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今の彼には、上の「なでしこ」にみるような個人的ではなく、かと言って「お国のために」とか「震災被災者のために」といった外からやって来た「召命」でなくて、間違いなく帰属感を持てるような集団あるいは他者からの「召命」を、ありありとした手触りでは感じ取ることが出来なくなっているのではないか?ということなのです。彼が11年前にアメリカに渡った時は、明らかに日本人野手が果たしてメジャーに通用するのか?という直截な国民的「召命」を、彼自身も痛いほど共有しながらプレーしていたでしょう。 しかし、それは当の彼自身が鮮やかに証明して見せたことによって、もうすでに古びた話題になっているわけで、それに変わるような「大きな召命」を、ここ最近の彼は持ちようがなかったのかもしれない。本来ならばマリナーズというチーム集団が、それに変わるものとして登場していなければならなかったのに、今だに彼は本当の意味で、マリナーズの精神的支柱というわけではない。ちょっとキツい言い方になりますが、10年以上経っても、彼はアメリカ社会では「お客さん」なのです。このあたりオリックス時代とかWBCの時のイチローとは、明らかに彼の立ち位置が違う。 ここで大事なのは、この「大きな召命」なるものが、他所から到来するのでなく、本人の内側から出て来たものとして意識されないと、意味をなさないということです。よく考えてみれば、チームとか組織集団というのは、「生き死に」といった生き物としての根源的な在りかたには、まったく関与するところがない(早い話、個人の「死に目」を会社が看取ってくれるわけではない)。 「いや、そんなことはないだろう。国とか組織集団が潰れたら、個人は生きていけないじゃないの?」という疑問が出てくるかもしれませんが、たぶんここでの問題はむしろ逆で、ヒトというのは「所属集団」という一種の「幻想」を、自身の内部に措定することによってしか、外部に向かって自分が納得できるような振るまいかたは決定できない存在らしいのです。つまり自身のパフォーマンスを最大値に持っていく「個人的必要」のために、自ら所属集団という「幻想」を措定する、という順序を取るということらしい。 そのあたりの理路を、例の内田樹さんが最近のブログで、以下のようにまとめておられます。ちょっと長いですが、― 人間が努力をするのは、それが「自分のため」だからではありません。「他の人のため」に働くときです。ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。「私が努力を放棄しても、困るのは私だけだ」からです。でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い。これは経験的にはきわめて蓋然性の高い命題です。「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「《彼ら》のためにも、オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う。 それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止る。でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。 人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。 ― 格差と若者の非活動性について 内田樹(2011.10.18) ― こうした論説は、ここ最近の「規制緩和」だの「新自由主義」だのといった、欧米製グローバリズムを信奉する「個人絶対主義」者の考え方からは、最北に対置されたものとしてあるでしょう。 「新自由主義」は「自己利益の最大化だけを目的にして、人間は経済活動を行う存在である」と主張するからです。これの前提条件は「確固とした個人」というのが、この世には絶対存在するという信奉であり、そうした「個人」の振るまいは誰からも何ものからも犯されてはならない、という意味で「規制は(本来)あってはならない」「(何からも)自由であるべきだ」ということなのです。 内田さんの説は、一言でいえば「この世から隔絶して独立とした個人など存在しない(あり得ない)」ということでしょう。それがあたかも在るかのように語られるのは、おそらく近代経済学が、人間の経済活動を論じるときに、ヒトを「経済人」という「抽象的な個人」にモデル化したところから始まったのかもしれません。― つづく ―
2011.10.28
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先日、今シーズンのイチローに関して、あらでものことをいろいろ書いたというのは、同じような「召命」を持たせられながらも、「なでしこジャパン」はそれをうまくかいくぐったというか、ピッチ上の身体がそれによって「異様な高揚感」に侵食されてしまうのを、かなり上手に回避したのではないか、というところがあったからです。 彼女たちが勝ち進むに連れて、日本のマスコミの中には「東日本大震災で疲弊している日本に元気を!」みたいな、外部からの「召命」を勝手に求めるような言動が目立ったのですが、当の彼女たちのそれに対するコメントは、私の知るかぎりなかなか気の利いたものでした。 それは、例えば澤さんの言葉に表れているので、 「日本の皆さんには、遠くから応援してくださってありがとうございました。すごく元気をもらいました」と、きわめて簡潔明瞭で、間違っても「東北を元気にするために」とか「日本国のために、頑張りました」といった言い方をしなかった、ということなのです。 このあたり、かつての日本のアスリートたち、そしてあるいは今でも世界中の、かなりの国のアスリートたちは、それをさかんに「言明」したりするよう求められている。日本ではこうした出所不明の「召命」が、アスリートを押し潰して自殺に追い込んだ例もあるし、これまたずいぶん古い話になりますが、ベルリンオリンピックの時の前畑選手など「金メダルが取れなかったら、二度と故国には戻れまい」と思って試合に臨んだそうですね。 個人の身体能力とか動機付けとはまったく関係のないところから、勝手に「名指し」されて貼り付けられた「召命」を背負わされるというのは、完璧なパフォーマンスを実現しなければ勝てるわけがないような世界大会おいては、むしろ余計な夾雑物にしかならない。 国とか組織が後ろについているから「ガンバレ!」とか、「勝たねばならぬ」といった意味不明の「要求」を、それをさかんに言い募ることによって、各選手の能力を引き上げると思い込んでいるのは、実際のプレーとは関係のない、まったくの安全地帯から騒ぎ立てるマスコミと観客大衆だけであり、それをプレーに関与させるかどうかは、一にアスリート本人の「構え」にかかっているのです。 そのあたりの考え方の仕分けを、澤さんはじめ「なでしこ」のメンバーは、よく理解していたような気がする。前にも触れましたが、岩手出身の岩清水選手が「個人的には」というただしつきで、「東北には特別の思いを持って、試合に臨みました」というのは「言明」としてとても正しいし、私はこの人「頭が好い」と思いますね。同じような事例として、私の胸を打ったのが、震災前まで東電の社員だった鮫島選手、ワールドカップのユニホームをフクシマ第一原発の指令所に寄贈している。例の吉田所長の後ろのボードに、守護神のようにして飾ってあるのには驚きました。私は声高に「お国のために!」とか叫ばずに、こうして黙って自身の思いを「表明」する人に、ヘンな言い方ですが、一種「侠気(おとこげ)」を感じてしまいます。 さてさて、ワールドカップ決勝前の日本には「何とか日本のために、頑張ってくれ!」というような空気が充満し、それはそれでファンにとっては無理からぬ気分ではあったのですが、その言葉つきにはずいぶん偉そうなところもあったような気がする。この場合ファンというのは「お願い」する立場であって、物事を「要求」する立場ではないはずですが、「応援」という事柄を「要求」といつの間にやら履き違えて、「勝たねば許さじ」みたいな語気を発する人たちが、街にもマスコミにも少なからずあったような気がする。「国民栄誉賞」騒ぎだって、そもそも「国が与えてやる」のではなくて、「授与させてください」と国民を代表して選手たちに「お願い」するというのが、政治的に正しい「構え」なのです。そのあたり日本の政治家・官僚たちには、今だに何やら「上から目線」で、事に臨むという姿勢が見え隠れしていて噴飯物ですね。 さて、そうした退屈な世間の目線を、「なでしこ」たちが軽やかに回避できたのには、ハッキリした理由があったようです。それも前に触れましたが、彼女たちがもし個人的でない「召命」を、我が身に課していたとすれば、それは間違いなく苦節30年の日本女子サッカーの歴史そのものであったということなのです。むしろそれがあったがために、個人の力を超えた「拡張された身体性」が実現したのだと思う。 では、対するにイチローはどうだったのか?― つづく ―
2011.10.26
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このところ、ブログのUPをズルしているというのは、なにも世事に忙殺されているということではなくて、むしろ反対に時間を持て余して、かえってなにやら良からぬことを考えたりもする、例えば我が身の現況について理由もなく反省を繰り返す、というような愚かな事態になっているからです。 その原因にはたぶん二つあって、一つは今月15日で自分が六十歳!?世間で言うところの還暦を迎えてしまったことで、かつて私が理想としていた翁のような六十代の人間像を思い描くとき、そのあまりの懸隔に愕然として、すべての作業がストップしてしまう(もちろんその中には、このブログのUPも含まれているのです)。で、もう一つは、これは外部的な要因でどうしようもないのですが、やはり近くは「東日本大震災」、そしてもう少し長いスパンで見れば、二年前の政権交代以降に顕著に感じられる日本国の漂流感ということがあるのでしょうか。 まあしかし、政治・経済・社会あるいは自然災害などは、確かに我が身の心象に深く影響する事柄ではあっても、しょせんそれらは「外から出来した用件」であって、いくら慨嘆したり怒ったりしてもそれで身辺の作業がストップする、というような惧れはないのです。 問題はやはり、この抗いようのない我が身の年齢であって、「馬齢を重ねる」というような言い方もあるようですが、まさしく私など「為すこともなく、いたずらに歳を重ねた」感があって、ウンザリしてしまいますね。五年ほど前からトチ狂ったようにこのブログを始めたというのも、やはり基本的には「我が身は何であり、どこへ向かっていて、何を為したいのか?」という事柄を、今のうちに少しでも詰めておかないと、たぶん本当に取り返しのつかないことになるだろうと、ちょっと大げさですが、かなりの切迫感があったことも事実なのです。 60という数字は不思議な数で、いわゆる十干十二支の組み合わせが、グルッと一回りして戻って来たという循環的な数え方もあれば、一方向に60年という時間が過ぎ去ったという捉え方もあるわけです。現代人はすっかり後者の一直線に並んだ時間性の概念に慣れきって、そこに疑念を挟むようなことは、ここから先もしませんが、しかし自然が循環するようにヒトの生も、ある意味「元に戻る(本卦還り)」のではないかという捉え方は、この歳になってみれば誰しも思い致さないわけにはいかない。この場合の「元に戻る」の意味するところは、文字どおり周囲にある土くれに、我が身も近々間違いなく戻って行く、ということです。 してみれば、周囲の土くれがたまたま生命秩序を形成して、意識を持ったこの60年というのを振り返るとき、どのようなパースペクティヴで捉えれば腑に落ちるのか?私の場合などきわめて単純で、20年を一単位として見れば、外形的な個人史などたちまち出来上がってしまうのです。私は西暦1951年の生まれですから、20年ごとの暦年を1971年、1991年、2011年と区切れば、ほぼこの国の階梯と自分の過ごして来た暦呈は明らかになってしまう。逆に言うと、それぐらい何もなかった60年なのです。 この場合、何もなかったとは、私の生まれる20年前の世代(1931年生まれ)は「戦争と、国家の破滅」を経験した世代であり、であることによって私たち以降の世代とは超え難い暦呈を全員が共有しているわけで、今だにその世代と私たちは厳密に心理的には架橋出来ていません。で、しかもこの断絶はそのまま残されたまま、戦争の世代というのは私たちよりも間違いなく先に土に戻っていくわけで、そういうこともあって前に「戦争」に関していろいろ長い話をしてみたのでした。 しかし考えてみれば、明治以降の近代日本の歴史が「戦争の歴史」であったにしても、ではそれが日本の常態の姿だったのかと言えば、もちろんそんなことはなくて、むしろ特殊的に経巡った時代であったかもしれない。早い話、江戸期の日本はどうだったのか?死刑制度のなかった平安時代はどうだったのか?確たる権威が存在せず、政治的にはかなり無秩序状態だった室町期は?ということになると、話はとたんに霞んでしまう。― つづく ―
2011.10.19
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イチローについて イチローの連続年間200本連続安打が途切れたことについて、日米でいろいろなコメントがなされていますが、以下はこれまた私が勝手に穿った話。 スポーツ専門家筋からは、当然彼の年齢から来るフィジカルの限界、とくに動体視力と脚力などを指摘する声が多いようなのですが、素人の私などから見ていると、そうした分かりやす過ぎる「解説」だけではどうも不満なのです。何しろ天下不世出の大天才、おそらくこの世で二度とお目にかかれないタイプのアスリートですから、もう少し特別の「物語」をしても好いのではないか? 早い話、彼のフィジカルの面について誰よりも知悉しているのはイチロー自身であり、これまでの彼の言動からして、自身の身体特性及びその延長線上にある道具について、彼ほど独自の見解を持ったアスリートはいないのです。彼にとって道具とは、明らかに「拡張した身体」そのものであり、おそらく彼はバットの先端を生身の手指と同じ感覚で捉えているでしょう。手指と同じとは、例えばボールをバットの芯で捉える感覚が、あたかも拡張された手の平でつかみ取るかのような感じであるはずで、だからこそ彼は他人のバットを握るのを嫌がるのです。同じことがグラブやスパイクシューズへのこだわりにもあるようで、それらはあくまで彼の他を以って換え難い身体の延長線であるべきなのです。したがって「他人のグラブの上に、平気でふんぞり返るメジャーリーガーの態度感覚が信じられない」という仕儀と相成ります。 道具に対してこういう感覚を持っているイチローが、自身の身体能力特性にかんして、今度は逆に「道具」的観点から隅々まで見つめて来ただろうことは想像に難くないので、彼が試合のあと納得いくまでグラブの補修を行って来たように、自身の生身の身体を顕微鏡で眺めるようなしかたで、念入りにケアして来たのは間違いないでしょう。だからこそ10年以上にわたって、決定的な故障を引き摺らずにやって来れたわけです。年間160試合以上をこなすメジャーリーグを見ていると、10年以上ベストな身体でプレーし続けるということは、他の日本人メジャーリーガーを見ていても、かなり至難の業のようですね。 さて、そういうしかたで自身のフィジカルな面に対して来たイチローであれば、はじめに挙げたような身体的技術的に「誰にでも分かる理由」が原因なら、その解決は簡単だったはず。というか、少なくともその解決への道筋は見えていたはずです。なぜなら、かなり困難な道筋であっても、明晰に判別し得るような身体的技術的な問題であれば、それは自身のコントロール下ですべて対処し得る事柄だからです。 月別の安打数の内訳をみても、今シーズンが今までとはかなり異なった流れかたをしているわけで、だからこれはたんにフィジカルな問題から招来したものではなかっただろうと私は思うのです。それは例えば、彼がシーズン後に語った「心は折れたこともあったど、身体はずうっと元気だった」というコメントにも示されているでしょう。むしろフィジカルな面は、ずうと維持されていた。とすれば、今期の不振は、彼自身ではどうにもならない「コントロール不可」なところから来たものではなかったか? イチローの言動を常々聞いていて、私がおもしろいなと思っているのは、その独特な「自他に関する構え」です。自分がコントロール出来るものと、コントロール出来ないものに関して、彼ほど細かいこだわりをもって、差別化している男はそういないのではないか?自身のやって来たこと、やろうとしていることについては、いろいろな口調で語るイチローですが、残した結果や予測に対するマスコミその他の解説や批評については、いっさい語ろうとしない。ひとことで言えば「そういう話は、そちらで勝手にやってください」というスタンスなのです。 これは言葉だけではなくて、彼のプレースタイルにも現れているような気がする。メジャーリーグでの11年間バッターボックスに入るとき、毎度繰り返す相撲の四股のようにも「儀式化」された一連の動作は、まったく変わるところがない。これはピッチャーがボールを投げ込んでくる何十分の一秒まで、自分がコントロール出来るところは、とにかく最後まで維持しておこうという、強いこだわりを表わしているので、彼が外部に身体を開き、相対する瞬間というのはほんの一瞬なのです。なにやら剣豪の構えを思い起こさせますね。 自分が「準備」できることは、およそ考えつくかぎり全部やった。その上での結果であれば、自分としては納得できる。と同時に、そうして生まれた「結果」については、他者に何を言われても「それはしかたがない」。なぜなら「結果」は「結果」になった時点で、すでに自分の手を離れているからです。彼の頭の中は、すでに次の「準備」に向けられている。 究極の「前向き」というか、アスリートとしての「構え」を、これほどハッキリさせているプレーヤーというのは珍しい。で、その結果生み出されたのが、十年連続200本以上安打という破天荒の数字なのでした。 さて、同じスタンスで臨んだであろう今期十一年目はどうだったのか?先にも触れましたが、印象に残るのは四月期の極端な好成績と、続く五月六月の極端な不振です。いつもと真逆のような、この数字の表れかたには、たんに年齢から来る衰えという説明だけでは図れない、昨年までの十年間とは別の要因があったとしか思えない。で、それはおそらく彼自身の内部に起因する「コントロール可能」な要素ではなく(そうであるなら、不振が二ヶ月以上にわたって続くとは思えない)、過去十年間にはなかった「コントロール不可」な外部からの要因であったろう、と想像してしまうのです。 とすれば、過去十年になかった外部からの要因として、私が思い当たるのは、3月11日の「東日本大震災」しか考えられないのです。「そんなの関係ないじゃん」と言われそうですが、彼が「阪神淡路大震災」の被災者の一人であり、毎年ことさらに1月17日の日付にこだわっていたことを考えてみるに、シアトルにいたとは言え、野球とはまったく関係のない「コントロール不可」な外部からの要因で、彼の身体が「異様な高揚感」に置かれざるを得なかっただろうというのは、あながち不自然な想像ではないでしょう。 それは4月期の彼らしからぬ好成績になって現れているので、結局シーズン全体の彼本来のリズムを崩すことになったのではないか?一種の「召命」を身体が感じて臨んだシーズン(これはおそらく間違いないでしょう)、しかし、それが外部からの「コントロール不可」な要因であった(200本という数字は、彼自身が求めたものでした)ために、その修復は彼自身にはどうしようもないことだったのかもしれない。私はそのように思うのです。 何だか、妄想話になってしまいましたね。
2011.10.03
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