いて大聖寺新田藩を立藩させたが、柳本藩主織田秀親を刺殺するという事件で改易、領地は大聖寺藩に復した。 また、利長の弟利政は関ヶ原の戦いで石田三成方に与し所領を没収されたが、その子直之が本家の利常に仕えて以降代々加賀藩の要職を務めた。これを前田土佐守家(または直之系前田家)という。江戸時代中期には五代藩主前田綱紀が学問の振興や本草学者の稲生若水を登用して文治政治を行う。しかし、七代藩主前田宗辰以降は早世する当主が多く、加賀騒動などのお家騒動が頻発し、藩政は停滞することが多かった。そのためもあって幕末は藩内の意見を統一できず、100万石の大藩でありながら目立った動きがなかった。明治維新後、加賀藩本家は侯爵、富山藩主家は伯爵、大聖寺藩主家・七日市藩主家は子爵、土佐守家は男爵となった。*「前田 正甫」(まえだ まさとし)は、越中富山藩の第2代藩主。慶安2年(1649)8月2日、初代藩主・前田利次の次男として生まれる。出生地は家老の近藤善右衛門の下屋敷であり、幼少期は城下の近藤宅で養育された。延宝2年(1674)、父の死去により家督を継いで藩主となる。藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩は、越中国内の旨味の良い土地を金沢本藩がおさえていたため、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることはもちろん、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。天和元年(1681)には越後騒動による越後高田藩主・松平光長改易の際の高田城受け取り役を務めている。宝永3年(1706年)4月19日に死去した。享年58歳。跡を子の利興が継いだ。上記の事績により名君とされる一方で、重度の遊び好きでもあり、女癖が悪く、また、狼狩りを好んだと伝わる。元禄15年(1702)、城下の神通川沿いの一帯地域を御用屋敷地として、ここに東海道五十三次や琵琶湖および近江八景を写した大庭園を造った。庭園には人口の築山を作りこれを「富士山」(富士塚)とし、庭園からつながる神通川での舟遊び用の船を建造した。現在この屋敷の痕跡は残らない。富士山築山は、現在の磯部町、鹿島町、鉄砲町、七軒町にかかる大型のもので、富山県護国神社境内に組み入れられて長らく存続したが、1957年に除去されている。同地一帯は正甫が幼少期に養育された家老の近藤長房の屋敷があった土地とされ、現在も同地に残る鹿島神社には、正甫の産湯の井戸とされる井戸が残ってる。これらの大規模な造園はただの贅沢ではなく、幕府を油断させるための散財だったとする説もある。日本における最初期の古銭収集家として、当時から現在にかけてもなお著名である。これに関した自著として「化蝶定階」、「化蝶類苑」(元禄9年(1696)刊行)などがある。収集した古銭コレクションは後に火災に遭い、その後散逸した。『土芥寇讎記』十四集では、文部両道にして法を守り道を正す善将、家民(家中と領民)を哀憐し人使いよし、家民ともに穏やか、と辛口の同書において極めて良い評価をされている。また、「以前は同性愛の趣味が目立ったが、それを改めた。ただし美少年好き」と記されている。*「前田 利興」(まえだ としおき)は、越中富山藩の第3代藩主。延宝6年(1678年)5月27日、第2代藩主・前田正甫の次男として富山で生まれる。宝永3年(1706)に父が死去したため、家督を相続する。藩主となってから財政再建を主とした藩政改革に着手し、60名の藩士のリストラ、年貢連帯責任制の強化、奢侈禁止令の実施、タバコ・醤油などの流通統制などを行なったが、正徳3年(1713)の増上寺の手伝い普請をはじめ、正徳4年(1714)の富山城本丸の焼失、享保8年(1723)の富山城石垣普請などの出費で1万7000石の借財を作るなどしたことから、効果はなかった。享保9年(1724)に、土蔵に籠居するなどの行動をとったため藩内が動揺し、隠居の上で家督を実弟で養子の利隆に譲ることとなった。享保18年(1733年)5月19日に死去した。享年56歳。富山の名産として知られる鱒寿司は、利興が家臣の吉村新八から献上されたものを、将軍徳川吉宗に献上したのが起源であると伝承されている。また、利興は将棋を愛好したようであり、『将棊図彙考鑑』に初段として掲載されている。
2024年06月04日
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松平の名字を与えられ「松平犬千代丸」となる。承応3年(1654)1月12日、利常に伴われて江戸城に登城して元服し、第4代将軍徳川家綱より偏諱を授かり綱利と名乗った(のち綱紀に改名)。同時に正四位下に叙され、左近衛権少将・加賀守に任官される。万治元年(1658)7月27日、綱紀は保科正之の娘・摩須と結婚する。正之は徳川家光の異母弟で、家光の没後に幼少の家綱を補佐して幕政を主導していた大老であり、血統・経歴に問題はなかったが、所領は23万石で、加賀藩とはかなりの開きがあった。しかし利常が、徳川将軍家に子はなく、徳川御三家も頼りないとして、将軍家の血統に当たり人物・器量も抜群だった正之の娘をあえて選んだという[7]。摩須は10歳で嫁ぎ、寛文6年(1666)に18歳の若さで亡くなったが、綱紀はその後に継室を迎えることはしなかった。綱紀は正之の思想に大きく影響を受け、それはその後の彼の政策に反映されてゆくこととなる。綱紀の藩政を「正之の模倣」とする指摘もある。万治元年10月に利常が死去すると、岳父の保科正之の後見を得て藩政改革を行なうこととなる。まず、新田開発や農業方面に着手し、十村制度を整備した。さらに、寛文の飢饉の際には生活困窮者を助けるための施設(当時これは「非人小屋」と呼ばれたが、金沢の人々は綱紀への敬意から「御小屋」と呼んだ。「御救い小屋」という呼称もある。)を設置して、後に授産施設も併置した。この施設は2000人近くの人間を収容することが可能であり、飢餓の際はここで米を支給した他、医者を派遣して医療体制も整えていた。御小屋の建設について、綱紀は藩主就任当時からこの施設を作るアイデアを持っていたが、巨大な施設ゆえ維持費が藩の財政を圧迫するため、家老達の反発などもあり、実施には長い年月と寛文の飢饉という御小屋が必要とされる機会を要した。また、藩内で長寿を保っている者に対しては褒美として扶持米を与えたりした。さらに改作法を作り、前田家家中の職制(年寄役である加賀八家の制度)を定めた。また、前田利家が一向一揆鎮圧に手こずらされたことなどの影響から、加賀藩は他の藩と比較して刑罰が苛烈であったが、綱紀は死罪が決定していた罪人を減刑するなどした。こうした綱紀の姿勢に影響され、苛烈な刑罰も綱紀以前と比べると寛容になってゆき、厳罰を旨とする武断政治から文治政治へと移行した。対外政策においても、隣国の福井藩との争いである「白山争論」に決着をつけた。また、母の冥福を祈って白山比咩神社に名刀「吉光」を奉納した(これは現在国宝となっている)。綱紀自身が学問を好んだこともあって(武芸から建築など幅広く修め、儒学を尊重する岳父の正之からは苦言を呈されるなどした)、藩内に学問・文芸を奨励し、書物奉行を設けて工芸の標本、古書の多くを編纂・収集し、これらを百工比照に結実した。また、木下順庵、室鳩巣、稲生若水らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した百科事典『桑華学苑』を記し、家臣団にも学問を奨励した。そして、宝生流能楽を加賀藩に導入している。綱紀自身能楽を嗜み、その腕前は能楽師に引けを取らなかった。将軍の前で舞を披露したこともあった。また加賀藩士達も綱紀の影響を受け、文芸に傾倒した。豊富な書籍が収蔵された書庫は、新井白石から「加賀藩は天下の書府」と礼賛された。自家以外の古文書の保管にも意を注ぎ、東寺の東寺百合文書の保存や娘婿三条西公福の三条西家に伝わる「実躬卿記」の発見および補修にも、資金および技術で多大な協力をしたことでも知られる。規模の大きい藩である加賀藩が蓄財をしすぎると、幕府転覆を画策しているのではないかと幕府から警戒されるおそれがあった。そのため、綱紀は、資金に余裕がある時は散財をした。豪奢な調度品を仕入れ、建物の改築に財産を蕩尽することを惜しまなかった。幕府から警戒されないため、金に余裕がある時は散財を惜しまないという方針は、祖父利常のそれを踏襲したものであった。元禄2年(1689)には第5代将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。また、荻生徂徠も綱紀の統治を評して「加賀侯非人小屋(御小屋)を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と述べている。享保8年(1723)5月6日、家督を四男の吉徳に譲って隠居し、翌享保9年(1724)5月9日に82歳で死去した。綱紀は、叔父徳川光圀や池田光政らと並んで、江戸時代前期の名君の一人として讃えられている。また綱紀が長寿で、その藩政が80年の長きにわたったことも、加賀藩にとっては幸福であった。綱紀が名君となることができたのは、幼少の頃に祖父・利常の養育を受けたからだと言われている。 *「前田 吉徳」(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。
2024年06月04日
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5、「尾張荒子前田家」代々の当主は蔵人を称したことから前田蔵人家ともいわれる。上記の前田与十郎家から前田利隆が尾張荒子に分家しておこしたとされることもあるが、前田利昌以前の系譜ははっきりしない。利昌の跡は嫡男の前田利久が継承したが、主君の織田信長の命令で利久は隠居し、信長の寵臣で弟の前田利家が家督を継いだ。利久の養子である前田利益は利家に仕えたがのち出奔し上杉氏に仕えた。利益の嫡男正虎を含む家族は前田家に残留し、以降も加賀藩主家に仕えた。*「前田 利春」(まえだ としはる、? - 永禄3年7月13日(1560)は、戦国時代の武将、尾張国荒子城主。別名利昌(としまさ)。蔵人、縫殿助。父は前田利隆とされるが、史料が乏しく実在したかどうかは疑問である。利春は事実上の加賀藩前田氏などの始祖。室は竹野氏の娘(長齢院)。子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、2千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後に死去。戒名は道機庵休岳居士。 跡を嫡男の利久が継いだ。墓所は石川県七尾市の長齢寺、肖像画も所蔵されている。*「前田 利久」(まえだ としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田利春の長男。養子に前田利益。尾張国荒子城主・前田利春の長男として誕生。永禄3年(1560)、父・利春が死去したため家督を継ぎ当主となる。利久には子がいなかったため弟安勝の娘を養女とし、その婿に自身の妻の甥(弟とも)とされる前田利益を迎え養子とした。永禄12年(1569)、主君・織田信長の命により家督を弟の利家に譲る。理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(村井重頼覚書)。この一件により、利家との仲が不和になったといわれ(後に和解したとされる)、利久の妻も前田家代々の家宝を渡すまいと抵抗したと伝わる。また、利久の重臣である荒子城代の奥村永福も荒子城の明け渡しを拒絶したが、主命で退去を命じられている。その後は剃髪して蔵人入道と呼ばれ、天正11年(1583)からは利家に仕え、その領地である能登七尾に移り、7千石を与えられる。利家が不在の時には金沢城代を代任するなどした。天正15年(1587)9月16日、死去(1583年没という説もある)。*「前田 利家」(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。*「前田 綱紀」(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家第5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。寛永20年(1643年)11月16日、江戸辰口の藩邸で生まれる。この報せを聞いた父の光高は直後の江戸に向けた参勤交代で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。この際、『可観小説』によると、光高は道中の武蔵柏原にて、夢の中で「開くより梅は千里の匂ひかな」と一句を得たとされ、これが綱紀誕生の予兆であったとしている。将軍徳川家光の時代まで、嗣子が無かった場合は改易されることが多かったため、待望の嫡男の誕生に光高とその父・利常は大いに喜んだ。数日後に利常・光高父子は連歌会を開いているが、そのときの2人の句にも喜びが溢れていたことがわかる[1]。幼名は犬千代丸(いぬちよまる)と名づけられた。家督相続と祖父の補佐父・光高は正保2年(1645)4月に31歳で死去した。このため、6月13日に綱紀が3歳で家督・遺領を相続することとなった。藩政に関しては祖父の利常寛永16年(1639)に家督を光高に譲って小松に隠居していた)が後見することを、幕府より命じられた。幼少期の綱紀は、戦国武将の生き残りであった祖父・利常と、智勇を兼備していた父・光高の影響を受け、また利常が孫に尚武の気風を吹き込もうと養育したため、かなり腕白に育ったという。利常は当時賢君として知られた伊達忠宗や池田光政らを紹介して彼らの話をよく聞かせ、客がある時は綱紀を次室に座らせて傍聴させたという。
2024年06月04日
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最初は奥村栄実を中心とする保守的な改革を進めたが、やがてペリー来航などで開国論などが囁かれ始める前後になると、革新派(黒羽織党)を登用して洋式軍制の導入に取り組むなど、藩政改革を頻繁に行なった。しかし、元治元年(1864)の禁門の変では嫡男の慶寧に兵を預けて御所を守らせていたが、これが無様にも敗れて退京してきたので、怒った斉泰は慶寧を謹慎させ、家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じている。そしてこれを契機として、慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と協力して徹底的に弾圧した。慶応2年(1866)、慶寧に家督を譲って隠居したが、実権は相変わらず握った。加賀藩を薩摩藩や長州藩のような国政に関わる重要な立場に置くべく裏工作に専念したが、尊皇派の藩士を斉泰が弾圧してしまったことで有力な尊王藩士がおらず、他藩におくれを取り、さらに右腕であった本多政均が明治2年(1869)に暗殺されるなどということもあって、裏工作は実らず失敗に終わった。明治17年(1884年)、74歳で死去した。 *「前田 慶寧」(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。天保元年(1830)5月4日、藩主前田斉泰の長男として江戸に生まれる。母は正室の第11代将軍徳川家斉の娘・溶姫。幼名は犬千代。天保4年(1833年)、大奥にて初めて将軍家斉に謁する。天保9年(1838年)3月、初名を利住(としずみ)とする。天保12年(1841年)12月、又左衛門と称する。松平の名字を与えられる。天保13年(1842年)2月15日表向きに初めて登城・将軍家慶に謁し、同月22日江戸城にて元服し、正四位下左近守権少将に任じられて筑前守を称し、家慶の偏諱を授かって慶寧に改名した。嘉永5年(1852年)12月左近衛権中将に、安政5年(1858年)11月正四位上に昇る。元治元年(1864)5月、斉泰に代わり上洛した。御所の警備にあたっていたが、病がちになり、7月に起こった禁門の変では、長州藩と幕府の斡旋を試みたが失敗し、病を理由に退京し近江国海津(加賀藩領)に居たため、長州に内通した疑いを受けた。このため、斉泰により幕命に背き御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられた。このとき、側近の松平康正(大弐)や大野木仲三郎をはじめ、多くの側近たちが斉泰や本多政均らの手によって処罰されている。一説には、慶寧は尊皇攘夷派と親しかったため、それを苦々しく思った斉泰が弾圧したのだという。慶応元年(1865年)4月、謹慎が解かれる。慶応2年(1866)4月4日、斉泰から家督を譲られたが、実権は依然として斉泰が握っていた。同年5月10日に参議に任官する。戊辰戦争では新政府軍に味方している。その後、明治2年(1869年)6月に金沢藩知事となり、7月に従三位に叙される。明治4年(1871年)の廃藩置県により、8月に東京に移る。その後、結核と思われる肺疾患にかかり、明治7年(1874)5月22日、療養先の熱海で父に先立って死去した。享年45歳(満43歳没)。明治26年(1893年)7月に従二位を贈られた。 *「前田 利嗣」(まえだ としつぐ、安政5年4月19日(1858)~明治33年(1900)6月14日)は、加賀前田家第15代当主。字は推永、号は育峰。当時加賀藩世子だった前田慶寧(第14代藩主)の長男として生まれる。幼名は多慶丸。明治2年(1869)に父慶寧に代わって上洛し、参内して従四位下左近衛権少将兼筑前守に叙せられた。明治4年(1871)、岩倉使節団の一員としてイギリスに留学した。明治17年(1884)、授産のために石川県士族を札幌県岩内郡に入植させた(後の前田村)。明治23年(1890)の貴族院設立に伴って同院の侯爵議員となり、主猟官麝香間祗候を歴任した。明治24年(1891)10月に尾山神社で行われた金沢城修築三百年祭の祭典に出席している。明治28年(1895)、石狩平野の西部に農場を作り、これが札幌市前田の起こりとなった。1明治33年(1900)に42歳で死去。家督は婿養子となる前田利為が嗣いだ。明治12年(1879年)には、石川・富山両県の子弟の学費を援助する育英事業団体「加越能育英社」の設立にあたり、2000円(現在の3300万円余)を寄付した。
2024年06月04日
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また相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は一層苦しくなっていた。宝暦9年(1759)4月10日、金沢に大火が起こり、金沢城をはじめ1万5百戸余りが焼失し、幕府から金5万両を借りて急場をしのいだ。また、重教は加賀狂言などの能狂言の普及に努めた。明和8年(1771)に家督を異母弟の治脩に譲って隠居したが、その後にもうけた息子の斉敬、次いで斉広が治脩の養子となった。天明6年(1786年)に46歳で死去した。金沢市にある全性寺(日蓮宗の寺)には、重教の生母が安産祈願のために寄進した不動明王が祭られている。*「前田 治脩」(まえだ はるなが)は、加賀藩の第10代藩主。加賀前田家11代。第5代藩主・前田吉徳の十男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち最後の藩主である。父・吉徳の死の5か月前に最後の男子として生まれる。幼名は時次郎。藩主の十男と序列は極めて低く、本来藩主の座などとても望めない立場であった。誕生翌年の延享3年(1746)4月、越中勝興寺の住職になることが定まり、6月に名を尊丸と改める。宝暦6年(1755)11月に勝興寺に移り、宝暦11年(1761)3月、17歳で得度して闡真と称した。しかし、兄たちは次々に早世し、七男の重教が藩主を継いだ頃には、重教と九男の利実を残すのみであった。明和3年(1766)に利実も没し、重教にも他の兄たちにも男子がなかったため、明和5年(1768)12月に闡真は重教の命により還俗した。翌年2月金沢に移り、俗名で名乗りを時次郎に戻した後、諱を利有(としあり)とした。なお、このとき金沢入りした際の道中記は、非常に優れた日記として評価されている。明和8年(1771)3月、松平名字を与えられる[2]。翌4月、重教の隠居により家督を継ぎ、将軍徳川家治より偏諱を授かり治脩に改名した。寛政4年(1792)、藩校明倫堂(総合大学的性格を持つ文学校)と経武館(士官学校的性格を持つ武学校)を兼六園の隣に創設した。学頭は京から招かれた新井白蛾で、当代随一の漢学者として名高かった。重教が隠居後に男子をもうけたので、長男の斉敬を寛政3年(1791)に養嗣子とした。しかし斉敬は襲封前に夭逝したため、代わって次男の斉広を養嗣子とし、享和2年(1802)に家督を譲って隠居した。寛政12年(1800)に側室の伊遠に自身の男子・裕次郎(利命)が生まれており、斉広の養嗣子(順養子)としたが、裕次郎は文化2年(1805)に6歳で夭折した。文化7年(1810年)、66歳で没した。*「前田 斉広」(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主・前田重教の次男。冤罪事件である十村断獄の際の藩主で暗君として知られる。金沢にて生まれる。重教が弟の第10代藩主治脩に家督を譲って隠居した後、生まれた息子である。寛政7年(1795年)、兄の斉敬が夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。翌寛政8年(1796年)11月に江戸に出府、松平の名字を与えられ、12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、通称を又左衛門、諱を利厚とする。寛政9年2月、将軍徳川家斉より偏諱を授かり斉広に改名する。正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。享和2年(1802)に、治脩の隠居により家督を継いだ。加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折した。文政5年(1822)、嫡男の斉泰に家督を譲って隠居し、肥前守を称した。文政7年(1824年)に43歳で没した。芥川龍之介の短編小説「煙管」(1916年)では、金無垢の煙管をモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている。 *「前田 斉泰」(まえだ なりやす)は、加賀藩の第12代藩主。加賀前田家13代。第11代藩主・前田斉広の長男。文化8年(1811年)、金沢城で生まれる。幼名は勝千代。文政5年(1822)8月、江戸に上り、名を勝丸、さらに犬千代と改めた上で、松平の名字を与えられ、又左衛門と称し諱を利侯とする。同年10月、正四位下・左近衛少将となり、若狭守を称し、また将軍・徳川家斉から偏諱を授って斉泰に改名する。同年11月、父斉広の隠居により、12歳で加賀藩主となる。左近衛中将に昇任し、加賀守を称する。同じ頃、将軍家斉の娘・溶姫との縁組の話があり、翌年婚約し、文政10年(1827年)11月溶姫は前田家へ輿入れした。のち天保2年(1831年)12月に参議、安政2年(1855年)12月に権中納言となる。藩主となって直後は依然として父が藩政を握っていたが、文政7年(1824)、斉広の死により親政を開始し、藩政改革に取り組んだ。
2024年06月04日
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吉徳は自身の死の5か月前に生まれた治脩まで10人の男子を残したが、宗辰(長男)は翌年に早世し、以後重熙(次男)、重靖(五男)、重教(七男)、治脩(十男)と都合5代にわたり、兄弟で相次いで家督が相続された。残る5人は早世した。*「前田 宗辰」(まえだ むねとき)は、加賀藩の第6代藩主。加賀前田家7代。先代藩主・前田吉徳の長男。母は側室の浄珠院(以与・上坂氏)。幼名は勝丸、犬千代。通称は又左衛門。初名は利勝(としかつ)。正室は会津藩主・松平正容の娘・常姫(梅園院)。続く4代の藩主重煕、重靖、重教、治脩の異母兄・長兄にあたる。享保10年(1725)、金沢の金谷御殿にて生まれる。幼名は勝丸。同年松平の名字を与えられる。元文元年(1736)9月江戸に上り、翌年4月、名を犬千代と改めた後、又左衛門と改め諱を利勝とする。6月、正四位下左近衛権少将に任じられ、佐渡守と称し、将軍・徳川吉宗より偏諱を受けて宗辰と改めた。延享元年(1744年)4月、会津藩主・松平正容の娘・常姫と結婚。延享2年(1745)、延享2年(1745)6月、父吉徳の死により家督を継ぐ。10月左近衛権中将となり、加賀守と称する。11月、正室常姫が男子を出産するが、母子ともに死亡した。自身も翌延享3年(1747)12月に22歳で死去した。その跡を宗辰の次弟の利安(重煕)が継いだ。 *「前田 重煕」(まえだ しげひろ)は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主・前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主・松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主である。享保14年(1729)、江戸で生まれる。寛保3年(1743)1月27日、松平の名字を与えられ、松平亀次郎と称す。延享3年(1746)、異母兄・宗辰が早世したために跡を継ぐ。のちに将軍・徳川家重より偏諱を授かって利安から重煕に改名する。官位は正四位下、加賀守、左近衛権中将。その頃、加賀藩では重煕の父・吉徳の時代に厚い信任を受けて藩政改革を行なった大槻伝蔵が、吉徳の死で後ろ盾を失って失脚し、五箇山に流罪に処されていたが、この大槻の存在から加賀騒動が延享5年(1748)に発生した。先代の宗辰の生母である浄珠院は重煕の養育係を務めていたが、浄珠院の毒殺未遂事件が起こる。この事件は、吉徳の側室真如院の指示によるものとされた。さらに調査するうちに、真如院が大槻と不義密通していたという疑惑に発展した。大槻は寛延元年(1748年)9月12日に配所にて自害した。いわゆる加賀騒動における事の真偽は定かではないが、この事件により加賀藩では混乱が続く。宝暦3年(1753年)、重煕は25歳で死去する。跡は異母弟の重靖が継いだ。*「前田 重靖」(まえだ しげのぶ)は、加賀藩の第8代藩主。加賀前田家9代。第5代藩主・前田吉徳の五男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち3番目の藩主である。享保20年、金沢で生まれる。幼名は嘉三郎。延享4年(1747年)、諱を利見(としちか)とする。寛延元年(1748年)の加賀騒動により、翌寛延2年(1749年)3月、異母兄・利和と入れ替わる形で江戸に上り、藩主・重煕の仮養子となる。宝暦元年(1751年)11月、松平の名字を与えられる。同年12月、将軍徳川家重に謁し、従五位下に叙されて上総介を称する。宝暦3年(1753)5月18日、異母兄・重煕の死により、末期養子として家督を継いだ。6月、重煕と同じく将軍徳川家重より偏諱を授かって重靖に改名する。また正四位下・左近衛権少将となり、加賀守を称する。同年7月28日、藩主として初めて帰国の許可を幕府より得る。8月16日出立するが、道中で麻疹を患い、金沢に到着するものの、9月29日に19歳で病死した。同年10月5日に至り、加賀藩は重靖の死亡を公表した。家督は異母弟の利篤(重教)が継いだ。*「前田 重教」(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主・前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。寛保元年(1741年)に金沢で生まれ、そのまま金沢で成長した。当初、加賀藩年寄村井長堅の養子になる予定であったが、宝暦3年(1753)5月に藩主となった異母兄・重靖の命により、村井との養子の約束を解消して前田家に留まる。同年10月5日、加賀藩は藩主であった重靖の病死を公表した。このとき、後継者であった重教はただちに江戸へ向かい、幕府から家督相続の許可を得る手はずだったが、麻疹にかかって出発できず、藩首脳部で大きな問題となる。同月15日、諱を利篤とする。同月17日、松平の名字を与えられる。宝暦4年(1754)2月、健康を回復して金沢を出発し、江戸に向かう。同年3月11日、将軍徳川家重に御目見し、末期養子として家督を相続する。同年4月、正四位下、左近近衛少将に叙任、加賀守を称する。また将軍家重から偏諱を授かって重基に改名する。翌宝暦5年(1755)12月、左近衛権中将に昇進する。また明和2年(1765)、将軍世子家基の諱を憚って重教に改名した。藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き、宝暦4年(1754年)まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続いた。
2024年06月04日
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また、藩内で長寿を保っている者に対しては褒美として扶持米を与えたりした。さらに改作法を作り、前田家家中の職制(年寄役である加賀八家の制度)を定めた。また、前田利家が一向一揆鎮圧に手こずらされたことなどの影響から、加賀藩は他の藩と比較して刑罰が苛烈であったが、綱紀は死罪が決定していた罪人を減刑するなどした。こうした綱紀の姿勢に影響され、苛烈な刑罰も綱紀以前と比べると寛容になってゆき、厳罰を旨とする武断政治から文治政治へと移行した。対外政策においても、隣国の福井藩との争いである「白山争論」に決着をつけた。また、母の冥福を祈って白山比咩神社に名刀「吉光」を奉納した(これは現在国宝となっている)。綱紀自身が学問を好んだこともあって(武芸から建築など幅広く修め、儒学を尊重する岳父の正之からは苦言を呈されるなどした)、藩内に学問・文芸を奨励し、書物奉行を設けて工芸の標本、古書の多くを編纂・収集し、これらを百工比照に結実した。また、木下順庵、室鳩巣、稲生若水らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した百科事典『桑華学苑』を記し、家臣団にも学問を奨励した。そして、宝生流能楽を加賀藩に導入している。綱紀自身能楽を嗜み、その腕前は能楽師に引けを取らなかった。将軍の前で舞を披露したこともあった[10]。また加賀藩士達も綱紀の影響を受け、文芸に傾倒した。豊富な書籍が収蔵された書庫は、新井白石から「加賀藩は天下の書府」と礼賛された。自家以外の古文書の保管にも意を注ぎ、東寺の東寺百合文書の保存や娘婿三条西公福の三条西家に伝わる「実躬卿記」の発見および補修にも、資金および技術で多大な協力をしたことでも知られる。規模の大きい藩である加賀藩が蓄財をしすぎると、幕府転覆を画策しているのではないかと幕府から警戒されるおそれがあった。そのため、綱紀は、資金に余裕がある時は散財をした。豪奢な調度品を仕入れ、建物の改築に財産を蕩尽することを惜しまなかった。幕府から警戒されないため、金に余裕がある時は散財を惜しまないという方針は、祖父利常のそれを踏襲したものであった。元禄2年(1689)には第5代将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。また、荻生徂徠も綱紀の統治を評して「加賀侯非人小屋(御小屋)を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と述べている。享保8年(1723)5月6日、家督を四男の吉徳に譲って隠居し、翌享保9年(1724)5月9日に82歳で死去した。綱紀は、叔父徳川光圀や池田光政らと並んで、江戸時代前期の名君の一人として讃えられている。また綱紀が長寿で、その藩政が80年の長きにわたったことも、加賀藩にとっては幸福であった。綱紀が名君となることができたのは、幼少の頃に祖父・利常の養育を受けたからだと言われている。 *「前田 吉徳」(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。元禄15年(1702)2月14日、松平姓を与えられ、松平犬千代、のち諱を利挙(としたか)、利興(としおき)と称する。また、同年6月9日に元服し、祖父・光高の従兄弟にあたる第5代将軍・徳川綱吉の偏諱を授かって吉治(よしはる)に改名。宝永5年(1708)、将軍綱吉の養女(尾張藩3代藩主徳川綱誠の娘)松姫を正室に迎える。享保8年(1723)5月、父綱紀が高齢で病のためもあって、家督を譲られる。このとき名を吉治から吉徳と改め、6月15日に加賀守を称し、8月18日に左近衛権少将に昇進した。吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽出身の大槻伝蔵を重用して改革を行なった(後の巷説では男色相手の寵臣ともいわれる)。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇し(御三家に準ずる待遇)、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税の制定などの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功した。この功績によって、伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかしこれに対して、改革による質素倹約などの制限や、成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などが元で、藩内における保守派や門閥層の間に不満が集まるようになった。延享2年(1745)、吉徳は56歳で死去し、跡を嫡男の宗辰が継いだ。その翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となった。
2024年06月04日
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寛永20年(1643)、長男(嫡男)の犬千代(のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の参勤で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。正保2年(1645)4月5日、老中・酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死した。享年30歳(満29歳没)。家督および藩主の座は幼少の嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である利常がそれを補佐する体制がとられた。法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。人物・逸話第3代将軍徳川家光は母方の叔父にあたり、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時甥であるこの光高を後継者にしようとしたという。両親共美男美女と名高かった故にかなりの美男子と言われ、当時から家光の衆道(男色)相手をしていた時期もあったという噂が流れていた。光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある。高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は秀忠の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった。光高は下戸であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の福井藩主松平忠昌は酒豪であったが、江戸で向かいの屋敷に住んでいた光高が突然死すると、将軍家光は忠昌の健康を心配し、飲酒を控えるように伝えたが、忠昌は短冊に一編の狂歌を書いて、家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 この返事を受け取った家光は、忠昌だからしょうがない、とそのままとなった。ちなみに忠昌は光高の4ヵ月後に死亡した。*「前田 綱紀」(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家第5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。寛永20年(1643年)11月16日、江戸辰口の藩邸で生まれる。この報せを聞いた父の光高は直後の江戸に向けた参勤交代で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ。この際、『可観小説』によると、光高は道中の武蔵柏原にて、夢の中で「開くより梅は千里の匂ひかな」と一句を得たとされ、これが綱紀誕生の予兆であったとしている。将軍徳川家光の時代まで、嗣子が無かった場合は改易されることが多かったため、待望の嫡男の誕生に光高とその父・利常は大いに喜んだ。数日後に利常・光高父子は連歌会を開いているが、そのときの2人の句にも喜びが溢れていたことがわかる。幼名は犬千代丸(いぬちよまる)と名づけられた。家督相続と祖父の補佐父・光高は正保2年(1645)4月に31歳で死去した。このため、6月13日に綱紀が3歳で家督・遺領を相続することとなった。藩政に関しては祖父の利常(寛永16年(1639)に家督を光高に譲って小松に隠居していた)が後見することを、幕府より命じられた。 幼少期の綱紀は、戦国武将の生き残りであった祖父・利常と、智勇を兼備していた父・光高の影響を受け、また利常が孫に尚武の気風を吹き込もうと養育したため、かなり腕白に育ったという。利常は当時賢君として知られた伊達忠宗や池田光政らを紹介して彼らの話をよく聞かせ、客がある時は綱紀を次室に座らせて傍聴させたという。松平の名字を与えられ「松平犬千代丸」となる。承応3年(1654)1月12日、利常に伴われて江戸城に登城して元服し、第4代将軍徳川家綱より偏諱を授かり綱利と名乗った(のち綱紀に改名)。同時に正四位下に叙され、左近衛権少将・加賀守に任官される。万治元年(1658)7月27日、綱紀は保科正之の娘・摩須と結婚する。正之は徳川家光の異母弟で、家光の没後に幼少の家綱を補佐して幕政を主導していた大老であり、血統・経歴に問題はなかったが、所領は23万石で、加賀藩とはかなりの開きがあった。しかし利常が、徳川将軍家に子はなく、徳川御三家も頼りないとして、将軍家の血統に当たり人物・器量も抜群だった正之の娘をあえて選んだという。摩須は10歳で嫁ぎ、寛文6年(1666)に18歳の若さで亡くなったが、綱紀はその後に継室を迎えることはしなかった。綱紀は正之の思想に大きく影響を受け、それはその後の彼の政策に反映されてゆくこととなる。綱紀の藩政を「正之の模倣」とする指摘もある。万治元年10月に利常が死去すると、岳父の保科正之の後見を得て藩政改革を行なうこととなる。まず、新田開発や農業方面に着手し、十村制度を整備した。さらに、寛文の飢饉の際には生活困窮者を助けるための施設(当時これは「非人小屋」と呼ばれたが、金沢の人々は綱紀への敬意から「御小屋」と呼んだ。「御救い小屋」という呼称もある[8]。)を設置して、後に授産施設も併置した。この施設は2000人近くの人間を収容することが可能であり、飢餓の際はここで米を支給した他、医者を派遣して医療体制も整えていた。御小屋の建設について、綱紀は藩主就任当時からこの施設を作るアイデアを持っていたが、巨大な施設ゆえ維持費が藩の財政を圧迫するため、家老達の反発などもあり、実施には長い年月と寛文の飢饉という御小屋が必要とされる機会を要した
2024年06月04日
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寛永16年(1639)6月に嫡男の光高に家督を譲るとともに、次男の前田利次に富山藩10万石を、三男の前田利治に大聖寺藩7万石を分封し、20万石を自らの養老領として小松に隠居した。この隠居の際、家光は制止したが利常は聞かずに隠居届を出して隠居したという。復帰と綱紀の補佐寛永19年(1642)、四女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交した。ちなみに院の中宮・徳川和子は珠姫の妹に当たるため、利常と院は義兄弟関係にあった。八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを機に京風文化の移入にも努め、「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させた。正保2年(1645)4月、光高が急死し、跡を継いだ綱紀が3歳とまだ幼かったことにより、6月に将軍・家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した。利常は治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして、120万石の家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励した。一方で、綱紀の養育のために戦国時代の生き残りを綱紀の近くに侍らせて、尚武の気風を吹き込んだ。また、綱紀の正室には将軍・家光の信頼厚く幕府の重鎮であった保科正之の娘・摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めた。万治元年(1658)10月12日に死去した。享年66歳。法名は微妙院殿一峯克巌大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。なお、死後にはその戒名から微妙公と呼ばれる場合もある。 4、「加賀前田家」尾張国愛知郡(現名古屋市中川区)の土豪だった前田利昌の四男・利家が、織田信長に仕えて功績を挙げ、能登国21万石を領する大名となる。信長没後、利家の娘豪姫を養女としていた豊臣秀吉が統一事業を進めると、利家は賤ヶ岳の戦いでは一時は秀吉と対立したものの和睦した。豊臣政権においては新たに加賀国半国(二郡)と越中国(当初三郡、のち一国)を加え、加能越の三国にまたがり83万石余(うち越中守山32万石は利家監督のもと利長が統治、能登小丸山21万石は生前より利政に分与)を領し、五大老の一人として徳川家康に次ぐ官位(権大納言)を得た。二代利長は秀吉没後に家康暗殺を企んでいるとの疑いをかけられるが、利長の母で利家の妻である芳春院が人質になることで疑いは晴れ、 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川方についてさらに領地を加増され、江戸時代初期には加賀・能登・越中3国で119万石を領する大大名になった(「加賀藩」の項も参照)。利長の跡を継いだ弟の三代利常は徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎え、以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返したことから、加賀藩主は徳川将軍家から特に「松平」の苗字と葵紋を許されて御家門に準じる家格を与えられた。いわゆる「松平加賀宰相」である。慶長118年(1613年)、前田氏は幕府から越中国の返上を迫られたが撤回させた。 *「前田 利家」(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。 *「前田 光高」(まえだ みつたか)は、加賀藩の第3代藩主。加賀前田家4代。第2代藩主・前田利常の長男。母は第2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)。正室は第3代将軍徳川家光の養女で水戸藩主・徳川頼房の娘・大姫。徳川家康の外曾孫で、藩祖・前田利家の嫡孫である。子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。元和元年(1615)11月20日、加賀藩主・前田利光(のちの利常)の長男として生まれる。寛永6年(1629)4月23日、元服し、母方の叔父にあたる将軍徳川家光より「松平」の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、松平筑前守光高と称する(逆に「光」の字を諱の下(二文字目)におくのを避けた父・利光は「利常」に改名している)。寛永16年(1639)の父・利常の隠居に伴い、家督を継ぐ。富山藩、大聖寺藩の分封と、利常の隠居領のため、加賀藩領の石高は歴代最少の80万石となる。
2024年06月04日
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*「前田 利常」(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。幼少期から家督相続まで文禄2年(1594)、加賀藩祖・前田利家の庶子(四男)として誕生。母は側室の千代保(寿福院)。利家の56歳の時の子である。利家が豊臣秀吉の文禄の役で肥前名護屋城に在陣していた時、生母の寿福院は下級武士の娘で侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて生まれたのが利常である。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉・幸姫)。父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の慶長3年(1598)に守山城を訪ねた折りのことで、利家は幼少の利常を気に入り、大小2刀を授けた。慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となった。この人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。同年、跡継ぎのいなかった長兄・利長の養子となり、名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか3歳だった)徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになる。慶長10年(1605)6月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となる。4月8日、松平の名字と源の本姓を与えられる。しかし利常は父以来の菅原姓にこだわり固守したと伝えられている。藩主時代利常は同母の兄弟がおらず、全て異母兄弟であった。このためすぐ上の兄である知好、末弟の利貞らと協調することができなかったり、利家の正室で義母にあたる芳春院(まつ)と生母の寿福院が前田直之(次兄・利政の子で芳春院の孫)の処遇をめぐって対立するなど内憂に苦しめられた。慶長19年(1614)、大坂冬の陣では徳川方として参戦。10月12日に利常は江戸から金沢へ到着し、同月14日に大坂を目指して出陣するが、この際に士気高揚のため門出に際して「軍神への生贄」として不届きな御馬取りが殺害されたと伝わる。11月17日、利常は住吉で家康に謁見し、阿倍野に陣を布いた。前田軍の規模は徳川方の中でも最大の動員兵力で、2万以上はいたといわれる。前田軍は大坂方の真田信繁軍と対峙した(真田丸の戦い)。家康は大坂城を包囲して心理的圧力を加える腹積もりだったため、家康は利常に攻撃命令を下さなかったが、家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、12月4日丑刻(午前2時頃)に軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では、5月6日に家康から岡山口(四条畷市)の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた。5月7日正午、前田軍1万5000人は大坂方の大野治房軍4000人と戦い、苦戦しながらも勝利した。この時、前田軍は松平忠直軍に次いで3200の首級をあげ、『大坂両陣日記』では直参・家中213人が敵を討ち取り、首級は258、雑兵を含む首級の数は3000余とある。前田軍の名のある戦死者は冬の陣では6名、夏の陣では34名であった(『大坂両度御出馬雑録』では41名とある)。なお、大坂夏の陣に際しては、城方が巻き返した折、前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが取り合わなかったという逸話が伝わる。大坂の陣の終了後の5月13日、家康から与えられた感状では「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してこれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んで認められた(『国初遺文』)。固辞した理由は転封を危険視したとも、経済的な理由(越中七金山と呼ばれた鉱山経営が軌道に乗り始めた)とも推測されている。元和2年(1616)4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『懐恵夜話』)。寛永6年(1629)、諱を利光から利常と改める。元和9年(1623)には秀忠の嫡男で利常の義弟でもある徳川家光が将軍となっており、その偏諱でもある「光」の字を下(2文字目)におく「利光」の名を避けたものと思われる。代わりに、嫡男の利高がその字を与えられて光高と改名している。寛永8年(1631)、大御所(前将軍)・秀忠の病中に金沢城を補修したり、家臣の子弟で優秀な者を選んで小姓にしたり、大坂の役の際に勲功があったとして追賞したり、他国より船舶を盛んに購入したりした。このため、大御所である秀忠の病中に乗じて利常に対する謀反の嫌疑をかけられるも(「寛永の危機」)、自ら嫡男・前田光高とともに江戸に下り、家老の横山長知の子の康玄の奔走もあって懸命に弁明した結果、からくも疑いを解くことができた[10]。その後、嫡男・光高の正室に家光の養女・大姫(水戸徳川家の徳川頼房の娘)を迎えている。
2024年06月04日
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琉球での密貿易は慶長14年(1609)に藩祖・島津忠恒(家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかったため「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。お由羅の方は我が子・久光擁立を計った調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱えるなどして支援していた。一方その頃、斉彬は多数の子女を儲けていたもののその多くが幼少の内に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけで、久光の子女が無事に成長していたのとは全く対照的であった。また、斉彬の実弟 池田斉敏も早世している。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を、これを理由として排除しようと計った(事実呪詛していたともいう。当時は高貴な家でも生まれた子女が育たないことは珍しくなく、当のお由羅の子も3人中、久光以外の2人は夭折している。斉彬家と久光家に何らかの環境や育児法の違いがあったことも考えられるが、それは当時の医学知識では知る由もないことであった。ここに及んで斉彬派は江戸家老・島津壱岐や二階堂主計といった改革派に加え、藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は島津久宝・久徳・伊集院平・吉利仲といった斉興側近の家老で固め、調所が築いた安定を堅守しようと鋭く対立した。嘉永2年(1849)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、特に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。その機先を制するかの様に同年12月日(1850)、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された(即切腹となったため謀議の真偽については不明)。同罪状でその他3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。この禍は本国のみならず江戸屋敷まで及び、嘉永3年4月26日(1850)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられたに切腹)。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。この時西郷吉之助(隆永、後の隆盛)は、父・吉兵衛から吉兵衛が御用人をしており介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる。また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職、謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷が援けたという。斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実家の騒動を見過ごせなかった長溥は斉興が脱藩士を引き渡すよう強要するもこれを拒絶、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部に事態の収拾を訴えた。以前より斉彬を買っていた正弘は将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされた)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851)、遂に斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲った。ちなみに騒動の首謀者とされるお由羅の方にはその後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866)に鹿児島で死去した。この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたのが久光と西郷の確執の原因であるという。*「島津 斉興」(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名。島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。寛政3年(1791年)11月6日、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。生母の実家鈴木氏は浪人であったため、斉興出生後に藩と鈴木氏との間で諍いが起きている。文化元年(1804)10月に元服、将軍・徳川家斉より偏諱を賜って、初名の忠温から斉興に改名。従四位下、侍従兼豊後守に叙任。文化6年(1809)6月、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は重豪に握られていた。天保4年(1833)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。藩政改革では調所主導の元、借金の250年分割支払いや清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年(1848)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児に正室・弥姫(周子)(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた(次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた)。本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。
2024年06月02日
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西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。明治4年(1871)2月に鹿児島・山口・高知3藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京する。西郷や大久保らが主導するかたちで、同年7月14日に廃藩置県が断行されると、これに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される(玉里島津家の創立)。11月14日に都城県が設置され、旧藩領が鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、自身の鹿児島県令就任を希望する。明治5年(1872)6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在したことを受けて、6月28日に政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ十四カ条の意見書を奉呈する。明治6年(1873)3月に勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて上京する(4月17日鹿児島発、23日東京着)。5月10日、麝香間祗候を命じられる。12月25日、内閣顧問に任じられる。明治7年(1874)2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する(2月14日東京発、20日鹿児島着)。4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京する4月15日鹿児島発、21日東京着)。同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。晩年、明治8年(1875)10月23日、左大臣の辞表を提出、27日に許可される。11月2日、麝香間祗候を命じられる。明治9年(1876)4月、鹿児島に帰郷する(4月3日東京発、13日鹿児島着)。以後、鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わる史料の蒐集、史書(『通俗国史』等)の著作・編纂に専念する。また、依然として政府による廃刀令等の開化政策に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった。明治10年(1877)2月に西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光は太政大臣・三条実美への上書において中立の立場にあることを表明、代わりに四男・珍彦、五男・忠欽を京都に派遣する。また戦火を避けるため、桜島に一時避難している。こののちも政府は久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇した。明治20年(1887)12月6日に死去、享年71歳。国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のために道路が整備され、熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣される。玉里家(公爵)は七男・忠済が継承する。 22、「お由羅騒動」「お由羅騒動」(おゆらそうどう)は、江戸時代末期(幕末)に薩摩藩(鹿児島藩)で起こったお家騒動。別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。事件の名前になったお由羅の方は、江戸の町娘(三田の八百屋、舟宿、大工など多数の説がある)から島津斉興の側室となった人物である。彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬廃嫡を目したことが事件の原因とされる。しかし、これはただお由羅が望んだだけのことではなく、祖父・重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷などの重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。彼ら久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もある。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々あった。このため、西洋の事情に疎い斉興より海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。久光は文化14年(1817)生まれで、文政元年(1818)に父・斉興のごり押しで種子島家の養子となったが、文政8年(1825)に斉興の心変わり により種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭の重富島津家へ養子に入ることとなった。名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる。一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていた事もあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となったが、この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出た。
2024年06月02日
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出府に先立って5月12日、通称を和泉から三郎へと改めた 上で、21日に勅使・大原重徳に随従して京都を出発、6月7日に江戸へ到着する。当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜の将軍後見職、9日に春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。勅使東下の目的を達成したことで、8月21日に江戸を出発、東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)でイギリスの民間人4名と遭遇し、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる。閏8月6日に京都へ到着、9日に参内して幕政改革の成功を復命した後、23日に京都を発し帰藩する(9月7日鹿児島着)。イギリス人殺傷の一件は結果的に、翌文久3年(1863)7月の薩英戦争へと発展する。公武合体運動の挫折、文久3年(1863)3月に2回目の上京をする(3月4日鹿児島発、14日京都着)が、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩する(18日京都発、4月11日鹿児島着)。しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から再三、上京の要請を受ける。長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津藩が中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行された八月十八日の政変が成功した後、3回目の上京を果たす(9月12日鹿児島発、10月3日京都着)。久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、12月30日に一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保(京都守護職)が朝議参預を命じられる。久光自身は翌元治元年(1864)1月14日に参預に任命され、同時に従四位下・左近衛権少将に叙任される。かくして薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立するが、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに政治的対立が生じる。結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。久光は3月14日に参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して4月18日に退京する(5月8日鹿児島着)。倒幕の決断、久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、元治元年(1865)の禁門の変(7月19日)、第一次長州征討、慶応元年(1865)の将軍進発(5月16日)、条約勅許(10月5日)、慶応2年(1866)1月21日の薩長盟約の締結、第二次長州征討、将軍・徳川家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)、慶応3年(1867)の祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚(1月9日)、等々と推移する。この間、慶応2年(1866)6月16日から20日にかけて、イギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎えて、藩主・茂久と共に歓待し、薩英戦争の講和以後続く薩摩藩とイギリスの間の友好関係を確認する。慶応3年(1867)の4回目の上京(3月25日鹿児島発、4月12日京都着)では、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開き、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫(現兵庫県神戸市)開港問題 や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来保留されたままの長州処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認する。しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会談では、長州処分問題の先決を唱える(寛典処分を意図する)四侯に対して、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港問題の先決を主張する。同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は不明確であった。この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。病身の久光は8月15日に大坂へ移り、9月15日に帰藩の途に就く(21日鹿児島着)。10月14日に久光・茂久へ討幕の密勅が下され、また同日の徳川慶喜による大政奉還の奏請を受けて翌15日、朝廷より久光に対し上京が命じられる が、病のためそれに応じられず、代わって藩主・茂久が11月13日、藩兵3000人を率いて鹿児島を出発、途中周防国三田尻(現山口県防府市)において18日、長州藩世子・毛利広封と会見し薩長芸3藩提携による出兵を協定して、23日に入京する。その後、中央政局は王政復古、戊辰戦争へと推移した。明治維新後維新後も鹿児島藩(薩摩藩)における権力を握り続けたが、新政府が進める急進的改革に批判的立場をとり、また藩体制の改革を要求する川村純義・野津鎮雄・伊集院兼寛等の戊辰戦争の凱旋将兵(下級士族層が中心)と対立する。明治2年(1869)2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向、その働きかけに応じて上京し(2月26日鹿児島発、3月2日京都着)、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任される(13日京都発、21日鹿児島着)。明治3年(1870)1月から2月にかけて、久光と西郷隆盛へ上京して政府に協力する よう促すため、大久保が東京から帰藩するが、政府に不満をもつ久光と西郷を説得できず、両者の引き出しに失敗する。同年12月、勅使・岩倉具視が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。
2024年06月02日
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40、【上田騒動】「上田騒動」(農民一揆)(うえだそうどう)とは、信濃国上田藩で発生した農民一揆である。宝暦11年(1761年)、上田藩(藩主松平忠順)の農民約13000人が上田城へ押し掛けた。 この一揆での願いは、年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、中村弥左衛門をはじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢の徴収方法を従来の定免法から古来の検見法に戻し、農民を踏み台にして得た年貢で立身出世を謀ろうとした、とされている。一揆に参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民がほとんどであった。12月11日、諏訪部の河原に集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主は江戸に出府中で、家老の岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。岡部は農民達を前にして、「もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町で打ち壊しを行ったほか、小牧村(現・上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。宝暦12年(1762)1月9日、上田城に呼び出された農民は岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴は御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡した。農民たちにすれば、自分達の要求の大半が受け入れられたため、一揆は成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった。呼び出しから10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。宝暦13年(1763)3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783)に出獄し、寛政2年(1790)に84歳で死去した 了
2024年05月30日
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39、【虹の松原一揆】「唐津藩領明和8年一揆」1771年(明和8)肥前国藩領で起った一揆。参加農漁民は1万人とも2万3000人とも言われている。普代藩の唐津藩で、1762年(宝暦12)に土井利里から水野忠任へ藩主交替し、新藩主が転封費用などによる財政窮乏打開策にために年貢増微策を実施した。これが反対し既得権を守ろうとする農漁民が蓑、笠、鎌などを携え、7月20日、城下町近くで幕府領との境に位置する虹の松原に屯集した。虹の松原一揆とも呼ばれ、要求内容は無年貢地への課税廃止や新規運上の廃止など、水野氏新政策への反対である。一揆勢は7月24日に解散するが、この後も庄屋層が藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取る。首謀者は平原村大庄屋の富田才治らと言う。 ◎「虹の松原一揆」は、1771(明和8年)に肥前国唐津藩で発生した一揆である。唐津城に近い虹の松原(現在の佐賀県唐津市)に集結した農民が新税の撤回を要求、藩にこれを認めさせた。なお、「虹の松原」は明治時代以後の呼称であり、当時は「二里松原」と呼ばれていた。この事件ももとは「松原寄り」と呼ばれていた。当時の唐津藩主水野忠任が課した農民への増税に対して不満が高まり、これに対して一揆が計画された。虹の松原は、もともと唐津藩の初代藩主寺沢広高の命令で植林された防風林であるが、当時は幕府の直轄領(天領)となっていた。唐津城にも近い松原に集団で立てこもることで武力的に威嚇するとともに、天領での事件ということで幕府から唐津藩への処罰をも懸念させる事態とした。また、役人達に発覚しないように、統制のとれた行動ができるよう、緻密な計画を立て実行された。最終的には武力的衝突もなく、一滴の血も流さず、農民は唐津藩に増税を撤回させることに成功した。しかし、面目を潰された藩は以後厳しい取り調べを行ったため、その翌年、指導者であった冨田才治ら4人は見かねて首を差し出すことで合意、西の浜で処刑されることでこの事件を終結させた。 ◎唐津藩(は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。寺沢広高は豊臣秀吉に仕え、1592の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、長崎奉行に任じられた。慶長の役には朝鮮に渡海して活躍している。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に肥後国天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その跡を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを幕府から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となった。その後、播磨国明石藩より大久保忠隣の孫の大久保忠職が8万3000石で入る。その跡を継いだ大久保忠朝は、1674年に庄屋が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩へ移封となった。入れ替わりで松平乗久が7万石で入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩へ移封となる。入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後は小笠原氏の支配で明治時代を迎えることになる。唐津藩最後の藩主となった小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に与して箱館まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。しかしこのため、長行を歴代藩主として数えず、その養父である小笠原長国をもって最後の藩主とする史料も多い。唐津藩は表向きの石高は6万石から12石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。*「富田才治」(1724~1772)1771年(明和8)に肥前国唐津藩領で起こった唐津藩領明和8年(虹の松原一揆)一揆の首謀者と言われる。平原村の大庄屋であり、隣村半田村長頭らとともに一揆指導者として自首し処刑された。従来、一揆後に書かれた記録によって、富田の深謀遠慮が強調されてきたが、佐賀藩多久領の家臣の一揆見聞録によると、彼は最後まで実力行使を避けようとした。中下層農民の突き上げにより虹の松原に屯集する一揆が起こったとされる。※「唐津藩領明和8年一揆」譜代大名の唐津藩で土井利里から水野忠任へ藩主交替に伴って、新藩主が転封費用の捻出に年貢増微を実施した。この増税に農漁民1万人とも2万3000人と言われる一揆が勃発した。蓑、鎌、笠などを携え「虹の松原」に集結した。その後庄屋層も藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取った。農民一揆の首謀者は平原村の大庄屋富田才治、自分が首を差し出すことで事態の収拾がつくのであればと,自首し、西の浜で処刑された。
2024年05月30日
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37「村方騒動」江戸時代、村落内部に生じた百姓間の対立、紛争・村方出入り、小前騒動と言う。江戸時代の村々は、村内の身分階層に伴う地位・権利問題、村政の運営の方法や村入用の負担を巡って問題、地主・小作関係など、さまざま課題を抱えていた。これらの諸問題を大きく規定したのが、幕藩領主で採用されたのが村請負制であった。この制度により、近世の村は、百姓の生産・生活のための共同組織である。 ※「紀州藩領文政の百姓一揆」一揆は紀ノ川流域の水争から端を発し、藩財政の逼迫に節約の「お触れ」が出された。藩自体も財政立て直しに、役所の費用の減らす工夫を命じた。百姓自体も生活は困窮し、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。文政6年は天候が悪く、長雨から、日照り続きで、紀ノ川流域は水争いが生じ、用水取り入れ口で紛争し、百姓の不満は一挙噴出し、一揆勢は紀ノ川沿いを西進し、和歌山城下北方で藩の交渉で代表の出した要求は受け入れらえた。一揆が鎮静化して一揆を起こした責任を問う厳しい取り調べがあって、その数384人に登り、死罪など獄門に処する者33人に処罰が下された。 38、「文政一揆」(1822)石川の奥山村・ 山田の対岸石川は文政百姓一揆の発端地として有名である。文政五年(1822)宮津藩は、藩主本庄宗発が幕府の寺社奉行加役の重職にあって江戸に出仕し、丹後はほとんど重役に委せきりであった。そのために莫大な費用を要し、藩の財政が窮乏したために、御勝役頭取沢辺淡右衛門、元締松山源五右衛門、郡奉行飯原鎮平、郡奉行見習代官頭取古森乙蔵らが画策して、年貢として先納米、先先納米をとったあげく、万人講と称する人頭税を考えついた。そしてこの徴税のために責任を大庄屋に押しつけ、これを助けるために出役庄屋を設け、大庄屋と出役庄屋には年貢の一部を手数料として渡すことにした。これを知った江戸家老栗原理右衛門の庶子関川権兵衛が、分宮の祭礼の時に奥山村の吉田為治郎(喜右衛門)に話した。為治郎は急ぎ奥山へ帰り、姉さくの夫である吉田新兵衝(滋蔵・中部常吉村より入聟)に話した。一刻も猶予できないと文政五年十二月八日領内一二○ヶ村の百姓にひそかに激をとばした。 同年十二月十三日の霜の降る夜、みのかさをかぶり、手に手に鎌、なた、竹やりなどを持った加悦谷の百姓たちは続々と野田川べりの加久屋僑につめかけた。夜半に浪江要助という者が橋詰にのろしを上げると同時にかねてから手はずのあった三河内の中田、宮津の狼煙山より合図ののろしが上がり、手はじめに上山田の大庄屋小長谷安四郎、石川村大庄屋芦田庄兵衛、出役庄屋八郎兵衛宅を打ちこわした。これに呼応して与謝郡内百姓はもとより、中郡、竹野郡、加佐郡の一部の百姓が蜂起してその勢約五万人、各地の大庄屋、出役庄屋、ちりめん問屋等を打ちこわして宮津城の大手門に押し寄せた。驚いた宮津藩ではなすすべを知らず、ちょうど江戸表より帰城した家老栗原理右衛門をして百姓の要求をのませてようやく十七日になって鎮まった。ところが翌六年石川村に潜入した藩の密偵が駄菓子屋の主人から新兵衝、為治郎のことを聞きこみ、二月十五日未明村上淡右衛門ら捕手が奥山を急襲して両人を召捕った。新兵衝の妻さくはその時、汁をよそおうと見せかけてすばやく連判状を火にくべた。処刑者が意外に少いのはそのためである。そののち奥山村元蔵をはじめ石川村からも次々と三五名の百姓が召捕られて入牢し、きびしい拷問にも唯一人として口をわらず、この間奥山村の与治右衛門と、宮津町大久保稲荷大工の長五郎は牢死し、結局文政七年(1824)2月22日、新兵衝と為治郎の二人のみが処刑された。また関川権兵衝は、百姓に同情して事実を知らせた罪により切腹させられている。 一揆を事実上指揮した総髪の大男といわれる宮津大久保稲荷の神主坂根筑前(清太郎)はいち早く大阪へ逃亡したといわれる。 二人の首級はある夜ひそかに石川福寿寺の住職が盗み出して奥山村に埋めたといいそのような大騒動が起きたども思えぬような静かな奥山の墓地には、 元来宮津藩は田辺、峰山両藩と異なり、領主が次々とかわって、それも悪政が多かったため、一揆が群をぬいて多く発生している。江戸時代に府下で五六件の一揆のうち.田辺藩二回、宮津藩十回、峰山藩では一回も起きていない。『丹後路の史跡めぐり』より引用。 ※宮津藩文政一揆は藩主松平宗発が江戸にて重職にあって、重役家臣にまかせっきりで藩の財政は困窮していた。年貢の増微に万人講という一人一日3文の徴収で増収を図った。この人頭税に百姓は反発、一挙一揆に勃発していった。与謝郡石川から始まった庄屋、大庄屋への打壊しは、中郡、竹野郡へと広まって、百姓蜂起は膨れ上がり約5万人が、ちりめん問屋、出役庄屋から宮津城の大手門まで迫った。宮津藩ではなす術もなく、江戸表より帰城した家老粟原理右衛門が百姓の要求を受け入れてようやく鎮まった。その後一揆の首謀者として次々捕縛され、35名の農民と厳しい取り調べが行われた。厳しい拷問に誰一人首謀者を口をわらなかったが、大工の長五郎が牢死、新兵衛と為治郎が処刑され、百姓に同情し事実を知らせた関川権兵衛は切腹をさせられた。
2024年05月30日
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36、【紀州藩領文政6年一揆】「紀州藩領文政6年一揆」紀ノ川流域の村々で発生した水争いから発展して、紀州藩にたいして農政政策の転換を要求した一揆。1823年(文政6)5月干ばつを契機に村々で水争いと打毀しが発生した。6月8日伊都郡名倉村で蜂起以降は惣百姓一揆に転化し、酒屋、米屋、質屋などを襲撃するとともに、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。一揆勢はさらに紀ノ川沿いに西進し、和歌山城下北方で町奉行の説論を了承して居村へ引き返した。その直後有田郡でも小前農民が小作者としての要求を掲げて一揆に立ち上がった。一揆の終焉後、藩は「皮多身分」の者を含む33人を獄門に処するなど厳罰に処した。「文政の百姓一揆」 財政に苦しむ紀州藩 18世紀に入ると,紀州 藩では藩の収入に比べて支出が多くなり,財政が苦しくなっていたので,たびたび節約の御お触れを出した。このような時期,1789(寛政元)年に徳川治宝が10代藩 主 になり,藩財政 の立直しに取り組んだ。まず武士の教育に力を入れ,才能がある武士を役人にして,役所の費用を減 らす工夫を命じた。藩の収入を増やすために,橋本町(橋本市)などで御仕入方 という役所を新たに 設けて,特産物や他の藩から入ってくる米などを,御仕入方を通して売り買いさせるように改め、そのもうけの一部を藩へ納めさせました。広がる百姓一揆 1823(文政6)年は、春先に雨が降ってからのち日照りが続き、各地で田植が出来なかった。植えた稲が枯れそうになる被害が広がった。なかでも紀ノ川下 流 域の村々で水不足がひどく,宮井用水(和歌山市)の水を使う村々の農民が、大勢が上流の村へ押しかけ,用水の取入れ口や庄屋の家をこわすなど,さわぎを起しました。 同じころ,亀池(海南市)の水に頼 たよ る亀ノ川下流域の農民たちも、上流の村へ押し寄せ水争いをしまし た。こうして田植をめぐって,各地で村と村の水争いがしだいに広がりをみせてきた。 6月8日の朝,久しぶりに少しばかりの雨が降りましたが,伊都郡名倉村(橋本市)の農民たちが,雨 乞の祈りをしようと集まりまった。 話をしているうち に「米の値段が上がってきたのは,米屋が値を上げているからだ。」と不満の声が強まり,村中に呼びかけて,米 屋などを打ちこわし始めた。当時一 揆 き はきびしく禁 止されていたが,彼らは,近くの村々へも参加す るよう強く働きかけ,多くの農民たちを引き連れて,庄 屋や米屋など豊かなくらしの家々を襲 った。そして 次の日には,騒動 は主に橋本市北岸から,大和国や河内国 付近まで広がった。 河原 に集まった一揆の群衆をしずめようと,伊都郡役 所の役人が出て行きたが,農民たちの要求は強く,農民の願いを取りまとめた農民の代表が,物資 の流通に深くかかわっていた御仕入方役所を廃 止することなどについて回答を求めた。 水争いから始まった 第3章 紀州徳川家の時代 文政一揆の記録(個人蔵) 文政の百姓一揆153 一揆が,紀州藩の政治のやり方を改めてほしいと要求する一揆 へと,大きく変わって行った。 役人は,藩へ報告してから返答すると説得しましたが,一団 はすぐに回答するよう求め,一揆の勢いは強まるばかりで,役 人の態度に憤慨 した農民たちは,10日には和歌山城をめざして 進み,行く先々で金持ちの家をこわし,物を持ち出した。 そして11日には数万人の農民が和歌山城近くの地 蔵 の辻 まで 押し寄せた。藩は鉄砲まで出して守りを固めて,農民たちを押しとどめた。藩は農民たちの代表が出した要求の受 入れを約束したので,4日間も続いた大百姓一揆は収まった。 紀ノ川流域の一揆がしずまったころ,有 田 川流域の村々でも打ちこわしがおきましたが,藩は素早 い対 応をとり,藩役人の説得と藩 兵を出して守りを固め,一揆の広がりを防いだ。 今までにない紀ノ川流域の大百姓一揆で農民の願いは通ったが、藩は騒 動 を引き起こした中心者を つぎつぎと捕 とら え,その数は384人にものぼりった。 きびしい取り調べが続き,死 刑 にされた者は33名に達した。一方長く藩の政治をおこなってきた治宝は,翌1824年に藩主を退 き,隠 居されらえた。 これは百姓一 揆を招いた責任をとったからだと言われている。武士の支配が大変強い時代でしたが,農民がくらしを守るために,藩へ政治の改革を求めて立ち上がっ たことは紀州藩では例がなく,新しい時代の幕開けを予感させる出来事であった。 地元の役所へ訴えないで,直接幕府の役所などへ訴えでること。(和歌山の歴史より) ◎「皮多」中世期・近世の被差別部落の名称。皮田、河田とも書く。皮革業に従事したが、農村では農業で生計を立てるところも多かった。掃除・下級行刑・皮革の役を課せられ、斃牛馬処理を行った。1526年(大永6)駿河の今川氏親朱印状に「かわた彦八」小田原北条家領伊豆のにも「かわた」が見える。◎「小前」元々も意味は大前に対して小前で、財産の少ない家、貧乏人。江戸時代の百姓について田畑を少ししか持たない者(小前百姓・小百姓)をさす。具体的には、①村役人を含めた本百姓。②村役人・村役人層以外の本百姓。③無高もふくめ弱小な百姓。④小作人、の4種類の者が見られる。幕府・領主が基本的な農民の階層として把握していた本百姓は、村の支配体制の上では、村を治める庄屋・名主あるいは組頭=小前という関係に置かれていた。①②はこうした関係に基ずいた用法である。村役人も退役すれば小前の身分とされる。
2024年05月30日
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35、「天保騒動」(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し1国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。甲斐国は1724年(享保9年)に幕府直轄領(天領)化され、甲府町方を管轄する甲府勤番と三分代官による在方支配が行われていた。甲府盆地を抱く国中地方では近世に新田開発が進み穀倉地帯となり、国内で産出した米穀は甲府問屋仲間が統括し、一部は信濃国から移入された米穀とともに鰍沢河岸に集積され、富士川舟運を通じて江戸へ廻送された。一方、山間部である郡内地方の生業は耕作地が少ないことから山稼ぎや郡内織の生産など農間余業の依存が強く、必要な米穀は国中や相模国、駿河国からの移入に頼っていた。寛政年間には甲府問屋仲間が弱体化し、鰍沢宿の米穀商が買い占めを行い廻米として移出される米穀が増加し、信濃から買付を行う商人も進出したため米価の高騰が発生していた。 1833年(天保4年)には全国的にも冷夏による凶作のため米価高騰や飢饉が発生しており(天保飢饉)、冷夏の影響は郡内地方において深刻で、国中でも八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の百姓夏目家の日記では冷夏の影響を「五十年以来無覚之凶作」とし、天保騒動で打ちこわしの対象となる山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門家ではこの頃既に打ちこわしの空気が発生しており、甲府町方でも世情不安が伝わり動揺が生じている。郡内勢は当初、武七・兵助に統率され百姓一揆の作法に則った活動を行っていたが、国中に至ると「悪党」と呼ばれる国中百姓や無宿人らが参加し、騒動は激化・無秩序化する。無宿人に率いられた国中勢は郡内勢と分かれると暴徒化し、鉄砲や竹槍などで武装し盗みや火付けなどの逸脱行為を行い、村々に対して一揆への参加を強制した。国中勢は8月22日には石和宿(笛吹市石和町)を襲撃すると二手に別れ、一方は甲州道中から甲府町方(甲府市)へ向かい、一方は笛吹川沿いに南下した。甲州道中を進んだ一揆勢は翌8月23日に甲府町方を守備する甲府勤番永見伊勢守、甲府代官・井上十左衛門の手代らの防衛戦を突破すると甲府城下へ乱入し、城下の穀仲買や有徳人らの屋敷を打ちこわし、火付けも行った。甲府城下の打ち壊しをおこなった一揆勢はさらに二分し、一手は遠光寺村から巨摩郡中郡筋西条村(昭和町)へ進み、西青沼町から飯田新町と打ち壊しを続け、荒川を経て巨摩郡北山筋上石田町(甲府市)、西八幡村・竜王村(甲斐市西八幡・竜王)まで進み、打ちこわしや火付けを行うと、釜無川を渡河せず笛吹川筋で打ちこわしを続けた。天保騒動に対して伊豆国・駿河国・武蔵国・相模国の幕領を管轄する韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)も、騒動の波及を危惧して情報収拾に務めている。江川は騒動の発生した天保7年8月に伊豆・駿河の廻村を終えて韮山代官所へ帰還したところで騒動の発生を知り、幕領である武蔵・相模への波及を警戒し同月29日に手代の斎藤弥九郎らとともに甲斐へ向かっている。江川は9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると8月に帰還した。騒動の鎮圧に失敗した三分代官に対しては吟味への参加を許さず、番所や牢の新築に際した経費を負担させている。吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(うち130人あまりが無宿人)以上が捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となる。また、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。一方で、積極的に騒動鎮圧に協力したものに対しては褒賞が与えられている。*武七は、天保7年当時70歳。五人家族で持高は一石六斗であるが、徐々に減少し農閑余業を行っていた。また、無宿人・無頼の徒らを従える親分であったという。兵助は、天保7年当時40歳。姓は水越で、3人家族。犬目宿で旅籠屋を営む。屋号は「水田屋」。水田屋の経営は先代の代から悪化し、兵助は蜂起に際して妻に離縁状を出している。なお、武七・兵助両名の騒動後の動向は後述。武七・兵助は「身分不相応之者」から貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付け、国中の熊野堂村(笛吹市春日井町熊野堂)・奥右衛門家に代表される国中富裕農民に米の買い占めを停止され米穀を郡内に放出させる計画を目論む。熊野堂村の小河奥右衛門は郡内へ米穀を商う穀物商で、天保飢饉に際しては米穀を買い占め、郡内では米価高騰の元凶と認識されていたという。両名は郡内百姓の集結を促し郡内勢を率いると山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門を標的に国中へ向けて出立し、道中各地で打ちこわしを行い、奥右衛門宅の打ちこわしを行うと帰村した。※甲州一揆は甲州騒動、天保騒動、騒動の郡内騒動など多くの呼び名がある。規模でも最大級の一揆である。甲斐30万石山地は86%の天領で、生産力の弱い郡内地方の農民は賃織り、養蚕、馬方、棒手(行商)日雇い、出稼ぎなどの収入の暮らしである。天候異変や凶作で米価は高騰、幕府の江戸江戸廻米(大量の米を地点から地点へ輸送すること)や郡内へ「穀留」を行った。農民は米穀商や代官所に米の放出を嘆願したが、一向に効き目がなかった。堪り兼ねた百姓たちは、米穀商、両替商7件に打壊しをした。甲州街道沿いの村々から一揆勢に加わり、武装された甲府役人や代官所と交戦しながら広まって行った。日雇い人、無宿人、浪人、神主、被差別部落民も加っていった。一揆衆は数万人と概算された。打壊しをされた家屋、村数118村、家319軒に及んだ。藩側は近隣諸藩より出兵900人の応援をえて鎮圧することが出来た。その後の一揆首謀者処罰で下和田村治左衛門が牢死した者一人と298人の処罰をしたのみで、村割で富裕層から冥加金をとりたて、極貧者に救済金に当てられた。
2024年05月30日
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34、【甲州一揆】「甲州一揆」(甲州騒動)1836年(天保7)8月、甲斐(かい)国(山梨県)に起きた百姓一揆。当時、甲斐国騒立(さわぎだち)、甲州百姓騒立、のちに甲州騒動、天保(てんぽう)騒動、郡内(ぐんない)一揆、郡内騒動、その他さまざまの呼称でよばれた事件で、全国的にも最大規模のもの。甲斐30万石は山地86%の天領で、ことに生産力の低い郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り、養蚕、馬方、棒手(ぼて)(行商)、日雇い、山稼ぎなどによる収入で暮らし、米穀類は主として国中(くになか)地方(甲府盆地地域)から求めていた。ところが1830年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰を招き、不況による低賃金のなかで重税の取り立てのみ厳しく、病人、餓死、投身、家出、乞食、盗賊が続出した。国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に対してとられた幕府の江戸廻米(かいまい)令に乗じて、米の買いだめ、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留(こくどめ)」を行った。農民は、国中の米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、まったく効果がなかったので、ついに米穀商に対して米の押買(おしが)いを目的とした一揆を起こした。これとは別に郡内領谷村(やむら)(都留市)付近の農民は、8月17日の夜から翌日の明け方にかけて谷村の米穀商、両替屋など7軒を打毀した。甲州街道沿いの農民は同月20日、白野宿(大月市)のはずれの天神坂林で決起大会を開き、下和田村(大月市)の治左衛門(じざえもん)、犬目宿(上野原市)の兵助(ひょうすけ)らを頭取に選び、その行動綱領を定めた。郡内の一揆衆は21日の早暁、笹子(ささご)峠を越えて国中地方に入ると同地方の無数の農民が加わり、無原則的な打毀を続けた。治左衛門は当初の計画から甚だしく逸脱してしまったので歌田村(山梨市)から、そのほかの郡内衆は、22日、熊野堂村(笛吹市春日居町)の奥右衛門方の打毀を見切りに郡内へ引き揚げた。国中の一揆衆は、打毀の先々で貧農層のほか、村役人層をはじめ日雇人、無宿者、浪人、神主、修験者、被差別部落民も加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打毀を続けた。一揆衆の数は数万と概算され、その行動区域は国中地方中心部の全域にわたり、甲州街道筋では信濃境までに及んだ。打毀の対象は米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農などで、それらのうちで金品、酒食、武器などを提供してその難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319に及んだ。幕府は信濃の高島藩、高遠藩、および駿河(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900をもって鎮圧を図った。この事件は、いち早く江戸の瓦版によって各地に伝えられ、水戸(みと)藩主徳川斉昭はこれを契機に、幕政改革を促す建白書をしたため、大坂の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、この事件から強い衝撃を受けた。江戸幕府は3か年に及ぶ調査と、政治工作ののち、1838年(天保9)5月、下和田村の治左衛門(1836年11月牢死)ほか298人の処罰をしたのみで、各村々から村割の過料銭を、富裕層から冥加(みょうが)金を取り立て、極貧者の救済金にあて、あわせて両3年間の貢租の大幅減免などをもって事件の決着とした。
2024年05月30日
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32「中野騒動」(なかのそうどう)は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄する中野県で明治3年に発生した世直し一揆である。主張は年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。明治3年9月17日(1870年)に伊那県から分立して中野県が成立した。高石和道大参事は民部省の意向を受け、増税策を次々と打ち出したが、兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上昇によって困窮する農民の不満は増大していた。近隣の松代藩や須坂藩で発生した一揆勢の要求項目の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及することとなった。12月19日(1871年)、高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆勢約2000人が、羽場村(現同郡小布施町)に集結して中野町(現中野市)に向かい、特権的豪農や商家を打ちこわしし、中野県庁を焼き討ちし、県吏を殺害した。高石大参事は逃亡し、松代藩に匿われ謹慎となった。これを受けて松代藩ほか各藩兵が鎮圧に向かい、12月21日になって一揆勢は退散した。翌年Ⅰ月6日から明治政府軍(佐賀藩兵を主力とする)によって一揆の参加者の探索が進められ、約600名が逮捕された。2月27日には斬首刑6名、絞首刑22名、徒刑十年124名、その他処罰数百名などが刑に処された。後任の立木兼善権知事は中野での県庁再建を断念し、長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、7月25日に長野県が成立した。 33、「山陰・坪谷村一揆」(やまげ・つぼやむらいっき)は、1690年(元禄3年)に九州東部の延岡藩で起きた農民の逃散による一揆である。山陰一揆、山陰騒動とも呼ばれる。江戸時代の延岡藩内、東臼杵郡にあった山陰村および坪谷村(日向市東郷町山陰および坪谷)では数年間にわたって大雨と洪水が続いた。農作物が不作となったにもかかわらず厳しい年貢の取り立てが行われ、たまりかねた農民たち300戸1422名が1690年(元禄3年9月19日)、牛馬家財とわずかな武器を携えて隣接する高鍋藩内への逃散を試みた。農民たちは薩摩藩まで行くことを望んでいたが、途中の股猪野(都農町又猪野)で高鍋藩に止められ一旦高鍋藩内に逗留することになった。延岡藩からの使者に藩内に戻るよう説得されたが聞き入れず、元禄4年正月に高鍋藩立ち会いのもと再度延岡藩と交渉したが物別れに終わり、ついには江戸の評定所へ訴え出て江戸幕府の裁定を仰ぐことになった。2月に延岡藩側の代表として郡代梶田十郎左衞門と代官大崎久左衞門が、農民側の代表として21名がそれぞれ江戸に呼び出された。道中は高鍋藩から武士百数十名がついて護衛にあたった。また、高鍋藩は食糧を持たない者に食糧を支給したり、仮住まいのための小屋を建てたり、医師を派遣するなど農民たちを支援した。尚、支給された食糧は後に延岡藩から返済されている。6月23日、幕府は農民側に非があり延岡藩内に戻るよう指示するとともに、延岡藩郡代(梶田十郎左衛門)と代官(大崎久左衛門)は追放するという裁定を下した。農民側の首謀者2名は磔、5名は斬首刑、7名は八丈島への流罪となり、首謀者の家族も罰せられた。これを受け7月4日、延岡藩と高鍋藩が農民のうち178名を招いて延岡藩内へ戻るよう説得した。農民たちはこれを受諾し7月14日、延岡藩に戻った。その後11月₈日、江戸幕府は一連の騒動の責任として延岡藩藩主有馬清純に糸魚川藩への転封を命じ、山陰村と坪谷村は天領となった。一方農民たちは高鍋藩の支援に対して恩義を忘れず、廃藩置県後に高鍋へ移住する者もあったという。
2024年05月30日
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31、「松代騒動」(まつしろそうどう)は、明治3年(1870年)に信濃松代藩で小平甚右衛門が主導して発生した世直し一揆。一揆の原因となった手形には麒麟の絵があしらわれており、「午札」(うまさつ)と呼ばれていたことから、午札騒動(うまさつそうどう)の別名がある。幕末の松代藩は年貢収入の頭打ちにより、発達しつつあった商品経済や流通に着目し、財政安定化を目的として産物会所を設立した。同藩は慶応4年/明治元年(1868年)からの戊辰戦争で活躍したが、戦費は膨大となり、財政赤字に拍車をかけた。明治2年(1869年)には産物会所を改めて松代商法社を設立し、御用商人であった更級郡羽尾村(現千曲市)の大黒屋大谷幸蔵を頭取とした。折柄の贋二分金(チャラ金)の流通による経済の混乱に際して、藩はその回収を目的として済急手形を発行し、更に翌明治3年(1870年)には商法社が大量の手形を発行し、領内の生糸や蚕種等の諸産物を領内から独占的に買い占め、海外輸出を目論んだ。しかし、輸出相場の暴落により裏付けの準備金を欠損して破綻し、それに伴って商法社が発行した手形も暴落し、正貨である太政官札を大幅に下回る価格でしか流通しなくなった。そこで明治維新政府は同年末までに藩札を回収するよう厳命したが、既に38万両分の流通高があり、回収に苦しんだ藩は3年分の石代金を藩札で上納させることとし、11月24日には金10両に対して籾4俵半の相場と藩札の太政官札に対する2割5分引きを領内に告示した。その結果、藩札を引き受けた庶民の生活は困窮を極め、松代騒動の勃発に至った。同年11月25日、更級郡山田村(現・千曲市)の名主の弟であった小平甚右衛は、周辺の農民に対して松代城下(現・長野市)への強訴を呼びかけ、一揆勢は千曲川畔に集結し、羽尾村の大黒屋宅を焼き払った後、26日朝には約3000人が城下に突入した。事態を重く見た知藩事の真田幸民は金10両に対して籾7俵として石代相場を相対的に引き下げることと、藩札の額面通用、太政官札との等価兌換を約束し、甚右衛らは一旦帰村したが、一揆は領内全域に波及し、酒屋、米穀商、質屋などが打ちこわしに遭った。26日夜には惣一揆となって再び城下に突入し、真田桜山大参事や高野広馬権大参事以下、藩の要人の邸宅がことごとく焼き討ちされ、隣接する善光寺領でも贋金を流通させた商人が打ちこわされた。27日になって一揆は武装した藩兵の大挙出動により鎮圧され、28日になると、藩は直ちに実務者を更迭し、新たに河原均大参事と山寺常山権大参事を中心に藩政を進めることとし、領内を廻村させ、知藩事の諭達を伝えるとともに、財政の逼迫を領民に説得し、併せて嘆願事項を書面で提出させるように指示した。12月に入り、維新政府は弾正台や民部省の官吏を派遣し、一揆の参加者の探索を進め、事件の収束にあたらせた。翌明治4年(1871年)4月に真田桜山、高野広馬は閉門、真田幸民を謹慎とし、松代商法社は解散、5月には620名余りが検挙され、400名余が入牢し、甚右衛門らは斬罪に処されたほか、9名に徒刑10年、1名に徒刑5年、2人に徒刑3年などが下された。
2024年05月30日
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30、「近江天保一揆」(おうみてんぽういっき)は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。国内の状況一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉(天保4年(1833年) – 天保10年(1839年))の直後で、当に飢饉により多くの人が餓死し、米価高騰や一揆・打ち壊しの姿がまだ生々しい記憶として残っていた。天保7年(1836年)だけで大小129件もの一揆・騒動があったと伝えられる。代表的な一揆としては天保2年7月26日(1831年9月2日)に長州藩で起きた『防長大一揆(長州藩天保一揆・天保大一揆とも呼ばれる)』、天保7年₈月14日(1836年9月24日)に天領の甲斐で起きた『天保騒動(郡内騒動・甲斐一国騒動・甲州騒動とも呼ばれる)』、9月21日(10月30日)三河の加茂郡挙母藩で起きた『加茂一揆』、天保9年5月22日(1838年7月13日)に天領の佐渡で起きた『佐渡一国一揆(佐渡一国騒動)』などがあるが、天保11年11月23日(1840年12月16日)庄内藩など三藩の領地替え(三方領知替え)に反発した『三方領地替反対一揆(庄内天保一揆)』、天保12年12月4日(1842年12月15日)に徳島藩で起きた『山城谷一揆』など、国や藩の政策を批判する一揆が起き始めていた。農民等の一揆・騒動に加え、天保₈年(1837年には、2月19日(3月25日)大阪で、飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた大塩平八郎による反乱(大塩平八郎の乱)が起き、6月1日(7月3日)越後柏崎では国学者生田万が貧民救済を掲げ蜂起(生田万の乱)し、天保10年5月14日には幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した蛮社の獄が起きた。いずれも幕府や役人への批判が元といえる。
2024年05月30日
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29「新潟明和騒動」(にいがためいわそうどう)とは、1768年(明和5年)越後国新潟町(現新潟県新潟市)において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。当時新潟町は長岡藩の支配下にあり、正徳3年(1731)に仲金制が敷かれて以降、新潟町の御用金は長岡藩の重要財源となる。加えて長岡藩の土地柄による恒常的な洪水や飢饉、宝暦3年(1753年)に長岡藩の重要財源の一つである長岡船道の信濃川水運特権が近隣の藩の苦情を受けての幕府の裁定により剥奪となったことで新潟町の御用金の重要度は増す傾向にあった。前年からの飢饉もあって長岡藩は1767年(明和4年)新潟町に1500両の御用金を2年の分納で課した。しかし、飢饉による米の流通の減少から新潟湊への入港量が減少しており新潟町もまた不景気に苦しんでいた。さらに米の高騰もあって困窮していた新潟町民は2年目の750両を工面できなかった。町民は涌井藤四郎(わくい とうしろう)らを中心に延納の嘆願書を出すべく寺に集まったが八木屋市兵衛がこれを徒党として密告。代表者の涌井は町奉行所に出頭を命じられ投獄された。これに激昂した町民は9月26日の夜12時頃、早鐘を合図に一斉蜂起し、町役人宅や八木屋市兵衛宅、米屋などを打ち壊した(この時、打ち壊し騒動の指揮を取った黒装束の男数名がいたと言われる)。新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させた。事態の沈静化を図った町奉行側は涌井を釈放。打ち壊しは翌日も行なわれたが、涌井は町奉行所打ち壊しに向かっていた町民等を説得、事態は沈静化した。これにより涌井らが藩に代わって町政を掌握し約2ヶ月にわたる町民自治を行なった。長岡藩は新潟への派兵を試みたが町民側は新潟港での藩兵の荷降ろし作業を拒否。町民側の結束に長岡藩も涌井を総代として承認せざるを得なかった。長岡藩は町民懐柔の為、米1,000俵の配給を実施。さらに当事者であった町役人等を取り調べる為と称し町人側の関係者を次々に召喚した。11月22日に長岡藩へ出頭した涌井らは藩側の策略により捕らえられた。長岡藩は事件の首謀者と目された黒装束の男等を捜索したがついに捕らえることはできなかった。1770年(明和7年)₈月25日、涌井は一切の責めを負わされ腹心の須藤佐次兵衛(すどう さじべえ、岩船屋佐次兵衛)と共に市中引き回しの上斬首された。涌井の首は往来に晒されたが彼に恩のあった女性が役人の目を盗んで首を奪い密かに葬ったと伝えられる。涌井らは後に義人として墓や慰霊碑が建てられ、明治になってからは新潟市の古町愛宕神社内に佐倉惣五郎を分霊した口之神社を建てて祀られた。新潟市の白山公園内に「明和義人顕彰之碑」がある。ちなみに『天保十亥年正月 貞享元子年より諸役人留』(1839年頃の史料)によると長岡藩側は従来の新潟町奉行就任者の石垣忠兵衛及び佐野与惣左衛門に加えて大田を新潟町奉行に任命して、本来より1名多い3名体制でことにあたり、明和6年(1771年)に石垣と佐野は新潟町奉行を辞任している。
2024年05月30日
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28、「一揆の犠牲者例」多数の犠牲者を出した山中地域には、犠牲者の墓、供養塔や顕彰碑などが残っている。· 徳右衛門御崎(真庭市仲間):「享保十二未三月十一日」「清眼則勇信士」「俗称池田徳右衛門」などと刻まれた石碑。嘉永年間(1848年〜1854年)に近くの大庄屋、庄屋、年寄などが建立したもの。かつては刀、鎌、鍬、幟などが奉納され、願い事がかなうとして賑わった。真庭市指定重要文化財。· 義民樋口弥治郎碑(真庭市見尾):見尾集落東方に1917年(大正6年)に建立された顕彰碑。弥治郎は近くの山の洞穴に身を潜め、そこに愛犬が弁当を届けていたといわれる。弥治郎が隠れていた山は「弥治郎嶽」と呼ばれている。また、この碑に寄り添そうように義民弥治郎忠犬塚も建てられている。真庭市指定重要文化財。· 清水寺の供養碑(真庭市久見):1965年(昭和40年)に旭川の土居河原で発見され、清水寺に移築された石碑。「過去亡霊二十五人為菩薩 供養 大仏頂陀羅尼一万八千遍誦之 乃至法界 平等利益」「享保十二未天正月十三日 清水寺」とある。土居河原で処刑された25人の供養のために、経を1万8000回唱えたことが分かる。· 大林寺の妙典塚(真庭市黒杭):石塔本体には「奉納大乗妙典書写 一石一部塚」「于時享保十二丁未天九月日 教音書写」と記されている。台座には、山中一揆で処刑された51人の名前と命日などが刻まれ、山中一揆犠牲者全員の供養のために建てられたものといえる。苔むして文字は明確でないが、菩提を弔う人々は津山藩の暴政の犠牲者であると刻まれている。天保4年(1833年)に建立。真庭市指定重要文化財。· 社田(こそだ)義民の墓(真庭市蒜山西茅部):享保12年1月25日に処刑された真庭市蒜山西茅部出身の治郎右衛門の墓で、自然の石で作られた墓には、「刃了禅定門」「享保十二未天」「正月 十三日」などの文字が刻まれている。地元では毎年6月の第一日曜日を義民祭としておまつりをしている。真庭市指定重要文化財。· 田部義民の墓(真庭市蒜山西茅部):山中一揆で処刑された西茅部出身者らの墓で、もとは別々の場所にあったものが徐々に寄せ集められ、まつられるようになったもの。地蔵の一部には、「笠木 忠右衛門」「三右衛門」など、享保12年1月13日に土居河原で処刑された西茅部の農民の名前が確認できる。真庭市指定重要文化財。· 大森の七左衛門父子祠(真庭市東茅部):七左衛門・喜平次父子を祭る祠。父の七左衛門は奥山中の総大将格で、16歳の喜平次は総大将徳右衛門の幕僚として活躍した。父子はともに津山送りとなり、津山で処刑された。村々の救済に身をささげた父子を顕彰するために、1958年(昭和33年)に大森集落の藪の影から現在の場所に移し、供養を続けている。真庭市指定重要文化財。· 剣のみさき(真庭市鉄山):美甘村鉄山の大槌に湯本下河原で処刑になった七郎兵衛を祭ったもの。この祠のそばには1926年(大正15年)に建てられた200年際を記念する石碑がある。命日の正月25日には毎年祭礼が行われている。また近くの墓地には、真庭市指定重要文化財の七郎兵衛の墓がある。· 湯谷義民の墓(真庭市田口):享保12年1月12日に今井河原で処刑された田口出身の長右衛門と三郎右衛門の墓。1961年(昭和36年)に当時の美甘村長が発起人となって建立された。そのそばには、長右衛門のものと伝えられる自然の石を積み上げた墓(真庭市指定重要文化財)がある。· 萩原の万霊供養の道標(真庭市見明戸):見明戸の萩原地区のはずれ、大山方面と美甘方面に分かれる旧道の分岐点に、自然石に「萬霊 右 大山みち 享保十三年申三月十二日」と読み取れ、施主として三人の名が刻まれている。この日付は徳右衛門ら6名が津山で処刑されたときから、ちょうど1年を経過した日にあたる。· 三倉の善六みさき(真庭市種):土居河原で処刑になった善六を祭っている。· 樫村の道全の供養塔(真庭市樫村):久世で処刑された樫村の新兵衛の供養塔。道全は法名。· 院庄の首無し地蔵(津山市院庄):院庄滑川刑場で処刑された首謀者6人の地蔵様。享保12年6月中旬:山中一揆の民衆側にたって書かれた騒動記「美国四民乱放記」が成立。筆者は高田(現 真庭市勝山)の住人神風軒竹翁(しんぷうけんちくおう)である。竹翁の素性は明らかではない。この一揆の騒動記は10点を超えるが、そのなかで最も内容が整っているとされる。1982年(昭和57年):徳右衛門らが捕らえられた土居村の柿の木坂付近に「義民の丘」を整備。全犠牲者の名を記した山中一揆義民慰霊碑を建立。毎年5月3日に慰霊祭「山中一揆義民祭」が行われている。題字は当時の岡山県知事である長野士郎による。
2024年05月30日
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「津山藩による郷蔵事件」続津山藩による鎮圧享保12年(1727年)正月3日、津山藩は城内で評定を開く。5日、山田・三木の両代官に「生殺与奪の権」が与えられ、武力弾圧を決議。6日、山田兵内が率いる40名の鎮圧隊が久世に入る。鎮圧隊は山中地域の大庄屋とともに翌7日の山中への攻め込みを決定。一方、一揆勢の農民800余人は山中の入口にあたる大山道の三坂峠に集結。7日、この噂を聞いた鎮圧隊は出雲街道から山中の裏側にあたる美甘・新庄に進行する。 8日、美甘・新庄の状着2人が鎮圧隊に捕まり、偵察を条件に助命。また、津山から大規模な戦闘部隊が到着し、真島郡黒田村(現 真庭市黒田)、三坂峠、旭川川筋(久世~帰路峠~山久世~旭川上る)の3方面から攻める。11日、状着2人の偵察により真島郡土居村(現 真庭市禾津)の徳右衛門宿の様子を三木代官に報告。12日、山田・三木の両代官は真島郡田口村の2人、真島郡新庄村の3人を新庄今井河原で処刑し、首切峠などにさらす。両代官は農民に案内させ、徳右衛門らの集結する土居村に潜入。土居の柿の木坂で徳右衛門、忠右衛門、喜平次ほか32人を捕まえる。13日、32人のうち52人を土居河原で処刑し、うち13人を三坂峠、12人を帰路峠にさらす。14日、徳右衛門と喜平次の2人を津山に護送。見尾村の弥治郎も中庄屋の密告により捕まる。15日、大森村の七左衛門が捕まる。16日、山中の百姓は、惣百姓の連名で詫び証文を出す。17日、弥次郎、忠右衛門、七左衛門が津山に送られる。20日、最後まで抵抗した目木触(現 真庭市久世周辺)、河内触(現 真庭市川東、河内周辺)が鎮圧される。24日、小童谷村の半六が捕まる。25日、湯本大庄屋預かりの₈人を湯本下河原で処刑し、熊居峠にさらす。閏正月2日、目木触と河内触の指導者7人を久世河原で処刑する。これらの村々が詫び証文を出し、四歩加免以外は認められず、取り返した米も返納させられた。状宿・状着の制度は廃止し、庄屋制が復活した。3日、半六を津山へ護送。結末2月10日、半六が御赦免(所払い)となる。3月12日、津山送り27人のうち6人が正式の裁判により処刑となる。徳右衛門、弥次郎は津山を引き回しの上、院庄の滑川の刑場において、磔になった。享保12年5月、真島郡と大庭郡は天領となり、大庄屋は廃止された。
2024年05月30日
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27、津山藩による郷蔵事件。11月24日、幕府から「津山藩の石高を10万石から5万石の半減とする」との知らせが津山に届く。久保新平は、減封の対象が真島・大庭の両郡であると判断する。領地を取り上げられる前に年貢米を持ち出そうと、大庭郡久世村(現 真庭市久世)に出張中の役人である井九太夫に、久世の郷蔵から年貢米を運び出すことを命じる。11月28日、年貢米を船に積んで旭川を下ろうとしたところを農民に見つかる。農民は米を戻すことを要求するが、翌朝に船はそのまま下る。農民の藩への不信が爆発する。経過一揆勢の集結・交渉12月3日、真島・大庭の両郡の北部にあたる山中地域(現 真庭市の湯原、蒜山の全域、真庭市の勝山、美甘地区の一部、真庭郡新庄村)の農民3000~4000人が久世村に集結。4日、久世周辺の農民と合流。一揆勢の指導者6人(仲間村牧分の徳右衛門、見尾村の弥治郎、小童谷村の半六、大森村の七左衛門・喜兵次、土居村の忠右衛門)が井九太夫と交渉。井九太夫は「藩の正式代表が来るまで」と、久世の郷蔵を一揆勢に渡す。一揆勢は近辺の大庄屋、中庄屋などの屋敷の打ちこわしを行う。この知らせが津山に届くと、城中で緊急の評定が開かれる。一揆の状況はすでに津山藩領の東部にまで伝わっており、領内全土に一揆が起こりかねない状況であった。大庭郡代官の山田丈八と真島郡代官の三木甚左衛門が藩の代表として派遣され、6日以降一揆側と交渉することになる。12月10日、一揆側は以下の6つの要求のうち、4を除く5つを津山藩に認めさせ解散した。*の未納分の14%は納入を免除すること*作付高に対し四歩加免は免除すること*大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること*米以外の大豆納、炭焼き、木地挽き等の諸運上銀を免除すること*藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して、農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと*大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し、諸帳簿を農民に渡すことこの後、4.の要求が拒否されたことに刺激され、津山藩領の全域に百姓一揆が派生し、藩は概ね上記と同様の要求を認めた。これにより百姓一揆は一旦収まった。19日、津山藩はこの騒ぎのすべての責任を久保新平に負わせ、牢に入れ家財を没収する。山中地域での強訴12月21日、大庭郡樫村と西西条郡西谷村、東谷村の農民が、大庄屋・中庄屋に四歩加免と14%の年貢米の返納と、ここ数年の年貢帳簿の引き渡しを要求する。大庄屋・中庄屋はこれを拒否し、代わりに米切符を渡す。この話が山中地域に広がり、徳右衛門、弥治郎、半六を頭取として大庄屋・中庄屋を襲撃し、米切符や米俵等を得る。29日、状宿・状着を選出し、農民の自治の試みが実現される村も出始める。30日、山田・三木の両代官は山中地域に1800俵の米切符を出し、引き上げる。山中が天領になれば、津山藩の米切符は無効になるため、徳右衛門らは米への交換に向けた戦いを組む。
2024年05月30日
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26、「頸城騒動」(くびきそうどう)は、江戸時代に天領・越後国頸城郡で発生した騒動。頸城質地騒動、越後質地騒動ともいう。同地の農民たちが質流れになった田畑を取り戻そうとした質地騒動といわれる一揆の1つで、享保7年(1722年)4月に発布された質流地禁止令を契機として起きたものである。流地禁止令の御触れが頸城郡の天領にまで伝えられたのは享保7年(1722年)11月のことであったが、田畑の質流れは認めないという同法令が引き起こす混乱を恐れ村役人たちはこれを百姓たちに読み聞かせなかった。しかし、百姓たちは、流地禁止令の御触れを独自に入手し、下鶴町村・米岡村・角川村・新屋敷村・四ツ辻村・角川新田・田中村・荻野村・野村などの村々の質置人たちが集まって、座頭の円歌と医者の祐益の2人に法令を読んでその内容を解説してもらった。2人は条文を田畑を質入れした百姓たちに有利なように解説し、それを聞いた百姓たちは、富裕な者や町人の元に田畑が集まり、百姓が田畑から離れることを気の毒に思った御上が、御慈悲をもって元金済崩しを仰せ付けたと考えた。そして、その趣旨に沿うためとして、質地(質入れしたり、質流れになったりした土地)を取り返すべく、質地の40パーセントは金主に渡し、残り60パーセントは質置主の方に返還するなどの4ヵ条の要求を掲げて代官所に訴え出たが、受け入れられなかった。要求を拒絶された新屋敷村の金右衛門ら20名は、鶴町村・沖村の金主の家を襲って米などを強奪。代官所側はこれに対し、質置人たちを集めて法令の内容を説明して説得に努め、同時に事件の首謀者を捕えて投獄した。その一方、質置人たちの代表が江戸に行って法令の解釈について当局に問い質したり、金主たちが集まって協議したりと様々な動きがあったが、130日目に入牢者の全員を釈放したことで事件は一旦は落着した。騒動と判決しかし、同8年3月15日に騒ぎは再燃し、150ヵ村の約3000名の農民が集い、吉岡村(上越市)の市兵衛ら数人が首謀者となって質地奪回のための実力行使に出た。代官所の役人も金主たちもこの一揆勢を止めることはできず、隣接する高田藩に逃げ込み、役人は江戸に救援を要請し、金主たちもこのことを幕府に訴えた。高田藩側では、この騒動が自領にも波及することをおそれ、このまま放置するわけにはいかないので自分たちで取り締まりをする旨、代官所役人と幕府に伝えた。高田藩以外の隣接諸藩からの要請もあり、幕府は享保9年(1724年)3月11日、頸城郡の天領を高田藩(藩主・松平定輝、10万7000石)・会津藩(藩主・松平正容、7万石)・長岡藩(藩主・牧野忠寿、6万4000石)・館林藩(藩主・松平清武、4万7000石)・新発田藩(藩主・溝口直治、4万3000石)の5つの藩へと分散して預け地とした上で、これらの藩に騒動の鎮圧を命じた。高田藩主の松平定輝は、家老の服部半蔵・久松十郎右衛門を御用掛とし、質置人の願いを聞き届けるとだまして、出頭した農民の主要人物を捕縛する。他の関係諸藩も強行措置に出て、同年6月30日までに関係者全員が捕えられた。翌10年(1725年)3月11日に下された判決では、市兵衛以下7人が磔刑・獄門11人・死罪12人・遠島20人・所払い19人・過料28人となり、赦免されたのは9人であった。付加刑として闕所・家財没収となった者は63人で、没収されたのは総石高は97石7斗余、土蔵1棟、馬屋17棟、持仏堂1棟、馬1頭におよんだ。判決時には、処刑の判決を受けた者のうち、半数以上が既に牢内で死亡していた。これら処罰を受けた者たちのほとんどが、4石以下の零細農家であったという。騒動の終結後出羽国村山郡の天領で発生した長瀞騒動も同様に流地禁止令の解釈をめぐって大きな騒動に発展した。数々の問題を引き起こした同法令は、騒動の決着前の享保₈年(1723年)8月28日に廃止されている。高田藩主の松平家は、鎮圧の功績が幕府に認められたとして、寛保元年(1741年)に松平定賢の代になって陸奥国白河藩へ転封となった
2024年05月30日
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加助神社1725年、時の藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷沙汰に及び改易となり、知行権が戸田松平家に移ったのを契機に義民の顕彰が始まった。事件発生後50年を迎えた1736年、多田家では加助や処刑された一族を祀る祠を屋敷神として敷地内に建てた。また、貞享騒動五十年忌の供養塔も地元の人々によって楡(小穴善兵衛の地)の精進場に建てられた。騒動二百年祭(1880年)に際しては多田家の祠を旧郷倉跡に移し、社殿を造営。これが加助神社の始まりである。その際、多田家以外の義民も合祀された。なお、明治になって水野家から加助坐像と金一封が加助神社に寄贈された(この坐像は騒動後、「加助のたたり」を怖れた元藩主水野氏が作らせて邸内に置いてあったもの)。またこの際、水野忠直も合祀された。自由民権運動と貞享騒動明治近代国家成立後、加助ら犠牲者の権力への抵抗の姿勢が、「時の民権家」として自由民権運動の中に織り込まれていくことによって「義民化・物語化」が進むことになる。1878年に地元出身の松沢求策が民権家加助をテーマに新聞寄稿を始め、翌年「民権鑑加助の面影」として脚色、松本常盤座で初演、穂高ほか各地で上演され、広く好評を博した。こうして貞享騒動は、民権運動を推進していく手段として高く評価されつつ人々の間に深く浸透していった。加助ら義民をよみがえらせたものは、こうした自由民権運動のような歴史創造の営みだったのである。また、木下尚江らによる中信地方における普選運動にも影響を与えた。1916年には半井桃水の新聞小説「義民加助」が朝日新聞に連載され、全国的に知られることとなった。義民塚1950年10月16日、松本市城山の南斜面(勢高神社裏)における市立丸ノ内中学校建設現場にて人骨が発見された。約1か月後の11月17日までに合計18体の人骨が確認された。そのうちの1体だけ(最初に見つかった人骨)埋葬の仕方が他と違い、残りの17体とは別の原因で埋められたと考えられた。また、当時の歴史・医学関係の研究者により17体の人骨は貞享騒動刑死者たちのものであり、この勢高の地が松本藩の臨時の刑場跡とされた。1952年にはその慰霊のための義民塚もつくられた。(鳥羽とほる著の随筆「中央線」より)貞享義民社1950年代後半には石の鳥居の建立、拝殿や社務所の新築と加助神社の形も整ってきた。そして1960年、神社本庁より宗教法人「貞享義民社」と認められた。春秋2回の例大祭が奉賛講の人々により執り行われている。1986年の騒動300年祭を記念して大糸線最寄の駅中萱駅の駅舎を貞享義民社に模して改築した。
2024年05月30日
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25、「貞享騒動」(じょうきょうそうどう)とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。 1686年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作であったが、松本藩は年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行った(Ⅰ斗=18.039リットル、1升=1.8039リットルに換算)。周辺藩の基準は1俵あたり2斗5升であり、1.4倍以上(軽度の脱穀作業も求められたため)という著しい増税状態となった。 また、灌漑が未発達だった当時の安曇野平では、生産する米の7割が長いノギの付く赤米であり、以前はノギが付いたままの赤米を換算して納めさせていた。藩は換算比の変更と伴にノギの除去作業を命じたが、ただでさえ忙しい脱穀と俵詰めの間にノギ取り作業を加えることは農民にとって重労働だった。安曇郡長尾組(組は藩領を分割する大単位、現在の長野県安曇野市三郷・堀金地域)中萱村の元庄屋、多田加助(嘉助)を中心とした同志11名は、ひそかに中萱の熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練った。その結果松本の郡奉行所へ行って直接郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める5か条の訴状を提出することになった。実行日は10月14日。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなった。当時の藩主、水野忠直は、参勤交代のため不在であった。事態を重く見た城代家老は、早々に騒動を収拾するべく、10月18日に多田加助ら百姓側の要求をのむとして引き取らせた。そして、翌19日の夜組手代らに年貢減免するとの回答書を手渡した。一方、江戸表の藩主に早馬で注進。藩主の裁可を得た上で年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者の捕縛に臨んだ。最終的には11月22日、多田加助とその一族、同志は、安曇郡(中萱村、楡村、大妻村、氷室村)の者は勢高刑場で、筑摩郡(三溝村、堀米村、浅間村、岡田村、梶海渡村、執田光村)の者は出川刑場で、磔8名(加助、善兵衛含む)、獄門20名の極刑に処された。処刑された者の中には加助の参謀格であった小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも含まれる(当時の習慣としては女子が処刑されるのは異例)。さらに、善兵衛の妻さとが正月明けに出産した男児にも死刑宣告が下された(ただし、翌月にその男児が病死したため処刑とはならなかった)。騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったが、元通りの3斗に引き下げられ、ノギ取り作業は免除されることになる。一説には、江戸詰であった鈴木伊織という一藩士が多田らへの仕置きに反対し、藩主から処刑中止の許しを得たという。鈴木は自ら騎馬で伝達に走ったが、松本に入った付近で乗馬が倒れ、鈴木自身も昏倒したために処刑に間に合わなかったという。馬が倒れた場所は「駒町」として地名に残っている。鈴木は領民保護に尽力した事で知られ、その徳を讃え名付けられた「伊織霊水」という井戸が松本市内に復元保存されている
2024年05月30日
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また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月9日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する。そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった。一揆勢に対する判決宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には郡上一揆と石徹白騒動についての判決がほぼ固まり、宝暦8年12月15日(1759年1月13日)には申渡書が作成された。判決言い渡しは5名の老中、側用取次の田沼意次、御詮議懸り5名らが列席する中、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)夕刻から翌日早朝までかけて行なわれた。判決の中で一揆勢の、騒動の原因は郡上藩の年貢徴収法改定の違法な押し付けで、百姓が安定して生活が営めることこそが国が上手く治まる条件であり、幕府の御慈悲によって郡上藩などの不正を取り締まることによってその実現を願っているとの主張を退け、逆に検見法の採用によって切添田畑の存在が明るみに出ることによる課税強化を恐れ、領主の申しつけに逆らって強訴を行い、更に駕籠訴を起こした上に、強訴と駕籠訴吟味の際には切添田畑の存在を隠したと、一揆勢を厳しく断罪した。その他、駕籠訴人が郡上への帰国の際に帯刀したこと、公儀を恐れない行為の首謀者となったこと、村の秩序を破り庄屋らを脅し証文を取ったこと、騒動の活動資金を集める帳元となったこと、歩岐島騒動において藩役人らの命令に従わず暴動を起こしたこと、村預け処分でありながら脱走したこと、駕籠訴の判決を待たずして事実に反する内容で箱訴を行なったことなど、判決ではこれまでの一揆勢の行動全般にわたって断罪された。判決では一揆勢の頭取と判断された切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の4名が獄門とされ、駕籠訴人の東気良村善右衛門、東気良村長助、那比村藤吉、箱訴人の歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門、向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎、そして鷲見村吉右衛門の10名がやはり一揆の頭取同様に当たるとして死罪を言い渡された。その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など、一揆勢は大量処分を受けた。判決後、獄門、死罪を言い渡された者たちは腰に獄門、打首と書かれた札を付けられ、次々と刑場に引かれ処刑が行なわれた。
2024年05月30日
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24「小浜藩領承応元年一揆」(おばまはんりょうじょうおうがんねんいっき)とは、江戸時代に小浜藩領内で発生した一揆。承応元年(1652年)に指導者である松木荘左衛門が処刑されたことからその名がある。小浜藩では年貢として大豆を徴収する例があり、元は大豆Ⅰ俵あたり4斗であった。ところが、藩主である京極氏が4斗5升(一説では5斗)に引き上げ、新しく領主になった酒井氏もこれを維持したために農民の間で反対運動が起きた。寛永17年(1640年)に小浜藩内252か村の惣代が年貢引き下げの訴願を行い、以後も繰り返されたが認められず、8年後の慶安元年(1648年)になって、 藩側は松木荘左衛門ら惣代を逮捕した。惣代たちは藩の厳しい吟味によって次々と藩に屈服したが、松木のみは最後まで主張を取り下げず、承応元年(1652年)になって松木を磔にしたものの、年貢は旧に復した。このため、松木は義民として祀られることになった。評定所御詮議懸りによる郡上一揆の吟味ではまず幕府役人の吟味が先行したが、宝暦8年(1758年)7月の吟味開始直後から事件に関係した大勢の郡上藩役人、農民らが江戸に出頭を命じられ、江戸へと向かった。郡上から江戸に向かった農民は総勢309人に及んだとの記録も残っている。また江戸に潜伏していた駕籠訴人の切立村喜四郎、前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日(1758年9月27日)に、切立村吉十郎、前谷村吉郎治とともに御詮議懸り依田正次の邸に駆け込み訴えを行い、そのまま入牢となった。評定所御詮議懸りによる吟味は、以前の駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった。郡上藩役人、農民、そして石徹白騒動の関係者に対する吟味は、幕府役人に対する判決言い渡しが終了した宝暦8年10月29日(1758年11月29日)以降、集中的に進められた。吟味ではまず農民が新たに開発していた切添田畑の有無について確認した上で検見取を正当化し、続いて一揆の組織や首謀者について厳しく追及した。拷問を含む厳しい取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦₈年11月3日(1758年12月3日)には、駕籠訴、箱訴人を厳しく取り調べた結果、一揆勢の指導者が判明した。藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味も進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩の年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官が介入した件についてどのような関与を行ったかと、気良村甚助の違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった。吟味の最中、宝暦8年9月26日(1758年10月27日)に金森頼錦は松平遠江守に預かり処分を受けた。そして郡上藩士の多くが江戸に呼び出されている状況が続いているとして、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持を目的とした郡上への出兵が命じられた。宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した。
2024年05月30日
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23、「山代慶長一揆」(やましろけいちょういっき)とは、江戸時代慶長年間に、周防国山代(現山口県岩国市本郷町および錦町)で発生したとされる、一揆である。山代地方の歴史山代地方は、周防国の東端、安芸国との国境に位置する。戦国時代には大内氏の支配下にあったが、実際には刀祢と呼ばれる有力地侍達による自治が行われていた。その後、毛利氏の大内氏領への勢力拡大に伴い、弘治2年(1556年)頃には毛利領となる。この際に成君寺城の戦いが発生し、山代の地侍達は大内方と毛利方に別れて戦っている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に加担した毛利氏は、中国地方8カ国120万石から防長2カ国29万石へと減封となるが、山代地方は毛利氏の支配が続くこととなった。一揆のきっかけ毛利氏は太閤検地の一環として天正15-18年(Ⅰ587-1590年)に領国内の検地を実施しているが、このときの山代地方の石高は5,300石と言われている。その後、慶長5年にも検地を行い、石高11,901石とされた。毛利氏は、関ヶ原敗戦後の減封に対処するため、慶長12年から15年(Ⅰ607-1610年)に再度検地を実施しており、防長2カ国で、実高539,268石となったが、幕府には369,411石と上申し、これが表高とされた。山代の検地は慶長12年に行われ、実高は28,325石とされ、慶長5年検地時の2.5倍となった。僅か10年で生産力が倍増する訳も無く、これは田一反あたりの石盛を高く設定したことに加え、小成物と呼ばれる各種作物も対象とすることにより、人為的に石高を高く見積もったものであった。毛利氏の年貢率はもともと73%と高く、農民の負担は途方もないものとなった。この過酷な課税が山代一揆の原因となる。一揆の決行一揆の実態は不明であるが、慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多数の農民が参加したとされる。一揆を代官所の人数だけで鎮圧することは難しく、代官所は減税の方向で一揆の鎮撫に努め、一揆を解散させた。結果73%の年貢率は40%に減額されたと言われている。一揆首謀者の処分翌慶長14年3月28日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を翌日に出頭させる旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛、引地峠の刑場に連行され斬首、物河土手に裊首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。その後明治6年(1873年)より、新政府は増税を目的とした地租改正を実施するが、山口県ではそれに先立ち明治5年より調査を開始した。この際主導的立場にあったのが、小郡宰判大庄屋林勇蔵である。この調査は独自の方法によって実施されたために、政府は再調査を実施した。勇蔵は大蔵省の再調査にも毅然とした態度で臨んだが、これは勇蔵が慶長一揆のことを山代の大庄屋であった三分一健作から聞き知っていたためと言われている。結果、勇蔵の調査の厳密さが証明され、明治7年(1874年)2月、全国に先駆けて山口県の地租改正は認可された。明治15年(1882年)6月、勇蔵は健作へ郵書を送り、慶長一揆のことをさらに詳しく調べるように依頼している。この返書を受けて、同年12月14日、吉敷郡鯖山禅昌寺において、11人のために大施餓鬼が実施された。明治32年(1899年)に至り、成君寺住職の発議で山代各村長に呼びかけて資金をつのり、十一庄屋頌徳の碑が建てられた。処刑400年目にあたる平成21年(2009年)11月14日、山代義民顕彰会により「義の心」と刻まれた石碑が、岩国市本郷総合支所向かいの市有地に設置された。
2024年05月30日
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このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。一揆勢の配置は以下だったという。· 板取城 下間頼俊と加賀・越前の一揆勢· 木目峠 石田西光寺と一揆勢· 鉢伏城 専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆· 今城・火燧城 下間頼照· 大良越・杉津城 大塩の円強寺衆と加賀衆· 海岸に新しく作られた城 若林長門守・甚七郎父子と越前衆· 府中・竜門寺 三宅権丞このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。16日、信長は馬廻をはじめとした兵Ⅰ万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した(信長公記)。18日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた。一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。
2024年05月30日
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21、「忍足 佐内」(おしたり さない、享保13年(1728年) - 明和8年11月29日(1772年1月3日))は、江戸時代中期の義民。安房国平郡金尾谷村(現在の千葉県南房総市富浦町福澤)の名主。通称は善兵衛。忍足左内と記されることもある。重税に悩む農民を救うため、安房勝山藩の江戸藩邸に直訴し、処刑される(忍足佐内事件、勝山藩西領騒動)。しかし、所領を支配する奉行の不正が認められ、後に名誉が回復される。現在も義民として慕われている。忍足佐内事件安房国勝山藩領では、明和7年(1770年)に旱魃に見舞われ、特に平郡金尾谷村・白坂村・深名村・小原村の4か村の被害は甚大であった。4カ村の代表は、勝山(現在の安房郡鋸南町勝山)の陣屋に年貢の減免を嘆願した。嘆願を受けたのは、国許の仕置を任されていた陣屋奉行の稲葉重左衛門、および代官の藤田嘉内であった。稲葉は、深名村のみ減免を認めたが、これは私的理由によるものとされる[4]。願いを拒否された3村の代表(金尾谷村の代表が忍足佐内であった)は江戸の勝山藩邸に赴いて門訴し、藩主酒井忠鄰に、村人が困っていることや、奉行の悪政を訴えようとした。門訴の目標は達成できず、彼らは処分保留のまま帰村を余儀なくされた。稲葉は彼らを恨み、帰村した佐内を捕らえて、勝山の大黒山中腹の岩牢に幽閉。明和8年(1771年)に稲葉は藩主の指示を無視して独断で、佐内を白塚川原(現在の福沢川白塚橋付近)で処刑してしまった。享年44。これらの事件を忍足佐内事件、あるいは勝山藩西領騒動ともいう。名誉回復と顕彰これに対して、忍足佐内の遺族らは奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出た。この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復された。「忍足佐内殉難の地」(富浦町福澤字大白塚)は、1974年(昭和49年)4月25日に富浦町指定史跡(市町村合併に伴い南房総市指定史跡)となっている。
2024年05月29日
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19、「籾摺騒動」(もみすりそうどう)とは、江戸時代に宇都宮藩で起きた百姓一揆である。寛延4年(1751年)に宇都宮城主の松平忠祇が財政難のため「上納米は籾1升6合摺の割合で納入すべし」と百姓に命令した。それに対し百姓たちは「代々の領主は年貢は5合摺だった」との嘆願書を出した。さらに、城に出入りする商人数名にも「役人に頼んでほしい」と繰り返し訴えるが効果がなかった。宝暦3年(1753年)9月13日に領内の百姓約45,000人が八幡山に集結。打ちこわしを開始した。城の役人が非常召集され、大目付の松野源太夫が百姓たちに事情を聞き、場を収めた。しかし翌14日も暴動が起きる。15日に平定された。16日に隠し目付により指導者4人が捕らえられ拷問を受けた。白状したことにより多数の首謀者が捕らえられた。だが、御田長島村(現・宇都宮市御田長島町)の庄屋である鈴木源之丞だけが捕まえられなかった。9月下旬に小頭たちが源之丞を発見したが、抵抗され撤退する。源之丞は危険を感じたため妻のキミを離縁しようとしたが、「運命をともにする」と言われた。翌日の明け方に寝込みを襲われたが抵抗はしなかった。この後に百姓の願いは認められた。しかし10月19日に鈴木源之丞と水沼亀右衛門(上平出村庄屋後見)と増淵六平(小左衛門〈今泉〉新田庄屋)が市中引き回し・打ち首にされ、篠崎太郎左衛門(羽牛田村)が水牢、山崎嘉七(御田村)が追放の刑に処せられた。源之丞は法名を「義徳院宇領済源居士」と付けられ「喜国源之丞大明神」にまつられた。亀右衛門は平出雷電神社にまつられた。宇都宮市御田長島町に六角の大谷石が建っているが、何も記されていない。罪人の墓は建てることができなかったため、村人が藪の中に隠して建立した供養塔である。宝暦7年(1757年)・明和元年(1764年)・明和3年(1766年)に宇都宮で大洪水が起き、人々に「源之丞洪水」と呼ばれた。 20「中沢 浅之丞」(なかざわ あさのじょう、享保10年(1725年)? - 宝暦13年3月2日(1763年4月14日))は、江戸時代中期上田藩で起こった農民一揆(宝暦騒動)の指導者、義民。上田藩領夫神村(長野県小県郡青木村)組頭。経歴・人物信濃国小県郡夫神村生まれの人物、同村の組頭。宝暦11年(1761年)に上田藩領で起きた年貢減免などを要求した上田藩宝暦騒動の頭取のひとり。越訴の罪で同村の清水半平と共に中島河原で死罪となった。法名は竿外道刹信士。同騒動についての書である『上田騒動実記』には2人の処刑の際のやりとりや辞世の句が、『上田縞崩格子』には抵抗権思想の萌芽とみられる文言がそれぞれ記載されている。大正13年(1924年)宝暦義民之碑が、昭和57年(1982年)には宝暦騒動の句碑が建立された。また、2人の墓は小県郡青木村の旧夫神村域で昭和16年(1941年)に発見された。
2024年05月29日
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18、「斎藤 彦内」(さいとう ひこない、1709年 – 1750年5月22日(寛延3年4月17日 (旧暦)))は、江戸時代の陸奥国伊達郡(現・福島県)の農民。「天狗廻状騒動」の名で知られる一揆の指導者の一人で、義民として祀られている[3]。伊達郡長倉村に斎藤実盛の家柄に生まれる[4]。寛延2年(1749年)、信達地方は冷害により「田方立毛青立」(田畑の作物が実らない)と記録されたほど農作物は深刻な被害を受けた[3]。信達地方は寛延2年より前から不作が続いており、福島藩およびその周辺では、徳川幕府の代官所により、年貢が引き下げられた。しかし、隣接する桑折の代官は地元の農民からの度重なる年貢の減免の訴えを退け、逆に年貢を2分5厘引き上げた。追い詰められた農民たちは、「わらだ廻状」(のちに「天狗廻状」とも呼ばれた一揆の連判状)を信達地方の68の村に廻し、密議の上、総代として長岡村の彦内、鎌田村の猪狩源七、伊達崎村の蓬田半左衛門らを選出した。彦内らは数回に渡り年貢の減免を代官に願い出たが聞き入れられなかったため、16,800人余りの農民による一揆を起こした。一揆ののち、年貢は引き下げられたが、多くの組頭や百姓代が捕縛され厳しい取り調べを受けた。見かねた彦内は首謀者として出頭し、一揆翌年の4月17日、現在の伊達市と桑折町に隣接する河床で半佐衛門・源七と共に処刑された。彦内は42歳(数え年)だった。顕彰彦内ら3人にまつわる逸話は壱千九百八年、半井桃水によって東京朝日新聞で小説「天狗廻状」として連載され、広く知られることになった。この作品はのちに映画化もされ、大きな反響を呼んだ。1918年に、刑死した3人を称える石碑が伊達町(現在の伊達市)に建立された。60年後の1979年には、伊達町・福島市・桑折町の協力により、処刑の現場を記念する記念碑も建立された。彦内の墓は、斎藤家の菩提寺の、福島県伊達市の福源寺にある。彦内は義民として尊崇を受け、毎年4月17日に「寛延三義民供養祭」が行われている。2016年と2017年の供養祭では、福源寺境内での讃歌の奉納、墓前での読経や焼香などが行われたことが記録されている。。
2024年05月29日
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17、「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)は、江戸時代において備中国下道郡(現在の総社市)で起こった農民一揆、民衆騒動である。この事件で犠牲となった4人の村民を(新本)義民四人衆(ぎみんよにんしゅう)と呼ぶ。岡田藩5代目藩主伊東長救の時に起こった。江戸時代の慶長20年7月(1615年)、岡田藩初代藩主・伊東長実が藩領の備中国10か村にある村民の共有林である入会山[1]を順次取り上げ藩有林としていった。岡田藩領であった同国下道郡新庄村・本庄村(現・総社市新本地区)においては1661年(万治4年/寛文元年)頃より入会山の藩有化が行われた。藩側は山を造林し、「留山」として村民の入山を禁じた。さらに約50年後の1716年(正徳6年/享保元年)頃には、残されていた共有山であった新庄村の大平山・本庄村の春山の大部分を取り上げた。また、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。それに伴い村民に支払われる運賃は、1駄(約42貫)4分5厘という低い額であった。低賃金の上、重労働・農作業その他生活の時間が奪われることになり、生活に支障を来す事態となったため、新庄・本庄両村民(203人とされる)は会合を開き、留山とされた山の返還と割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意。それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、享保2年(1717年)に藩側へ提出した。しかし藩と村民の意見は対立した。この事態に同郡川辺村の蔵鏡寺住職など識者が仲裁を行い、数度にわたる藩側と村民側との話し合いが行われた。結果、一部の山を開放し、下草を取ることが許可された。同年3月15日、村民側は会合を開き、開放に制限があることに不満があるも譲歩し、これを受け入れた。しかしながら、村民は全留山の開放を求めることを誓い、神文誓書を作り、鎌で切った指の血で署名し、これを本庄村にある稲荷山の大岩の下に埋めたといわれる。 4月14日、住職等の協力の下、藩と村民の間に正式に調停が成立。役人が来村し、山の引き渡しを行った。翌享保3年(1718年)、藩側が開放許可された山において、許可していない木々の伐採行為が行われていることを疑い、取り締まりを強化。同年12月30日に盗伐が発覚。藩は盗伐調査を行い、盗伐者の出頭を命じた。しかし、村民からは誰一人として出頭する者はなく、藩と両村民は激しく対立することとなり、庄屋が投獄される事態になった。村民は江戸の屋敷にいる藩主・伊東長救に直訴を決め、松森六蔵(まつもり ろくぞう)・荒木甚右衛門(あらき じんえもん)・森脇喜惣治(もりわき きそうじ)・川村仁右衛門(かわむら にえもん)の4人を村民代表として選出、要求書を持たせ、同年2月13日に江戸の藩主の元へと派遣した。数日後、4人は無事江戸へと到着し、藩主への要求書提出を成功させた。嘆願要求は、ほぼ内容通り実現されることとなったが、それと引き替えに4人の村民代表は反上の罪により処刑、その家族は国外追放、さらに財産没収および家屋取り壊しとなることとなった。享保3年6月7日(1718年7月4日)、新本川の飯田屋河原とよばれる川原で、村民の目前で4人は打ち首によって処刑が実行された。享年はそれぞれ六蔵77、甚右衛門44、喜惣治36、仁右衛門44だったとされる。なお、処刑こそ逃れたが、罪に問われた者は多く、60名弱に及ぶ。村民は4人を義民と呼び、厚く弔い、それぞれの出身地、仁右衛門は本庄村稲井田集落、他の3人は新庄村小砂集落内(西明寺)に墓を建てた。現在も墓が残っている。年譜慶長20年(1615年)7月 - 岡田藩が領内の共有林・入会山を藩有(留山)化し始める。万治4年/寛文元年(1661年)頃 - 新庄・本庄両村内の入会山の留山化が始まる。正徳6年/享保元年(1715年)頃 - 新庄・本庄両村の大部分の入会山が留山となる。また、留山を伐採して用木とし、岡田村まで運搬する賦役が始まる。享保2年(1717年)1月 - 会合を開き、三箇条の嘆願書を作成、藩へ提出。後日、村民と藩の間で会合が開かれる。3月15日 - 神文誓書を稲荷山の巨岩下へ埋める。4月14日 - 村民と藩の間で、制限付きで留山が一部開放する調停が成立する。4月24日 - 引き渡された山と留山の境界に杭が打たれる。4月25日 - 村民一同で祝いをする。9月15日 - 藩が留山の取り締まりを強化。12月30日 - 村民が藩の指示を守らず、相当数の立ち木を伐採。享保3年1月15日(1718年2月14日) - 藩の役人が村の状態を調べる。2月8日 - 盗伐の疑いがある村民51人に出頭が命じられる。2月9日 - 村民は誰一人として出頭せず。2月10日 - 庄屋が投獄される。2月12日 - 村民は会合を開き、江戸の藩主への直訴を決める。2月13日 - 逃散を装って、代表者4人が江戸へ向かう。2月14-17日 - 村民一同が、庄屋の帳面につく。2月29日 - 代表4人が江戸へ到着。3月4日 - 藩主へ直訴を成功させる。3月19日 - 村民15人が投獄される。5月29日 - 代表4人が有井村の牢に投獄される。6月7日 - 村内の川原にて、代表4人の処刑が実行される。6月16日 - 代表4人の親族が国外へ追放される。
2024年05月29日
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16、「多田 加助」(ただ かすけ、寛永16年(1639年)2月 - 貞享3年11月22日(1687年1月5日))とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である貞享騒動(加助騒動)を主導した百姓。別名、多田嘉助。一説には陽明学を身につけていたと言われる。貞享騒動家は代々、安曇郡長尾組中萱村の庄屋(名主)であったが、参謀格の同郡楡村の庄屋・小穴善兵衛と同様強訴を起こした時点では庄屋の身分は取り上げられていた。安曇野で数年続いた不作により疲弊した百姓に対してこの年下されたのは年貢の増徴命令であった。そこで同郡中萱村の熊野権現の拝殿にて密議のすえ年貢減免を訴えることになった。10月14日(旧暦)5カ条の訴状を松本城下に赴き郡奉行に提出した。それを知った何千もの百姓が城の周りに結集し、中には狼藉を働いた者もいた。訴えは4日後にいったん聞き入れられたものの1か月後に覆され、11月22日 (旧暦)には首謀者の加助ら8名が磔、20人が連座で獄門に処せられた。その間藩主水野忠直は江戸詰のため不在であったが、早馬で事の次第を把握しており、約束の反故と捕縛・処刑の裁可を下している。加助は磔にされるとき、役人から口を極めて嘲弄侮辱されたのに対して、「きっと怨みを晴らしてみせる」といい、刑場の矢来の外に集まって涙にむせぶ千余人の領民に向かって、「今後年貢は5分摺2斗5升だ」と絶叫しつつ刑死したといい、加助が松本城天守閣を睨んだ瞬間に大きく傾いたという伝説がある。助ら、勢高刑場で処刑された者の遺体は川手往還(城下から川手組に通ずる)の新橋付近で、善光寺街道沿いの出川刑場で処刑された者は刑場脇付近で、それぞれ梟首された。義民の顕彰1725年、水野家6代目である水野忠恒は江戸城内で刀傷事件を起こし、水野家は改易された。翌年戸田家が松本藩に入封したのが義民顕彰のきっかけとなった。小穴善兵衛の故地であった楡の共同墓地精進場に長尾組・上野組の人々による「貞享義民五十年忌経典二千部供養塔」が建てられた。明治になり自由民権運動が吹き荒れる中、地元穂高出身の松沢求策が民権家としての加助を新聞紙上で取り上げて連載した。翌年(明治12年、1879年)にはそれを「民権鑑加助の面影」として舞台化させ、松本常盤座で初演。各地で上演された。1916年には半井桃水の新聞小説「義民加助」が朝日新聞に連載され、全国的に知られることとなった。墓は貞享義民社(長野県安曇野市三郷明盛)隣にある。 貞享義民社とは、多田家敷地内で加助らを祀った小さな祠が騒動200年祭を期して旧郷倉跡に移されて加助神社に改められたものがその始まりである。騒動の後「加助のたたり」を怖れた水野家が屋敷内に祀るために作らせた加助坐像が、後年水野家から加助神社に寄贈され、本尊となっている。宗教法人「貞享義民社」となったのは1960年のことである。なお同年多田加助旧宅跡が長野県文化財に指定された。1986年11月3日にはテレビ信州制作でドラマ「義勇天を貫く」が放映された(演・寺田農)。騒動300年祭後の1992年には地元の人達によって貞享義民記念館が建てられたが、貞享義民社のすぐむかい側である。
2024年05月29日
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14、「杉木 茂左衛門」(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)? - 貞享3年(1686年))は、江戸時代の義民。上野国(群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。1662年、沼田藩主真田信利の悪政が始まる。1680年、大飢饉の発生により、経済状況がより悪化。1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。村人は千日堂を建立し、茂左衛門を祀った。明治期に駒形壮吉・野口復堂らにより杉木の存在がクローズアップされ、1926年には藤森成吉によって戯曲「磔茂左衛門」があらわされて人気が沸騰した。千日堂は杉木の死後、相当の期間が経過して忘れられていたが、1922年に再建され、1971年には再建された。 15、「鈴木 三太夫」(すずき さんだゆう、生年不詳 - 貞享元年4月27日(1684年6月10日))は、江戸時代前期の相模国海老名郷大谷村(現・神奈川県海老名市大谷)の名主(庄屋)、義民。本名は三左衛門(さんざえもん)と言い、「三太夫」は死後に贈られた名とされる。人物大谷村は幕府領であったが、延宝2年(1674年)に旗本の町野幸宣が領主となった。町野幸宣のもとで農民の年貢負担は重くなった。天和3年(1683年)に子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しさを増し、凶作に伴って死者も出た。名主であった三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てたが、事前に密告されて捕えられ、貞享元年(1684年)4月27日に今里の代官所(現・神奈川県立中央農業高等学校の位置)で斬首に処せられた。三左衛門には子が二人いたが同罪として処刑され、事前に離縁していた妻も自害している。父子の亡骸は妙常寺の住職に引き取られて同寺内に葬られた。元禄14年(1701年)、町野幸重は改易処分を受けた(地元では「三左衛門の死後間もなく」「悪政が露見したため」改易されたと伝えている)。村人のために犠牲になった三左衛門は、地元で「三太夫」として語り継がれた。郷土史家中山毎吉は、「三太夫」は徳の優れた人物に贈った名(諡)であると推測した。1938年(昭和13年)には三左衛門の屋敷跡に「鈴木三太夫翁之碑」が立てられた。1952年(昭和27年)には「鈴木三太夫霊堂」が建設され、1973年(昭和48年)には大谷自治会によって「鈴木三太夫霊堂」内に「義民の碑」と題する顕彰碑が立てられている。1977年(昭和52年)に海老名史跡探勝会が制作した海老名郷土かるたにもその事績がうたわれている。また、命日の4月27日には地元の人々による供養が行われる。
2024年05月29日
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13、「小松 三郎左衛門」(こまつ さぶろうざえもん、正保2年(1645年) - 延宝6年10月25日(1678年12月8日)は、江戸時代の義民。金沢山の入会権をめぐる争いで、金沢村 (長野県)の代表として紛争の解決に当たり、村のため裁許状をくつがえそうと、江戸へ直訴しようとして藩主の怒りにふれ、処刑された。信濃国金沢宿本陣の問屋。経歴・人物この節の出典甲州街道四十四次の四十三番目の宿場、信濃国金沢宿(現在の長野県茅野市金沢区)に生まれる。本陣問屋場の主は代々世襲制で、諏訪高島藩金沢宿、本陣問屋、四代目小松三郎左衛門を襲名する。この宿場は街道の分岐点にあり、高遠や飯田に通じるので伝馬地かつ人馬継立を問屋として責務を負っていた。一方金沢村の村民達は農耕に従事し、薪炭肥料の資を鳴沢山と金沢山から得て暮らしを立てていた。明暦2年(1656年)に金沢村と隣の千野村との間に山論(金沢山の山林の所有権を巡る争い)が起きた。その時、二代藩主諏訪忠恒の裁定により、高道下境塚を起点とし、松倉峠(金沢峠)に至る一線を画し、境界が確定していた。しかし、忠恒没後、三代藩主諏訪忠晴の時代になった当時、大水害、飢饉が続き、藩内では死者が1200人も出るなど諏訪藩の財政難で藩は財源確保を模索していた。 延宝5年(1677年)千野村は、鳴沢山はもちろん金沢山をも入会地と称し訴訟した。それを受け、延宝6年、藩は「先の確定は田地堺を定めたもので、山境にあらず」とし、金沢山全部を含め、両村入会地との裁許状を下した。先の確定が蹂躙されたことを憤慨し、一村の荒廃に関わる一大事に、裁許状をくつがえそうと、三郎左衛門は金沢村の代表として紛争の解決に当たった。延宝6年(1678年)10月25日、三郎左衛門は宮川沿い矢ノ口河原であったところで磔にされ、村民が見守る中で命を絶たれた。享年34歳の若さだった。その罪状は、山論に没頭するあまり、本来の問屋業務を疎かにしたというものであった。しかし、実態は三郎左衛門が、山論の正当な解決を直訴しようとしたことへの処罰、江戸に出向いて直訴する行為が近隣の村々に悪影響を及ぼすことを恐れた藩主による見せしめであった。執行されたこの処罰は、諏訪地方における唯一の磔刑であったという。妻子は追放、闕所(財産没収)となる。結局、金沢山の土地も千野村の所有になることは無く、後に藩に収公された。その後、諏訪藩は、藩内の二十ヶ村に入会権を与え、二百年に亘る定着した財源になったという。三郎左衛門死後それから100年後の寛延2年(1749年)三郎左衛門の磔にされた桟敷場に子孫によって供養の地蔵尊が建てられたが、いつの頃か度重なる水害にあい流失したものと思われる。寛政12年(1800年)別の場所に地元の人々に祀られた如意輪観音を地蔵の見替わりに、毎年命日に供養が行われ今日に至る。人々には「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。さらに、三郎左衛門の死後200年の明治13年(1880年)金沢村の村民達が宮城上等裁判所に提訴した。村民の誠意と真実に心を動かされた裁判所によって、金沢村の土地であるという勝訴判決が出された。昭和25年(1950年)青柳神社境内に頌徳碑、三郎左衛門の墓のある泉長寺裏の墓地に供養塔を、金沢村の人々によって奉納される。地蔵尊再建明治31年(1898年)の水害の復旧工事の時、台石だけが付近の河原より見つかり、台石を失った青面金剛像がその台石上に祀られた。金沢村史編纂会は昭和62年(1987年)山論に関係のあった高道調査の帰り、宮川の川底より行方不明となっていた三郎左衛門を祀る首を失った地蔵尊を発見した。地蔵尊の首を復元し、下町にある青面金剛像の載る台石に刻まれている施主氏名を復刻し再建した。平成3年(1991年)3月20日茅野市金沢区健之す。
2024年05月29日
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