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甲州武田家の軍師であった山本勘助が、戦乱に倦んで笏賀の山中に隠棲し、郷国浅間神社の祭神木花咲耶姫を華蔵権現として祀った。今も山本勘助の屋敷跡がある。
昭和43年町誌に記載された記事です。
天慶の乱に敗れた平将門は漸く逃れて中津の山中に落ち延びてきた。
これを追い討たんものと俵藤太藤原秀郷は、今の俵原の土地に入って、中津に潜んでいる平将門の様子をうかがった。
こうして中津と俵原に入った両雄はともに戦さに倦み果てていたので、申し合わせたように、武器を捨てて両地に土着してしまった。
将門の子孫が中津では、平、政門、平井の姓をなのり、俵原では藤太のことを、俵様、秀郷公と敬称をつけてよんで尊敬している。
秀郷様の墓は、なだらかな山の斜面にあり、付き添ってきた家来の5人衆、里田右衛門、左近平八、松田喜右衛門、藤原藤右衛門、茶坊主藤金丸の墓所も部落内に点在して手厚く祀られている。
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