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2009年08月24日
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カテゴリ: 越し方
 八犬伝がそのまま人格像に及び、里見忠義公は、房総安房の国からここ伯耆の国に移封になり、望郷の念やるせなく女々しく29の若さで夭折、忠臣は後追他界の無念の悲劇の結末となっています。

 哀れみ語り継がれていますが、雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)が鳥取伯耆の国に来て、里見忠義に面会したことを知り、真実は東国武将の別の顔がみえてきました。

 雄誉霊厳上人は、幕府の宗教対策にたずさわり徳川家康、秀忠、家光と個人的な親交もあったほどの浄土宗の高僧で、房総に忠義の父義康の帰依で大厳院を開山し忠義本人も慶長14年(1609)に霊厳上人に帰依し42石の朱印をあたえている関係です。

 慶長19年(1614)里見忠義が伯耆倉吉に転封されてきました。
 その翌年、元和元年(1615)雄誉霊厳上人は、伯耆穴鴨の大雲寺、同じ伯耆赤崎の専称寺を開山しています。その途中にある倉吉で忠義に面会をしています。
 なにが語られたか知る由もありませんが自信と歓喜の胸中は察せられます。

 主な年表をしるしますと、
 上人と面会翌年の元和2年(1616)里見忠義、山田八幡宮、北野天満宮の社殿造営を果しています。

 元和3年(1617)池田光政播磨国から因幡伯耆に転封されました。
  里見に代わり、家老伊木長門守が倉吉を治めました。
  特に天神、小鴨、国府の3河川氾濫多く、この治水に力しました。
  下田中の千人破戸堤防築営に里見忠義従事の為に下田中に転居しました。

 元和5年(1619)関金堀村へ移転します。
 元和8年(1622)堀村で病没。

 下田中の治水工事に従事してる証は、かつて大御堂廃寺の大工事を成した勝部族の産土神を祀った勝宿弥神社の所に、里見忠義は宿舎を与えられています。このことは地元民に愛されてるからであります。

 治水土手に残る石の灯篭(水路を通る船に灯りを灯したというものですが)にしても、三朝奥の高橋流紋岩の奇石を使うなど熱のいれかたが違う地元愛が感じられます。
 決して流人の扱いではなかったと思われます。

 「播磨は中国の要地なれば、領主幼少にては叶うべからず。依って因幡、伯耆に転ぜられしものなり。」


 長門は猫の手も借りたい時、里見忠義を流人としてより、同じ運命の士として扱い下田中の天神川護岸工事の手助けを依頼しました。

 好意ある扱いの証拠に、堤防工事の次の転居地が関金の堀地区です。
 要害山に草幾山城があり、三浦景元が南条に滅ぼされたのは、大河原、山口、今西と産鉄の本拠地の取り合いがあった富裕の所で、この地を管理する事を依頼したものでしょう。

 房総半島の砂鉄は有名でたたら浜まである如く、浜砂鉄の扱いは心得ていたので、堀隣の明高鉄山へ示唆して、由良浜砂鉄が持ち込まれるようになったのではないでしょうか。

 病の為半ばで目的成就はしませんでしたが、決して辺鄙な山奥に送り込まれたものではないでしょう。

 伯耆8年の月日は決して長くはありませんでしたが、東国武将が果した存念は悔いのない充実を味わったものと思います。

 房総からは西国ですが伯耆は最果ての国ではありません。
 かっては、くらしよいということで付けた名前が倉吉です。

 里見忠義公は充実してお眠りです。






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最終更新日  2009年08月24日 20時04分48秒
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