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このあたり、おおいに気に触るけれども、けっして消し去ることのできない異物ないし他者に対して、何とか「折り合いをつける」という感覚が、「自律型」の自由であるべき市民社会を是とする近代社会では、かぎりなく縮減されていったわけで、今やファンドマネージャーたちにとっては、「自己」はほとんど無限大のレベルにまで膨張し、逆に他者あるいは異物はほとんどゼロにまで縮減させられている、と言っていいのではないか?少なくとも一国の国民経済など吹き飛ばすスケールにまで、その規模が膨れあがっているのは間違いないでしょう。 いつごろから国際金融の市場マインドが、実体的な交換貨幣から仮想マネー(泡銭)の世界に変形していったのか?経済学の話は、まるきりの素人である私にはまことに難しくて、ここではとてもできませんが、一つきわめて素朴な金融のドグマとして「投資と投機は違う」という点だけ指摘して、別の機会に考えてみたいと思っています。 さて、では「自律」「自己責任」を前提とした自由の体現者であるべきイチローと、仮想マネーの「勝ち組」たちとの違いは何なのでしょう? 「勝ち組」の代表のような彼が存在し続けることによって、「負けた(出場機会を永遠に奪われた)」アスリートは数多く存在するはずですが、誰もそれによって彼らが消去されたとは思っていない(あたりまえです)。とすれば、イチローの栄光を具体的に担保しているのは、彼の「身体の信憑性」だけと言うしかないのではないか? 考えてみれば、スポーツがなぜヒトを興奮させるのかと言えば、結局のところ、その具体性そのものである互換不可能な「身体」の確かさこそが、その基本に在ると思うのです。みんなそのまことに具体的な「信憑」があるからこそ、安心して熱狂することができるのではないか? ところが実をいうと、その間違いないはずの「身体の信憑性」が、今どき崩れつつあるというか、ボヤけて来つつあるらしいのです。ステロイドその他の薬物によって、手軽かつ異様にマッチョ化したアスリートたちがホームランを量産しだしたとして、果たして私たちはその身体に、どれだけ確かな「信憑」を置くことができるのかといえば、たちまち話は霞んでくるでしょう。 こうしたマインドがいずれ行き着く先は、わりとハッキリしていて、代替可能になった「身体」によって演じられるスポーツは、すでに半ば以上仮想のゲーム世界に足を踏み入れているのです。手軽に代替されたサイボーグ同士の戦いには、本当の意味での「信憑」も「敬意」も私たちは抱くことはできません。 このあたり「臓器移植」や「美容整形」が、あたかも身体の代替可能性を、所与の前提にしたようなしかたで話されるのと、似たような危険があるような気がする。欧米(あるいは韓国)では臓器移植や整形は、まるでビジネスレベル(市場での事務的取り扱い)の話になっているらしいのです。 傷ついた身体を「移植」という手段で回復させるのは、今どきの医療技術の世界にあって、止むを得ない選択肢の一つです。ただし、それが「公認」の場でビジネスとしてやり取りされるのは、やはり間違っている。金融界のリスクヘッジと同じく、表沙汰にはできないが、止むを得ず「折れ合う」べき秘めごととして、これらは取り扱うべき事柄だと思う。同じように整形技術によって、「身体」がいくらでも代替可能なものとして、世間が認知し出したとしたら、ヒトの生き物としての最終的な「信憑性」は何で担保されるのでしょう? イチローの栄光は、その二度と現れない代替不可能な「身体の信憑性」によるものだと思う。― つづく ―
2011.11.24
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賭場でなぜ現ナマが禁止され、チップが使われるのか?話は簡単で、それが現金と交換可能(実際可能です)であっても、賭場で用いるマネーは現実社会のマネーとは別物、という前提を必要としているからです。先に「賭場は劇場」という言い方をしましたが、要はここはヒトの一時的な変身願望を満たす場所である、現実を一時棚上げにして、別人格になって欲望を発散させる場であるということなので、それはあくまで一時しのぎの便法に過ぎない。何も法律でそう決まっているから、ということじゃない。早い話、賭場で現金を用いたらどうなるか?勝負に出るたびに(札を切るたびに)日常現実がよみがえって、変身どころではなくなってしまうでしょう。チップは変身のためのマスキングなのです。 したがって超一流のギャンブラーやハスラーは、もちろん現実世間的には認知も尊敬もされはしない。この人たちを社会的評価の対象にすること自体が、そもそも間違っているのです。このように賭場で見てみれば、わりと当りまえに通じる話が、なぜか国際金融の世界においては通じない、どころか、この世界での成功者が、むしろデカイ面をさげて闊歩しているのはなぜでしょう? それはたぶん現在の国際金融が、実体経済に必要なマネーに数倍(ひょっとすると数十倍)するお金を流通させてしまっているからで、こういう状況は仮想社会に生息する人たちのほうにとって、はるかに使い勝手がよろしい。彼らにとって金融市場のマネーは、電子化というマスキングをほどこしたチップに過ぎない。早い話、飲み食いとか買い物といった「現物」との交換が前提の貨幣経済とこれらは、意識の上ではここから先もリンクしていないのです。 「そんなことはない。ヘッジで儲けたマネーでベンツを買ったら、実物と交換していることになるじゃないの」と言われそうですが、じゃあパチンコで勝った金で一万円のステーキを食ったとして、美味しいと思うかどうか(価値があると思うかどうか)?という話になってしまいます。もしこれを「いっしょじゃん!」と思ってしまうとしたら(ヘッジファンドのマネージャーたちは「そうだ!」と豪語するのでしょうが)、やはり相当荒れ果てた感性と言わざるを得ませんね。 だからこそ、これを昔の人は「泡銭」と呼んで蔑んだのです。労働対価としての貨幣と、仮想世界で得た貨幣は同一物でない、という意識がキチンとなされていたわけで、貨幣に触るのを何となく「汚わらしい」と感じる感覚とは、たんに衛生上の問題ではなく、もっとヒトの本源に関わるような深いところから来ているように思う。 江戸時代の船場で始まったとされる米の先物相場において、これにそうした効用とお化けの両面があることを大坂商人たちは、早くから充分知っていたに違いない。商売の便法の一つではあっても本業足り得ない、なぜならそれは例の近江商人の徳目「三方良し」から、「相手」と「世間」の二方をすっ飛ばしているからです。「我がことのみ」に奔るマインドは、いくらそれが魅力的に見えようと結局「仮想」のものである、商売の本道からずれている、つまり外道に類するものという常識感覚があったのでした。 かつての日本社会には、あるいはこうした「外道」の世界と現実社会を峻別する常識概念があったのかもしれない。リスクヘッジとしての先物取引が経済の安全弁として機能する、その効用を認めつつ、それが世間的に表立つことを忌避したのです。 世の中には現実に必要とされるものであって、なおかつ表沙汰にはできない仕組みというのが、少なからずあるのです。早い話、私たちはほぼ毎日ブタや鶏や牛の肉を食いますが、そのたびごとに食される者の堵殺の映像や臭いや音声を想像することはしないでしょう。 古代人はあるいは食事のたびに、食される者への「畏れ」を常に抱いていたかもしれない。「堵殺」は自分たちの生存に必要不可欠な「現実」なのだけれども、必要以上であってはならない。できれば無いことにしたいが、それでは種族が維持ができないので、「止むを得ない」レベルでのみ行ってきた。この「止むを得ない」という感覚とは、「共存」だの「共生」だのといった今ふうのエコロジカルな語り口では不十分で、「殺し殺される」という関係なのだから、現実的に大いに不満は(舌打ちするぐらいに)存在し続け、しかも生き物であるかぎり、それを消し去ることは永久に出来ないけれども、まあこのあたりで「折り合いをつける」ということにして、お互いに恨みっこなしにしましょう、というような感じだったのではないか?「いただきます」という食膳儀式は、生産者に対してだけでなく、「食される者」への挨拶と慰謝も含まれていたはずです。― つづく ―
2011.11.18
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9.11が現代史に残したものが何であったか?というのは、10年を経た今日であってもまだ明確に語ることはできません。一つの事件が引き起こした事柄に対する歴史的評価というのは、おそらく30年から50年ほどしないとハッキリとは見えてこないものなのでしょう。とはいえ、新世紀の初頭に起きたこの事件が、歴史の変動を予感させていたことも確かなので、その後の10年を振り返るとき、その前と後で私たちの社会や心情がどのように変化したのかを、たどってみることはある程度可能でしょう。 イチローと、「なでしこ」はその変化を見る表象として、とても分かりやすい図柄だと思うのです。 イチローがメジャーリーグで大ブレークした年が、9.11に当たっていたというのは、それにしても象徴的で、確かその年のNHKのBSは、連日彼の試合を生中継していましたね。そういうこともあって、ある意味私たちは日本のプロ野球よりメジャーリーグの雰囲気になじんだというところがあったのです。野茂の時代は彼の先発試合だけの中継で、途切れ途切れになっていることもあって、メジャーリーガーが有しているらしい生々しいマインドまで感じるということはなかったのです。しかしシーズンを通して一つのチームを見るということは、自ずと彼らのナマの風俗を知るということになる。 彼らが何に歓喜し何に怒り、要は興奮しているのか?ずうっと見ていると、明らかに日本のプロ野球の観客、選手たちとは異なった構えが感じられる。誰かが音頭を取るわけじゃない、好き勝手におしゃべりをしたりハンバーガーをパクついていた観客や選手たちが、一つのプレー一つの動作に、自ずから惹きつけられて拍手喝さいする。そうしたムードを一身に体現するのがスターでありヒーローだと、彼らは期待しているように見える。それの意味するところは、個人同士が互いの「自由意志」において相手をリスペクトし参加するという、まさしく「自律性」の表象なのでした。 そうした在りようは「個我」を排除し、集団であることを強制する日本の応援団形式とは、対極にあるように思えたものです。 この時期は、同時にITバブルでホリエモンだの村上ファンドだの、和製投資ファンドが脚光を浴びた時代でもあります。「自律」「自己責任」を体現するのが、個人投資家という名のギャンブラー(投機家)に仮託されるとき、その光芒はたちまち色褪せて薄汚れた姿に変貌したものです。ギャンブルというのは、本来制限された区画の中(劇場)だけで許される欲求の発散だと思うのですが、実体経済にめぼしい投資先が見つからない時、つまり「金余り」の時代には、こうしたマネーゲーム(お金がお金を次々生み出すけれども、それ自体からは、いかなる意味でも新たな「価値」を生み出さない)がもてはやされるものです。 彼らは「そんなことはない。マネーこそ価値で、それがあればより自由が買える」と反論するのでしょうが、お金で買える「自由」が、もしより大きな買い物(買収)ができるという意味での「自由」なら、そんな「自由」の価値はタカが知れている。むしろそうした価値観に囚われて在る人格性に、はなはだ偏向した「不自由」を見出すのは、そんなに難しいことではありません。手に入れたマネーで「宇宙観光」ができたとして、それが新たな「価値ある自由」と考えているのでしょうか?彼らの提示しようとする「価値ある自由」とは、あまりにも貧寒としていて、大多数の人々にとって何の魅力も感じさせない。「一人勝ち(Winners Take All)」という考えかたは、実体社会にはなじまないのです。 彼らは「自律」「自己責任」という時代風潮に乗って、それをあたかも「社会的認知」を受けたものであるかのように振るまったので、排除されたのです。 ここで断っておかないといけないのは、いつの時代いつの社会にもこうしたギャンブラー(投機的)な人間性というのは存在するし、私たち自身の内部にも、そうした嗜好性が(部分として)あることも事実でなのだということです(世にあふれているゲームというのは、すべてそれを前提にしているでしょう)。大事なのは「一人勝ち」というゲームの仕組みが、あたかも実体社会の仕組みそのものであるかのように、社会が誤認する場合があるということで、それらはあくまでヒト社会の一部ではあってもすべてではない。このごくあたりまえの常識的概念が、マネーゲーマーには通じないのです。 実体社会においては「勝つ者」と「負ける者」は等価に同時的に存在し、それらをヒト社会から完全に消し去ることはできません。マネーゲーマーにとっては「負け組」は存在しないもの、「負け」と同時に視界から消去され得べきもののはずです。そもそも「ゲーム」とは、そうした前提に立たなければ成り立たない。しかし当今の世界金融資本におけるマネーの取り扱いというのは、実体社会に流通しているマネーであるよりは、はるかに賭場場のチップと近似していると言っていいのではないか?― つづく ―
2011.11.16
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何だかイチローや「なでしこ」の話から、ずいぶん遠くに離れてしまったような感じですが、そういうわけでもなくて、この両者が体現するものに代表されるような「在りよう」が、いわば新世紀の表象を捉えるのに便利なので、取り上げているのです。イチローが個人の自律性を代表する存在であるのに対し、「なでしこ」がヒトというのは「他者との関係性そのもの」を表わす存在として、鮮やかに見えるから話しているので、別に両者の優劣を論じているわけではありません(本人たちも、それでは不愉快でしょう)。 イチローが表象するような「個人の自律性」というのは、例えば野茂を嚆矢とした日本人選手たちのメジャーリーグへの挑戦が始まったとき、一様に日本の社会全体が支持した考え方でした。彼らは「規制緩和」と「自己責任」という個人の自律性を体現する表象として90年代後半に現れたのです。 さまざまな古びた規制で、身動きが取れずに棒立ち状態のバブル崩壊後の日本社会にあって、自身の右腕一つを頼りに、退路を断って海を渡った野茂というのは、「自律」という当時の日本社会の期待を絵に描いたようなものに映ったものでした。そういう意味でも、旧態依然の代表としての日本プロ野球リーグに対する、彼のプロテクトは画期的だったのです。アメリカに渡るときのマスコミからの野茂に対する誹謗中傷は、もちろんプロ野球リーグからの組織的な世論誘導も働いていたのでしょうが、マスコミ自身にも彼のように「屹立した個人」というものを、(日本国内で)すんなりと飲み込むことが出来なかったようなところがある。ひらたく言えば、「自己チュウ」という捉え方をしたところが多かったのではないか? 面白いのは、それがマスコミだけでなく、身内のプロ野球選手やそのOBたちからも出ていたことで、「絶対失敗する」だの「通用するわけがない」と吼えていた人たちがけっこう多かったことです。で、ドジャースで彼が活躍し出した途端に、「最近のメジャーはレベルが下がっている」なんて、我が意の定見の無さを取り繕うにしても、「ちょっとズル過ぎるんじゃないの」という人もいましたね(張さんのことですよ)。これは、ことほどさように「日本プロ野球リーグ」というのが、「原子力村」ならぬ閉ざされた巨大な「プロ野球村」を構成し、そこに安住していたということを図らずも暴露する結果になってしまったのです。 バブル崩壊後の90年代というのは、高度経済成長を支えた「日本株式会社」という強固な成功モデルが、最後の音を立てて崩れていく時代であり、新しいモデルは明らかな「異物」として登場しなければならなかったのです。 続いて現れた似たような表象はイチローではなく、サッカーの中田英寿において先に現れたような気がする。彼が既存のマスコミを忌避して、「Nakata Net」でファンに直接語りかけようとしたことは、彼のプレー以上に新鮮な印象を我々に与えたものでした。ツールがネットという新しい媒体であった(当時まだブログというツールはなかったような気がします)ということと、「既存のメディアは信じるに足らない」、という点においてです。語る中味ではなく(実際たいしたことをしゃべっていたわけではない)、語る方法において「自律」の表象足り得たのでしょう。 イチローというのは、そうした中にあって比較的遅れて「自律性」の表象に入ってきたような気がする。彼がマリナーズに移籍した時、すでに複数の日本人選手(投手)がメジャーにおり、野手としては彼と同時に例えば新庄選手が、ニューヨーク・メッツに移籍していました(ちなみに、「日本人野手」として最初にメジャーでヒットを打ったのもホームランを打ったのも彼です。日本人で最初にホームランを打ったのは野茂)。 と、見てくると、イチローというのは90年代後半に現れた「自律性」の表象としては、一番最後にその集大成のような形で現れたということが出来るかもしれない。 で、それは2001年の9・11の年でもあったのです。― つづく ―
2011.11.09
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「大いなる召命」があたかも外部から到来したように確信せられたとき、自身のパフォーマンスが「爆発的に発揮される」ということを、その民俗誌的経験から「ボランティア」という形で彼らが「知っている」のだとすれば、日本人(あるいは非キリスト教社会の人々)は別の民俗誌的経験から、やはりそうした「智恵」を知らず持っているに違いない。 震災時の「愛他的行動」というのは、個人にとっての合理的振るまいが外部からの「召命」によって拘束され、結果的にそれは「ネガにも爆発的に作用し得る」ということを示しています。これらを見ていると「経済人」的合理性ではどうしても測りきれない要素というのが、ヒトという生き物にはもともと具有されているのだろう、と考えざるを得ません。 江戸時代から三陸海岸地域に伝わる津波防災の教訓に「津波てんでんこ」という伝承があるそうです。これは「津波が来たら、肉親に構わず、各自てんでんばらばらに、とにかく高台へと逃げろ」(Wikipedia)という、いわば究極の個人の合理性を認めた教訓なのですが、それは逆に言えば、それぐらい外部あるいは他者・集団からの「召命」というのが、ヒトの日常の振るまいを拘束する力は強い、ということも示しています。「津波てんでんこ」という言葉には「自分自身だけが助かり、たとえ他人・肉親を助けられなかったとしても、津波災害に関してだけはそれを非難しない」という含意があり、むしろそれほどに言っておかないと、助かったとしても結果的に地域集団全体が崩壊する危険がある、ということを教えています。 何度も言いますが、それは今回の震災においても、「愛他的行動」という形になって、各地において多数見られたのでした。で、それが意に反して出来なかった人たちには、一様に重い「罪障感」がのしかかっています。「津波てんでんこ」は、公的にもこの「罪障性」を免責しておかないとまずいだろう、という昔人の強い思いが込められています。ここで大事なのは、ヒトという生き物に対する考えかたが、近代社会とは真逆のかたちで認識されているということでしょう。ちょっと重い話になってしまいましたが、「個人の振るまいは、常に外部から拘束されて在る」、つまり個人の全的「自由」というのは、ヒト本来の在りかたから言えばあり得ない、という社会的通念が前提としてあって、「津波てんでんこ」は伝承されていたということです。 近代社会の合理主義というのは、そのあたりの生き物としてのヒトの在りようを、出来るだけ排除することによって成り立ってきた。人間集団を個体単位にまで原子化することによって、その合理性は担保されていると言って好いでしょう。しかし考えてみれば、原子集団というのはその「相互作用」において、初めて「物理的現象」を起すように、おそらくヒトという存在もまた、その「相互作用」において初めてヒトとして意味をなしているのだろう。もっと言うと「相互作用」そのものこそ、ヒトの在りようなのかもしれない、ということなのです。 そういう意味で私は、はなはだ楽観的と言われるかもしれませんが、人間一般の本態的な在りようについては、世界中どこでもそれほど違わないだろうと思っています。違うのはそれぞれの民俗誌的文脈による発現のしかただけということではないのか?「ボランティア活動」であれ、「愛他的行動」であれ、我が身を外部から完全に屹立した存在と捉えるよりは、「外部あるいは他者集団との関係性そのもの」こそ、その存在理由の淵源であると捉えたほうが、経験的にもどうやらはるかに納得しやすい。― つづく ―
2011.11.07
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人間というのが、いかなる局面においても、抽象化された「経済人」のように振るまうとは限らない存在らしいというのは、今回の「東日本大震災」において見られた「愛他的行動」をみても明らかでしょう。とてつもない津波が来ると分かっていても、水門を閉じようと出動していった消防団員、家族より近所の老人の避難を優先させた地区の役員、濁流に巻き込まれるまで交通整理を続けた警察官などなど、「個人の利益の絶対化」という概念からは、とても測り切れない振るまいを「普通の人」が行っている。近代経済学者や「新自由主義」信奉者たちから見れば、こうした振るまいをする人間は「不合理で、かつバカだ」ということになってしまいます。 しかし、これらの人たちが、ほかの一般人とはかけ離れて、博愛的あるいは英雄的精神の人たちであったか?と言われれば、おそらく当の本人たちがビックリしてしまうでしょう。実際にそうした「愛他的行動」で命を落とした人たちが多数いらっしゃるわけで、そうした人たちには充分に畏敬と哀悼を奏しつつ、なおかつ私はこれらの行動はある特定の人たちにだけ備わった在りようなのではなく、おそらくヒトの振るまいかたに本態的に具有されたものであると考えたい。そしてその本態を成すものこそ、先に内田さんが ― 自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる ― と指摘した点だと思うのです。 話が少し変りますが、メジャーリーグなどを見ていて、なかなか「これは日本には馴染まないだろうな」と思うことの一つに、日常的な「ボランティア活動」があります。ただでさえ、かなり過酷なスケジュールじゃないか、と思えるシーズン中でもメジャーの選手たちは、争うように時間を割いて学校や病院や福祉施設を訪れる。メジャーリーグ一年目のイチローが地元の小学校などを訪れていた当初、私はこうした活動はたぶんキリスト教的な「義務」の概念から出てくるのだろう、などと捉えていたものですが、途中からどうもそれだけでは測りきれない、もう少しそうした概念を超えたところで、彼らは訪問しているのかもしれない?と考えるようになりました。 どう見ても「愛他精神」からは程遠そうな、薬漬けのマッチョなメジャーリーガーたちが、なぜ先を争ってボランティア活動を行うのか?たんに宗教的な義務感だけで測るには、ちょっと彼らのマインドはまた、その大改造された肉体同様、自己愛の塊のように見えるのです。であるとすれば、彼らを「愛他的行動」に駆り立てる動因には、それが自身にとってかなり有意な利得として、意識されているからではないのか? この場合の「有意な利得」とは、日本では「善意の押し売り」と間違えられやすいので、注意しないといけないのです。ボランティアを「施し」として、一方向に捉えて「自己満足」に浸るというのは、日本のある種の宗教その他団体が時おり示す振るまいですが、メジャーリーガーの「愛他的行動」はたぶんそれとは違う。早い話、こうした立ち位置で「施し」を行っていると思っている人たちは、「施される側」が自分たちの期待するような「感謝の態度」を示さなかった場合、きわめて冷淡な態度に豹変するでしょう。 日本社会で長く「ボランティア」精神が馴染まなかったのには、たぶんこの両者を上下関係(施す側、施される側)で捉えていたからで、私たちはそのあたり、「施す側」の心に見え隠れする、ウサン臭さを暗に嗅ぎ取っていたのではないか? とすれば、さして知的?とも思えないメジャーリーガーたちが、衒いなくボランティアを行えるのには、たぶんもっと直截的な利得が彼ら自身にある、と意識されているからに違いない。で、彼らの場合その直截的な利得とは、紛れもなくグラウンドで自身の最高のパフォーマンスを発揮できれば、ということでしょう。知的ではないにしても、自身のパフォーマンスを最高に賦活する「智恵」のようなものを、彼ら固有の文明史的文脈で知らず身につけていたのかもしれない。 それは紛れもなく自身のパフォーマンスは、自身固有の努力によってだけではなく、より積極的に「他者」を引き寄せることによって最高に発揮され得る、という信憑だったでしょう。 繰り返しますが、 ― 自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。 … でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない ―という内田さんのヒトの振るまいに関する一般論は、こうして彼らの歴史的文脈では宗教的色合いに染められて、「ボランティア」というかたちで現れたということなのだと思う。― つづく ―
2011.11.01
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