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月曜日は、大阪千里でルネサンスを歌う合唱団アイヴィーチャペル合唱アカデミーの練習日、、ですが、今日は皆で京都でワークショップの見学に、、Oxford出身でCambridgeで教鞭を取っているDr.Edward Wickham氏のイギリス・ルネサンス合唱音楽のワークショップがありました。なかなかルネサンスの音楽のしかも合唱でのワークショップにはお目にかかる機会も少なく、色々と刺激を受け、充実した時間でした。曲はWilliam Byrd Mass for 4 voices合唱は池田室内合唱団(S2、A1、Tn1、Bs2、計6名)ルネサンスの音楽が好きな人たちが集まってこういう地道な合唱活動を続けている、、ということはとても頼もしいことです。私の大学時代の声楽科仲間からもルネサンス、、というと「オタク」「小難しい」といったネガティヴな言葉ばかり投げかけられることも多く、実際、こういった音楽に関わっている、、というと、、関西の声楽界の少数民族、、といったとこかもしれません、、。さて、それはさておき、、EnglishあるいはヨーロッパのMassのTraditionとWickham氏のオリジナルな音楽の兼ね合いが最も興味惹かれるところでした。初めはByrd時代のカトリックスタイルのミサのあり方のお話から始まりました、、。さて、実際のWorkshopですが、、ポリフォニーの模倣のテーマを同一歌詞でありながらもそれぞれ異なったキャラクターで歌わせるところは非常に面白いものでした。ただ、これは彼のオリジナルな感性によるものとしつつ、大人数の合唱の場合は同じキャラクターで統一する方が望ましい事、少人数の場合にのみホモフォニー部分とポリフォニーをより際だたせ音楽をより豊かな表現とする手段として有効であるという事、ディクションやアーティキュレーションの変化ではなくあくまでも音色やテンションなどの変化によるもの、伝統と個性の兼ね合いがかいま見られて、これは面白いものでした。また、「Gloria の"Quoniam tu solus sanctus" からEnglandの伝統として速くするのだが 何故だと思いますか?」「何故か、、、それは 速くしたほうがクライマックスが盛り上がって良い、 と指揮者が思ったから、そうなった。」 (伝統とはそんなものかも、、、、。)また、この部分から少し発展して、、これはカンタータ他、歌に限らず器楽とのアンサンブルで度々経験することですが、 指揮者が居るときと、指揮者無しで演奏者だけでアンサンブルをするときとでは音楽の作り方が変わる、という非常に現実的な音楽の処し方の例も示して貰え指揮者の立場から見ても歌い手の立場から見ても有り難い例も少しではありますが示して貰えました。あと、ルネサンスとバロックによって違う音楽の歌い方ディクションに従ったアーティキュレーション、Suspensionについて、、、などルネサンスの定石についてのお話も、、また、Agnus Deiでバード特有のSuspensionの連続した用いられかたの説明も、、それよりもなによりも、、これまでずっと、そうだったけれど、いつもこういった経験をすると感じるのは、日本と違った環境の中で 日々のこととして音楽があることの大きさを痛感します。好きな音楽、取り組んでいる音楽が日本のものではない、、という現実をつきつけられている事ではありますが、、。でも、ルネサンス音楽が好きな人たちがこれだけ集まって、地下のホールでこういった催しをやっている、、しかも中身は濃い、、皆、満足して、何かを得て帰る、、何か、イングランドの隠れカトリックの信者のミサ、、そのもののようでもありました、、。何か厳しい現実だけでも無いように思いました。次の月曜日の練習が楽しみです、、、。
July 10, 2006
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朝からレッスン、昼から文化教室、夜は合唱団のパート練習、、と一日のお仕事を終え、、、よし、今日は西宮北口のIrish Pubへ行こう!と思い、JR大阪駅ではなく、、阪急梅田駅へ向かった。歩きながら、、、あ、そうそう、フルートのhataoくんにちょっと確認したいこともあったな、、、。で、そういえばフランス人のkumaさん、会えたら面白いな、、、と色々考えながら、電車に乗ろうと車両を覗くと、、あらら、どっかで見た人、、kumaさんでした。びっくり、、。パブについたら今日はhataoくん、そしてtoyoakiさんのGuitarの演奏でした、、フランス人のkumaさん、禅宗のお坊さんでもある、、パリでお坊さんになったらしい、、。彼はhataoくんのファンであり生徒でもある。今日あったのも偶然ではなく、自然に「なった」こと、、Let it be 、、だって、、あと、彼が言うには、人が音楽や友人や恋人や家族などなど、、何かを求めるとき、、自分の外にある、その求める対象が重要なのではない、、。結局、手で砂をつかむようなもので、、自分の手に何かが残ることを期待するのでもない。音楽や友情や愛を得ようとした自分の中に、音楽や友情や愛、があるんだという事、、。『色即是空』だな、と聞いていて思った。英語が全て理解できた訳ではないが、、彼の話を目を見て、一生懸命聞こうとした、、ということは、話を聞こうと求め欲した自分、話をした彼の中にも、、互いの「自分」の中に欲したものがある、、ということなんだ。「得られなかった」「成し遂げられなかった」のでも無く、「得たぞ!」でも、「やった!」でも無く、、自分が見えるかどうか、、ということか、、、
July 6, 2006
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何の脈絡も無いが、さっきふとこんなことを思い出した。数年前、スペインのバルセロナを訪れたとき、 ランブラス通りには沢山の大道芸人がいた。音楽はもちろん、パントマイム、曲芸などなど、僕が面白かったのは漢字の書を実演販売するアジア人の存在。ヨーロッパの地でそういった路上パフォーマンスに出会うとアイルランドのコークで韓国製のカップ麺出会った時のように、異国で少しだけ日本に戻った様な気持ちになるのが面白い。さて、その書家達、おそらく中国系の人と思われたが、僕の記憶では3人以上は見かけた。その書家達は無駄な競争をしないようになのか、それぞれ距離を置いて出店していた。実は以前、旅行先のアメリカで日本の歌仲間達と冗談半分に、東洋趣味に便乗した商売は出来ないものか、、と似たような計画を話し合ったことがあったのだった、、。だからこの人たちを見た瞬間、「うわ!ほんまにやっとるやつがおった!」というのが正直な感想。が、その中でよく見ると人だかりのする書家が一人。その人だかり、見た目だけで判断すれば全員東洋系以外の人たち。そして、その書家やはり字が上手い。うわ~、と思わず唸る。筆運びも素晴らしい、、。そして、他の書家の店の前を通ると客はいない、、。作品(商品)を見ると、、「僕でも店出せそう、、。」その書家の一人と僕の目があった。日本人丸出しの僕の視線に彼は気まずそうな目をしていた、と感じたのは気のせいか、、?でも、客の殆どは漢字なんて読めないだろうし、習字の上手い下手などの予備知識や経験には乏しいはず、、何で、日本人の僕から見てもわかる上手い下手が欧米の観光客に分かるんだろう、、、?日本で逆の例も、そういえばいくつも思い当たる、、極めた美しさ、、って、なんにも境界線なんてないんだな、、そう思った、、。「上手いもんは上手い!」ということか。ん!とてもシンプルなんだ。
July 5, 2006
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