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トレイシー・レイモン「私たちはちょうどいい」シネリーブル神戸 シルバーウィークとかの人出が嫌で家にいました。まあ、「こりゃあかん!」と心配していたダメトラもマグレ!としか思えない連勝で持ち直してくれて御機嫌でしたが、今日から映画館です。「どこで、なに、見るの?」「シネ・リーブルでちょうどいいとか何とか。中国映画ちゃうか?」「気をつけてね。」「行ってきまーす。」 出かける前のいつも会話です。 で、あてズッポウで見ました。理由は、座席がすいてたからです。トレイシー・レイモン「私たちはちょうどいい」でした。 なんで、そう思っていたか、自分でもわかりませんが、中国映画ではなくて、アメリカの女性監督によるアメリカ映画でした(笑)。とても面白かったです。 最近見ていたのが、戦場とか、テロとか、そんなんばっかりでしたから余計そう思ったのかもしれませんが、インディアナとかいう地名が出てきますから、アメリカの真ん中あたりが舞台です。スマホが主役みたいな、今の時代を生きている人たちのこころがどこにあるのかわからないような哀しさを、やさしく励ましてくれる映画でした。 名前がボブ・トレヴィノという、クソとしかいいようのないオヤジ、だから、元の題は「Bob Trevino Likes It」なわけですが、今ではもう老人である、そいつに育てられて、オヤジだからというだけの理由で、そいつのクソな我儘を聞きながら、自分は、自分でクソな境遇で生きているリリー・トレヴィノという、まだ、20歳になるかならないかのオネーチャンが、もう一人のボブ・トレヴィノという、ちょっと暗めなオッサンと偶然知り合いになって、この世の中というのは、そうはいっても捨てたもんじゃない! まあ、そういう出会いと別れを経験する話です。 知り合いになるきっかけがSNS、フェイス・ブックというのが、ボクにはちょっと引っかかりましたが、現代を描くという意味ではリアルですね。お話はよくできていて、涙がとまらないシーンの連発でした。 主人公リリー・トレヴィノを演じるバービー・フェレイラという女優さんの体型がナカナカ個性的というか、デブというより、お尻も、胴回りもデカイという印象で、シルバーウィークに帰省してくれた、我が家のピーチ姫そっくりというか、まあ、顔立ちは主人公ほど可愛らしいわけではありませんが、それもあって釘付けでした。 映画が「父と娘」、「親と子」の葛藤の哀しさを描いていると感じながら見ていたからということもあってでしょうね。我が家での愉快な仲間たちとのあの頃の暮らしのシーンまで浮かんできて、やっぱり、涙なしに見ることはできませんでした。拍手! 先日は字幕なしで苦労しましたが、この映画では覚えた英語があります。YOLO ちょっと、ネタバレですが、You Only Live Onceの略で、訳せばたった一度きりの人生だそうです。 映画の中に、もう一人のボブ・トレヴィノというオッサンとリリー・トレヴィノという娘がキャンプに出掛けて、焚火にあたりながらペルセウス座流星群を眺めながるシーンがあるのですが、最高!でした。 先日見たリドリー・スコットの「ラスト・サバイバー」でも主人公の二人が星空を眺めるシーンがあって心うたれたのですが、この映画の監督トレイシー・レイモンが、たった一度きりの人生をいかに肯定するかに苦心しながら流れる星を、スクリーンが映し出すクヨクヨ哀しい人々の世界の向こう側に描いていることに拍手!でした。 主人公はじめ、登場人物たちの表情がよかったですね。敵役なんですけど、クソな父親を演じた、多分、フレンチ・スチュワートという男優の、何ともいえない鬱陶しさは大したものでした。拍手!監督・製作・脚本 トレイシー・レイモン製作 ショーン・マリン エドガー・ロサ フェリペ・ディエッパ撮影 ジョン・ロザリオ美術 シドニー・マルケス衣装 エドワード・テイラー編集 アニーシャ・アチャリヤ音楽 ジャック・ブラウトバー音楽監修 ティファニー・アンダーズキャストバービー・フェレイラ(リリー・トレヴィノ)ジョン・レグイザモ(ボブ・トレヴィノ)フレンチ・スチュワートローレン・“ロロ”・スペンサーレイチェル・ベイ・ジョーンズ2025年・102分・G・アメリカ原題「Bob Trevino Likes It」2026・09・24・no184・シネリーブル神戸no413追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.25
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ダニエル・ゴールドハーバー「HOW TO BLOW UP」シネリーブル神戸 ここのところ、精神的に引き籠り化してしまいそうなシマクマ君ですが、何とか元気の出そうな映画という気分でやってきたのがダニエル・ゴールドハーバーという監督の「HOW TO BLOW UP」という、全部横文字の作品でした。「どうやって炎上させるか」 かな、とか、「爆破の方法」 かな、とか、ない頭で、あれこれ訳を考えながらやって来ましたが、原題を見ると「How to Blow Up a Pipeline」で、何だ、パイプライン爆破の方法じゃないか!と納得して見始めました。 で、結構、ハラハラ・ドキドキの苦心惨憺の末、テキサスの石油パイプラインを本当に爆破するのがうまくいって、ちょっとホッとしながら、「おー、やった!やった!」 と、思わず拍手!しそうでした(笑)。 まあ、あとからわかったことですが、FBIが「環境テロを助長する!」 と上映に警告したことが話題の作品らしいということを知ったのですが、ボク自身は、こういう方法を選ぶタイプの環境保護思想には、今一、共感できませんし、リアリティも感じませんから助長されるわけではありませんが、この映画のように、たとえば、パイプラインを爆破してやろうと考える人がいることには、何の違和感も感じません。そりゃあ、いるでしょう! たとえばの話、東北の震災で、どこかの電力会社が国と結託してやったことと、その後始末のやり方を、被害の当事者の目で見れば、想定外とかいう無責任用語で開き直った経緯は暴力以外のなにものでもないとしか思えませんからね。そういえば、水俣病の患者さんの公聴会で、患者さんの代表の発言中に平気でマイクのスイッチを切る国の役人がいたことも、最近ありましたね。震災や公害に対する、そういう対応というのは、時代が時代なら、暴力で対抗しようと考える人がいても不思議ではないと、ボクは感じていますからね。 で、映画で、それをやったのは環境保護の活動家とか、パイプライン建設に恨みを持っている人たち、総勢8人で、足がつかないで逃げ切るには多すぎる人数! だと思いましたが、足がつかない工夫もあって、まあ、ちょっとご都合主義でしたが、無事成功という結末でした。 正直、結末には無理がありますね。FBIに限らず、どこの国でも、国家レベルでの情報管理は、もっと、有無を言わせなもので、そんなに甘くないでしょう。 ただ、拍手しながらいうのもなんですが、この映画が「環境テロを助長する」などというのは、むしろ、国家権力による環境保護運動に対する規制強化の正当化発言ではないかという印象で、残念ながら、プロパガンダ作品としては、それほどの説得力は感じませんでしたね(笑)。 余談ですが、環境保護運動とかが、こういう展開への方向性へ向かう一面があるとか、最近、読んだ「文学は地球を想像する」(岩波新書)に出てきましたが、文学研究の分野でもエコクリティシズムなんていう分野がすでにあるとか、なんだかポカン?としてしまいますね。いや、ホント、これからどうなっていくんでしょうね(笑)。監督 ダニエル・ゴールドハーバー原作 アンドレアス・マルム脚本 アリエラ・ベアラー ダニエル・ゴールドハーバー撮影 テイラ・デ・カストロ美術 アドリ・シリワット衣装 ユーニス・ジェラ・リー編集ダニエル・ガーバー音楽 ギャビン・ブリビクキャストアリエラ・ベアラー(ソチトル)サッシャ・レイン(テオ)ルーカス・ゲイジ(ローガン)フォレスト・グッドラック(マイケル)クリスティン・フロセス(ショーン)ジェイミー・ローソン(アリーシャ)ジェイク・ウェアリー(ドウェイン)アイリーン・ベダード2022年・104分・PG12・アメリカ原題「How to Blow Up a Pipeline」2024・06・17・no077・シネリーブル神戸no250追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.18
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ウェン・ムーイエ「歓迎来龍餐館」109シネマズ・ハット 不思議というか、日頃したことのない映画体験をしました。 日本語字幕のない中国の映画、で、舞台が中東ということで、登場人物たちの会話の言葉は、主人公は、もちろん、中国語。進駐軍らしいアメリカ人は英語。で、主人公が中華料理店を開いている、現地、「中東」としか書いてないんですが、多分、イラク。だから、そこにやってくる人たちは、多分、アラビア語、どれもわからないんですけど、字幕が中国語と英語なんですよね。まあ、そうだと知っていて見には来たんですけど、チンプンカンプンでしたね(笑)。 まず、気付いたのは、日頃、日本語字幕って、さっさと読めているんですね、これが英語字幕だと、そんなに難しい単語じゃないんですけど、全くついていけないということでしたね(笑)。 ああ、見たのはウェン・ムーイエという中国の監督の「歓迎来龍餐館」、中国語・英語字幕版です。 中華料理の、だから中国の料理人が中東のどこかの国、多分、アメリカが侵攻していた頃のイラク、出稼ぎに行って中華料理屋さんをやるという話。 上に入場するときに配られたカードの写真を貼りましたが、やたらおいしそうな中華料理のシーンが繰り返し挿入されている映画なのですが、現実には戦場映画。 たとえば、アメリカ兵が現地の少年を指さして「生まれながらのテロリスト!」とかいうシーンとかもあって、それに対して出稼ぎの中国人料理人に何をいわせるのか?というか、中国の監督がアメリカをどう撮るのか?っていうあたりが面白くて、一気に見入ってしまったんですが、その頃には字幕が読めないのもなんのそので、納得の結末でした。 言葉はわからないのですが、主人公のオッさんとか、彼の店を手伝う青年とか、二人になついて料理を覚える現地の少年とか、シーン、シーンの中で、目に語らせるというか、何を伝えたくてそこでそうしているのかが分かる!分かる!という気持ちに、見ているボクを引きずりこむ映画なんですよね。 オッサンとニーチャンが、戦乱の中で孤児になってしまった子供たちを店で働かせたり、気の強い少年に料理を教えたり、ことばはわからないんですが、なんでそうするのかがわかるんです。 銃が乱射され、爆弾が爆発し、次々と人が殺されていく世界に、そこにいるからという理由だけで引きずり込まれたよそ者の料理人のオッさんを人間として描き切った映画でした。拍手! 言葉もわからない所に行って、美味しいものなら通用するはずだ! ただ、その思いだけで、マジメに暮らしている人たちが、お互いに、えらい目にあっている中で、前を向いて生きている姿を見て、アッ、この人達の気持ちわかる!まあ、そういう感動でした。コトバはわからなくても気持ちは通じるんです。拍手! それにしても、なぜこの映画、日本語字幕なしで公開されているんでしょうね。字幕を付ければ評判になる作品だと思うのですが。 見終えて近くに座っていらっしゃったカップルの方に声を掛けると、中国の山東省からいらっしゃっている留学生の方で、「中国では評判の作品ですよ。」と教えてくださいました。勇気を出して訊ねたのですが、嬉しいお返事でした。拍手! 監督 ウェン・ムーイエ(文牧野)キャスト沈騰(シェン・トン)蒋奇明(ジャン・チーミン)オマール・シェリフ李 治廷(アリフ・リー)シャリフ・シャルビエハメド・サリムファルク・ムハンマド葦 青(ウェイ・チン)張 熙唯(チャン・シーウェイ)英題「ONCE UPON A TIME IN THE MIDDLE EAST」2026・09・19・no182・109シネマズ・ハットno89追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.24
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ベランダだより 2022年8月6日(土)「朝顔日記」8月6日のモスラ君 緑色に変わったばかりのモスラ君です。何となく小じわが目立ちます。しかし、昨日のモスラ君とは違います。 緑色になるのを日陰で待っているモスラ君です。昨日は一匹しか見つからなかったのですが、今日は4匹見つけました。 葉っぱが、あちらこちら蚕食され始めているので複数のモスラ軍団になっていることは予想していました。でも、この緑色は見つけにくいのです。 こちらは、かなり小さいモスラ君です。こうして、のぞき込んで、かなり長い時間眺めていても、ほとんど動く気配はないのですが。暫くすると行方不明になります。今年はみかん林がかなり大きいので、かなり食い散らされても、そう簡単にマルハゲ状態にはならないでしょうが、どこにいるのか、見つけるのがたいへんです。 8月6日のアサガオ で、朝顔日記です。ご覧の通りたくさん咲きました。朝早くから日差しが強いので萎れるのも早いです。観察しているシマクマ君がノンビリ朝寝を決め込んでいると萎れてしまいます。 珍しく、足元に青い花が咲きました。でも花柄は小さいですね。アサガオにも、いろいろ種類があるらしいのですが、シマクマ君には色の違いしか判りません(笑)。 日陰側の赤い花のアップです。 外を向いている小さめの赤い花です。 おなじみ、天井近くの青い花です。青い花を咲かせる蔓は、何故か天井近くに蕾ができるようです。写真の光の加減がうまく調節できないので、こういうムードになります。 外を向いている赤い花たちです。正面から撮ろうとすると光の調節がうまくできないので、この構図ばかりになります。教室の窓から外を見ている生徒さんたちを歩もい出します。 天井近くのもう一つの青い花です。同じような光の感じになります。 今日はこれだけです。明日も咲くでしょうか。もっとも、シマクマ君はモスラ君たちの動向に気をとられていて、今日も、アサガオの数を数え忘れていました。まあ、大した意味はありませんが(笑)ボタン押してね!
2022.08.18
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ドロン・パズ ヨアブ・パズ「復讐者たち」シネ・リーブル神戸 ドイツとイスラエルの合作映画だそうです。1945年のドイツが舞台です。 「日本」では第二次世界大戦の終結は1945年の8月15日です。実はこの記事は2021年の8月15日に書いています。この日のことを「日本人」は、なぜか「終戦」などといっていますが、本当は「敗戦」、「無条件降伏」記念日というべき日ですね。 ぼくの浅学の結果ですが、たとえば5月8日が、ヨーロッパでは「戦勝記念日」になっていて、現在のドイツ連邦共和国では「解放記念日」とからしい、なんてことは皆さんはご存じなのでしょうか。ぼくは、よく知りませんでした。 「終戦」というふうに戦争の責任を、どこか他人事化している「日本」ですが、その同盟国だったナチス・ドイツは、ヒトラーがその年の4月30日に自殺し、5月8日が連合軍に降伏したわけで、その日は戦後のドイツ連邦共和国にとってはファシズムからの「解放」の日ということなのでしょうね。 「日本人」にとって、あの「戦争」は何だったのかという「問い」をホッ散らかしたまま、英霊の御霊とかいう言葉が政治の当事者の口から出てくるのを、異様な光景だと思っていますが、ナチス政権下のドイツ国民にとって「ナチス」とは何だったのか、「絶滅収容所」とは何だったのかという「わからなさ」が、やはり、ぼくには残りますね。 例えば、有名なアウシュビッツ収容所は、その年の1月にはすでに解放されています。 大陸の戦線では当然の時間差ですが、この映画は絶滅収容所から生きて帰ってきた男が家族全員の死を知り、ナチスに対する復讐の道を探るところから始まります。 舞台は敗戦直後のドイツの都市です。ようやく連合軍の各国の部隊が到着し始めた時期のベルリンかなとか思いながら見ていましたが、はっきりしたことはわかりません。主役のマックス役の俳優アウグスト・ディールに見覚えがありました。「名もなき人生」という作品でナチスによる徴兵を拒否して死んだ農夫を演じていた人です。こだわるタイプの顔つきなのでしょうね。 まあ、物語は「プランA」と呼ばれた壮大なテロ計画、「600万人の死に対して、600万人の死を」という、ユダヤ人による復讐計画の実行を巡ってのサスペンス仕立てでした。 連合軍のドイツ占領の思惑やパレスチナでの建国計画と絡んで、なかなか面白いのですが、計画事実があったかなったかという興味もさることながら、計画で終わったということは歴史的事実なわけで、映画としては、そのあたりの盛り上げ方が難しかっただろうなという感じでした。実際、アンチ・クライマックスで、平和的なラストで映画は終わります。 もっとも、計画に携わった人たちが、のちのイスラエルで、軍の高官とかになったことが、映画のエンド・ロールだったか、その字幕だったかで伝えられますが、何だか疲れました。 建国後のイスラエルという国の歴史について、無知と無責任を承知で言いますが、この映画が描く「復讐」の心情について、さほどの違和感は感じませんでした。例えば、解放後のフランスなどでも、そういうテロルがあったことを聞いたこともあります。 ただ、建国後のイスラエルの軍部の中に、その「心情」が流れ込んだかのようなニュアンスが語られたところに、なんだか微妙な違和感を感じました。 ドイツ・イスラエル合作とあるこの映画に、誰が金を出しているのか、そこのところを、ホントは知って考えた方がいいのかもしれませんね。監督 ドロン・パズ ヨアブ・パズ脚本 ドロン・パズ ヨアブ・パズ撮影 モシェ・ミシャリ美術 レナート・シュマーデラー衣装 グトルン・ライエンデッカー編集 エイナ・グレイザー=ザーヒン音楽 タル・ヤルデーニキャストアウグスト・ディール(マックス)シルビア・フークス(アンナ)マイケル・アローニニコライ・キンスキーミルトン・ウェルシュオズ・ゼハビヨエル・ローゼンキアーイーシャイ・ゴーラン2020年・110分・G・ドイツ・イスラエル合作原題「Plan A」2021・08・09‐no71 シネ・リーブル神戸no110
2021.08.18
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谷川俊太郎「はだか 谷川俊太郎詩集」(佐野洋子絵 筑摩書房)「さようなら」谷川俊太郎ぼくもういかなきゃなんないすぐいかなきゃなんないどこへいくのかわからないけどさくらなみきのしたをとおっておおどおりをしんごうでわたっていつもながめているやまをめじるしにひとりでいかなきゃなんないどうしてなのかしらないけどおかあさんごめんなさいおとうさんにやさしくしてあげてぼくすききらいいわずになんでもたべるほんもいまよりたくさんよむとおもうよるになったらほしをみるひるはいろんなひととはなしをするそしてきっといちばんすきなものをみつけるみつけたらたいせつにしてしぬまでいきるだからとおくにいてもさびしくないよぼくもういかなきゃなんない 詩人の谷川俊太郎が亡くなったそうです。2024年の11月13日のことだそうです。 11月19日、月曜日の朝起きるとチッチキ夫人が寝ぼけまなこのボクにいいました。「谷川俊太郎がなくなったって。」 で、その日のフェイスブックで、友達が詩人の死を悼んでいました。谷川俊太郎さん「さようなら」ですね。 谷川俊太郎が、もう、30年以上も昔にだした「はだか」(筑摩書房)という詩集をチッチキ夫人が大切にしていたことを思い出しました。 上の写真が、箱装の外箱です。で、これが中の姿です。醜いかもしれませんが、何かの包み紙でカバーしてあって、真ん中にはだかと谷川俊太郎という文字が赤エンピツで書かれています。 ホコリを払って「はい、これ。」といって渡すと「ぼくもういかなきゃなんない、でしょ。」「うん、挿絵は佐野洋子さん。彼って、いったさきで大変ちゃうの?」「そうねえ、少なくとも三人は確実に待ってるからねえ(笑)」 で、これが皮をむいた姿。 美しい詩集ですね。1988年の出版です。挿絵は佐野洋子さん、装幀は平野甲賀さん、最初の詩が「さようなら」です。懐かしいですね。 で、これが、この詩集のオシマイの詩「とおく」のページの写真です。 佐野洋子さんの挿絵ですね。読めますか?読みにくいので、詩は書き写しておきますね。とおくわたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもうただしくんよりもとおくへきたとおもうごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもうもしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりもごろーはいつかすいようびにいえをでていってにちようびのよるおそくかえってきたやせてどろだらけでいつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいたごろーがどこへいっていたのかだれにもわからないこのままずうっとあるいていくとどこにでるのだろうしらないうちにわたしはおばあさんになるのかしらきょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしらここよりももっととおいところでそのときひとりでいいからすきなひとがいるといいなそのひとはもうしんでてもいいからどうしてもわすれられないおもいでがあるといいなどこからかうみのにおいがしてくるでもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける 「うみよりももっととおく」へ行ってしまった谷川俊太郎の声が、やっぱり聴こえてくるようですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.21
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石川啄木「ローマ字日記」(岩波文庫) 夏目漱石と正岡子規の「往復書簡集」(岩波文庫)の話を、この「読書案内」に書いていて、昔、石川啄木の「ローマ字日記」(岩波文庫)という日記のことがテレビのバラエティというか、当時はやっていた、「へ-」の回数を競う番組で取り上げられた時のことを思い出しました。 「ローマ字日記」というのは、全編ローマ字で記されている日記なのです。旧制の中学校を中退してしまった石川啄木は英語やフランス語はできませんでしたが、ローマ字は書けました。だからと言って、どうして、わざわざローマ字なんかで書いたのかと思ってしまいますね。 いろんな説があるのでしょうが、すぐに思い浮かぶ理由の一つは「隠し事」ですね。日記を読む可能性のある人がローマ字を読めなければ隠し事を書き込むことができます。 先ほどの番組では啄木が妻や家族に隠れて「悪所」通いをしていて、その様子が、日記の中で、かなり赤裸々に告白されていることを笑っていました。「へー」のタップを繰り返すタレントたちの表情に、ぼくはわびしいものを感じました。 実際に、お読みになれば、わかっていただける方もいらっしゃると思いますが、この日記が隠したかったことは、妻や家族には言えない裏切りや不道徳行為だったのでしょうか。 日記は貧困と病気と空回りする野心の中で苦しみつづけていた25歳の青年の「苦悩の告白」なのですが、彼が隠したかったのは「絶望」そのものだったようにぼくには思えます。 ロ―マ字で書き始めたことには、むしろ、洋行など夢のまた夢であった極貧の文学青年の「明日」に対するかなわない期待が込められていたのではないでしょうか。 彼が明治の文豪の一人と数えられるようになるのは、死んでから数十年もあとのことです。「石川啄木全集」などという書物が、100年後の図書館の棚に、全八巻箱装で並んでいるなんて、青年「石川一」は夢にも思わなかったでしょう。 七転八倒しながら新しい表現に挑み、夭折した若き天才の不幸な人生を、俗悪で馬鹿なテレビ番組に、仕事とも言えない雛段出演して、食い扶持を稼いでいるテレビタレントが笑うのか。そういう、気分になったことを、今でも覚えています。 ついでですがテレビ局も啄木が浪費したお金は当時の朝日新聞社で筆をふるっていた夏目漱石の原稿を校正する給料の前借だったという事あたりまでを「へ-」の対象にしていれば、少しは認めてあげてもいい感じがしました。 大体、勉強不足なんじゃないですか、テレビなんてモノは。ぼくはその頃から見ないからわかりませんが、今はもっとひどいかもしれません。 啄木は26歳でこの世を去りました。死んでから、友人によってまとめられた歌集『悲しき玩具』の歌をひとつ紹介します。新しき明日の来たるを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど (悲しき玩具) 冷え切った夢や希望を懐に抱きながら、苦闘する青年歌人について、同じ時代を生きた、ニ十歳年上の漱石がどんな眼差しを向けていたのか。実は、どなたもが教科書でお出会いになる「こころ」という作品の登場人物の「先生」と「私」の年齢の差は、漱石と啄木のそれとぴったり一致しているのですね。 そのあたりを小説家の高橋源一郎が「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という小説で書いています。この小説は面白かったですね。 もっとも、この小説では、啄木はポケットだかフトコロだかにポケベルを忍ばせており、貧しいだけの下宿にはビデオを再生できる、多分、テレビ受像機があるという設定になっていますから、お読みになることはお勧めしますが、くれぐれも癇癪を起こさないようにしていただきたいとは思いますが。 追記2022・06・09 何となくネットを検索していて驚くというか、ちょっと笑いましたが、今や、石川啄木も「5分でわかる」時代になっているようです。「5分ですよ、5分。」あんまり簡単にわかり過ぎて、何がわかったのかわからなくなりそうですね。 最近、「100分でわかる」というのがハヤリのようで、それにしても、たとえば「カラマーゾフの兄弟」を100分でわかってどうするのでしょうね。物知りタレントらしい伊集院某は「カラマーゾフの兄弟」全編を読んだことがあって、その感想と、今、100分でわかったらしいことを比べるということはしているのでしょうかね? まあ、なんでもわかりたい時代なのでしょうね。「之を知るを知ると為し、之を知らざるを知らずと為す。これ知るなり」とかいうエライ人の言葉があったと思いますが、そのあたりは、どうなっているのでしょうね。 なんか、当初の目論見と全く違う追記になりましたが、ジジくさくていいなと思うので、このまま載せることにします(笑)。 ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 日本文学盛衰史 講談社文庫/高橋源一郎(著者) 【中古】afbこれは傑作だと思います。今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇 [ 高橋 源一郎 ]まだ単行本ですが、図書館ででもどうぞ。面白いですよ。
2019.08.02
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石塚真一「BlueGiantExplorer 2」(小学館) 石塚真一の「BlueGiantExplorer」(小学館)、第2巻が「ゆかいな仲間」ヤサイクンの3月のマンガ便で届きました。 「BlueGiantExplorer」は宮本大君のジャズ修業アメリカ編ですが、第1巻でシアトルに上陸した宮本大君が、第2巻では、ホンダの中古車を手入れ、大陸横断の旅をスタートします。 オハイオ州ポートランドがアメリカ編の二つ目の舞台です。下の場面は、シアトルを出発した宮本大君が、ヒッチハイカーのジェイソン君を載せてポートランドに到着したシーンです。 ここまで、石塚真一の「BlueGiant」を読んできましたが、何となく気づいたことがあります。 このマンガは確かにジャズ・ミュージシャンとして、世界の頂点に立ちたいという少年の夢を描く、実に素朴な「ビルドゥングス・ロマン」なのですが、ここまで読者であるぼくを引っ張り続けてきたのは、宮本大自身のキャラクターや、音楽演奏の感動的な描き方も大切な要素なのですが、どうも、このマンガのいちばんの肝は、宮本大君が出会う脇役たちの描き方なのではないかということに思い当たったのです。 少年マンガには、ある意味、常道ですが、主人公を成長させていく、他者として登場するライヴァルたちがいます。たとえば、「初めの一歩」にしろ、「あしたのジョー」にしろ、ボクシング・マンガがおもしろいのは戦う「相手」がいるからだということはすぐにわかるわけです。しかし、ミュージシャンの演奏の成長に「敵」はいるのでしょうか。 かつて、石塚真一が描いた「岳」では、山が相手でした。技術的な成長以上に、山という「自然の厳しさ」が、ライヴァルとして立ちはだかり、それに向き合う主人公の「内面」の描き方がマンガを支えていたと思います。 「BlueGiant」でも、ここまで、「最高の音楽性」という高みを目指す主人公の描き方を「岳」とよく似ています。 しかし、音楽の「高み」は物差しで測ることが出来る「山」ではありません。新しく創り出し、新しく生まれるものです。人それぞれの「好き好き」を超えた「高み」はどうすれば描けるのでしょうか。 で、石塚は「人」を描くことにしたのだというのが、ぼくが、ふと、気付いたことでした。そう思って読み進めると、音楽関係者ではない、印象的な登場人物が何人か登場します。 上のシーンで登場したジェイソン君もその一人です。彼はスケート・ボードを楽しみ長旅を続ける、アメリカ文学でいう「ホーボー」と呼ぶべき流れ者ですが、彼との偶然の出会いは、宮本大に音楽の「外の世界」の広さを教えます。 この巻に出てくる、もう一人の、印象的な脇役は、ひょっとしたらヒロインになったかもと思わせるコーヒーショップの女性シェリル・ハントです。 毎朝一杯のコーヒーを飲むために立ち寄ったお店で出会った女性ですが、彼女の最後の言葉が素晴らしいのです。「私とアナタは、凄く違うんだね。」 シェリルがいった言葉ですが、人と人の遠さを、互いの存在に対する敬意として描いた石塚真一をぼくは信用します。 表紙の宮本大の眼差しも、厳しさを加えつつありますね。彼が、どこまで「少年」であり続けられるのか、ますます楽しみですね。追記2022・03・31第3巻・第4巻・第5巻の感想書きました。よろしけれは覗いてみてください。
2021.03.19
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石塚真一「Blue Giant Explorer 5」(小学館) 2022年3月のマンガ便に入っていました。石塚真一の「Blue Giant Explorer 5」(小学館)、第5巻です。「アニメ映画化!!2022年公開ッ!!」という腰巻が派手についていました。「これ、アニメになんねんて。」「まあ、な。単行本で売っててもたいしたことないというか、それなりに人気あるから、いろんなとこに仕事増やしてというかんじかな。」「ええねんけどな、アニメにしたら音入るやんな。」「うん。」「演奏の音どうすんのかなって思うねん。ヘタしたら、ドッチラケにならへんか。」 ヤサイクンのいうことは一理ありますね。宮本大って実在のミュージシャンじゃないわけで、石塚真一の夢(?)の産物なのですが、だからこそ演奏シーンが面白いのですよね。いやはや、どういう手を使うのでしょうね。 で、第5巻です。第4巻で予告されていたジェイソン君との別れから始まります。笑ってさえすれば、もう一回、いや・・・・何度だってチャレンジできるんだ。HAHAHAHA. 一人になった宮本大くんはアリゾナ、有名なモニュメント・バレーとか通過してニュー・メキシコ州のアルバカーキ―にやってきます。ホンダのアコードの一人旅です。カリフォルニヤ州の南端サン・ディエゴから二泊も三泊も野営しての旅です。アメリカは広いですねえ。 アルバカーキ―に到着し大くんはオケラです。何とか稼がなければ旅をつづけることはできません。で、見つけたのがジャズ・クラブの皿洗いでした。 今回の人との出会いは一味ちがいます。このジャズ・クラブのマネージャーのこんな一言で、その仕事は始まりました。あ、そうだ、君・・・・。レッスンできる?レッスン?うちのステージの常連のスティーブっていう老テナープレーヤーがいて、彼はサックスの先生でもあるんだが、先週から体調が悪くて入院。退院までステージにも立てず、レッスンにも行けなくなってしまった。誰かかわりにレッスンに行ってくれたらってボヤいてたんだけど・・・・君できないか?Yes I can!! というわけ、今回は家庭教師で稼ぎます。サックスとかの個人レッスンです。生徒は、とにかくでかい音を出したい小学生ハリー、チャーリー・パーカーやレスター・ヤングのように優しく、軽やかに吹きたい老女キャロル、ゆっくりうまくなりたい、めんどくさがりの中年男アクセル、そして、もう一人が「数学的に速く」吹きたい高校生くらいの少女ニーラでした。 このマンガには毎号、巻末に宮本大がアメリカで出会った人たちの「今、現在」のコメントが載っています。付録ですね。第5巻はハリーとニーラのコメントです。ニーラの分はこうです。 ニーラは、今、東海岸のボストンにいるようです。あれから何年たったのかはわかりませんが、語っているのはあの時の思い出です。そうだ、「Honeycomb(ハニカム)」には取材に行きましたか?あ、でしたらぜひ行ってみてください。あのバーで先生は伝説的なライブをしたそうです。すごく盛り上がったって聞いてます。きっと、私達のアルバカーキ―の発表会くらいね!! アルバカーキ―の発表会の様子は、第6巻のお楽しみです。そうそう、4巻に登場したアントニオ君、やってきましたよ。5巻ではニーラとハリー、キャロルおばさん、アクセルおじさんの発表会の伴奏で演奏デビューするはずです。こちらもこうご期待ですね。じゃあね。
2022.03.27
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倉多江美「お父さんは急がない」(小学館) 古いマンガです。ピーチ姫の棚に並んでいたので手に取ってみるとやめられません。倉多江美さんの「お父さんは急がない」(正・続)の二冊です。 今回の案内は正編ですが、手元にあるのは正編は2000年、続編は2003年の初版です。「プチフラワー」という月刊誌に連載されていたようです。 なにが面白いといわれても困ります。しなければならないことがほぼなくなったヒマな老人が読むのに、絵柄の大人しさとか、ただの日常のお話の、まあ、何も起こらなさとか、ともかくテンポがちょうどいいのです(笑)。 相羽さんというご家族の話で、お父さんが日本棋院のプロ棋士、お母さんはパート、お嬢さんがいらっしゃって佐江子さん、私立の女子高の3年生、息子さんは卓(たかし)君、小学校六年生ですね。 ここで案内しようと思って、お父さんとお母さんのお名前をさがし直しましたが、どこにも見つけられませんでした。そんな感じではないのですが、高3の佐江子さんが主人公なのでしょうかね。まあ、一応は少女マンガのということで描かれているわけですからそうかもしれませんが、少なくとも語り手は彼女のようです。 適当に引用してみますね。 まあ、こんな感じです。夜は、町内にの商店街の福引で当たったホテル料理を食べに行くという、一家の朝食の場面ですが、前のページからセリフを拾うとこうなります。「美味しいものを食べに行くんだから今日はおなかを空かせておかないと」「わたしもご飯いらない 太る」「久しぶりよねホテルで食事なんてお父さんの稼ぎじゃむりだもんね」「お前はすぐそういうイヤ味を言う」 父の職業はプロ棋士 つまり碁打ちである「あらイヤ味じゃなくて事実じゃない せめて五段になってくれたら対局料もちがってくるのに ネ~」 四段で止まったまんまよ 勝負師のくせにピリッとしないの「じゃあ これふりかける」「アハハいいかも」「・・・・ごちそうさま」「あら卓もういいの」「うん」「行ってきまーす」 弟の卓は六年生になってやはりプロ棋士志望である「お金持った」「うん」 土日は院生の対局日だ「終わったら地下鉄のところでまちあわせだから わかった」「うん」 卓は勝手に日本棋院の院生採用試験を受け合格した 母は卓が弁護士か医者になってくれることを夢見てた「気を付けて」「ああ~勉強のできる子だったのに」わたしはというと二流の短大の付属の女子高に通いとうとう三年生にまってしまった「漠然とした不安」 まあ、こんな感じです。シマクマ君の唯一の趣味が、かつては囲碁だったこともあって、ときどき出てくる囲碁用語や対局場面の描写が気にならないというか、むしろ、好きなことも読み続けらる理由かもしれません。作者の倉多さんは、別に囲碁に詳しいわけではないらしいのですが、最後にお描きになったのが碁打ちの家族漫画というのも、すこしふしぎです。でも、違和感は全くありません。で、出来事といって、別に何にか起こるわけではありません。食事をしたり、墓参りに行ったり、ああ、それから囲碁の対局のシーンがあったりするだけです。イヤ、ホント、なにも起こりません。 初めて読むマンガ家ではありませんが、しかし、この、倉多江美さん、なにがどうといえるわけではありませんがなかなかやりますね。 調べてみると、1950年生まれ、ただ今、73歳で、ご存命のようです。ただ、マンガの創作はこの作品が最後のようです。事情はわかりませんが、ザンネン! ですね。 「続 お父さんは急がない」の感想はこちらの題名をクリックしてみてくださいね。
2024.02.06
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「オッ!さんぽ リハビリは楽し(笑)。」 徘徊日記 2025年9月26日(金) 団地あたり 今日は、2025年9月26日の金曜日です。金曜日は右肩骨折のリハビリの日で、朝から病院通いです。病院では作業療法士のオねーさんに30分ほどいじめられる時間があって、痛い目にあうのですが、終わるとスッキリです。 一月前に比べると、ここ数日、めっきり秋風のようなものが吹いてきていて、団地の野原にはつゆ草です。 つゆ草が、ホントに秋の花だったかどうか、実はよくわかっていません。でも、灼熱の夏が過ぎたことは確からしくて、しばらく歩くとヒガンバナです。やっぱり秋です! こっちは、誰が何といっても秋の花でしょう。 で、野菊も咲き始めています。今年初めて菊の花らしきものを見ました。重陽の節句も、お彼岸もとっくの昔に過ぎたんですが、「やっと秋!」 待望の涼しさの到来ですね(笑)。 で、期待はこっちです。団地の緑の世話をしている方によれば「甘柿」だそうです。 期待してしまいますねえ(笑)。団地のなかには数本の柿に気が合って、それぞれ実の数だけでいえば、かなりな豊作です。手の届くところにたくさんなっています。もう少しで食べられそうです。みんなの柿ですが、まあ、一つ、二つなら叱られることもないでしょう(笑)。 その下に咲いていたのがこれ、朝顔です。 だから、あなたの出番は終わったんですよ。まあ、そういう気分ですが、百日紅も芙蓉の花も、まだまだ元気です。 体の具合も、痛いには痛いのですが、回復に向かっているというだけで元気が出ますね。リハビリは、やっぱり帰りが楽しいです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.09.27
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(3)」(集英社) 「ゴールデン・カムイ」第三巻ですね。まだ、話の全体の姿は見えてきません。しかし、役者がそろい始めました。 表紙をご覧ください。この殺気にみちた老人、手にしている銃はウィンチェスター・ライフルM1892、腰に差している刀は「和泉守兼定」ですね。そうなるとこの人物は明治2年、函館、五稜郭で狙撃された「燃えよ剣」のあの人、土方歳三です。 マンガの舞台は日露戦争直後、明治40年代の北海道ですから、史実としては享年34歳で死んだはずのこの男は70歳をこえた老人というわけです。どうして土方がこのドラマに登場するのでしょう。そのあたりは作品で確認いただくとして、土方歳三の相方として登場するのが元新撰組随一と称された剣の達人永倉新八です。 永倉新八という人は、沖田総司(紹介するまでもない人気キャラですね)や斎藤一(マンガですが「るろうに剣心」で敵役をした人)よりも強い使い手だったことは有名ですが、もともと松前藩の出身で、大正年間まで北海道で生きていたそうです。月形町の「樺戸集治監」とのかかわりが、この「ゴールデン・カムイ」に出てきますが事実のようですね。看守に剣術を教えていたそうです。ネットでお調べになると写真もあります。マンガの絵は、それによく似ていますよ。 ついでに土方が手にしているウィンチェスター銃ですが、「ライフル・マン」とか「ララミー牧場」で育った世代には懐かしいですね。その銃が何故ここに登場するのでしょう。 維新戦争を戦った双方が手にしていた銃器は基本的に輸入製品ですね。アメリカの南北戦争が終わったのが1865年ですが、その結果、余ったり、使い古したりした大量の銃や大砲が誰に売られたのか、海の向こうで国内戦争はじめた人たちですね。だから、ここでこの銃がでてくるのは、結構リアルなんです。 日本の国産の銃の始まりは「悪夢の熊撃ち」としてこのマンガに登場する二瓶鉄造の愛用する「村田銃」ですが、軍用銃としては「杉元君」が手にしている「三十式小銃」ですね。この銃が日露戦争後、改良され旧日本陸軍の「三八式歩兵銃」へと進化?)するわけです。 余談が長引きましたが、話を戻しますが、元新撰組のこの二人が、「不死身の杉元」君、「アシリパ」ちゃん、エゾオオカミ「レタラ」君と「脱獄王・白石由竹」君たちの対抗馬(その一)というわけです。対抗馬(その二)については第4巻で紹介しますね。 さて今回の「お料理講座」です。「サクラ鍋」ですね。馬肉料理。ここではアシリパちゃんが新しい味に挑みます。 そうです、ついに「オソマ(ウンコ)味」を克服する瞬間ですね(笑)。「サクラ鍋」はみそ味に限るというのが杉元君と白石君の意見ですが、異文化理解はいつの時代でも、どこかの舞台から飛び降りる勇気がいるようです。それにしても可愛らしく描いていますね。 これはエゾシカ、鹿肉の食べ方です。ステーキというか「ディア・ロースト」というか、うまいに決まっているでしょうね。 三巻は「お料理シーン」が少なかったですね。代わりに鉄砲のお話でした。では次号をお楽しみに。追記2020・01・30「ゴールデン・カムイ」(第一巻)・(第二巻)・(第四巻)の感想はそれぞれクリックしてみてください。追記2020・10・30最新刊まで、一巻ずつ感想と案内を書こう答という目論見は頓挫しています。続けることは、なかなか、むずかしいですが、本編は今、23巻進行中です。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.01.29
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メアリー・ブロンスタイン「ワンオペレーション」シネリーブル神戸 イヤーァ、予告編を見て、見るからにめんどくさそうなのでどうしようかと迷ったんですけど、封切日に見ました。メアリー・ブロンスタインという女性の監督の「ワンオペレーション」です。 チラシの女性はリンダさんとおっしゃる主人公の女性ですが、なんとも、お疲れの表情ですね。見終えた徘徊老人も疲れました(笑)。 主人公のリンダさん、配偶者というか、夫というかはいらっしゃるようなのですが、どうも、出張族のようで、小学生ぐらいのお嬢さんと二人暮らしのようです。 で、このお嬢さん、ご飯が食べられない、だから、摂食障害っていうのですかね、胃瘻っていう、あれで経管栄養摂取していて、学校にも送り迎えがないと、自分では行けないようなんです。 リンダさん自身はカウンセラーを仕事にしている女性です。夫は軍人らしくて年から年中出張暮らしのようですが、やたらスマホで電話してきて、夫する人です。 というわけで、主人公の女性は、所謂、シングルマザーというわけではありませんが一人です。 で、まず、彼女が住んでいる家が、突如、壊れます。現実に天井が落ちて水浸しです。なぜ、そうなったのか最後まで分からない所が、ちょっと納得がいきませんが、主人公の気持ちは想像できます。 で、取りあえずの娘と二人でモーテル暮らしですが、娘や仕事相手との人間関係が壊れます。予想通り、最後は心が壊れます。見ていて、笑えません。ただ、ただ、可哀そうなだけです。 「ワンオペレーション」という題名は、多分、「一人で背負い込む」という意味だと思いますが、元の題は「If I Had Legs I'd Kick You」で、この映画を作った人の怒りがさく裂している印象でした。 のけぞりながら、でも、やっぱり、拍手!でした。 男女平等とか、女性解放とか、フェミニズムとか、ズーッと耳にしてきました。最近のことはよく知りませんが、結局、働いて、結婚して、子どもを産んで育てている女性を正面から撮るとこうなっているのが現実社会なのですね。 生活や家族、子どものことは配偶者に任せて、自分はまともな社会人でいるつもりの男性の多くは、この作品の主人公を、自分とはかかわりのない世界の住人として笑うか、あるいは、わけ知り顔で心配したりするかもですけど、多分、これが、ボクたちが暮らしている社会の実情でしょうね。 まあ、ボクも男性の一人なわけで、だからこそ、とことんメンドクサイ映画としてため息をついて見終えたわけですが、目を背けることはできない世界であることは確かですね。 監督で、出演もしていたメアリー・ブロンスタイン、徹底的に孤独なリンダを演じたローズ・バーンに拍手!でした。監督・脚本・出演 メアリー・ブロンスタイン撮影 クリストファー・メッシーナ美術 カルメン・ナビス衣装 エリザベス・ウォーン編集 ルシアン・ジョンストンキャストローズ・バーン(リンダ)コナン・オブライエン(同僚セラピスト)ダニエル・マクドナルド(キャロライン)クリスチャン・スレイター(チャールズ)エイサップ・ロッキー(ジェームズ)メアリー・ブロンスタイン(プリング先生)アイビー・ウォルクラーク・ホワイトダニエル・ゾルガードリデラニー・クイン2025年・113分・PG12・アメリカ原題「If I Had Legs I'd Kick You」2026・09・18・no181・シネリーブル神戸no412追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.20
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池部 良「ハルマヘラ・メモリー」 (中公文庫) 塚本晋也監督の映画「野火」を見て、いろいろ心騒ぐ印象を受けました。映画を見終えて、大阪の九条の商店街を歩きながら、まず「原作、大岡昇平さんの『野火』と違うな」 と思いました。 つぎに、「人肉食」をテーマにした小説、武田泰淳の「ヒカリゴケ」と野上 弥生子の「海神丸」を思い出しました。 が、自宅に帰って引っ張り出したのは、「野火」でした。ぼくの中に残っている、昔読んだ印象では、この小説のポイントは、なんといっても、戦場で「田村一等兵は人肉を食ったのかどうか?」 ということでした。彼の左手が、右手がすることを制止したのかしなかったのか、それが記憶の山場でした。ところが小説を読みなおしながら、もう一つ思い浮かんできました。 「確か、俳優の池部良が何か書いてたはずやなあ?」 そういう、遠い、あやふやな記憶のようなものでしたが、それが、今回案内する池部良「ハルマヘラ・メモリー」(中公文庫)です。「え?池部良をご存知ない?」 うーん、簡単にいえば「昭和」の二枚目。今井正監督の「青い山脈」で原節子の相手役。「昭和残侠伝シリーズ」では高倉健のダチで、必ず死ぬ人。晩年はエッセイスト。 ぼくが若くて、映画に呆けていたころ、どなたがおっしゃったのか忘れているのがザンネンですが、「キネマ旬報」か何かのコラムで「本物のヤクザ」に一番近い「目」をしている というのがあっって、エラク納得したことがある人。でも、これも、かなり遠い記憶。 もっとも、ここで案内しているのは、映画スター池部良ではなくて、1995年、「婦人公論」に連載した、従軍記、「ハルマヘラ・メモリー」ということで、本の話に戻ります。 僕が、北支那・保定予備役士官学校を卒業し、初めて士官として勤務に就いた隊の名称は、第三十二師団衛生隊・輜重(輸送)第二中隊。北支・山東省嶧県が隊の所在地。昭和19年・冬のこと。気温・零下五度。 これが書き出しです。彼は1918年生まれだそうですから、26歳で中隊の見習士官として入隊したわけです。中隊に赴任して、中隊長からこんな話があります。 「僕も君も、大学を出た幹部候補生上がりです。山下准尉とか、ほかの下士官の人たちからみると、大学での将校って、不愉快なんじゃないでしょうか。彼らは長い間、軍隊にいて、たたき上げてきたベテランなのに、たった二年在隊したぐらいで、将校になって。そんな奴に命令されるのが嫌なんでしょうな。 その気持ち、わかりますけどね。制度なんだから仕方がないでしょう。きみはどうかしりませんが、ぼくはすきこのんでぐんたいにはいったんじゃありません。」 僕だって、首根っこ、押さえられて、いやいやで軍隊に入れられたんです、と抗議しようとしたら、「でも、事情はともあれ、将校になってしまったんですから、なんとか職責を果たさなければ、まずいでしょう。軍人としても社会人としても責任を感じないわけにはいきません。ということですけど、池部君、君に中隊を任せます」と言われた。 なんかとんでもない話ですが、ともかくも、こうやって始まった北支での衛生隊勤務は、ベテラン下士官にいじめられ、30歳を過ぎた初年兵に気を使い、酷寒の地の冬を、ただ、ただ忍耐で過ごします。 すると、今度は、部隊ごと、南方への転戦、いや前進を命じられ、上海まで列車で南下、呉淞(ウースン)から輸送船「天空丸」2500トンに乗船します。 船に乗って、ようやく教えられた「前進」先はフィリピン。ミンダナオ島、ダバオ港。ここからが船旅で、それでも、無事マニラに到着。そこから、すでに制海権を失っているセレベス海に入ったところで、ニューギニア島の近くにあるハルマヘラ島行きを命じられます。航海はあと一日です。ここまで、慣れぬ船旅、船底の解雇棚の苦闘、兵への気遣いに疲労困憊の様子が延々とつづられているのですが、何故か読むのがやめられません。 なんか、愛嬌があるのです。文章に。戦争なのに、戦争と思えない日常性。思い出話によくある「美化」があるわけではありません。どっちかというと、反省文的です。 「二中隊、池部少尉です」と床の奥に声をかけたら、一〇燭の裸電球に、黄色く浮き出た顔が「俺、本部の主計中尉だ。上がれや」と言う。這い上がって彼の横に寝た。座っても頭が天井に支えるから、寝そべる以外に手がない。「ここにな。三〇万の包みがある。何かあって、お前、拾ったら、お前にやるよ。陸軍のものだといったって証拠がにゃあもんな。」と主計中尉はいった。 そのときだった。激烈な爆発音。弾かれるほどの震動。耳の穴に鉄棒を叩きこまれ、額を天井の鉄板にたたきつけられて、気を失った。 輸送船は魚雷命中で、沈没。370ページの本編の220ページまで読み進んできて、初めて池辺地少尉が敵と遭遇した場面にたどり着きました。 この後、漂流する海中から運よく(?)救助され、なんとかハルマヘラ島にたどり着き、今度は米軍の空襲にさらされ、食料を失い、武器は役に立たず、マラリヤにうなされ、餓死の一歩手前で敗戦の詔勅を聞きます。 某日、砲兵隊から下士官が兵を三名連れてやって来た。久しぶりの他隊の兵だ。「明日、十時、池部中尉殿は、砲兵隊本部に出頭して戴きたくあります」という。「出頭?何の用だ?」「はい、実は、畏くも天皇陛下の詔勅が下りまして、戦争が終わった、とのことです。その伝達だと思います。」と言って戻って行った。驚天動地。目に映るものが、みんな乳白色になって困った。もし、本当に戦争が終えられたとしたら、もう、死をも、部下の命をも考えなくても済むと思ったら、胸のつかえが消えた、と同時に、乳白色の森や兵の姿に紅色が滲んで来るのを覚えた。 その次の瞬間、こんな、南のジャングルにまで、俺は、何をしにやって来たんだ、の思いが込み上げた。 池部良の従軍回想記は最後に、次の一行を記して、ここで終ります。復員船が来たのはそれから十か月後である。 大岡昇平は「俘虜記」と題して、復員後すぐに戦場体験を書くことで、戦後文学のスターになりました。池部良は戦後の映画界で、屈指の二枚目スターとして、50年の歳月をすごしたのちに、「愚かで無能な見習い将校姿」を、「戦場の自画像」として描きました。 スクリーンで女性客の心を掴んだ、ニヒルな笑顔が、実は、栄養失調で抜けてしまった結果の「総入れ歯」の笑いであり、「青い山脈」の高校生のヒーロー金谷六郎が、三十歳を過ぎた復員兵の演技 であったことは忘れられています。 本書は、戦場で口にすれば、生き永らえることすら難しかった「本当のことば」 を、なんとしても書き残したかったに違いない気迫が、ニヒルなユーモアの中に木霊している、希代の演技者の自画像であり、ここにも、戦争の、愚かな真実が、くっきりと書き残されているとぼくは思いました。乞うご一読。追記2020・01・09 映画「野火」の感想はここをクリックしてね。ボタン押してね!にほんブログ村風、凪んでまた吹いて【電子書籍】[ 池部良 ]【送料無料(新品DVD)青い山脈〜前後編〜 名作邦画 主演:原節子 池部良 杉葉子 監督:今井正 これです!
2019.10.13
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原泰久「キングダム 55巻」(集英社) ヤサイクンのマンガ便に「キングダム」の最新巻(2019年・11月現在)が入っていました。ヤサイクン家の「愉快な仲間たち」のチビラ1号ことコユちゃん姫もハマっているらしくて、彼女はまだ小学4年生だったはずですが、ついていけるのでしょうか。 もっとも、愉快な仲間のヤサイクンの従妹には、小学生の分際で「池波正太郎」先生の時代劇に読みふけっていた少女もいたような記憶がありますから、大丈夫なんでしょう。なんといっても「キングダム」には「絵」がありますからね。 さて、最新刊、「秦」対「趙」の決戦の最中です。「朱海平原の闘い」ですね。「李牧」率いる十二万の趙軍と、「王翦」を総大将とする八万八千の秦軍の闘いが十四日目を迎えているところです。 趙軍左翼では、「趙峩龍」の軍が「飛信隊」と戦っています。「趙峩龍」は「信」との一騎打ちのさなかに、かつて「馬丘の戦い」で「王騎」と相まみえた、今は亡き宰相「藺相如」の言葉を思い浮かべながら、「信」に打ちかかります。「争いにうんざりしている中華は一つになりたがっている。」 そう語り始めた藺相如は、こういったのです。「中華を一つにする剣がある。その剣を手にする『敵』に出会ったときはー」「全てをかけてそいつを殺せ」 受けて立つ「飛信隊」隊長「信」、のちに「李信」として、歴史に名をのこす男ですが、「ファーストエンペラー」=始皇帝、秦王「嬴政」の莫逆の友ですね。「俺は中華を統一する王、嬴政の、金剛の杖だ。」「そして俺は、俺はっ・・・」「天下の大将軍になる男だっ!!」 これで、趙軍左翼に大きな穴が開き、歴史が動き始めたようです。 しかし、それにしても、この後どんなドラマを描き続けるつもりなのでしょう。はたして原泰久は生きているうちに、秦王、嬴政(えいせい)に「中華統一」を果たさせることはできるのでしょうか? まあ、それはともかく、次回はいよいよ「朱海平原の戦い」、決着に向かって動き出しそうです。楽しみですね。(記事中の画像は、手元にある五十五巻の写真です)追記2019・11・12映画「キングダム」・「キングダム」(56巻)・(57巻)の感想は、それぞれをクリックしてください。追記2022・08・18 実写の映画化がすすめられて、この夏「キングダム2 遥かなる大地へ」が封切られています。第1作の「キングダム」が封切られたのは2019年ですが、ファンとしては観ないわけにいかないわけで、まあ、見てしまうと不満はあるものの、しっかりはまってしまって、「キングダム2 遥かなる大地へ」も観てきました。マンガなら10巻あたりの進行ですが、なかなか、面白かったですね。感想はいずれ書くのですが、「キングダム」の感想は、この題名をクリックしてみてください。にほんブログ村ボタン押してね!キングダム 54 (ヤングジャンプコミックス) [ 原 泰久 ]
2019.10.01
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。 追記2024・08・04アニメの「風が吹くとき」を見ました。1986年に作られたアニメの日本語版でした。絵本よりもきついです。感想をブログに載せました。上の題名をクリックしてくださいね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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内田百閒「冥途・旅順入城式」(旺文社文庫) 久しぶりに、内田百閒のことを思い出したのは、松山巌の「猫風船」(みすず書房)という作品集を読んだからです。猫つながりなら「ノラや」(中公文庫)なのですが、ああ、いうまでもありませんが「ノラや」は「ノラや」ですごいですが、なぜか「冥途・旅順入城式」(旺文社・岩波、それぞれ文庫)です。 で、月に一度の集まりで続けている小説を読む会の課題に推すと、皆さんが「読む、読む。」 ということで、読むことになりましたが、集まって感想という段になると、皆さん投げ出したようで、まあ、困ったものなのですが、ただ一人読み終えてきた小説読みの達人Mさんがこうおっしゃいました。「この作品集を、一泊二日で一気読みするのは無理ですね。著者内田百閒自身が『旅順入城式』の序文で『余ハ前著「冥途」ヲ得ルニ十年ノ年月ヲ要シ』いっていますが、『冥途』は全部で18篇、ということは、1篇につき、ほぼ半年の日時を要したということですから、読むほうも、まあ、月に1作というくらいのテンポで読むのが妥当なんじゃないかと思います。皆さんが、忙しさの中で一気読みを目指したのは、そもそも間違いかもしれませんね(笑)。」 なるほど、至言!ですね。で、まあ、「推し」の張本人ということもあって、読んではいたのですが、思いつきました。じゃあ、書き写してみるという手もあるな。 で、早速、書き写しました。ヒマなんですねえ(笑)。冥途 高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく夜の中を走つてゐる。その土手の下に、小屋掛けの一ぜんめし屋が一軒あった。カンテラの光が土手の黒い腹にうるんだ様な暈(かさ)を浮かしてゐる。私は一ぜんめし屋の白ら白らした腰掛に、腰を掛けてゐた。何も食つてはゐない。ただ何となく、人のなつかしさが身に沁むやうな心持でゐた。卓子(テーブル)の上にはなんにも乗つてゐなかつた。淋しい板の光が私の顔を冷たくする。 私の隣の腰掛に、四五人一連れの客が、何か食つてゐた沈んだやうな声で、面白さうに話しあつて、時時静かに笑つた。その中の一人がこんな事を云つた。「提燈をともして、お迎えをたてると云う程でもなし、なし。」私はそれを空耳で聞いた。何の事だか解らないのだけれども、何故だか気にかかつて、聞き流してしまえないから考えてゐた。するとその内に、私はふと腹がたつて来た。私のことを云つたのらしい。振り向いてその男の方を見ようとしたけれども、どれが云つたのだかぼんやりしてゐて解らない。その時に、外(ほか)の声がまたかう云つた。大きな、響きのない声であつた。「まあ仕方がない。あんなになるのも、こちらの所為だ」 その声を聞いてから、また暫らくぼんやりしてゐた。すると私は、俄にほろりとして来て、涙が流れた。何といふ事もなく、ただ、今の自分が悲しくて堪らない。けれども私はつい思ひ出せさうな気がしながら、その悲しみの源を忘れてゐる。 それから暫らくして、私は酢のかかつた人参葉を食ひ、どろどろした自然生(じねんじやう)の汁を飲んだ。隣の一連れもまた外の事を何だかいろいろ話し合つてゐる。さうして時時静かに笑ふ。さつきの大きな声をした人は五十餘りの年寄りである。その人丈が私の目に、影絵の様に映つてゐて、頻りに手真似などをして、連れの人に話しかけてゐるのが見える。けれども、そこに見えてゐながら、その様子が私には、はつきりしない。話してゐる事もよく解らない。さつき何か云つた時の様には聞こえない。 時時土手の上を通るものがある。時をさした様に来て、ぢきに行つてしまふ。その時は、非常に淋しい影を射して身動き出来ない。みんな黙つてしまつて、隣の連れは抱き合ふ様に、身を寄せてゐる。私は、一人だから、手を組み合はせ、足を竦めて、ぢつとしてゐる。通つてしまふと、隣りにまた、ぽつりぽつりと話し出す。けれども、矢張り、私には、様子も言葉もはつきりしない。しかし、しつとりとした、しめやかな団欒を私は羨ましく思ふ。 この辺りで、休憩です。書き写し始めたのはいいのですが、旧仮名遣いということもあって、なかなか手間がかかります。 私の前に、障子が裏を向けて、閉(た)ててある。その障子の紙を、羽根の撚れた様になつて飛べないらしい蜂が、一匹、かさかさと上つて行く。その蜂だけが、私には、外の物よりも非常にはつきり見えた。 隣りの一連れも、蜂を見たらしい。さつきの人が、蜂がゐると云つた。その声も、私には、はつきり聞こえた。それから、こんな事を云つた。「それは、それは、大きな蜂だつた。熊ん蜂というふのだらう。この親指ぐらゐもあつた。」 さう云つて、その人が親指をたてた。その親指が、また、はつきりと私に見えた。何だか見覚えのある様ななつかしさが、心の底から湧き出して、ぢつと見てゐる内に涙がにじんだ。「ビードロの筒に入れて紙で目ばりをすると、蜂が筒の中を、上つたり下がつたりして唸る度に、目張りの紙が、オルガンの様に鳴つた」 その声が次第に、はつきりして来るにつれて、私は何とも知れずなつかしさに堪えなくなつた。私は何物かにもたれ掛かる様な心で、その声を聞いてゐた。すると、その人がまたかう云った。「それから己(おれ)の机にのせて眺めながら考えてゐると、子供が来て、くれくれとせがんだ。強情な子でね、云ひ出したら聞かない。己はつい腹を立てた。ビードロの筒を持つて縁側へ出たら庭石に日が照つてゐた。」 私は、日のあたつてゐる舟の形をした庭石を、まざまざと見る様な気がした。「石で微塵に毀れて、蜂が、その中から、浮き上がるやうに出て来た。ああ、その蜂は逃げてしまつたよ。大きな蜂だつた。ほんとに大きな蜂だつた。」「お父様」と私は泣きながら呼んだ。 けれども私の声は向うへ通じなかつたらしい。みんなが静かに起ち上がつて外へ出て行つた。 この辺りで、もう一度休憩です。目がしょぼついてついていけません(笑)「さうだ、矢つ張りさうだ。」と思つて、私はその後を追はうとした。けれどもその一連れは、もうそのあたりには居なかつた。そこいらを、うろうろ探してゐる内に、その連れの立つ時、「そろそろまた行かうか」と云つた父らしい人の声が、私の耳に浮いて出た。私は、その声を、もうさつきに聞いてゐたのである。 月の星も見えない。空明りさへない暗闇の中に、土手の上だけ、ぼうと薄明かりが流れてゐる。さつきの一連れが、何時の間にか土手に上つて、その白んだ中を、ぼんやりした尾を引く様に行くのが見えた。私は、その中の父を、今一目見ようとしたけれども、もう四五人のすがたがうるん様に溶け合ってゐて、どれが父だか、解らなかつた。 私は涙のこぼれ落ちる目を伏せた。黒い土手の腹に、私の姿がカンテラの光の影になつて大きく映つてゐる。私はその影を眺めながら、長い間泣いてゐた。それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰つて来た。 こうやって、まあ、題になっている「冥途」という作品を書き写してみましたが、「青空文庫」からのコピペを疑われる方もあろうかと思います。ボクも、まあ、そうしようと思ったわけですが、版権が、まだ、切れていないそうで、「青空文庫」にはありません。正真正銘書き写しです(笑)。 18篇の中から「冥途」を選んだのは、「冥途」が、この掌編小説集の中でもとりわけ短かったからにすぎません。所収されている作品の中で、有名なのは「件(くだん)」とかですが、まあ、そちらは文庫本をお探しいただくとして、「冥途」の面白さはというと、写しながら思いましたが、「私の姿がカンテラの光の影になつて大きく映つてゐる。私はその影を眺めながら、長い間泣いてゐた。」 というようなところですね。この文章を書いている「私」を想定すれば、「私」が、少なくとも3人います。ドッペルゲンガーというのがありますが、芥川龍之介の作品にもあったような気がします。「私」を見ている「私」を書いている「私」ですね。 この小説の場合は、描かれている場所そのものが、空想というか、妄想というか、夢の中というか、ですから、夢の中の夢的に入れ子式を繰り返せば、ある意味で、何人でも書けるわけですが、3人というところが肝なのでしょうかね。 たとえば「淋しい板の光が私の顔を冷たくする」光景を見ている「私」のリアリティには、ちょっと、言葉を失いますね。「それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰つて来た。」 と、小説は終わりますが、この人、どこに行っていて、どこに帰って来たんでしょう。 まあ、そんなことをぼんやり考えこみますね。久々の読み返し、いや、筆写のおかげかもですが、すごい作品だと思いましたね(笑)。 みなさん!残りの作品も是非!ですね。
2023.04.20
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吉本隆明「夏目漱石『こころ』」(「日本近代文学の名作」より) 2012年に87歳で亡くなった詩人で文芸批評家、いや、まあ、思想家という方がいいのかもしれませんが、ボクにとっては10代から、まあ、勝手にかぶれ続けてきて、現実の波に翻弄される日々の中で灯台の光のような人であった吉本隆明の文章を読み返しています。 今日は「日本近代文学の名作」(新潮文庫)に収められた、たぶん新聞紙上に掲載された「夏目漱石『こころ』」という短いエッセイを読みました。夏目漱石「こころ」 明治以降の近代文学の中で、夏目漱石と森鴎外は飛び抜けた、超一流の文学者という感じがする。資質も作品の傾向も違うが、世紀に一度とか二度しか出てこない作家だ。 漱石でまず驚くのは、初めの「吾輩は猫である」から最後の「明暗」の途中で亡くなるまで、一度も停滞していないことだ。たるみの時期がない。技術的にも冴えてゆくし、内容もだんだんと重みと深さを増してゆく。その時期ごとの切実な課題を突き詰めていって、精神的に言えば、きっとだんだん苦しくなるばかりだったろうが、最後まで一歩一歩登っていくばかりで倒れたと感じさせる。そのたゆみない歩みの持続性は日本の近代文学の歴史で他に類例がない。 例えば「三四郎」を読むと、そのころ地方の高等学校を出て大学に入るために東京へ上京して来た青年がどんなことを考え、どんな感じ方で学生生活を送ったか、教師や若い男女との交友を初めて体験し次第に成長してゆく当時の青年の意識がとてもよく描かれている。とくに、文明開化の波を浴びたモダンでしっかりした若い知的な女性が登場して、同じ世代の男性よりはるかに大人びていて、主人公の青年を手玉に取りそうな様子もよく見すえられている。要するに、新時代の若い都会の女性や、知識の時代性に初めてもまれる地方出の若い男性がそれとかかわり合う青春の風景が、見事に描き出されている。 作家としては、英文学の特徴でもある人間臭い倫理性を当初から持っていた。そういうかなり重たい人道主義的な倫理性が、漱石の作品の中心課題になっている。日本の文学で、他に作品全体が人道主義的なにおいを持っているのは有島武郎ぐらいだと思う。たいていの作家は同じような主題を扱っても、日本的な情念にまみれた倫理になってしまい、漱石のように本格的な人間関係の葛藤を作品のモチーフして書き続けることはできなかった。 フランス文学の影響を受けた人たちからは、そういう人道主義的な倫理を中心とした漱石の作品は得てして「高等講談だ」と悪口を言われた。時として通俗的な正義感や倫理を表芸した作品と誤解されたからだろう。確かに、作品として複雑な物語やモチーフが盛られているかという点からは複雑なニュアンスを微妙に描いた作品は漱石には少ない。それを弱点として見られないこともない。つまり、物語の出来栄えとしては単調とみなせるからだ。「こころ」もまた、いわば登場人物の手記を並べているだけの形式だから、物語として単純だと言える。しかし、単純な筋で単純な手記の寄せ集めをやると全体が軽くなってしまうものだが、「こころ」はだれでもが相当大きなショックを受けるほどの作品としての重さがある。すると、その重さと単純さを併せ持っているという意味合いで、「こころ」が一番取っ付きやすく、しかも取っ付いてみるとすごい重さを持った作品だということで感銘を受けることになるのだと思う。それが「こころ」がたくさん読まれる一番大きな理由なのではないか。「こころ」で一番大きいと思えるのは、主人公の「先生」が自分の親友と同時に下宿先の娘を好きになってしまって、友人のほうに先に「好きなんだ」と告白され、それに刺激されて、その友人には内密のまま自分のほうが娘と結婚できる状況を作ってしあうところだ。 男女問題としていえば、現在なら「お前がぼんやりしているからいけないんだ」と言えば済んでしまうぐらい何でもないことだ。それが、親友から打ち明けられたんだから自分が橋渡しをしてやるのが友達として当然なのに、逆に出し抜いてしあったということが一生の負い目になって、その娘と結婚しても終始憂鬱な状態でいて、遂には自殺してしまう。 一般的には一生気になるほどのことではないはずだが、物語としては不自然と思えるところまで倫理性を徹底的に突き詰めていって、結局主人公を死に至らしめるところまで持っていってしまう。それは漱石の作家的特徴で、漱石にもともとあった倫理観というより他ない。「こころ」がそうであるように、漱小説は三角関係(不倫)が主な主題だ。どうしてそれに固執したのか、漱石の生涯に自伝的な痕跡があるのかと考えてみるが、どうしてもそれらしい事実はない。フィクションだという以外ない。西欧の近代小説にも三角関係はあるし、一人の女性を二人で好きになってという筋なら「万葉集」の真間の手古奈の伝説以来日本にもたくさんある。例えばレーニンが好きだったと言われるトルストイの「アンナ・カレーニナ」などそうだ。しかし、それらは漱石ほど主たる主題としてあることはない。 漱石が資質的に持っている過剰でかつ本格的な倫理性がこういう主題、物語を作らせたと言えるだろうと思う。それは、ある意味では伝統的と言っていい古い道義心の延長線にある倫理観だが、そこから日本的な情緒性を排除したものだったとも言えよう。 また違う解釈もできる。本当は親友を出し抜いてしまったという問題ではなくて、一緒に下宿していた親友と自分が同性愛的な親密さを持っていた。それが、たまたま女性の介在を経験して破れる形になってしまったことのほうが主人公にとっては大きなショックだった、という裏の解釈だ。 つまり、こういう親友の関係というのは、人間関係の原型だと思えてくる。原型的な関係というのは、二人だったらAとBが同性であろうが異性であろうと男女関係、性の関係であり、三人だったら性の関係ではないことになりそうに思う。 ものすごい親友がいて、そこに第三者が現れて片方と仲良くなってしまったら、そう一方が感じることは第三者が男でも女でも同じだ。「こころ」の描写で言えば、それが女性でなければ成り立たないということはない。かえって親友との関係のほうが女性との間よりはるかに親密であるし、相互によく分かっていると感じられる。それは男同士の問題であると解釈できると思える。 だから、下宿の娘はごく普通の平凡な女性というだけで性格などについては書かれていない。そういう意味では、恋愛小説とはいえないのかもしれない。しかし、三角関係はこういうところから始まるという意味合いでは、初めの原型をちゃんと書いている。 漱石の晩年の弟子である芥川龍之介には「開化の良人」「開化の殺人」という作品がある。どちらも漱石の主題のまねをして三角関係を扱っている。 例えば「開化の殺人」の主人公には子供の時から仲のよかった従妹がいたが、留学から帰ってみると従妹は結婚していた。ところが、その夫は放蕩者で、結婚したのに女遊びをしたりして従妹をちっとも構わない。それを見て、主人公は憤慨し従妹の夫を殺してしまう・・・・。 だけど、芥川が書くと、いかにも作り物にしかならない。漱石のように本格的な倫理性ゆえに、読んだら引き込まれていってしまうような深刻さは出てこない。ただ、芥川が優秀だと思うのは、「開化」、つまり明治以降の日本の近代化という問題が結局、漱石の三角関係を主題とする小説を作った、漱石は近代の人間を描こうとしたからそういう主題になったと見抜いたことだ。 三角関係を主題とする漱石文学の最も初期の形態を原型までさかのぼって書いたのが「こころ」だと見なせる。登場人物の構成からいえば、二人の学生がいて女性がいてという、不倫の過程はこういうところから始まるというような、一番最初の典型を示している。 社会の在り方や時代の考え方が変われば男女の関係の形態も変わるから、こんな倫理性に固執するのは明治人だけだ、今の若い人は好きな人が同時に何人いようが平気だというのはその通りだが、精神的にみた男女関係にはもう一つあって、好きな異性ができて胸を躍らせるというのは「万葉」やギリシャの時代からちっとも変わらないということも言える。人間関係の中で、こんなに形が変わってしまうのかというのと、ちっとも変わらないということの両方を持っている典型が、男女関係という気がする。 その点、「こころ」は構成が簡単で、「変わっていない」ところの倫理性が強烈だから、少し読み始めたら引き込まれてしまう。だから、一番読まれやすいのではないか。 また、「こころ」の主人公の自殺は乃木希典夫妻の殉死がきっかけとなっていた。明治天皇の後追い自殺をした乃木夫妻の事件は漱石にも鴎外にもショックだった。この古い倫理性とは何なのか、近代的な人間性に反するのではないかということだ。鴎外も歴史小説で殉死する侍を描いているし、似た問題意識があった。 漱石の「こころ」に描かれた主人公の倫理性は「開化の倫理性」であるが、乃木将軍夫妻の殉死は封建時代の倫理性であるといえる。けれど突き詰められ方としてはよく似ていて、同じように徹底的な姿をもっている。漱石の倫理観には、江戸時代からそう変わっていない儒教的な部分と、西欧に留学して得た近代的なものの両方があった。漱石は乃木夫妻の明治近代になってからの殉死に、自分のなかのこの二つの倫理性をゆさぶられ、「こころ」の主人公自殺に托したのではなかろうか。 漱石と鴎外は乃木の殉死に親和感をもち、芥川龍之介は「将軍」という作品で否定的に扱ったのは興味深い。小林秀雄は再び乃木殉死に肯定的で芥川の「将軍」を批判した。巨匠たちのショックの受け方の交替する姿は乃木殉死の意味の重要さを語っている。 ひょっとすると、吉本隆明、最後の漱石論です。何もいうことはありません。写し始めたらとまらなくなりました。 2025-no113-1186 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.16
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リドリー・スコット「ラスト・サバイバー」109シネマズ・ハット 2026年も9月になりました。いくらなんでも、そろそろ涼しい季節を期待していますが、やっぱり、暑いですね。で、暑い日差しの中、今日はリドリー・スコットの名前に惹かれて、久しぶりに109ハットです。見たのはリドリー・スコット監督の最新作「ラスト・サバイバー」でした。面白かった!ですね(笑)。 理由はわかりませんが、廃墟になっているデンバーの飛行場にセスナでやってくるのが青年ヒッグ君と愛犬ジャスパー君です。誰もいないにもかかわらず、自動的に維持されているかの巨大都市でガソリンとか、食糧とか、医療品とか調達して回るシーンに鷲摑みでした。まあ、マンガ的なんですけど、ボク、こういうの好き! そういう作品でしたね。 何が起こったのかを映画は、具体的には説明しませんが、見ているこっちとしては「コロナ後の世界」をストレートに想起させる展開で、うまいなあ!でした。 たとえば、セスナでロッキー山脈の峻険な谷あいに舞い上がりながら、なんと、エンジンを切って漂流飛行です。山々のどこかにぶつかれば墜落です。でも、善意であれ、悪意であれ、疑うことが習慣づけられた他者、他の人間はどこにもいません。 まあ、最初はワンちゃんがいるのですが、夢のようなひとりぼっちの世界です。コロナ騒ぎの最中、結局マスクをしなかった徘徊老人は、人込みが復活した、今、なんだか嘘くさい人ごみを避けて歩くことが習慣になっています。ヒッグ君の孤独な漂流を、どこか、共感とあこがれを感じながら見てしまうのですね。 主人公の青年、ヒッグ君(ジェイコブ・エロルディ)だけが生き残っているのかと思いきや、相棒のバングリーさん(ジョシュ・ブローリン)と二人です。コロラドあたりですからロッキーの山の中です。 ヒッグ君は元整備士、バングリーさんは元軍人という取り合わせが、いってしまえばご都合主義ですが、山の中の小さな飛行場を要塞化して暮らしているという設定が二人と一匹の平和のリアリティーを支えています。こういう、マンガ的な所も好きです。 何故、彼らがそこで生き延びているのか、理由はわかりませんが、山の中の小さな集落で子どたちを守り育てている人々も登場します。「モルモンの連中。」 バグリーさんが吐き捨てるようにいうところに、いかにもアメリカ的な差別感がひびきますが、ヒッグ君は否定します。世界を覆う災厄を避けて隠れ住んでいる「仲間」なんですね。 やっぱり正体不明ですが「敵」もいます。略奪と破壊を象徴化したかの奇怪な集団として描かれていますが、その正体不明さが妙にリアルでした。 で、主人公が愛犬を失ってしまうところからリドリー・スコットでした。 原題が「The Dog Stars」です。大犬座、小犬座という星座がありますが、あれです。 恐らく、この映画が描く世界に至る、ここ数年の異常事態の中でヒッグ君が体験した絶望経験を支えていた、愛犬、ジャスパー君の死。というわけで、物語はここから始まるのですね。 はたして、ヒッグ君は希望を取り戻すことができるのでしょうか? シーマ(マーガレット・クアリー)という女性とその父との出会い、グランド・ジャンクションとかでの戦い、最後はジャスパー座を眺める二人の男女。拍手!拍手! いや、ホント、ホッとしました(笑)。愛する妻と生まれてくるはずの子供を失い、その上愛犬まで失ってしまったヒッグ君が、もう一度、この世界で生きる気持ちを取り戻したシーンを、満天の星空、永遠に輝き続けるジャスパー座を、共に「生きる」こと選んだ二人、ヒッグ君とシーマさんが寝転んで眺める姿で描いているのが、何だか、とても嬉しかったですね。 88歳のリドリー・スコットが、人間が地球という小さな惑星で生きていること、生死を越えた永遠の時間の中、自然のかけらのように存在していることを思い出すところに、もう一度「希望」が生まれるこを静かにうったえている作品だと思いました。拍手! 最近、街を歩いていて人出が増えたことを実感します。若いカップルのお人形ファッションとか、お子さんをスマホ付きのバギーに乗せて電車に乗ってこられるスマホ世代のご夫婦、まだマスク姿の方たち、どなたを眺めていても、なんとなくな違和感を感じながら、浮かんでくるのは「コロナ後の世界」という言葉です。 コロナの最中、人がほとんどいなくなった映画館がとても居心地がよくて、以来、映画館徘徊が毎日のルーティーンになって数年たつのですが、何かが変わりましたね。 なにをうしない、何が横行しているのかはわかりませんが、この作品がたどり着いたところに思い出すべきことがあると感じました。 老いたるリドリー・スコットに拍手!監督・製作 リドリー・スコット製作 マイケル・プラス マーク・L・スミス クリフ・ロバーツ原作 ピーター・ヘラー脚本 マーク・L・スミス撮影 エリック・メッサーシュミット編集 サム・レスティボ クレア・シンプソン音楽 ハリー・グレッグソン=ウィリアムズキャストジェイコブ・エロルディ(ヒッグ)ジョシュ・ブローリン(バングリー)マーガレット・クアリー(シーマ)ガイ・ピアース(ジャック)アリソン・ジャネイベネディクト・ウォン2026年・119分・PG12・アメリカ原題「The Dog Stars」 配給 ディズニー2026・09・02・no163・109シネマズ・ハットno86追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.11
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ゾンボル・ディガ「オペレーション カブール極限救出48時間」109シネマズ・ハット 1940年代の日中戦争に始まって、2024年のガザ、2023年のウクライナ、1960年代のベトナム、で、今日の映画は2021年のアフガニスタン、カブールです。なんか、ここの所戦争映画ばっかりで疲れます。 見たのはゾンボル・ディガというハンガリーの監督の「オペレーション カブール極限救出48時間」、ハンガリー映画でした。 2001・9・11以降、ウサマ・ビン・ラディンをかくまうタリバン政権を駆逐せんとしてアフガニスタンに侵攻し、20年に渡って駐留していた米軍、および、NATO軍が撤退するというので、大混乱に陥っているカブール空港が舞台でした。 切迫する時間、押し寄せる大群衆の中からの限られた輸送人員の選択、行方不明の同胞の捜査、自爆テロを駆使するタリバンゲリラとの銃撃戦、まあ、見せ場は山のようにあるわけで、目の離せないシーンの連続です。 結果的にハンガリー軍の輸送機が無事離陸し機内に笑顔が戻るという、見る立場によればよかったよかったという結末の、いわば英雄譚なのですが、ボクには、なぜ、今、ハンガリーでこの映画が撮られたのかな。 そういう疑問が残りました。 アフガニスタンといえば、2019年、誰が彼を殺したのか、多分、今でもわからない不慮の死を遂げた中村哲の名前しか浮かばないのですが、この映画で「敵」として描かれているタリバンのゲリラ兵たちが、ボクにとっても敵なのかどうかということも定かではありません。 映画のヒロインとして描かれているエステルという女性医師が救出されたことにはホッとしましたが、この作品が描いている世界の今の輪郭がつかめないのですね。 空港で先に撤退するイギリス軍の将校が、拉致された同胞の奪還に向かうハンガリー軍の兵士たちに「健闘を祈る。オレたちは先に撤退する。」という意味の言葉を投げかけたことが、妙に記憶に残る作品でした。 ハンガリーの人たちは自国の兵士たちの英雄譚としてこの作品をご覧になるのでしょうか。 まあ、あれこれ言ってますが、あの時のカブールを展開の面白さで描いて見せている手法には拍手!でした。 もともと、戦争映画って好きなんですけど、ここの所見終えて考え込んでしまいますね。監督 ゾンボル・ディガ脚本 アーロン・ホーバス撮影 タマーシュ・ドボス音楽 アッシャー・ゴールドシュミットキャストガボール・ヤスベレーニ(バーリント・ケレシュ中尉)ブランカ・メサロス(医師エステル)タマーシュ・ボロビチ(ヘルツェグ(フレッド)中佐)デビッド・ハジマシ(ペトロフ曹長)ベルティグスタフ・ディーツズズサ(ズス)ノーラ・トロカンファリハクラリッサ・ラカトシュアフメドアドリアン・サムドフスキーシルヴェステルシルベステル・パーリンカ2025年・97分・G・ハンガリー原題「Sárkányok Kabul felett」2026・09・13・no168・109シネマズ・ハットno87追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.17
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イーサン・コーエン「ドライブアウェイ・ドールズ」シネリーブル神戸 なんとなく、なにをどうしたいということが思い浮かばない一日でしたが、家にずっといるのもなあ・・・ というのでやって来たシネリーブル神戸です。暗そうな邦画はやめて選んだのがこの作品です。イーサン・コーエン監督の「ドライブアウェイ・ドールズ」でした。 イーサン・コーエンという人は知りませんでしたし、「ドライブアウェイってなんだ?」 でしたが、女性二人のロード・ムービー ということなのでテルマとルーズの現代版かな? とか思って見ましたが、まあ、のけぞりそうでした(笑)。 しょっぱなから、女性同士の、まあ、ラブシーンで、その後も繰り返し、似たようなシーンが出てきますが、なんというか、寝てしまいそう・・・ で困りました(笑)。 ドライブアウェイというのは、自動車の配送という仕事の名前で、スーキーという、マッチョで、お仕事がK官という恋人と別れて、やけくそ気味のジェイミーというオネーサンが、ちょうどそっちの方のおばあさんの家に行きたがっていた、ウブな文学少女崩れのマリアンと二人連れで自動車を運ぶ旅をするというわけですが、その自動車のトランクに積まれていた荷物が問題でした(笑)。 まあ、お笑い映画なのですが、アメリカの人とか、こういうのを笑うのか?! というのがボクの率直な感想で、ちょと雑な作品でしたね。 まあ、文学少女が読んでいるヘンリー・ジェイムスの意味もわからないわけですから、眠くなっても仕方ありませんね(笑)。 何故か最後のオチでマット・デイモンが出てきたりして、ちょっと驚かせるのですが、久しぶりに、中途半端な、ドタバタ、お笑いポルノ映画を見た印象ですが、主役のお二人はなかなか美人で、とりあえず拍手!ですね。 ヤレヤレ、トホホでした。監督 イーサン・コーエン脚本 イーサン・コーエン トリシア・クック撮影 アリ・ウェグナー美術 ヨン・オク・リー衣装 ペギー・シュニツァー編集 トリシア・クック音楽 カーター・バーウェルキャストマーガレット・クアリー(ジェイミー)ジェラルディン・ビスワナサン(マリアン)ビーニー・フェルドスタイン(スーキー:ジェイミーの彼女)ジョーイ・スロトニック(追っかけてくるギャング)C・J・ウィルソン(追っかけてくるギャング)ボスコールマン・ドミンゴ(ギャングのチーフ)ペドロ・パスカル(何のコレクター)ビル・キャンプ(配送の依頼人)マット・デイモン(ゲイリー・チャネル上院議員)マイリー・サイラス2024年・85分・PG12・アメリカ原題「Drive-Away Dolls」2024・06・11・no076・シネリーブル神戸no249
2024.06.12
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中野重治「雨の降る品川駅」(「中野重治詩集」岩波文庫より) 雨の降る品川駅 中野重治辛よ さようなら金よ さようなら 君らは雨の降る品川駅から乗車する李よ さようならも一人の李よ さようなら君らは君らの父母の国にかえる君らの国の河はさむい冬に凍る君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる君らは雨にぬれて君らを逐(お)う日本天皇をおもい出す君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫脊の彼をおもい出すふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがるふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる雨は君らの熱い頬にきえる君らのくろい影は改札口をよぎる君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえるシグナルは色をかえる君らは乗りこむ君らは出発する君らは去るさようなら 辛さようなら 金さようなら 李さようなら 女の李行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ日本プロレタリアートの後だて前だてさようなら報復の歓喜に泣きわらう日まで重治 近代文学を勉強なさっている20歳の女子大生の方が「プロレタリア文学って面白いですね。」とおっしゃるの聞いて、「エッ?」と、まあ、ちょっと絶句することが、この秋にありました。で、ほとんど、何の脈絡もなく思い出したのがこの詩です。 作者の中野重治は1989年生まれの芥川龍之介より3歳年下、1902年、福井県に生まれた詩人です。20歳の女子大生の方は名前も御存じないのではないでしょうか。 「雨の降る品川駅」というこの詩は、1931年に決定稿が出来て、今では岩波文庫の「中野重治詩集」で読むことが出来ます。戦後、1979年まで生きた詩人であり、小説家であり、評論家でもあった中野重治の初期の傑作ですね。 ボク自身は、50年ほども昔ですが、昭和初期のプロレタリア文学に関心を持っていたころ、初めて読んで以来、忘れられない詩の一つです。 余談ですが、彼には「村の家」(講談社文芸文庫所収)という転向文学の傑作もあります。転校じゃなくて、転向です。プロレタリア文学に関心を持つと避けて通ることができない言葉です。今の若い方がそのことばとどんなふうにお出会いになるのか、ちょっと気になりますね。 2025-no111-1184 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.12.19
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エドワード・ヤン「恐怖分子」シネリーブル神戸 「海辺の一日」という初期の作品が上映されたので初めて見て「ふーん・・・」とか思っているとこの作品も上映されたので見ました。 エドワード・ヤン監督の「恐怖分子」です。 小説を読むときに、この描写の書き手は?ということが気になる読み方をするようになって久しいのですが、映画館を徘徊し始めて10年近くたって、最近、ようやくですが、このシーンは誰が見てるの?ということが気になり始めました。 小説なら、作家が書き手ですが、プロット、プロットでは、作家による創作人物が語るということが組み合わされて「書かれた世界」が、読み手の意識の中で立体化するわけですが、映画であれば「映像」ですね。 上のチラシで、ビルの窓から拳銃が出ていて何かを狙っているようなんですけど、普通、この拳銃は、誰が誰を狙っているのか、なのですが、ボクの場合は、ここの、このシーン、誰が見てるの?という疑問です。 このシーンは予告編でも映されていて、実際、映画の本編の中にもありました。でも、このシーンが誰の目によって見られているのか、ボクには最後まで分からなかったんですね。 この映画には出来事の視点人物としてカメラ小僧とでも呼ぶべき少年が登場して、目の前で偶然起こる事件にカメラを向けて夢中になりなりながら、被写体である不良少女に心を奪われるという、本筋を支える裏筋ともいうべきストリーが配置されていて、ややこしいことこの上ない展開なのですが、じゃあ、このシーンを見たのはカメラ小僧なのかといえば、ボクは怪しいと思うのです。 だいたい、このシーンはあったのか?ですね。 このあたりがエドワード・ヤンという監督の才能というか、映画的感性の図抜けた所なんでしょうね。中国語では「恐怖份子」という題なのですが、份子なのですね。いうならば、ナレーション的なこのシーンを挿入することによって、映画が描く「恐ろしさ」を観客に負担させる、分担させるとでもいう意図なんでしょうかね。実に面白い発想でしたね。拍手! ただ、ボクは、そういう映画的作為には、大いに喜んだのですが、映画そのものには、それほど感心しませんでした。まあ、ボクの好みというか、感じ方のせいだと思いますが、最後に銃に弄ばれた主人公といい、作家である女性といい、まあ、こういってなんですが、ありきたりというか、通俗だと感じちゃったんですね。 なんていうか、人って、こういうふうに、こういうことに振り回されて、死んだり生きたりしているんですかねえ・・・という感じですね。しんどいですね。 普段は、そんなに遅くまで外にいることが少なくなった夜、午後9時を過ぎた帰り道で、映画の作意を反芻しながら、何だかこの世界のむなしさに浸りました(笑)。 しかし、まあ、よく考えられた作品であったことは事実なわけで、やっぱり、拍手!ですね。監督・脚本 楊徳昌エドワード・ヤン製作 リン・トンフェイ脚本 シャオ・イエ撮影 チャン・ツァン美術 ライ・ミンタン編集 リャオ・チンソン音楽 ウォン・シャオリャンキャストコラ・ミャオ(周郁芬 作家)リー・リーチュン(李立中 医師)チン・シーチェ(沈維彬 編集者)クー・パオミン(警察官)ワン・アン(不良少女)マー・シャオチュン(カメラ小僧)ホアン・チアチンリウ・ミン1986年・109分・香港・台湾合作原題「恐怖份子」英題「The Terrorizers」2026・08・31・no161・シネリーブル神戸no409追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.05
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是枝裕和「ルックバック」109シネマズ・ハット 早くからチラシが出回ってました。作品の名前「ルックバック」に覚えがありました。原作マンガを読んだ記憶もうっすらとあって、監督の名前に気付きました。是枝祐和? 最近、彼の新作を。迷いに迷ってパスしたんですけど・・・「ルックバックって、マンガ便で読んだかな?」「はい、以前お届けしました。」「ボクが持ってる?」「いいえ、回収してますが。」「万引き家族の是枝の実写やってるけどアニメは見た?」「はい、見ました。京都アニメの事件がらみで評判になりましたけどよかったです。」「アニメは見てへんけど、是枝やし。」「はい、まあ、なんでかんでも実写にすりゃあええというもんでもないとは思いますが。」 まあ、そういう会話がマンガ便のトラキチ君とありましたが、久しぶりに、是枝監督作品を見ました。是枝裕和監督による実写版「ルックバック」です。しみじみと納得する作品でした。 ボクは見た記憶がありませんが、同じ題名でアニメ版もあって、好評だったそうですが、今回は実写映画でした。 季節を巡る風景の移り変わりが延々と繰り返される作品です。夏、秋、冬、春、そして、幾度目かの夏。山があって、海があって、田んぼ道があります。東北の田舎の風景が映し出す時の流れの中で、生きて笑っている少女二人の姿を素直にうれしがる気分がボクの中に拡がっていくのを感じながら、還暦をこえた是枝祐和という監督の境地のようなものを感じました。拍手! マンガを描いている二人の少女の姿をイイナ!イイナ!と喜びながら、マンガの結末を思い出して落ち込みました。 藤本タツキの原作を読んだときにはピンとこなかった、したの表紙の絵が浮かんできました。 映画の帰り道、窓から差し込む逆光の光の中で懸命に描いている少女が映っていた姿が浮かびました。まあ、勝手にそういうシーンがあったと思い込んでいるのかもなんですけど。で、ようやく得心しました。あの後ろ姿は、確かに、藤野京だったんだ。と。 二人で一人の藤野キョウを演じた四人の女優さん、出口夏希(藤野)、七瀬ふうり(子供時代)、蒔田彩珠(京本)、岡田六花(子供時代)、どなたも素敵でした。拍手! 人気の原作マンガがあって、アニメ版が社会的話題になった作品を実写で撮るというのは、多分、大変だったと思うのですが、ボクには、原作を越えた作品でした。拍手!監督・脚本・編集 是枝裕和原作 藤本タツキ撮影 上野千蔵音楽 坂東祐大 シャークキック・ギター 米津玄師劇中曲Vocal 三浦透子キャスト 出口夏希(藤野)七瀬ふうり(子供時代)蒔田彩珠(京本)岡田六花(子供時代)野呂佳代(朱里 藤野の母)池田良(仁志)佐々木みゆ(恵)山田真歩(真鍋)宮藤官九郎(玉井 先生)菅田将暉(前田 編集者)2026年・99分・G・日本2026・09・17・no180・109シネマズ・ハットno88追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.21
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鴻池瑠衣「純文学って何だよ」(集英社) 市民図書館の新入荷の棚にあって、「純文学って何だよ」という、ちょっと怒っているかの題名が気になって借りてきました。鴻池瑠衣という作家が、現代の「純文学」作家たちと対談している「純文学って何だよ」(集英社)です。 本稿では、所謂、文芸誌、「群像」とか、「新潮」という雑誌を、そこに掲載されている小説作品にフォーカスして、以下のように定義します。すなわち、「純文学と呼ばれるジャンルの小説を発表する媒体が、文芸誌である。」と。なぜなら、「純文学」とは何かを定義する際、「文芸誌に載った小説作品がすなわち純文学である」とする見方が、現場に携わる人たちの間で現在最も一般的だからです。(P7) これが、この本の「純文学」定義です。 だいたい、自ら純文学作家を名乗っている鴻池瑠衣っていう作家を知りません。彼がこの本で対談しているのは高瀬隼子、町屋良平、高山羽根子、砂川文次、石田夏穂、尾崎世界観、川本直、田中慎弥の9人です。鴻池留衣を加えれば10人ですが、作品を1作でも読んだことのある方が5人、名前は知っていた方が1人、あとは作品はもちろん、お名前も知らない方ばかりでした。 中学生のころ学芸会で「父帰る」と「屋上の狂人」という演目に出会って読み始めた純文学です。菊池寛ですね。で、ドクトル・マンボウの北杜夫。北杜夫から教えられてトーマス・マン「ブッデンブローグ家の人々」、庄司薫の赤ずきんちゃんからサリンジャーの「ライ麦畑」。ホールデン君とフィビーちゃんに心奪われて、なぜか大岡昇平とか、武田泰淳とかにつきすすみ、漱石、一葉、鴎外、芥川、太宰、坂口安吾とかをせっせと読み継ぐヒマな浪人生活。ここまでが10代。 で、大学生になったんやからと読み始めた「カラマーゾフの兄弟」はやっぱりスゴイとか、「夜明け前」って、怠そうやったけど読んでみると面白いとか、中学生以来、面白がり続けて10数年間、なんとなくな終着点に大江健三郎と村上春樹がいた感じですね。 その後の40年は、まあ、成り行きというか、国語の教員なんだからというか、芥川賞取った人くらいは読んどこかという読書でした。 もちろん、山田風太郎とか、司馬遼太郎とか、翻訳の推理小説、冒険小説も、まあ、本棚いっぱい読んできたわけで、「純」とかにこだわりはありませんが、しかし、心のどこかに「純文学はエライ!」とかいう思い込みはあったんでしょうね。 で、本書を読んで、近代文学の終焉とかいう言い回しが流行ったのが1980年代だったように思いますが、つくづく、ボクが知っている文学ってもう亡んだんだなと感じました。でもね、ここに載っている、それぞれの作家の語りは結構面白かったですね。今という時代に売れない作品(知りませんが)を書き続けている作家たちの、ちょっと、貧乏くさい(失礼!)本音のようなものが聞こえてくるんですよね。 やっぱり、この書名、いい線いってます。お喋りなさっている「純文学作家」の方々、どなたも、ちょっとキレているようですよ(笑)。まあ、そこが面白いんですけど。 で、この本の中で鴻池瑠衣、それぞれの方のおススメのこの1冊が下の一覧です。高瀬隼子「うるさいこの音の全部」(文芸春秋)町屋良平「私の小説」(河出書房新社)高山羽根子「オブジェクタム/如何様」(朝日文庫)砂川文次「越境」(文芸春秋)石田夏穂「緑十字のエース」(双葉社)尾崎世界観「転の声」(文芸春秋)川本直「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」(河出文庫)永井みみ「ミシンと金魚」(集英社文庫)田中慎弥「完全犯罪の恋」(講談社文庫)2026-no084-1299追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.22
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「9月のアサガオ」 ベランダだより 2026年9月22日(火) ベランダあたり 今日は2026年の9月22日、火曜日ですが国民の休日とかでお休みです。 我が家のベランダでは、ここの所、アサガオが元気です。 暑い夏の日が9月になっても続いていたのですが、ようやく秋風めいた風も吹き始めて、我が家のアサガオも生き返った様子です。 今日は、我が家のゆかいな仲間の一人で、関東で暮らしているピーチ姫が帰ってきます。 敬老の日とかだからかどうかは知りませんが、お休みが撮れたようです。 このベランダがある部屋から出て行って、もう、十数年たちます。姫とか呼んでいますが、もう、少女というわけではありません。 でも、帰ってくるところとして、ここを思い出してくれるのがうれしいですね。 関東とか、信州とか、四国とか、一時期には沖縄とか、それぞれ、何とも遠いところに散らかってしまっているゆかいな仲間ですが、時々帰って来てくれます。 台所のベランダのアサガオも待ちわびています。 みんな、帰って来てね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.09.23
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武田一義「ペリリュー 楽園のゲルニカ(10)」(白泉社) 2020年の秋に「ペリリュー」第1巻から第9巻までをまとめて読みました。感心しました。続いて「さよならタマちゃん」を読んで、すっかり武田一義さんのファンになったのですが、2021年、2月のマンガ便で「ペリリュー(10)」(白泉社)が届きました。 第1巻と「さよならタマちゃん」の感想を書いた時に、2巻から1冊ずつ「案内」しようと考えていたのですが、うまく書けないままほったらかしていると、どうも、あと1冊で終ってしまうようなので慌てました。 とりあえず、やってきた「ペリリュー」第10巻は裏表紙の宣伝を紹介しますね。 終戦から1年半 — 。 昭和22年3月、田丸と吉敷は「生きて日本に帰る」という約束を果たすべく、壕からの脱出に成功する。 投降 ― それは生死を共にしてきた仲間の敵になるということ。では生き残った兵士にとって「正しい行動」とは何か。 全体を危険から遠ざけるための規律か。 全員を救うための危うさのある勇気か。 「仲間」の命がかかる決断を迫られる島田。 混乱の中、島に銃声が響く―。 生き残った兵士それぞれに、譲れない正義がある。 数多の喪失に耐え、思いを繋いだ若者の生還の記録。 表紙の人物は、田丸くんではなくて吉敷くんだと思います。軍から脱走し、米軍に投降する企ての最中、上官によって撃たれます。田丸くんは瀕死の吉敷くんを支えて進みますが…。 眼窩を打ち砕かれた吉敷くんは、南の島の雨の中で故郷の父と再会し、米の飯を田丸くんに食べさせる夢を見ながら絶命します。 「生きて帰る」はずだった吉敷くんは、終わったはずの戦場で、文字通り、「戦死」します。ぼくは宗教を信じることができない人間ですが、彼の魂を祀っている立派な神社は、日本という国のどこかにあるのでしょうか。 アメリカ軍に投降し、1年以上も前の敗戦の事実を知った田丸くんが吉敷くんを思い出すシーンです。 このシーンを引用するかどうか、悩みました。作者はこのシーンを描くために、ここまで描き続けてきたと思うからです。こうして引用しながらいうのも変ですが、この「案内」をお読みいただいている方には、できれば、1巻から10巻まで、読んできて、このシーンに出会ってほしいと思います。 ぼくは、ぼくよりも20歳以上も若いマンガ家である武田一義さんが、このマンガをこんなふうに描いていることに驚きます。 マンガに限らず、あらゆる表現が、売れるか売れないかの空っ風に晒されている「現代」 という時代であるにもかかわらず、、この作品は「売る」ために書かれたとは思えない「まじめさ」 を失っていないように感じるからです。 追悼とは、戦死者を英雄として讃えることではない。 追悼とは、彼らの死の無惨さを、私たちの記憶にしっかりと刻み続けること。もがき、あがきながら死んでいった人々の傍らに静かに寄り添うこと。 生き残った人々の負い目にも心を寄せながら。(吉田裕) これは「売る」ためにつけられた腰巻、帯に載せられた推薦文です。誠実な文章だと思いますが、今、こういわなければならないこの国の「戦後」とは、田丸くんが帰ってきてからの80年とは、一体何だったのでしょうね。 昭和の戦争の研究者である吉田裕さんは一橋大学の先生だった方のようですが、「日本軍兵士」(中公新書)という本の著者でもあります。読んでみようと思っています。
2021.03.06
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真壁幸紀「シンシン・アンド・ザ・マウス」シネリーブル神戸 吉本ばななの原作の映画化、ただそれだけに興味を惹かれて見ました。 真壁幸紀という、やっぱり知らない監督の「シンシン・アンド・ザ・マウス」です。 吉本ばななという作家が「キッチン」(新潮文庫)という作品で海燕新人賞を取ってデビューしたのが1987年ですね。 彼女が、あの吉本隆明の次女だということは、すぐに知れ渡って、ボクも、その話題に乗って読んだ記憶があります。彼女の作品にただよう独特な空気感が面白くて読み続けていましたが、お父さんが亡くなったころから読まなくなって、10年くらい経ちました。 で、なぜ、今、吉本ばななに?なんですが、つい、先日、「シマクマさん、バナナお好きでしょう。こんな話、知ってます?」といって文学好きのお友達教えてくれたネット上の情報なんですが、それが、この作家にとっての高名な父親ということばかりに気を取られていた吉本家の、娘たちと母との話だったんですね。詳しいことは、吉本ばなながネットで公開しているらしいノートだかをさがしていただきたいのですが、母と娘、姉と妹の、ちょっと想像を絶した話でした。 で、「シンシン・アンド・ザ・マウス」という、この映画です。 原作は、「ミトンとふびん」(新潮社)という、2022年谷崎潤一郎賞を取ったらしい、まあ、ボクは読んでいない短編集に収めらている作品のようです。母をうしなって傷心の娘、光岡ちづみという女性が旅先の台湾での、新しい出会いをする話でした。「立ち直りを描いた美しい映画だった。」 チラシに載っている吉本ばなな自身の感想の結びの言葉です。はい、その通りでした。 なにが、どう、ということを振りかえると、要するに、偶然の出会いに始まり、愛し合うという結論に至る、二人の男女が母について語り合う物語だったと思うのですが、最初から最後まで作り話にしか思えなくて、ちょっと疲れた気分で見終えました。 主人公のちづみを演じる岸井ゆきのさんも、シンシンを演じるツェン・ジンホアくんも悪くないんです。二人に間で交わされる会話も悪くないです。シンシンの日本語に引っかかる人はいるかと思いますが、ボクには自然でした。ただ、二人の間で語り合われ、映像としても映し出される、記憶の中での、それぞれの母との関係、そして、今のありさま、その二人の成り行きに、ちょっと、ついていけなかったんでしょうね。 まあ、美しいラブ・ストーリィーというよりも、心理ドラマとして見てしまっていたわけですが、こういうのって、リアルなんでしょうかね? 映画を見て面白ければ、久しぶりにばななを読んでみようかとか思っていたんですが、ちょっと、すぐにとび付きたいとは思いませんでしたね。まあ、ヒマですから、また、読んだら案内しますね(笑)。監督・脚本・編集 真壁幸紀原作 吉本ばなな脚本 加藤法子主題歌 藤原季節 asマサミチキャスト岸井ゆきの(光岡ちづみ)ツェン・ジンホア(シンシン 田口真吾)藤原季節(マサミチ)中田青渚(サチ)柄本時生(ライブハウスの店長)伊勢佳世(クリーニング店の店員)飯田基祐(蓮沼弘喜)リン・チェンシーエンジェル・リーリン・メイジェン余貴美子(光岡沙都子 母)2026年・108分・G・日本2026・07・08・no132・シネリーブル神戸no396追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.07.10
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クリストファー・ノーラン「オデッセイア」キノシネマ神戸国際 まあ、監督も「オッペンハイマー」とかで、ここの所、贔屓の監督ですし、前評判も。で、なんといっても「オデッセイア」ですからね、見ました。 クリストファー・ノーラン監督の最新作、「オデッセイア」です。うーん、ダルかったですね(笑)。 ギリシア神話の定番というか、チラシにもある通り「すべての物語の原点!」だそうですからね。 ヨーロッパ文学の原点、ホメロスの叙事詩、あの「オデュッセイア」ですからね。やっぱり、期待しちゃいますよね。でも、なんか、ポカーン・・・・でした。 まあ、読んだのが半世紀前で、話の筋なんて、ほぼ、完全に忘れてはいるんですが、シーンに登場する人物の名前とか、エピソードとか、見ていると浮かんできたりするわけで、トロイ戦争の木馬のくだりに差差し掛かってくると、「どんな木馬で、どうやって???」 ワクワクしながら見入るのですが、なんだか当てが外れましたね。なんというか、リアリティのない現代劇を見ているダルさでした。 ノーラン監督が、なぜ、今、この題材を映画に撮るのか? そこのところが伝わってきませんね。 一方で、彼が、この作品で何をいいたかったのかという、現代社会に対する批判というか、警告意図というかについては、結構、素直に共感するものがあることは否定しません。ですが、それって、オデッセイアでやります?まあ、そういう感じでした。 ここの所、戦争関連の映画ばっかりで少々疲れてるんですけど、今回はトロイ戦争ですからね。事実だと仮定すれば4000年前です。で、10年がかりで帰郷するオデッセイウスが、ボクの目から見ればPTSD、戦争後遺症にしか見えないのですからねえ。そりゃあ、そういう解釈はあり得ますけど、堪忍してくださいよノーラン監督・・・ まあ、そういう気分で見終えました。 マット・デイモン君もアン・ハサウェイさんも、ボクがイメージするオデッセイアとか、ペネロペ―とかとは全く違いましたけど、よく頑張っていらっしゃいました。そこのところは、何とか、拍手!(笑) 悪口ばっかり書きましたけど、クリストファー・ノーランのような優れた映画製作者の皆さんが、例えば先日見た「ラストサバイバー」のリドリー・スコットもそうだと思いますが、現代社会に対して、深い憂慮というか、危機感を伝えようとしていらっしゃることには共感の拍手!でした。 リドリースコットが、ボクたちが小さな星である地球の住人であることを思い出させんとするラストでしたが、クリストファー・ノーランは争いのるつぼになった故郷イタケを捨てて西の海に旅立つラストでした。なんだか、しみじみしてしましたね。拍手!監督・製作・脚本 クリストファー・ノーラン製作 エマ・トーマス製作総指揮 トーマス・ヘイスリップ原作 ホメロス撮影 ホイテ・バン・ホイテマ美術 ルース・デ・ヨンク衣装 エレン・マイロニック編集 ジェニファー・レイム音楽 ルドウィグ・ゴランソン視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソン特殊効果監修 スコット・R・フィッシャーキャスティング ジョン・パプシデラキャストマット・デイモン(オデュッセウス)アン・ハサウェイ(ペネロペ)トム・ホランド(テレマコス)ロバート・パティンソン(アンティノオス)ルピタ・ニョンゴ(ヘレネ/クリュタイムネストラ)シャーリーズ・セロン(カリュプソ)ゼンデイヤ(アテナ)サマンサ・モートン(キルケ)ジョン・レグイザモ(エウマイオス)ジョン・バーンサル(メネラオス)ヒメーシュ・パテル(エウリュロコス)キュクロプスビル・アーウィンエリオット・ペイジ(シノン)ベニー・サフディ(アガメムノン)コーリー・ホーキンズ(ポリュボス)ミア・ゴス(メラント)トラビス・スコット(楽人)2026年・172分・G・アメリカ原題「The Odyssey」2026・09・15・no169・キノシネマ神戸国際no73追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.16
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谷川俊太郎「62のソネット-41」六十二のソネット 41 谷川俊太郎 空の青さをみつめていると 私に帰るところがあるような気がする だが雲を通ってきた明るさは もはや空へは帰ってゆかない 陽は絶えず豪華に捨てている 夜になっても私達は拾うのに忙しい 人はすべていやしい生まれなので 樹のように豊かに休むことがない 窓があふれたものを切りとっている 私は宇宙以外の部屋を欲しない そのため私は人と不和になる 在ることは空間や時間を傷つけることだ そして痛みがむしろ私を責める 私が去ると私の健康が戻ってくるだろう 国語の教員になりたい女子大生の授業の練習を見ることがあります。すると、先生役の彼女たちが、時々、板書に赤い傍線を引いてこんなふうにキッパリいうのです。「ここは、テストに出しますよ。」 思わず、ギョッとして、昔、入学したばかりの高校一年生に「テストは難しいですか。」という質問に出くわして当惑してしまったことと、この詩を思い出しました。 あの一年生は、せっかく入った新しい学校で、始まりからテストの難しさを気にかけていました。見るからに、まじめな様子でした。「まあ、それも大事なことかもしれないが、もっと大事なこともある。」と伝えたくて、こんなことを書いて渡しました。「自己紹介」 これは19歳で浪人中のボクに、大学生になっていた友人がくれた手紙の言葉だ。「受験勉強は楽しい。やればやるほど出来るようになる。やらなかったことは出来ない。さっぱりしている。あんなシンプルで明快な勉強には二度と出会えないだろう。大学の勉強は苦しい。何がわかるようになったのか、さっぱりわからない。君も一年間、受験勉強を楽しみたまえ。」 彼は京都大学を出てサラリーマンをしているが、高校時代、農家だった実家の手伝いに精を出すことが当たり前の生活をしていた。 学校の教員が作るテストや、入試で試される問題が、ある範囲の中で作られていることに気付いていたようで、テストを苦にしなかった。 他人と比べて、優劣を競ったり、クヨクヨするということの馬鹿馬鹿しさを、とても早くから知っていた。虚勢を張ったり、卑下したりすることと本当に無縁な人だった。 一方で、家の手伝いをする田圃のあぜ道で詩を暗誦するような人だった。 こんなふうに言うと、変な人だと思うかもしれない。確かに変な人だ。が、多分、そこが大切なポイントだとぼくは今でも思っている。 彼は、みんなが今、手にしている、この国語の教科書に出てきた詩や和歌をほとんど暗誦することが出来た。もちろん、そんなことはテストされたりしない。しかし、彼がやっていたこと、そこにテストなんかでははかれない大切なことがあったと思う。ちがうだろうか? とりあえず、ぼくは、そんな手紙を読んで、救われたような気がした。そして、受験勉強の一日の半分は、テストより大事なことに熱中するようになった。 ここに、谷川俊太郎の詩がある。谷川の詩は教科書にも出てくる。この詩の最初の二行が、白い紙に書きだされて、先ほどの友人の四畳半の下宿の天井に貼られていた。まあ、それも変といえば変だが、ぼくには忘れられない。 この詩を読んですぐに意味のわかる人はいない。ちなみに、ソネットとはフランスの定型詩の形式の名前。14行の詩をことで、普通、4・4、3・3という行数が定型の「連」の構成で書かれる。 この詩は詩人が「六十二のソネット」と題して連作し、詩集にまとめたものの中の41番目の作品なので、こういう題になっているらしい。 繰り返し、何度も、口ずさんで欲しい。だんだんと、ある一行、ある一行が心の中で動き始める。行と行の関係が見え始める。相変わらず、意味は分からない。 でも、図書館や本屋さんの棚で彼の詩集を探し始めている自分と出会うことになる。ノートにせっせと、彼の詩に限らず、あれやこれやの詩人の作品を書き写している自分を見つける。 こういうことを普通、勉強などと呼ばない。誰にも言いはしないけれど楽しみ以外の何ものでもないものになる。それが、受験生時代にぼくが熱中したことだ。 で、ぼく自身の受験は?もちろん第一希望には遠く及ばなかった。それでは、参考にならない?まあ、しかし、だからこそ、幸運(?)にも、ここで皆さんと出合えたわけだ。一年間よろしく。自己紹介終わり。 残念ながら、ベンキョウの成果は「テスト」で測られ、テストの成果は、大きくなっての後には収入に反映するという実にシンプルな「価値観」が、若い人たちを、言葉がいいかどうか気がかりですが、「洗脳」しているのを目の当たりにすると、やはりぎょっとします。 国語の授業で「大事なこと」 は、テストでは測ることができない。そう思うのですが・・・。(S)追記2022・10・02 後期の授業が始まりました。週に一度、国語の先生になりたいと考えている学生さんと出会います。「本を読むのはお好きですか?」「本を開くまでが、おっくうです。」 スマホ世代の本音が聞こえてきて、ちょっと困ってしまいます。 現役の教員の方が、冗談半分でおっしゃっていましたが、学校の教科書に載っている論理的文章とかとお役所がいうのは、商取引の契約書とかのことなのだそうです。40年間教えたことのない文章の種類なので、何も思い浮かびませんでした。 文章を読むためのリテラシーは、まず文章を読むことにとって培われると思うのですが、契約書を読む力はなにによって鍛えられるのでしょう。やっぱり、お金に対する執着でしょうか。アルバイトと就職活動に明け暮れる彼女たちが、本を開いて「詩」を読むなんていうところにたどり着くためにどんなアドバイスをすればいいのでしょう。 世の中で、何が起こっているのか、本当はよくわかっていないことを、つくづくと実感する「お仕事」の始まりの日でした。にほんブログ村にほんブログ村幸せについて [ 谷川俊太郎 ]谷川俊太郎詩集 自選 (岩波文庫) [ 谷川俊太郎 ]
2019.07.06
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塚本晋也「野火」シネ・ヌーヴォX 作品の名前は聞いていました。見たことはありませんでした。監督が塚本晋也です。彼の映画も知りません。夏の定番なのだそうです。 「野火」です。大阪九条の「シネ・ヌーヴォX」という映画館にも、今回初めて伺いました。 分隊長の前で最敬礼している田村一等兵が、罵声を浴びせられ、殴られているシーンから映画は始まりました。次に野戦病院のシーンでした。 映画が公開された当時、グロテスクで残虐ということが話題になったと聞きましたが、さほど感じませんでした。一方で、「リアル」という感じもあまり湧いてきません。想像しうる限りの戦場のリアリズムというより、ある種、「象徴化されたデフォルメ感」 が、残ったというのが正直な感想です。 大岡昇平の原作「野火」をお読みになった方は気づかれると思いますが、この映画は「エピソード」や「会話」が原作にかなり忠実に作られていると思いました。 喀血した田村が、所属部隊から捨てられ、野戦病院からも追い出され、ジャングルを彷徨するほかない運命へ追いやられることから始まり、教会での住民の殺害、人肉嗜食をめぐっての同僚の殺害、捕虜となって生き延びる境遇まで、「あらゆるものから捨てられた一人の人間」の、過酷といえば、あまりにも過酷な戦争体験を、「人間」が「人間」をやめる「血みどろの姿」として描き切った監督塚本晋也に脱帽しました。 しかし、かすかな不満も残りました。 それは、一旦、「人間」をやめさせられて戦場をさまよい、それでも帰って来た田村の苦悩と、彼の「妻」との描き方です。 この映画のラストは、苦悩する田村の姿を、覗き込む「美しい妻」の姿ですね。そこには戦場から帰ってきた「人間ではないもの」に対する、ある「冷酷さ」が漂っています。しかし、監督はそれ以上描くことはせず、映画は終わります。 小説では、精神病院に、自ら、逃げ込んだ田村のこんな言葉があります。 私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようである。私は妻は勿論、附添婦の同室も断った。妻に離婚を選択する自由を与えたが、驚くべきことに、彼女はそれは承諾した。しかもわが精神科医と私の病気に対する共通の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのをやめた今も、あの赤松の林で媾曳しているのを、私はここにいてもよく知っているのである。 どうでもよろしい。男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。 復員した田村は、「美しい妻」からも捨てられるのです。「PTSD」という概念があります。帰国したベトナム戦争従軍の兵士たちの症状から、アメリカの精神医学界で、1980年代に確立されたと思いますが、大岡昇平は1940年代の後半、すでに、「従軍兵たちを最後に奈落へ突き落とすのが、帰ってきた『平和』な社会であること」 を見破っていたのではないでしょうか。 「映画は最後に口籠った」という印象をぼくは受けました。そこが、この映画に対する不満と言えば言えます。「グロテスクな平和」という視点は、ないものねだりでしょうか。 ところで、この映画を見ながら、涙が止まらなくなったシーン があります。 田村一等兵がどこまでも広がるジャングルを、丘の上からずっと見るシーンです。涙の理由はいうまでもありません、この後ろ姿の兵士こそ、大岡昇平その人だと、ぼくには見えたからです。 大岡昇平の文章は端正で理路整然とした翻訳文的な記述にその特徴があると思いますが、もう一つ、「描写の空間性」とでもいえばいいのでしょうか、「兵士の眼差し」による空間的な「世界把握」 にこそ、その文体の独自性があると思います。 今、ここが、地図上のどこであるのか、煙は、どの方角に上がっているか、それを見損じれば命にかかわる空間認識が、彼の文章には常に伏在しています。 映画を見ているぼくには「美しいジャングルの遠景」としか見えません。しかし、さまよい歩く兵士にとっては、明らかに苛酷で命がけの見晴らしに広がるこの風景が、「帰ってきた」作家 大岡昇平の脳裏に、生涯、何度、去来したことでしょう。 ぼくにとっては、最も尊敬する作家大岡昇平の、戦場での孤独を彷彿とさせた「このシーン」を撮ったこの映画が「忘れられない一本」 になったことは間違いありません。拍手!監督・製作・脚本・編集 塚本晋也原作 大岡昇平 撮影 塚本晋也 ・林啓史 音楽 石川忠 助監督 林啓史 キャスト 塚本晋也(田村一等兵) リリー・フランキー(安田) 中村達也( 伍長) 森優作( 永松) 中村優子(田村の妻) 山本浩司(分隊長) 2015年 日本 87分 2019・9・12シネ・ヌヴォー追記 2019・09・26 徘徊を始めてから買わないことにしていたのに、思わず買ってしまったパンフレットに、評論家の佐藤忠男が書いていました。 テーブルに放り出していたパンフレットを読んでいたチッチキ夫人が突如、こういいました。「大岡昇平さんって、戦争に『参加』したの?この書き方って、なんか変じゃない?」「えっ、どういうこと?」「参加って、変じゃない?大岡さんが生きてたら、キレれるでしょ。せめて、参加させられたでしょうよ。運動会じゃあるまいし。」 マジギレしていました。 指摘されて、初めて気づきました。佐藤忠男という人の映画評論は「黒澤明の世界」をはじめとして、たくさん読んできました。にもかかわらず、目の前の、何だか、気持ちの悪い、この言葉遣いに、啞然としました。最近の世間の風潮とも、何となくつながっている感じがしました。 佐藤忠男自身も予科練出身の戦争体験者だったと記憶しています。彼は戦争に「参加」したのでしょうか。そうかもしれないですね。 しかし、映画は「野火」。パンフレットには、原作者が一兵士として「参加」した太平洋戦争と書いてあるのです。大岡昇平は、戦争に「参加」したのでしょうか? ぼくとチッチキ夫人は変なことにこだわっているのでしょうか。 当時、戦場に連れていかれた兵士は山のようにいると思います。しかし、「参加」した兵士が、そんなにいたのでしょうか。自分から「参加」したのなら「苦悩」や「悲惨」は、ナルシズムか事故ということで、いいんじゃないでしょうか。 そう考えながら、ぼくは思います。ヤッパリ「戦争に参加」なんていいかたは、間違っています。 そう思ったことは、書き留めておこうと思います。読む人に、不愉快を感じさせることはあるかもしれませんが、これに関しては仕方がないことです。 いろんなところから、いい加減がにじみだしてきているようで、とても嫌なんです。追記2020・08・01 今年も八月になりました。大阪九条のシネ・ヌーヴォ―のプログラムには「野火」があります。小さな名画座がこの映画を毎年上映する心意気に拍手を送りたいと思います。 もっとも、ぼく自身は「新コロちゃん騒ぎ」の最中でもあり、地理的にも少し遠い大阪ということもあって、とても出かけてゆく元気はなさそうです。とほほ・・・。追記2020・10・13 大岡昇平の「靴の話・戦争小説集」と「成城だより」を久しぶりに読み直す機会がありました。思い出したのはこの映画で小説を書いている、復員した田村の後ろ姿でした。小説の「野火」では、狂気の人として描かれていますが、作家の大岡昇平は「理性の人」として戦争を描き続けました。しかし、一方では「花影」の作家でもあったわけです。 個人的な思い入れですが、もう一度、この作家の作品を読み直す時期がやって来たように感じました。 ボタン押してね!【中古】 野火 新潮文庫/大岡昇平(著者) 【中古】afb
2019.09.27
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週刊マンガ便 藤本タツキ「ルックバック」(小学館) 2021年の12月、今年最後の「マンガ便」で届きました。藤本タツキさんの「ルックバック」(小学館)という読み切りマンガでした。 小学校の教室に「マンガ」の上手な藤野さんという少女がいて、結構人気者です。学年新聞に4コマ漫画を描いています。その新聞に京本さんという、不登校の同級生が4コマ漫画を掲載しはじめます。 そこから藤野さんと京本さんの出会いと別れが描かれているマンガです。ネットに掲載されたマンガで、若い人たちのこころをつかんだのでしょう、アクセス数が桁外れで、単行本化されたようです。 読み終えて、ぼくが気になったのは、マンガの本筋とたぶん、関係ないと思いますが、藤野さんの名前は歩さんですが、京本さんの名前が最後まで分からないことでした。二人は共作の中学生マンガ家として「藤野キョウ」を名乗りますが、京本さんの名前はありません。なぜ、藤本タツキさんは京本さんに名前を付けなかったのでしょうか。 もう一つ印象に残ったことは後ろ姿の絵です。作品名が「ルックバック」だからでしょうか、この作品では繰り返し部屋で机に向かってマンガを書いている少女の後ろ姿が描かれていることが気にかかりました。 窓の外の風景から、そのほとんどが藤野さんの後ろ姿だということがわかるのですが、102ページの姿だけは京本さんの姿です。藤野さんの部屋は椅子付きの学習机で、京本さんの部屋は座り机なので、ぼくにも違いがわかります。 で、この表紙に書かれている後ろ姿は誰なのでしょう。椅子に座っている様子から藤野さんのようなのですが、パーカーの後ろ姿は京本さんにも見えるのです。この後ろ姿が「藤野キョウ」さんということでしょうか? 年齢のせいなのかもしれませんが、この作品に、若い人たちがひきつけられる理由がよく分かっていません。 お読みになればわかりますが、この作品の中で二人のマンガ少女にやってくるのは、かなり悲劇的な結末です。 ただ、ぼくにとって困ったことは、その悲劇を描くことで藤本タツキさんが「何を言いたいのか」ということが釈然としないことなのです。「やっぱり年のせいなのかな」と思わないでもないのですが、読み終えて表紙を見直すと、やはり、ちょっと胸を衝かれるわけで、なんだかもやもやするのが困ったものです。
2021.12.30
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小林まこと「JJM女子柔道部物語 社会人編01」(EVENING KC 講談社) 久々に届きました。トラキチクンの2024年6月のマンガ便です。小林まこと「JJM女子柔道部物語」(講談社)の「社会人編」開幕!です。 第1話から第8話まで、高校生活最後のおバカシーンが満載です。で、いよいよ登場したのが、この方、柔ちゃんですね。 中学生選手として彗星のように現れて、やがて世界王者として一つの時代を作った、あの田村亮子さんがモデルです。1990年のことですが、テレビを見ているカムイ南高校の二瓶さんは、中学時代のヤワラちゃんと戦って、ぶん投げられていたんですね。このマンガに、そのシーンがあったのかどうか、まったく覚えていませんが、要するにその時代のことですね。 で、エモちゃんたちがカムイ南高校を卒業し、大学生、社会人として巣立っていったのが1991年の3月だったわけです。 エモちゃんは「音羽海上」という会社に就職が決まって、いよいよ上京するというのが第9話です。 全日本から世界へ向けての活躍がいよいよ始まりますが、親一人子一人で育てて来られたお母さんは、涙を隠してのお別れです。でも、まあ、当のエモちゃんは・・・(笑)。 第2巻、楽しみですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.24
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小林聖太郎「平行と垂直」キノシネマ神戸国際 神戸のキノシネマで封切ったのが9月の初旬だったのですが、結構人気で、何となく避けていると、上映時間が夕方の5時を過ぎてしまう変更もあって、もういいかなと思っていたのですが、頼りにしている映画好きの友だちが「今年いちばん泣いた!」とかいう感想を書いたりしているのを読んだりして、「やっぱり、見とこかな・・・」と揺れもどして、ちょうど、この日、同居人が、別の映画館の午後5時頃はじまる作品を見るというし、ここの所負け続けているダメトラのナイターが休みだということもあって、17時50分開始ですが見ました。普段は、こんな時間に映画館に来ることはありませんが、今日は見ました(笑)。 小林聖太郎監督の「並行と垂直」です。 いい話でした。 ボクが、一番気に入ったのは大貴君の職場の、須賀さんでしたっけ、同僚のオッさんでした。大貴君が、彼をこわがっていない所に胸うたれました。 で、思い出したのは、30数年務めた教員生活の終わりごろに出会った少年のことでした。 入学直後、少年の母親が学年主任をしていたボクに面会を申し込み、少年の自閉症の症状について、事細かに訴えられる機会がありましたが、それから3年間、彼は、大好きだった音楽系のクラブを途中でやめたこと以外、卒業を目前にして出席不足の補講が必要になったことが唯一のトラブルという高校生活を送りました。「お前、なんで、毎朝、こんなに遅刻したん?」「校門に先生が立っているとはいられへんねン。」「で、どうしたの?」「下の、公園。」「で?」「先生がおらんくなったら入れる。」「そこまで公園で座って待ってて、で、遅刻か?」「うん、まあ、そう。」「なんで、入られへんねン?」「こわいから。」「そのこと、担任の先生にいうた?」「いや、いうたことない。」「なんで?」「3年間、担任の先生、みんなこわかったってん。」「なんでやねん、I先生とか、和やかに話聞いてくれたやろ。」「うん。でも、こわかったから。」 卒業認定直前の時間補充でトイレ掃除を一緒にしていた時の会話です。「おい、そんな丁寧にせんでも、適当でええで。」「先生が、それいうたらあかんのんとちゃう?」「いや、まあ、そうやけど、ボクもマジメにせなアカンようになるやん。するけど。」「ここ、済んだら、ちょっと、クラブの練習聞いてきてもええ?」「ええで、あっちの女子トイレ、オレがやっとくわ。」 隣の女子トイレの掃除をすませて廊下に出てみると、少年は、かつて、彼が所属していた音楽クラブが練習している音楽ホールの二階の渡り廊下の陰に隠れて練習を聞いていました。ボクも下から見えないように座りました。「クラブ、なんでやめたん?」「ミーティングの時間が守られへんかってん。」「なに、それ。」「練習の始めに、パート・ミーティングってあるねん。ボク、いっつも遅れるねん。パート・リーダーにおこられ続けやねん。」「行かれへんのんか?」「うん、なんか、行ったら叱られるような気がして。」「リーダー誰やったん?」「Kさん。」「やさしい子やん。」「うん、わかってんねんけど。ちゃんとっしてって。で、結局、顧問の先生に叱られて、やめてん。もうちょっと、聞いとってええ?」「ええで、1階の男子トイレにおるから。」 しばらくして、トイレ掃除に戻って来た少年に聞きました。「オマエ、なんで、ボクには、そういうこといえんのに顧問とか担任にはいわんかったん?」「だって、こわないやん。」「ボクがか?」「うん。補講の担当、S先生やって聞いてホッとしてん。」「それ、なんか、誤解してへんか?(笑)」 こんなことを思い出して、ここに書き留めているのは、この少年がすでにこの世にいないからです。彼は、この出会いから数年後、大学卒業間際、この世を去りました。その間、何度か、彼から誘われて、同じような会話をしました。でも、彼が生き延びることを支えることはできなかったわけです。 この映画で、K察のエライさんが「責任とれるの?」とか聞くシーンがあります。悪意はないんでしょうけど、みんな、そんなふうな聞き方をするんですよね。一方で同僚の須賀のオッさんは大貴君が掃除する姿を呆れて見ているんです。でも、だから、大貴君は須賀のオッサンがこわくなかったんですよね、きっと。 そこのところを描いたこの作品に涙がこぼれました。拍手!です。 共生とか、相互理解とか、美しい言葉はいっぱい出回っています。大貴君が相手の顔に触るというシーンがあります。「そんなことしたら、みんなこわがるやろ。」 おかあさんが諭します。みんなこわがりながら相互理解とかいうんです。どうして、もう一歩、近くによって顔を撫でてもらわないんでしょう。大切なのは隣の人に顔を寄せて出会う勇気ですね。 そういえば「突然具合が悪くなる」という映画でもマリーさんだかが「もっと近づいて・・・」とかいってましたね。 「平行と垂直」、考えぬいた結果の題名なんでしょうね。希と大貴、妹と兄、家族、そして世間。何が平行で、何が垂直なのか。見ていて、どうしても客観というか、こわいもの見たさというか、一歩離れた所から頑張ってるネ・・・とかいっちゃいそうなんです。ドラマですからそうなってしまうんですけど、二人だけの問題じゃないと思うんです。そのあたりに届きそうで届いていない弱さも感じました。まあ、どうすれば表現できるのかわかりませんが、誠実な作品であることは間違いないですね。拍手! のんという女優さんの演技を初めて見ました。こういう感じってヘタウマ(笑)っていうんですかね、いいですね。安田章大という人も初めてでした。まあ、カメラの前だけでしょうが顔作るの大変だったでしょうね(笑)。ああ、それから紗奈ちゃんを演じた子役さん。やるもんですね(笑)。小林監督って、あの、上岡龍太郎さんのご子息なんですね。なんか、しみじみしちゃいました。皆さんに拍手! いろいろ思い出させてくれた作品でした。見てよかったです(笑)。拍手!監督 小林聖太郎原案・脚本 山野海撮影 大塚亮編集 宮島竜治音楽 富貴晴美主題歌 浮 安田章大キャスト安田章大(日向大貴 兄)髙田幸季(幼少期)のん(日向希 妹)武藤凪(幼少期)伊島空(田澤雅也 希の恋人)高山トモヒロ(日向義孝 父)谷村美月(日向咲子 母)福田転球(吉川 先生)芦川誠(須賀峰雄 同僚)早織(安藤靖子 少女の母)河野咲良(安藤紗奈 少女)神野三鈴(田澤芳子)菅原大吉(田澤茂一)2026年・118分・G・日本 東映2026・09・16・no179・キノシネマ神戸国際no74追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.18
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ロベール・ブレッソン「バルタザールどこへ行く」神戸アートヴィレッジ 実は、ロベール・ブレッソンの特集で、「少女ムシェット」と週替わりのプログラムでした。で、「バルタザールどこへ行く」が前の週でしたが、「バルタザール」を見た翌週に扁桃腺をはらしてしまい、「少女ムシェット」は見損なってしまいました。というわけで、「バルタザールどこへ」の感想を、とりあえず載せることにしました。 ロバのバルタザールの誕生から、その幸せな生い立ちにもかかわらず、なんとも、不幸な一生の物語でした。 あどけない少女マリー。少女の幼馴染みなのでしょうね、農家の少年ジャック。生まれたばかりだったでしょうか、ロバのバルタザール。フィルムが廻りはじめて、すぐに気づきました。 「この映画は、30年以上前に見たことがある。主役はロバだ。」 で、そのとおりでした。 畑で犂を引くバルタザール。子どもたちを載せた馬車を引くバルタザール。粉ひきの臼を、鞭打たれながら、立ち止まり、立ち止まり引くバルタザール。再会したマリーに、頭や首すじを撫でられながら遠くを見るバルタザール。サーカスのバルタザール。酒乱の飼い主を背に載せ、主が転がり落ちたすきに、ヨタヨタと逃げ出すバルタザール。こん棒で打たれ、蹴りつけられるバルタザール。密輸の荷を積み上げられて山を登ってゆくバルタザール。流れ弾に当たり倒れているバルタザール。羊たちが草を食む草原で静かに息を引き取るバルタザール。 ロバとはいえ名優バルタザールの名演技が、少女マリーの不幸な有為転変を見事に際立たせてゆきます。 このポスターをご覧ください。ただのロバとして画面の下方で、うれしいのか悲しいのかわからない顔付きでそっぽを向いているバルタザールがいます。 右手で彼の首を抱え込み、鼻筋をなでる、美しい少女マリーの眼差しが、まず、印象に残ります。 しかし、フィルムは回り続け、ロバであるからという理由だけで、なにを考えているのかわからないと思い込んでいたぼくの前に、生きていることの哀しさをたたえたバルタザールの眼差しのクローズアップが、繰り返し突き付けられ、最後に眠るように息を引き取ってゆく姿が映し出されるに至って、名優バルタザールの存在に気付くことになったのでした。 たしかに、ポスタ―でも、このチラシでも、お気づきだと思いますが、少女マリーを演じたアンヌ・ビアゼムスキーの表情のすばらしさがこの映画の見どころであることは間違いありません。しかし、バルタザールの存在なしには、映画そのものが成り立たないのではないでしょうか。 いやはや、それにしても、すごい映画でしたね。ぼくは40年前に、いったい何を見ていたのだろうと、つくづく思いました。監督 ロベール・ブレッソン製作 マグ・ボダール脚本 ロベール・ブレッソン撮影 ギスラン・クロケ美術 ピエール・シャルボニエ編集 レイモン・ラミ音楽 シューベルト ジャン・ウィエネルキャストアンヌ・ビアゼムスキーフランソワ・ラファルジュフィリップ・アスランナタリー・ジョワイヨーバルダー・グリーンジャン=クロード・ギルベール1966年・96分・フランス・スウェーデン合作原題「Au Hasard Balthazar」配給:コピアポア・フィルム、lesfugitives日本初公開:1970年5月2020・12・05アートヴィレッジ(no13)追記2023・05・12 最近、ポーランドのイエジー・スコリモフスキ監督の「EO」というロバが主役の映画を見ました。スコリモフスキ監督がこの「バルタザールどこへ行く」にインスパイアーされて作ったと評判の映画でした。 で、昔の記事を思い出して修繕しました。で、比較してしまうのですが、この映画の「そっぽを向いているバルタザール」 が、やっぱりすごかったのだということを感じました。まあ、何故すごいのかはわからないのですが、スゴイです!(笑)
2020.12.23
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ヨン・サンホ「新感染 ファイナル・エクスプレス」キノシネマ神戸国際 あの、ですね。そんなに見たことがあるわけじゃないんですけど、韓国の映画でマ・ドンソクさんが暴れるのって好きなんですよね。で、この映画のリバイバルを待ってました。 ヨン・サンホ監督の「新感染 ファイナル・エクスプレス」です。 面白かったですね。 実は、例の「コロナ騒ぎ」のあとに作られた作品だとばかり思いこんで見たんですが、2016年の作品なんですね。だから、もし、その当時に見ていたら、まあよくできたゾンビ・ホラー映画、もちろん、今見てもそうではあるのですが、として笑ってみてた気がしますが、街からも映画館からも人が消えた、あの、「コロナ騒ぎ」を知っている今になって初めて見たものですから、感染を恐れる人間たちの振る舞いというか、心というかが妙にリアルに見えて、そういう面で面白かったですね。だから、かえって、この監督ヤルナ! まあ、そういう印象でした。拍手! お目当てのマ・ドンソクさんですが、暴れるだけ暴れたうえに、体を張ってみんなを守る、いい役してましたね(笑)。最後のセリフが泣かせてくれて、やっぱり、この人好きです(笑)。拍手! チョン・ユミという女優さんが演じる彼の妻のソンギョンさんもいいですね。臨月のお腹を抱えながら、行きずりの少女のスアンちゃんの手を引いて走りに、走る! おなかの赤ちゃんと孤児になってしまったスアンちゃんを守りとおした心意気というか、根性に拍手!でした。 で、最後にスアンちゃんが歌った歌が「アロハ・オエ」だったことに感激!しました。歌詞は変えてありましたけど、この映画を、この歌で終わらせた監督と歌ったスアンちゃんに拍手! ゾンビ役の皆さんも、ご苦労様でした(笑)。拍手!監督 ヨン・サンホ 연상호 延尙昊製作 イ・ドンハ製作総指揮 キム・ウテク脚本 パク・ジュスク撮影 イ・ヒョンドク美術 イ・モグォン編集 ヤン・ジンモ音楽 チャン・ヨンギュキャストコン・ユ(ソグ ダメなパパ)キム・スアン(スアン 歌う少女)チョン・ユミ(ソンギョン 妊娠中をものともしない走りっぱなしの妻)マ・ドンソク(サンファ 妻を守り続ける正義漢)チェ・ウシク(ヨングク 野球少年)アン・ソヒ(ジニ 野球少女)キム・ウィソン(ヨンソク ただの悪人)チェ・グィファ(人のいいホームレス)パク・ミョンシン(ジョンギル 老姉妹の妹)イェ・スジョン(インギル 老姉妹の姉)シム・ウンギョン(感染者の女)2016年・118分・G・韓国英題「Train to Busan」2026・08・26・no158・キノシネマ神戸国際no70追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.08.27
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杉浦日向子「YASUJI東京」(ちくま文庫) 1980年ころ、やまだ紫、近藤ようこと、この人、杉浦日向子、「ガロ三人娘」とか、呼ばれて、そこはかとなく人気があって、その頃からのファンです。 三人の中で一番若い1958年生まれの杉浦日向子さんは、2005年、なんと、48歳の若さで亡くなってしまっていて、一番年上で、1948年生まれのやまだ紫さんが2009年、60歳で亡くなってしまって、今やご存命なのは1957年生まれの近藤ようこさんだけのようです。 まあ、この三人の作品を読むようになったのは、その頃、だから80年代に同居人になったチッチキ夫人の書棚で見つけたのが始まりなわけで、今回、この杉浦日向子「YASUJI東京」(ちくま文庫)を読むきっかけになったのも、チッチキ夫人が読み終えて枕元に並べていた青木海青子の「不完全な司書」(晶文社)というエッセイ集(?)を読んで、この本が紹介されていたからです。「杉浦日向子の「YASUJI東京」ってある?」「たぶん、ないわね。」「亡くなって、ずいぶん立つね。」「ろくでもない男で苦労して、早死にしちゃったのよ・・・。」「荒俣宏やったっけ、あの人、ボク、結構、読んだけど。」 というわけで、古本で購入でした。 青木海青子「不完全な司書」(晶文社)の中に「窓を眼差した人」という題でこんな文章がありました。 『YASUJI東京』は、どこか杉浦日向子さん自身の面影を備えた一人の女性が、明治の江戸・東京とビルの立ち並ぶ昭和の東京を行き来しながら、明治を生きた風景画家・井上安治の足跡を辿っていくという物語です。物語は安治の師である画家・小林清親と井上安治の関係性やそれぞれの作風を軸に進んでいきます。清親の描く絵は、温かくドラマチックにそこに息づく人々の営みを切り取るのが特徴で、変わりゆく東京の風景に対しても万感の思い、甘やかな切なさを感じさせます。清親の芯の温かい目線がにじみ出たような作風です。これに対して弟子である安治の描く東京は、画者が透明であるかのような、ある種のあっけなさをまとっていて、画者の気配が立ちのぼるかのような作風とは一線を画しています。こうした安治の風景画のことを、主人公の女性は「安治の網膜に映った風景。たしかにこれは絵ではない。まして写真でもない。百年の時を貫き東京が見える。―窓だ」と評しています。(P56) 青木海青子が杉浦日向子のこの作品に、なんというか、「これだ!」というふうに感応したのは、「窓」という発想ですね。 青木海青子という人はルチャ・リブロという私設図書館を東吉野の山奥で開設して、そこで司書をしている人です。パートナーの青木真兵とお二人でネットでのオムライスラジオとか(聴いたことはありませんが)発信したり、「彼岸の図書館」(夕書房)をはじめ、あれこれの本を出版したりしている面白い人なのですが、「不完全な司書」(晶文社)というのは彼女の単著で、日頃の図書館の様子とか本の紹介とかが、とてもいい文章で書かれていて、楽しいエッセイ集です。 で、そのエッセイの根底には読書を「窓」としてとらえるという独特な見方が流れているのですが、その発想が杉浦日向子が井上安治という風景画家の作品を窓から見る東京としてとらえているところに反応しているわけで、この反応の連鎖にボクは引っかかったわけです(笑)。 というわけで、『YASUJI東京』(ちくま文庫)ですが、懐かしい杉浦日向子がいました。 今、こういうふうにマンガと、マンガですから吹き出しですが、マンガを挿絵化した構成で物語を描く作家はあまり見かけませんね。たとえば表紙の絵は井上の作品の模写だと思いますが、本文では、ほとんど随筆といっていい吹き出しが添えられていて、実に興味深いのですね。 若くして亡くなったのが、もう一度寂しいマンガ家です。あの頃、杉浦日向子が好きだった方にはきっと懐かしいと思いますが、彼女を知らない若い方にも手にとっていただきたい作品ですね。 この文庫本には、単行本には収録されていない「鏡斎まいる」の連作とか「白犬」、「梅殿、桜殿」といった短編も収録されていますよ。2026-no083-1298 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.13
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宮沢賢治「雨ニモマケズ」 高校の国語の教科書に宮沢賢治の「なめとこ山の熊」が出てきます。とても有名な童話ですが、なぜか高校の授業で出てきます。中学校では「注文の多い料理店」なんだそうです。ぼくの小学生の頃は「よだかの星」が出ていました。「ゆかいな仲間」たちのころは「クラムボンは笑ったよ」の「やまなし」だったかな?いや、これは、寝床で読んで聞かせたていた絵本だったかもしれません。 ともあれ、宮沢賢治は学校の国語の時間に人気のある詩人で、童話作家NO1なんです。詩もあるし童話もあります。「Ora Orade Shitori egumo」の「永訣の朝」のない教科書はちょっと想像できないですね。 ところで宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の題で有名な詩は、元々は手帳の走り書きであったことはご存知でしょうか。 子ども達に読ませる最高の詩として取り扱われていることもある。それは下に書いたふうに手帳に記してあったのが、彼の死後見つかったものらしいのですが、実物はこんな感じです。 昔の、筑摩書房の「宮沢賢治全集」の写真を撮って貼ってみますね。 うーん、全然見えませんが、ちょっと雰囲気を味わっていただけたら、ということなんです。全集版の「行わけ・レイアウト」を真似て写すとこういう雰囲気になります。五一頁・五ニ頁(鉛筆・青鉛筆)雨ニモマケズ 風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ 丈夫ナカラダヲ モチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテ ヰル一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ 野菜ヲタベ五三頁・五四頁(鉛筆) アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ 入レズニ ヨクソシテ ミキキシ ワスレズ ワカリ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ五五頁・五六頁(鉛筆・赤鉛筆) 西ニツカレタ 母アレバ 行ッテソノ 稲ノ束ヲ 負ヒ 南ニ 死ニサウナ人 アレバ 行ッテ コワガラナクテモ イヽ トイヒ五七頁・五八頁(鉛筆) 北ニケンクヮヤ ソショウガ ツマラナイカラ アレバ ヤメロトイヒ ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボート ヨバレ〈マタ〉五九頁・六〇頁(鉛筆)ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ南無無辺行菩薩南無無上行菩薩南無多宝如来南無妙法蓮華経南無釈迦牟尼仏南無浄行菩薩南無安立行菩薩 太字が頁数ですが、彼が残した「黒い皮の手帳」のものです。最初の「現代詩読本」の表紙写真にある手帳です。「ヒドリ」とあるのは「日照り」のことですね。こうしてみると読みにくいですね。 注目してほしいのは六十頁のお念仏なのです。彼は「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」と自らの願いを記した後、仏様たちにお祈りしていた、言うならばこの詩全体が「お念仏」としてとなえられていた言葉のメモの可能性があるのです。 冷害の夏、穂が青いまま秋を迎える田んぼのあぜ道に俯いて立っている青年。彼は病んだからだを治療することも拒否し、日がな一日、ここに立って、ぶつぶつと「雨ニモマケズ」を唱えている。そんなイメージ。結構、暗いですね。これを暗いと感じるか、純粋ととるか。 このイメージをぼくに示唆してくれたのは、思潮社が1979年に出した「現代詩読本 宮沢賢治」で、今は亡き、詩人の菅谷規久雄が「雨ニモマケズ再読」と題して書いているエッセイでした。詩人は一行一行綿密に読み返し、最後にこう結論しています。 もはやかれが、現世において、また現世にたいしてなしうることはなにもな。かれの、自死にもひとしくえらばれた意図的な病死は、おのが身を仏への供養とすることにほかなるまい。―あの法華経にいう焼身供養にもひとしく、である。 ともあれ、50年前に、僕が通っていた中学校の校門には「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」と彫ったプレートがはめ込んでありました。それが、この詩との出会いです。当時、やたら頑張れといっているように感じて、少々めんどくさかったのですが、こうして今読んでみると、むしろ「頑張れない」と泣いていることばようにも感じますね。頑張って偉くなる事をおそれているような気もします。無力であることを耐えつづけている人、いや、覚悟を決めてしまった人かもしれません。 「雨ニモマケズ」は、そんな人間のポケットにコッソリ隠されていた哀しい秘密だったのかもしれません。 そう考えてみると、あのプレートも、結構ラジカルだんじゃないか、そう思いませんか。(S)にほんブログ村ボタン押してね!
2019.10.08
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武田砂鉄「紋切型社会」(朝日出版社) 竹田砂鉄、いつの頃からか朝日新聞の書評欄に登場し始めていたこの名前に、どこか「胡散臭い」ものを感じていたのです(笑)。 一昔前の「自分」なら、そういうタイプはとりあえず読むという感じだったのですが、「もう、いいんじゃないか」という気分の今は、どちらかというと「敬して遠ざける」ヘンテコな若い人の範疇にしまい込まれそうだったのですが、 今年、メディアに問われているのは、オリンピック周辺で巻き起こる熱狂の裏で潰される声を聞き取る力だが、むしろ、熱狂を扇動するメディアが目立つ。東京は、かつてのように過度な憧れを向けられる場所ではないが、東京が盛り上がれば震災復興にも繫がる、との誤認が大手を振る。(松山秀明著「テレビ越しの東京史」朝日新聞書評:竹田砂鉄) こういう書き出しの書評を読むにつけ、「ひょっとして面白いヤツなんじゃないか」と、なじみの図書館で借りだしてきたのが本書、「紋切型社会」(朝日出版社)ですね。 で、読み始めたところだったんですが、全く偶然に「Fukushima 50」という映画を見たらしい糸井重里という人の、こんなツイートを見てしまいました。 戦争映画や、時代劇だと「いのちを捧げて」やらねばならないことがでてくる。いまの時代は「いのち」は無条件に守られるべきものとされるから、「いのちを捧げる覚悟」は描きにくい。映画『Fukushima50』は、事実としてそういう場面があったので、それを描いている。約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。(3月6日ツイッター) このツイートは、その後、所謂、炎上しているらしいのですが、ぼく自身は、「へー、糸井重里がねえ、ふーん、なんか変だな」という違和感のようなものを感じました。それは炎上している様々な意見を覗きましたが、それとは少しずれている感じでした。 で、ウソみたいですが、ちょうどその時、本書の「『なるほど。わかりやすいです。』認め合う『ほぼ日』的言葉遣い」という章段に遭遇したという訳です。 竹田砂鉄はまず、糸井重里をこんなふうに定義して議論を始めます。「不思議、大好き」「おいしい生活」「ほしいものが、欲しいわ」を作ったコピーライターはニュアンスのスペシャリストである。ポイントを絞り込むよりもゾーンを開放する言葉の作り手だ。(竹田砂鉄「なるほど、わかりやすいです。」) 次に引用されるのが、糸井の著書「インターネット的」からのこんな記述です。 この頃、対談用原稿なども、しゃべったように書かれるようになってきています。わかりにくい書き手に対して、読者サイドが「あなたの分かりにくさに、付き合っていられません」と思い始めたのだろうと、ぼくは感じています。いわゆる”書き手”とか“読み手”という「階級」が亡くなってきているのに、読み手は書き手より下だと信じている人たちが、難しいことをいかにも難しそうに語っているのでしょう。(糸井重里「インターネット的」) ここからが竹田砂鉄の「からみ」の骨子です。 糸井は、読み手と書き手の中に分け入って、読み手の方を向いて「これまでのって、わかりにくいですよね?」と言い放つ。ふわふわタオルを広げてウェルカム態勢を築く。ズルい。(竹田砂鉄「なるほど、わかりやすいです。」)「ふわふわタオル」という言い回しは、糸井の「ゾーン」の作り方の極意をさしていることばですが、評言として出てきた「ズルさ」がポイントだと思いました。 「ズルさ」の例として、糸井の「ほぼ日」から出ている対談の例をあげて、その「型」についての武田砂鉄はこういいます。 糸井は相手の話を受けた後に自分の言葉をつなげずに「なるほど。」「そのとおりですね。」「ああ、いいですね。じしんをもっていう、というのはすごくいいです。」「なるほど、わかりやすいです。」「そうなんですか。」「なるほど。なるほど。」とひたすら承認を繰り返していく。 確かに、その承認の連鎖によって、すらすら気持ちよく読むことができる。対談の温度感を伝えるために「(笑)」をいれたり、「はははは。」と大盛り上がりする様子を伝えたりするのと、この承認の連発とは位相が異なる。(竹田砂鉄「なるほど、わかりやすいです。」) 互いが理解しあっているムードが充満する開かれた「ゾーン」は確かにある。しかし、例えば「対談」しているお互いの言葉の奥にあるにちがいない、「わからなさ」を巡る躊躇や葛藤、二人の人間のぶつかり合いは、その「場」の「温度感」とは「位相」が違うはずなのに、それはどこに行ったのか。この指摘は鋭い! ぼくはそう思いました。 で、結論はこんな感じです。 人と人の認め合いから肌触りの良さを提供する対話が流行ることで、油でギトギトになった皿の真ん中に注がれる洗剤のように劇的な変化が見込めるプロセスすら、「あなたのわかりにくさには、つきあっていられません」と拒絶されていく。「なるほど。わかりやすいです。」という承認の嵐によって、物事の躍動感が全体的に狭まっているのではないか。 これだけ抽象的な、迂回しまくりの議論をぶつけても、やっぱり「なるほど。わかりやすいですね。」と受け止めて、あるいは「うーん。ちょっとわかりにくいですね。」とかわされて、次の承認に移ろうとするのだろうか。(竹田砂鉄「なるほど、わかりやすいです。」) ちょっと引いてますね。でも、なかなか善戦しています。全くのあてずっぽうですが、「なるほど、わかりやすい」ゾーンの「ことば」による構築は「商品」と「消費者」を結びつける「方法」として作り出されてきたというところに戻る必要がありそうです。この方法を作り出した糸井を、「ことば」に関して、ある種の天才だと思います。ずっとファンなわけですが、「本を読む」とか「映画を見る」という行動は、必ずしも商品の消費活動には収まりきるものではないのではないでしょうか。 読書での理解や納得、映画や美術作品への感動というものは、ありきたりな言いかたですが、お金には代えられない性質を宿しているものではないでしょうか。 ぼくは「本」や「映画」や「音楽」について、いや、他のさまざまなことにおいても、「わからなさ」にどこまでとどまれるかということが、この世界との出会いの基礎だと思っています。しかし、現実の消費社会で「わからない」商品に手を出す消費者はいないのです。 「泣ける」、「心震える」、「怖い」、まあ、その評判で購入して読んだり見たりする、誰でもが同じように「わかってしまう」ベスト・セラーや大ヒット映画が氾濫しています。作り手は「小説」書いたり、「映画」を撮ったりする以前に、売れる「商品」を作ることを目論んでいるかのようです。 という訳で、あのツイートに対する違和感の正体に思い当るのです。あの糸井重里が、どんな「映画」であれ、「泣きっぱなしだった」とツイートするというのは、武田の言葉を借りれば、やっぱり、ちょっと「ズルい」のではないでしょうか。 気付かせてくれたのは竹田砂鉄のこの本でした。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.22
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岸田奈美「もうあかんわ日記」(ライツ社) 今日の読書案内は「だいじょうぶ!」 の掛け声が気に入って立て続けに読んでいる岸田奈美さんのエッセイですが、なんと、こんどは「もうあかんわ日記」(ライツ社)です。 彼女が中学生だったころお父さんが亡くなって、心臓病で大手術の結果、下半身不随、車椅子生活を余儀なくされているおかあさんと、身の回りのことはなんとかできるけれど、やっぱりダウン症ということで、あれこれ心配な弟との三人の生活を、「だいじょうぶ!」の掛け声のもと、なかなかユニークなエッセイを、多分、ネット上で発表されて、それが書籍化された本なのでしょうね、それぞれ、同じような装丁で小学館から出ている「国道沿いでだいじょうぶ100回」、「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」と、発表順は逆ですが、読み続けている岸田奈美さんの三冊目は、「もうあかんわ」 でした(笑)。 ネット世代の新しい作家として大忙しの岸田さん自身の生活と、作業所やグループホームでの暮らしで、日々変貌を遂げる弟良太くん、車椅子生活者として、積極的に社会的活動を始めたお母さんのことを語る岸田節が面白くて、すっかりはまっていたのですが、「もうあかんわ」でした。 危機の始まりは、お母さんを襲い始めた日々の発熱で、まあ、お読みになればすぐにわかりますが、かつて手術なさった心臓の部品の老朽化のために、再度の命がけの手術が必要だという大事件の勃発でした。 多忙な東京生活から、神戸への帰省を余儀なくされた岸田さんですが、新たな関門は、コロナの騒ぎのなかでのお母さんの病状確認、通院、入院の経緯もさることながら、おバーちゃんでした。お母さんのおかあさんということで同居が始まっていたおバーちゃんは老化によるタイムスリップが常態化していたのでした。 母の大病の心配、入院までのあれこれ、手術の経過、言葉によるコミュニケーションが、今一つ成り立たない弟と祖母との生活、その上、ベランダの鳩(笑)まで、そりゃあ、「だいじょうぶ」とも言っていられませんよね。 本書はお母さんの発病から、退院まで、ほぼ二月間の日記的エッセイです。前半の数日は、ちょっと可哀そうで見てられませんという気分でしたが、手術が成功して、帰宅という頃になると、やっぱり「だいじょうぶ!」という感じで、ハラハラドキドキしますが読ませます。いやー、聖火リレー、大丈夫でよかったね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.01
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100days100bookcovers 97日目その1サラ・ピンスカー『いずれ すべては 海に中に』(市田泉訳・竹書房文庫) 遅くなりました。 前回のSODEOKAさんからの「引継」テーマは、「個人」と「世界」の関係 ということになるか。個人と世界を、対立、葛藤するものとしてではなく、重なり合うものとして見る視点というか。個人の公共性と世界の個人性とでもいうか。 候補は2冊あって、最初はどちらにしようかと思っていたのだが、この企画の担当も今回で最後なので、例外的に2冊とも紹介することにする。まずは1冊め。『いずれ すべては 海に中に』 サラ・ピンスカー・著 市田泉・訳 より 「一筋に伸びる 二車線のハイウェイ」 (竹書房文庫) 書名は元々は、ブランクを空けたところで改行された三行に分けて上下逆さまに表記され、小説名は、同じくブランクを空けたところで改行された二行に分けて表記されている(写真参照)。 原題は、書名が『SOONER OR LATER EVERYTHING FALLS INTO THE SEA』、小説名は、「A STRETCH OF HIGHWAY TWO LANES WIDE」。 私はむろん日本語翻訳版しか読んでいないので、英語版の表記がどうなっているかはわからない。2022年6月に出たSF短編集である。作家の名前はこれまでに聞いたことがなかった。 ブックマークしてある、たぶん個人運営の書評サイトで紹介記事を読んでから気になっていた。気になった最大の理由は、短編集冒頭に置かれたこの短編についての記述だった。 450ページほどの文庫ながら、価格は税抜き1600円。図書館を当たってみたら、置いてあるにはあるが、出版されて間もないこともあって予約が30人とかになっている。Book Off Onlineを当たっても見つからない。どうしようかと思っていたが、それからだいぶ経ってから結局新刊書店で購入することにした。 13の短編が収められているのだが、SFでもあり、帯にも記されているように「奇想」短編集でもある。率直なところ、すべての短編がよかったわけではないが、やはり冒頭の短編は印象に残った。その短編の内容を簡単に紹介する。 カナダで暮らすアンディは21歳のとき、農場で使うコンバインの事故で右腕を粉砕される。「1本まるごと、肩と右の鎖骨と、付随するあらゆる部分も含めて」 そして彼がまだ意識を回復しないうちに、両親は決断する。 目覚めたとき、「アンディの右腕はロボットアームで、頭にはインプラントが埋め込まれていた」。「ブレイン・コンピュータ・インターフェイス」 母親はそう言った。「運動皮質に電極とチップが埋め込まれてる」母親は続けた。「あんたはサイボーグってわけ」 父親の話によれば、アンディはどうやらプロトタイプのアームを装着していて、周囲もそれがちゃんと動くか注目しているらしい。 手に信号を送る神経が残っていないので、これまでのリアルな義手はあまり役に立たないという。痛みはあった。 ただ、医者はじきに鎮痛剤の投与をやめた。痛みとうまくつきあったほうがいい、と。 アンディは様々な痛みの違いがわかるようになり、それを表現できるようになった。痛みに包まれた痛み。もはや存在しない箇所のうずき、等々。 退院予定日の直前、アンディは感染症に襲われる。「医者は抗生物質を投与し、たまった膿を抜いた。その夜、熱に浮かされながら、アンディは自分の腕がハイウェイだという夢を見た。目覚めたときもその感覚は残っていた」「今、アンディは道路になりたがっていた。というか、彼の右腕がなりたがっていた。アンディがたじたじとするくらい、猛烈になりたがっている。アンディの内側と外側から、言葉にならない憧れが同時に湧き上がってくる。いや、それだけじゃない。腕はただ道路になりたいのではなかった。自分が道路だと知っていた。具体的に言うと、コロラド州東部にある、二車線で長さ九十七キロの一筋に伸びるアスファルト道だ。山までずっと見通せる道だが、山にたどり着けなくても満足している。両側に家畜脱出防止溝(キャトルガード)があり、有刺鉄線のフェンスがあり、草地が広がっている。 アンディはコロラドには行ったことがなかった。サスカチュワン州(引用者注:カナダの州)から出たことはなく、カリガリーやウィニペグすら出かけたことがない。山を見たこともない。遠くの山々の輪郭や、顔だけ白い牛の耳についているタグの番号を口で説明できるということが、白昼夢を見ているのではないという証になった。アンディはアンディであり、道路でもあった」 アンディは退院する。が、右腕が道路であることは変わらない。 アンディは農場での仕事に復帰する。馬の世話をし、トラックの整備をする。「別のトラックが何台か、雪の降るコロラドのハイウェイをゆっくり走っていて、そのハイウェイはケーブルと電極によって、彼の脳からなぜか心(ハート)に達した人工の経路によって、アンディにくっついている。アンディは凍てついた自宅のドライブウェイに横たわり、両腕を脇につけて、トラックがガタゴトと次々に通り過ぎるのを感じた」 腕は、気温やら、空気中の汚染物質の濃度やらもアンディに伝えてくる。「アンディの場所――農場とハイウェイの両方に、雪解けは遅れて訪れた。にぎやかな春がくれば楽になるかと思っていたが、それどころか、ますます引き裂かれた気分になった」 友人の一人は、アームのチップはリサイクルされたものかもとか、新しいスマートロード(車を自動で走らせてくれる道路)用だったのかも、と言うが、真相はわからない。腕は、自分がこことは違う別の場所の道であると思っている以外は問題はなかった。ふつうにちゃんと動いてくれる。 でも時折、腕は言葉を使わずにアンディに話しかけてくる。アンディをひっぱったり、Uターンしろと言ったりする。「おれはここにいて、ここにいないとアンディは思った。あるいは腕が思ったのかもしれない。アンディは故郷を愛しているんだと腕に伝えようとした。そう口にしながらも、今いる場所――サスカチュワンとコロラドの両方に完全に所属したいと願っていた。こんなのはまともな考えじゃない。二つの場所で同時に暮らせるやつなどいやしない。それはジレンマだった。」 その後、腕がどうなったかは、ここでは触れない。興味のある方は図書館等で書物に当たっていただきたい。さして「劇的」な展開ではなく、しごく「現実的」な終わり方をするとだけ言っておく。まず、このアイディアがずいぶんおもしろいと思った。自分の腕が、自身を道路だ思っているだなんて、そう考えつくアイディアではない。 そして、私自身が物心つくころから「アンドロイド」に、ある種の憧憬を抱いていたことにも思い当たった。端的にアンドロイドになりたかった。そういう発想がどういう経路で芽生えたのかはすでに記憶の埒外である。でも、今もその残滓がないわけではない。 そして、この短編は、あるロックバンドのあるオリジナル楽曲のことを私に思い起こさせた。オーディオスレイブ(Audioslave) の「I Am The Highway」がそれである。バンドは2001年に結成され、2007年に解散した。 ちょっとだけ脇道にそれて、このバンドのことを書く。 オーディオスレイブは、解散した2つのメジャーなバンドのメンバーが集まって結成された。 レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの、脱退したヴォーカリストを除くドラム、ベース、ギターのメンバーとサウンドガーデンのヴォーカリストだったクリス・コーネルによるオーディオスレイブは、グランジ系ハードロックのサウンドに、コーネルの強力なボーカルが乗るというコンビネーションが人気を博し、2002年のデビューアルナムから3枚のスタジオアルバムと1枚のライブDVDを発表した。 そのデビューアルバムに収められていたのが、ゆったりとしたバラードタイプの「I Am The Highway」である。 楽曲のサビの歌詞の一部を書き出す。詞はクリス・コーネルの手になる。I am not your rolling wheelsI am the highwayT am not your carpet rideI am the skyI am not your blowing wind I am the lightningI am not your autumn moonI am the night 和訳など不要だろうが、一応、下に。私はあなたの転がる車輪ではない私はハイウェイだ私はあなたの絨毯の乗り物(魔法の絨毯)ではない私は空だ私はあなたの吹く風ではない私は稲妻だ私はあなたの秋の月ではない私は夜だ 「魔法の絨毯」はふつう「magic carpet ride」と表現するようだが、ここでもほぼ同意だと思われる。 "I"は、他の部分から考えて、おそらく「人」である。 そのうえで、上のような歌詞が歌われる。 自身のバンドに「Soundgarden」「Audioslave」と名付けるようなネーミングセンス(おそらくコーネルが名付けたのだろう)から想像できるように優れたリリシストであるコーネルらしい詞だ。 「私」が「あなた」のパーソナルな「もの」ではなく、ハイウェイであり、空であり、稲妻であり、夜であるというのは、「私」は「世界」の一部であり世界に共有されているということだ。 個人である自身と、「公器」である自身は己の中で葛藤も産み出すはずだが、この詞の中でコーネルは葛藤ではなく、公器であることを宣言する。 私は、お前の転がる車輪ではなく、車輪が進む道路そのものだと断言する。 そればかりか、空、稲妻、夜といった時空に広がる「環境」でさえあるという。 私たちがふだんさして気に留めない、環境やインフラの要素に彼は自身を、人間のあり方を重ねようとする。 このスケールの大きさ、射程の長さ、宇宙的な広がりは、結局は人間が自然や宇宙と同じ物質でできており、そこで生まれて死ぬという至極当然なこと、そして一人の人間が他者や社会と、そして自然や環境とつながっていくしかない存在であることを確認させてくれる。 私は個人であるが、同時に社会の公器であり、世界に共有される「自然」の一部でもある。「個人」は、不可侵性と、公共性ないし共有性を生まれながらに併せ持っている。「一筋に伸びる 二車線のハイウェイ」を読みおえて、私は、見たことも行ったこともない土地の道路になった自身を想像してみる。コロラドでも、マリウポリでもワルシャワでもピョンヤンでもジャララバードでも、ガザでもエルサレムでもいい、どこかの道路。 自身の上を通り過ぎる風や陽射、車、人々のことを想像してみるのは、そこが戦地である際の憎悪や悲哀を除けば(それが可能ならば)、悪くない気分だった。 ピンスカーは、作家であるとともにミュージシャンでもあるそうだから、もしかしたらオーディオスレイブのこの楽曲を知っていたのかもしれない。 だからといって、この短編についてどうこう言いたいわけでは決してない。むしろ、そうであるなら楽曲をきっかけにしてこんな具体的で魅力的なストーリーを産み出した才能を称賛したい。 最後に一つ。さきほど名前を上げたクリス・コーネルは、残念ながら、再結成されたサウンドガーデンのツアー中、2017年に亡くなっている。後に自死の可能性が高いという発表がなされた。享年52歳。個人的には、すごくショッキングな出来事だった。YouTubeにUPされた楽曲のリリック動画のリンクを貼っておく。https://www.youtube.com/watch?v=hWlkmkZW2hkT・KOBAYASI・2024・02・18 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.07
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ザ・ブルーハーツ「ドブネズミの詩」(角川書店) トラキチ君の2025年2月のマンガ便に入っていました。でも、マンガではありません。ザ・ブルーハーツの「ドブネズミの詩」(角川書店)という、まあ、いってしまえば甲本ヒロト君とブルーハーツのメンバーたちの歌詞と発言集です。「なにこれ?」「掃除してたら出てきた(笑)」 で表紙に巻かれた腰巻の文句を見て読んでしまいました。上の写真は表だけですがウケたの裏です。語録を出すなんざあ 偉そうだな語録を出すなんざあ 毛沢東みてえだなあ語録を出すなんざあ ゴロク30年早えな語録を出すよりはむしろスゴロクがしてえなあ 1988年の出版ですから30年ほどたっています。1963年生まれの甲本ヒロト君は当時25歳くらいです。たぶん、他のメンバー君たちも似たようなお年頃だったと思います。ボクにウケたの2行目の毛沢東です。「30年早え」かったわけですから、今が、ちょうど読み頃でした。ちなみに甲本ヒロト君は、バンドの名前は変わりましたが、もちろん、まだ歌っています。もちろん還暦を越えています(笑)で、70過ぎたじーさんが、うん、そうそうって感じたところを抜き出してみますね。 「愛」とか言うと、みんな駄さいとかくさいとか言うけど、なんか俺は違うとおもうな。 うん、ボクも、今ごろになってそう思う。学校がイヤだと言って登校拒否できる奴はええよ。俺はいじめの対象にもならない本物の劣等生だったんよ。 ボクは生徒だった時優等生だった。学生になったころから怪しくなって、それでも、心ならずもガッコの先生とかして、やめて10年、70になって、このことば、身に沁みてわかる気がする。なんでだろ?歩くのが好きなんですよ。一番、落ち着ける。 まんま、今の、ボクの気持ち。歩いていて、フト、道ばたに座ってお茶とか飲んで一服する時、空に浮かんでいる雲とか、イイナと思いながら見上げている。知らないことって一番よくないからさ。 うん、忘れたっていいんだよな(笑)。理想論とか語っててもしょうがないじゃん。カッコ悪くても具体的に一歩ずつ進めて行くしかないんだよ。 あのころ、これが、一番難しかった。愛はいくら使ってもへらないんですよ。 まあ、それが結論ですね(笑)。 トラキチ君、ありがとう。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.11
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「これは、カタバミですか?」 ベランダだより 2025年3月23日(日)ベランダあたり 陽気に誘われて団地をフラフラして、我が家のベランダまで帰ってくると、こんな黄色い花が、こっちをのぞいていました。「これって、ぺんぺん草?」「カタバミかなあ?」「知らんの?」「シラーん!」「フーン?」「ようするに草よ!」 最近、ベランダの新芽を漁るヒヨドリ君との戦いに疲れているチッチキ夫人がなんとか守り抜いたのがこの花です。 名前は知りません(笑)。 で、棟のまわりでは水仙の花が元気いっぱいです。 こんなんとか。 こんなんとか。 こんなんとか。 それぞれ、品種は違います。徘徊をはじめた頃は気にして調べましたが、今は気になりません。調べたことも忘れました。グーグル・フォトとかで調べる便利な方法も知りましたが、「まっ、いいかな。」 で笑ってすみます。それって、老いでしょうか?(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.03.25
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「オッ!さんぽ シネリーブル 2日目」 徘徊日記 2025年9月9日(火) 三宮あたり 今日は、9月9日、重陽の節句、菊の花の日ですね。菊の花の雰囲気なんてかけらもない夏の日が続いている秋です。 で、お調子者を反省したはずのシマクマくんですが、バス、電車と乗り継いでお出かけするのが、さほどの難儀ではないことを知ってしまって、家でじっとしていることができません。 今日もシネリーブルにやってきました。写真はお隣の三井住友のビルに映った、シネリーブルのビル、朝日会館です。 青空にそびえたつビルを見上げると、こっちのビルがその中に大きく映っていて、別に、ふつうの景色なのですが、なんだか、感動して「オー!パチリ!」でした。 で、振り向くと道の向こうに変な老人が立っているのが見えたのでついでに撮ったのがこの写真です。 こちらは、通りの向こう側のビルのガラスの壁に映っていた徘徊老人の姿です。鏡の姿ですから右と左が逆ですが、向かって右の脇につけていて、カバンかなんかをぶら下げているように見えるのが右肩保全装具です。固めのスポンジの枕を抱えているような状態ですが、案外ラクチンです(笑)。 自分で、ヘンテコな格好の自分の姿を見るのも初めてなので、「ハイ、パチリ!」です。 今日の映画です。韓国製の歴史サスペンスでしたが思いのほか面白かったですね。で、ご機嫌な帰り道、ちょっと慣れてきたこともあって、今日は大丸デパートに立ちよってお土産購入です。 そうです。ボクも好きですが、チッチキ夫人が喜ぶこと間違いなし、元町ケーキのザクロです。粉砂糖がふってあるイチゴが、いつ食べてもスッパイのが美味しいんですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2025.09.14
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黒沢清「黒牢城」109シネマズ・ハット なんだか評判なので「混む前に!」 まあ、そういう目論見で初日に見ました。黒沢清監督の「黒牢城」です。 予告とか見ていて、題名の「黒牢城」に、ちょっと引いて、見るつもりがなくて、チラシがありません。109シネマズハットでは上映中のチラシ配布なくて、・・・。 原作の米澤穂信の小説は、同じ題名で山田風太郎賞とか取った人気作らしいですが、和物も洋物も、ミステリーとかエンタメに興味を失ってしまって10年、まったく知らない作品でした。 で、監督の黒沢清という人は、一般的評価も高いし、知人の映画好きの方も「この監督好き!」という方がいらっしゃるのですが、ボク自身は、数年前、「旅のおわり世界のはじまり」とか、「スパイの妻」とかを見たことがあるだけなのですが、あんまりピンと来なくて、それ以前の作品も、以後の作品も、ほとんど見たことのない監督です。 で、見ました。 時代劇で、結構、歴史事実をなぞっていて、登場する荒木村重という人も黒田官兵衛という人も独特なキャラクターで歴史に名を残した人ですし、有岡城というのは、今では伊丹城址になっている場所ですよね。摂津、丹波、播磨という地名も興味津々。 で、見終えました。なんで、評判になっているんでしょうね?ボクにはつまらない作品でした。 まあ、ボクの勝手な印象なのかもなのですけど、最初の方で、子どもとか女性とかが出てくる村のシーンがあるのですが、そこに出てくる名もなき登場人物たちが現代人に見えちゃったんですよね。 それがすべてでしたね。 本木雅弘くんも菅田将暉くんも、居並ぶ武士たちも、寺男も、何だかみなさん、喋り方とか振る舞いとか現代人の印象で、とどのつまり、一人だけ千代保といかいう名のある女性として登場する吉高由里子さんの「極楽論」が、ボクの中では上滑りしていくんですね。 中世の一向一揆の門徒衆の極楽論を描くなら、まあ、論旨も雑なんですけど、せめて、登場人物たちその時代の民衆として描く演出なり、カメラワークなりを感じさせていただきたいですね。 あんまり、悪口をいうのは控えているのですけど、ちょっと腹立ちまぎれの気分ですね。一応、最後まで見ましたけど、なんだかアホらしくて見ていられない印象でした。もちろん黒沢清って!という期待の裏返しです。またしても、ハズレでした。拍手はありません(笑)。 ちなみに、黒牢城って、黒田官兵衛が牢屋に入っている城の駄洒落ですかね。アホらしくて言葉を失いますね。まあ、そっちの罪は原作者にあるんですけど・・・。 監督・脚本 黒沢清原作 米澤穂信撮影 佐々木靖之編集 高橋幸一音楽 半野喜弘殺陣 清家三彦キャスト本木雅弘(荒木村重)菅田将暉(黒田官兵衛)吉高由里子(千代保)青木崇高宮舘涼太柄本佑ユースケ・サンタマリア吉原光夫坂東龍汰近藤芳正矢柴俊博木原勝利河内大和吉岡睦雄上川周作前田旺志郎坂東新悟荒川良々渋川清彦渡辺いっけいオダギリジョー2026年・147分・G・日本・松竹2026・06・20・no116・109シネマズ・ハットno83追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.06.22
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橋口亮輔「ぐるりのこと」シネリーブル神戸 「ハッシュ」という作品を見て、「この監督オモロイやん!こっちもみてみよう!」 で、見ました。橋口亮輔監督の「ぐるりのこと」です。2008年の作品のようですが、よかったですね(笑)。 リリー・フランキーさんの力の抜けた演技に拍手!拍手!でした。(笑) このお二人ですね。カナオさんと翔子さん、リリー・フランキーさんと木村多江さんのご夫婦の「ぐるり」で起こることが物語の骨子とでもいうべき作品なのですが、「ハッシュ」同様、その出来事が「夫婦」という外部遮断型の「人間関係」にどうふりかかってくるのかという問題意識の型が揺らがないんですよね。この監督の、世界認識の面白さが縦横に表現されている快作で拍手!拍手!でした。 「万引き家族」くらいしか知らなかったリリー・フランキーさん、線の細い美人女優さんというイメージだけで、映画のスクリーンでははじめてお目にかかった木村多江さんのお二人、「夫婦」という、一緒に暮らす男女の、なんとも、やっかいといえばやっかい、あたりまえといえばあたりまえな関係を、どうすればリアルに、且つ、肯定的に、だから、いい夫婦に描けるのか、かなり難しいシチュエーションだと思うのですが、見事に演じきっていましたね。あまりにも普通の関係である「夫婦」というのを演じて、見ているこっちをシラケさせないのはかなり難しいと思うのですが、拍手!拍手!でした。 青年団という、ヒイキの劇団で、中でも贔屓だった、渋いおっさんを演じていて数年前に亡くなった志賀廣太郎さんのお姿が拝見できたたことがうれしかったですね。他にも、柄本明さんや寺田農さんのお姿があって、初めて見るのに、なんだか懐かしい作品でした。拍手!監督・原作・脚本・編集 橋口亮輔撮影 上野彰吾音楽・主題歌 Akeboshiキャスト木村多江(佐藤翔子 妻)リリー・フランキー(佐藤カナオ 夫)倍賞美津子(吉田波子 翔子の母)寺島進(吉田勝利 翔子の兄)安藤玉恵(吉田雅子 兄嫁)八嶋智人(諸井康文 テレビ局員)寺田農(吉住栄一 画家)柄本明(安田邦正 テレビ局員)志賀廣太郎 古舘寛治 峯村リエ 温水洋一 山中崇木村祐一 斎藤洋介 加瀬亮 光石研 田中要次佐藤二朗 新屋英子 田辺誠一 横山めぐみ 片岡礼子新井浩文 上田耕一 春海四方 菅原大吉 山中聡菊池亜希子 江口のりこ 矢沢幸治 佐藤直子 高橋かすみ赤堀雅秋 伊藤修子 岩本えり 内田慈 遠藤留奈黒田大輔 笹野鈴々音 鈴木歩己 中野英樹 萩原利映藤本喜久子2008年・140分・日本 ビターズ・エンド2026・08・02・no144・シネリーブル神戸no402追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.08.06
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「8月のアサガオ」 ベランダだより 2026年8月26日(水) ベランダあたり 暑い、暑い8月もあと1週間です。毎朝のベランダではアサガオが咲き続けています。この暑さにも枯れないのはチッチキ夫人の丹精のおかげです。 でも、例年に比べると元気がありません。 朝から、この日射しに向かって咲くんですからアサガオだってつらいでしょうね。 健気な姿です。 日蔭を選ぶように咲いている花もあります。午前9時を過ぎても咲き続けています。こちらは、日盛りで咲いたせいでしょうね。同じ時刻に、すでに萎れています。なんか、つらいですね。 9月になれば涼しくなるというホショウはありませんが・・・、でも、そういえばそんな歌があったような気がしますね。だれでしたっけ? にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.08.26
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塚本晋也「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」キノシネマ神戸国際 映画「野火」の監督塚本晋也がベトナム帰還兵で、PTSDに苦しんだアレン・ネルソンという人を映画にしたということを知って、封切り日に見ました。 塚本晋也監督の最新作「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」です。 「日本鬼子」、「蟻の兵隊」で日中戦争の兵士の話、「戦場0地帯」でウクライナの戦場。「ヒンド・ラジャブの声」ではガザの虐殺。で、今日はベトナム戦争帰還兵の話でした。なんか、疲れますね。 主人公のネルソンさんは18歳で海兵隊に入り、沖縄のキャンプ・ハンセンで訓練を受けて、ベトナムに送られたのが1966年、戦場での違和感に始まり、23歳で除隊した彼を心の闇が襲い始めます。 そんなネルソンさんが、小学校の教員になっていた、幼なじみのダイアンさんと再会し、彼女の勤めている小学校の教室でベトナム体験を語りはじめるところから、映画は始まります。 ベトナムで従軍している父親もいる子どもたちに気遣いながら、自らの心の闇と向かい合って何とか何とか語り終えたネルソンさんに一人の少女がこう尋ねます。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 そこから、「動くものはすべて殺せ」の戦場シーンが繰り広げられます。 記憶に苦しみ、絶望の淵に追い込まれていくネルソンさんと出会うのが、精神科の医師、ダニエル先生です。 ダニエル先生はカウンセリングの終わりに、必ず、こう尋ねます。「あなたは、なぜ、人を殺しましたか?」 この質問が、この映画の支柱でした。 塚本監督の「野火」を見たことがありますが、あの映画で日本軍から棄てられた田村一等兵がフィリピンの山野を眺めるシーンがありますが、あのシーンを撮った監督の意図を彷彿とさせる響きがこの問いにはあると思いました。「大岡さん、あなたがたは人を殺しましたか?」 それが、この「ネルソンさん」を見終えて、ボクの頭に最初に浮かんできた言葉でした。この国の戦後文学において、ボク自身、とりわけ敬意をもって読み継いできた大岡昇平とか、武田泰淳とかいう作家たちが帰還兵であったことに気付きなおして考え込んでしまいました。 戦後文学の作家たちが兵士として、戦場で何をしてきたか、何をさせられてきたか。苛酷な戦場をどうやって生きのびたのかとか、あるいは、帰還した後、作家とし残した傑作群の文学的評価とかにとらわれながら、そこのところは見落としていことに気づかされたんですね。 ベトナム戦争を日本人の監督が、2026年の今、撮ったということに、まず、拍手!でした。 米軍にあった(多分、今でもある)、アフリカ系兵士やアジア人に対する蔑視、沖縄での夜郎自大、こういうシーンは塚本晋也の眼でないと描けなかったでしょうね。 加えて言えば、軍備とかが、いかにもな口調で語られ、いつの間にかミサイル基地の建設を当然視する、この国の風潮に対する塚本監督のNO!ですね。拍手! 映画の中でも出てくる言葉ですが、「動くものはすべて殺せ」というセリフを聴いていて、ハッと、思い出した本があります。 ニック・タースというジャーナリストが書いた「動くものはすべて殺せ」(みすず書房)という大著です。10年ほど前にみすず書房から布施由紀子の翻訳で出版されています。「ベトナムでアメリカ兵はなにをしたか」 を徹底的に暴いた本です。ソンミとかの虐殺事件が一部公表されていますが、戦場でのアメリカ兵にとって敵は動くものであって、それが、子どもであろうと老人であろうと関係なしであったことが描かれています。いくら読みすすめても明るい気持にはなれない、まあ、実に読むのがしんどい本ですが、「戦争」について理解するためには必読書かもですね。 それから、この映画を見ていて思い出した本をもう1冊。 ベトナム帰還兵に蔓延する、この映画が描く症状を解き明かしたジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」(みすず書房)という本です。1990年代に出た本ですが、訳者に中井久夫の名前を見つけて読んだことがあります。 今ではPTSD(ポストトラウマ障害症候群)という言葉が、普通名詞のように使われていますが、ベトナム戦争での戦場後遺症の研究から始まった概念で、その研究の始まりの本といっていい本だと思います。これも、読みでがありますが、読んで深く納得の本です。 なんか、読書案内みたいな感想になりましたが、ついでにいうと、実は戦後文学、特に武田泰淳の戦争体験は高橋源一郎が「DJヒロヒト」(新潮社)で、すでに書いています。そっちは、いずれ(笑)、読書案内しようと思っています。 っそれにしても、いろいろ考えさせてくれる面白い映画でした。拍手!監督・脚本・撮影・編集 塚本晋也原作 アレン・ネルソン製作総指揮 木下直哉音響演出 北田雅也音楽 ermhoiキャストロドニー・ヒックス(アレン・ネルソン ベトナム帰還兵)マーク・マーフィ(アレン・ネルソン青年期)タチアナ・アリ(リンダ ネルソンの妻)ジェフリー・ラッシュ(ニール・ダニエルズ カウンセラー)リリー・フランキー(黒井 講演活動の協力者)2026年・116分・PG12・日本 キノフィルムズ2026・09・07・no167 塚本晋也・キノシネマ神戸国際no72追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.14
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豊永浩平「はくしむるち」(講談社) 「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(講談社文庫)という作品で衝撃を受けた豊永浩平の第2弾「はくしむるち」(講談社)を読みました。これを書く20代の作家がいるのだ! 驚きの傑作!でした。 デビュー作の題名が「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」だったわけですが、今度は「はくしむるち」、全部ひらがなですが、意味不明です。本作を100ページほどお読みになれば「はくし」が白紙、「むるち」は沖縄語で怪獣を意味するのだということにたどり着けるのですが、とりあえず書き出しから写してみます。 〈プロローグ〉 波 一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと 一つ、天気のいい日に布団を干すこと 一つ、道を歩く時には車に気をつけること 一つ、他人の力を頼りにしないこと 一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと(ウルトラ五つの誓い) くりかえす波の音は、きみがカチャカチャとスプレー缶を振って、エアロゾルをシーッと擁壁に噴射すると、少しのあいだ聞こえなくなった。やはりきみは、計画(プラン)のときとおなじように、目のまえにあらわれる線に、それを刻むグラフィティの音だけに集中して、炎天下の日光も、潮の満ち引きも、ぬるい湿気の混じった海洋風も額からつたう汗もすべて忘れる。(P003~P004) 「きみ」と呼ばれている少年が今いる場所は沖縄の浜辺のコンクリートの擁壁の前です。書き出しを、もう少し写してみます。 遠くから、瑞人たちのオートバイのエンジンのうねりが聞こえてくる。たしかに、きみには聞こえてくるけれど、すぐに後景に退く。そうするうちに図柄は、あんまり暑いせいで風景のなかの輪郭を消してしまうしろっぽい日光のなかで、淡く立ち上がってくる。その日、まず、きみが描いたのはあの人の心の光(アクシズ・ショック)を見せた、背中のフィン・ファンネルが特徴的なνガンダム―それから、もちろんきみだからこそ持っている、計画(プラン)で使い損ねた、ダンボールのステンシルですばやく描いたウルトラマンゼロvsベリアルの、角突き合わせた対峙の図。そして「ウォッチメン」の赤い血がしたたるピースマークを描き、さらに文字のみのライティングを付けくわえる。「WHOWILLWATCHTHEWATCHMEN?」 コンクリートの壁に描かれた血を滴らせたピースマークが問いかける、このことばには読み仮名が振ってあります。「誰が見張りを見張るのか?」 ウルトラマンかガンダムの原作にある言葉なのでしょうか。そうかもしれません。でも、書出しのここで、このことばが記されている理由は豊永浩平という、この若い作家の、この作品に対する宣言のように感じます。 コンクリートの壁に、このことばを吹き付けている「きみ」が生きている世界、この絵の向こうに見えている世界への問いかけですね。 「きみ」が生きているのは、薩摩による併合以来、大日本帝国による領有、1945年の日米決戦最後の戦場化という悲惨を経て、アメリカによる軍事基地化、植民地化、1972年の「核抜き・本土並み」返還という美名のもとで始まった日本による新たな植民地化から50年たった沖縄です。「きみ」が見ているのは今、沖縄で生きる人たちの姿です。 「All Along theWatchtower」という歌があります。70年代にボブ・ディランとかが歌っていた歌です。「見張り塔からずっと」と訳されていますが、もともとは「旧約聖書」のなかで剣が世界を滅ぼすことを予言したといわれたバビロン捕囚を伝える言葉ですね。 で、小説が始まります。 そして、やっぱり物語はヒーローの話から幕を開ける。きみにとって、漆間瑞人とはいったい何者だったのだろう、ヒーローの条件、その徴のようなものが、彼にはあっただろうか?(P004~P005) スプレー画を描きおえた「きみ」の後ろには「またそれやってんの?ついにユッキーもヤンキーになっちゃたか」 ユッキーこと中村行生くんに声を掛けるママチャリに乗った円鹿(まどか)ちゃんの登場です。 舞台は2020年くらいの沖縄です。書き出しでオートバイをふかしている瑞人君はじめ、ユッキーとかマドカちゃんとか、みなさん、高校生たちの世界です。 で、ユッキーに「きみ」と呼びかけているのは誰なのかという問いを追いかけて読みすすめていると、「私」と一人称で名乗る人物が語りはじめる章に逢着します。引用はしませんが1945年の沖縄です。そこに登場するのは、80年後の今、ユッキーたちが集うマンガ喫茶「赤インコ」の店主、大伯父の修仁さんです。彼は、沖縄戦に中学生の学徒兵として従軍し、奇跡的に生き延びた人です。 というわけで、2020年、あの時から80年たった沖縄で生きている少年たちを見ているのは、90歳を優に超えた元学徒兵かもなんです。確証はありません、読んで確かめてください。 で、物語はどんなふうに展開し、どんな結末を迎えるのでしょうね。まあ、そのあたりは読んでいただく他ありませんが、ユッキー君たちがたむろするマンガ喫茶「赤インコ」の御主人が、ユッキー君にとっては大伯父にあたる修仁さんで、ユッキー君は、そこでウルトラマンとかに没頭するのですが、ウルトラマンの原作者金城哲夫って、1950年代の沖縄の少年だったってご存じでしょうか。この作品にちりばめられたオキナワは沖縄戦を生き延びた修仁さんだけじゃないんですよね。 若き、豊永浩平が直接描いているのは、今、現在のオキナワの少年たちですが、作品は、沖縄の、あるいは、琉球の、少なくとも、ここ100年の歴史を問い直す視点で書かれているというのがボクの読み方です。 もう一度言います。傑作です!(笑) お読みください。面白いですよ。 2026-no075-1290 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.15
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岸政彦「調査する人生」(岩波書店) 三宮の古書店の棚で見つけました。岸政彦という社会学者に、一時ハマっていましたが、この本の表紙に並んでいるお名前に「面白そう!」 並んでいるのは打越正行、齋藤直子、丸山里美、石岡丈昇、上間陽子、朴沙羅の6人です。面白そうでしょ(笑)。 読んだのは、岸政彦がホストとして、この6人の学者さんたちと対談した内容を書籍化した「調査する人生」(岩波書店)です。所謂、対談集ですね。面白かったです(笑)。最年長の岸政彦が1967年生まれで、59歳でしょうか、1984年生まれの朴 沙羅が最年少、42歳ですね。 読み終えて、書名を見直して、ナルホドそうか、でした。腰巻に「人生をかけて、相手の人生を聞く」 こうあります。 この本に登場するのは7人の社会学者です。それぞれ大学とかの先生だったりです。彼らの学問の方法は聞き取り調査です。そこでは、学者による「研究・調査」の対象として出会う、それぞれの人が生活の実感を語っています。まさに、それぞれの人の人生が語られるわけですね。でも、この対談集を読み続けることがやめられなくなる理由は、人々の人生を聞いてきて、今、対談をしているた人の言葉に、聞いている人のがわの、だから、学者さんたち自身の人生が聞こえてくると感じさせてくれるところですね。 たとえば打越正行であれば、「ヤンキーと地元――解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち」(ちくま文庫)という代表作がありますが、沖縄のヤンキーの青年たちとヤンキー生活をする中で、心を許してくれたヤンキーのニーチャンたちに直接話を聴くという方法で徹底しています。参与観察というそうですが、一緒にヤンキー生活をするという聞き取り方です。 斎藤直子であれば「結婚差別の社会学」(勁草書房)にまとめられている、差別の体験者。丸山里美は女性ホームレス。石岡丈昇はフィリピンのボクサー。上間陽子であれば「裸足で逃げる――沖縄の夜の街の少女たち」(太田出版)、「海をあげる」(筑摩書房)が有名ですが、沖縄の子供たち。朴沙羅は「家(チベ)の歴史を書く」(ちくま文庫)にまとめられている、在日コリアン一世の、オジサン、オバサン。 皆さん、それぞれの人たちと出会って、それを記録し、その体験で考えたことを本にしている人たちです。もちろん、学者さんたちですから学問として整理されている本ばかりです。でも、この対談で語られていることは、本にする前に、それぞれの学者さんたちが見つけた、彼ら自身の人生ですね。皆さん、真摯に自分と向き合っていらっしゃるのにボクは感心しました。引用はしませんが、登場する学者さんたちのプロフィールを貼っておきます。司会をしている岸政彦の著作をはじめ、面白い本山盛りです。 岸 政彦(1967年)京都大学大学院文学研究科教授。社会学。 沖縄社会研究、生活史、社会調査方法論。著作 『同化と他者化――戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版)、『街の人生』(勁草書房)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社)、『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇・丸山里美と共著、有斐閣ストゥディア)、『はじめての沖縄』(新曜社)、『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』(勁草書房)、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎と共著、有斐閣)、『100分de名著ブルデュー「ディスタンクシオン」』(NHK出版)、『地元を生きる――沖縄的共同性の社会学』(打越正行・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版)、『生活史論集』(編著、ナカニシヤ出版)、『東京の生活史』(編著、筑摩書房)、『沖縄の生活史』(石原昌家と共同監修、沖縄タイムス社編みすず書房)、『大阪の生活史』(編著、筑摩書房)。「岩波講座社会学」編集委員。 打越正行(1979年~2024年)和光大学現代人間学部講師。社会学。 沖縄、参与観察法。著書 『ヤンキーと地元――解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(ちくま文庫)、『最強の社会調査入門――これから質的調査をはじめる人のために』(前田拓也ほか編、ナカニシヤ出版)、『地元を生きる――沖縄的共同性の社会学』(岸 政彦・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版)、『〈生活―文脈〉理解のすすめ――他者と生きる日常生活に向けて』(宮内洋・松宮朝・新藤慶と共著、北大路書房)。 齋藤直子(1973年)大阪教育大学総合教育系特任准教授。社会学。 部落問題研究、家族社会学。著書『結婚差別の社会学』(勁草書房)、『入門家族社会学』(共著、新泉社)、Educaciones y Racismos, Reflexiones y casos(共著、el Centro Universitario del Norte en Universidad de Guadalajara y Universidad Pedagógica Nacional,)、『恋愛社会学――多様化する親密な関係に接近する』(共著、ナカニシヤ出版) 丸山里美(1976年)京都大学大学院文学研究科准教授。社会学。 ホームレス、貧困、ジェンダー研究、福祉社会学。著書 『女性ホームレスとして生きる――貧困と排除の社会学』(世界思想社増補新装版)、『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(岸 政彦・石岡丈昇と共著、有斐閣ストゥディア)、『貧困問題の新地平――〈もやい〉の相談活動の軌跡』(編著、旬報社)、『Living on the Streets in Japan: Homeless Women Break their Silence』(Trans Pacific Press)、『女性たちで子を産み育てるということ――精子提供による家族づくり』(牟田和恵・岡野八代と共著、白澤社)「岩波講座 社会学」編集委員 石岡丈昇(1977年)日本大学文理学部教授。社会学。 身体文化論、都市エスノグラフィー研究。著書 『ローカルボクサーと貧困世界――マニラのボクシングジムにみる身体文化』(世界思想社・増補新装版)『Southern Hemisphere Ethnographies of Space, Place, and Time』(共著、R. Rinehart eds., Peter Lang)、『タイミングの社会学――ディテールを書くエスノグラフィー』(青土社)、『エスノグラフィ入門』(ちくま新書)上間陽子(1972年)琉球大学教育学研究科教授。 教育学。著書 『裸足で逃げる――沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)、『海をあげる』(筑摩書房)、『沖縄子どもの貧困白書』(加藤彰彦・鎌田佐多子・金城隆一・小田切忠人と共編、かもがわ出版)、『誰も置き去りにしない社会へ――貧困・格差の現場から』(平松知子ほかと共著、新日本出版社)、『地元を生きる――沖縄的共同性の社会学』(岸政彦・打越正行・上原健太郎と共著、ナカニシヤ出版)、『復帰50年沖縄子ども白書2022』(川武啓介・北上田源・島村聡・二宮千賀子・山野良一・横江崇と共編、かもがわ出版) 朴 沙羅(1984年)ヘルシンキ大学文学部講師。社会学。 ナショナリズム研究、社会調査方法論。著作『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、『家の歴史を書く』(ちくま文庫)、『ヘルシンキ 生活の練習』(ちくま文庫)、『ヘルシンキ 生活の練習は続く』(筑摩書房)、『記憶を語る、歴史を書く――オーラルヒストリーと社会調査』(有斐閣) 2026-no077-1292追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.09.19
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