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鳥取中部地震と全国に名を知ってもらった平成28年。 年改まり、ブルーのシート屋根を真っ白にする大雪の見舞い。 参った。参った。 軒先は危険。 前の歩道は、大雪原。 車は雪の中でニッチモ サッチモ。側まで行くのにさあ大変。お庭の植木も雪の中。天に雪が無くなったら、雪もやむだろうと家の中でふて寝。こんな天気も今日は、青空です。2,3日前が、噓のようです。地震でできた外壁のひびが、少し目立ってるような気がします。雪ズリの音、地震の余震、どっちだか分らん音ばかりで苦笑、苦笑。さて道の雪掻きしましょうか。
2017年01月26日
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まあ降った。降った。 よく降った。 昨日車の上の雪を測ったら38cmの雪。 緊急を思い除雪する。 これでいつでも出車OK. まだ、雪やまぬの今日。 車の上の新雪を測る。 26cmある。 よくふったもの。 でもまだふってる。 「年考えて雪退けしんさい!」 と炊事場の窓から、老妻の怒声。 駐車場の雪掻きすれどなかなか我車に達せない。 千菜館。裏の農協販売場の駐車場。 そこの貸し出し駐車場がここ。 朝早く、夜遅く、農家の出荷者が来てうるさい!。 信号無視のばあさん運転手。でも我慢、お隣さんだから。 その駐車場の除雪車雪掻きが、 自分の集荷場前ばかりで、貸してる駐車場前は知らぬ顔。 なんたることか。 腹たちどなるこの爺を怒るわが老妻。 怒って、言い合い、それで終わり。 ゆっくり夕食、今日の幸せ、湯割り焼酎。 お客玄関あり。 老妻応対にでる。 もう一杯。おっとっとっと。 ああ、今日もいい日。 世の中、平和。 どっこいしょ。門のとじまり外にでる。 積もった雪道、庭の中。 歩いたつもりが歩けない。 除いた雪に手をついて、ズット肩まで雪の中。 雪に交じって、意のままならぬ。 昨日、除雪機池内さんが自前で購入試運転。 歩道を除雪ありがたい。 後ろをスコップもってついていく。 通学道路に道できた。 ありがとう。 今日も28センチ降った雪。 前の歩道は、昨日の除雪で雪少な。 飛び出し、歩いて行ってみる。 千鳥、足取り、進めない。 酔っ払いの足取り。そのままズバリ。 これはいけない。ほうほうかえる。 千鳥あしどり意思では治らぬ。 体は別のフーラフラ。 晩酌、一杯過ぎたかな?。 雪が空から又降ってきた。 明日も雪か、なすがまま。 いっぱい機嫌で、明日は明日。 お休みなさい。
2017年01月24日
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年あけて、ブルーのシートがあちこちにまだ多く屋根にみえる鳥取中部地震のあとの光景です。 昨日からの寒波で、雪がふり、時おり行きずりの音が地震の余震と混同して苦笑さえおきます。 でも、今日はそんなことより、どんとしたうれしさがあります。 房総から400年前を偲んで、地震被害のお見舞いが北野の天満宮にきたことです。 ここ倉吉に、400年前、房総千葉より里見忠義公がお国替えでこられました。幕閣の闘争のとばっちりをこうむってのことだったらしいのですが、神坂に陣をはり、誤解が解けるのを待ち、北条の八幡宮や、北野の天神さまを建設なさり、住民との親交をなさっていました。 しかし、池田藩になると、お預けの身にされ、この地の関金で病気でなくなられました。滝沢馬琴により、200年のちに南総里見八犬伝のモデルになったといわれております。事実とは違うと作者はかたっていますが、今や混同されてしまっております。 そうそう、倉吉の忠義公菩提寺の大岳院から、終焉の地、関金の掘まで、毎年9月に里見行列を行っおります。これは、倉吉と関金が合併して倉吉市となったのを記念して行うようになったものです。 この祭りが10年め、忠義公が来倉されて400年目という年に、北野の天満宮に里見祭り武者行列の参拝をおこないました。神主さん、氏子さん歓迎してくれて、前日大掃除し、当日は、童子太鼓演奏をして賑やかでした。 昨年も続けました。 里見忠義公役の神社前での口上は、400年前の忠義公はかくありなんという光景でした。 そして10月21日の地震。 鳥居は倒れ、手水やは倒壊、灯篭はたおれ、社殿の土羽も無残な光景。まさに足の踏み場さえないありさまでした。 復旧に総代さんを中心に、神主さん、思案をかさねていられるところです。 房総里見の里から、お見舞いが届られたという報が、神主さんからききました。 400年のえにしが蘇るなによりの温かいこころざしです。 ありがとうございました。 きょうは、大雪警報がでています。 痛んだ屋根に重たいでしょう。 でも、がんばります。がんばりましょう。
2017年01月14日
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やって見せ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人はうごかじ 4年生の孫が、紺地に白字で書いた山本五十六語録のタオルを押し入れからさがしてきました。「これなに?」 爺さんが旅行で、昔かってきたものでしょう。 人を動かすときには、自分が率先して物事をせよ」ということで、相手がうまくできたら褒めてやることが大事だということです。 日本の海軍の連合艦隊司令長官だった人で、山本五十六元帥という人です。 私が5年生の時に、山本五十六司令長官が戦死されたとき、作文を書いて、国民みな悲痛な思いをしたことがあるので、4年生の孫に戦争体験を教えていました。 今も経営セミナーにいくと、この語録は引き合いによくだされます。 上杉鷹山の 「してみせて 言って聞かせて させてみる」 に褒めてやることの付加がすばらしいものです。褒める事は相手を認めてやることです。 後に孫も爺さんが、教えてくれたことを思い出しましょう。
2017年01月12日
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10月21日の鳥取中部地震で、恐怖におののきながら、車庫を提供していただいた中にシートを敷き毛布、寝具を持ち寄り、一列になって寝た仲間たちです。 余震が車庫の鉄骨を軋ませるたびに、物言わずとも不安をかくし、皆でいる安心感を味わいました。 小さなこどもたちも文句も言わず、眠っていますが、浅い眠りでそっと目をあけているのがよくわかります。これから先どうなるのか、神のみぞ知る展開でした。 わかもの3人は、ガス販売店に勤め経験のある長老に同行して、水道の検知版、ガスの検知をみてまわり安全確認をしてくれました。 あたたかな汁が、耐震設計の無事だったお隣の店舗の店長さんが、届けていただき、持ち寄ったおにぎりを頬張りました。 みんなのお家は屋根瓦が大小の被害と、家の中は戸棚の中のものが散乱しまさに足の踏み場もないというのが現実で炊事ばを使う気持ちにもならないのが現実でした。 今日の新年会に、店長さんを招待して、感謝の言葉をのべました。 いつもの新年会とちがって、談笑あり、懇談ありで、親密度が深いものを感じました。 大難が小難ですみ、小難が、みんなのむすびつきを深くしてくれて、これからの隣組活動をだいじにしようと話あったところです。
2017年01月10日
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三年前、伯耆倉吉に里見忠義公が、はるか房総の地からやって来て400年目だった。 今年は、池田光政公が姫路から因伯統治で、倉吉は家老伊木忠貞公が来られて治領なされて400年めの記念すべき年です。 頭首池田光政公が、9歳の幼少で姫路の要所を任せられぬ理由で、幕府から、42万石から32万石に減らされて国替えを強いられました。立派なのは、家臣を減らさずに同道し、減俸や半農までやりくりして主従が耐えてることです。 伯耆倉吉の家老伊木忠貞公は、こちらも先年5歳で父忠繁公を亡くし御年6歳のまだ元服前の三十郎となのる若武者?です。 倉吉には、房総から国替えで来られた里見忠義公が3年前に来られていましたが、幕閣の闘争いまだしもで、池田家にお預けの身に処され、下田中に左遷されたとされています。後、関金の掘になぜか移され、不遇の一生を29歳で終え、家臣8人も後追い果てたと語りつがれております。 昨年、思いもよらぬ大地震が鳥取中部を襲い、倉吉も多大の被害をうけ、ブルーシートは、赤瓦の代名詞を塗り替え新年を開けました。 400年前を偲ぶと何か今の状態が同じく感じられて、今の苦難復興に力を感じる気がします。1、由緒ある伊木家と偉大な業績 忠貞の祖父忠次が、織田信長の家臣であったのが、信長乳兄弟の池田恒興(勝入斎)が侍大将として独立する時、乞われて池田の臣となり、代々池田をまもり育てた家が伊木家です。 15年後に、今度は岡山の後継者光仲が年いまだで、重要の地は任せられずと、国替えとなり、鳥取池田が岡山に移住することになり、倉吉伊木忠貞も同道、虫明治領し岡山藩第一家老となり、後世に徳島藩稲田氏、仙台藩伊達氏と並び天下の3大家老とうたわれる大人物となりました。 倉吉にきての第一の業績が、池田家始創の池田勝入斎を祀る勝入寺の建立を打吹山麓にたて、洪水被害で荒れ果てていた倉吉の河川改修をしました。 災害の少ない街として安住していた今の私たちの倉吉、今度の震災で度肝をぬかれましたが、実は倉吉の過去は、天神川、小鴨川、甲府川と中国山地から急峻な流路の河川は、弁当忘すれても傘忘れるなの評のごとき雨多きところ。一旦降ったら、猛威をふるい被害甚大をうけました。 先人が、土手を築き、流路をうがち、治水に功をなしてくれた恩恵で治水安泰になったのです。 旧グンゼの地に「長門土手」という地名があります。伊木長門守忠貞公の名を残したものです。 河原町から大正町辺まで小鴨川の波濤を防ぐべく2重土手をつくったようですが、その名残で今は都市街となっています。 2、お国替え道中での偉大な業績 姫路から鳥取に国替えの指揮していた家老が、家臣から刺殺され、その家臣もその場で自害して事件が、正条川(揖保川)でありました。この事件は、幕府に知れると、池田家をも揺るがす大事件に発展したことでしょう。 正条の宿で急を知った伊木三十郎(忠貞)は、その夜、全家中に「池田出羽守様鳥取下国中正条の渡しで急死された」と触れ込み、出羽守家中には禁口令をだし、幕府にも届けを出し、継息由成に家督相続を願い出た。後日、真相をしった多くの家中が三十郎の処置に感心したとと伝える。(備前藩筆頭家老伊木氏と虫明 邑久町郷土史クラブ編) 3、偉大な忠臣ありて名主功挙 倉吉では、その後の荒尾治世が250年有余続き、最初の15年の伊木の業績も記録もなく、忠貞の年代も6歳の若さであったことは、意に介されなかったようです。 伊木半兵衛、小岸惣右衛門の偉大な忠臣があったらばこそ、栴檀は双葉にて芳しの三十郎、後の忠貞が出来上がってのでしょう。 4、豪快伊木長門守忠貞 主君の警護のため岡山から江戸に向かった忠貞が箱根の関所に差し掛かった時、「西国大名の人数は通行ならず」の布令が慶安の変に関連して出され足止めされました。 「将軍に対して二心ある者にあらず。御疑いなら、帰りまで、この腕をお預かり下され」と詰め寄ったので番人どもが恐れをなし門をひらいたとのことです。 岡山では「千力さま」とよばれ慕われたようです。
2017年01月05日
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本年もどうぞよろしくおねがいします。伊木長門守忠定公が、倉吉に着任されてちょうど400年をむかえます。家老と側近の方の幕府からの厳しい目を感じながら、前殿里見忠義公を大事に扱ったことが再認される年となりましょう。飛び立つ酉の年はりきって生きましょう。
2017年01月01日
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