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旧石器時代から縄文時代の岩陰遺跡。国の特別史跡、出土品は国の重要文化財に指定されている。福井川の浸食によって標高100mの場所に作られた洞窟で、間口16.4m、庇高4.7m、奥行5.5m。佐世保市にある泉福寺洞窟に並ぶ大きさで、旧石器時代から縄文時代にかけての多くの出土品が発掘された貴重な洞窟遺跡となっている。1935年(昭和10年)に福井稲荷神社の改築工事が行われた際に遺物が出土し、その存在が知られる。1960年(昭和35年)から1964年(昭和39年)にかけて発掘調査が行われ、旧石器時代から縄文時代にかけての発展過程が地層ごとに確認されるという歴史的発見があり、1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。2011年(平成23年)から4年の年月をかけて再び発掘調査が行われ、約18000年前の炉跡や洞窟で暮らしていた人々の痕跡、洞窟地形の成り立ちなどが発見され、東アジアにおける貴重な洞窟遺跡であったことが確認される。2024年(令和6年)に国の特別史跡に指定された。佐世保市役所吉井支所に福井洞窟ミュージアムが併設しており、洞窟の成り立ちや発掘現場の紹介、洞窟での人々の暮らしや出土品の展示がされている。特別史跡 福井洞窟の碑。駐車場。大型バスも止められるくらいのスペースがあり、トイレもある。福井稲荷神社。洞窟のすぐそばに鎮座する小さな神社。1935年(昭和10年)に改修工事が行われた際に遺物が出土、これをきっかけに福井洞窟の存在が確認されることとなった。福井稲荷神社社殿再建紀念碑。昭和十一年の年号が見られ、福井洞窟が発見された当時のものであるのが分かる。両脇に見える西岩陰と東岩陰。こちらは内部を見学できず遠くから眺めるのみ。線刻のある石。線刻は日本最古と思わしきものだという。駐車場から見た洞窟。かつては手前の石垣のところまで洞窟が伸びていたという。洞窟の全貌。岩陰には福井稲荷神社の本殿が建っている。深い洞窟でないが、間口の広さは洞窟としては大きめのもの。大昔はここで人々が炉を焚いて生活を営んでおり、石器を作っていたことが発掘調査によって明らかになっている。発掘調査では7層の遺物包含層が確認されており、600点以上に及ぶ石器や土器片などの出土品が発掘されている。このうち第2層から第4層で発掘された土器は日本で最初に発掘された旧石器時代の土器だという。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.26
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江迎川の上流に懸かる滝。「潜龍ヶ滝」とも記される。平戸八景の一つで、長崎県新観光百景にも選定されている。落差は21m。落ち口の突起によって男滝・女滝の2条に分かれて流れ落ちる滝。水量は多めで、特に水量が多いと水しぶきを飛ばしながら豪快に流れ落ちる。滝壺まで行くことができ、間近で見れるようになっている。下流には布引の滝、不動の滝の2段の滝がある。こちらは観瀑台から見れるようになっている。1829年(文政12年)に平戸藩10代藩主の松浦煕がこの滝を見た際、滝壺から龍が頭を出しているように見えたので潜竜の名が付いた。滝周辺は明治時代までは女人禁制で、修験の場でもあった。滝の周辺は潜竜ヶ滝公園として整備されており、ベンチやトイレもある。春は桜とツツジ、夏は新緑、秋は紅葉、冬は椿と四季折々で違った景色を作り出す。駐車場近くに架かる赤色の反橋。潜竜ヶ滝公園の入り口。橋を渡ってすぐ分岐がある。階段の緩急の違いだけで、どちらに進んでも滝へ行ける。龍王寺。山号は潜龍山。潜竜ヶ滝公園にある小さな寺院。日本山人参(ヒュウガトウキ)を用いた神の茶が販売されている。中国の徐福が不老不死の薬を求めて約2200年前に松浦港へ上陸し、この地に留まり潜竜ヶ滝へ祈りを奉げると、龍が現れて拝命を授かったという。その拝命通りにこの地の薬草を調合し、巨石から湧き出る水を用いて不老不死の薬を完成させたという。この完成した薬を徐福は龍王秘伝とし、現在の神の茶として伝えられているという。滝を見守る不動明王像。他にも周辺には様々な石仏が祀られている。観瀑台。ここから布引の滝、不動の滝が見れる。布引の滝、不動の滝。2段の滝で、上段に見えるのが布引の滝、下段の川へと流れ落ちている滝が不動の滝。布引の滝。岩の上段、緩やかな斜面を駆け下りるようにして水が流れ落ちている。不動の滝。こちらは垂直に、川へと直下するように水が流れ落ちている。観瀑台から更に階段を上っていき、潜竜ヶ滝を目指す。途中にある鳥居。ここをくぐれば滝まですぐ。歩き続けてようやく滝に到着。潜竜ヶ滝。玄武岩の岩盤に懸かる滝で、一見すると1条の滝だがよく見ると上部の突起から水が分かれており2条の滝となっている。水量は多く、水しぶきを飛ばしながら落ちている。日が当たると虹が架かるそう。すぐ近くで見ることができ、近づくとマイナスイオンたっぷりで涼しい。落ち口から滝壺へと水が流れ落ちていく様子。正面から見た滝。こうして見ると確かに白龍が滝壺から姿を現し、天へと昇っているように見える。程よい水量だからこそ見れる景色。少なすぎる、多すぎると龍は姿を現すことはない。なるほど、潜竜と言う訳だ…滝壺。清らかに流れる滝とは対照的に深い緑色に染まっている。滝壺のすぐ下を落ちる小滝。緑の葉を付けた木の枝越しに見た滝。滝の右手にある石碑と賽銭箱。潜龍酒造。滝から車で約10分の場所にある。この地で300年以上続く酒蔵で、美味しい地酒が販売されている。現在も使われている酛蔵は県指定史跡に指定されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.25
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読みは「おてやのたき」。「落合の滝」とも表記される。志佐川の枝沢に懸かる滝。落差は6m。2条の流れを持つ直瀑で、落差は低めだが滝の裏に空洞があり、裏から滝を見れる裏見の滝となっている。滝の近くには大きな洞窟があり、沢山の石仏が祀られている。剣道11号線沿いの小高いところに3台ほど車を停められる駐車スペースがあり、そこから橋を渡ってすぐのところに滝がある。県道11号線沿いに立つ落合の滝と書かれた標識と、おてやの滝の表示がある電灯。このすぐ横に駐車スペースがある。小高い丘の上にあり、急坂となっているので注意。駐車スペースのすぐ近くに橋が架かっていて、ここを渡ってすぐのところに落谷の滝がある。橋の上から。川のすぐ上流に滝が見える。滝までの道には巨岩が合わさってできたトンネルがある。落谷の滝。1つの巨岩を2条に分かれて水が流れ落ちていっており、巨岩の下には広い空洞ができている。滝の裏に回れるが少々足場が悪くサンダルや長靴が必須。裏から見るのは自己責任で。落ち口から水が流れ落ちていく様子。滝壺。裏から見た滝。サンダル・長靴を持っていなかったので滝の裏まで入れなかったが、腕を伸ばしてカメラを構えて裏からの写真を撮った。間近から見た滝。滝の近くに祀られている石仏。特に洞窟の中には沢山の石仏が祀られている。昔は修験の場所でもあったんだろうか。滝の隣にできた大きな洞窟。近くの佐世保市には福井洞窟など縄文時代の人々が生活していたという洞窟がいくつもあり、ひょっとしたらこの洞窟もその一つなのかも…?正面から見た滝。足を伸ばして岩の上から撮影した。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.24
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○そしじ庵セットそば(冷そば)、ミニ鰻(ひつまぶし)、小鉢、漬物十割そばの冷そば。ミニ鰻。今回はひつまぶしでいただいた。今年福島にオープンした、桜蘭の滝SOSHIJIにある食事処。鰻料理や十割そばがいただける。今回いただいたそしじ庵セットは鰻とそばが一度に、お手頃にいただける看板メニュー。そばは温と冷、鰻は丼、重、せいろ、ひつまぶしから選べるようになっている。前者は冷、後者はひつまぶしを選んだ。ひつまぶしはそのまま、薬味、だし茶漬け、その3つのうちのお気に入りを選んで食べるが、だし茶漬けが一番美味しかった。真夏の福島、ひんやり冷たいそばとビタミンたっぷりの鰻を食べて元気いっぱい。桜蘭の滝SOSHIJIには他にテラス席で海を眺めながら甘味とコーヒーがいただける甘党茶屋いろは、和空間で炉端焼きや地元の新鮮な海鮮が楽しめる炉端空間福たろうの2つの店がある。店内の雰囲気。オープンしたばかりで綺麗だった。桜蘭SOSHIJI。2枚目のところが甘党茶屋いろは。海の見えるテラス席で焼き団子やこだわりのコーヒーが楽しめる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.23
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佐賀県伊万里市と長崎県松浦市の境目、伊万里湾に浮かぶ島(有人島)。面積は約17.26㎢、周囲は40km、人口は2379人。全体的に平地が少なく、起伏に富んでいる。本土から福島大橋で繋がっており、車で行けるようになっている。起伏に富んだ地形を活かして棚田がところどころに作られていて、中でも西にある土谷棚田は日本の棚田百選にも選定されている立派な棚田となっており、四季折々で美しい景観を見せる。他に観光スポットとして伊万里湾に浮かぶイロハ島を展望できる大山公園、海水浴場とキャンプ場がある初崎公園、福島歴史民俗資料館などがある。島の入り口付近にはホテルとオートキャンプ場があり、中心部には食事処・甘味処が連なる桜蘭の滝SOSHIJIが新しくオープンしている。広い上に起伏に富んだ島であるので、サイクリングは上級者向け。車かバイクで回るのが一般的。車道は一部山道が離合もできないほどの一本道となっているので運転には注意。明治時代中期からは北松炭田に属する炭鉱が多くあり、昔は炭鉱の町として栄えた。1972年(昭和47年)までに炭鉱が全て閉山し、現在では農業・漁業が産業の中心となっている。福島大橋。全長225m、幅6.0m。本土と福島を繋ぐ鉄筋コンクリート橋。ペットリゾート ブレインズ長崎(写真左)、ザ・トレーラーハウスビレッジ長崎TSUBAKIプレミアム(写真中心)。福島にある宿泊施設。福島大橋を渡って左折した場所にある。ペットリゾート ブレインズ長崎はペットと一緒に泊まれるホテルで、ペット向けの設備やドッグランも整備されている。天然温泉・サウナもあり。ザ・トレーラーハウスビレッジ長崎TSUBAKIプレミアムはトレーラーハウスに宿泊でき、ブレインズ長崎の施設も利用可能。とれたて福の島。福島大橋を渡ってすぐの場所にある売店。地元で獲れた新鮮な海鮮をメインに野菜や土産が販売されている。アジフライ聖地の碑。福島が属する松浦市はアジフライが名物として知られ、聖地として宣伝が至るところに見られる。福島歴史民俗資料館。福島の歴史や炭鉱・石炭の資料を展示している資料館。1階に図書館があり、2階が資料室となっている。見学には受付が必要。福島総合運動公園。芝生公園、野球場、テニスコート、体育館、武道場などの施設が揃う。福島オートキャンプ場。島の南部にあるキャンプ場。テントサイトの他に炊事棟や展望台がある。訪れた時は休業中だった。土谷棚田展望台。ここから棚田を一望できる。駐車場もあり。土谷棚田。島の西、海岸沿いの斜面に広がる広大な棚田。日本の棚田百選、日本夜景遺産ライトアップ夜景遺産に選定されている。広さは約15ha、約400枚もの棚田が作られている。明治時代から昭和初期にかけて開墾された。春は水を張った水田に映る夕日、夏は実りをつけた稲穂、秋は火祭り、冬は雪化粧が美しい。四季折々で様々な姿を見せる。訪れた時は晴天の中、青い海・空と共に一面緑に染まった棚田の景色が素晴らしかった。夕景も絶景だそうで…いつか見てみたいものだ。原稲荷神社のクス。原稲荷神社の境内にあるクスノキの巨樹。市指定天然記念物に指定されている。樹高約16m、幹周り4.8m、樹齢は不明。福島では最も大きなクスノキ。堂様の仏像。寺山団助の慰霊の為に建てられたお堂。市指定有形文化財に指定されている。阿弥陀如来像を祀っており、仏像は室町時代のもの。寺山団助の墓。堂様の仏像のすぐ近くにある、松浦党の一族である寺山団助の墓。市指定史跡に指定されている。寺山団助は松浦党の一族、志佐純意の重臣で、文武に優れた武将として福島の住民に慕われていた。ところが1589年(天正17年)に讒言を信じた志佐純意に討手を差し向けられ、寺山父子共々応戦するも無念の死を遂げ、一族は滅亡した。墓は四角の板石で囲んだ祠のような造りとなっている。すぐ隣には寺山団助公の碑が建てられている。初崎海水浴場。島の最北部に位置する初崎公園にある海水浴場。海水浴場沖にある初崎灯台。その先に見える島は鷹島。初崎キャンプ場。初崎公園にあるキャンプ場。テントサイト、炊事棟、トイレ、シャワー、無料駐車場が備わっている。伊万里湾に面しており、ここで見れる夕日は絶景だそう。利用期間は4月から10月まで。予約制。椿の自然林。初崎公園までの道中にある椿の群生林。約5万本のヤブツバキが群生している。椿は松浦市の市花であり、2月下旬から3月上旬にかけて福島つばき祭りが行われている。今山神社。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命)。福島の総産土神として崇敬される神社。創建の年代は不明。松浦市の神社の中では最も古い神社の一つと言われ、古くから開運、縁結び、産業繁栄、家業繁栄、安産、家内和合、交通安全の神として崇敬されている。神社に保存されている懸仏は市指定有形文化財に指定されている。今山神社社叢。県指定天然記念物に指定されている。スダジイをはじめとした自然林で、他にアラガシ、モチノキ、イヌグス、ヤブツバキ、モッコクなどが見られる。社叢への立ち入りは禁止されている。大山公園。島の中心部、大山の頂上にある公園。2つの展望台と芝生広場、野外ステージがある。春には様々な種類の約450本の桜が咲き花見の名所となっており、桜とイロハ島が共に映る景色が素晴らしい。大山公園展望台。2つある展望台のうちの一つ。西洋のお城のようなデザインが特徴的。ミニ九十九島とも呼ばれるイロハ島が一望できる。白岳展望台入り口。ここから白岳の登山道が続いており、登った先にイロハ島を一望できる展望台がある。入り口周辺に駐車スペースあり。あまり登る人がいない為か、道は荒れているようだった。桜蘭の滝SOSHIJI。2026年(令和8年)に新しくオープンした。3つの食事処・甘味処が並ぶ。蛙鼻公園。イロハ島を見下ろす丘に整備された、四季の花が植えられハーブ園や果樹園がある公園。果樹園で採れた果物はとれたて福の島で販売されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.20
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撮影地:福岡県田川市某所↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.14
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撮影地:福岡県福岡市 『筥崎宮』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.09.13
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撮影地:大分県大分市 大分川弁天大橋上流 おおいた「夢」花火2026↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.08.31
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撮影地:長野県諏訪市 『立石公園』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.08.28
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撮影地:岐阜県飛騨市 『飛騨古川駅、飛騨市図書館』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.08.27
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当ブログ『金田政宗の旅の記録』のトータルアクセス数が、400000を突破しました。いつも見て下さりありがとうございます。ここ最近はリアルが妙に忙しく、なかなか書く時間もないし気力も尽きてくるしで4週間も更新ができていないわけでございますが、なんとか生きております。これから連休になるのでどんどん書いていきましょ~。当ブログもあと10万アクセスでハーフミリオンを達成。これからもよろしくお願いします。明日から盆休み。明日から早速、3泊4日で初めての和歌山旅行へ出掛けてきます。1日目は串本町にある橋杭岩を見物しにいく。ここまでの移動だけでも6時間以上。長旅だ。それから勝浦にあるあの「ホテル浦島」へ宿泊。あの洞窟風呂で有名なところ。素泊まりになるがシングルで安い部屋が取れた。これはラッキー。1日目はこっちが本命かも…楽しみ。2・3日は熊野三山へ参拝。4日目に和歌山市を観光(和歌山城か友ヶ島)して土産を買って帰る。今回も忙しい旅になりそう…。いつも通り旅先の写真はXに投稿します。X(旧Twitter)→金田政宗X↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.08.07
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読みは「おおたらしはちまんしゃ」。姫島の産土神として崇敬されている神社。御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇。八幡神こと応神天皇とその父母神を祀る。安産、航海安全、厄除け、家内安全などの御利益がある。1864年(元治元年)の大火によって書物、歴史書のほとんどを焼失したため、創建の詳細は不明。しかし広島県の亀山八幡宮で正和元年(1332年)の年号が書かれた棟礼が見つかり、鎌倉時代から既に鎮座していたことが分かっている。江戸時代には杵築藩主松平氏の安産祈願所として篤く崇敬され、現在も安産、子育ての神として村民をはじめ崇敬されている。江戸時代末期には杵築藩の御座船を手掛けた木野村亀太郎がその雛型を奉納しており、1989年(平成元年)まで後述の舟引き神事に使用された。1月に歳旦祭と初神楽祭、3月に春神楽、6月に夏越の大祓、7月にみそぎ祭、10月に秋祭、12月に大祓と除夜祭が行われている。10月の秋祭では舟引き神事が行われ、八幡丸という御神舟が氏子によって勇壮に引かれ、航海安全と豊漁を祈願する。正面鳥居。大帯八幡社の碑。神門。手水舎。拝殿。コンクリート造の瓦葺で横に長く、10社の末社群と一体化している。今までに見たことのない珍しい構造。本殿。三間社八幡造の銅板葺。宇佐神宮に倣った全国的にも珍しい本格的な八幡造で、前殿と後殿を連結した様式となっている。社務所。神楽殿。7月のみそぎ祭ではここで神楽が奉納されている。岩土社、貴船社、住吉社、多賀社、秋葉社。拝殿の正面左側に鎮座。境内には18社もの摂末社が鎮座しており、これらを参拝していくことで安産だけでなく様々な願い事ができるようになっている。恵比須社、山神社、杵崎社、稲荷社、塩竈社。拝殿の正面右側に鎮座。赤崎社、若宮社、八坂社、天満社。金刀比羅社。生目社。祓所。御輿倉。御神舟倉。村指定有形文化財に指定されている御座舟八幡丸が安置されている。八幡丸は杵築藩の御座船を手掛けた木野村亀太郎が慶長年間にその雛形を製作し、それを大帯八幡社に奉納したもの。10月に行われる秋祭の舟引き神事において、引舟として1989年(平成元年)まで使用された。現在使われている御神舟は、亀太郎の子孫である木野村益由が1990年(平成2年)に製作したもの。東の鳥居。石灯籠群。黒松の大木。正面鳥居のすぐ左にある。黒松は姫島村の村木。かつては姫島に黒松が多く繁茂していたが、松くい虫の被害拡大を防ぐために多くの木が伐採されてしまった。この黒松は松くい虫の被害を免れた数少ない黒松の一つで、天に向かって高々と幹を伸ばしている。古庄拙翁頌徳之碑。日露戦役凱旋記念碑。西の鳥居。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.07.09
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大分県国東郡姫島村 『姫島①』の続き。比売語曽社。御祭神は比売語曽神(ヒメコソノカミ)。良縁成就、家内安全、女性の守護などの御利益がある。姫島最古の神社。日本書紀において、垂仁天皇の御代に白い石から生まれた姫が意富加羅国(現韓国南部)の王子の求婚を拒み、海を渡ってこの島に辿り着いたと伝えられる。姫は比売語曽神になったと言われ、それが姫島の由来になったと伝えられる。4月3日に春大祭、11月23日に新嘗祭が行われている。拍子水観音。比売語曽社のすぐ隣にある観音堂。拍子水。姫島七不思議の一つ。姫(比売語曽神)がお歯黒を付けた後に口をすすごうとしたが水がなかったため、手拍子を叩いて天に祈ると、岩の間からこの水が湧き出したという。小さな泉の隅にある岩の隙間からは冷たい鉱泉が絶え間なく湧き続けている。泉質は炭酸泉で、天然のものでは大変珍しい。飲泉もできるようになっていて、口に含むとしゅわりとサイダーのような感覚が口の中に広がる。味は鉄っぽい感じだが。拍子水温泉(姫島村健康管理センター)。拍子水のすぐ近くにある、拍子水で湧く鉱泉を活用した温泉施設。泉質は炭酸水素塩令鉱泉。消化器病、皮膚病、神経痛、疲労回復等に効く。源泉を加温した温泉と、24.9℃の源泉の2種類の風呂がある。金溶岩。金火山の溶岩で、縞模様が見られ普通角閃石の結晶を含んでいるのが特徴。溶岩は杵築城下町にある勘定場の坂の石畳にも用いられている。金溶岩という名前の由来は周辺の集落、金地区からきている。かねつけ石。姫島七不思議の一つ。地中に埋まっている岩で、姫がこの石の前でお歯黒を付けて筆と猪口を置いたところ、岩の上にその痕が付いたと言われている。そのことから「おはぐろ石」とも呼ばれる。よく見てみると、実際にその痕らしきものがある。逆柳。姫島七不思議の一つ。読みは「さかやなぎ」。姫がお歯黒を付けるのに使った柳の楊枝を池のほとりに逆さまに挿したところ、それが芽を出してこの柳の木になったと言われている。浮洲。未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選に選定されている。姫島七不思議の一つ。アサギマダラ休息地、観音崎から見える沖合に浮かぶ小さな洲。潮の満ち引きで沈むことがないのでこの名前が付いた。一角の大きな岩に高部様を祀り、小さな鳥居が建っている。観音崎登山道入り口。ここから岩山を上り、千人堂へ。観音崎火口。直径が70mほどある丸くくぼんだ地形で、小さな湾を形成している。湾の入り口となっている崖にに千人堂と黒曜石があり、正面に見える2つの岩山は斗尺岩と呼ばれている。1970年代にはこの地形を利用して、タタキと呼ばれる追い込み漁が行われていた。千人堂。未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選に選定されている。姫島七不思議の一つ。姫島を象徴する景観。観音崎の断崖の先にある小さなお堂で、馬頭観世音を祀る。大晦日の夜に債鬼に追われた善人を1000人かくまえることからこの名前が付いた。ところで姫島七不思議と言うが、一体何が"不思議"なのだろう…巡礼しながら思った疑問である。姫島の黒曜石産地。国指定天然記念物に指定されている。観音崎にある高さ40m、長さ120mにも及ぶ黒曜石の巨大な断崖。露出した黒曜石は薄い黒色で光沢を帯びている。縄文時代にはこの黒曜石を使って石器が作られ、中国地方、四国地方に流通していた。地質学的、考古学的に重要な場所であることから2007年(平成19年)に国指定天然記念物に指定された。西村記念公園。達磨山の麓にある公園。姫島出身の衆議院議員で建設大臣や厚生大臣を歴任し、自由民主党の副総裁も務めた西村英一の顕彰碑が建立されている。揮毫は田中角栄元総理大臣によるもの。達磨山。標高105m。姫島で標高が2番目に高い山。山頂には清正公社がある。姫島庄屋古庄家。村指定有形文化財に指定されている。第11代古庄逸が1840年(天保11年)から3年の年月をかけて建てた古庄家の屋敷。屋号は「玉島屋」。敷地面積は約550坪。一部が2階建ての寄棟造で、建坪は129坪。日本庭園、御成りの間などがあり、旧庄屋の格式を伝える貴重な建物となっている。ちなみに屋敷の背後にそびえる小さな山は城山で、標高は62m。姫島の山の中では最も標高が低い。古庄家の敷地にある旧姫島郵便局跡。1904年(明治37年)に開局し、1938年(昭和13年)まで業務が行われていた。局舎やポストが現在も残されている。土産にきくらげ、車海老の茶漬け、キーホルダーを買い、18時の船に乗り本土へ戻った。実にいい島だった。できればこのまま1泊、なんならこのまま住みたいと思ったくらい。またいつか来たいものである。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.07.08
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国東半島の沖に浮かぶ、大分県最北部の島(有人島)。島の全域が瀬戸内海国立公園に指定されている。面積は6.79㎢、周囲は17km、人口は1437人。横に長い島で矢筈岳、城山、達磨山の3つの山があり、それ以外はそこまで起伏もなく、島にしては珍しく平地が多い。伊美港から姫島村営フェリーで行けるようになっている。1日12便(12月1日~3月31日は11便)。主な観光スポットに大帯八幡社、古庄家、姫島灯台、姫島海水浴場などがあり、姫島七不思議というミステリースポットの数々もある。5月上旬から6月上旬、10月中旬にアサギマダラが飛来し、休息地でその姿を見れる。毎年8月14日から16日にかけて国選択無形民俗文化財に指定されている姫島盆踊が行われ、フェリー夜間臨時便も運行されている。旅館、民宿、キャンプ場があり、食事処やカフェも多数。土産店もある。島の名物は海の幸で、中でも姫島車えびが有名。名物料理に姫島車えびのしゃぶしゃぶ、エビフライ、塩焼き、鯛めんなどがある。島内には道路がしっかりと整備されており、レンタカーやレンタサイクルもあり。島内巡行バスも運行している。古事記や日本書紀にも記された由緒ある島で、古事記においては国産みで伊邪那美命(イザナミノミコト)が大島に次いで女島を生み、その女島が姫島だという伝えがある。日本書紀においては垂仁天皇の御代に意富加羅国(現韓国南部)の王子から求婚された姫がそれを逃れてこの島へと流れ着き、比売語曽神(ヒメコソノカミ)になったと言われ、それが姫島の由来になったと言われている。約30万年前に7つの火山の噴火活動によって形成された島で、島内には火口跡がいくつか見られ、火山活動によってできた地層や温泉も見られる。島の北部には火山活動によりできた黒曜石の断崖があり、姫島産の黒曜石で作られた石器が中国地方、四国地方の縄文時代遺跡から見つかっていることから古代より広く交易が行われていたことが分かっている。慶長年間に塩田が開かれ、現在は姫島車えびの養殖地として活用されている。1889年(明治22年)に姫島村が発足し、現在も存続される大分県唯一の村となっている。1950年(昭和25年)に島の全域が瀬戸内海国立公園に指定された。伊美港にある姫島行きフェリー乗り場。待合には姫島の観光スポットの紹介や写真の展示がされている。伊美港から見た姫島。国東半島からは目と鼻の先。左側に見える山が達磨山、右側に見える山が矢筈岳。姫島村営フェリーに乗って姫島へ。所要時間は約20分。なお、フェリーは車両の航送も可能。姫島に到着。南浜公園。姫島港フェリー乗り場のすぐ目の前にある小さな公園。姫島村名誉村民で前姫島村長の藤本熊雄の銅像と、九州三絶の一つである宝月の「姫島」の詩碑がある。大帯八幡社。御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇。姫島の産土神として崇敬されている神社。詳しくは大帯八幡社を参照。姫島海水浴場。姫島にある広大な海水浴場。海は大変美しく、透明でエメラルドグリーンに輝いて見える。トイレ、ロッカールーム、シャワー、休憩室が完備している。利用期間は7月1日~8月31日。姫島海水浴場キャンプ場。海水浴場そばに設けられたキャンプ場。利用期間は海水浴場と同じ。ログハウス、海の家、テントが利用可能で、炊事場もある。これだけ海が綺麗なところで、夕暮れ時に静かなひとときを過ごせたらどんなに優雅だろうか。矢筈岳。標高266m。姫島で最も標高が高い山で、山頂までは登山道が整備されている。山頂からは国東半島、四国、瀬戸内海が見渡せる。鷹の巣。ひめしまブルーライン沿いにある海食崖。矢筈岳の斜面が海水に侵食されてできた崖で、表面の風化によってできたくぼみにハヤブサが営巣することからこの名前が付いた。大海のコンボリュートラミナ。県指定天然記念物に指定されている。コンボリュートラミナとは屋根瓦のような模様が連なった堆積構造のこと。この地形ではちょうど中心の横一直線に瓦の模様ができていて、瓦岩とも呼ばれている。火山活動の地震によって上下の地層に挟まれた部分が変形してできた珍しい地層で、1959年(昭和34年)に県指定天然記念物に指定された。かつては崖の下が砂浜になっており、戦時中は防空壕が設けられていた。大海の褶曲構造。コンボリュートラミナの東に見られる地形で、元々は水平であった地層が火山活動によって大きく曲げられた形になっている。阿弥陀牡蠣。姫島七不思議の一つ。姫島灯台の下には海食洞が多数見られ、その中には牡蠣が群棲しているという。牡蠣の形状が阿弥陀三尊の形に似ていることから阿弥陀牡蠣と呼ばれ、それを食べると腹痛を起こすという。歌碑の詩の作者は江戸時代後期の戯作者である柳亭種彦。姫島七不思議の各所には同氏がそれぞれの姫島七不思議を詠んだ詩が記された歌碑がある。姫島灯台。島の最東端にある灯台。1904年(明治37年)に造られたもので、花崗岩造。光力10万燭光、光達距離20海里(約37km)。1963年(昭和38年)に自動化され、1970年(昭和45年)に無人化された。周辺は姫島灯台公園として整備されており、休憩所も設けられている。姫島灯台から望んだ国東半島。アサギマダラ。姫島にて一定の時期のみ見られる蝶。5月上旬から6月上旬にかけて姫島に自生するスナビキソウの蜜を求めて南から飛来し、10月中旬には姫島に自生するフジバカマの蜜を求めて北から飛来する。島には2つのアサギマダラ休息地があり、飛来している期間中は無料の鑑賞バスが運行している。ちなみに私は休息地でなく、姫島灯台の近くでこのアサギマダラを見た。島に訪れた時にはもう見られなくなったと島民の方から聞いたが、思わぬ場所で発見。なんという幸運。ハートの切り株。灯台公園は桜の名所でもあり、台風によって倒木したオオシマザクラの木を伐採したところ、このハートの切り株が現れたという。姫島には姫(比売語曽神)にまつわる伝説があり、この切り株も姫の神秘によって生み出されたものであると言われている。浮田。姫島七不思議の一つ。姫島灯台公園のすぐ近くにある小さな田んぼ。大昔、姫が島民を救済するために夫婦の大蛇が棲む池を埋めて田を作ったが、その時に誤って雌の大蛇を埋めてしまったという。その大蛇の怒りで田が揺れるようになったというので、浮田と呼ばれるようになった。大分県国東郡姫島村 『姫島②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.07.07
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○車海老塩焼き定食車海老塩焼き、たこの刺身(酢味噌でいただく)、姫島ひじき、きくらげ(わさびでいただく)、酢の物、茶碗蒸し、ご飯、味噌汁車海老の塩焼き。シンプルながらこれが美味しい。お好みでレモンもかけて。姫島の玄関口にある食事処。姫島車えびの料理や定食がいただける。今回いただいた車海老塩焼き定食は姫島の海の幸が堪能できる一品。姫島車えびは姫島の名物の一つ。塩田跡で養殖している車海老で、全国的にも知られている。食べ方は刺身、しゃぶしゃぶ、エビフライなど様々。定食の塩焼きは姫島車えびを姿そのままに塩焼きにしたもので、頭を取れば殻ごと食べられる。外はサクッと、中はプリッとしていて、海老の旨みがじゅわり。シンプルながら至高。私自身、実は甲殻類があまり好きじゃないのだが…(じゃあ何で頼んだ?)この車えびは美味い。本当に美味い。姫島の海の幸はどれも美味しく、たこの刺身も新鮮で、きくらげもコリコリとしていてわさびがよく合う。港のすぐ近く、海風の音を聴きながら、姫島の海の恵みをふんだんに使った贅沢な一品を味わった。船を下りて歩いてすぐの場所にある店。居酒屋を思わせる小さな店舗。カウンター席が5席、テーブル席が3席ある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.07.06
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読みは「きりしまみねじんじゃ」。日向三代の神々とその妻神を祀る古社。宮崎県式内社四社の一つ。御祭神は正勝吾勝々速日天忍穂耳々命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅバタアキツシヒメノミコト)、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト) 、木花之佐久夜毗賣(コノハナサクヤビメ)、天津日高日子穂々手見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)、豊玉毗賣(トヨタマビメ)、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)、玉依毗賣(タマヨリビメ)、猿田毗古神(サルタビコノカミ)。邇々芸命の祖先や子孫、関わりの深い神を祀り、また霧島六社権現を合祀する。家内安全、子孫繁栄、縁結び、子宝、子育ての御利益があると言われている。創建の年代は不明。社記によると、古くは高千穂峰と火常峰の間に位置する脊門尾(瀬多尾とも)に鎮座していたという。続日本後記には837年(承和4年)の条に「霧島岑神」として記載があり、日本三大実録では858年(天安2年)に従四位下に叙されている。延喜式神名帳には「霧嶋神社」として記載があり式内社に列している。天慶・天暦の時代に性空上人が参籠の折に山麓四方に夷守神社他四社を創建し、霧島岑神社と合わせて霧島六社権現と称した。鎮座地が瀬多尾であることに因み、別当寺を「瀬戸尾寺」と称した。その後は霧島六社権現の中心として広く信仰を集める。1112年(天永3年)以降に度重なる火山噴火により社殿の焼失や遷座を繰り返しており、1716年(享保元年)に新燃岳が噴火して社殿を焼失した後は夷守岳中腹に遷座して社殿を再建し、明治時代初頭まで鎮座していた。1868年(明治元年)に社名を「霧島岑神社」に改称し、1870年(明治3年)に瀬戸尾寺が廃寺。1873年(明治6年)に県社に列した。1874年(明治7年)に霧島六社権現の夷守神社を合祀し、現在地の夷守神社跡に遷座し現在に至る。1月に歳旦祭と元始祭、2月に節分祭・お焚き上祭と紀元祭、3月に祈念祭、5月に馬頭観音祭、6月に夏越祭(大祓式)、7月に七夕祭、9月に重陽祭、11月18日に例大祭、12月に大注連縄打ちと大祓・除夜祭が行われている。一の鳥居。霧島岑神社の標。仁王像。参道入り口に立つ、一対の半裸形の金剛力士像。この地が夷守大権現だった頃に奉納されたもので、火山の鎮魂、災害復興、五穀豊穣を祈願して奉納された。全体的に丸みを帯びていてどこか可愛らしく、ユーモラスな形状となっている。かつての神仏習合を今に伝える建造物の一つ。お熱の神サァ。みやざきの巨樹百選に選定されている。参道入り口にあるイチイガシの巨樹。樹高38m、幹周590cm、樹齢400年。根元が祠になっており、子供が熱を出した時にここへお参りし病気平癒を祈願したと伝えられている。手水舎。手水舎に作られていた花手水。参道。二の鳥居。もう一つの手水舎。水鉢に苔が生している。三国名勝図会に描かれた、江戸時代の霧島岑神社。拝殿。木造の切妻造。中には市指定文化財に指定されている雲龍巻柱がある。1862年(文久2年)に社殿が再建された時に造られた、細部まで細かく彫られた立派な一対の龍の彫刻で、向かって右側が水の神である弥都波能売神(ミズハメノカミ)、左側が雨、雷、雲、水を司る五帝龍神となっている。本殿。流造の銅板葺。拝殿と共にシンプルな造り。社務所、授与所。大山祇神社。御祭神は大山津見神(オオヤマツミノカミ)。山の神、農林業の神として信仰されている。本殿右側に鎮座。豊受神社。御祭神は豊受大神(トヨウケノオオカミ)。食、穀物の神として信仰されている。本殿左側に鎮座。大山祇神社の隣にある末社。社名不明。馬頭神社。馬頭観音を祀る。細野畜産振興会が建立に携わっている。5月に馬頭観音祭が行われ、畜産業の安全、繁栄、家内安全を祈願する。繭神社。蚕の御霊を祀る。三角形の小さな社殿が特徴的。細野地域の繭生産農家が建立した。豊磐窓神社。御祭神は豊磐窓命(トヨイワマドノミコト)。天孫降臨の際に邇々芸命に仕えた神の一柱を祀る。参道左側に鎮座。櫛磐窓神社。御祭神は櫛磐窓命(クシイワマドノミコト)。天孫降臨の際に邇々芸命に仕えた神の一柱を祀る。参道右側に鎮座。古石塔。夷守神社の別当寺だった宝光院跡に立つ石塔。1500年(明応9年)に奉納されたもの。かつての神仏習合を今に伝える建造物の一つ。境内の杉樹林。杉に包まれた境内は静かで、空気も綺麗だった。良縁のみち。縁結びの御利益にあやかって作られた小径で、夏は風鈴、それ以外の季節はハーバリウムが飾られている。SNS映えするフォトスポット。勝利の杉。北駐車場の手前に立つ杉の巨樹。幹の中心からそのまま垂直に枝分かれしており、どの方向から見てもV(Victory)の字に見えることから必勝、合格の御利益があると言われている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.30
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都農神社の奥宮である瀧神社の裏を流れ落ちている滝。落差は12m。階段状の黒い岩肌をさらさらと静かに流れ落ちるのが特徴。水量は少なめで、時季によっては水が流れ落ちていないこともある。瀧神社の御祭神は高龗神(タカオカミノカミ)。水を掌る神で、農耕、耳病平癒の神様としても信仰されている。古くから雨乞い、日乞いの神として信仰が篤く、秋月藩主も雨乞いの為に度々代参したと伝えられている。1926年(大正15年)に都農神社の末社に指定された。春彼岸の中日に春祭、秋彼岸の中日に秋祭が行われている。滝の周辺は不動公園として整備されており、春には桜やシャクナゲが咲き、町内有数の花見スポットとなっている。瀧神社一の鳥居。ここから石段を上って社殿まで。ちなみに石段は1956年(昭和31年)に氏子より寄進されたもの。二の鳥居。社殿。拝殿と本殿、どちらも木造の切妻造。最古の記録だと1392年(明徳3年)に社殿が再建されたとある。現在の社殿は1958年(昭和33年)に新築され、拝殿は1995年(平成7年)に改築されたもの。瀧神社社殿のすぐ背後を、不動滝が流れ落ちている。滝の全体像。大きな黒い岩肌を、静かに水が流れ落ちていっている。夏季であっても水量が少ない滝のようだが、この日は昼間に大雨が降って水量が増え、普段は見られない優美な姿を見せているようだった。周辺には住宅地や公園、ワイナリーがある場所に、これだけ立派で造形が見事な滝があるのには一目見て驚いた。不動明王像。ずっと滝を見守っている。落ち口から下まで滝が流れ落ちていく様子。黒い岩肌には苔が生していて、その岩肌に水がぶつかり何条にも分かれて優美に落ちていく様には心が洗われる。ずっと見ていられそうだった。滝壺。川辺に下りて見た滝。滝の正面左手にある仏像を祀った小さなお堂。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.28
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初代天皇である神武天皇が即位前に祈念をして御祭神が祀られたと伝えられる神社。日向国一宮。宮崎県式内社四社の一つ。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命)。病気平癒、縁結び、子孫繁栄、商売繁盛の神として信仰されている。他にも境内には撫でると様々な福が得られるという撫で大国、病気平癒の御利益があるという撫でうさぎ、願いを込めて納めると願いが成就するという神の石神事など様々なパワースポットがある。社伝によると神武天皇が御即位の6年前に東征の折、この地に立ち寄り国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し、御祭神を祀ったことに始まるという。927年(延長5年)の延喜式神名帳では「都農神社」として記載があり、式内社に列している。当時は壮大な社殿と広大な境内を持つ日向国(現宮崎県)第一の大社であったと言われているが、1578年(天正6年)の島津・大友の争乱の際に兵火により社殿、宝物、古文書等全てを焼失し衰退。それから長らくの間は再興がされず祠があるのみだった。1692年(元禄5年)に高鍋藩主の秋月種政が再興し、以後は高鍋藩主から崇敬され社殿や鳥居の造営が行われた。1859年(安政6年)に篤志家の社殿の寄進がされた。1871年(明治4年)の近代社格制度により国幣小社に列し、1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社となった。社殿の老朽化に伴い2002年(平成14年)に御造営奉賛会が設立され、2007年(平成19年)に現在の社殿が竣工し現在に至る。1月と8月以外は毎月1日に月次祭が行われる。1月に歳旦祭と原始祭、2月に紀元祭と祈念祭、3月に都農祖霊社春季祖霊祭、6月に夏越大祓式、8月に夏祭御発輿祭と夏祭御還幸祭、9月に都農祖霊社秋季祖霊祭、10月に神嘗奉祝祭・新殻感謝祭、11月に新嘗祭と明治祭、12月に例大祭、その他毎月様々な小祭が行われている。8月の夏祭は神功皇后が三韓征伐の折に御祭神を御船に招請されたことに因む祭事で、神輿が町中を巡幸する。12月の例大祭(冬祭)は氏子繁栄と家内安全を祈念する祭事で、夜通しで神楽が奉納される。西大鳥居。ふれあい通りの入り口にある立派な大鳥居。一之宮食堂。駐車場にあるうどん店。うどんやそばだけでなくカレーややきそばもいただける。うどんの上にカレーとカツが載ったカツカレーうどんが名物。南鳥居。社号碑。国幣の文字が刻まれている。手水舎。神門。拝殿。入母屋造の銅板葺で、正面に千鳥破風を持つ。背面に本殿と繋がる切妻造の幣殿が設けられている。2007年(平成19年)に再建されたもの。本殿。一間社流造の銅板葺。拝殿と同じく2007年(平成19年)に再建されたもの。1859年(安政6年)に寄進された旧本殿を踏襲した造形となっている。本殿のねずみの彫刻。ねずみは大己貴命と関わりの深い動物の一つ。大己貴命が須佐之男命(スサノオノミコト)の元で修行中に火攻めにされ、足元にねずみが現れてそこを踏みつけたところ、穴が空いて難を逃れたという。素盞嗚神社。御祭神は素盞嗚命(スサノオノミコト)。日本書紀だと大己貴命の父神にあたり、武運必勝、悪疫退散の御利益がある。本殿の左側に鎮座している。手摩乳・足摩乳神社。御祭神は手摩乳命(テナヅチノミコト)、足摩乳命(アシナヅチノミコト)。子育て、手足健康の御利益がある。本殿の右側に鎮座している。熊野神社。御祭神は早玉男命(ハヤタマオノミコト)、事解男命(コトサカオノミコト)、菊理比売命(ククリヒメノミコト)。再生、若返りの御利益がある。2月21日に例祭が行われている。稲荷神社。御祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)。五穀表情、商売繁盛、殖産振興の御利益がある。旧暦2月に春祭、旧暦9月に秋祭が行われている。愛宕神社。御祭神は火産霊神(ホムスビノカミ)。防火、防災の御利益がある。旧暦1月に例祭が行われている。神楽殿、神輿庫。社務所。お札所が併設しており、授与品には様々な種類の御札、御守り、御朱印帳、腕輪、土鈴がある。車祓所。祓所。あぶら石。かつて都農川の対岸に置かれていた石で、この石に油を注いで火を灯して都農神社の遥拝所にしていたという。現在は神社の境内にあり、長年の人々の願いがこもった石であることから目標達成、心願成就の霊石として信仰されている。神の石神事。願いを込めて納めるとその願いが成就すると言われている石。太鼓橋の前に石があるので賽銭を入れて1つ取り、本殿の前で参拝した後、社殿裏の納所へと持っていく。大絵馬。撫で大国。木槌を持った大国さまの像で、撫でると様々な福をもたらしてくれると言われている。撫でうさぎ。うさぎは大己貴命と関わりの深い動物の一つ。有名な因幡の白兎。撫でると病気平癒の御利益があると言われている。御神象。夫婦楠から生まれ出たと伝えられる天然の象の木像。不思議なことに、後になって身体の一部分にハートの模様が浮き出てきたという。撫でることで恋愛成就、夫婦円満、除災招福の御利益があると言われている。夫婦楠。町指定天然記念物に指定されている。都農神社の御神木で、ここから前述の御神象が生まれた。竹柏亭。授与所として使われていた建物を移設し、現在は茶室として利用している。西神苑。1869年(明治2年)に造園。池に浮かぶ島は心の文字をかたどっている。一の宮公園。境内にある公園で東神苑とも呼ばれている。周辺は木に囲まれ、池のほとりにはベンチが設けられ参拝後に一息つけるようになっている。東鳥居。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.27
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日本最初の夫婦神である伊邪那岐尊と伊邪那美尊を祀る神社と、伊邪那岐尊が黄泉の国から戻った時に穢れた身を清めたと伝わる池。江田神社は宮崎県式内社四社の一つ。御祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、伊邪那美尊(イザナミノミコト)。日本列島を造り、八百万の神を御生みになられた日本最初の夫婦神で、安産、縁結び、厄除の御利益がある。日本神話において伊邪那岐尊が黄泉の国から命からがら帰還し、川で穢れた身を清めたという伝えがある。身を清めた地は古事記や日本書紀で阿波岐原・檍原と記述があり、それが当地だと伝えられている。創建の年月は不明だが927年(延長5年)の延喜式神名神名帳に記載があり、式内社に列している。970年(天禄元年)までには神階が最高位の正一位まで昇階し、古くは荘厳な社殿を持つ日向国(現宮崎県)を代表する神社だった。1662年(寛文2年)の外所地震によって社宝や社殿を喪失し、以降は産土神として奉斎される。1873年(明治6年)の近代社格制度により県社に列し、1907年(明治40年)に神饌幣帛料供進指定を受け現在に至る。1月1日に歳旦祭、2月に祈念祭、6月に大祓祭・茅の輪くぐり、11月22日に例大祭、11月23日に新嘗祭が行われている。御池は神社の北東にある池で「みそぎ池」とも呼ばれている。日本神話において伊邪那岐尊が黄泉の国から帰還し、衣服や装飾を外して穢れた身を清めた池と伝えられ、その際に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)が誕生されたと言われている。池には睡蓮が浮かんでおり、4月から10月にかけて花を咲かせている。一の鳥居。みそぎの碑。伊邪那岐尊と禊により生まれた三貴子を表した碑。背後が伊邪那岐尊、柱の中が天照大御神、左が須佐之男命、右が月読命をそれぞれ表している。社務所、授与所。二の鳥居。参道。一の鳥居から社殿まで真っすぐに伸びている。木々に包まれ、静寂な雰囲気が漂っている。手水舎。拝殿。入母屋造の銅板葺。1935年(昭和10年)に新築されたもの。拝殿の彫刻。本殿。三間社流造。1887年(明治20年)に再建されたもの。江田神社改築記念碑。クスノキ。参道の途中にある二股に分かれたクスノキ。注連縄が掛けられているが…御神木だろうか?根元のところにコブがあり、ここに触るとパワーを得られると言われている。コブの部分はあまりに沢山の人が触るので光沢を帯びている。オガタマノキ。日本神話の天岩戸において、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が実の付いたオガタマノキの枝を持って踊ったと伝えられ、それが神鈴の由来となったと言われている。阿波岐原森林公園市民の森。江田神社が鎮座している森林公園。神社が鎮座しているところから15分ほど歩き、御池へ。「御池(みそぎ池)」神産みにおいて伊邪那美尊は火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだ時に火傷で命を落とし、妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐尊は伊邪那美尊に会いにいくため黄泉の国へ赴く。だがそこで見たのは、恐ろしい姿に変わり果てた妻の姿だった。伊邪那岐尊は妻と追手に追われながらも命からがら黄泉の国から帰還し、阿波岐原の清流で身を清めたという。その場所こそがこの御池と伝えられている。伊邪那岐尊が身を清めた…すなわち禊をした場所であることから「みそぎ池」とも呼ばれている。伊邪那岐尊が衣服や装飾を外すとそこから様々な神が生まれ、禊をすると綿津見三神、住吉三神が生まれ、そして最後に左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から須佐之男命が誕生されたという。皇祖神である天照大御神誕生の地で、皇室の原点にあたる場所とも言える。古くは川の入り江だったそうだが、現在は見ての通り池となっていて底から水が湧いている。訪れた時は7月。睡蓮が黄色い花を咲かせていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.26
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撮影地:福岡県直方市 『福智山ろく花公園』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.23
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撮影地:福岡県直方市 『福地神社』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.21
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○雑炊セット餃子(8個)、雑炊、小鉢、漬物餃子。焼き餃子、揚げ餃子、水餃子の3種類から選べるようになっている。雑炊。特製、鶏玉、梅から選べるようになっている。今回は特製を選んだ。中に餃子が入っていてびっくり!高鍋町の飲食店が立ち並ぶスポットにある、50年以上の歴史を持つ餃子専門店。1967年(昭和47年)創業。餃子は宮崎県の名物の一つ。高鍋町にも専門店がいくつかある。今回いただいたセットは餃子と雑炊のセットメニュー。餃子と雑炊はどちらも3種から選べるようになっている。焼き餃子は焼き面がパリッとしていて蒸し面はもっちり、一つ一つが大きい。皮は手練りで作ったもので、餡は厳選した食材を選び6時間寝かせて味を熟成させ、鉄鍋を使い自家製のラードで焼き上げたこだわりの逸品。この馬渡でしか味わえない餃子となっている。弁当のテイクアウトができ、冷凍餃子・生餃子の販売もされている。ネット通販もあり。店の大きな看板。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.20
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南方神社の境内にあるクスノキの巨樹。国指定天然記念物に指定され、みやざき巨樹百選に選定されている。樹高42m、幹周1150cm、推定樹齢1000年。根回りが大きく安定した体勢を取っているのが特徴的。地上6mの場所から幹が二股に分かれており、そこから更に多岐にわたって太い枝を伸ばし、広い枝張りを見せている。樹勢も盛ん。同じ西都市のクスノキの巨樹である妻のクスと共に、国指定天然記念物に指定されている。クスノキのある南方神社では毎年11月に南方神楽が行われており、昼から夜中にかけて笛や太鼓と共に多種多様な舞が奉納される。南方神社。御祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)、手名槌命(テナヅチノミコト)、足名槌命(アシナヅチノミコト)、奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナヅチノミコト)、大山祇命(オオヤマツミノミコト)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)。創建の年代は不明だが、鎌倉時代には既に鎮座していることが判明している。社殿の正面左に上穂北のクスがある。毎年11月になると社殿の前に神屋が設けられ、クスノキが見守る中で南方神楽が奉納される。クスノキの全体像。幹の太さに反して根回りが大きく、更に太い枝が広い範囲に伸び、絶妙なバランス感覚で自立している。推定樹齢1000年以上の巨樹だがそれを感じさせないほどに樹勢が良く、損傷も見られない。根の部分。根がしっかりと張られていて、まるでワシの足が地面を掴んでいるかのよう。幹。綺麗な緑色に染まっている。途中から二股に分かれていて、そこから更に多岐にわたって枝分かれしていき広い枝張りを見せている。広い枝張り。太陽に照らされ、細い枝の先までびっしりと付いた緑の葉は光り輝いていた。うなぎの入船。近くにあるうなぎ料理店。訪れた時はちょうど土用の丑の日で、遠くからでも炭火で焼いた蒲焼きの良い香りが立ち込め、店はうな丼を買いに来たお客さんでいっぱいだった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.17
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都萬神社の境内にあるクスノキの巨樹。国指定天然記念物に指定されており、みやざき巨樹百選に選定されている。樹高18m、幹周986cm、推定樹齢1200年。かつては樹高40m以上を誇る県内有数のクスノキの巨樹だったが、昭和と平成に1回ずつ台風や火災などの自然災害によって大きくダメージを受け、幹に半分近く空洞ができており柱で支えられた状態で立っている。それでも樹勢は盛んで、枝に多くの葉を付けている。都萬神社にはクスノキの一部で作られた木洞があり、夢叶う、幸せ招く、願いが叶う木洞として信仰されている。都萬神社の社殿がある方から見たクスノキの全体像。境内のクスノキ群の中でも一際存在感を放っていて、すぐにこれが妻のクスだと分かる。ここから見ると普通の巨木に見えるが…反対側から見た妻のクスの全体像。見ての通り、幹が大きなスプーンでえぐられたかのように、巨大な空洞ができている。根元から幹の半分近くを失っている状態だが、柱に支えられながら力強く立っているのが見て取れる。根元の部分。樹皮が剥がれている部分はまるで青ざめたようになっていて、大きく裂けた部分と合わせてまるで木が叫びを上げた表情をしているかのように見える。根元に転がっている幹の一部。とうに腐ってしまっていて生命力を失っている。下から見上げたクスノキ。幹が大きくえぐれてもなお小枝にはびっしりと新しい緑の葉を付けており、生命力の強さを感じさせる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.16
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読みは「つまじんじゃ」。瓊々杵命の妻神である木花開耶姫命を祀る古社。宮崎県式内社四社の一つ。社名は「都万神社」「妻万神社」とも記され、後者の表記から「さいまんさま」「おせんさま」と呼ばれ親しまれている。御祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)。天孫こと瓊々杵命(ニニギノミコト)の妻神にあたり、「都萬」という社名も妻からきていると伝えられている。瓊々杵命と木花開耶姫命がこの地で婚礼儀式を行ったという伝えや木花開耶姫命が子宝に恵まれたことなどから、縁結び、安産、子育ての神として信仰されている。創建の年代は不明。続日本後紀には837年(承和4年)の条に記述があり、また日本三代実録には858年(天安2年)に神階昇格の記載があることから、少なくとも平安時代初期に鎮座していることが判明している。延喜式神名帳には日向国児湯郡に都農神社と共に記載されており、式内社に列している。建久年間に伊東氏が奉賽に務め、1603年(慶長8年)に島津以久が日向佐土原藩初代藩主となり、伊東氏に引き続いて崇敬された。1873年(明治6年)の近代社格制度により県社に列し、1907年(明治40年)には神饌幣帛料供進指定を受け現在に至る。1月1日に歳旦祭、6月30日に大祓、7月7日に更衣祭、11月19日に例大祭、旧11月2日に鎮火祭、12月31日に大祓と除夜祭が行われている。7月7日に行われる更衣祭は約500年前から続く特殊神事。瓊々杵命と木花開耶姫命がこの地で婚礼儀式を行ったという伝えに由来する祭りで、神事の前日には神職のみならず氏子や崇敬者も高鍋町まで浜下りして禊をし、当日は御神像に白衣の御衣装を着付け、白粉と口紅で化粧を施し、角隠しの帽子を被せ花嫁姿になるまでの様子を再現するものとなっている。銅製鳥居。東参道入り口にある。ここから社殿まで一直線に参道が伸びている。太鼓橋。石鳥居。拝殿の前に建っている。社殿は石段を上った、少し高い場所に鎮座している。狛犬。石造の造形が見事な年季の入った狛犬で、尻上がりの体勢を取っている。手水舎。拝殿。入母屋造の銅板葺。1968年(昭和43年)に造営されたもの。本殿。市指定文化財に指定されている。三間社流造で丹塗。社務所。千年楠の洞洞木。後述の妻のクスの一部で作られた木洞。入り口の前で一礼し、心の中で願い事をしながら木洞をくぐり抜け、その後もう一度一礼すると願いが叶うと言われている。日本清酒発祥の地。日本書紀によると、御祭神である木花開耶姫命が占いによって田を開き、そこで収穫された米で酒と飯を作り、天照大御神(アマテラスオオミカミ)にお供えになり自身も召し上がったと伝えられている。米で清酒を作ったという日本最古の伝承であり、神社の近くには酒元という地名もある。大山祇神社。御祭神は大山祇命(オオヤマツミノミコト)。木花開耶姫命の父神にあたり、火鎮の御利益がある。伊東氏の寄進によって建立されたものだと言われている。現在の社殿は2018年(平成30年)に建て替えられたもの。霧島神社、四所神社。八坂神社。御祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。約130年前に地元有志によって商売繁盛や町内発展を願って創建された。衹園神社とも記される。創建後は町内の消防に携わる互親組によって衹園祭(現西都夏まつり)が行わるようになり、現在も続いている。稲荷神社。御祭神は宇迦之御魂命(ウカノミタマノミコト)。朱塗りの小さな祠に祀られている。祓所。おしもり塚。生産河。境内に湧き出ている湧水。水に浸かっている大きな石に触ると子宝に恵まれると言われている。参集殿。日下部塚跡。西都祖霊神社。南参道の鳥居。相撲場。妻萬公園。神社の隣にある広々とした公園。妻のクス。国指定重要文化財に指定され、みやざき巨樹百選に選定されている。都萬神社の境内にあるクスノキの巨樹。詳しくは妻のクスを参照。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.14
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本庄川の上流に懸かり、ダム湖に水が流れ落ちる珍しい滝。「ままこ滝」もしくは「観音滝」とも呼ばれる。落差は不定。最も高くて約20m。小野湖に水が流れ落ちているのでその水位によって落差が変わる、全国的に見ても珍しい滝となっている。約30万年前の加久藤カルデラの火山活動によって形成された加久藤溶結凝灰岩を、本庄川の水流によって形成された滝で、滝幅が広く水量が豊富。小野湖に架かるすきむらんど大つり橋から見れる。かつては落差41m、幅18m、滝壺の深さ22mという勇壮な滝だったが、1958年(昭和33年)に滝の下流に綾南ダムができたことで小野湖が出現し湖面が上昇したため、落差がおよそ半分になってしまった。昔、滝の近くに若い木こりの夫婦と一人娘が住んでおり、木こりの妻が若くして亡くなった後に残された夫は継母を迎えたという。しかし継母は一人娘を憎み続け、ある日須木の滝から娘を突き落とそうと企み、娘と滝の上に来て寄り添う娘を突き落としたが、継母も一緒に落ちてしまい共に死んでしまったという。それから人々は滝を「ままこ滝」と呼ぶようになり、また滝の近くに2人の供養の為に観音像を祀ったことから「観音滝」とも呼ぶようになったという。滝の周辺にはレジャー施設のすきむらんどがあり、サイクリング、カヤック、SUP等のアクティビティが楽しめるようになっている他、サウナ付きの温泉施設もあり。すきむらんど大つり橋。小野湖に架かる、すきむらんどのシンボルである吊橋。長さ155m、幅員1.5m、高さ30.5m。橋の形式は単径間斜張橋。この橋の上から須木の滝が見れるようになっている。綾町にある綾の照葉大吊橋ができるまで、歩道橋として日本一の長さだった。通行料が必要な有料橋で、通行料は1人200円。入り口に料金箱があるのでそこに入れる。橋の上。ちょうど中間地点には展望スペースがあり、小野湖や須木の滝が眺められる。小野湖。1958年(昭和33年)に綾南ダムが完成したことによって形成された湖(人工湖)。ダム湖の面積は1.28㎢で、集水面積は87.0㎢。広大な湖で、夏から秋にかけてここでカヤックやSUPが楽しめるようになっている。訪れた時はボートを出して釣りを楽しんでいる人もいた。須木の滝。加久藤火砕流によってできたゴツゴツとした広い岩盤に滝が懸かっている。訪れた時は3月でいつもより水量は少なく、また小野湖が満水となっており落差も低いようだった。湖面には流水が叩きつけられ、広い湖に轟音が響いていた。遠景となるが、すきむらんど大つり橋の上からその全貌を見れる。よく見ると滝の左側にも展望台がありそこからも見れるようになっているようだが…土砂崩れによって行けなくなっていた。残念。水が流れ落ちていく様子。水量が少なめで落差が低めのこの日の姿は、遠景ながらどこか優美さを感じられた。対岸のすきむらんど大つり橋の渡り口。小屋があるが…昔はここで通行料を払っていたのだろうか?黒木清次文学碑。須木村(現小林市)出身の詩人・小説家である黒木清次氏の文学碑。黒木氏の没後、同氏の詩集「朝の鶴」が彫られたこの碑が建立され、毎年文学碑祭が行われている。すきむらんど。小野湖周辺に広がる、「遊ぶ。食べる。ととのう。」をコンセプトとしたレジャー施設。サイクリング、カヤック、SUP等のアクティビティが楽しめるようになっていて、バンガローや宿泊研修施設もあり(いずれも予約制)。昔は公園や旅館もあったようで、当時と比べると少し寂れてしまっているようだ…かじかの湯。すきむらんどにある温泉施設。内湯のみで温泉の泉質は単純温泉。フィンランド式サウナ(サウナ石に水をかけて蒸気を起こすタイプ)があり、サウナ後の外気浴のための森林テラスも用意されている。須木の大自然を楽しんだ後、自然派のサウナで"ととのう"ことができるようになっている。入浴料は中学生以上500円、小学生250円。須木のブランド米である須木米を使ったおにぎりがいただける食事処「おこめ処 お結びや」と須木の地酒や食材が販売されている土産店が併設している。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.06.10
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諫早市を流れる本明川沿いに鎮座する、九州総守護の神社。「四面宮」とも呼ばれる。御祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)、大己貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)。九州総守護の神として白日別命(シラヒワケノミコト)、豊日別命(トヨヒワケノミコト)、豊久士比泥別命(トヨクジヒネワケノミコト)、建日別命(タケヒワケノミコト)を祀り、配祀に猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)、八幡神、天満宮、御霊宮、稲荷神社、太子堂、四面上宮を祀る。九州総守護の神社ということもあり御神徳は広大無辺と言われ、特に開運、厄除、健康、病気平癒の御利益が有名。728年(神亀5年)に聖武天皇の勅願により、行基が当地へ赴いて石祠を祀ったのが始まりと言われている。元々は九州総守護の神々を祀る四面宮という名前の神仏習合の神社だった。古くから諫早の氏神として歴代領主の祈願所に定められ、西郷氏、龍造寺氏、諫早氏から篤く信仰された。建長年間に領主の西郷氏が社殿を建立し、1587年(天正15年)に新たな領主となった龍造寺氏が境内地を整備し神宮寺として荘厳寺を創建。1868年(明治元年)の神仏分離令によって並祀していた荘厳寺が分離され、社名を諫早神社に改称した。現在では地元の人々から「お四面さん」の愛称で親しまれ、この地の中心社寺として崇敬されている。毎月1日と15日に月次祭が行われている。1月に初詣、2月に祈年祭、10月に例祭、11月に新嘗祭、6月と12月に大祓が行われている。飛び石。神社の前を流れる本明川に設置された飛び石。古くは本明川を渡る唯一の通路だったそうで、川面に2ヶ所あった。1957年(昭和37年)の諫早大水害によって流出したが、1985年(昭和60年)に放送されたテレビドラマ「親戚たち」の収録で一時的に仮設されたことをきっかけに、地元住民の要望によって1988年(昭和63年)に復元された。石鳥居。手水舎。新型コロナウイルスの影響で改造が施されていて、近づいたら自動で水が出る仕組みになっていた。近頃の手水舎もハイテクになったものだ。狛犬。伏せの体制になりお尻を上げた格好の狛犬と、年季の入った玉乗りの狛犬が一対ずつあった。拝殿。木造入母屋造の銅板葺。現在の拝殿は大正時代初期に建立されたもの。本殿。木造入母屋造の瓦葺。社伝の周りは玉垣で囲まれている。現在の本殿は明治時代初期に建立されたもの。社務所・授与所。日本一のアマビエさま。今となっては懐かしさも感じるアマビエの木像。諫早市在住でチェーンソーアート日本一に輝いた嶋田克海氏が神社に保管されていたクスノキを活用して製作し、奉納したもの。高さ115cm、幅80cmと大きさも日本一だそう。諫早神社のクス群。県指定天然記念物に指定されている。境内のクスノキ群は全体がまとまった景観的にも良好なもので、その中の6本のクスノキが天然記念物に指定されている。このクスノキが1号とされる境内で最も大きなクスノキで、樹高約25m、幹廻り7.8m、樹齢不明。諫早神社の御神木として崇敬されている。2号、3号のクスノキ。2号の幹廻りは7m、3号は6.6m。3号は根の部分が根上がりしている。どちらも1号と同様に注連縄をつけている。5号のクスノキ。幹廻りは4.5m。本殿を挟んで反対側に4号のクスノキがあるが、全貌は見れなくなっている。6号のクスノキ。幹廻りは4m。6本のクスノキの中では最も小さなもの。桜と四面菩薩坐像の磐座。四面菩薩坐像は諫早神社の御神像で、かつては九州総守護の神々が宿る御神体として祀られていた。しかし神仏分離令によって神宮寺の荘厳寺が廃止され、四面菩薩坐像は天祐寺に移された。この石はその四面菩薩坐像に見立てた磐座と、その御加護を宿した桜の木。諫早神社御神苑。創建1290年を記念して、2022年(令和4年)に造られた神苑。自然石を配して造られた池泉式庭園で、雲仙塚、龍池、三柱鳥居、雲舞台の4つで構成されている。龍池。元々江戸時代に作庭され、県内三大名庭と呼ばれていた庭池が諫早大水害によって消滅。神苑の作庭にあたり、今回新たな形の庭池として蘇った。池の中央奥に見えるクスノキの根のうねりを龍に見立てた庭池で、右手に蓬莱山と枯滝の石組、水面に鯉魚石、左手に亀島が見られる。水際には玉石を敷き詰めて州浜を造り、穏やかな水際が表現されている。雲舞台。雲に見立てた石で造られた舞台。諫早市で産出された諫早石で造られている。巫女舞や雅楽を奉納する神楽舞台として使われる。猿田彦の石碑。雲仙塚の登り口にある猿田彦神(サルタヒコノカミ)を祀る石碑。雲仙塚。諫早神社の御神体である雲仙岳をかたどった築山。高さは約3m。築山は全て石で組まれており、寄進された石や雲仙地獄の石などが用いられている。中心には天気を司る鯨の姿に見立てた鯨石があり、その鯨石を囲むようにして三柱鳥居が建っている。三柱鳥居。雲仙塚にある鳥居。かつて諫早神社には全国的にも珍しい陶器で出来た鳥居があったが、諫早大水害によって流失。2024年(令和6年)に訪れた時はまだ鳥居ができておらず、木でできた仮の三柱鳥居が置かれていたが、現在は完成した白色の陶器の三柱鳥居が設置されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.05.18
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当ブログ『金田政宗の旅の記録』は2026年(令和8年)4月24日をもちまして、6 周 年を迎えました。これまでに25都道府県、749件の記事を書きました。気付けばもう日本の都道府県の半分以上を旅していて、西日本はあと1つの県を旅すればで完全制覇といったところまできている。各地の観光スポットの写真と共に書き連ねてきた旅の記録も、だいぶ彩りのあるものになってきた。旅の記録の完成…といっても旅をやめない限り更新は続いていくが、日本全国の記録を記した旅の記録の出来上がってきているのを実感している。誰もが知る定番・有名スポットから、ほとんどの人が知らないであろう穴場まで全国各地の名所を紹介していき、より多くの人に日本の魅力を知ってもらえればと思います。これからも『金田政宗の旅の記録』をよろしくお願いします。今年のGWは大阪に行ってきました。観光で行くのは小学生以来、大人になって1人で旅するのは何気に初めてだった。初めてということで定番スポットをメインに見て回った。新世界、通天閣、道頓堀、大阪城…などなど。大阪と言えば日本の第二の都市。難波や梅田の方にも行ったが、人だかりがすごい。新世界なんか、毎日昼夜祭りが行われているようだった。都会というのはどうも苦手なのだが…大阪は街中が賑やかで楽しい街で、あまり息苦しさを感じなかった。3泊4日と長旅になったが、あっという間に時間が過ぎていき、旅運にも恵まれて、楽しく、美味しい旅になった。また行きたいなぁと思ったほどである。これで旅の記録にまた新しいページが刻まれる。西日本はほぼ制覇。残るは和歌山県のみ。次の旅先はもう確定かな?↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.05.17
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市内に現存する数少ない楼門がある神社と、境内にある征西大将軍が奉納したと伝わる藤の木の巨樹。主祭神は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)。脇祭神に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、住吉三神を祀る。健康長寿、病気平癒、災難除けの御利益があると言われている。740年(天平12年)に藤原広嗣が創建したと伝わる。平安時代に書かれた筑後国神明帳に「西福童大中臣神」の神名が記されており、1000年以上の歴史があることが分かっている。1359年(正平14年)に征西将軍宮懐良親王が大保原合戦で負傷した際、大中臣神社の加護で全快したことに感謝し、藤の花を奉納したと伝えられている。1670年(寛文10年)に楼門が建立される。将軍藤は前述の通り宮懐良親王が奉納したと伝わる藤の巨樹。県指定天然記念物に指定されている。4月下旬から5月上旬にかけて見頃を迎え、見頃の時期には藤まつりが行われている。参道入り口。鳥居はない。神橋と神池。注連掛石。手水舎。楼門。市指定文化財に指定されている。高さ約10.6m、奥行き約4.6m、幅約22.4m。木造入母屋造の瓦葺で、両脇に回廊が伸びている。1670年(寛文10年)に建立されたもの。1828年(文政11年)に発生した台風によって倒壊し、1835年(天保6年)に改修工事が行われた。小郡市内の神社に現存する楼門は3つしかなく、その中でも特に規模が雄大かつ美観で学術的にも貴重な価値を持つことから、1991年(平成3年)に市指定文化財に指定された。楼門の天井絵と彫刻。拝殿。入母屋造の瓦葺。正面に千鳥破風と唐破風を持つ。拝殿に掛けられている神額。御祭神が記されているが…真ん中の大中臣大明神は何を指しているのだろうか?本殿。流造の銅板葺。「将軍藤」征西将軍宮懐良親王が奉納したと伝わる藤の巨樹。県指定天然記念物に指定されている。根元周囲3m、胸高周囲2m、藤棚の面積約360㎡、樹齢630年以上。開花すると1m近くの花が藤棚の一面に垂れ下がり、見事な花の暖簾を作り出す。藤が見頃の時期になると藤まつりが行われ、屋台が出る他、夜にライトアップがされる。幹。複数の幹が絡み合うような形になっており、鉄骨を全て埋め尽くすように枝を広がらせ、立派な藤棚を形成している。陽が沈む頃、提灯の明かりが点灯しライトアップされた藤棚。その光景は春の夜祭といったところだろうか。地元の人々が多く集まり、夜の藤を楽しんでいた。藤の花が掛かり、かんざしを挿したようになった狛犬。提灯と藤。竹あかりも飾られていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.05.15
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猫尾城の城主が創建した神社と、その境内に広がる広大な藤棚。黒木の大藤は国の天然記念物に指定されている。御祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)。神社の御利益は不明だが、境内に広がる黒木の大藤は長い歴史の中で大火や災害に見舞われても生命力を維持し続けていることから、厄除、長寿の御利益があるとも言われている。猫尾城主であった黒木肥前守により、元応、元亨年間に社殿が創建されたと伝わる。かつては祇園社と呼ばれていた。1584年(天正12年)に大友宗麟の家臣によって襲撃を受け、猫尾城が落城しその時城主であった黒木家永が切腹。神社も兵火に呑まれた。その後家永の子である延実が旧領を奪還し、当社を崇敬した。1587年(天正15年)に社殿が再建され、元文年間に社殿を造営。1821年(文政4年)に町の大火により社殿などの建造物が全て焼失。1823年(文政6年)に本殿が再建され、翌年に拝殿が再建される。1910年(明治43年)に村社に昇進した。黒木の大藤は素盞嗚神社の境内に広がる広大な藤棚。国の天然記念物に指定されている。4月中旬から下旬に見頃を迎える。1395年(応永2年)に征西将軍良成親王が手植えしたものと伝えられている。藤の花が見頃を迎えると大藤まつりが開催され、屋台が出て物産展やイベント等が行われ、夜にはライトアップも行われる。正面鳥居。国道442号線。黒木の大藤に沿った車道の上にも鉄骨の藤棚が設けられている。手水舎。藤の花でできた輪が飾られていた。人と人との繋がりその先に続く想いを輪として表現しているそう。参道。拝殿。1905年(明治38年)に改築されたもの。本殿。拝殿と同じく1905年(明治38年)に改築されたもの。元々は西に向いていたそうだが、改築された時に南向きに移された。境内社の淡島神社、恵比須神社。稲荷神社、庚申塔。藤の花がかかった裏の鳥居。国指定天然記念物 黒木大藤の碑。團伊久磨のパイプのけむりの碑。パイプのけむりは作曲家である團伊久磨によるエッセイで、1969年(昭和44年)に発表された内容に黒木の大藤の情景が描かれている。碑には実際に掲載された文が刻まれている。「黒木の大藤」素盞嗚神社を覆うようにして広がる広大な藤棚。国の天然記念物に指定されている。幹囲2.2m、藤棚の面積約3000㎡、樹齢630年以上。満開時には花房が1m以上に伸びることもある。1395年(応永2年)に征西将軍良成親王が手植えしたものと伝えられている。1584年(天正12年)の兵火や1821年(文政4年)の大火によって焼損したが、幸いにも生を保ち600年以上の樹齢を数えている。1928年(昭和3年)に国の天然記念物に指定された。幹と根。太い枝は地面スレスレまで広く伸ばしているものもある。写真撮影スポット。広大な藤棚。これほどの広さを持つ藤棚も大変珍しい。4月下旬に訪れた時は既にところどころで色褪せていたり散華していたものもあったが、社殿左手の藤棚は綺麗な紫に染まったままだった。良い香りがしていて、長く伸びた花房はまさしく花のカーテンそのもの。夜のライトアップは和傘が飾られたりして、より一層美しい景色になるようだ。大藤まつりの期間中、藤棚の下に出ている屋台。辺りでは民謡が流れていて良い情緒を作り上げている。広く立派な藤棚の中の縁日という独特な風景。どうやら昔から行われている伝統のものだそうで、その様子は前述のパイプのけむりにも描かれている。歌碑。大藤まつり物産展。八女市黒木町の特産品や地元で採れた野菜・果物やその加工品の販売が行われており、キッチンカーも多く出店している。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.05.14
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桜と自然に包まれた、市内最大の都市公園。「埴生公園」と表記されることもある。広さは約15万㎡。園内には公園広場や展望台等があり、1周1300mのウォーキングコースも整備されている。園内北側に広い池を持ち、池には反橋が架かり鯉が泳いでいる他、春の期間のみボートに乗れるようになっている。他にも見どころとして埴生神社や垣生羅漢百穴がある。約2000本の桜の木があり、県内有数の桜の名所として知られている。4月下旬から5月上旬にかけてはツツジも綺麗。桜が見頃の時期に筑前中間さくら祭が開催されており、多くの花見客で賑わう。祭りの期間中は屋台が出る他、夜間に桜のライトアップがされ、昼とはまた違った雰囲気の中で夜の花見を楽しめる。新鮮市場さくら館。公園の近くにある。地産地消の食材が販売されており、食事処もあり。訪れた時はちょうど筑前中間さくら祭の期間中。沢山の花見客が来ていて屋台も出ていた。埴生神社鳥居。池。公園の北側に広がる池。埴生神社の参道になっているところには朱塗りの延壽橋が架かっており、池には鯉が泳いでいる。4月上旬から5月上旬まで土、日、祝日のみボートに乗れるようになっている。料金は30分330円、超過10分ごとに110円。垣生瑞祥石。埴生神社参道途中にある。思いを込めて石に水をかけると願いが叶うと言われている。埴生神社。御祭神は仲哀天皇、神功皇后、應神天皇。相殿に天照皇大神(アマテラスオオカミ)、十五社神社を祀る。開運、家内安全、縁結び、安産、交通安全の守護神として崇敬されている。昔、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐の為に御船でこの地に訪れ、航海の安全を祈念し船魂を祀られたのが始まりとされている。10月13日に例祭が行われている。埴生神社の御神木であるヤマザクラ。園内にある約2000本の桜の中で最も古い桜の木。樹齢は不明だが老木なのは確かで柱で支えられおり、幹の内部はコンクリートで補強されている。園内の桜。ちょうど満開を迎えていた頃だった。垣生羅漢百穴。県指定文化財に指定されている。公園内に点在する横穴群で、古墳時代に作られた墓(横穴墓)。園内にある羅漢山を中心に約50基が点在している。多くの副葬品が出土しており、それらは中間市歴史民俗資料館に展示されている。周辺や横穴墓の内部には多くの石仏が安置されており、信仰の場にもなっている。遊具広場。遊具やステージがあり、家族で楽しめる場になっている。遊具はどれも新しいもので、大型複合遊具の他に乳児・幼児向けの遊具もある。国鉄C11形蒸気機関車。1944年(昭和19年)に製造されたSL。現役時代は長崎県や熊本県を走っていたそう。以前は内部の見学もできたようだが現在は展示のみとなっている。忠霊塔。ウォーキングコース。埴生神社近くにスタート地点があり、1周1300m。公園の豊かな自然の中でウォーキングを楽しめる。中間仰木彬記念球場。公園のすぐ隣にある市営野球場で、旧称は中間市営野球場。中間市出身の元プロ野球選手で、近鉄バファローズやオリックス・ブルーウェーブの監督としても活躍した仰木彬氏の功績を称え、2017年(平成29年)に現在の名称に変更された。第1展望台。第2展望台。第2展望台前に咲いていたシダレザクラ。ソメイヨシノよりも濃い桃色の花びらをたわわにつけていた。福北ゆたか線沿いにできた桜のトンネル。文学のこみち。中間市や福岡県にゆかりのある詩人や歌人の作品を刻んだ碑を集めた広場。夜のライトアップ。桜の木と木の間に吊り下げられた提灯が点灯され、綺麗な夜桜を映し出す。19時を過ぎた頃、昼とはまた違う雰囲気の中、多くの人が集まって夜の花見を楽しんでいた。夜に突然現れたランプの森。ライトアップされた園内の桜。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.05.13
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読みは「ほっしんこうえん」。久留米市の桜の名所として知られる発心山の麓にある公園。山の麓に広がる小さな自然公園で、いくつかの広場を持ち自然の中でピクニックを楽しめる。元キャンプ場であったためかまどや洗い場があり、バーベキューもできるようになっている。園内には約500本の桜の木があり、見頃を迎えると多くの花見客で賑わう。夏は山の涼を求めて発心山の渓流で遊べるようになっており、秋はもみじ谷の紅葉が綺麗。古くから桜の名所として知られていた場所で、かつては久留米藩歴代藩主の観桜の場でもあった。また、天正年間には草野氏の居城であった発心城があった。近代日本文学の文豪の一人である夏目漱石もこの地を訪れており、園内には漱石がここで桜を見た時に詠んだ句が記された句碑がある。発心公園の碑。発心城趾の碑。天正年間、発心山には草野氏の居城であった発心城(別名は「竹井城」)があった。草野氏は鎌倉時代の初めから天正年間まで草野地方(現久留米市草野町)を治めていた豪族で、発心城は1577年(天正5年)に築かれた。しかし1587年(天正15年)に豊臣秀吉が島津征伐の為九州に出陣。圧倒的な軍事力の前に草野氏は降伏した後自害。城主を失った発心城は落城の憂き目にあった。発心山登山口。発心三社大権現鳥居。発心三社大権現参道。社殿までは長い石段を上っていく必要があるが、鳥居の脇に伸びている山道を歩いて行くことも可。発心三社大権現。御祭神は伊弉奈美神(イザナミノカミ)、草野太郎永平、草野右衛門鎮永。中尊に十一面観音、左に釈迦如来、右に阿弥陀如来を祀る。所謂神仏習合。開基は発心城城主であった草野太郎永平で、古くは彦山権現、熊野権現と並び称させる権現だったそう。現在の社殿は1662年(寛文2年)に再建されたもの。発心キャンプ場跡。かまどや洗い場が残されている(水道は繋がっていない)。公園脇道路の桜並木。広場に咲く桜の木々。洪疇武田範之和尚碑。天佑侠に所属していた国家主義者で、顕聖寺の僧でもあった武田範之の碑。字は武田が所属していた玄洋社の中心人物であった頭山満の揮毫によるもの。夏目漱石の句碑。"松をもて 囲ひし谷の 桜かな"と記されている。1897年(明治30年)に夏目漱石がここ発心公園の桜を見物し、その時に詠まれた句。句の内容から、かつて発心山は松の木に囲まれていたことが分かる。山を越えて発心公園に訪れた経験が、後に漱石の名作「草枕」にて画工が山越えをする場面に活かされた。園内の桜広場。ブルーシートを張れる広さを持ち、東屋やベンチもあり花見にはもってこいの場所。多くの花見客が訪れ、家族連れで花見を楽しんでいた。3月末。満開を迎えていた園内の桜。公園に咲く満開の桜は遠くからも見え、発心山の麓を白く染めるほど。ヤエザクラも花を開かせていた。公園のある場所から見た久留米の町並み。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.04.26
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国富町の田園地帯の中に立つヤマザクラの巨樹。樹高15m、幹周約400cm、推定樹齢は100~150年。田園地帯の中にある小さな丘の上に根を張り、天に向かって大きく枝を伸ばしている。ヤマザクラであるので開花の時期が早く、宮崎県でソメイヨシノが開花となった頃に見頃を迎える。地元の人々からは神木として崇められ大切にされている。根元には1673年(寛文13年)に建てられた石碑である庚申塔がある。見頃の時期を迎えると夜にライトアップが行われ、臨時の駐車場も設けられる。遠くから見た大坪の一本桜。田園地帯に1本、大きく枝を広げているヤマザクラは一際目立つ。近くで見た大坪の一本桜。訪れたのは3月下旬。まだ5分咲きといったところだった。下から見上げた桜の木。幹から伸びただんだん細くなっていく枝は薄いピンクの実りを付け、天を覆うようにして広がっている。根元。田園の中心にある小さな丘をがっちりと掴んでいて、その様はまるでタコの足、もしくはタカの足が丘を掴んでいるかのよう。幹の中に埋め込まれるようにして建っている庚申塔。1673年(寛文13年)に建てられたもの。庚申塔というのは、中国の道教思想に由来する庚申講(60日に一度の庚申の日に神仏を祀り、健康長寿を祈って夜を眠らずに過ごす行事)を行った記念に建てられる記念碑。古くはこの講が地域の親交を深める大切な行事であったといい、一本桜の由来ははっきりとしないものの、この講が関係しているのではないかとも一説に考えられている。細く伸びた枝の先に咲いたヤマザクラの花。菜の花畑と一本桜。見頃を迎えた時期だけ見れる特別な景観。何ともフォトジェニックな景色で、通りかかった人たちは車を停め、写真を撮っていた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.04.14
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綾町に広がる照葉樹林に架かる、日本で2番目の大きさを誇る人道吊橋。橋の形式は長径間2ヒンジ無補剛吊橋。鋼製。長さ250m、歩道幅1.2m、高さ142m。歩行者専用の人道橋。高さは人道橋の吊橋としては日本で2番目の高さを誇る。吊橋からは照葉樹林の渓谷を眺められるようになっていて、春になると山肌に咲くヤマザクラ、夏は新緑が美しい。橋を渡った先には約2kmの自然遊歩道が続いており、豊かな自然の中で自然散策を楽しめるようになっている。1982年(昭和57年)に照葉樹林一帯が九州中央山地国定公園に指定され、同年に綾の照葉大吊橋の着工が開始。その2年後の1984年(昭和59年)に完成した。以来綾町のシンボルとなり、2006年(平成18年)に大分県の九重"夢"大吊橋が完成するまでの間、人道橋の吊橋としては日本一の高さを誇っていた。2010年(平成22年)に老朽化の為架け替え工事が開始され、翌年に再び開通した。入場料は大人(高校生以上)500円、小・中学生350円、小学生未満は無料。綾の照葉大吊橋入口。周辺には土産店、食事処がある。入場ゲート。ここで入場料を払って吊橋へ。綾の照葉大吊橋の全景。山と山を繋ぐようにして一直線に鋼製の吊橋が架かる。現在の橋は2011年(平成23年)に架け替えらえたもの。橋の規模は架け替え前と変わらないが鉄塔の直径が少し大きくなっており、足場の造りも変わっている。歩く吊橋世界一の碑。綾の照葉大吊橋は2006年(平成18年)まで人道吊橋として世界一の規模を誇っており、架橋に込めた当時の意志を後世に伝える為に現在もこの「世界一」の碑をそのまま残している。朝日森林文化賞記念の盾と新照葉大吊橋の碑。吊橋の上にて。照葉樹林上空を空中散歩。橋の上からは照葉樹林と山々が見渡せる。かなりの高さがある上、新しく架橋された吊橋は足場の一部が金網になっており、真下を見通せるようになっていてスリル満点。高所恐怖症にはキツいかもしれない。橋の上から見た照葉樹林の渓谷。照葉樹林の山肌(パノラマ写真)。山の一部、むき出しになった岩肌。3月下旬。ちょうどヤマザクラが見頃を迎えていた時期。深い緑に枯れ木がぽつぽつと見える寂しげな色の山肌に、ヤマザクラのピンクを帯びた白い模様が綾町に春を知らせていた。かじか吊橋。橋のすぐ上流にかかるもう一つの吊橋。自然遊歩道を歩いていくと途中で渡ることになる。橋の真下を流れる本庄川。渡った先から見た大吊橋。照葉大山神。橋を渡った先に祀られている山の神。鳥居があるところから約15分登ったところに社殿があるそうだが、登り口のすぐ近くに遥拝所が設けられておりそちらでの参拝も可能となっている。照葉大吊橋遊歩道。自然豊かな遊歩道で、照葉樹林の木々を見ながら自然散策を楽しめる。20分~60分のコースがある。写真撮影スポット。照葉樹林自然日本一の碑、大吊橋の全景と共に写真撮影ができるようになっている。綾てるはの森展示館。照葉樹林に自生している木や植物、生息している動物や鳥類の紹介、森での生活に用いられた農具等が展示されている資料館。入場料は無料(ただし入場ゲートの先にあるので、大吊橋の入場料は払わないといけない)。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.04.12
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2026.04.04
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大井川の鎮護の神を祀り、日本三奇祭に数えられる帯祭が行われることで知られる神社。御祭神は彌都波能売神(ミツハノメノカミ)、波邇夜須比売神(ハニヤスヒメノカミ)、天照大神(アマテラスオオミカミ)。水、土、日の神で、いずれも女神であることから安産の神、女性・子供の守護神として信仰されている他、江戸時代には参勤交代の大名や飛脚が旅の安全を祈願したことから交通安全の神としても信仰されている。創建の年代は不明。しかし日本三代実録にて865年(貞観7年)に従五位下に昇叙された記述があり、1000年以上の歴史を持つことが明らかになっている。社伝によると大井川の水害に悩まされた村民が子孫繁栄と郷土発展の為、守護を祈念して創建したと言われている。元々は大井川上流に祀られていたが、度重なる洪水で島田に流れ着き、記録では1276年(建治2年)の時点で島田に鎮座していることが分かっている。1689年(元禄2年)に島田宿の発展に伴い、現在地に遷座した。1695年(元禄8年)に御神幸の神事が始まり、これが後に帯祭と呼ばれるようになる。1708年(宝永5年)に正一位の位階を賜り正一位大井大明神と称し、1854年(嘉永7年)に勅宣によって勅宣正一位大井神社と改称した。1875年(明治8年)の近代社格制度により郷社に列し、1908年(明治41年)に県社に昇格。1966年(昭和41年)に神社本庁の別表神社となり現在に至る。毎月1日にお一日参りが行われている。1月に歳旦祭、2月に節分祭、4月に雛人形焼納祭、6月にみそぎの祓い、8月に夏祭り・七夕祭、10月に例祭、12月に鎮火祭が行われている。10月に行われる例祭は3年に一度大例祭となり、日本三奇祭に数えられている帯祭が行われる。帯祭では大名行列で大奴が安産祈願の帯を大太刀に掛けて町中を練り歩く他、鹿島踊り、歌舞伎、屋台踊りが披露される。正面鳥居。手水舎。拝殿。訪れた時は周辺で歳旦祭の準備が行われていた。本殿。1863年(文久3年)に再建されたもの。諏訪立川流の名工である立川昌敬によって彫られた立派な彫刻が見られる。双龍の手水。地下から汲み上げられている清らかな御神水が湧いている。社務所。祈祷の受付はここで行われており、ここから拝殿まで渡り廊下で繋がっている。授与所。肌守、女性身体守、安産守、子供守などの各種御守り、絵馬、御札、御朱印帳といった授与品がある。大井天満宮。御祭神は菅原道真公。学業成就、合格祈願の御利益がある。社伝の前には神牛があり、体の悪い部分を祈りを込めて撫でると病が治り、頭を撫でると知恵がつくという信仰がある。1月25日に初天神、10月25日に例祭が行われている。春日神社。健御賀豆智命(タケミカヅチノミコト)、伊波比主命(イワイヌシノミコト)、天之子八根命(アメノコヤネノミコト)、比売神、金山彦命(カナヤマヒコノミコト)、他11柱の神を祀る。長寿、健康の神として信仰されている。6月5日に例祭が行われている。静霊神社。島田市出身の英霊1900余柱を祀る。4月15日に例祭、毎月5日、春分の日、秋分の日にみたままつりが行われている。大井恵比寿神社。御祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)、事代主命(コトシロヌシノミコト)。商売繁盛、開運招福の神として信仰されている。1月20日に初恵比寿祭、11月19日に例祭、20日に講社祭が行われている。福寿の手水鉢。享保年間に武州玉川の崇敬者が奉納した手水鉢。祓戸神社。祓戸四柱の神を祀る。5月5日に例祭が行われている。御神池。日本庭園風の造りをしていて、自然石を配し朱色の反橋が掛かっており、池には錦鯉が泳いでいる。大奴、鹿島踊りのブロンズ像。3年に一度の大例祭で行われる帯祭の大奴と鹿島踊りの姿を後世に伝える為に造られたブロンズ像。かつて島田で嫁入りすると、大井神社に参拝した後に新婦は帯を持って町中全戸に挨拶回りをするという風習があり、町の拡大に伴い挨拶回りが大変になったため、大井神社の例祭の大名行列にて大奴が持つ大太刀に帯を掛け披露するようになったという。これが帯祭の起源と言われている。やがて掛けられる帯がどんどん豪華になっていき多くの見物で賑わうようになり、練り歩く大奴の動きがどこか奇妙なことからいつしか奇祭として親しまれるようになっていったという。金属鳥居。「勅宣正一位 大井神社」と書かれた神額が掛かっている。社号碑。大井神社だけでなく、大井恵比寿神社、静霊神社の碑も立っている。宮美殿。境内にある結婚式場。大井神社に隣接し拝殿まで渡り廊下で繋がっており、神前式が挙げられるようになっている。参道の石垣。江戸時代に大井川の川越稼業の人々が、毎日仕事を終えて帰る際に河原の石を1つ持ち帰り、それを積み上げて築かれた石垣。帯塚。昔からの島田の信仰で、ここに使った帯を供養しこの塚に納め、一家の平安と安産を祈る。神橋。1713年(正徳3年)に神輿渡御の為に造られた太鼓橋。老朽化に伴い、2017年(平成29年)に架け替えが行われた。大井神社最古の燈籠。1663年(寛文3年)に造られたもので、大井神社遷座前から残る貴重な燈籠。常夜燈籠。江戸時代に造られたものを、2004年(平成16年)に復元。大井社社号標。1689年(元禄2年)に大井神社がこの地に遷座した時に立てられたものと言われている。大井大明神奉納燈籠。1703年(元禄16年)に大井神社が大井大明神と呼ばれていた頃に奉納された燈籠。拝殿前大燈籠。境内で最大の大きさを誇る燈籠。1911年(明治44年)に造られたもの。先賢碑。江戸時代に島田宿が水害に見舞われていた頃に、私財を投入し大きな防水工事を行った代官の長谷川藤兵衛長勝、長春父子2代と、「駿河記」の著者である桑原藤秦の事績を伝える為、1924年(大正13年)に建立された。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.03.16
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○錦華餃子・円盤焼き錦華餃子・円盤焼き、ライス、スープ、ノンアルコールサワー(レモン)円盤焼き。浜松餃子ときたらやっぱりコレ。真ん中にはもやしが載っている。浜松餃子はこうやって茹でもやしを添えるのが決まりらしい。意外にもヘルシーな浜松餃子。浜松駅前、遠鉄百貨店のレストラン街にある浜松餃子・中華料理店。メインの浜松餃子の他に、種類豊富なチャーハンやラーメン、麻婆豆腐やエビチリなどの中華料理がいただける。静岡旅行の道中に降り立った浜松市。浜松に来たらやっぱり餃子が食べたいと思い、早速専門の店へ。錦華では餃子が6個から頼めるようになっていて、一番多いものは円盤焼きで16個。写真なんかでもよく見る、あの円形に盛って焼いたもの。今回はこの円盤焼きにした。いざ実食…しようとしたらなかなかくっついた餃子が取れない~。うまく取るのに苦労した。餃子の中身は肉よりも野菜が多めで、ニラ・玉ねぎ・キャベツがたっぷり。意外にもヘルシーなタイプだった。食べたら強めの炭酸のサワーでキメる。んー…最高。お酒のお供にもってこいだ。サクッとしたニンニクたっぷりの肉餃子も好きだが、もっちりしていて野菜多めの浜松餃子もまた良い。餃子の新境地がここに開かれり。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.03.12
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○えびめしえびめし、煮物、エビフライ、薩摩揚げ、鶏煮物、玉子焼き、なます、煮豆、つぼ漬けエビとご飯を一緒に炊き込んだえびめし。年末年始の3泊4日の静岡旅行、新幹線に乗る前に小倉駅で買った駅弁。何ともレトロな見た目の外箱に、えびめしやおかずが盛り付けられた半円の弁当箱が特徴的。1968年(昭和43年)に鹿児島県の出水駅で発売されたそこそこ歴史ある駅弁だそうで、出水市の冬の風物詩である「ケタ打瀬網漁」という、クマエビを獲るエビ漁をイメージしたものなんだとか。メインのえびめしはエビとご飯を一緒に炊き込んだもので、そこにエビ、錦糸卵、グリーンピース、刻みしいたけが載っている。エビの風味がよく、載っているエビもぷりっとしていて美味しい。おかずも多彩で彩りがあって満足できる一品だった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.03.11
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戦国時代に駿河の守護大名であった今川氏が、朝比奈泰煕に命じて築かせた城(平山城)。日本100名城に選定されており、掛川城御殿は国指定重要文化財に指定されている。室町時代の文明年間に守護大名の今川義忠が、重臣である朝比奈泰煕に命じて子角山に掛川古城を築城したのが始まりと言われている。1513年(永正10年)に子角山南西の龍頭山に移された。以後は朝比奈氏が城主となる。1568年(永禄11年)に朝比奈氏の主君である今川氏真が武田信玄、徳川家康の両大名から攻められ、駿府城を捨てて掛川城へと立てこもる。その後、徳川家康が掛川城へと攻め入ったがなかなか落城せず、長い攻防の末に和解によって掛川城が開城されることになった。朝比奈氏と今川氏は相模国(現神奈川県)の小田原城へと退去し、以後は家康の重臣である石川氏が城主を務め、武田氏侵攻に対する防御の拠点となった。1590年(天正18年)に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると家康が関東に移封され、掛川城に秀吉の直臣であった山内一豊が入った。山内氏の時代に大規模な城域の拡張と近代城郭としての整備が行われ、石垣や天守が造られた。その後は松平氏、太田氏など徳川譜代の大名の居城となった。1854年(安政元年)に安政東海大地震が発生し、天守を含む大半が損壊。二ノ丸御殿、太鼓櫓蕗の門などは再建されたが、1869年(明治2年)に廃城となった。1994年(平成6)年に天守が再建され、翌年に大手門が木造復元された。現在は城跡が掛川城公園として整備されており、天守・掛川城御殿が見学できるようになっている他、二の丸跡には日本庭園を持つ茶室があり、竹の丸跡には松本家邸宅を利用したカフェがある。周辺にはソメイヨシノ、シキザクラ、シダレザクラが約130本植えられており、春は桜の名所にもなっている。入館料は掛川城天守(掛川城御殿との共通券)が一般410円、小・中学生150円(団体割引有)、二の丸茶室が一般510円、小・中学生250円(団体割引有)、竹の丸が一般100円、小・中学生50円(団体割引有)。掛川城大手門。城内に入る最初の門で、掛川城の門の中では最も大きい。間口は12.7m、奥行きは5.4m、棟までの高さは11.6m。山内一豊が設けた最初の門は安政東海大地震で倒壊し、1858年(安政5年)に再建。掛川城が廃城になると民間に払い下げられ、火災に遭い焼失。1995年(平成7年)に門があった場所の50m北側に復元された。門をくぐった先には大手門番所があり、こちらは再建当時のもので市指定文化財に指定されている。松尾池跡。掛川城の構図が描かれた正保城絵図がある。三の丸広場。四足門のすぐ目の前、三の丸があった場所に作られた広場。掛川城公園の碑。三日月堀。本丸門の前面に配置された三日月状の堀。深さは8mあったという。四足門。本丸に通じる重要な門で、門の内側には番所が設けられていた。発掘調査では門の跡が見つからず、正保城絵図を元に復元された。掛川城主要部模型。正保城絵図と発掘調査結果を資料として製作された、150分の1スケールの模型。模型の素材には耐久性の高い有田製磁器が用いられている。十露盤堀。本丸を囲んでいた重要な堀。現在は一部を残すのみとなっている。太鼓櫓。市指定文化財に指定されている。かつて城の時間を知らせる為の大太鼓が納められていた櫓。石垣の上にあり、外観のみの見学となっている。本丸広場。城の主要部だった本丸があった場所で、かつては藩主の住居であった本丸御殿があった。現在は花広場となっている。腰櫓台跡。城の外を監視する櫓があった場所。霧吹き井戸。1569年(永禄12年)に徳川家康が掛川城に攻め入った時、この井戸から立ち込めた霧が城を包み込み、徳川軍の攻撃から守ったという伝説が残っている。天守閣。瓦葺、三層四階の入母屋造。2重目に唐破風を持つ。白漆喰塗籠の外壁は京都府の聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁と高欄は大坂城天守閣にならったものだと言われている。天守閣は1590年(天正18年)に建てられたが、1604年(慶長9年)の大地震で倒壊。その後再建されるも、1854年(安政元年)に発生した安政東海大地震によって再び倒壊。それから程なくして掛川城が廃城となったため再建はされず、長らく天守台などの遺構が残るだけとなっていた。1994年(平成6年)に地元住民や企業から募金が集まり天守閣が木造復元され、140年ぶりにその姿を取り戻した。石落とし。天守の床の一部を石垣の上に張り出させ、敵が石垣を上ってきた時に床板を開けてそこから石を落とし、敵を攻撃するもの。狭間。城の建物や城壁などに設けられている、内側から鉄砲や弓で攻撃するための穴。掛川城天守には1階に9ヶ所、2階に14ヶ所ある。鯱。掛川城天守の上部に造られた鯱の原寸大複製。油山寺の山門の鯱を参考に、高知城天守の鯱にならって青銅で造られている。天守4階から見た掛川の街並み。城壁に設けられた狭間。掛川城御殿。国指定重要文化財に指定されている。藩の公的式典の場、藩政の中心となる役所、城主の公邸が連結した建物。書院造。現在の建物は1861年(文久元年)に再建されたもの。掛川城廃城後は学校や市庁舎として活用されていた。現存する城郭の御殿は全国でも数ヵ所しかなく、大変貴重な建造物とされており、1972年(昭和47年)から3年間にわたって保存修理が行われ、1980年(昭和55年)に国指定重要文化財に指定された。掛川城御殿の玄関屋根と蕪懸魚。御書院上の間(大書院)。城主が藩政を行う時に使われた部屋。長囲炉裏の間。城主が使用していた部屋。甲冑が展示されている。長囲炉裏の間の天井にある、太田氏正紋の桔梗紋と替紋の鏑矢紋。二の丸美術館。掛川城天守の復元に感激した実業家の木下満男氏が美術工芸品を寄贈し、1998年(平成10年)に開館した美術館。木下氏が寄贈したたばこ道具をはじめとした美術工芸品「木下コレクション」や、掛川ゆかりの作品を収蔵している。入場料は大人500円、小・中学生無料(団体割引有)。二の丸茶室。掛川城公園内にある茶室。掛川茶の煎茶や抹茶がいただける他、茶室の貸し出しも行われている。入館料は一般510円、小・中学生250円(団体割引有)。ステンドグラス美術館。掛川市の医師である鈴木政昭氏が自身の集めたステンドグラスを寄贈し、2015年(平成27年)に開館。鈴木氏が集めたイギリス、フランスの美しいステンドグラスが展示されており、ステンドグラス作り体験やコンサートなど様々なイベントも開催されている。入場料は一般500円、小・中学生無料(団体割引有)。竹の丸。市指定有形文化財に指定されている。竹の丸は重臣の屋敷地だった場所。現在残っている建物は江戸時代に城下町で問屋を営んでいた松本義一郎が、1903年(明治36年)に建築した邸宅。内部や庭園が見学できるようになっている他、和紅茶やスイーツが楽しめるカフェもある。入館料は一般100円、小・中学生50円(団体割引有)。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.03.10
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静岡県中部を流れる一級河川、大井川に架かる世界一長い木造歩道橋。「世界一長い木造歩道橋」としてギネス記録に認定されている。全長897.422m、幅2.4m。渡し板や欄干は全て木製となっており、橋脚はコンクリート製となっている。人道橋で、歩行者だけでなく自転車の通行も可能となっている。全長の897.4mが「厄なし」の語呂合わせであることから、厄なしの長生き橋とも呼ばれている。蓬莱橋という名前は、静岡藩知事だった徳川家達がかつての家臣たちの激励の為に牧之原へ訪れた際、開拓されている牧之原台地を、宝の山を意味する蓬莱山に例えたことに由来する。1869年(明治2年)に徳川慶喜の護衛であった幕臣たちが大井川右岸の牧之原台地を開拓し、茶作りを始めた。茶園ができて生活が安定するに従い、人々は大井川左岸にある島田宿へ買い物に出掛けるようになり、また島田宿からも台地を開墾する人々が往来するようになった。しかし当時、大井川を渡る方法は小舟しかなく、広い川幅を持ち時折満々と流れる大井川を渡るのは大変危険なことだった。そこで牧之原台地と島田宿を結ぶべく、1879年(明治12年)に蓬莱橋が架橋された。1994年(平成6年)に下流に島田大橋が架橋されてからは交通量が激減したが、1997年(平成9年)に「世界一長い木造橋」としてギネス記録に認定されたことで大きな注目を集め、島田市の観光スポットとして多くの観光客が訪れるようになった。渡橋料は大人、自転車100円、小人(小学生)10円。蓬莱橋。島田駅から歩いてここまでやってきた。初めて訪れたが、地元福岡の遠賀川や筑後川よりも更に広い川幅を持つ大井川に、これほど長い木造橋が架かっているのは一目見てエッと驚いた。外観は京都嵐山に架かる渡月橋を彷彿させる。勝海舟像。勝海舟は1860年(万延元年)に渡米し、この時にお茶が世界的な商品価値があることを認識。1869年(明治2年)に海舟より命を受け、かつての幕臣たちが牧之原台地を開拓して茶作りを始め、海舟も経済的支援を惜しまなかったという。このことが現在も続く島田市のお茶の生産に繋がった。これら勝海舟の功績を称え、2018年(平成30年)にこの銅像が設置された。吉田絃二郎、石原純の句碑・詩碑。吉田絃二郎句碑は"しくれけり 暮るるもあはれ 大井川"、石原純詩碑は"五百五十間の ながい木橋が ゆらゆらと揺れる たよりない人生の 一路のやうに × × 橋番の小屋に 蚊いぶしの煙が もうもうと立つ あはれ番人のあかい顔"と記されている。両氏が島田市を訪れた折に、大井川を詠んだもの。蓬莱橋897.4(やくなし)茶屋。島田茶やソフトクリーム、島田市の土産が販売されている。川辺から見た蓬莱橋。ちなみに右岸の川辺は蓬莱橋897.4広場として整備されており、芝生広場やイベント会場、第一・第二駐車場がある。真下から見た蓬莱橋。渡し板は全て木製となっている。川辺の方は橋脚も木製。渡橋料を払っていざ、右岸へ。橋の上にて。木の足場は結構ガタガタとしており、修復されたり壊れていたところもあった。吊橋じゃないのに、渡ってみるとなんだか揺れているような感覚がある。欄干は低く、風も強いので寄り過ぎて落下しないように注意。渡橋は自己責任でお願いします(渡橋記念チケットより)。橋から見えた富士山。陽が沈む頃、夕日に赤く染められた富士の山は実に美しかった。蓬莱橋が架かる大井川。広い川幅を持つが、砂州が多く、川の水深は浅く流れも緩やか。古くは川渡りの難所だったそうだが、その当時はまだ水量が多かったんだろうか?橋のすぐ下流にはコンクリート造りの島田大橋が見える。中間地点。欄干が緑色になっている場所、橋の上には「ど真ん中」と手書きで書いてある。右岸まであと少し。蓬莱七福神の小路。渡った先の左岸にある散策路。長寿祈願の鐘、愛和の鐘、七福神像などの御利益ポイントが点在している。木製フォトフレーム。蓬莱橋が見渡せる高台に設置された、写真撮影スポット。ちなみにこのフォトフレームは蓬莱橋の解体古材を使って作られたもので、NPO法人ソラノワと島田工業高校の共同制作。高台から見た蓬莱橋。改めてその長さを実感。日が暮れてくる頃。再び橋を渡って左岸へ。夕暮れ時の大井川。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.03.01
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撮影地:大分県津久見市 『四浦半島』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.27
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撮影地:大分県津久見市 『四浦半島』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.26
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白糸の滝のすぐ近く、芝川に懸かる滝。白糸の滝と共に日本の滝百選の一つで、国の名勝、天然記念物に指定されている。落差は25m。伏流瀑が静かにさらさらと流れ落ちる白糸の滝とは対照的に、大きな滝壺に向かって豪快に水が流れ落ちる直瀑。水量豊富。水量が多めの時期は滝幅いっぱいに水が流れ落ちる。白糸の滝へ下りる階段の手前に展望台があり、そこから滝を一望できるようになっている。日本三大仇討ちの一つに数えられる曾我兄弟の仇討ちにまつわる伝承が残り、この滝の近くで曾我兄弟が密談をしていたところ、滝の轟音が響き「心ない滝だ」と呟くと突然滝の音が止まり、密談が終わると再び轟音が鳴り始めたという。おかげで曾我兄弟は仇討ちを果たすことができ、この伝承から「音止の滝」と呼ばれるようになった。滝の近くには曾我兄弟が密談をした場所と伝えられる隠れ岩や、討ち取られた工藤祐経の墓がある。落ち口近くから見た滝。日光に照らされきらきらと光る滝壺が綺麗だった。展望台。2023年(令和5年)に完成したもの。白糸の滝へと下りる階段のすぐ手前、土産店の隣にある。ここから滝を一望できる。滝の全景。冬に訪れたが水量は豊富で、太い水柱を立てながらドドドと轟音を鳴らし、水しぶきを大量に飛ばしながら豪快に水が流れ落ちていた。優美さを見せる白糸の滝とは対照的に、勇壮さを感じさせる。2011年(平成23年)に発生した静岡県東部自身の影響で、崖の一部が崩落しているとのことで、昔と姿が若干異なっている模様。落ち口から滝壺へ水が流れ落ちていく様子。滝の両脇を流れ落ちている小滝(伏流瀑)。滝壺。丸くて広く、水は澄んでいてとても綺麗。音止の滝と富士山のツーショット。曽我の隠れ岩。鎌倉時代に行われた富士の巻狩の際に、曾我兄弟(曾我祐成、曾我時致)がこの東側にあった工藤祐経の陣屋を偵察し、討ち入りの密議をした場所と伝えられる。この岩陰に隠れて兄弟が密議をしていたところ、滝の轟音がうるさすぎて声が掻き消されてしまい「心ない滝だ」と呟くと、兄弟の念が通じたのか滝の轟音が突然止まり、密談が終わると再び轟音を鳴らし始めたという。この伝承から、滝のことを「音止の滝」と呼ぶようになった。工藤祐経の墓。曾我兄弟に打ち取られた工藤祐経の墓。曽我の隠れ岩から少し東側(陣屋があった場所?)にあり、鳥居と祠が建てられている。この地で1193年(建久4年)に雷雨の中、工藤祐経が曾我兄弟に討ち入られ最期を遂げたと伝えられている。なお、仇討ちを成し遂げた曾我祐成はその直後に仁田忠常に斬殺され、曾我時致は捕らえられて翌日に処刑された。この地から東南約1km離れた場所には、源頼朝の命によって曾我兄弟の慰霊の為に建てられた曽我八幡宮がある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.25
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富士宮市を代表する観光名所の一つで、富士山の南西麓、富士川に懸かる滝。日本の滝百選の一つで、日本三大名瀑の一つに数えられることもある。国の名勝、天然記念物に指定されている。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。落差は約20m、長さは約150m。富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境目を流れ下り、伏流水となって岩盤から湧き出して流れ落ちている滝。馬蹄形に広がる断崖から、幾筋もの白い糸を垂らしたようにさらさらと優美に流れ落ちる様子から白糸の滝と名付けられた。滝の近くには展望台と滝見橋があり、そこから滝の全体像を見れるようになっている。夏は新緑と滝壺のエメラルドグリーンが美しく映り、秋は紅葉の名所としても有名。古くから存在が知られている滝で、織田信長の一代記「信長公記」にも名前が登場しており、鎌倉時代に源頼朝が富士の巻狩を行う際にこの地に立ち寄り、"この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝"という和歌を詠んだという伝承が残っている。戦国時代から江戸時代初期にかけて、富士講の開祖である長谷川角行が修行を行った地とされ、富士講、富士信仰を中心に人々の巡礼・修行の場となった。1936年(昭和11年)に国の名勝、天然記念物に指定された。2013年(平成25年)に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録された。滝の入り口には富士山・白糸ノ滝テラスがあり、食事処、カフェ、土産店が点在している。有料の駐車場あり。JR東海身延線富士宮駅からはバスで行けるようになっている。曽我橋。バス停から歩いてすぐの場所に架かる、白糸の滝の入り口となる橋。下を流れる芝川の清流は川底が見えるほど澄みきっていて綺麗。富士山・白糸ノ滝テラス。2020年(令和2年)にオープン。広大な芝生広場に、名物の富士宮焼きそばが食べられる食事処、カフェ、土産店、観光案内所がある。富士山・白糸ノ滝テラスから案内に従って滝の方へと歩いていく。音止の滝展望台がある場所から白糸の滝へ下る道があり、そこを下っていくと滝見橋が見えてくる。この橋のすぐ上流を白糸の滝が流れ落ちている。滝見橋から見える伏流瀑。大きく広がった黒色の岩盤に、束ねた絹糸が掛かるようにしてさらさらと静かに滝が流れ落ちていっている。よく見てみると、本当に岩の隙間から水が噴き出ているのが分かる。伏流瀑の全景。白糸の滝の全景。展望台から間近に見れるようになっている。左側に主瀑を持ち、そこから右側は伏流瀑が下の岩場を洗うようにして流れ落ちていっている。水は澄みわたっていて、滝壺はブルーに輝いている。さらさらと澄んだ水が流れ落ちていく様子は大変美しく、いつまでも見ていられそうだった。主瀑。芝川の枝沢へと流れている水が流れ落ちている滝。大きな音を鳴らしながら豪快に流れ落ちていっている。主瀑と共に流れ落ちる伏流瀑。滝見橋近くの伏流瀑と違って、岩盤の上部に入った横に長い亀裂から、間を空けることなく絶えず水が流れ落ちていっている。その様はさながら、水のカーテンのよう。食行身禄の碑。戦国時代から江戸時代初期にかけて、富士講の開祖である長谷川角行がこの白糸の滝で修行を行ったとされ、それから富士講の信仰を集めて白糸の滝は巡礼・修行の場となった。このことが世界遺産富士山の重要な要素とされ、白糸の滝はその構成遺産の一つとなった。この碑は富士講の中興の祖である食行身禄の百回忌供養として、1832年(天保3年)に造立されたもの。滝の上部にある展望台。白糸の滝近くの階段を上った場所にある。上部展望台から見下ろした白糸の滝。展望台から見た富士山。富士山と白糸の滝のツーショット。お鬢水。富士の湧き水が岩の窪みに溜まって池となったもの。鎌倉時代に源頼朝が富士の巻狩の折、ここに立ち寄って水鏡に鬢のほつれを写し、撫でつけたという言い伝えが残っている。ここで湧き出た水は白糸の滝へと流れていく。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.24
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○富士宮やきそば富士宮市のソウルフード、富士宮焼きそば削り節がたっぷりかかった富士宮焼きそば。白糸の滝の近くにある定食屋・喫茶店。ニジマス、ヤマメ、イワナの料理や定食、富士宮名物の富士宮焼きそばがいただける。店内は昔ながらのレトロな雰囲気。頼んだのはもちろん名物の富士宮焼きそば。言わずと知れた富士宮市のソウルフード。麺はもっちりとしていて柔く、弾力があるのが特徴的。一般的な焼きそばの麺とは違う製法で作られているんだとか。ソースは甘め。具は豚肉に静岡県名物の桜エビがたっぷり、紅しょうがもいっぱい。そして決め手はイワシを主な材料とした削り節(だし粉)。見事にソースと絡まったコシのある麺と肉の旨み、削り節の良い香りが見事に調和している。昔から受け継がれてきた素朴ながら深みのある味、これがたまらなく美味い。ついおかわりしてしまいそうなほど病みつきになりそう。富士宮やきそばと大きく書かれた店先。白糸の滝の駐車場に来るとすぐ目に留まる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.23
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長崎県長崎市 『長崎ランタンフェスティバル①』の続き。九鯉化龍。湊公園前に飾られた大型のオブジェ。川を上り、滝を昇り、三段の滝を昇りきった鯉は龍になるという、所謂登竜門を描いたもの。薬屋のひとりごとコラボランタン。期間中はコラボイベントも行われていて、スタンプラリーやコラボグッズの販売が行われていた。長崎新地中華街会場。横浜、神戸と並ぶ日本の三大中華街の一つで、ランタンフェスティバルはここで行われた「春節祭」が始まり。いつも異国情緒が漂うこの地も、ランタンフェスティバル当日になるとまるで本場中国そのもの。夜空を埋め尽くすほどの中国提灯が飾られ、これまでにないほどの賑わいを見せる。中華料理店や屋台は通常営業しており、食べ歩きも楽しめる。湊公園中華門。孫策、周瑜のオブジェが飾られている。湊公園のランタン。空中に吊り下げられた無数の明かりの中を、金魚が泳いでいる。湊公園に飾られた大小様々なオブジェ。いずれも中国の神、伝説、吉祥語など縁起の良いものをモチーフとしたものとなっている。写真は上から順番に百鳥、鍾馗、状元及第、五鼠運財、竜宮城、瑞獅戲蝶、龍と鳳のオブジェ。祭壇。湊公園で一際強烈なインパクトを放っているこの祭壇は関聖帝君(関羽)を祀り、何と本物の豚の頭がお供えになっている。線香を焚いてお参りができるようになっている。人によってはグロテスクさを感じる異様な光景だが…自分は一目見て千と千尋の神隠しが頭をよぎった。序盤に出てくる料理店やカオナシが客に訪れた時のあの光景が…あまり長居しすぎると呪いにかかり帰れなくなるような、ふとそんなことを思ってみたり。新地中華街会場・湊公園のイベント会場。ステージでは琉球太鼓エイサー、中国変面ショー、龍踊り、二胡演奏などが行われる。屋台もあり、屋台の上部はショーケースのようになっていて、そこに沢山のオブジェが飾られている。唐人屋敷跡入口。この先に唐人屋敷会場がある。唐人屋敷とは、江戸幕府が日本人と外国人の交流を避けることを目的に設けた唐人(中国人)が住む住居のこと。1689年(元禄2年)に完成し、現存しているお堂はいずれも復元・改築されたもの。ランタンフェスティバルではこちらにも中国提灯やオブジェが飾られ、イベントも行われている。イベントは「ロウソク祈願四堂巡り」というもので、土神堂、天后堂、観音堂、福建会館を巡り、ろうそくを灯して祈ると願いが叶うといったもの。土神堂。市指定史跡に指定されている。土地の神、土神を祀る。1691年(元禄4年)に建てられ、現在の建物は1977年(昭和52年)に復元されたもの。天后堂。市指定史跡に指定されている。航海の神である天后聖母を祀る。唐人屋敷会場のランタン。観音館。市指定史跡に指定されている。観世音菩薩と関帝を祀る。1737年(元文2年)に創設されたと言われている。現在の建物は1917年(大正6年)に改築されたもの。福建会館。市指定有形文化財に指定されている。1897年(明治30年)に建てられたもの。かつては会館本館があったが、原爆投下により崩壊。現存する天后堂と正門が市指定文化財に指定されている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.20
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長崎市の市街地で行われる、旧正月を祝う春節祭として始まったイベント。毎年2月に長崎市のアーケードや長崎新地中華街を中心会場として行われる。1987年(昭和62年)から長崎新地中華街にて、街の振興として中国の旧正月を祝う「春節祭」を開催したのが始まりで、1994年(平成6年)に長崎市全体に規模を拡大し名称も「長崎ランタンフェスティバル」に改めた。長崎市の冬の風物詩として知られ、イベントの期間中は国内外から沢山の観光客が訪れる。イベント期間中は長崎新地中華街をはじめ街中に1万5000個以上のランタン(中国提灯)が飾られる。新地中華街会場、浜んまち会場、中島川公園会場、中央公園会場、唐人屋敷会場に加えいくつかの協力会場で分けられており、それぞれの会場で中国の文化をモチーフにした大小様々なオブジェが飾られている。昼から夕方にかけてイベント会場では中国変面ショー、龍踊り、琉球太鼓エイサーなどが行われ、土曜日と日曜日には街中で媽祖行列と皇帝パレードが行われる。夜になるとランタンとオブジェに灯りが点き、長崎の街を極彩色に彩る。浜んまち会場。市内最大のショッピングストリートに無数の中国提灯が飾られ、街中はすっかり異国の情緒を漂わせている。提灯の他にも、青龍、朱雀などのオブジェも飾られていた。恋ランタン。浜んまち会場にあった。祈縁牌に名前と願い事を書き、それを写真のように祈願所に奉納して祈願するといったもの。これらのランタンはイベントの最終日に、興福寺にて焚き上げが行われる。月下老人。中国の縁結びの神様。男女の縁組帳を持ち、運命の2人の足首を赤い糸で結ぶという。恋ランタンの祈願所のすぐ近くにいる。皇帝パレード。浜んまち会場にて偶然遭遇。皇帝・皇后を乗せた御輿を中心に、総勢100名以上が豪華な中国衣装を身にまとって盛大なパレードを行う。清朝時代の正月に皇帝・皇后が町中に出掛け、民衆と共に新しい年を祝う様子をイメージしたものなんだとか。壮観かつ異観とも言える光景、ここだけまるで本場中国と錯覚してしまいそう。写真は2024年(令和6年)のもの。この時の皇帝・皇后役は誰だったか…長崎県出身のコメディアン・女優の方だったかな?(雑)。日が沈む頃。街中のランタンやオブジェは次々にライトアップがされ、夜の長崎市を更に異国情緒に染め上げていく。これからがイベントの本番。写真は諸(猪)如意、玉兎迎春、福寿双全のオブジェ。中島川公園会場。眼鏡橋周辺に黄色のランタンが飾られ、夜になると川面にランタンの光が写り幻想的な光景を作り出す。飛馬。青森県のねぶた祭を彷彿させるような、大きく立派に作られたオブジェ。中央公園会場。イベント会場の一つ。ステージが設けられていて、ここで琉球太鼓エイサーや中国変面ショーなどが行われている。キッチンカーや屋台もあり、中華料理や長崎の名物料理が食べられる。中国ランタン装飾も立派なもの。写真は瑞獅戲球、金牛、五麟、楼門、九陽(羊)啓泰、青龍のオブジェ。中央公園会場のランタン。他の会場と異なり、一つ一つ違う形状・配色のランタンが沢山飾られている。まるで夜の中国、台湾を観光してる気分になれる。この写真なら、中国、台湾の観光パンフレットにも使えてしまいそう。牛郎織女。これまた大きく立派なオブジェ。牛郎織女は中国の神話伝説の一つで、物語の中でも有名なのは京劇などで演じられる「天河配」。神の娘である織女と人間界の青年牛郎の悲恋を描いたもので、中国における七夕の起源として知られる。このオブジェは7月7日にカササギが天の川に橋を架け、牛郎が橋を渡って織女に会いにいく場面を描いたもの。浜んまち会場、ライトアップされたランタン。新地中華街会場の桃色のランタン。やわらかな色のランタンの光が銅座川の川面にきらめき、幻想的な光景を作っている。長崎県長崎市 『長崎ランタンフェスティバル②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.18
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撮影地:静岡県富士宮市 『田貫湖』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.02.11
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○地獄蒸し豆腐丼豆腐丼、味噌汁、漬物、薬味たっぷり手作り豆腐が載った豆腐丼。冷奴と丼を組み合わせたものといったところだろうか。それっぽく豆腐の他にかつお節とネギも載っている。豆腐・かつお節・ネギの三食丼。別府鉄輪温泉の温泉施設「ひょうたん温泉」にある食事処。名物の地獄蒸しやとり天、寝かせハマチ膳など大分の名物料理が揃う。今回いただいた豆腐丼は看板メニューの一つ。手作りの豆腐をご飯に乗っけた独特な丼もの。冷と温から選べるようになっていて、今回は冷を頼んだ。まずはそのまま豆腐とご飯を一緒にいただく。豆腐はとても舌触りが良くて味も濃厚。何もかけずとも美味しく食べられる。豆腐だけでも十分美味いが、これがご飯ともよく合う。ありのままの味を楽しんだら今度は醤油や薬味を加えて。何とも異色の丼ものだったが、大変美味しかった。ひょうたん温泉。別府の鉄輪温泉の中では最も大きな日帰り温泉施設。温泉の泉質は鉄輪温泉特有の塩化物泉。源泉掛け流し。保湿効果のある美肌の湯で、体の芯まで温まり湯冷めしにくい。浴場は岩風呂、檜風呂、露天風呂、蒸し湯など様々な種類のものがあり、中でも高い落差からドドドと音を立てながら温泉が降り注ぐ打たせ湯「瀧湯」が有名。家族風呂あり(内湯10種、露天風呂4種)。自ら穴を掘り、全身を砂で埋め尽くして温まる砂湯もあり(料金が別途必要)。無料の足湯もある。他にも食事処や無料休憩所など施設も充実しており、1日をゆったりと過ごせるようになっている。温泉卵。1個80円。飲泉もあり。売店で販売されている地獄蒸しプリン。温泉熱で蒸して作った手作りプリン。食べて帰らなきゃ損だそうな。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.01.31
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佐賀県の北部に位置する湖(貯水池)。1957年(昭和32年)に北山ダムが完成したことによりできた人工湖で、周囲40km、湖水面積200.2ha、貯水量2200万t。佐賀平野一帯の水田を潤す灌漑用水ダムで、灌漑だけでなく水力で最大出力27500kWの電力を生み出している。敷地内はレイクサイド北山として整備がされており、北山ダム近くのウェルカムセンターにはレストラン・カフェがある他、レンタサイクルの貸し出しもされている。湖を囲むようにして遊歩道が整備されており、歩いて湖をぐるりと回れるようになっている。サイクリングコースもあり。湖畔には北山キャンプ場、北山少年自然の家、プレイグラウンドなどの諸施設やボート乗り場、バーベキュー場がある。釣りの名所でもあり、バス釣りに訪れる人が多く、最近では冬季のワカサギ釣りも話題となっている。春は桜の名所で、夏は新緑、秋は紅葉が綺麗。レイクサイド北山ウェルカムセンター。北山湖の湖畔にあるレイクサイド北山の玄関口といった施設で、観光案内所や休憩所があり、地元の特産品や土産の販売もされている。土・日・祝日のみ営業しているレストランもあり、地元の食材を用いたフランス料理やパスタ、自家製のデザートが楽しめる。3枚目の写真はそこでいただいたガトーショコラ。レンタサイクル。利用料は2時間で大人500円、子供300円。大人2人乗りや幼児乗せの自転車もあり。ここから北山湖の西側をぐるりと1周できる約6kmのサイクリングコースが整備されており、自然の中でサイクリングを楽しめるようになっている。ボート乗り場。足漕ぎボートを楽しめる。利用する場合はウェルカムセンターで受付する。利用料は30分で1200円。バーベキュー場。最大16名まで利用できるバーベキュー場。網、鉄板、炭、食材の持ち込みは自由で、用具の貸し出しもあり。利用料は大人(中学生以上)500円、子供300円、管理費300円。ウェルカムセンター近くに架かる吊橋。北山ダム。1950年(昭和25年)に着工し、それから7年の歳月を費やし1957年(昭和32年)に完成した灌漑用水ダム。堰堤の高さ59.3m、長さ180m。貯水池の周囲は40km、湖水面積200.2ha、有効貯水量2200万t。農業用のダムとしては九州最大規模で、11000haの佐賀平野の水田を潤す役目を持っている他、最大出力27500kWの電力を発電している。北山ダムから望んだ湖。水位は普段より下がっているようだった。サイクルトンネル。北山ダムを渡って最初に見えるトンネル。1986年(昭和61年)に竣工されたもの。遊歩道&サイクリングコース。起伏はあまりなく、平坦な道が多い。プレイグラウンド。レイクサイド北山に作られた公園で、全長111mのロングスライダー「北山モンスターⅢ」や草スキー、芝生広場がある。ふれあい展望台。プレイグラウンドの近くにある展望台。北山湖を一望できる。北山キャンプ場。北山湖の湖畔にある自然豊かなキャンプ場。79のサイトがあり、車の乗り入れ可能なオートサイトやテラスサイトがある。バンガロー、コテージはなし。センターハウスではテント、タープ、チェア、キャンプ用具一式がレンタルされており、手ぶらでもキャンプを楽しめる。ボートハウスしのはら、フィッシングセンターうおまん。北山湖湖畔にあるレンタルボート。冬季から初春にかけて、西日本では貴重なワカサギ釣りがここで楽しめる。釣り具のレンタルあり。近くにある炭火焼き店では、釣ったワカサギを調理できるセットの貸し出しがされている。夢の橋。全長155m。1991年(平成3年)に完成。佐賀県が北山湖の整備を進めた、21世紀県民の森の事業の一環として建築されたもの。21世紀県民の森竣工記念碑。SPOT3.8。夢の橋のすぐ近くにあるビュースポット。ここから北山湖の景色を一望できる。SPOT3.8から見た湖の景色。ふるさと記念の森。県民の憩いの場・シンボルの森として佐賀県にゆかりのある人物や県民823名が記念植樹を行って形成された森。ケヤキ、ヤマザクラ、モミジ、イチョウなどの木々が見られる。中でもモミジの数は400本以上にも及び、秋になると紅葉が綺麗なようだ。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2026.01.28
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