ねこまんまねこの日記

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2024年11月20日
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カテゴリ: 絵画・拓本・収集


哀冊分 とは、高貴な皇族や王室の者の葬儀、儀礼の為に作られる故人を悼む文章で、唐時代以降は石に刻まれたようである。という事は墓誌銘と似ているのだが墓誌銘の場合は発注者は家族だが、哀冊文は皇帝や太子が作るようだ。ここまでは調べた。

西安で拓本を採る仕事をしていた人が持っていた拓本、、、その人がある程度まとめて手放して、それを買った人から譲り受けた。かなり大型である。

これはもしかすると劇的に珍品・貴重なのではないかと思いはじめている。

そもそも皇太子とは次の皇帝になる人物として皇帝が存命中に立てられるもので、それにより皇帝死後の後継争いを避けるための称号であった。しかし唐代になると、生前皇太子に立てられなかった者や皇帝ではなかった者にも、皇太子号や皇帝号を追贈する事例が表れた。

この碑文によれば、亡くなった人物は玄宗皇帝の長男、李琮(710ごろ?〜752)である。千田豊という研究者によると李琮は顔に傷があったため、長男ではあるが皇太子に立てられなかったという。事実玄宗皇帝の次の皇帝は3男の粛宗だった。粛宗が皇太子に建てられたのは740年ごろである。
調べると、母は玄宗の 側室:劉華妃で、 この文からも分かるように死後に玄宗より「靖徳太子」を追贈され、さらに皇帝となった弟の粛宗から「奉天皇帝」と追贈されている。という極めて希な事象らしい。

下部に勅撰、勅書とあるように、皇帝の指示で作られているし、752年に亡くなったならば皇帝は玄宗皇帝の治世で間違いない。玄宗より4年早く亡くなったという事になる。


書丹者は李思詮と書かれている。
行書に近い、、楷書と行書が混ざっているような、流麗な文字である。
歴史ロマンなのである。












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Last updated  2024年12月19日 12時00分41秒 コメントを書く
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