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ハナ・マフマルバフ「苦悩のリスト」元町映画館 「ヴィジョン・オブ・マフマルバフ」というイランのマフマルバフ・ファミリーの作品の2本立て特集で上映されているハナ・マフマルバフ監督のドキュメンタリィー「苦悩のリスト」を見ました。 先週、お父さんのモフセン・マフマルバフ監督の「子どもたちはもう遊ばない」を見て驚いて、今週は娘さんのハナ・マフマルバフが監督として製作した「苦悩のリスト」に、もう一度打ちのめされました。 ドキュメンタリィー映画としての出来栄えのすばらしさは言うまでもありませんでしたが、なんといっても、何万人もの命の危機を目前にして「どうすれば、もう一人の命を救えるのか?」 に立ち向かうマフマルバフ・ファミリーのみなさんの本気の姿には言葉がありません。 2001年、ブッシュの米軍による空爆に始まり、20年にわたる米軍駐留、トランプとタリバンとのインチキな取引。そして2021年、バイデンによる無責任な米軍撤退。そこから始まるタリバン勢力の政権奪取と自由を希求する人たちへの徹底的な弾圧。それが、この映画が直面している2021年8月のアフガニスタン の政治的な情勢でした。 バイデン大統領が2021年8月31日の米軍完全撤退を表明したことをボンヤリ覚えていましたが、映画が描いている惨劇など全く知らないでいたボク自身の鈍さ! を痛感しました。笑えません。 それは、ここ数年、ヨーロッパで作られたいくつかの映画作品を見ながらアフガニスタンからの難民の姿が登場するたびに、なんだかよくわからなかった鈍さ! でもあります。 この作品の出だしで、撤退する米軍輸送機の翼にしがみついている人たちが、そのまま離陸した飛行機から振り落とされるシーンがあります。本当に上空から落ちてくる人の姿が映るのです。あまりのことに思考停止なのですが、それが米軍撤退の真相ですね。 先日見たモフセン・マフマルバフの「子どもたちはもう遊ばない」で、パレスチナのド真ん中、エルサレムを直撃するドキュメンタリィーの手法に驚きましたが、見方が甘いですね。マフマルバフ・ファミリーの人たちは命がけで戦っていらしゃって、映画はその方法の一つなのです。 ネットとスマホで救出作業に没頭しながら「もう、一人も救えない!」という悲痛な情況に立ち至った場でのファミリーのみなさんの嗚咽の声と悄然とした立ち姿が頭から離れません。 しかし、この映画の凄さは、緊迫した実況映像にハナさんのお子さんなのでしょうね。救出作業をしているその隣の部屋でオチビさん無邪気に遊んでいるシーンを挿入することですね。「希望を忘れるな!」 映画が静かにそう呼び掛けているのを感じて胸打たれました。 ハナ・マフマルバフ監督とマフマルバフ・ファミリーに拍手!です。 個人としては1本でも多く彼らの映画を見るということしかできませんが、できれば、若い人たちに、一人でも多く、見てほしい作品ですね。 監督・撮影 ハナ・マフマルバフ製作 メイサム・マフマルバフキャストモフセン・マフマルバフマルズィエ・メシュキニメイサム・マフマルバフハナ・マフマルバフ2023年・67分・イギリス・アフガニスタン・イラン合作原題「The List」2025・02・15・no021・元町映画館no282追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.17
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100days100bookcovers 97日目その2内田樹「ためらいの倫理学」(角川文庫) 続いて2冊め。 内田樹『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』(角川文庫) 内田樹の名前を知ってその文章に触れたのは、2000年の少し後あたりだと思う(Wikiの著作発行年を参考にして推測すると、2002年末から2003年の前半だろうか)。ネット上で誰かがリンクしていた本人のサイトを初めて訪れたときだった。 一読して、ずいぶんおもしろいと思った。おそらくそれは本書「まえがき」で著者も書いているようように、「「専門家」ではなく、「素人」でもなく、その中間くらいの言葉づかいで評論的な文を作る人間に対する需要」 が私にもあったからだろう。なによりわかりやすかった。 そのウェッブ・サイトは、現在のサイトとは違って、もっと素人っぽい、手作り感あふれるものだった。 それで、その後しばらくそのサイトを何度も訪れては、未読の文章を読んでいた。さらに、当時出版されていた書籍を買って読み始めた。多分最初に読んだのは『「おじさん」的思考』(晶文社)だったと思う。それから『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)とか『期間限定の思想 おじさん的思考2』(晶文社)を手に取っていく中で、デビュー作の『ためらいの倫理学』(冬弓舎)も読むことになった。 デビュー作だからかどうか、その後の、というか現在の文体よりやはり硬いものが多い。含まれている論文は元々そういうものだが、それ以外でもいくぶん硬さを感じる。が、その分、著者の思想、思考の性格がより読み取りやすくなっている。 親本が出たのが2001年だから、年齢的には著者が50歳あたりか。 その後、改稿を経て角川文庫になって再読した。単行本を読んで、文庫化されて再度読むということはほとんどないので、初期の著作に中でもかなり強い印象を抱いていたはずだ。 ちなみに、私には、ブログやSNSができる前に、手作りのサイトを作って主にロック系音楽の感想を書いていた時期があるのだが、そのときに、リンク先に内田樹のサイトを入れようと思って(本人のサイトに「リンクフリー」と記されていなかったので)、サイトに記されてあったメールアドレスに念のため、リンクの許可を求めるメールを送信したら、「もちろんリンクは構わないです。確かにリンクフリーって記しておいたほうがいいですよね」 みたいな文言の、本人が書いたと思われる(実際はわからないけれど)内容の返信があって、ちょっと驚いたことがあった。きっと多忙だろうし、本人から返信はないだろうと思っていたから。それで「へぇ、いい人やん」 と「好感度」も上がった。 それで今回、この文庫版をいくらか時間をおいて通して都合2度再読してみた。印象はまったく薄れることはなかった。同じくらいの「強度」をもって私にそれは届いた。おそらく何某か、こちらが求めるものが内包されているのだ。 先に引用した「『専門家』ではなく、『素人』でもなく、その中間くらいの言葉づかいで評論的な文を作る人間に対する需要」について、著者はその後さらに続ける。「私が『ためらいの倫理学』という書き物を通じて試みていたのは、おそらくそのような「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ることだったと思う(あと知恵だけど)。「生活者の実感」のステレオタイプにも、「専門的知見」のステレオタイプにも回収されない、「ふつうの人の、ふつうの実感」に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)」 (たぶん)それが読者である私に届いたということだ。 無理のない論理性と、自然な、言い換えれば人肌の倫理性、つまり、人間の感情や情緒に沿った論理や倫理を感じるからだと思う。あまりうまく言えないけれど。著者のあとがきによると、収録されたテキストのほとんどはウェッブ・サイトで発表されたという。その中で全26本の原稿の一本一本の原稿について初出を記しているが、講義の文字起こしとか大学紀要に掲載された論文、新聞・雑誌への寄稿もいくらかあるが、たしかに多くはない。 本書は、「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか――ためらいの倫理学」 の4章によって構成されている。ちなみに文庫版「解説」は高橋源一郎。 本作中、"当為と権限の話法"について触れてみる。 ここには「岡真理 『記憶/物語』を読む」という副題が付いている。つまり基本的には、書評である。 この書物から一部を引用した後、著者は、息苦しさを感じたと述べる。「その文章がほとんど全編「当為の文法」に律されているのである」 つまり、「~しなければならない」「~だったはずだ」「~のために」が何度も使われ、それ以外にも「~ではなかっただろうか」「~なのではないか」も出てくる。動詞では、「できる/できない」「し得る/し得ない」が多い。つまり「must」と「can」、言い換えれば「当為」と「能力」に焦点化したディスクールである。 これは教化の語法、軍隊の語法、政治党派の語法だと言ってもいい。それは「「他者」の声がもっとも聞き取りにくい場、<出来事>がもっとも暴力的に隠蔽される場、まさに私たちがそこから逃げ出ようとしている当の場なのである」 そして「岡自身、自分がどういう言葉遣いによってそのような思想を語っているかについて、もう少し敏感にならなくてはならないと私は思う」 と批判し、この文章を次のように一旦閉じる。「もちろん私が今言った「あなたに届くように語る」というのも一種の修辞、一つの物語にすぎない。けれども私はそれがフィクションだということを知っている。私たちは嘘をつくことによってしか漸近線的に「真実」に近付くことができない。だから、私はこまめに嘘をつき続ける。だって、嘘をつかないと語れないことが、嘘をつかないと届かない言葉がやまのようにあるからだ。私には自分が「嘘つき野郎」だという「病識」がある。岡にはその「病識」があるだろうか」 この部分もそれはそれで重要なことを言っているところではあるが、ここで言いたいのはそれではない。一旦このように締めた後で、「追記」と称して、この稿はもう少し続く。「なんとなく気持ちが片付かない」 と著者は続ける。 岡真理に対する自らの批判について、「ある命題を語る言葉遣いそのものが命題を否認していることがある。(中略)私はそれと同質のものを岡の文体に感じて「息苦しい」と文句をつけた。(改行)けれども、この私の文句の付け方は、どこかで聞いたことがある」 として、かつてジャック・デリダが書いた長大なレヴィナス論(著者はレヴィナス研究が専門の一つ)で、「レヴィナスに致命的と思われた批判を浴びせかけたときのくちぶりをそのままなぞっているのだ」 と言う。 デリダのその批判について著者はもう少し述べているが、ここでは省略する。 私は自分でも気がつかないうちにデリダの「ウェポン」を拝借して、人の言葉遣いのあげあしとりをしていたのである。(改行)これは致命的だ。誰だって、次のような批判をすぐ思いつくからだ。「『語り口』だけを問題にしてきたポストモダニストが、なぜ自分の『語り口』についてはこれほど無反省でいられるのだろう」という批判の「語り口」そのものがポストモダニスト固有のものであることに、どうして内田は無反省的でいられるのだろう」。そして、この批判もまた同じ批判を受ける。つまり、「「あなたに届く言葉を語れるだろうか」というような脅迫的な構文で「教化と馴致」の語法を語っていたのは、私自身だったのかもしれない」 と結ぶ。 私の、そう豊かではない読書経験の中でだが、こういう自己批判というか反省文を読んだ記憶は、それほど多くない。これが最初だったかどうかはわからない。おそらく前回紹介した小田嶋隆にも似たような文章はあったように思う。いずれにせよ、これを読んでやはりこの著者は信用できると改めて思った。 提示される「内容」はむろん重要だが、それと同じくらいその提示の仕方、身振り、マナーに意識的になることが大切であり、しかし意識しすぎると「何も言えなくなる」こともまた道理であることもわかった。 他に、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる、加藤と高橋哲哉の論争を主たるテーマにした「戦争論の構造」、フェミニズムの論客ショシャーナ・フェルマンの著書『女が読むとき、女が書くとき』をテーマにしてより普遍的なテーマに触れた「「女が語ること」のトラウマ」、「徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者になる。そこしか人間の生きる圏域はないということを知っているからである。哲学者は「物語」の渦巻く俗世間に別の「物語」をたずさえて戻ってくる。(改行)けれど、それは、「どこかに<真理>という終点があるはずだ」という儚い希望を完全に切り捨てた、深い、底なしの、終わりのない「物語」である」 という結びが印象に残る「物語について」、冷戦終結以後の世界の有り様を「他者論」として考察した「越境・他者・言語」、そして、アルベール・カミュの思想をテーマにした表題作「ためらいの倫理学」も、記憶に残った。今後、また読み返すことになると思う。 改めて、個人と公共性、公共性は自然や環境を含む他者とのネットワークにつながる――について考えるきっかけになった2冊だった。 では、DSGUTIさん、次回よろしくお願いします。T・KOBAYASI 2024・02・18 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.16
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さくらももこ「永沢君」(集英社) トラキチ君の2025年2月のマンガ便です。2018年に亡くなったさくらももこさんの「永沢君」(集英社)です。 今更、ボクがあれこれいうマンガではありませんね。「ちびまる子ちゃん」のお友達というか、登場人物で髪型が印象的な中学生の男の子の永沢君を主人公にした作品です。まあ、チョー・ダルかったですね(笑)。 単行本自体は2019年の新刊ですが、話題がビートたけしですからね。1980年代の中学生のようです。藤木茂君と小杉太君の三人で、あの頃の中学生モードを炸裂させていますが、1980年に15歳だとすると、少年たちは2025年の今、実は還暦なのですね(笑)。 で、今、そのお年の方って、ボクがお仕事で最初にお出会いした高校生くんたちなのですね。ちびまる子ちゃんは、永遠の小学生として、今でもテレビに映っていらっしゃるようですが、同じマンガの登場人物なのに、この単行本「永沢君」の登場人物たちは、ボクがそんなふうに読むからなのですが、少なくともボクの中では年をとってしまうのが不思議ですね。まあ、そういう感想は読んでいる人によって、それぞれなのでしょうがね(笑)。 で、このマンガを読んでいて、もう一つ気になったのは永沢君の名前でした。どこかに書かれていたのかなあ?(笑)。 ああ、ウキペディアでわかりました君男君だそうです(笑)。永沢君男君、今年60歳、中学時代こんなでした(笑)。 ですね。 マンガのちびまる子ちゃんは、まだ活躍していらっしゃるようですが、彼女の生みの親でいらっしゃるさくらももこさんは、もう、この世にいらっしゃらないのですね。何だか、シミジミしてしまいますね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.15
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「吉備津彦神社正門のお二人」 徘徊日記 岡山の狛犬 その3 吉備津あたり 吉備津神社の後ろのお山をグルっと半周したところに吉備津彦神社がありました。 で、この方が参道正面にいらっしゃった狛犬さんで、吽さんです。「いいですねえ、久々のいかつさです(笑)。右肩に刀傷なんて、サイコーですね。」 大喜びでお出会いしましたよ。 角度を変えてもイカツさは変わりません。 右肩の傷は修復の痕なのでしょうが、ヒョッとして石ではなくて陶器なのでしょうか。 こちらが阿さんです。笑い顔じゃないですね。「カンだろか!」 満々です(笑)。 正面からのお顔も、やっぱりイカツイですね。口もとよりは眼の作り方に特徴があるのかもしれませんね。 立派な石柱碑です。備前の國、一の宮だそうです。これから本殿にお参りです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.14
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モフセン・マフマルバフ「子どもたちはもう遊ばない」元町映画館 「ヴィジョン・オブ・マフマルバフ」というイランのマフマルバフ・ファミリーの作品の2本立て特集で上映されているモフセン・マフマルバフ監督のドキュメンタリィー「子どもたちはもう遊ばない」を見ました。ど真ん中のストレート! でした。 なにしろ舞台がエルサレムで、2023年ころに撮ったフィルムです。 まあ、ボクのようなもの知らずでも薄々は知っている「嘆きの丘」、「聖墳墓教会」、「岩のドーム」といった、それぞれ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の、いわば最大というか、最高というかの聖地の映像がドーンと映し出され、その聖地の路地裏で暮らすアフリカ系パレスチナ人にカメラが迫り、その、多分、アリ・ジャデという老人が、もとPFLPだった経歴から、今の暮らし、愛しているエルサレムに、たとえ彼の死後であろうと、かならず平和が戻ってくる夢 を語ります。 老人の発言の合間には、若いユダヤ系の青年がパレスチナの人たちとともに仕事するにあたって、周囲の人たちの偏見に対する苦労を語ります。アラブ風のダンスを習っているパレスチナ人の子どもたちのダンスのようすや、子どもたちが「壁ごしの対話」の練習をしている姿が映し出されます。子育てをしているパレスチナ人の女性が育っていく子供たちに「対話」の大切さを語ります。 老人の座って語っている路地を武装したイスラエル兵が通り過ぎ、遠くで銃声や爆発音が聞こえてきます。広場で平然と行われるリンチも映し出されます。 一転、一つ一つの聖地で祈る人たちの姿が映す出され、宗教的な出自を問わない学校(そんな学校もあるのです)の子どもたちが「友だちに銃を向けるのは嫌だ!」 と徴兵を嫌がる声が聞こえてきます。 映像とインタビューに答えるのこえの連鎖が、老人のいう、宗教を越えた「世俗的デモクラシー」の可能性 を見ているボクに問いかけてきます。 映画が訴えているのは「暴力の否定」と「対話の大切さ」 だとボクは思いました。子供たちが、一緒に遊ぶようになる路地裏の世界が再びエルサレムの町に戻って来ることを祈るような気持ちで見終えました。 渦中のエルサレムの町に、こんな思いで暮らす、あたりまえの人がいて、それをフィルムにとり世界中の人に見せようとい、恐るべき苦難の努力をする人たちがいる限り「希望」はあるのです! 映画を作ったモフセン・マフマルバフ監督やスタッフにも、登場した人たちにも、映画を上映している映画館の人たちにも拍手!でした。「世界中の人に裏切られているような気がする。」と語る老人が、続けて、「特にアメリカの人たちは問題のある人ばかり大統領に選ぶね。クリントンは下半身に、ブッシュは神の声とか聖戦とかいう上半身に、トランプは下半身にも上半身にも。」 と笑いながら話している姿に、思わず笑いましたが、このインタビューから2年後またしてもトランプで大騒ぎです。笑いごとではありませんね。 うまくまとめた感想がいえませんが、パレスチナの今に関心をお持ちの方にはおススメです。非常に率直で真っすぐな映画だと思いました。もう一度、拍手!(笑)。監督 モフセン・マフマルバフ製作 メイサム・マフマルバフ撮影 シャディ・ジャミル・ハビブ・アラー モフセン・マフマルバフ編集 マルズィエ・メシュキニ出演アリ・ジャデベンジャミン・フライデンバーグアディ・ニッセンバウムエルサレムの市民たち2024年・イギリス・イスラエル・イラン・ 62分2025・02・10・no020・元町映画館no281追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.13
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「おや、ここは何屋さん?グリム?」 徘徊日記 2025年2月10日(月) 西元町あたり 2025年の2月10日の月曜日です。 お昼過ぎから元町映画館で、1時間ちょっと、パレスチナのドキュメンタリィーを見て、近所の古本屋さんをのぞいたりしながら北長狭通に沿ってウロ、ウロ、ヨタ、ヨタ、歩いていました。 で、西元町の地下鉄の駅の降り口の手前、だから歩道橋の手前ですね、「これ、お店?」 で、のぞき込んだのがココです。古いビルの1回です。隣はお好み焼き屋さんのようです。 見上げると窓にGLEAMと書いてあります。「グリムと読むのかな?マフィンってあるけど、お菓子屋さん?」 で、勇気をふるって階段をのぼりました。二階の踊り場には、実に重厚なドアがあって、それを、もう一度、勇気をふるって開くと喫茶店風のお店でした。 店内の写真でも撮っていればもう少しましな紹介になるのですが、もちろんそんなことは思いつかないのが徘徊老人ですね(笑)。 で、手に入れたのが、一番上の写真のマフィンです。 マフィンというのは、まあ、ボクが説明するのもなんですが、要するにカップケーキですね。「GLEAM」というこのお店ではたくさんの種類のマフィンと女性用のオシャレな雑貨や服を売っていらっしゃるようですが、お店には3人ほどの女性が店内の展示をしていらっしゃいました。 帰ってチッチキ夫人に味見してもらうと「オイシー!」 の太鼓判でした(笑)。 フフフ、元町徘徊の新しいおみやげ発見! でしたね。寒くても出かけるものですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.13
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キリアン・リートホーフ「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」シネリーブル神戸 かなり迷って、まあ、他に見るものもないしとか適当な理由をつけて出かけて行って見ました。「寒くても出かける!」が、ここのところの合言葉ですからね(笑)。 見たのはキリアン・リートホーフという監督の「ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女」です。 ここのところ、ちょっとしんどくなっている、いわゆるナチスものです。ナチスのユダ人狩りに対して、ユダヤ人を密告することで生き延びたユダヤ人の女性の伝記でした。 1940年、ジャズシンガーを夢みる18歳の少女ステラが、ジャズのスタンダード「シング・シング・シング」を歌うシーンから映画は始まり、1943年、彼女が密告者としてなりふりかまわぬ活動に走り、1957年、ソビエトの収容所から帰ってきた彼女が祖国で裁判にかけられ、1994年、72歳の彼女がアパートの窓から投身自殺するシーンで終わりです。 印象に残ったのは、両親が収容所に送られる別れの日にも、20代の彼女のことを「点子ちゃん」と呼ぶ父親と、命を絶つことを決めた彼女が20代のときと同じ手順でお化粧する姿でした。 チラシには「被害者か?加害者か?」 というコピーが踊っていますが、どなたかこの問いにお答えになることがお出来になる方って、今の世の中にいらっしゃるのでしょうか。 ボクは父親から「点子ちゃん」と呼ばれていた主人公のこの女性を自己正当化と虚勢の塊のように、いかにも傲慢な人物として徹底的に、まあ、情け容赦なく描きながら、とどのつまりには、あの頃のように可愛らしくお化粧するシーンを入念に映し出し、そのまま窓から飛び降りさせて映画を終えた監督に目を瞠りました。 帰り道に指折り数えて「そうか、72歳か!」 と確認しながらこの映画に納得しました。 点子ちゃんは、もちろんケストナーの描いた、あの永遠の少女ですが、あの朝、ステラはお父さんが彼女を「点子ちゃん!」 と呼ぶ声を聴いてしまったのでしょうね。 あの世から呼んだという話ではなくて、素直な「反省!」 を信条にしていた点子ちゃんに、ふと戻っってしまった72歳のステラにはもうこれ以上の「生」を求める気力はなかったでしょうね。まあ、そういう納得です。 キリアン・リトホーフ、なかなかな監督だと思いました。拍手!監督・脚本 キリアン・リートホーフ脚本 マルク・ブルーバウム撮影 ベネディクト・ノイエンフェルス編集 アンドレア・メルテンス音楽 ペーター・ヒンデルトゥールキャストパウラ・ベーア(ステラ・ゴルトシュラーク)ヤニス・ニーブナー(ロルフ・イサークソン)カーチャ・リーマン(トニ・ゴルトシュラーク)ルーカス・ミコ(ゲルト・ゴルトシュラーク)ベキム・ラティフィ(アーロン・サロモン)ジョエル・バズマン(ジョニー)ダミアン・ハルドン(マンフレート・キューブラー)ゲルディ・ツィント(ドッベルケ)メイブ・メテルカ2023年・121分・PG12・ドイツ・オーストリア・スイス・イギリス合作原題「Stella. Ein Leben.」2025・02・12・no021・シネリーブル神戸no302追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.13
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イム・オジョン「地獄でも大丈夫」元町映画館 予告編で、ちらっと見て「どうしようかなあ???題が今一やし。」 でした(笑)。スクールカーストとかイジメとか、何となく苦手なんですよね。「でも、まあ、韓国の女の子か、若い監督みたいやし、案外、青春映画かも。」 という、いつものように安易な予想で出かけました。 朝から大雪のニュースばかりで、線路の火事だかも重なったらしくて、JR神戸線は上下とも1時間近く遅れていて、垂水駅でもう一度躊躇したのですがやって来ました。 元町商店街も閑散としていて、元町映画館でも受付嬢が「寒い!寒い!」 を連呼していました。もちろん、お客さんも数人で、まあ、シマクマ君には、かなりベターな状態でした(笑)。 見たのはイム・オジョン監督の「地獄でも大丈夫」でした。 スクールカーストとかの末端にぶら下がっている高校生活に疲れ果ててでしょうか、死にたがっている二人の女子高校生が登場して、まずは自殺ごっこで始まりました。 いじめ、スクールカースト、自殺、その上、わけのわからないカルトまで登場して、「アー、堪忍してほしいなあ・・・。」 とつぶやきそうな展開でしたが、見終えて見ると、これがなかなかでしたね。後味、ソウカイ! でしたよ(笑)。 主役の二人のボソボソしゃべりがいいんですね。本当はウソつきなソヌちゃん、イチビリでビビりなナミちゃんのコンビの会話ですね。ウソつきにはウソつきが見破れるとばかりにおとなしい顔つきのソヌちゃんがカルトでも不幸でまじめなフリをしながら、でも、結局、女王様を演じているイジメのネーちゃんを見て「あいつ、何も変わってへんよ。」 と見破るし、ナミちゃんはインチキ・カルトの男前の「こころを開いて」という洗脳発言に、ビビりながらもやっとのことで「自分のこころの扉は、自分で開け閉めしますんで」 と虚勢を張ってガンバルし、まあ、いろいろあって、何とか生き延びて、その二人が、やっぱ、若いっていいですねえ、結局のところ「ともだち」になれたようで拍手!した。「世の中、死にたなるほどアホらしいけど、やっぱり生きてる方がええで」 そんな感じのラストにたどりつくまでのあれこれは、結構めんどくさいのですが「うん、それでええんちゃうか。学校とかいう世間でイジメてくる連中も、結局、絵にかいたモチに誑かされてるだけやし。そんな連中にクヨクヨしたり、気を使ったりするより、君ら二人がともだちでおれることを大事にした方がずっとええで。」 とかなんとか、まあ、見当はずれっぽい感想でしたが監督にも二人の女の子にも拍手!でした。 まあ、それにしても「地獄でも大丈夫」とか、題名ですけど、もう少し何とかならなかったんですかね(笑)。若いお友達に「おもろいで。」「えー、地獄でしょ!」 でしたからねえ(笑)。監督・脚本 イム・オジョンキャストオ・ウリ(ソン・ナミ 女子高生)パン・ヒョリン(ファン・ソヌ 女子高生)チョン・イジュ(パク・チェリン 元女子高生)パク・ソンフン(ハン・ミョンホ カルトのお兄さん)2022年・109分・韓国英題「Hall to Hell」2025・02・05・no016・元町映画館no280追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.12
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ザ・ブルーハーツ「ドブネズミの詩」(角川書店) トラキチ君の2025年2月のマンガ便に入っていました。でも、マンガではありません。ザ・ブルーハーツの「ドブネズミの詩」(角川書店)という、まあ、いってしまえば甲本ヒロト君とブルーハーツのメンバーたちの歌詞と発言集です。「なにこれ?」「掃除してたら出てきた(笑)」 で表紙に巻かれた腰巻の文句を見て読んでしまいました。上の写真は表だけですがウケたの裏です。語録を出すなんざあ 偉そうだな語録を出すなんざあ 毛沢東みてえだなあ語録を出すなんざあ ゴロク30年早えな語録を出すよりはむしろスゴロクがしてえなあ 1988年の出版ですから30年ほどたっています。1963年生まれの甲本ヒロト君は当時25歳くらいです。たぶん、他のメンバー君たちも似たようなお年頃だったと思います。ボクにウケたの2行目の毛沢東です。「30年早え」かったわけですから、今が、ちょうど読み頃でした。ちなみに甲本ヒロト君は、バンドの名前は変わりましたが、もちろん、まだ歌っています。もちろん還暦を越えています(笑)で、70過ぎたじーさんが、うん、そうそうって感じたところを抜き出してみますね。 「愛」とか言うと、みんな駄さいとかくさいとか言うけど、なんか俺は違うとおもうな。 うん、ボクも、今ごろになってそう思う。学校がイヤだと言って登校拒否できる奴はええよ。俺はいじめの対象にもならない本物の劣等生だったんよ。 ボクは生徒だった時優等生だった。学生になったころから怪しくなって、それでも、心ならずもガッコの先生とかして、やめて10年、70になって、このことば、身に沁みてわかる気がする。なんでだろ?歩くのが好きなんですよ。一番、落ち着ける。 まんま、今の、ボクの気持ち。歩いていて、フト、道ばたに座ってお茶とか飲んで一服する時、空に浮かんでいる雲とか、イイナと思いながら見上げている。知らないことって一番よくないからさ。 うん、忘れたっていいんだよな(笑)。理想論とか語っててもしょうがないじゃん。カッコ悪くても具体的に一歩ずつ進めて行くしかないんだよ。 あのころ、これが、一番難しかった。愛はいくら使ってもへらないんですよ。 まあ、それが結論ですね(笑)。 トラキチ君、ありがとう。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.11
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「吉備津神社の回廊」 徘徊日記 2025年2月1日(土) 岡山あたり 岡山の吉備津神社にやってきています。駐車場から本殿に直登という石段で先に本殿に上がりましたが、こちらが名物の長回廊です。 この回廊を下っていくと登り口に鳥居があって、狛犬さんがいらっしゃって、そちらから歩くのが本殿への参道のようです。逆のコースを下っています。 というわけで、向うに見える朱色の楼閣が本殿前のゴールですが、写真を撮り忘れたまま下山中です(笑)。 向うに見える一本杉(?)が登り口ですね。 中から天井を見るとこんな感じ。ほんの数人の方と行きかいましたが誰もいらっしゃらないのがいいですねえ。 遠景だとこうなります。左の奥が本殿です。回廊の左右にはずっと梅林が続いていて梅の蕾がふくらみ始めています。 1週間か10日ほど後でやってきていたらなあと思いましたね。ホラ、もう一息で春! ですね。ザンネン!(笑) さて、次はすぐ近くにあるらしい吉備津彦神社です。ヨロシクね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.11
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シェークスピア「マクベス」シネリーブル神戸 学生時代から50年来のお友達の入口君という演劇通に誘われて2024年1月にロンドンのドンマー・ウエアハウスという小劇場でのマックス・ウェブスターという人の演出作品「マクベス」の映画版を見ました。 上のチラシの写真の男性がマクベスを演じたデビッド・テナントさん、丸刈りの女性がマクベス夫人を演じたクシュ・ジャンボさんという俳優さんです。 まあ、シェイクスピアのマクベスですから、今更筋は追いませんが、写真でもそうですが、舞台の上でもマクベス役のデビッド・テナントさんの様子がいかにも神経質そうで、もちろん、喜劇ではありませんし、笑いを狙った演出でもなかったのですが、笑ってしまいました。 もともと幻聴というか、妄想というかにもてあそばれるストーリーなわけで、こんな、細身の男前が血で汚れた手を持て余して苦悩する姿を見ながら、主演のお二人の演技そのものにケチをつける気は毛頭ないのですが、「なんか、ちょっと、配役間違ってませんか?」 という気分になりますよね。 見終えて思い出したのですが、マックス・ウェブスターという人の演出のシェークスピア劇は以前にナショナル・シアター・ライブで「ヘンリー5世」を見たことがあるのですが、そのときは、いかにもな現代劇風演出に「なんだかなあ???」 だったんですが・・・・。 ひょっとしたら今回のマクベスも、妄想的でありながら行動力に劣る「マザコン(?)」青年に対して、現実的で行動的な女性が叱咤激励する! という、どこか、現代社会を揶揄する(笑)。 というか、そういう批評性を狙った演出なのかなとか、勝手な感想も浮かんできましたが、よくわかりませんね。 で、わからないといえば、今回はロンドンだかの小さな劇場での上演の映画化でナショナル・シアター・ライブのような劇場ではありませんでしたが、スクリーンに映る劇場のお客さんたちが、皆さんヘッドホンでお芝居をご覧になっていたのも不思議でした。「あの、ヘッドホン、どういうふう使こてんねやろ?」 見終えて最初に入口君も、そんなことを口にしていましたから、どうしてそうしているのか全くわかりませんでしたが、結構、新しい方法なのでしょうね。 ああ、それから、まあ映像化のための舞台のようで、配役がみんなカメラに向かってしゃべっている印象で、そこのところも「劇場の客たちにはどう見えているんだろうなあ???」 でした。 でも、まあ、こういうのがイギリスでもうけているんですね。「やっぱり本場は違うな」 を期待して見たのですが、どうやら、いよいよ、ついていけない世界 になってきたようですね(笑)。作 ウィリアム・シェイクスピア演出 マックス・ウェブスターキャストデビッド・テナント(マクベス)クシュ・ジャンボ(マクベス夫人)2024年・115分・G・イギリス原題「Macbeth David Tennant & Cush Jumbo」2025・02・08・no018・シネリーブル神戸no301追記2025・02・10 この演出家の作品はもう一つ見ていました。「ライフ・オブ・パイ」です。こちらは結構面白かったですよ(笑)。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.10
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「吉備津神社」 徘徊日記 2025年2月1日(土) 岡山あたり 2025年、2月1日の土曜日の朝にトラキチ君から、まあ、いつものことですが、突然のお電話でした。「岡山の吉備津神社に行くけど、一緒に行きますか?」「えー、もちろん行きます。ちびちゃんたちは?」「行きません。ボクだけです。」「吉備津神社って?」「桃太郎です。」で、電話を切ったチッチキ夫人がいいました。「ねえ、吉備津神社って、ひょっとして山登り?それやったら、無理やわ。」「いや、、チガウと思うけど、もう、行くいうたんやろ(笑)。」 というわけで、約1時間後、迎えに来てくれたトラキチくんの愉快な仲間号で出発。お昼前に吉備津神社駐車場に到着です。 駐車場の前の案内図です。何だか、結構、大きな神社のようです。シマクマ君は初めての参詣ではない記憶がうっすらとありますがあてになりませんね。 駐車場のすぐ左前に石段があって登ると、本殿です。社殿の全景は上の写真です。吉備津造りというそうです。なかなかかっこいいですね。 本殿にお参りしましたが、お祀りされているのは大吉備津彦大神という神さんで、申し込めば鳴る釜の神事とかいう祈祷も受けられるようです。「吉備津の釜」という上田秋成のお話がありました、この神社にそのお釜があるようです。 それから下の写真のような、獅子狛犬というそうですが鎌倉時代の寄せ木造りの狛犬さんも、どこかにいらっしゃるということですがホームページでしか見られませんでしたね。 で、ホームページのコピーですが、こちらが「阿さん」のようです。 もう、明らかに、ライオン犬という感じですが、こちらが「吽さん」ですね。 本殿の横の広場に樹齢数百年だかの公孫樹の大木がありました。完全に落葉していて、まあ、それはそれで壮観でしたが黄葉している様子が見てみたいですね。 あとで、駐車場から裏のお山も一緒の神社全景を写してみました。裏山には古墳もあって、多分、後ろのお山が信仰の対象だったんじゃないでしょうかね。 で、この神社のもう一つの名物は、この写真の本殿の大屋根の右下あたりにちょっと写っている回廊ですが、それは「吉備津神社の回廊」で報告しますね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.09
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アントン・コービン「ヒプノシス レコードジャケットの美学」シネリーブル神戸 2025年の2月ですが、日本海側は連日雪マークです。神戸も寒いです。出かけるのが億劫になりますががんばります(笑)。ネットでお出かけ先を探していて「ピノプシス」とか、レコードジャケットとかいう言葉に反応しました。 1970年に高1、1975年に20歳のシマクマ君が生まれて初めて大きなスピーカーを通して聴いたロック・ミュージックというのがピンクフロイドの「おせっかい」というLPに入っている「エコーズ」でした。高校の友達が寄り集まって「エコーズ」の音楽に合わせてスライド写真を編集した、音楽写真映画を作って生物洋室かどこかにステレオセットを持ち込み上映会をやったのに参加したんですね。ああ、もちろん、映像は動いませんよ。音楽に合わせてスライド映写の画面が変わるだけです(笑)。 その当時、ボク自身はラジカセしかもっていない高校生でしたから、教室の左右にセッティングされたスピーカーから流れてくるロックミュージックの音響に感動した記憶があります。音楽室じゃなかったから、誰かが持ち込んでセットしていたんでしょうね。 で、それ以来、ピンクフロイドが贔屓で、大学に入ってスピーカーセットを手に入れて、最初に買い込んだLPが「アトム・ハート・マザー=原子心母」でした。そうです。あの、牛が振り返ってこっちを見ているアルバムです。ヘッドホンでしたが、イントロから音が大きくなっていく出だしのオートバイの爆音を聞いたときのカンドーは忘れられませんね。 で、その頃、ピンク・フロイドとセットで好きだったのがツェッペリンですね。まあ、そういう好みだったということですが「ピプノシスって、あのジャケット作った人らちゃうん?」 と、まあ、ふと、気づいて、寒さをもものともせず(笑)シネリーブルに出かけて見ました。 なにはともあれやたらと懐かしい映画でした。 ジミー・ペイジとか、ポール・マッカートニーとか、みんなじーさんになってました。ボクには顔を見てもよくわかりませんでしたが、当時のロックに詳しい人には、ちょっとこたえられない人たちの姿とインタビューなんじゃないでしょうかね。 映画の出だしで、牛の写真を撮りに行くシーンと一緒に「原子心母」のさわりが聞こえてきてなきそうになりましが、「バンド・オン・ザ・ラン」にしろ、ツェッペリンのコンサートシーンにしろ、まあ、あたり前ですがさわりの連続で、少々欲求不満気味で見ていました。 でも、最後のシーンで、ずーっとナレーション役だったピプノシスの写真家オーブリー・ポー・パウエルが、 80年代の始まりとともに手作りの時代が終わったこと、で、ピノプシスの時代も終わり、ともに歩んできた盟友ストーム・トーガソンと絶交したこと を、ひとり言のように語るの聞きながら、「やっぱりそうか!世界が壊れ始めたんは、あのころやったんや。」 と、まあ、勝手に納得しがらも、胸打たれました。 あの牛のジャケットと、あの音楽の組み合わせは、あの時代で終わったんですね。何というか、50年間ボクを支え続けてくれていた感覚の底が抜けてしまった感じですね。 別に世界は壊れてはいないようですが、あのころから30年以上の年月が経ちますが、今の、この世界を支えているのはいったん何なんやろう? まあ、そういう感慨です。 地球の裏側でボーっとあこがれていた少年が、今や70歳ですからね。現場を知っている、その時代を生きた人たちの証言をとる、ほとんど最後のチャンスで、この映画を作ったアントン・コービン監督に拍手!でした。 監督 アントン・コービン脚本 トリッシュ・D・チェティ編集 アンドリュー・ヒュームキャストオーブリー・ポー・パウエル(ヒプノシス)ストーム・トーガソン(ヒプノシス)ロジャー・ウォーターズ(ピンク・フロイド)デビッド・ギルモア(ピンク・フロイド)ニック・メイスン(ピンク・フロイド)ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)ロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)ポール・マッカートニーピーター・ガブリエルグレアム・グールドマン(10cc)ノエル・ギャラガー(オアシス)2023年・101分・G・イギリス原題Squaring the Circle The Story of Hipgnosis2025・02・07・no017・シネリーブル神戸no300追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.08
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100days100bookcovers 97日目その1サラ・ピンスカー『いずれ すべては 海に中に』(市田泉訳・竹書房文庫) 遅くなりました。 前回のSODEOKAさんからの「引継」テーマは、「個人」と「世界」の関係 ということになるか。個人と世界を、対立、葛藤するものとしてではなく、重なり合うものとして見る視点というか。個人の公共性と世界の個人性とでもいうか。 候補は2冊あって、最初はどちらにしようかと思っていたのだが、この企画の担当も今回で最後なので、例外的に2冊とも紹介することにする。まずは1冊め。『いずれ すべては 海に中に』 サラ・ピンスカー・著 市田泉・訳 より 「一筋に伸びる 二車線のハイウェイ」 (竹書房文庫) 書名は元々は、ブランクを空けたところで改行された三行に分けて上下逆さまに表記され、小説名は、同じくブランクを空けたところで改行された二行に分けて表記されている(写真参照)。 原題は、書名が『SOONER OR LATER EVERYTHING FALLS INTO THE SEA』、小説名は、「A STRETCH OF HIGHWAY TWO LANES WIDE」。 私はむろん日本語翻訳版しか読んでいないので、英語版の表記がどうなっているかはわからない。2022年6月に出たSF短編集である。作家の名前はこれまでに聞いたことがなかった。 ブックマークしてある、たぶん個人運営の書評サイトで紹介記事を読んでから気になっていた。気になった最大の理由は、短編集冒頭に置かれたこの短編についての記述だった。 450ページほどの文庫ながら、価格は税抜き1600円。図書館を当たってみたら、置いてあるにはあるが、出版されて間もないこともあって予約が30人とかになっている。Book Off Onlineを当たっても見つからない。どうしようかと思っていたが、それからだいぶ経ってから結局新刊書店で購入することにした。 13の短編が収められているのだが、SFでもあり、帯にも記されているように「奇想」短編集でもある。率直なところ、すべての短編がよかったわけではないが、やはり冒頭の短編は印象に残った。その短編の内容を簡単に紹介する。 カナダで暮らすアンディは21歳のとき、農場で使うコンバインの事故で右腕を粉砕される。「1本まるごと、肩と右の鎖骨と、付随するあらゆる部分も含めて」 そして彼がまだ意識を回復しないうちに、両親は決断する。 目覚めたとき、「アンディの右腕はロボットアームで、頭にはインプラントが埋め込まれていた」。「ブレイン・コンピュータ・インターフェイス」 母親はそう言った。「運動皮質に電極とチップが埋め込まれてる」母親は続けた。「あんたはサイボーグってわけ」 父親の話によれば、アンディはどうやらプロトタイプのアームを装着していて、周囲もそれがちゃんと動くか注目しているらしい。 手に信号を送る神経が残っていないので、これまでのリアルな義手はあまり役に立たないという。痛みはあった。 ただ、医者はじきに鎮痛剤の投与をやめた。痛みとうまくつきあったほうがいい、と。 アンディは様々な痛みの違いがわかるようになり、それを表現できるようになった。痛みに包まれた痛み。もはや存在しない箇所のうずき、等々。 退院予定日の直前、アンディは感染症に襲われる。「医者は抗生物質を投与し、たまった膿を抜いた。その夜、熱に浮かされながら、アンディは自分の腕がハイウェイだという夢を見た。目覚めたときもその感覚は残っていた」「今、アンディは道路になりたがっていた。というか、彼の右腕がなりたがっていた。アンディがたじたじとするくらい、猛烈になりたがっている。アンディの内側と外側から、言葉にならない憧れが同時に湧き上がってくる。いや、それだけじゃない。腕はただ道路になりたいのではなかった。自分が道路だと知っていた。具体的に言うと、コロラド州東部にある、二車線で長さ九十七キロの一筋に伸びるアスファルト道だ。山までずっと見通せる道だが、山にたどり着けなくても満足している。両側に家畜脱出防止溝(キャトルガード)があり、有刺鉄線のフェンスがあり、草地が広がっている。 アンディはコロラドには行ったことがなかった。サスカチュワン州(引用者注:カナダの州)から出たことはなく、カリガリーやウィニペグすら出かけたことがない。山を見たこともない。遠くの山々の輪郭や、顔だけ白い牛の耳についているタグの番号を口で説明できるということが、白昼夢を見ているのではないという証になった。アンディはアンディであり、道路でもあった」 アンディは退院する。が、右腕が道路であることは変わらない。 アンディは農場での仕事に復帰する。馬の世話をし、トラックの整備をする。「別のトラックが何台か、雪の降るコロラドのハイウェイをゆっくり走っていて、そのハイウェイはケーブルと電極によって、彼の脳からなぜか心(ハート)に達した人工の経路によって、アンディにくっついている。アンディは凍てついた自宅のドライブウェイに横たわり、両腕を脇につけて、トラックがガタゴトと次々に通り過ぎるのを感じた」 腕は、気温やら、空気中の汚染物質の濃度やらもアンディに伝えてくる。「アンディの場所――農場とハイウェイの両方に、雪解けは遅れて訪れた。にぎやかな春がくれば楽になるかと思っていたが、それどころか、ますます引き裂かれた気分になった」 友人の一人は、アームのチップはリサイクルされたものかもとか、新しいスマートロード(車を自動で走らせてくれる道路)用だったのかも、と言うが、真相はわからない。腕は、自分がこことは違う別の場所の道であると思っている以外は問題はなかった。ふつうにちゃんと動いてくれる。 でも時折、腕は言葉を使わずにアンディに話しかけてくる。アンディをひっぱったり、Uターンしろと言ったりする。「おれはここにいて、ここにいないとアンディは思った。あるいは腕が思ったのかもしれない。アンディは故郷を愛しているんだと腕に伝えようとした。そう口にしながらも、今いる場所――サスカチュワンとコロラドの両方に完全に所属したいと願っていた。こんなのはまともな考えじゃない。二つの場所で同時に暮らせるやつなどいやしない。それはジレンマだった。」 その後、腕がどうなったかは、ここでは触れない。興味のある方は図書館等で書物に当たっていただきたい。さして「劇的」な展開ではなく、しごく「現実的」な終わり方をするとだけ言っておく。まず、このアイディアがずいぶんおもしろいと思った。自分の腕が、自身を道路だ思っているだなんて、そう考えつくアイディアではない。 そして、私自身が物心つくころから「アンドロイド」に、ある種の憧憬を抱いていたことにも思い当たった。端的にアンドロイドになりたかった。そういう発想がどういう経路で芽生えたのかはすでに記憶の埒外である。でも、今もその残滓がないわけではない。 そして、この短編は、あるロックバンドのあるオリジナル楽曲のことを私に思い起こさせた。オーディオスレイブ(Audioslave) の「I Am The Highway」がそれである。バンドは2001年に結成され、2007年に解散した。 ちょっとだけ脇道にそれて、このバンドのことを書く。 オーディオスレイブは、解散した2つのメジャーなバンドのメンバーが集まって結成された。 レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの、脱退したヴォーカリストを除くドラム、ベース、ギターのメンバーとサウンドガーデンのヴォーカリストだったクリス・コーネルによるオーディオスレイブは、グランジ系ハードロックのサウンドに、コーネルの強力なボーカルが乗るというコンビネーションが人気を博し、2002年のデビューアルナムから3枚のスタジオアルバムと1枚のライブDVDを発表した。 そのデビューアルバムに収められていたのが、ゆったりとしたバラードタイプの「I Am The Highway」である。 楽曲のサビの歌詞の一部を書き出す。詞はクリス・コーネルの手になる。I am not your rolling wheelsI am the highwayT am not your carpet rideI am the skyI am not your blowing wind I am the lightningI am not your autumn moonI am the night 和訳など不要だろうが、一応、下に。私はあなたの転がる車輪ではない私はハイウェイだ私はあなたの絨毯の乗り物(魔法の絨毯)ではない私は空だ私はあなたの吹く風ではない私は稲妻だ私はあなたの秋の月ではない私は夜だ 「魔法の絨毯」はふつう「magic carpet ride」と表現するようだが、ここでもほぼ同意だと思われる。 "I"は、他の部分から考えて、おそらく「人」である。 そのうえで、上のような歌詞が歌われる。 自身のバンドに「Soundgarden」「Audioslave」と名付けるようなネーミングセンス(おそらくコーネルが名付けたのだろう)から想像できるように優れたリリシストであるコーネルらしい詞だ。 「私」が「あなた」のパーソナルな「もの」ではなく、ハイウェイであり、空であり、稲妻であり、夜であるというのは、「私」は「世界」の一部であり世界に共有されているということだ。 個人である自身と、「公器」である自身は己の中で葛藤も産み出すはずだが、この詞の中でコーネルは葛藤ではなく、公器であることを宣言する。 私は、お前の転がる車輪ではなく、車輪が進む道路そのものだと断言する。 そればかりか、空、稲妻、夜といった時空に広がる「環境」でさえあるという。 私たちがふだんさして気に留めない、環境やインフラの要素に彼は自身を、人間のあり方を重ねようとする。 このスケールの大きさ、射程の長さ、宇宙的な広がりは、結局は人間が自然や宇宙と同じ物質でできており、そこで生まれて死ぬという至極当然なこと、そして一人の人間が他者や社会と、そして自然や環境とつながっていくしかない存在であることを確認させてくれる。 私は個人であるが、同時に社会の公器であり、世界に共有される「自然」の一部でもある。「個人」は、不可侵性と、公共性ないし共有性を生まれながらに併せ持っている。「一筋に伸びる 二車線のハイウェイ」を読みおえて、私は、見たことも行ったこともない土地の道路になった自身を想像してみる。コロラドでも、マリウポリでもワルシャワでもピョンヤンでもジャララバードでも、ガザでもエルサレムでもいい、どこかの道路。 自身の上を通り過ぎる風や陽射、車、人々のことを想像してみるのは、そこが戦地である際の憎悪や悲哀を除けば(それが可能ならば)、悪くない気分だった。 ピンスカーは、作家であるとともにミュージシャンでもあるそうだから、もしかしたらオーディオスレイブのこの楽曲を知っていたのかもしれない。 だからといって、この短編についてどうこう言いたいわけでは決してない。むしろ、そうであるなら楽曲をきっかけにしてこんな具体的で魅力的なストーリーを産み出した才能を称賛したい。 最後に一つ。さきほど名前を上げたクリス・コーネルは、残念ながら、再結成されたサウンドガーデンのツアー中、2017年に亡くなっている。後に自死の可能性が高いという発表がなされた。享年52歳。個人的には、すごくショッキングな出来事だった。YouTubeにUPされた楽曲のリリック動画のリンクを貼っておく。https://www.youtube.com/watch?v=hWlkmkZW2hkT・KOBAYASI・2024・02・18 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.07
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100days100bookcovers 96日目 保坂和志「ハレルヤ」(新潮社) 保坂和志『ハレルヤ』(新潮社)より、「こことよそ」。 前回の山本さんのレビューから、またずいぶん時間が経ってしまいました。なんとなく本を読む気がしない、などというとネガティブな印象になってしまいますが、最近急速に目が悪くなったことを実感していて、裸眼で本を目の前に持って来て読むのが常態化しているのですぐに腕が疲れて、やめてしまいます。つい先日眼科に行ってあれこれ調べてもらったのですが、眼圧も眼底も異常なく、ただ視神経の形が歪で、でもそれは加齢によるものなので異常というわけではなく、全体的劣化以外に原因が見つかりませんでした。情けないことです。 書いているうちに話がどんどん逸れてゆくのはじつは楽しいことなのですが、こんなことをしていると100年経っても終わらないので、とっとと本題に移ります。 私にとっての最後のリレーは、保坂和志か寺山修司にしようと、わりと前から決めていました。ところが、いま、寺山修司の本がなかなかないのです。かつては角川文庫にたくさん入っていてかなり集中して読みましたが、それらは全部実家に置いてあって、家と一緒に先般処分してしまいました。Amazonの中古市場を覗いてみたらあるにはありましたが、私が欲しい本はなく、近所の図書館にもありません。もう、寺山修司を読む人はいないのか。私は「天井桟敷」には行ったことがありませんが、寺山の短歌に感動したり(「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とか)、寺山の映画を観て「うーむ」と唸ったり、『家出のすすめ』を読んで「家出をしたい」と思ったりするのが青春でした。でも、本を探しているうちにふと思いました。いま寺山を読んで、私は何か書けるだろうか。もしかしたら、ノスタルジーに乗っかってしか何かを感じることができないのではなかろうか。それは読んでから言えよ、ということですが、そんなことを思っているうちに、「いまの自分にとってのリアルな感情」 を載っけて何かを書く方が、最後にふさわしいような気がしてきたのです。 ということで、保坂和志の「こことよそ」に進みたいと思います。『ハレルヤ』という単行本に収録されている短編です。山本さんご紹介の『美しき愚かものたちのタブロー』(原田マハ著)との繋がりは、実在の人物が実名で出てくるフィクション、ということになるかと思います。 保坂和志は、いまのところ、一番最近出会った「お気に入り作家」です。6,7年前だったか、たまたまネットで保坂和志のインタビュー記事を読んだとき、わりに抽象的な話だったと思うのですが、言っていることにほぼ納得できる状態で、これは小説を読まんといかん、と思い、『草の上の朝食』だったかを読み、続いて芥川賞をとった『この人の閾』を読んで、ついていこうと決めました。意識の流れを文字化したような文章と、分析的でいながら柔らかい人物描写が、読者たる私を「やめられない止まらない」感情にさせるような小説でした。 しかしながら、未読の作品もたくさんあります。出会ってから短い、ということもありますが、例えば『未明の闘争』とかいうタイトルだと、目の薄くなった婆さんはなかなか手が出ません。それともうひとつ、保坂和志の小説は、年々「意識の流れの文字化」 が先鋭化してきていて、途中で主語が変わったり、読点を打たないまま話がどんどん逸れていったりすることがふつうになってきているのです。はっきり言えば、少々読みにくい。それでも保坂和志の小説が好きでいられるのは、彼の考え方やものの見方が好きだからで、「作家であること」にとってそれはとっても大切な部分だろうと思えるからです。 「こことよそ」もわりに最近の小説で、意識の流れに逆らわずにどんどん話が広がっていきます。 ストーリーの根幹は、かつての友人だった「尾崎」が死んで、お別れの会に出かけた主人公が、尾崎とのさまざまなシーンを追憶しつつ、彼の不在を飛び越えてありありと彼との時間が戻ってくる体験をする(といえばいいのかどうか、違うような気もしますが)ようすが、まとまりなく描かれています。もうほんと、彼の小説は説明がむずかしい。というか、説明なんかしてはいけないのでしょう。ただ、「昨日の写真は撮れなくても昨日がなくなるわけじゃない」 という一文が、なんとなく心に残りました。当たり前のことを言っているようですが、そうでもないのです。 というのも、この小説が私にとって特別になったのが、これを読んだのが「父の四十九日」で姫路に帰省していたときで、10月の暖かい日に「外濠公園」のベンチに座って読み終えたというのがひとつ、もうひとつは、「父の死」が私にもたらした「死生観の急激な変化」と、この小説が描かんとしていること、「人が死んでも世界が終わるわけではない」「世界が終わらなければ死んでも命は生き続ける」 ということが、ぼんやりと、ですがあまりにもタイムリーにリンクして、大げさに言うと、私は「外濠公園」で生まれ変わったのではないかと思うほどでした。「10月の外濠公園」と分かちがたくなることで、小説を読むと、父の死や、そのときの自分の感情を追体験できる。それは、主人公が尾崎のお別れの会で体験したことと、とても似ているようにも思えるのです。 いま上に書いたことを、論理的に説明することはできません。「どういうこと?」と訊かれても答えられない、「この感じ!」 を言葉にしようとすると実感を裏切る。じゃあなんで書くの?ということをずっと書き続けているのが、保坂和志なのかもしれない、と感じています。 この小説に出てくる実名の人物について。それは映画監督の長崎俊一と、俳優の内藤剛志、古尾谷雅人です。主人公が追憶した尾崎とのシーンの大部分は、長崎俊一の初期の作品『九月の冗談クラブバンド』(1982年)の撮影現場でした。長崎俊一は保坂和志の中高の同級生で、保坂はしょっちゅうエキストラとして長崎の撮影現場に出入りしていました。尾崎は元暴走族で、バイクの暴走シーンの撮影のためにバイクを動員するために呼ばれたのです。 この映画人たちの名前は、ほぼ同世代で私にとっては懐かしく、ある時代の象徴でした。ことに内藤剛志は、脚本を学んでいた私のデビュー作のテレビドラマの主役だった人物で、彼にとってはフィルモグラフィにも入らないような小品ながら、私の生きてきた道のりにとっては特別な名前です(脚本の道は挫折しましたが)。「こことよそ」は私の過去、現在、未来が繋がってゆく、まさに「リアルな感情」 とともにある小説なんだと、あらためて感じています。 ということで、最後のバトンを小林さんにお渡しします。よろしくお願い致します。※ちなみに、表紙の写真は保坂の愛猫「花ちゃん」です。表題作「ハレルヤ」は花ちゃんの死を描いた小説で、これもまた、保坂の「死」と「生」の距離や感触を感じることできる明るい佳作です。(K・SODEOKA2023・11・24) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.06
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「吉備津神社内 宇賀神社」 徘徊日記 岡山の狛犬 その3 2025年2月1日(土) 吉備津あたり 吉備津神社の本殿から、回廊を歩いて、多分、むかしの、いや実は今だって正面の鳥居まで出てくると目の前に池があって、その池の中の小島に赤いお社がありました。そのお社の正面の左右にいらっしゃたのがこの狛犬さんです。 吽くんが上の写真で、阿くんが下の写真です。 オーソドックスなお顔ですね。いかにも狛犬さんという感じ。 で、この橋の向うが島になっていて、お祀りされているのは宇賀弁財天さん、宇賀神社ですね。宇賀の神というのは日本古来、弁天さんというのは仏教由来、まあ、そういうタイプというか、所謂、神仏習合ともまた違うかも、という神さんですね。 池ですが、島にあるわけで、竹生島とかの弁天さんを思い出しますね。そういう神さんなのでしょうね。 で、この島を対岸から眺めると緑に覆われている風情なのですが、これが松ですね。これで根本は一つです。見事な枝ぶりというか枝の拡げかたで、ちょっと見ものですね。こういう種類なのでしょうね。池には鯉も泳いでいました。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.06
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フランクリン・J・シャフナー「パピヨン」シネリーブル神戸 日本初公開50周年記念とかで「パピヨン」をやるらしいという、この懐かしい二人のチラシを見て同居人が言いました。「私、これがいいわ。なんか、最近、かったるいやん。」「ふーん、じゃあ、ボクも見るわ。」 で、やってきたのがフランクリン・J・シャフナー監督の「パピヨン」です。チラシの二人がなつかしいですね。50年前、20歳だか21歳だかで見た作品です。 見終えた帰り道、何となく話しはじめました。「なんか、やっぱり古いかったねえ。」「えっ?」「展開ダルイし、裸で暮らしている現地の人らの撮り方もなんだかなあヤシ。」「アカンかったん?」「期待したほどとは・・・・」「ボク、結構よかったで。カッコええスティーブ・マックインのパピヨンより、ボクはドガなんやな、やっぱり!って、40数年ぶりに再確認した。」「ダスティン・ホフマン?」「うーん、あの人も若かったんやね。でも、そことはチョットちゃうかな。」「どいうこと?」「これって、やっぱり、ある時代の男の子の映画やねんな。」「????」「そやから、あっこで、よう跳ばへんねん、普通。崖の上でパピヨンの姿を見ながら、ドガが泣いてんのか笑ってんのかわからへんやん。で、ブタに餌やりに帰るねん。そういう姿演じさせるとダスティン・ホフマンは天才的やな。」「わたしらブタ?」「そいうわけやないけど、70過ぎて、ドガの泣き笑いにの顔見て、やっぱ泣けたで(笑)。20歳のときとちがうな。あん時は海に浮かぶパピヨンにカンドーしてた気がする。」 危うく、喧嘩になりそうな会話でしたが、シマクマ君の頭には「どうして旅に出なかったんだ、坊や♫」 が浮かんでいたのでした。あの頃、よく聴いた友部君の歌ですね(笑)。 それにしても、ほぼ、50年ぶりに見て、テレビでも見たような気もしますが、最後のシーンしか覚えていなかったのには驚きましたね。「ああ、あの映画は見たな。」 とか思いこんでいますが、覚えているのは題名だけかもしれませんね。 それにしても若き日のスティーブ。マックイーンとダスティン・ホフマンにはなつかし、うれし、の拍手!でした。監督 フランクリン・J・シャフナー原作 アンリ・シャリエール脚本 ダルトン・トランボ、ロレンツォ・センプル・ジュニア撮影 フレッド・J・コーネカンプ音楽 ジェリー・ゴールドスミス編集 ロバート・スウィンク(英語版)美術 アンソニー・マスターズキャストスティーブ・マックイーン(パピヨン)ダスティン・ホフマン(ルイ・ドガ)ロバート・デマン(マチュレット)ウッドロー・パーフリー(クレジオ)ドン・ゴードン(シュロ)アンソニー・ザーブ(トゥーサン)ウィリアム・スミザーズ(バロット) バーバラ・モリソン(スぺリオル) ロン・ソブル(サンティーニ)1973年・151分・G・フランス・アメリカ合作原題「Papillon」日本初公開1974年3月16日2025・02・04・no015・シネリーブル神戸no299追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.05
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筒井功「アイヌ語地名の南限を探る」(河出書房新社) 縄文以来の原日本語を探り続けていらっしゃる筒井功さんの「アイヌ語地名の南限を探る」(河出書房新社)をいじっています。 著者の縄文語探索「縄文語への道」(河出書房新社)で始まって、「潮来を、なぜイタコと読むのか」(河出書房新社)、で止まらなくなっている、まあ、マイブームなのですが2020年に出された本書です。アイヌ語に関しては、他にもいろいろ書いていらっしゃるようですが、本書が集大成という雰囲気ですね。 筒井功さんが歩いて現場検証していらしゃることが、何より心惹かれる理由ですが、もう一つはこういうもののいい方ですね。 高知県南端の足摺岬は「アシュ・ソ・リ」で「風が吹きつける裸岩の山」だと解釈した本もある。同岬は、もとは「サタ岬」といい、「サタ」は「蹉跎」という難しい漢字を宛てていた。これを、いつのまにか「あしずり」と訓読みするようになり、のちに文字を「足摺」に替えた喪である。したがって、アイヌ語とは何の関係もない。 できれば、一度訪ねてみたい場所の一つが足摺岬なのですが、アイヌ語地名として解説されているなんてことは、もちろん、知りませんでしたが、この筒井さんの否定の仕方がいいんですね。 で、彼が歩き廻る先が今回は「アイヌ語地名」です。南限ですから、本州のどのあたりに線をお引きになっているのか、まあ、それは本書と出会っていただくほかありませんが、ここまで読んできた2冊と同様、大変な旅程ですね。 で、彼が訪ねる場所について、古代日本語とアイヌ語とを見分ける条件がこれですね。 卑見では、北海道以外にある地名がアイヌ語によって付けられたとするためには、以下の四つの条件を満たしていなければならない。① 北海道と本土のそれぞれに同じか、ほぼ同じ地名が数カ所以上存在すること。② 日本語では、まず解釈がつかないこと。③ 逆にアイヌ語だと、かなり容易に意味がつかめること。④ そうして、これが最も大事な点だが、その地名が付いた場所の地形または地物などの特徴が、先に当てはめてみたアイヌ語の意味に合致すること。 おそらくですが、筒井さんが地図を睨みながら、それではと腰をあげになるのは、多分、④の実地検分でしょうね。 まあ、ご本人はライフワークなのでしょうが、こちとらはヒマに任せてというわけですし、本書の最後に乗っているコラムでも「机上で地名研究はできない」 と、キッパリ! おっしゃっていらっしゃるように、ご本人は現場で、自分の眼で、なのですが、こちとらは炬燵にもぐりこんでですからね(笑)。 それにしても、1944年にお生まれだそうですから、もう、ご高齢なわけですが、がんばっていただきたいですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.02.04
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「吉備津神社 鳥居前のお二人(笑)」 徘徊日記 岡山の狛犬 その2 2025年2月1日(土) 吉備津あたり 神戸から2時間以上かけてやってきた岡山の吉備津神社ですが、多分、山陽自動車道で岡山市の北の方からやってきたわけで、それも乗せてもらっているということもあって、地理がよくわかりません。でも、ここは岡山の市内のようです。 で、駐車場から石段があって、いきなり本殿に参拝したのですが、「狛犬さんはおらんのかなあ?」 という感じで、参拝コースを逆流しながらウロウロしていて、本宮社の狛犬さんに続いて、吉備津神社の狛犬さんが正門というか、多分、昔の参拝道の大鳥居の奥にいらっしゃいました。 で、こちらが阿さんです。どこかひょうきんというか、愛嬌がありますね。吽さんのほうは頭てっぺんに、どうも角があるようですが目が可愛らしいのですよね。 元々は色が付いていた様子ですが、こちらも愛嬌が特徴のようです。厳つさはさほどありません。 鳥居に入ったところかお二人をお撮りしました。駐車場からの石段周辺にはお土産物屋さんとかもありましたが、こちらは静かなものです。 この写真の右手に昔の社務所がありましたが、今は戸が閉まっています。狛犬さんのお二人の奥に見えるのがこの神社の呼びものというか、県だかの文化財だと思いますが、有名な回廊の入口です。本来は、ここから400メートルほどもある回廊を歩いて本殿前に到着するのが参詣の道すじなのでしょうね。 回廊とか、本殿についてはまた徘徊日記に書きますね。ということで、今日はここまででした(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.03
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「吉備津神社内 本宮社」 徘徊日記 岡山の狛犬 その1 2025年2月1日(土) 吉備津あたり 今日は2025年、2月1日の土曜日です。神戸の狛犬さんを追いかけ始めていたはずなのですが、何故か岡山の吉備津神社に来ています。 吉備津神社の徘徊については別の投稿でしますが、とりあえず狛犬さんです。 吽さんです。玉と遊んでいらっしゃいます。結構、厳ついんですが、愛嬌にあふれていらっしゃいます。角度を変えるとこうなります。 この方、口を閉じていらっしゃるからいいんですね。口をあいていらっしゃる阿さんだとこうです。 歯抜けオジサンというより、歯抜けおばさんですね(笑)。 いや、悪くはないのですが「ちょっと、あんた!」 という感じで、こっちがテレてしまいますね。「なにフガフガいうてんねん!」 まあ、そういう感じなのですが、角度を変えても、おもしろさは変わりません。フガフガいうてはります(笑)。笑いながら写真を撮るとか、言語道断ですね(笑)。 吉備津神社というのは、大きな神社で、この狛犬さんはその神社の隅にある「本宮大社」の小さなお社門番さんです。神社全体の狛犬さんは本殿の前にもいらっしゃらなかったんですが、まあ、初めて来たということもあって、この狛犬さんから紹介しています これが本宮大社の、吉備津神社出張所です。とりあえず、おもしろかった狛犬さんからの紹介でした。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.02.02
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「これは右手です!」 ベランダだより 2025年2月1日(金) ベランダあたり あのー、ですね、これ、ボクの右手です。 で、下の写真が左手です。違いわかりますか?右手が少し腫れているようなのです。同居人が見て、一言、キッパリ「医者に行ってきなさい!」 で、行きました。 レントゲンを撮っていただいて、さすったり、押さえたりしていただいて、 で、「折れてはいません、打ち身ですね(笑)」 実は、二日前、西宮あたりまで繰り出して学生時代の先輩と酌み交わして、お店を出たところでよろけたのは覚えているのです。「ボク、転びましたか?」「いや、ボクの左肩をポンポン叩いて又ねって機嫌よかったよ(笑)」 ラインとかで、確かめても、まあ、そういう出来事だったようなのですが、何があったのでしょうね?記憶がないところが大きな問題! ですが、折れてはいないようなので笑っています。 しようがないので、医者の帰り道に団地の風景を撮りました。こちらはススキです。冬枯れです。いい、風情ですね。 ようするに、素直に風に吹かれていればいいのに、転んだりしてしまうんですよね。まだまだ修行が足りませんね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.02.01
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桑野隆「生きることとしてのダイアローグ」(岩波書店) 斎藤環の「イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか」(医学書院)を偶然手に取って、そこから始まったのが2025年の1月の読書の波です。「対話=ダイアローグ」という概念の大波をかぶって、まあ、だからといって、今更、ミハイル・バフチンの波に乗る元気もないわけで、斎藤環が参照している、素人向けらしい、この本の波になら溺れずに乗れるかなと手に取ったのが本書です。 で、今日の案内は桑野隆「生きることとしてのダイアローグ」(岩波書店)です。桑野隆といえばトロツキーの「文学と革命」(岩波文庫)の訳者だったんじゃなかったか?なんていう、まあ、その時代の思い出が浮かんできましたが、ロシア思想史の人で、ミハイル・バフチン研究の、まあ、第一人者だと思います。 で、その方がバフチンの対話論についてかみ砕いてくださっているのがこの本です。ミハイル・バフチンといえば、まあ、ボクにとっては「カーニヴァル論」と「ポリフォニー論」で1980年代ころからブームだった、ソビエト・ロシアの文学研究者でした。『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』が川端香男里の訳でせりか書房から出されたのが1974年です。文化人類学、中心と周縁の山口昌男とかが盛んに話題にして、ボクも読みました。この本と、少し後に出た「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)ですね。 本書の桑野隆さんがこうまとめられています 活況を呈したバフチン・ブームが一段落した二一世紀にあって、あらためて見なおされているのが、バフチン特有の対話論です。もともと、この対話論を実践的に応用しようという動きは分野によっては早くから見られましたが、昨今ではさらに広がりを見せ、教育や精神医療、介護、異文化交流、第二言語習得、その他、多様な場で活かされるようになってきています。以前は主として作品解読のための理論としてつかわれていたものが、今日では現場での実践でもって評価されるようになってきたわけです。(P4「はじめに」) 小説の構造について、70年代から、80年代、「カーニヴァル論」、「ポリフォニー論」という、当時としては画期的な論考として翻訳されたバフチンですが、今、「対話論」へと読み手の関心が移ってきたというわけです。斎藤環の関心もそのあたりでした。 で、桑野さんのこの本の面白さは「対話論」をバフチンの思考、あるいは、思想の出発点に置いた! ことですね。「カーニヴァル」→「ポリフォニー」→対話というバフチン受容の流れを、対話→ポリフォニー→カーニヴァルとひっくり返していることだと感じました。 人間存在の根本にほ、それは人それぞれの内的な世界の立体化、まあ、意識化といってもいいのかもしれませんが、そこには必ず対話的なあり方があるということが、小説を書くドストエフスキーにはあって、小説的世界、複数の人間存在のせめぎあいの世界の描写においてポリフォニーが発生し、カーニヴァル的な社会を作り出すというのが、桑野さんの思考の方向性だというのがボクなりの理解でした。 で、やはり、気にかかるのは「対話」とは何かですが、本書の面白さは対話→内的言語・意識→発話・引用・異言語混淆→沈黙と展開する後半ですね。 大騒ぎになる「小説世界」の登場人物たちの内側にあるダイアローグ的世界、で、そのダイアローグの向うにあるのが「沈黙」、図式的に言えばこういう論旨ですが、「沈黙」って何? なぜ、「沈黙」を話題にする必要があるの? まあ、そういう疑問が浮かびますね。それに対してこの引用から始まって、桑野さんの結論へ展開します。 静寂と音。音の知覚。静寂と沈黙。間と言葉の始まり。音でもって静寂を破ることは機械的で生理的である。これはまったくべつの世界なのである。静寂においてはなにひとつひびかないが、沈黙においてはだれひとり話していない。沈黙は、人間世界においてのみ可能なのである(バフチン)で、桑野さんはこの引用をこうまとめます。 〈静寂〉とは違って〈沈黙〉には、〈声〉を発する可能性、話しはじめる可能性があることを強調しています。「沈黙は、人間世界においてのみ可能なのである」というくだりからしても、人間にとっての〈沈黙〉がもつ意義が重視されています。この点では、〈静寂〉と〈沈黙〉をひとくくりのものとして論じる立場とは好対照をなしています。(P151)で、続けておっしゃっているのが、あっと声をあげそうになった具体例でした。 わたしには、「苦界浄土」三部作をはじめとする一連の著作で水俣の受難によりそった石牟礼道子がうかんできます。「苦界浄土」はその全体が、まさに沈黙を余儀なくされた人びとの〈心に染み入る対話〉となっています。中略対話を問題にする以上、「沈黙と向き合う」べきなのです。(P154) たとえば小説を読んでいるとします。騒がしくおしゃべりを続けている登場人物たちのことばの意味を読み取ろうするのであれば、彼らの内的対話に耳を澄ませる、するとその奥に「沈黙」があるのだということでしょうか。 それは、つまり、たとえば、教科書で読むことが出来る漱石の「こころ」の「先生の手紙」の饒舌の始まりには、まず、小説の登場人物で遺書の書き手である先生の沈黙があって、あの作品を書き始めて、そこまで書いてきた漱石の沈黙が、その向こうにある。あの場合は二重に重なった沈黙ですね。まあ、ボクなりには、そんなイメージですが。 発話される言葉の始まりにある、あの、「間」ですよね。 で、桑野さんは、そこから言葉にたどりついて話し出す人もいれば、どうしても言葉が見つからない人もいることを示唆していました。チュッと、ドキドキしましたね。この年になって小説や映画がやめられないのは、多分、そこのところの「ほんとうのこと」を期待しているのでしょうね。 下に目次を貼りました。もちろん対話論の具体的解説、バフチン入門的案内も優れていると思います。正直、バフチン直接はほねですから、このあたりからいかがでしょうかね。はじめにⅠ 対話的人間(~P52) 1 「わたしはひとりで生きている」という幻想 2 ひとは永遠に未完であり、決定づけられない 3 ポリフォニー 自立した人格どうしの対等な対話 4 気をゆるめることなくむすびつきながらも、距離を保つ 5 応答がないことほど、おそろしいことはないⅡ 内なる対話(~118) 6 モノローグが対話的なこともある 7 意識は対話の過程で生まれる 8 真理も対話のなかから生まれる 9 他者がいて、わたしがいる 10 相互が変化し豊饒化する闘争Ⅲ 相互作用のなかのことば(~P148) 11 言外の意味 12 言語のなかでは、さまざまなことばが対話をしている補 沈黙(~P157)おわりに注・主要文献 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.31
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徘徊日記 2025年1月25日(土)「おお―マリア様!」青谷あたり あのね、元町の大丸の前から阪急六甲行きの2系統の市バスに乗ったんです。最終目的地はハット神戸の109シネマなのですが、先日、この系統の市バスに乗って、野崎通の何丁目かのバス停で、そのあと市バスは左に登って行って青谷方面に向かうのですが、一番前の席で見ていると、左折する直前、向こうに石垣があって、ちょっと気になったんですよね。だから、今日はそこで降りて「あの石垣を確かめよう!」と思ったんです。 で、やってきたのがココなんですね。まあ、ヒマにもほどがある行動ですね(笑)。 で、ここは海星女学院の正門前です。「オジーさん、何しにいらっしゃったんですか?」 まあ、マリアさんがそんなふうにお尋ねになる、そんな感じですが、マリアさんを見上げるこの場所に来るのは、多分、初めてです。ちょっとカンドーしました(笑)。 その昔、このマリアさんが動かれるとかいううわさが流れたことがありましたが、あのころ、すぐ近所で暮らしてたんですけどね。今年は狛犬さんをターゲットにしてうろうろしているんですが、今日はマリアさんでした。 で、迂闊というか、残念だったのは、ここからの海の景色を撮り忘れたことですね。ああ、それから、写真を撮っているすぐ後ろは葺合高校で、すぐ右手は王子動物園ですね。この下には、あの頃、夏になると風呂がわりにやってきた王子プールがあるはずですが、今でもあるんでしょうか。じゃあ、まあ、そういうことで。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.01.30
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斎藤環「イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか」(医学書院・シリーズケアをひらく) 2025年の、お正月早々の読書は斎藤環という人の「イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか」(医学書院)でした。読み始めたのが、お正月早々で、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしながら、読み終えたのが今日、1月15日です。 市民図書館の新刊の棚で見つけて読み始めたのですが、結局、ウーンと唸って終わりました(笑)。 斎藤環という人は、ボクと同い年で、精神科の医者というか、臨床家です。人気があるらしく、いろいろ書いていらっしゃいますが、この本は「オープン・ダイアローグ」という、彼が、ここのところいろいろ書いていらっしゃる精神科の臨床の実践を論じた本です。 「オープン・ダイアローグの否定神学性」の検討というのが著述の目的のようです。 とりあえず、ボクなりですが、少し説明すると、オープン・ダイアローグというのは「複数の人間による対話」のことで、否定神学というのは「神のなすことは人間には計り知れない」というように、洋の東西を問わず、超越的存在である神様を説明する時に「~ではない」という否定の形でしか言及できない話法のことのようです。 で、イルカですが、あの、水族館とかで輪クグリとかの芸を見せる、あのイルカです。「ダブル・バインド」という概念を提唱したグレゴリー・ベイトソンというアメリカの学者が例に挙げた動物です。ついでにいえば「対話」のネタはミハイル・バフチンですね。 まあ、こういう説明では何もわからないと思うのですが、要するに、精神科の臨床の現場において、患者に対して、複数の対話者による対話=オープン・ダイアローグが治癒の方向に有効であるという実践事実について「なぜか?」を解こうとしているのが本書というわけです。 臨床現場の具体的描写が、ほぼ、皆無で、論述による、いわば「哲学論議」に終始していますから、おもしろい、興味深い、ところはたくさんありますが、多分、ボクのような素人には、結局、よくわからない本でした。 ただ、ボクが面白かったのは、この著者は、以前、たとえば文学についてあれこれ言う人で、ちょっと「なんだか、なあ???」という印象の人だったのですが、本書では「わからない」こと、あるいは、「わかっていないこと」を語っていらっしゃるところですね。 まあ、こんなふうに書いても何をいっているのか「わからない」と思いますが(笑)、興味をひかれた方は、本書で納得?、困惑していただきたいということですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.29
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クリストファー・ザラ「型破りな教室」シネリーブル神戸 メキシコが舞台で、小学校の教室の映画。子供たちが頑張る映画という予告編の雰囲気に惹かれて見に行きました。 クリストファー・ザラという監督の「型破りな教室」です。原題が「Radical」でしたが、そっちの方がピッタリくる印象でした。 はみだしタイプの先生の「ことば」が子どもたちの「こころ」を揺さぶり始めるシーンが、とても印象的で、まあ、舞台が教室というわけで、ボク自身の経験と重ねて見ましたがとても納得しましたね。 ここのところ、ダイアローグという概念に、チョット取りつかれていて、モノローグ、ひとり言に対して、対話と訳されるあれですけれど、自分がその仕事で毎日教室にいた頃は、特定の一人との「対話」ということが気にかかっていたのですが、教育とか考えるときに大切なのは「教室」という、なんでも知っている教員という大人と、教えられる子どもたちという、どこかで上下的な権力関係の場になりがちな場所を、教員もまた、そこに存在する、一人の人間にすぎないという対等性の中で、1対1ではない、複数対複数の「対話」の可能性! を描こうとしている映画だと思いました。 この映画は、多分、そこが、実は想像以上に「Radical」なのですね。結果的に、子どもたちの成績が上がったとかいう物語として宣伝されていますが、子どもたちが、自分でも気づかないうちに「生き生きと考える」ということを始める可能性を映し出そうとしているところに強く惹かれました。 拍手です。 で、監督は知っているのですね。子供たちは、教室という場で、たとえ解き放されたとしても、もう一つ広い「社会」という場で生きていることを。 「生き生きと考える」ということを始めた人間は、子どもに限りません、、しかし、その人間が必ずしも「しあわせ」になれるわけではないのですね。その昔のソクラテスの悲劇を持ち出すまでもなく、子どもたちが生きている社会が、必ずしも「生き生きと考える人間」を歓迎するとは限らないからです。 映画において、天才少女のパロマは奨学金で夢に向かって歩き始めましたが、ギャングのチンピラだったニコは命を落とし、妹や弟の世話をしなければならないルペは、統一テストを受けることもままならなかったのではないでしょうか。 この監督の面白さは、そこを描いたところですね。 メキシコという、海の向こうの異国の話、貧困も暴力も他人ごととして受け取る雰囲気が映画館には満ちていましたが、果たしてそうなのでしょうか。共有すべき問題が差し出されているのではないでしょうか? 真面目に、現代という社会を描こうとしている監督に拍手!でした。監督・脚本 クリストファー・ザラ撮影 マテオ・ロンドノ編集 エウヘニオ・リチェル音楽 パスクアル・レイエス フアン・パブロ・ビラキャストエウヘニオ・デルベス(セルヒア・フアレス・コレア先生)ダニエル・ハダッド(チュチョ校長先生)ジェニファー・トレホ(パロマ)ヒルベルト・バラーサミア・フェルナンダ・ソリス(ルぺ)ダニーロ・グアルディオラ(ニコ)2023年・125分・PG12・メキシコ原題「Radical」2025・01・17・no009・シネリーブル神戸no297追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.28
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ソイ・チェン「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」 109シネマズハット 予告編を見ていて、おーっ!香港の九龍城が舞台やんけ! ただ、それだけの理由でやって来ました。作った監督も出ている役者も誰も知りません。 九龍城についてだって、元々は軍事要塞だったと思うのですが、今や(実は、もうありませんが)、世界有数の貧民窟! という大雑把なイメージしかないのですが、その名を聞くと心が騒ぎます。それがボクにとっての九龍城ですが、香港という地名もまた、どこかで、共通した哀感を醸し出させるわけですし、現実問題として「香港映画」というのが、今、可能なのかどうか、そういうことについても心が騒ぐわけです。 で、109シネマズハットにやって来て、あっとっ声をあげそうでした。チケット購入の画面を見ると、ほぼ、満席で、前から3列目の中央しか空いていません。ボクにとっては、絶対安全、いつもノンビ、リ109のシネマズハット! が満席とはこれいかに!? でしたが、せっかくなので見ました。 見たのはソイ・チェンという監督の「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」でした。 で、目的の九龍城は、当然ですが、模型のセットの特撮で、全体の、多分30%はあろうかというアクションシーンでは、かぶりつきから見上げていると、どっちが勝っているのか負けているのかもよくわからないハンディキャップ、ホント、こういうアクションの激しい映画は後ろで見ないと老人には無理! だったのですが、見終えた感想は、ナットク! おもしろかった!(笑) ですね(笑)。 これが、舞台になっている九龍城塞の在りし日の姿ですね。映画のセットもとてもよくできていたと思いますよ。 まあ、元々、正義の味方が暴れまわる映画というのが好きというところもあるのですが、この作品では、正義の味方はいろいろ苦労しちゃうし、悪の味方は魔法のような気功術の達人だったりするし、ハラハラドキドキだったのですが、やっぱり、正義は勝つ! ほっ! わけで、一安心の結末でした。 でも、この映画の面白さは、実は、そこのところじゃなくて、映画が在りし日の香港映画への、そして、在りし日の自由都市、香港へのオマージュとして作られているかの印象のせいでしたね。 香港映画に限らず、中国映画、台湾映画、そして、韓国や東南アジアの映画については、文字通り初心者ですが、その昔のブルース―・リーやジャッキー・チェンは知っています。この映画は、彼らが活躍していた雰囲気というか、そういう懐かしい空気で、見ているこっちを揺り動かしながら、「若い者に、次の時代を!」 とつぶやきながら死んでしまう九龍城の主である龍捲風(ルイス・クー)の渋いセリフが映画全体に漲っている気がして爽快で、且つ、シミジミしてしまいました(笑)。 物語が語り終えられたラストシーンは見ものでしたよ。次の世代に希望を託すかのように、今はもう取り壊されてしまったらしい九龍城の巨大なセットシーンの中空から香港を眺めている、次代の担い手である若い主人公たちの、すぐそこの上空を巨大なジェット旅客機が滑り降りてくるかのシーンで、圧巻でした。これが、いつまでも変わらぬ、香港! なのでしょうね。拍手!監督 ソイ・チェン脚本 アウ・キンイー チャン・タイリー サム・クァンシン ジャック・ライチュン撮影 チェン・シウキョン編集 チョン・ガーファイ音楽 川井憲次アクション監督 谷垣健治キャストルイス・クー(龍捲風ロンギュンフォン)レイモンド・ラム(陳洛軍チャン・ロッグワン)テレンス・ラウ(信一ソンヤッ)フィリップ・ン(王九ウォンガウ)トニー・ウー(十二少サップイー)ジャーマン・チョン(四仔セイジャイ)リッチー・レン(秋兄貴)ケニー・ウォン(虎兄貴)サモ・ハン(大ボス)アーロン・クォック(陳占チャン・ジム)2024年・125分・PG12・香港原題「九龍城寨之圍城」「Twilight of the Warriors: Walled In」2025・01・25・no014・109シネマズハットno54追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.27
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上野昂志「黄昏映画館」(国書刊行会) お正月早々「夏の庭」と「お引越し」という相米慎二監督の作品を続けて2本見ました。で、相米慎二という人が、どんなふうに言われている監督なのか気になって、市民図書館から借りてきたのがこの本です。 上野昂志「黄昏映画館」(国書刊行会)です。 懐かしい人には、懐かしい名前でしょ(笑)。今でもあるようですが、あの頃、だから50年ほど昔、小川徹という評論家が編集長をしていた「映画芸術」という映画雑誌があって、まあ、当然、そのあたりをセコセコ読んで、ネタを仕込んでいた若き日のシマクマ君なのですが、そのあたりでお見かけした「評論家(?)」でしたが、なかなか過激な物言いが好きでした。 で、50年ほど昔にボクなんかがお名前を知った、そのまた10年ほど昔からの、だから、60年にわたる「監督論」・「作品論」を、文字通り集大成した1冊がこの本です。巻末のあとがきが終わったところで957ページ、索引等を含めるとほぼ1000ページの大著です。まあ、「上野昂志事典!」 みたいなもんですね(笑)。 ちなみに、2022年現在、彼が選んだ日本映画ベスト50はこんな感じです。折角ですから全部写してみますね。時代順で並んでいます。「忠治旅日記」伊藤大輔1927「生まれてはみたけれど」小津安二郎1932「隣の八重ちゃん」島津安二郎1934「丹下左膳余話百万両の壺」山中貞雄・「雪之丞変化」衣笠貞之助1935「赤西蠣太」伊丹万作・「浪華エレジー」溝口健二1936「エノケンのちゃっきり金太」山本嘉次郎1937「鸚鵡歌合戦」マキノ正弘1939「歌ふ狸御殿」木村恵吾・「鞍馬天狗」伊藤大輔1942「歌行燈」成瀬巳喜男・「姿三四郎」黒澤明1943「狐の呉れた赤ん坊」丸根賛太郎1945「晩春」小津安二郎1949「本日休診」渋谷実1952「次郎長三国志 第八部 街道一の暴れん坊」マキノ雅弘・「ゴジラ」本多猪一郎1954「血槍富士」内田吐夢1955「狂った果実」中平康1956「幕末太陽伝」川島雄三・「赤い波止場」舛田利雄1957「炎上」市川崑1958「東海道四谷怪談」中川信夫・「薄桜記」森一生1959「青春残酷物語」大島渚・「独立愚連隊西へ」岡本喜八1960「妻は告白する」増村保造1961「座頭市物語」三隈研次1962「十三人の刺客」工藤栄一・「関の彌太ッペ」山下幸作1963「網走番外地 望郷編」石井輝男1965「東京流れ者」鈴木清順・「沓掛時次郎 遊侠一匹」加藤泰1966「昭和残侠伝 死んで貰います」マキノ雅弘1970「喜劇 女は男のふるさとヨ」森崎東1971「戒厳令」吉田喜重1973「仁義の墓場」深作欣二・「実録安部定」田中昇1975「わたしのSEX白書 絶頂度」曽根中生1976「霧の旗」西河克己1977「最も危険な遊戯」村川透1978「太陽を盗んだ男」長谷川和彦・「赫い髪の女」神代辰巳・「十九歳の地図」柳町光男1979「ヒポクラテスたち」大森一樹1980「野菊の墓」沢井信一郎1981「ニッポン国古屋敷村」小川紳介1982「家族ゲーム」森田芳光1983「台風クラブ」相米慎二1985 一番新しい作品が1985年の「台風クラブ」というところに、ちょっと笑いますが、上野さん自身は1941年生まれですが、ご健在のようで、下に貼った監督論の最新は濱口竜介「寝ても覚めても」論、本書のために書き下ろされているのが黒沢清「スパイの妻」論ですから、今も映画の人なのです! で、相米慎二評価が気になってパラパラやり始めたのですが、目にとまったのはこっちでした。ベスト50に採られている、1979年の「19歳の地図」の寸評です。「映画のなかで文字が書かれるというのは、見ている映画にじかに触れられるような微妙な感触があるが、ここで主人公の少年が文字を書くときは、微妙などというレベルに収まらぬ生々しさがある。どこからどこへ動くのか予想し難い鉛筆の運びによって書かれる文字と×印。それは、新聞配達をしながら予備校に通っている少年の世界に対する違和感などという水準を越えて、彼の肉体そのものの殺意ともいうべきものを感得させるのだ。(P952) 」 封切りで見たことと主人公の青年が書いた地図のシーンしか覚えていなかった作品でしたが、上野さんの寸評を見て唸りました。あのころ、上野昂志が好きだった理由と巡り合った気分です。皆さんも、いかがですか? とりあえず、目次、貼っておきますね。目次伊藤大輔・清水宏・小津安二郎・成瀬巳喜男・マキノ雅弘・山中貞雄・加藤泰・川島雄三・田中徳三・鈴木清順・石井輝男・増村保造・森崎東・土本典昭・深作欣二・黒木和雄・山田洋次・大島渚・吉田喜重・三村晴彦・曽根中生・小沼勝・澤井信一郎・布川徹郎とNDU・原一男・柳町光男・長谷川和彦・荒戸源次郎・北野武・飯塚俊男・相米慎二・崔洋一・原將人・井筒和幸・黒沢清・山本政志・佐藤真・阪本順治・瀬々敬久・諏訪敦彦・青山真治・豊田利晃・大森立嗣・横浜聡子・濱口竜介日本映画ベスト50あとがき 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.26
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「筒井神社」 徘徊日記 神戸の狛犬 その3 2025年1月21日 宮本通あたり 毎日、元町あたりを徘徊しています。 で、今日は、元町の大丸前、三宮神社始発の92系統の市バスに乗りました。目的地はハット神戸の109シネマズハットなのですが、このバスに乗って上筒井あたりで降りてフラフラしようかなって。 昔、国体道路とか呼んでいたと思うのですが、その道が92系統のバス道で、上筒井6丁目くらいで降りてフラフラ南に歩けばハットのはずです。 で、6丁目で降りて、歩きはじめると神社がありました。筒井神社です。八幡さんと荒神さんがありました。 で、狛犬さんです。阿くん、ですが、「グゥワハ、ハ、ハ、ハ!」 と、まあ、豪快に笑ってはる感じでした。 こちらが、吽くんです。そこそこ厳ついんですが、つくづく、ひとの顔をしていると思うのですが、いかがでしょう。 境内では、昨日迄の厄神さんの片付けで、まあ、いろいろしてはって、珍しく帽子をとってお参りは下のですが、本殿の写真は撮れませんでした。こちらの八幡さんの神さんは応神帝らしいですが、それぞれなのですかね。 で、こちらら、荒神さんのほうです。真ん中に見えているのは郵便受けではなくて、お賽銭箱ですね。お天気もなかなかで、境内のクスノキ、多分、荒神さん、も、青空にマッチしていてなかなかでした。この神社の南が宮本通で、昔、まあ、50年前ですが、友だちが住んでいたはずなのですが、全くわかりませんでした。ここから南に下ればハット神戸はすぐです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで3
2025.01.25
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安田淳一「侍タイムスリッパ―」キノシネマ神戸国際 昨年、2024年の夏、東京方面で話題になった映画だそうで、神戸でも秋の中ごろからキノシネマが上映していました。興味はあったのですが、何となく見損ねていました。 このチラシですね。で、年が明けて、3週間たった今日、1月22日、なんとまだやっているのに気づいて「ふーん、まだやってんのか?お客さんいてんのかな?」 という気分で見に行きました。見たのは安田淳一監督の「侍タイムスリッパ―」です。驚いたことに、客席が、結構、埋まっていて、久しぶりに前から二列目でスクリーンを見上げながら見終えました。拍手!でしたね(笑)。 何がよかったのかと聞かれると困るのですが、なんともいえないドンくささというか、手作り感というか、好きだから作っています感というかに満ち満ちているところでしょうか。 安田淳一という映画が好きで好きでたまらないというおニーさんが、タイムスリップから時代劇、ほのかな純愛から、笑うに笑えないベタなドン引きギャグ、とどのつまりは「役者として生きるか武士として死ぬか?」 の、真剣立ち回りまで、「好き!」 を全部入れて作った作品ですね。「あんたら、ホンマ、好きやねぇー!」 で、笑って拍手!でした。 ついでに、アッと思ったのが住職の奥さん役の紅萬子さんです。 写真の右端の女性です。この方、その昔、大阪の小劇場でお芝居やってはりましたよね。舞台上でお見かけした女優さんですが、芸名に呆れて覚えていました。 で、同じお名前で、どう見ても70代のおばあさん役だったのに笑ってしまいました。お元気で何より、拍手! でした。 ついでに、劇場に貼ってあったもう一枚のポスターです。ギャガの配給らしいですが、安田淳一監督自身が「未来映画社」という配給会社まで立ち上げて、ね、好きでないとできませんよね(笑)! 東京あたりで評判をとった結果の全国公開のようです。拍手! ああ、それから映画で助監督役だった、で、ヒロイン役でもあったんですが、沙倉ゆうのさんですが、実際の現場でも助監督だそうですし、主演の山口馬木也くんの実直な演技といい、拍手!でした。いや、ホント、楽しさに満ちた作品! でした。監督・脚本・撮影・編集 安田淳一照明 土居欣也 はのひろし音声 岩瀬航 江原三郎 松野泉床山 川田政史特効 前田智広 佃光時代衣装 古賀博隆 片山郁江美術協力 辻野大 田宮美咲 岡崎眞理殺陣 清家一斗助監督 高垣博也 沙倉ゆうの制作 清水正子キャスト山口馬木也(会津藩士・高坂新左衛門)冨家ノリマサ(時代劇スター・風見恭一郎・年取った山形彦九郎)沙倉ゆうの(助監督・山本優子)峰蘭太郎(殺陣師・関本)庄野﨑謙(長州藩士・若い山形彦九郎)紅萬子(住職の妻節子)福田善晴(西経寺住職)井上肇(撮影所所長井上)安藤彰則(斬られ役俳優安藤)田村ツトム(時代劇スター・錦京太郎)2024年・131分・G・日本配給 ギャガ・未来映画社2025・01・22・no012・キノシネマ神戸国際no21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.24
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岸善幸「サンセット・サンライズ」 109シネマズハット 2024年の終わりころから、女子大生さんとか、昔お出会いして昨秋再会した、今は子育て中とかの女性とかと、「映画を語る会」とかいう、ラインとかのサークルを始めました。要するに、映画の楽しさ、おもしろさについて語り合う場を作りたいという一心なのですが、できれば、素直な感想のいえる場になればいいなという目論見です。 で、その画面に、「サンセット、サンライズ」面白かったよ! という感想が書きこまれて、うれしくなって見に行きました。岸善幸監督の「サンセット・サンライズ」です。面白かった! 何といっても、笑えて懐かしい面白さの、一番は白川和子さんのお元気な姿を拝見したことでした。ボクらの世代にとって、彼女は団地のエッチなオバサンだったのですが、あのころから、40数年たった今では、三陸の海辺の村で一人で暮らしていて、とどのつまりには、パチンコ屋さんの椅子に座ったまま、見事な往生をとげるおばあさん役でした。拍手!でしたね(笑)。 この映画で、彼女は菅田将暉君が演じる釣りバカ青年、西尾晋作君に、上の写真のように、縁側とかで、いろいろ話を聴かせるオバーさんなのです。そこが、この映画のいいところだったとボクは思ったんです。西尾君は、東京から来た馬鹿ニーチャンなのですが、茂子さんに対してだけでなく、いろんな人の話に素直に耳を傾ける青年! なんです。 で、その次に面白かったのが中村雅俊さん、釣り人を載せた船の上で意味不明の東北弁をがなり立てる船頭さんが「悲しみにであうたび♫」の、あの彼! だと気付いて、椅子から落ちそうでした(笑)。 もっとも、彼は、顔立ちは都会っ子ですが、実は石巻だったかの出身で、東北弁が話せるわけで、この作品で、もっとも苛酷な震災体験をした漁師のオジーちゃん を演じるには、格好の俳優さんなのですよね。 映画が、東北の震災とコロナ騒ぎの中で生きている「田舎」の人たちを描いていて、さすが、原作が楡周平、脚色が宮藤官九郎だな! という印象で、しちゃかめっちゃか、明るいコメディーとして、まあ、ちょっと間があくシーンはありますが無事ゴールインしていて拍手!でした。 でもね、笑って感想をいってますけどね、この作品に登場する人たち、百香さんといい、義理のお父さんの章男さんといい、おそらく、茂子さんといい、それぞれの人が「あの日」、そして、それから10年の歳月、実体験のぼくなどには凄まじいとしかいいようのない人生を生きていらっしゃったんだということを「笑い」によって描ききった! 岸善幸という監督はエライ!拍手! と思いました。生き直すとか再生とか、あるいは復興とか、美しい謳い文句はいろいろあるのですが、井上真央さん演じる百香さんが、釣りバカの晋作君の胸に飛び込んだ瞬間、やっぱり老人は涙がとめられなかったんですよね(笑)。よかった、よかった!(笑) ボクは、お友達の感想がなかったら見なかった作品ですが、日本製の、コメディも、なかなかいいですね。拍手! 監督 岸善幸原作 楡周平脚本 宮藤官九郎撮影 今村圭佑編集 岡下慶仁音楽 網守将平主題歌 青葉市子 インスパイアソング GRe4N BOYZキャスト菅田将暉(西尾晋作)井上真央(関野百香)中村雅俊(関野章男)白川和子(村山茂子)ビートきよし(黒川重蔵)竹原ピストル(倉部健介ケン)山本浩司(山城進一郎)好井まさお(平畑耕作)三宅健(高森武タケ)持田仁美池脇千鶴小日向文世(大津誠一郎)2024年・139分・G・日本2025・01・21・no011・109シネマズハットno54追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.23
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山本陽子「入門 日本美術史」(ちくま新書) 市民図書館にシャーロット・マリンズという人の「若い読者のための美術史」(すばる舎)を返しに行って、新入荷の棚をのぞいていて見つけました。こんどは日本美術史です。山本陽子「入門 日本美術史」(ちくま新書)です。 山本陽子さんは、他にも日本美術史について入門書をお書きになっている研究者のようですが、お年を拝見して借りることにしました。1955年生まれ、ボクと、ほぼ、同い年です。何の意味もありませんけど(笑) ボクの中では日本美術史については辻惟雄の「日本美術の歴史」(東大出版)で、ベンキョウし終えた! つもりがありましたが、で、その本は、今も手元にありますが、内容は忘却の彼方に行くへ不明(笑) です(笑)。 というわけで、本書です。下に目次を貼りましたが、埴輪、土偶から狩野芳崖、岡倉天心まで、全部で15章、ボクにとって、これは?、ああ、そうか! と目から鱗で、中でも面白いかったのが飛鳥、白鳳から運慶・快慶までの仏像彫刻の解説、まあ、同じ時代なのですが、平安から室町への浄土信仰関連の建築から絵画のお話でした。 たとえば、第4章、「浄土信仰―死後のために頑張る?」で阿弥陀如来像の解説はこんな感じです。 鳳凰堂(宇治)の主、阿弥陀如来像である。末法の世の人々を救済してくれる仏だから、さて、どれほど頼もしいかと期待したのなら、ちょっと気が抜けてしまうかもしれない。やる気満々の仏像ではないからだ。目はちょっと垂れ目だし、肩の力も抜けて、下腹もちょっと垂れている。気のいい中間管理職のような「ゆるい」阿弥陀如来なのだ。一体、こんな仏像のどこがいいのか。 しかしその「ゆるさ」こそが平安貴族に求められていたものではないか。 話題になっているのはこの仏像ですね。宇治の平等院のご本尊さんのようです。 この仏像なら、「ねえ、極楽入れて」と頼まれれば、苦笑しながら「まあ、しようがありませんね」と受け入れてくれそうだ。そんな「ゆるさ」、言い換えれば懐の広さが、当時の貴族たちに好まれる秘訣だったのかもしれない。 この像を作った仏師は定朝、定朝の作る阿弥陀如来像は、当時の貴族たちに「仏の本様(ほんよう)」-これが本当の仏の姿だーと讃えられ、その目鼻立ちや体つきの一々の寸法まで記録されて後続の仏師たちにコピーされ、定朝様と呼ばれて、その後100年以上にわたって阿弥陀如来像のお手本とされることとなった。(P075~P077 いかがでしょう、引用をご覧になっておわかりだと思うのですが、読みやすいんですよね。この本も、所謂、入門書ということで「文体」、「語り口・口調」に気を遣っていらっしゃのがよくわかります。 で、この本の著者も女性なのです。シャーロット・マリンズのように、まあ、フェミニズムの鋭角な主張はありませんが、穏やかな男女の平等性の意識は底流していますね。 忘れていたり、知らなかったりしたことを、あれこれ楽しませていただいて、ちょっと夢中で読み終えました。まあ、また、すぐに忘れるのですが、何しろ真っ白になってしまうのが不安なわけで、映画でも、本でも、なにはともあれ、イン・プットが大事! が合言葉の生活は楽しいですね。 まあ、若い人がお読みになって、日本美術とかに興味をお持ちになるきっかけ本としては、なかなかよくできていますよ、いかがですか? 目次 はじめに──日本美術史の波/ 0 仏教伝来以前──何を拝んでいたか?見えない神々・土偶と埴輪仏像を見てびっくりする神の姿を形作らない宗教 1 飛鳥時代の仏像──どうして細い?アルカイックスマイル・飛鳥大仏・広隆寺弥勒菩薩半跏像・世界最古の木造建築 2 奈良時代──白鳳時代のかわいい仏像白鳳か天平か・東大寺大仏建立・鑑真 3 異色の仏教──密教とは何なのか?大日如来という新キャラクター・空海・両界曼荼羅 色っぽい仏像 4 浄土信仰──死後のために頑張る?末法思想・六道輪廻・浄土式庭園・阿弥陀如来像・来迎図・臨終掛け・地獄絵と六道絵 5 一二世紀の絵巻──なぜ大人が熱狂する? 絵巻マニアの後白河上皇・女絵・引目鉤鼻 6 慶派──奈良仏師なぜ成り上がった?運慶・快慶・重源・巨像 寄木造 7 肖像画──禁忌からブームへ伝源頼朝像 8 水墨画──新技術をいかに学ぶか周文・雪舟「天橋立図」・明兆 9 戦略としての絵画──ハッタリの天守閣に合う絵とは? 狩野派・阿弥派・長谷川等伯・洛中洛外図・唐獅子図・楓図・桜図・松林図 10 狩野派その後──徳川時代を生き抜くためには?狩野派の三面作戦・探幽・狩野派からはみ出した画家たち 11 琳派──出身も時代も場所もばらばらで?本阿弥光悦・俵屋宗達・尾形光琳・酒井抱一 12 浮世絵の始まり──「かけそば一杯分」になるまで浮世絵という言葉・寛永風俗画・寛文美人図菱川師宣・鳥居清信・清倍・鈴木春信・鳥居清長・喜多川歌麿・渓斎英泉・歌川国貞・東洲斎写楽 13 北斎と広重──風景のなにが面白い?江戸の旅行ブーム・葛飾北斎(冨嶽三十六景)・歌川広重(名所江戸百景)・歌川国芳 14 西洋画の導入──なぜ日本人はミレーと印象派が好き?南蛮画・洋風画・秋田蘭画高橋由一・黒田清輝・青木繁・萬鉄五郎・岸田劉生 15 日本画のゆくえ円山応挙・竹内栖鳳・上村松園・フェノロサと岡倉天心新たな日本画へ──狩野芳崖・横山大観 おわりに 現代美術──あなたにとっての美術 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.22
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安達もじり「港に灯がともる」シネリーブル神戸 2025年の1月20日現在、神戸で見ようと思ってもお客さんが多くて、なかなか見られない映画が3本あります。 1本目が、公開されて以来、元町映画館で満席が続いているらしい「どうすればよかったか?」ですね。で、2本目がシネリーブル神戸で今週1週間限定の「その街のの子ども劇場版」。で、3本目が、1月17日封切りで神戸中の映画館でやっている「港に灯がともる」です。 1本目は、神戸と直接関係ありませんが、東京で封切られて以来、ネット上でも大騒ぎで、話題のドキュメンタリィーですが、神戸では上映が元町映画館だけなので満席記録が続いているようです。 2本目、3本目は、阪神淡路大震災ネタの劇映画で、特に「この街の子ども」はテレビでも何度も放映されていて、どうして?やっぱり! なのですが、主演の二人の人気もあるのでしょうね、連日満席でポカーンです(笑)。 で、3本目の安達もじり監督の「港に灯がともる」は阪神大震災30周年記念映画として、神戸じゅうの映画館で上映されています。さて、どこで見ようか? でしたが、ここ数日は、まあ、土日ということもあって、それぞれの映画館で盛況でした。で、その映画を、やっとシネリーブル神戸で見ました。納得! でした(笑)。 主人公の金子あかりを演じる富田望生と、お父さんを演じている甲本雅裕の父娘喧嘩、喚き合い、サイコー!!! でしたね。オイオイ声を出して泣きそうでした。これが、神戸です!震災です!在日です!これが、父と娘です! まあ、何といっても富田望生さんの熱演に拍手!です。 さすが、あの「心の傷を癒すということ」の安克昌の弟がプロデューサーで、「聴くことの力」の鷲田清一の息子が監督ですね、精神科の医療の現場、たとえば、オープン・ダイアローグの光景を丁寧に撮っているシーンに胸打たれました。「私は私としてこの世に生まれた!」 あかりちゃんが、そんなふうに自分を見つけていく姿に、映画の中のこととはいえ、70歳の老人は、やっぱりホッとするのでした。 うつ、PTSD、アルコール依存症、在日、震災、コロナ、何でもかんで、全部、一つの映画に入れんとアカンとなったら、まあ、どうしても図式的になるんですね。でも、そこを、なんとか、踏ん張って、「人が人と生きていく場所!」 を描こうとして、描き切った安達もじり監督に拍手!でした。 いろんなことが図式的にわかったことにされて、ホントは、無視されたり、鼻で笑われたり、そういう世界の中で、ちょっとズレているんでしょうね、しんどくて仕方がない、そこに、ジワジワこだわる、辛抱強く描いていく、そういう映画でした。そういうのがイイ! という年寄りもいるんです。安心してください(笑)。拍手!監督・脚本 安達もじり脚本 川島天見撮影 関照男編集 安澤優弥音楽 世武裕子キャスト富田望生(金子灯)伊藤万理華(金子美悠:姉)麻生祐未(金子栄美子:母)甲本雅裕(金子一雄:父)青木柚(金子滉一:弟)山之内すず(綾部寿美花)中川わさ美(桃生紀枝)渡辺真起子(富川和泉)山中崇(青山勝智)2025年・119分・G・日本2025・01・20・no010・シネリーブル神戸no298追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.21
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ラリー・チャールズ「ディックス‼ ザ・ミュージカル」キノシネマ神戸国際 今日は土曜日です。神戸の映画館は震災関連の作品と、また大統領になるらしいトランプものに人が集まっていて、人の集まりが苦手なシマクマ君は、お出かけを、ちょっとためらっていたのですが「これなら…」 と思いついたのがこの作品です。 キノシネマでやっているラリー・チャールズ監督の「Dicks The Musical」です。だいたい15禁ですし、題名が、ちょっと怪しいですからね(笑)。ハハハハ、やっぱり、怪しかったです! その昔、ディック・ミネという、ジャズ・シンガーで、流行歌手、で、俳優としても名を馳せた男前がいらっしゃいましたが、あの、ディックって隠語なんですよね。まあ、ボクも含めて、そんな名前の方とは露しらず、紅白歌合戦とかで歌う彼に拍手したりしてを見ていたわけですが、今日の映画の題名は「ディックス」ですから、その複数形です。怪しい! ですよね。 で、そのまんまの「複数形」でした。15禁で、子どもには・・・のシーンは男性同士の濡れ場だったようで、それ以外に思い当たるシーンはありませんでしたね。ああ、お母さんの、あっこ、だから、ディックに相当する女性のあっことですね、それが飛び回るというのがありましたから、あれもかもですね。 で、まあ映画はコメディ仕立てのミュージカルで、ホームドラマなわけですが、はい、歌って踊ります、生まれてすぐ引き裂かれた双子のボクちゃんたちのパパとママがテーマです。まあ、ありきたりですが、飽きないように作られています。 でも、まあ、日本の徘徊老人の感想は「ふーん、そうなん。アメリカの人って、こういうのを笑うんや!」 でした。 なんというか、素直すぎて笑えないというのでしょうか、お母さんのあっこが飛び回るのも、お父さんの男狂い噺も、残念ながら、日本の老人には「ふーん!?」 でしたね。 ただ、「アメリカやな・・・」 という感じはしました。別に根拠はありませんが(笑)。 舞台の映画化のようですが、率直というか、露骨というか、見ないとわからないアメリカを感じる映画でした(笑)。だからまあ拍手!ですね。監督・製作 ラリー・チャールズ原作・脚本・主演・作詞 アーロン・ジャクソン ジョシュ・シャープ撮影 ミシェル・ロウラー美術 スティーブ・ウルフ衣装 バレリー・クラリック編集 アル・レビン音楽 マリウス・デ・フリース カール・セイント・ルーシー作曲 カール・セイント・ルーシー振付 リック・クーパーマン ジェフ・クーパーマンキャストアーロン・ジャクソン(トレヴァー:双子)ジョシュ・シャープ(クレイグ:双子)ミーガン・ムラリー(エヴリン:母)ネイサン・レイン(ハリス:父)ミーガン・ザ・スタリオン(グロリア:上司)ボーウェン・ヤン(神様)2023年・86分・R15+・アメリカ原題「Dicks The Musical」2025・01・18・no010・キノシネマ神戸国際no20追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.20
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酒井耕・濱口竜介「なみのこえ 気仙沼」元町映画館 2024年の年末から元町映画館で濱口竜介の特集をやっていることは知っていましたが、今一気分が乗らずに無視していました。ボクは、この監督の映画に漂う、なんというか、生真面目さのようなものが苦手なのですね。ものすごく頭のいい人だと思うのですが、頭のよさが映像から滲み出すのが、まあ、イヤミな感じが苦手なんですね。とくに「ドラマ」の場合にそう感じてしまうんです(笑)。 で、今日は、東北の震災のあとのドキュメンタリィーということでやって来ました。「なみのこえ 気仙沼」です。 2013年の作品で、酒井耕という人と共同監督というところを見ると、たぶん、東京芸大の学生仲間で作った映画じゃないのかと、勝手に想像しますが、これが悪くなかったですね。 対話、ダイアローグというのが、まあ、このドキュメンタリィーを作るうえでの工夫でしょうか。語り合う人たちと、間に映し出される気仙沼の風景のバランスが、絶妙で、とてもいいですね。 震災直後の気仙沼の風景ではあるのですが、妙な意味づけをしないところが、もう、センスとしか言いようがない印象ですが、こざかしさを一切排除している所に、実は、この監督の本質があるんじゃないか、と好感を持ちましたね。拍手! 本当は、「なみのおと」を見たかったのですが、この映画の上映後1時間空いて、夜の7時からということで、諦めました。 まあ、いつか、見ることもあるでしょうね。 濱口竜介君、1978年生まれだそうですから、もう、46歳なのですね。こういう特集が組まれるわけですから、かなり評価が高いんだろうと思いますが、神戸の映画館ではほとんど貸し切り状態でノンビリ見ることが出来ましたね。 東北の震災をテーマにした作品としてもよくできていると思いますが、お客さんはいませんでした。今日は1月15日で、神戸の震災30周年にはかなりの人が反応しているようですが、東北や能登の震災のことは忘れるようにできているんですかね。なんか、よくわからない風潮ですね。 監督 酒井耕 ・濱口竜介実景撮影 佐々木靖之 北川喜雄2013年・109分・日本2025・01・15・no008 酒井耕・濱口竜介・元町映画館no278追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.19
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「今日は、神戸の震災30周年だそうです!」 徘徊日記 2025年1月17日(金)東遊園地あたり いつものように、シネリーブル、あの頃は朝日会館と呼んでいたビルで映画を観て、時計を見ると、ちょうど午後の6時前だったので、「そうや、東遊園地に行ってみようか。」 と思いついて東に歩きました。 市役所の下まで来ると東遊園地のほうから、結構おおぜいの人が歩いていらっしゃって、その人混みに逆流するように東遊園地に入ると竹筒に蝋燭がたくさんともされていて、ジッと、祈っている人もいらっしゃって、「ああ、来てよかった・・・」 と思いました。 あの日から、30年たったんですね。 よその町の人たちが、どうお考えになるのか、あまり興味はありませんが神戸では、こうしてここで祈る人がいらしゃるということにホッとしました。 地震があったのは朝のことでしたが、今日、ここにやってきたのが、ちょうど。12時間遅れの同じ時刻だったことに、まあ、単なる偶然なんですが、座り込んでしまいそうになりました。 東遊園地から、西に歩いて元町の大丸の前まで来ると「火の鳥」が輝いていました。 知らん顔で通り過ぎるには、ちょっとよくできていたので写真に撮りました。今年はルミナリエというネオンのお祭りを来週からやるらしいですが、こういう地味な「その日」というのが、ぼくは好きですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.01.18
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井上剛「その街の子ども」こたつシネマ 二日ほど前にテレビで見ました。NHK大阪のテレビ版「その街の子ども」です。1月の後半、映画館で「劇場版」をやるらしいですが、どうしようかなという作品です。 チッチキ夫人がこたつを占領して「きょうは、これ、見るねん。」「ボク、森山未來のフテこい感じ、あんまりスキちゃうねん。」「私は、それが好きやねん。」 で、結局、ウロウロしながら見ました。 美夏ちゃんが、お友達のオジサンのアパートに寄って、出てくるまで勇治君がウロウロしていて、出てきた美夏ちゃんが泣きだして、アパートのベランダからオジサンが手を振っているシーンで、泣きました。 今日は1月16日で、15年前の今日、美夏ちゃんと勇治君が新神戸駅で出会って、まあ、そこからは「なにユウてんねん?」 という会話が延々とあって、日が変わって、1月17日になって、新幹線で着いたときは新神戸から三宮がどれ位かわからんかった二人が、御影の山手から三宮の東遊園地の公園まで歩きます。 オジサンの家に気づいたのは午前3時ころです。オジサンは、もう、起きてはって、美夏ちゃんを家に入れてくれます。 で、さっきのシーンでした。なんか、ようわからないのですが、ものすごくリアルやなあ・・・ と思いました。ボクの中で、ワラワラ噴き出して来るものがあって、オジサンの家から出てきて、泣きじゃくる美夏ちゃんにも、ベランダから手を振ってくれるオジサンにも、うん、うん、頷くものがあったんです。 オソル、オソル、ドアの前まで行って、思いっきってピンポン押して、オジサンがドアを開けてくれる。だって、あの、美夏ちゃんが来たんやから。 で、二人が出会って、何を話したとか、一切映さない、それが、すごく、納得がいくんです。そんなん、映さんでいいんです。 テレビの中で手を振っているオジサンには15年の時間が流れたんです。テレビを、今日、見ているボクには30年の時間が流れたんです。悲しいことも、嬉しいことも昔のことになるんですね。で、涙がとまらないようなんです。 今日、30年目の1月17日がやって来ます。ボクは朝の5時に三宮に行ったりはようしませんが、やっぱり、映画館で、もう一度見ようかなと思いました。演出・監督 井上剛脚本 渡辺あやキャスト森山未來(中田勇治)佐藤江梨子(大村美夏)2025・01・14・no007・こたつシネマno19追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.17
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「脇浜神社の狛犬」 徘徊日記 神戸の狛犬 その2 ハット神戸あたり 久しぶりに109シネマズハットにやってきて立ち寄ったのがこの神社です。神戸の狛犬第2弾は脇浜神社です。 こじんまりしたいい風情の神社です。神戸製鋼の本社ビルのすぐ北側にあって、神社の石柱とか、あちらこちらに神戸製鋼の名前が彫り込まれていて、いかにも神戸の神社ですが、シマクマ君の興味は狛犬さんです。 こちらが「阿」くんの正面写真です。笑ってはります。 で、横から見るとこんな感じです。 次の写真が「吽」くんの正面写真です。結構イカツイですね。なんや、モンクあるか! という顔ですね(笑)。 横から見るとこうなります。笑えますね(笑)。 神社を遠めに写すとこうです。知っている人は、知っているのですが、この神社の売りは鳥居の向うのハート形のクスノキです。 アップするとこうなります。ホントにハート形でしょ(笑)。神社の方によると自然にこうなったということらしいですですが、信じる人はいるのでしょうか> でも、まあ、これがあるから初詣は、あっこにしよう! という人もいるようです。実は、この近所に住んでる愉快な仲間のトラキチ君一家は、この神社に初詣したそうです(笑)。 神戸製鋼御用達神社のトレードマークがハートというのも、ちょっと笑えますね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.01.16
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福永壮志「AINU PURI アイヌプリ」元町映画館 成人の日がらみの連休ですが、思い切ってやって来ました。元町映画館です。映画館の前がちょっとした人だかりで「えっ?なにかあったの?」 と、ビビったのですが、一つ前の上映作品「どうすればよかったのか?」の舞台挨拶があったようで、見終えた満員のお客さんたちが、ちょうど退場される人混みのようで、ちょっとホッとしました。 その映画は人が多そうなのでパスして、今日は福永壮志監督の「AINU PURIアイヌプリ」です。 以前、「山女」という作品を見て、ボロカスにいったことがある監督でしたが、思い出したのは見終えた後でした。で、今日の「アイヌプリ」には納得でした。 ボロカス云いながら、すっかり忘れてしまうところが年齢ですが、引きずられなくて、気にならないのは得ですね。 「アイヌプリ」、まあ、題名がよくわからなかったのですが、見ていてわかった気になれました、多分「アイヌのように」 ということでしょうね。 おそらく30代の後半らしい、重樹さんという、まあ、見た目はいかついお父さんがいて、鮭を取ったり、鹿を撃ったりする生活において、アイヌのようであることを生きています。 それ以外にも、踊りや歌やのシーンに人々がアイヌのようである様子が映し出されています。おばあちゃんも、お母さんも、オジサンたちも、子どもたちも、アイヌのようであろうとしていることが何気なくて、どのシーンも、いいなあ! と思いながら見ました。 で、一番、印象に残ったのは、お父さんが小学生の息子を鮭取や鹿撃ちに同行するシーンでした。息子は、まだ、小学生ということもあって、上手にできるわけではありません。鹿を捌くシーンでは逃げ出してしまいます。 で、カメラが「お父さんのようになりたい?」 と聞くと、ためらい、ためらい首を振るのでした。 最後のシーンは、その少年と父親が水辺にテントを張り、水切りをしたり、焚火をしたりしながら、北の島を眺めるんです。北方領土のようです。「カムイには国境なんて関係ないよ・・・」 お父さんがつぶやく隣に少年は黙って座っているのでした。 おそらく、お父さんが、大人になるにしたがって気づいたに違いない「アイヌのように」という生き方の深い、深い、大切さに、少年もきっと気づくのでしょうね。拍手!でした。 オバーちゃん、お父さん、そしてぼく、失われていくアイヌの記憶を身体を通して伝えようとする、 一番あたりまえの世界にカメラを向けた福永壮志という監督の、世界のとらえ方について、見直しました。拍手!です。 監督 福永壮志プロデューサー エリック・ニアリ撮影 エリック・シライ編集 出口景子 川上拓也音楽 OKI2024年・82分・G・日本2025・01・13・no006・元町映画館no277追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.15
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「光る海、流れる雲。赤い山茶花。」 徘徊日記 2025年1月9日(木) 須磨一の谷あたり 2025年になりました。今年初めてやってきた須磨一の谷の丘の上です。 雲は、刻々と姿をかえながら東に流れていきます。お日さんは眩しいのですが、もちろん風は冷たいですね。 階段の下には赤い山茶花が咲いていました。 赤い花がうれしい季節ですね。山茶花の垣根に人を尋ねけり 正岡子規 また逢へた山茶花も咲いてゐる 種田山頭火 階段を上がってくると、上に杖を突いたご老人がいらっしゃいました。「寒いですね。」「須磨の駅あたりからここまで歩いてきました。」「えー、それはお元気ですね。ここは、いい景色ですね。」「毎日これを見にくるのが日課です。歩けなくなったら、人間、あっという間です。島倉千代子も、寝たきりになった途端、あっという間でした。」「はあ、ボクは原付でないとここは無理です。」「お幾つ?」「はい、昨年、70歳にたどりつきました。」「いやー、それは、お若い。私は89です。また会いましょう!」 杖こそ突いていらっしゃいましたが、さっそうと去ってゆかれました。また、お会いできるかどうか、まあ、一期一会ですが、爽やかでしたね。 で、島倉千代子さんですが、亡くなって、もう、10年たつんですね。寝たきりになったら終わり! 心に刻みました(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです.
2025.01.14
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相米慎二「お引っ越し」シネリーブル神戸 あのぉー「夏の庭」を、お正月早々見たんです。で、「台風クラブ」とかの相米慎二さんのとっ散らかり具合に、ちょっと引き気味だったんですけど「これは、やっぱり!?」 まあ、そんなふうに思って、これも見ようでやって来ました。 相米慎二監督の「お引っ越し」です。 ひこ田中の原作の「お引越し」(福武書店・講談社文庫)が出たのが1990年くらいだったと思いますが、その頃小学生だった愉快仲間たちが、さて、読んだのかどうか、そのあたりは定かではありませんが、親の方がすっかりほれ込んだ童話だったんです。もっとも、親のほうも内容はすっかり忘れて「なにはともあれ面白かった。」という記憶だけはくっきりと残っているだけなんですけど。 本を買ってきた同居人のチッチキ夫人は「映画もおもしろい!」と断言していらっしゃって、ハイハイ、そうですかという気分で、今回、ついに見ました。 はい、納得ですね。「夏の庭」に比べて、やっぱりとっ散らかっている印象は否めませんが、これは傑作ですね。 小学校6年生のレンコちゃんのありさまがサイコー! です。何よりも、彼女を両親の不和に悩む哀しい少女、あるいは心を病む可哀想な小学生として描くことを断固拒否! しているかの映像がサイコー!でした。 もう、拍手!拍手!ですね。わけのわからない三角の食卓でお食事ををなさっている、まあ、その食卓の形が、なんともいえず笑えるというか、もの悲しいというかなのですが、お魚が上手に食べられないお父さんの中井貴一さんも、今となっては合同なんとかしか思い浮かばない、お母さんの桜田淳子さんも、もう、影薄いです。それでいいのだ!ですね(笑)。 まあ、その時代を知っている人間には桜田淳子さんと中井貴一さんのご夫婦がもめていらっしゃるこのシーンが、やっぱり感動的というか、やっぱり!!! なのですが、だって、桜田淳子さん、これでスクリーンからいなくなっちゃたんですからね。あれから40年、いろんなことがありましたね。 で、映画では、ホトホト疲れました! という、40歳に差さしかかる女性を、まあ、リアル!としかいいようないモノゴシ、表情、言葉づかいで演じていらっしゃる桜田淳子さんに拍手!でしたね。わけのわからないちょび髭の中井貴一君を圧倒していらっしゃいました。 まあ、それにしても、その後どうなったかとか、全く存じ上げませんが田畑智子さんには、もう一度拍手!です。便器に座って「なんで、生んでん!」 見終えた後も、70歳のジジイの頭の中に、ワーンワーンワーンと響いていましたよ。 で、最後は「オメデトウゴザイマス!」の連呼ですからね。いやー、やっぱり相米慎二ってスゴイ監督なんですね(笑)。 納得です(笑)。監督 相米慎二原作 ひこ・田中脚本 奥寺佐渡子 小此木聡撮影監督 栗田豊通音楽 三枝成彰キャスト中井貴一桜田淳子田畑智子須藤真里子田中太郎青木秋美笑福亭鶴瓶1993年・124分・日本2025・01・07・no004・シネリーブル神戸no296追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.13
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笹原宏之「美しい日本の一文字」(自由国民社) ここ数年、「美しい日本」とかいう言い回しで日本文化について取り上げる風潮が広がっていて、ウンザリしています。とりわけ「日本」を、他の国や文化に比べて「美しい」ということの大げさな言い回しに隠れているナショナリズム的言い回しが、まあ、ボクには気持ちが悪いわけです。 アフリカであろうが、中国であろうが、美しいものは美しいわけで、「美しい日本」というと、日本がクローズアップされることが、当然、その言い回しに浸る人たちには、それが、意識的かどうかはともかく、意識されていると感じるのがウザいんですよね。なんか、こだわっていますが今日の案内は「美しい日本の一文字」(自由国民社)です。 というわけで、こんな題名の本は、普段はよけて通ることにしているんですが、手に取ってハマりました。 なぜ、「美しい」をつけなければならないのか、そこのところに、著者や出版社に対してひっかかるものはありますが、「日本」の一文字のほうには文句ありません。だって、国字の話ですから。 漢字といえば、文字通り漢の文字なわけですが、この本が話題にしているのは「国字」です。だから、日本にだけある文字なんですね。 「麿」、「鰯」、「辻」、「笹」、「峠」、書きだせばきりがありませんが、高校の国語の授業とかで、まあ、おおざっぱですが、音読みのない文字として紹介されるのが「国字」ですが、その「国字」についての絵本風エッセイ集です。 図書館の新刊の棚でパラパラやっていて「え、あ、そうか?!」 と妙に納得した字があって、思わず読み始めたのですが、その文字が「畑」でした。 中国では、稲も麦も野菜も耕地は「田(デン)と表現されました。もし詳しく区別したいときには「水田」や「陸田」「白田」「火田」と熟語にするしかなかったのです。 で、日本では稲を作る「田」に対して、ほかの作物を作る「はたけ」という、言い回しが広がりますが、乾いた「水田」をあらわす「白田」を一文字化した「畠」という文字が奈良時代に生まれたそうです。こっちが先なのですね。 ところが、平安時代に「焼き畑農業」が広まり、「火」+「田」=「畑」という、純粋国字の誕生となったのだそうです。 まあ、それだけの話ですが、妙に納得しましたね。そういえば、「畑」には音読がありません。「はた」とい音自体は「火田」の音読の訛りのような気がしますが、そのあたりもおもしろいですね。 まあこれ以外にも「炬燵こたつ」の話とか、「躾しつけ」の話とか、おもしろいですよ。そういえば「炬燵」なんて中国にも朝鮮にもなさそうですもんね。 まあ、そういうわけで、ちょっともの知りを目指すには、すぐ読めて、なかなかです。いかがですか? 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.12
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デビッド・エアー「ビーキーパー」 109シネマズハット 2025年、初めての109シネマズハットでした。お正月やし、ちょっと、パーッと爽快なんがええな。 と思いついてやって来ました。おおー、ソウカイ! でした(笑)。ダジャレではありません(笑)。 見たのはデビッド・エアー監督、ジェイソン・ステイサム主演の「ビーキーパー The Beekeeper」でした。 主演のジェイソン・ステイサムという人の名前と顔に見覚えがありましたが、定かな記憶ではありません。しかし、好みのタイプであることは間違いないわけで、出だしから、フムフム、よしよしでした。 チラシに「キレる!」 とありますが、キレた後の爽快さは文句なしですね。まっすぐ「悪」に向かって進む、まあ、誰にもできないことを淡々とやるんです。 で、また、そういうことが出来そうな顔をしているんですよねジェイソン・ステイサムは(笑)。 ややこしい邪魔も入るんですが、意に介さない。で、文字通り、正義は勝つ! のでした(笑)。 ああ、それから、FBIの女性捜査官、ヴェローナ・パーカー(エミー・レイバー=ランプマン)の、ちょっとした躊躇いの「間」もよかったですね。そういう所に、エンタメとはいえ、演出の丁寧さというか、上手につくってるよねという感じもして拍手!でした。 イヤァー、すっきり!です。 今年、一年、、いや、これからは、こういうのばっかり見ていたい(笑)と思いました。拍手!ですね(笑)。 帰り道は、ハット神戸から摩耶埠頭まわりのバスです。窓からこんな夕焼けを見ながら、やっぱり、今の世の中に、なんか腹立ってるんかなあ、選挙といい、詐欺といい、わけわからんこと多いし、そうや、今からは、ボクも「ビーキーパー」を目指して生きていこう! と、( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、まあ、無理ですけど、誓う帰り道でした(笑)。監督 デビッド・エアー脚本 カート・ウィマー撮影 ガブリエル・ベリスタイン美術 ベン・マンロー衣装 ケリ・ジョーンズ編集 ジェフリー・オブライエン音楽 デビッド・サーディ ジェレッド・マイケル・フライキャストジェイソン・ステイサム(アダム・クレイ:養蜂家)エミー・レイバー=ランプマン(ヴェローナ・パーカー:FBI)ボビー・ナデリ(マット・ワイリー:FBI)フィリシア・ラシャド(エロイーズ・パーカー:ヴェロニカの母)ジョシュ・ハッチャーソン(デレク・ダンフォース:詐欺師)ジェレミー・アイアンズ(ウォレス・ウエストワイルド:元CIA長官)ジェマ・レッドグレーブ(ジェシカ・ダンフォース:詐欺師の母・アメリカ大統領)ミニー・ドライバー(ジャネット・ハーワード:現CIA長官)テイラー・ジェームズ(ラザラス:傭兵)デビッド・ウィッツ(ガーネット:詐欺師の子分)メーガン・レイ(アニセット:現ビー・キーパー)2024年・105分・PG12・アメリカ・イギリス合作原題「The Beekeeper」2025・01・10・no005・109シネマズハットno53追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.11
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「三宮神社の狛犬さん。」 徘徊日記 神戸の狛犬 その1 2025年1月7日(火) 三宮神社あたり 2024年の秋に「日本狛犬大全」という写真集に巡り合って思いついたのが「神戸の狛犬めぐり」 です(笑)。 神戸市内にどれくらいのお宮さんがあるのか、まあ、全く知らないのですが、2025年は「神戸の狛犬めぐり」をやってみようかという思い付きです。 で、最初にやってきたのが三宮神社です。いつも通りかかる大丸デパートとか、シネ・リーブルという映画館とか、のすぐそこにあります。 面白いのは、狛犬さんが対ではなくて、一頭(?)、一匹(?)だけで鎮座していらっしゃって、それも、神社の正面ではなくて、北側の裏口(?)なのですね。曰く因縁は存じ上げませんが、ちょっとおもしろいですね(笑)。 で、正面の手水場の前にあるのがこの大筒です。この神社は「神戸事件」の史跡として知られていて、大筒なわけです。 神戸事件に関心のある方は大岡昇平が「堺港攘夷始末」(中公文庫)で触れていたと思います(記憶があやふやですが)。そちらをどうぞ。備前の殿様の行列を横切ったフランスの兵隊に鉄砲をぶっ放して大騒ぎになった、幕末の話です。 ボクは今からシネリーブルで相米慎二の「お引っ越し」です。初詣のはずなのに、きちんとお参りもせずに写真だけ撮っているなんて罰が当たりそうですが、とりあえず「神戸の狛犬めぐり」の最初の一歩でした。 みなさま、今年もよろしくね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.01.10
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スティーブ・マックイーン「占領都市」シネリーブル神戸 2025年、新春第2弾は時間に挑戦!(笑) でした(笑)。 いきなり、251分、4時間11分の長編ドキュメンタリィーです。 俳優のスティーブ・マックイーンは知っていましたが、映画監督のスティーブ・マックイーンなんて、全然知りませんでした。1969年生まれで、イギリスの黒人映画監督だそうです。 ドキュメンタリィーだということにも気づいていませんでした。ちらっと上映時間を見て、「長いなぁー、でも、まあ、話のネタにはなるやろ(笑)」 まあ、そういう気分でやって来たシネリーブル神戸です。見たのはスティーブ・マックイーン監督の「占領都市」、英語の題が「Occupied City」でした。うーん、なるほど、そうか! 見終えて、まあ、そんなふうに唸るしかない納得が湧き上がってきました。カメラは「現代」のアムステルダムの街角、運河、王宮、アパート、住居の裏庭、廊下、そして、その場所を通りかかる人々の会話や仕草、子どもたちの歓声や泣き声を映し続けています。チラシに写っている庭も、橇遊びを子どもたちも、今、この時のアムステルダム でした。 人々の会話の声やシュプレヒコールの叫びに、重ね合わせるように、その場所の80年前の出来事を語るナレーションが聞こえてきます。4時間、ただ、それだけの映画です。見ていて辛いのは、ボクがアムステルダムなんて、かけらも知らないことなのですが、映画は意に介しませんね(笑)。 たとえば、美術館に展示されているレンブラントの有名な絵が映し出され、1940年5月占領者として登場したナチスの接収を逃れて運び出され、再び、今、美術館に展示されるに至る経緯が語られます。 たとえば、アパートの一室から通りが映し出され、その部屋の天井裏に隠れていた人がいたこと、誰かが密告したこと、密告された人、密告した人のその後が語られます。 目の前に映る「現在」を、もっとも印象付けるのがコロナのパンデミックです。市長の発言、発言に対する市民の反応、医療行為の現場、アムステルダムがコロナに占領されている街であることを彷彿とさせながら、ナチスの占領の実態が淡々と語られていきます。 ありきたりな言い方ですが、「場所の歴史」の映画でした。ビアンカ・スティグターという作家の「占領都市の地図帳」という作品の映画化だそうですが、インスタレーションというのでしょうか、不思議な迫力で訴えかけてくる作品でした。拍手!「場所」とその「歴史」、あるいは、その場所に刻まれている「記憶」、そして何よりも「語り」について考え始めさせる、まあ、そこのところに「うーん!!」 だったのですが、70歳のジジーにとっては、実に刺激的でした(笑)。なんか、たくさん宿題もらった気分ですね。拍手!監督・製作・編集 スティーブ・マックイーン製作 フロア・オンラスト アンナ・スミス・テンサー原作・脚本・製作 ビアンカ・スティグター撮影 レナート・ヒレヘ編集 ザンダー・ネイストン 音楽監修 ローラ・ベルナレーション メラニー・ハイアムズ2023年・251分・G・イギリス・オランダ・アメリカ合作原題「Occupied City」2025・01・05・no002・シネリーブル神戸no295追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.09
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豊永浩平「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」(講談社) 新しい作家の登場!です。2024年に出合った日本の小説で、一番うなった作品です。荒削りの印象は否めませんが才能にあふれていると思いました。第67回群像新人文学賞受賞!新たな戦争の時代に現れた圧倒的才能!21歳の現役大学生、衝撃のデビュー作 と腰巻にあります。 名前は豊永浩平、今、現在、琉球大学の学生のようです。受賞のことばで、彼はこういっています。「読んだものを茫然とさせ、彼のいままでを氷づけにし、そのうえで、読むことをとおしてあたらしい魂を宿らせる、そんな小説でありたい……テクストでの魂込め(まぶいぐみ)とでも呼ぶべきところが、ぼくの目標です。」豊永浩平(受賞のことば) 作品は「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(講談社)です。「ちちぬはいや、うんまぬはい」と読むそうです。 読み終えて、この言葉の響きが木霊すのを反芻しながら、ちょっと感無量です。 今日(ちゅー)や海んかい行んじてえはならんどお、とオバアからいわれていました。お盆なので道巡礼(ミチジュネー)があるから町はざわざわしていて、でもぼくは町よりずっとざわざわしていて、それはどうしてかっていうと、幼なじみのかなこちゃんにこく白しようとおもっていたからです。(P003) 語り手は小学生の少年です。この、最初のページを少し読み進むと、 それと、いちばんいやななのはぼくの名前です。ぼくのオジーはアメリカ人だから、ぼくのからだは四分の一がアメリカ人で、つまりくおーたーというやつなのです。もともと、なんだかカッコいいからきらいじゃありませんでした。けど、新学期にくおーたーのことがたまたま授業にでて、ついうっかりぼくはぼくの名前についてクラス中にはなしてしまったのです。もうおぼえてないけど、ぼくはアメリカのシカゴ?って町で生まれました。だからぼくにはミドルネームがあって、それをはなしたら、くらすからすぐみんなの笑い声がきこえてきました。島尻・ケンドリック・浩輔。それがボクの名前です。(P004) というわけです。 で、少年の語りによる初恋の話として始まったのですが、語り手は、どんどん変わります。ポリフォニーといういい方がありますが、小説中には、片手を越える語り手の声が響きます。 沖縄戦の特攻隊員、アメリカ兵、日本兵、70年代の娼婦、ミュージシャン、沖縄解放闘争の青年、えーっと、それから・・・なのですが、興味を感じた人はお読みください。 ある一人の「声」の響きが、次の響きを呼び寄せるように連鎖し、木霊し続けます。で、おそらく、そのことばの木霊の中に、豊永浩平という若い才能の輝きがある! と嘆息しました。 最後の語り手はかなこちゃんでした。 透にーにーがいじめるからにげようとして、じたばたしてたら、家のおくから島尻オバアとこうちゃんがいっしょにやって来ました。くり貸らちとぅらさ、オバアの好きな絵本。そう言って手わたされたのは「クレーの天使」という白い本でした。谷川しゅん太郎?ってひとが書いた本で、ぺらぺらめくってみたらかーなーでも描けそうなかんたんな天使の絵がいっぱいあります。ページ少ないし、ぜんぶひらがなだからすぐ読めそう。ありがとー!(P146 ) 道巡礼最後だから、こうちゃんと見てくる!。(P147) 野良ねこがよくとおって、ひとの家のへいのうらをぬけて、かーなーたちしか知らない秘密の道を全速力で走って、音のほうへとすすんでいったら、それが正解だっていうみたいにひとの数がふえてきました。 中略 いたよ、ほらこうちゃん、行こう!ひとだかりに指さしてかーなーがもうそこまできた道巡礼に連れていこうとしたら、こうちゃんはきゅうに止まって、かーなーと手をつないだままなんか深呼吸して、月ぬ走いや、馬ぬ走い、とぼそっとつぶやきました。え、なにきゅうに?(P148) で、まあ、この後こうちゃんがなにを言ったのかということですが、そのあたりは本編をお読みいただく他ありませんね。 時間がとまって、音もとまったみたいで、でもエイサーのドン!ドン!ドン!というひびきだけはあって、ちゃんと体はふるえています。(P148) かなこちゃんは、もう少し語りますが、いかがでしょう? ジジ臭い言い草ですが、若い作家が、技を凝らして沖縄を、イヤ、現代という時代と社会を描いている印象です。 この国の人たちが歴史を振り返ることをやめようとしているかの2024年の、今、沖縄で生まれ育った20歳の青年が、暮らしの中で聞こえてきた、家族や、友だちや、島の老人の「声」、手に取った書物や小説から響いてくる「声」の中に80年の沖縄の戦後史 を読み取り、聞き取りしながら、その向こうに響いている、何百年もこの島で生きてきた人々の「声」 に耳を澄まそうとしている姿が思い浮かびました。まだ、まだ、捨てたものじゃないようです(笑)。久々に読み応えを感じた作品でしたよ(笑)。次に、彼が、どんな作品を書くのか興味津々というところですね。 ともあれ、月ぬ走いや、馬ぬ走いがどういう意味なのか、とりあえず、一度、お読みになって確かめてみませんか?(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.08
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大島新「シアトリカル」元町映画館 2025年の元町映画館、最初の映画は劇団唐組のドキュメンタリー、チラシにはこんなふうに謳われていました。ファンとしては見ないわけにはいきませんね(笑)追悼 唐十郎・17年ぶりの再上映 見たのは大島新監督の「シアトリカル」でした。 元気に笑い、飲み、罵倒する唐十郎の姿と発言から目を離すことが出来ない100分でした。 で、ラストシーン、さすが、唐十郎! というべき決めゼリフに、思わず涙があふれてしまう不覚に、我ながらあわてました(笑)。「唐十郎見て、泣いてどうすんねん!」 まあ、一人でツッコミながら、「もう、こんな人は現われないだろうなあ・・・」と、いやホント、もう一度、シミジミしてしまいました。なにはともあれ拍手!でしたね。 まあ、それをいちゃアオシマイなのですが、この人を失って、残された劇団員の方たちは大変でしょうね、これからどうするんだろう、というのが、まず、率直な感想でした。 ボクは天井桟敷は見たことがありませんが、状況劇場、黒テント、早稲小、大阪の維新派、関西で東京の演劇を見るのは難しかったのですが、それでも、関西公演で何度か見て、思い出すとワクワクするあの頃の芝居を「唐組」という劇団で持続させてきた唐十郎のエネルギーはやっぱりすごかったと思います。この映画では、その彼の、舞台で何度か見たことのある面白さとはまた違った、あるいは、もっとすごい「すごさ!」 を垣間見た気がしました。拍手! 唐組、唐十郎ファンに限らず、70年代の小劇場に関心をお持ちの若い方(そんな人いるのかなあ?)必見!ですよ(笑)。監督・脚本・構成・製作 大島新製作 柏井信二 撮影 桜田仁編集 斎藤淳一音響効果 金田智子キャスト唐十郎 鳥山昌克 久保井研 辻孝彦 稲荷卓央 藤井由紀赤松由美 丸山厚人 多田亜由美 髙木宏 岡田悟一 気田陸野村千絵 大美穂 土屋真衣 大鶴美和子 大鶴美仁音 大鶴佐助2007年・102分・日本2025・01・06・no003・元町映画館no276追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.07
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「団地の落葉、欅かな?」 徘徊日記 2025年1月6日(月)団地あたり 2025年、新年になってはじめて雨が降りました。「ああ、雨やなあ」「結構降ってるわよ。」「うん、でも、出かけるわ。」「どこ行くの?」「元町。唐十郎。」「バスにしなさいね。」「はーい。」 というわけで、元町映画館まで映画館徘徊でした。見たのはこれ。 劇団唐組を撮った20年ほど前のドキュメンタリィー「シアトリカル」です。 昨年、2024年に亡くなった唐十郎さん追悼特集だそうですが、お元気だった姿に感動しまくって! いつもとは違うバスに乗って、帰ってきた団地に欅の落葉が降り積もっていました。 掃除をしてくださる方が熱心で、他の場所の落葉はきれいに掃除されているのですが、ここの広場というか、欅の林は、落葉がそのまま残っていて嬉しい。大木の二本並んで落葉かな 子規ただ歩く落葉ちりしいてゐるみち 種田山頭火わが歩む落葉の音のあるばかり 杉田久女 踏み石づたいに歩くことも出来ますが、落葉を踏むのは心地がいいですね。 落葉を集めて、芋を焼くなんて、まあ、今時は叱られそうですが、いいと思いませんか? やってみたいですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.01.07
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ゴイティソーロ「パレスチナ日記」(山道佳子訳 みすず書房) 2024年の6月に「エドワード・サイードOUT OF PLACE」という佐藤真監督の映画を見て以来、パレスチナをめぐって、映画を見たり、本を読んだりという意図の中で、細々と続いてきたボク自身の関心が、再びというか、三度というか燻りはじめていて、とりあえず本棚にあった本の再読が始まっています。わからなさ パレスチナとつぶやくボクの頭に浮かんでくるのは「わからなさ」ですね。細々と関心は持ち続けているのですけれど、少しも燃え上がらない理由は、読んでも読んでもわかったという印象が湧いてこないことです。 だいたい、「シオニズムって何だったんだ?」「パレスチナってどこなんだ?」 という疑問が、ボクの中では、いまだにトグロをまいていてとけないのですからねえ(笑)。 その上「インティファーダはどうなったの?」「オスロ合意って、なんやったんや?」 が畳みかけてきます。1950年代から、2000年代にかけて半世紀に渡る話です。 で、久しぶりに読み終えた本です。フアン・ゴイティソーロ「パレスチナ日記」(山道佳子訳 みすず書房)です。実は、二度目です。 横文字で書くとJuan Goytisolo Gayです。1931年1月6日、バルセロナの生まれで 、カタロニアで育ち、2017年6月4日にモロッコのマラケシュで亡くなったスペインの作家です。 独裁者フランコが登場しスペインをファシズム化した時代に大きくなった人で、1956年、故郷を捨てパリに移って以来、いわば「旅する人」 だったようですが、一方で、あくまでもカスティーリャ語で書きつづけた人だったそうです。 ボクは、二十年以上前に本書と出会いましたが、それは、「第一次インティファーダ1988年~」とか「オスロ合意1993年」とかいう、パレスチナをめぐるボクのわからなさ を、まあ、自分なりに解こうという意図から探し出した本との出会いでした。 本書は「パレスチナ日記(1988年6月)」と「戦争でも平和でもなく(1995年2月)」という二つのパレスチナ訪問記とでも呼ぶべき文章で構成されています。 それぞれの時期に、フアン・ゴイティソーロという、故郷のスペインを捨て、モロッコに暮らしている作家がパレスチナを訪ねた日記です。 今回、読みなおして、ボクの中の霧が晴れたわけではありません。しかし、こんな文章に出合って、今、イスラエルの空爆下で暮らしているパレスチナの人たちが、この30年の間、暴力によって追いやられている「場所」を想像することはできました。 私のモロッコ訛りのアラビア語も、モロッコに移住したユダヤ人と間違われるために、見知らぬパレスチナ人と話す際に使うことができない。不信感を抱かせないためである。しかし同じ訛りも、友人たちと話す際には、連帯の道具となり、一気に互いの距離を縮める役割を果たしてくれるのである。この「記号論」を学んでいくと、最後には訳が分からなくなる。境界線上に生きる者の身分は何をもって決まるのか。人間か、それとも記号か。 本来、「友情」の絆を手探りし、「連帯」の意志を伝えるための「ことば」が、その訛りによって、口にしたとたん、その場に「敵か、味方か」という疑いの空気を醸し出していく 場面を思い浮かんできます。何も、パレスチナのアラビア語に限るわけではありません。 この一節を読みながら、日本にだって、そういう時代、そういう社会があった、今でもそうだと思いますが、そのことをボクは思い浮かべます。 たとえば、2021年に亡くなった中山ラビが「私ってこんな」というアルバムで歌っている「十三円五十銭」の響きと共に想起するのです。関東大震災の東京であれ、パレスチナであれ、そこで生きている人たちには「ことば」の響きこそが疑いを生み出す歴史的現実があることを、ここで、ゴンティソーロは「記号論」といっていますが、この記号論の向うには「国家」の本質が浮かびあがってくるはずであることを、たとえば批評家の柄谷行人が一連の近代文学批評で論じていたような気もします。 ともあれ、1980年代から2000年にかけてのルポルタージュが伝える「場所」の記憶が、2024年の今読んで、まったく古びないままだという悲惨について「やっぱり、わからない。もう、知らない。」 といって目を背けようとする老人の肩を、もう一度叩いてくれる本でした。関心を失ってはダメですね(笑)。 最後に、まあ、とりあえず、作家の紹介です。 フアン・ゴイティソーロJuan Goytisolo Gay 1931年、バルセローナに生まれる。フランコ体制下での創作活動の限界から1956年にパリに移住。パリとマラケシュを往来しながら文筆活動を続けていたが2017年78歳で亡くなった。小説には『フィエスタス』(1956)、『アイデンティティーの証明』(1966)、『戦いの後の光景』(1982)、『マルクス家の系譜』(1993)、『包囲の包囲』(1995)、評論集『サラセン年代記』(1981)など。1985年、エウロパリア賞、1993年、ネリー・ザックス賞を受けた。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.06
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相米慎二「夏の庭 The Friends」シネリーブル神戸 2025年の映画館徘徊、最初の1本は唐十郎のドキュメンタリィーにするか、相米慎二にするか悩んだのですが、見たのは相米慎二の1994年の作品「夏の庭 Friends」でした。 相米慎二は2年前に「ションベンライダー」と「台風クラブ」を見てノックアウトされて、「もう、いいかな・・・」 だったのですが「夏の庭」は原作の湯本香樹実が贔屓の作家、もちろん原作は既読ということもあって、相米慎二再チャレンジでした(笑)。 見てよかったですね。原作もそうですが、生きているのか死んでいるのかわからない一人暮らしの老人に小学生の男の子たちが興味を持って付きまとううちに、仲良しになる一夏のお話というわけですが、30年ほど前に原作を読んだ印象と、今日の映画の印象で、大きく変わったことがありましたね。 単純に言えば、子どもと老人の間に起きる出来事に対して、子どもの視点ではなくて、付きまとわれる老人の視点に、あるいは主観に対する共感で見ている自分に気づいたことですね。はい、まあ、こっちも年をとったということですね(笑)。 三国連太郎扮する一人暮らしの老人は1945年に20代の青年だったわけで、映画が描いている時代である1990年代には70代なのですね。 で、彼が、今まで誰にも言わなかった、戦場からは帰ったものの、妻のもとには帰らなかった、家族を捨てるに至る「秘密」 だから戦場で何をしたかということを、付きまとう子供たちに語るんですね。この時の老人を演じる三国は、さすが三国連太郎! でした。 そのシーンは映画の中盤の山場ですが、かつては、この老人の心境のリアリティーがボクにはわからなかったと思うのですが、今回はドキドキしましたね。もう、これだけで、この映画はぼくの記憶に残ると思いますね。 まったく別の話ですが、浦沢直樹の「あさドラ」というマンガで、きぬよさんという、おそらく、50代の飲み屋の女将さんが、恋人が戦場から帰って来なかった哀しみをあさチャンに語るシーンが最新刊にあるのですが、あれは1970年代です。 この映画は1990年代、あの震災直前の神戸の町が映っているのも感無量でしたが、生きて戦場から帰ってきたものの、生きて帰ってくるためにしたことによって、いわば、自ら「しあわせに生きること」を捨てた老人が、面白半分に付きまとう子供たちによって「秋には何か種をまこう!」 ともう一度、生き直そう! とする様子には、強く胸打たれましたね。 淡島千景さんが演じている、一人で子供を育てて45年間の戦後を生きてきた末に、記憶を失ったおばあさんが待ち続けてきた夫の棺に跪いて「おかえりなさいませ。」 と挨拶するシーンもそうですが、老人の亡き後、庭には子供たちが種をまいたコスモスが咲く中、廃屋化する建物を延々と映し出すところに、相米慎二の「戦争は悪だ!」 を実感しました。拍手!ですね。 直接的な戦争批判というよりは、経済成長の中、拝金主義と無責任を蔓延させた戦後社会に対する疑いを描いているとボクは思いました。まあ、ボクなりですが、ちょっと、相米慎二の輪郭を感じた作品でした。 神戸の震災直前の風景も、結構、あっちこっち映っていて懐かしかったのですが、曲がり角にさしかかっていた戦後社会を強く感じさせる映画でしたね。拍手! 監督 相米慎二原作 湯本香樹実脚本 田中陽造撮影 篠田昇音楽 セルジオ・アサドキャスト三國連太郎坂田直樹王泰貴牧野憲一戸田菜穂淡島千景笑福亭鶴瓶寺田農柄本明1994年・113分・日本2025・01・04・no001・シネリーブル神戸no294追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2025.01.05
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「花束とチョコレート」 ベランダだより 2025年1月1日(水) 玄関あたり 2025年のお正月の玄関には新しい花束がありました。で、その花束にもたれている箱は、なんと、あの、ゴディバのチョコレートです! 空き箱ではありませんよ。板チョコが入っています(笑)。 暮れの29日の日曜日の夜に三宮に集合! という集まりがありました。十数年前に担任をしたクラスの皆さんが、まあ、一応、忘年会という名目で集まるからおいでなさいということで出かけました。まあ、一応、担任という責任ある立場でしたし、で、そこに神奈川からやってきたサーファーでスノーボーダーのMさんが「はい!センセ!私が作ってるのよ。産地直送よ(笑)。」 といって差し出してくれたのがゴディバの板チョコでした。 で、少し、遅れて滋賀のほうからやってきたSさんが、「はい、センセ!」 といって差し出してくれたのがこの花束でした。「?????どしたん?」「だって、今日はセンセの古稀のお祝いよ(笑)。」「えーっ?」「あ、あの。まあ、そういう名目で。」 というわけで、2024年の年末二度目の午前様でした。 翌日、玄関に放りだしていたリュックから花束が出てきたのには「花束なんて、帰ってきたらすぐに出してよ。どこに入れてるの?!」 チッチキ夫人も呆れていましたが、ゴディバの板チョコがいっしょに出てきてご機嫌でした(笑)。ホント、ナイスなプレゼントでしたね。 ほら、産地直送のゴディバです(笑)。 Mさん、Sさん、ありがとう。企画してくれたI君、集まってくれた、ドイツから駆けつけてくれた男前の、ああ、名前が、そうやタクちゃん!、千ちゃんとか、ホリくんとか、チャッキー、ああ、イッシ―、モロチャン、山ちゃん、ニッシー、ヨッシー、ああ、それから、それから、みなさん、ありがとう! イヤー、みんなに古稀のお祝いとかいわれるとか、想像もせんかった。嬉しかったよー!にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2025.01.04
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