躰道∞(無限)
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1
まっ暗闇。同じところを往復するころには廊下の輪郭もつかめている。さっきまでの手探りが微光をとらえ、足の速度は衰えるが認識はかすかに精度を持ち始める。 なんとなくでしかなかった手探りに、よく見ることにより判断が生まれ引きずるようにしていた足に膝の伸縮が灯る。 自信のない暗闇でジリジリと手足のない昆虫のように足の裏を進ませるが、廊下からホールへの曲がり角や閉められたドアのおぼろげな輪郭をつかむと、そこまでを無障害の道のりと決めてかかる。するとその付近まで変な緊張が消え、足を上げ人間の歩き方第二条第一項くらいまでを知識として持っているような勢いがでてくる。ただし左右のバランスは一定のものはなく、常にフラフラの状態だ。 しかし、これら真夜中のトイレか、真夜中突然の空腹かによって行動した人間がクリアできたのは体にしみついた家の間取り情報があってこそなせるわざなのである。 あるとき、ある娘の親の実家が石巻から離れた島だったことから少女にこんな恐怖をもたらした。 自分が小学校低学年というと、あっさりと最近と言い答えてしまう。それを二十五年前というと、あら、という違和感がただよってきてしまう。あのころの怖さは今もリアルなものだし、その場所に行けばまだ同じ状況を体験できるのも、背中合わせの二十五年前だからなのだろう。 そのころは離島といっても島で住人としている子供の姿をみるのは山でクマに出会う率よりそうとう高かった。こんな言い方になるのは今では自分を子供としてみないかぎり、まず見られないからだ。子どもがいる雰囲気がないのは道端にソーダアイスの包み紙や黒くすすけた夏らしい花火の形跡もない寂しさからだ。 最近のような二十五年前、そのころ少女だった自分の顔を思い出して立ちすくんだ。 島の子供はきまって面倒見がいい。町場から島へ遊びにくると、その近所や親せきの子供は決まってちょうどいいくらい歳のはなれたお兄さんお姉さんで、少女の話題にも楽しく合わせられるし、とけこめやすさを持っている。逆にあんまり歳の近いのがいると野良犬どうしがばったりであったときのように警戒し、背伸びするような主張を心の中でしてしまうのだ。だから友達になりずらい。 少女は親の実家のすぐ裏の家に遊びに行くか、お墓を近道とする少し歳の近いお姉さんのところへ行くかが針金のように細く不安ななわばりだった。誰にひん曲げられかねない。 裏の家だと、実家の勝手口の灯りとその家の外灯がわずかな帰り道を誘導してくれる。それでも焦ってしまうのは子供という性格がそうさせるのだ。実家と裏の一本線の中心に線を引いて十字をかくと一方は大木にかこまれたお墓がある。もう一方が不気味で、浜へ下りる道はかすかな風も不気味なざわめきにしてしまう細い笹が茂っている。どっちからもナマハゲが出現する確率は五十パーセント、勝手口でサンダルを脱ぐのをもたもたすると耳の軟骨が神経に逆なでされて後ろへ引っ張られる。しまいには足首をゾンビにつかまれたブロンズのロングヘアーの十七歳みたいに足をばたつかせサンダルを振り落とす。 その姿をおばあさんが目を丸くして見ている。何もいわず菜箸でコンロの魚焼きをひっくりかえしている。網の下に敷いたアルミホイルが閉めた魚焼き機からはみだしている。 わずか五、六メートルの距離でさえでさえこの怖さ。 あるとき弟は裏の家へ。少女は少し離れたお姉さんのところへ。ということがあった。午前は弟も一緒に三人でそのお姉さんのところへ行って遊んだのだった。まだ小さい弟がお菓子を買いたいわがままにつきあって遠回りして行くことになった。 ポテチの空袋を片手に虫取りをする弟が、一人でいることにすっかり飽きて、人形で遊ぶ少女とお姉さんのところにしゃがみこんだ。「おばあさんとこにもどりたい」少女はため息しながら目を細めるが、お姉さんは立ち上がって弟と手をつないだ。少女は今度は自分が一人ぼっちのような気がしてなかなか立ち上がれなかった。しつけのなっていない子犬に引っ張られる態勢のお姉さんは少女の名前を呼びウインクをした。自分は弟より上の立場にいることがエネルギーになった。きた道と違う方向にお姉さんは歩きだした。くるときの密集した家を縫うように歩いてきたのとは風景がまるでちがう。坂をのぼり、コンクリートの足場が山土と腐葉土にかわった。むき出しの木の根もある。少女は自分の性別を認識する前の幼年期に帰った。一コマが薄ぼんやりと、しかししつこく蘇った。誰かもわからない背中にしがみついて、どこかの玄関をくぐるまで目を開けなかったあのシーン。少女の足が止まった。いつのまにか弟はお姉さんに抱きかかえられている。動かない少女に振り返るお姉さんと弟の背景には山づたいに断崖絶壁の道があった。「怖い?」聞かれても正直にうん、と言えなかった少女は怖くないとも言わずお姉さんのふくらはぎに自分の膝をあてるようにしてついていった。道幅は畳一枚の半分しかない。木の根が動いているような錯覚と、偶然けとばした小石が崖下におちる。腐葉土が崖をおおって、その下には民家がある。その間にブロック塀があった。少女はもし落ちた時塀の向こう側に転がっていくかその手前の崖下に落ちるのかを考えていた。お姉さんの肘とわき腹の隙間から崖道の終点をのぞいた。残りわずかが恐ろしく遠い。少女は前のランナーを待つリレーの選手のような急かす足取りになっていた。 通り過ぎてしまえば、あっという間だった。何度も振り返り、その道に憎しみさえわいてきた。 心拍が安定してくると高い木の枝を見上げるゆとりがでてきた。おじいさんが眠るお墓だということがわかった。少女の頭の中に実家とお姉さんの家まで釣り針を立てたような形のルートが頭の中に描かれた。 お墓まで来た。あと注意することといったら、やぶ蚊くらいなもので、ここまでくると家まですぐ目と鼻の先だ。十一時という半端な時間に到着した。弟がテレビのチャンネルをまわすとタイミングよくヤッターマンが放送されていた。アニメに氷漬けされた弟をおいてお姉さんは、うちでご飯を食べようか?ときいてきた。少女はおばあさんにことわり、野菜のお土産を持たせて了解した。 お姉さんは自然にお墓のほうを向いた。少女は袋の中のじゃがいもを数えてみた。六個だった。ネギが三本。 三回同じ野菜を勘定するうちにお墓をぬけて崖までついていた。 さっきは気がつかなかったがこっち側からお姉さんの家にいくと崖道は下り坂だったのだった。 もし、袋が破けてジャガイモが転げおちたら、そしてそれを追いかけたお姉さんが飛び降りたらどうしよう。気が遠くなってきた。山際に引っ張られるように、忍者が身を潜め歩くように、それでもお姉さんが振り向いたときには肩を大きく動かして大丈夫さをアピールして崖を通りきった。二度目の慣れというやつだろうか。歩き始めると、頭の中から「もしも」が薄らいでいって、足もとの意外な固さや手すりの存在にあたる縦に落ちた山の壁から根っこの先がみえている。いつのまにか「もしものときは」と考えていた。つかまるところがずいぶんある。お姉さんのゆとりは、それをたくさん知っているからだろうか。お土産の野菜をおばさんに渡すと「あら、あらあらー。ありがとうねー」とエプロンを叩くように手の水をきって袋の中をのぞいた。お姉さんと二人でご飯を食べた。少女は大好物のウニをたべた。崖の記憶もこのときばかりは消えていた。 六時もすぎると薄暗くなった。お姉さんのおじいさんは目が豹のような丸で、目尻には、いつでも食うぞという気迫が感じられた。そのおじいさんに「夕ごはんも食べていきなさい」といわれた。「オマエをとって食やしないから……」とは聞こえないが、外の夕日に闇がかかってくるのを見るとそんなふうに思えてしまった。夕食にもウニがでてきた。アワビもでてきてご飯もおいしかった。少女は「えあ、え?」とおかわりをどうかと聞かれて普通に「はい」と答えられないでしまった。 そのはっきり返事ができないことが、少女を恐怖の世界に導いてしまった。 送っていく?お姉さんの言葉だった。「だいじょうぶ?」「ん?あ、うん」ひきつった笑い顔の少女の手をお姉さんがにぎった。一瞬希望に満ちた。 次ににぎったのは赤いプラスチックの懐中電灯だった。「明日また遊ぼう」 えへら。と顔で挨拶し、少女は山に向かって懐中電灯を照らした。 振り返るとお姉さんの姿はなかった。家に戻っていた。とたんに懐中電灯の電池がもつかどうか不安になった。 少女の中に、お姉さんの家に戻って送ってくれと頼む選択肢がなかった。 民家をくぐって複雑な道のりを行く自信などない。 残るのは目の前にたつ山。そしてその山づたいの崖の道だけだ。 少女の踏みしめるコンクリートは子供の足を引く特殊な磁石のように足取りを妨害する。 いつか、いつのまにか足の裏の感触に凹凸が強く懐中電灯の矛先が足元寄りになっていた。 いよいよ。という感じは下から吹き上げる風と昼間は聞こえなかった波の音が耳鳴りのように少女にまとわりつく。 少女は足を止めた。そして懐中電灯の光を遠くへ投げ飛ばす。崖道の奥、お墓の出入り口が薄ぼんやり見てとれる。 投げた光をゆっくり手前まで引き寄せる。崖道があらわれ、その下のブロック塀が冷たそうに映る。 少女の足もとに光が戻ったとき、少女はしゃがみこんで自分の膝を照らした。 あの崖をわたること以外の方法を考えはじめた。 昼の店に行った道を辿ろうか。 少女はなんとなく崖下のブロック塀一点を見つめていた。無意識のうちに自分がお墓まで辿る方法をめぐらせていた。 木の根にしがみつきながらゆっくり崖下まで降りる。そして塀と崖の隙間を歩いて、またつかむものをたよりに崖をよじ登れば怖い崖から逃れることができそう。 しかし、それを行動しようと思うと崖と天秤にかけづらい。ありえない考えかただ。 そのときだ。波の音以外に何かが聞こえる。猫かカラスか。少女は耳をふさぎたくなった。それでも、暗闇の中ではいやでも集中してしまう。 足音。それと何か回るような、跳ねるような音だ。 正面の崖からくる。少女は懐中電灯の明かりを下に向けたまま近づく物音を凝視した。「サチコがー」 おばあさんの声だった。 泣いて寄っていきたかったけど、おばあさんは黒い影のままズンズン、ズンズンよってくるので懐中電灯を少しあげるくらいしかできなかった。 おばあさんの両手は一輪の手押し車でふさがっていた。「かりてきたのか」おばあさんはそう言うと懐中電灯をぶんどりお姉さんの家のほうへ消えていった。真っ暗の中に一人ぼっちで耳鳴りが、ザーっとなって心の中では「あーっ」と叫んだ。 おばあさんはすぐに戻ってきた。おばあさんの声以外に少女の頼るものはなかった。 おばあさんは早く乗れといった。暗闇の中、タイヤが一つしかない揺れる緑色の鉄の中にカメがひっくりかえった状態のままタイヤは動き出した。 おばあさんは孫を荷車にのせたまま歩きだした。少女は弾む箱の中で強く眼を閉じた。この真っ暗闇にどうやって。鋭く集中した少女の感が崖道の断面を通る二人の姿を想像させた。もう眼を閉じていても開けていても同じに思え、眼をあけた。 この速度。間違いなくおばあさんは崖を走っている。
2007年12月01日
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