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秋は夕暮れ。中秋の名月を近くの公園で拝みました。目には大きく映るのですが、携帯で撮った写真では小さい。何でしょう、この差は。そういえば、ホタルの光もなかなか携帯では映らない。光の受け取れる範囲が違うのやな。もっというと、人は光と同時にいろいろなものを受け取って、映している。すごいことなんです。これは。当たり前にしていることなのですが。ただ、頭が何かに囚われると、受け取ることができない。感性が閉じるという現象が起きる。機械に近づく?例え近くに光が溢れていても、闇に囚われていては、気づかないともあれ、子どもたちは月より弁当、遊び、といった観。わが家の月、そして太陽?
2013.09.22
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父の訃報を聞いて、文字通り飛んで(羽田乗り継ぎ)秋田に帰った。遺体との対面。手に触れてみる。その冷たさが伝えた絶対的な死。あぁ、ここにもう父はいないのだな、と気づかずにはいられなかった。みんな、気づいているのに、その事実を肯定できずに、遺体に語りかけ、涙する。無念は死者にではなく、生者にある。出棺で、遺体に向いて、改めて最期に一言、などと促され、困ってしまった。言葉、特にああいう時の言葉は、出るものであって、出すものではない。無言が何より能弁であることとてあるのに。
2013.09.11
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数日前のことだが、夢を見た。めったに夢などみないのだが。親父と将棋板を挟んで座っていた。親父はやけに若かった。なぜか嬉しそうに微笑んでいた。ふと、親父は死んだじゃないか、と思った瞬間、親父は消えていた。将棋板を残して。そこで、私は思い切り泣いたのだが、声が出ない。涙もでない。…というところで、目が覚めた。親父が病床にいた時、退屈そうだったので、将棋でも指すか、と促してみた。が、「やらね」と一言返ってきただけ。親父のことは、ひきずっていないつもりでも、まだどこかでひきずっているんだな。
2013.09.06
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およそ一週間ぶりに山口に帰ってきた。親父の葬儀やら何やら、あわただしく時が過ぎ、時間間隔は麻痺気味で、山口に帰り着くと浦島太郎のような(?)感覚を味わった。親父が急に逝ってしまったのは8/24の夜中。7月半ばに末期の肝臓癌と診断されてからひと月とわずかしか経っていない。およそひと月前がそれこそ遠い昔のようだ。その間に、本当にいろいろあったのだが、あり過ぎて、まとめるのに少しかかりそうだ。少しずつ話を紡いでいこうと思っている。(親父が入院した頃は満開だった秋田のハス。葬儀やらを済ませて、返る頃には、もう終わりの様相。秋の風とあいまって、何となく寂しく感じられた。終わりは始まり、とはいうものの...。)
2013.09.03
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