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2000年にワインサイトを立ち上げたとき、タイトルを何にするか悩んだ。最初、友人のアイデアで「S's Wine Directory」にしようと思ったが、「Direcotory」という単語があまり一般的でないことから、単に「S’s Wine」にした。しかし、これはこれで、「ブログのタイトルってなんて読むんですか?『えすずわいん』ですか?」などと問われることがあり、そのたびに、ゴロがよくないなぁと思っていた。2009年から5年ほど、ヨミウリオンライン上でコラムを掲載していた。「話飲徒然草」というタイトルは、当時編集を担当されていた山本昭彦さんがつけてくれたもので、私には恐れ多いものだったが、よい響きだと気に入っていた。ちなみに、リワルワインガイド誌でも長年コラムを書いていたが、こちらのタイトル(編集部による命名)は、最初のうち「ワインの保存」、テーマを絞らなくなってからは「ワインあれこれ」という何のひねりもないものだった。さて、YOLのコラムを終了するときに、せっかくなので、このタイトルを残したいなと思い、山本さんに相談の上、「話飲徒然草」というタイトルをこちらのブログに使わせてもらうことにした。ただ、近年ワインへの熱量が下がってくるにつれ、このタイトルは荷が重いなぁとも感じるようにもなってきた。それに、まれに会話の中で、ブログが話題になった時、「へぇ~、ブログやっているんですか?なんというタイトルですか?」と聞かれて、「話飲徒然草」と答えるのは、地味に恥ずかしかった。それで、なにか良いタイトルはないかと、ときどき思いを巡らせるのだが、この手のネーミングの才能が全くない私にはよい案が一向に思い浮かばない。ワインへの熱意が下がっているといいながらも、ルーツはワインサイトだし、いきなり全く異なるタイトルにするのも憚られる。よって「話飲」の文字は残しておきたい。「話」という語が、最近熱を上げている語学学習にも通じるという、ややこじつけ的な理由もある。「話飲備忘録」「話飲顛末記」「話飲懺悔録」「話飲回顧録」「話飲酔談」など、いくつか考えたのだが、どれもピンとこない。備忘録では平凡すぎるし、顛末記だとなにやらやらかしたように聞こえる。懺悔録は逆に「未分不相応なワインを飲みまくっている」自慢話みたいなノリになってしまいそうで、これも違う。といって回顧録にすると、コンテンツ自体に終了感が漂ってしまう。「酔談」がもっとも響きがよいと思ったが、飲み助日記的な印象を与えそうな懸念がある。やはり、私にはこの手のセンスがないらしい。とりあえず、現時点では、暫定的に「話飲歳時記」としているが、このタイトルも平凡極まりないので、遠からず変えようと思っている。ということで、もうしばらく悩んだ上で、結局、最後は元に戻すかもしれない。あらためて山本昭彦さんは偉大だと思う今日この頃である。いや、そもそも誰も私のブログのタイトルなんて気にしていない?そういわれてしまうと身も蓋もないのですがね。追記:3月1日現在。良いアイデアが浮かばないので、いったん元に戻すことにしました。
2024年02月16日
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このようなネタで年をまたぎたくないので、これを最後にしたい。翌日も朝の8時半から職人さんがいらして、今度は2階洗面所の床下に孔を開けて漏水箇所を探すことになった。毎日使っている洗面所の手前にこのような大きな穴が開けねばならないのは、なんともやるせない思いだった。漏水していたのは、自宅に2系統通じている給水管のうち、給湯器の配管の方だった。まさにここだという漏水箇所には結局辿り着けなかったようだが、2階から上に通じる給水館の枝分かれ部分をカットしたところ、水漏れは止まったとのことだった。これによって、3階の洗面所のお湯が使えなくなってしまったが、背に腹は代えられない。1階天井、2階洗面所床と2箇所大きな孔を開けてきて、これ以上は勘弁だったし、といって中途半端に修理を終了して、再び漏水したらもうカミさんも私も限界だと思ったからだ。ちなみに、1F天井と2F洗面所床の孔は後日このように塞いて点検口としてもらった。自宅内に大きな孔を開けねばならないのは辛かったが、このように綺麗に仕上げてもらえたので、よしとしたい。というか、今後、万が一似たようなことが起きたときのために、点検口を設置したのだと前向きに考えたい。なお、クロスの張り替えは1月中に行う予定だ。カミサンも私もこの件ですっかり疲れ果ててしまったが、それでもいくつか幸いだったことがある。まず第一に、漏れたのが下水でなく給水菅だったこと。これが下水だったら、1階はしばらく使えなかったと思う。もうひとつは、漏水が始まったのが師走の忙しい時期とはいえ、年末年始にはかからなかったことだ。さらに、旧知の(家をリフォームしてもらった)業者もろもろ手を尽くしてくれたおかげで、比較的順調に修理が終わったのも幸いだった。漏水がひどくなったのが週末だったこともあり、一時はネットで検索して休日対応してくれる業者を探そうかとも思ったのが、終わってみれば、一見の業者に頼まなくて本当によかったと思う。#週末や夜間の水の事故で、とんでもない高額請求されたという事例が後を立たないようである。実際、私の実家は、日曜日の夜にトイレが詰まり、業者を呼んだら、便器そのものを変えなければならないと言われて、結局30万もかかったことがあった。みなさんも注意されたし。なお、我が家は総合家財保険に入っているが、この手の一般的な家財保険は排水管の修理そのものには効かない。もっとも、家財の被害、すなわちクロスや壁紙などには使えるようなので、多少は保険でカバーしてもらえそうだ。いろいろと困難つづきだった年の最後に、これまたとどめのような災難だった。全く酷い思いをしたものだが、この事件とともに、1年間の悪運、悪縁をすべて水に流して、新年を迎えたいものである。おあとがよろしいようで。
2023年12月31日
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不安な一夜をなんとか乗り切り、ようやく月曜の朝8時半に業者が来てくれた。このような非常事態にもかかわらず、私は仕事を休むことができず、結局カミサンにすべて対応してもらった。ホント、仕事もう辞めたい‥。天井を開いた途端、土砂降りのように水滴が落ちてくる様子が、カミサンからビデオで送られてきたのだが、楽天ブログでは動画を載せられないのが残念。水が天井に染み込んだ水で天井が脆くなっていたようで、切り込みを入れた部分の天井の一部が崩落してしまった。天井を開いただけでは配管の漏れている箇所は特定できず、翌日、2階洗面所の床下に穴を開けて配管を確認することになった。1階の漏水箇所はこのようにビニールを張って、一箇所に水を集め、そこから下に落ちるようにしたので、一列にずらっとバケツをおく必要はなくなった。こういうところの対応はさすが手慣れたものだと感心した。壁紙はそこかしこがこんな感じ。酷いものである。前のエントリーにも買いたように、水漏れ箇所から遠く離れた納戸の天井もこのように水が溜まってしまっていた。もう1日対応が遅かったら、本当に大変なことになったいたかもしれない。さらに続く。
2023年12月30日
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まるでマンガか安普請のドラマにでも出てきそうな、雨漏りしまくりのボロ家に見えるかもしれないが、ほんの2週間ほど前のわが家の写真である。全くの不意打ちだった。こんなことが突然起こるとは、想いもしていなかった。事の起こりは、12月9日(土)。この日、休日出勤日の私が夕刻、自宅に帰ってみると、カミサンが「窓の上から何やら水が漏れている」というのだ。たしかに、ポツリポツリと天井の隅から窓に向かって滴が垂れている。カミサンが身近にある板材やらビニールやらで応急処置を施して、とりあえず流れ落ちてきた水はビニール袋に貯まるようにしてあった。実生活上はさした問題ではないではない(とこの時は思った)が、問題は水がどこから漏れているかだ。窓ぎわということで、最初、外の雨どいが壊れて家の中に雨水が流れ込んでいるのかと思った。しかし、この日は晴天だったし、それ以前も数日間にわたって、雨が降った記憶はない。あらためて家の外から確認したが、雨どいの水が天井を伝って流れてくるような経路はない。その一方で、廊下の真上には、トイレと風呂、洗面所がある。昔、カミサンが洗面台の掃除中に誤って配管の継ぎ目を外してしまい、洗面所が水浸しになったことがあった。とはいえ、そのときは1階まで浸水したわけではなかった。今回、目視した範囲では、洗面台の配管に異常はなく、トイレも漏れたり溜まったりしている様子はない。そうなると、天井をを通っている水道の配管のどこからか水が漏れだしていることを疑わざるをえないのだが、こればかりは目視で確認しようがないし、窓際を配管が通っているという話も聞いたことがない。自分達だけではお手上げである。まあ、漏れている水の量も大したことはなかったし、そのうち止まるかもしれないので、とりあえず、週末様子をみて、月曜日以降に、いつも世話になっている工務店の職人さんに来てもらおうということになった。ところが、である。日曜日の朝(写真はすでに夕刻だが…)、起きてみると、廊下が水浸しになっているではないか。だんだんと水漏れのペースが速まり、カミサンが用意していたビニール袋からあふれ出してしまったようなのだ。これはいかんと、あらためてビニール袋を張りなおそうとしたところ、最初の箇所以外にも3か所から、同じように水漏れしていることを確認。このあたりで、カミサンも私も、事態を軽く見すぎていたことをあらためて認識する。水漏れは時間とともに勢いを増し、もはやポツリポツリというペースではなくなってきた。また、漏れてくる箇所もだんだんと増えてきた。酷い箇所では、1時間で大きなコップ一杯分ほど溜まってしまう。上の写真は、ビニール袋で受けるのをやめて、ごみ収集袋に変えたところだ。しかし、これではビニールに水が溜まると、その重みで支えの板が保たなくなるのは明白。たまらず工務店に再度電話をしたが、日曜日ということで職人さんを手配することはできず、早くて月曜日の午前中だという。といって、これだけのペースで水が漏れてくるのだから、ほったらかしにしておくはいけない。結局日曜日の午後から、ほぼ1時間おきにたまった水を汲みだすという作業に奔走することになった。そうこうするうちに、水の勢いはさらに増してくる。1時間にコップ1杯だった漏水量が、夜には風呂桶一杯ぐらいのペースになってきた。さらにショックなことが起きた。ビニール袋を止めるために刺していた天井の画びょうを抜いたところ、なんとそこからも水漏れが始まったではないか。これは、ひょっとして天井全体がすでに水浸しということなのか。あらためて、天井を触ってみると、一部が明らかにグッショリと湿って重々しい感じになっている。写真ではよくからないかもしれないが、壁のあちこちにも水膨れのような膨らみが出来始めていた。天井の水が、壁紙の裏側を伝って、天井から水が滴り落ちてきているということなのだろう。正直、このころにはカミサンも私も恐慌状態だった。あちこちにたまった水を汲みださないと、あっという間に廊下が水浸しになってしまうし、そこかしこの壁紙はぶよぶよと膨らんでくるし…。そのうちに天井が崩落するのではないかという恐怖もあった。作業の合間に実家や友人にこの惨状を伝えたのだが、LINEではこの切迫感はまったく伝わらないのが悲しかった。何度もしつこいと思いつつ、あらためて工務店に電話で催促。我が家を使い続けられなくなるかの瀬戸際だとまで言って、翌朝8時過ぎに職人さんに来てもらえることになった。結局、その晩、私はほぼ1~2時間おきに起きて、夜の間ずっと水の汲みだしに追われることになった。
2023年12月27日
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子どものころから川が好きだった。今でも渓谷を訪れるのは好きだし、そこまでいかずとも、昨年は野川や仙川べりをずっと歩いてみたもした。そうこうするうち、なんの縁か、オフィスも川沿いになった。残念ながら、沿岸を散歩しようというような風情のある川ではない。都内でよく見かける、首都高速下の、お濠のような水路である。そもそも、これって川なのだろうか?私も最初、お濠の端だとばかり思っていたが、調べてみると、神田川から分かれて、隅田川に合流している「日本橋川」という川なのだそうだ。 川の流れはほとんどなく、むしろ上流に向かって少しずつ流れていることすらある。潮位の影響を受けるらしい。長さは約4.7km、そのほとんどは首都高速の下に位置し、日の光があたる区間は500mほどに過ぎないらしい。水深は4m前後と結構なものである。15~17世紀にかけて整えられ、江戸時代は水路として栄えた。その名残で、沿岸には「〇〇河岸」という地名がいくつか残っている。ちなみにこの橋は、かの「一ツ橋」で、近隣には一橋大学ゆかりの「如水会館」もある。さて、この日本橋川、近隣のオフィスで働いていて閉口するのは、時に「クサい」ことである。いつもというわけではないのだが、雨の日やその翌日などに、ドブのようなにおいが漂ってくることがある。どおりで、オフィスの家賃も安いわけである。調べてみると、これらの川の水に流れ込むのは、基本的には下水の処理水なので、それほど汚いはずはないのだが、大雨の際など、下水が処理されないまま川に流れてしまうことがあるのだそうだ。おそらくそれがにおいの原因なのだろう。(とはいえ、大雨でなく、ちょっとした雨でも臭くなる気がするが。)橋の上から見た川面の色調も、よく言えば濃緑、悪く言えばドブネズミ色といったところで、お世辞にも綺麗には感じられないし、川底にはヘドロが堆積していると思われる。日本橋川における水質の現状と その改善に関する解析的検討↑日本橋川の水質に関して、学術的な論文もあった。なかなか興味深い内容だ。
2023年09月22日
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不思議と、何度も同じ夢を見ることがある。この夢もそのひとつだ。なんということのない夢だが、あまりに何度も繰り返し見るので、記録に留めてておくことにした。どなたか夢分析してください。私は新居に入居していた。そこは郊外、というかかなりの田舎で、近郊でいえば奥多摩ぐらいのイメージだ。私が入手した住居は、年数を経た平屋で、縦に細長い形状をしている。家屋は川に沿うように建てられており、下流に向かって、土地が少し低くなっている。盛り土等を施していないので、家の中は、部屋と部屋の間に段差のあるところがある。部屋はすべて畳張りの和室で、襖で仕切られている。これらが一直線に並んでいる。玄関は川の上流側にあり、玄関をくぐるとまず10畳ぐらいの大きめの部屋がある。襖を開ければ、ほぼ同じ広さの和室に連なっている。普段、私はおもにこの2部屋で生活をしている。その次の部屋には時代ものの箪笥や骨とう品のような家具などが多く置かれ、天井には額がいくつかかかっている。そこから先も襖を開けるとさらに部屋が連なっているが、その幅はだんだんと狭くなる。部屋数は全部で7部屋ぐらいだろうか。一部の部屋と部屋の間には段差があって一段ずつ低くなっている。なので、襖を全開にしても、先の方まで見渡せない。逆に奥の方の部屋から見上げると、段々畑のような配置になっている。玄関から向かって左側に、縁側のような長い廊下があり、正面から襖を開けていかずとも、それぞれの部屋に入ることができる。4部屋目以降の部屋は狭小で寒々しく、ほとんど使われていないようである。一番奥手の部屋には勝手口があり、外から出入りできるようになっている。家はこんもりした緩い丘陵の傾斜地に建っている。川の下流側、傾斜を下りきったところには鉄道の駅がある。寂れた駅だが、人気がないわけではない。とはいえ、商店の類は一切ない。駅から舗装されていない林道に沿って緩い坂を上っていくと、そこには何軒かの豪邸がある。それらの家の玄関は非常に豪華なつくりで、戸建てというよりは旅館のようである。ただし、どの家も庭や縁側が通りに接しており、林道を歩いていくと、洗濯物を干したりしている住人の姿が丸見えである。毎回、なにやら申し訳ないような気持ちで通り抜けている。これらの家々を過ぎると、我が家の勝手口が見えてくる。玄関の裏側から見た我が家は、他の家々とは比べ物にならないほどみすぼらしい。おまけに勝手口の前には、前の住人が捨てたと思われる産廃ゴミが積み上げられている。ゴミの山の隣では、トタン板を自動で洗浄する機械?が騒々しく稼働している。しかも、洗浄されているトタンは錆が浮きながらも、極彩色にペイントされたものばかりで、それらがベルトコンベアーに乗って、不快な音を立てながら、ぐるぐると回る姿は、なにやら嘔吐感すら催すものである。勝手口のドアは木製で、素人がDIYで作ったかのような粗末なものだ。そもそもドアが小さくて、身をよじらねば中に入れない。やっとの思いで宅内に入ると、じめっとした、薄暗い土間のような小さなスペースがあり、ほんの少しかび臭い畳張りの部屋に続いている。これがすなわち、玄関から入って一番奥の和室だ。襖を開けて何部屋か進んでいけば、玄関側に出るのだが、勝手口に近い部屋は、総じて薄暗く、じんめりとしており、日ごろ、寝食をするにはふさわしくないと改めて感じさせるものだった。この家で好ましい点をひとつ挙げるとすれば、玄関から向かって左側に伸びている廊下が縁側のようになっていて、小川や里山など、外の景色がよく見えることだ。きっと、秋には虫の鳴き声が心地よく、月見もできそうだ。一方で、なんとかしたいのは、勝手口側の部屋の使い勝手の悪さと、そこに積まれた産廃ゴミだ。せっかくの縁側があるのに、夜間は奥の部屋にまで行こうという気にすらならない。なんとかしなければと毎回思いを巡らせるところで目が覚める。不思議なことに、ここ数年で10回近く、このような夢を見ている。私がこれまで住んだことのある家は、千歳烏山の実家と、三軒茶屋の自宅。栃木や鈴鹿の寮やアパートにも住んでいたこともあるが、夢に出てくるようなところに住んだ経験は全くない。とはいえ、襖で仕切られた畳敷きの家はテレビの紀行ものなどで見かけるものだし、私が時々訪問する古民家のようでもある。または、いつかどこかで宿泊した旅館の印象が私の潜在意識の中に残っているのかもしれない。もうひとつ、思い当たるのは、寝室の隣にある熱帯魚の水槽だ。この日も暑かったので、寝室のドアを開けて寝ていた。水槽のポンプの作動音と水の流れの音が、知らずとこのような夢に誘うのかもしれない。水の流れが小川を想起させるだけなら歓迎なのだが、も、産廃物や不快な機械は勘弁してほしい。いや、もしかしたら、トタンの機械の不快な騒音は、ワインセラーのコンプレッサーの動作音が悪さをしているのかもしれない、などと思ったりもする。
2023年09月19日
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ブログの下書き一覧の中に「今年の目標」というのが残っていたので読んでみたら、なんと2019年の初頭に書いたものをアップし忘れていたようです。2019年といえば、つい先日のような響きがありますが、すでに4年経過しているんですよね。今、振り返ってみて、目標を達成できたかどうかを検証してみました。***************前のエントリーで、「とにかくこの1年をなんとか乗り切ること、1年間無事に過ごすことが今年の目標」と書きましたが、それだけではさすがにディフェンシブすぎるので、少し具体的な目標を考えました。・勝算はなくとも、逃げ腰、及び腰にならずに、とにかく一生懸命、事に当たること。 ⇒△ というか、この数ヶ月後に当時の役職をクビになり、しばらく閑職に回されていたので、一生懸命もなにも…という感じでした。今の仕事については、まあ、それなりに頑張っているかなと思っています。・毎日ほんの少しずつでも「自分を高める」ようなことをすること。たとえば、英語の単語や漢字を少しずつ覚えるとか、時事問題の一節を読むとか、何かの資格の勉強などを一日一ページずつ進めるとか。 ⇒〇 これについては、それなりによくできたと思います。2019年に受けた通訳案内士は1次合格、2次で敗退。それがバネとなって、翌年通訳案内士合格、2021年は英検1級と宅建士に合格しました。2022年は簿記2級に合格しましたが、反面詰め込みすぎて、過去に学んだ英語や宅建の知識を忘れかけているのが問題です。23年は主にこれまで詰め込んだ知識の復習と再点検にあてたいと思っています。・膝のリハビリ継続と山歩きの再開。春には高尾山や鎌倉アルプス、弘法山などの軽めのところから始めて、秋にはまた三つ峠や大菩薩あたりにまた行けるようになりたい。⇒× これはダメでしたね。2019年はまだコロナ禍の前でしたが、結局行けたのは高尾山周辺のみ。今に至ってもまだ、膝はケガの前の状態には戻っておらず、全力で走ることができません。日常生活にさほど不便ははありませんが、毎日少しずつでもスクワットなどをやろうと心掛けている今日この頃です。その後も山歩きの本格的な再開はありませんが、最近写真に再び凝り出して、撮影のためにあちこちで歩くようになりました。・TOEICの勉強はせっかくなので、焦らず地道に続ける。年内930目標。⇒〇 こちらは2020年の初めに935点をとってクリア。2022年は細々と英会話を続けていましたが、通訳案内士や英検のために覚えた語彙や知識をかなり忘れてしまったので、来年あたり、もう一度きちんと学び直そうかと思い始めています。・ワインについては、年間を通じて週に2本消費のペースを守る。セラーのワインの消費を進めて、ストックをコンパクトにする。本当は寺田倉庫を引き払いたいところですが、それはもう少しかかりそうです。セラーのストック消化以外では「温故知新」と「シャンパーニュ」路線を継続ですかね。⇒〇 今は週2本にも満たず、およそ週に1本ぐらいのペースです。まったく飲まないよりは、少しアルコールが入った状態で就寝した方が翌日の体調は良いようなので、これからも週に1本、3日かけて開けるぐらいのペースにしようかとも思っています。問題は寺田倉庫ですね。セラーの在庫を処分したいのですが、それには相応の時間と労力が必要なので、なかなか手を付けられないまま月日が過ぎています。・ネクストキャリア、すなわち次の仕事の足がかりをみつけること。実はこのことが目下、最大の懸案なのです。⇒× はい、今も変わらず、最大の懸案です。コロナ禍だったり、体調が思わしくなかったりもして、なかなか積極的に次の仕事を見つけるというステイタスにならないまま3年が経過して、来年の11月でついに定年です。このまま再雇用で今の会社に残るのが現実的な選択ですが、条件や待遇的に非常に厳しくなるので、もうしばらく可能性を探りたい気持ちもあります。・今の自分の迷走は、足元の仕事や職場の状況の悪さということにもよりますが、それとともに、次のキャリア(65歳ぐらいまで)のプランが何も見えていなということもあります。わが家の場合、子どもがまだ高校生と中学生なので、早々に「ハッピーリタイア」というわけにはいきません。どんなにしんどくても仕事はし続けなければならない。その一方で、父親が享年52歳、祖父62歳、曾祖父58歳、高祖父52歳、親戚も男性は概ね60代またはそれ以前という短命の家系であることが、焦りを助長しています。人生100年時代と言いますが、おそらく自分の人生は60~70年ぐらいまでのものだと思います。ようするに、今のキャリアを終えたら、残された時間はそう長くなない(と思われる)のです。短命だと決め込むあたり、ちょっと普通の人とはずれた感覚かもしれませんが、限りある残された時間を、鬱々としながら無為に過ごしたくないという気持ちが根底に強くあって、それが自分自身の焦りになっているのが現状です。⇒子供二人はなんとか大学生になりましたが、学費の負担が予想以上に大きく参っています。60歳で完全にリタイアすることなど、どうにもできそうもないというシビアな現実を目の当たりにしています。また、眼病や肝臓の巨大嚢胞、しつこい偏頭痛や背中痛など、体調の面の不安は年々大きくなってきています。・ワインに前のめりになっていたころは、今の仕事をリタイアしたあとはワイン関連の仕事に就きたいと考えていたこともありました。その考えがまったく雲散霧消したわけではありませんが、今はそこまでのモチベーションが湧いてきません。私自身があまり酒を飲めなくなってきているということもありますし、自分の愛好するブルゴーニュが、一般愛好家が買える対象でなくなりつつあることもあるのかと思います。一応これでもシニアワインエキスパートの資格は持っているし、雑誌やYOLでコラムやレビューを書いていた経験もあるので、スーパーでワゴンセールの売り子ぐらいはやれるかなと思いますけどね(笑)。⇒モチベーションもなにも、現実には、60歳の業界未経験者ができるような仕事はないんですよね。Andyさんや山本昭彦さんなど、かつてご一緒した方の中には、ワインの世界でご活躍されている人もいて、本当にすごいと思います。私の場合、雑誌の連載もなくなり、ワインを買う機会も減り、業界ともすっかり縁遠くなってしまいました。せっかく築き上げた縁やリソース無駄にしてしまったなぁという悔恨の念は正直あります。というか、ワインに限らず、自分の人生において、人との出会いや縁をもっと大事にすればよかったなぁと切に感じる今日この頃です。そんなわけで、なんだかパッとしない内容ですが、今年も一年おつきあいいただき、どうもありがとうございました。「不惑」の年はとっくに過ぎているのに、未だジタバタと暗中模索の日々です。2023年についても似たような感じになりそうですが、22年より一歩でも半歩でも前進したいと思っています。来年の抱負はまた改めてどこかのタイミングで書きたいと思います。
2022年12月31日
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私が小学校に入る前ぐらいの頃、透明なヘルメットを被った宇宙人が主人公の短編アニメがテレビで放送されていました。アニメでなく、「テレビ漫画」と呼ばれていた時代の話です。「宇宙少年ソラン」とか、「遊星仮面」とか、あるいは「宇宙パトロールホッパ」とか、そんなメジャーなものではありません。もっとマイナーな、短編ものでした。主人公の透明なヘルメットと、2本のアンテナ(のようなもの)がとても印象に残っているものの、それ以外のことが全く思い出せません。ストーリーがどんなものだったのかも覚えていません。これだけの記憶を頼りに、ネットでなんとか見つからないかと思いたって、いろいろ検索をかけてみました。「1960年代 アニメ 宇宙 ヘルメット」で、ようやくそれらしき画像を発見しました。画像からリンクをたどってみると、「懐かしのUSAアニメ」という記事の中の一節でした。http://2016gomibako.web.fc2.com/TVAnime/ani00/usan.html↑この記事、大変懐かしく読ませていただきました。なんと、アメリカ製のアニメだったとは!同時に、Yahoo知恵袋でも似たような質問を見つけました。同じようなことを考えている人っているものですね。きっと同年代の方でしょう。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1043551610<質問>昭和40年代・・・だと思うのですが、マンガキッドボックスで放送していたアニメです。宇宙が舞台です。主人公は人間だか宇宙人だかよくわからないかんたんな線のキャラクターです。主人公は宇宙服を着ています。しゃべらず(びょびょびょ・・・とか言っていたような気もします)。男性のナレーションでお話が展開していきました。上記以外にストーリーも何も思い出せずにいます。どなたかおわかりになる方はいらっしゃいますでしょうか?よろしくお願いいたします。↓↓<回答>http://www.toontracker.com/bleep/bleep.htm↑多分これではないでしょうか?アメリカ制作「キャプテン・ブリープ」(原題「Colonel Bleep」)キッドボックス?まんがの国だったかな?ちなみに、Wikipediaにも載っていました。キャプテン・ブリープYoutubeに動画も残っています。もっとも、これを見ても、「あ~懐かしい!!」と感慨にふけるほど、よく覚えてはいないのですがね。たぶん19時から別のアニメを見る習慣があって、その直前に放送されていたので、なんとなく覚えていたのでしょう。そのころの我が家のテレビはまだ白黒テレビだったので、私の記憶の中の登場人物たちは、モノクロです。
2022年07月23日
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7月15日(土)から16日(日)にかけて、神戸の叔母の7回忌法要と、彦根にある先祖の墓参りのため、単身関西を訪れていました。往路、静岡付近で雨脚が強くなり、他の車両で停電が発生。15分ほど新幹線が遅れました。幸い、現地では雨にたたられることはありませんでした。15日の夕刻に神戸市住吉のお寺で法要を済ませ、その晩のうちに彦根に移動。在来線を利用したら、2時間かかりました。移動だけで結構疲れました。一見オシャレに見える彦根駅前ですが、晩飯を楽しめるような店が全くないのです。あっても大衆酒場のようなところばかりで、近江牛などを期待していた私には、まったくもって肩透かしもいいところでした。結局、消去法で残ったちゃんぽんの店に入りました。なかなか悪くないちゃんぽんでした。食べログの評価も高いみたいですね。麺類 をかべ 本店 https://tabelog.com/shiga/A2503/A250303/25001049/宿泊は、駅から歩いて4分ぐらいの少し寂しいところにある、ABホテルというところにしました。フツーのビジネスホテルでしたが、まだ新しいらしく、部屋も設備も小綺麗でした。
2022年07月22日
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7月15日、都内は盆の入りでしたが、私は夜の会合があって、久しぶりにしこたま飲みました。コロナの感染被害が広がる中とはいえ、大きめの個室で6名、店の感染対策もしっかりしていたので、それほど不安なく過ごすことができました。焼酎の水割りを注がれるまま飲み続けて、いささか深酔いしました。たぶんこれほど飲んだのは数年ぶりだったとのではと思います。酩酊状態で帰宅して、そのまま寝入るでもなく、ぐだぐだと過ごし、少しずつ酔いが覚めていく頃合いで床に就きました。心と体はぼんやりしているのに、脳味噌のコアだけが鋭敏になっている、そんな妙な感覚でした。床にはいってもすぐに寝付けず、ベッドでいろいろ思いを巡らせるうち、私が幼少期を過ごした実家の思い出が鮮明によみがえってきました。烏山にある実家は私が高校生のときに建て替えられたので、かれこれ40年以上前の話です。その家は、もともと祖母が陶器店を営んでいた関係で、1階の半分ぐらいのスペースが店舗に割かれていました。また、駐車場を倉庫に改築したり、他にもあちこち建てまわしがされていました。もともと玄関だったスペースも荷物置き場に利用されていて、倉庫の奥には住み込みの店員さんの居住用の部屋などがありました。子どもの目にはなんとも不思議な、いや、不気味な建物でした。今までは細部を忘れていた古い家の間取りが、この晩はなぜか詳細に思い出されました。ひと部屋一部屋、ここに出窓があったとか、クーラーが設置されていたとか、鏡台が置かれていたとか、バルコニーのこのあたりの床が腐っていたとか、襖の唐紙が破れていたとか、壁に落書きをしてあったとか、そんなことまで思い出しながら一部屋一部屋進んでいきました。おそらくこの時点で、記憶こそ明瞭でしたが、私はすでに夢の中だったのだと思います。古い実家は、トイレがまだ汲み取り式でした。廊下の一番端にあって、幼少期は、夜中にトイレに行くのが怖かったものでした。そんなことを思い出していて、ふと、「あれ?現在の家のトイレはどういう間取りだったっけ??」と疑問に思ったのですが、今の家のトイレの間取りがどうしても思い出せませないのです。それどころか、「今、私はどこに住んでいるんだっけ?」「そもそも私って誰だっけ??」などと夢の中で自問自答を始めたものの、それがさっぱりわからないのです。パニックになりかけたところで、ハッと目が覚めました。寝室の天井が目に映ったところで、現実に立ち戻ることができました。とまあ、文章に書き起こすとこれだけのことなのですが、長らく忘れていた実家の間取りが詳細によみがえったり、自分自身が誰かすらわからなくなるというのは、夢の中とはいえ、実に不思議な、なにやらスピリチュアルな体験でした。ちなみに、7月15日は父親の誕生日であり、私が晩年世話をして最期を看取った叔母の命日でもあります。週末はその叔母の法要と先祖の墓参りのため、関西に行く予定を立てていました。そんなことが私の潜在意識の中で作用したのかもしれません。あるいは盆の入りということで、父が夢の中でなにかしら話しかけようとしてきたのかもしれません。それ以来、どうも不用意に眠りに落ちるのが怖くなってしまっている今日この頃です。
2022年07月20日
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先週の土曜日、私はボランティアの誘いを受けて埼玉県の山林の植林に出かけていました。留守の間、自宅ではちょっとした「事件」がありました。昼過ぎに玄関の呼び鈴が鳴らされ、カミサンが出てみると、見知らぬ男性が立っていたそうです。曰く、「近所で工事をしている者ですが。」「お宅の屋根の一部が壊れて剥がれそうになっているので、知らせてやれと親方から言われまして…。」カミサンはそれを聞いて仰天しました。数年前に天窓の枠が歪んで雨漏りするようになり、大変な思いをしたたことがあったからです。今回もそれが頭をよぎったそうです。慌てふためくカミサンに対して、その人が言うには、「雨漏りの心配もそうですが、部品が屋根からはがれかけているので、それが飛ばされて車などにあたると思わぬ被害になるかもしれませんよ。」「…」「今、ご主人はいらっしゃいますか?」「不在にしています。」「では男のお子さんはいらっしゃいますか?」「今、不在にしています。」「男手があれば、ご自身ではしごに上って直せるかもしれないんですけどね…。」「…」「月曜日にまた近所に工事に来るので、昼休みにでも直しにきましょうか?」「どうしようかしら。主人と話してみます。いくらぐらいかかりそう?」「たぶん、無料でできると思いますけどね…」考えあぐねているカミサンに対して、その男は、「修理を依頼されるようなら、こちらに電話をください。」と、携帯の電話番号を残していったそうです。ちなみに、会社は「西新宿にある」とのことでした。いったん話が終わり、あらためて記憶を辿ってみて、カミサンはどうもうさんくさいと思いました。まず第一に、「近所で工事」というが、我が家の近隣で最近屋根の工事をしているような家はなかった。どの家ですかと聞いても、「あちらの方…」とあいまいに指さすだけだったというのです。それに「親方から言われて…」来たというわりに、その男の肌は色白く、まったく日焼けもしてなくて、どうみても左官業をやっているようには見えない。そもそも「男手があれば、はしごに上って直せる」などといいうことをその道のプロが言うでしょうか?ベランダに梯子を立てて屋根に上るなんて、私には無理です。なんだかんだ会話の中で、家族構成を探ろうとしていたのではなかろうか。「無料でできる」というのだって、あまりに怪しい。他にも壊れている箇所があるので、この際一緒に修理したほうが良いとかなんとかいった手口ではなかろうか。カミサンから電話で事のあらましを聞いた私は、まずその勧誘を断り、代わりにいつも家の修理等をお願いしている建設会社の担当さんに連絡して相談するよう伝えました。カミサンは、さっそくその男の携帯に電話をして「知り合いの業者にお願いするから」といって断ったそうです。電話に出た男性は、それを聞いて残念そうにしていたのだとか。さて、ここまでのやりとりを総合する限り、我が家の中では、今回の件はほぼ「悪徳商法」の類だろうという結論になりましたが、一方で、本当に屋根が傷んでいるとしたら、それはそれで怖いので、念のため、建設会社の担当者に今日来てもらいました。結果は、「目視できる範囲では問題ない。」「きっと騙されたんでしょう。」ということでした。そんなわけで、こういう話って、その後どうすればよいんでしょうかね?まあ、フツーに考えれば、この件はこれをもって仕舞い、ということでよいと思いますが、自宅を特定されていること、男が今日また近隣に来ると言っていたこと、カミサンの携帯番号が知られていること、さらに家族構成まで聞かれて答えていることなど、ちょっとイヤな感じがするんですよね。対応にあたったカミサンは、今でも不安がっています。警察に一報いれたほうがよいのでしょうか?【追記】「消費生活アドバイザー」をお持ちのSUgar7さんにいろいろ教えていただきました。まずは、下記↓に電話するのがよいようです。(公財)住宅リフォーム・紛争処理支援センター「住まいるダイヤル」0570-016-100
2022年06月13日
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子どもが小さいころは、我が家では歯磨き粉は共用でした。いつの日からか、まずうがい用のコップがそれぞれ個人用となり、次に歯磨き粉が別々になりました。こっそり使ってバレたりすると、酷く顰蹙を買います。最近は上の子の化粧品やらコンタクト用品やらが常に置きっぱなしになっているので、洗面台が狭くて仕方ないです。といって、コップを重ねたりしただけで、下の子から激怒されたこともあります。今年から、下の子が一人暮らしとなったので、少しはマシになるかと思いきや、上の子の化粧品がますます増えています。なんとかしてほしいものです。え? 歯磨き粉って共有するもの? コロナで浮彫りになった各家庭ルール…と書いているうちに、こんな記事を発見しました。コロナ禍の中、歯磨き粉は共用しないほうがよいみたいですね。
2022年05月27日
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最近、痛感しているのが、ここ数年苦労して暗記してきた英語のボキャブラリーやフレーズをすっかり忘れていることです。昨年の7月に英検1級に合格した直後からいきなり舵を切って、宅建士の勉強にのみ集中したのがよくなかったのかもしれません。今思えば、その間も細々とでよいから英語の復習をしておけばよかったのです。まるでところてんのように、知識を蓄えていったそばから、過去の知識を忘れてしまっています。やはり加齢とともに、記憶力が低下していることは実感せずにいられません。新しいことを記憶することはできても、それを保持し続ける能力が著しく低下しているんですよね。このままでは、英検1級も通訳案内士も、「看板に偽りあり」で、まったく実力を伴っていないとの誹りを受けかねません。せめて日常会話の能力ぐらい一定の水準に戻さねば、職場で英語の電話をとったりすると恥をかくなぁということで(笑)、再び英会話に通うことにしました。といっても、これから試験を受けるとか、今すぐ仕事で使うとか、海外に赴任するといった明確なゴールがあるわけでもありません。だったら、コスト重視でなるべく安く済ませようと思い、以前通っていたことのある「ワンコイングリッシュ」のグループレッスンを受講することにしました。これなら、週1回レッスンを受けても月の費用は4,950円(月会費2,750円+授業料(550円×4回))です。なんなら週2回のレッスンでも月7千円ですみます。オンラインの英会話ならさらに安く済むというのは聞いていましたが、通訳案内士の講座の経験などから、オンラインのみの学習は避けたいと思い、対面式の英会話にこだわりました。一方で、数千円とはいえ、いろいろと物入りの今、定期的な出費を極力抑えたいという思いがありました。そこで、英会話とバーターでやめることにしたのが、表題の野菜ジュース(の宅配)です。カゴメの「つぶより野菜」は店頭で買えない通販専用の野菜ジュースです。お試し価格「15本1980円お試しセット」を購入してみたら、思いほか美味しくて、便通もよくなったので、ここ数ヶ月、継続して購入していました。ところが、さすがに1日1本飲んでいると、だんだん飽きてきて、そうなると7776円という通常価格の高さが堪えます。定期配送の会員になれば、1割引きになりますが、それでも月6千円以上です。私以外、家族が誰も飲もうとしないこともあって、だんだんと持て余すようになっていたところでした。というわけで、「風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、我が家の場合は、英語力アップのため、野菜ジュースを断念ということに相成りました。ちなみに「つぶより野菜」、味は大変気に入っています。コンビニやスーパーなどで1本ずつ、あるいは半ケースぐらいのロットで買えるなら多少高くても買うのですが。カゴメさん、ぜひご検討ください。
2022年04月22日
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夢見が丘ワンダーランド 2 (少年チャンピオン・コミックス) [ 増田英二 ]楽天で購入久しぶりに漫画ネタなど…。いい年して、最近流行っている漫画については結構チェックしている。(さすがに漫画喫茶に入り浸ることはなくなったが‥)今回は、増田英二先生が少年チャンピオン誌で連載していたオムニバス形式のシリーズをKindleで購入してみた。増田英二氏といえば、代表作の「実は私は」が2015年にテレ東でアニメ化されたので、知っている人は知っていると思う。「うる星やつら」的な恋愛ドタバタコメディで、原作は中盤からかなりグダグダになるものの、絵柄とテンションが独特で面白いと思っていた。その後すっかり忘れていたが、今回、表紙が目に留まって衝動買いしてしまった。ワインでいえば「ラベル買い」である。全4巻と昨今の漫画にしてはコンパクト。オムニバスといいつつ、ストーリーの各話は緩やかに連動している。最終巻には「実は私は」のキャラも出てきたりする。延々と連載せず、コンパクトにまとめたのがよかったのではなかろうかと思う。相変わらずのテンションの高さと間合いのよいギャグ、それでいてシリアスな場面やホラーな場面との切り替えも鮮やかで、やはりこの人は力量があるなぁと感心した。それなのに、である。アマゾンで(総じて高評価とはいえ)レビューが各巻30~40件ほどしかついていないのは少し残念だ。なにせ最近評判の「タコピーの原罪」のレビュー数たるや1000件超なのだから!
2022年03月30日
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私の実家は千歳烏山駅南口の商店街エリアにあります。京王線は長らく立体交差事業をすすめてきて、仙川~笹塚間がすべて高架線になる予定でした。京王電鉄京王線(笹塚駅~仙川駅間)連続立体交差事業https://www.keio.co.jp/train/sasazuka-sengawa/index.htmlところが、当初予定されていた2023年を来年に控えた今も、立体交差事業は遅々として進んでいません。用地買収に時間がかかっていることに加えて、コロナ禍で予定がかなり遅れたようです。上記HPのFAQのコーナーに最近以下のように追記がされていました。>2022年3月15日に国土交通省から事業認可の延伸(事業期間:2030年度末まで)が告示されました。8年延期になったわけですが、正直、今のペースだと2030年までかかっても終わるかどうかという気がします。千歳烏山駅については、この計画と併せて、地区計画・地区街づくり計画が策定されています。実現すると、商店街を中心にかなり町の様相が変わることになります。千歳烏山・街づくりニュースhttps://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/003/002/005/d00133820_d/fil/sakutei_nyu-su_insatsu.pdf駅の高架化にあわせて、駅の南側が広場になります。現在の仙川駅のようなイメージでしょうか。また、駅前通りの東側に「補助216号線」という広い道路が開通予定で、そのための用地取得が進められています。この「補助216号線」は我が家のすぐ横を通ることになります。先日、久しぶりに実家を訪れたら、街中に掲示された「かわら版」が目に留まりました。商店街の住人にとっては、驚きの内容です。駅前広場から南の区画が再開発対象となり、大きな複合施設となる計画です。溝の口のノクティ、あるいは京王線府中駅の南側のようなイメージでしょうか。完成すると、我が家はこの巨大なこの複合施設と道路を隔てて隣接する格好になります。どんな感じになるのか、想像もつきません。ちなみに、前にも書きましたが、私の実家は、住居兼テナントの築42年の小さなビルです。昭和55年着工の建築基準法改正前の建物なので、大きな地震が来れば倒壊、損壊しかねず、本来ならば、早めのタイミングで建て替えたいところです。しかし、もろもろ事情があって、一筋縄にはいきません。母親も今年87歳と高齢で、これらが私自身の後半生におけるもっとも大きなテーマのひとつになりそうです。宅建士を取得したのも(自ら宅建業を営まないにしても)不動産取引の基本的な知識を学んでおきたいと思ったのがきっかけでした。そんなわけで、今後の烏山駅南口の再開発事業の進捗は、我が家の立て直し計画に大いに関連してきます。駅の高架事業とともに注視していこうと思います。
2022年03月18日
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■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)享保年間に徒として彦根藩に召し抱えられ、藩主の家族の世話や賄いなどをしながら、5世代かけて70石とはいえ知行取りとなり、幕末の頃は田舎村の代官を勤めた私の先祖ですが、明治4年に廃藩置県の実施によって生活基盤を失い、他の彦根藩士たちとともに北海道にわたりました。維新軍の功労者たちは、国や自治体の役職につけたのかもしれませんが、(最終的に維新側についたとはいえ)譜代である彦根藩の、まして下級藩士となれば、実態はこのような厳しいものでした。このあたりのくだりは「ご先祖探し〜その4」に詳しく書きましたが、それまでひとつひとつ積み上げてきた実績や信用、人脈などの多くが何の意味もなさなくなってしまうというのは、さぞ辛い経験だったことでしょう。5代目の重右衛門さんがなくなったのは明治5年、53歳の若さだったそうですさて、このように日本史の表舞台には決して出てない我がご先祖ですが、日本史の重要な局面にはいくつか立ち会っていたようです。ひとつはこれ。左上の注釈をみると、「ペリー来航の節、出精に勤め、褒美 庭奉行に役替」とあります。なぜペリーがここに出てくるのかというと、彦根藩は弘化4年2月相模国の海岸護衛を命じられ、嘉永6年11月までその任にあったとのことなのです。ペリーが来航したのは、同年6月3日。警備の一員としてとはいえ、ペリーの来航を目の当たりにしていたというのはちょっと驚きです。というか、本人たちもさぞ大騒ぎだったことでしょうねぇ。もうひとつあります。注釈真ん中あたりに、「倅要次、禁門の変の節出張、幕府下賜割合金拝領」とあります。禁門の変(蛤御門の変)に参加したというのは、「ご先祖探し〜その4」にも書きましたが、それと符合します。>上記重右エ門の長男で名は機平。>嘉永元年(1848年)出生。16歳の時、初陣で蛤御門の変に参加したものの、幕軍に利なく、槍一>本を担いで逃げ帰ってきたというエピソードがメモに書かれています。槍一本で逃げ帰ってきたとはいえ、褒美はいただけたようです。名前が記録と異なるのは、後年、要次から機平に改名したのでしょう。なお、この「倅要次」は別の注釈で、「御舎弟様方御伽頭に雇」という表記も見られます。若い頃、藩主の弟の「御学友」のようなことをしていたのでしょうか?ちなみにこの方は、私の曽祖父の兄にあたります。前述のとおり、明治5年に父親が亡くなったのを機に、家族とともに北海道の釧路に移住、小学校の教師などを勤め、大正2年に62歳で亡くなったとのことです。こんな記録もあります。四代目重右衛門はお城の「中藪口門番頭」を勤めていましたが、配下の筧某への仕置き筋吟味方に不届あり、御叱、差控となった記録が残されています。隠蔽しようとしたのか、部下を庇ったのか知りませんが、いずれにしても配下の不始末の監督不行届ということで、懲戒を食らったようです。こういうところは、なんだか親近感を覚えます。私も会社で同じような痛い思いをしたので…。さて、そんなこんなで、私の先祖が決してサラブレッドな家柄でないことは、これまでの調査でわかっていましたが、今回、「侍中由緒帳」を読んでみると、あらためて藩士と言っても、末端に近い身分からのスタートだったことが判明しました。若い頃なら、それを知ってがっかりしていたかもしれません。しかし、齢60に近づいた今、こうして読むと、全く異なった感慨が湧いてきます。彼らの日常の断片からは、宮仕えのさまざまな困難や苦労、そして自分たちの持分の中で精一杯頑張って生きていたであろう姿が偲ばれます。歴史上語りつがれるような偉業はなにひとつなし得なかったにしても、そうした幾星霜の苦楽の積み重ねの先に、こうして今の私たちが生きている、その重みを改めて感じずにはいられません。私自身、大した実績も残せず現役生活を終えようとしていることに、無力感や寂寥感を感じていましたが、くよくよしている場合かという気にもなりますし、まだまだこれからやるべきことやれることはあると自らを鼓舞する気にもなります。また、どんな形にせよ、文章にして残しておくことで、ご先祖の話などにはとんと興味を示さないウチの子供たちの目にいつか留まることもあるのではないかとも思います。ご先祖の姿は決して武勇伝に飾られたカッコイイものでありませんが、彼らがその時代時代を一生懸命生きてきた、その重みをわかってもらえるといいなと思います。まあそれは、子供たちがある程度の年齢になってからでないと難しいかもしれませんが。最後はなんだか感傷的になってしまいました。これでいったん「ご先祖探し」は終わりにしたいと思いますが、また新しいネタなどあれば、何かの拍子に再開するかもしれません。
2022年02月27日
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■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)ということで、さっそく届いた「侍中由緒帳」を読んでみようと思ったのですが…なんと、現代語訳ではなくて、原文がそのまま載っているので、書いてあることの半分も判りません。まあ上の欄に注釈はあるのですが。と思ったら、後ろの方のページで、それぞれの家についての解説が載っていました。家系図も載っていました。といっても我が家の場合、大した家柄でもないので、至ってシンプルなものです。昔、遠い親戚有志が編纂したという先祖の記録には、「代々嵯峨源氏の嫡流」(→もともとは森姓だったということが前回の私の調査で判明)とか「彦根藩では代々勘定奉行をつとめた」(→そんな偉い身分ではなかった)とか、かなり美化された先祖の記録が記載されていたものですが、今回あらためてこうして先祖の足取りを紐解いてみると、そもそも最初は「徒」という藩士よりもさらに下の身分だった(という言い方をすると先祖をディスるみたいでとても気が引けますが)ことがわかりました。解説の部分を要約すると…・当家は江戸時代中期に「徒」として召し出され、騎馬徒から中小姓にとりたてられ、江戸時代後期に知行取藩士となった家だそうです。・もともと「森作右衛門」と名乗り、京都町奉行組に属していたが、1722年に暇を取って京都で浪人となった。・4年後に井伊家に「徒」として召しだされて、京都で賄いの御用を務めた。・その後「渡部重左衛門」と名を改め、京都で仕事がなくなったので、彦根に引っ越すように言われて転居。・二代目も「徒」として二十六俵三人扶持を拝領。以降、藩主の娘たちの賄役などを勤め、四十三俵三人扶持に加増されて「騎馬徒」に取り立てられた。(どこかのタイミングで渡部→渡邉になったようです。)・三代目は、歩行として、藩主の参勤交代のお供などをした。五十五俵六人扶持に加増され、「中小姓」となった。さらに1837年になって70石を与えられて知行取りとなり、庭奉行を命じられた。・四代目は、稽古館素読方(藩校の先生?)などを勤めた後、家督を相続し、鉄砲玉薬奉行を勤めた。・五代目は、庭奉行や内目付役、北筋、南筋地区の代官や会計方など、いろいろ歴任したようです。五代目のみやたらと詳しく経歴が記載されているあたり、単に幕末の頃だったというだけでなく、有能な方だったのかもしれません。※当時、県東北部天野川以北を「北筋」、犬上川以南を「南筋」、その間を「中筋」と称していたようです。・拝領屋敷は1757年に小道具町に屋敷を拝領しており、1787年に川端へ転居。明治4年には、「鷹匠町」(現在の元町)に居住していたとの記録があるそうです。※徒士(徒)とは(引用)騎乗を許されない徒歩の軽格の武士をさしていう。戦国時代にみられる侍・足軽・中間(ちゅうげん)のうち、足軽の上層のものが江戸時代に入って徒士という士分の地位を得たものと思われる。諸家中の身分は、一般に士分である侍・徒士、軽輩である足軽・中間に区別された。ところで、同じ士分といっても徒士と騎乗を許された侍との間には、諸方面で格式上に大きな隔たりが認められた。たとえば、大略、侍身分のものは御目見(おめみえ)以上・知行取(ちぎょうとり)の格、徒士身分のものは御目見以下・蔵米(くらまい)取の格であった。徒士はいずれも小禄であったので、経済的には当初からきわめて窮乏し、そのために傘張り、楊子(ようじ)削り、竹細工あるいは俳諧(はいかい)、いけ花の指南(しなん)など各種の内職を営み、かろうじて生活を維持する状態であった。御家人の間では、募る窮乏に堪えきれず、その身分を株として売買することが行われた。武家の職名としての徒士は、また徒士侍とも称し、もとは走衆(はしりしゅう)ともいった。将軍・大名そのほか大身の武家の家中にあって徒歩の軽格の武士の勤めた役職であり、戦時には主君の旗本に備え、平時には行列供方(ともがた)の先導や主君の身辺警固にあたった。※「侍中由緒帳」ネタ、もう1回つづきます。
2022年02月25日
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■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)2015年時点で15巻まで発刊されていた「彦根藩侍中由緒帳」。元本の47巻まで掲載ということで、前に学芸員の方から聞いていた、私のご先祖が掲載されている48巻までもう1巻というところだったのですが、それ以降、新刊が何年も刊行されていませんでした。侍中由緒帳彦根藩士の履歴を記した基本台帳。元禄4年(1691)、4代井伊直興(なおおき)が家老らに命じて作成が開始され、藩士各家で家の来歴をまとめて目付役に提出、編纂されました。履歴は廃藩まで書き継がれ、石高等の変化に応じて綴じ直されました。知行取(ちぎょうとり)藩士(侍中)が石高順に編冊されるほか、歩行(かち)・能役者・医者の冊もあります。https://hikone-castle-museum.jp/cms/wp-content/uploads/2015/01/771b8267721c905dd7efac32d6c96dc8.pdfもはや世に出ることはないのかなと思っていたら、忘れた頃に16巻が刊行されていました。私が最初に彦根藩の学芸員に問い合わせて、はっきりと「続刊の予定はない」と言われたのが、2007年のこと。再び刊行されるようになったのも奇跡的ですし、こうして15年の時を経て入手できたことに、少なからず感激しました。「ひこにゃん」や彦根城の世界遺産登録の動きなどもあるのかもしれませんが、私が何度か問い合わせたことも、「読者からの要望」ということで、少しは貢献したのかもしれません。こんなニッチな本なのに、価格が3千円というのは、実に良心的と思いました。
2022年02月19日
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知っている人は知っていると思うが、私の苗字は「渡邉」である。昨日は節分だったが、巷間、「ワタナベ姓の人は節分に豆まきをしなくてよい」という説がまことしやかに流れているようで、テレビのトーク番組でもどこぞの若手芸人さんが面白おかしく紹介していたのを耳にしたことがある。ネットで検索してみると、たしかにそのような記事がヒットする。「渡辺さん」は節分の豆まきはしなくていい?その理由や節分の豆の由来「渡辺・坂田姓は節分で豆まきの必要なし説」は本当なのか?さて、実際に渡邉家でどうしているかということだが、我が家では、フツーに毎年2月3日には豆まきをしている。さすがに子どもが大きくなったので、私が鬼のお面をかぶらさせられることはなくなったが、それでも毎年律義に「鬼は外、福は内」と唱えながら、豆を撒いている。結婚する前も、実家で豆まきを欠かしたことはない。室内犬を飼っていたころは、豆をまくたびに犬がはしゃぎまわって、床に落ちた豆を片端から食べてしまっていたのを思い出す。そんなわけで、60年近く生きてきて、表題のような説を聞いたのは、ごくごく最近になってのことである。これまでつきあってきた同じ渡辺姓の人からもこのような話は聞いたことがなかったし、おそらく多くの渡辺さんはフツーに豆まきをしているのではないかと思う。まあ、子供の頃聞いたことがなかったというのなら、「恵方巻き」の方がさらに謎であるが。ただし、我が家は、実は「なんちゃって」渡辺姓で、平安時代の渡辺綱にルーツを遡るような、由緒ある家柄ではない。調べたところによれば、私の先祖は、享保の時代までは「森」姓だったそうだ。(詳細は、下記「ご先祖探し」のエントリーを参照されたし。)なので、ひょっとしたら、由緒正しい本家本筋の渡辺さんのところでは、こうした言い伝えが残っているのかもしれない。渡辺姓といえば、「辺」の文字の多さもよく話題になるところで、ウチの子どもたちも学校への提出書類にどのナベの字を使えばよいのか時々悩んでいる。この話については、書き出すと長くなるので、また改めて書きたいと思う。■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ↑ちなみに、この話、続きがあって、近いうちにその5をアップする予定です。
2022年02月04日
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漫画家ムロタニ・ツネ象さん死去、87歳 子ども向け歴史漫画多く手がける学習漫画、歴史漫画で知られるムロタニ・ツネ象さんがご逝去され他という記事がYahooニュースに載っていました。多くの方は、ムロタニ・ツネ象氏と聞いてもピンとこないかもしれませんが、私にとっては、特別な存在です。というのも・・子供の頃読んで、名前を思い出せないマンガってありませんか? 子どものころトラウマになったマンガのタイトルが判明子どもの頃読んでトラウマになったマンガを遂に入手!私に長いことトラウマを植え付けたホラー漫画のひとつがムロタニ・ツネ象氏による「虫地獄」だったからです。「人形地獄」ホラー短編集の中の一編。40年ぶりにタイトルが判明したときの感慨もひとしおでした。記事を書いたころは、絶版になって久しく入手困難でしたが、今はどうなんでしょうか。今、みてもシュールですよね〜。ご冥福をお祈りします。から
2022年01月25日
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https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201611270000/ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201701250001/ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201701250000/モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201701180001/ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201612160000/フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201612080000/鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201612050000/ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201611280000/モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2021年09月14日
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冷やし中華を食べるときに、あらかじめ具と麺を混ぜる人と混ぜない人がいる。私は前者である。理由は単純明快で、「まぜないとからしが麺全体になじまないから。」だ。ところが、カミサンは混ぜないで食べる。辛子はどうするのかと聞いたら、その都度少しずつつけて食べるのだそうだ。世の中の趨勢はどちらなのだろうと思って、ネットで検索してみると、ほぼ拮抗しているようだ。というか、この話題、昔から論じられているようで、「大手小町」や「Yahooトピックス」でも同じようなタイトルの長い議論が見つかる。驚いたのは、「混ぜる派」がそのようにする理由のひとつとして、「混ぜないとマヨネーズがなじまないから。」という回答が多いことだ。冷やし中華にマヨネーズ?自分の人生で経験したことのない組み合わせだが、どうやら名古屋方面ではごくメジャーな食し方のようである。さっそく試しにマヨネーズをかけてみたら、なるほどそれなりにイケる。ただ、長年辛子しかつけてこなかった私には少し味がしつこいように感じるけれども。「混ぜるか混ぜないか」論争といえば、カレーについてもよく議論になっているようだ。私が子供のころ、近所の友達の家にみなで遊びにいくと、よくその家のお母さんがカレーを作ってくれた。友達の一人が、食べる前に色が均等になるほどカレーをよく混ぜるのを見て、私は当時「見た目がよくないなぁ」とか「行儀が悪いんじゃないかなぁ…」と思ったのだが、友人たちはみな面白がって、それを真似するようになった。以来、クラスの仲間の集まりではカレーが定番となり、みなぐしゃぐしゃになるまでかき混ぜて食べたものだ。まだレトルトのインスタントカレーなどというものがなく、「カレーライスとライスカレー、どちらが正しいのか?」といった議論が交わされていた時代の話である。もっともカレーを混ぜる習慣は、我が家ではその後長く続かず、私もいつのまにか元通り混ぜないで食べるようになった。20年近く後になって、以前の会社の工場実習のときに、カレーをドライカレーのようにになるまで徹底的に混ぜて食べる友人がいて、久しく忘れていた小学生時代の記憶を思い出させてくれた。そういえば、私のカミサンも私が冷やし中華を混ぜて食べるのを見るたびに、「行儀が悪い」などと思っているのだろうか?今度聞いてみよう。
2020年05月27日
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当ブログの「よく読まれている記事」によく顔を出すもののひとつに、2012年に書いた「工場実習の思い出」のいくつかの記事があります。実はこの記事、22回にわたって書いた当ブログ最長のシリーズです(笑)。いくつかの記事はどこかのサイトからリンクしていただいているようで、かなりの閲覧数がありますが、一方でほとんど読まれていない記事もあるようです。ということで、あらためて以下にリンクを貼っておきました。30年以上も前の出来事なんですが、読み返してみると、ほんの数年前のことのように感じられるのが不思議です。最近の出来事なども、将来に備えて書き記しておこうかななどと思ったり。工場実習の思い出。 https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210120000/工場実習の思い出〜その2 https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210130000/工場実習の思い出。~その3 https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210150000/工場実習の思い出~その4 https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210160000/工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210180000/工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210190000/工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210200000/工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210240000/工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210250000/工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210260000/工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210270000/工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210280000/工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210300000/工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201210310000/工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211010000/工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211020000/工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211040000/工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211080000/工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211090000/工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201211110000/工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201301120000/工場実習の思い出~その22(実習終了) https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201303220000/
2018年10月12日
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割田屋さんの15フーリエ同じく割田屋さんよりドミニク・ラフォンの15ムルソーこちらは15イヴ・ボワイエ・マルトノウメムラさんよりルイ・ジャドの09クロ・ド・ラ・ロシュhttps://rocketnews24.com/2018/06/13/1075683/【ゾッとする実話】知人から聞いた「小学生の頃に誘拐されかけた話」が本当に怖い / 子供がいる人は絶対に読んで欲しいという記事をネットで見つけて、私もこの機会に書いておこうと思い立ちました。実は私も小学5年生か6年生のころ、誘拐されかけた(たぶん)ことがあるのです。当時、私は中学受験を控えて週末「四谷大塚」に通っていました。最近は、小学生ぐらいの子供を一人で塾や習い事に電車で通わせることはせず、送迎する親も多いと聞きます。しかし私が子どもの頃は、小学生がひとりで電車で通うのは今よりもずっと普通のことだったように思います。その日、私は塾が終わって、帰りに新宿の小田急デパートに寄り道をしました。小学生がデパートに一人で買い物に行くというのも、今から思えば「ませた」行為でしたが、文具用品を買いに寄ったのだと記憶しています。JRから京王線の乗り換えの途上にあるので立ち寄りやすかったんですよね。売り場で物色しているときに、ふと誰かに見られているような視線を感じました。視線の先には、サングラスをして帽子をかぶった、見るからに怪しそうな男がそこに立っていました。府中競馬開催日に、競馬新聞を抱えて満員の府中競馬正門前行きの電車に乗っている(注:あくまで当時の話です)そんなステレオタイプのような出で立ちで、子供心にも、全うな大人ではなさそうなことがわかりました。もっとも、その男は少しすると視界から消えてしまったので、私はあまり気にかけることなく、その場を後にして、上階にある書籍売り場に移動しました。あまりよく覚えていませんが、参考書を物色したり、雑誌を立ち読みしたりして時間をつぶしていたのだと思います。(今のようにネットが普及する前は、よく本屋で立ち読みしたものです)。ところが、そこでふと目を挙げると、文房具売り場にいた男が数メートル先にいるのです。あれ?偶然にしては、ちょっと変だな?と思いました。気味が悪くなったので、立ち読みも早々に売り場を離れ、下りエスカレーターに乗って地下まで降りることにしました。階をまたいで乗り継ぐ際、ふと上をみると、上方から降りてくるエスカレーターにその男が乗っているのが見えました。やっぱり後を追われている???書籍売り場は当時かなり上層の階にあったので、下まで降りるためには10階分近くエスカレーターを乗り継がねばなりません。私は男との距離を離そうと、少し速足で歩き始めました。ところが、男はいつのまにか、私の真後ろにぴったりとつけてきました。もはや私を追っているのを隠そうともしない様子でした。すると、今度は前を他の客が塞いでいるタイミングを見計らって、私の真横にぴったりと寄り添うように並んできたのです。男の視線は明らかにこちらをチラチラと伺っています。前方の客とその男にブロックされてしまった格好になった私は完全にパニックになりました。ヤバイ! これはヤバすぎる!!もはやこの男が私を狙っているのは明らかです。とはいえ、この時点で何をされたわけでもないので、大声を出すわけにもいきません。今の時代、誘拐の目的はもっぱら性的ないたずら目当てだと聞きますが、当時はまだ金銭目的の誘拐が珍しくなかった時代です。自分の鼓動が大きく、とてつもなく速くなるのが判りました。次の階(たぶん3~4階ぐらいだったと思います)に着くと同時に、私は脱兎のごとくフロアを走りました。後ろを振り返らず、ひたすら走って、階段を見つけて、下まで駆け下りました。地下街の雑踏に出ても、まだその男がどこかにいるような気がしたので、そのまま人の波をかき分けながら走り続けて、京王線の改札をくぐり、出発間際の電車に飛び乗りました。ドアが閉まって、電車が走りだして、ようやく私は身の安全を確信しました。小学5~6年生ですから、今から40年以上も前の話です。これだけだと、私が誘拐されそうになったとは言い切れない感じもします。ひょっとしたら窃盗が目的だったり、脅かそうとしただけかもしれません。とはいえ、あれはマジでやばかったと今でも思っています。なにせ、中学生のときに京王線内で痴漢(相手は男性)にあった話とともに、今でも私の中でトラウマになっているのですから。痴漢の話は、、そうですね、また別途、気が向いたら書きます(笑)。
2018年06月13日
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最近アマゾンの比率が増えているとはいえ、私のネットショッピングの中心は楽天です。#楽天で買うようになる前は、土浦鈴木屋さんや、小田急ハルク、やまやさん、やまいちさんなどでワインを買ってました。ふと思い立って、楽天の購入履歴を確認してみたら、下の部分にページ送りのボタンがあって、その横に「全1246件」と書かれていました。ということは、、自分でも驚きですが、これまで楽天で1200回以上も買い物をしていたことになります。#ちなみに、アマゾンは年単位でしか履歴がでませんが、過去(2002年以降)の年ごとの履歴をすべて足し合わせたところ、合計610件でした。 楽天でのもっとも古い買い物履歴は2000年の9月。購入した品は、97アムルーズ(ヴォギュエ)18500円 ワイナリー和泉屋 でした。このボトル、当時ワイナートの主筆だった田中さんに誘われて、テイスティング用に持参したのを覚えています。(ワイナート9号のシャンボール特集。掲載はされませんでしたが。) 他に初期のころに何を買っていたのか、紐解いてみたら、タイムマシンで戻りたくなるような金額で買ってましたよ(笑)。 81ムーリンヌ(ギガル)20000円 カツダ88サロン12800円 和泉屋83ムートン 19800円 すむら88ムートン 19800円 ウメムラ97ムルソー(コシュデュリ)7700円 アーベン87ボンヌマール(ルーミエ)9800円 すむら91ミュジニー(ドルーアン)9900円 マスモトヤ79クロドベーズ(ルソー)22000円 和泉屋82クロドラロッシュ(デュジャック)16800円 e-wine98ラフィット 15900円 ウメムラ97VRボーモン(ルロワ)19800円 ウメムラ98ムルソー・ナルヴォー(ドーヴネ)11800円 ウメムラ99クロサンジャック(ルソー)11800円 小山酒店昔はワイン会の乾杯用によくサロンとか飲んだものですが、なるほどこのぐらいの値段だったんですねぇ。バッドVTとはいえ、ルーミエのボンヌマールやドルーアンのミュジニーが1万円以下で買えたのも今昔の感があります。 少し飛ばして、2003年にはうきうきさんで以下の品を購入していました。何度かここでも書いていますが、私(のこのときの買い物)がうきうきさん楽天開業後初めての客だったそうで、送られてきたダンボール箱には、ACブルのボトルが一本オマケで入ってました。 96VRスショ(アルヌー)7980円 うきうき年代不明 エシェゾー(ルジェ)14980円 〃年代不明 シャルムシャンベルタン(パリゾ)8980円 2000年だか2001年だか忘れましたが、ネット開業一年記念とかで、楽天からマグカップが送られてきたこともありました。当時買い物履歴のある客全員に送付したのでしょうね。よい時代でした。って、こんな昔話を語っているようでは、私もすっかりジジイですね。
2017年06月29日
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前回、↓このように書いた、亡くなった叔母の携帯への請求ですが、なんと今月もまた来ました。http://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201702070000/しかも今回は「NTTファイナンス」という、今までとは異なるところからです。そもそもドコモショップ新橋店に一度出向いて解約の手続きを済ませているはずなのですが、その後も「ニッテレ債権回収センター」や「dカード」から毎月のように請求が来て、そのたびに請求額を支払って、残債を処理したいと主張しました。こちらではわからないと言われて、「ドコモショップ三軒茶屋店」に行き、残債の確認もしました。なのにまたこの有様です。「NTTファイナンス」に電話をすると、またしても露骨にクレーマーに向き合うようなオペレーターの対応でしたが、残債があるなら一括ですべて支払ってしまいたい旨を告げると、案の定「こちらではわからないので、ドコモショップに行って手続きをしてください。」「身分証明証を忘れずにお持ちください。」とのお返事。はいはい、わかりました。それで、まずは会社の昼休みに免許証を持ってドコモショップ新橋店に行ったのですが‥。「すみません、お待ちの方が11人いらっしゃいますので、一時間以上お待ちいただくことになります。」入口近く、整理券の発行機のあたりで暇そうに数人たむろして談笑している店員たちを見て少しイラッとしましたが、仕方ありません。では出直しますといって退散しました。結局、週末朝一番で地元のドコモショップ(三軒茶屋店)に行くことにしました。今度こそ、すべて片付けるつもりで行ったのですが‥。「今回ご請求分なら、支払っていただけますが、残債をお調べするためには、本人が亡くなったことを証明する書類が必要になります。」いや、そんなこと、聞いてないって‥。ドコモファイナンスとの電話では、身分証明証を持参せよと言われただけですし。そもそもこのドコモショップ三軒茶屋店には、以前残債の確認をしに行っており、その際、関連書類等も提示したはずです。そう主張しても、「確認書類はその都度提示してもらう決まりになっていますから。」と、若い副店長氏とりつくしまもありません。この人はマニュアル以上の権限を与えられていないのだろうなぁと思って、責任者に一度話をさせてほしいと丁重に頼んだのですが、「店長は今不在にしております。」と、これまたマニュアルどおりの返事が返ってくるだけでした。一瞬頭に血が上って、そのまま席を蹴って出てこようかとも思ったのですが、いいや、ここで投げ出すとまた来月請求が来ると観念して、自宅まで叔母の「死亡届」を取りに帰ることにしました。やれやれ。およそ30分後、再び訪れたドコモショップで判明したのは、なんと機種代金の残債はまだ1万8000円もあったという驚愕の事実でした。整理すると、こういうことでした。1.叔母は一昨年ドコモのエクスペリアを契約した。2.使い方がわからないといって、昨年2月に折りたたみケータイにかえた。 その際、なぜか1のスマホは解約しなかった。3.叔母が亡くなったあと、私は1のスマホと2のケータイの解約を済ませ、機種代金の残債も 支払った(つもりでいた)。4.ところが、それは1のスマホの機種代金だけで、2の折りたたみケータイの残債は残ったま まだった。5.機種代金の支払いは、ドコモショップ→ドコモファイナンス→dカード→ニッテレ債権回収セン ターと流れていくようで、どこも自分のところに来た支払い分以外の残債については知らぬ存 ぜず。何を言っても「ドコモショップに聞いてくれ」というスタンスだった。今にして思えば、最初からドコモショップですべて「元栓処理」をしていれば、こんなに煩雑なことにはならなかったのかもしれません。でも、ドコモショップにも2回行って、解約の手続きをしてたんですけどねぇ。それにしても、シンプルな折りたたみ機能のケータイの残債が1年経って残債1万8千円ということは、もともとの機種代金は4万近かったということでしょうか。前のスマホも解約されてなかったし、何もわからない老人相手によい商売しているよなぁと、もう笑うしかありませんでした。教習所の教官とNHKの取り立てとドコモショップだけは、金輪際関わりたくないと心底思った私でした。
2017年02月27日
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以前チラリと書きましたが、昨年一年間は神戸に住む叔母の介護に明け暮れた一年でした。病院の手配や看病、身の回りのこと、それに亡くなってから諸手続きなど、これまで経験したことのなかったことをいろいろと手探りでしなければなりませんでした。詳細はまた追い追い書いていきますが、いろいろな人に助けてもらった一方で、面食らったことや不快だったことも少なからずありました。そのような中、瑣末なこととはいえ、煩雑を極めたのがドコモとの一連のやりとりでした。叔母は亡くなる前年に、ドコモショップから勧められたとかで、エクスペリアのスマホを買いました。案の定、80過ぎの独居老人がエクスペリアを使いこなせるはずもなく、結局、操作の易しい折りたたみ携帯に変えることにした、と電話で聞かされました。それが亡くなる半年前のことです。(実は携帯を変えた理由は他にもあったのですが、今回は端折ります)叔母の電話番号が変わったというので、何やらおかしいなと思ったのですが、料金か契約の関係で新規に契約し直したのだと勝手に思っていました。ところが、ショップの担当者が気がつかなかったのか、故意にそうしていたのか知りませんが、叔母の古いスマホは解約されていなかったのです。叔母が亡くなった翌月、私がドコモショップに端末を持っていって解約手続きを済ませたはずなのに、その後も請求書が送られてきておかいしなぁと思っていたら、そういうことでした。それで、私が再度ドコモショップに行って、解約手続きを済ませました。最初、会社の昼休みにショップに行ったのですが、混んでいて40分待たされた挙句、結局順番が回ってこず、週末に自宅の最寄のショップに再度行く羽目になりました。ところがスマホを解約したあとも、「ニッテレ 債券回収センター」なるところから、ひきつづき請求が(叔母の任意後見をしてくれていた)弁護士さんの事務所に送られてくるのです。あらためて調べてみると、どうやら叔母は支払いにあたって、おそらく言われるがままにドコモの系列の「dカード」なるカードを契約したようで、先に解約したスマホの毎月の機種代金がそこから落とされていた。で、叔母が亡くなったことで、口座が凍結されて、カードの引き落としができなくなった。それで、これまた系列の回収センターから催促の手紙がおくられてきたということでした。だったら携帯を解約したときに機種代金の残債のことも教えてくれよ、という話なのですが、支払いの窓口はすでにdカードに移っていたのでショップは関知せず、ということだったんでしょうか。仕方ないので、dカードの窓口に電話をして、本人が亡くなったからということで、解約の手続きを済ませました。dカードの窓口は解約まではスムーズでしたが、延滞分の請求についてはわからないというので、今度はニッテレ回収センターに電話をして調べてもらいました。担当者曰く、この月(11月)だけでなく、翌月までまだ請求がある、年末に再度請求書が送られてきたらまとめて支払ってくれればよいとのこと。それで翌月、ニッテレ債券センターから送られてきた累計の請求分を支払いました。これで終わりかと思ったら、年明けにまた弁護士さんのもとに請求書が送られてきました。なにが格好悪いって、私のほうで手続きは済ませたと言ってあるのに、弁護士事務所のところにその後も督促状が送られてくるというのが非常に格好悪かったです。おかしいじゃないかとニッテレ債券回収センターに電話をしたのですが、このとき電話口に出たオペレーターは、やたらつっけんどんで、「請求は一月遅れて出されるので、年末の分が今回送付されたということだ。(なにか文句ありますか?という口調)」「こちらでは、次回分の請求までしか把握できないので、それ以降の請求があるかどうかについてはドコモショップに聞いてくれ。」延滞客がクレームをつけてきているととられたのでしょうか、非常に失礼な物言いで、思わず私も語気が荒くなってしまいました。仕方なくドコモショップに再度電話をしたのですが、こちらも要領をえない返事で、機種代金の支払いはもう終わっています、支払いサイトの問題で遅れて請求が行っているのでしょう、請求はあったとしてもあと1〜2回だと思いますけどね、ということでした。とまあ、こんな感じで、7月に叔母が亡くなってから半年、ドコモショップとdカードの窓口とニッテレ債券回収センターとの間をたらい回しにされて、結局なにがどうなっているのかわからないまま今日に至っています。さすがにもう請求は来ないと思いますが、また来るようなことがあったら、さしもの私もキレそうです。もっとも私がキレても、これでは怒りの矛先をどこに向けたらよいかすらわかりませんよねぇ。<つづき>叔母の携帯解約にまつわるドコモとのやりとり〜完結編https://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201702270000/
2017年02月07日
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ラファエロの名画をあれこれと挙げるのは楽しい。私がもっとも敬愛する画家のひとりだし、どれもが甲乙つけがたい傑作ぞろいだからだ。それにつけても、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロという巨人たちが、ルネサンスという同時代に、地理的にもごく近隣の場所に生を受けたというのは、まさしく絵画史上の奇跡とさえいいたくなる。私の中でのラファエロのイメージって、作曲家にたとえると、モーツァルトだ。同時代のベートーヴェンより、スケールの雄大さでは一歩譲るが、その分、繊細で優雅で中庸を得ていて、なにより「自然」な作風。そして、まるで駆け抜けるように、短い人生をまっとうした点。ラファエロがまさに「夭折」という言葉のとおりに世を去ったのは1520年のことで、当時まだ37才という若さだった。死因は突然の高熱によるものだったらしい。 ラファエロの作品を語るには、システィナ礼拝堂の壁面に描かれた「アテネの学堂」や「聖体の論議」などの大作ももちろん忘れられないが、多くの人が彼の名を聞いてまず思い出すのは、やはり珠玉の「聖母子像」たちだろう。そこで私がふと疑問に思ったのは、一連の聖母像は、彼が何歳の時に書かれたものなのかということだ。調べてみると、これが案外早い時期に書かれているのである。・1504年「大公の聖母(右図)」(21歳)・1505~06年 「ひわの聖母」(22歳)・1506年「草原の聖母」(23歳)・1508年「美しき女庭師」(25歳)・1512~13年「サン・シストの聖母」(29歳)・1514年「小椅子の聖母(下図)」(31歳) 優雅や甘美などという形容が陳腐に聞こえてしまうような、聖母の気品に富んだ美しさ、そして画面からにじみ出る包み込むような暖かい母性。年齢で人を判断するのは、自分がオヤジになりつつある気がしてイヤなんだけれども、それでもこのような深い精神性に満ちた絵画を当時20才そこそこの若者が描いたという事実には改めて驚嘆の思いを禁じえない。もっとも、生前のラファエロという人物は女好きで、上昇志向が強い、いわばかなり俗な人間だったらしい。作品のテイストからすると意外だが、先ほど例えに出したモーツァルトも、天上の音楽のごとき名曲を生み出しつづける一方で、日常においては猥雑な表現や会話好きだったというように、芸術とは案外そんなものなのかもしれない。いずれにしても、私のような凡人には計り知れない世界だ。私が生まれて初めてヨーロッパを訪れたのは、1990年代初頭のことだ。ウイーン(とジュネーヴ)で開かれる見本市への参加が目的の出張だった。旧市街の安ホテルに泊まり、シュテファン寺院の鐘の音で目覚める朝は、心を洗われるような新鮮な体験だったが、あちらの現地社員や駐在員たちにとっては、初めて欧州の地を踏んだ言葉もろくにしゃべれない若造がポツンといても、何の役に立たないどころかむしろ足手まといだったろう。しかし、彼らがそんなそぶりひとつせずに、仕事のあいまに美術館や博物館に精力的に連れて行ってくれたことは、本当に感謝にたえない思いだ。もっとも、当時絵画にさほど興味なかった私は、連れられるままに漠然と館内を見て歩くだけで、むしろそのあとの「ホイリゲ」の食事の方を楽しみにしていたのだけれども。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/art/L0.JPGその後、ずいぶん経って、講談社より「ラ・ミューズ」という世界の美術館を紹介するムック本が発売になり、懐かしく思って、「ウイーン美術史美術館」の刊を買ってみた。つらつらとページをめくってみると、「ああ、あのとき見た!」と鮮やかに自分の脳裏に記憶がよみがえってくる絵が3つあった。ひとつは「ブリューゲル」の「雪中の狩人」、もうひとつは「フェルメール」の「絵画芸術の寓意」、そしてもっともよく覚えていたのが、このラファエロの「草原の聖母(ヴェルデベーレの聖母)」だった。スケール感のある明るい背景、鮮やかな色彩の聖衣、素人の私にも理解できる三角形を基調にした確固たる構図。聖母マリアの表情は、一種近づきがたいような気品を備えていながら、ルネサンス以前の聖母像に見られるような謹厳さはなく、どこまでも優美でおだやかだ。ちなみにこの絵は、美術書でみると、ほんの50cm程度の大きさぐらいかと錯覚するが、実際は縦113cm×横88.5cmとかなり大きい。あれだけ散漫に見たのに、10年近く経過しても記憶の片隅に残っていたというのは、ほとんど実物大の人物に近い大きさの画面が与える視覚的なインパクトも大きかったのだろう。そんなこんなで、ラファエロの聖母像というと、まずこの絵を思い浮かべる私である。ただ、この絵でちょっと不思議なのは、絵の左下の部分だ。いや、その前に聖母の足を見てほしい。右側に伸びているのは、「右足」なのである。ということは聖母はかなり不自然にねじれたポーズをとっているわけだ。では左下の青く塗りつぶされた部分は何なのだろうか?これはきっと聖母が腰掛ける玉座が隠されているということなのだろう。三角型の構図にこだわるあまり、この部分に破綻をきたしてしまったようにも言われているが、トータルとしてのこの聖母像のすばらしさの前では、重箱の隅的粗探しかもしれない。その2年後に描かれた「美しき女庭師」は珠玉の名品ぞろいのルーヴル美術館の中でもひときわオーラを放つ名作だ。画面の構成はより緻密になり、伏目がちの聖母の表情はより生身の母性を感じさせる柔和なものになってくる。貴族セルガンティのために描かれたものを、フランソワ一世が買い取った、ルーブル最初の所蔵品の一枚だそうだ。洋の東西は異なるが、私はこの聖母の表情を見ると、広隆寺の弥勒菩薩像を思い出す。「ひわの聖母」は不遇をかこった一枚だ。この絵はラファエロが友人の結婚祝いに描いたものだが、友人の家が地すべりに会い、この名画もバラバラになってしまった。17個の小片を継ぎ合わせて修復したこの絵は、よく見ると、画面のあちこちに痛々しい継ぎ跡が見て取れる。見るも無残な小片をつなぎ合わせて、鑑賞可能なまでに修復したその技術は賞賛されるべきものだと思うが、おそらく、技術だけでなく、ラファエロの聖母像をこの世から消し去るまいという情熱とラファエロへの敬慕の情があって、はじめてなし得た作業だろう。「ひわ」とは小鳥の名前で、いばらの棘を食べることから、いばらの冠をかぶせられて磔になったキリストの受難の象徴とされる。ウフィッツィ美術館を訪れたとき、残念ながら、この絵のあった一画が工事中やらなにかで、見ることができなかった。フィレンツェのピッティ宮殿にある「小椅子の聖母」は異色の作品だ。聖母像というには、あまりに自由な構図。玉座は申し訳程度にほんの一部だけ描かれ、聖性をあらわす頭部の光輪も、ほとんどわからない程度にしか描かれていない。ここでの聖母はいよいよ生身の人間らしい生き生きとした表情で、画面いっぱいにあふれるばかりの「母」としての愛情が、厳かな聖母像とはまた違った感動を私にもたらす。伝承によれば、昔ある娘が、行き倒れになった隠者を助けた。隠者はお礼にあなたに永遠の生命をさずけましょう、と言い残して立ち去った。その後、この地を訪れたラファエロが、母となったその娘の美しさに感動して、ワインの樽をキャンパス代わりに書き残したのがこの作品だという。おとぎ話のような逸話だが、一方で、この作品のモデルになった銀行家の娘は、実はラファエロの愛人で、描かれた幼きイエスはラファエロとの間に設けられた子供だというエピソードも残されている。つらつらと書き連ねてきたが、ここでもう一度最初に記した、それぞれの絵の制作年代を見返してほしい。年を経るごとに、聖母の表情がより豊かに、より生身の人間に近くなってくるのがわかる。 その後、ヨーロッパには何度となく行く機会があって、特にラファエロの絵はずいぶんと見て回ったが、残念ながら、初めて彼の絵に接した思い出の地、ウイーンだけは再訪する機会に恵まれない。もし機会があれば、クリムトやシーレの一連の絵画とともに、もう一度じっくり「草原の聖母」を時が経つのを忘れるぐらい眺めたいのだが。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2017年01月25日
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旅行で何日かパリに滞在した折に、「ジヴェルニーのモネの庭」を訪れてみた。パリからはバスで小一時間の距離だ。モネが1890年以降、自分の住まいとしたとた地で、年々土地を買い足して、池や庭園を造り、「自然のアトリエ」として活用していたところである。 大都会パリからほんの1時間走っただけで、窓からの景色はまるでどこぞの片田舎のようになる。水辺に建てられたノルマンディー建築の家なども見かけるが、なかなかこれは貴重な文化遺産らしい。モネが実際に住んでいた家は、現在博物館として保存されている。壁面には、モネの在命時からなのか、死後貼られたのか、あたり一面に「浮世絵」がかけられていて、モネの「ジャポニズム」への傾倒の深さを物語っている。庭園に出ると、画家がよく描いていたしだれやなぎや、太鼓橋や、アーチ状に仕立てられた花壇や、さらには、庭園の隣の 川の景色など、モネのファンであれば、「ああ、あの絵の…」とすぐわかるよう風景がそこかしこに見られる。そんな中でも、水面に浮かぶ睡蓮たちは、「これがモネが描きつづけた、あの睡蓮かぁ。」と感慨深いものがあった。それにしても、モネが残した236枚という睡蓮の画の数は半端なものではない。画家はよほどこの題材に興味があったのだろう。モネの画業の特徴のひとつに、「連作」があげられる。「睡蓮」のほかにも、「積み藁」や「ルーアン大聖堂」などのテーマにおいても多くの連作を残している。モネ自身が「うつろいの効果」と呼んでいる、刻々と変わる光との効果を描き出すこと。画家にとっての生涯を通じてのテーマを実現するために、モネが行き着いたひとつの結論が連作という手法だったのだろう。「積み藁」の好評が、モネに経済的な安定をもたらしたことから、ドガなどはこれら連作を、「売らんがための儲け主義」だと非難した。(実際モネは金銭には貪欲だったという話もある)海外まで行かずとも、 モネの作品を鑑賞する機会には事欠かない。例えば、この「睡蓮」は、「国立西洋美術館(東京・上野)」に展示されているもので、数多い睡蓮の絵の中でも秀逸なもののひとつに数えられるものだ。画家の生きた時代がそれほど昔でないことに加えて、作品数も多いから、ちょっとした都内の展覧会などでもモネの作品が目玉として展示されている光景をよく見かける。ただ、実のところ、私はモネに対しては、好きな作品も多い反面、手放しで賞賛する気にはなれない部分もあった。私ごときがこんなことを言うのはおこがましいのだけど、壮麗な傑作たちにまじって、なんというか、気持ちの入っていないような、やや粗雑?な作品が散見されるような気がしていたのだ。 もっともそれは、ひとつには私の浅学のためで、モネについての書物を読みすすんでいくうちに、画家が、時の経過とともにうつろいゆく刹那刹那の光とそれによって浮かび上がる対象を表現することに執念を燃やしていたこと、そしてそれらをキャンパスに封じ込めるためには、一枚あたりの仕上げは速筆にならざるをえず、そのための技巧を、生涯満足することなく追い求めていたことなどを知った。また、晩年の筆致が曖昧模糊としたものが多くなる原因のひとつには、興味の対象がより物の輪郭から光にシフトしたことに加えて、モネ自身が白内障を患っていたということもあるのだと知った。ただ、モネが、多くの賞賛と同時に、多くの議論を呼ぶ画家であったことは確かだ。「モネなど愚物だ。」と言い放ったジョルジュ・ブラックなどは極端な例といえるが、「モネはただの『眼』にすぎない。しかし、なんという『眼』だろう!」というセザンヌの有名なモネ評も、「ただの『眼』にすぎない」という言い回しになんとなく含みがあって、単なる賞賛に終わっていないところが興味深い。 「印象派」「印象主義」の名のルーツとなった名画「印象~日の出」は、パリのマルモッタン美術館にある。パリ市街の西端、ほとんどブローニュの森の近くに位置しているこの美術館は、地図で見ると不便そうだが、地下鉄が通じているため、アクセスはそう面倒ではない。かって貴族の邸宅だった建物は、1時間もあれば十分に見て回れる広さで、他の観光スポットと離れているせいか、比較的空いていて、のんびりゆったりと時を過ごせるのがいい。この「印象~日の出」は、モネが34歳のときに描いた、故郷ル・アーブルの港の風景で、1874年に開かれた有志による展覧会--のちに第一回印象派展と呼ばれる--に出品された5点の作品のうちのひとつだ。キュービズム、フォービズムや抽象絵画などまでも見慣れた私たちにとっては、この絵はもはや少しも奇異には映らないけれども、当時の批評家の目にとっては、そうはいかなかったらしい。朝もやの中を太陽が昇るまさにその一瞬の光景を描いたモネの筆致は自由闊達で、物の輪郭は漠然としていて、港に浮かぶ船などは大胆に簡略化され、朝もやの向こうの風景はまるで一筆書きのようだ。対象をいかに二次元世界に忠実に再現するかが評価の最大の指標となっていた当時の美術界において、モネのこの絵は理解しがたいものであったのだろう。 当時の風刺新聞「シャリヴァリ」誌の批評家「ルイ・ルロワ」はこの絵を「描きかけの壁紙の方がましだ。」と酷評し、タイトルの「印象」という名称を嘲笑した。しかし、そのことが、「印象派」 という命名のきっかけとなり、この批評家氏もそれをもって歴史に名を残すことになったのだから皮肉なものだ。「印象~日の出」が盗難の憂き目にあったのは、1985年のことだ。絵は4年後、無事な姿で発見された。犯人は、あまりに画題が著名すぎて、さしもの闇ルートでもさばくことができずにいたらしい。それでコルシカ島でくすぶっていたところを御用となったとか。これもまた「印象~日の出」が、1世紀を経て、いかに美術史上重要な位置を占めるにいたったかを証明するようなエピソードだといえる。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2017年01月25日
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今回は少しだけワインに関連した絵をとりあげたい。表題の「ボルドーのミルク売り娘」が描かれたのは、1827年。ゴヤが死の床につく数ヶ月前のことだ。ゴヤとボルドーと聞いて、ピンと来る人は相当の絵画通だろう。実はゴヤが人生の最後の時を過ごしたのが、かのボルドーの地なのだ。 ゴヤといえば、「裸体のマハ」「着衣のマハ」や「カルロス4世とその家族」などの傑作たちがまず頭に浮かぶが、今回は主として「黒い絵」に代表される彼の後半生にスポットをあててみたい。ゴヤの生涯は波乱に富んでいる。鍍金師の息子として生まれた彼は、17歳の年に野心に燃えてマドリードに上り、紆余曲折を経て、43歳にして宮廷画家の地位を手に入れる。しかし、4年後、突然の高熱に襲われれて、聴覚を喪失、以降の生涯を静寂の中に生きることになった。そしてこのことがその後のゴヤの画風に大きく影響する。その後、社交界の花形アルバ公爵夫人とのスキャンダラスな関係?があったり、不安定な政情の元でのしたたかな世渡りを経て、主席宮廷画家の地位まで上りつめるが、1819年、73歳の時に、マドリード郊外の自ら「聾者の家」と呼ぶ別宅に隠棲する。この隠宅の壁に書かれた14枚の絵が「黒い絵」と呼ばれるものだ。広いプラド美術館の中のスペイン絵画を中心にした2階の明るいフロアから、一階の南端のフロアに下りると、そこだけ、突然、暗い、一種異様な空間が現れる。ここはゴヤの「聾の家」の内壁を再現しているのだそうだ。「黒い絵」は元来、しっくいの壁の上に油絵の具で描かれた壁画だが、1873年、当時の「聾者の家」の所有者であったデルランジェー男爵の意志で、キャンバスに移された。 「黒い絵」の中でも、おそらくもっとも有名かつ衝撃的なのが、この「我が子を食らうサトゥルヌス」だろう。サトゥルヌスはユピテル(ゼウス)の父。彼は自分の子が彼の支配権を奪うという予言を聞き、生まれる子を次々と貪り食った。(幸いにもユピテルは母レアの機知に救われ、野の精であるニンフたちに育てられる。)ゴヤの描く獰猛な食人鬼のようなサトゥルヌスは、血に染まる子供の肉体の生々しさとあいまって、見るものに総毛の逆立つような戦慄を覚えさせる。しかし、画題の恐ろしさだけだけでなく驚嘆すべき筆さばきにも注目である。たとえば右足の部分。陰影となる部分は地の黒をそのまま残し、まるで書道のような筆致で最低限の彩色をほどこしている。まるで、剣の達人が、文字通り「紙一重」で相手を寸断するかのようだ。なお、この絵は画題どおり?食卓の壁に描かれていたとのことである。 「魔女の集会」(上)「サン・イシードロ祭」(下)も同じ一階食堂の壁面を飾っていた作品で、いずれも「黒い絵」と呼ばれるにふさわしいおどろおどろしい画面と筆致である。 二階のサロンに飾られた「スープを飲む二人の老人」の主題は不明。左の老婆がスプーンを指差し、右の骸骨のような老人が分厚い本をを指差しているところから、知識人を嘲笑し、物質主義を笑う図かもしれないと解釈する評論家もいる。 「殴り合い」。膝まで土に埋まり、身動きの自由を奪われた二人の農夫が血まみれになりながら棍棒で殴り合っている。ゴヤ自身の啓蒙思想と愛国心との葛藤を表しているとも言われる。本来ならば画家が心身ともにもっとも寛げる場所であるはず隠宅の壁に、誰に見せるでもなく、自分のためだけに描いた、おどろおどろしい一連の絵画。このような絵をゴヤに描かせしめたものは一体なんだったのだろうか。解説書の類には、「聾者になったことが、ゴヤをペシミズムに向かわせ、このような絵を描かせた」とするものがある。しかし、それはちょっと端折りすぎではなかろうかと思う。ゴヤが聴覚を喪失したのは46歳のとき。このことがそれ以降のゴヤの作風を変えたことは否定できないかもしれないが、一方で、美術アカデミーの絵画部長になったのも、主席宮廷画家になったのもそれ以降のことである。アルバ公爵夫人と1年の間、サンルーカル・パラメータで一緒に過ごしたのも50歳のときの話だ。聴覚を失ったことによって、決して隠者のような生活に様変わりしたわけではなかったのだ。では、なにがきっかけだったのか。実のところ「黒い絵」に関しては、その謎だけをテーマにした本が少なからずあるくらいなので、ここでは触りだけにとどめておきたいが、いくつかの節目となった事件を挙げてみると・・。1802年 アルバ公爵夫人わずか40歳で没。 1807年 フランス軍、スペインに侵攻。 1812年 妻ホセファ没。 1819年 「聾者の家」購入。しかし、この年の末、重病に陥る。1807年ナポレオン軍のスペイン侵攻では、ゴヤは告発者として、「マドリード1808年5月3日」のような傑作を生みだした。同時にこの事件はまた、それまでの平穏な宮廷生活の崩壊をも意味していた。 ゴヤとの関係が当時噂されていたアルバ公爵夫人はわずか40歳で他界した。さらに、長年ゴヤを支えた妻ホセファも1812年に死去。ところがゴヤはそれで隠棲するかと思いきや、ホセファが死んだ後、若い家政婦レオカディアと同棲を始め、子供まで設けている。このとき実にゴヤ69歳。自由主義者であったレオカディアは、ゴヤとの関係をあっけらかんと隠しもせず、当時主席宮廷画家であったゴヤにとっては、あまり世間体のよいものではなかったようだ。実は、聾者の家を購入したことは、このことも影響しているらしい。 「黒い絵」の中に一枚不思議な絵がある。絵の中の女性は、件のレオカーディア。「黒い絵」の中で、実在の、しかも身近な人物が登場するのはこの絵だけだ。そしてレオカーディアがよりかかっている岩は、「墓碑」である。この絵が暗喩しているものについては諸説あるようだ。 「聾者の家」は購入後かなりの増改築を施さねばならかった。それが負担となったのか、はたまた寒気にあてられかで、ゴヤは病に臥すことになった。当時73歳のゴヤを治療した医者アリエータを書いた絵が残されている。その描写たるや、まさしく迫真のリアリズムである。さて、その後、ゴヤはフェルナンド7世の自由主義者弾圧を避けて、ボルドーに亡命することとなった。時に78歳。80に手が届こうかという老人が住み慣れない国に移住しなければならない辛さは想像を越えるものだっただろう。しかし、そのボルドーの家に、ロバの背に乗って毎朝ミルクを届けに来た乙女を描いたこの絵には、もはや絶望的なペシミズムは見られず、明るく、詩的で叙情的な雰囲気とどこか吹っ切れたような透明感に満ちている。私はこの絵を見るたびに、モーツァルトの最後の交響曲となった「ジュピター」の旋律が脳裏に浮かぶ。ゴヤが死去したのはこの数ヵ月後のことだった。享年82才。晩年「黒い絵」を描きつづけたゴヤが、終の棲家となった地で、このような優しさと美しさに満ちた絵をもってその画業を終えたことに、私はすこしばかり心やすらぐ思いになる。そしてその地がほかでもないボルドーだったということにも。S’s Art 参考図書・引用文献(2001年当時)「名画の見どころ読みどころ」1~10(朝日新聞社)「西洋絵画の主題物語 I 聖書編」(美術出版社)「西洋絵画の主題物語 II 神話編」(美術出版社) 「西洋絵画史WHO'S WHO」 (美術出版社) 「ラ・ミューズ」1~50(講談社)「図解・名画の見方」(別冊宝島)「絵画の読み方」 (別冊宝島)「芸術と歴史の街アッシジ 」 「地球の歩き方~フィレンツェ編、イタリア編、ローマ編」「週刊グレートアーティスト14、52」 「世界の名画と巨匠50人」(世界文化社)「RAFFAEELLO」 (SCALA BOOKS)「プラド美術館」 (SCALA BOOKS)「世界の名画1~ゴヤ」(中央公論社) 「ベラスケス」(ノルベルト・ヴォルフ著 TASCHEN)「モネ」(クリストフ・ハインリヒ著 TASCHEN)ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2017年01月18日
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今回はルネサンス初期の二人の画家を取り上げてみたい。フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ。この二人には共通点がある。どちらも修道士であり、フィレンツェでその生涯の大半を送ったこと、そして、二人とも聖母像の画家として知られていることだ。しかし、二人の生涯はおよそ対極にあるといえるぐらいかけ離れている。フラ・アンジェリコは、1400年生まれ。フィレンツェにある、サン・マルコ修道院で生涯敬虔な生活を送った。キリストの磔刑図を描きながら涙を流したほどに信仰の厚い人物だったと伝えられる。一方のフィリッポ・リッピは、尼僧と駆け落ちして修道院を脱走するような、いわば「破戒僧」だったらしい。 フラ・アンジェリコが修道僧生活を送った、サンマルコ修道院は、現在は「サン・マルコ美術館」として公開されている。(写真上)修道院時代の面影を色濃く残した館内は、思わず居住まいを正したくなるような、凛とした雰囲気に包まれている。一回の回廊から階段を上っていくと、踊り場にさしかかったあたりで、彼の代表作「受胎告知」が、ちょうどこちらか見上げるような形で、眼前に現れる。美術館サイドが意図したわけでもないのだろうが、これはなかなかすばらしい演出効果だ。 「受胎告知」は、古来、いろいろな画家によって描かれてきたテーマだが、 中でも、フラ・アンジェリコによるこの作品は、彼のもつ敬虔で清楚な独自の世界を描き出した傑作ととして名高い。大天使ガブリエルが、マリアに近づき、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。と伝える。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい」「まだ夫がありませんのに」と驚くマリアに、大天使ガブリエルは、「聖霊によるのであって、恐れたりすることはない」。さらに、「生まれる子は聖なる者。神の子と呼ばれる」と告げた。落ち着きを取り戻したマリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れる。 この敬虔な空気に満ちた、静謐で安らかな画面はどうだろう。大天使ガブリエルの羽根の彩色は鮮やかでありながら決して華美にはならず、全体のトーンはやわらかくおだやかだ。神の声を伝えるガブリエルは、厳かに、それでいて、神の子の母たらんマリアに対し、恭しく身をかがめて接している。マリアはマリアで、心持ち上体を前に傾けて、天使の声に耳を傾けんとしている。絵の中のこの二人の距離感は、まさに絶妙であり、動きの抑制された、静的な画面が、かえってここで交わされている会話の内容の大きさを物語るかのようだ。そして、この二人が交わす眼差しの優しさ!驚きと、戸惑いと、恭順と、決意と、それらの入り混じったものが、画面の無垢なマリアの表情の中に、簡潔に、そして見事に表現されていると思うのは私だけだろうか。 フラ・アンジェリコは、このテーマによほどこだわりをもっていたようで、同じような構図による「受胎告知」を何度も描いている。画面左側にアダムとイヴが描かれているこの絵はプラド美術館所蔵のものだ。こちらも名作とされているものだけれども、サン・マルコ美術館のものに比べると全体の印象が装飾的で、やや煩雑な感は否めない。私としてはシンプルな構図のサン・マルコ美術館の作品により惹かれる。 ところで、この絵には実は矛盾する点があると言われている。人物と建物の縮尺の不一致だ。この絵の通りだとすれば、聖母マリアは立ち上がると天井に頭がついてしまいそうな大女ということになってしまう。まあしかし、サンマルコ美術館の壁面にかけられた実物を前にすると、そのような指摘すらも些細なことに思えてくる。この「受胎告知」は、技巧云々を超えた、敬虔な画僧フラ・アンジェリコの人柄そのもの、純粋無垢にして、清廉な信仰心を反映した名作なのだ。 さて、一方のフィリッポ・リッピ。フラ・アンジェリコが模範的な修道士だとしたら、フラ・フィリッポはまさに型破りな破戒僧だった。彼の生まれた年ははっきりしていないが、2歳の時に孤児となり、叔母に育てられるものの、8歳で口減らしのために、修道院に放り込まれた。リッピは、その修道院で絵を描くことを覚え、いたるところに落書きをしていたらしい。しかし、僧院長がその落書きに彼の才能を見出し、正式に絵を学ぶことになったというから世の中わからない。初期の作品はマザッチョの影響が大きかったが、当時、新しい技術であった遠近法をマスターし、マザッチョのスタイルに、さらにゴシック的な装飾を加えていった。1421年、誓いをたてて、修道士生活に入る。 しかし、リッピは、1452年、当時院長を務めていた修道院の修道女ルクレツィア・ブティと恋に落ち、なんとこの女性と駆け落ちしてしまう。この事件は当時としては大変スキャンダルだったらしい。ところが彼は、パトロンであり、フィレンツェの有力者だったコジモ・デ・メディチに間に入ってもらい、ローマ法皇の許しを得て、還俗して正式な夫婦となってしまった。(もっとも、正式な夫婦にはなっていないとか、還俗したのは、女性の方だけだという解説もあって、手元の資料だけでは正確なところはよくわからない。)実のところリッピはそれ以外にも、気に入った女性がいると物を与えて自分のものにしたとか、領収書を偽造して金品を騙し取ったとか、小悪党的な所業を重ねていたというエピソードもある。コスモ・デ・メディチの元にも当然このような悪評は耳に入っていたのだろうが、老メディチは「彼に不徳があったとしても、才能が帳消しにするであろう。」と言ったと伝えられる。こういうのも「芸は身を助ける」というのだろうか。 その彼が、このような、敬虔な、母性に満ちた聖母子像を描くのだから、芸術とはわからないものだ。ちなみに、この聖母子のモデルは、件のルクレツィアと、彼との間に出来た子供(後の画家フィリッピーノ・リッピ)だと言われている。赤ん坊のキリストはやわらかい肌のぬくもりが伝わってくるかのようで、天使はいたずらっ子のように愛らしく描かれている。聖母マリアは清純な美しさと優美さにあふれていながら、同時代の他の画家たちのマリア像に比べるとより人間的、世俗的であり、髪型やしゃれた髪飾りなど、当時流行のファッションに身を包んでいるところも見逃せない。そしてまた、彼の描くデリケートでかつ明快な線の美しさは特筆すべきものであり、この特質は、弟子である「線描の画家」ボッティチェルリにも引き継がれている。ラファエロの描く聖母が、優美でやさしい中にも、母としての強さや包容力の大きさのようなものを感じるのに対し、リッピの聖母はあくまで可憐で、どこか線が細く、思わず「守ってやりたい」と思わせるような、そんなマリアさまだ。 フィリッポ・リッピは後のフィレンツェ美術に大きな影響を残した。「ヴィーナスの誕生」「春」などで知られるボッティチェリは彼の弟子であり、直接影響を受けた一人だし、レオナルド・ダ・ヴィンチの岩窟のマドンナは、彼のゴシック的な設定が影響しているという。一方、フラ・アンジェリコの画風は、技巧という面においては、決して器用といえる部類には入らないだろう。しかし、音の強弱を表現できないパイプオルガンが、それゆえにこそ、人間世界を超越した神的なものを表現するのにふわわしいように、アンジェリコの描く画面もまた、小手先の技を超越した高みにあるといってよいかもしれない。そういえば、たまたまこのときのイタリア旅行でご一緒した妙齢のお姉さま方が、フィリッポ・リッピの熱心なファンだった。もう20年も前のことだが、今はどうしているだろうか。写真を見て、真っ先にそんなことを思い出すあたり、私はどこまでも俗世間の呪縛からは逃れられそうもない。**************※S’s Art 参考図書・引用文献(2001年当時)「名画の見どころ読みどころ」1~10(朝日新聞社)「西洋絵画の主題物語 I 聖書編」(美術出版社)「西洋絵画の主題物語 II 神話編」(美術出版社) 「西洋絵画史WHO'S WHO」 (美術出版社) 「ラ・ミューズ」1~50(講談社)「図解・名画の見方」(別冊宝島)「絵画の読み方」 (別冊宝島)「芸術と歴史の街アッシジ 」 「地球の歩き方~フィレンツェ編、イタリア編、ローマ編」「週刊グレートアーティスト14、52」 「世界の名画と巨匠50人」(世界文化社)「RAFFAEELLO」 (SCALA BOOKS)「プラド美術館」 (SCALA BOOKS)「世界の名画1~ゴヤ」(中央公論社) 「ベラスケス」(ノルベルト・ヴォルフ著 TASCHEN)「モネ」(クリストフ・ハインリヒ著 TASCHEN) 「岩波 世界の巨匠 モネ」「日経ポケットギャラリー マネ」 「コートルド・コレクション展 (図録)」 ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2016年12月16日
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1873年に書かれた「鉄道(サン・ラザール駅)」という名のこの作品は、ちょっと見にはよくわからないが、当時開業間もないパリのサン・ラザール駅を描いたものだ。石垣に腰かけている女性は、鑑賞者の無遠慮な視線に読書を妨げられたかのようにこちらを見上げている。膝元で気持ち良さげに眠っている子犬が、休日の午後の、時を忘れたかのようなのんびりした日常のひとときを連想させる。その隣で後ろを向いて鉄格子ごしに駅を覗いている少女は、列車の発着の瞬間を見ようと、鉄格子に駆け寄ってきたのだろう。そして読書をしていた女性は、その拍子に、画面の向こう側にいる女の子の両親とでも目があったのかもしれない。マネはこの画を描くにあたって、何をキャンパスに描こうとしたのだろうか。ある人は、この絵から、旧世代と新世代の対比を見出す。前向きの読書をする女性という構図は、古典的なものであり、その一方で少女は、近代文明の象徴である鉄道を見据えているからだという。 また、駅に象徴されるのは、別れであり、出会いでもある。人間関係の希薄な都会の住人同士、汽車が発着する様子を旺盛な好奇心を以って見つめている少女と、いつもと変わらぬ日常の中に身を浸す女性という対照的な住人同士が、たまたま接点を持った、その刹那的な時間をマネはキャンパスに封じ込めたかったのかもしれない。この絵のモデルの名はヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランという。マネの傑作「草上の昼食」「オランピア」のモデルとなった女性であるといえば、「ああ、あの…」と合点が行く人も多いだろう。絵画史上、有名なスキャンダルとなった「草上の昼食」は、ジョルジオーネの「田園の合奏」をモチーフにしたものだそうだ。それまで、理想像としてしか描かれなかった裸婦の姿を日常の光景の中に、あるがままの姿で描いたマネの意欲作は、1863年にサロンに出品されると、当時の保守的なアカデミーから猛烈な非難を食らい、マスコミからも酷評を浴びることになった。画題の突飛さもさることながら、画法の面でも、ジャポニズムの影響の見られる明確な色調や明るい色彩の使用が伝統的な技法を無視しているとされたのだ。しかしその一方で、彼は、これを以って後に「近代絵画の父」と呼ばれることとなる。 そして画家はこの2年後に再び美術界に衝撃を巻き起こした。「オランピア」。ギリシア神話のような響きのこの名称は、実は当時のフランス文学においては娼婦によく用いられる名前だった。小洒落たアクセサリー類が素肌に輝き、瀟洒なサンダルを履いたままベッドに横たわる姿はかなり直接的な官能表現であり、髪には催淫性をもたらすとされるランをさしている。黒人のメイドが抱えている花束はおそらく贔屓の客からのものであろう。高級娼婦の姿を描いたこの絵は、日常の裸婦を描いたという点において、当時「理想化された女性美」を描くのが常であった絵画界では、革新的なものであった。 ヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランは当時21歳。職業は「オランピア」の画題のような娼婦ではなく、プロのモデルだった。(アマチュアだという書もある。)ギターが趣味の平凡な女性は、たまたまマネと裁判所で出会ったことが縁で、これらの絵のモデルを引き受けることになったという。絵を見る限り、失礼ながら彼女はとりたてて美しいとはいえなかったようだ。しかし、それはマネの意図したことでもあった。彼は、「理想化された美」でなく、「日常の裸婦をあるがままに」描こうとしたのだから。マネの描いた2枚の絵画は、良くも悪くもパリ中の評判となった。当然、批判はモデルにも向けられる。「みにくい黄色い腹」「個性的でない顔」「不自然なポーズ」…。当のヴィクトリーヌは傷ついたことだろう。なんのかんの言っても若干21歳の女性である。当然街を歩けば、後ろ指を差されることもあったろう。当時としては大胆すぎる絵柄を思えば、描かれている時点で、ヴィクトリーヌ自身、ある程度このような反応は予想していたかもしれない。しかしそのようなリスクまで侵しても、彼女がモデルを続けたのは、やはり天才マネのインスピレーションに強い共感を受けたからであるまいか。事実、この後、彼女は画家を志した。あるいは、もともと画家志望だったのかもしれないけれども。いずれにせよ、「オランピア」に描かれたヴィクトリーヌの誇らしげな表情は、まさにマネの意図する芸術に賛同し、その一翼を担うということへの、自負心に満ち満ちているようにも見て取れる。二人が再会し、「鉄道」が描かれることになったのは、「オランピア」から10年後のことである。この2枚の絵が描かれる間の10年間はヴィクトリーヌにとって、どのような歳月だったのか。数少ない著述によれば、ヴィクトリーヌは結局、画家としては成功することはなく、酒に溺れて生涯を終えたそうだ。しかし、この時の彼女はまだ33歳である。当然老け込むような年ではない。それでも、「鉄道」に描かれた彼女には、もはや「オランピア」に見られるような自信と誇りに満ちたまなざしは見られない。むしろ、実年齢以上に、幾星霜をかさねて、人生の悲哀を思い知らされたかのような、そんな姿だ。マネによって一躍「時の人」となった彼女だが、その後は自らの力で再び世間の注目を浴びることの難しさを実感することになったのかもしれない。それを思うと、マネがヴィクトリーヌを描く際にこの題材を選んだのは、なんとなくわかるような気がする。過去と未来。出会いと別れ。古きものへの愛惜と新しいものへの挑戦。ヴィクトリーヌの隣で汽車に見入る少女は、新たな時代の幕開けの象徴であり、40歳を越えてさらに道を切り開かんとするマネの心の投影であると同時に、かっての「同志」ヴィクトリーヌへのマネなりのエールなのしれない。 「オランピア」は、その後、印象派の絵画が人気を博していたアメリカに渡りかけたが、1890年に、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌなどが中心になって、この作品買取りのための基金集めをし、政府に寄贈されることとなった。絵は最初リュクサンブール美術館におさめられ、17年後の1907年、ルーヴルに移管された。(今はオルセー美術館に展示されている。)かのモネが美術相あてに、この作品をルーヴルにいれてくれるようにと、切々に訴えた手紙が残されている。「オランピア」がいかに印象派の画家たちにとっていかにモニュメンタルな作品であったかを物語るエピソードだ。 後年、年老いたヴィクトリーヌが、自分自身が最も輝いていた瞬間の記録を、ルーヴル美術館で目にすることがあったのだろうか。興味のあるところだが、しかしそれを知るには、私の手元にあるヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランに関する記述はあまりに乏しい。<追記>このコラムを書いたのは2001年のこと。その後のネット上の情報量の飛躍的な増加はみなさんご存知の通りで、今では彼女のことはWikipediaにも掲載されています。ヴィクトリーヌ・ムーランhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3一部抜粋すると、・マネは1870年代初めまでムーランをモデルとして使い続けたが、この頃ムーランが絵のレッスンを受け初め、マネが反発していたアカデミック美術に惹かれるようになったため、二人は疎遠になった。マネがムーランを描いた最後の作品が、しばしば「鉄道」と称される1873年の「サン・ラザール駅」である。・1880年代までは、エッチングで最もよく知られるノルベール・グヌット(英語版)とアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのためにモデルの仕事も続けた。・ムーランはサロンで6回作品を展示している。・1903年にムーランはシャルル・エルマン=レオンと創立者トニ・ロベール=フルリー(英語版)の後押しによりフランス芸術家協会(英語版)の会員となった。・1906年までにはムーランはパリを離れてコロンブの郊外に移り、余生をマリー・デュフールという女性と過ごした。・ムーランの作品で唯一残っているのが、2004年に発見された油絵 「枝の主日」("Le jour des rameaux")で、現在コロンブ歴史博物館に展示されている。ということで、私の想像とは少し異なっていたようで、この作品を最後にマネと袂を分かったようですね。画家としてはサロンに数回入選するなど、現役時代はそこそこ成功していたようですが、現存しているのがたった一枚だけというあたり、この世界の厳しさを改めて知らされます。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2016年12月08日
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ローマの下町、トラステヴェレ地区の語源は、「テヴェレ川の向こう」という意味で、地元ローマっ子が食べに行くというピッツェリアの名所でもあり、毎日曜の朝に開催される蚤の市でも有名だ。くすんだオレンジや明るい黄土色の建物が並ぶ、ちょっとひなびた街角は、庶民の町らしく、上を見上げると洗濯物が干されたりしている。観光都市ローマにあって、日常的な生活感を感じる場所でもある。街中にある「サンタマリア・イン・トラステヴェレ教会」は、紀元3世紀に法王カリストゥス1世によって創設された由緒ある教会だが、お高くとまったようなところはなくて、庶民の信仰に根ざしたような素朴な雰囲気が感じられるのがいい。私がここを訪れたときには、ちょうどミサが始まる時間だったようで、どこからともなくグレゴリオ聖歌が聞こえてきて、束の間の敬虔な気分を味わうことができた。ここまで足を伸ばしたら、「フォルネジーナ荘」も訪れてみたい。シエナ出身の銀行家、アゴスティーノ・キージが1508年に同郷の建築家バルダッサーレ・ペルッツィに依頼して建てたこの別荘は、ラファエロやその弟子たちが内部の装飾に関わったことで知られている。中でも、壁面に描かれた「ガリテア」は、ラファエロが創り出したもっとも美しい女性像のひとつ、とさえ言われているそうだ。ところがこのフォルネジーナ荘、いざ訪れようとすると、建物の形状が地味なせいか、あるいは色調が近隣の風景に溶け込んでいるせいか、思いのほか見つけにくい。現地のそばまでタクシーで行ったのに、役所の建物かなにかと間違えて通り過ぎてしまい、探し当てるまで界隈を一周した挙句、芝生の庭の中に入り込んで警備員に怒られたりもした。目当ての「ガリテア」は、1階の居室の壁に、他の壁画たちとともにさりげなく飾られていた。ものものしい展示を想像していた私は、「え、こんな場所に?」と、ちょっと拍子抜けしたのを覚えている。ガリテアとはローマ神話に登場するニンフ(妖精)のことだ。一つ目の巨人ポリュフェモスがガリテアに恋をしたが、彼女にはすでにアキスという美しい恋人がいた。幸せそうに寄り添う恋人たちに嫉妬した巨人は、大岩を投げつけてアキスを殺してしまう。すると岩の割れ目からは水が溢れ、アキスは川となったという。世紀末の画家ルドンの絵にも同じ題材のものがあるが、おどろおどろしい一つ目の怪物が登場する幻想的なルドンの作品に比べると、ラファエロのこの壁画は祝祭的な気分に満ちている。陽気な海のケンタウロスやキューピッドたちの祝福を受けて、貝の凱旋車をあやつるガリテアは表情豊かで、たしかに美しい。しかし「画家が作り出したもっとも美しい女性像」という評価は正直、ちょっと誉めすぎの気もする。ここに描かれたガラティアは、肉付きがよいが、ふくよかというよりは、筋肉質に描かれていて、どこかミケランジェロの影がつきまとうような気がしてならない。画家の描くこうした躍動的な人物像は、他にもヴァティカンの「ボルゴの火災」とか、最晩年の「キリストの変容」などにも見られるが、隆々とした筋肉をまとった肢体と画家独特の優美な表情との間に、なんともアンマッチな印象を受けてしまう。やはり私としては、一連の聖母像や、一糸乱れぬ遠近法による幾何学的な調和が画面に落ち着きをもたらしている「アテネの学堂」などが代表作と呼ばれるにふさわしいと思う。さて、このフォルネジーナ荘の仕事に取りかかっていたころ、ラファエロは近所に住むひとりの女性と恋に落ちた。その娘の名はマルゲリータ・ルーティ。近所の平凡なパン屋の娘であったことから通称「フォルナリーナ」(パン屋の娘の意)と呼ばれている。(ちなみにパン屋があった場所は、今は「ダ・ロモロ」というレストランになり、店先には記念のプレートが飾られているそうだ。)フォルナリーナをモデルにしたいわれる2枚の肖像画がある。一枚は、当時の貴族の結婚衣裳をまとった「ラ・ヴェラータ」(上写真)。もう一枚は裸体の彼女を描いた「ラ・フォルナリーナ」(下)。「ラ・ヴェラータ」は、フィレンツェのピッティ宮殿収蔵、「ラ・フォルナリーナ」は、ローマの国立絵画館(バルベリーニ宮殿)に飾られている。バルベリーニ宮殿はトラステヴェレからも容易に足をのばすことができるところにあるので、私はガリテアを鑑賞したその足で向かってみることにした。数多くのローマの文化遺産の中にあって、国立絵画館はそれほど旅行者に人気があるわけではないが、なかなかどうして、すばらしい絵が多くあるし、ラファエロ好きな私にとっては、この「ラ・フォルナリーナ」に出会うだけでも、行ってみる価値があった。聖母像すら連想させる、「ラ・ヴェラータ」のやわらかくも優雅な筆致に対して、「ラ・フォルナリーナ」の筆致はどちらかというと硬質、ややぎごちないポーズもあいまって、画面にはりつめたような雰囲気が漂っていた。裸体の左腕にはめられたリングには、「この女性は、ウルビーノのラファエロの妻」という署名が刻まれている。もう一作、フォルナリーナが登場する作品があるらしい。それは、ほかでもない、「アテネの学堂」である。この壮大な絵の右隅に、画家自身の自画像が描かれているのは有名な話だが、画面左端から四分の三ぐらいの位置に、そのラファエロと対になるかのようにこちらを向いて立っている女性こそがフォルナリーナであるといわれている。真偽のほどは定かでないが、なるほど、見比べてみると、たしかに「ラ・ヴェラータ」に通じる面影がある。ラファエロが37歳の若さで世を去ったとき、フォルナリーナは葬列に参加することすら許されなかった。そして翌日彼女は修道院の門を叩いたという。しかし彼女は、一方ではラファエロによって、キャンパスの中に永遠の生を得ることになり、儚げなロマンスの主人公として、後世まで語り継がれることになった。その肖像画をこうしてはるか東洋の一凡夫までもが鑑賞しに訪れる。これもまた、「ガリテア」の導きだろうか。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2016年12月05日
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モディリアーニの描く絵を見るたび、最初のうちは、不思議な絵だなあと思っていた。黒目のない顔、妙に長くくねった首、静謐なようでいて、どこか躍動感のある画面。彼がもともと彫刻家志望だったと聞いて、なるほど、と合点がいった。一見平面的でありながら、彼の絵にはノミで削ったような立体的、彫刻的な趣がある。モディリアーニの描いた女性の肖像画は数多くあるが、もっとも有名なのは「ジャンヌ・エビュテルヌ」の一連の肖像画だろう。24枚という数自体、いかにこの女性がモディリアーニにとって、大切な伴侶だったかをあらわしている。エコール・ド・パリと呼ばれる20世紀初頭のパリで、モンパルナスのカフェに入り浸り、酒とクスリとで自らの命をそれこそ彫刻のように刻々と削りながら、命の炎を燃やした破滅型の画家モディリアーニ。その生涯の後半を支えたのが、この女性である。 ジャンヌ・エビュテルヌは当時19才の画学生で、青色の切れ長の瞳が美しかったという。どこかの画集で、生前の彼女の写真を見る機会があったが、美しさに隠れた、どこか物憂げな表情が印象的で、美男として名を馳せたモディリアーニと連れ立ってパリの街を歩けば、道行く人も振り返ったことだろうと思う。二枚ほど、私は、黒目の書き込まれたジャンヌ・エビュテルヌの肖像画を知っている。美しい肖像画だが、その絵を見ると、逆になぜモディリアーニが多くの人物画に黒目を入れなかったのかが判るような気がする。黒目の書かれたその肖像は美しいけれども、どこか日常の鎖から解き放たれていないのだ。一方、翡翠のような淡い青色で塗りつぶされた瞳のほうは、一見無表情なようで、それでいて、鑑賞者により幅広いイマジネーションをかきたてさせる。ひとりのモデルとしての存在を超えた普遍性。そんなものまで感じると言ったら誉めすぎか。多くのジャンヌ・エビュテルヌの肖像画の中でも、私は最晩年に書かれたこの一枚にもっとも惹かれる。渋いエンジのトーンがえもいえぬ哀愁を誘い、上体をひねったポーズと斜めに描かれた背景が安定した中にも不思議な不安感をあおるこの絵は、個人蔵ということで、モディリアーニ展でも開催されないと、鑑賞できる機会がないのが惜しい。もう一作、特に好きな作品として、グッゲンハイム美術館に「黄色いセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ」を挙げたい。「黄色いセーター~」は美術書などでよく目にすることもあり、ニューヨークを訪れた際にはぜひ本物を見たいと思っていた。十年近く前、初めてニューヨークを訪れたときには、メトロポリタンやNOMAを見て回るうちに時間がなくなってしまい、結局実物を見れずじまいだった。なので、翌年、再度ニューヨーク出張の話がふって沸いたときには、今度こそ、と意気込んだものだ。グッゲンハイム美術館はメトロポリタン美術館からは目と鼻の先。ほんの一区画クルマを走ると、セントラルパーク沿いに、かたつむり型のモダンな建物が見えてくる。美術館の中はらせん階段状になっていて、通路のところどころに、キャンディがオブジェ状に山高く積まれたりしていて、いかにもモダンな雰囲気だ。ところが、上から下まで探し歩いても、どこにもこの絵が見当たらない。掃除をしていた従業員の女性に聞いたら、「In the Storage」だという。まさか。こんな名画を倉庫には入れていないだろう。きっとどこかに貸し出し中なのだろう、と諦めて帰ってきたが、縁とは不思議なもので、帰国後しばらくして、休日にたまたまぶらりと入った展覧会---今では名前もどこで開催されていたかも忘れてしまったが、おそらくエコール・ド・パリ展のようなものだったのだろう---にこの絵が飾られていた。展示場所が出口のすぐ手前だったためか、この絵の前で足を止める人は多くなかった。しかし、実際に目の当たりにする、黒目のない瞳は、美術書で見るよりもずっと奥行きがあって、私にしばし時間を忘れさせた。モディリアーニに目をかけ、彼のことをいろいろと面倒を見ていた画商ズボロフスキーは、画家の結核の悪化を知って、1917年の夏に彼をジャンヌとともにニースに保養に連れて行った。この肖像画はそのときに描かれたものらしい。最晩年に書かれた前述の一枚に比べると、画面はずっとおだやかにまとまっており、構図も自然で、明るく安らかな雰囲気に満ちているのはニースの陽光によるものかもしれない。セーターのやわらかなふくらみが示すように、ジャンヌはこのときモディリアーニの子供を身ごもっていた。しかし、彼と彼女の結末を知っている私たちは、どうも物事を運命論的に捉えてしまう。ニースの柔らかな光に包まれた画面の中にも、どこかひんやりとした物憂げな表情が見て取れるような気がするのは、ジャンヌに、あるいは描いていたモディリアーニの双方に、遠からず訪れる運命の予感があったのだろうかと。肺結核が悪化したモディリアーニはこの1年後、帰らぬ人となった。享年35才。このときすでに二人目の子供を宿していたジャンヌ・エビュテルヌは、医者を呼ぶことすらできずに断末魔の画家を呆然と見守るばかりだったという。そして身重のジャンヌ自身もまた、モディリアーニの死の2日後に、ビルの5Fから身を投げて、彼の後を追った。当初から二人の仲に反対だったジャンヌの両親は彼女がモディリアーニと同じ墓に入ることを許さず、彼女は共同墓地に葬られた。ジャンヌがペール・ラシェーズにあるモディリアーニの墓の隣に葬られることになったのは、その5年後だったという。墓碑には「すべてを捧げたアメデオ・モディリアーニの献身的な伴侶」と刻まれているそうだ。天才画家との偶然の巡り合いゆえ、わずか21年で閉じることになったの彼女の一生は、芸術の息吹華やかなりし時代のパリの悲恋の物語として、今後も語り継がれていくことだろう。しかし、モディリアーニによるこの肖像画はそのようなセンチメンタリズムを越えた高みにある。夭折した多くの天才たち同様、死後になって彼の名声は確固たるものとなり、ジャンヌもまた、愛する人のキャンパスの中で永遠の生を得ることとなった。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2016年11月28日
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イタリアを訪れるとき、ローマに行く人は多いが、アッシジまで足を伸ばす人となると、それほど多くはないだろう。クルマだと3時間ほどの距離で、よく舗装された田舎の一本道を走ると、そのうち小高い山の斜面上にあるアッシジの街が見えてくる。パッケージツアーであれば、ローマからのオプショナルツアーなども用意されている。中世の景観をそのまま残したような美しい街並みは安らかなたたずまいをみせ、この街に何日か留まりたいという衝動すら起こさせる。街はこじんまりしているけれども、見どころにはことかかない。中でもここ抜きに語れないというのが、聖フランチェスコ大聖堂だ。聖フランチェスコ の生涯については何度か映画化されているそうなので、知っている人もいることだろう。地元アッシジの商家に生まれ、若い頃は放蕩三昧の生活を送ったフランチェスコが、その財産をすべて貧者に分け与えて信仰の世界に入ったのは、ある夜キリストが夢に現れたことがきっかけだったという。清貧、純潔、服従の三つを説いたフランチェスコの教えは人々の心を捕らえ、フランチェスコ会は、のちにキリスト教の一大勢力へと発展する。時のローマ教皇は、面会したフランチェスコに対して、「お前たちの尊い精神はよく分かるが、いっさいの所有を認めないといのは厳しすぎはしないか?」と問うたが、フランチェスコは、「何かを所有すれば、それを守る力が必要となりましょう。」と答えたと言われる。含蓄のある言葉だ。晩年、フランチェスコの前には、翼を持った人の幻が現れ、それをみつめるうち、聖人の体にはキリストと同じ聖痕が印されたと伝えられる。聖堂は下部教会と上部教会とから成っていて、内部は数々の絵画、壁画やステンドグラスなどで埋め尽くされている。中でも上部教会の壁面に描かれている、ジオットによる聖フランチェスコの一生を伝える28枚の連作壁画が有名だ。その中の一枚であるこの絵は、聖人の説教に小鳥たちが聞き入る場面を描いたもの。生きとし生けるものすべてに平等に神の恵みが与えられることを祈るフランチェスコの姿を描いた名作だ。この絵ばかりが美術書の類によく登場するが、他の絵(下の一枚を参照)も同じように、清らかで心休まる佳作ぞろいだ。ただし、当時の時間的制約から、いくつかの壁画はかなり弟子や協力者の筆が入っているともいわれている。たしかに一枚一枚見ていくと絵の完成度にバラツキがあるように思われるし、やや派手な色調を用いている他の絵に比べると、滋みのある色彩により落ち着いてまとまれたこの絵のトーンが作者の厳かな作風にマッチしていることもわかる。なお、フランチェスコの後ろで驚く弟子の姿は後世に書き加えられたらしいとのことだ。これらの作品が書かれたのは、1296~99年頃。作者であるジオットの空間表現と人間の感情表現の新しさはのちにマサッチオを通じてルネサンスの開幕に大きな影響を及ぼしているそうだ。つまり美術史的に大変重要な画家なのだそうだ。しかし、そのようなこと抜きに素人の私たちが見ても、そしてキリスト教徒ならずとも、ジオットの清廉で厳かな作風を目の当たりにすれば、敬虔な感動に打たれることだろう。下部教会には、もうひとりの重要な聖人の像が飾られている。聖キアラ、英語読みでは聖クララ。地元アッシジの貴族の子として生まれるが、1212年、両親の反対をおしきって、聖フランチェスコの最初の女性の弟子となった。フランチェスコの清貧の理想を守り、ここアッシジにクラリッセ女子修道院を開設。東方のサラセン軍が彼女の修道院を襲った際、キアラの祈りが異教徒を退散させたとか、臨終の床には聖母の幻があらわれ、彼女の魂を迎えに来たという言い伝えがある。キアラが1253年に他界すると、彼女を祀る聖堂が建て始められ、65年には聖キアラ教会が完成した。キアラの遺体は今もこの「聖キアラ教会」に安置されており、死後700年以上経った今も、ミイラ化して、腐敗していないそうだ。これもまた聖人ゆえの奇跡だろうか。 後年彼女とフランチェスコの関係を邪推する本が出版されたりもしたそうだが、下衆の勘ぐりだろう。信仰をよりどころとして精神的な絆で結ばれていたであろうこの師弟が、生前どのような日常の生活をし、どのような会話を交わしていたのか、凡人である私などにとっては、想像も及ばないところである。ちなみに、ジオットがなぜ聖フランチェスコ聖堂の壁画を描くに至った経緯は不明だが、彼がフランチェスコに深く傾倒していたことは、娘に「キアラ」、二人の息子にも「フランチェスコ」と名づけていることからも明らかだ。私がこの信仰の街アッシジ訪れたのは95年のことだ。写真でもわかるとおり、抜けるような青空が印象的だった。その後、 97年9月に二回にわたる大地震がこの街を襲った。大自然の容赦ない試練によって、聖フランシスコ教会も丸天井や壁などが崩れれ落ち、修道士4人が下敷きになって死んだ。教会の修復作業は順調に進んでいるようだが、30万個以上もの砕けた破片を張り合わさなければならず、まだ多くの時間が必要と言われている。#2001年ごろ書いたコラムです。アーカイブの方を遠からず手仕舞いにしようと思い、少しずつ内容をこちらに転載していきます。ジオット ~ 小鳥に説教をする聖フランチェスコ(S'sArt拾遺集) ラファエロ~草原の聖母 (S'sArt拾遺集)モネ 「印象~日の出」(S'sArt拾遺集)ゴヤ~「黒い絵」とボルドーのミルク売り娘(S’sArt拾遺集)フラ・アンジェリコとフィリッポ・リッピ(S's Art拾遺集)鉄道(サン・ラザール駅)〜マネ(S’sArt拾遺集)ラファエロ~ガリテア (S’sArt拾遺集)モディリアーニ ~ 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ(S’Art拾遺集)「S 'Art」の記事はこちらのアーカイブにもあります。http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri/
2016年11月27日
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当ブログには書いていませんでしたが、長年私が面倒を見ていた独り暮らしの叔母が昨日亡くなって、昨日から神戸に来ています。朝の7時に、容態が悪化しているとの知らせを受け、新幹線で急遽向かったものの、残念ながら車内で臨終の知らせを聞くことになってしまいました。病院で亡くなった場合、あとは出入りしている葬儀屋さんがもろもろやってくださるのかとばかり思っていましたが、叔母の入院していた病院はなにもフォローしてくれませんでした(そういう方針のようです)。土地勘のない私は、はてどうしたものかと途方にくれましたが、知り合いのお寺に問いあわせたら、そちらでもろもろ手配してくれることになって、今日が通夜、明日が告別式と相成りました。三連休最終日が友引のため、斎場が休みだとかで、今日明日で葬儀を終えないと、来週半ばまで会社を休むことになってシンドイところでした。助かりました。ここまでの経過は、あまりに生々しくてブログの記事にはしなかったのですが、今年前半は本当に「遠方に住む認知症の独居老人の介護」という困難な課題に打ちのめされ続けた半年間でした。山歩きという新たな楽しみを見つけていなかったら、ホント、心を病んでいたかもしれません。もっとも、この少子高齢化時代ですから、私なぞよりもずっと大変な思いをしている方も少なくないのだろうと思います。書きたいことは山ほどあります。自分自身のためにも記録に残しておいたほうがよいと思うので、落ち着いたところで追々記事にしていこうと思います。
2016年07月16日
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かれこれ7年も前のことになりますが、以下のようなタイトルの記事をアップしたことがあります。子供の頃読んで、名前を思い出せないマンガってありませんか? (2008/4/1)http://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/200804010000/その後、ネットを検索していて(本当にたまたまでしたが)最後までわからなかった作品のタイトルが判明しました。あらためてインターネットって便利だなぁと実感したものです。子どものころトラウマになったマンガのタイトルが判明 (2014/12/15)http://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/201412150000/足掛け7年。五十路を過ぎてさすがに気恥ずかしくなり、ブログにあった「マンガ・アニメ」のカテゴリーもなくしてしまいましたが、ようやく現物を入手できたので、今回はその内容を少しだけ(著作権の世界でいうところの引用の範囲内で)紹介します。まずはコチラ。作者は「エコエコアザラク」などで一世を風靡した古賀新一先生。赤ん坊がミルクを飲まず、乳が張って苦しがる母親に、その村の風習とやらで、カエルに乳を吸わせたところ、その後カエルたちがつきまとうようになった。気味が悪くなってカエルたちを処分したら、今度は赤ん坊がカエルに憑かれて、一家に次々と災厄がふりかかる、という内容で、小学校の図書室(笑)で上巻を読んだ当時は夢にまでカエルが出てきたものです。続刊を読む機会がないまま、いつしかタイトルも忘れ果ててしまったのですが、たまたまYahoo知恵袋に同じような質問が掲載されたおかげで、40年ぶりにタイトルを探り当てることができたのでした。もっともこの作品、心待ちにしていたわりには、いざ手にとって読んでみると、なんとも「つまらない」。描写がおどろおどろしいだけで、ストーリーにオチらしいオチがないのです。前半を読んでそれが長年トラウマとなっていた私にしてみれば、肩透かしもよいところでした。これに対して、「これだよ、まさにコレ!」と感涙にむせんだのがコチラです。探していたのはタイトルの「地獄くん」ではなくて、この中に含まれている「虫地獄」という短編。1970年頃に「ぼくらマガジン」に連載されていたものです。ちなみにタイトルの「地獄くん」はKindleで復刻版が出ていますが、Kindle版に「虫地獄」は収録されていません。もっとも復刻版が出たおかげで、以前7千円ぐらいした古本の相場が最近は4千円弱まで下落し、ようやく私も今回購入に踏み切ることができたという次第です。子どもたちが昆虫採集に熱中しているうちに異世界に迷い込んでしまう。そこは、虫の化け物たちが人間を捕らえて標本にする世界で、主人公の友人も犠牲になってしまいます。中でも恐ろしかったのが、友だちの女の子がいつのまにか寄生されていて、ラスト近くで皮をやぶって中から蛾の化け物が生まれてくるシーンです。今読み返しても、シュールレアリズム風の描写や精緻な背景、メッセージ性の強いストーリーなど、40年間トラウマになっていただけのことはあるなぁと、感慨もひとしおでした。ちなみに、この短編はもともと「人形地獄」という単行本に収録されていました。こちらの単行本はさらに入手困難で、ヤフオクなどで今も高額で取引されています。単行本に収録されている「人形地獄」「虫地獄」「パビリオン地獄」「怪奇死郎」」の四編のうち、「パビリオン地獄」だけは、私が入手したサンワイドコミックス版「地獄くん」にも収録されておらず、私にとって相変わらず幻の作品です(読んだ記憶はある)。ちなみに、作者のムロタニ・ツネ象氏はその後学研などの歴史マンガ・教育マンガに活躍の場を移すのですが、「地獄シリーズ」のメッセージ性や教訓色にその後の進路が垣間見えるようで、なるほどなぁと妙に納得してしまいました。
2015年08月10日
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齢50を過ぎて、さすがにマンガやアニメのことを書くのが気恥ずかしくなり、カテゴリーからも落としてしまったのですが、かって以下のような記事を書いたことがありました。子供の頃読んで、名前を思い出せないマンガってありませんか?http://plaza.rakuten.co.jp/szwine/diary/200804010000/この時点で、どうしてもタイトル名のわからなかったものがありました。>さらにもうひとつ。図書館かなにかで読んだ怪奇モノで、赤ん坊を生んだあと、ひどく乳が張って苦しんでいる女の人が、姑(だったかな?)のアドバイスに従って、蛙に乳を吸わせたところ、それ以降蛙の霊につきまとわれる話でした。当時子供の私にとってはひどく恐ろしいストーリーで、読んだあとしばらくトイレに行くのが怖かったのを覚えています。作画のタッチからいって楳図かずおの作品かな、と思ったんですが、こちらはさすがに情報不足なのか、ネットで探しても見つかりません。たぶん70年代前半のマンガだと思います。何という作品なんだろう?実はこの作品、途中で読むのをやめてしまって、結末を知らないのです。読んでみたいなぁ。これがついに見つかったのです。比較的最近、「Yaho!知恵袋」で同様の質問をした人がいたようで、先日「乳 カエル ホラー」で検索してみたところ、見事にヒットしました。昔のホラー漫画のタイトルが思い出せません。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1196514691タイトルは古賀新一氏の「生血を吸う幼女」というものでした。。楳図かずおだとばかり思い込んで探していたので見つからなかったようです。なんとあの「エコエコアザラク」の古賀画伯の作品だったとは。#ちなみに私の記憶は結構違ってましたね。アマゾンの古書で1888円で買えました。送られてきたらまたアップします。(笑)もう一方の私のトラウマの元であるムロタニ・ツネ象氏の「虫地獄」。こちらはグッとレアなようで、収録されている古書はいずれも高い!6800円はやや悩ましいプライスです(笑)。http://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%8F%E3%82%93-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%8B-%E3%83%84%E3%83%8D%E8%B1%A1/dp/4257960833)http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%9C%B0%E7%8D%84-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%8B-%E3%83%84%E3%83%8D%E8%B1%A1/dp/4257911409/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1418600236&sr=1-1&keywords=%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%80%80%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%9C%B0%E7%8D%84まあでも、40年以上前のトラウマの元になったマンガですから、飲み会一回節約して買ってみようかなとも思ったり。
2014年12月15日
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工場実習の最終日、ラインの工員仲間が私の送別会を企画してくれました。平田町の鍋料理の店でした。自分のクルマを東京に持ち帰ってしまって足がなかった私は、南クンに迎えてにきてもらうことにしていました。ところが翌日の引越しの準備やその他もろもろ手続き等に追われて、私は主賓にもかかわらず、少しばかり遅刻してしまいました。遅れるかもしれない旨は事前に幹事に伝えてあったのですが、会場に向かうクルマの中で南クンが言うには「班長のヤツ、なんや知らんが、エラい怒ってたで~。」「え?なんで?少し遅れるというのは、事前に伝えてあったはずだけど…。」「『最初から最後まで、自分勝手なヤツだ』、だと。オレはそれ聞いて、どっちが自分勝手や、って思ったけどな。」これを聞いて私の堪忍袋の尾がプツンと切れました。もし班長のヤツが送別会の場で何か絡んできたら、場が白けようが怒鳴りあいになろうが、徹底的に応戦してやる。今まで腹にためこんできたものを吐き出してやるぞ。「まあまあそう怒りなさんな。ナベさんのお別れの会なんだからさぁ。班長のことなんか放っておこうよ。」顔を真っ赤にしている(であろう)私を見て、余計なことを言ってしまったなぁと気まずそうに、南くんは会場に着くまでの間、必死に私の事をなだめてくれたのでした。売られたケンカは買おうじゃないかと腕まくりをして乗り込んだ私でしたが、そんな意気込みは空振りに終わりました。送別会の場では、班長は終始大人のふるまいだったからです。明るく歯切れよく、長いあいだご苦労様、新しい職場にいってもこの工場での経験を糧に頑張って欲しいという班長の挨拶は、まことにもって教科書的で、ある意味非の打ち所のない、別の言い方をすれば至って杓子定規なものでした。送別される私向けというよりは、残った部下たちへの示威行為的なメッセージという感じでした。直前まで班長が怒り狂っていたとあらかじめ聞いていた私からすれば、その爽やかな態度と言葉がいかにも白々しく、顔に「やっと厄介払いができるのだから、今日だけは我慢しておくか。」と書いてあるのが見て取れるようでした。まあ班長からしてそんな感じでしたから、送別会は終始しらけた雰囲気でした。私の事など眼中にないかのごとく、カラオケに夢中になる連中がいるかと思ったら、ふだん物静かで大人しい先輩がやたらと私に歌え歌えとしつこく迫ってきたり…。杯を注ぎに回ると、たいていの人とは、おざなりに「長いあいだお疲れ様だったね。」「新しい職場ではどんな仕事をやるの?」といったやりとりをふた言み言交わすと、すぐに隣の人たちとの会話に戻っていきました。南クンはじめ何人か親しい友人ができたとはいえ、総じて私は自身で考えていたほどラインの仲間たちから愛されていたわけでなかったのだなあと改めて実感しました。9ヶ月間も一緒にラインで働き、駅伝大会のメンバーにもなったりして、すっかり仲間の輪に加われた気でいたんですけどね。残された人たちにしてみれば、私のことなど年に何人も来ては去っていく期間工や研修生のうちの一人に過ぎないのですから、無理もないですけどね。「ナベさんはええやん。終わりがあるんだからさ。オレらなんか一生この生活だぜ。」南君がよく笑いながら言っていた言葉が身にしみました。そういえば、先日実家に立ち寄った際に、彼らが書いてくれた寄せ書きを探したのですが、実家の母が私の本棚を綺麗さっぱり整理してしまっていて、見つけることはかないませんでした。私に親切にしてくれた隣の工程のオジさんの名前も思い出せずじまいということになりそうです。翌日の土曜日に寮を引き払って、いったん東京の実家に帰りました。引越し休暇が数日あったような気もしますが、その間のことはあまりよく覚えていません。気持ちの良い晴天だったこと、実習生仲間たちも、じゃあな、そっちに出張に行ったら泊めてくれよな、などと言いながら三々五々赴任先へと散っていったこと、寮の前のガレージでレストアされていたポルシェ934がそこそこ綺麗に仕上がっていたこと。覚えているのはそんなことぐらいですね。というわけで、やっと工場勤務が終わったという達成感と安堵感、そして新しい職場への希望に包まれて宇都宮に赴任した私でしたが、ここからがまた紆余曲折あったのです。まあそれはまたいずれ機会があれば書きたいと思います。後日談工場実習の班のメンバーで、その後ひとりだけ再会した人間がいます。こともあろうに、それは因縁の「班長」その人でした。研究所勤務になって数年後のことです。新車の研究開発が終わり間際になると、工場の現場の連中がぞろぞろと出張でやってきます。実際に工場で組み立てるときに不都合な箇所はないかのチェックというのが目的なのですが、滅多に研究所などに足を踏み入れることのない彼らにとっては、半分物見遊山のようなものです。そのくせ自分たちの存在感を示そうとあれこれ文句をつけるので、研究所の技術者たちからはウザがられていました。そんなメンバーの中に班長を見つけたときには、思わずのけぞりました。身を隠そうかとも思いましたが、その必要もありませんでした。班長は私に気づかないまま、いや、気づいていたのかもしれませんが知らぬ顔をしたまま、相変わらず口を尖がらせて廊下を歩いていってしまいましたので…。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2013年03月22日
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「犬も歩けば棒にあたる」というのは、誰でも知っていることわざですが、その意味するところは何なのでしょうか?思いがけない災難がふりかかってくることの例え?いや、この愛らしいことわざの中にそんな禍々しい響きは感じられませんよねぇ。偶然出会いがあるというような意味でしたっけ?そうだとすると「棒にあたる」というのは例えとしてどうなのかと。そもそもこれってことわざなんでしたっけ?たまたま手元にKKベストセラーズの「親子でおぼえることわざ教室」という本があったので紐解いてみました。「犬も歩けば棒に当たる」1.何かをしようとすると思いもかけなかった災難にあう。2.行動していると思いもかけない幸運に出会う。解説によると、「いろはかるたに代表されることば。江戸時代から二つ意味があったが、時代によってとらえられ方は違っていた。江戸時代は良い意味の方が優位」やはり両方あったんですね。でも、このことわざって、なかなか使い方が難しいですよね。「今朝散歩をしていて一万円札を拾ったよ。」「へえ。『犬も歩けば棒にあたる』の例えどおりですね!」「(俺は犬かよ…)」とか、「聞いて聞いて。昨日散歩してたら上からカラスの糞が降ってきて頭に直撃しちゃったの!。」「それは災難でしたね。『犬も歩けば棒にあたる』というヤツですね。」「(ムカッ)」とか…。もっぱら自分や身内のことを謙遜して言うようなときに使うんですかね。朝からヒマねた失礼しました。
2013年02月28日
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三連休最終日の14日月曜日。都心でも8センチの積雪を記録するなど、7年ぶりの大雪となりましたが、雪が降らなかったとしてもこの日は我が家にとっては特別な日でした。そう、上の子の11回目の誕生日だったのです。生まれ年に併せて買い込んだ2002年のブルゴーニュが今も私のセラーの中心を占めているのはブログやコラムで何度か書いてきたとおりです。窓の外を雪がしんしんと降りしきる中での誕生日はどうだったでしょうか?ロマンチック?それとも外に出られなくて退屈?いやいや、そんな生易しいものではありませんでした。この日、カミサンは子供のバースデーケーキを、三宿の「ラ・テール」という洋菓子屋に予約してありました。http://tabelog.com/tokyo/A1317/A131705/13004810/この場所が問題だったのです。小洒落たレストランやカフェ、ショップなどが立ち並ぶ三宿界隈ですが、交通が不便なのがアキレス腱です。今回注文してあったラ・テールは我が家からは通常徒歩で12〜13分程度。ふだんなら軽く散歩やジョギングするような距離ですが、いかんせん、↓外はこんな感じです。池尻大橋の駅からならまだ少しは近い(それでも10分程度かかります)のですが、そもそも電車に乗るために三軒茶屋の駅まで歩かなければならず、結局遠回りになってしまいます。バスも同様。タクシーはこの雪の中、全くといってよいほど走っていません。でもって、こういう役割は、やはり父親である私に回ってきます。仕方がないので、これもウォーキングの延長だと思って、上から下まで着込んで重装備で出かけたのですが…。さっそく脚を取られてズルリとすべること数度、通りは「ワダチ」ができていて非常に歩きづらいということに気づきました。それで、順路を変更して緑道伝いに行くことにしました。↑夕刻だったので、ひと気もほとんどありません。雪国かココは?言いたくなるような景色のなか、ザクザクと積もった雪を一歩一歩踏みしめながら歩きました。長靴がなかったので、運動靴で出かけたら、あっという間に靴下の中まで染み込んできて、いやはや冷たいのなんの…。↑20分強かかって、ようやくラ・テールにつきました。ケーキは予約してあったのですぐに用意してもらえました。↑帰路、私に課せられた使命はホールのケーキを崩すことなくきれいな形で持って帰ることです。コケるのは論外として、ケーキが片側に寄ってしまうのも避けなければなりません。外は折悪しく、吹雪いてきました。ここ東京だよね~?そんなわけで、慎重を期して一歩一歩踏みしめるように歩いたので、帰りは30分近くかかりました。結局往復50分。帰宅時には上から下までビシャビシャのグチョグチョでしたが、ケーキを無傷で持ち帰ることができて、なんとか父親の威厳は保たれたのでした。ちなみに、翌日はひどい筋肉痛でした。↑カミサンのリクエストで通常のショートケーキ(これひとつで420円!)も買ったのですが、これが歩いているうちにズレてきそうで余計に気を使わされました。さて、誕生日に併せて開けたワインは…長くなったので次のエントリーにします。
2013年01月19日
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鎌倉、という地名にはどこか郷愁を誘う響きがありますね。初めて訪れたのは、小学校の「移動教室」でだったでしょうか。社会人になってからは十数年前に一度行きました。円覚寺や建長寺など仏閣を巡ったり、古い造りの平屋の家屋が立ち並ぶ街並みを散策したりしたものです。先日、路線図とにらめっこをしていて、自宅のある三軒茶屋からは意外にアクセスがよいことに気づきました。渋谷に出て、そこからは湘南新宿ラインで一本。1時間ぐらいかかるけれども、湘南新宿ラインなら750円払ってグリーン車に乗れば、まったくもって楽チンです。上の子の歴史の勉強になるし、そもそも子供二人は行ったことがないしということで、無謀にもこの三連休の日曜日に家族で繰り出したのでした。いやはや。参りましたよ。鶴岡八幡宮をナメていました。そういえばまだ1月だったんですよね。鎌倉駅から徒歩10分弱の参道は、最初から最後まで参拝客で埋め尽くされていました。例えてみるなら、ラッシュアワーの渋谷の地下乗り換え通路か、休日の原宿竹下通りか…。原宿といえば、通りから奥に一本入ったあたりに小洒落た店がいろいろあったりして、どことなくそれっぽい雰囲気も感じました。鎌倉の店も随分様変わりしましたね。いつぞやの台風で鶴岡八幡宮の大銀杏が折れてしまったという記事は読みましたが、本当にポッキリと折れてなくなっていました。今から700年近くも前に、このイチョウの下に隠れていた公暁に源実朝が暗殺されたんだよ、と子供に教えようと思っていたのですが。…というか、そもそも源実朝の名前も公暁も覚えていないって、もっと勉強しろよ>上の子。子供たちが境内の露店で買った「いちご飴」。りんごでもあんずでもなく、イチゴです。初めて見ました。体に悪そうなものが含まれていそうな毒々しいばかりの鮮烈な赤色ですが、子供達いわく「スゴく美味しい!」人の波に飲まれても、こんなことで機嫌を治してくれるうちはまだ御し易いです。鶴岡八幡宮のおみくじは正月でも平気で凶やら大凶やらが出るとのこと。私の友人N氏は2年続けて大凶を引いたそうですが、私の今年の運勢は「吉」でした。内容的にはあまり悪いことは書いてありませんでした。もっと国語の勉強をせよと書かれていました。ハハ。さて、鶴岡八幡宮にお参りしたあとは、ベタだけどやはり大仏は外せないでしょう、ということで、江ノ電に乗って鎌倉の大仏がある高徳院へ向かいました。ところが電車がまたうんざりするような激コミ状態で、すっかりへこたれてしまいましたが、なんとか夕刻前にたどり着きました。12月初旬に奈良の大仏、そして今回の鎌倉の大仏と、期せずしてわずか2ヶ月のあいだに両方の大仏を拝観できました。鎌倉の大仏を見たのはきっと中学か高校のとき以来だと思います。露座の大仏ということで、大通りの広場のようなところにあるとばかり思い込んでいましたが、私の記憶違いでした。周辺の環境は全く忘却の彼方でしたが、大仏の前の石段のところにみなで並んで記念撮影したことだけはすぐに思い出しました。このあと、露店で団子を買ったりして、道草しながら長谷寺に向かったのですが、タッチの差で拝観終了となってしまいました。結局半日かけて鶴岡八幡宮と大仏を見ただけでスゴスゴと帰ってきました。長谷寺とか円覚寺とかへも行きたかったんですけどね。今回の敗因は、1月の3連休、それも天気の良かった日曜日を選んでしまったこと、それに出発時間が12時と遅かったことですね。また落ち着いたところで、今度は行き当たりバッタリでなく、少しは事前にリサーチして、リベンジといきたいと思います。時間が許せば、湘南ワインセラーの花里さんのところにも顔を出したいですね。
2013年01月17日
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さて、長々と書いてきた工場実習の思い出もいよいよ終わりに近づきました。 当初3ヶ月の予定だった実習期間が円高を理由に突然延長されることになり、見知らぬ鈴鹿の地で、昼は2交代制の工員生活、夜は黴臭い独身寮の6畳部屋に2人で寝起きする生活を9ヶ月にわたって続けてきました。終わり間際は、さぞ終了に向けてのカウントダウンで盛り上がるかと思いきや、実際はそうでもなくて、むしろ拍子抜けするくらいあっけなく、実習は終了しました。というのも、ひとつには終了の一月前には、翌4月からの正規配属先が発表になっていて、みなの関心が一気にそちらに移ってしまったこと、もうひとつは、この頃には「住めば都」とまでは言えないものの、鈴鹿の地にも工員生活にもそれなりに慣れて、生活を楽しむゆとりができていたということがあります。また、終了間際になると、ラインの仕事のほうも次の人に交代するための引継ぎ期間に入ります。作業を教える立場になるので、友人たちいわく「周りの人に申し訳ないほど」仕事は楽になったそうです。なので、多くの実習生の仕事は、たとえばマラソンのゴール間際のように、あと百メートル、十メートルと終わりに向けて全身全霊を打ち込むというのではなく、半ば惰性で流しながら終了したという様子でした。ところが、私はといえば、楽しみにしていた引継ぎ期間は最後まで設けられることなく、最終日までずっとドアストライカーの調整をやり続けました。私の後に入る人は、以前この工程をやっていたことがあるので、新たに教える必要はないとのいうのが表向きの理由でした。当時、実習生や期間工など長期間働いた人の引継ぎには、ある意味「長いあいだご苦労さん。」的な慰労・温情の意味合いも込められていました。それが全く設けられなかったというのは、要は班長による「いやがらせ」だったわけです。このころには、私と班長との関係は、ほとんど最悪に近いものになっていました。名古屋で事故ったり、痔で休んだりと、何かと迷惑をかける実習生だったのは確かですが、決定的に関係を悪くしたたのは、例の工程変更のときでした。実習期間が延長になり、ローテーションで仕事を変えてくれると聞かされて、楽しみにしていた私でしたが、新たにあてがわれた工程は、工員たちが敬遠する、班の中でももっともキツイ工程でした。そのときの私は、露骨に不満をあらわにして班長に抗議しました。最初は私の話に耳を傾けていた班長でしたが、私がしつこく文句を言うのに対して、だんだんとボルテージが上がってきました。「今まで○○クンがずっと普通にやってきた仕事やないか!なんでオマエが文句を言うんだ。」「だいたい前にオマエが書いた実習の感想文、あれは何や。」班長は口をとがらせて、かつて、本社の人事からの宿題で提出した工場実習の感想文の話を持ち出しました。「隣の班の○○クンの感想文は、『最初はキツかったけれども、だんだんと工程にもなれてうまく仕事をこなせるようになった』という内容だったが、おまえのは反対だったやんか。」「何が言いたいんだか、ぜんぜんわからんかったわ。」たしかに私の書いた感想文は、「ラインの仕事には、肉体的に大いに負担を強いるものがある。担当となった仕事がキツイときはキツイと申告して、肉体的な苦痛を減らして合理的に作業をできるような工程の見直しを考えるべきだ」というようなものでした。この中の「キツければ、我慢せずにキツいと申告すべきだ」というのが相当彼の癇に障っていたようなのです。私が言いたかったのは、体育会的な根性論で足腰を痛めながらツライ作業を我慢してやるのは決して美徳ではない。何ヶ月か我慢してこなせるようになっても、ローテーションで次に回ってきた人間が同じ苦労をすることになる。そうした工程については優先的に作業工程の改善やロボットの導入などを考えるべきだということでした。しかし、拙い私の文章力では言葉不足だったのかもしれません。「体育会的根性論」でそれまでやってきた班長にはまるで見当はずれな感想ととられたようでした。この時、私はやっと合点がいきましたよ。ローテで露骨にキツイ仕事にさせられたきっかけは、この「感想文」だったんだな、と…。まあ今この時点で振り返ると、工場実習時に限らず、若い頃の私は、上司からすれば相当扱いずらく面倒な部下だっただろうなあと思います。自分自身が管理職と呼ばれる立場になり、部下を面倒みるようになって初めて、ああ、あのとき上司は私に対してこういう気持ちで接していたのかと、染み染み感じるものはありますね。サラリーマン生活を振り返って、反省すべき点は他にもいろいろありますが、その話はまたいずれ。実習の話はあと一回ぐらい続きます。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2013年01月12日
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朝マックって、てっきり10時までかとばかり思っていたのですが、10時30分までやってるんですね。今朝、子どもを習い事に送った帰りにたまたまマクドナルドの前を通りかかって、久しぶりにソーセージマフィンを食べたくなって入ってみました。さすが駅前の立地だけあって、2階の禁煙席は10時過ぎの時点でも、良い席はほとんど埋まっていました。二人がけのソファっぽい席が2テーブルありましたが、どちらも先客あり。片方は年配のご老人が腰掛けてのんびり新聞を読んでいて、もう片方では若い人がノートパソコンを広げて、朝っぱらからなにやらカシャカシャと打ち込んでいます。その横の長テーブルではテニスの朝練帰りと思しきトレーニングウエア姿の女子高生たちが、スーパージュニアがなんとかとか、このあと渋谷に行こうかとか、他愛のない話題で盛り上がっていました。私はそのすぐそばのカウンター席に腰かけました。長く居座るつもりはないので、カウンターでも十分です。何年かぶりに食べたソーセージマフィンの味は、ちょっと期待はずれで、こんなに油濃いものだったっけ?と思うようなものでした。私が年をとったせいかもしれません。コーヒーを飲みながらアイフォンを弄っていると、ソファ席のPCを使っていた客が帰り支度を始めました。私がそちらに移動しようと腰を浮かせたところで、もう一方のソファの老人がおもむろに意味不明な行動を始めました。飲んでいたコーヒーのプラスチックのフタとミルクとシュガー、まあようするにゴミですよね。これをご丁寧にテーブルの上にまとめて並べたと思ったら、コーヒーのカップだけ持って空いた席に移動したのです。そして彼は、何事もなかったかのように、新たな席で、今度は文庫本を読み始めました。それまで彼が座っていたテーブルの上、それもど真ん中の位置には、これみよがしにゴミが並べられたまま。これって、待ち合わせかなにかで、もう片方の席もとってますという意思表示なんでしょうか。いや、常識的に考えれば、単純により居心地のよさそうな席が空いたので移動したということなんだと思います。だったら、ゴミぐらい捨ててけよ、ボケ。…とは言いませんでしたが、立ち上がってすぐそこにダストボックスがあるのだから、席を移ったついでになぜ捨てないのでしょう?これが老境にさしかかった白髪の老人のすることなんでしょうか。私は思わず首を捻ってしまいました。そうこうするうちに、これまた年配の、ホームレスと間違われかねないようなみすぼらしい身なりをした男性がヨロヨロと入ってきました。彼は机上のゴミくずをものともせずに空いた席に腰掛けると、ベシャベシャ、クッチャクチャと私の席まで聞こえてくるような大きな音を立ててポテトをつまみ始めました。う~ん、最近のマックは孤独な老人たちの憩いの場と化しているんでしょうか。そういえば、私が席をたった後のカウンター席に座ったのも、緑色のカーデガンをきた白髪のおばあさんだったなぁ。まあ、どうでもいいけど、高校生たちが座っているすぐそばで、ゴミを残して席を移るとかないだろと。ご老体だからといって、マナーぐらいは守ってほしいものですね。よっぽど注意してやろうかと思いましたが、やめておきました。なぜって、その女子高生たちから見れば、私もまた一人でマックに来てソーセージマフィン片手にアイフォンイジっている怪しいオッサンに写っていたかもしれないので。これだけのことでこんな長文書いている私って、ホント暇ですよね。
2012年12月29日
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前のエントリーで書いた妹尾くんと一緒によくツルんでいた実習生仲間で、吉田くん(仮名)という男がいました。背の丈は170弱というところでしょうか。丸顔で銀縁メガネの奥からのぞく少し垂れた目は子鹿のように優しく口元にはいつも笑みを浮かべていました。性格も柔和で、よく言われる「金持ちケンカせず」というのはこういうタイプかなのだろうなぁと思ったものです。もっとも、実際に彼の家が金持ちだったのかどうかは知りませんけど。仕事は私と同様、「四輪車体組立て」でした。実習生にも運不運があり、中にはクルマにガソリンを入れるだけとか、チェックをするだけといった、肉体的にごく楽な工程だった実習生もいました。私の仕事はキツさという点では、実習生全体の中でみても確実に平均以上でしたが、彼の仕事はそれに輪をかけてキツく、実習生の中でももっともハードな部類だったと思います。そんな仕事を、彼は毎日文句ひとつ言わずにこなしていました。昼食時に感情むき出しでブツブツと不平を並べる私の愚痴話をうんうんと言いながらよく聞いてくれたのも彼でした。人が好くて、頼まれるとイヤとはいえないタイプ、あるいは大変で報われない役回りをみずから背負ってしまうタイプっていますよね。実は何を隠そう私にもその傾向があります。長くサラリーマン稼業をやってきて、この性格のためにずいぶんと損な役回りをしたり遠回りをしたりもしました。(まあ、組織やプロジェクトの中にこういうタイプの人がいると、使うほうとしては重宝するのでしょうけど。)吉田くんはおそらく私より二廻りぐらい輪をかけてそういうタイプだったのだと思います。そんな彼の実直さというかお人よしっぷりが如実に表れたのが、人事の進路希望面談の時でした。工場実習の終わりが近づいてきたころ、本社の人事担当者の面談がありました。実習終了後、どのような部門に配属されたいかという希望の調査です。文系の人間の多くは海外営業や広告宣伝などを希望していました。私は商品企画的な仕事、研究開発の現場に近い仕事を希望しました。この希望は後にかなり歪められた、希望に沿ったとは到底いえない形で実現されるのですが、まあそれはいずれ別の機会に触れるとして、当の吉田くんはどうしたかというと…。「俺は何でもいいと言ったんだ。」「え?何でもいい?」「海外経験が長かったと聞いていたから、てっきり海外営業志望かとばかり思っていたけど。」「いや、自分の適性とか、本当に何が向いているかというのは、自分でもまだ判らないんだ。だから、その分野のプロの人事の人に、公平な目で見てもらって、決めてもらうのがいいんじゃいかと思ったんだよね。」ああ、なるほど。最初から自分の思い込みで可能性を限定してしまうよりは、あえて、真っ白なパレットを用意してなんでも自由に絵を描いてくださいというような、そんなイメージですよね。言わんとすることはわかります。わかりますが…「で、人事担当者はなんて言ってたの?」「こういうときには、希望をきちんと言ったほうがいいよ、って言われた(苦笑)。」う~ん、そうだよなあ、と思いました。長く接している私たち友人には、彼の言わんとすることは肌感覚的に納得できるのですが、何百人もの新人相手に面談をしなければならない人事担当者にとっては、単に「優柔不断で自己主張の乏しいヤツ」という風にネガティブにとられてしまったのではないかと。工場実習の終わり間際に、各人の配属先が発表になりました。悲喜こもごもの中で、彼の配属先は、(鈴鹿とは別の)工場の工務部門でした。工務はラインそのものではありませんが、実態としてかなりラインの現場に近い仕事です。おそらく新人のうちは、フォークリフトで部品を運んだりとか、そんな仕事が多いのではなかろうかと…。正直、通常なら大卒定期採用の社員が配属になるような部署ではありません。おまけに配属先の工場は彼の出身の東京からも遠いと来ています。9ヶ月もの間、ラインで働かされたあとの配属先としては、実に厳しい結果です。これがもし私だったら、本当に心が折れていたかもしれません。「しばらくはまだ交代制の勤務が続くことになりそうだ。」そう語る彼の口元は相変わらず笑みをたたえていましたが、さすがに落胆している様子でした。彼は今、どこでどのような仕事をしているのでしょうか。お人よしで実直で素直で誠実で、しかし決して器用とはいえず世渡りもうまくなさそうな彼のようなタイプが、社内できちんと評価されて、相応のポジションを得られているのか、それとも損な役割を背負わされ続けて、報われないまま年を経ているのか…。その辺、かつて同じ会社で働き、タイプも似ている(と勝手に思っている)私としては大変興味があります。まあ、ひょっとしたら私と同じく、すでに転職しているのかもしれませんが。ところで、吉田くんの消息については、その後、ひとつだけ明らかになったことがあります。それは、彼が配属先となった工場の職場で、彼女ができて結婚したということです。これもまた「定められた運命」だったのでしょうか。(^-^)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月11日
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実習生の中には、東京に残した彼女との遠距離恋愛を強いられた人が少なからずいました。彼らの多くは毎週末がんばって東京に帰っていましたが、そうすると往復の交通費だけで8万。稼ぎのほとんどが新幹線代で消えてしまう計算でした。とくに、遅番明け翌週早番のシフトの週末は、土曜の朝に鈴鹿を発ち、日曜の夕刻には帰ってこなければならないという慌しいスケジュールでした。実習生仲間でいつも昼飯を一緒に食べている妹尾くん(仮名)という男がいました。大柄で丸顔、やや肥満体型で、容姿端麗とはいいずらいものの、陽気でさっぱりした「いいヤツ」でした。そして彼にはなんとフィアンセがいて、寮でも毎晩、公衆電話から婚約者の彼女に電話をしていました。彼自身、ことさらそれを吹聴していたわけではありませんが、彼女のいない私たちからすれば、なんともうらやましい立場でしたね。さて、前回書いた「車山高原」に泊まりで出かけようという話になったときに、妹尾くんが大学時代スキーサークルに入っていたという話を聞いていたので、彼にも声をかけたら、二つ返事で「行く!」との返事でした。ここまではなんということもない話でしたが…。急にスキーに行くことになったので今週末はそちらに帰れない、とフィアンセに電話をしたところ、どこがどうこじれたのか、彼女と喧嘩になってしまったそうなのです。「いや~、マイッたよ。」「言い合いになったあたりで、ちょうど、電話が切れちまってさ~。俺が電話を切ったと誤解されているだろうなぁ。」と妹尾君は笑いながら言うのですが、聞いた私たちは思わず顔を見合わせてしまいました。「え?それって、マズいんじゃないか?彼女にはそのあと電話をしなかったの?」「あいにく10円玉のもちあわせがなかったんだよねぇ。」…と、涼しい顔の当人。今までも電話で喧嘩することはよくあったようだし、そうしたことを乗り越えて婚約までいったのでしょうから、あまり周囲がとやかく言う話でもありません。それで、この件はそれっきり忘れていました。…というか、後日彼が謝罪して解決したのだろうとばかり思っていたのです。ところが、スキーの当日、車内で中原めいこのカセットを聞きながら、妹尾は今回のスキーが原因で彼女と喧嘩担ったんだよね~などと軽口を叩いたところ、「いやそれが、困ったことになっていてねぇ。」「あれっきり、むこうが怒っているらしくて、電話に出てくれないんだよ。」…と、やや表情を曇らせる妹尾氏。え、まだ解決してなかったの?それでも口調は相変わらずのんびりしていました。「少しほとぼりを冷ませてから、また連絡してみるよ。」「そうだね。スキー場で土産を買っていくのを忘れるなよ。」ところがこの件は簡単には収束しなかったのです。スキーに行った翌週、昼食時にこの話題になると、彼は一転して苦悶の表情になり、呻くよう声で、「どうにもならないんで、今、両家の親に仲介に入ってもらっているんだ。」とのこと。ここでそれぞれのご両親が登場するとは、さすが婚約しているカップルは違うなぁと妙に感心しつつ、よくよく聞いてみると、婚約者の彼女がとにかく怒ってしまっていてどうにもならないとのことでした。電話が切れてしまったタイミングが本当に悪かったようで、まるでアニメの1シーンのように、怒鳴り散らして捨て台詞を吐いた挙句、ガシャリと電話を切ったというようにとられてしまったらしいのですね。あるいは、フィアンセの方は、その週末、何か特別な用意をして待っていたところだったのもしれません。「あの人とは結婚できない。もう二度と話したくない。」とまで家族に言っているとか。オイオイ、これって半分はスキーに誘った私たちのせいじゃん。さすがに我々も焦りました。「それって完璧に誤解だよね?僕らからも彼女なりご両親なりに、事の経緯を話そうか?」「いやいや、それには及ばないさ。 というか、なにをやっても言い訳にしか聞こえないだろうし。」たしかに。電話で怒鳴りあって喧嘩をしているときに10円玉がなくなって切れてしまいましたと言っても、あまりにお決まりのシチュエーションすぎて、絶対に言い訳にしか聞こえないですよねぇ。やはり彼は、あのとき、なんとしてもすぐに電話をかけなおさなければいけなかったのです。結果論ですけど。さて、その後数週間で、実習期間は満了となり(スキーに行ったのは3月初旬。実習終了まで間もないタイミングでした…)、妹尾氏は群馬の営業所勤務となりました。彼女のいる東京を飛び越えて、群馬というのもなんだかなぁと思いましたが、それでも鈴鹿よりはだいぶ近くなるので、関係改善の契機になってくれればと密かに願った私でした。その後の経緯にについては、彼から直接聞くことはかないませんでした。というのも、その後、一緒に仕事をする機会も無いまま、私が転職してしまったので、今に至るまで再会を果たせずじまいだからです。ただ、共通の友人にどこかで会ったときに聞いてみたことがあります。「そういえば、妹尾って、結婚したの?」「いや。結局、婚約者とは別れたみたいだよ。」「それは例の実習のときの喧嘩が原因だったのかな?それとも、あれから一度は仲直りをしたのだろうか?」「あれっきりだったらしいよ。」「ふ~ん、そうなのか。」まぁ、これもすべては実習期間が延長になったのがいけないのだとか、彼こそ工場実習の最大の被害者だとか、私たちがスキーに誘ったのがいけなかったのだとか、そんな青っぽいことを言うつもりはありませんけどね。結局のところ、彼らはもともと結ばれない運命だったのかな、と…。(意外に運命論者なのです>私。)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月09日
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鈴鹿というとサーキットの町、レースのメッカというイメージがあります。たしかに「F1GP」や「八耐」のときは各地からすごい人数の観客が集まりましたが、それらは1年の中では例外的なお祭り期間で、ふだんの鈴鹿は本当に田舎町でした。(今はどうなっているのかは知りません。実習後、一度も訪れていないので…)工場に行くためには、名古屋から近鉄特急で3駅目の「白子」という駅でおりて、そこからさらに20分ぐらいバスに乗ります。私たちのいた寮へは、そこから10分程度歩いてようやく到着します。工場から寮までの道すがら、店らしい店はといえば、無愛想な家族が経営する雑貨屋と「クエスチョン」という名の喫茶店が1軒あるだけでした。仕事を終えて、その雑貨屋で早売り(発売日をまったく守らないので、数日早く買えてしまう)の週刊マンガ雑誌を買うのと、「クエスチョン」でコーヒーを飲んで時間をつぶすのが、平日の数少ない娯楽でした。寮から工場を過ぎて、バスでさらに足を延ばすと、「平田町」という町に着きます。ここは近鉄の急行停車駅で、駅前の商店街はそれなりに充実していました。わざわざ白子の駅まで出るより平田町に行くほうが楽だし、充実していたので、休日はよくここで買い物をしたりして過ごしました。勝手がわかってくると、名古屋に行ったり東京の実家に帰ったりするときも、白子から特急を利用せずに、平田町からの急行を使うようになりました。(そのほうが安上がりだし時間も大して変わらなかったので…)。実習期間が延長になって、行動範囲が広がってくるにつれて、だんだん平田町だけでは物足りなくなり、週末は実習生仲間と四日市まで行ったり、名古屋に出たりするようになりました。四日市というと当時は教科書で習った「石油化学コンビナート」や「四日市ぜんそく」ぐらいの知識しかありませんでしたが、ここの商店街のアーケードはなかなか立派で、オシャレな店もあり、週末に行くのが楽しみでした。また、平田町から数駅行ったところには、「鼓ヶ浦」という海水浴場があったり、冬は冬で意外なことに「御在所」というスキー場もありました。リフトが1基しかない小さなスキー場だったと記憶していますが、三重県でスキーが出きるとは思いませんでしたし、これなどは実習期間が延長にならなければ、できなかった経験です。スキー仲間の友人たちとは、翌年3月に「車山高原」までクルマで一泊旅行に行ったりもしました。さすがにこの頃は実習期間も終わり近くなっていて、余裕がありましたね。往復のクルマの中で友人が聞いていた「中原めいこ」のベストアルバムがとても気に入って、以来、中原めいこのファンになりました。アルバムも全種類揃えたものです。鏡の中のアクトレスとか、懐かしいなぁ…。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E3%82%81%E3%81%84%E3%81%93音楽といえば、当時、松任谷由美の秘蔵っ子というコピーでデビューした「麗美」のサードアルバムの「My Sanctuary」を気に入って、来る日も来る日も寮で聴いていたのを思い出します。麗美自体はその後表舞台から姿を消して、肝心のCDも引越しの折に紛失してしまい、長らく聴くことが出来なかったのですが、ある日ふと思い立って、ヤフオクで検索してみたら、あっさり見つけることができました。ネットって偉大ですね。「麗美/THE DREAM OF ITMY SANCTUARY夢はおいてませんか?α」:楽オク中古品↑左下のアルバムですね。※と思ったら、今もCM音楽などで活動しているんですね。堀川まゆみの妹だということもウイキペディアで初めて知りました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%97%E7%BE%8Eさて、ここまで書いてきて、あらためて実感したのですが、私が鈴鹿で過ごした9ヶ月間って、全くといってよいほど女っ気のない生活だったんですよねぇ。なにせ職場は男ばかり(しかも独身、彼女なし)だし、休日も実習生(これも全員男)同士かラインの工員仲間と出かけるぐらいだったし、どうせ翌年の3月には戻ると思うと、積極的に出会いを求めようという気にもならなかったし…。驚くべきことに、鈴鹿での実習中の9ヶ月間で新たに知り合った女性って、たぶん一人もいなかったと思います。では、同期の実習生仲間はどうだったかというと、地元に彼女を残してきた人たちの中には悲惨な思いをした人もいました。(つづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月08日
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前回のエントリーでは同じ班の少しばかり困った人の話を少し書きました。職場では、他に「班長」からなにかとキツくあたられましたが、逆に言えば、人間関係で嫌な思いをしたのはそれくらいで、総じて同じ班の人たちにはよくしてもらえました。辛くキツかった実習期間の中でこれだけは救われた点だったと思います。(実習生の中には同僚のイビリにあった人もいたようです。)最初のうちは平日といわず休日といわず、いつも実習生同士で固まっていた私たちでしたが、ラインで働く期間が半年を過ぎるころには、晩飯や休日など、班の人たちと出かける機会も自然と増えてきました。そうするうちに班の人たちもだんだんと打ち解けてくれて、職場の人間関係や上司の悪口なども話すようになりました。前にも書いたとおり、周囲の仲間の間では、班長の評判が悪く、よく彼の悪口や愚痴を聞かされました。それを聞いて私も「ああ、ツラく当たられているのは私だけでないんだ」と少しはホッとしたものです。私が主に仲良くしていたのは、南くんという高卒入社一年目の新人、それに神保さんという20代後半の飄々とした先輩でした。二人とも同じ寮だったので、よく一緒に近所の店に晩飯を食べに行ったりしました。特に南君とは、年こそ違いましたが、お互いラインの新人ということで、それぞれの部屋に行き来して、あてもなくダベったりする仲になりました。彼には当時、地元(大阪だったと思う)につきあっている彼女がいて、部屋にいくとよく純朴そうな彼女の写真を見せられたものです。そんな南君でしたが、実習終了後、私が(東京を飛び越えて)栃木勤務になってしまったことで、交流はとだえてしまいました。栃木に移って半年後ぐらいに、できちゃった婚で結婚することになったという衝撃の?報告を電話で受けました。しかし、結婚式には結局参加しませんでした。当時は栃木1年目で職場では新米扱い。栃木から鈴鹿への往復となると、距離的にも時間的にも大ごとだったし、自分自身にそこまでの余裕がなかったので、遠慮させてもらったのです(金銭的な負担という面もあったかと‥)。今にして思えば、あれだけ鈴鹿時代に一緒につるんでいたのだから、少しぐらい無理してでも、式に参列してやればよかったと悔やまれて仕方ありません。あれから26年。もしかしたら彼にはもう孫がいるかもしれません。Facbookなどで検索したら、ひょっとして見つけられるかもしれませんが、あちらにとっては、毎年やってくる実習生の一人ですから、さすがにもう覚えていないでしょうねぇ。思い出は思い出としてとっておくことにします。神保さんは本当に飄々とした人でした。持ち場が遠かったこともあり、彼の仕事ぶりはよく覚えていませんが、休憩時間はいつも長椅子にドカッと腰掛けて、斜め45度上を見ながらタバコを吹かしている姿が印象に残っています。ツナギのズボンの腿のところに、大きく「ジンボ」と片仮名で名前が書いてあって、見るたびにいつも笑ってしまいました。感情の抑揚が乏しく、ボソボソとしゃべるので、一見とっつきにくかったのですが、実は気が利いて思いやりがあって、つきあいが深まるにつれて、ほんとにイイ人だなぁとしみじみ感じる人でした。もうひとり、名前を忘れてしまいましたが、ラインでは隣の工程のオジさんとも親しくさせてもらいました。班の中は珍しく妻帯者で、年齢は当時40前後だったと思います。もともとテクニカルサービスで働いていたのが、職場のリストラでラインに回されてしまったとのこと。年齢がそこそこいっていたこともあり、仕事は毎日シンドそうでした。私とはよくお互いの境遇を嘆きあいながらも(笑)、ともに励ましあって仕事をした仲間でした。班の中では数少ない、私より後に配属されたメンバーという意味でも親しみを感じました。そういえば、結果的に私が痔になるきっかけになった、例の下痢止め薬をくれたのも彼でした。(もちろんそのことをうらんだりはしていません。)ラインで働いていた期間、彼と交わした世間話は、一服の清涼剤だっただけでなく、その苦労話や体験談を聞くことはよい人生勉強になりました。彼にはとても感謝しています。って、そのくせ名前を忘れてしまってるってどうよ、と突っ込まれそうですが。私が帰ったのち、昇格して肉体的にも楽な「完成品検査」に異動になったと聞いて、私も自分のことのように嬉しく思ったものです。他にもいろいろな人がいました。若手の人たちは、スポーツ青年やらレースでメカニックをやっている人やら、それぞれ趣味の自分の世界をもっていて、週末を楽しみに日々の業務をこなしている人たちが多かったですね。当時の私と同じ年か少し上ぐらいになると、だんだんと特定の持ち場を離れて、サポート役に回りはじめるようでしたので、同年齢の人たちは、ラインでは、かなり上の先輩、というイメージでした。ラインで本当にキツイ思いをするのは高卒で入社後5年前後というところだったように思います。意外だったのは(たまたま私の班だけかもしれませんが)、九州出身が多かったわりには、酒豪がほとんどいなかったこと。それどころか、ほとんど飲めない人も結構いて、飲み会で私がグビグビ飲んでいるのを見て、「さすが大学でコンパ慣れしているなぁ。」などと妙な感心のされかたをしたものです。 社員数万人会社ですから、いったん事業所が分かれてしまったあとは、二度と会うこともありませんでした。まして私自身が転職してしまった今となっては‥。あのときの人たちは今どうしているのかなぁ、なんて時々思い出します。いかんいかん、少しばかり感傷的になってしまいました。もうしばらく断続的につづきます(笑)。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月04日
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バサバサの髪に銀縁眼鏡をかけた、小太りの鮫島という男がドアストライカー工程の前任者でした。引継ぎ初日、何が気に食わないのか、彼は私とひとことも口を聞いてくれず、ただ黙々と作業を続けるばかりでした。ラインの人たちが気を使ってくれて、鮫島氏にきちんと引継ぎをするように言ってくれるのですが、それもすべて無視。結局その日一日、私は何もせずに彼の横でボーッと突っ立っていただけでした。今にして思えば、新しい工程に関して、私が露骨に不満そうにしていたことが彼のプライドを傷つけたのかなとも思います。さすがに翌日には周囲に窘められて、通常の引継ぎを始めてくれましたが、あれには参りました。ちなみに、当の鮫島氏は、このあと「完成品検査」に異動となったのですが、検査作業中にクルマをブツけてしまうという大失態を犯してして所内に名を轟かせました。私はラインの人間関係には比較的恵まれていたほうだと思いますが、十数人もいれば、このように少し変わった人もいました。鮫島氏のほかにもうひとり、横手というサブリーダー的な男がすぐキレるので困りものでした。ドアストライカー調整の担当になってしばらくの間は、なかなかコツがつかめず、うまく調整できないままラインを通してしまうこともままありました。その場合、私の後方で応援的な立場の横手氏が不具合箇所を直すのですが、何回か不具合が続くと、彼がだんだんと後ろで腹を立て始めてて、クルマのドアをガンガンと開け閉めしたり、木槌でストライカーをガツンガツンと叩いたりしはじめるのです。これが私にとっては大きなプレッシャーとなりました。前の工程にはなかった、新たな憂鬱の種でしたね。この横手氏、年齢は私と同年代、目がギョロッとして、中肉中背。握力がなんと80キロもあるという腕力自慢で、粗野という言葉がぴったりな男でした。気に食わないことがあると、業務中にもかかわらず、いきなり同僚になぐりかかったこともありました。それを目撃していた私は、次は私の番かもと、緊張しながら仕事をしたものです。そんな彼にもカワイイところがあって、ある週末暇をもてあましてマンガ喫茶に行ったら、「shuz先生…」となぜか「先生」付けで声をかけられ、振り返ると彼がはにかんだような笑顔で立っていました。以来、彼とは休日にこのマンガ喫茶でときおり顔をあわせるようになり、職場でも少しは打ち解けたような気がします。ちなみに横手氏に関しては後日談があります。実習期間がもうすぐ終了という頃でしたから、2~3月だったと思います。彼がある日突然職場に姿を現さなくなりました。聞いてみると、クルマで衝突事故を起こし、翌日には退職願を出して、あっという間に会社を辞めたとのことでした。なんとまあ思い切りがよいというか、後先考えないというか…。辞めたあとは、九州の実家に帰るでもなく、鈴鹿の運送屋で働いていたようです。今はどうしていることやら。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月02日
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組み立てラインの仕事は3~6ヶ月ぐらいのスパンで仕事が変わります。いわゆるジョブローテーションというヤツですね。私も実習期間が半分を越えたあたりで、ジョブローテーションを告げられました。毎日毎日ひたすら同じ作業をすることにもさすがに飽きていたので、新しい工程に変われるという期待感と、といって、慣れるまでの最初の1ヶ月ぐらいはまた大変な思いをするのだろうなぁという不安とが入り混じった気持ちでした。ところが、新しい工程を告げられて、絶句しました。それは、班の中でも指折りのキツイと言われる仕事だったのです。班長のヤツ、ここぞとばかりに実習生にキツイ仕事をあてがいやがってと、最初のうち、私は不満を隠せませんでした。クルマのドアを開けると、車体側にカタカナの「コ」の字状の金属パーツがあります。これはドア・ストライカーといって、ドアをロックするための金具です。組み立てラインではドアは後から取り付けられるので、ドアとストライカーの位置と合わず、ドアを開閉するたびに、このストライカーにガツンガツンとあたってしまいます。新しい仕事は、ライン上でこのストライカーの位置を一台一台調整するというものでした。もちろん、その前後にリアウインドウのハーネス取り付けやら、エンジンルームの部品取り付けやらといった作業もあります。この業務の大変な点は二つありました。一つは、今までの工程と違って、ネジをしめて終了というものでないこと。調整の結果ドアとの隙間が適正になっているかどうかが実に微妙なのです。これが最初なかなか判らず苦労しました。もう一つは、ドアストライカーの位置からわかるとおり、一日中腰をまげてかがんだ姿勢で作業をしなければならないこと。しばらくの間は、お決まりのように腰痛に悩まされることになりました。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年11月01日
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