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里見まつり武者行列北野神社参拝です。 平成27年に第1かい参拝して、今回第5回目です。 第2回めの平成28年には、10月21日14時7分。m6,6の鳥取中部地震がありました。9月の祭りあとでしたので、中断はしていませんが、3回目の参拝には、国旗掲揚台はたおれ、灯籠は勿論、家屋部等哀れな姿がまだ残っていました。 参拝した祭主新左衛門口上に、わが殿里見忠義が来倉の折、社殿を再建なさりしも、かくの如き荒れた状況でしたろう。早く復興を願いますると祈願しました。 先日令和7月25日には、北野神社地震復興報告祭がなされ、総代さん、氏子さん集まり、昔の静かな神社風景にもどりました。 今年も晴れて5回目の里見祭り参拝ができます。 倉吉と関金が合併して、倉吉市となった記念に、倉吉・関金を舞台に活躍なされた里見忠義公を偲び合併の実を上げようと試みたイベントが里見まつり武者行列でした。 忠義公終焉の地が山守の堀で、菩提寺が倉吉の大岳院です。 しかし、里見主従の伯耆での実情は、ほとんどというほど記録も少なく、池田家の家老伊木家が倉吉を治めるようになり、忠義公は統治の身からお預けの身になりました。 伊木長門守忠貞の家老の名をとってつけた「長門土手」の建設が地名に残り、池田宗家の始祖、池田勝入斎を祀る「勝入寺」の建設等、わずか15年間でのあっぱれな伊木家の実績が残るも、記録にはありません。 関東から伯耆の地に来て、主が他界、お家断絶、家臣が殉死という悲事が、200年後になって、滝沢馬琴によって作られた南総里見八犬伝が勧善懲悪、因果応報をもとに発表されるとたちまち大傑作となり、史実と離れいつしか物語と混同して里見を考える人がおおくなりました。 そこで、ここの里見行列も、大岳院を出る時は、南総里見八犬伝に順応して、8つの玉、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌を和尚さんから預かり、終焉の地山守迄持っていくストリーになっています。 もともと8玉は、伏姫が役の行者から頂いた数珠で亡くなったとき飛び散ったもので、許嫁の金碗大輔が坊さん姿で8玉の因縁家臣を探して、里見家の再興を果たすという道中です。途中、毒婦玉梓が「女のこと」と一旦許されたのを違えて斬首され、うらみで行列を襲います。そのたびに8剣士は玉の威力で追い払います。 終焉地山守に行列は行き、小学校講堂でまだ襲ってきた玉梓を虐げ、勝鬨をあげて終了です。 バトンを受けた小学校の子供歌舞伎が八犬士の大見えを張り、関金の里見祭りの本番にはいっていきます。 途中北野神社参拝は、忠義公が400数年前に建設下さったところなので、実際の倉吉で活躍した里見家の武人で行っています。坊さんも玉梓も8剣士もいますが、ここでは、参拝一筋です。
2019年07月31日
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7月25日に復興報告祭までに漕ぎつけた総代各位、宮司さんのご努力に敬意を払います。 7月21日の掃除は、朝6時からでしたが、時間に駆け付けた時は、車の駐車が満杯で隣の自動車学校に無心する有様で、草刈り鎌の音は響きわたり、草むしり、箒がけなど人人の騒動です。 五社合祀しての100年祭が先先年だったように記憶してますが、社、福守、西倉吉、北野,西鴨など広い公民館が競って集まってきて産土さまをお祭りしてるんでしょう。活気があります。 先月他界したYさん去年は先頭きって、倒れた灯篭の間の草刈りを先人切って威勢を上げてくれていましたのに、みなが噂ばなしでなつかしみました。(掃く前パチリ)
2019年07月27日
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