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2019年05月20日
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カテゴリ: 伯耆の里見忠義
里見忠義の寿命がもう少し有ったら、又別の好転の歴史があったかも。
国替えで来た里見衆、従来ともすれば、里見氏の伯耆国替え自体を「配流」としてとらえると、里見家の落日の過程として悲観的に判断されて、たまゆらの主従「あわれ」となってしまいます。
 少ない記録からみても、大岳院への寄進、東郷八幡宮寄進、翌年2月の北条郷八幡宮の再建、同年9月の北野村天満宮の再建などをみると、倉吉を中心とする久米郡・河村郡支配がかなり意欲的であったことが伺えます。
 それが元和3年6月に姫路城主池田光政が因幡・伯耆2国の鳥取城主になり、その家臣伊木氏が倉吉にはいると里見氏は、所領を没収下田中に移されることになりました。

相憐れむ同類の池田と里見

 治者からお預けの身となった里見忠義、下田中・堀へと移されて、忠義の病死で終焉をむかえたことに帰結されています。
 でも池田家も外様扱いで姫路城を追われ、減石の上、配置転換の仕打ちされた幕府に、深い憤りを抱いていましたので、相似た運命の里見一行を、無碍に取り扱いはしませんでした。
 倉吉を治めた伊木家は、家老の忠貞は6歳で、先年播州で父忠繁を亡くしたばかりでした。
 伊木半兵衛正春の後見あったらばこそ、着任早々で、倉吉の河川の整備をし、勝入寺をたてて池田の祖を祀りました。
 里見の記録も伊木の記録も倉吉では発給文書が少々ある位で、ほとんど他にありません。


伊木半兵衛・小岸在信の存在

 伊木半兵衛は、播州三木城を受け持った初代伊木忠次の弟の子で、三木城の補修、先君を祀る勝入寺の建設、2代忠繁の姫路城大改修時”普請奉行”の補佐を受け持っており、小岸在信は忠次が、敵将の子を預かり育てた者で、倉吉では力量の士になっていたと思われます。ほかに斉藤氏の家臣だった高原、各務2臣もいたようです。(虫明け記禄逆算)
 このような力量の家臣団の存在があれば、堤防の構築、お寺の建設などわけなくできたでしょう。




 返々昨四日川村郡より馬五匹参候、候、其外ハ不参候、依之河村郡御奉行昨日以書
状申入候、度々他行故御報無之候、為御心得申入候、以上、
一昨日者乍御報具申入候、馬之儀、信州様へ御相談被成候哉、無御心元奉存候、
一昨書付以委細ニ如申入、安房守事、来八日ニ可被罷稼候間、六日八日両日ニ
馬、人足被仰付可被下候、従其元御積之馬数にてハ何□不罷成候間、御六ケ布可
有之候覧、切々申達候、可然様ニ奉頼入候、恐縮謹言、
八月五日                 板倉左衛門佐
                         康常
                     祭主新左衛門

多賀長太夫様
  人々御中

下田中で里見一行は、馬、人足を提供うけて罷稼したもようです。
用兵の妙にたけた半兵衛の里見一統の竹田川筋の堤防工事の起用があったことと推察します。

堀村での病死は早すぎた
倉吉にきて、8年目に病死した里見忠義ですが、城主の池田光政が元服するのは翌年、預かりの伊木忠貞の元服は4年後で、まだ幼い為政者の時で充分な対応ができない時でした。





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最終更新日  2019年05月20日 16時28分23秒
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