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弐女ちゃんの学校で、校歌のテストがあった。クラスで弐女ちゃんと◎君だけ再テストになった。弐女ちゃんはテスト当日の朝、練習する予定だったのにその日の朝は全員寝坊しちゃって、練習不足だった。でも、他のみんなも必死で練習したのかなぁ。だって校歌だよ。 再テストは月曜日するって言うから、前向きに練習するかって思ったら、歌詞も譜面も学校にあるっていう。ガクっ。自由帳に弐女ちゃんの手書き歌詞があるだけ。とりあえず歌を聞いてみると、歌詞の言葉が難しい。1番、2番、3番っての歌詞が似ていて、こういう紛らわしいことに弐女ちゃんは見事に引っかかる。自分で紛らわしいところに気がついて、自分なりの整理をつけられないのが弐女ちゃん。できるのが壱男。ここにいろんな分かれ道ができる。 私は子供の学校の校歌なんて入学式と運動会でしか聞いたことがないから、歌って聞かせらんないから壱男に歌わせてMDに録音して聞き流し。とにかく歌詞を頭にインプット。これを金曜、土曜と続けた。そして日曜日にもうよかろうと、亭主に確認を頼んだ。そしたら、どうも不出来だったらしく亭主が怒り出した。怒って覚えるんなら苦労はないよ、と私はいつも思う。 ちょっと閃いて、ピアノで校歌の調音をすることにした。壱男の歌があまりに音痴でひどいせいもあるのかもしれないって思ったから。この校歌は初めて聞いた時から、難しいって思っていた。変調するし、3連符とかリズムがとりずらいところあるし。音源は音痴の壱男の歌と私のかすかな記憶。正直言って苦労しながらなんとかホ長調と判明。シャープばっかりだよ。時々ナチュラルあるし。楽譜におろして再びMD録音して練習仕切り直し。 そして試験当日の朝。弐女ちゃんをチェック。確かに何回かつかえた。でも1番は◎、2番は三角、3番は□って、歌詞の似たところを自分なりに分析して確認してたから、良しとした。 ここまでやる必要があるのかどうかわからない。放っておくべきなのかもわからない。とにかく毎日毎日なにかしらある。
2013年02月04日
うちの弐女ちゃん。一年生。お勉強ができません。でも、お勉強が好きで、頑張り屋さんで、真面目に努力はしてます。でも、計算が遅かったり、すぐに漢字が覚えられなかったり、クラスのみんなと同じことは出来ません。私は弐女ちゃんのことが心配で心配でしょうがなくって、つい一生懸命になりすぎて、怒ってしまいます。 弐女ちゃんは小さい頃から工夫の必要な女の子で、今も通り一辺倒の説明では理解出来ません。だから、今も私は工夫して手間暇かけています。時々疲れちゃいます。
2013年02月03日
今日も晴れ。今日も布団を干した。小学3年生の息子、壱男にこんなことを言われたことがある。「うちのお布団はふかふかで気持ちいい。」って。そりゃあ、そうでしょう。私は天気が良ければ毎日干すからね。ふかふかのお布団は、太陽さんがくれる贅沢なんだよぉ。
2013年02月01日
大阪におじが二人いる。そのおじ1が一昨年の暮れに脳梗塞に倒れ、未だ入院中。おじ1は妻に先立たれ、子供はいない。たまたま、おじ2が2階で倒れているおじ1を発見し、救急車を呼んた。そこからおじ2がおじ1の面倒を看ることになった。二人とも70歳は過ぎている。 おじ1は命は取り留めたものの、半身麻痺。只今リハビリ入院中。当然一人暮らしには戻れない。もう、全てが元には戻れない。 おじ2はおじ1に変わって、病院の支払いその他をやっている。個人情報保護法が出来て、本人以外の銀行預金の引き出しから何から何まで、おじ2がおじ1に代行するにはいろいろと厄介がある。 おじ2は代行する中で、おじ1の印鑑を整理し、入出金を整理する中でおじ1の財産を知ることになる。兄弟といえども普通はこういうことは、知り得ない内容。そしておじ1が収入があるけど、借金もかなりあることを知る。証券はあるけど現金が少ないことも。そして決断を余儀なくされた。 おじ1の不動産を処分しなければ、この先おじ1が施設に入って生きていくことが出来ない、と。おじ2はおじ1に辛い決断を求めた。自宅の売却。東京のマンションの売却。おじ1にとって大阪の自宅の売却は、帰る場所を失うことになる。東京のマンションの売却は収入の道を絶たれること。とてもとても辛い決断。しかし、これをしなくておじ1の未来は来ない。たとえそれが輝かしい栄光に包まれていない未来だとしても。 そして、私は東京のマンション売却のを進めている。こちらはこちらで、共同名義になっていて、共同名義者との話し合いがあったりして、売却までこぎつけないのが現実。 おじ1の生気持ちに立つと前に進みにくくなる。でもおじ1の未来は今まさに始まっている。私の未来も同じ。
2013年01月21日
うちは都内でも放射線量の高い地域にある。 家は買っちゃったし、実家はホットスポットのK市だし、旦那の実家も福島のお隣のT県だし、で身動きとれない。 うちの区でも放射線から子供を守る会ができた。個人でガイガーカウンター持つ人が増えた。 あるとき近所の公園で放射線料の測定に立ち会った。公園の平場は毎時0.2μシーベルトで場所によって0.3くらい。それが落ち葉が積もる木の根元を測った時、最大毎時0.65μシーベルトをカウンターが示した。警告音が鳴る。そこから1メートルほど離れると0.4くらいに下がる。ホットポイントだ。(こんな言葉はない。) 放射性物質は、広がりをもった地区、地域にホットスポットを出現させたようなイメージだったけど、、私が体験したような小さな点に集中することもある。一緒に測定をした人に言わせると、「木が吸い上げているような気がする。木の根元の線量高い傾向にある。」と言う。 この木を見上げると肉厚の葉が生い茂る常緑樹だった。木が吸い上げてくれてありがたいと思うべきなのか、木に申し訳ないと思うべきなのか、頭が混乱した。次にここの線量を下げるには、この大量に積もった落ち葉を拾い集める必要があると考えた。でも木が吸い上げているとしたら、この木の葉っぱが再び枯れて落ちるのを待って、再び三度何度でも線量が下がるまで、落ち葉をかき集めねばならないとも考えた。そしてこの落ち葉をどこに捨てればいいのか。 再びアタマを混乱させながらこう思った。大変なことが起きてしまった。大変なことをおこしてしまった。やってもやっても終の見えない状況が3.11以来始まったのだ。このとき実感として腑に落ちた。 福島の状況を思うとうちの近所の線量など比較にならない、と言う批判覚悟でこれを書いている。理由は私には私の信念があるからだ。福島の悲劇は長く続くと思う。とても気の毒に思っている。福島の皆さんに私が出来ることは、うちの二人の子供を健康な成人に育てて、納税者にすることにあると思う。ちっぽけな貢献だけど、これから税金で福島県民の健康、復興は賄われる。だからフリーター、ニートより、最低納税額でも稼げる成人を一人でも多く増やす。これは人口減少、つまり納税可能な人口減少の日本としたら、現実的なことだと思う。
2011年07月24日
日本は今、少子高齢時代。私の住む団地はまさにその縮図。老人世帯ばっかし。で、この老人世帯が団地の敷地内にある幼稚園、小学校に文句を言っている。「幼稚園の楽器演奏がうるさい。」「学校行事のとき、父兄の自転車が邪魔。」「幼稚園で飼っている動物の鳴き声がうるさい。」とかね。かつては自分の子供がお世話になったであろう地域の教育施設に。分譲住宅地だから、学校、幼稚園がうるさいこともわかって買ったんだろうに…。って思う。 老人になると、自分の都合が中心になるのかなぁ。 私の住む地区はどうも、放射線量が高いらしい。区は発覚を恐れて放射線に関しては絶対触れない。だから江東子供を守る会のような会を有志で作った。これを作るにあたって区役所と話す為に、地元の力ありそうな人を味方に付けんがために、近所の顔の広そうな人をあたったところ、「私たち老人はいくらも生きないから、好きなものを食べて、何も気にしないです。」「先が長くないからねぇ。」という、前置きがあって前向き回答を一応得た。 この前置きに私はなんか引っ掛かった。子育て世帯が多かったら、意識の差はあれど「子供を守りたい」っていう必死感が、相手からも返ってきそうなもんだけど、子育て終了の老人世帯が大半になると、対岸の火事程度。温度差を感じざる負えない。少数派の子育て世帯の声が届きにくい。声を上げても見向いてもらえない。これが少子高齢化の現実かな。 今、菅総理の退陣とか、震災復興の政治の遅れとか話題だけど、これって何も永田町の政治のまずさばかりじゃなくて、老人議員の人数の多さも関係してるかも。まだまだ、日本に生きてしかも被災地が地元だったり、子供が居て放射線の影響下に地元があったりって言う、自分自身に影響のある議員がすくないんじゃないかな。この任期を無事終えたらOKみたいな議員が多かったら、やっぱり政治が動いていかなくてもおかしくないよ。当事者意識って大事だもん。当事者じゃなくてもそれを想像して思いやるアタマと気持ちね。歳をとるとそういうことが出来にくくなるのかなぁ。やだなぁ。 誤字脱字は許してね。
2011年06月21日
最近、弐女ちゃんの通う幼稚園で、放射線対策なんもしなかったっていうママに出会った。別に育児放棄してるようなママじゃないんだけど、ただただ何していいかわかんなかったんだって。こういうママもいるんだね。一応私がここ3ヶ月やってきたことを書くと、 □部屋の換気口にHEPAクラスのフィルターを貼る。□窓は開けない。□プラズマクラスター空気清浄機を導入。□風が吹いたら子供のマスクをさせる。□草むら、芝生に子供を行かせない。□砂場遊びはさせない。□飲料水は蒸留水器を導入。□食材は原発から500キロ以上離れたものを買う。□お米を備蓄。□洗濯物は部屋干。□風が強い日は花粉症メガネを子供にさせる。□学校へは水筒をもたせる。□ビール酵母を取る。□野菜はホタテ粉で洗浄。□ヤクルト400を毎日飲む。□大豆製品、小魚を毎日食べる。 どれが効果があるかわからないけど、誰も自分子供を守ってくれないし、本当のことを教えてくれないし、どうすべきかを教えてくれないから、とりあえずやってるよ。
2011年06月14日
先週、東京都下水道局の放射線量が発表された。うちはふたつの下水道処理場とスラッジプラントのすぐ近くにある。どうりで空間線量がなかなか下がらないはずと思った。と、思うと同時に「アタシってやっぱり運が悪い。」って久々に落ち込んだ。こんな場所に家を買っちゃって…、って感じで。子供のことが心配…。 と、もうひとつ思ったのが、土地には端っこっていうのがあるってこと。土地の端っこには迷惑施設がある。ゴミ焼却場とか、下水処理場とか、原発とか。平成になってウォターフロントとか名前を付けて、価値の付け替えをして土地の端っこは人が住むようになった。下水処理場の上は運動場になったり、ごみ焼却場もキレイな建物だったり、原発もお金かかった外装施してたし、なんかうまい具合に誤魔化してはいるけど、今回みたいにそのメッキが剥がれて正体が露呈してしまうことがある。そのとき、自分が踊らされていたことに気がつく。やっぱり端っこは端っこで、嫌なものは隅に寄せられていたことにね。
2011年06月13日
東日本大震災が起きて、福島原発の事故がおきて関東一帯に放射線物質が飛散した。これに対して政府は「直ちに健康被害はありません。」だった。タバコだろうと携帯電話だろうと「直ちに健康被害はありません。」なのよ。だけど「、後あと健康被害の可能性はあります。」ここがいつも抜けている。今回も抜けた。文脈から判断せい!、いうのだろうか。それともこれは文学だったんでしょうか。政府の公式見解だったよね?!。この後、福島の子供たちは放射線量が最も多かった時期に、放射性物質に曝された。 「なんで福島の人は避難しないのか不明」なんていう人がいたけど、出来なかったんだと思う。まず、避難所には共用のテレビしかなかった。(私もテレビでみたんだけど。)情報が限られた。福島はこれまでに大企業が成長してこなかった。(地方発の企業。ジャパネットたかたとかコジマとかね。)つまり、ほとんどの人が中小企業か、役所、漁業、酪農、農業と所得が低かった。(ここが宮城ととの大きな違い。)今の世の中避難するにもお金が掛かる。あと、土地に根ざした職につく人が多くて、土地を離れがたかった。 原発の事故から2ヶ月たって、ようやっと子供の年間放射線被曝量の累積が1ミリシーベルト目標になった。おそいよぉ。学校給食は地産地消が基本だから、規制値以下でも放射性物質を体内に取り込んでいる。カワイソ過ぎる。校庭の表土の入れ替えを始めているけど、汚染されているのは校庭の表土だけじゃないよ。もっと県全体を除染してほしい。(山は無理と思うけど。)少子化担当大臣ってレンホウだっけ。「お仕事してますぅ?。」って電話したくなっちゃう。 程度は福島より下がるけど、東京も同じ状態。東京はまず、学校の放射線量を測ってくれない。区に頼んでもね。私の住んでいる所は、新宿の3倍近く放射線量があるんだけど、私はこれに対してどうしていいのか判断がつかない。最近やっと子供にマスクをはずさせた。でも飲料水は持たせている。学校給食も弁当持参にさせようか、どうしようか悩んだ末、学校給食を食べさせている。どれも規制値以下と学校は言っているけど。私には生まれて初めてのことで、どうにも判断がつかない。 子供を守ろうとする姿勢が政府にないってことが、今回よぉくわかった。東電の清水社長の会見見ててもよくわかった。この人は、こんな大災害を自分ところの企業がおこしても、□会社はつぶれない。□自分の退職金はもらえる。□自分の名誉は穢れない。□しばらく我慢すれば全て復旧される。全くこういう思考が根底にあることが顔に現れていたと思う。悪びれたところがない。落ち着き払っていた。ここに日本の未来を担う子供を救う、子供たちに悪かった、などという気持ちは微塵もみてとれなかった。 これを見て、子供を産んで何か大災害が起きたときに、子供の身を守れるのは自分だけだな、って強く思った。沢山持ってる老人がそのたくわえを減らさずに生きていければ良い、そんな世の中になってるんだなって思った。
2011年06月03日
年末に高校時代の友人から携帯メールをもらった。子供を産む前は頻繁に会ってた友人で、といってもちょっとめんどくさい感情もあってか、簡単に単純になかよしなんては言えない存在かな。彼女は負けん気が強くて、私には絶対負けたくはないって思っていたと思うんだ。 その彼女からあの時の仲間に会いたいと、私を含めて連絡が廻って来た。最近長く勤め上げた上場企業を早期退職して、すぐに転職先も決まったものの、その新転地が性に合わなくて毎日つらいという話。それでみんなに会いたいと。 私を含めて、みなバブル経験者で、日本経済絶好調の平成元年前後に入社している。私は総合職入社で、一般職入社で後に総合職になった者もいる。今から20年以上も前ことだけど…。この仲間のうち私ともう二人は結婚して子供をもうけた。専業主婦は私だけ。残りは独身。みんな揃って今年47歳。全然若くない。 携帯メールをくれた友人はこんな事をメールに書いていた。「私は人生をどこか間違ったような気がする。」。結婚して、晩産だったけど二人の母になった私は、彼女流に言うと間違わなかったらしいニュアンス。私に対してこんな弱音、調子よかったら絶対見せない人だよなぁ、なんて思った。よっぽど何かが堪えているんだろうなぁ。 去年NHK特集で「無縁社会」っつうのをやっていた。孤独死、自殺、派遣村、それも解雇、離婚、死別そういったことがきっかけで、人と人、人と地域、人と社会、そういった縁がどんどん切れてしまう。NHKは今の社会をそういう風に見ているらしい。 私達世代の20年をざっと振り返って見ると、三高、DINKS,不倫、×1、(離婚のこと)キャリアウーマン、今のNHK的無縁社会のプロパガンダが、こういったことの中にあったような気がする。私はこのプロパガンダに乗っかりながら、ある時この列車を降りた。そして子供を産み、普通の母ちゃんとして地元に根差し、自分の足元で生きている。別に何も誉められるような事のない、ごくごく普通の当たり前の日常なんだけどね。 友人の人生の間違いは、このプロパガンダに乗っかっていったことのように思う。長く働いた会社を去り、新しい職、新しい場所、新しい人、ここに縁を築いていくのは容易ならざることだろう。そして会社を終えて帰宅すると自分で買ったとはいえ、一人暮らしの一人だけの部屋。休みの日に近所を歩いても、挨拶を交わすような人も居ない。忙しく、絶好調の時には気が付かなかった現実を目の当たりにしたのかもしれない。とにかく、私に会いたいなんて言うこと自体、友人は相当参っていると想像するよ。
2011年01月05日
今日は久々に社宅時代に一緒だった、リー君のママNさんとランチをした。Nさんには男の子が二人いて、長男リー君は、うちの長男壱男と同級生で幼馴染。幼稚園まで一緒で今年から小学校はそれぞれの学区域に通う。次男はタックンでリー君とは年子。今日はタックンのおはなし。 タックンは幼稚園就園前から、ちょっとほかの子とは違っていた。まず、言葉が遅れていた。あとはなんとなく、みんなと違うという印象を誰もが感じていた。当時のNさんはなんか心が荒れていて、社宅でも近所でトラブルを抱えていた。 その後社宅が取り壊しになって、うちは子供たちの通う幼稚園のあるS町に引っ越して、Nさんは同じ幼稚園だったので、やはり幼稚園の近くのN町に引っ越していった。その後も幼稚園が同じだったこと、共通の友人がいたことで私たちの交友は続いていた。 そのNさんと今日久しぶりに再会した。そして次男のタックンについて語った。タックンは3歳児検診で言葉の遅れを指摘され、行政の開く育成室に通っていたこと。そこでタックンのIQが平均的な子供のIQにわずかばかり届いていないこと。その育成室で発達に問題を抱える子供の教室を知り、そこにずっと通っていたこと。そこでIQが伸び始めたこと。タックンは来年度就学予定だけど、育成室に通っていたことが原因で普通学級か特殊学級か、を決めるために何度も医師の診断やカウンセラーの診断を必要とされていること。そういう、3年近くに渡る苦しかった胸のうちを語った。 Nさんは言った。「うちはものすごい財産をタックンに残してあげられはしない。だからこの子が自立できるように育てて生きたい。多くを望まなければ、それはできるはず。親が諦めてしまったら、この子は伸びていかない。」と。Nさんはどうしてもタックンを普通学級に入れたいと、望んでいるワケではなかった。どちらでもいい。最終的にタックンが曲がりなりにも自立出来る道を望んでいる。 Nさんは凄く落ち着いて地に足が付いていた。「子供がどうであれ、親がどうどうとしていれば何も問題は起きない。」と、御自身を確立され立派に成長されていた。この誰にも語ることのなかった数年間の間に、悩み傷つきながらもそれだけでは留まらずに、タックンには教材を買い、それを工夫し、タックンとの取組みを毎日こなしてきて、それが年少のとき話せなかった子が、卒園を迎えるにあたりひらがな、カタカナの読み書き、そして10までの足し算もこなせるまでに至った。それと同時に長男とはやはりその成長の速度の違いについても、冷静に受け止めていた。 今日のNさんには何か一区切り付いたというか、何か一山超えた、そういう感覚を私は感じた。そして人というのは変われる、変わるものだと思った。
2010年11月29日
お久しぶりです。最近テレビでNASAの宇宙飛行士の山崎直子さんのインタビューを観た。 もともと山崎さんは私の中で、なぜ母が宇宙に命を賭けて行く?、っていう大きな疑問を抱かせた人で、決してオンナの人なのに、結婚しているのに、子供がいるのに、こんな偉業を成し遂げたスゴイ人ではなかった。むしろ???ぐらいな感じだった。 その山崎さんがNHKの昼のトーク番組に出演していた。そして司会の局アナに賛辞を浴びながらも、照れとはなんか違う冷めたうかない様子で自分のことを語っていた。画面からは、今までの宇宙飛行士が大きな感動と興奮とともに、自らを語るのとは一線を画しているように見えた。で私はものともと気に入らないオンナってことで、斜に構えて聞いていた。 画面が 「離婚の危機を乗り越えて」云々みたいな字幕に切り替わった。えっと思って観ていると、山崎さんは過去に夫婦の危機があったと語りだした。(まぁだれでもあるけど。)それも淡々と。ご主人はもともとご自身のお仕事があって、それを辞めて山崎さんとともに渡米をされたという。渡米後もなかなか宇宙飛行士にはなれずに、ソ連から宇宙に飛ぶしかないと考えて、ソ連で宇宙飛行士の訓練を受けたりと、今回宇宙飛行までの道のりは長かったようだ。その間、長女の出産を経験された。そのすべてをご主人が主夫として山崎さんを支えてきたらしい。山崎さんは「家族を宇宙飛行士に持ったのだからあたりまえ。」と当時考えていたと話されていた。 そして夫婦は危機を迎えてしまったらしい。第3者を入れて話し合った末、今現在のご家族があるとの話だ。なんかこれを語る山崎さんがちっとも明るくない。明るい話でもないけど、なんか乗り越えていない感じ。じゃあ、話さなければいいのにとさえ思えてしまった。しかもNHKでだよ。 山崎さんのような才能ある女性。東大卒だし、頭はいいし、顔もスタイルも悪くない。そういう誰もが羨むオンナの闇に触れたような気がした。「私は宇宙飛行士になりたい。」「私は宇宙に行きたい。」これがこの人の才能であり闇だと思った。宇宙の前には、母であること、家族を持っていること、すべてが負けてしまうのだろう。 宇宙に行けてその名を歴史に刻むことができれば、母や家族などは取るに足らないものかもしれない。山崎さんは才能があるのだからやればいい。そういう考えも世の中にはあるだろう。 山崎さんはスペースシャトルの中継画像では、テンション高く高揚していた。それと同一人物かと疑うほど、この日のNHKでは落ち着いていた。というか引いていた。そして私はこの人を見ながら、いろいろ言うけど世の中は公平なのだ思った。 山崎さんのように、才能があって、普通の人には決して成し遂げられないような事が出来ても、この人には普通の主婦になることが出来ない。才能あるがゆえに主婦になれないというのではなくて、子供を育てていくこと、家庭を切り盛りしていくこと、家族の明日を考えて今日を生きていくこと、そういうことに興味が持てない。そこに収まれない。ここに山崎さんの痛みを感じた。こういう人にも欠点もコンプレックスも十分神は与えている。 最近テレビを大画面の薄型もんに変えてから、かなり視聴している。そして世の中には結婚して、子供もいて、美人で、頭がよくて、仕事にすべてに成功している、というオンナが多数いるようだ。これを観るとさ、私が10代だったら絶対自分はこうなる、夢を実現させるとか突っ走っちゃうと思う。でもさすが、46歳にもなると違うね。結婚して、 子供もいて、美人で、頭がよくて、仕事にすべてに成功している、なんてことは不可能何だということを知っている。みんな24時間だし、一日の3分の1弱は寝ないと駄目だし、食べないワケにはいかんし、家族がいればいろいろ面倒もあるし、風呂にも入るし、って時間は掛かる。何かを取って何かを捨てなければ成立しないよ。その優先順位のつけ方に悩むのだろうし、その自分の出した結果のフォローに対価を払っているのだと思う。 テレビはこういう事実は報道したがらない。美人で、なんとかでとにかく完璧、スゴイ!、みたいな部分ばっかし引っ張り出してきて報道している。またそれを観て鵜呑みにする方もちょっとね。だから山崎さんのインタビュー番組を見て驚いたのよ。あなたは完璧!的な人として、放送されてもよかったのにって。何も自分の見せる必要のない事実を全国放送で流さなくてもよかったのにって。これを勇気ととるか、なんととるかはわからないけど、あなたも私も同じ地球に住むオンナとして、身近にはかんじたかなぁ。
2010年11月28日
お久しぶりです。今まで何をしていたかと言うと…、普通に母ですが…、ちょっとイロイロと状況が変わってきました。 なんか私の周りに人が寄ってきました。45年生きていてあまりなかったことです。 その周りの人となんかするっていうことを12月からやってました。別にたいしたことじゃなくって、子供のお楽しみ会を12月のクリスマスから、2月と続けてやってました。それと、長男壱男の卒園が迫っていて、それで年長さんママ達とのランチ会の幹事とか。そういうことをやって結構忙しくしてました。今までの私にはなかった出来事を体験してました。 それで結構良い出会いもあってお友達が出来ました。これもごくごく普通のことですが…。子供抜きでもこれからもお付き合い出来るようなお友達。 今までと違って随分と家を出て、人に会うようになると、やっぱり人の中で傷つく…、そんなことがありました。そういう傷は自分が弱いからだってずっと思ってて、ブログに書いたり、亭主に話したりして癒そうとしてきましたが…、最近、SEX AND THE CITYを全部観て、主人公達がそれぞれ満遍なくその人生で同じように傷つき、つまづいてそれをオンナ同士の友情の中で癒していくのを見て、これがなんてぇことはない王道だということに気がつきました。誰しも、安全地帯を出れば傷つくことはあるし、そういう傷は特にオンナ相手についたものは、オンナ同士の友情の中で癒していくのが一番だと、45歳にして納得がいきました。 去年まで私を惑わし続けていたYH姉妹ですが…、どういうワケか姿も見かけなくなりました。と、同時か不明だけど私の頭の中からも消え去りました。元気でシアワセで居てくれれば結構です。 前にもここに書きましたが…、私は長いこと自己実現こそ人生の意義、生きる意味と思って生きてきましたが、ここ四十路にてすっかり気が変わり、人生に意味を求めること事体無意味という方向に転換しました。理由はわかりませんが、かつてマドレボニータさんで散々「自分の使命」を問われた過去があって、その時に「どう考えても、そんなもんは見つからない」という結論に至った、という経緯があってどうもそこから今に至ったようです。ここから発展して「働く意味」を問うこと事体無意味ということになりました。カネの為、生きる為、それが働く意味で意義で十分でないかと。それで子供にそう伝えています。 最近、ずっと巻き髪してます。化粧もしてます。少し太りました。 今の家に越してきて丁度2年立ちますが、すごくこの2年間で自分が変わったと実感しています。実はホメオパシー止めました。これがなくても生きていけるからです。長男壱男は今月一杯で七田をやめます。やっぱり七田がなくてもやっていけそうだからです。弐助ちゃんはまだ続けますが…。 いろいろ掴んでいたものを手放しました。随分と本も捨てました。齋藤澪奈子さんの本も捨てました。スピリチュアル系の本も捨てました。 それで目の前の現実を受け入れたのかもしれません。さぁ、どうなるのでしょうか。
2010年02月28日
インド人と裁縫をしてみて、私は日本はなかなかいい国だと思う場面があった。そう、なかなかいい国なんだよ。 前にも書いたけど、インドはカースト制度っていう身分制度がある。これは生れ落ちた身分は一生変えられないっていう制約があって、カースト事に職業も割り振られていて、インド人の大半が身分の低いカーストに属していて、cheap labor低賃金労働者として働く。農業、肉体労働、メイド、被服の仕立てといった職人仕事も、低賃金労働者の仕事となる。だから低賃金労働者は汗だくになって悪条件の中で、労働してもそのほとんどは搾取され、自分の手元には入らない。うちの亭主に言わせれば、だからナノみたいな安い車ができるんだよ、という。 その結果、インドは日本に比べて生活物価は安く、カーストの上位に属する人達とっては、安価でメイドを雇え、自分は自分の思う仕事をして人生をエンジョイできる、過ごしやすい国になる。そして日本は物価の高い、特に日本人の手による仕事は高く、機械でする仕事は安い国になる。しかしインドより安全で治安がよく、街で悲惨なことを目撃する機会が滅多にない国でもある。日本においてインド人はインド独特の因習から解放され、そのカースト制度からも開放され、非常にのびのびと過ごせると話す。また女性の一人歩きを良しとしないインドの風習からも開放され、一人歩きを楽しんでいると言う話も聞く。 今回、初めてこの日本と多くの違いを持つインド人と裁縫をしたんだけど、ここで日本の教育って悪くないっていうか、なかなかいいじゃないって思った。と言うのは、インド人はお金持ち持ちに生まれたら、「あなたは勉強だけしていればいい」って親から教育されるらしい。学校でも勉強以外のことはしないようだ。その点、日本は家庭科、今は生活科っていうのか知らないけど、小学校から男子も含めて針と糸を持ち、包丁も持つ。ここでやったからといって全員が全員家事が出来るというワケじゃないけど、最低限の知識は頭に入る。っていうか、ここで大事なのは、国が「自分の事は自分でやる国民を育てよう」としていること。ここに私は良さを感じた。 今はお金を出せばなんでも手に入る時代だけど、それでも尚小学校の教育の中に針と包丁を入れているのは、国民全員に自立を目指して欲しい、そういう国民のいる国家を目指している、ってことかなって思った。お金で解決するだけじゃなくて、自分で汗して解決する、結論を得ることへの尊重を感じた。 中国でも学校で洋裁も調理もやらないそうだ。で家庭で教えているのかと思えば、一切やらないそうだ。注文服は10円とかそういう安価な値段で出来るし、外食も安いからだそうだ。そういえば、中国人は朝ご飯は外食するっていうのをテレビで観た事がある。なぜ安いのかと言えば、労働による賃金格差が大きいことにほかならないだろう。共産主義体制ににも関わらず搾取が行われているはずだ。これはいいとして、中国は国民に日本と同じような自立を目指して欲しい、とは考えていないと考える。 今世界経済の中で勢いのあるのは中国とインドで、インターナショナルスクールで成績のいいのは、インド人と中国人だという噂がある。まぁ、事実だろうね。でも日本も全然負けていないよ。というのは、日本は安定している。これは大きな強みだと思う。最近日本は大きな政権交代起きて過渡期に入ったけど、現状国民の間に横たわる格差を縮めることを課題に、変わって行こうというトレンドを感じる。格差を縮めようと日本は考えているのだ。これに対して中国、インドは格差ありき、で経済拡大路線を進めている。 今、中国は国家拡大政策をとっていて、海外、特に日本に漢民族を多く送り込んでいる。そしてどういうタイミングか日本は外国人参政権法案を通そうと、政権政党である民主党は動いている。ここに中国の裏からの思惑を感じるんだけど。とにかく私の周りにもぞくぞくと中国人は増えている。と同時に韓国人も増えている。それは肌で感じるほどの多さだ。中国政府は政策をドンドン進めながら、自身のリスクとも戦っている。そのリスクとは情報に他ならない。なんの情報かというと本来は中国にはいないとされる、搾取だけされている低賃金労働者の存在。 中国の地図を見ると空白地帯の多さにビックリすると言う。こういう空白地帯は軍事施設で国家機密という名目になっているが、事実は世界のバッタもんを作っていると工場に違いないという噂がある。こういう場所に低賃金労働者が隔離されて働かされているに違いない。何に隔離されているかと言えば情報。自分が搾取されているという情報。 この状況はインドも同じ。ITで才能を認められた人はそれなりの給与が保障されるらしいが、身分を乗り越えられはしないと聞く。こういう人が外国に出て自国の現状、自分の出自の現状を良く知って、これが人権問題と照会して正当なものなのかどうかと動き出した時、インドも中国も暴動が起きてもおかしくない。両国とも核保有国だ。非常に危険だ。 日本は同和とか確かに差別は存在する。しかしそれが暴動に及ぶほどの火種はない。この安定感こそがなかなか得難い物ではないかと思う。去年から派遣労働者の首切り問題が露呈して、こういう人達がどうして生まれたのか、どうやって救済したらいいのか、真剣に向き合う人達が多数いる。ここに国の救いを感じるし、ここに安定の底力を見る。 日本は今まで移民政策をとって来なかったことを、非難されたことがあったけど、だからこその今の安定ではないかと思う。移民政策、難民受け入れと言えばなんか国際貢献的な色合いが出てくるけど、実際に移民してきた人々は受入国で低賃金労働者としての扱いを受け、搾取され、決して良い目を見てきたわけではないのが事実。全員が全員じゃないけど。 日本は戦争に負けちゃったけど、それはそれとして、自分の事は自分で出来る、やっていこうとする国民を育て、全く平等とはいかないまでも、搾取される側と搾取する側っていう大きな両極は作らなかった。これだけでも大きな財産を持っていると私は思うんだ。負荷が少ないっていうことでもあると思うんだ。なかなか良い国だと思うよ。
2009年11月21日
ここでいろいろわかったことは、日本人は得意か不得意かは別として、小学校から針を持つことが授業に組み込まれていて、中学、高校と普通科に進学しても洋裁の一つか二つかは、こなして成人する。まぁ、だから男子でもボタン付け、簡単な繕いもんぐらいは出来る。中国はこういうことは学校ではやらない。理由は注文服が日本と違って段違いに安価で出来るからという。でインドはカーストが上でお金持ちに生まれたら、勉強だけしてればOKの人生なんだそうだ。家事一切はメイドまかせで、注文服は格安、繕いもんも格安で外注出来るという。だから日本に来たインド人はメイド連れか、もしくは生まれて初めての掃除、洗濯、料理、買い物を経験している。 話は戻って、私達はインド人母を巡って幼稚園と話し合いを持った。「裁縫歴0の人に無理なんじゃないか。」と、「インド人母の分は外注に出しても良いか」と。これに対して幼稚園側の回答は、「外注は禁止。どうしようもない場合は裁縫の得意な母を紹介するので、その人にやってもらう。」というものだった。それでインド人母にも意見を聞いてみた。「私に衣装を完成できるかどうかなんてわからないわ。私は衣装作りを楽しみたいの。やってみたいわ。今日のようにぴったりくっついて、あれやってこれやってってやられたら、緊張しちゃっていろいろと心配しちゃったわ。」などと言う。楽しみたいって何?。あなたのやり方でやっていたら期限が守れないわ。今日は2時間しか時間がなかったのよ。と言いたいのを我慢して、「あなたを教えている間、教えている人は何にも出来ないのよ。」と事実を伝えた。これで少し相手あっての自分ということが理解してもらえたようだった。この話し合いでもう少しインド人母の様子をみることで、話し合いは終わった。 そして次の説明会の日、インド人母は随分と頑張りを見せてきてくれた。肩と脇を縫って、見返しの肩も縫ってきてくれた。あの使いづらいミシンで頑張ってくれた。私達は嬉しかった。これでうまくいくかもしれないと思った。そして数日後幼稚園から次のようなオファーをインド人母は受けた。「年少の遠足の翌日のお疲れ休みの日、副園長先生が衣装作りを見てくださいます。」と。裁縫歴0のインド人を入園させて、しかも日本語が出来ない人を交えての私達の苦労を幼稚園は分かってくれた、と私達は喜んだ。当初このオファーにインド人母は拒否を示したが、私達が自分達のこともやらずに手取り足取りやっていることを理解して、行くことを了解してくれた。 これでなにもかもうまくいくと思っていた。と思っていたらなんと、「私は先生達と衣装作りをやっていく」、とインド人母は言い出した。先生達って誰?。本来衣装作りは母達に任された仕事で、先生達は舞台装置作成やらなにやらで、毎晩残業続きで忙しいのが事実で、先生達は衣装チェックはするけど衣装作りにはノータッチというのが、今までの不文律のお約束。日本人母達はこの空気を読めたが、外国人のインド人母には読めなかったらしい。インド人母は放課後に先生数名と(先生達は全然洋裁はわからない。)洋裁上手な母をお抱えにして、上機嫌で衣装作りを進めていた。私達としてはグループの一員が、先生にまで衣装作りの負荷を波及させたことに対するすまない気持ちと、このインド人母がどこまでも自分の都合の良い環境で、都合の良いやり方をつらぬこうとする姿勢に不快感を覚えた。そして、もうひとつ大きなことに気が着いた。「この人、日本語わかる」って。ここに私は大きな裏切りを感じた。 インド人母は今の今まで「日本語わっからない。」で、自分の子供のことまで私に「あなたが先生に伝えて」という態度できた。この態度をおかしいと私は感じながらも、外国で暮らすことの大変さ、外国で子育てすることの大変さを、自分の留学経験から慮ってインド人母を助けてきたつもりだった。しかし、少しづつだけど私を便利扱いするような態度が見え始め、実はひらがな、カタカナの読み書き出来ることがバレ、先生達と衣装作りが日本語で出来ていることを目撃され、「この人は日本語わからない、と言えば日本人が丸ごと助けてくれる、っていうことをどこかで学んでそれを利用している」っていうことが、ここに至ってバレ始めた。なんというしたたかさ、なんという人に対する感謝のなさ、私は自分の御人好し加減も相まって、一人落ち込んでしまった。 しかし落ち込んでばかりもいられないのが母の日常。他の人の衣装作りの進捗を計りながら、自らの作業も並行し、皆をリードしていかなければならない。スカートの丈、リボンの付け位置、レースの付け位置など、決めなければならないことは山ほどあった。こういう決め事は説明会で決定し先生に報告する。だからグループの人には説明会に出てもらわないと困るのだ。「自分は先生達と衣装作りをする」と独り決めしたインド人母は、当初にメモに書いて渡した日程どおりに説明会に来なくなった。理由は「誰も私に言わなかったから。」。この理由にさすがの私も怒った。私はあなたの秘書じゃないんだから、いちいちあなたのスケジュール管理なんてしない。そして怒りついでに「誰もあなたの衣装作りを肩代わりしないわよ。」と、電話で言ってしまった。 ここまで来るとグループ進行役の母達までも、呆れてしまって「riccaさんは言葉が分かるから余計にストレス溜まるのよ。もう、彼女とは日本語で行こうよ。」と慰めてもらった。その帰り道になんとまぁ、幼稚園の正門からインド人母、彼女の衣装作りを助ける為に幼稚園から要請を受けた洋裁得意な母、それを見送る先生達が出てきた。インド人母の顔は晴れ晴れとしていた。私に気が着いた先生は、「衣装は全部仕上がりましたから、安心してください。」と仰った。私は先生のご苦労を思って頭を下げた。そしてこの時期御自分も多忙なはずの洋裁得意な母にも頭を下げた。他の人までうちのグループの事に巻き込んでしまったことに、謝りたかったからだ。そして本心ではなかったけどインド人母には、「次回の説明会には来て下さい。」と頭を下げた。来てくれなければ困るから。子供がお遊戯頑張っているクリスマス会を成功させたいから。私が下でに出て頭を下げてもらったのが、優越意識をくすぐったのかインド人母は満足げに見えた。 この日以来、私は英語を話すことを一切止めた。正直に吐露すれば、錆付いていた私の英語をブラッシュアップさせる為に、インド人母を利用するという気持ちも少なからず私にはあった。何も純粋にインド人母を助けたいという一心ではなかった。しかし、相手は私よりしたたかであった。私が日本語に切り替えてから、インド人母も英語を使わなくなった。当然、私に文句も言ってこなくなった。文句を言うほどの日本語力はないはずだからだ。 このインド人母一人を見て、全てのインド人母がこうだとは思いたくない。しかしインド人の多い私の街にはこういう噂がある。手伝ってあげても、やってもらって当たり前、してもらって当たり前になっちゃうからインド人には気をつけたほうがいい。というのを私自身が身を持って体験してしまった。この私の体験を日本の永住権を持つヨーロッパ系白人のエリーさんに話すと、「インド人はお金持ちに生まれたら、勉強だけすればいいと親に言われて育つ人は多い。なんでも人にやってもらって当たり前という人は、インド人に限らずどこにでもいる。自分の子供のことは自分が日本語が出来ようと出来まいと、自分で働きかけなければいけない。」となかなか大人な御意見。 もう一人同じインド人の年長の母に話すと、「responsibilityの問題です。自分の子供が通っているのですから、分からないことは自分で聞きます。」と。このインド人母は私や先生によくわからないことがあると質問した。年少のインド人母は滅多に聞いてくることはなかった。先生からの連絡もわかっているのかどうか、先生自身が不安がっていた。先生が日本語で何を言っても「ハイハイ」と流していたからだ。幼稚園のお手紙は日本語のわかるダンナが読んで、インド人母に伝えているようだった。それを感じて私は先回りしてインド人母に英語で伝えていた。これが良くなかった。 ここで改めて思ったのは、日本人は優しい。日本語が出来ない人に優しい。これが英国なら英語が出来ない人は幼児扱いだし、役所でも駅でも学校の窓口でも肩を竦められて相手にしてもらえない。英語の読み書きが出来なければ、まともな応対は受けられない。そういう厳しい面がある。でも日本では「あらあら大変。じゃあ、私が替わりにやってあげましょう。」、みたいなことになっちゃうんだろうねぇ。でそれに乗じる外国人もいるってことね。 子供の頃に天気予報見てて、「はろう注意報」って言うのが意味不明だった。波浪って漢字がわからなくて「hello」だと勘違いしてた。しかもかなり長い間。それでこういう風に解釈していた。外国人が日本にたくさん来て、みんなが日本人にいっせいに「ハロー」って声掛けするんだと思っていた。小さい頃住んでいた街に米軍キャンプがあって、アメリカ人の子供の乗るスクールバスが目の前を通ると、バスの中からみんなハローって声掛けしてきて、私たち日本人の子供達もハローって返したから。 それで私の今住んでいる街は本当にハロー注意報になっちゃったってワケ。そんぐらい、インド人が沢山住んじゃっているワケ。私は少しインドに疲れた。
2009年11月21日
10月10日の父母会の日から、今日現在に至るまでの一月半程、私は来月行われる幼稚園のクリスマス会の衣装作りに追われていた。今年のはなんと言っても、年長の壱男と年少の弐女との2着作らねばならないのが、頭の痛いところ。まぁ、裁縫は嫌いじゃないけど、子育てしながらの針仕事は、なかなか骨が折れると言うのが事実。それともうひとつの頭の痛いところは、年少の方にインド人母がいること。この人はカーストの上の方の人だから、針仕事は一切やったことが無い。こういう人に英語で裁縫をアプローチすることは一苦労に違いない。で、今日はこのインド人と衣装作りをしながら感じたことを書いてみたい。 うちの幼稚園の衣装作りは区内でも有名な程すごい。どうすごいかというと、先生は先に書いた10月10日の父母会の前日に、A5版の紙にデザイン画とも言えない、漫画を描いたものにスペックを書き込んで、子供達に渡す。これを頼りに父母会当日に母達はグループリーダーを決め、作業日程を決め、デザインを先生と打ち合わせて、衣装作りは始まる。この時、衣装の関してのパターンは一切ないので、衣装作りはパターン起しから始まる。パターン起しなどと言う専門めいた作業は、洋裁を専門的に学んだ人でないと出来ない作業なので、その専門作業の出来るわずかな人にみな謝礼を払ってお願いする。私の年少、年中グループ共にそれをやった。そしてパターンだけもらっても作れないので、作り方説明所付きでパターンを起こしてもらった。そう衣装作りは時間も手間もお金も掛かる。 年少グループは10人で、そのうち私のように上に子供がいて、過去に衣装作りを経験した母達が皆をリードしていくことから始まった。10人中、3人の経験者の母。10人中3人が外国人。内訳は一人インド人、二人中国人。インド人は日本語がほとんど理解できない。中国人はある程度は理解できるけど、裁縫関連のボキャがあるとは思えない。この外国人達を丸ごと面倒見るっきゃないかも、と言うのが経験者の母達共通の感想。 近くのコミュニティセンターを借りて、衣装作りが始まった。初日からインド人母は遅刻。しかもその日の朝、今日持っていくものをきちんと書いたメモをもとに、(但し日本語だったけど私は全部英語で伝えたよ。)連絡事項を伝えたにも関わらず、忘れ物多数。前日に伝えた「見返し部分のパターンを別の紙に写して切り抜いてくること。」、といった宿題をやっていなかった。中国人はやってきた。 この日はコミセンは2時間しか借りていなかったので、英語が出来るのは私だけなので、インド人母に付きっ切りで作業を始めた。そしてインド人母の開口一番がこれ。「インドではこういう衣装は学校が、子供のサイズに合わせて全部買うの。私達は何もしなくていいの。」と言う。一体何が言いたいのか、私の文句を言っているのかとも思ったが、時間がもったいないので無視。 まず、布を中表に折って布目の方向から説明する。そしてパターンの置き方。パターンを布に起こすこと、縫い代を描くこと、布を切ることを早口で説明する。そして時間内にある程度の成果をあげて帰ってもらいたいと考えた。インド人母は作業を開始した。非常に不器用そうなピン使いだった。こういう手作業になれていない、おじさんの針仕事を連想させるような指使いだった。 実はこの日の数日前に先立って、一度靴作りの説明会を開いていた。この時インド人母もやってきて、今回に向けて購入したと言うミシンを見せてくれた。これが残念なことにとても使えないような、通販で売っているような3000円のコンパクトミシンで、とてもじゃないけどミシン初心者が使う代物ではなかった。本人は小型の方が使い勝手がいいと考えて、購入したと話す。せっかくなのでミシンはこれで頑張ってもらおうと、仲間内で納得し本人には本当のことは言わなかった。そしてインド人母の持ってきたチャコを見て再び驚いた。昔ながらのチャコだった。これは初心者には操りづらい代物。だからインド人母と初心者母にはチャコペンシルの購入を勧めたにもかかわらず、インド人母は鉛筆削りが面倒だからと、昔ながらのチャコを購入。どうもインド人母にはなにかと裏目に出る。 そのチャコと格闘しながらなんとかインド人母は、パターンを布に写した。そして裁断。こういう時は裁ちばさみじゃなくてピンキングばさみが有効。でどういうわけか、このピンキングばさみは堅い。そして重い。使いづらいのが難点。ここまで我慢を重ねてきたのか、インド人母の不満が沸騰し出した。「はさみが重い。」、「はさみが堅い。」、「手が疲れる。」。段々インド人母が不機嫌になってきているのが、隣にいてよおくわかる。確かに仰る通りなんだけど、みんな同じ条件でやっていて文句を連発するのは、この人だけ。中国人は黙ってやっている。 そしてコミセンに部屋を返す時間まであと10分という所まで来た。インド人母は頑張ってくれてなんとか裁断終了。これで来週の説明会まで何もしないでOKというワケにはいかないので、裁断した布を組み立てて全体像を把握してもらって、次回までに肩と脇を縫って、見返しの肩を縫ってきて欲しいと説明した。勿論、英語で。 インド人母は疲れたせいもあるんだろうけど、モウレツ文句を言ってきた。「私は初心者よ。説明書は全部日本語で全く理解できない。(説明書は絵の説明がほとんどなんだけど。)私にはこれを作るのにガイドがいるわ。週末に縫うなんて出来ない。子供が寝た後に縫うなんて出来ない。」と。私は理不尽な文句を飲み込んで、「Pleas,make time.」というしかなかった。 そのガイドって私のこと?。あなたのガイドをやっていたら私はいつ自分のことをするの?。説明書を英訳しようと思ったけど、ファッションのボキャがなくて、辞書にものってなくて出来なかった。それでも前日は辞書を引いてあなたの説明に臨んだのよ。と言いたいのを我慢した。争うことはグループ全体の進行を妨げると考えたからだ。 しかし今日のインド人母を見ていて、私と一緒に進行役を務めてくれている母達から、インド人母に裁縫は無理なんじゃないかという意見が出てきた。こういう忍耐と技術がいる作業を、裁縫歴0の南国の人がやるのは無理があるのでは…という考え。確かにねぇ…、日本人だって難航するしねぇ。
2009年11月21日
YH姉妹のことを久しぶりに書いたら、フランシスさんから「児童相談所に相談したら」という書き込みを頂いて、やっぱりここか!、ここしかないか!、あまり事を荒立てることを好まない私であったが、(割と革新なんだけど平和主義)思い立ったが吉日とばかりにすぐに電話をした。 電話だったし、幼稚園のお迎えの時間も迫っていたことだし、で手短にYH姉妹のことを児相に話した。私がいう所のYH姉妹のお行儀の悪さについて語ったところで、児相員は「母親の手が掛かっていない感じなんですね。」、と私の言いたい所を上手に汲んで御理解頂けた感触を持てた。YH姉妹は決してお育ちの悪い子供達ではなくて、ただただ親の放任故お友達とおやつを囲む時、お友達におもちゃを借りる時、お友達とけんかになった時、本来は親がついていていろいろ教え授けるべき所が、自由奔放のやりたい放題になっているだけ。ただ、残念なことにこういう基本的なことを教えて、素直に子供が受け入れる時期はとうに過ぎてしまっている。つまり子供にとって大切な時期に、親の手が掛かっていない子供達なワケ。かわいそうなのよ。 で児相員が最も興味を示したのが、母親がいつもいないこと。特に夕方誰もいないぞうさん公園で姉妹が母親を待っていること。「母親は何時ごろ帰ってくるんですか?。」「どのぐらい遅いんですか?。」とかなり突っ込まれた。これが育児放棄とかネグレクトとかの何に当たるかは、私にはわからない。しかし、これからどんどん日が暮れるのが早くなるのだから、ぞうさん公園で子供を待たせることはストップさせたい。 そして、シルバーウィークでYが怪我をして、私に声を掛けてきたことも話した。そしてこの時「YH姉妹が他人に愛情を求めてきている」、と私が感じているというという私見に対しても、理解を示して頂けた。 今まで保健所、YH姉妹の通う小学校と相談してきたが、半年たった現在あまり目だった改善は見れない。つまり誰もYH姉妹に対して注意を払っていないということだと思う。今年の春まではYH姉妹に対する私の感情は、あくまで被害者意識が強かった。大人として情けないけど。今は変わって同情と心配が交錯する。愛情に飢えたYH姉妹は、将来にせの愛情でもきっと飛びついてしまうと推測する。それが悪い男だったり、悪い団体だったとしても分からないと思う。それがどう考えても悲しすぎる。 最後に児相員は「これから、児童の調査を始めます。もしこの期間にでも子供が危ない状況を発見したら、いつでも連絡してください。」と結んだ。これは非常に有り難いことだと思った。これからは時系列を明確にして、母親不在の為にぞうさん公園に放り出されていたら、児相に連絡して証拠を積み重ねていけばよい。 今日思い切って電話したのは、フランシスさんからの御提案というのもあったけど、もし、私が明日死ぬとしたら今できることはなんだろうか?、という視点に立って考えた結果のことでもある。YH姉妹のことを一番に思っているのは御両親に違いないけど、ちょっと皆さんと視点が違ってずれているように思う。学校も保健所も動いてくれない。このままいけば、必ずや人にだまされたり、傷つけられたり、おかしな団体に勧誘されたりという、不運が待っていそうだ。それを分かっていて見過ごすのは良心が咎めたからだ。 何か変わってくれることを期待する。
2009年10月07日
久しぶりにYH姉妹の話。9月のシルバーウィーク中に近所の公園に行った時、YH姉妹に出会ってしまった。過去のいろいろな出来事から、私は子の姉妹とは関わりを持ちたくない、という正直な気持ちがある。 Y「壱男ちゃんママ、 見て見てYはお怪我しちゃったの。 血が出ているの。」、と私に足の親指のつめが少し割れて血が出ている様子を見せた。小学校3年生のYは私に手当てを求めていた。今にも逃げ出したい私は、「お家に帰ってママに手当てしてもらったら。」。Y「ママはお出掛け。」私「じゃあ、パパに手当てしてもらって。」Y「パパもお出掛け。」私「えっ、そうなの?。 鍵は持ってきたの?。」いつもYH姉妹は親の外出で、うちの前の公園に放り出されて、そこで親の帰りを待つことを余儀なくされてきた。その時に子供らしい寂しさから、私達に「一緒に待って欲しい」と頼まれて待った。でもあまりに度重なって私は嫌気を刺していたので、また子の日もこの姉妹に巻き込まれるんではないかと、気を揉んで思わず聞いてしまった。 Y「今日は鍵は持ってきたよ。」私「そう。 でもごめんね。絆創膏も何も持っていないから、 どうすることも出来ないの。 自分達でお家で手当てして。」年長の壱男と年少の弐女を公園に置いて、この姉妹の為に家に戻ることの出来ない私は正直に断った。Y「じゃあ、いいや。 S町コミュニティセンターで手当てしてもらう。」と言って走っていってしまった。当然この結末に私は安堵した。 数日たって、小学生の子供を持つ母との会話で、こんなことがわかった。S町コミュニティセンターで傷の手当てといったサービスはやっていないこと。YH姉妹の通う小学校ではちょっとした傷では、子供達に絆創膏は渡さない約束になっていること。それであの時のことを振り返ってみると、小学校3年生のYは傷の手当てというよりも、ふれあい、ぬくもりを求めていたんだということに気が着いた。自分の痛みを感じてもらい、やさしく手当てされて安心したい、っていう子供らしい気持ちを満たしたいが為に、他人の私を頼ってきたのだ。本当は親によって満たしたかったんだろうけど。 あ~、またしてもこの姉妹の悲しい一面を見てしまった。同時に逞しさでもあるけど。でもこの姉妹は愛情に飢えている。これは目に見えて明らかなことなんだけど、なんとかこれを救う手立ては無い物だろうか。母親に私が伝えればいいことなんだろうけど、今まで経過でこの母親に私の言葉が通じるとは思いがたい。また伝えることで腹でも立てられたら、私はここに住みにくくなってしまう。と自分びいきな心配もある。こういう時どこに相談したらいいのだろうか?。今まで学校、保健所と相談してきたけど、埒が明かなかった。誰か御存知なら教えてください。
2009年10月07日
うちの長男、壱男のクラスにインド人のC君がいる。C君は今年の6月から幼稚園の年長さんに転入してきた。その時は日本語があんまり上手じゃなくてお友達が出来なくって、楽しそうじゃなかったけど、今は日本語も上手になって壱男と大の仲良しになった。 今までいろいろと過去にインド人のことは書いた。インド人と日本人との間には大きな違いがある。そこを同じ教室で同じようにやっていくのは、なかなか乗り越えるべき壁が多いようだ。 夏休みの初めに年長さんはお泊り保育って言うのがあって、幼稚園で子供達は1泊する。昼間金魚すくいをしたり、スイカ割をしたり、夜のカレーを作ったり、花火大会があったり…と。幼稚園から通訳を頼まれていた私は、食生活でタブーのある人達にとって、それは犯すべからざるとても重要なことと既知であった私は、C君母とお泊り保育の前に先生を入れて、随分と食について話をした。それで両者納得と落ち着いたかと思ったら、C君母はお泊り保育をキャンセルした。「用事がある」という理由で。 今週の月曜日は年長さんが芋ほりだった。壱男は勿論楽しみにしていたし、他の子供も楽しみにしていた。でC君はというと再びキャンセル。前回と同じで「用事がある」という理由で。 うちでの私と壱男との会話。私「C君、お芋掘り行かないんだって。」壱「うん、C君は行きたがっているんだけど、 ママが行っちゃ行けないって言うから行かないの。」私「えっ、そうなの?。」まぁ、6歳の壱男の記憶だからあんまり信用できないけど、C君ママが用事を理由にC君に、芋掘りに行けないと言っているようだ。 この時私はちょっとピンとくることがあった。あくまでこれは私の妄想に過ぎないんだけど、お泊り保育、芋ほり遠足とキャンセルして、この途中にあった9月の運動会には出席しているのは、食が問題になっているんじゃないかと推測した。あくまで推測。 それで壱男に聞いてみた。私「C君てさぁ、豚肉とか食べられないものが沢山あるのは知っている?。」壱「うん、知っているよ。 食べたらブツブツになっちゃうんでしょ?。」私「違うよ。 それはアレルギーのことで、 C君はインドのお約束で豚さんのと牛さんのお肉は食べられないんだよ。」壱「そうかぁ。 最近C君は壱男ちゃんのお弁当が食べたいって言うんだよ。」私「えっ、何を?。」壱「ソーセージとお魚をね、食べたいって言うの。 でもママが食べちゃいけないっていうから、 我慢しているんだって。」私「頂戴って言われるの?。」壱「お弁当のあげっこはいけません、 って先生とのお約束があるから、それはしないの。」 なるほどね、っと思った。C君は普通の子供のように、お友達が美味しそうに食べているものを自分も食べたいと思っている。それでC君は母との約束と幼稚園の約束を守っている。C君の中でインド人のアイデンティティが培われる時期なんだと思う。それがインドにいたら自然に行われるけど、日本にいて日本人と過ごす時間の長いC君にとっては、少々摩擦を伴っているようだ。 おやつのことでも聞いてみた。私「C君は日本のおやつって食べたことあるのかなぁ。」壱「テレビで観てぷっちゃが食べてみたいんだって。 でもママがダメって言うんだって。」これもなるほどと思った。C君は結構気が強くて自己主張が強いところがある。だから、家でソーセージとかお魚を食べてみたい、と自己主張し始めたのかもしれない。そして日本のおやつも。 普段のお弁当は先生から交換してはいけないお約束があるけど、遠足になると子供達はおやつの交換はする。先生の目も行き届かないから、お弁当の交換もあるかもしれない。C君の母はそれを恐れているのかもしれない。もしくは単純に芋掘りは子供の役に立たないと判断したのかもしれないけど。芋掘り遠足は日本人の子供ににとっては、恒例の秋の行事だけど、インド人にはこの感覚はわからなくて普通。 インドに限らず、食とか日常生活にいろいろタブーのある人達は大変だなぁっと思う。自分達の文化圏だけで生きている時はなんの問題も無いけど、今のように自国を出て外国で生活する場合は、目に見えてそこでの調整というか摩擦が多い。特に子育ては難しそうだ。かたや豚肉や牛肉、魚を食べて平気でピンピンしている人間と、それを口にすることは穢れであり、神への冒涜となる人が一緒に存在する時、子供はこの矛盾に反発してもおかしくないよね。これを後者の民族はどうやって子供に言い聞かせるのか、ちょっとわからないけど。 まぁ、帰国子女を見ると分かるように、日本人だって外国で自分の子供を日本人に育てることの困難さがあるように、インド人に同様の困難さがあるわけだ。でもきっとこういう子供達は日本と外国の架け橋に将来なってくれるはず。こういう子供達が未来の地球を作るんだと思う。
2009年10月07日
夏が終わって秋が来た。ここに至るまでに今年はいろいろよそのお子さんの事で、悩む場面が多かった。そして子供とはいえ、生存のために身に着けたとしか思えないような、悲しい術を目の当たりにして、心を痛める場面も多かった。 まず筆頭に上がるのはYH姉妹。この姉妹は普段から母親が外出する時は、家の前のぞうさん公園で母親の帰りを待つ、という約束を母親からされることが多かった。どういうワケか鍵は渡されない。5時になると一緒に遊んでいた子供達は蜘蛛の子を散らすように、それぞれ帰ってしまう。しかしYH姉妹は帰れない。母親が戻っていないからだ。そこにたまたま私達親子が通りかかるものなら、「一人で待ちたくない。」と言って一緒に居たがる。これもこの子達がどこかで学んだ術。 小さい子供と母親が一緒だと、その子達と一緒に遊んだりして、ちゃっかりおやつを頂いちゃおうとするのも、この子達の術。そしてその母親にあれこれ言って、ボールを持ってこさせたり、遊び道具を調達するのもこの子達の術。 本来ならば自分の母親が子供達が帰る時間には戻っているか、きちんと鍵を渡して(Yは小3)出かけるところ。おやつは自分の母親からもらうもの。遊び道具も自分が家に戻ってとってくるもの。外出の多いYHの母は、子供達にそれ相応の対応をしないで外出してしまうので、母として機能していない。 公園で会った就園児とおぼしき姉妹。M君とうちで一緒に近所の公園に行った時に出合った。M君の母が気を利かして虫捕り網を2本用意してくれた。でもうちの壱男とM君は虫捕りをしなかったので、M君の母は公園で出会ったオンナの子に一本の網を貸した。この子が事あるごとに「ねぇ、見て見て~。」とM君の母を呼びに来る。これがかなりしつこい。「あれ、知り合いの子?。」と私が尋ねると、「さっきここで初めて出会った。」と言う。 そして壱男とM君が残りの網を持っていってしまった。その後にさっきのオンナの子の妹とおぼしきオンナの子がやって来て、「虫網を貸して」とM君の母に要求して来た。M君の母はもう手元に一本も無い事実を告げると、「なんで3本持ってこないの!。」とM君の母に悪態をついた。これを横で聞いていた私はすかさず、「あなたのお姉ちゃんが一本持っているんだから、一緒に遊んだら。」と口を挟んでしまった。 「一体この姉妹はどうなっているの?。」、と思いM君の母にあの子達の親ってどこ?って尋ねると、「多分あの人だと思う。」と携帯でテレビをずっと見ている男性を指差す。姉妹はよその父親にしつこく絡んでいて、その近くにいる父親とおぼしき男性はテレビから片時も目を離さない。自分の子供達がよその網を借りているんだから、父親から一言挨拶があってもおかしくはない状況なんだけど、そんな挨拶は無い。 うちの子供もそうなんだけど、どうも小さい子供って「見て見て病」っていうか、大人から見たら寸極詰まんないことでも自分の親、特に母親に見て欲しがるんだよね。それがこの姉妹はよその親にそれを求めている。近くに自分の父親がいるにも関わらず。この子達は子供特有の見て見ての気持ちを、迷うことなくよその親の承認によって満足させようとしている。これはこの子達が短い人生の中で見につけた術なんだよね。この父親はこの時点で全く機能してない。 M君の母が出合ったオンナの子。実は幼稚園で一緒のクラスの子。その子はいつも一人で公園にいる。母親が公園に置いて来るから。その子は幼稚園の年長さんなんだけど、それを置いて帰ってしまう母親もすごいけど、母親が帰ってしまうのを許すこの子もすごい。 同じクラスの子だから、流れとしてM君と一緒に遊ぶことになる。そして時間が来てM君の母が自分の子供におやつをあげる時、やっぱり流れとしてそのこにあげることになる。当然M君の母は二人分のおやつなんか用意していない。M君もそのこも一人分を二人で分けるのだから、当然足りない。M君は我慢する。オンナの子はM君の母のカバンに手を入れて、おかしを探す行為に出る。それを見てM君の母は慌てる。 人様のかばんに手を入れるなんて、決してやっちゃあいけないこと。私だって自分の子供に私のカバンに手を入れさせない。やったら厳しく注意する。しかしこのオンナの子はどこかで学んでしまったんだと思う。おやつはかばんに入っている。見つけてしまいさえすれば、自分の物になると。そして自分の母親はにこの事で注意をされたことがない。(母親はこの子を公園に置き去りにしているから、この事実を知らない。見ていない。)だから悪いことではないと。このオンナの子はとってもかわいそうだと思う。 今日、公園で出会ったオトコの子。M君、みうちゃんと一緒に公園に出かけた。私達母親はテーブルのあるベンチに腰を下ろした。ふと気が着くと私の横にうちの弐女ちゃんと同い年か(年少さん)、未就園児かなって感じのオトコの子が、1リットルの紙パックのジュースを持って座っていた。人懐っこい子でニコニコしている。それでなんかこちらに話しかけてくる。 少し相手をして「一人で来たの?。」と尋ねたところ、「お父さんと来た。」と言って文庫本を熱心に読む男性を指差す。そしてそのうちオトコの子はどこかに行ってしまった。その子のことなんかすっかり忘れてしまった頃に、近くで子供の大泣きする声がした。見るとさっき横に座っていたオトコの子だった。どこかぶつけたのか、涙を流して大声を張り上げている。それを近くにいた誰かの父親が必死に慰めている。と同時にその誰かの父親はこの子の保護者を目で探している。この誰かの父親は明らかに困っている。 私は振り返ってこの泣いているオトコの子の父親に目をやると、熱心に文庫本を読んでいる。子供との距離5M程度。自分の子供の泣き声が耳に入らない距離とは思えない。この父親にも不思議?を感じたが、同時に大泣きしながらも自分の親に駆け寄っていかないオトコの子にも、不思議?を感じた。オトコの子はこの誰かの父親に助けを求めているように見える。 うちの子供なんかだったら、転んじゃったり、ぶつけちゃったりしたら、その場で泣いちゃうことはよくあるんだけど、そのあと必ず私の所に行く。それで絆創膏を貼って欲しいだの、こんなにひどい怪我をしただの、こんなに血が出ているだのって、さかんに自己主張をする。これをよその親にはそうそうやらない。やっぱり自分の親に聞いて欲しがる。このオトコの子はよその親にこれを求めて、自分の気持ちを満足させようとしている。どこかで学んでしまったことなんだと思う。 子供を育てるのって正直難しい。私もうまく出来ているか全然自信が無い。だからよその家庭のことに口出し出来る立場に無いけど、なんか今日書いたような悲しい術を、生きていく為に、子供らしい欲求を満たす為に身に着けてしまったんだなぁ、っていうような場面に遭遇するたびに、かわいそうだなぁ、気の毒だなぁって思う。 どの子も共通してて人なつっこい。全く無為に私達他人の親に近寄ってきて、悪く言うと遠慮なく、よく言うと天衣無縫に、私達にいろいろ要求して自分を満たそうとしてくる。しかもとても真っ直ぐに一直線にこちらに来る。本来は自分の母親なり、父親に要求する所をね。去年はそれにびっくりしたが、今年は見ていて悲しい。 それでこの子達はやはり遠慮がないのも特徴的で、一度同情してしまうと、どんどんこちらを巻き込んでくる所がある。だからとてもお付き合いが難しい。そして親が子供に無関心というか、放任なのも特徴的で、こちらが例え瞬間的にも、短い時間でも、どんなにかあなたのお子さんに心を砕いているかっていうことが、全く伝わらない。要は他人に自分の子供の面倒を見てもらっている、事に気が着いていない。 この子達は今はまだまだとっても幼くて、自分が寂しいって言う感情を持っていることにさえ、気づいていないように思う。それで無邪気にもその寂しさを埋め合わせる為に、近くにいる大人に寄って行って、自分の気持ちを満足させようとしているように思える。そして満足出来たかどうかも自分では分かっていないんだと思う。それが見ていて悲しいし、心が痛む。しかしどうしていいか分からないのが事実。 きっとこういう組合せの親子が沢山世の中に存在しているんだと思う。どういう風にこの子達が育つのかは、私にはわからない。
2009年09月23日
一つ前のブログに、人と人の格差を肯定する社会とそれを当然とするインド社会とインド人に、私は憤りを感じるって書いたんだけど、書いて冷静になれたのか、ここはひとつ清濁併せ呑もうという気持ちがほんの少しだけど出てきた。 私達日本人は鯨を食べる、鯨は日本人にとって美味しそうな物に見えるけど、ある人から見たらかわいい、愛すべきものという事実がある。その鯨をかわいい、愛すべき存在とみなす人から、鯨を美味しそうと見る私達にものすごく憤りを感じているに違いない。これは単純な習慣、文化の違いでしかない。インド人とインド社会の対する私の憤りは、この鯨を愛する人々の持つ憤りと同じなのではないかと。まりこの程度のもんじゃないかと。文化習慣の違いで一喜一憂するこはあるけど、相手の人格を否定するほどになってしまってはいけないのではないかと。 清濁併せ呑んで、もう少し大人になれと現実は私に問うているのかもしれない。まぁ、それはそれとして、もしインドの格差をなくそうという運動を日本のこの地で応援できるのなら、私は応援する立場をとりたい。やはり、人として生まれたら人として扱ってもらえる社会は、砂の楼閣のようなものかもしれないけど、理想としてもっていたい。地球のどこかで使用人の子供はずっと使用人で、搾取される人は一生搾取されるなんていう光景は、私の心を痛ませる。 日本の野菜は一生安くはならないだろう。米も安くはならないだろう。美容院も安くはならないだろう。洋服の仕立ても安くはならない。それは農家は搾取される人達じゃないし、美容師だって、仕立て職人だって同じだからだ。日本で日本人の手によって行われることは、激安にはなりえない。それでいい。ここら辺がなんか腑に落ちた。 いろいろインドさんには痛い思いをしながら、大人にして頂いているように思う。痛い思いについては次回書こうかなっと。
2009年09月10日
私は日本一インド人が多い地区に住んでいる。普通インド人はインド人幼稚園に行くんだけど、私の子供達の幼稚園に二組インド人がいて、それがうちの子供達、年少、年長それぞれの組にいて、私は今年それぞれの先生から通訳をおおせつかった。 先生たちにしたら日本語を英語にしてくれれば済む、そういう単純なことが通訳とおもっているみたいだけど、実際は日本のことが分からない人に、これはどこで売っている、これは日本だけの物でこういうもの、といったお世話的な部分が多い。そして日本語を英語に訳せば彼らは理解するというものでもなく、彼ら、インド人を、もしくは相手の人となりを理解しつつ、日本語を英語にして理解をしてもらう、そういうことを現実的にはしてきた。私はその中で二人のインド人の母とはそれなりの人間関係を、築いてきたつもりだ。 インドと日本との間には、前にも書いたけど大きな違いが存在する。食べ物が筆頭に上がるけど、彼らは習慣上、宗教上食べられない物が日本にいると多い。私たちと食でシェア出来る部分が小さい。それと最近わかってカルチャーショックだったことがある。それはインドでは人間の区別があること。インドと聞けばカースト制度があるくらいは社会で習った。路上生活者がいることも知っている。ある時、それは私が「知っているだけ」の域を出ていなかったことを知らされた。 インドの母は日本の物価か常々高い、高いと口に出す。日本にいるインド人達はIT技術者だから、お金持ちのはずでしょ、と言う理解があったので彼らの金銭感覚が長らく理解できなかった。*ほうれん草なんか10円よ。*家にはメイドがいて月2000円よ。*日本に来るまで掃除や洗濯、買い物なんかやったことがなかった。*日本は機械がやることは安い。*でも人がやることは高い。*インドには人が沢山いて、みんな家の家事は手伝ってくれます。 こういう母達の言葉の奥がなかなか理解できなかった。人が一杯いる?。日本だっているじゃないの!。手伝ってくれる?、月2000円って何?何でもかんでも安い?。日本は高いっていうけど、パリやロンドンも同じような感じだけど。高い、高い、っていうけどあなた達お金は十分にあるじゃないの!。と私の頭はグルグルし続けた。 それで私は問いただしてみた。「この家事を手伝ってくれる人っていうのは、カーストの下の人のことですか?」と。「そう、cheap laborです。」と言う答えがスラスラ返ってきた。 cheap labor:低賃金労働者。インドではある階層以上の人は低賃金労働者のメイドを雇うのは常識で、幼稚園でも先生は子供を教えるだけで、掃除、トイレ、食事の世話はそれぞれの低賃金労働者が行う。この低賃金労働者は読んで字の如く安い賃金で働かされて、これは一生涯続く。 こういう当たり前の如く搾取されて使役される人々と、当たり前のように人を使用人として扱う人々が存在する。だからインドでは物価が安い。それは円にたいしてルピーが安いというではなくて、農民は低賃金労働者だからほうれん草が10円になり、メイドが同じく低賃金労働者だから月2000円で雇え、幼稚園で低賃金労働者が下働きするから先生は教育だけになり、それとは対極に日本はそういう低賃金労働者ではなく、国民がほうれん草を作るから198円になり、うちのマンション管理の仕事で草刈、共同廊下掃除、公園の砂の手入れ、そういう仕事をする人は国民だから、管理費が1万円を超えることになり、美容院でカットとカラーをすると」1万円を超えてしまうのは、美容師が国民だからだ。私は何にも出来ないけど、インドで低賃金労働に押さえ込まれている人々を思うと悲しい。 私はこのことに気が着いて、「日本は何でも高い。」という母達のダベリに憤りを感じるようになってきた。日本とインドでは社会の作り方に大きな違いがある。日本には低賃金労働者は事実上いない。派遣村の問題がここ数年あるけど、これは行き過ぎた実力主義だったという反省の声も出ている。こういう人と人の格差を小さくしようというのが、今の日本の流れだ。それと間逆をいっているのがインドだ。ごくごく自然に格差を受け入れていて、当然至極のことになっている。 これが最近仲良くなってきたインド人母達との付き合いに、暗い影を落とすことになっている。
2009年09月10日
今年の夏休みは、休みが始まってすぐに壱男がおたふく風邪になって、私と壱男、弐女ちゃんは巣篭もりを余儀なくされ、その後、弐女ちゃんがおたふく風邪になって、今再び巣篭もり中。 その合間を縫って再び3度ほどキャンプに挑戦した。キャンプっていうのは上手、下手、進歩っていうのがあるもんで、夫婦そろってキャンプ上手になりたいと思ってしまったのである。そのキャンプを通して夫婦で語ったことがある。 キャンプっていうのは不便を楽しむというか、不便、不快適をどう克服していくか、っていうところに上手、下手、進歩があるかなって思う。でこの不便、不快適は完全に克服されてはいけない、などとも思う。特にお金で解決されてはいけない。 今の私たちの生活は便利快適そのもので、文句のつけようもない。(まぁ、文句はないんだけど。)私は比較的恵まれて育ってきたけど、それでも夏場にいつも必ず冷蔵庫に氷があったワケじゃない。昔の冷蔵庫は今みたいに「ハイ、氷」ってワケじゃなかった。 来年、うちの長男壱男は小学校に入学する。そして6年後には中学生になる。そしたら2歳違いの長女弐女ちゃんと同じ部屋はどうかなって言う危惧はある。そうなるとリフォームだの模様替えだのっていうのが、この6年間に必ず発生する。 二人にそれぞれ個室を与えてやることは不可能なことではない。でもそれはこの二人の為になるのだろうか?。という点を夫婦で話し合った。 これは悪口になっちゃうけど、友人のシングルファーザーのフィレちゃんと一人息子のチャカを見ていて、私はいつも思うことがある。チャカはいつか一人で生きていこうと考えるのだろうかと。チャカは飛行機に乗ればビジネスクラスだし、パパのフィレちゃんが携帯用DVDプレーヤーと動画ソフトを用意するし、ホテルはエグゼクティブフロアーだし、家では学校で一番たくさんのゲームとおもちゃを持ち、学童に通っているけど習い事は一切してない。まぁ、パパは出張が多くてほとんどはばあばの家にいることが多くて、不便でかわいそうなところも多いんだけどね。チャカは素直でとっても性格のいいオトコの子だと私は思うけど、この子の中で「何か将来やってみよう」とか、家を出てどこかで一人でやってみよう、などというハングリーさや気概はあるんだろうか?と思う。 私が結婚した平成一桁のころにパラサイトシングルっていうのがあって、成人して就職して自宅を離れようとしない、親掛かりでずっと生きていこうとする若者の増加が話題になった。それから晩婚、非婚っていうのが話題になってきた。私の世代はパラサイトシングルを経て晩婚、非婚という選択を始めた世代で、友人にもこういうのは多い。0今、フツウに損得も勘定に入れて考えると、結婚っていう選択、自宅から通勤出来るなら自宅から出ない、っていうのは当たり前かなって思う。だって、親とは友達家族で仲がいい、家には自分の部屋も有るし、部屋代は掛からない、家は便利快適そのもの、だったらそこを出ようが無い。 結婚も別に子供が欲しい、お母さんになりたい、って強く思わないんなら、彼氏がいればいいし、セックスは外で出来るし、敢えて結婚して舅、姑っていうめんどい関係に入る必要ないし、シングルで独居でも食事はお弁当とか調理済み食品が24時間買えるから、全く手間いらずの心配いらずだし、結婚っていう形態に飛び込む必要は無いんだよね。自分ひとりで働いて、好きなように生きていけるんだから。 こうやってなんでも便利で快適になっちゃうと、そこを敢えて飛び出す理由ってないよね。うちはたいして金持ちでもないけど、うちの子供達もこういう風になっていってもおかしくないと思う。だから、キャンプ上手になりたいと夫婦は考えているけど、キャンプに欠かせない不便さ、水を汲む、火をおこす、テントを張る、片付け(特に夜は動物が来るから食べ残し、ゴミは気をつける。)、は絶対に解決してはいけないと思っている。そして突然の天気の変更とかに臨機応変に対応するとか、物言わぬ自然に対する感性と携帯、PC等のハイテクを使用したハイブリッド思考、そういうものを養えたらと考えている。(とか言いつつ、都内の近場のキャンプ場に行ったんだけど。) そして夫婦で子供部屋についてはこう考えた。完全な個室は与えない。入り口はひとつで共有スペースと着替え就寝といった個有スペースを作ること。不便さを必ず残すこと。二人が大きくなって友達を自分の部屋に呼びたい時、必ず兄弟のどちらかが邪魔になる日が来る。その邪魔に思う気持ちはそれはそれでOK。重要なことは相手を傷つけないで、その時間だけ部屋を出て行ってもらう交渉する。この交渉がコミュニケーションでこれをすることが大事だと思う。結果がけんかとなってもいいと思う。ここから学んで欲しい。そしてこの不便さを克服するには家を出て、独立するしかない→と考え至って欲しい。 一人っ子だとこういうコミュニケーションというか、交渉をする必要が無い。また便利快適が過ぎても必要性がなくなる。これが子供の生きていく力を育てる壁になるように考える。不便OK,不快適上等ぐらいでいこうかなっと。
2009年08月19日
「両立」っていう言葉があるんだけど、一体誰が言い始めたのか、いつごろから言い始めたことなんだろうか。ちゃんと社会の現状を見て、この時代に仕事をするって言うことはどういうことかって、見極めて言い出した言葉なんだろうか?。非常に罪深い言葉だと私は思っている。 私は今の日本社会で仕事と何かを両立するなんて、何かの夢物語か、たわごとにしか思えない。その何かが家庭だったり、子育てだったりなんてしたら、大きな疑問を感じてしまう。会社の中に保育所があるとか、長時間あずかってくれる保育所が近所にあるとか、そういうことは大事だけど子育ての極短い期間利用するだけの施設で、小学校、中学校、高校と子育ては続いていく。大きく成長した子供はどこかに預けるというわけにはいかない。 まぁ、近所のパートとか、バイトといった、自給いくらかの低賃金で単純労働といった、経営状態が悪くなればすぐに解雇されてしまうような仕事との両立はある。でも正社員での両立は実家の支援なくしての両立は、かなり苦しく難しいものだと思う。昭和の時代のように定時が来たら帰られるような、そういう正社員の仕事はどんどん派遣社員に取って代わられ、男女の仕事上の境界は段々薄くなり、(それはそれでいいことなんだけど。)オトコもオンナも同じように働く世の中に近づいてきた。というのは、どんな事情を抱えようとも優先順位1位に仕事を掲げる、そういう人が正社員として会社で企業で働くように変わって来た。 話は変わるが、20年来の知人のヨス子さんにはお嬢さんがいて、私に近い年代でゆうゆさんという。ゆうゆさんは結婚して長男長女をもうけたあと離婚して、子供を引き取り、その後某上場企業に転職しそこで、優秀社員として表彰を受けるほどの働きをした。子供達はゆうゆさんが仕事をしている間、全てのコンビニの全てのコンビニ弁当を食べ尽くして、なおそれに飽きてしまったというくらいだったと聞き及んだので、ゆうゆさんの勤務状況は想像に難くは無い。 その子供達(10代のころ)に私は会ったことがある。こういう環境で育ちながらもまともに成長していると当時は感じた。当時はというのはここ5年ほどの話で、今は成人した二人が二人ともひきこもりになっている。長男君はゆうゆさんをなぐって家を飛び出し、父親の所で引きこもりをしている。長女ちゃんは大学に通って成人式も終えて、フツウに暮らしているように思っていたのに、突然引きこもってしまった。ヨス子さんにしたら悲しい寂しいことで、私にさえこの話は避けたい様子だ。 ゆうゆさんの勤務状況がひきこもりの子供を作ったとは、必ずしも言い難いけど、ゆうゆさんの子育てが子供を引きこもらせる原因を作ったと、言われても仕方がないかなぁと思う。別にコンビニ弁当を夕食に食べるのが悪いと言いたいワケじゃなくて、やはり反抗したい時期に反抗する相手すらいない、困った時に困ったと言う相手がいない、そういう状態が長い間続くというのは、どうだろうか?とおせっかいながら他人の私は思わざる負えない。 敢えて言うならそこまで子育てを仕事の2の次にしなければ生きていかれない、そういう社会に疑問を持つ。母子家庭なんだから仕方が無いじゃない?、という意見もあると思うが、これはオンナだけの問題じゃなくて、オトコもオンナも全てを捨てて仕事に打ち込む、そういう社会に疑問を持っているのだ。 今、ワークバランスっていう言葉を耳にするんだけど、まずオトコの働き方から変えないと事は動かないように思う。優先順位1位に仕事を掲げて、2位も3位もないような今の状況を変えないと。っていうか仕事も子育ても家庭も伴に優先順位の1位にあるような社会に変えないと、冒頭に書いた両立などは成立し得ないと思うんだ。なんてこういう話こそ夢物語だと言われてしまえばそれまでだけど。両立つまりオンナが考えることなんて言う常識が変わる世の中、オトコもオンナも両立して生きていける世の中、そういう社会を次世代に作っていきたいと思う。そういう目で次の選挙を考えよう。
2009年08月05日
私は日本で一番インド人が多く住む地域に住んでいる。今年になってうちの子供達、年長の壱男と年少の弐女が通う私立幼稚園にも、インド人が入園して来た。これは珍しいケースで大抵のインド人はインド人学校か、インターナショナルスクールに子供を通わせていて、日本人の通う幼稚園に入園するなんて他の幼稚園でもないことだった。 年長に一人、年少に双子が一組、それぞれ入園して来た。それも壱男と弐女ちゃんの組。あれあれ、と思っていたら両方の先生から通訳を頼まれた。それで幼稚園の手紙を説明したり、先生との会話を通訳するようになって、段々インド人母達と親しくなっていった。 私はもともと日本人にしては、ちょっと突出したところがあるから外国人の中に入って丁度いいところがある。それもあってか、彼らとの英語の会話、日本語の行間を読むような面倒な会話をしなくて済む、そういう気楽な会話を次第に楽しむようになっていた。 それでいろいろ彼らの事がわかってきたんだけど、インド人っていうのはベジタリアンなんだよね。っていっても、鶏肉、羊肉は食べるんだよね。卵も牛乳もね。でも魚、豚、牛は食べない。ここがミソ。魚を食べないっていう所が、私たち日本人と食のシェアを困難にしちゃう。 先月、インド人の双子の誕生日に招かれて、私はいなり寿司を作ったんだけど、このいなり寿司のおあげさんはフツウはカツオだしで煮る。このカツオだしが彼らは頂けない。だから私は昆布だしで作った。味はイマイチだね。 日本人は魚離れが深刻なんて言うけど、どっこい魚無くして私たちの日常食は全然成り立たないんだよね。ってわかったよ。カツオだしなしでは味噌汁も作れないし、煮物も作れない。チラシ寿司もあの桜デンブがないと味が決まらない。おにぎりだって魚がないと、梅干とこんぶくらいしか出来ないよ。そのくらい魚食な生活してるワケよ。 それとインド人はこうも言うのよ。肉や魚を揚げた油で揚げた野菜ですら食べられないと。えーっ、そんなにデリケートなの?!。だから、インド人は日本に来ても、世界で一番人気な日本食は全然食べることが出来ないのよ。っていうか、インド人はインド料理しか食べられないみたいなのよ。だから、親しくなってもうちでランチでも、なんて誘うことは難しいのよ。まして、外で外食なんていうのも難しい。 そういう事情もあってか、インド人は界隈に大勢住んでいるんだけど、日本人との交流はない。っていうか、接点を見つけるのが困難かもしれない。日本人の英語がどうの、こうのっていうのは問題外と思う。 こういういろいろ宗教がらみというか、風習の縛りがある国民がよくもまぁ海外に多く出てきているもんだと思う。勇気ある行動と思う。と同時に日本人って簡単でいいなぁって思う。日本人に生まれたら終生日本人なんだけど、郷に入ったら郷に従えるモンね。柔軟だよね。 話は変わるけど、民主党は移民受け入れを表明しているけど、移民っていうのはこういう宗教、風習の違う人を受け入れるっていうことで、短期滞在とは違うから、彼らの教会の建設も認めることになるし、彼らの食生活も認める、つまり学校給食にも反映させるっていうことなんだよね。今は移民は受け入れていないから、うちの地元の小学校は、イスラム圏の生徒からの給食の変更要請は拒否しているけど、それが出来なくなるっていうことなんだよね。 私は移民にはものすごく慎重で、ほぼ反対なんだよね。ロンドンを見て来て、パリの話も聞いて、実際移民の家庭に下宿して、これはそうそう簡単なことじゃなくって慎重なことだと思ったんだ。そして自分が帰る国があって、そこにちゃんとした経済と文化があるっていうことに、初めて感謝したという次第なんだけど。 でも世界には困った人々がたくさんいるのも知っている。その人達への支援が必ずしも移民ではない、というのが私のロンドンとパリで感じたことなんだ。じゃぁ、どうしたらっていうのはこれからの課題。 これから衆議院の選挙が始まる。都議会議員選挙の時もどうしたもんか悩んだけど、今回も悩みそう。入れるところがないよ。
2009年07月29日
7月21日は私の45回目の誕生日にあたる。とうとう、私も45歳で、最近は目じりに皴も出てきたし…、首の皴も増えてきたし…、とまぁ、老化を数え上げれば枚挙にいとまはない。この事実を隠すのか、放るのか、ここに新たなるオンナの生き方が有るように思う。 長男の壱男は今月6歳を迎え、長女の弐女は同じく今月4歳を迎え、都合6年ほど私は自分自身をかまう余裕がなかった。というか、どうかまっていいか分からない6年だった。 まぁ、自分の周りを見渡すと小さい赤ちゃんを一人連れた母は、ままオシャレで今の流行のまった只中にいたりする。しかし、子供が2人、3人と増えだすに連れて、髪は一つに後ろで縛り、顔は素顔のまま日に焼け、朝、手に掴んだ服を着てきました、とでもいうような風体の母が目立ちだす。これは当然の成り行きで、この母達も好き好んでこうなっているわけではないことは、誰しもわかっている。 私も数年来、後者の母だった。自分に掛ける時間も心の余裕もなかったから。こういう時間の最中、いつも困ることがあった。それは洋服を買いに行っても、何をきていいのやらわからない。どうも流行がガラリとかわってしまったようで、何をどう着ていいのやら見当もつかない。お店の人に『お似合いです、』と言われてもさっぱりわからない。美容院に言っても「美容師に『どういう風にしますか。』と聞かれても答えられない。」。自分を一体どうやって処したらいいのか、全く皆目見当がつかなくなっていた。 そして困ったことに、若い時と顔も体も違って来ていると言う事。若いときのようにアイシャドウを入れると、ものすごい疲れた顔に見えてしまうと言う事実。顔に仕上げのパウダーを沢山はたくと、夕方になるとほほの高い位置の皴が目立つこと。午後になるに連れて口元がたるんでくること。体全体は痩せているのにお腹が妙に出ていること。 こういった一連の事実に直面して、ここ2年ほどは全く自分に手が出せない状態が続いた。そんな時、確か去年の春前に壱男にこんなことを言われた。「どうして○ちゃんママみたいにキレイじゃないの?。」と。私はこの壱男の一言に衝撃を受けた。えっ、子供って見てる。4歳の男のなのにすっかり男目線で見ている。そしてこの○ちゃんママは美人ママで有名で、小学生の長男と壱男の同級生になる次男という、二人の男の子の母。長くて毛量十分な黒髪を毎朝6時に起きてカーラーで巻いて、睫毛をクルンとマスカラでアップし、開くとハート型になる魅力的な口元はいつもグロスで輝いている。 私は壱男の発言があってから、この○ちゃんママから目が離せなくなった。男の二人の母にして、この美貌、この美貌を作る余裕、それは一体どこから来るのか、一体どんなファイト(笑)がこの美貌のモチベーションを保つのか。それまではあんまりキレイなママで、近寄り難かったというのが正直な気持ちだったんだけど、思い切ってこの○ちゃんママに近寄って、いろいろ話を聞いてみることにした。 ママによると巻き髪歴は20年に及ぶそうで、ホットカーラーを御使用との事。朝起きてまず自分の支度に取り掛かるとの事。ホームセンターでバイトしているとのこと。美容院は半年に1回でその時にカットとパーマをするとの事。などなど随分と尋ねた。そしてママがかなり庶民的で気取りが無く、とっても好人物であることにかなりの好感度を得た。(このママに関しては過去に実は描いてます。) ここから私の人生が変わった。いつも行く美容院に壱男発言を話し、自分の今の状態を話し、髪を伸ばすことを相談して決めた。そして巻きゴテを美容院を通して購入。私は髪を巻くようなオンナはどうも好きじゃなかった。高校の時にみんなが聖子ちゃんヘアをする時代を生きたせいか、髪を巻くことになんか辟易するような印象を持って生きてきた。それと私の髪はブローなんかではクセがつかないほどに、堅くてしっかりしていた。だから今の今まで髪を巻いたことなんてほっとんどない。それが毎朝、髪をコテで巻いて髪だけお姫様のようになった。 そして、日本橋の高島屋のボビーブラウンのカウンターに出かけて、化粧の相談をした。今の今までコスメカウンターに座ることは抵抗があった。なんか売りつけられそうだし、不必要な物を買ってしまいそうだしって。でも、思い切って相談した。そして高額だったけど自分に合うファンデ、チーク、シャドー、アイライン、そういったコスメを揃えた。そして化粧法を学んだ。 うちは子供の通う幼稚園には歩いて行くので、午後のお迎えの時には周りのママ達のファッションを細かく見た。パンツの長さ、トップス、アクセサリーに至るまで。そして自分の手持ちの物でコーディネートを考え、足りない物は新たに購入し、似合わないものは捨てた。 私は若い頃から白髪多くて、勿論今もそれは変わらず、白髪染めをしている。この白髪染めをい美容院でやってもらうんだけど結構時間掛かって、一緒にお金も掛かる。染めて2週間程度で根元の白髪が目立ってくる。これを芸能人だとつき2回程度美容院に行くらしいんだけど、庶民の私にはちょっと無理。それでヘアアクセサリーを工夫して白髪を隠すことを思いついた。最近は髪が伸びたので、それをアップにしてヘアススカーフを、アタマのてっぺんの白髪が目立つ所にくるように被って、アタマをくるんと巻いてしまう。これが周りに結構評判で、オシャレに見えるらしい。私もちょっとうれしくなっていくつかヘアスカーフを手作りしてみた。 顔の方は、ボビーブラウンで買ったビューラーが目のカーブに合っていて、睫毛をクルンとさせるのに成功。この睫毛にマスカラをたっぷりつけると顔の印象が変わる。たるんだ口元が目立たなくなる。そしてジェルタイプのアイライナーで囲み目にも挑戦してみた。上まぶたは上げ気味、下まぶたは下げ気味にして、アイライナーで目の周りを囲む。これは威力絶大でメイクが楽しくなってきた。 髪は大分伸びてきた。美容院に行くたびにヘアアレンジを聞いて学んで実践してみた。図書館でもヘアアレンジの本を借りて、自分でも試してみた。コテで巻いてからアップにしたり、もう歳だからヘアアクセサリーなんて、ピンなんて、と長い間思っていたのに、キラキラピンやお花のピンを着けたり、シュシュを着けたり、弐女ちゃんのヘアアクセを借りて試してみたりした。 ファッションは日よけを兼ねて、スカーフは欠かさないことと、夏場の半そでを着ないことを、ここ数年続けてきた。これが功を奏したのか45歳にしては、デコルテ、腕にしみが少ない事実を発見した。そしてアップにした時のうなじが白いという事実を発見した。白肌は七難を隠すと言うけど、白肌は他人の目を引くようで随分と誉めていただいた。これで大分気分が変わってきた。 私は周りのママ達には内緒にしているけど、(きっとばれているんだろうけど)10歳は歳が違うはず、そのママ達から「最近キレイになった」とか、「肌が白い」、「おしゃれ」なんて言われるのは、光栄以上の何ものでもない。とってもうれしい。 若いときと違ってなんでもどこでも出せる、なんていう状況ではないけど、見せたくない所はオシャレに隠して、大事にしてきたところはちょこっとオシャレに出して、その年齢なりにオシャレが出来るという事が分かってきた。それで俄然楽しくなってきた。そして、自分の手持ちの物で十分オシャレに出来ることも分かって来た。と同時に今後購入すべき物も見えてきた。 45歳にしてやっとオシャレ道の輪郭が見えてきたような気がする。秋になったら20年ぶりにパーマに挑戦してみよう。
2009年07月26日
どうもここ数ヶ月肩こりがひどくて参っていた。私も今月の21日で45歳になったもんだから、これも年齢的なことかもしれないと、子供に肩揉みでもしてもらおうか、などと考えていた。 肩甲骨と肩甲骨の間が凝ってしまって、どおにも肩が重いし、腕を大きく回すとゴリゴリ大きな音までする。首を回すとゴリゴリ言って、ポキって骨ののズレが直る音までする。今まで肩こりなんてほとんど無縁な私であったのに…。 トホホ~って思っていたら、ひょんなことから改善した。いたって簡単。寝るときに枕の使用を止めた。枕なしで寝るようにして数日で元に戻った。多分、枕の高さがあっていなかったというのもあったんだろうけど、枕無しで寝ると横寝にした時なんか、肩甲骨と肩甲骨の間が枕有りより伸びる。どうもこれが睡眠中にここら辺の筋肉のストレッチになったようだ。 というワケで肩こり解消。
2009年07月23日
今日は焼香に行った。弐女ちゃんの七田のお教室で去年、一昨年と一緒だった母が亡くなった。今年40歳を迎えるはずだった。癌だった。子供が二人いる。今年4歳の女の子と2歳の男の子。 去年の初夏、その母との最後にあった日のことは、このブログに書いた。その時母の抗がん剤治療は始まっていて、すでに髪は抜け落ち、以前より痩せてはいたものの、何か透明な美しさが増していて、「私、癌なの。」という衝撃的な母の一言以上に、その時の美しさが私の心に残っていた。その母が今月の初めに亡くなった。 母は今の御主人と結婚する前にも、子宮がんを患っていた。そこから5年生存して、長女を出産。そして2歳違いで長男を出産。長男出産後に乳腺炎が発端となって乳癌が発覚。ステージ4だった。 毎週、七田のお教室が終わると、その母を含めて私達は近くのお店でランチをした。そこでいろいろおしゃべりをした。母は二言目には長女の話題で、正直私は辟易したのを覚えている。でもそれはこの母が自分のシアワセに、他人の視線を眼中に入れない程に、他人の尺度を介入させないほどに、そう母のシアワセを謳歌し、表現していたに過ぎない。一見、長女に対する愚痴や心配も、全て全てこの母のシアワセの一端だった。 今日は七田の当時の先生と一緒だった母達と焼香した。みんな涙ぐんで泣いたけど、私は泣かなかった。涙は出なかった。人は必ず死を迎える。そのXデイは必ず来る。改めてそう思った。
2009年07月18日
弐女ちゃん語録オレル;入れること。ミッキーランド:ディズニーランドオコッツ:お教室 私の日常は3歳と5歳の子供を食べさせることで忙しい。とにかく御飯のことで忙しい。そんな中で出てきたレシピをご紹介。こういう時写真があればいんだけどね。 おからの袋煮:油揚げを油抜きして二つに切って、袋状にする。おからに入れる具材を用意する。火の通りやすい野菜がよくて、これを細かく切る。ねぎ、にら、きのこ、肉は炒めた方がいいけど、まぁ、なんでもいい。この具材とおからをと生卵をまぜる。要は均一になればいい。これを油揚げにつめて濃い目のだし汁で煮るだけ。味付けした煮汁に入れてね。 おからと油揚げが煮汁を含んでとっても御飯にあう。食物繊維が豊富だから翌朝すごいです。子供は中身だけ食べたりするのが難。 豆腐の春巻き:豆腐はいつも木綿ごしを2丁買って来て、一晩掛けて冷蔵庫で水切りする。水切りした木綿豆腐を3x8センチ、厚さ1センチくらいかな、まぁ、春巻きの皮で巻ける程度、薄すぎて崩れない程度の大きさに切る。だいたい春巻きの皮は10枚一組だから、これを10個作る。春巻きの皮は常温にしておかないとはがれないので要注意。 春巻きの皮を用意して、さっきの豆腐(塩コショウはしておく)は、チーズ(なんでもいい。)、火の通りやすい野菜、のり、ごま、なんでもOK。そういうもんを一緒に皮でまく。そして揚げる。私は炒め揚げだけど。醤油をかけていただく。 子供はチーズが入っているので大喜び。中身が豆腐だからフツウに春巻き作るよりは低カロリーかな?。御飯にあうよ。 バジルの豆腐ソース:いっつも冷蔵庫にある水切り木綿豆腐か豆乳を用意。フレッシュバジル(うちはベランダ栽培)、豆腐または豆乳、レモン汁、塩、をミキサーに掛ける。味は御自分の味覚でどうぞ。これをパスタに掛ける。ゆでたジャガイモに掛ける。トマトとあえる。なかなかイケます。 キャベツの和風サラダ:キャベツは千切り。これに塩を振ってしばらく待つ。キャベツがしんなりしたら、水をしぼる。このきゃべつに納豆昆布、おかか、とろろこぶ、ごま、好みのものを加える。そこにポン酢をいれて調味する。お好みでごま油をいれても美味しい。うちは毎日これを食べています。 キャベツの代わりにレタスでも美味しいです。この場合、レタスはちぎって塩水につけて水を絞ってね。 大豆パン:大豆は水で戻して水で煮るか、ゆでたものを用意する。強力粉:250グラム。塩:小さじ1.砂糖:大匙1.油:(菜種油でもバターでもなんでもOK。)20グラム。大豆:100グラム。イースト:小さじ1。水:130グラム。以上をホームベーカリーに豆乳。4時間後にはこうばしい大豆パンが出来上がり。パンの焼きあがる匂いで豊かな気分になれること請け合いマス。 切干大根の玉子焼き:切干大根は水でもどす。戻した切干大根を細かく切る。これを千切りにして溶き卵とあわせる。これに塩を少し入れる。切干大根が甘いので砂糖は不要。これを出汁巻き卵焼きの要領で玉子焼きを作る。子供は毎日のお弁当にこれを持って行きます。 切干大根のかき揚げ:切干大根を水で戻す。軽く絞っててんぷらのころもとあわせる。好みで塩、青海苔、ゴマ、なんかをいれる。そしてフツウにかき揚げを作る。切干大根が甘くて美味しいのにびっくり。子供にはちょっと歯ごたえがあるかな。 さけの粕漬け:フツウに塩じゃけを買ってくる。タッパーに酒粕と焼酎、もしくは料理酒を合わせて、どろどろの粕床を作る。これにはちょっと時間が掛かるので、粕床をつくるのが最初。粕床が出来たら買ってきた塩じゃけを木綿のフキン、もしくはガーゼに包む。これは粕が魚につくと焼く時焦げやすいっていうか、本当に焦げる。これを防ぐ。包んだ魚周囲に粕をなすりつける。これを冷蔵庫で放置。 フツウの塩しゃけより長持ちするので、塩者じゃけが安い時に買い込んで保存するのが得かも。粕床は何回も酒粕を足して使えます。焼くといい香りがして、鮭の余分な水分がなくなって身がしまって、味は各段に上がります。弐女ちゃんは皮が大好物です。 よろしかったら、お試しあれ。
2009年06月30日
弐女ちゃん語録:クチュッタ:靴下 最近、前にいろいろアタマを悩ましたことが解決しつつある。例えば、壱男としか遊びたがらない弐女ちゃんに、お友達が出来て、少しづつ私や壱男から離れて、自分の世界を作っていること。うれしいような、さびしいような。 近所のYH姉妹に振り回されることがなくなったこと。妹のHが小一になって、家の下にあるぞうさん公園以外に、YもHもそれぞれ自分たちの友達といけるようになったらしく、Yのこれまでの妹Hに対するストレス、自分だけ他の公園に行けないストレスが緩和された感じ。それとママと3人の姿を多く目撃。よかったぁ。 今年は幼稚園に二組のインド人が入ってきて、それぞれが壱男のクラスと弐女ちゃんのクラスにいる。そしてそれぞれに担任から通訳を頼まれた。インド人の英語はそれはそれは私には聞き取りにくくて、今でも難儀しているけど、コミュニケーションというのかな、人間関係が少しづつ出来ていたのがうれしいなぁ。これに少しづつ日本人も入ってきたのもうれしい。 去年辺りから、自分では随分老け込んだと思ってあせりだした。口元のたるみがすごい。でいろいろ筋トレとか試すがイマイチ。なのに「若返った」などという声も多い。これは今流行の囲み目メイクのせいだと密かに思っている。目が強調されて口元に注意がいかなくなるせいだと解釈。たとえそうでも重力にはさかられないから筋トレはつづけなくちゃ。 お米を玄米に変えてみた。今まで快腸を誇る私だったが、ここ数か月は便秘がちになった。理由は運動不足とか加齢とかいろいろあるんだろう。玄米に変えてすぐに効果は無かったけど、あるときから朝の便りがものすごいことになった。量が半端じゃない。丁度パンをおからパンから大豆パンに、レシピを変えたせいもあるかもしれない。玄米と豆の組合せは最強だね。 そろそろ12時。子供のおやつを作って、夕飯の準備を軽くやって、自分の支度をする時間。あと2年半はこれが続くのね。楽しみたいなぁ。
2009年06月22日
弐女ちゃん語録:オトソアソビ:お外遊びオマタジャクシ:おたまじゃくしボタン:輪ゴム、ヘアゴムハンカンチ:ハンカチオウチエン:幼稚園オコッツ:お教室カガ:蚊モガ:藻 去年の11月にホームベーカリーを購入。なんか10年以上も憧れていて、それなのに購入をしぶっていた。買ってすぐは材料が揃わなかったり、説明書を読むヒマがなかったりして、実際は12月に入ってからパン作りは始動。これが旨い。実にうまいパンが簡単に焼ける。こういう旨いパンが毎日食べられるようになって、自分の子供時代に食べたあの食パンのまずさが不思議と思い出された。だって、材料はおなじはずなのに、なぜこうも味に差が出るのかと思えてしまったから。 このホームベーカリーはなかなか便利物で、ドーナツ生地を作ったり、ピザ生地なんかも出来たりする。それがまた旨い。馴れてきて焼きカレーパンとか、ジャムパンなんかも手作りするようになって、子供の評判が上がりだすと、おやつなんかスーパーで買う気にならなくなってきた。 このホームベーカリーはバターケーキも焼けて、これでバナナケーキなんかを作ると、超簡単で旨い。子供も大好き。それで益々気をよくして、子供のおやつまで手作りする機会が増えだした。といってもお菓子作りは未知の世界で不慣れなもんだから、クレープとか、白玉とか、フルーツポンチとか、簡単なものだけど。 なんて書くと、とっても優雅で素敵な生活感がただようんだけど、今年に入って弐女ちゃんが年少さんに入るようになって、私の日常は俄然忙しくなった。子供が出払った9時半から14時まで座るのは、昼ごはんの時だけっていう日が続く。しかも次に座るのは夕飯の時だけっていう日が。 まず、朝の二人分の弁当作りに私はどうしても、40分か50分は掛かる。これと並行して朝食作りもやってるんだけど。この時はもう極度の集中状態で、話しかけられても反応できない。やっと終えて自分の朝食は10分程度で済ます。この後子供達の尻を叩いてお仕度をさせて、その間に私は最低限の身支度を整えて、9時前になんとか朝のプリントコースを3枚づつ二人にそれぞれやらせて、子供達の歯を磨いて、弐女ちゃんの髪を結って、二人を幼稚園に送っていく。 そして戻って9時半から洗濯干しに取り掛かる。他の方たちは洗濯干し完了後に子供を送るらしい。私の場合はどうしても早起き出来ないのと、プリントコースを朝終えてしまいたいので、というのは3歳の弐女ちゃんが夕方には疲れてしまうから、それで洗濯干しは送った後にずれ込んでしまう。 この洗濯も3回は洗濯機を回す。布団も干すので終了は10時過ぎる。大抵やれやれとここでするんだけど、この後買い物があったり、宅配の食材をしまったり、宅配の注文をしたり、掃除をしたり、降園後に七田のお教室があれば夕飯作りに取り掛かったり、あっという間に11時過ぎになる。 11時を過ぎると、時計の針は12時、13時、14時と現実には進むんだけど、私の体感は11時の次は14時っていうくらいに、時間がすっ飛んでいく。これはどの母と話しても、みな「11時の次は14時だよね。」というのに頷く。で、この間何をしているかというと、私の場合は最近凝り始めたメイクと巻き髪(後日書きます。)、やっぱ、何かしらの家事、それも細かいたいしたことでもないんだけど、そういうことをごちゃごちゃやって、自分の昼ごはんなんてかきこむように口に放り込んで、そこで14時になって幼稚園に走ってお迎えに行く。 でそんな忙しいなら、どんなにか家が美しく整っているかっていうと、これが全然手が廻っていない。特に洗濯物を相変らず畳む暇が無い。リビングに山になってこんもりしている。でも子供のおやつは作ったりしている。 それからお迎えで一旦家を出てしまうと、16時まで帰ってこない。子供の外遊びに付き合うから。この間も立ち通し。ベンチがあれば座るけど。そんで戻ってから、子供の尻を再び叩いて、幼稚園のお片づけを促す。お弁当箱出して~、水筒出して~、お手紙は~、制服はハンガーに掛けて~、っていうのに延々30分は掛かる。そんでおやつもちんたら食べるから、あっという間に17時。 それから七田の暗唱の練習を一人づつやって18時。それから夕飯作りをして19時過ぎに夕飯。ここからが長い。再び、しゃべりながら、歌いながら、遊びながらちんたら食べるから、後片付けが終わると20時。ここですかさず風呂に入ってくれればいいけど、再びあ~でっもない、こ~でもないが始まって、ケンカが始まって、弐女ちゃんが眠くなって、お漏らし発生したり、いろいろあって、フロが終わるのが9時過ぎになる。 出てからも、あ~じゃない、こーじゃない、とこだわりが続く。私は付き合うはめになる。そして絵本を読んで10時前に一日が終わる。 もう、この頃には私はクタクタ。洗濯物を畳む体力は無い。寝るか、ぼうっとしたい。自分を閉店したい感じ。こういう生活が3ヶ月続いて、最近疲れが出てきた。前はなかった肩こりがするようになってきた。オオバカなミスが続く。夕方やたら眠い。 一体いつまでこんな生活が続くんでしょうかぁ。やっぱパンなんて焼いてないで、最近味が上がったという安い食パンを買うべきでしょうかぁ。塩鮭を粕に漬け込むより、粕漬けをかうべきでしょうかぁ。子供のおやつは生協か、スーパーで買うべきでしょうかぁ。メイクや巻き髪はやめるべきでしょうかぁ。 そういう私は来月45歳です。
2009年06月18日
今年、私は45歳になるんだけど、20歳以降をちらっと振り返ってみて思うことは、結婚する以前から私は家庭(私生活っていうのかな)第1だった。このことに長い間気が着かなかった。結婚してからも家庭第1だったんだけど、気が着いていなかった。ずっと自分は仕事第1と思い込んでいて、実際そういう風に思うとおりに生きているのに、生き辛くて苦しい、という感覚を毎日味わっていた。 私の言う家庭第1っていうのは、主に家庭における食のことなんだけど、家で作って食べるってことが、どういうわけか私にとっては大事なことなワケ。この家で作って食べるって行為は結果であって、この結果を導く為には買い物があって、普段からの台所仕事があって、健康なカラダも必要だし、相手がいると尚いいしね、っていういろんな土台がいる。急に思い立って出来ることではない。 で子供が出来てますます家庭第1になったというワケ。で、この家庭第1は私の人生の優先順位のことなのね。私は家事、育児を最優先項目にして生きているし、これからも生きて生きたいということなのね。で、これは単に私個人の選択の結果に過ぎないって、アタリマのことが最近わかった。 広い世の中には、家庭があって子供がいて仕事第1っていう人もいるし、家庭のある男性は例外なく仕事第1だし、中には家庭があって子供がいて仕事もして恋愛第1っていうケースもあるかもしれない。何に優先順位つけたらいいかわっかん無い人もいるかもしれん。幸いにして私は自分の優先順位がはっきりわかった。でもそれは今年なんだけど。 園ママの一人がバイトしてて、「主婦だし、子供居るから、夏休みはお休み、土日は働けないって言う条件でやとってもらっている。」、って言っているのを聞いて、この人は自分が主婦だからバイト程度しか出来ない、と言っているのではなくて、私は家庭第1だから育児、家事を最優先して、残りの時間で仕事をするっていうふうに聞こえちゃったワケ。これって立派な優先順位の付け方じゃん。まぁ、こういう働き方をしていると結果的に、技術が身につかなくて仕事人としては低賃金に甘んじなくてはならない、という問題は抱えているけど。 で、自分の優先順位として家庭、育児を1番に挙げたオンナ達が、多少の経済不安を抱えながらも専業主婦が出来る、というのはかなり恵まれていてシアワセで有り難い事だっていう事が分かった。だって、ダンナが急死したり、多額の借金を抱えたりって、専業主婦が生活の為に外に働きだすことになったら、結構悩みを抱えることになると想像に難くないよ。今度は自分の志向とは別に仕事第1に生きていかなきゃならないんだから。 今の自分は本当に恵まれていて有り難いんだなってわかった。自分の志向(家庭第1)に現実がついてきているから。それと自分の志向がはっきりわかっているから。
2009年05月06日
GWの2日、3日と生まれて初めてのキャンプをやってみた。場所は千葉県の勝浦。3月に慌ててワンタッチテントを購入して、たいして用意もせず、とにかくあるものを使うという節約志向のキャンプ。だってこの先続けるかどうか不明だもん。 土曜は6時に起きて、お昼のお弁当の準備、朝ご飯の準備、晩のアウトドアでするカレーの準備、それから翌朝の焼きそばの準備、続いてお昼のおにぎりの準備、及び自分の荷物の準備なんかをして、結局10時くらいに家を出た。 今年の3月にETCの取り付け優遇があって、うちは運良く安価でETCを付けられたから、今回は高速代はかなり安いはず。こういう風に大型連休の時は、宿泊代とかガソリン代とか交通費が値上がりするんじゃなくて、逆に値下がりする時代が来ると良いよね。そういう意味でお国の政索にしては粋なはからいって感じで、いいよね。渋滞もなくスイスイで勝浦のキャンプ場に到着!。 サイトに車を駐車してテントを張る。まぁ、ワンタッチだから傘を広げる感じで完成。こういうのは亭主の仕事と思っているので、口出し手出ししない。周りを見渡すとコールマンとかの10万円近い大型テントがズラズラ。こういうのは骨を組み立てて設営するから、小学生くらいの男の子の手伝いがいる。正直に言って、うちのは伊奈さんよりは見劣りする。でも幼児がいるからワンタッチじゃないと設営不可能なんだなぁ。今のうちではこれで十分と納得。 テントを設営して、中を整えて暇になってしまったから、近所を散策。キャンプ場は山間のたんぼがいっぱいある水田地帯にある。っていっても平らな土地じゃないから、棚田みたいな感じ。私はこういう光景は写真と車の中からしか見たことが無い。小さい沢が小山の付け根に流れているだけで、きっとここから水を引いているんだろうけど、水面の高さより確実に田んぼが高い場所があるんだけど、どうやって水をひいているんだろうか?。 たんぼは丁度苗が植わったところで、心なしか寂しい感じ。でも水の中は見たことが無いくらいデカイおたまじゃくしが、見たこと無いくらい多量にいた。私は自然発生のおたまじゃくしは見たことが無い。子供達はこれを捕まえるといってうるさい。でもよそ様のたんぼに網をワサワサ突っ込むのは、きっと失礼に違いないと子供を諭すがなかなか聞き入れてもらえない。 おたまじゃくしに驚いたんだけど、カエルの鳴き声もすごくて驚いた。でもその姿は何処にも見当たらない。子供達を田んぼのあぜ道をどんどん進んでみる。カエルはいない、でも声は聞こえる。で、やっとカエル発見。なんとそれが小さい。あのデカイおたまじゃくしがこのカエルに成長するとは思えない。で、子供にカエルを指差すが、わからないらしく仕方なく網でカエルを掬った。さっきはイケナイと子供に言っておきながら。 私はセミでも、蝶でも、カニでも、ザリガニでも、何でも網で捕まえるのは結構上手い。でも最後に網から出すのが出来ない。怖くて触れない。で、カエルも触れない。だから飼う事なんて絶対出来ない。今回もアゲハまで捕まえたが、逃がした。 それから戻って子供と4人でサッカーをして、それからカレーを作った。カセットコンロを一つだけ持ってきたので、それで最初にカレーを作って、出来たら保温調理器になべを戻して、それから御飯をコンロで炊く。時間が掛かるんだろうと覚悟していたら、あっという間に出来てしまった。6時に夕御飯。廻りは炭を起こしてバーベキュー開始。うちは焼けるの待ったり出来ないから、まだまだ無理だなぁ。 で食べちゃったら今度は後片付け。これがアウトドアだから共同の炊事場まで行く。水も冷たいから油汚れは落ちにくいなぁ。子供はテントとこの炊事場を大喜びで往復している。何が一体楽しいのやら。そして手伝ってくれるんだけど、余計に手間が掛かったりして。 うちと勝手が違うから、洗い物をして、翌朝の米を洗って、歯を磨いて、って言う一連のことが何回もテントと炊事場を往復しないと出来ない。何しろ用意が悪いから、洗い物専用のカゴなんて用意してないから、両手に持てるものは多寡が知れている。 でなんとか終わってテントに戻ると、子供がテントで大暴れ。亭主はクタクタ。テント壊れそうって感じ。仕方ないから、テントから出て星を見る。北斗七星がきれいに見える。でも北極星が判別できない。何しろ星がいっぱい空にあるから。なんて感慨にふけりそうになると、子供は飽きたと騒ぎ出す。よそはまだまだ宴会の真っ最中。 テントに戻って着替えをして、寝袋に戻って絵本を読む。ここまでやって「なんだ、いつもとおなじじゃないか!。」と思った。でも眠気が襲ってきて深く考えずに意識がなくなる。でも風が強くて木を鳴らす音が大きくて、おしゃべり声が結構うるさかったり、ウシガエルの声がかなり大きかったりして、都内のうちのほうが静かじゃん、などと思いながら、何度も起きた。それにしても土の上に寝るのは寒い、冷たい。気が着いたら今度はテントの中がものすごく明るくなっていた。 朝は朝で廻りは早起き。昨日の夜は宴会で盛り上がっていたのにもかかわらず。うちはノソノソと起きだして、朝食用のやきそばをカセットコンロを出して作り出す。これもやっぱりあっという間に出来上がってしまった。なんか、いつもと同じ。そしてテントと炊事場を何度も往復しながら片づけをした後、キャンプ場の池でザリガニ釣りを子供とやる。始めてすぐにザリガニが釣れる。でも怖くて触れないので子供に捕まえてもらって、水槽にいれてもらう。 その後、全員で車に乗り込んで勝浦市内の朝市に出かける。ここで昼食用のおかず入手をもくろんでいたのだが、干物と刺身のでっかい柵しかないので、諦めて家用に干物を買った。GWの日曜日だったせいかものすごい人出で、歩けないし、車は止められないほどだった。 再び車に乗ってキャンプ場に戻って、テント、その他を撤収して移動。海岸線を通って鴨川に向かう。ここら辺の海は水はキレイだけど、波が荒くてビーチはほとんど無い。大半が漁港か岩場になっている。水はまだまだ冷たいけど岩場で何か捕まえている人が目だった。 勝浦も鴨川もたいして離れていないんだけど、勝浦ってものすごく地味。それに対して鴨川は房総→南国→リゾートっていうイメージが膨らむ。海の水の色が少し違っていて、鴨川の方がエメラルドグリーン。勝浦の方が山がちなのに対して、鴨川はフラット。どっちも漁港があって、波が荒くて温泉出るのに、土地からくる雰囲気が全然違う。勝浦と鴨川の間に行川アイラインドって鳥のテーマパークがあったんだけど、ここは倒産。でも鴨川のシーワールドは未だに健在。しかも世界的に有名。この差はなんだ。で、鴨川に入ると俄然渋滞しがちになってきた。 やっと鴨川を抜けてアクアラインを通って首都高を通って、無事帰宅。あ~楽しかった!、と手放しにはいかないけど、まぁ、キャンプは改善の余地が大有りだけど、成功。今回のアウトドアで私は自然が苦手と再確認。今は春だから虫が少ないけど、これが夏ならハエだのなんだのって虫が増えるのは、我慢できるだろうか?。今回もしょっぱなに虫に刺されたし。日に当たると疲れちゃうし。外の共同のトイレは苦手だし。やっても1泊までだな。
2009年05月04日
ここ数年の話なんだけど、自分の育った家庭に自信を持つようになった。私は良い家庭に育ったとね。現実は別に極フツウのありきたりのサラリーマン家庭だけどね。弟とは子供の頃から仲が悪くて、それは今でも続いているし。それでも、私は育ちが良いと思っている。 子供を育てるようになって、親の苦労が分かるようになった、というのも自信を持つきっかけになったと思う。私が子供の頃はわたしの求めるような現実が与えられなくって、がっかりしたことも多分にあるけど、子供の求めるものと、親の考えることには乖離はつきものだから、そんなもんなんだろうと、と軽く考えている。 私の何が育ちが良いかというと、やっぱり良心があることだと思う。まぁ、誰にでもあるんだけど。それと正直なところと競争に飲み込まれないところ。他人を信用できるところ。まぁ、育ったのが昭和という時代のせいも多分にあるとは思うんだけど。 そして親元を離れてからは、自分自身を信用出来るように人生を歩めたこと。人生を迷わすような出来事、人物に近寄らない選択がいつも出来たこと。自分にあった伴侶を見つけられたこと。迷った時に他人に相談できること。理想と現実の落とし所の割り切りが出来る所。そういう風に生きてこれたのは、私のお育ちが良いからだと思う。親が良い家庭を私に与えてくれたからだと思う。 私はなかなか良い人生を歩んできたと思っている。その生き方の基礎は家庭にあったはず。どうやって親が私に伝えたのかは、全然記憶にないけどね。もう二人とも死んじゃっていないし。 私は育ちがいい、と最近胸を張っている。
2009年04月30日
YH姉妹のことを園ママに相談したら、「私にも同じようなことがあった。いつも公園に来るグループの一人のママと同じマンションの小学生で、私自身はその子の親は知らない。いつの間にかやって来て水やおやつをねだる。それに子供が渡しちゃったりして、何度か与えてしまった。それでグループのママ達と話し合って、水は水道で飲んでもらう。おやつはうちの物だからといって、水でもおやつでも一切ノーということにしたら、その子は寄って来なくなった。」と言う。効果絶大だとか。 私はこのやり方を今をもってしても、いいとは思えない。良心が疼くから。アドバイスは有り難いんだけど。「うちさえよければいい」と言う風に思えるから。自分さえよければ、それを邪魔立てする物は追い払えばいい、っていう風にとれるから。そこんところに良心が疼く。 同じ追い払うなら「これはお父さんが働いてきたお金で要用意した水やおやつで、うちの子供ために持って来たものなの。あなたにも少しは分けてあげられるけど全部じゃない。人から貰ったら「ありがとう」って言って、お母さんに報告しなくちゃね。あなたの分はあなたのお母さんが用意してくれているから、足りない分はおうちで貰ってね。」とか話があってもいい気がする。甘いかなぁ。 多分甘いでしょう!。YH姉妹ならブーたれるね。ここで、価値観と言うか、フランシスさんにコメント欄で御指摘頂いた道徳観の違い、もしくは無さっていうのが出てくるとは思うんだ。でも私にとって大事なことはうちの子供に見せることなのね。私は追い払うことを見せたいワケじゃなくて、私の大人としての道徳観というか、良心を見せたいのね。(見るかどうかわかんないけど。)子供とはいえ、犬猫じゃないから追い払うって失礼でしょ。ここが私の優しさであり、YH姉妹から見たら付け入るスキなんだろうけど。鉄壁である必要も無いかな。 私がYH姉妹に悩んでいるのは、そのお行儀の悪さとしつけられていないことからくる、迷惑でお騒がせな行動なんだけど、それを保健所は価値観の違いからきているっていうワケ。でずっとそれがしっくりこなくて、フランシスさんがそれは価値観じゃなくて、道徳観でしょ、と前回の日記でコメントして下さってやっと落ち着きました。そう、最近聞かない道徳観ですよ。この道徳観が大きく私とYH姉妹は違っている。 で私はこの子達の先生じゃないし、親じゃないしと百歩逃げさせて頂いて、でも何が出来るかと考えると、この道徳観の違いを見せることは出来る。道徳観っていうのはある程度社会の構成員が統一したものを持っているもので、あんまりそれとかけ離れた物を持つと、「非常識」とか「無神経」とかフツウは言われてしまう代物。だから、大人の道徳観をYH姉妹に見せる。これが私の良心に最も近いかな。現実、まぁ、これやって素直に聞くようなYじゃないけどね。もう、聞くことは目的じゃないかも。 本来はこういう道徳観というか、しつけというか、お行儀っちゅうか(もうなんだかわかんない。)、うちで教わるもんなんだけど、特にYは何歳から一人で遊びに出ているか知らないけど、教わる機会が無かったんだろうね。それと注意してくれる他人と出会わなかったんだろうね。ただ、追い払う人とばかり出会ったのかもしれない。かわいそうな子供だと思う。もう、3年生で素直に人の言うことを聞く年齢でもなくなったし。 いろいろ悩んだんだけど、しばらくは自分の良心に従ってみようと思う。でもそういいながら、良心だけに従うと現実がついてこなくなったりするから、両者のとの折り合いをつけながらやってみて、また苦しくなったら距離を取ってみようかと思う。確かに保健所の指摘の通り、YH姉妹を変えようとするのは不可能だろうから。
2009年04月25日
月曜日ははYH姉妹のことで腹を括ったつもりだったが、しばし迷いが生じてしまい、その日の午後に、子供を連れてYH姉妹の通う小学校(壱男も弐女ちゃんも通う予定)へ、相談に出かけた。そこでYの担任の先生と話がしたいと思ったけど、どうも私は学校外部の人なので校長先生と話すことになった。まさか校長先生に私の愚痴を聞いてもらうワケにもいかないので、最近の小学生への注意の仕方がわからないので教えて欲しい、という目的を最初に伝えて事情を話した。 一通り話し終えて校長はこう言った。「今も昔も悪いことは悪い。いいことは良いです。変わりはありません。大いに注意してください。近所の皆さんと学校とが連携して子育てしましょう。」、と言うフツウのお話を頂き、私の欲しかったYH姉妹への対処法は頂けなかった。がっくし…。 そして翌日の火曜日は保健所に、子供達が幼稚園の時間の間に単独で相談に出かけた。子供達に聞かせたくなかったので。一通り話してその日は帰った。そして今日水曜日の朝、保健所から呼び出されて出かけた。昨日のうちに保健所内で話し合ってくれたようだ。 「御相談の内容で一番多かったのは、価値観の違いについてです。」と保健士。「えっ、価値観の違い?。しつけとか常識についてだと思うんですけど。」と私。「それが価値観の違いです。」と保健士。 「価値観の違いについて、保健所から相手宅に対して、訪問して話をするようなことは出来ませんので、またこういう案件は解決が非常に難しいので、まず、riccaさん宅のペースを常に守り、そして相手と距離をとることが大事だと思います。そしておやつに関して家で食べてから外に出る、というのがこの場合有効だと思います。」と保健士。 詳しく説明するとこういうこと。YH姉妹の母は私の知る限り、小1のYと年中のHの頃から、二人をを家の前の公園に出して、家に鍵を掛けて出かけてしまうことが多かった。夕方、私達親子(当時4歳、2歳)が帰ろうとすると、一緒に遊んでいた二人は「お母さんが戻ってこないから帰れない。」、という状況によくはまった。これに保健士は「メールで二人の母に帰宅を告げて、自分の家のペースを乱さないこと。」とちょっと強い口調で言った。そしておやつに関しては月曜日に書いたとおり、私達親子のおやつはYに狙われている。だからおやつを持って外に出ない、そういうことを相手にわからせる必要がある、という。 そして私が最も疑問に思った価値観についてはこう。私はYH姉妹の他人の遊び道具も、おやつもなんでもかんでも、自分の物を区別しない態度は非常識だと思うし、しつけられていないと考えている。そして他人の親に対して「ボール持ってきて~。」、「縄跳び持ってきて~。」、とかなり強い調子で要求する態度は、大人に対しての口の利き方、人に物を頼む態度としては非常識であり、これもしつけられていないと思う。保健士はこれがYH姉妹の持つ価値観と、私の持つ価値観の違いだという。この価値観の違いを埋めることは不可能だと。だから距離をとって離れるように言う。 まぁ、ここまで聞いてなんかわかったような、そうでないようななんかキツネにつつままれたような感情に囚われた。常識なんて人と場所が変われば変わっちゃうもんとわかっているけど、しつけも常識もいっしょくたに価値観のひとつと括られると、どうも納得しがたい。保健所でここを食い下がっても無駄なので、「距離を取る」という対処法は納得出来たのでヨシとして帰ってきた。 それで今日は一人このことについて悶々と考えている。さっき書いたように私はYH姉妹の行動は非常識であり、しつけがなされていないと考えている。(ちなみにうちの子供のことは棚上げですよ。)(反面教師に使わせていただいています。)かつて「口のきき方」のことでYに注意をした所、Yは反発してきて「傷ついたので謝って欲しい」と要求してきた。こういうYの反応が価値観の違いと言えば、違いなのかもしれない。Yの価値観は相手が大人だろうとなんだろうと、場面、状況を選ばず自分の要求をやりたいやり方で通す、というものを持っていると仮定すれば、Yには私は新しい価値観で、それは自分の価値観と違ったということなのかもしれない。モヤモヤ。え~そうなの?。そして注意した私は自分の価値観を示しただけで、Yがそれを受け取るかどうかはYの自由裁量ってことなの?。 じゃあ、子供をしつけるっていうことは、私の価値観を子供に伝えるってことなの?。まぁ、そういう部分は確かに有るよね。で、その価値観って何によって出来ているかっていうと、これは私見だけど良心によるところが多いと思っているのね。価値観を伝えながら、良心があることを伝えていると思うんだ。お友達に意地悪しちゃいけないのは、意地悪されたお友達が傷つくからと、やった子供の良心が痛むからからなんだよね。(痛まない人を鈍感なんて呼ぶよね。)良心が痛むっていうことをいつか自覚するように、毎日子供に注意しているんだよね。そこら辺に理屈はないと思う。何に対して良心が痛むかは確かに個人の自由裁量というか、性格によるとは思う。 しつけの中で「他人に迷惑を掛けちゃいけない」っていうのがあるけど、なんでそうしつけるかっていうと、迷惑掛けられた他人が傷つくって言うのもあるけど、そうすることでやった本人の良心が痛むから、良心の痛むようなことは最初からやるな、とそういう簡単明瞭な理由からだと思う。だからYH姉妹が私に失礼な口の聞き方をし、うちのおもちゃやおやつを我が物顔で得ているのは、この二人は良心が痛まないということかもしれない。まぁ、二人とも子供だから、また子供は残酷な所が有るから、痛まなくても当然なんだろうけどと一万歩譲ったとしても、私はこういう場面にあって心が痛む。ストレスを感じる。二人はそこに対しての気遣いはない。子供だからしょうがないのか?。 常識だって良心に基づく物って多いと思うよ。葬式に金着けてっちゃいけないのは、金は晴れやかな場所の物だから、喪主側の喪の気持ちに一緒に浸ろうとする場面にそぐわない事をすることで、喪主を傷つけるのも勿論だけど、金着けた本人の良心が痛むからだと思うんだ。しつけとか常識、価値観の根底に良心っていうのがあると思うんだ。だからしつけ、常識が違うから、価値観が違うからその溝は埋まりません。と言ってしまえばそれまでなんだけど、良心が痛むかどうかっていう所が肝心要で、そこで歩み寄り、落とし所は作れるんじゃないかと思う。確かに何に良心が痛むかっていう所の違いはあるかもしれないけど。 この良心っていうもんを持ち出してこないと、価値観、常識、しつけってルール化してしまうように思う。そしてゲームでローカルロールがあるように、違うエリアの人同士がゲームをするとルールが違うから、ゲームになりません、っていうことが「価値観の違う人同士は話が出来ません。分かり合えません。その溝は埋められません」って繋がっていくように思う。 もし目の前でレイプがあって、レイプに気が着いた人が「犯人は自分と違う価値観を持っているから、この溝は埋めることが出来ません」と考えたら、この人はこの事件を無視するかもしれない。実際無視する人はコワイから、巻き込まれたくないからだと思うけど、警察に通報する、被害者を自力で助ける、誰か助けを呼ぶのは、止めろと叫ぶ、ルールだからするのではなく良心がそうさせるんだよね。 YH姉妹のことでは随分と悩まされたけど、私の中でしつけや常識がルール化しつつあることを、気づくいいチャンスになったと思う。いい機会なので良心を今一度目覚めさせ、子供達にもその存在を気づいてもらえるように努力したいと思う。
2009年04月22日
またまたYH姉妹の話題。もう、この姉妹の行動に私は自分の許容をグィ~ンと、半ば強引に押し広げられている。 事は土曜日の午後。前に社宅で一緒だったリー君兄弟とうちとで、近くの公園に出かけた。と、そこにYH姉妹の姉Yが一人で登場。私としてはこの子とは距離をとりたい。なにしろお騒がせだし、いろいろトラブルがあったから。Yは4月から3年生になった。 私はYに挨拶だけするとリー君ママと話を始めた。この子とは関わり合いを持ちたくいないのが正直なところ。Yは自転車で私達のベンチの周りを所在無げにうろうろする。それでも私は声を掛けない。Yは相変らずウロウロする。そのうちピンと来た。「Yはそのうち私たちが出すであろう、お菓子が目的だ。」と。 子供達が戻ってきた。そしてリー君が「ママ、ガム頂戴。」と、続いて家の子供達も「頂戴。」と。リー君ママはカバンからガムを出すと子供達に与え始めた。これは別にいつもの公園のいつもの行動。そして私の観の通りYはしっかりガムを手にしていた。子供達は再び遊び始めた。今度はYも一緒に加わったようだ。私はリー君ママにYの今までの素行を告げた。 程なくしてリー君が戻ってきた。「ママ、ガム全部頂戴。」と。リー君ママは残りのガムを全部渡した。その時再び私はピンと来た。Yがリー君にガムを取りに帰らせたんじゃないかと。リー君の走る後姿を目で追いながら、リー君がガムの箱をYに渡す所を確認して、リー君ママに1月にあったことを話した。 今年の正月明けに、YH姉妹とうちの子供達が久しぶりに遊ぶことになった。その時おやつの時間になって子供達におやつを与えた。子供達はそれを食べて遊び出した。そして程なくして壱男が戻ってきて、「Yちゃんがうちのおやつが気に入ってもっと食べたいって。」、と言って戻ってきた。私は人数分のおやつを壱男に渡した。そして夕方家に戻ってから、Yがそのおやつを全部独り占めしたことを、壱男の口から知った。 この日も同じことが起こるかどうか、確認してみようと思って様子を見ていた。そうしたら案の定、追加で出したガムは、全部Yが独り占めしていた。そのことで、特に子供達からは文句は出ていなかったものの、見逃していいものか、Yに直接注意をすれば以前のように「傷ついた」とか、面倒が広がるなぁとか、じゃあ、Yのママにメールしようか、でもそれじゃあ、告げ口みたいで大人気ないし、とか週末はアタマが一杯になった。 それでいろいろ考えて腹を決めた。これからおやつの追加は出さない。おやつの追加を要求する本人が直接母親の所に来ること。独り占めはダメ。人にもらったら有難うということ。そして後で母親に報告すること。Yは次回同じ事をしたら本人に注意をする。などなど。 あ~、きちんとこういう事を幼児の時に教えてから、放任してくださいよ~。まぁ、教えても子供だから守れないのは重々知っていますけど。(愚痴)
2009年04月20日
壱男が生まれた6年前は、世の中ちょっと上向きで女性企業家も増加中って感じで、出産しても仕事は続けるみたいな雰囲気があったと記憶する。そんな中、自分の生きる意味っていうのかな、生きている使命みたいなもんをブログで書く人が多くって、そういう人はだいたい「仕事を通して社会貢献する」みたいなことを、使命って掲げることが多かった。 当時そう言うのを読んで、私はなんか背中がぞっとするような、ヒヤッとするような感覚を毎回味わっていた。それは「引いてしまう」っていうような意味ではなくて、私一人取り残された、そういう孤独と寂しさが入り混じった、そういう感情からきていた。私は今も専業主婦だけど、当時も専業主婦で復職の予定も無く、子供を預けてやってみたい仕事があるワケでもなく、将来の夢とかも無い人だった。そういう私がブログで出会った人達、実際に出合った人達は、みんな何かしらの夢があって、将来の希望があって、それは必ず仕事にうまく結びついていて、そこからその人達の生きる使命へと繋がっていた。私はその人達ととても違っていた。そのことになにか感情が刺激されていたのだ。 そして時が経って、そういう人達と意識的に離れた場合、自然に縁が切れていった場合、いろいろあるんだけど私は離れた。そして今振り返る。6年経って(正確には5年半くらいかなぁ。)私の生きる使命っていうもんがわかった。別に神田なんとかさんとか本田なんとか氏みたいなスゴイもんじゃない。至って簡単。「目の前の事を淡々とこなすこと」。これだ。この淡々っていうところが味噌で、感情をいれずに、期待せず、楽観せず、かといって悲観せず、ただただ単純作業の如くやるのみ。結構これは難しい。 で今、目の前にあることは子育てと家事。家事は淡々と出来るけど、子育ては淡々とは出来ない。期待、楽観、悲観、常につきまとい、イライラ、激怒、なんか毎度のこと。淡々とはいかないけど毎日続けてはいる。 この目の前のことをこなしながら、その都度必要だと思うことを身に着けて行けばよいと、去年の着付けを学んだ辺りから確信しだした。どうせやりたいことも、興味も関心もないのだから、目の前に飛び込んで着たものを身に着けてしまうだけのこと。 やりたいことがない、興味をもてる物が無い、関心がもてる物が無い、そういう自分が6年前は嫌だった。自分の希望をブログに書き込み、そして実際私の目の前でそれを語り、そういう人達が私にはまぶしくてならなかった。仲間に入れないそういう寂しさを感じていたのだろう。 それが、今は変わって気に入って来た。やりたいこと、興味をもてるもの、関心を持てるもの、っていうのは自分の外にあって、自分から取りに行かなければならないものだ。今の私は自分に飛び込んでくる物、それを捕まえて物にする。(実際に習いに行くとか外に出るけど。)それは私にとって好きとか嫌いとかそういう時限に無い。今必要だったり、役に立つから捕まえて物にする。期待、楽観、悲観を超えて淡々の精神。これからはこれで行こうと考えている。
2009年04月19日
今日はヘトヘトです。というのも弐女ちゃんの幼稚園の入園式で、私はこの良き日に一年と言う歳月を、お支度として掛けてきたからだ。一体全体入園式に何を?。お受験でもしたのか?。別にそう声を大きくして言うことでもないけど、和装で式を迎えた、それだけです。 思い起こせば一年前、七五三を5歳の壱男、3歳の弐女ちゃんとダブルで迎えるので、私は着物を着ようと心に決め、それと同時に翌年の弐女ちゃんの入園式、翌々年の壱男の卒園式、謝恩会、入学式、と続く式にも和装で行こうと決め、友人の和裁士のもりけいさんに子連れで何回も相談にのってもらい、○本和装で意地悪されながらも着付けを習い、古い友人のヨス子さんに着物と帯と小物の見立てを頼み、もりけいさんに頼んで長襦袢を新調し、いつも通っている美容院のパリ先生に和装の髪型を習い、髪を伸ばし、夜中に着付けを練習し、ヒマな時に髪をアップにする練習を重ね、そしてそして今日を迎えた。 う~ん、本当に一年掛かった。久しぶりに時間を掛けて一つのことをやり終えた、そういう充実感を今日は感じたね。正直に言えば、弐女ちゃんの成長よりも、自分自身の長き道のりの方に気持ちが行ってしまったね。 入園式の方は5人ほど和装がいて、今日ほど洋装が普及すると、和装って言う物はこういうセレモニーでは最強だと思ったね。注目度大。(興味ない人は興味ないけど。)それと自分で着たっていうことが伝わると、さらに注目度大。勝手に株が上がる。(まぁ、私の株が上がっても仕方が無いのだけど、ハレとケっていうのは大事だよ。)。 この調子で、壱男の卒園式、謝恩会、入学式と突き進んでいこう!。
2009年04月11日
「生きている実感」がわからない、などの理由で殺人したり犯罪に及ぶ人がいる。この人達にとっての「生きている実感」ってどういうもんなんだろう。なんか、スンバラシイ、エクスタシーみたいなもんをイメージしてんだろうか?。目の前の現実がバンバン面白いように展開していく時の、高揚感みたいなもんを想像してるのかなぁ。 私の思う「生きている実感」は、頭痛に苦しむのも生きているからだと思うし、なかなか成果の上がらないというか、見えない子育てのイライラ感も、私が生きているから感じることだし、私が子育てしているから感じることだし、魔法のように物事が進まないのも、子供が生きていて、私とは別人格で生きているからこそで、上手く行ったらいったでうれしいのも生きている実感だと思う。 生きているからこそ、悩み、苦しみ、疲れ、痛むんだと思う。そして喜び、感謝、笑えるんだと思う。確かに、人を殺して後悔するのも生きている実感だけど、こういうことで実感を得ようなんて感心できないのは周知の事実。もっとて手近で簡単なところで実感できると思う。 簡単手近な所で生きている実感がわかないっていうのは、私も随分と関心を寄せた「成功哲学」なんかに有るんじゃないかと思う。あくまで毒論だけど。大金持ちになること、素敵な結婚相手にめぐり合うこと、自分の好きなことを仕事にすること、仕事を要領よくこなして昇給、昇格すること、そういうことが成功スタイルになっているせいじゃないかと思う。 私は最近、こういう成功哲学と成功スタイルをほぼ捨てた。ただひたすら地道に目の前の出来ることを淡々とやって、人生終えることにした。主婦業と子育て第1に生きることにした。端から見たら要領の悪い、恰好の悪い生き方と言えるかもしれないが、それで結構、十分と考えている。 主婦業と子育てと今後やるであろう何か経済活動をやって感じる、幸福感、閉塞感、不足感、充実感、不安感、…、全てが生きている実感ナンだと思う。それはなんとも平凡で取るに足りなく、語るほども無くありきたりなものだろう。こういうことに大きな価値をや期待をおくもんでもないんだろう。(と、ここで思うにはかつては大きな価値と期待を持っていたからなんだけど。)私には人生の意味なんかわからないし、覚醒なんて興味ないし(かつてはあったけど)、今はとにかく今この瞬間にしか興味が無い、というか子育てに翻弄されていて、そう生きざる負えない。(子育てしていると妙に現実主義になると思う。) それで、大分持っていた精神世界の本を処分することにした。私にはこういう世界のことはわからない、わかりえない、というのが最後に出した結論。とこの手の本は高いから随分と散財したなぁ、っていうのが正直な感想。 そして今はそろそろ夕飯の準備しなくちゃっていうので、アタマが一杯という現実であり実感。
2009年03月23日
「自分の好きなことを仕事にする」っていうような言葉が、私の若い頃、20年前に随分聞いた気がする。この頃はバブル期で就職なんていくらでもあった時期だから、選ぶ側が強かったという御時世もあったと思う。この時期に育った私は当然のように、「自分の好きなことを仕事にする」もんだと信じて疑わなかった。高校生の時から建築家になるって決めていたから、大学も建築学科だったし、就職も設計事務所で一回挫折を経験したものの、ゼネコン設計部に再就職した。 当時、従姉妹が文化服装学院卒業して、アパレルに就職したんだけど辞めちゃって、「好きなことを仕事にしたら、辛くなった。」ってコメントしてた。私はなんかにとりつかれたみたいに「自分の好きなことを仕事にする」、っていうことに猪突猛進してて、本当は従姉妹と同じ心境だったであろうにも気がつかず、とにかく邁進してた。 世の中に「追えば逃げる」っていう言葉があるように、建築家の道を追えば追うほど道のりは遠くなるワケ、それで心機一転を図って留学なんぞしたりしたんだけど…。燃え尽きた感じ。そして今は、普通の主婦で母ちゃん業一本。私の過去を知る人は会うたびに「いつ仕事に復帰するの?」と、矢のように質問を浴びせられる始末。 今の私は留学から帰ってきてから、軽く10年ほど「好きなこと」ってないワケ。敢えて言えば主婦業は好きだけど。やりたいことってないワケ。あれほど「好きなことを仕事にする」っていう生き方を貫いてきた私が、10年もこの状態に陥っている。 で最近、このことに対してやっとあるひらめきを得たワケ。好きなこと、やりたいこと、ないの結構なことじゃないの!って。なんでもいいってことなんだから、出来ること、目の前にあることを頑張ればいい、何かを目指す必要もないし、それこそ人と比べる必要も無いし、誰とも比べられることもない。と心の安定を得た。 今の世の中の状態を見ると、いつまでもあると思うな、親と会社、って感じがするから、下の子供が入学したら何かしら経済的の為に仕事をしようと考えている。出来ることなら長く続けられるようなものがいいと考えているくらいで、なんでもいいと考えている。なにしろ好きなこと、やりたいことがないワケだから、何でもいい。勤務時間の長い建築をやろうなんてサラサラ思っていない。私は今後も主婦業、子育て第一なので。 それと子供には仕事に関してはこう話そうと考えている。「好きなことを仕事にする」ことにこだわるな、と。出来ること、目の前のことを一生懸命やれ、と。偶然のように転がってきた仕事があれば、それに心血を注げ、と。ただ、長い人生を生きていく上で、何かしら打ち込める好きなことがあったほうがいい。ただそれでメシを食おうと考えるな、と。目の前の仕事を続けていくことで、それを好きになる努力をすることの方が大事なことだと。 今は弐女ちゃんが幼稚園に入ったら、英語を勉強しなおして建築専門の産業翻訳を目指そうかなと思案中。別にこれがやりたいことでもなんでもないけど、全く異分野に行くより楽かなっと。自分に出来そうなことかなっと。それにしても難しそうなんで、3年もお勉強が続くかどうか、3年でモノに出来るかどうか…。まぁ、モノは試しだ!。やってみるかって言う程度。
2009年03月21日
先日、手持ちの古い料理の本を出してきてめくってみた。保存食の本で、果実酒とか、ジャム、漬物、茹で鶏、湯で豚、ザワークラウト、らっきょ、梅干、漬け込み魚といったレシピが紹介されている。ざっと20年以上前の本で、大型冷蔵庫が一般家庭にも普及されつつある時代で、製氷室から冷凍室へ移行する時期の本。 巻末に今は長有名料理研究家の若かりし頃の写真と伴に、「私のホームフリージング」と題した散文が添えられていた。そのなかに「安売りの時に食材を買い込んで、下ごしらえをして、それを上手にやりくりして使いこなせた時、私はとても充実感を感じる。」という表現があった。 この表現に正直言うと私は共感を覚えた。私の主婦生活の充実感ってこういう自己満足のことだから。自分で計画して経済的にも、時間的にも、材料も無駄を省いて、上手に使いこなす、そういうことが好きで、ここに充実感を感じる。どんなに上手に出来ても一銭にもならず、誰も誉めてはくれない。これが主婦の宿命だけど、私はこういう主婦の家の仕事が結構好きなのだ。 私という人は、家というか自分の足元を居心地よく整えておきたい、そういう気持ちが強いことは以前からわかっていた。年収が5000万円あったとしても、1週間に1回しかシーツを交換しない生活は嫌だし、高級有名レストランであったとしても毎日外食っていうのは、私の胃が受け付けない。 二人の子供が小学校に行ったら、経済の為に何がしか仕事は始めようとは思うけど、基本は主婦でありたい。主婦をバカにする人がいても、今は気にならない。家の仕事は私にとっては大事な仕事だから。(別に家をピカピカにしているワケではありませんので、あしからず) などと最近思う。
2009年03月17日
このところ、魚料理に凝っている。それで図書館で有元葉子さんの「魚料理」の本を借りたりしてみた。そレを借りるついでに、「丸魚一本を生かす魚料理」みたいなタイトルの本を見つけて、予約している。この本のサブタイトルに、「丸魚を買うことは一見高くつきそうであるけど、実は全てを生かすことによって実は経済的なことである。」、というような内容があって、要はこれに惹かれたのだ。 前に住んでいた社宅の近くのスーパーは鮮魚に強くて、いろんな丸魚が発砲スチロールの箱に氷と伴に入って売っていた。これに三枚卸とか筒切り内臓抜きといった無料サービスがついた。これ以外にもちょっと見かけない貝や切り身魚、刺身、魚の加工品にも、面積が広くとられていた。ここで、私は切り身魚を買うより、丸魚を買って三枚卸にしてもらって、アラと伴に買う方が経済的、っていうことを学んだ。 今、住んでいる所は近くのショッピングモールに鮮魚店がある。ここは丸魚よりも切り身、加工品、刺身が多くて、ちょっと趣味に合わない。…と長らく思っていたが、午前中に行けば、さっきのスーパーほどでないにしろ、その時その時の丸魚に出会えることが分かった。もちろん、三枚卸等の無料サービスがある。それで、保育園を辞めた弐女ちゃんの手を引いて、午前中に魚を買いに行っている。 行く時はまとめ買いを心掛けている。昨日はさばを三枚に卸してもらったのと、甘塩鮭とまだらのあらを大量に買った。これを家に戻って、甘塩鮭はさらしのふきんに包んで粕床に。さばは塩をふってタイムとローズマリーに振りかけて、オイルでマリネ。アラは半分は今晩煮付けに。残りの半分は塩を振って、玉ねぎとセロリの葉とオイルでマリネ。魚を買うと家に帰ってから必ず仕事がある。マリネしたものは、今週中に焼いたりトマトジュースで煮たりして食べる。(ここら辺の知恵が有元さんの本にある。) そのうち、例の本がうちに廻って来たら、もっと大きな丸魚を買って、初日はお刺身、(お子チャマが食べてくれるかなぁ。)翌日はアラの煮付け、もしくはアラ汁。翌々日は初日に漬け込んだ魚で焼き魚、なんて出来るようになりたい。 こうやって、丸魚一本を全部食す、ってなんか恰好いいというか、作り手の私自身にものすごく充実感を感じさせる。欧州の方には牛、豚、羊、丸ごと全部食す、っていう文化があるけど、それと同じ物が日本には食材を魚に変えてある。素晴らしい先人の知恵だと思う。この丸ごと食すっていうことが、実は健康にもいいらしい。美味しいところばっか食べていると、高脂血症とかいろいろ不都合がでるようだ。 最近、長男の壱男が幼稚園で「もったいない」、を習ってきた。NHKのみんなのうたでも「もったいない」ソングがあって、うちでもよくCDをかけていた。このもったいない、っていう言葉は日本固有の文化から来るらしくて、外国語にはないらしい。(フランシスさんはどう英語で翻訳する?。)イギリスにいた時はよく、save the money,save your time、とかsave ○○って耳にして、節約好きな人が多いなって印象を受けたけど、もったいないには、何かを節約するだけでなくて、もっと別に生かす道を与えるような、新しい価値の発見を導くような感じもあって、物の命を余す所無く生かすっていうような意味合いを感じる。この丸魚一本を食すっていうのは、このもったいないにぴったりで、これが流行の食育かなぁ。(あまり、期待はしない。) というワケで、お待ちかねの本の順番を楽しみにしている。
2009年03月11日
うちは二人の子供を、七田式の幼児教室に通わせている。年度町の時期になると、長男壱男(今、年中)のクラスの母と顔をあわせると、こういう話題になることが多い。「いつまで続ける?。」と。七田式は小学生のコースもあるので、こういう会話になる。 それともうひとつ、お教室自体は週1なんだけど、毎日3枚のプリント、暗唱課題、その他もろもろ課題がいろいろあって、母親はそれに伴う子供の時間管理、毎日の暗唱課題の練習、暗唱用の課題のMDの吹き込み、それとは別に幼稚園のお仕度、家事、下の子供、上の子供の世話と重なって、子供のお稽古ごとは七田以外は出来ない、という悲鳴に近い精神状態に、もう何年もさらされている。(子供三人、二人が、七田以外何もやっていない家庭は多い。) それと高額の月謝と教材費が掛かり、それも今の厳しい経済状況の中では、気掛かりの種に繋がる。 それで子供はというと、七田式になじめない子供はどんどん淘汰され、年長に上がるくらいまで続いている子供は、お教室ライフを完全にエンジョイしている。うちのも例外ではない。暗唱課題も段々難しくなるが、子供の記憶回路が増幅されるのか、百人一首は30首づつ覚えて1ヶ月でクリアする。母親もお教室も、子供に暗唱とプリントを強要しているワケではない。っていうか、強要して出来る物なら楽。 4月になると新しい教材になり、今年の暗唱課題が発表される。そして一年が始まる。始まってしまうと母親は目の廻るような忙しさに追われて、もう自分自身で考え、判断するような精神状態ではなくなってくる。のはもしかしたら、私だけかもしれないけど、とにかくモウレツに忙しくなる。 今まではうちは弐女ちゃんは、お教室に行かせていけばよかった程度だったけど、プリント、暗唱と始まって私の忙しさは格別になった。正直言って苦しいという感覚。でも、子供はそれについてくるし、もっとやりたいと言われれば私もなんとかしなければならない。 年中を夢中で駆けて来て振り返ると、今まで暗唱課題達成のボードに常連で名前を連ねてきた子供の名前が、一人、二人と減ってきている。弟、妹が生まれて母親が忙しくなった家庭もあるだろうし、退室した家庭もあるだろう。そんな中でうちは良く残ってきたなぁっと思った。それと暗唱課題達成1番もいくつか出来た。私も子供も随分頑張った。しかしである。………疲れた。……本当に疲れた。…これがいつまで続くのかと。 先日、壱男のクラスの担任と面談があって、先生はこう言った。「この先、要は暗記力です。」と。確かのその通り。発想、着想と言うけど、豊かな知識があって初めての発想、着想なのだ。この豊かな知識は実は暗記に他ならない。直感だって大量の知識がなければ働かない。七田はこの暗記回路を右脳に作るっていうのをやっている。これは幼児期にしか鍛えられない。とお教室では言う。壱男が鍛えられたかどうかは私には検証しようが無い。 その、暗記の回路を支える暗唱課題が、小学生コースではぐっと減ると、小学生コースに子供を通わせる母に話を聞いた。それで私はやっと決心が着いた。年長まで通わせてそれで退室しようと。 正直に言うと、子供の教育ってどうやっていったらいいのやら、今の私には皆目検討がつかない。それで七田のお教室の言うがままにやって来た。そのうちに自分で判断することをやめ、考えることもやめてしまった、気がする。っていうか夢中で駆け抜けてきてしまった。そしていつしか、七田に頼る自分がいることに、気がついた。 子供の教育に試行錯誤するのは、母親として当たり前で、天田大勢の母親は同じはず。手探りで、怖さも伴いながら、みんな前に進んでいるはず。私も、来年からはそうやって進んでいこう。なんでもお金を出して習わないと身につかない、というものでもあるまい。 母親5年目なんてこんなもの。
2009年03月08日
さばの水煮缶がひとつあって、子供達は骨を嫌がって食べないもんだから、いっつも戸棚の奥に残ってしまった。どうしたもんかと思案を重ねて、やっと昨日は思いついて、これでふりかけを作ってみた。 やり方は簡単。中身をざるに空けて中の水を切って、骨をだして、臭み抜きに熱湯を掛ける。それを熱しておいたなべに少量の油をひいて、水を切った中身を空けて弱火でただただ水分を飛ばす。時々かき混ぜながら気長にやる。 段々魚の身がほぐれて、繊維状にほぐれてきて、最初になべに投入した時より嵩が増えてくる。そのうちフンワリしてきて、そこに塩とゴマを入れて出来上がり。 お昼に弐女ちゃんと一緒に試食。これがなかなかいけるお味。市販の濃い味付けとは違って優しいお味。弐女ちゃんは何回もおかわりをしてふりかけ御飯を楽しんだ。夜は壱男も加わって2人で何回もふりかけ御飯をおかわりした。 うちの食卓は魚と野菜と豆と乾物で、いたって質素。あんまり肉は登場しない。その昔、一緒にうちで食事をした友人に「なんて質素なの!。」、と呆れられたことがある。そういう食生活だからか、たまに旅行で3食外食が続くと私と亭主は食べ疲れてしまう。今年の正月もおせちで食べ疲れを覚えた。どうも贅沢な食事が合わないらしい。 それでも、毎日のうちの夕食を眺めると、私には贅沢しているように見える。魚はついたり、つかなかったりに、煮野菜、炒め野菜、汁物、豆腐、なんだけど。料理に手が込んでいるってことは絶対にない。 手が込んでいるってことはないけど、手間が掛かっているかもしれない。例えば、秋刀魚を買ってきて、三枚に下ろして味噌漬けにする。骨付き肉からスープを取る。出しパックでだしをとる。豆を煮る。そういう夕食の食卓には見えてこない裏の仕事。そういうところが私だけにはわかっていて、実は他人評価では驚くほど質素だけど、私だけには贅沢に見えるのかもしれない。
2009年03月03日
今日は友人の和裁士のモリケイさんに来てもらって、手持ちの着物と長襦袢について相談させてもらった。なぜ相談が必要かというと、着物によって袖丈が微妙に2種類あって、普通のお太鼓結びで着る着物の袖丈が、なぜか違う。そして当然長襦袢も袖丈が2種類ある。っていうことにある日気がついて、そしてよーくその長襦袢を見たら、しみかびだらけでこれをどう復活再生したもんか、相談にのってもらった。 早い話、汚い長襦袢は早々廃棄して、新調するのが手っ取り早い。年末はそう考えていた。それで年始にモリケイさんにそのことで相談したら、悪い部分だけ切って廃棄して、その分別の布を足すことも出来るし、外から見えるのは袖の部分だけだから、袖をいくつか仕立てて胴体部分にマジックテープで留める、ウソツキっていう長襦袢にするのも可。っていう提案を受けた。 私も4ヶ月○本和装に通って、先生の着姿を拝見していて、着物のオサレはいろいろあるんだけど、袖から見える襦袢の柄と色と着物の色の組合せの妙っていうのは、洋服には絶対無いオサレで、これはスゴイとうなっていた。だから長襦袢は着物に合わせて沢山あればあるほど、オサレの幅が広がる。しかし、長襦袢は正絹だったりすれば、お誂えになって高額な出費。ポリで作ったとしても私は袖丈が既製品では足りないので、やっぱりお誂えになって高額な出費。そこまで着物にお金掛けられるほど、今は余裕はない。 それで今日モリケイさんに来ていただいて、手持ちの着物と問題の汚い襦袢とか相談した。そしたら、5つ紋の喪服専用長襦袢っていうのを発見。それから比翼仕立ての長襦袢があって、これがほとんどの着物に合うことが判明。そして問題の汚い長襦袢は、一部の袖丈の長い着物専用であることが判明。こうして着物にひとつづつ道がついた。 そして問題の汚い長襦袢は、袖の内側がしみだらけだったから、これを作り変えて胴体に仮留めして着る、ウソツキにすることにした。胴体の裏地もしみだらけ、かびだらけだけど、これは誰にもわかりはしないので無視することにした。そして後日、柄布で袖は増やしていけば、オサレの幅が広がって楽しい。 これらの着物は振袖とウールの着物を除いては、全部母の物で実家を出る時、ワケも分からず持ってきた物で、実家に置き忘れて処分されたものも多い。母が生きていたら母に聞けたことなんだけど、当の本人が不在となった今、まるでパズルのように手探りでピースをひとつひとつ繋ぐように、母の残した物を復活再生の道を探している。 去年の5月にモリケイさんに家に来ていただいて、一年近く掛かって、その間、○本和装でいびられたりと道のりを経て、今やっとパズルに描かれた絵がおぼろげながら見えてきた。そしていくつかある袖丈の長い着物の意味も今日分かった。そういう着物はお金の掛かった高価なもので、そういう着物の場合、その贅沢さ加減を袖丈に現すことがある、ということをモリケイさんから教わった。そしてバチ衿が多い長襦袢の中で、比翼衿の長襦袢については、これもお金の掛かった良いお品物、という意味であることが分かった。 ○本和装に通っていた頃、散々、着物買うように、古いお母さんの着物じゃダメ、って先生に言われてウンザリした時、着物や帯を誂えるっていうのは、孫子の代までっていう気合が入っている、って同じお教室の人が言っているのを聞いた。母がどういう気持ちで着物を仕立てたかは、今となっては定かじゃないけど、今の私だって自分の買ったジュエリーに対しては、弐女ちゃんに残そうとか思うから、母も同じことは思ったとは推測できる。 着物もジュエリーもそうだけど、受け継いだ人が復活再生を試みながら何かしら、連綿と続いていく物の正体とはナンなのか、私にはわからないけど、何かしら命と一緒に続いていくものがあるらしい。私が一体何代目かなんて知らないけど、なにかしらが命と一緒に続いていて、それが今の私に受け継がれていることは間違いないし、次の世代、壱男と弐女ちゃん達にも同じように受け継がれていくんだろうね。今日はちょっと先の世代交代みたいなもんを垣間見たかな。
2009年03月01日
昨日は弐女ちゃんの入園準備で、体操着袋を作った。単純な巾着袋。それでミシンを久々に出した。 このミシンはシングルファーザーのフィレちゃんから借りていて、私のものじゃない。で、このミシンにマニュアルがついていなくて、いつもなんとなくテキトーに使っていた。 それがきょうはやっぱり上糸の調子が悪くて、どうにもこうにも使えない感じになってきた。人のを借りてて壊しちゃいかん。と一人焦って、とにかくメーカーからマニュアルを取り寄せようと、ネットを開いた。 メーカーのホームページにたどり着くと、なんとマニュアルダウンロードが出来るようになっていた。これはいい!、とミシンの機種を探すと、なんと残念なことにない。きっと古い型なんだろう。がっかり。借りモンだから文句は言えない。 とにかく、マニュアルを入手する為に、お客様相談室に電話することにした。すると電話口に明るい女性声、それで用件を伝えるとこういう。「マニュアル200円で送料500円になります。」と。えっ、たかが200円程度のもんに倍以上の送料かけるの?。 こういうのは結構ある。他の電機メーカーでも同じことを言われたことがある。送料払うの嫌なら、取りに来てください、とその時は言われた。それで今回は「送料500円も掛けなくていいです。」と伝えると、「じゃあ、白黒コピーで送料込みで300円になります。」と言うので、そちらにした。言ってみるものだ。 でついでにミシンの調子についても具体的に聞くことにした。下糸と上糸とからまないこと、上糸調子が悪いこと、ボビンに上手に糸が巻けない事。この女性はすごかった。とにかくミシンを知り尽くしていた。そして不具合が生じる原因も知り尽くしていた。それで全ては解決したのだ。 女性の目の前にミシンがあるワケではないと思う。あっても写真程度。それでスラスラとどの機種でも対応できるスキルを、持ち合わせている感じだった。そして女性の説明は明瞭簡潔だった。私はしどろもどろでなかなか説明についていけなくて、女性を待たしてしまったが、この女性は忍耐強く待ってくれた。素晴らしいプロの仕事だった。 久しぶりに、プロの仕事に出合った。女性の声は若い感じだったけど、10年以上の年季が入っていると思う。それでなくては複数機種対応は難しいだろう。こういう仕事は事務系なんだろうけど、まさに職人気質。昨日、今日来た人には出来ない。企業はこういう人材を大切にして欲しいと思う。
2009年02月26日
2月にインフルエンザの高熱に苦しんでいる時、喉が渇いて仕様が無かった。で水を飲むんだけど、飲むと今度は震えるくらい寒気がして、羽毛布団の中でカラダが温まるまでブルブル震えていた。それで思いついてお湯を飲むようにしたら、大量の汗が出て熱が引いていった。 それ以来、常温の水を飲むことを控えて、お湯、もしくは生姜紅茶を飲むことにした。今年は花粉飛散量が去年ほどじゃないらしいけど、カラダを暖めることによって、この花粉の症状が少し和らぐ感じがしている。症状が出始めてすぐにホメオパシーに行こう、なんて思ったけど、今はこの程度なら日常生活を送れる、っていう程度に治まってきた。 熱が治まった後、なかなかカラダが回復しなかった。だるさがとれなくて、フラフラしてた。それでいっそ焼肉でも食べて、精をつけてやろうと考えていたら、韓国人の園ママにこういわれた。「お肉は消化が悪いからダメ。スープがいいです。牛のテールのスープとか。」。 それでこの時期はまだまだフラフラで料理どころじゃなくて、御飯とおかず一品料理しか出来なくて、子供達にも「お替り一切なしだよ。」なんて言っていた。それでも鶏がらスープくらいなら出来るかも、とフラフラと台所に立ってスープ作りを始めた。お薦めの牛テールは手に入らなかったけど、豚のスペアリブ、骨付き鶏肉、鶏がら、なんかのスープをとった。やり方は簡単で骨付き肉の場合は、肉に塩を多めに揉み込んでしばらく置いて、それから鍋にこんぶを骨付き肉と一緒に入れて、水から煮るだけ。そして途中あくを取る。 十分スープが取れたら、肉と骨を外して肉は細かく切ってスープと一緒に保存容器に。この方法だと肉の味が逃げずに具として食べられる。そして昼、夜、野菜の具を入れてスープを家族で食べた。大根と豚肉、里芋と豚肉、レンコンと豚肉、バターで炒めたジャガイモと長ネギと鶏肉、コーンと鶏肉と卵、にんじん、大根、きくらげと鶏肉、塩味、味噌味、しょうゆ味、ごま油風味、バター風味、いろんな組み合わせを楽しんだ。骨付き肉じゃないけど、同じ方法で鳥のささ身でもスープを作った。これは油が出なくてあっさり美味しかった。 スープを飲みだして、段々と体力が回復していった。スープの効果なのか単に時間の経過なのかは、判定不可能だけど、寒い日のあっついスープは有り難い。味噌汁も美味しいんだけど、スープはまた違った存在感がある。手間隙かかっているからかな。 回復してみると、本当に健康は有り難い。特に子供がいると思う。子供は母の具合と関係なくお腹が空くし、自分の都合を要求してくるから。あんまり高熱が出るとギランバレー症候群に罹る人もいるらしいから、無事に回復して有り難い事だった。そして毎日美味しいスープが頂ける日常が有り難い事だと思った。
2009年02月25日
相変らず、晴れた天気のいい日は布団を干し、大体毎日シーツ、枕カバーは洗って交換する。こういう行為っていうのは非常に贅沢なんじゃないかと再認識している。布団を干すって言う行為は、24時間いつでも出来ることではなく、日中家に誰かがいて初めて出来ることで、日中誰もいない家では実現しない。 2月の初めにインフルエンザに罹って、1週間布団を干さなかった。そしてやっと布団を干してみると、びっくり仰天、布団の裏側にかびが生えていた。それほど汗をかいたし、熱を布団が吸収したんだってこと。それでその日は、まだまだカラダは本調子じゃなかったけど、慌てて布団を干して、布団カバーまで洗った。 毎日シーツと枕カバーを洗って交換するのは、毎晩布団に入った時の洗い立てのシーツの肌触りが好きだから。さすがにシーツにのりもアイロンも掛けはしないけど、洗い立てのシーツは本当に気持ちがいい。シーツを布団から毎朝はがして、洗濯機に入れて、外に干して、夕方取り込んで、夜再び布団にシーツを掛ける。こういう手間を掛けられることが、贅沢だと思う。 それからなにより太陽の光と熱。東向きの家から南向きの家に引っ越してきてから、太陽の当たる時間が増えた。前は3時間ぐらいだったけど、今は倍以上に増えた。ガラスをペアガラスに変えたせいもあって、冬の暖かい日は暖房がいらない日もある。昼間の太陽の光と熱は無料で、万人に等しく与えられている。これを有効に使えた日は本当に有り難い気持ちになる。 私はただの専業主婦で、世間的には経済的自立をしているワケでもないし、カリスマ主婦ってワケでもないけど、布団を毎日干して、毎日シーツと枕カバーを交換して、太陽の恵みを余す所無く頂いて贅沢をさせて頂いていると思う。
2009年02月24日
削除します。
2009年02月22日
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