2025年02月27日
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 百済勢力に攻められ、奈良は落とされて。
 新羅の秦人は、名古屋方面に逃げた。
 そこへ最後に日本勢力が殴りこんで乗ったんだと思う。

 新羅は秦人、つまり秦氏の国である。
 これはハッキリしている。
 秦帝国の末裔だとペルシャ系の種族なんだと、もっとはっきり言う人も多くなってきた。

 古くはマンダ(メディア)と呼ばれ、人道の敵アッシリアを破壊した栄光の種族だ。
 新羅の遺物にも実際に、パルサワのものが多く出土する。
 秦帝国の出先機関があった地域がシロ国なのだ。

 辰王は、このパルサワの血筋によって、秦時代に帝国内部で主導権を奪われ。
 軍旗持って逃げた苦い過去がある。
 そのために、早い時期に秦から逃れ出られたグループなのであるとも言える。

 いわば、秦の中核を起こしたグレコ・バクトリアのデオドトスの一門で、彼らが東国遠征軍の中心にいたはずだったんだが。
 始皇帝の秦の時代には、違っていたのだ。
 秦いつしか、パルサワ系の傍系支配となっていたのである。

 そのため、中国の王として立った始皇帝が翡翠の円盤を流しても、天は秦の王権を認めなかった。


 ところで、奈良の明日香にはある時期、出雲系と合体した百済系の政権があった、というのが有力だ。
 秦ゆかりの、斉の導師であった徐福の一門かもしれないし、違うかもしれん。
 但し、彼らはすべて、日本ではないのである。

 当時列島にいたのは、倭人系や縄文系の、列島界隈の諸種族ではあるんだが。
 後に天の王朝の日本に吸収されていったぜんぶ国つ神の勢力だった、と思うわけだ。
 天皇制とともにやってきた日本は別物で。
 最後発の、侵略者グループの一員だ、と考えるわけだ。

 倭人と日本人は近縁種だが。
 もともと異種なのだ、という中国の図書の方を、推すわけである。

 百済も、唐のシウシン族も、列島の西部に多くいた連中も、等しく倭人である。
 この、倭人と言う「常識」を、まずみんなが変えるべきなんであると思う。
 倭人は「海軍」を意味するが、そもそも、小さな列島界隈の小種族なんぞではないのだ。
 列島人だ、というこの常識が、認識を曇らせて、誤らせる。

 倭人は、今日のおいらたちが想像もできないほど「超巨大」な、それも海洋民族。
 魚を食う、巨大な海洋発の種族。
 太平洋を、いや世界の海を又にかけた、「大航海民族」なのだ。

 大イスラエルなどは、その巨大種族の「ごくごく微細な一部」だ、とみなせるわけだ。
 後の、ローマ帝国以降のユダヤ人などとは、血筋においては何の関係もないので間違わんように。

 ポルトガルやスペインが新大陸発見する前から、彼ら倭人は世界中を大航海してた。
 最近になって、北欧の種族や、邪神ヤマトを戴くケルト民族や、地中海の海の民との関係が見直されたりしているが。
 地中海のカルタゴは明白に倭人だったし。
 のみならず海の民は、ぜんぶ怪しい、というか、等しく、世界に散った倭人であると感がえる。

 後の大航海時代を担ったそのポルト(港)、ガル(大きい)すらも、じつはシュメール語起源なのだ。
 日本も、同じシュメール系であるのは同じなんだが。
 若干道筋が違うようなのである。

 日本は、アラタマの軍旗を守る「小さな中核軍事種族」であって。
 極東でも、最初から小さな「騎馬民族」だった。
 倭人系ではないのである。

 高句麗に集まってたのは、盗賊集団類似の騎馬民族だ。
 ちゃちな盗賊はやらないで。
 国を乗っ取るんだが、乗っ取っても、誰かさんのように腐らすんではない。
 繁栄させる。

 しかし飢餓将軍のもたらす戦乱は、常に、この逆をやっていたのだ。

 高句麗にもシウシン族(海人)は多くいたので、間違うが。
 700年以前の「極東大戦争」も、飢餓将軍の起こした「倭の大乱」の一部だったのだとオイラは考える。
 白村江の役は、その倭の大乱の些細な些細な一部なのである。
 日本はその煽りをもろにくらって、食料の足らん百済に襲われ、滅びかかっていた。

 但し、滅びなかった。
 白村江の戦いのあった直前に、天の王朝として列島界隈に突然大挙して出現し、明日香を占拠し、「板葺きの宮を立てた」のが、この「小国日本」だからだ。
 この時代、一段と小さな種族に堕ちてはいたが。
 滅びなかった。

 新羅という強大な背景国があって、その陣営に、やむおえず臣従していたから助かったのだ。
 当時10万の日本軍は、日本府を失ってもなお、健在だった。
 これはたぶん、赤んぼ老人まで全員皆兵にした数。

 日本は倭の異種である。
 船には渡海以外には乗らない。
 陸路を半島南部へとやって来た騎馬民族。

 百済などは、「馬有れど乗らず」というように、高句麗系の王族が載ってはいるが海軍である。
 それに対し、日本は、なんといっても陸軍国なのだ。

 海軍は倭国のほう。
 倭は巨大なので、有事には単一の艦隊ではなく連合の大艦隊を編成する。
 しかし飢餓将軍配下の奴隷は、滅亡への軍なので、バラバラだ。

 日本が倭と異種で、列島の「最後の支配者となった」れっきとした証拠がある。
 明日香で、古い時代の庭園遺構が見つかっているためわかるのだ。

 最古層に「新羅式庭園の、州浜や噴水遺構を持つ痕跡」があり。
 それが「方形のプールを持つ百済式庭園」に作り替えられ。
 最後に、「須彌山壇を持つ日本式庭園」が乗った、そのことがわかっている。

 その明日香の日本は、新羅を従えていた、というのが通説だが。
 実は半島に居るときは、新羅には臣従していたのである。
 その経過は、かなり解ってきている。
 なぜ、その関係が入れ替わったのか。

 それを説明してくれる高貴な人物が、ちゃんといるのだ。
 但し、少々宇宙人臭いのだが。
 「伽耶姫」がいる。
 別名「家具屋姫」とも、「宝姫」とも呼ぶ。

 列島での再建国時の700年頃に、日本は新羅を従えていた。
 いや唐人すらも従えてた。
 それは事実である。
 ずっと伽耶姫が従えてたから、配置関係が変わっただけなのだ。


 列島支配者である金多遂の兄が、新羅王。
 なので、多遂には、兄を従えるその意識はなかっただろう。
 だが兄の新羅の方が、もとは皇極天皇の支配国だったとしたら?。

 皇極帝は、冥府で天の王朝というのを仕立て、皇極帝となった。
 新羅王の上に乗った。
 たぶんもともと天皇としては即位してないが、天皇制という制度を仕立てたと考えてください。
 これは、唐の文化を導入した、そのことに拠ると思う。
 金管加羅の過去の王族を、天の王朝の天皇に比定し、ムリヤリ組み込もうとした跡があるのだ。

 このいきさつが見えんと何も見えん。
 既存の史観では「金多遂」すら見えていないので、一切説明がつかない。
 新羅に唐の制度が絶対必要で、倭や日本には一切必要でなかった、そのことすら説明できてないからだ。

 半島から逃れ、故郷を捨てた小さな日本が、なぜ新羅をも百済をも従えたのか。
 冥府の「家具屋姫」が仲介しなければ、まったく説明できないのである。
 しかもどうやって上手に、唐の末端勢力すらをも採り込んだのか。
 それを説明するのが、白村江の役の前後の、複雑怪奇ないきさつなのだ。


 宝姫という、これから騙る不可思議な人物を表に出さないと、わからない。
 既存の系譜や伝承では、説明不能。
 鬼が笑うだけで、わからん。

 この頃の半島は、言うまでもなく高句麗、百済、新羅の「三国抗争の時代」である。
 宝姫は、その新羅関係で出て来る「超不審な人物」なのである。
 「列島」と「半島」、双方の系譜に出て来るのだ。

 同一人物だろうと踏める。
 そして列島では、「家具屋姫」の呼称をも持つ。
 さらに後の日本では、皇極帝、斉明帝という、二つの皇位を持つ天皇でもある。

 この両帝も、同一人物であることがわかっている。
 これは否定する人がたぶんほとんどいない。
 ただ、なんで二度も別々に即位したのか説明できん。

 じつは全半生の皇極帝の時代は、日本史ではほとんど不明で。
 あたりまえなんである。
 半島新羅の女王時代なのだから、日本史にはない。

 列島では「チヌ王」を父とし、なぜか子の皇太子に、のちに天智帝となる「大兄」を持ち。
 (コレ不思議と思わん人がいるの、じつに不思議だが。)
 天智帝は、これも斉明帝の子供にされちまってるんだが。
 大兄、つうだろ?
 大兄だとちゃんんと書いてあるのに、後の天智帝は皇太子だからって、誰かが子にしちまった。

 斉明帝は、日本国を列島で再建国宣言した天武帝の、その母である人物。
 義理の母であるのは事実だが、天武は実の子ではない。
 金多遂は義理の息子で、新羅から連れて来た「人質」でもあったのだ。
 人質ってのは、大概王様になるんだよ。

 明日香板葺きの宮の築造に奔走した大海の皇子、天武帝。
 金多遂は、まだ子供の頃に。
 斉明帝に手を引かれて、ともに難波津に、日本軍とともに敵前上陸した。

 斉明の溺愛する大友の皇子の前任者は、斉明に抱かれていた。
 もっと幼子だったこちらは、金ユシンの息子。
 言葉も覚えないうちに、この子が亡くなってしまい、溺愛してた斉明が喪で籠ってしまって、政治に空白の時期が生まれてしまうのである。

 大友の皇子は、後任の人物。
 同じ金ユシンの息子であって、後にたぶん若狭からやってきて大津に入った。
 系譜があるのに、ことごとくいかがわしくて、正体がはっきりせんのだ。
 鬼が覗く。


 半島の系譜では。

 金ユシンを義理の「大兄」とするのは、日本の天智帝系譜と同じ。
 「チヌン大帝」を「祖父」に持つという、また別の「宝姫」の系譜が見つかる。

 但し金管加羅における系譜にしてあるみたいだが、これは全くの偽装なのだ。
 たぶん辰王問題を絡めるための、女王のやった偽装。
 チヌン大帝との関係は、日本側は間違ってて。
 新羅のこっちが、そこそこ正しいんだと思う。
 しかし、その大兄の父である金舒玄、つまり倭人で欽明帝らしき人物と、怪しい仲の話があったりするのだ。
 そのくせ、宝姫は舒玄の娘になったりもして。

 新羅系譜のほうも、無理に倭の王権とつなげようというへんな工作が見られる。
 要するに、波乱万丈?、これはウソ八百だあ?
 ちがうと思う。
 真実にウソ入れたか、ウソに真実入れた。

 この金ユシンも同じく、のちの新羅王金春秋との怪しげな関係が、いっぱいある。
 そこにヒントもあるのだ。


 金ユシンも、金管加羅国の跡取り王子であって。
 何を隠そう、当時は隠れ辰王の扱いなのだが。
 新羅ではユシンはもともと、下っ端将軍の扱いだったようだ。

 蹴鞠の席で。
 こっちも新羅の同じ下っ端王子、金春秋と知り合い。
 意気投合して、超親しい親戚にもなって。
 後に新羅王となるその「金春秋」以上の権威や名声があったとされる、へんな人物。
 これが、「金ユシン」。

 新羅だけの系譜では説明ができないので、どうしても浮いてしまうのだ。
 (字が出ないのでカタカナだが、ちゃんと漢字はあるんである)。

 金管加羅国の跡取りであった、彼こそが。
 実は、超巨大な倭人の総帥たる人物となって、後に表に出て来る。
 伝統の最後の辰王。
 つまり、斉明の後の天智帝。

 列島での「日本国再建の主」でもある。
 但し、彼は一度も列島には上陸してないと思うのである。
 そんなヒマ、なかったはず。
 戦いの一生だった。

 斉明帝が、「倭国・天の王朝」を列島に持ち込んだ、その主となる大兄である。
 その大兄の天智帝が、倭国を日本国に替え、日本国・天の王朝を列島にしろしめた主。 斉明の義理の息子天武帝が、壬申の乱の後、列島での日本再建国宣言書にしたためた主。
 (日本側文書では天武を天智の子としてあるが、これはムリ。)
 三代を、そう考えるわけだ。

 この斉明の前身である皇極帝の時代、すでに辰王の倭人王伝統も地下に潜っている。
 誰にも見えてないんである。
 倭の五王なんてのは、もっと過去の時代の遺物になってる。
 新羅と日本が、そこまでギクシャクしていない時代の遺物。


 伽耶姫は、阿羅族のいる日本府の花郎(徴兵から指揮までやる総大将の事)である。
 女だからって、へんな占い師みたいな恰好して従軍してたんじゃない。
 そんな扮装は想像の産物。
 少々の切った張ったは防げるように、いかつい甲冑に身を固めての総指揮官役だったのである。

 その伽耶姫の新羅倭軍での上官が、金ユシンだった。

 彼のもとで、一つ前の対高句麗戦を戦い、ここでユシンを大兄として慕う信頼関係を築いた。
 ほかならぬ金ユシンが、のちに中国唐軍と連携しての、最後の高句麗討伐の立役者となったのも納得。
 彼は、根っからの武人なのである。
 本人はしかも反唐派だったことで有名なのに、唐軍と連携して高句麗を滅ぼした。

 一方の金春秋は、何度も言うが、新羅女王の4人もいる夫の一人の、連れ子。
 熱烈な親唐派の総代表であったので。
 それだけでなく、仲のいい金ユシンが反唐派の皇太子を切ったことで大将軍に推挙された、そのことも影響あるんだろう。

 金春秋も、数多い新羅王族の中で突如、のし上がって。
 こちらは、新羅の総代表者になれたわけだ。
 もと下級王族。

 先にも述べたように、列島での皇極帝の時世は、一切不明というか。
 「ない」のだから当然、皆目、ない。
 半島で皇極帝にあたるトンマン女王をやり、のち列島に渡って斉明をやったわけだ。

 大兄がなぜ皇太子なのか、も、日本の教科書では理由不明、とされている。
 だが半島での経緯が、ちゃんと説明してくれているのである。
 辰王を受けついだ経緯も、これは想像だが、ここらへんにあるのかも。

 「新羅国の皇太子は、我が息子に継がせる。」
 「汝大兄に、倭人の総帥たる辰王権を委ねる。」
 「以後、汝は天の王朝の皇太子となれ。」
 そして。
 「新羅は天の王朝の一部となり、いずれ汝が即位する日本国の一部となる」。

 そして「新羅の現皇太子ヒドンを殺せ」、と命じた。
 倭王権と、新羅の王権と、日本の王権が、ここに重なったのである。

 倭国は、倭王権を持つ天の王朝の別名である。
 辰王権が、過去に地下に潜って以来、倭国などといったものはなかった。
 金管加羅も、日本府も存在したが、長く新羅国の一部にすぎなかった。
 百済も過去には倭王権を認めていたようだが、新羅勃興後には敵対していた。

 筑紫も倭国の一部だが、当時は上級官庁があるわけでもなく、百済とも新羅とも敵対関係はなかったようだ。
 ともかく百済が新羅に襲い掛かり。
 任那日本府がやられて消え。
 ついで、その百済が唐軍に襲われて消え。
 そのうち、半島の伽耶地方に大勢いた倭人たちも、ことごとく消え。
 日本人も百済人も、いつしか半島から見事に消えた。
 これらは事実。

 百済の復興に、筑紫から5千の倭軍を送ったのは確かなようだが。
 その全滅のいきさつも怪しいし。
 筑紫軍の後詰として、明日香の斉明帝が10万もの日本軍(倭軍ではない)を率いて出兵し。
 しかもそれが敗北して(多分、敗北の事実はないが)本人が死んだ。
 そのいきさつ一切不明、ときている。

 唐軍との戦闘はおろか、一切が、あやしいのである。
 実損は総大将本人が突然に死んだだけ。

 斉明帝の死後、その大兄が、天智帝として即位。
 敗北した倭国に変わって日本ができた、というんだが。
 実際にはこれが、斉明の死から「7年後くらいの出来事」なんである。
 間に白村江を挟んでいるのだ。

 7年間も天皇不在なんて、普通は、ありえんでしょう。
 海峡またいで、しかも皇極帝のウソの死亡前例が前にあったから、こうなった。

 皇太子の彼が跡継ぎした、そのことはわかるにしても。
 大兄が、なぜ皇太子だったのか。
 倭国が滅んだいきさつも、国史の教科書では一切不明で説明できん、のである。

 天智帝の墓はしかも、山科に、ちゃんとできていて、日本にあるのだ。
 だが、そこに、「死後も本人が入ってない」ことは、当時の唐人客人さえもが知っていた「事実」。
 おいらたち、後世の日本人には、事情が一切知らされてない。
 とにかくウソばかり。

 そのうち、半島の伽耶地方に大勢いた倭人たちも、ことごとく消え。
 日本人も百済人も、いつしか半島から見事に消えた。
 これらは事実。
 伽耶文化は、半島から百済や金管加羅や日本とともに消えた。
 辰王権など、跡形もなく消え去った。

 そしてその後の新羅は、やがて中国勢力を追い払い、半島統一を果たすほどの強国となるのだが。
 同時に、一時期だけだが。
 「日本に朝貢する」という、実に不可解な行動をとったのである。
 これも説明のつかない事実だ。

 いきさつがまたまた一切不明で、説明のしようがない。
 不明だらけだったのだ。


 謎解き。

 もうずいぶん昔のことだが。
 オイラは、「家具屋姫伝説」と、半島と列島二つの「宝姫伝承」を合体させたら、半島の出来事と日本の出来事を重ね合わせることとなり、すべてが解決するんだと気が付いた。
 トンマン女王の韓流物語テレビ見たことがきっかけだった。
 確実にわかっていることも、ずいぶんとあるのである。

 「蹴鞠は新羅貴族の遊びだった」、ということ。
 「花郎はのちに新羅で男色モノに変節するが、もとは倭人の女将軍文化」。
 列島には源氏が源花として受け継いでた。
 「天武帝は、日本書紀に自分の本名、金多遂を、ちゃんと書き込んでいる」し。
 「金ユシンも中臣の鎌足も武人で、大王以上の超絶官位を持つ」。

 両国において、ともに大王以上の権威を持ってたのも事実。
 で、その理由は説明できんのだが、金ユシンは高句麗を壊滅させた人物。
 鎌足は事績が超希薄で、後半生が消えてる。

 大王金春秋以上の権威といえば、日本では天皇しかないではないか。
 外国には、キング以上の権威はないので説明が出来んのである。
 祭礼合同のエンペラーがあるが、キングの上に立つことはない。
 キングと並列で祭祀教皇は立つが、上には立てない。

 そして倭人には、確か王の上にしろ示す辰王が、いたはずなのに。
 新羅の勃興で地下に潜り。
 復耶会などと称する倭人だけの秘密会はあったようで、辰王権も地下にはあったようだが。
 それもこの時代を境に、見事に雲散霧消。
 きれいさっぱりと消えたのである。

 斉明帝の死後7年たっての天智帝の即位で、消えた。
 辰王権は、天皇の権威と一致し、重なったのだ。
 倭人王の伝統は、これで消えた。
 倭の五王の権威は、名実ともに天皇の権威となったのだ。

 だからって過去を探しても何にも出てこんよ。
 肝心の天智帝は?
 山科の墓には入っていないんじゃから。
 中臣氏の席も、いつまでも空白のままだったのだ。
 唐人たちが嵌るまでは。


 春秋とユシン、このふたりは特に、一心同体同然の超親しい親戚なのである。
 そのことも新羅に伝わってた事実。
 まるで、中の大兄の王子と、日本では影が超薄い中臣の鎌足、なのである。

 この二人は同一人物なのだが、金春秋を日本に連れてこられないので、日本の系譜だと鎌足の影が薄くなって消えてしまった。
 半島の歴史の方が、まだずっと真実味があるんだが。
 晩年の金ユシンの、天の王朝の天皇即位、日本国建国を消したので、最後が見えんなってしまった。
 超絶官位も説明できんなった。

 そもそも新羅や百済を考える際、つい現代の半島を考えてしまうから、ぜんぶおかしくなるのである。
 朝鮮人李氏は、未だたぶん中国大陸から全く動いていない。

 朴、借、金氏はすでにいたが、「彼らは倭人」なのである。
 特に借氏は、列島へ仏教を伝えたサカ族である。
 朴氏は瓢を持つ海人族。
 そもそも新羅は、熱烈な仏教国だった。

 百済仏が結構有名だが、新羅は特に王族にも本物の菩薩様が居たほど。
 現代の韓国に、仏教は皆目無いのである。
 日本へは、秦人や借氏とともに大移住してきたのだ。
 朝鮮人権力者の未だ全くいない、古い半島文化を考えるべきなのである。

 半島では当時、三国が覇を競っていて。
 高句麗という騎馬民族と、敵対する日本がいて。
 海人シウシン族の国である百済があったが。

 金管加羅など、倭の12部族がいたし。
 ペルシャ系の種族らしい新羅に、その倭人は大勢いたというか。
 彼ら新羅の血筋の半ばが、すでに倭人なのである。

 当時の列島は、もっと乱れて小国分立していた。
 もっといろんな諸民族が入り乱れる、へプターキー症状だった。
 要するに倭人系種族だらけではなく、ほんまに「多民族が雑多に住んでいた」わけだ。

 そして、この倭人も、小さな日本列島だけで考えてはいかんのである。
 中国の一部に居るなんて、倭人はそんな、ちゃちな種族ではないのだ。
 日本も小さな騎馬民族だが、ちゃちな種族ではない。

 倭人と言うのは何度も言うが、超巨大な「世界を航海する諸種族の大集団」。
 これの大乱は、当然世界戦争となる規模なのだ。

 そして日本は、その内部に多民族を持ち、天皇を戴く、単一部族。

 列島周辺には、これらの諸民族が群れていた。
 縄文系(シュメール系?)種族の東国国家や、日向系の日本国家を考える向きもあるが、そこはまだ不明。

 しかしこの列島に、あらたまの日本国旗を持つ(昔は黄色い太陽だそうだ)小種族が家具屋姫とともに殴り込んで。
 彼ら日本が政権奪取した、そのことはまちがいなくて。
 それ以降、おいらたち列島で日本に帰属した諸民族はすべて、日本人となったのである。

 この連中の「同族日向征伐、そして突然の伽耶姫の昇天をもって」、最終的に「日本が再成立」している、と考えてもいいくらいなのだ。

 特にこの、「日向」部分や「四国の本拠」が、見事に消えている。
 のちの世に、徹底して隠ぺい工作されているのである。
 ようわからん、なってるのだ。
 未だに、これをやってる隠ぺいグループもありそうである。

 斉明帝が特に、大和に入る前に「阿波」や「伊予」を本拠にしてたのは間違いなさそうなんだし、亡くなったのは「土佐」の朝倉の宮なんだが。
 これの比定が、未だにできちょらん、のも、おかしいんである。
 我が国の歴史は徹底隠ぺいされていて、おかしいのである。

 しかし倭国に乗った状態だった「天の王朝」は、まちがいなく存在したし。
 天の王朝は、やはり宝姫の率いて来た「10万もの日本軍」によって成立したのだと考えるべきである。
 これはしかも国民皆兵の、文字通り赤んぼも含めた、当初の列島での日本人の総数なのである。


 もともと倭人と、日本人、秦人などは、たぶん故郷を目指した同じグループなのだが。
 ある時代から、秦人が急に力をつけて、勢力拡大。
 半島に砦を築き、シロという強国を作った。
 秦の記述に、半島遠征して砦を築いた事実もあるらしいので。
 シロは、秦帝国の末端機関、これは間違いなし。

 中国大陸での秦帝国が滅んでのち、大勢の亡命者が、その砦を頼ってやってきて。
 それが、教科書にも載る弓月の君だ。
 これって、ゆづきではなくユゲ氏だろう?。
 列島の話ではないんである。
 陸続きの半島シロ国への、秦王族の、大挙しての亡命話なのである。

 シロはこれで強大化し、半島では倭人国を次々と配下に落として、組み込んでいった。
 倭の五王、真っ青になった。
 百済も倭王権認めて七枝剣まで送っていた辰王。
 これは、あわてて地下に潜った。
 倭国の時代は、半島では終わっていたのだ。

 辰王権はその中で、どういういきさつかはわからんが日本の手を離れ、金管加羅の王権が受け継いだようなんだが。
 これたぶん、こんな新羅事情が絡む。

 同族結婚の風習がある新羅王族の、血が濃くなりすぎ。
 遺伝問題が出て、シロ国が弱体化。
 結局、配下の倭人国、金管加羅の王家を、ソラボルに権力の無い養子として迎えることになり。
 その混血の子が立って。
 シロと言う国が「新羅国(シルラ)」として再成立した。

 国名も倭人風に、・・羅と変えた。
 我が国ではなぜか・・ギ、というんだが。

 このころ、日本が新羅に加わって、そこに膝真づいて。
 数ある羅国、倭グループ諸国の中でも、当然日本の地位は下がっていき。
 金管加羅の権威が著しく増していく。
 金管加羅国は、結局、新羅の重要な父系国となる。

 その権力移行時の混血新羅の倭人王が、「チヌン大帝」なのだ。

 但し大帝は、未だ倭王権は持たなかった。
 あくまで、「秦人の大帝」。
 宝姫の父ではなくて、祖父に当たる人物なのである。

 我が国の欽明帝にあたる金管加羅の王は、辰王権を継いでいたように描かれているのだが。
 今だ実権のない新羅の下級王族にすぎない。
 なので、これは多分、後日工作。

 だが、その子の金ユシンは、対高句麗戦争で倭軍を率いて大活躍し、新羅でのし上がった。
 高句麗が滅びた最後の戦争ではなく、もう一つ前の戦争。
 若い下級王族金ユシンは、新羅の救国の英雄となったのである。

 辰王権威の受け継ぎは、あるいはこの時かもしれんが、わからん。
 やはりのちに宝姫が、勝手なことしたのかもしれん。

 新羅軍の一部として、倭人諸国の兵を率いる司令官だった人物が、金ユシンで。
 それら倭人軍の中で、日本はちょっと異質だったし、国土も兵力も小さい。
 だが、「半島最強の種族」として、もっと大昔から知られていたのは事実。
 高句麗まで攻め込んで、大暴れした古い時期の伝承もある。
 これは公開土王碑文が残っている時期の話。

 それで、当然、新羅王権からの懐柔政策も十分採られていて。
 新羅聖骨の子が1人、幼いころから日本府で育てられていた。

  人質みたいなもんだが、人質ではなく超富裕な民間人で。
 しかも新羅人身分は、羽衣衣装に隠していたようだ。
 但し、新羅の資金力を背景にした、無尽蔵とも言える長者宅での養育。

 それが、日本文化を身に纏うこととなった、宝姫、というわけだ。


 別名、伽耶姫。
 いや、彼女こそが家具屋姫なのだ。
 成人すると、当時の貴族らしく、日本軍の「花郎」となった。
 つまり色仕掛けで徴兵から軍隊指揮までやる、文字通り「女総大将」となった。

 戦時には日本軍を率いて、一つ前の対高句麗戦で、暴れまわったわけである。
 若い金ユシン将軍のもと、うら若い宝姫も大勲功を上げ。
 彼らは兄妹の関係を誓った。
 大兄との堅い仲は、ここで出来たのである。
 また、新羅の将軍たちにも、宝姫の衣装で、その素性がうっすらわかったようだ。

 その後、新羅ソラボルに、跡継ぎの聖骨がいなくなってしまう。
 倭軍に羽衣を纏った将軍がいたという従軍貴族たちから、宝姫の身元が割れる。
 聖骨が1人、日本府で養育されていたはずとわかり。

 急遽、宝姫がソラボルに迎えられて。
 突然の即位。
 その時点で新羅で唯一の、最後の聖骨なので、国内にまったく異論はなかったようだ。

 但し日本人庶民たちの前からは、家具屋の姫は、消えたわけである。
 月の夜に、きらびやかな大軍勢に迎えられて。
 手の届かないところに消えちまった。
 「オラたちの総大将が、突然に月世界に消えちまった」、わけだ。

 そして宝姫は。
 新羅のトンマン女王となった。
 このトンマン女王の日本名が、皇極帝だ、と思うわけだ。

 女王はバランス感覚の持ち主で、多民族の群れる新羅を上手に治めた。
 代表的な種族からの夫を、なんと4人も持ち。
 中国の唐政権とは、つかず離れずの距離を置き、結構、嫌がられて。
 そして国内の、最大の種族の王子ヒドンを、新羅国の皇太子にした。

 国内の反唐派と親唐派を、そうやってうまくまとめ。
 特に、阿羅の鉄の農具利用で、飛躍的な食料増産を可能にしたことがわかっている。
 鍬は、もともとは日本文化のものなのである。
 彼らはクワではなく、鋤で、木のスコップで耕してたのだ。

 皇極と言う名は、新羅文書には一切出てこない。
 当然、「天の王朝」もでてこんのである。
 それは彼女が勝手に作って、すぐに半島では消えたものだからだ。


 ある年、飢餓将軍がやってきた。
 新羅は数年前から食料増産、備蓄ができており、その余力で、列島への密かな侵略をやっていた。
 戦役には、膨大な食料集積が必要。
 たぶん、若狭からの侵攻。
 そして瀬戸内からも入り込んで、四国や淡路島を奪取していた。

 日向へも、日本軍を動かして侵攻したのかもしれんし、筑紫倭人との信頼関係も、ここで築かれたのかも。
 それは不明。
 どうやら九州南部にいるハイ族を宥めたのか、そこへハイ使って侵攻したのかはわからんが、それらの出来事関係のようだ。

 とにかく筑紫倭人は、皇極政権とは極度にいい関係にあって、相互に信頼されて、ともに強大化していった。
 筑紫は百済ともいい仲だったようで、人質名目で百済王子を養育してた。
 この人質関係は新羅と阿羅の関係と類似で、たぶん、当時流行っていた。
 たぶん百済が主人側なのである。
 人質って、属国が出すだけじゃないんだよ。

 しかし新羅はその兵力分散のスキを、飢えた高句麗・百済の連合軍によって一斉に突かれた。
 筑紫はただオロオロしてただろう。

 高句麗に面した多くの城が失われ、任那日本府界隈の多くの城も、百済側に落とされ略奪された。
 新羅の被害は、日本書紀に載っているような、いくつかの城喪失といった生易しい程度じゃなかったようだ。
 金春秋の娘、つまり田舎の属国で養育されていた女王の孫も、この攻撃によって殺されているのである。

 トンマン女王は、鬼すらも首をかしげる策略を、ここで駆使する。
 是が非でも唐軍勢力を呼び込んで、救援してもらう必要があったのだ。
 それで、国を挙げて唐制度への国内改革をまず手掛けた。
 属国になろうとした。

 しかし次の皇太子は、頑固な反唐派である。
 さらに女王自体が唐の不審を買っていたので、どだいムリな話だ。
 ヒドンという皇太子のいるそこが、しかも新羅のうちでは最大勢力。
 最悪。

 その新羅皇太子ヒドンを亡き者とするために。
 女王は、そいつに殺されたことにして、身を隠した。
 一石二鳥なのである。

 自分の大兄として尊敬する金ユシンに命じて、皇太子を切らせた。
 そしてユシンを、国の大将軍に任命させる。
 同時に金ユシンを、「天の王朝の皇太子に」据えさせたのだろう。
 多分、この時に、辰王権を渡す約束もしたのだと思う。

 これはナイショで、金春秋や、女王が生きている事を知る者だけが知っている事。
 だが、「倭人なら納得する話」なのだ。
 辰王権は、世界の王権なのだから。
 天の王朝の先帝を、実権のないユシンの父親に想定させる諸工作も、同時にやった形跡があるのである。

 半島では、これをヒドンの乱、列島では大化の改新という。
 これの実体は、新羅の、やむにやまれぬ国内唐化政策だったわけだ。
 義理の息子の金春秋には、新羅の跡を任せるべく、唐に送り込み。
 自分は一介の将軍に身をやつして。
 阿羅の救援に向かった。

 過去のその日本府の地へ、かの地の「地下女大将軍」に戻ったのである。









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最終更新日  2025年02月27日 12時47分04秒
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