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知人たちと3人で遠出した帰り、塩沢石打SA 付近でガソリンがなくなりかけていた事に気がついた。土樽〜塩沢石打の間に給油できるSA がなかったことを忘れていて(表示も多分見落としていた)ので一旦塩沢石打IC で降りて、一般道のスタンドに向かっている途中、知人の一人が地元の物産店のようなところを見つけたので給油後行ってみた。そこには海産物が中心で、思ったよりも売り場が広かったので少し時間をとって回っていたら、ここを見つけた知人が嬉しそうに酒を持ってきた。高千代という酒造メーカーで私は知らなかったけれど、魚沼の酒造で同じ新潟県内なのに新潟市では手に入らないとのこと。その知人が酒売り場から戻ってこないと思ったら、高千代を知っているということでお店の人が嬉しくなってしまったらしくずっと話をしていたとのこと。それを聞いて、ビール一杯で顔が真っ赤になる自身のある私だけれど、買ってみることにした。家で飲んでみると、夏向きな飲み心地が軽く、自制しないといくらでも飲めそうな味。いい買い物だったかも。
June 30, 2013
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更新が遅れてしまったけれど、災害ボランティア部活動2日目。活動内容はいちご農家の支援。二日目の朝は大体ひどい眠気のなかで起きる。前日は夕飯の後すぐに寝てしまったけれどそれでも眠気がひどい。学生たちは夕飯の後はuno やなんやらで遅くまで起きていたようだが、これが若さかと思い知らされる。 この日の作業は山元町にあるH いちご農園での農業支援。作業前には被災時の話を聞くことができた。いちごの親株が流されてしまったこと。残った作物を親株に転用した話。海水が混じった水を親株を枯らさないためにイチかバチかで使った話。そんななかで、息子さんの一人が、高校での防災訓練の経験をもとに、ストーブや鍋、灯油を持ってきてくれたおかげで助かった話や、別の息子さんは自動車学校のバスに乗っていたら助からなかったかもしれなかったこと。そしてその時のバスにはその息子さんの仲の良かった友人や知人が乗っていた話なども含まれていた。この山元町は、あまり報道されなかったけれど、多くの人が亡くなった土地で、未だに海沿いには瓦礫が残るところ。そして、いまでも多くの人が狭い仮設住宅で過ごしている。この農園のH さんの話の最後に「復興はいつになるか?」という質問に対して、言いわれた「復興は私の代ではおわらない、30年以上かけて培ったものが一瞬でなくなったてしまったのだから」という言葉が頭に残る。 あとで、農場で働く人から聞いた話では、ようやく山元町の復興計画が動き出したがそれは住民の望むものとは違うもののようだ。詳しくはわからなかったが、使えなくなった田畑を他の用途に転用して、新しい土地を行政が用意するというものらしい。私は農業には詳しくないのでわからないけれど、新しい土地を田畑にすることは容易ではないと思うけれど。 Hさんの話の後は農園の好意でいちご狩りをさせてもらった。いちごの花きれいないちごが沢山なっていた。最初、遠慮して小ぶりで形の悪いのから食べてみたらこれが美味く、そういうのを選んでとることにした。中には身が硬くてあまり美味しくないのがあったが、意外な発見だった。そのせいで昼ごはん前にいちごを食べ過ぎてしまったが・・・。昼食後作業開始。私たちの班は、いちごの親株の茎や葉の剪定作業を担当した。親株のしおれた葉を取り除く。それから走出枝とよばれる枝が伸びて、その枝の先端に根ができて新しい株になるという部分の余計な茎や葉を取り除く。この作業をやっているあいだに他の班は、新しい株を植えるための小型ポットの準備をしていた。ビニールハウス一つ分の剪定作業がおわってから、少しだけこの走出枝を小型ポットに移す作業をしてこの日の作業終了。撤収作業をして、バスに乗り込む。私は次の日に友人の結婚式が千葉であるので、白石蔵王駅で下ろしてもらい、東北新幹線で上野に向かった。H いちご農園の皆様、ありがとうございました。
June 15, 2013
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創立記念日を利用して、災害ボランティア部の山元町での活動。今回はこれまで何度かお世話になったNPOのFさんのもとで農場の瓦礫除去と、これまでの活動で初のいちご農園での支援活動になった。津波の影響で多くの人が亡くなり、助かった人もいまでも多くが仮設住宅での生活を続けている。山元町はそんな被災地の一つ。新潟から比較的近いことから私たちや新潟恩返し隊などのボランティア団体も訪れる土地。今回はこのツアーに新しく多くの一年生部員が参加してくれて、総勢47名の大掛かりなツアーだ。一日目 畑の瓦礫除去。午前2時30分集合、同3時出発でバスに乗り込み山元町へ向かう。途中2回の休憩を挟み、常磐線山下駅前へ何度かこのブログでも出てきた山下駅。駅舎が取り壊されていた。山元町で震災以来活動を続けているNPO のFさんと合流して活動開始。作業前に、復旧が進んでいない海辺の地域をFさんの案内で回り、津波で破壊された小学校の校舎を見学した。ここでは校長先生の機転で犠牲者を出さずに住んだが、校舎はもはや使えるものではなく、犠牲者が出なかったことが奇跡とも思える状態だった。山本駅に戻り、現場に向かう途中。踏切だったところから見える風景今回は畑の土を篩にかけて細かい瓦礫や石を取る、土埃にまみれる作業だ。あまり広くない畑を学生は作業を続けている。篩ににかけて残ったものは、雑草、小石が多いけれど、その他にコンクリや細かいガラスがあり、これを分別して土嚢袋に入れる。曇り時々雨の予報が外れ、曇り空から時々日が刺す。今回も体力勝負な活動だった。作業終了後、山元町のFM局りんごラジオを見学。ここは震災の時に設置された臨災局と呼ばれるラジオ局で、震災直後のラジオ局の活動、災害時の情報の重要性、そのなかでの地域のラジオ局の役割などを聞くことが出来た。それだけでなく、なんと、学生の代表と顧問(私ではなく正顧問の先生)で15分間の生放送の時間をとってくれて、私たちの活動についてトーク番組が作られた。また、学生の「りんごラジオ!」のかけ声をジングルに使ってくれるということで思わぬ活動になった。ここで一日目の活動をおえ、Fさんと、りんごラジオの皆様と別れ宿に向かった。FさんをはじめNPO未来へ向かって助け合いの皆様、りんごラジオの皆様。ありがとうございました。二日目につづく。
June 15, 2013
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前回、郵便事故でレターパックが届かなかったということを書いたけれど、その顛末。そして、郵便局の担当の方に対してぶつけた怒りへの反省で書きます。買った製品のトラブルで一旦店側に返信用のレターパックを同封して送り返したが、いくら待っても郵便が届かない。そこで、店に問い合わせると、とっくに発送したという返事。そこで郵便事故が発覚。その、調査の回答があった。郵便局の担当の方から私の携帯に連絡があり、郵便物を発見できなかった事が知らされた。先方が追跡番号を書かれたステッカーを捨ててしまい追跡番号がわからないため、ここで断念ということのようだ。予想通りの結果だったけれど、郵便局の担当者に対する私の言葉は既にトゲだらけになっている。追跡番号さえわかれば、レターパックだけ(つまり350円分)は帰ってくることもあるようだが、それすらもしてもらえない。私が絶句していると、「私の名前で謝罪文を送ります」と提案。そこで、私はまた苛立ち、「失礼ですが、XX さんの役職は?」と聞くと課長代理とのこと、「課長代理ですか・・・、まあ、責任ある立場ですね・・・」と今思えばとんでもなく失礼な言い方が口をつく。とはいえ、◯◯代理という役職はつかみどころがない。相手との交渉のためにとりあえず付けられる名前だけの役職のこともあり、本当に不在の役職の代理のこともある。そんな考えが頭をよぎる。「まあ、郵便局長の名前で謝罪文がでたところで、誰か別の人が書いて局長の名前が書かれるだけの紙切れでしょうから・・・。」私の言葉はもはやトゲを通り越している。ここまで来て、ようやく「謝罪に伺います」という提案がでた。私は反射的に「その言葉が欲しかったんです。なんで最初に言ってくれなかったのです?」と返した。この自分の言葉で、自分の苛立ちの理由がはっきりした。きっと最初にこれを言ってもらえていたらきっとこんなに苛立たなかったし担当の方に対してこんなに失礼な言葉を並べなかった。それがわかったので、もうそれ以上は責める気にもなれなくなり、「それを言ってもらえたので、謝罪文だけで良いです」といってこの件は終わりにした。でも、謝罪文だけはもらうことにしたが。苛立ちにまかせて大人げないことをしてしまった。
June 6, 2013
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