全6件 (6件中 1-6件目)
1
痛ましい事が又おこりました。 アフリカ、ソマリアで資源開発現場が襲撃され、邦人も標的にあい、10人もの尊い命が亡くなりました。 資源産地でありながら、その報酬の恩恵がいきわたらず、貧富をつくってることが、根底にあるようで、なんとか解決の策を先進国がせねばまだ続くものでしょう。 文明の豊かさの影に潜む人々に手をのばしてやらねばなりますまい。
2013年01月28日
コメント(0)
退職金規定が変わり、1か月かそこらの年月を残し退職するとは、担任のある先生もいるという」 学校の先生は、将来を担う子供たちの教育してるから責任あるお仕事だ、退職金が、150万の事でわずかの期間を放棄するのかと行政トップが非難しておられたが、一見もっともなことではあります。 その前に、変更期限を年度末に変えて挙げればいいことです。 お勤めをきちんと済まれる方に、約束したものを払い、新たに、年度変わりで規約改正してあげればいいことです。 節約を人にしわよせするのは良くないこと、退職金はその人の年功が染みたものです。退職寸前になって変更するという方がおかしい。 該当のかたに配慮してあげるべきです。 職績をないがしろにする先生はありません。そんなお方が、長年の勤務を全うしません。 批判されるような感情を本人たちは、それ以上にもって退職願いをだしていましょう。 金銭と引き換えに責任を放棄などをさせる施策をせず、最後を全うできる配慮をしてほしいものです。 規則変え分て、どれだけの退職金が浮くのか。それくらいは他で稼ぎだす案を考えるべきです。 教育の大事なお仕事を終え、だい2の人生も退職金の額で考慮せねばならないほどの明るくない見透しを嘆いてやるべきです。 経費削減の努力もさることながら、生み出す努力をトップは、層一層考えるべきでしょう。
2013年01月23日
コメント(0)
異常な松の枯れが目立つようになりました。 日本海の海岸道路沿いがめだちます。 一時おさまってたようですのに、常盤の松が黄ばんでるのは、見るにいたましいものです。 沖合の荒波の中で離れ岩の上に映えてる松は頼もしいものです。 千貫つんでもほしいくらいの松巌がジオパークにありますが、池田の殿さまでなくとも惚れ惚れします。 塩に強いのに、最近の空気に変化がおきてるのかもしれません。 松喰虫のせいにばかりはどうも原因はほかにありそうです。 松どころで松によりたたらが盛んで栄えた所が、松が栄えぬ地になれば、住民気質も変わるかも?。 おだやかな、ゆったりした気質がかわれば困る。松の育つ空気、おそらく酸性を中和することが必要でしょう。
2013年01月19日
コメント(2)
2年の約で公民館の役が終わりました。 役といっても審議員という班を纏める役ですが。 新年会を開き報告をし次期役員にバトンを渡しました。 人さまざまで、こんな小さなコミュニティーでもいろんな人がるものです。 出すことは舌もださないと言う例えの人もいるし、除雪機を買い町内の通路の除雪を考えてる者もいて、なかなか多彩なものです。 ザンブラコのゴムボートを貰ってきて、川掃除をしたことが去年ありましたが、そのことが話題で盛り上がり、今年もやろうとなりました。 済んでから、歯医者さんの駐車場で一杯やったのが楽しかったらしく、思い出を語っていました。奥さん方が家からそれぞれおかずを喜捨してくれ、チョットチョットが晩の11時までの大宴会になってしまったことがありましたっけ。 まあ、目立つ川のごみを掃除してたら、お互いの心のごみもいつかわ、きれいになるでしょう。 終わりよければ、よしで、バトンタッチしゅうりょう。
2013年01月15日
コメント(0)
里見忠義は、元和3年(1617)家老として赴任してきた伊木長門守にとって代わられた。 そこで下田中に移され、関金堀にさらに移転され終焉を見たことになっている。 その元和3年状況を想定してみよう。 まず伊木長門守の歳が6歳というのが譜におちない。 家老職とは、職種であれば家系でなく個人の能力が要求される。 しかし、実績から見て、わずか15年の間に偉大な功績を残しておられる。 池田藩祖たる、池田勝入斉の菩提寺を建立、長門土手建設、居住地名に伊木の名を享受し慕わるる。 のちに岡山に国替えになってから筆頭家老として、江戸参内の折、通行差し止めをさせられて、己の腕を引き換えにして、通行させよと交渉し通行した豪胆な人であるが、倉吉での若い時もそうだったのだろうか。 これが6歳の時に。それから21歳までが倉吉だが。伊木長門守の歳 最初の忠義との交点であるが、元和3年、6歳の長門守。 元和2年、その前年。忠義は山田八幡、北野天万満の社殿造営、 そして元和3年、浄土宗霊厳雄誉上人が忠義と面会にきている。 上人は、三朝穴鴨大雲寺、赤碕専称寺を開山するゆとりをもっている。 橋津の西蓮寺に、雄誉上人の弟子本誉春道上人が4年前に開山しているので面会もあったろう。 赤碕専称寺は、河本家2代助次郎が請願して開山したることが明らかである。 雄誉上人は館山から、わざわざ忠義に会いに、岡山の誕生寺参拝経由して来てる。この時流人扱いであったなら、家康、秀忠、家光と交流のあり智恩院32座主まで成る人だ、その行動がかわったであろう。 上人は赤碕からさらに旅を続けておられるようだ。 今で語る里見忠義の別の顔が見え隠れしてならない。
2013年01月07日
コメント(0)
4日となりました。 早いものです、早々風邪ぎみで、調整がとれず、今日になりました。 年齢の返上は、気分的にはできても体力的にはやはり駄目らしい。 上手に手なずけていかねばならぬと認識新たです。 箱根駅伝のように、次走者に最大の走りをして繋ぐかが大事のようです。 我が家の次期走者は、伊勢神宮参拝にいってますが、雪に悩んでることやも。 津波で残った1本松のレプリカを陸前高田で作ってるようです。 7万本の中でたった1本残っていたのが、枯れたとは残念なことです。 近くの大山池の松が2本色がおかしく、竹の灰をかけて元気を取り戻してやろうと旧年12月半ばに行ったら、もう手遅れの様相でした。 40数年の松が終わりを迎えようとしてるのはそれはとても悲しいことでした。 でも根元に30センチくらいの新しい1本の松の木が芽生えていました。 親木のすぐ横ですのでそのまま成長はできますまい。 暖かくなってから、移植して親木の意思を繋いでやらねばなりますまい。 新しい木のまわりに竹の灰をまいてきました。 今日の雪で又うずめられてるでしょう。
2013年01月04日
コメント(2)
全6件 (6件中 1-6件目)
1