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2017年06月09日
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カテゴリ: 越し方
池田光政の正室、勝子は、本多忠刻と千姫の娘で徳川将軍秀忠の孫娘になります。

 千姫といったら、豊臣秀頼のお方で有名ですが、其の後、本多忠刻の正室になり、奇しくも、年幼にして統治困難との理由で、鳥取に配されし池田光政がいた播州姫路に入城していました。

 元和9年(1623)光政15歳の時に、将軍家光より、「殿上元服の儀」で加冠従4位下侍従に任じられ、家光の一字を賜って光政となりました。この時、勝子を秀忠の養女として光政の正室にとの話がありました。経緯から、この話は天下り的命令だったようです。

 光政の祖父、輝政が家康の2女富子を正室にして、徳川の縁戚となる婚姻政策をうけいれました。
 この時、光政の父利隆が生まれており、新たに富子との子、忠継、忠雄の兄弟が生まれました。池田家に徳川家の血筋と受けない者との対立が起きたといいます。

 鳥取の僻地に左遷したものの、光政の外様の将来が危惧となり、以前行った婚姻政策で懐柔策を計画したのが、勝子との縁談でした。
 徳川の身内を姫路に抜擢し、僻地鳥取に左遷された光政の心中いかばかりか。
 田舎大名には勿体ない、財政不如意などと断わりました。しかし、強制的に事がすすめられていきました。


 光政の婚儀の態度は、冷ややかで捨てばちの態度、新婚生活はいたって冷たく、温かく寝室に迎えることはありませんでした。
 1年の江戸の参勤生活を終えるとさっさと鳥取にかえり、国からは音信もほとんどなかったといいます。

 寛永8年、光政23歳の時、江戸にきてから、急に疱瘡にかかり、高熱にうかされて生死をさまよう重体になりました。
 その時、家老・家臣たちは、将軍の血をひく正室勝子への感染を恐れ、看病をお断りして、光政の身辺から極力遠ざけようとしました。

 「なぜ、正妻のわたしが看病してはならないのですか」
 勝子は家臣を叱りつけ、他の者の看病を断り、昼夜を分かたず、寝ずの看病に専心しました。とにかく、他人にはできない、かいがいしい看病でした。

 光政の疱瘡は、この勝子の献身的な看病で峠を越し一日一日と目に見えて平癒していきました。





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最終更新日  2017年06月13日 14時31分32秒
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