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2009.08.31
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ようやく、のせる私の部屋にする倉の二階の、整理、清掃が終わった。その過程で、一階は涼しいけれど、二階はまだ暑いことに気づいいた。
2009.08.31
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これが私の股ぐらに噛みついていた山ダニ。写真を見せるつもりはなかったけど、これに真夜中に噛みつかれたたときは、本当に痛かったのと、最近になってまたその噛み口がかゆくなったこともあり、のせることにした。切り子の多くが。、これに泣かされる。
2009.08.28
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2009.08.26
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榊の葉の裏についていた蜂の巣にいた蜂に刺される。このへんでは草履蜂という。小さいけどかなり痛い。写真の中央ひふきんに少しその巣がみうえる。
2009.08.25
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長い間の課題だった、崩れかけている蔵のひさし、一階部分の屋根にシートを張った。一度張ろうとして、崩れかけてき傾斜がきつすぎるので止めていたのだけど、細いロープで端を止めて、屋根に上らずシートを被せる方法を思い付き、やってみた。出来過ぎくらいうまくいぢた。写真はまだ完成前。
2009.08.21
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2009.08.21
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仕事の帰り車で、昨日母鹿が死んでいた場所の近くを通ると、昨日母鹿に寄りそっていた小鹿が、その近くの道の上にいた。まだ生まれて間もないような小さな小鹿だ。近づくと川のほうに逃げた。写真のまんなか上方の川の近くにその小鹿がわずかに写っている
2009.08.19
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崖から落ちたのか、崖下の林道の上で、雌鹿が死んでいた。小鹿かそばについていた。
2009.08.18
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先日近くのおいた婦人の葬儀があったことを機会に今5人いる野の花社の住人の一人が死んだ際、どのようにその死と対するかについて、今日は兄を含めた野の花社の5人が、夕食後話し合った。妹は少し保留したが、後の4人は特別な、いわゆる葬儀はせず、死者とのお別れの会を野の花社の住人と近くの希望者で行うこと、その際香典は貰わないことごく少ない額でのお菓子やお酒などの持ち込みは認めること、野の花社の神殿の木の床の上に棺桶をおきそこに眠る人に話し掛けたりして広間で亡くなった人を偲ぶ会をすること、そのための持ち寄りのささやかな食事会みたいなものはすること、特にしてほしいとは望まない人もいたけど、そんなごくくつろいだ場を通夜式と名づければ名づける形で行い、通夜が終わったら、死者に花を手向け棺桶を花で埋めること、その間掛けてほしい音楽など合ったら、遺言などに書いておくこと火葬場への死者のおくりは、親しい人のみで行うこと。それ以上の葬儀はしないこと、もちろんお寺の坊さんも天理教の布教師も、その資格では来てもらわないこと、などおおよそのことを決めた。いつもは余り発言しない兄も自主的に発言し皆でよく笑いもした良い話し合いだった。自分たちが死んだ後のことについて話し合うことがこんなにくつろいで、面白く話し合えたことが嬉かった。
2009.08.15
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ずーと自分自身にも問題はあるけれど、同居している家族には大きな問題があり、彼らも癒されるべきで、そのことにも力を尽くしたい、みたいに思い、いろいろやった来たけれど、彼らに介入することは一切止めて、自分自身をきれいにすることからはじめるということ、しかも家族の問題はすべて自分の問題であり、その自分の何かを癒すことに力を尽くすこと、そのことを始めること、みたいなもの。すこし飲み込めないところもあるけど、実践的にはとても取り組み易い。いまここで、日々実践できるところが大きな魅力だ。
2009.08.12
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2009.08.11
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凛々しいメガテン
2009.08.11
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2009.08.11
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長い梅雨が終わって、今日は強い日差しが降り注いでいる。その野の花社の北隣の空き地に、ノビルの白い花が咲いている。
2009.08.11
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野の花社の門の内側に咲いたヤブランとミズヒキ
2009.08.11
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葬儀について あと、いろいろ疑問なことはあるんですけど。よく言われることですけど、仏教が葬式仏教化しているようなことが言われていて、よくそういう批判が言われていることがあるでしょう。私もそれは何でなのかちっともわからないし、仏教の、人が死んだときに上げるお経っていうのをありがたいって思ったことはないし、うるさいだけで本当に嫌いなんです、ああいう儀式っていうのが。家族にとってはそれがひとつの死者との別れになるのかもしれないけども、本当の別れになるだろうか。もっとありのままの言葉で死者の思い出を語ったり、話しあったりってことのほうがいいんじゃないか。いかめしい葬式をやって飾り付けて。真宗の葬式を見たことがないけれども、焼香をぐるぐるやって終わるような、そういうお寺さんのあり方をみていると、それは何なんだろう、そんなことまるっきり意味がないんじゃないか、って思って…。 今朝、フクスケっていう私がすごくかわいがっていた猫が…三年ぐらい前大雪の日に迷い込んできて、えさをやってだんだん家にあがってきて、飼っていた猫がいたんです。一昨日ごろ急に半身不随になって、医者に行って見せたらどうも足のほうに血栓が詰まっていて、もうあんまり長くもないでしょうって。手術もあんまり治る可能性がないからってことで、昨日帰ってきて、今日三時ごろになってガォーって鳴いていたから、ゲージに入れて、布団をそこに持っていって、そばで寝ながら体を一時間ぐらいさすってあげたら「アア、アア」って言ってのびをして、死んでいった。 いつも仕事をしていると、そばへ来て座って。私が山から帰ってくると、門まで迎えに来て、部屋へ入っていくのを先導していった姿が浮かんでくるんです…そういう猫の思い出を語りたいし、死んでいったことがすごく悲しかったり、その光景が浮かんでくるんです。本当の死者の別れっていうのは、お経とかの一節一節に全く関係がない。そういうものはあげるものじゃない、って私は思います。ありのままの死者について語る、思い出を話すとかならいいし、本当にその別れを体験するっていうのならいいと思うんです。儀式化された葬式をやると、死んでいった人と生きている人の関係がかえって壊れてしまうように私は思ったりするんです。 そういうことも「非違の歴史」ってことで、抱えていかざるを得ないところもあるんでしょうけど、でも、教学研究所の声明文読んで、そういうことが自分たちの問題点を維持する口実になっているって私は感じるところがあって、むしろいい意味でしょうがないところもあるだろうけど、ある意味で流していくっていうようなところも、ちょっとあるような気もすごくしましたね。 東本願寺のお坊さんらもやっていることだろうけど、それは本当に宗教なんだろうか。本当に親鸞の望んでいたことだろうか。親鸞が望んでいたか望まないかはともかく、死者に対する本当の対し方なんだろうか。本当に死者を尊ぶ、あるいは死者との関係を大切にするあり方なんだろうかってすごく疑問があって。仏教の多くが葬式で得る収入で自分たちの生活を維持していると聞きますし、たぶん事実であると思うけど。そういうことって、自分達の宗教の力を弱めることだって思うんです。本当の力じゃない、方便としてのいろんなことで自分たちの収入を得て、自分たちの生活を維持していくことが、自分たちの力を弱めてしまう。本当のことが言えなくなるし、すんごく自分たちを弱めていくんじゃないか、そういう気がしていますね。 私もある意味では、別に宗教って言わないけど、自分を見つめるってことについて語りながら生活していきたいな、っていうところがあるけれども。どんな宗派に所属しているわけでもないし、自分で生きていかなきゃいけない。自分で稼いで、必死で生きてきた。この五年間生活して生きていくことの大変さっていうのを、ものすごく味わってきて、そのことで、昔の考え方っていうのは、そういう生活を負っていない人間の安易な考え方だったって思った。私は今、妹も精神的にちょっと不安定で、兄貴が躁鬱病で家で寝ているんですけど、そういう人たちをどうしたらいいか。働いてくれたらいいけど、働いてはくれないし。強いことを言えば向こうはまいってしまうし。でも、私は一人で一生懸命働いて生活して支えていくんで、本当に大変で、そんな生活をずうっと続けなきゃいけないんで、本当にもう嫌になるって思っていた時期も…今ちょっと仕事が順調にいくようになったから何とかなっているけど。生活することの大変さっていうことを考えていくと、果たして寺院にいる、そういう葬式で金を稼ぎ、法事とかでやっている人たちは、そんなことでよく自分の宗教をやっていけるなあって思ってしまう。それは本当に大切なことなのか、本気で考えたことあられるんかなあって思う時はありますね。 こういう場で言うと、またおかしくなるけど、私が差別の問題とか外の問題を語ることはわりと楽だったんだけど。もちろんそういうものはちゃんとやっていかなきゃならないんだけど。もっと本当の問題があるんじゃないか。真宗の人たちには。だって、日本の仏教っていうのは…差別の問題とか侵略の問題を語る方が楽で、自分たちのことが本当に問われる、ってことにならない。そうすると、葬式のああいうことが、本当に、自分たちにとってどういう意味を持っているのかってことを問い返すことの方がよっぽど苦しいだろう、って私は思う。そういうこと抜きに、社会的な問題を問題にしていると、私にはちょっと違うんじゃないかって、思うところがあるんですね。これぐらいで…(質疑応答・座談)
2009.08.10
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刑務所にて それから、刑務所の中でもいろいろなことがあったけど、早く出るために刑務所のお気に入りになるようなことはしなくなって。受刑者に対してひどいことをすれば、受刑者はもっと悪くなって再犯の可能性を高めるからやらないで欲しい、ということを言葉で、文章で書いて―願箋(がんせん)っていうんです―書いてやったりしながら、自分の本当の気持ちを刑務所の側にも出来るだけ伝えながら。でも、彼らのお気に入りにはならないでやってきたってことで、すごく刑務所生活も楽だったです、私にとっては。 で、もう一つだけそういう醜さについて話しますけど、当時同じように逮捕されていた東アジア反日武装戦線の人達がいて、その人たちは、二人が死刑の求刑を受けていて、他に無期の人が一人とか、そういう重刑の人がいたんです。そういう反省、本当に自分が醜い存在であるということを見つめる以前は、その人たちのことをパンフレットなんかでよく批判していた。「お前らの戦いは間違っていた。どこか根本的におかしかったんだろう。どこかちゃんとみつめなあかん」って説教するわけです。向こうはすごく反発するわけです、すごくカリカリして、私もカリカリするんだけど。その人たちを批判することは検事にも認められるし、裁判官にも認められるし、とってもやばくないんですよ。全部間違っているわけじゃないけども、非常に綿密に考察はしたけど気楽に出来るわけです。昔やっていた人間の間違いを、こういうところが全部間違っているって、すごく攻撃していたんです。自分が全部こう思っているわけじゃないけれども、安心してやれる。刑事にも裁判官にも体制側にも悪く思われない、って安心感があってやっていた―ものすごい醜いことだってそれを思ったんです。自分が無期刑になるかもしれないから権力とか体制へは批判しない。過去の友達の悪いところだけは批判する。すごい都合のいいあり方をしていた。そういうことも気が付きました。 このへんで、ちょっと休んで。これで私を見つめるってことはだいたい…。(休憩)爆弾闘争の背景何故ああいう戦いを戦ったかっていう思想的な背景は、一九七〇年前後、反戦運動とか学生の革命運動みたいなものが盛り上がっていて、尚且つ私らは日本帝国主義っていう、アジアとかアイヌの人に対する加害者、抑圧者の立場に立つ国家あるいは民族であって、そういう人たちが革命運動をやる場合は、自分達のそういう抑圧性とか加害者性を変えていかなきゃならない。侵略、被害を受けているから、それに対してやる、っていうんじゃなくて、被害を受けた人の気持ちを考えて、彼らの側に立てるような人間に変わっていくっていうのが私らの使命だっていうふうに思っていたわけです。だから、所謂マルクス主義みたいに、私達は労働者で抑圧されている人間だから、資本家と戦うっていうストレートなものではないわけです。私らは抑圧する側の人間で、そういう人間が本当に革命っていうかこの社会を変えていこうとする場合は、自分の抑圧性とか加害者性とか差別者性を変えていかなきゃならない。変えていくにあたって、害を加えている自分達の国のありようとかと命がけで戦うとか、あるいは言論をもって戦うとか、そういうことを徹底的にやることによってしか、自分というものの加害者性とか被害者性、抑圧性が解体できない、っていうふうな思想を持っていた訳。あの時代の人間は自己否定っていいますけど。私は大学生じゃなかったからわからんけども、大学闘争も単に学校側が悪いって言うんじゃなくて、自分達が大学生であるってことが、既に特権的な階級、人間になっているからそれを自己否定して、被害を受けている人たちの側に立てるようになっていかなきゃなんない、っていうような発想があったと思うんです。そんなところから、自分を突き詰めていったのが、ああいう戦いになっていったと思うんです。 今回のテーマに近づくことになると思うんですが、東本願寺の爆破闘争っていうのは、今言ったような思想とか経歴の中でやったことですが、そのときに何をもってやっていたかっていうのは、声明文で確かに書いたことなんですけど、私は他の人たちが連続企業爆破闘争とかやっていて、そういうのは二番煎じみたいでやりたくなくて。宗教的な家族に生まれたものですから、宗教批判っていうのがすごく強かったこともあって、本当は天理教をやりたかったんです。一番はじめに。だけども、私がやるとそれじゃああんまりバレてしまうんじゃないかってこともあって、天理教だけはおいといて他にいろんなところをやったんですけれど。
2009.08.10
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ラジニーシとの出遇い 心理療法的なやり方で世界を変えていくことにどんどん同化していくような感じがあったんですけど。そういう中で、当時インドで悟りを得た人「バグワン・ラジニーシ」っていう人がいて、その人の弟子になって、いろんな瞑想とか「カタルシス」のいろんな療法をやって。彼は非常に面白い人だと思うし、今も弟子ではあるんですけども。そういう瞑想したりして、そこではダイナミック瞑想といって「カタルシス」のいろんな瞑想もいっぱいあったし、座禅みたいに座る瞑想もあったし、いろんなことをやっている中で、一九八三年に逮捕されたんです。 逮捕された時に、何を思ったかと言うと、私はとんでもない間違いを犯した人間であるのに、逃亡生活のうちに根本的に生まれ変わった人間である、と。精神的に宗教的に生まれ変わったと。これはすごく稀有なことですごく重大な価値がある。何か本当に、増上慢というか、そういう世界に入っていったんです。 だから、刑は軽くなるだろうし、七、八年で出られるんじゃないかなぁって思ってしまったり。ちょっと心配はしていたところもあったけど。自分を特別視する、自分が何か特別な存在である―私の精神的なパターンなんですけど―そういうことを自分が抱いて…。ところが、取調べが終わって起訴されて、弁護士なんかと面会するようになってから、「あんた、あんだけの事件やったから、無期(懲役)だって全然おかしくない。無期刑になる可能性もじゅうぶんにあるから。きちんとした裁判やらなきゃ駄目だよ。」って、言われて。 で、実例でいろいろ示してくれることがあって、爆弾事件を三、四件しかやっていない人間も、無期刑が求刑されて判決が出ている。私の場合は七件も八件もやっているわけですから、ああこれは当然無期になってもおかしくない。何を私は思っていたのか。今度は、自分がひょっとしたら無期になるかもしれないって、すんごくおびえて、恐怖症状態になって、東京拘置所の中で苦しくって夜も寝られない。ともかく、動き回って。本当に胸が締め付けられて、こんなに苦しいんなら死んでしまいたいって一ヶ月くらい、本当に苦しいから解放されたい。こんな苦しみが、あと半年続くと思ったら、とてもじゃないけど生きていたくない。早くその苦しみから解放されたい、っていうのが自殺する人の気持ちなんだろうなって、そのとき思いました。 そんなことを思うと、それで全く自分が間違っていた、ってことを思って、自分は瞑想するとか、自分を見つめることを、和尚ラジニーシって人の弟子になってやってきたけど、何にも見つめてなかったじゃないか。和尚ラジニーシって人に依存して、かえって、自分が特別な存在であるっていうふうになっていって。 和尚ラジニーシも「『自分が特別な存在である』ってことを思うことくらい、ごく当たり前のエゴにとらわれたありかたはない」って語ってはいる。だけどそういうことが入ってこないです。自分に都合のよい言葉だけ採り上げて、自分を英雄視していく。そういう世界に入っていることに気がついたんです。今度はどういうふうになるかっていうと、自分は全く力がない存在で、今度はもう和尚ラジニーシにすがりつくしかない。早く出所して、和尚のところに行って本当に師事して直接教えを受けないと変われない。とっても俺のような醜い人間はどうしようもない、って今度は自分で努力することを放棄してしまう。 で、どういうことをするかというと、裁判で自分の不利になることは一切言わない。それから、その頃私を慕ってくれた女性と―私はあんまり好きじゃなかったんだけども―とにかく刑が軽くなりたかったから、結婚をして。情状に訴える、ということもした。第二審でそれをやったら、彼女も精神的にいろいろと問題のあった人だったこともあって、うまく証言ができないし、ちゃんとした信頼もないから、裁判官から「あなたは、加藤三郎から減刑のために利用されて、結婚したんじゃないか?」と。 本人はそんなつもりはないから、「いいえ、違います」って言ってるけど、私は思い当たるわけです。思い当たるけどもまだ、自分で「そうじゃない」っていう意見書を書こうとするわけです。「これは、すごく宗教的な、理想的な結婚であって…」って意見書を書こうとするんですけど、いかにも醜いんです。「何をしているんだろう。何と私は醜くなってしまって」「俺は何じゃ。人を利用し、今ここじゃなくて、そういう和尚のもとへ行くって、自分の未来の為に全部汚く利用して、そんなことをしている」「俺はこんなことをやってきた、こんなふうに醜いんだ」ってなことを思いだして。 だけど、その頃まで和尚ラジニーシの弟子であるから、「ラジニーシ以外の人の話を聞いて、その人のやり方で自分を見つめるってことは良くないんじゃないか?」って思って、なかなかしなかったんですけれども。 ちょうどその頃ずうっと、拘置所に入って三年ぐらい、無期囚で、無期の判決を受けていたけども、刑務所に行かないで、死刑廃止運動をやっていた「飯田博久」って人がいて、その人は三人ぐらい人を殺した人なんですけれども、自分の、人を殺した事実とか成育史なんかを綿密に文章化して捉え直して変わっていった人で、ずうっと文通していたんですけれども。その人が、「本当に自分のことを文章化して見つめ直す、そういう具体的な作業をしないと何にも見えてこないよ」って言ったものですから。その時になって初めて、「ああ、もうこれしかない」って思って。それが一九八七年か六年頃だったと思うんです。正月ぐらいの時から、とにかく自分の小さい時からのことを全部書きながら、「何が問題だったか」ということを書きながら見つめ直してきた。自分をみつめて そうすると、単純なことは、父親をすごく恨んで生活してきたし、ラジニーシって人に会って、ある程度観念的には「親も許さにゃあかん」ってなことは思っても…具体的にどういうことかはわからないけど見つめ直す中で、親父がいつも米を作って、病弱なのにスイカを作り、きゅうりを作り、野菜を作り、私らを食べさせてくれていた。そういう親父の姿を、綿密に書くと「これはすごいことやな」ということがわかってきて。確かに親父にはひどい面もあったけど、そうやって私らを何とか育ててくれていた面もあった。 一方でお袋を、いつも優しい人で、「いい人だ」としか思っていなかった自分があったけれども、お袋は、親父の悪口を私らに言いつのることで親父に対する憎しみを私らに植え付けて、親父を憎しみでしか見れないようにしていた面もあった。本当に優しい人だったけど、そういう面もあったし、自分がそういう親父を選んで恋愛結婚したのに、そのことに対する責任を持とうとしていなかった。そういう女の人の、当時の状況だからしょうがないけれども、弱さってものがあった。母もすごく未熟な人だということがわかってきた。 だんだんそうやってわかってきて、二十歳の頃の恋愛して別れた人のことも原因は、ある時女の子が私のところに来て、私は性的欲求のままに関係を持ってしまって。で、自分がどう考えたかっていうと、これは自然な欲求でしょうがないじゃないか。俺のせいじゃない、押さえようったって押さえられないじゃないか、って思ってしまってた。見つめ直す中でどう考えたかっていうと、性的な欲求が、私と別な人格を持って女の子と行為したわけじゃない。私が、性的な欲求を開くっていう選択をしているんです、その時に。 街角で襲うかっていったら、襲わない。絶対にそんなことはしない。自分なりにちゃんと選択するわけですよ。今、刹那的な快楽を楽しみたいから自分がそれを開いてその欲求にのめりこんでいっている。そういう自分の主体的な選択なんだ。私の責任ってことを自覚しない限りものはわからない、人格化された性欲が勝手に一人動きすることじゃない。自分に都合よく解釈していたなって。そうやって、性欲のせいにして相手は傷ついていても平気な顔をしている、っていうか本当に深く考えない。 そんな生活を、左翼の活動の中でもしてきていた。その頃の時代の流行でもあったけども、性的な自由っていうことをしてきたってことがだんだんわかってきて。武装闘争なんかやってきたことについても、心理学的な療法の思想で私は、裁判の中でも、はじめのうちは、私は精神的に病んでいたから、ああいうことをやってしまった。それ以上のことは言わない。ともかく、精神的な病が起こっているんで、そういうことを癒さなきゃならない、と一般的なことを言う。理論みたいなものですから、繰り返して言うことは出来るけど、そうすると今度は自分が東本願寺を爆破したってことはどういう意味を持っているのか。あるいは自分が人を傷つけたことはどういう意味を持っていて、どういう責任を取るか、どう自分が償っていくのかは、考えないで済ましてきたわけです。 そうやって、小さい時からのことを積み上げてきて、考え直していくと、自分が人を傷つけたり、人の建物を壊したりしたことについて、ただ病んでいたからしょうがなかった、って言っていたら、それはものすごく都合のいい考え方だ。自分なりに出来る範囲で責任を取っていかなきゃならない。だけどあまりにもその被害の額が多すぎるし、被害を受けた人も多いから全部は出来ないけれども、出来る範囲でともかく責任を取っていく、あるいはそういう努力をしていくってことが、責任の取り方で大切なことだ、と思って。 やっと二審の最後になって、これまでの自分の思想はすべて間違っていたって…。例えば、人を積極的に傷つけるつもりはなかったけれど、ひょっとしたらそこを人が通る可能性があって人が傷つく可能性―未必の故意っていうんですけど―そういうのはない、って言っていたんですけど。いや、やっぱり傷つく可能性もあるって思っていた、と正直に話す。そういう意見書を出して、これまでのことはみんな、自分が減刑になりたいから自分が都合のいいように主張してきたと。 そういうことも言ってきましたし、それから、実は私は天皇制については今もやっぱり批判を持っていると。だけど批判をすると、刑が重くなって、無期になったりするのが嫌だから批判をしないできたと。だけどそれは天皇を、天皇家を憎しむとか、そういうことじゃなくて。天皇制っていうのは、ある意味では天皇家の人々を抑圧している制度であって、そういうものがなくならない限り、天皇家の人々も解放されないし。日本社会の中で日本人のいろんな意識を拘束していることからも、それを克服していくことでしか歩んでいけない。 そういうようなことも含めて、全部本当に思っていたことを、裁判の場でも伝え、ある親しかった女性を減刑のために利用して、証言に立って、結婚したってこともはっきり言って。本当に自分が醜い存在だったっていうことを、はっきり言っていったっていうか。 そういう作業をしていって本当に自分がなんて醜い人間だろうって、胸がモヤモヤとその、醜さが出てくるぐらいの体感があるぐらいの醜さっていうのが自分の中にあるってことを自覚した時に、何かすごくホッとして楽になってしまって。自分を醜い人間だと思って自分を責めて自分も死にたくなるのかなと思ったらそうじゃなかった。本当に醜い人間だって思えた時に、すごく楽になった。これからは、出来るだけ自分の心を偽らないで生きていこう、って思えるようになって、そんなに気張りもしないし、人がいろんな醜いことをやることは、自分を振り返ってみれば当然のことで、それは、人間っていうのはそういうことに陥りやすいもので、憎しみっていうのをあんまり抱かなくなったし。怒る時は時々あるけど。そのことからすごく楽になって。
2009.08.10
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心理療法への関心 そういう思いに駆られて、誤爆事件以後、逃亡生活を支えてくれていたある人のところで、心理学の本を読んで、読みながら彼女と一生懸命話をするということを始めました。彼女との生活の中で、それまで革命闘争とか武装闘争とか言っていた時は大体おんなじ事しか話せないものですから、通い合う言葉も無くなっていたんですけれども。心理学的な本を読み合わせながら話をすると、彼女が送ってきた幼児期の問題とか、私らとの関わりの問題とか、そういう日常生活の人間の関わりの問題について話しあうことになってきたものですから、いっぱい話が出てくる。そうすると彼女との間に交流が、初めてのように生まれてきて。昔からこの人は何かおかしいな、と思ったけれども、私がかばわなあ、この人駄目になってしまう、というような感じで、ずっとかばいながら生活してきたんですけれども。その時初めて、実は私あなたに対してこう思っていて苦しくってしょうがなかったし、他の人もあなたのことを変だと思う、とか。幼児期のあなたの人間関係はどうだった。ともかく話をする中で、彼女が、全く食欲もなくしていたのが、二ケ月間ぐらいで、ものすごい食欲が出てきて、月経が回復して、手の色なんかがピンク色になってきた。そういう一連のことを二か月くらいのうちに体験して、何か、私がそれまで革命運動とか何とかいって一生懸命やってきたこととは全く違う世界がある、ということをその時、ものすごく感動し、生きている中であんな感動を味わったことはそれまでなかった…何だってことが起こってきたんです。 そういうことで心理学の本を読むようになって、逃亡生活が半年ぐらいになってきた時にも、心理学の本の思想の影響を受けて、「ああ、私は全く間違ったことをやっていたんだ」と思うようになりました。その頃は、要するに世界の悲惨なことっていうのは精神的に病んでいるからああいうことが起こっているんで、心理学的に、個人的にも制度的にももっと癒される社会になっていかない限り、こんな社会は変わらない、というふうに思うようになっていったんです。昔のように爆弾闘争で批判したって変わるはずがない、とコロッと変わってしまいました。 ところが、変わってどう思うようになったかというと、今度は、自分がOさんを健康にしたってことで、自分で心理療法士的な能力があるんじゃないか、って思うようになって。いろんな人にやって確かに効果もあるわけです。ものすごく関心があるから、心理学のいろんな勉強がしたくって、ワークショップなんかに出たいけど出られやへん。本当の自分のライフワークは、そういう心理療法に従事しやっていくことじゃないか、って思ったけれども。 指名手配されている状況があって、そういうことは全く出来ない。自分が本当にやりたいことが、自分が過去にやったことの影響で全く出来ない。ダブルバインド(二重拘束)というんでしょうけど、すごく苦しんだんですが。その頃に、心理療法なんかの体験で、こうやって座って「はあーっ、はあーっ」っていう深い呼吸をするだけで自分が抑圧していたいろんな感情が出てくることを心理療法の本を読んで、その頃の自分の仲間の前で、三十分ぐらい息を吸っていたら、顎が張り裂ける感じのすごい悲しみが湧き出してきて、三十分ぐらい泣きに泣いたんです。二十歳頃に、自分が好きだった女の人と、すごく辛い別れを体験した。だけど、革命をやる人間だから、悲しみとか苦しみに耐え仲間として付きあっていかなきゃなんない。その人は他の男の人と暮らしているのに、アパート紹介してやったりして、善意でやっていくわけだけど、内心は苦しくてしょうがない。耐えて。ちゃんとした人間関係を持たなきゃならない、という理想でしばりつけて。ものすごい苦しかったのにそれを耐え切った悲しみがものすごい勢いで出てきたってことがあった。 それからもう一つは、暗い家庭で育ったということがあって。プライマル療法(原初療法)っていう、「おっかあー、おっとうー」と叫ぶだけで、そういうことを再体験できるっていうようなことが書いてあって。ある日、そういう精神療法の部屋の中で、一人で「おっかあー」って。ものすごい自然に、本当に自分が小さかった頃、家族の中で私が味わった苦しみ悲しみへ、ずうっと入っていって、一時間ぐらい泣き叫んでいたことがあって。そういう体験をして、こんだけいろんな悲しみだの怒りだのを抑圧していて、どうやって人間を正しく理解して、何かをやれただろうか、ってなことを強く思って。
2009.08.10
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以下に掲載するものは、私が昨年帯広の東本願寺のお寺でさせてもらった、自分研究報告のようなもの、引用というか、その話をテープ起ししてパンフレットの記載したものの、全面的な転載というべき物です。引用、転載に関しては、その会の主催者の許可を得てあります。もっと早い時期に転載したかったのですが、ついつい延び延びにしていました。なお、改行の仕方とか、誤字の訂正とか、多少の手直しはしてあります。2008・5/20公開フォーラム「北海道開教を問う」~大師堂爆破事件を通して~ 加藤 三郎 氏 ただいまご紹介された加藤三郎です。私がここへ来て、今日お話をすることは、多分今日のテーマとは違ったことになるかもしれないと思います。ただ、もちろんそれと関連はなっていくと思いますけれども、私がああいう戦いを行なってどういうところに誤りがあったか。どういうふうに自分を見つめてきたか、ということを基本的にお話をして、そのうえで今、東本願寺の方々とか、そういうことをしてどういう思いを持っているか、ってなことを話したいと思っています。 ああいう戦いを戦って以後、アイヌの人たちのこととか、北海道の開教の意味とかについて正直言って、研究したり考えたりしてきてないので、そういうことについては殆ど、具体的には語る資格はない、と。ただ、そういうところじゃないところで話はできると思いますので宜しくお願いします。生い立ち 私は先程もご紹介ありましたように、戦後すぐに、天理教の教会で生まれました。父が非常に怒りっぽい人で、いつも私にとっては、その頃優しかった母を非常に苦痛な目にあわせていた、ということがいっぱいあって、非常に暗い家庭で育ったんです。 だけども天理教の教祖の中山みきの教えとかにもやっぱり接して、幼い頃からそういう何て言うか、陽気暮らしとか、他人や貧しい人に対して施したりとか、そういう生き方には共感して、そういう生き方にあこがれるようなところもあったわけですが。 そういう中に育って、父のものすごい母に対する、すごい…、飯やおかずがちょっと気にくわんと平気で、「こういうものが食えるか」といって投げ出してしまうともかく怒りっぽい人だった。そういう人が天理教の教会の会長であったし、私が中学校になる頃にはPTAの会長をしています。あるいは町会議員もしていました。私はその頃から天理教の信仰っていうもののあり方と、父のあり方の背反っていうようなことを意識して、「大人の社会が信じられない」っていう感じにだんだんなっていったんですね。父が町会議員で選挙に出るときも、お金を人に渡している。そういう姿を自分は見ているわけです。そういう人がPTAの会長であり、私らの前で偉そうな話しをする、ということで、「どういうことなんだろう」ということを思いつつ生活していたようなことがあります。 ただ、わりと優しかった母も、私たちに対しては父から受ける苦しみをともかくしょっちゅう話して涙流しているような人で。中学生ぐらいになった頃には「何でそんな父と一緒に暮らしているんだろう」っていうような疑問を持ったりということもあったし。 小学校五、六年生ぐらいのときだったと思うけど、私の天理教教会に寝泊りしていた女の人と母と私と山へ行って薪を背負って帰ってくるところで母が、その人に対して松の木の下で「私はもう、本当にこの松の木の枝で首をくくって死んでしまいたかった。だけど子供達のことを思うと死んでしまえなかった」と涙ながらに話をして私もそれを聞いていたんです。何か世界が変わってしまうようなすごい悲しみと、何かしら、そんなことを話さないで欲しい、すごく重苦しくて仕方がなかった。社会問題への芽生え そんな思いをしながら成長してきて、高校ぐらいになってきてから、ちょうどそういう時代でもあったものですから、反戦運動みたいなもの、何かこの社会がおかしい、この社会が変えられるべきである、っていうような思いから、ベトナム反戦運動みたいなものに参加して、その中で生きていこうとしたんですが。 ただ、私は事務系の高校卒業してから、大学は行かなかったですけれども、金がなく貧しかったというのもあり、私自身すごく大学に行きたいという欲もなかったものですから。 最初に働いたところが在日朝鮮人のホルモン屋さんで、そこの人が土木建築業(の斡旋)をやっていて、ずうっとそれから数年、在日朝鮮人の中で土方をして働いてきた。土木作業をやりながら、反戦運動をやっていく中で、だんだん日本の侵略史、朝鮮に対する侵略、植民地支配、中国への侵略ということが問題になってきて、学生運動の方から提起されて、だんだん考えるようになっていったんですけれど。私自身はそういう在日朝鮮人と共に暮らしていた。共に生活、あるいは共に働いて、殆ど近いところにいる人たちだったから。よく、飯を食いにも行ったし。 そうすると、在日朝鮮人のおかれている日常生活が、いろんな問題にされる。日本人あるいは日本国家から権利を奪われた生活をしていることが見えてきて。 例えば、国民健康保険を受けるのに、その近くの町では、七年以上在住し、町長が適当として認めた者に限り、その在日朝鮮人は国民健康保険を受けることができる、そういう条例があったんですけれど。何かすごくおかしなことだ。本当に侵略の、あるいは植民地支配の責任を取るなら、むしろそういう人たちに対しては、優先的に国民健康保険を与えるのは当然じゃないか、ということを思ったりして、そういうのを変える運動をしてきたんですけれども。 学生運動なんかがある時期すごく盛り上がってきて、その人らが問題提起されるようなかたちで、日本の侵略とか差別の問題なんかが言われてきて、こっちはそれを受け止めて。で、一生懸命そういう運動をしだした頃には、学生運動は退潮していって、みんな就職してそういう問題に関わらなくなる。そういう中で何か取り残されたような感じにもなり、ああ、学生運動っていうのは何だったのだろう。あの人らは本当にやる気あったんだろうかっていうような気持ちにもなり、何か持続してやっていかなきゃいけない、ということでだんだん孤立していく中で、侵略史ということの根本に、一つはアイヌの人たちに対する侵略があったし、天皇制っていうものの成立の根本からして「蝦夷(エゾ)」とか、原住民に対する侵略の歴史があったんじゃないか、ということを考えるようになって。そういう歴史の根本から見直さない限り、日本の社会っていうのは変わりようがない。だんだんそういう発想を持つようになって、それから、同時にオーストラリアのアボリジニーとか、アメリカのインディアンの人たちも、そこに元々住んでいた人たちで、白人がそこへ侵略して大地を奪ってしまった、そういう世界が反省的に捉えられずに、何ら問題のないようにされているこの世界のありようっていうのが、道徳的に、いいようがなく汚れている。醜悪であって、そういうところを根本的に問題にしない限りこの世界は変わりようがないんじゃないか、っていうふうに考えてしまったんですね。 そういう中で、北海道にも来てアイヌの人たちと交わったりもしましたけども。ともかく孤立していても自分一人でとりあえず、その頃は友人達もそれなりにいたけども、ともかく、もし何かしていくなら一人で何かをやっていく、ってなことで。本当に自分の命を賭けていかなぁあかん、ということで爆弾闘争に入っていったんですけど。武装闘争 そのへんを概略で話しますと、すごく孤立してそういう武装闘争なんかをやっていくなかで、私ははじめはあんまりにもつらかったものですから、酒に浸って辛さに耐えながら一人でやっていた。自分がそういう革命戦士であるのに、目指しているのに、酒を飲んで、いつも本当に息も絶え絶えにしながらやっとの思いで武装闘争やっている、という自分にものすごい自己嫌悪を覚えながらやっていたんですけど。 それが、身近にOさんという女性がいて、私とは一緒にやっていなかったけど、彼女は私がそういう闘いをやっていくことでだんだん不安になっていって、精神的にもおかしくなり身体的にも衰弱していくような状況があって、どうしても彼女を支えなきゃならないから、私も酒を飲んでおられない、ということでだんだん強くなっていく中で、一人で五、六件、七件と武装闘争をやっていく中で今度は、あんだけ自分を駄目な人間だと思っていたのに、自分のような革命的な戦士はない、たった一人で連続的な武装闘争をやってきたんだ、という思いを抱くようになって、自分を英雄視しだして、そういう中で東本願寺の闘いもやったわけです。 だけど、一九七七年の後半ぐらいには、そういう孤立感のなかで今度は、それまでは人をできるだけ殺すとかはしない、できるだけ人を傷つけないようにしよう、ということを思ってやっていたんですが。孤立感のなかで来年からはともかく人を殺さなああかん、ともかく大量にでも人を殺して、殺さなあ日本人なんか変わらへん、とそこまで思うようになって、そういう闘いまで計画していました。一九七八年頃にはそういう闘いを、これからやろう、と。 ところが、ちょうど一九七八年の四月の一日に、明治神宮を、それは小さな爆弾だったんですけど、爆破しようとして、一緒にいたOさんっていう人があんまりにも衰弱していったから、自分と一緒にやることでその人も闘いを担う、一緒に明治神宮なんか行って、やろうとしたんですけどやっぱり弱くって、とても一緒にやるわけにはいかない、って帰ってきて。彼女をアパートに置いてその上でもう一回行こうと思って爆弾を点検し直していたんです。だけど、もし私が一人で行くとなると彼女が余計落ち込むだろう、そういうことで何か精神的にすごく葛藤が起こって。その爆弾を繋ぎ直しているときに、繋いではいけないところを繋いで、爆発させてしまって。幸い小さな爆弾だったから、彼女も布団の中で気付かなかったし、私はこの辺を火傷しただけで逃げることになったんですけど。 そのことで爆弾闘争から足を洗う生活に入っていったわけですが、ただし闘うことにとりつかれていて、それから逃げながらも何とか戦いの生活を取り戻そうとしたんですが、半年ぐらいするうちに、Oさんが身体的にものすごく衰弱していき、一年間ぐらいは月経もなかったし、手も足も本当に黄疸状態のように黄色くなって。そして、五分も歩くと疲れてしまうし、異様な音でゴロゴロいっているし、何かとんでもないことがこの人に起こっているっていう、どうしてもこの人の健康状態を改善しない限り私自身の闘いが続けていかれない。
2009.08.10
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東本願寺への批判東本願寺に関して、私自身はアイヌ侵略ってことはもちろん声明で書いているんですけども、東本願寺の何処に一番問題を感じていたのかって言うと、天皇制っていうものにまったく癒着して、あるいはそれに奉仕して教団を維持あるいは成長させてきたっていうことが、私は宗教として全く、親鸞のことはそんなに知らなかったけれども、たぶん親鸞っていう人の思想にも全く反することだろう、と思った。そういうことが強くって、そういう国家にある種の…まあ親鸞っていう人はその頃はよくはわからなかったけれど。一、二冊ぐらいしか読んだことがなくって。親鸞っていう人はかなりすごい人なんだろうけども、その人とは違った方向で、いろんな歴史的経過もあったにしろ、天皇制を受け入れ同化して、天皇制あるいは国家のためにいろんなことをしてきた。そういう根本的な筋が全然、親鸞の思想とはまるっきり関係のないことだ、って。自分らを保身し、維持するためにそういうことをやってきたんじゃないかって。そういうことが強くあって、そのひとつのものとして、アイヌへの侵略とか、アイヌの人たちの大地を奪ったっていうようなことがあった、自分ではそういうことの方が強かったですね。で、そういう私の声明文に対して、真宗の人ら東本願寺が声明を出してくれたことは、新聞で読んで、すごくうれしかったです。その頃は自分を賭けてやっている…だけど誰も評価もしてくれない…。ましてや爆破された側が一応自分らの問題は問題として言及してくれたってことは、すごくうれしかったです。本当にこたえてくれたってことで。うれしかったことは憶えています。真宗教学研究所の声明 真宗教学研究所の声明っていうのは、逮捕されてから読んで、今日もまた読んだりしたんですけど。言われているように、私の間違いっていうのは、基本的なところで指摘してくれているんですよね。英雄主義で、自分達を善に立ててやるような闘いっていうのは、基本的に間違っているって。初めて読んだ時にも、本当に自分の間違いを指摘されているって思いました。拘置所の中でですけれど。 ただ、今日読んでもう一回思ったんですけども、教学研究所の声明の中で天皇制の問題については全然触れられていない。それから、こういうところで言うのは怒られるかもしれないけれども、私は東本願寺のような大きな建物っていうか、巨大な伽藍みたいなものを信仰の対象にするっていうことに、ある種の気持ち悪さっていうものを感じるんです。それは天理教の影響かもしれないです。親父が山を売ったり…苦しみながらとにかく金をせっせとあげて、巨大な教団の建物を建てていくのを見ているものですから。宗教の建築がああいう巨大なものを建てるっていうのは、どうも私は…。大きなものを建ててもいいけど、すごいいかめしい威厳っていうか、人を圧倒するような建物を建てるっていうこと自体が、親鸞とか、本当の人間の解放を願う人の発想ではないだろうって私は思います。 この教学研究所の声明に書いてあったんですけども、伽藍とか巨大な建物が、親鸞の言う、凡夫の人の願いを込めたものだった、みたいに言われるけど、本当にそうだったのかなぁ、それはちょっと言葉の言い違いじゃないかなあと。仮にそういうふうに、人々の心を育てていくんだったら、それは間違いじゃないかなと。そんな大きな建物を建てて、そこに何か意味を持たせるっていうことは、違うんじゃないか。大切なことは一人一人の人間じゃないか。一人一人の人間が変わっていける場として造られるならそれはそれでいいし、そこで本当に教えられて、あるいは問答しあって、自分たちが教えられていく場ならそれはそれでいいけども。あまりにもいかめしくて、あまりにも大きなものっていうのは、やっぱり人間の精神的な何かを圧倒し、どこかその巨大な影響力でもって、人間を組織していくようなところがあるような気がするんです。だから馴染めないです。それは私の単なる心の傷かもしれないけれども。 こういう建物(内陣)も嫌いです私。正直言って。それはとても凡夫のどうのこうの言っている世界じゃないような気がする。何でこんな金ピカに飾らなきゃならないのか。もっと素朴であっていいし、普通であっていいと思うし、仮に信仰の対象っていうのは、何かあるにしても、私にはとてもこういうことはしたくない世界ではあるんですね。 今日ここへ来て、休憩しているお部屋の中で、ここで毎月開かれているいろんな人のお話のテーマとかを見て、なんか恐れ多いって(笑い)。こんな人がこんなことを話されている人の前で話せることは、私にはあるかなって、思っていたんですけど。 究所の声明が出るってことは、それはものすごいことで。しかも、こんなところにこの私を招いてくださって、話が出来るってこと自体が、普通のことじゃ考えられないことですね。敵が…敵を…私を呼ばれて。私の話を聞いてくださるってことはものすごい世界だとは確かに思います。でもなおかつ何か釈然としない、そういうことも含めて真宗っていうのはあるんだろうって。よく「非違の歴史」、「非違」を包むありかたとかって言われますけど、たぶんそういうことなんだろうな、と思いますけど。 教学研究所の声明の中に、「われわれは正義の戦士の名を自らに冠する英雄主義に酔いしれるより、底下の凡愚の自覚に生きる道を選ぶべきである」っていわれる言葉と、どうしても私は、本願寺の巨大な建物とか内陣のかざり方とか、よくわからないところがありますね。自力と他力 お昼に松岡部会長さんと話をして「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉を聞いて、ああそうだなあって思ったことですけど、私は自分が変わってきた過程っていうのは、確かに、自力じゃなかったですね。いろんな状況が私をお膳立てしてくれて、自分が爆弾闘争に入ったことも含めて、それは、ある意味ではそれ自体が他力というか、なんかもっと大きなものの力があったのかもしれないって思えれば思えるし。自分が爆弾闘争から最初の足を洗うっていうか、誤爆事件を起こすこと自体が、女の人がいて体の弱っていくというかたちで私を引きずり込んでくれるわけですよね。誤爆事件でやっと放棄出来るわけ。彼女がいてくれたおかげで私は爆弾闘争をやめることが出来た。彼女がもし元気で、私と同じようにやる気満々の人だったら、どんなふうになっていたかわからない。だけど、彼女が病んで、本当にどうしようもなくなっていったからこそ、私は救われていく道が出来た。しかも彼女は逃亡生活始まって回復していく。私は心理療法をやっていたら治ってくる。治ることに感動してしまう。わあっと。ただ、感動してしまうところでまた自分が誇らしげになっていくんですけど。 確かにそれから拘置所に行ってからも、私のそばに無期囚の、もっと自分を文章化して捉え直さなきゃ駄目だよ、って言ってくれる人がおってくれたり。結婚のことで自分を引き受けて、ともかく結婚相手になってくれたり、いろんなことをしてくれる人がいて。いろんなことが契機になって、気付かせられてくる。自分が気付こうとするんじゃなくても、状況がどんどんどんどん私をそういうところに追い込んでっては、私はそのどん底で「ああこれはもうどうしようもない」って、その時自分を見つめる行為をするわけですけれども。それは自力かっていうと…全体的な、何か知らんが私を変えさせた、私を変える方向へ促してくれて。でも、その中で自分をみつめるっていう、主体的な選択もないと変われない、っていうところもあって。それはすごく大切なことで、私のように変われた人もいれば変われなかった人もいるわけですよね。いろんなことがあっても。 自分は、他力と自力ってよくわからないところがあるんですけども。私が刑務所にいた時に、東本願寺とか西本願寺の教誨師の先生によく話をして、僕は具体的に自分の小さい時のことを含めていろんな関係っていうのを見つめ直す。文章化でもあれ、話し合いでもいい、見つめ直すことによって、自分がどういう人間かということを知っていかないと、自分が変わっていけない、ていうようなことをよく言って。自分が主体的な選択をすることは大切なことだって、よく主張して。で、「それは自力であって、自分のはからいではやっぱりあかんのだよ」って主張する人もいた。一方で「それが他力ですよ」って言う人もいた。「それも他力。主体的な選択をするのも、それも他力っていうか、それでいいんだ、そうあるべきだ」っていう人もいたんですけど。今日、休憩したところでタイトルなんかを読むだけでやっぱり、いろんな問答とか話しあいの中で、お互いがお互いのありようを見つめ直していくってことが、いつも生まれてるのかなぁ、とは思いましたけど。 ただ、それにしても、例えば、「錦絵」か何だかしらないけど、そういうものがちょっと前に出版されようとしたってことが起こったり。 あるいは、東本願寺と天皇家との関わり、っていうのはどういうふうになっているのか、そういうことについて、あんまり話を聞いたことがない。東本願寺の人も、西本願寺の人もそうですけど。聞いたことがないし…。本当に私は私で自分の醜さっていうか、自分のどうしようもなさっていうのを見つめたときに、天皇家の人々についても、きちんと言っていくっていう必要があるんだってことを思ったんですけど。真宗って、具体的な、例えば国家とのありようを、きちんと見つめられていない部分もあるんじゃないか。あるいは、見つめることが一つの課題となっているようなことが…。
2009.08.09
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雨が続いた森は 雨が続いた森のなかは、キノコがたくさん出てきている。
2009.08.07
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2009.08.01
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取っ手を与え一分間回すと一時間電灯がつくという優れもの。野の花社の懐中電灯は皆これにするつもり。1260円。
2009.08.01
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