日本人が、列島で領土宣言したのは西暦の紀元後700年頃。
率いていた天武帝が、身内を殺して政権を担って後、何年もかけてそれを書かせたのが、宣言書の日本書紀。
書いたのは唐人の学者たちだと、これは判明している。
当時すでに帰化して日本人になってた連中が書いた。
唐からの使者なるものは何度もきてるし。
特に最後に2千人もの大軍が、天の王朝つまり大和政権に参加していたことすらわかっている。
率いていたのは、のちに藤原氏となる。
郭務ソウという男かもしれんし、実は別人かもしれんもう一人の名も挙がっている。
彼らは空白だった中臣氏の利権を独占した。
彼ら唐人は、白村江の戦いのずっとあとで、百済人入植者を大勢載せてやってきた、唐の駐屯軍が独自組織した連中の一部なのだ。
唐の本国ではない。
百済の跡地に、それも新羅との談合でできた唐の権力機構。
使者なるものは、この時期、大軍で何度も来てる。
いずれも大量の贈り物もらってホクホク顔で帰ったりしているが。
実は、唐本国の政権が送り込んだのかどうかは、怪しいのである。
百済にできて、新羅とも交渉やってた連中だ。
多分、唐政権よりは列島側の待遇が、ずっとよかったと思う。
山科にある天智帝の墳墓も確認し、そこには誰も入っていないことも知っていたが、気にせずに帰った?
その記載が、唐の後の時代の文書にあるらしいので、確かに一部は唐本国に帰り着いてたのかもという程度。
文書類は、唐以降の政権が書いたやつだ。
彼らは日本についてはあんまり知識もないし、いきさつをすべて知ってはいなかったようだとされる。
というのがことごとく、ウソの現地工作なのだとしたら?。
唐人たちはしっかりと情勢をすべて掴み、列島に余裕をもって利権確保したのであるとしたら?。
日本と倭国の違い、日本人と倭人の違いをも、しっかり確認できていた彼らである。
「日本は倭の異種であって、別の小国」なんだと、ハッキリ彼らは知っていた。
天智帝が行方不明と言われても、その理由をちゃんと知っていたので気にしてない。
今日の日本の教科書は未だ、それをまともに、知らんのである。
新羅はこの時期、唐の力を上手に利用して強大化した。
現代韓国とは何の関係もない。
ペルシャ系秦人の作ったシロという国がモトで、しかも王族の血筋にすでに倭人の血が入っている。
現代日本で言うならハタ、あるいはハダ氏一門の故国だ。
そういえば、おいらの通ってた小学校はハダ小学校で。
おいらの一門は、マイナーな桓武平氏。
勢いに乗る新羅源花の伝統を持つ武士との無意味な戦闘を避け、自分の命を守るためにも、新しくできる日本に利権確保した方が賢い、と考えた唐の下級将校たちがいても、おかしくはない。
この唐の連中も、漢民族ではないのである。
シウシン族という、倭人(北倭)の連中。
列島に来た彼らは、半島や列島の諸情勢をほとんど把握していた臭いのである。
但し、斉明帝については、その事情をすべて掴んでいたかどうかは怪しいとは思うが。 少なくとも次の天智帝については、すでに熟知していた。
本国にはたぶん、ウソの報告ばかりしてたに違いない。
663年とされる白村江の戦いの前後から、唐側の情報の扱いも日本側のそれと同様、かなり怪しいのである。
というか、旧唐書などの文献は、後の時代に書かれたもので白村江の戦いの記述があるわけではない。
というか、そないなもん、ない。
唐軍の主力は対高句麗戦闘にかかりっきりで、白村江の戦いの時、すでに現地にはいなかったんだし。
現地に、筑紫倭軍の精兵5千を倒せるほどの唐軍がいたはずは、ないのである。
裏話では劉仁軌という提督が活躍したことになっているが、じつは彼は元将軍であって。
当時は遼国相手に輜重部隊400隻を失ったチョンボで、唐中央から降格されて一兵卒となっていたはず。
この話自体が実は怪しい豪傑物語なんだが。
遼国は何百年も未来の話。
しかし筑紫が倭人軍5千を送り込んだのは、どうやら事実だ。
百済王子の指揮する筑紫軍は、軍人ばかりで編成された5千余名。
大和防人の、農民使った日本軍のような、数合わせではないのである。
この5千の精兵がしかし、唐軍輜重部隊8千の前に消えたという。
白村江の戦い自体が、ぜんぜん不審な話なのである。
筑紫に長く人質暮らしだった百済国の王子が、倭国軍を率いる総大将だった。
唐軍に落とされた百済の首都を復興すべく、大和にいる斉明帝の事前承認を得たうえで、半島に攻め込んでいたはず。
それが、白村江の戦いとされる百済復興を狙った戦争だ、というのだが。
この戦争のことごとくが、実はすこぶる怪しいのである。
(怪しさ、その1)
まず総大将の百済王子が、しょっぱなにやってのけた事実が怪しい。
復興軍を立ち上げてた百済人義兵の指揮官連中と先に接触したのは、当然じゃろ。
ところが、その指揮官連中を全員捕縛して、自ら、ぶった切りにしたこと。
せっかくできてた百済復興軍をも、全部解散させているのである。
百済王子がやってのけた諸行としては、ぜんぜん、おかしい。
その後も、勝気に逸る自軍将兵を諫めもせず。
自分は陸に上がり。
外洋向けの部隊編成で、唐軍の、倭国軍よりもっと大きい輜重部隊の大集団に、配下を突っ込ませて。
イケイケイケー?。
しかも負けたというのだ。
何倍もいる戦上手の中国軍相手に、数分の1の兵力で戦術的には勝ち続けてきたのが伝統の日本軍。
それが、この時代は輜重兵ごときに敗れたというのだ。
(怪しさ、その2)
相手側の唐軍指揮官に実は、地域の軍団指揮官すら参加していないのである。
しかもこれらは輜重部隊なのである。
要するに、「後方専門の補給屋さんばかり」の部隊。
毛沢東の共産軍が、日本軍輜重兵相手にゲリラ戦展開してたような、その後方部隊。
これと戦って、5千もの最精鋭軍が一気に全滅して。
王子は高句麗に逃げた。
へんだろ?
へんだと思わないのが、もっとへんだ。
その後、日本側で尾ひれがついて敗北艦船も水増しされて、400隻失ったという事になってる。
小型船は渡れない危険な海を、ちゃんと渡河してきているので、5千だと50隻くらいのはず。
400隻喪失て、唐軍の輜重部隊の紛失話じゃないの?
何度も言うが唐軍の主力戦闘部隊は対高句麗戦闘に従事中であって。
首都近郊には交代要員がいたかもしれん程度だが。
首都に居た地区の司令官も、補給部隊の指揮官も、戦闘には参加してないのである。
護衛用の、沿岸戦闘用ガレー船部隊くらいはいたのかもしれんのでこれが活躍したのかも。
あとは、物資補給用の大型輸送船ばかりで、脆弱な船。
8千といっても、軍隊とは名ばかりの輸送兵たち。
筑紫倭軍はもちろん、兵員派遣用の、完璧な戦闘用外洋船で。
これも海戦用じゃないかもしれんが揚陸艦。
しかも兵は精兵ばかり。
唐軍側は輜重兵ばかり。
しかしどっちも、海戦やれるような船じゃないのである。
(怪しさ、その3)
倭軍は全滅というんだから、唐軍にも当然、かなりの損害は出たはずなんだが。
ぜんぜん大騒ぎしていない、のである。
記述なし?。
倭に勝った勝った、とも騒いでないし、負けた話も一切ない?。
遼国相手に輜重部隊400隻を失った話はある。
だが、時代がぜんぜん違う。
遼は950年頃の国。
それどころか、「勝利者の指揮官に恩賞すら出てない」?。
ほんまに唐軍が勝ってたとしたら、こんなんでは、ご奉公に嫌気がさすはず。
5千もの賊軍を、それも倭人(海軍)の精兵を壊滅させたんでっせ?
実は後世に、劉仁軌伝という「英雄列伝」があって。
これに「倭軍と戦って輸送船400隻を焼いてしまったという記載がある」?だけ。
いや、勝ったんじゃなくて唐軍が負けたんでしょ。
劉仁軌責任取らされて左遷されてる。
しかもここには倭とは書いてなくて、遼国と書いてある。
実は劉仁軌は提督ではない高級官僚で、これで失脚した男だとわかっているのだ。
負け戦じゃん??。
それに時代が違う?。
戦争も別の国での、後の時代の話で、しかもこの戦争で劉仁軌は失脚し、ホンマに当時の話でその辺に生きて居たとしても、負けて一兵卒に落とされていたはずで。
「英雄列伝」というからには、さぞかつやくしたんだろうと思うが、褒美も一切出てない。
遼国は、のちの契丹である。
(怪しさ、その4)
ずっと後日の国内での話だが。
倭軍側は、その戦いの後、全滅、全滅、敗北、大損害と、鳴り物入りで、亡命百済人乗っけて帰ってきた。
じつは、その前段があるのである。
後詰の日本軍が、これも前線から、負けた、負けた、総大将失った、と大騒ぎしながらこれは筑紫ではなく大和へ帰ってきて。
これが実はずっと先の白村江話の前段。
その後、筑紫の出した大軍団も殲滅されたと伝って少数が帰って来た。
実は筑紫では、対唐軍戦用に防塁つくったり、水城つくったりと、おおわらわの総動員体制になっていた。
そのあとはちゃんと今でも残っているほどなので、当時の列島側の「敗戦認識」は、間違いのない本物なのである。
後詰出兵のこれは、筑紫倭軍ではなく、大和本国の日本軍だった。
これが10万余の出兵だった、とされている本隊だ。
但しこっちは、一般民衆からも動員の、総数数合わせの類だ。
しかも出兵先が、かなりというか、ぜんぜん怪しいんである。
「朝倉の宮」と、されている地への出兵だった。
百済戦役だから北九州だろうというのは、実は推測であるにすぎんのであって。
九州現地には、その名の要塞は、未だに見つかっていない。
(怪しさ、その5)
筑紫の倭人政権は、斉明帝直属の日本軍に、ほぼ全面の信頼を寄せていたようだ。
これは間違いなさそうである。
後詰をむしろ要請したほうで、5千の兵を出して国が、がらあきとなるので、出兵の連絡を喜んでいた風情がある。
後詰役の斉明帝は、伊予の温泉場で風見の日待ちのあと、朝倉の宮に入る。
これがなんと「要塞地帯」だというのだ。
湯治ではなくて本格的な「合戦準備」なのである。
何度も言うが、北九州には、朝倉という要塞地帯などはない。
要塞地帯朝倉があるのは、四国の土佐なのだ。
斉明帝は配下の直属日本軍を総動員し、さらに過去に倒し手名付けた物部氏の軍まで総動員していた。
総数10万。
どうやら狙いは、日向攻めの様相なのである。
中国が動き出して後、白村江の戦いの、かなり前の話。
日向には、日本人の反乱軍がいたようなのだ。
但し、文書に残る反乱時期が、この時期とは、「ぜんぜん違う」のである。
斉明帝のご乱心なのだろうか?
それともわざと間違えた記述にした?
この時期の記述は怪しさいっぱい。
事実、天の王朝配下の、各地の艦艇が足しげく、斉明帝の真意を質しに訪れた、とある。
記述者を先頭に、みんな同じく、???だったのだ。
中には「新羅の提督」すら、あたふたと訪問して来ている、のである。
これも事情真相を知らなければ、???のはず。
新羅って、敵だろう?と思うはず。
敵じゃないのだ。
それも征服して手名付けたんじゃない。
そんな中、半島に派遣した筑紫軍の全滅が伝えられる、その前に事は起こった。
白村江敗戦時期の2年前、661年に、斉明帝が朝倉の宮で、原因不明の「突然の崩御」。
これには列島の全員が、びっくらこいた。
もういい年のはずだが、病死の兆候などは一切なかったからだ。
要塞の山の背後で、怪しい鬼火が空中に観測されたり、へんな兆候はあったんだが。
つまり、UFOが目撃されたりはしてた。
斉明の死後、日本軍は一斉に戦陣をたたんで、なぜか鳴り物入りで大和への総退却。
田んぼの荒れ具合も気になるし。
敵が攻めて来たわけではない。
日向は無事に押さえ込んだようだったのだが、総大将失って大敗北。
しかし実は、白村江の戦いの2年前に、すでに倭国政権の敗北が決まってたのかも?
じつは「倭国政権」なんてそんなもん、架空の話なのだ。
斉明帝とともに難波津に上陸し大和に入ったのは、吉備や淡路や徳島からの日本軍で、筑紫も含まれていたかもしれんのだが、そもそも倭国政権じゃない。
金管加羅や田村、筑紫の倭人軍艦艇が、彼ら日本軍の主力をずっと護衛し。
明日香板葺きの宮に新政権ができてて。
「天の王朝は倭国だ、という認識」だったにすぎない。
本当は「新羅軍」だったのだが、それは誰にも見えてない。
秦人は、ただの一人も参加していないからだ。
いや、「王族は全員が秦人」だったのだが。
そして兵士たちは、その全員が、任那日本府の「日本人」だった。
(怪しさ、その6)
この、斉明帝を失ったことによる日本軍敗北宣言の後の、中央での出来ごと。
これが、最も不審なのだ。
先帝の崩御で、新しい皇太子が即位し立った、のは当然だと思うのだが。
立った天皇が行方不明で?、どこにもいない?。
本当に列島のどこにも居なかったんである。
兵士たちには、従軍中、とのみ伝えられ。
遠征先からなんと、漢字で官報が来た。
ここで「旧体制である倭国の滅んだこと」、そして「日本国の再建国」が宣言されたのである。
新建国ではなく、正しくは再建国。
倭人相互の「辰王」体制から、日本の「天皇中心」への体制変更が宣言された。
辰王自らの手で。
それも、天の王朝政権の中枢であるべきはずの明日香へ、天智帝の息子がいる大津から命令が来て。
庚午年籍完成の直後であるそうだ。
中途半端な高官が出向いて会おうとすると。
「天智天皇は山中で行方不明となりました」。
大海の皇子は、諸般の事情がそこそこわかっているし、天智帝本人の居場所も知っている。
なので、あえて逆らわなかった。
一門の大叔父扱いの天智帝が、実の親父ではないことも知っていたし。
大津にいる大友の皇子という二人目の幼い人質が、天智帝の実の子であることは知っている。
隠忍自重の時だったので、おとなしく隠居。
主のいないままに、天智帝が立って日本国成立が宣言されたのが、白村江役のずっとのちの、668年一月になってのこと。
これも変なのだ。
661斉明没なので、天皇を失ってから、じつに7年もの空白があるのである。
斉明帝の死を伝えられても、皇太子役の大兄の天智帝は、すぐには動かなかったのだ。
戦いの前線にいたし、たぶん、信じていなかった。
前例があるからだ。
白村江全滅は663年なので、この敗戦も、支配者不在の間の出来事となる。
明日香で、板葺きの宮を立てた大海の皇子こと金多遂が、事情のすべて理解できずオロオロしている間に。
政権はいつのまにか、大友の皇子がいる大津京へと遷都された。
じつは、これらの前後関係がことごとく、不鮮明なのだ。
要は、百済寄りだった倭国政権が、諸般の事情により瓦解し、唐寄りの日本国となったんだ、とされる。
しかし瓦解同然の状況に陥ったのは、大軍を出し、それを失った筑紫勢力だけであるはず。
明日香の中央では、政権の中心となっていた「斉明帝が死んだだけ」、なのである。
周辺国も、列島ではなんら騒乱はないし、日向は平定された。
新羅では、やはりずっとのちになって金春秋が王位を継いだ。
しかし総指揮に後詰で出てた斉明帝も死んだことだし。
負けた、負けた、と大騒ぎしてたんはホンマのことらしい。
大騒ぎして倭国体制が滅んだ、とされるんやが。
日本側の実損は、総大将の斉明帝が死んだだけである。
大和政権の日本軍兵士の損失はなし。
なんかへんだろ?
筑紫政権の中央関与が減ったのは間違いないだろうが、どこかおかしい。
おかしいと思わないほうがおかしい。
捕虜になったという連中の一部は、のちに唐側の船で帰国しているのである。
なので戦闘があったのは事実だろうし、「倭軍の敗北」も、あるいは事実かもしれん。 だが、勝利者唐軍側の、その後の動きがどうも、へんなのだ。
へんなことは続く。
(怪しさ、その7)
最初に唐海軍の偵察部隊が、百済人を大勢乗っけて、やって来た。
百済を滅ぼし、倭国の大軍を殲滅したあとなのに、「もと敵兵」をも大勢のっけてきて。
しかも堂々と筑紫ではなく、艦隊は難波津くんだりまでやって来た。
そして飛鳥へではなく、大津京までやってきて。
まるで大和、天の王朝政権が唐軍寄りとなったのを知っているかのように。
知ってたのである。
平和裏に中央官庁までやってきたその連中は、大歓迎を受ける。
大量の贈り物をもらって、ホクホク顔で帰る。
当然次回は、さらにさらに大量の百済人を乗っけてくる。
列島に次々と、唐海軍は大々的に、何度もやってきていたようだ。
飢えた百済人の実に多くが、唐軍の、この列島への渡海大作戦で、命を救われたのである。
おいらの先祖も、たぶん唐人の、この大作戦で命を繋いだ。
じつは、白村江の唐軍側の稀に見る大戦果は、その全貌が本国に報告されていない可能性が高いのだ。
それどころか大量の糧秣、艦船を失ったために、その指揮官官僚は左遷された。
当然、列島への大量の亡命者輸送なども、百済人の救済なども、一切報告されていないだろう。
それが証拠に、褒章を得た大将軍などは、いなくて。
白村江の立役者は、左遷されたんかもしれん。
敗北の筑紫倭国軍将ホウショウも、その後高句麗へ亡命、なんちゃって。
彼らは実は、百済人を救った「英雄たち」かもしれんのである。
筑紫勢力が勢力弱めたので、政権が変わった?
倭国中央の政権交代があった?
いいや、筑紫が絶対の信頼を寄せていたのは、最初から倭国軍ではなかったのだ。
倭国の王権ともいえる辰王権は、すでに、新羅が握っていた。
筑紫もそれは知っていたはず。
斉明帝の率いる大和の日本軍は倭の仲間だし。
その日本軍が、事実上の大和政権で、列島の最大勢力であることは、筑紫勢力も認識してたことである。
5千の倭国軍はそもそも、「斉明帝の指示で、架空の倭国軍として」派遣されただけなのである。
最初から、百済人救済の目的で派遣された可能性がある。
百済復興というのは、主戦派を納得させるための口実では?
つまり大和にある倭国政権は、筑紫国も認めてたわけなので。
実は国内でも大動乱があったのだろうが?、その形跡が一切ない?
ことごとく胡麻化されてるのだろうか?
半島でも、なんか、ぜんぜん、といっていいほど、この時期の出来事はおかしいのである。
鬼が笑う、鬼がいぶかって覗く。
名のある現地の唐軍駐屯軍将軍が、「対倭人戦争などには参加していない」。
これは事実である。
突発事変なので、ちろんだろう?。
それどころか、唐側では、「白村江では、百済の残党掃討戦以外の戦争」を、やってないのかもしれん、のである。
筑紫倭軍の精兵喪失は、百済復興軍との、主導権争い戦闘で失われた可能性が高い。
指揮官連中を全部切り殺して、兵を解散させたのがその証拠。
そもそも倭人国百済は唐によって滅亡させられたのだから。
「唐が倭人相手に戦争するはずはない」のである。
唐軍も、その実態は倭人軍。
同じシウシン族の軍だからだ。
つまり白村江の戦いは、百済軍解散のさいに生じた大紛争のゴタゴタを、唐側で現地運営に利用しただけ、かもしれんわけなのである。
百済王子は、「新羅側の軍として出兵した」可能性が高いのだ。
その形跡も十分あるんだが、この真相は闇。
白村江という大河川での戦闘は、唐側は。
輜重部隊の「下級指揮官が参加しただけ」の小規模のもの、という認識であったようだ。
とてもじゃないが、5千もの、敵の「本格的な精兵」と戦った認識などは、ない。
そもそも大戦勝したはずの中国側に、ロクに戦勝記述らしきものがないからだし。
しかし、やはり400隻の輜重部隊を失ったという、「のちの時代の記述」が引っかかる。
異国の倭軍精兵相手に、勝った、勝った、と大騒ぎしてもおかしくないほどの、すごい完勝で。
負けた方が完敗だ、全滅だ、と認めてるのに。
勝った側が、ぜんぜん認めていない、へんなのが白村江の戦い。
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