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さて、前後してしまいましたが、いちばん肝心な現政権の「構え」についての話です。先に私は「今回の緊急災害対応にかんしては、現政府は比較的まだうまくやっているほうだ」と書きましたが、それはあくまで「阪神大震災」他でみられた災害緊急対応と比較して、ということであって、何もかもがパーフェクトと言っているわけではない。「棒立ち状態より、まだマシ」というレベルなので、その後のさまざま出て来ている生臭い事象を見ていると、すでに看過出来ないものもあるのです。 ということは、今回の発災時に立ちあがった「災害緊急対応」というのは、現政権の「構え」とは関係なく、ある意味システィマティックに動いているところがあるということなのでしょう(それが「阪神」以来の積み重ねであることは、前に触れました)。現政権はさかんに今回の震災が未曾有の大災害であって、国家レベルの危機を呼号し(それは事実なのです)、超党派の連携と協力を求めていますが、その手法を見るかぎり、本当に本気でそう思っているのか、おおいに信用を欠くと言わざるを得ない。常に政権浮揚の手段にしようとしているのではないか?という疑いがついて回るのです。 真の意味で国家レベルでの結束が求められる現状において、こうした生臭い下卑た観測が現れてくること自体、浅ましくも情けない話ですが、先に小沢系の人たちの振るまいかたと同様の心理が、この民主党の現政権には働いているのではないか?つまり、この政権の語法とかマインドは、この未曾有の震災後でも、まるっきり変わっていないらしい、ということなのです。 一言でいえば、小沢的利益誘導という政治手法と、党内セクト争いを繰り返してきた左派系民主党という、まことに退屈な古い体質が、ここに来て最悪のカップリングを示す結果となっているということです。この二つは宿阿のようにこの党に張り付いて、ほとんど条件反射的なレベルの振るまいかたにまで、なっているのではないか? こうした大災害時、野党にとって政権打倒といったコトバは諸刃の剣であって、ヘタに呼号するとかえって批難されかねない。そのあたり、谷垣さんも山口さんも抑制的な発言をしているにもかかわらず、かえって菅さんのほうが挑発している(ように見える)、というのはいかがなものか。どれだけ「へタレ」であっても抑制的に振るまっていれば、現状取りあえず政権は保てる(早い話、今総辞職とか解散なんて、本来あり得ないのです)。しかしそれ以上の妙な色気が、この人からは意地汚い形で露呈してしてしまっているので、もし何分かでもそうした色気をこの段で出し続けるのなら、「菅さん、辞職しなさい」ということになるのです。 じつはこれ、例の青山繁晴さんがご自身のブログで、早くから発信されていたことなのですが、当初「なんぼ何でも、この火急の折りに辞職勧告はないだろう」と思っていたのが、ここまで書いて来て、むしろ私の中でも現実味を帯びて来てしまいました。 大災害とか戦争のような、いわゆる「国難(私は、あまりこういう言いかたは、好きではありません)」の事態というのは、得てして時の政権が「結束」を呼号するだけで、国論をまとめやすい状況であり得る(諸外国で政権が意図的に他国との緊張状態を作るとき、というのはたいていこれでしょう)。しかしそれはあくまで、政権が事態に真摯に対応している、という条件下においてのみ通用する話であって、それが自政権の浮揚に利用されるとなると話は別。 多少の生臭さはあっても、とにかく「何もしない(泥をかぶらない)施政者よりマシ」かな、とあまり聞きたくない報道と思っていましたが(早い話、これが鳩山さんとか村山さんだったら、どんなことになっていただろう、と思うとゾッとしますね)、それがあまりに露骨になるとウンザリです。そしてそのあたりの生臭さは、本人たちが思っているよりはるかに私たちには敏感に嗅ぎ取れてしまう。 私に言わせると、真に国難というべき状況下でなお、政治的小競り合いを繰り返している現政権は、結果として本来「結束」すべき国論を割る事態を生み出した、という意味で早期に辞職したほうが良いと考えるのです。 しかしながら、実はそんなことよりはるかに重大な脅威を、この政権は日本に招いているらしいのです。それは言うまでもなく、国外からの脅威というかたちとなって現れている(らしい)のですが、どうもこれも充分意識されているとは言い難い。例の青山さんの一般に無料公開されたブログでは、そのあたりの中味は示唆に止まっているので、はなはだ納得できないというか、むしろあらぬ噂を撒き散らしかねない、という意味で有害である、とさえ思っていたのですが、ここへ来てちょっといろいろ考えてしまうのです。― つづく ―
2011.03.31
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今回驚いたのは、こういう「得体の知れない恐怖」という受取りかたが、日本人だけに固有に現れる禁忌の状態なのかというと、どうもそうではなくて、世界的に共有された「恐怖」、ひょっとすると日本人以上に、強いバイアスが外国メディアおよび外国人にはかかっているように思えることです。 これはその方面の専門家は別としても、一般には日本人のほうがはるかに「原爆」や「放射能」にかんする、さまざまの知見を共有している(らしい)ということで、外国メディアのパニックぶりは日本以上かもしれません。このあたり、諸外国と日本における官憲と一般市民の関係性の違いが、ある意味色濃く現れているのかもしれない。 前にも述べた、日本人の「お上と臣民」という有り様が、やはりここには現れているような気がするのです。つまり、日本人は国の発表に多少の疑いを抱きつつも、一定の信憑に基いて受け止めようとするのに対し、外国メディアと諸外国の一般の人たちは国と対等の立ち位置で、それぞれが個別で判断しようとしている。つまり「間違っても鵜呑みにはしないぞ」というスタンスなのです。これは逆にいうと、諸外国では「官憲の公式発表というのは、必ずしも信用出来ない」という態度が常識として共有されている、ということではないか?例えば、中国のように「いちばん信用できないのが、何しろ政府発表(!?)」というのが、国民通有の常識として何千年も共有されて来たというのは極端としても、西欧社会でも国家機関と国民の間にある、多少の緊張を含んだ距離感というのは、間違いなく日本とは違うという気がする。 私たちの、日本政府および政府機関が発表する数値に対する受け止めかたと、西欧メディアの受け止めかたや取り上げかたには、その態度に明らかに違いがあるのです。これは私たちが日本固有の語法で、(ある種の前提で)これらの記者会見を聞いているのと同様に、西欧メディアもまた、それまで自分たちが養ってきた西欧社会の語法で、日本政府機関の発表を聞いている、ということでしょう。 「いや、そんなことはない。日本のメディアも連日、政府批判をしているではないか」という声が出てきそうですが、私は「どうも、それは違うみたい」という印象を受けているのです。この批判のしかたには、実は「間違いなくどこかでは本当のことが分かっていて、それは必ずあるはずだ」という前提で批判を加えている、というところがある。 しかし、そんな「本当のこと」というのが、ホントにあるのかどうかということになると、じつは誰も確信を持って言うことが出来ない、というのが実際のところなのではないか?なかんずく「放射能」というコトバは、またしても日本固有の歴史的文脈によって、色濃く規定されているのであって、それは西欧メディアとも違う。暗に「じつは誰も本当のことは分かっていないのではないか?」という不安があって、それが逆に政府政権に対する強圧的な態度に現れているのです。 要は、内心の不安を、例によって他所に仮託したい、という心理が無意識に働いている。東京の民放キー局の報道ぶりは、まさしくそれを絵に書いたような形で、現在も進行させているのです(NHKも似たようなものです)。 とはいえ、放射能障害に対する治療医学の知検というのも、その固有の歴史によって、どうやら日本は世界最先端にあるようで、私は私なりのしかたで、先の「放射能障害というのは、活性酸素によるもの」という専門家の方の説明はとても納得できる。「納得できる」というのは、中味の真偽ではなくて(実際医学の専門家からも異論が出てきそうです)、その語法によって、「放射能」というコトバを妙な禁忌から取り外して、一般の地平(新型インフルとか口蹄疫とか)と同様の目線で扱おうとしているからです。 私にとってこういう態度を知ったことは、今回の一連の大災害を通じて、唯一ちょっとホッとした事柄でした。― つづく ―
2011.03.30
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と、こう話して、おしまいに、いちばん肝心な国の行政執行者について語ろうと思っていたところが、タービン建屋内での作業員被曝と高濃度放射性物質漏出のニュース、被曝と原子炉の状況が最悪の経路をたどらないことを祈るばかりですが、これを先に話しようと思います。作業員被爆については、これまた行政側と同じく、東電側にも牢固とした硬直した企業マインドが、蔓延しているのではないか?という気がかりを与える出来事なのです。それと合わせて濃度放射能がタービン建屋地下に、大量に漏出していた問題。これはどちらかと言うと、これを取り扱うマスコミとそれを見たり読んだりする受け取り側の態度にかんすることです。 またまた憂鬱な話なのですが、他ならぬ被曝した作業員が、東電の下請会社従業員であるということで、これまた例のJCOの事故がやはり下請の従業員だったことを、否応なく思い出さざるを得ません。うわべの先進科学技術の裏で、原子力のいちばん危険で汚い部分の始末を、実は日の当らない作業員が、ほとんどすべて「引き受けている」という事実を、です。 世の中には、こうした日の当らない現場というのが必ず存在し、それらについて何もかも開示すべきかと言えば、私はそうは思っていません。秘すべき現場というのが、世の中にはいろいろあって、むしろそうであることによって社会が円滑に動いていく、ということもあるのです(それがどういうものなのか?は、みなさん想像してみてください)。 大事なのはそうした日の当らない現場であって、処遇そのものも理不尽な扱いを受けてはいないか?ということなのです。かつてのJCOで明らかだったように、当時の下請従業員は、ほとんどまともな核分裂反応にかんする教育研修も受けていなかったらしい。今回の作業員が同じ、とはもちろん思いませんが、その扱いにかんして、多少とも「ないがしろな構え」が東電側になかったか?こんなことは、今命懸けの作業を行なっておられる現場の東電他の作業員の方には言うべきことではない。しかし少なくとも東電本社はそのきらいについて検証する必要があるし、そうした(心の内の)構えそのものを見直す必要があると思う。 マニュアルどおりにやってれば間違いないはず、ということで、あとは下請に「丸投げ」といった意識が社内にあったか?なかったか?(これぞまさしくお役所仕事です)実際の現場でどういう作業が出来するか、どこまで東電側は把握していたのか?このへんはお互いのノリシロ部分が重なって、充分に呼吸が合っていないと、必ず予期せぬミスや不信感が、肝心の時に出て来るものです(どうも残念なことに、さまざまな噂からして、これらの話は現実のようですね)。 自衛隊や消防のハイパーレスキューの決死的な消火作業に、どうしても日が当ってしまいますが、危険で汚い作業は日常的に放射線に曝されているこの人たちが、「引き受けている」ということを忘れてはいけません。 さて、それよりも重大なのは、タービン建屋地下に漏水している高濃度放射性物質のことで、いよいよ炉心溶融という最悪のパターンも予感される事態ですが、ここで発表される基準値の数千倍、数十万倍という数値は、マスコミもよほど慎重に報道しないと、誤報ではないにしても受取り手をミスリードする危険があるのではないか? ただでさえ、半径20キロ内自主避難とか、大気や水道に微量とはいえ放射能が検出されて、神経質になっているさなかに、生煮えとは言わないでも、デカい数字をただし書きなしで、見出しに何度も使うのは、いかがなものか?世の中、ほとんどの人は、新聞もテレビも上面だけをサラリと眺めるだけですよ。いくらチャンと読めば、キチンと見れば分かる、と言われたって、普通の人は第一報ないし大見出しで、大かたの判断をしてしまうものです。「それは予断だ」と言われても、テレビも新聞も要はそういう扱われかたを普段からされている、ということを、もっと意識していないといけないのではないか(むしろ「しょせん、そんなレベルなのだから」ということで、マスコミ自身も、自身の報道の仕方について、消費者に甘えているところもなかったとは言えないでしょう)? 特に、今回の「放射能」という字面は、その活字自体が他の用語とは、まったく異なった反射波を、受け手に放っているのです。それは例えば「原爆」や「チェリノブイリ」のイメージをただちに喚起するのであり、人によっては「第五福竜丸」や「黒い雨」を思い描くでしょう。私なども小学生のころ、米ソの核実験があるたびに、「雨に濡れたら、頭が禿げる」と言われたことを思い出します。 要は、「放射能」という言葉には、最初からそれぞれのしかたで、得体の知れぬ「不気味」というイメージが刻印されていて、それはたんに「目に見えないからコワイ」といったレベルとは少し違うような気がする。「目に見えない」ということであれば、新型インフルエンザウィルスも口蹄疫も目に見えないのです。しかし「放射能」をそれと同断にイメージする人はいないでしょう。 結局のところ、「放射能」に特段の反射波を感じるというのは、それが自然界の産物ではなく、人智の作り出した悪魔、そしてそれの及ぼす災厄が人類史上最悪のものとして体験されたこと、しかもそれが一過性でなく子々孫々に亘るものであるらしいこと、といったうろ覚えの記憶から来るので、これは上のような病原体のイメージとは明らかに異なる。 しかしよく考えてみると、私たちは「放射能」というものに、それほど深い知識を持っているわけではない。ひょっとすると上の病原体以上にも、常識的な「放射能」を知らないのです。なぜそうなっているのか?このたびの原発事故を見ながら、私はある種の「禁忌(Taboo)」感覚が、送り手にも受け手にも働いているのではないか?と思うようになりました。 そのヒントは、関西系のテレビで放射線医学の専門家の話を聞いていて、触発されたことなのですが、その人の言うには「放射線障害とは、要は活性酸素による障害です」という発言です。「活性酸素」と言えば、「抗酸化作用」といった用語とともに、いわゆる「健康食品」系のキャッチコピーによく出て来る単語で、不気味でもなんでもない。私は「放射能」と「活性酸素」の与えるイメージの落差に、ほとんど目眩に近いものを感じました。 じつはそう言われたアナウンサーやコメンテイターたちも、一瞬立ちすくんだ感じで、それの意味するところが理解出来なかったみたいで、同じことを聞かされた二つのテレビ局とも、それ以上突っ込まないのです。私はそこに「禁忌」の「禁忌」たるバイアスが強力に働いている、という気がする。 要は、「放射能」は「活性酸素」というような分かりやすい(とイメージされている)語法で語られてはいけなくて、あくまで「ワケの分からない」「不気味なイメージ」でなければならない(らしい)のです。 したがって、この放射線医学の専門家が、「適量の放射線を浴びるのは、身体の免疫系を刺激するので健康に良い!?」「私は、これが専門なので、毎日これだけ浴びている」と、かなりご高齢でありながら、健康なお顔で言われると、みんな困ってしまうわけです(反原発を主唱されている学者専門家の顔色のほうが悪く見える)。 まあ冗談はさておき、要は「放射線」は身体に「活性酸素」を産生させ、その「活性酸素」が細胞のDNAを破壊する。しかし身体は本来破壊されたDNAを修復する機能(免疫系)を保持しているので、普通はほっておいても元に戻る(恒常性維持機能)、これは何も「放射能」に限らず、動物は運動すれば必ず体内に「活性酸素」を産生し、同時に身体はそれに対処すべき免疫系が活性化する(だから、健康に良い!?)ので、これは生命が「酸素」をエネルギー源として飼いならした太古からの生命システムであって、本来自動的に除去されるものである、ということ。 それでなおかつ危険とされるのは、急激かつ高レベルの放射線を近くで浴びる場合で、これはハッキリ言って実際に現場で必死の作業を行っている東電他の作業員の人たちに関するものなのです。急激かつ高レベルの放射線が、高レベルの「活性酸素」を産み出し、身体の免疫系の作用が及ばなくなる。修復が間に合わなくなることで、細胞壊死や癌の発生が生じるわけで、当然そうした場所の立ち会う人たちには特段の防護態勢が必要です。 しかし、それと周辺地域あるいは近郊地域の危険性を同断に扱うのはおかしい。まあ、そういう意味でもアメリカの半径80キロ圏内退避指示というのは、罪作りだったわけですが。― つづく ―
2011.03.29
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まず第一は、本来科学的客観的語法で語られるべき原発安全問題が、ことごとく「政治取引の具に供されてしまう」ということで、住民や首長が日頃から本来心得ておくべきリスクとか対策とかが、国や電力会社からまともに開示しづらくなっているということです。政治取引の具に供された結果というのは、今まさしく原子力保安院とか東電側からの語法に端的に現れているので、これは長年にわたって続けられて来た原発行政のなれの果てなのだと思う。 こんなに「防御的姿勢で語られる」ものの言いかた、というのを私は長いこと聞いたことがありません。これは原発行政というのが、どういう語法によって行なわれて来たのか、ということをもっとも醜い形で、いちばん肝心な時に露呈させてしまっているわけで、私など溜息ばかりが出てしまいます。彼らはまさしく「糾弾される被告人」の語法でしか、ものを言えなくなっている(つまり、自分たちにとって都合の悪いことは、隠すか、はぐらかすか、要は明言を避ける)のです。 言っている中味より、その語りかたによって、どれだけその信頼性(credibility)を損なっているか。たんに国内向けだけでなく、そのまま諸外国にも流されていることを考えた場合、日本国そのものの信頼性を傷つけていると言ってもいい。本来こうした場面では原子力に精通した専門技官クラスで、説明力のある人が記者会見などには立つべきだ、と思うのですが、長年の糾弾集会的記者会見の空気の中では、誰もまともな話が出来ない状況になっているのでしょう。特にネガの情報を発表する時に、それは顕著に表れているような気がする。 これはハッキリ言って、日本の悲劇です。互いが不信感と苛立ちで、罵り合うようなことをやっているうちに、日本自体が傷つく結果になりはしませんか。そういう空気を作り出しているのは、説明する役人ではない。そういうしかたでしか語り、また聞くことが出来ない、という語法を作り上げたのは、他ならぬ日本人の歴史そのものなのです。 それは先ほど述べた首長たちの「他責的」なスタンスと、強圧的な「請願」のポーズのマインドと表裏一体で、私はこれを「臣民の語法」と呼んでいます。つまり日本人は今だに市民的な対等関係を他者と結ぶ、ということが出来ていない国民なのであり、すべてはお上と臣民という上下の有り様によってでないと、その関係性を心理的に維持することが出来ないのではないか? しかしまあ、それはさておき、こうした有り様における最大の問題点は、首長たちが「原子力は絶対安全」という神話を国にも住民にも宣言してしまうことによって、今回のような破局的な事故が起こったとき、地元首長はその事故災害を「自ら引き受ける」という発想をいっさいしなくなる、ということです。「絶対安全」という言質を電力会社と国から取り続けて来たことが、結果的に彼らの免罪符になっている。すべては他責的かつ強圧的な「請願のポーズ」でしか語られない。 実際にはそんなことはないだろう、実体的なリスクが多少でもあるからこそ、多額の保障や補助金が出ているわけで、それをニグレクトして「これまでもこれからも、原発の問題は全部国と電力会社の責任」というのは、やはりおかしい。何もかも「責任は誘致したあなたでしょ」と言っているわけではないのです。リスクに準じた対価に基づいて今の県の運営が構造化されているのなら、それに見合う「引き受けかた」があるはずだ、と言っているのです。このあたり(ここで県民性など言及する気はないですが)、美浜原発を抱えた福井県などは、まだ地元住民も常識的なマインドを持っているような気がする。 県の行政の長として「自ら県民を引き受ける構え」というのが、応分以上に求められているのが、まさしく今なのだ、と私は思うのです。「鳥取県西部地震」時の片山知事は、まさしくそういう引き受けかたをしたでしょう。「阪神大震災」の時だって、まあとにかく国が棒立ち状態のさなかに、いろいろ叩かれ続けた兵庫県知事と神戸市長ですが、それでも自分の職務をこのように他責的には語らなかったような気がする。― つづく ―
2011.03.27
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私が申し上げているのは、個人的な攻撃をしているということではなくて、議員とか首長とか行政官といった皆さんの今回の事態に対する振るまいかたに関して苦言を言っているので、いわゆるタメにする議論ではありません。残念ですが、このあと首長の皆さんや国政の中心にいる人たちに対しても、かなり批判を加えようと思っています。 今回の発災後の経過を見ていて、何となく気になりながら、それが何なのかハッキリしなかったのですが、ここ最近のテレビを見ていて気づいたことがあります。 それは災害が広域かつ大規模なうえに原発事故も誘発して、国が最初から表に出て来て目立たなかったのですが、「阪神大震災」や「鳥取県西部地震」の時のように、各県の首長がまるっきり顔を出していない、ということなのです。発災状況があまりに深刻なので、それどころじゃない、ということなのか、とも思っていたのですが、原発事故に対する福島県知事の発言を聞いていて、どうもそうじゃない、根本的な「語法の違い」がありそうな気がする。 その「語法の違い」とは何なのか? かんたんに言えば、その「他責的」なスタンスと「請願」のポーズです。 第一原発を中心とした半径10キロ圏内の住民に避難指示が出された時の福島県知事の発言。「ここは国の指示に従うだけ」と言ったとか、私には県民の首長というのはいったいどういう立場であるのか、この人は分かっているのかしら?と一瞬思ってしまいました。 一介の京都に住む住民として、何も(他県の)行政の長に偉そうなことを言うつもりは、ここから先もありませんが、その後のこの人の発言を聞いていても、同じ態度が見えてしかたがない。 つまり、この「原発事故に関しては、私にはいっさい責任は無いぞ」という構えなのです。私はこれはおかしい、と思う。 何も「責任はあなたでしょ」と言っているのではなくて、首長の「物事の引き受けかた」として、その物の言いかたは間違っている、と言っているのです。どこにどういう責任があろうが、取りあえずあなたを選んだ住民がそこで罹災している、そこから緊急避難させるといった状況下で、「これは国の指示だから」という言いかたはないでしょう。 日ごろどんな不平不満が現政権に対してあるにしても、そしてその施策に異論があるにしても、それを自分の住民に向けてはいけない。この場合、「国の指示をどうやって自分の語法で語るか」、それこそが「物事を真に引き受ける」という態度であり、首長という職務に必要とされる資質ではないか、と思う。 発災中であり、なおかつ今後どのように収束していくのか、まだ見えていないこの段階で、現地の首長に厳しいようですが、私はそうであるからこそ、もっと県民に対して「自身の言葉」で、強いメッセージを発信し続けるべきだと思うのです。出てくる言葉が「東電の情報は不十分」とか、「被害の補償を国はどうしてくれるのか」とか、要は他責的な請願のスタンスで語られるかぎり、私は地元の真の復興は望めないのではないか、という気がする。 こうした語法とか発想がどこから出てくるのか、ということを考えたとき、これまでの日本の政治風土とか原発行政の問題点が、文字どおりここに集中的に噴出している感じがして、暗澹とした気分になるのです。国費の地元への利益誘導と、そこからのキックバックに群がる政治団体および地方の首長という構図は、原発行政において、そのいちばん醜い姿を昔からさらして来たと言っていいのでしょう。それは一見最先端科学技術、夢のクリーンエネルギーという相貌をまとった原発誘致の説明会などで、必ず繰り返される「絶対安全神話」という、まことに非科学的な議論のしかたに端的に現れているのです。一般の住民が言うならまだしも、地域の行政の長が「絶対安全だな!?」と、何度も判で押したように国と電力会社に念押しを繰り返す。国と電力会社が「絶対安全です」という言質を出すまでは、絶対許さない。住民に対するパフォーマンスがあるとしても、それをテコにして地元への利益誘導を吊り上げる手法というのは、政治マインドとして極めて不健全で、そのモラルを毀損して来たと思う。― つづく ―
2011.03.26
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さまざま異論があろうかと思いますが、私は客観的に見て、今回の緊急災害対応にかんしては、現政府は比較的まだうまくやっているほうだと見ています。未曾有の災害に対して完全にパニクッているというわけではない(むしろパニクッているのは、一部マスコミのほうでしょう)。原発のほうは今もって予測不能の状況ですが、少なくとも以前の政権のような、まるっきりの思考停止、放置状態であるわけではない、ということです(ただし原発事故については、外交も含めて別に話します。現政府の弱点は、むしろこちらに現れている)。 しかしそれは何もすべて現政権の手柄というわけじゃなくて、「阪神大震災」以降の地道な日本の緊急災害対策の結果なのだということなのです。今進行している発災状況への対応は、何度も言いますが、阪神の六千数百人の犠牲のうえに立っている、ということを忘れてはいけません。 それでなおかつ、現政権の「対応が遅い」とか、「間違っている」とか、「政権浮揚に使おうとしている」とか、あげつらうのは依然としてまだ控えるべきだと私は思う。別に現政権を支持するしないに拘わらず、いろいろ言いたいことが山ほどあるとしても、です。私は今もって事態がデンジャーの段階では、むしろ時の首長というのは、被災民と国民に呼びかけを、もっと繰り返すべきだとさえ思っているのです、どれだけ「生臭い」と謗られようとも。 今回見ていて、一番気になっていたのは、むしろもっと真っ先に呼びかけをすべき人たちから、いっこうに発信の姿勢が見えてこないということで、いったいこの人たちはどこを向いて政治をしているのだろう、と改めて思ってしまいますね。他ならぬ小沢さんとその一派、それとその意を汲んだ地元首長たちのことです。 いろいろ批判はあると思うし、おまえはひょっとすると現政権の回し者か?と謗られそうですが、やはり今ここで言っておきたい。それぞれの政治家、行政官、首長たちの語法とか態度といったことをです。 それにしても、やはり小沢さんないしその一派にくみする人々、なぜ今に到るも一言の発信もしないのか?小沢さんの地元であることを差し置いても、何がしかの被災民への発信があってしかるべきである。自分たちがしゃしゃり出るのはちょっと、というのなら(たぶんそんなこと、ここから先も思ってないでしょう)何も表に立つ必要は無くて、それでも例えば何らかの国会決議案(ここではとにかく被災者にメッセージを送る、ということ)を起案することぐらい出来るだろう、ということです。 この場合、一番悪いのは「何もしゃべらない」ということで、このダンマリというのは国家火急の時にあたって、犯罪とは言わないけれども、「不作為」によって国家国民に損害を与えている、と私は思う。「阪神大震災」時の不作為がどのような事態を出来したか?ということを考えるだに、これを私は看過することが出来ません。 これはもう小沢さんに代表される、ある種日本の政治家に共通した宿阿のような体質なのかもしれませんが、国民や地元県民に何も語りかけないどころか、自身のホームページを更新したのが発災後六日というのでは、いったいそのかん何をしていたのか?ということになります。 いらぬ勘繰りを例によって周囲に撒き散らしているわけで、「これによって政局はどう動くか」とか「復興資金はどのくらいになるのか」「それを自身の資金管理団体に、どうやって結局どれくらい還流できるのか」「それを担保にどれぐらいの議員を、新たに自勢力に取り込めるか」といった、まことに生臭い中味にだけ頭が行っていたのじゃないか?と、あらぬ(?)邪推をすることになって来るのです。 私はこれまでのこの人たちの振るまいかたからみて、発災とほぼ同時にそういう発想をしたのじゃないか?と暗澹とした気分で思ってしまう。本人たちはもちろんそんなこと認めるわけがないですが、「小沢的体質」なるものは、その側近や議員たちには、文字どおり骨がらみで染み着いているわけで、そんな簡単に抜けるものではない。たぶん日本国が滅びたとしても、この体質は直らないでしょう。 その兆候は発災後の地元首長たちの発言に、すでに看て取れるのですが、その話は後にします。 小沢派からは「党員資格が停止されているのだから」とか「係争中だから」といった言い分けがなされそうですが、それでもって「何もしなくて好い」ということにはならない。自身を選んでくれた選挙民が、未曾有の災厄に見舞われている最中に、何もしない、あるいは何らの態度表明もしない、というのはクドいかもしれませんが、私にはどうしても信じられないのです。おおかた「(関西人の)おまえは東北人の心など、ぜんぜん分かっちゃいないから、そんなバカなことを抜かすんだ。ダマッてろ!」と怒鳴られるでしょうが、しかし同時に彼らは国政を附託された国会議員でもある(しかも何十年も!)。国税で議員職を得ている以上、私にも説明を求める権利はあるでしょう。― つづく ―
2011.03.25
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私が見るに、今の日本は施政者もマスコミも一般人も、このリスクとデンジャーの違いをよく理解していない、というか、ゴチャまぜにして振るまってようなところがある。 事態が発災中で、「退却線」をどのあたりに引くべきなのか、まだまったく判然としない段階から、政府批判や政局がらみの話題を持ち出すのは本来あってはならないのですが、施政者もマスコミ評論家もわりと無神経に、そういう話をしている。このかん置いてきぼりになっているのは、他ならぬ大量の被災者であって、そんな時に批判めいた論説を吐いたり、したり顔に政局を語るのは、人心にもとることである。現実に流された屋根の上で救助を待っている被災民に、「ああすべき、こうすべき」と言っても無意味でしょう。火事の最中に火事の原因を「ああだ、こうだ」と言ってもしかたがない。現政権にどんなに不満があろうが、実際のところどんな「ヘタれ政権」であっても、この段階では批判は差し控え、被災者に向かって「激励」と「結束」を呼びかけることしかしてはいけないのです。 それは例えば、 ― 「我々は、あなたたちと共にある」 ― というような言辞であると思う。 私が残念でならないのは、現政権にもその批判勢力にも、そうした感覚が薄くて(無いといっているわけではありません。要は感度の問題)、こういう火急の時であっても、何やら生臭い話が跡を絶たない。つくづく日本というのはこんなに平和でのんきな国であり得たのか、と思いますが、前にも触れたように、そうした平和な日本の「負け白」は、その度重なる失敗によって、次第に窮屈になっているという事実。まして今回の災害というのが、千年に一回とか、あるいは地質学的年代スケールで勘案しないといけないような、未曾有の災害である場合、そうした話題は言いたくても、あえて慎むというのが、普通のあたりまえの態度であるはずです。 こうした時、現政府に対してあれこれ批判を加える、というのは、結局現状(余震が収まらない、原発事故が収束しないなどなど)の不安がそうさせるのであり、事態の原因を何かに仮託したいという、人の持つ基本的な生物的欲求から来ているような気もする。別にそれはそれで仕方がないのですが、人という生き物は、ほうっておくとそういう振るまいかたをする、ということを意識しているかしていないかで、後々の結果は大いに違ってくると思う。一時「東電」がまさしく悪者にされかけていたのですが、このところその矛先を次第に現政権に向けようとする気配が看て取れます。時の最高権力というのは、少なくとも敗戦後日本では最も批判しやすい組織だからです。 しかし、自然災害の原因をどこかの誰かのせいにしても、しかたがない。それこそお天道様に笑われますよ。 ずいぶん以前に、「阪神大震災」の記憶をこのブログで書いたことがありますが、私は神戸の罹災民は、時の村山政権が事実上半日以上にわたって神戸を放置したことについて、決して忘れてはいない、と言いました。村山さん個人の資質というよりも、時の日本の政府行政組織全体から見放された、ということをです。私はそのかんに倒壊した家屋の下で死んでいったであろう、たぶん千人を超えるであろう犠牲者を忘れてはいけないと思う。 こうした行政や政権の失敗について、ハッキリと指摘した記事が無くて、なぜか「想定外だった(行政も政治家も科学者も)」ということで、すべてお茶を濁している感じがある。しかし事件や事故というのは、すべて「想定外」だから生じるのであって、危機管理というのは、まさしくそうした「想定外」の事象が起こったとき、どういう振るまいかたをするのがベターなのか?ということを考えることなのです。 今回の「東日本巨大地震」が、「阪神大震災」をはるかに上回る巨大地震であったにしても、そして例によって「誰も予想しなかったような」大災害であったにしても、我々は「阪神」を経験した日本国民であるということ、そしてそれが多少でも今回の災害対応に生かされているのか、ということが問題なのだと思う。― つづく ―
2011.03.24
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さて、先に挙げた三つのポイントのなかで、前後してしまいましたが、 今回の危機管理の上での、政府その他行政機関、及び東電の対応ぶり、さらに加えてそれを取り囲むマスコミ、政治家たちの振るまいかたに関することです。 私はここにこの未曾有の大災害の拡大をどこまでで抑え込めるか?言わば、日本国の「退却線」をどのあたりで引けるか?の成否がかかっているように思える。 例の内田樹さんが、現在の日本という国の「負け白の大きさ」ということいついて、以前触れられていましたが(「街場の中国論」他)、この人の論によれば、今どきの日本ほど政治的社会的失敗を重ねても、国そのもののかたちが危殆に瀕することの少ない国というのは、世界的に見ても稀だろう、というのが趣旨だったような気がします。 これは「尖閣問題」での中国と日本の政府の対応振りに関して、日本の一部マスコミあるいは政治家が、ファナティックな発言を繰り返し、中国脅威論と愛国主義の高揚を叫んでいるのに対して為された発言ですが、要は領土問題とか人権問題といった国の基幹的要素に関して、相手国と同じ土俵でいがみ合っても仕方がない(得るところが少ない)、ということなのでした。相手がより先鋭的な語法や実力行使に出てくる場合、それはおおむね相手国の「負け白」の少なさを示しているに過ぎない。ひらたく言えば、この問題に関して中国側ははるかに大きいリスク(政体そのものの崩壊)を背負っている、ということなのです。 日本はその点、仮に尖閣諸島が不法占拠されたとしても、国のかたちが独裁政体に変わったり、クーデターが起きたりといった危険性を想像することは、誰も夢にも思っていないわけで、はなはだ不愉快な事態は今後とも継続するにせよ、あまりそれに乗せられてもしかたがない、要はこれらの事象にいちいち反応するのは「つまらない」ですよ、といった事だったと思います。 しかし同時に内田さんは、そうした日本の「負け白」の大きさも次第に狭くなって来ているのかもしれない、ということも指摘されているわけで、それは今現在の日本に関するさまざまな指標データ(震災前の)によっても、明らかです。 では今回の大災害については、どこまで「負け白」を認め得るのか?分りにくいので、私はこれを戦闘時における「退却線」というしかたで、考えてみたいのです。実際の戦闘でもそうなのでしょうが、例えばスポーツを例に取れば分りやすい。野球なら何回に何点までなら奪回可能か?ということを常に考えながら、選手起用や攻め方を考えるわけで、自他の状況を勘案しながらの判断が求められます。 ここで大事なことは、危険とか危機には二種類あるということです。これまた内田さんの受け売りですが、リスク(Risk)とデンジャー(Danger)の違い、といったところです。元来リスクマネージメント(危機管理)とは、予測し得る危険に対する、さまざまな回避の手法を意味するのですが、今回の事象は地震災害としても原発事故としても、明らかに予測不能、つまり想定のはるか上で生じているわけで、そうした場合、通常の危機管理の考え方は通用しないということなのです。 まだ収束していない原発事故の事象についても、現時点は言わばリスクとデンジャーの間を行きつ戻りつしている、といった状況なのでしょう。となると、それを説明し対策を練る管理者(ここでは政府、各行政機関、東電)には、特別の振るまいかたを求めなければならないように思う。そしてそれは同時に受け手のほうについても、同様のことが求められているということです。 デンジャーのレベルで事象が進行している時とは、先ほども言ったように、事態は「予測不能」あるいは「完全な無秩序状態」を意味するので、この時点で管理者は妙な気休めや憶測は言ってはいけません。この場合求められるのは「激励」と「結束」だけなのです。その点アメリカの大統領などは、何をさて置きこれを国民に語りかけるし、議会も日頃の政争はさて置いて大統領を支持する。 このあたりの呼吸をアメリカ人は(何度も戦争を起こしてきたので)よく知っている。さまざまな批判が出てくるのは、事態がリスク管理の遡上に乗った時点からなのです。 さて今回の事象において、日本はどうなのでしょうか?― つづく ―
2011.03.22
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もう一つは、これも震災当日から三日間くらいは仕方がないにしても、一週間たっても今だ特番で震災報道を垂れ流す報道のしかた(さすがに定例番組も、民放では入り始めました)。これはよほど慎重に言わないと、それこそ不謹慎と怒られそうですが、肝心なのは「今回の巨大地震で、日本全国が被災したということではない」、ということなのです。 知るべきこと、知らせるべきことは重要ですが、少なくとも当該地域以外の我々に対しても、同じ報道を垂れ流し続けるのだけは止めてほしい。後の問題に関わっているのですが、それによって被災民でもない人々が、明らかにパニックに陥っており、結果的にそれが被災者への物資の補給に支障を来すという結果になっている。 被災地以外の人々は今何をなすべきか?もうすでにして義捐金パニックが、私どもの周辺でも起こっていますが、むしろまず第一義に私たちが為すべきは、日常生活のリズムを守ることだと思うのです。テレビで連日流される災害報道は、否応なく被災地以外の人たちに対しても、これまでどおりの日常生活の維持を困難にしている。早い話が、私のいる京都南部でも震災関連グッズが、きれいに店頭から消えています。 テレビで流される多少上ずった震災報道が、現実の店頭に眼に見える形で現れてきたとき、それは全国的なパニックにつながるわけで、何度も言うように、こういう時はキー局を関西に移すか、それがムリなら少なくとも被災地以外は、それぞれの地域報道を重視すべきです。それぞれの地域で為すべきこと、心得ておくことというのがあるのだと思う。スーパーに買い物に行って、お年寄り夫婦が山のようにカップめんやペットボトルを買っているのを見るにつけ、悲しくなってしまいました。この人たちは明らかに連日の震災報道によって、日常生活を断ち切られているのです。 かく言う私だって、震災直後から日常生活のリズムが、いろいろ変調を来たしているのが、分かる。つまりここで日常を維持するというのは、あえてそういう態度を選ぶ(むやみに走り回らず、騒がず)という意味で、意志的努力的な心構えでないと達成されない、ということなのでしょう。 今回、とくに気になっているのは、この巨大地震が首都圏を巻き込んでいる結果、いつもに増して報道が緊張し、かつ興奮しているということ。以前から首都圏の出来事は、地方に比べて誇大かつ多量に報道される、という日本のマスコミの姿勢はNHKも含めて目障りだったのですが、今回は事態が未曾有の災害であるということを勘案しても、ちょっと騒ぎすぎ、早い話「計画停電」のニュースなど、当該地域以外は何の関係もない。ところがそれを見た関西圏でも、なぜか「節電」キャンペーンのようなものが起こりかけている。 残念なことに、現在の日本の電力網は、異なる周波数で東と西に断ち切られていて、変換して繋ぐことの出来る電力量は原発一基分に過ぎないそうです。つまりこちらの「節電」は首都圏の停電対策には何の役にも立たない、ということです。 バカバカしい話ですが、京都タワーのライトアップが中止されているのです。長期的に「節電」というのが、省エネ対策として必要ではあっても(だからつい此間まで、エコポイントをやっていたわけでしょう)、当座の震災対策とは何の関係もない。むしろ節電によって生じる付帯的な景気下降の気分のほうが、よっぽど厄介です。誰だって灯の消えた家電量販店で、液晶テレビを買おうなどと思わないでしょう。つまり震災関連グッズ以外の消費マインドを必要以上に冷えさせる、という結果になっているのです。 このへんは本当に、よく考えてほしい。― つづく ―
2011.03.21
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この巨大地震が発生して以降、ブログのUPを休止しています。もちろん、こんな未曾有の大災害に際して、のんきにブログでおしゃべりもないだろう、というのが主意で、もう一つは現在被災されて行方不明になっている人々も、今からでも一人でも多く助かってほしい、生き延びてほしいといった災発の状況が続いているからです。ハッキリ言って、これを遠くから見ているのは、つらい。今はただただ祈るしかないのではないか?という気がする。 この巨大地震の呼称、テレビ各局や新聞によって若干違いがあるようですが、東日本関東大震災とか東日本大地震とか言われても、もう一つピンと来ない。個人的には直下型の阪神大震災とか関東大震災と質が異なって、これが「プレート破壊によって惹き起こされた巨大地震」という点で、スマトラ沖巨大地震と質を同じくするという意味を込めて、「東日本巨大地震」と呼ぶことにします。 こういう時、早手回しに一般人である部外者が「ああしたら良い、こうしたほうが好い」とか「かわいそう」とか「ガンバって!」と騒ぐのは、極力控えたほうが好いのだと私は思う。往々にして、そうした過度の反応は当該の人たちにとって、ありがた迷惑というか、むしろ目下の作業の支障になるのではないか。 現物送付やボランティアはハッキリ言って、現在は現地を混乱に陥れるだけのような気がする。そして、神戸の時に比べて物資は足りているはずだし、支援体制についても公的機関は十五年前よりはるかに整備されているはず。つまりこの二つは、キチンとした要請があるまで、もう少し待ったほうが好い。 現下の状況で一般人である私たちが出来ることとは、神戸の震災時でもそうであったように、まず被災民に対する現金の支援でしょう。募金はキチンとした銀行振込の出来る機関に絞り、悪いですが街角の募金はパスさせてもらいました。たんに妙な団体が混じっているということだけでなく、実際に被災地に効率よく募金を投下するには、銀行振込がいちばん早いと思ったからです。 というわけで、地震発生から一週間辛抱してきたわけですが、その間のさまざまな事象を見ていて、どうにも我慢のならない自分の気持や事象があって、ここに書いておきたいのです。地震大津波の事象をはじめとして、とくに福島第一原発の状況が目下まだ進行中(悪化するか、沈静化するか分からない)である以上、ヘンに感想めいたことを書くのは不謹慎であるし、本来差し控えるべきことなのでしょう。 とはいえ、テレビ新聞から発せられる報道を見るにつけ、やはりどうしても黙過出来ない事象もチラホラ出て来ているのであって、これは京都に住む私どもにとっても無関係ではない。以下多少の不謹慎の謗りは免れないとしても、いくつか書き記しておきたいと思います。 一つめは、例によってマスコミの震災報道のしかたにかんするもの、 二つめは、危機管理の上での政府その他行政機関及び東電の対応ぶりにかんするもの、 そして三つめは、それを受けた一般人の態度にかんすること、の三つです。 まず報道に関して、これが未曾有の大災害であることは間違いないとしても、報道機関は絶対に当該事象に「興奮」してはいけない、ということです。震災当日、東京キー局が激しく揺れたということもあって、アナウンサーやキャスターが興奮するのは、ある程度仕方がないとしても、いつまでもそういう状態ではいけない。パニックが収まらないのであれば、場合によってはキー局を大阪に変更するとか、要は事態を沈静化させることが第一だと思う。 当日は仕方がないとして、例えば今現時点でも原発事故の報道ぶりでは、専門家よりも明らかに聞き手のキャスターとかアナウンサーのほうが興奮している。要は内心の不安が表に出ているのです。厳しいようですが、こうした時は聞く内容よりも、聞き手の声音あるいはしぐさのほうが大事。見る側はそれによって、むしろ不安を増幅させられるわけです。目下の件として原発事故に関する、とくに民放の外部キャスターのコメントはひどい。自身の内心の不安を視聴者の目線に完全に同一化して、専門家に質問を繰り返すのです(まあ、ムリもないですが)。これでは少なくとも報道バラエティーのキャスターとしての資格はない、と言われても仕方がない。そうした場合は代役でも局アナ(さすがにこういう時は、プロの局アナのほうが落ち着いている)が、変わったほうが好い。 例えば今日などすでに出ている件で、諸外国が在留自国民に対して日本からの避難を呼びかけている、といったようなことを、さも不安げにしゃべるキャスターがいましたが、ちょっと逆を考えれば、地球の裏側で大地震とか政変があった場合、日本政府はすぐに国外退去ないし緊急避難を在留邦人に勧告するでしょう(場合によっては救援機を差し向けるでしょう)。それをするのはそれぞれの国が、自国民の保護に責任があるからで、何も日本自体が日本人が判断している以上に危ないからではない。 とくに被災地での外国人というのは、(言葉が通じないとか)自国民以上に危険や不便がともなうわけで、早手回しに手を打つのはあたりまえなのです。 このあたりの筋を、キチンと報道しているメディアはまだないようで、結果的に素人的な視聴者目線のキャスターがこれをしゃべると、無用な不安感を煽ることになる。首都圏は計画停電も重なって、どうもそれでかなり浮き足立っている、という感じがする。ここは専門家の話を信じて、いかに日常生活を維持するか、ということが肝心なのに、むしろ何とかして専門家から自身の不安の言質を取りたいと思っているような節があるのです。これはすなわち視聴者の不安心理に迎合した、はなはだ質の悪い報道で、場合によってはパニックの原因になり得る。そうしたキャスターは即刻降板すべきです。― つづく ―
2011.03.18
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「ハート・ロッカー」の印象について一言。 K・ビグローという監督(調べたら、何と私と同年なのです)、女性でありながら男的な骨太の作品を撮るということで話題の人ですが、よく言われるように、むしろ元夫のJ・キャメロンと同質の指向性を感じさせる人で、映像的な斬新さは感じさせても、人間の内面への切り口ということにかけては、元夫と同様、たいした冴えを見せているわけではありません。長く戦場にいた結果、爆弾処理作業においてしか自身が確実に生きている、という実感を得ることの出来なくなった兵士という、例の切先線上に生きる人間(Blade Runner)という設定は、性格描写としてそれほど目新しいわけではない。 このあたり、今どきの平均的なアメリカ人の偏頗な思考レベルが露わで、かえってアメリカ的文化のありようが悲劇的なかたちで出てしまっているのです。男的とか女的とかセクシャルな心理動向を、ことごとく批判して来たかつてのフェミニストの皆さんは、その結果現れたこのような映像作家の語法を、どのように評価するのでしょうか? フェミニズムが、今どきの世を「男権支配社会」と断じ、ありとあらゆる社会現象を、ことごとく女性性に対する抑圧と捉えた思考性は、結局男でも女でもない妙に標準化(ユニセックス化)した人物を現実に産んでしまったのです。ビグローの映像にはたんに男的表現を弄ぶ、といった他責的な女からの態度で撮っているのではなく、明らかにこうした語法でしか、彼女は自分らしい映画を撮れない、というところにまで来ているように思える。 逆に言うと、それくらい上手く出来ている、ということです。女監督の看板を外して観ていても、「K-19」や「ハート・ロッカー」は戦争アクション映画としては、文句なく面白くて何度も言うように斬新である。 かといって、じゃあ今後世界の文化状況が、ことごとくこれと似たような方向に収斂していくのだとすれば、やっぱり「おい、ちょっと待ってェや」というところがあるのです。女が、かつての男の占有とされた世界に入って来、逆に男が、女世界にやたらと踏み込むというのが、世界の全般的な状況だとしても、こうした「相互乗り入れ」状態でもって、人智の探求に何か新しい地平が開けて来るのかというと、どうもそういうわけではないらしい。 この映画は、まさしくヒトが人智を探求していくうえでの、語法的な難しさを明らかにしているわけで、斬新な映像の裏側に、作り手の薄っぺらな人間観が透けて看えるのです(これは元夫の映画と、ホントに驚くほど同じ)。 私はやはり、女性性の深奥を同じ性の立場から、どこまでも追及して止まない「ピアノ・レッスン」のJ・カンピオンのような想像力のありようのほうが、好ましいというか、男=オスである私に対して、人智の新たな地平を与えてくれているような気がする。ヒト(生き物)がヒトであるために本来的に具有しているらしい、「可視化不可能な何物か」を男的ないささか擦り切れた語法でなく、男=オスではほとんど解読不可能なしかたで、明示しようとしているところが、我々(男=オス)には驚きなのです。(そういえば、例の「源氏物語」もまた、男的目線で可視化不能な世界を、別の仕方で紫式部は明示しようとしたように見えます。ビグローには、この種の驚きはまったくありません)。 これは何も紫式部たちが、この世の今まで可視化不能であったことがらを、我々の眼前に初めて明らかにしたということではありません。人智の新たな地平を、女性性という新たな観点と感覚で拓いてくれたということなのです。「新たな地平を拓く」とは、「新たな不可視性の存在」をありありと検知する、ということで、人智の営みには結局、最終的な解というものは、おそらくないのでしょう。 ビグローさんにはちょっと厳しすぎる評価かもしれませんが(そうした指摘があっても、たぶん本人はなんとも思っていないでしょう)、この人は娯楽アクション監督として(元夫と同様)一流を究めてもらったら、それで充分ということです。むしろスピルバーグのように、ヘンにマジメ臭くなってほしくないというところもある。― つづく ―
2011.03.10
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「オラが軍隊」といった自警団、あるいは民兵組織の発展系としての軍隊ではなく、近代日本においては軍隊はあくまで「皇軍」なのでした。「徴兵制」はナポレオンが創始したとされますが、ヨーロッパの旧体制の打破を旗印にしたフランス革命の理念を目的とした軍隊の創設は、(少なくとも当初は)自ずと「国民軍」としての認識があったわけで、これは同じように徴兵制を敷いた近代日本では、国民の受け取りかたはずいぶん異なっていたでしょう。 お上の作った軍隊(皇軍)に入ることとは、「兵隊に取られる」という言いかたに端的に現れているように、決して「オラが軍隊」という認識ではなかったのです。 そのあたりは、日本の戦争映画に戦前戦後を通じて、一貫して流れている一種暗鬱な雰囲気に現れているので、自ら作り上げた組織というのとはどうも違う。戦前のプロパガンダ映画を観た外国人が、「これって反戦映画?」と感じたように、「臣民」の語法で語られる日本の戦争映画というのは、ほとんどすべての外国で誤読される要素があるのです(じつを言えば、戦争映画に限らず、日本が発する映画、文学、絵画、その他文物、すべてにわたって、多かれ少なかれ似たような誤読される要素があるのかもしれません)。 「硫黄島からの手紙」が、あまりにも日本映画といったのには、この「臣民」の語法がそのまま色濃く現れているからです。イーストウッドは、そのあたりの違和感を無理に自分の語法で修正しようとはしなかった。たんに栗林中将以下、大量に死んでいった日本兵に敬意を表する、といった次元の話ではなく、他者(異物)とどう拘わっていくのか?どう折り合いをつけていくのか?という、彼のいつものスタンスがそうさせたのだと私は思う。 彼のところに良い脚本が次々舞い込んで、今だに奇跡のように新しい映画を作り続けることが出来るというのは、彼のそうした他者(異物)に対するスタンスが生み出しているので、もし彼が自身のごく個人的な芸術観や手法に強く固執したとしたら、おそらくこのように様々に才能ある映画関係者が参集するわけがない、という気がするのです。 しかし、それはそれで彼の映画作品の評価を、ある意味割る原因にもなっているようで、「グラン・トリノ」も今上映中の「ヒアアフター」も、かなり議論があるようですね。私はそのように自身の完成系を求心的に煮詰めて行くのではなく、むしろ自身の作品を軽々と捨て去ってみせる彼の姿勢にあきれてしまう。もし彼の作法に唯一こだわりがあるとすれば、それは先にも述べたように、コクトーにも似て― 「コトバ」を媒介にして、「画像に可視化できない何物か」を、画像で指し示そう ―というような姿勢だけなのではないか?という気がするのです(スピルバーグやキャメロンの映画では、画像はそれ自体で完全に完結していて、観る側にその裏から立ち昇るような想像力を働かせる余地はありません)。 まあしかし、ここのおしゃべりはイーストウッドの映画評が目的ではないし、「ヒアアフター」もまだ観てないので、これくらいにしておきましょう。 ここでの関連でいうと、要は「戦争」を語るときの語法がアメリカと日本では違う。さらに言うと、たぶん世界各国それぞれの語法を持っているのであって、それはやはり、それぞれの国や民族が固有に持っている歴史や地政学的位置が、そうさせているのだと思う。 じつは日本人は、国内での戦争というものを、沖縄やサイパンを別として体験したことがない。一方的な空襲によって叩かれ続けた経験はあっても、国内で市街戦やゲリラ戦を戦ったことがないのです。これはかつてのヴェトナム戦争や今どきの中東アラブ諸国、さらには沖縄や中国を語るときに、我々は注意しないといけない。空襲においては、一般住民とは一方的に叩かれ続ける存在で、被害者の語法で語られることが多いのですが、自国内での市街戦やゲリラ戦では一方的ということはあり得ない。少なくとも侵入した兵士にとっては、この不分明なる一般住民というのは、不気味そのものなのです(かつて大陸侵攻をした日本軍がそうでしたし、「ハート・ロッカー」に見える恐怖もそうでしょう)。― つづく ―
2011.03.08
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これは逆に言うと、いつも観るたびに感心しているイーストウッドの語法というのが、我々にとってはたぶん優れて特殊的、あるいは少しずつunrealなものなんだと思うのです。何も映画技術的な作法について言っているのじゃなくて、先にも触れたここ最近の彼の映画に色濃い、「崩壊した家族」だの「他者(異物)との関わり」だのといったテーマは、それが英語的表現によって語られる場合にのみ、生きて私たちの腑に落ちてくることを表しているわけで、これらは日本語あるいはそれを媒介とする日本映画の語法では表現し得ないのだと思う。 子供のころからアメリカ文化あるいはマインドというものに、テレビや映画を通して今どき以上に浸されてきた私たちは、字幕を通して外界(他者、異物)を観るということに何の違和感も覚えないし、それですべてとは言わないまでも、ほとんどアメリカ的気分を分かった気持ちでいるのですが、私は何となくそこに大きな見落としがあったのじゃないか、という気がして仕方がない。 ついでに言うと、戦争映画のような場合、日本の映画がごく単純に他所(何もアメリカ映画だけでなく、ヨーロッパや韓国など)と比べて、迫力とかrealさに欠けるような気がするのは、たんに予算が少ないといったような問題ではないでしょう(予算規模だけでいえば、角川映画の「男たちの大和」なんか韓国映画よりはるかに多いはずです)。 となれば、こうした違いでまず誰でも思い浮かぶのは、そのわけは敗戦後の日本が、65年以上現実の戦争を経験したことがないからだろう、という観測が出て来ます。これはとても分かりやすい論法で、早い話、アメリカは第二次大戦後もほとんど絶え間なく、実際の戦争を戦ってきたわけで、海兵隊出身の映画関係者も現実数多くいるでしょう。韓国もロシアもヨーロッパも(要は日本以外の国々は)、片時もなく現役の軍隊を保持してきたわけで、実体験から生まれる映像は、自ずから想像だけで作られた世界とは違う、というのは分かりやすい話なのです。 日本だって自衛隊がいるじゃないか、という反論が出てきそうですが、街中に制服姿の兵士が溶け込んで見えるというような風景は、日本ではちょっとあり得ないでしょう。 しかし私は、そこまでで議論は充分か?という疑問が残るのです。 戦前は街中とか学校で軍人さんは、日本中で普通に見られたはずでしょう。彼らは一般人や学生からは、どのように見られていたのか?じつはそうした印象の記録というのは、あんがい少ないのです。したがって、ここでこういう資料から、こういうふうに見られていたといったような確たる証拠は示せないのですが、これまでのあれこれの話から、ある程度想像は出来るのです。 ひらたく言えば、江戸時代のお侍さんを見るような見方だったのではないか?ということです。言い換えれば、前に触れた「臣民」の語法で、日本人はこうした人たちを見ていたので、それは戦後に至るもある特殊的なステータスに属する人々を見る眼にそのまま残っているのでしょう(例えば高級官僚とか代議士さんとか)。日本映画の作る戦争映画が戦前戦後を通じて、一般に苦役とか試練とか陰気なトーンに満ちているのは、したがって今時大戦でボロ負けに負けたからでなく、戦争そのものを「臣民」の語法で語っているからなのではないか? これは先に述べた「日本には、今だかつて『国民軍』が存在したことはない」という話につながっていくのですが、おそらく大多数の日本人にとって戦争は、やはり自然災害と同じく他所から不可避的に来て、我が身に降りかかって来るもの、という受身な感覚がどこかに潜んでいるのではないか、ということなのです。 自ら作り上げた(参画した)軍隊なら、もっと景気の良い戦争映画もあって良いのではないか?― つづく ―
2011.03.05
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それにしても、同じ硫黄島の戦いを描きながら、この二つの作品はまったく別のトーンを放っている。考えてみればあたりまえの話で、原作(と言うか、もとの資料)が別の作家に由るであれば、紡ぎ出される作品世界も当然違ってくるわけです。そのあたり、二部作ということで中味を等列に観てしまうと違和感が残るかもしれない。 何度も言うように、映画としての面白みは「父親たちの星条旗」のほうが数段上で、それがまたイーストウッドの映画でおなじみの家族の修復とか、まやかしに満ちた権威に対する反発といったテーマとも、自然に溶け込んでいて、兵士目線の戦争というのがどういうものなのか、これほど仔細に描いた映画もない。硫黄島の戦いは海兵隊(Marines)の栄光を語るに際して、第一番に挙げられるアメリカの神話伝説の一つなのですが、彼は決して勇気とか自己犠牲といった、戦争映画にお決まりの演出は加えない。 主題はあくまで衛生兵だった父親が、戦後なぜずうっと死ぬまで葬儀社を営んだのか、その謎解きが基底になっているのです。ここには当然同じ戦場でおびただしい数に上った、死んだ兵士に対する弔いの意味合いが込められていたでしょう。しかしここでも主人公の家族は別として、生き残った他の二人の後人生は悲惨なもので、一人は家庭崩壊、もう一人は文字通り野垂れ死にをするのです。 このあたり、「家族」と「戦争」という二つのテーマは、イーストウッドにとって個人的な関心事も滲ませているような気がする。「グラン・トリノ」の主人公が、朝鮮戦争でのトラウマを抱えているのは、そのまま何がなし彼自身の戦争体験(朝鮮戦争には従軍したようですね)を踏まえているような気もするし、複雑な家族風景も彼自身の個人的な人生とかなり関わっているのかもしれません。 とはいえ、そうした彼にとっての個人的関心事(推測ですよ)について、例えばW・アレンの映画のように露骨に表に出して来るということは、彼はもちろんしませんし、ここの話と関係するわけではない。ただ「グラン・トリノ」に観られた一種の「贖罪死」というのが、「ミリオンダラー・ベイビー」の「安楽死」の問題とも絡めて、ここ最近の彼のただならぬ関心事になっているらしいのは、最新作の「ヒア・アフター」にも出ているようです(私はまだ観ていません)。 しかし、「硫黄島から手紙」だけにかんしては、他のイーストウッド作品に共通する上のようなテーマは、ほぼ姿を消していて、戦って死んでいった兵士たちの姿を、出来るだけたんたんと描くことに重点が置かれているのです。一つには主人公が栗林中将という将官であることで、多少普段の兵士目線の視点が薄くなっているのと、もう一つはやはり何といっても、人物たちがすべて日本人であるということから来る、表現上の限界でしょう。 というより、イーストウッドはよく深入りせずに、そこで踏み止まったと思うのです。演出にはかなり日本側(取り分け渡辺謙)の意見が入っているようですが、もしイーストウッドが(例えば腹切りのシーンとか)、今ある以上に自身が漠然と思い描く表現を試みたとしたら、おそらくこれまでの日本を題材にした外国映画と同様の、妙な違和感を私たちは否応なく抱くことになったでしょう。例えば「ラスト・サムライ」だの「戦場に架ける橋」だのに登場した武士や将官のように(二人ともシェークスピアの登場人物のように、英語的によくしゃべるのです)。 このあたり、イーストウッドはいつもながら抑制の利く人で、英語的語法で日本兵にものをしゃべらせると、その表現からしぐさまでヘンなことになってしまう、ということをよく知っていたのです。早い話、英語の「No!」と日本語の「いいえ!」では、顔の表情も手のしぐさもまるで違ってくるはずでしょう。 「コトバ」というのは、たんにその字面に現れた意志伝達の手段ではない、そのコトバが俳優の音声や書き記された文字によって体現するのは、そのコトバを生み出してきた固有の民族とか国家の歴史や文化そのものなのです。これは外国語に置き換えてはどうにもならない。というわけで興行的には不利でも、ナマの日本語に英語字幕を付けて、アメリカでは公開したそうですね。 彼はやはり「コトバ」に敏感な感覚を持った人なんだと思う。 しかしこうした抑制は、逆に彼自身言うように、この映画をまるきり「日本映画」にしてしまったので、私たちからみて何の違和感も抱かせないとともに、「これって、どこがイーストウッド?」という感想も出てくるのです。ヘンな話ですが、他の日本の監督で撮っても、これなら一緒じゃないか?という疑問が沸いてしまいます。観客としての私たちは、つくづく勝手なものだと思いますね。― つづく ―
2011.03.03
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そして、そうした自身と他者(異物)の拘わり合いを、気張らずにサラリと等価で扱うというスタンスは(これは私の勝手な希望的観測ですが)、ひょっとすると前の戦争二部作「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」で、アメリカ側と日本側の兵士の目線で、戦争をそれぞれ等価で描いたことが、少なからず起点になっているのではないか、と思っているのです。彼が「硫黄島からの手紙」を日本映画だ、と言っているのは、たんなる外交的言辞ではなく、彼自身の内心に潜む、ある明晰な真情から出たものでしょう。 これは「インビクタス」に現れた人種(異種、異物)間融和のテーマにもつながっていますね。 さて、そうした彼の映画もまた何がなし、「コトバ」に裏付けられた想像力の喚起性があるように思える。例の「ミリオンダラー・ベイビー」では、めずらしく表に出て来ましたが「モ・クシュラ(Mo Cuishle ― 私の愛する者、私の血)」という古代ゲール語の呪文は、主人公がいつも事務所の机においていた詩集(アイルランドの詩人イェーツ)が、この古代ケルト語の魔術的力に惹かれたように、イーストウッドも古代語の放つ呪力に魅力を感じていたことを示しています。 彼が華やかな映像表現ではなく、想像力の源泉に「コトバ」を媒介にしているらしいのが、私には好ましいのです。 ところでイーストウッドの映画についていろいろ話して来たのは、このブログのテーマに絡めて上の二つの戦争映画をどう捉えるか?ということをあれこれ考えているからです。この映画については、前のブログで観ようかどうかためらっている、というようなことを書きました。一言でいえば、日本兵が吹き飛ばされ、焼き殺されるシーンをハリウッド式の映像で見せられてはたまらない、というところがあったからです。 スピルバーグが撮影に協力しているというところも大いに気になっていたところでした。日本兵が「プライベート・ライアン」で克明に描かれたオマハビーチのシーンのように、臓腑をえぐられ血飛沫を飛ばすようなかたちで見せつけられては耐えられない、と思うのは私だけでしょうか? それにしてもアメリカ人というのは、なにもスピルバーグに限らず、同胞が殺られるシーンでも驚くほど平静ですね。ここには何か英米人に通有の、我々日本人には量れないマインドがあるような気もする。例えばR・スコットの「ブラックホーク・ダウン」など負け戦の話なのに、兵士が陵辱される場面も平然と撮る。これが日本映画だと阿鼻叫喚、反戦のプロパガンダの気分が、力みかえって必ず表に出てしまいますが、彼らの場合どうもそうしたスタンスとは明らかに違う。まあしかし、これも話し出すとキリがないので、ここではしません。 ある時(三年ほど前)に意を決して、というほどではないのですが、上の二つの戦争映画を続けて観て、ちょっとホッとしたところがありました。このホッとした要因は、明らかにイーストウッドの映画に対するスタンスに因るところが大きいと思っているのです。終わりまで妙な感情の昂ぶりを起こさずに、観終えることが出来たのはなぜなのか? 日本では硫黄島の戦いの惨烈さを、改めて(しかも相手国側から)描いたものとして評価が高いのですが、私はそんな生半な理解で済ませたくはないのです。ハッキリ言えば、映画としての出来は「父親たちの星条旗」のほうが数段上というか、「硫黄島からの手紙」の造りかたには、どうみても前者のスピンアウトな感じが否めない。それはたんに前者の映像を数多く後者に取り込んでいる、といったことだけではなくて、映画的な面白みという点において、この両者には出来具合にだいぶ差があると、私は思っているのです。 映画ドラマ的な結構から観ると、「父親たちの星条旗」のほうが、はるかに良く出来ている。国家の政治的プロパガンダをハナから引っ掛けもしないというスタンスでは、ひょっとすると、これまで数多作られたハリウッド製戦争映画の中でも、最も突出した戦争映画かもしれません。この種の映画は、私の知る限り「パットン戦車軍団(原題はPattonだけ)」と「地獄の黙示録」「シンレッドライン」の三つくらいでしょうか(古くは「西部戦線異状なし」とか「プラトーン」「ディア・ハンター」のような映画がありますが、これらはいずれも逆の政治プロパガンダの印象が強いという意味で、一応ここでは除外します)? しかし「パットン」は、生まれつきの戦争フリークであるパットン将軍の、はなはだ特異な肖像を描くのが主で(確か脚本に「地獄」のコッポラが入っていましたね)、それはそれで見事な造形なのですが、戦争の全体像を観るという点では充分とは言えない。「地獄」と「シンレッドライン」は、戦争そのものであるよりは、戦争を題材にした人間の狂気を描くのが主体になっているように思える。イーストウッドは、そうしたことさらな狂気性や演出を、むしろ遠ざけて例によって平静を装っているように見えます。― つづく ―
2011.03.01
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