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恋愛の本質は、決して美しくなどない。そんな風に書くと、それはお前が年寄りで男女間の恋愛の美しさが、もう分からなくなっているのだ。そんな反論が、直ぐに予想されます。が断じて私・草加の爺は耄碌し老いぼれたからそんな事を言うのではありません。客観的には認知症の一歩手前ぐらいの年寄りには間違いありませんが「恋愛」に対して厳しい制約付きの「夢」を抱き続けていることでは人後に落ちない心算です。ただし、若い男女が「愛し合っている」そう聞いただけで、もう無条件に「美しい」、「素晴らしい」そんな具合に、いわば手放しに賛美する風潮に異論を唱えたい。そう考えているだけのこと。男女が強く引かれ合う。それは極自然な現象です。その事自体には「美しい」も「醜い」もない。当たり前のことで、殊更事新しく論う(あげつらう)までもない。しかし、世の中には「若い男女の恋愛、イコール美しい、麗しい」という偏見・幻想が根強く存在していることも事実。小説や映画やテレビ・ドラマの強い影響があるのでしょうか?その辺は定かではありませんが、とにかくこうした通念が、ややオーバーな表現をすれば全地球を覆っている、と言えそう。何が問題なのか。それでもイイじゃないか。そんな声もきこえそうです。その通り、とお答えしたいのですが、残念ながら現実はそうとばかり言っていられないのです。例えばある年頃の娘を持った母親の場合です。ボーイフレンドを頻繁に家に連れて来る。そしてすぐに二人で自室に入ってしまう。母親は心配する。しかし、理解のない親と非難されるのが怖いので何もいえない。夫に相談するが、夫も「外で勝手な行動をされる」よりはと、心配ながら黙認。と言うようなケースがままあるのですよ。皆さんはどのようにお考えでしょうか?原子力と男女間の牽引力は似ている。どちらも通常の人間の制御が及ばなくなる危険が大きい。大昔の「男女七歳にして席を同じゅうせず」は今尚立派に通用する教えだ。と、断言したら、そら見ろお前は時代遅れの、時代錯誤の耄碌爺じゃないかと罵倒されること間違いない。しかしわたしは誰よりも「ロマンチスト」でもあるつもり。男女間の性愛を「この上なく」大切なものそう考えるからこそ、男女間の強力な牽引力を正等に恐れ、畏怖する本来の慎ましさを恢復して欲しいそう念じる、それだけのことです。男女間の「いちゃつき」は恋愛ではなく男女の尊厳を著しく損なう、由々しき蛮行。こう主張して、時代に逆行する暴言をしめくくりますが皆さんの、特にお若い方々の率直なご意見・ご感想を心待ちに致しております。宜しく。
2010年11月30日
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拙文に対して早速、貴重なるご感想をお寄せいただき感謝の念に耐えません。有難う存じます。また、内容が私・草加の爺にとって余りにもお誂え向きでしたので、内心では驚きが隠せないでいます。と、申しますのは、このボヤキの狙いはこの様なお考えを想定して、或いは前提として発言しているからでした。一応、ごく簡単なコメントをしておきましたが、この絶好の機会を利用させていただかない手もないな、と思い直しました。つまり、いい訳めきますが、わたしの立場は一段高いところから下々に「もの申す」のではなく今のこの生きずらい世を「共に生きる者として」同輩や先輩にエールを、それもささやかでお粗末な励ましの言葉に託して、お送りしたい。そう切に願っての事。それ以上でも以下でもありません。そもそも私がFYC(ふへん・ゆうこう・くらぶ)を主宰しようと思い立ったのも、元気のない世の中に、少しでも明るさや、元気、活力、楽しさ、喜び、など等前向きで積極的な、何よりもパワー溢れるチーアフル・メッセージを届けられたら幸いだ、と考えたから。そして、一番気がかりだった事は戦後の日本人が根底のところで自信喪失し人生そのものをエンジョイすることを、頭から忘れ去り闇雲にエネルギーを「浪費」しているように思えて仕方なかったのです。不完全な存在、欠点の多い生き物悪を平気で犯す不遜な人間、その他諸々のマイナスは人の存在には付きもので、なにも日本人だけの特性ではない筈。堂々と、胸を張って、世界に向かって国内に向けても、大いに自己主張しようではないか!そう呼び掛けたかった。それだけ。ですから誰しも「人間として」立派ではあり得ない。また他人から「後ろ指をさされず」に生きるのは不可能だ。これは真理には違いなくても、人間を幸福や幸せに導かない、どころか、却って「ハッピー・ライフ」から遠ざけてしまう。ですから、私・草加の爺の立場は飽くまでも生活者のそれで、アカデミックな真理探究でないことは改めてお断りするまでもないでしょう。ここまで書いて、いつもの「外野」からの声がきこえました。いわく、不完全なままでよいのか、と。― はい、結構です。そう、お答えいたしましょう。向上心を忘れてよいのか?厳しく己を振り返らなくては、人間ダメになってしまう。こうゆうご懸念ですね。― はい、一回忘れて下さってよいのです。そう、肩肘を張らずに、リラックスしてくださいな……。なによりも現在只今を大切にしましょう。完全燃焼しましょう。「上を向いて」あるこうヨ、ね。古代の人々が北斗七星の指し示す北極星を頼りにして進路を定めたように、神仏のイメージを心に浮かべるゆとりと信念さえ忘れなければ、なにも心配しなくとも万事は抜かりなく運んでゆく。そう確信してください。誰の為でもありません。第一番目に救われるのは、あなたご自身なのですよ。ここに親鸞の「悪人正機説」を持ち出すまでもないでしょう。ご安心の程を!
2010年11月28日
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親が子供を教育する、ということは何時、如何なるところでも、難事中の難事であるようです。現に私なども悪い親の代表みたいなもので、サラリーマン時代は子供のことなど妻にまかせっぱなし、今は今で、暇に任せて成長した息子たちとしょっちゅう酒ばかり飲んでいます。それでも、子供ふたりが曲がりなりにも自立してどうにか人並みの生活が出来ているのは半分は良妻のお陰として、後の半分は、一体誰のどこの、どなたのお陰なのだろう、と思案することがあります。一般に子供は本能的に、親の偽善や嘘、世間体をつくろっただけの行動の真意を見抜く能力をそなえています。そして親たちが意図して、あるいは良かれと思って仕向けることには強く反発し、反対に無意識に行動したり、本音で言うことには非常に、いや異常なくらいに敏感なもの。ですから、小手先の嘘は勿論の事、偽りごとは通用しないと覚悟するべきでしょう。反面教師という言葉がありますが、「親の背中を見て育つ」とともに、この辺の微妙な経緯を捉えた至言、とわたしは解釈して、肝に銘じて生活しております。一口に、子供は親の言いなりにはならない。しかし強い影響を受けることだけは確か。だから親たちは誰しも「人間として立派に」生きる義務がある。その親の真の姿こそ、表面的な小細工を越えた場所でこどもに教育効果を与える。だからこそ学歴があろうと、あるまいと、人として、親として他人から「後ろ指を指されない」生き方が求められている。そんな風に思うのでした。いかがでしょうか?ご意見、ご感想を心よりお待ちいたします、拙文を続ける支えといたしますので。
2010年11月26日
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江戸時代の近松門左衛門と言いましてもご存知ないかもしれませんが近松の描くところの世界は「義理と人情」。それも義理を立てようとして、人情を捨てきれない人間の心の葛藤をドラマティックに表現した傑作がおおく、よくシェークスピア・沙翁に比せられました。今日では近松も義理も人情も、みんな忘れられて歴史の彼方に埋没してしまっているかも知れません。しかし、学校の教科書には名前ぐらいは載っていますので、それを頼りにして論を進めてまいります。義理とは、辞書に、自身の利害にかかわりなく、人として行うべき道。特に、交際上、いやでも他人に対してしなければならないこと、とあり人情は、人ならば、誰でも持っている筈の、人間らしい心。同情・感謝・報恩の気持ちなど、と記述されています。さしずめ、義理と人情をすっかり頭から捨て去ってしまった今日の人びとは、昔の人から「人でなし」と評されることでしょうか。それはさておき、今更ながらこの古臭い義理と人情を持ち出した、わたし・草加の爺の下心を開陳いたします。義理と人情の板ばさみ、の世界は過去の限られた時代の「古臭い、カビの生える観念」などでは全くありません。それを西洋流に表現し直して見ると、理想(主義)と現実(主義)の対立・せめぎあい、または建前(パブリック)と本音(プライバシー)の軋轢というふうに置き換えが可能です。個人のレベルでも、国家、国際社会の付き合いでも、この両者のバランスの取り方如何が非常に重要な、いわば永遠のテーマだったのです。そして、昔の日本人はことのほか義理を世間との付き合いを大切にしたようです。個人の私情は泣く泣く殺してでも、世間様を重んじようと必死の努力をしたようであります。近松門左衛門の作品はその事実を、きわめて雄弁にわくしたちに語ってくれています、まず関心を抱き謙虚にその世界に向き合う気持ちさえわたしたちに、ありさえすれば、のことですが。如何でしょう?お忙しい、あなたですが人形浄瑠璃でも、古典文庫でも一度、体感されることを切におすすめします。
2010年11月24日
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教育について書いていますが、そもそも自然とは極めて厳しい「教育者」。そして、子供は自然状態を大人よりより多く残している為でしょうか親や大人を「教育」する力があるようです。私・草加の爺は子供いや犬や猫からも貴重な教えを数多く受けていますから。俗に、地震・雷・火事・おやじ、と怖いものの代表とされた時代がありました。最後の「おやじ」は現代では既に通用しなくなって久しいのですが、もともと「かじ・おやじ」と言葉の調子で付け加えたに過ぎないもの。火事は火山の噴火や山火事、野火など大昔から人間に対して脅威と恐怖を与えつづけていますね。人間の手で「飼い馴らされて」はいない本来の自然は、厳然として厳しくなかなか容易には人間たちを近づけようとしないそいう存在。自然の教育の最大のものは人間に、忍耐や辛抱強さを教えることでしょうか。今日では、エコとか自然環境にやさしく、とかなんだかその本質が忘れられてしまった感があるようですネ。しかしながら、本来の自然がその性質を変えてしまったわけではありませんのでくれぐれも用心を怠らないように。人間どもの驕りや昂ぶり、傲慢さに対しいつなんどき、自然が恐怖の牙を剥かないとも限らない。現に、人間の内部で「自然」が既にして反逆を企てている。そう言ったら、訝しく思われる向きも多いのではないでしょうか。わたしが指摘したいのはいわゆる「現代病」と総称される、多くの実に多くの「精神・こころ・魂に関する」問題なのです。現代という「反自然」の文明の痛ましい犠牲者が現代病の被害者なのではないかと、わたしは最近、しきりに感じている次第です、密かに。
2010年11月21日
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わたし・草加の爺は学習すること、学ぶことは対象が何であれ本来楽しい筈のものなのだ、と考えています。現実にはそうなっていない。それは何故か?前回に、母親がそのための努力を放棄していると指摘しました。学校の教育の在り方にも問題があるとおもいます。「勉強」という言葉から入ってみましょう。辞書によれば1、遊ぶ事をやめ休む時間も切り詰めて、当面の学業や仕事などに身を入れること。2、将来の大成・飛躍のために一時忍ばなければならない辛い経験、とあります。学びや学習がネガティブに表現されているのがとても良くわかりますね。学校という場所での学びに、楽しさを求める事は最初から諦めている様が如実に表現されている。教師は厳しく難しい、あるいは気難しい表情を最初から表出しなければならない。そんな気に自然と誘われるではありませんか。極論すれば、学びは遊びの最高の形である。少なくても、そのような学習のあり方を目指すべきだ。これが私の結論。言葉だけでなく実践もしている。ですから空理空論などでは断じてないのです。では、どうしたら学習することが楽しくなるのか。簡単です。よく理解できるように巧みに教え、導けばよい。小手先の知識の切り売りでない、生徒の立場に立ち、親身になって教授法の限りを尽くして、奉仕する。それだけのこと。しかし、なかなか厄介な事柄。誰でも、簡単に実践できる事でもありません。そもそも、教師という職業には、単なる職業意識だけではこなし切れない「聖」なる部分がどうしても要求される。むかしの「聖職者」なる言葉がいみじくも表現しているように。親や学校の先生は、子供という「天」から授けられた宝物を相手にその本質である「たましい」に強力に働きかけ、強い影響を与える「尊い」立場にあります。ひとつ間違えれば決定的な悪影響を及ぼしかねない。それは、それは空恐ろしい「しごと」を一手に委ねられた「特権」の所有者。そういう自覚が強く要求されている。だから、それに相応しい能力と、それに見合った人格が必要。人類の師と仰がれるソクラテスは、愛するポリスが自分に死を求めるのならと、進んで毒杯を口にしました。死をも恐れない信念の持ち主が理想なのでした。
2010年11月19日
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私が現在お世話になっている学習塾の講師(現役の大学生です)と草加の居酒屋で懇親会をしている間に驚くべき現象が起きていたのです。それは居酒屋チェーンのワタミが主催する「みんなの夢アワード2010」に、主催際者側から親切なお薦めを頂いてエントリーしたその成り行きに関してなのです。たった半日に投票数が七十から八十に迫ろうかという驚異的な投票数だったからです。これはまさに、ただ事ではありません。「神のご加護」なくしては実現できない出来事なのでした。応援いただいている「無名」の皆さんあなた方の何気無い行為が、実は近い将来重大な「素晴らしい結果」をもたらす事、間違いなしなのです。しかし、です。世の中には時として「奇蹟」と称される出来事が、当たり前の日常の現象のごとく生起している、いな、起こりえている事実をわたし、草加の爺は目の当たりにしたことでした。みなさん、諦めるのはまだ早いのです。奇蹟は、本当の奇蹟現象は「日常茶飯」のごとく極当たれ前にあることなのです、ご承知おき下さい。
2010年11月18日
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知らないことを知る学習することは本来、楽しい筈のこと。それが、そうでないとしたら……、私・草加の爺は大人たちが悪いのだ、と断じざるをえません。まず始めに子供たちの親、とりわけ母親が、日本の社会では特に、育児や躾けの段階で主として家庭や地域社会での教育で「学ぶ」こと、知らなかった事柄を体得する喜びや感動を通して、臨機応変に教育することを殆ど忘れている。ないしはどこかに置き忘れて、その意識の中に無い。そう思うのも、現代では「遊び」の重要性がすっかり看過されているからなのです。私が子供だった頃、東京下町の「ガキ大将」だった話を持ち出しますと、決まって、昔は原っぱや空き地があちこちにあり、子供が自由に遊べた。まだまだ自然が豊かだったから「可能」なのだ。そう決め付けます。しかし、本当にそうでしょうか?豊富な自然。その中で自由に遊びまわる子供。しかし文明は、自然を切り崩し、人工の彼方に押しやってきました。それを私たちは誇りとし、嬉々として自然を征服し続けた。「自然の中の遊び」など眼中に無かったのです。話しが複雑になりますので、それは一応横に置いておいて、さきに進みますと自然が仮になかったとしても、人間は本能的に本来の遊びを欲し、必要としている。そう断言いたします。現にわたしたち当時の子供たちも豊かな自然のみに囲まれて遊びを謳歌していたわけではありません。押入れの中、倉庫の閉じられた一隅、路地裏、都電通り、工場の片隅、畑、川沿いの堤防、橋の下、天井裏、オオトバイの荷台他所の家の庭先、友達の親がいない留守宅、荷物置き場、などなど遊び場は無限にちかく存在し、また創意工夫次第で新たに発見されたもの。わたしが申し上げたいのは、場所の問題ではなく大人たちの遊びに対する意識のことなのです。まだまだ、大きなテーマですので次回以降につづきます、ご期待下さい!
2010年11月17日
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生きている生物、勿論その中にはわたくしたち人間も含まれているわけですが「死」を恐怖し、本能的に嫌悪するのが普通であります。そして死はそれを意識するしないに拘わらず、生者にとって身近な存在である事を知って驚かされます。この私も十年ほど前に、妹を癌で亡くしております。東京築地のあの日野原重明先生がいらっしゃる病院のまるで特別室のような豪華な部屋で息を引き取るのを見守ったなまなましい体験を、今尚、ハッキリと脳裏に焼き付けてもおります。忘れもしません、お医者さんが臨終を告げてから、何秒くらいでしょうかあるいは、数分たっていたのでしょうか?息絶えてはいるが、まるで眠っているかのように見えるベットに横たわった妹の周囲を一瞬、金粉のような輝きがベールのように取り巻いたのでした。「分かったよ、君は美しいよ」思わずわたしはそう声に出していました。その場に居合わせた看護婦さんが、思わず微笑を浮かべながら私を見たくらいです。あれは、一体、何だったのでしょうか……。幻、それとも目の錯覚。とにかく私は妹が、美しいままの自分を私たちに印象付けるためにある種のサインを送ったのだと解釈して、そう口走ったのでした。死には沢山の意味がある。それは生に様々な意味があるのと同様に。そして死はいつでも、どこにいても、それこそ四六時中、私たちの前後左右にまるで「護衛」するかのように、密着しながらわたしたちと共にあるのでした。ただわたしたちがその事実を意識するのがそう頻繁ではない、というだけのこと。細胞レベルでも、死は間断なく常時繰り返され健全なる「生」の営みを「護って」いるわけですから。生あるものは死を避けられない。しかしながら死を、意味あるものに変える努力はできる。それが、せめてもの死者に対する、いまだ生の中にあるわたしたちに許された権利であり、義務とさえ言って良いのかも知れませんネ。いいえ、そう思うことにいたしましょうよ!
2010年11月17日
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ここ数年間、教師の真似事をしていて痛切に感じることがあります。それは、子供たちを心底勉強嫌いにさせているのは親とか教師といった大人たちではないか、ということ。実際に口さえ開けば子供に向かって「勉強しろ、勉強しろ!」とバカの一つ覚えのように勉強を押し付けている母親が、世の中には大勢いるようです。学校で半日勉強、勉強で時間を過ごし家へ帰ってくれば来たで、また教育ママから勉強しろと言われ続ける子供の身にもなってみなさい。私でなくても、そう言いたくなろうというもの。学校の勉強などほどほどにしてお母さんの、家事の手伝いでもしなさい。そう発言する母親が皆無なのは一体どうしてなのでしょう?思い当たることがありました。以前戦後強くなったものが二つある。それはナイロンの靴下と女性、だ。といわれた事。これは、わたし・草加の爺に言わせるととんでもない「俗説」で、戦後弱くなったものは女性と「家庭力」なのです。テレビ・ドラマのプロデューサーとして全国各地を駆け回りましたが、どの地方にも「カカア天下」と「甲斐性なし亭主」の言葉は今日只今も生きている。途絶えてはいない。そういった実感なのです。昔の普通の家庭の奥さんでさえ、亭主を表向きは立てながら、それと悟られないように後ろで上手く操縦する、巧みな技を体得していたのでした。そもそも日本という国は、天照大御神なる世界に珍しい女性の太陽神をいただき古代の邪馬台国の卑弥呼平安時代の藤原氏による巧妙な天皇家支配も有能な女性の力によっていますし武力による武家社会でさえそれを裏から支えたのは賢い女性達だった事実。戦後の急激な経済成長も男達の頑張りもさることながら家庭で縁の下の力持ちに徹した家庭婦人たちの尊い働きがあったればこそ。なにも、女性達にもてたくて強弁のゴマすりを申しているわけではありません。家庭こそ、なにを隠そう、真実の教育、生きた人生教育がなされるべき第一番目のそれゆえに、大切な、重要な場所なのです。女性の社会進出、おおいに結構だと思いますがそれは誠に大きな犠牲の上に築かれた事実を私としては指摘しておきたかったまで。他意はありません。
2010年11月15日
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八苦の娑婆という場合の「八」とは単に7の次の数字8を意味するわけではありませんネ。英語のmanyつまり、数が多い、沢山の、ということです。俗に、楽は苦の種、苦は楽の種と申します。また楽あれば苦あり、苦あれば楽ある、とも。人生万事塞翁が馬、と同様にまるであざなえる一本の縄のごとく苦と楽の、まるで正反対の事柄が密接に絡み合っており、どちらがどちらの原因でもあり、同時にどちらの結果でもあるという、まことにもって複雑至極な関係にある。しかも、わたしたち人間は「楽」のみを追い求め、「苦」を蛇蝎のごとく忌み嫌うのです。楽をのみ望む ― それは不可能だと経験上、あるいは、理屈の上では分かっているつもりなのですが、現実には思いとは裏腹な行動ばかりして、嫌いな「苦」ばかりを身近に呼び寄せてばかりいる。そうした、人間の心情をいわば喝破して見せた表現が、今回のタイトル八苦の娑婆、となった。まさに、平成の日本社会は「沢山の数え切れない苦痛に満ち満ちた困難極まりない、それ故に唾棄すべきおぞましい世界」を現出しているかに思われます。ここで、冷静になって見ましょう。苦はそのまま楽につながっているのでしたね。だったら、私たちの努力次第では、いまのままで即、楽があふれかえっている楽しい楽しい「極楽浄土」が眼前に、直ぐ目の前に迫って私たちに、その実現を強く促している。そう、一回でいいですからポジィティブ思考に切り替えてみようではありませんか。如何でしょうか?
2010年11月10日
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先日、私が所属するCDA(キャリア・カウンセラー)の支部会がありました。その席で、ひとりの有能な女性が時代劇が好きだ、という事実が分かり以前、テレビのプロデューサーとして良質な時代劇の制作に携わった者として嬉しくなったことでした。ところで、時代劇の基調は「勧善懲悪」にあります。そこで、世の東西を問わず、時代を選ばず現世では「悪」のみがさかえる、そして善がたやすく滅びる。そうした不条理が罷り通っているのはどんな理由によることなのか?誰しもが心に抱くぎもんでありますネ。こう考えてみては如何でしょう……、こう書いてふと私の手が止まりました。何故なのかお分かりになりますか?最近、気づいたことなのですが、わたしが関係している学習塾でも生徒が「古屋先生は何でも知っている。天才だ!」と言った発言を耳にします。私・草加の爺は「天才」でもないし、「何でも知って」はいません。ただ、色々なことを知りたい。そう思い努力を続けている。それだけなのです。そして、ソクラテスの弟子を自称し物事をとことん突き詰めて考える習慣があります。その点では「稀にみる」頑固ものです。しかし、またもう一方ではこれも「精神年齢十歳」を自称するように心は、いつもウブで柔軟なつもりですから。しかし、こんな私の態度は、偉そう、傲慢、上から目線……色々と邪推される原因でもあるようです。しかし、義を見てせざるは勇なきなり、と古人の戒めもあることですから、これからも自分は「こう思う」と率直に発言するつもりでいます。どうぞ、異見をお持ちの方は、お聞かせ下さい。喜んで拝聴いたしますので。だいぶ横道に逸れてしまいました。何故に悪が栄え、善が滅びるのか?これがテーマでしたね。ご承知のように、生物界は「弱肉強食」の極め付きの競争世界ですから、強いものが勝ち弱いものが負ける。人間社会もその例に漏れず、いや人間社会こそ、徹底した実力主義。虚名は実力のまえに潰え去るしかないのです。しかし、英雄という名の最強者は常に少数派。力ない弱者は社会の最下層に甘んじざるを得ない私たち弱者はいつでも最大の多数を「誇らざるを得ない」わけ。そこに怨嗟の声が、常に声なき声として社会の底辺に渦巻いている状況が現出する。英雄崇拝の時代は終わり、「人気」という時代の要請が、現代を支配しています。当然建前は万人が平等です。弱者の代表格の、しがない庶民でしかない例えば、わたし・草加の爺は考えるでしょう。自分がこんなに不幸なのは、一体誰のせいだ。じぶんを不当に苦しめている「悪」の元凶は、何処のドイツだ、と。悪とは、見方を変えれば善でもありうる。この命題自体はそれほど複雑でも、理解が難しいものでも、ありません。しかし、生活者として「他人より不当に苦しまされている」と感じている者にとっては、屁理屈と受け取れるかも知れません。こうして、客観的な悪ではなく、主観的な悪が、この世にはあまねく蔓延ることになった。以上が、私流の解釈ですが、読者の、感想、ご意見をどしどし、お寄せ下さい。心より、お待ちします!
2010年11月03日
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