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アメリカチームと「なでしこ」を分かつものがあったとすれば、ひょっとするとこの心理的な「平然さ!?」加減だけだったのではなかったか?逆に言うとアメリカチームとは、好い意味でも悪い意味でも、チーム全体のムードが「顔に出る」ところがあるのです。この場合の「顔」とは、個々の選手の顔ではなくて、チーム全体が見せている「構え」ということです。 これは何となく、アメリカという国の持つ「戦いの文化」そのものを表わしていて、アメフトは「Momental(勢い)のスポーツ」と言われるように、勢いに乗ったときのこの国の強さというのは、ちょっと手の付けられないところがある。技術とか戦術とかいう以前に、原初的な「戦う姿勢」をこれほどハッキリと、我が身に招来させてみせる国もないのではないか。逆に言うと少し受身に回った時に、意外と大きな穴が他の国より開いているように見える時がある。要は組織全体の「身振り」の振幅の度合いが、かなり大きいんじゃないかということなのです。 試合開始直後からスピード、パスワーク、シュート力すべての面で「なでしこ」を圧倒していたアメリカ、どう見ても2、3点は入っていてもおかしくない流れの中で、実際に得点出来たのが後半半ばのカウンターパスからのモーガンのシュートだけ。アメリカとすれば何点もリードしているような試合運びの中でのゴールだったわけで、得点のなかなか入りにくいサッカーの常識から言えば、九部九厘勝ったと思うのは無理のないところだったかもしれない。 このあとアメリカは、さらにカサにかかって攻めるというよりも、微妙にスローダウンしたところがあるのです。つまり試合全般の流れからして、ちょっとだけ勝負を勝手に先読みしたところがあったのではないか。しかしそれならそれで、完全に守備を固めることにしたかと言えば、そこまで徹底はしませんでした(このあたり、試合の流れを読み、転換するタイミングというのは、まことに難しい)。 「なでしこ」のボール保持率が急激に増えて、アメリカ陣内でボール回しが出来るようになる。自チームの平静さはもちろんですが、相手チームのこの微妙な「顔」の変化を、澤さんはじめ「なでしこ」は嗅ぎ取ったような気がするのです。 で、この日本チームの不思議な平静さには、明らかに伏線があったのでした。似たようなシチュエーションが予選リーグで負けたイングランド戦、決勝トーナメントで延長戦の末辛勝したドイツとの試合でもあって、そこでの実際の戦いにおける感触が、相手チームの顔を読む冷静さを生み出したのだと私は思うのです。 澤さんのコメントで印象的だったのが、「イングランド戦で負けたのが、良かった」というものでした。現役アスリートの特徴として物事をズバリと言い、それ以上の説明を一切しないというところが、いかにも一流(イチローもそうです)という感じですが、それに関して元女子サッカー選手だった解説者(大竹さんですか)が、「格上の相手のスピードとパワーを実体験しておく、という意味で良かったのです」というように言われていました。なるほど。 すでに予戦通過が決まっていて、多少気が緩んでいたんじゃないのと、素人目ではすぐ考えてしまいますが、さすがによく見ていると思う。予戦のニュージーランド、メキシコは格下でスピード、技術とも日本が上でした。本戦に臨むに当たって、格上のイングランドのパワーとスピードを前もって体感しておくことは、決勝トーナメントの相手がいずれもフィジカル的に格上のチームであることを考えれば、確かにむしろ良かったかもしれないのです。 という意味で、決勝トーナメント第一戦めの対ドイツ戦が、ひょっとすると、今回の「なでしこジャパン」が、大バケした起点になっているのかも知れず、それはイングランド戦の負けはしたけれど、今大会の最高レベルのサッカーを体験していたことで、待ったなしのドイツ戦において無用に慌てることはなかった。もちろんイングランドもドイツも、女子サッカーの欧州スタイルを代表するチームだったのです。 このあたり下馬評が当たらないという点で、ワールドカップ・サッカーほど何が起こるか分からないスポーツというのも珍しい。試合そのものも、押しに押しても簡単にはゴール出来ないというのが、サッカーというスポーツの大きな特徴ですね。ドイツのパワフルで巧みな怒涛の攻めも、この「簡単にはゴール出来ない」というサッカーの不思議な落とし穴に、スッポリはまったように得点出来なかったのです。もちろんそこには「なでしこ」の捨て身の防戦があったのですが。― つづく ―
2011.07.28
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それにしてもアメリカ、シンプルなコンセプトに沿って作り上げたチームというのが、これまた誤解の無いような言いかたをしないといけないのですが、私の見るところ、いわば「極度にオス化」したチームだったような気がする。この場合の「オス化」というのは、たんにフィジカルな面だけでなく、文字どおり男そのもののマインドで振るまっているチームだということです。で、そう振るまうことこそが、「強い女=女性解放」という定式に則っているという考えかたに、寸分の疑念も抱いていないという集団と言うべきであって、ここに私は前に「いわゆる戦争報道について 99.」で触れた、「ハート・ロッカー」のキャスリーン・ブグロー監督と酷似したマインドを、どうしても感じてしまうのです。 ちょっと厳しい見かたかもしれませんが、彼女らにはフェミニズムの体現者として、男と同じことをやってのけるということが、すべての振るまいにおいて是(内田樹さんふうに言えば「政治的に正しい」)とされるような、はなはだ窮屈な選択を行っているように見えてしかたがない(まあ、彼女たちにとっては、余計なお世話でしょうが)。 ブグローの映画がまるっきり「男の戦争映画」であるように、アメリカチームのプレイスタイルは男のサッカーそのものなのです。それをほとんど男と変わりないぐらい(少なくとも「女」でない)ユニセックス化した身体能力において、実現し得ているところがいかにもアメリカらしい。たんに体格がデカいということでなく、スピード、パワーともいわゆる女性という範疇をはるかに越えてしまっている。アメリカで女子サッカー人口が驚くほど多いというのは、やはりそれがフェミニズムのもっとも端的な体現のツールとして、捉えられている部分があるのではないか?と私など勘ぐってしまいますね。現に白人女性が、他の女子スポーツに比べて、圧倒的に多いでしょう。ちょっと考え過ぎかもしれませんが。 スピードや瞬発力、そして細かな足技では、強敵ドイツやスウェーデンに対して、一日の長があったような気がする「なでしこジャパン」ですが、アメリカにはそれが通じない。わずかな俊敏さや技の違いに、少ない得点チャンスを見出そうとしていた日本チームとしては、細かなパスがことごとく寸断される相手というのは、紛れもなくもっとも手強い敵であったのです。 さて、そんな中で「なでしこ」は、どこに勝機を見出そうとしていたのでしょうか?どうしても澤さんの繰り出す決定的シーンだけが取り沙汰されて、またぞろ「技術のニッポン!」といった神話が喧伝されそうです。現に少年サッカーなどで、見た目はなはだトリッキーな彼女の足技を、マネする子供たちが増えるのを私など危惧するのですが、おそらく澤さん自身も、そうした見方はしてほしくないのではないか?部分的な傑出した技の冴えではなく、ここ一番で自身の持っている技を表現し得る「戦いの構え(Fighting Spirit)」のほうこそ、見てほしかったのではないかと思うのです。 確かに彼女の技はすごい。新聞のコラムに「まるで居合い抜きのような(朝日新聞)」という評がありましたが、うまい表現ですね。「居合い抜き」とは、殺られたほうが「いつなぜどうやって殺られたのか、分からないまま」、一瞬に決められる必殺技の謂いであり、飛び込んできたボールがかすったワンバック選手もゴールキーパーも、その時何が起きたのかまったく理解出来ず、棒立ち状態になっているように確かに見えました。 で、後からの話として、これが澤さんの得意技の一つで、しかもコーナーから蹴る宮間さんとの打ち合わせのうえだったというので、私たちは二度ビックリというわけです。ここの話だけで、確かに日本海海戦時の「丁字戦法」のような伝説が生まれて来そうですが、伝説を信じた日本海軍と日本が、その後どうなったかを考えるまでもなく、もう少し冷静な分析が必要でしょう。 まず基本的に私が舌を巻くのは、上のような鮮やかな一瞬の技であるよりも、九十分ないし百二十分の間、ほとんど休まずピッチを走り切るという彼女たちのタフネスさかげんです。さすがに決勝戦のアメリカの走りは、「なでしこ」とほとんど遜色がなかったのですが、ドイツ、スウェーデン戦ではそこのタフネスさで、ちょっとだけ優位に立てたのではないか?という気がする。ここで言うタフネスさとは、「体格差、体力差」では現れにくい部分、たとえばマラソンのような持久力のタフネスだと思うのです。そういえば日本の女子マラソンは、草創期以来わりと早くから世界トップレベルでしたね。 サッカーというスポーツは滅多に点が入らないので、どうしても数少ない得点シーンだけが華やかになりがちですが、それを土台で支えているのが、二時間近く走り切れる持久力と、勝負どころで出せる瞬発力でしょう。このあたり(日本)男子サッカーに比べても、明らかに「なでしこ」は優位だったような気がする。ついでに言えば、彼女たちは(日本)男子サッカーのように「痛がらない」。これはたぶん中心選手の澤さんの姿勢に由るところが大きいと思うのですが、明らかにかなりのダメージを受けたはずの場面でも、平然と立ち上がるという姿は特に今回の決勝戦では、微妙に戦局に影響を与えたような気がするのです。― つづく ―
2011.07.27
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それともう一つ、これは女子サッカーだけに見られる空気ですが、各国のチームを見ていると、明らかにフェミニズムを意識したようなところがあるように思う。早い話、日本チーム以外のほとんどが監督はじめコーチスタッフも含めて女性陣で固められていましたね。新聞などを見ていると、女子サッカーでは社会的に女性解放が進んでいる国ほど強い、というのが欧米では定説であったようで、実際本命とされていたアメリカやドイツ、スウェーデンなど、そうした社会的通念を一身に体現したチームであったでしょう。 このあたり、すでに佐々木監督の「女性管理術」のような話が、さきほどの「鬼の大松」以来の語法で、さかんに喧伝されている日本では、必ずしも意識されていない要素ですが、女子サッカーというのが歴史的にそうした「召命」のようなものを背負っていることも事実なのです。 さて、そうしたことを前提としたうえで、各国チームの話ということなのですが、詳しくは見ていないうえにキリがないので、いちばん分かりやすいアメリカチームだけにしぼって話をします。決勝の相手がアメリカと決まった時、日本のサッカー評論家のなかには「アメリカチームはパワーで押しまくるだけで、凝った技術や作戦はないも同然だから」とずいぶん景気の良い言説をなす人たちがいましたね。確かに今大会予戦本戦を通じて、アメリカチームの調子は最悪だったとはいえ、それでもなおそのアメリカが、なぜ世界ランキング一位なのかということを、評論家諸氏はしかと考えず、あまりに軽々しく打ち上げ過ぎじゃないの、という感じがしたものです。 ちょっと考えれば分かることだと思うのですが、「パワーだけで押しまくる」ということは、逆に言えば「パワーで行けるところは、どこまでもシンプルに、とことんパワーで行こう」ということであって、「戦い」においてこうした誰にも分かるシンプルな「構え」というのは、とても大事というか、あたりまえのことなのではないか?という意味で、これはとてもアメリカ的発想だと思うのです。 技術とか戦術が現れてくるのは、戦いが伯仲したり不利な状況が出て来た時からであり、そうでないかぎり戦いとは、単純に力と力がぶつかりあって強いほうが勝つというのがセオリーでしょう。 で、実際のところ女子サッカー界の現状というのは、そうしたシンプルな力(フィジカル)の差がそのままチーム力の差となって、今でも通用してしまう段階だということも意味していて、その点ではまだまだ洗練されていくべき要素が残っている競技というべきでしょう。日本のスポーツ界の面白いところは、そうした「戦い」そのものの持っている本質から出発せずに、いきなり自分たちの体格差だの体力差を前提として、「戦いの構え」を考え始めてしまうというところにあるような気がする。もうすっかり言い古されて使いたくない言葉ですが、「体格の差は技術でカバー」とか「体力の差は、精神力で取り返せ」などという陳腐な文言は、「戦う」というコンセプトとは本来まったく関係がない。これではまるで、戦前の帝国陸軍の発想から一歩も出てないじゃないですか。 早い話、これは男子ですが、例のアルゼンチンのマラドーナとかメッシなど、ちっとも大きくないのに、その隔絶した身体能力でやすやすと敵陣を突破していたでしょう。彼らから強く発せられていたのは、精神力とか技術力というより、はるかに卓越したその超人的身体能力だったでしょう。だから簡単に「日本人は体格的に劣っているから」という前提で、スポーツ全般を語るのは間違っていると思う(何も日本人だってマラドーナになれる、と言っているわけではありません。「戦う」思考の前提として、はじめから「体格差、体力差」を持ち出すのはおかしい、と言っているのです)。 というわけで、アメリカチームは最もシンプルに「戦う集団」を作り上げて来たわけで、それでもって決勝戦まで出て来たということは、それだけ彼女たちの地力は飛び抜けているということを示しているのです。そのあたり、このチームの真の地力は決勝戦で本当に現れてきたわけで、それは単純に力責めで押してくるだけと思っていたアメリカが、ビックリするほど日本の戦いかたにアジャストしてきたという結果となって現れました。日本チームが目指していた速いパス回しのサッカーは、むしろアメリカのほうに多く見られたのです。この決勝戦は日本だけでなくアメリカにとっても、内容的には今大会のベストゲームだったはずです。 地力をとにかく上げておく、勝てる間はそれだけでとにかく行く、新たな不分明な状況が見えて来た段階で次の対応を考える。その時点で、初めて作戦とか戦術とか技術が現れるのです。地力があるからこそ、新たな段階の対応が打てるわけで、これはたんなる馬力集団では出来ません。決勝前半と後半半ばまでの、一方的に押しまくられる日本チームを見ていたスポーツ評論家は、こういう戦いかたをするアメリカチームを、どう論評するつもりだったのでしょう。― つづく ―
2011.07.25
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サッカーの話をするのは、ここのところ避けていたのですが、今回は安心してしゃべることが出来そうです。そもそもこのブログを始めたきっかけというのが、何度も言うように2006年のトリノオリンピックでの荒川さんの金メダルであり、同じ年に第一回WBCだの、男子ワールドカップ・ドイツ大会だの、いろいろジャパンブルーが目立った年でもあったのでした。ちなみにこのブログのカラーも、その年の日本のスポーツ界に敬意を表して、ずうっと固定しているのですが、久しぶりにそれに応えてくれるような活躍を、「なでしこジャパン」がやってのけましたね。 昨年の男子ワールドカップ・南ア大会、世間的にはずいぶん騒がれながら、私はあえて取り上げませんでした。トリノの荒川さんや第一回WBCのイチローたちの成し遂げた偉業と比べて、取り上げるに値しないと考えたからです。やっぱり世界一になるということの意味は、他にはまるっきり変え難い重みがあるのだと思う。 そういう意味では、2008年の北京オリンピックでの女子ソフトボール決勝、上野由岐子選手の「血染めの413球」と並び称せられるべき「伝説」が、まさしく立ち昇ったのだと思う。それにしてもこのブログ、何だかんだと話していますが、どうやら基本的なスタンスは「女性礼賛」というところにあるらしいのが、最近私自身分ってきました!? さて今回の女子ワールドカップ・サッカー、じつを言うと途中まで詳しくは見ていませんでした(たいていの人がそうじゃなかったですか?)。以前のオリンピックやワールドカップを見るかぎり、女子サッカーの彼我の力の差はあまりに大きく、文字どおり大人と子供のような違いを感じさせられたからです。ところが今回の大会を見ていると、体格体力の差は遺憾ともしがたいものの、自分たちの持ち味を臆することなく「表現し得ている」ところに、限りなく惹かれてしまったのでした。 国際場裏で臆面なく自身を出すというのは、おそらく「日本人」のもっとも苦手とするところで、そしてその出来ない理由を体力差だの言葉の壁だの、いろいろ言い訳を取り繕っては「内に閉じこもる(日本人はしょせん特別なのだから、しかたがない)」というのは、戦前戦後を通じて飽き飽きするほど見せ付けられて、私たちはうんざりしているわけで、彼ら彼女らのすがすがしさは、それらさまざまな古い日本人のしがらみをきれいに取っ払って、私たちの気分を新たな地平に引っ張り上げてくれるところにあるのだと思うのです。 彼女たちの凱旋で、またぞろいろいろな秘められた「物語」が語られるのでしょうが、そういう三面記事はとりあえず横において、今回の「なでしこジャパン」の意味するところについて、私の感じたことをしゃべってみたいと思います。 それにしてもワールドカップ・サッカー、これは男女問わずですが、それぞれの国柄というか、エスニックな要素がこれほどハッキリと出るスポーツというのは珍しいのではないか?2006年のドイツ大会の時に国別の特色を数え歌のようにシャレのめしたことがありますが、これは陸上とか水泳とか他のスポーツと比べてもハッキリと表に出る。団体競技だからじゃないか?という指摘もされそうですが、たとえば野球とかバレーボールと比べてもはるかに色濃く出ているような気がする。 これはたぶんサッカーというスポーツが、いったんホイッスルが鳴れば原則的には誰も試合の進行を止められない、つまりピッチ内の時間の進行に関して、外部からの介在はほとんど不可能という、このスポーツ独特の事情から来ているのだと思うのです。野球とかバレーボール、あるいはアメフトだのバスケットもそうですが、わりと試合進行中に外部からの干渉というか、プレイがしょっちゅう止まるというところがあるでしょう。野球などピッチャーがボールを投げないかぎり試合は始まらないわけで、その間ベンチからもさまざま指示や作戦が飛ぶ。プレイヤーたちはその都度「考える時間」があるわけです。こうしたプレイのブツ切り状態、つまりタイムアウトのあるスポーツ(なぜかアメリカ製が多い)では、プレイヤーたちの「地」の要素というのは、わりと見えにくいような気がする。 サッカーとかラグビーそしてあるいはテニスなど、どうもヨーロッパ由来のスポーツには、プレイヤー(当事者)以外が試合の進行に介在する余地が少ないような気がするのですが、これまた長くなるので一応この話は別にしましょう。 かんじんなのはいったん試合が始まってしまえば、誰もその進行を止めることが出来ず、仮に審判が止める時があっても、その間こまごま指示や作戦を出すということは原則しません。つまり試合中は選手だけが、戦いの当事者なのです。その間具体的にプレイを選択し、構想を実現していくのは彼らだけであり、他のいかなる誰も介在が許されない。考えてみればあたりまえのことなのですが、日本ではなぜかそれがそうでなくなっている。要するに監督だのコーチあるいは解説者の口数が、まるで自分たちこそ当事者であるかのように、いやに多いと思いません?こういう不思議な雰囲気がいつからどのようにして生れてきたのか、私にはよく分かりませんが、あるいは高校野球とか「鬼の大松」のような伝説が影響しているのかもしれません(選手より監督のほうが、有名になっているでしょう)。 まあそれはともかく、サッカーではいったん試合が始まれば、プレイヤー個々の判断とその集合だけが試合を形作っていくわけで、であるからこそワールドカップのような国別対抗戦になると、それぞれの国柄が個々の選手の振るまいかたを通じて、他のスポーツより気鮮やかに露呈してしまうところがあるのではないか?― つづく ―
2011.07.24
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それにしても二十世紀最後にして最大のシンフォニストでもあったショスタコーヴィッチが、いろいろ新規な現代的語法を駆使しているとはいえ、なぜ百年前に先祖帰りしたような交響曲を書いたのか?この場合の「先祖帰り」というのは、ベートーヴェンに代表される「苦悩から歓喜へ」という定形的な交響楽様式が、二十世紀初頭には西欧の一般的な精神として、到底素直には受け入れ難くなっているという気分は、当時すでに充分共有されていたし、それは第一次世界大戦を経てむしろ深まっていたのに何故?ということだったでしょう。 早い話が、世紀末から二十世紀初頭にかけてドビュッシーやマーラー、あるいはシェーンベルクやシベリウスまで含めて、そうした単線的なメッセージ性を音楽に込めることに飽き足らず、むしろ音そのものが放つ別の明示性を求めて、現代の作曲家はさまざまに模索していたのではなかったか?そのあたりの近代から現代音楽への思潮を充分意識し、かつその音楽的天分については自他共に認めていた彼が、あえて「新古典主義」どころか、あまりにも分かりやすい古典的書法を用いたとき、少なくとも真摯に西欧音楽の行く末を考え続けて来た他の音楽家たちは、戸惑いを通りすぎてあるいは怒りさえ覚えたのかもしれません。 現代音楽の方向を指し示すべき巨大な仲間が、突然別の世界へ行ってしまったと感じた音楽家は多かったでしょう。バルトークなどは言葉で罵倒するだけでは飽き足らず、その音楽の中で彼を罵倒していますね。 その理由としてよく語られるのが、スターリン支配下におけるソヴィエト連邦の文化統制ということですが、もちろんそれがソ連の芸術・思想に与えた抑圧はきわめて大きく、また人類史的に見ても相当苛烈であったことは紛れもないにしても、かといってなぜショスタコーヴィッチだけが、このようにやり玉に挙げられるのか?思想・芸術的抑圧や弾圧を受けた音楽家・文学者その他は他にも数多くいたはずなのに、彼だけは今だ以ってことさらに論評されることが多いような気がする。 で、それはたとえば文学におけるソルジェニーツィンとか物理学者のサハロフと比べて、はるかに冷淡な扱いを受けているのには、やはり理由があるのです。上の二人は共産主義圧政下の反体制の旗手として、かつては西側からさかんに称揚されたのですが、ショスタコーヴィッチに関してそうした反体制とか良心派といった支持が西側からなされたことはありません。彼はスターリンの時代も「雪解け」以後も、ずうっとソ連邦にあって音楽界の重鎮であり続けたのです。結局のところ彼の音楽は、少なくとも東西冷戦のさなかにあっては、それを取り上げること自体が、多かれ少なかれ政治的な臭みから逃れることは出来なかったのです。 で、しかもこの第五番というのが、先にも言ったような時代錯誤的な書法を以って、言い換えればあまりにも分かりやすい語法で書かれているために、普段の音楽好き以外のその他大勢の衆目に曝される結果となった。それはソ連邦に止まらず世界中の衆目に止まったということなのです。あまりにもよく知られることになった結果、かえってまともに評価することが出来難くなった。早い話、関西では「部長刑事」という連続ドラマの標題音楽に、長いことなってましたね。 屈服や妥協や逃亡は、思想的抑圧や弾圧下にあってはよくある話で、別にそれ自体ことさらに非難されるべき事柄ではない、というより外部の者が安全地帯からどうこう言える筋合いのものではない。しかしこれほど明晰に明示的な音楽を聴かされると、普段抑制的な批評や判断をしている人たちでさえ、その旗色をハッキリすることを迫られる。これはたぶん普通の音楽愛好家にとっては、鬱陶しいことだったでしょう。彼が本質的に持っているらしい、室内楽的に濃密な書法を聴こうとする前に、あの第四楽章の太鼓の連打が、耳朶に鳴り響くという仕儀に相成るのです。 弱った話ですね。― つづく ―
2011.07.14
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と、いろいろ文句を付けながらも、では実際に第五番を聴いてみれば、否応もなく感情が昂ぶって来るのもまた事実なので、私はとくに第一第三楽章の緩除部に立ち昇る微細を極めた弦楽のソノリティーが好きです。このあたりを支配する渦巻くような「暗い情念」は、他の作曲家ではまず聴かれない種類の世界で、あえて類例を挙げるとすれば、またもやマーラーの「大地の歌」最終章ということになって来るのでしょうが、私はむしろ音楽より他で探したほうが、もっと近い質感を持った世界があるような気もする。例えばドビュッシーやラベルの音楽が、ありありとフランス印象派の絵画をイメージさせるように。 「どす黒く渦巻く情念性」と言えば、私はゴヤが晩年に描いたスペインの真っ黒な空を思い出します。同じ地中海性の抜けるような青空であるはずが、イタリアの画家と違ってスペインの画家の眼に映じた青空というのは、このようにもおぞましいものであったかと思い知るのですが、このカラカラに乾いた「どす黒さ」は湿潤なショスタコーヴィッチの情念とはちょっと違う。となると、やはり同じロシアの芸術家の中から探すのが早道でしょう。 と言うわけで、私はショスタコーヴィッチの執拗な質感にいちばん近い肌触りがするのは、ドストエフスキーの描いた小説世界ではないかと思っています。 「何だ、そんなことなら誰でも言える。要はロシア的風土性ということが言いたいんでしょッ!」と謗られてしまいそうですが、まあ聞いてください。「母なる大地」をロシアの風土性の根幹に置いたトルストイに比べ、ドストエフスキーもショスタコーヴィッチもはるかに都市的な感触を持っているのではないか?ひらたく言えば、サンクトペテルブルグを彷徨する孤独なインテリゲンツァを思い起こさせるのです。要は、かなり知的にリファインされた人たちです。 かといって、じゃあまったく同じ感触か?と言われれば、もちろん違う。早い話が、ドストエフスキーが社会主義思想からロシア正教に志向するに連れ、何となく個人的な「絶対孤独」から抜け出ていったようには、ショスタコーヴィッチはその芸術的孤独性から免れていないように思える。彼は表面の社会主義的非宗教性を、最後まで脱ぎ捨てることはしなかったような気がするし、また彼自身の指向が、もともとそれほど宗教的な方向には向いていなかたんじゃないかという感じがするのです。これは何かハッキリした根拠があって言っているんじゃなくて、あくまでその文学や音楽から受ける感触の話です。 同じような事柄が、マーラーとの親近性についても言えるので、ショスタコーヴィッチはとくにマーラーの「大地の歌」の書法にひじょうに惹かれていたそうですが、それでも彼らを分かつ最大の要因は、その宗教への指向性の違いなのではないか?マーラーが熱心なユダヤ教徒であったかなかったかということではなく、彼の身振りには紛れもなくユダヤ的指向性が現れている。これ(「ユダヤ」とは何か?)を持ち出すと、また話が長くなるのでここではしませんが、似たような書法が第五番に散見されても、受ける印象はずいぶん違う。 余談ですが、私はむしろマーラーとの親近性については、バーンスタインのほうがはるかにあると思う。先日これもまたベルリンフィルの定期演奏のビデオで、C・アッバード指揮の「大地の歌」をやっていたのですが(しかも驚いたことに、演奏日時が五月十八日となっていて、ということは佐渡さんの客演指揮の二日前ですね)、久しぶりに聴いていて、昔この曲から受けた印象を思い出しました。最終楽章の「告別」と題された長大な音楽の流れを、ずうっと支配的に進行させているのが、どうもハープの爪弾きにあるようで、同じような執拗な通奏音程の進行がバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」にも(もちろんハープではないですが)、あったような気がする。 専門的なことは分からないですが、同じような気分ということでは、「ウェストサイド・ストーリー」全体を支配している一種独特の無時間的な雰囲気は、「大地の歌」に近いとかつて私は思っていたものでした。 となると、ショスタコーヴィッチの作り出している気分は、それらに近い書法でありながら、やはりだいぶ違う。その違いの由って来るところは何なのか?― つづく ―
2011.07.06
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はじめに申し上げたように、私はこの第五番と言わず、近現代の作曲家の中でショスタコーヴィッチが苦手なのです。独自の濃密な音楽世界を持ちながら、本人の意思とは関係のないところで、その作品を意識せざるを得ないというか、聴かざるを得ないというのが、何としてもしんどい。こういうしんどさと言うのは、例えば他のマーラーとかシベリウスとかバルトークなどを聴くときには、絶対無いものです。 日本では敗戦後、なぜか「左翼的」政治思潮が教育現場では長いこと優勢で、実際私の通っていた小中学校でも、「安保反対!」とか「勤務評定反対!」(古いですね)と叫んでデモごっこをするのは、子供の間では最もイケてる遊びの一つでした。つまりそうした遊びをしていても、誰も止めないという雰囲気がずうっとあったのです。というわけかどうか知りませんが、日本ではこうした音楽を取り上げること自体が有する政治性に対する抵抗感は、一部のヨーロッパ通の音楽専門家を除いて、あまり無かったように思います。 そんなこんなで、当時ソ連からの音楽家の来日は、ことのほか多かったような気がするし、またその評価も党派性の強い新聞を初めとして、ずいぶん高かったような記憶があります。そしてそれらの評価を最高のかたちで括るのが、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルのショスタコーヴィッチでありました。いわばこの曲の祖型とも言うべき取り合わせでロシア的情念をあられもなく演奏されると、誰も話が出来なくなってただただ恐れ入るというか、音楽評論家の皆さんがいっせいに口をつぐんでしまって、「実際のところ、どうなの?」という事態になったのです。 そのあたりを政治性抜きにして、言わば「音楽だけを聴けよ」という口ぶりで演奏し、なおかつ自身の十八番の一つにしていたのが、他ならぬL・バーンスタインで、当時のアメリカのこれまた手勢のニューヨークフィルでやるということ自体、逆にかなりな政治的意味合いを込めていたでしょう。しかし当時の日本にあってバーンスタインの扱いというのは、音楽評論家の間では彼がアメリカ人であるということだけで(そしてたぶんウェストサイド・ストーリーの作曲家ということで)、ヨーロッパの伝統からかけ離れた似非クラシックというような、ずいぶん冷淡な扱いだったような気がします。 日本では彼をどう評価するかということは、ショスタコーヴィッチを認めるか否かと同じレベルの政治的立ち位置の判断になっていたのでした。その評価が一変したのは、彼がウィーンフィルとやった一連の歴史的な演奏会でしたね。ヨーロッパの伝統にとにかく厳密に沿って評価を下すというのが、「政治的に正しい」という日本の音楽専門家にとって、これはなかなか辛いことであったわけです(たぶん)。 同じような事柄が、この第五番についてもずうっと付いてまわったわけで、この曲をどう評価するかで、何となくその人の音楽趣味のレベルを測ってしまうという、はなはだ退屈な状況がずうっとあったのでした(他ならぬ私がそうでした。ムラヴィンスキーやバーンスタインを誉めそやす友達をつかまえては、文句をつけるということを繰り返していたのです)。 さて時代も変わり、ソ連邦が崩壊するに及んで、多少この曲に対する評価にも冷静な目線が出て来たかというと、そもそも日本ではそうした歴史的経緯はあまり意識されていないので、何となくズルズル来ている感じがしないでもない。もともと日本では「音楽には政治性とか党派性など関係ない、良いものは良い、悪いものは悪い、ただそれだけで充分」といった感じがあります。逆に言えば、「音楽にそんな力があるわけがない」とタカを括ったところもあるのではないか? 「音楽を楽しむ」という仕方はまさしく自由で、上のような立ち位置ももちろんOK。今どきそれをダメなどと野暮なことを言う人はいません。しかし、かつて例えばシベリウスの交響詩「フィンランディア」が、フィンランド独立運動の血みどろの象徴足り得たように、この「革命」もそのソ連共産主義革命の「召命」を受けて喧伝されてきたことも事実なのです。で、同じようにベートーヴェンがナポレオンと同時代の人で、その市民革命的気分の中で数多の音楽を生み出したのも事実であって、彼は時代から隔絶してまるっきり中空に浮遊しながら作曲を行ったわけではない。 要はいずれにせよ、必ずこうした歴史的文脈を負って生み出されて来た音楽を、今どきの世で演奏し聴くとはどういう意味を持つのか?それぞれの曲が発する問いかけ(「謎かけ」といっても好いかもしれません、マーラーを聴いてごらんなさい。彼の音楽は今だ以って「謎かけ」だらけなので、ますます盛んに演奏されるのでしょう)に応えるのは今の我々であって、もちろんすでに過去の人であって、蘇るはずもないベートーヴェンでもショスタコーヴィッチでもないのです。同じように彼らの時代もまた二度と戻って来ることはありません。 ベルリンに限らずヨーロッパでクラシックを演奏し聴くということには、自分たち世界の問直しという意味合いが常にあると思う。ロシア人でもなくヨーロッパ人でもない指揮者によって、今の世にあのショスタコーヴィッチがどう聴こえて来るのか?これは逆にヨーロッパ人にとって、北の永遠の超大国「ロシアとは何か?」というのを、冷静に問い直す機会でもあるわけです。― つづく ―
2011.07.01
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