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今年の1月頃にアップしようと思って書いてた日記で、なんだか恥ずかしくてアップできなかったのが残ってたので、今更遅いのですが、今日アップします。 --- 本文 ---子どもを育てていると、 あぁ、父と母もこんな風に感じていたんだな。 とよく思うことがある。 子どもを通して、こんなとき父も母もこんな風に感じていたんだなぁ。 腹が立ったんだろうなぁ、辛かったんだなぁ、うれしかったのかなぁ、迷惑かけたなぁ、 といろんな想いがこみ上げてくる。 親ってどんな時でも決して見捨てないで自分たちを見守ってくれたよなぁ。 こんな私にも、いつだって精一杯の愛をくれたよなぁ。 その当時はそんなことこれっぽっちも考えたことなかったけれど、 今、子どもを通して、父と母にいただいたものの大きさに改めて気づく。 もう、父も71歳、母も66歳を迎えようとしている。 ただただ、元気で長生きして欲しいと思う。 我が子を見つめながら、自分の幼少時代での、母のことでふと思い出すのは、 夕暮れ時に友達の家から泣きそうになりながら帰っていたときに、仕事帰りの母に出会い、長いマフラーを一緒に巻いて家に帰ったこと。 母の職場に行って、事務仕事をする母の横で遊んだり、来客用のソファで眠ってしまったりしていたこと。小学校の運動場で、後ろを押してもらって、何度も何度もひっくり返りながら 自転車の練習をしたこと.....。 共働きだったから、いつも家に帰ると一人だった。 田舎だったから、家に鍵をかけることはなかったので、鍵っ子ではなかったね。(^_^;) 夕方薄暗くなってくると、心細かったのを覚えている。 中学高校の時の母の姿はあまり浮かんでこない。 部活漬けの日々だったのと、グレてキレまくりだったせいもあるのだろうか。 当時の私は、相当に父と母を苦しめたことと思う。 自分が同じ立場に立たされたらどう対処するだろう。 その時が来るまで分からないが、来ないことを願う。都合の良い話だ。 父にもくっついて色々な所へよく連れて行ってもらった。 車のタイヤのチューブを浮き輪代わりに、泳げない私は、父親の背中に乗って職場の近くの池で泳いだ。今思うと、池で泳ぐなんてと思う。 どこに行くにも、連れてって~とダダをこね、父の職場以外にも、仕事仲間とのマツタケ採りや、魚釣りにくっついて行っては、 すぐに飽きてしまい帰ろう帰ろうと困らせたものだ。 今、息子がまさにその状態である。 どこに行くにも、付いてくるのだが、すぐに帰ろう帰ろうとぐずり出し、当時の父親の心境も同じだったのだろう。 私はすぐにカーッとなり怒ってしまうが、父はいつも優しかった。 中学校になると、父は単身赴任しなければならなくなり、休みの日しか家に居なかった。 日曜も部活漬けの日々だったので、中学くらいから父や母とのふれあいは少なくなっていったなぁ。 これから子どもたちが成長するにつれ、親はどんな思いで子どもと接していくのだろう。あの頃、父と母はどんな想いで私を育ててくれていたのだろう。 自分が子どもを育てる立場になって初めて、当時の、父と母の姿に自分の姿を重ねながら、 父と母からたくさんの愛を受けていたことを今更ながらに感謝する。 我が子を通して見なければ、見えなかったものがたくさんあると思う。 そう思うと、本当に子供たちには感謝の気持ちで一杯になる。 父と母に受けた以上の愛を、子供たちに注いでやりたいと思う。 また、その努力をしなければならないと思う。 なかなか恥ずかしくて、面と向かって言えないけれど、 ありがとう、お父さん。 ありがとう、お母さん。 いつまでも元気でね。
2006/05/17
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4月29日に父が不慮の事故で亡くなりました。71歳でしたが、健康でとても元気で、肉体的には私よりも体力があるくらいの父でした。それだけに、あまりに突然の出来事に、正直、今でも実感がない状態です。あわただしく、お通夜、葬儀と、形式上の儀式は終わり、今は祭壇に父の遺影とお骨があり、線香の匂いだけが、静かに部屋に漂っています。お葬式の後も、亡き父を偲ぶ暇もないほど、忙しい数日間を過ごしながら、父の死を実感できてない家族、そして私がいます。ひょっこりと「ただいま~」なんて帰ってきそうな、そんな気がまだしています。これまでも幾度となく話してきましたが、私は本当に親不孝をしてきました。荒れ狂っていた少年時代がありました。何が自分をそうさせていたのか、実際のところ未だによく分かりません。そんな私も、自分が親になって、初めて親の愛情に気づかされました。様々な壁にぶち当たるたびに、こんな私でも見捨てることなく愛し続けてくれていることに、言葉や態度で表現することはできませんでしたが、心では感謝できるようになりました。父も母も自分を信じてくれている。この感覚が、どれほど私に勇気と安心感を与えてくれたことでしょう。我が子が愛おしい、そう感じる度に、自分を育ててくれた両親の愛情を想い、小さい頃に父や母にしてもらったことを思い出すことが多くなりました。両親を喜ばせたい、親孝行といえることがしたい、常々こんなことを考えるようになっていました。しかし、独立して自営業を営む中で、経済的になかなかそんな余裕は生まれません。時々、孫のかわいい姿をみせてやることくらいしかできませんでした。そんな矢先の出来事でした。私の両親は、本当に贅沢を知らない?人たちでした。共働きで、こんな私を大学まで行かせるのに、どれほど質素倹約をしてきたことでしょう。外食しておいしいものを食べるでもなく、いい車に乗って走り回るわけでもなく、きれいな服で着飾るわけでもなく、豪邸に住むわけでもなく、本当に自分の贅沢よりも、子供の幸せを考えてくれていた親でした。子供が新車を買っても、自分はボロボロの中古車、子供がブランドの服で着飾っても、自分は昔から着ているつぎはぎのある服、子供がレストランでおいしいものを食べていても、自分は作った野菜や家にあるもので食事。国家公務員でした、決して所得が低いわけではありません。それでも贅沢に自分が使うことなく、どら息子のわがままな生活に費やしてくれていました。いまでは自分も二児の父。そんな父と母に、しっかり稼いだらいつかはきっと.....。言い訳のようですが、そんな想いだけは心の中にありました。父の死を知らされてから、私の頭の中にあることは、「何の親孝行もしてあげられなかった。」このことばかりでした。それを想うと、悔やまれて悔やまれて涙が溢れてとまりませんでした。こうして告白を綴りながらも、自責と後悔の念で涙が溢れています。父はそんなことを一切気にするような人ではありませんが、それだけにその気持ちに応えたかった。いつだってこのバカ息子を信じてくれて、応援してくれた、やさしい父でした。本当にいつも周りの人を気遣い、誰からも愛され信頼されていた父でした。本当にすばらしい父親でした。お父さん、こんな俺でゴメンなぁ。何にもしてあげられんかったど、ほんとごめんなぁ。お父さんのお陰でここまでこれたよ。ありがとう。ホントお父さんありがとう。お父さんに何にもしてあげられんかった分、お母さん大事にするけんなぁ。お父さんが僕を愛してくれたように、子供や家族を愛するけんなぁ。お父さん、本当にありがとう。ありがとう、お父さん。
2006/05/11
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