PR
フリーページ
「若いのが、夜さ見舞いに来た、こんな事は初めてだ。」といって、みなにこの若いのに協力せよと言いはじめたんです。
坑内で人が足らぬ時は、ヘルメットを冠りサアやるぞといって、自分から進んで入ってくれるようになりました。
勿論、蝮の先山も一番先に言う事を聞くようになりました。
正直にもうせば、わたしが赴任した時、「現場を任せる」といって所長が私を放り出したのは、こんな現場の人間関係のいじめにあって、私が1週間で根を上げて辞めると言い出すだろうと予想しての事だったんです。
事業所が4箇所あって、他の3つの鉱山の所長は、大学出身の若手でした。
でも、みんな赤字採算でした。当事業所だけが、黒字で本社に送金していたんです。
海軍士官だったという所長には、若いもんに負けるかという意地があり、黒字出してるという自負も持っていました。
京都本社では、社の伝達も無視するワンマン性に困り、かといって唯一の黒字に文句もいえず、職員をもう一人つけて健全化しようと考えました。
新入社員の私にその役をさせようと、まだ就任間もない現場から、当事業所に転属させたわけでした。本社から部長が来ての依頼でした。前事業所の所長は、あそこに行ったら殺されるぞと反対してくれました。
でもなんだか面白いと思いまして、「1年だけ行かしてください」と条件つけて承諾しました。そして今の現場に転勤してきたんでした。
ここで大きなミスがありました。
4事業所会議が前にあって、その懇親会の酒宴の時、今の所長にむかって、「大きい人か、小さい人か分からない」とジョークのつもりで言ったのを忘れていました。
「大胆にして、且つ細心」は、豪傑の条件です。
所長はどこかこの条件に近いとその時思ったんです。ひげをのばし、精悍無比で、元潜水艦の下士官で、反面、小さな几帳面な文字をかく人だったかです。小さいが余計だったんです。
所長は、酒もタバコものまない人だったんです。
こちらが酒が醒めて忘却しても、もともと酒が醒めない人は覚えています。
本社の人事意向も分かっていました。
その結果が、「現場をまかせるからやってみな」だったんです。
私は信用されたと思いこみ期待にこたえようと必死でした。
雷管の種類が分からず、先山に聞いて、ど素人となめられ、ヘマをしましたが、切り羽にいっては、スコップ持ってトロッコの積み込みを手伝ったり、坑外のズリ捨て場を掻き落としたり、坑内の配管の継ぎ手、レールの部品の加工までしました。新品の長靴が2ヶ月もちませんでした。
酒の帳簿も、資材の坑木も2重の操作があるようでした。
ほかの現場はいまだ赤字で、黒字はここの事業所だけは変わりませんでした。
所長は現場に行かなくなったのでかえって経理操作が楽になりました。
一方、所長は、自分が扱いに困った荒男が坑内仕事までやっていると知り、態度が変わってきました。日曜にはジープに乗せて町へ繰り出し映画館に行き、食堂でご馳走までしてくれるようになりました。当地で育った三国連太郎が売り出した頃でした。
辞めさせる作戦を間違って、愛情と受け取ったため、ひょうたんから駒ならぬ信用を所長から受ける羽目になり、仕事も覚え、鉱山現場は楽になりました。
知らぬが仏がひょうたんから駒をだしました。26歳でした。
隣県にある事業所は規模が一番大きい鉱山で、3交替で掘削していました。
ここに総評から来て労働争議が起きかけました。
本社からの指令で所長は、ここに転勤となりました。
労働組合と一触即発の様相を鄭しました。
後々に又私も呼び寄せられる羽目になるわけですが。
所長が転勤になって、鉱夫経験豊かなK爺さんが相談役になり、現場の所長代理を新入りの私が受け持つことになりました。
そして明後日、本社から専務が事業所に来るとの知らせがあったその夜、事件はおきました。
ジープが5メートル下の川に転落しました。酔っ払い運転でした。
浦島太郎の気持ち 2024年01月26日
長崎原爆投下、77年前の昨日 2022年08月10日
小鴨元清の最後はどっちがホント ①ー2 2021年02月24日