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(前回からの続き、、)ドの次に歌いやすいのはソ、またはファ、といった完全音程である。ソから完全四度下のレを歌い、ここで初めてドに対してのレという二度、つまり長音程が感じられる。レを感じたら、そこから次に完全五度でラを感じ取る。そして、ミ、シと続ける。決して、鍵盤の音を覚えて行くのではない。本来人間の中に備わっている音を感じて行くのだ。鍵盤楽器の調律の行程が理解出来る人なら、話は速いが、この行程を繰り返せば、全ての音程関係が感じられる。初心者でも殆ど無理無く歌う事が出来る。但し、ハンドサインを用いるなど、教師が生徒に音を示す工夫は必要である。で、理論上はこの方法はピタゴラス音律になってしまう。しかし、この方法によって音と音の「調和」を感じる事が出来る。すると、次の段階でド、ソ、レ、ラ、ミ、シまで感じた次の段階で、ドの次にミを歌っても不思議な事に調和した長三度をちゃんと感じる事が出来る。試しに初心者の多いとろでやってその日のうちに更に次の段階へ進んでも、生徒本人たちが気が付かない間に大全音や小全音すらも感じ取って歌っている事が聴いて取れる。人間の感覚が楽器のような器械では無く、ウルフとは無縁な存在だと教えられる。神がいるとしたなら、正に神の創造した調和が人間の持って生まれた音感の中にも存在していることになる。以前に様々なレベルの3つの合唱団でヘクサコードのソルミゼーションを試した事がある。そのときにもこの事は実感できた。これらの事は鍵盤から音を覚えさせようとする教師、そして鍵盤から音を覚えようとする生徒、という関係からは生まれてはこない。もし、鍵盤から音を覚え初めてしまったなら、繰り返しの練習を長い時間重ね、その後で音律の勉強を積み重ね、調和へ、と辿り着く事になる。この方法でも決して悪い結果は生まないと思う。あらゆる様式の音楽が様々な方法で歌える、という意味では最強の方法だと思う。が、声楽の場合は専門家、または器楽奏者向きではある。アマチュアの声楽でもソロの曲だけに徹する場合はこれでも良いとも思う。が、初心者の合唱で少人数でルネサンスのアカペラを求めている場合には果たしてどうだろう?以上の方法で歌わせてみても音程が悪い、という場合、これは体が言う事をきかない、というケースが殆どである。その場合は体の仕組み、機能、などなど、フィジカルな側面から人間の本来持っている感覚で声をとらえて行く練習が必要だ、、。
October 29, 2006
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前回の日記にこう書いた。「歌の楽譜、特に合唱の譜面に書かれた音を全てピアノで叩き、 どんな曲でも、ピアノの音で楽譜の音を覚えていく、、。この方法、どうにも気持ちが悪い、、。 人間が本来持っている音感をぶっ潰している。 」特にあとの二行、不十分な表現で何か引っかかりを感じてはいたので、この部分、更に補足をしておきたい。が、ブログは多くの立場の人が目を通す以上はやはり配慮は必要だ。今後は内容によっては誰に的を絞って書いているかを出来れば付記して行きたい。合唱に取り組む大多数を占めるであろう一般的な人たちには、こまかな説明よりも、ピアノが最も一般的に使用されている事、平均率で調律されている事が最も一般的、という理由から目の前にある状況をとらえるには「ピアノ」と書いた方が理解しやすい、そういった判断でこの表現にしたが「鍵盤楽器」という表現でも良かったかもしれない。ただ、「鍵盤楽器全般」といっても、神戸の六甲にある神港教会のオルガンの様に♭と♯が別鍵盤となっていて大全音や小全音の区別がつき、さらに平均率よりも純正な音を多く含む調律がなされている場合はこの限りではない。より音取りや譜読みでの問題は改善される。が、この神港教会のオルガンの様な鍵盤楽器がもし仮に一般的に普及していたとしても、やはり鍵盤楽器で合唱の楽譜の音を全て音取りしないほうが良い。人間が本来持っている音感はやはり「潰れる」。その理由はまだある。人間は完全音程の調和を誰でも聴く事が出来る。これが、人間が元々持っている音感。人間が本来持って生まれた音感では、ドの次の音は決してレでは無いという事実。つまり、鍵盤の見た目の順番どおりには人間本来の音感は備わっていない、という事実がある。音楽のトレーニング経験の無い人ほどこの人間の本質は歌う時に顕著に現れる。つづく、、、
October 29, 2006
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日記、書きはじめたら、また続けて書いてしまう。忙しいのに~(忙しいから?)さて、歌の楽譜、特に合唱の譜面に書かれた音を全てピアノで叩き、どんな曲でも、ピアノの音で楽譜の音を覚えていく、、。この方法、どうにも気持ちが悪い、、。人間が本来持っている音感をぶっ潰している。音感は後からつけるものではない。誰しも、元々持って生まれたもの。それを引き出してゆく作業と段階は必要だ。特にルネサンスのポリフォニーを歌ったり振ったりしていると、人間の中にも神の造った自然界の秩序と同じものが与えられ備わっている。だから、聴き、歌い、共鳴しあう。そしてマインドも共鳴しあう。そう考えていた事が手に取る様に良く分かる、、。決して難しい事ではない。最初は半音ぐらい下がってたって大丈夫。指揮に頼らず、ピアノに頼らず、聴きあいましょう。そのほうがずっとずっと、楽しいですよ。でも、フォーレは違う、、ピアノでとった方が奇麗。つまりは、その作品がどう作曲されたか、その工程に逆らわなければ自然に音楽に導かれる、という事ですね。
October 25, 2006
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実は先月の下旬、生徒の発表会を開いた。発表会というより、演奏会の前の段階「試演会」といった方が当てはまるかとも思う。その試演会は三人のお嬢さん方が主役。それぞれ音大卒業後、コンサート暦や留学歴もあり、既にある程度のキャリアを持った人たち。そんな人たちに去年からバロック音楽のアドバイスをしている。声楽家が二人に、チェンバロ初披露のピアニスト一人。「音楽はレッスンだけでは中々見えてこないものがある。」ということで、発表会をしよう!と、僕が言い出した。で、その試演会後、今日その中の一人のレッスンがあった。今回、彼女はBachのKantate BWV200のAria"Bekennen will ich seinen Namen"と、BartolomeoのAllelujaを持ってきた。他にChristoph Bachも歌ってみたい、と言っている。手に入りやすい一般的な曲か否かを問わず、素直に歌いたい曲を探そうとする姿勢はすごいな、と感心した。で、BartolomeoのAllelujaを中心に今日はレッスンしたが、メリスマの音の運びから始まり、アクセントの前の音の扱い、音の長短・密度の感じ方、レガートとそうでないところ、、等(結局みんな関連した同じ事、とも言えるが、、)をやった。今日の彼女はかなり良く理解して表現できていたと思う、、。歌っている合間の彼女の質問や話も僕にとって、なかなか面白くなってきた、、。ひょっとすると、試演会をやって一番勉強になったのは僕かもしれない、、。試演会終了直後もそう思っていたが、今日のレッスンで更にそう実感する事になった。特にチェンバロと必死で奮闘していたピアニスト、僕も歌なら具体的なアドバイスは出来ても、チェンバロへのアドバイスは確かな事が出来る自信は無い。『チェンバロの人って一体何やってたっけ?』僕もいろいろ考えた。最後のあわせの日、チェンバリストで音楽学者の三島郁さんに来てもらい、彼女はやっと専門家からのアドバイスを貰う事が出来た。三島さんもとても良いレッスンをする人なんだ、と嬉しい再発見。この、音楽創りの過程でほんのつかの間、一緒に悩んだ事は大きかった。歌で何をやっているか、やってきたか、僕の中での再発見ともなった。実は今日の歌のレッスンで、『チェンバロの人って一体何やってたっけ?』と悩んだ過程が、とても生きていたのだ、、。さてさて、もう一人のソプラノ。次の彼女とのレッスン、どんな発見があるか、、実に楽しみである、、。
October 24, 2006
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ブログの日記を書いたり書かなかったり、、本当に、気まぐれだ、、さて、久しぶりに、、昨日、10月22日、日曜日に大阪コーラルソサエティの練習があった。午前十時から午後四時まで、長丁場。みなさんお疲れ様でした。PalestrinaのミサやVictoria、Ingegneriのモテト、といったルネサンスのポリフォニー。一曲、グレゴリオ聖歌 Sicut cervusもある。そして、80年前この合唱団の発足するきっかけともなった賛美歌、これは、ホモフォニー。そして、FaureのRequiem。これだけたくさんの違ったモードの音楽をどう感じてもらい、どう表現してもらうか、、、、?コーラスは初めてという人も居る。歌自体、初めてという人も居る。オケ伴奏などで第九など大曲を歌いなれた人も多い。特にソプラノにはその様々な力と経験を持った人が入り交じっている、、。ソプラノパート全員で28名。発声もウォーミングアップの最初から、フレーズの歌い方に至るまで、丁寧に指導すればきれいに揃って歌える段階まで来た。(最初に比べればかなりのものだ!)しかし、毎回の練習でその段階を踏まないと歌えない!これだと、野球の試合中、バッターボックスの横で監督がずっと付きっきりで、手取り足取り指導すれば、打てる。という状態だ、、。その間、他の選手はほったらかしになってしまう、、、。ここ、数日、そのことで悩みまくっていた。そして、先日の練習、、マイミクの一人、Trobaritzさんが日記に書いていた「自分を大切に」という言葉を胸に皆の前に立つことにした。Palestrinaの練習の時、ある瞬間「振らない」という道が見えた、、そして、リズムも音程の注意も何もしないで、ただ音楽の中に浸る様に立つだけになった。(「した」、というより「なった」が自分の中では正しい。)結果は、、、、今は書かないでおこう、、。その音楽の中にいるとき、かつて小林道夫先生の棒で初めてバッハのカンタータのソロを歌ったときのことを思い出した。練習は小林先生がピアノを弾いて、オケ合わせは小林先生が丁寧に振ってくれた、、そして本番当日、ゲネはさっと通しただけだった。で、本番、、。小林先生は全く振らなかった。でも、今思い出しても胸が熱くなる。一瞬舞台上で「え?」と思ったけれど、音楽を伝えて貰った様に思う。音楽は自分の中にある
October 23, 2006
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