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要するに、ドラマというのはヘタな「始末」をつければウソ臭くなる、かといって何らかの「明示性(メタ・メッセージ)」が提示されなければ、今度はこっちの気分が収まらない、というまことに矛盾した狭隘にあって繰り広げられるものだ、ということになって来るのです。いかにホントらしく、なおかつ腑に落ちるようにするか、これをめぐって試みられるさまざまな「方法」こそ、「芸術」というマジックなのでしょう。ウソ(虚構)と分かっていて、なおかつホントらしく見えてしまうもの、何がなしそれが「ホントのこと」を言い当てているような気がするもの、それを例えば巷間では「真実」というような言い方をしますね。 ホントらしく見せる「方法」で、ドラマなどで比較的よく使われるのが、実在の人物をモデルにした「物語」です。「実在した」はずという事実が「物語」に信憑をあたえ、かなりとんでもないようなストーリーでも、容易に話を引っ張ることが出来る。例えば、人じゃないですが、探査衛星「はやぶさ」みたいに、現実に達成された驚くべき偉業があるからこそ、こうした「物語」は成り立つのです(でなければ、この「物語」は絵空事として、誰も信じないでしょう)。ただし、このように鮮やかに決着した「現実」というのには、「芸術マジック」の入る余地はほとんどないのです。事実を厳密に辿っていけば、すべて事は足りる。 このあたり、創作とか創造に意欲的な「芸術家」(「芸術」とはそもそも「創造」行為そのものを指すのですから、この言い方はおかしいのですが)は、上のような実在のモデルを題材にした場合、当然実際にあっただろう「事実」と、虚構の「創造」との間に鋭い緊張を抱えることになります。したがって人によっては、意識的に地味な対象やネガティブな事象を選ぶ場合もある。先に上げた三島の「宴のあと」など、まさしくそうしたケースでしょう。明らかに彼は実在の人物より、魅力的な人物像を造形しようと企てたのです。 さて、では今回の「カーネーション」は、どのあたりにバランスを取ろうとしているのか?コシノ三姉妹という世界的デザイナーのお母さんがモデルとなれば、どこまでも想像力を飛翔させるということは出来ない。否、むしろかなりの「縛り」が創作の段階で生じたのではないか? こうしたとき、よく使われるのが実在のモデルの周りに、創作上の(虚構の)人物を配置するというやりかたです。事実の縛りを離れて、なおかつ主人公の気質とか考えかたを、サイドから明徴化するのに、これはわりと便利なのです。 では、現在のところで、それらしき人物がどこに配置されているのかと言えば、それはおそらく安岡家と奈津ということになるでしょう。ネット上ではこれらの人物のモデル探しが賑やかですが、私は主人公も含めてあまりそうした実在論争には関心がありません。何度も言うように、ナマの「現実」はそのままでは、永遠に何かを「物語る」ことができない、「明示性」を持たせることができないのです。浮気とか出征とか戦死とかの確定した「履歴」を改ざんすることは出来なくとも、モデルの心に分け入って、観客と共有できる「真実」を語らせようとすれば、創作者側の「想像力」を媒介にして「芸術マジック」を起すしかない。 このあたり、いわゆるモデル論争が不毛な下卑た暴露合戦を呈するのとは、意味が違うのです。早い話、私は実際のコシノ三姉妹の来歴にそんなに関心はありませんし、服飾デザインなどはるか興味の範囲外です(男なので)。 さて、では創作上の人物と見られる安岡家の人たちと奈津は、このドラマでいったいどのような位置づけになっているのでしょうか?― つづく ―
2011.12.29
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と、こう言っているうちに年内最終回が来て、夫、勝の戦死に続いて八重子の夫、泰蔵の戦死も重ねられる。戦争の惨烈さを仮惜なく印象づけるためなのでしょうが、周辺の男を皆殺しにしてしまうというのは、何やらジェンダー論者(さしあたって田嶋先生とか上野千鶴子先生とか)からの拍手喝さいが起こりそうな展開ではあります(「バカな戦争をドンパチやっているのは、結局男やないか」みたいな)。 糸子の「雄たけび」も、スカーレットのような長口舌じゃなくて、ちょっと興醒め(スカーレットの場合、「生き抜くためなら泥棒もしてやる、人殺しもしてやる!」と吼えた直後に、北軍兵士だったかを射殺するというかたちで、それが現実化しました)。 しかし、ラストシーンの「さ、お昼にしよけ」という糸子の科白は秀逸!彼女の「地べたリアリズム」というか、生き物は生きている以上、食い物を切らすわけにはいかない。これはまさしく、大阪のオバハンのあつかましいまでの「チョー合理主義」と重ね合わせてあって、他の言いかたでは表現できない舌触りがあるでしょう。 それにしても、何度も言うように未決着の宿題があまりにも多い。これは作者製作側の意地かとも思いますが、このドラマ全般にわたって「一意的」な解釈を許さない、すべての事柄に「両義性(含み)」を感じてしまうのです。と、いえば、タイトルバックの「カーネーション」の映像も、一意的には「生命力」の象徴なのですが、最後に現れる満開のカーネーションのカタチ、今段階だと何となくキノコ雲にも見えて、おぞましさを感じてしまうのは私だけでしょうか? 普通のドラマなら、戦死させる前に本人の口ないし手紙か何かで、ことの始末をつけてしまいそうなところ、あえてそうしない。そうすればいかにも芝居じみて、ウソ臭く見えるからでしょう。何度も言うように「現実世界」では、未決着のまま時間だけが通り過ぎて行く、ということはよくあるのです。そこで無理やり整合性をつけようとすれば、非現実的な肌ざわりの、いわゆる「お芝居」が現出してしまうことになります。 小篠さんのご主人が浮気をし、戦死したことは事実なんだそうですが、かといって、浮気の真相が本当は何であったかなどという事柄は、厳密にプライバシーに属するのであって、であるかぎり、かりに我々がそれを知ったところで、せいぜい週刊誌的な下卑た好奇心を満足させるだけでしょう。肝心なことは、この手の真相など小篠さん自身も、たぶん分からなかったろうということなのです(想像ですよ)。「現実世界」とは、そういうものです。 もし、これを無理にも掘り返そうとしたら、死者を呼び起こすしかない。安直なドラマでは、これを回想やフラッシュバック、あるいは端的に「甦り」という手法でよくやるのです。 かといって、勘助や勝が戦死したからといって、彼らが抱えていた「謎」を、そのまま放置してこのドラマが進行していくなら、それもまた「ウソ臭く」なるでしょう。観る人によっては「狡い」と取るはずです。なぜなら、このままでは「観ている側の気分が収まらない」からです。 かつて、フランスのヌーベルバーグ系の映画で、「現実とは、こういうものだ!」とばかり、事柄を未決着のまま放りっぱなしにして終わるのが流行ったことがありますが、では「現実」をそのまま並べられたのでは、何を愉しみに映画を観に行くのか判然としなくなってしまう、というところがあるのでしょう。「現実世界」が確かに「未決着の事象」に満ち満ちていようと、映画や小説が提示する世界には何らかの「始末」がついていないと、それを享受したあとの「昇華作用(代替の疑似体験による愉悦感)」が生じようがない。 ヌーベルバーグが急速に廃れたのには、理由があったのでした。― つづく ―
2011.12.28
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しんどくても、観ずにおられない。で、観てみれば、決して後味が悪くない、というのは、たぶんお決まりの戦争シーンとかワンパターン化した慟哭の場面を、一切使わないということ。戦後の「戦争を知らない子どもたち」が、テレビや本や映画で繰り返し刷り込まれてきた「戦争」が、同じようなシチュエーションで描かれながら、なぜ月並みな退屈さ(月並みな「反戦」のイメージ)から免れているのか? それはたぶん、これが戦争のドラマでなく、「糸子の人生を辿るドラマ(小篠さんではありません)」であるからでしょう。あちこちに「反戦平和」主義だの、「女性解放」論者に取り上げられそうな場面が頻出しながら、必ずしもそれだけでは汲み尽くせない後味が残るのは、すべてのシーンが厳密に「糸子目線」、それも「今、その場の糸子」の目線と、彼女の想像力が及ぶ範囲だけで貫かれているからです(善作も勘助も、その死亡シーンは描かれず、我々が目にできるのは、岸和田に戻ってきた位牌と遺影だけ)。 映画やドラマによくある回想シーンとか、フラッシュバックがここにはないでしょう。それらは安直に多用すると、観るほうの視座を主人公の目線から、不意に客観的な神の座へ引き上げてしまい、かえって臨調感を失わせるのです(「使ってはいけない」ということではありません。使う必然性が充分練り上げられているなら、それはそれで「手法」になり得る。肝心なのは、ひとえに作り手側の明晰な問題意識でしょう)。 同じような事柄で、すでに死んだ父善作や勘助が、主人公に(夢の中で)語りかけたり、遺影が動き出したりということもない(いずれも、よく使われる手法です)。善作の遺影は遺影のままであり、それがどう見えるかは、「今、その場にいる糸子」とそれに同期した目線の我々の「想像力」だけに由っている(丸投げされている)。だからこそ、毎日毎日「ああでもない、こうでもない」という口コミがネットで絶えないのでしょう。 この口コミの多さこそ、このドラマのもつ「臨調感」の証左なのです。なぜなら、私たちの住む「現実世界」とは、まさしく「ああでもない、こうでもない」の世界であって、あらかじめ決まりきった予定調和で進んでいるわけではない、一寸先が誰も分らないからこそ、「ああでもない、こうでもない」となるのですから。これって、震災と原発事故以降の先の見えない日本の現状の気分とも同期していますね。 「現実世界」とは、過去から未来へ流れる時間の中にある以上、本来先の見えない世界である。それをあたかも、当然「あるかのごとく」クリアカットに断定するグローバリズム的「自立単独主義」に対して、ここで、この物語は反射程であり得る。先が見えない「現実」を現実として受け入れた上で、では糸子は何を担保にして「生き抜こう」としているのか?ということなのです。それを陳腐な「共生」とか「共存」といった、薄っぺらくてお行儀の好い(したがって、何の役にも立たない)安直な結論に導かないでほしい。 糸子から本能のようにして、繰り返し発せられる「生き抜く」嗅覚とは、どこから備給されて来るのか?愛なのか、怒りなのか、その他コトバで説明できない「あるもの」なのか?これはたぶん、このドラマのメインテーマに繋がっていくのだろう(つまり、糸子自身の「気付きの旅」という意味で)と、私など過剰な期待をしてしまうのですが、となると何度も言うように、これは「朝ドラ」の範疇を越えて、ほとんど「大河ロマン」の世界になってしまいますね。 この糸子自身の「気付きの旅」であろうというのは、「伏線」の張りかたにも現れているような気がするのです。このドラマ、「始末のついていない」問題が驚くほど多くて、しかも「未解決」のまま死んでしまった人もいる。通常「物語」には必ず「始末」があるはずですが、勘助の「会いたいけど、俺には糸子に会う資格がない」という最後の言葉の意味は、考えれば考えるほど「意味不明」。いろいろな解釈が出来るわけですが、未解決のまま本人は戦死させてしまっている。 同じことは、旦那の昌など最たるもので、浮気の件が「解決しないまま出征し、戦死した」となれば、この「始末」はドラマとしてどうつけるのか?― つづく ―
2011.12.27
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と、思っていたら、昨日の「カーネーション」で、またしても「驚き」を見せられてしまいました(キリがないですね)。「国防婦人会」の息子の葬儀が、のっけからのシーンなのでした。はなはだ戯画化された糸子の仇敵に過ぎなかったこのオバハンもまた、一つの別の「物語」を持っていたことが明らかにされる。この脚本家は、どないしても登場人物すべてについて、「決して、一意的に描くことはすまい」と堅く決心しているようです。 彼女が「銃後の守り」としての地域住民に居丈高に振るまい、しかもそれを誰も止めることが出来なかったのには、「我が息子を国に差し出した」という切実な現実があったのでした。このあたり、どうしても彼女もまた「戦争の犠牲者」という捉えられ方をしてしまいそうですが、実際には当の「犠牲者」が事実上の「戦争加担者」でも有り得る。となると、このオバハン(三島ゆり子)の能面のように硬直した表情に隠された「物語」が、今になってにわかに浮かび上がってくるわけです。 観ている側は軍国日本に騙されたバカなオバハンであって、それこそ「因果応報じゃん!」と、一意的にあざ笑うわけにはいかなくなって来るでしょう(アメリカ映画も韓ドラも、こういう描き方はしない)。 ここで、またもや「源氏物語」の描き方を思い起こさずにはいられません。「百千の心を持つ」と言われた紫式部ですが、要はその真骨頂が「光源氏から見れば、こう見える」「各姫君から見れば、ああ見える」といった複数の視座を、彼女はごく自然に操れたことで「物語」の天才を発揮していたということです。それぞれの登場人物に「物語」を付与しておく。あるいは語られないかもしれないが、確かに別の「物語」がありそうだ、という「含み」を示唆しておくことで、否応もなく読者は、彼女の語り出す「物語」世界に翻弄されてしまう、という仕掛けになっているのです。 さて、このドラマ製作の筆頭は、台本としては渡辺あやさんということになりますが、小説と違ってドラマや映画は「集団」で練り上げていくものですから、なかなか一本にまとまった明晰なメッセージ(直截的には示されないが、明らかに感じ取れる暗喩=メタ・メッセージ)を提示することは難しい。ムリに一本化すると、かえって薄っぺらく陳腐な、したがって押し付け的な出来上がりになるものです。 しかし、ここまで観ているかぎり「カーネーション」は、製作者、役者、小道具係などまで含めて、かなり高いレベルでの「意志統一」が為され、それに厳密に沿うかたちで、皆がお互いにアイディアを出し合っているように思えます。前にも言いましたが、ごく安直にお笑い仕立てで「大阪女のサクセスストーリー」に仕立て上げることも出来たはずですが、それを「意地でも、するまい」というのが共通認識であったのでしょう。 さて、今後どうなっていくのか?どんな「仕掛け」を見せてくれるのか、おおいに気を揉むところではありますが、今日あたりの展開(勘助の、あっという間の戦死)を観ていると、年末あたりまで「大破局」の連続となりそうで、ちょっと気が重いですね。それは、おそらく糸子の涙や悲しみを通り越した、説明不能の「怒り」を引き出すための伏線なのでしょう。 括りは、たぶんスカーレット・小原の「雄たけび(雌たけびか?)」炸裂!ということになるのでしょうが、私的にはこの物語は「オハラ越え」の展開になってほしいのです。「自立単独主義」の陥穽を飛び超えて、「他者」を知る話になっていけば、「女性の自立」などといった平べったいプロパガンダでなく、真に「人の成熟」を描く物語になるのではないか、と期待してしまうのです。 ちょっと、過剰な要望かもしれませんが。― つづく ―
2011.12.24
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昨日の「カーネーション」で書き忘れていたことがありました。長女優子と母糸子とのやりとり、気づかれました?子供時代の糸子と父善作のやりとりと、パラレルになっているということです。糸子が「自立単独主義」で、相手にぶつかって行ったのに対して、優子は何がなし「戦略的」に振るまっているように見える。 もちろんそのことに母子ともまだ気づいていないのですが、のべつ隈なしに善作にぶつかっては、「粉砕」されていた糸子に比べて、どうも優子は相手の様子を「伺う眼」を持っているらしい。したがって「うるさい!」と怒鳴られたら、いったん引き下がるが、またぞろタイミングを見計らって「映画観たい!」になる。それをドラマでは糸子がミシンを止めるたびに言う、というかたちで現していましたね。で、いつの間にやら次女の直子まで味方に引き込んでいる。このあたりは、明らかに母子の気質の違いを予感させているのです。 それは、かつての父善作と糸子の気質の違いもまた髣髴させるので、子供の糸子が父善作の商売の集金にやらされる時、糸子は自前の機転で「相手を見る眼」を養っていったのに対し、優子は「単独」での猪突猛進というムチャはしない。したがって、親に叩かれるということもなさそうです。 このあたり、いわば「親の弱点」をそれと知らずに子が「補う」形で「継承」して行っている。子がそれを「親の弱点だ」と知るのは、もっと先の話になるのですが、その時にはすでに子供の手の内では「その弱点は克服されている」。「うちの親は、なってない」という話には前景化しないのです。逆に言えば、「親は必ずしもパーフェクトでなくて好い」、しかし、それでなおかつ「親性」であるということは、どういうことなのか、ということなのです。 どうもこのドラマのメインテーマと関わってくるような気がするのですが、親と子の関係とはどういうものなのか?「継承」され行くべきものとは何なのか?その「受け渡し」は、どのようになされて行くのか?それらのテーマを示唆しつつ、すでに新しい主役たち(三姉妹)の登場も予感させていて、たいしたものです。 もう一つ、糸子の母親としての成長も、さり気に描いてある。映画からの帰り道、特高の「赤狩り」バトルに遭遇した際に「『赤狩り』て何?」と聞く優子に対し、「赤色に白色混ぜたら、何色?」とはぐらかす。翌日高価な色鉛筆を買い与えて、「これで、ええんや」。尾野さんと子役たちの絶妙な演技も見ものですが、やはりそれを自然と引き出し、しかもテーマをキッチリ共有しているらしい脚本家と製作人の、これは力量ですね。 戦後日本の国民的記憶とは、ひょっとすると国家レベルで「記憶の合理化」が行われた所産なのかもしれない。そして今に到るも、私たちはそのことに充分自覚的でないというか、相対化できていないというところがあると思う。我々は無意識のうちに、「戦前はこうだった」「軍部独裁はこうして始まった」といった、ある種漠然とした観念を「共有」して少しも疑いを抱かずにいるのですが、それらはどう考えても「今」と繋がる「物語」としては語られないのです。このあたりも「いわゆる戦争報道について」で、あれこれしゃべってきました。 さて、「カーネーション」で描かれる戦中の風景というのは、実際の戦中と比べてどうだったのか?これらを確かめるいちばん手っ取り早い方法は、現に戦中戦後を生きてきた父母、祖父母に聞いてみることでしょう。今や存命している戦中体験者はずいぶん少なくなってしまいましたが、それでもまだ聞くことは聞ける。 で、その場合大事だと思うのは、聞く我々のほうが、この人たちは多かれ少なかれ「記憶の合理化」によって、話をしているだろうという前提で聞く態度が必要だということなのです。これは何も語られる中味をすべて疑って、眉に唾をつけて聞くということではない。「記憶の合理化」が、どういう心理構造をともなって図られているか、という目を持つことが肝心なのだと思う。それは、大抵つらすぎる体験を、それでも現実に我が身を経過した事柄として見つめるために、たぶん生き物として、どうしても図られる「物語」なのだということなのです。― つづく ―
2011.12.23
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それにしても、ネットの「カーネーション」の口コミ欄を見ていると、かなりディープに入れ込んでいる人が多いですね。今日はどうだったとか、こうだったとか、また泣いちゃいましたとか、だれそれはどうなったとか、こうなっていくのかとか、「連ドラ」の特色なのでしょうか、まるで隣近所での出来事を、さもあったかのように語るような書き込みっぷりですね。 一言で云えば、こうした一群の人たちは、ドラマをほとんどいっしょに「生活している」わけで、気の利いたドラマとか小説とかが世に出ると、時にこうした現象が起こるようです。ホントに細かいところまで、「観る人は、観ている」もので、私のように気になったところを、チョコッと書き止めるというような雑駁な人間からすると、手を打つように「なるほど!」と思わせられる事柄も多いのです。 例えば、善作の葬儀に安岡家からは八重子だけが来ていたとか、そういえば松坂家の老夫婦の姿もなかったね、とかね。「地デジ」に移行して画面が広くなったせいでしょうか、いちどきの画面に登場する人物の面子や、それぞれの表情までが鮮明に出過ぎて、いちいち別の「物語」を連想させる。こうなると、日々何度もチェックを入れないと気が済まなくなるという仕儀になります(別にそれを、くさしているわけじゃないですよ)。 こういう状況を見るにつけ、はなはだ手前味噌な話になりますが、例の「源氏物語」もそれが初出で世に知られ始めたときには、やはり同じような現象があったのではないかと、あらためて思ってしまうのです。「源氏物語」でも、これまた周辺の登場人物たちの、「書かれていない」物語がおおいに気になって、読者が「黙っていられない」ような書き方が多々してあるのです。「源氏物語」は創作と享受がほぼ同時並行で進行していったと考えられるので、読者の意向とか観測がかなり創作(つまり、紫式部)に逆に反映していったのではないか、と思わせる部分があるのですが、まあ、そのあたりの事情は「源氏1000年」で触れているので、ここではこれくらいにしておきましょう。 間違いないのは、「カーネーション」は完全に製作者のペースで、ドラマが作られているということで、それだけ話の展開には「源氏物語」より、スッキリした整合性が図られているということでしょう。 このところ戦中の話に父善作の急死などが加わって、ドラマ的には言わば「泣き」の連続で、初めのころの弾んだ感じの「笑い」が消え失せて、私などいささか「ごちそうさん!」と思ってしまうクチなのですが、今日の一コマはなかなか面白かった。もともと多少ジェットコースターばりの忙しい展開を繰り返して来た「カーネーション」ですが、戦中のある日の町の点景を、これといった筋立てもなくちょっと弛緩したような時間の流れで見せていくところ、やはりこのドラマの製作スタッフはなかなか侮れないというか、いろいろな「引き出し」を持っているなと思わせられました。 ドラマには必ず緩急のリズムがあって、近々到来しそうな「大破局」を前にして、どうしても若干話がダレるか、みえみえの伏線だけが語られそうになるところ、それで済ませていないというところに「巧み」を感じるのです。 今日の主役は子役二人でしたが、「国民教育」ですっかり「軍国少女」気分になっている長女、無理矢理糸子にすがってプロパガンダ映画を観にいって、それが「つまらない」と思う。「やっぱり、綺麗なドレスを着たお姫様」のような映画が観たい。そこで糸子は高価な色鉛筆セットを買ってやる。こういうプロットは、これといった筋もないぶん、かえって戦中の雰囲気をありありと浮かび上がらせるうえに、ちゃんと近々の破局の予感と長女の将来の展望に満ちていて、なかなか普通では作れないですよ。 さて、話が戻ります。人というのは、「記憶の合理化」ということを、どうしようもなくしてしまうらしい。簡単に言えば、あまりにつらい出来事とか事件が出来した場合に、その記憶を後から呼び起こそうとするとき、ややもするとその時点でいちばん思い出しやすい仕方に、事柄全体を「合理化」して思い出そうとする。そうしないと、しんど過ぎて気が狂うか、思い起すことじたいを不能にしてしまうからです。 で、これは何も個人単位のレベルの話ではなくて、国家とか地域とか企業といった単位でも同様に行われるものらしい。否、むしろ国家とか地域とか企業の場合、それは個人の無意識の「幻想」レベルを超えて、組織的に改ざんあるいは再編を集団でおこなう結果、「物語」本来が有すべき「幻想」性が、必ずしも明徴化してこないという厄介なことになってくるのです。― つづく ―
2011.12.22
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先週の善作と糸子の別れは、正直言って私はあまり感心できません(と、また大ブーイングを受けそうですが)。こういう芝居がかった演出は、大衆演劇の領域で頻繁に使われる手で、途中から見る気がしなくなってしまいました。尾野真千子さんもやりにくかったのではないか?彼女のような熱演タイプは、真の意味で役に感情移入しないと、そのパワーが空回りするということが起こり得るのです。空回りとは、要は観る側に無理やり感情を押し付ける、という昔ながらの手法であって、私にはこういう見え見えの演出はさっぱり理解できない。 悪くすれば、この連ドラ自体の格を下げるということにもなりかねない、という気がしてしまいます(まあ、それに共感されている人たちが多いのでしょうから、あまり興奮しても仕方がないのですが)。 尾野さんの数ある名場面の中で、今のところ私的にベストと思っているのは、例の「大日本婦人会」のボス(三島ゆり子さんが秀逸!)との最初のバトル、「遺骨となって帰ってくるのを願うのが、国難のときの妻の務めというものでしょう!」と言い放つ彼女に対して、みるみる顔色が変わる、善作や縫い子たちが必死で糸子の口を押さえても、なおかつ、向かっていこうとする糸子の形相、別のカメラがキッチリ捉えていて、見事なものでした。 これまた古い映画になってしまいましたが、「アンタッチャブル」でR・デニーロ演じるアル・カポネが、脱税で有罪判決を受けた場面、彼が特別捜査官E・ネス(K・コスナー)に食ってかかるのを、弁護士その他が必死で押さえるという場面を、なぜか彷彿としてしまいました。「マジでキレてる」、でそれが、そのまま彼の「出自」も暴露してしまうという雰囲気は、そうそう伝わってこないものです。 さて、演技の話はこれくらいにして、このとき糸子が、真にキレたのは、何であったのか?ということなのです。この台詞の進行でみるかぎり、どうしても「反戦・平和主義」的な匂いがついて回りますが、私は必ずしもそうではなかったと思う。一言で云えば「ヒトの生業(なりわい)に、気安く入ってくるな!」ということではなかったか? 彼女が何よりも大切にしていたのが、自分の腕と才覚で確かに切り盛りしている「生業」は、「絶対誰にも邪魔させへん!」ということだったと思うのです。 このあたり、戦中の雰囲気を出すのに、いわば完全に「定番化」し戯画化された「軍国主義者」あるいは「愛国婦人会」像、じつはこの人たちも同じ日本国の出自なのであり、また敗戦後の「現実」も経過して来たわけなので、何も戦後日本が「反戦平和主義者」だけによって、奇跡の復興を遂げたわけではない。であるのに、極度に戯画化されることによって、この人たちと「今」は完全に切り離されて、あたかも別世界の人種として「隔離」されてしまっている。つまり観ている側の我々は安全地帯にいるわけで、戦争がもたらした日本人の別の典型(しかも、それもまた確かに今に繋がっている日本人の一つの現象)であるとは誰も思わないように出来ているでしょう。 私はこういう今の価値観で過去を裁断してしまう見方は、間違っていると思う。自分たちの父母あるいは祖父母が、そういう時代を経過し、中には一時的でも積極的に戦争鼓舞に奔った人たちもいた。そして我々は、それら総体の子孫であるという生物的事実は変えようがないのです。またぞろ繰り返しになりますが、関係ないものと見なした瞬間に、それらは裏口から「無明な形相」で我々に迫って来る。 同じように、糸子の反発があたかも「反戦平和主義」の発露であるかのように描かれてしまうのは、本当の意味で戦争中の日本のリアルな気分を現しているのかどうか?このドラマを見ていると、脚本や演出の意図(そして、たぶんモデルとなった小篠さんの本も含めて)を離れて、何となく主人公が「一人歩き」しかけている雰囲気があって、私にはその微妙なズレが今後どのように現れてくるのか、密かに関心を持っています。 「ずいぶん、ヒネた観かたじゃん!」と謗られてしまいそうですが、昭和史全体を総体として見渡し、そのあとを「引き受けている」平成の今の世というのを考えるとすれば、かつて現実にいた「軍国主義者」も「愛国婦人会」の皆さんも我々は、総体の一部として「引き受けなければならない」。敗戦とともに彼らは歴史の彼方に消え去ってしまい、まるっきりの新人類が敗戦後日本に登場したというわけではないのですから。― つづく ―
2011.12.19
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何度も言うようですが、こうした「父性性」の在りようを、「時代遅れの道徳観」などと簡単に切り捨ててしまってはいけない。今どきの我々には関係ないものと見なした瞬間に、それらは裏口から「無明な形相」で我々に迫って来るのです。早い話、そうでなければ今見ている我々が、善作の振るまいや気分に同期できるわけがないでしょう。 このあたり、じつは貫太郎より善作のほうが、私の場合はるかに共感度が高い。なぜなら職人としての矜持を「父性性」の根源にしていた貫太郎象というのは、戦後のサラリーマン社会では完全に失われた感性だったからです。善作はもちろんサラリーマンではないのですが、社会人としての矜持がはなはだ危うく描かれている結果、むしろ生々しい人間像として浮かび上がってくるのです。貫太郎が過去の人として、自分たちとはとは完全に切り離された「戯画」で笑い飛ばせるのに対して、善作の「危さと並存しているようにみえる矜持」の根源は、決して今の我々にとって無関係ではいられないでしょう。 と、なってくると、彼の幼少から成年への過程や、松坂家の娘との駆け落ちが、どういう経緯で起こったのか等々、これまた想像せざるを得ない事柄が、かぎりなく湧いて出てくるのですが、もちろんこの物語は善作の話ではないわけで、すべてはほとんど我々の想像に「丸投げ」されている。で、そうした観る側の想像力を、否応なく刺激してしまう「喚起力」は、今進行中の夫婦、あるいは親子のやり取りから発しているわけです。 優れた物語とは、得てしてそこで語られていない事柄を、暗に想像させずに置かないような広がりを持っているものです。早い話、安岡家の様子は目下の懸案だし、奈津もそう、さらには近所の下駄屋や電気屋の家族たちだって、敢えて引っ張り出せば別のエピソードが成立し得る。 物語は作り手の「任意のスポットライト」で、いかようにも広がっていくように見える。これはひとえに脚本家の話し上手(目線の広さ)の手腕です。私がここで善作の話をしているのは、どうやらこの人物の幕引きが近いらしいから、先に取り上げたに過ぎません。 善作という人物像は、いかなる意味でも「教育的」な父ではない(そもそも、そのような教育は受けていない)し、知識や技術を教えようにも、どうやら、すでに糸子の知識や技術は彼を上回っている。であるとするなら、彼が「昔から決まっていたから」と、ごく無意識に(しかし、明晰に)糸子に示そうとしていたことは何だったのか? これについては、よくよく考えてしまうことがあるのですが、なかなか厄介なうえに、何がなしこのドラマの話とは離れて行ってしまうようなので、いったん棚上げにします(再び取り上げられる機会があるかどうか、分かりませんが)。 やはり、目下の糸子像が気になるじゃないですか。いささかステロタイプな「大日本婦人会」のオバハンたちとのバトル、一見反戦主義的戦後思想で描かれているように見えますが、実際のところ、ここでの糸子の振るまいは真の意味で「反戦主義」と言えるのかどうか?ということなのです。このあたりに、どうやら父善作から受け継いだもの、あるいは彼女の根生いの考えかたが現れているような気がする。― つづく ―
2011.12.17
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もし「自立」「自己責任」を前提にした「父権」で威勢を張るのだとしたら、彼はこの物語のほぼ最初から破綻してしまうことになる(彼は世間的には、十全に「自立」しているとか、「自己責任」を果たしているとは言えないでしょう)。となると、「自分がようしないことを、子供に言う権利はない」という論理的必然に沿って、こういう振るまいを「横暴」「頑迷固陋」、あるいは人によっては「DV親爺」と取るかもしれません。しかし実際の物語の進行では、生業に失敗しているらしい状態でも、彼は子供あるいは嫁さんや母親に対して、絶対的「父権」を何ら疑問を抱かず振るっている。 しかし大事なのは、そこに「理不尽」を見止めているのは、観ている側の我々であって、猛反発し派手なバトルを繰り広げながらも、物語中の主人公は「父性性」そのものを否定拒否するといった態度には到らない(思いつきもしない)、という点なのです。これもまた「時代のなせる業じゃないか」と一括りにされてしまいそうですが、このあたり、もう少し穿ってみても好いのではないか? つまり、ここには父と子の間の「絶対的非対称」というような関係性が、在ると思うのです。 今どきでも、父子関係にはそうしたものが在るらしいということを、たいていの人は内心何となく感じていながら、「民主化」「平等」の名のもとに、何やら「物分りの良い父親」というのが、あたかも当為であるかのように思っているところがあるのではないか?「父性性」に「物分りの良さ」という形容は、まるきりなじまない語義的要素があると思う。逆に言うと「物分りが良い(説明できる)」という選択によって、今どきの家庭における「父性性」は、すっかり影が薄くなったのではないか?という気がするのです(まあ、こんなことを言うと、さっそく進歩主義者やジェンダー派の皆さんから、総攻撃されそうですし、自身の子育てを振り返ってみても、我ながら赤面してしまうのですが)。 なぜなら、「物分りが良い」とは、父は子に対していつでも「確かな説明責任があるはず」ということを前提にしているからです。「~だから、~しなさい」という子への対しかたは、正しい在りかたであるようでじつは間違っているにかもしれない。なぜなら、子供は父に対して、「なぜ?」という問いかけのポーズを取りながら、じつは「~をしなさい、の『理由の説明』」を求めているのではない。「理由は分からないけど、それでも頑として動かない明晰なポーズ」を求めているのです。で、この理由なき沈黙のポーズこそ「父性性」の根源なのではないか?理不尽さ加減が、岩のように理由なく「明晰」であるために、糸子は全力で善作と徹底的なバトルを繰り広げられるのだと思う。 ここで、ムラムラと湧き上がる糸子の「なぜ?」は、結局糸子自信が発見していくほかない。子供が大人に成長していくという過程で、大人はそれに「説明」で関与することは出来なくて(その瞬間、発見や気付きは子供から奪われる、つまり子供のままに止まる)、ただ「見守る」しかないのでしょう。 子供にとって「父性性」というのは、「絶対的謎」あるいは「畏れ」に彩られていて、それはお互いが同じ屋根に住まうかぎり、たとえ子供のほうが体格が大きくなっても、仮に父より良い大学良い会社に入ったとしても、この関係性はずうっと変わることがない。で、それがなぜなのかを、子供はそれと「言うことが出来ない」。もし仮に「言う」ことが出来たら、「子は親を選べる」というパラドックスが生じてしまいます。 さてここで肝心なのは、父もまた自身の取っているポーズに関して「説明することをしない」。というより、たぶん善作はこの関係性をどう説明してよいか「分からない」し、おそらく夢にもその必要を感じたことがないのだと思う。 彼の振るまいを律しているのは、そんな知的に整序されたものではなくて(彼はたぶん尋常小学校を出て、すぐ娑婆に出たのでしょう)、いわば「何や知らんけど、もともとそういうことになっていたから、そうする」というような無明な信憑で、「父性」を引き受けて来たわけです。― つづく ―
2011.12.14
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それにしても、いよいよ佳境に入って来たかと思える「カーネーション」ですが、毎朝十五分間の連ドラという性格からか、話がいささかせわしないですね。私は土曜日にまとめ取りして九十分のドラマとして観ていたのですが、結局一挙に観ていると、このせわしなさはむしろ倍加されてしまう、要は、これは厳密に一日十五分というテンポで、日にちを置いて観ないと、沸き起こる想念の収拾がつかない。 これは、連ドラの宿命かもしれませんが、十五分の間に一つのエピソードの始末がつくと同時に、次の事件の伏線が登場するというわけで、とにかく忙しい(これは明らかに、作り手が意図してやっているのです)。 ところで、「イチローと、なでしこジャパン」の話に割り込むようにして、この朝ドラの話をしているのには理由があります。イチローで表象されるような「自律」「自己責任」というキーワードに絡めて、ちょっと考え込んでしまうことがあるのでした。したがって、ここしばらくは、このドラマで沸き起こってくる私の「妄念」を話してみたいのです。どうやら、まんざら無関係ということでも無さそうなので。 一つめは主人公の父善作に描かれた、その「父性性」のようなもののことです。このドラマ、主人公も含めて一見ステロタイプな人物像になりそうなところ、ちょっとずつ描き方に「含み」が持たせてあって、一意的な解釈を許さないようにしてある。早い話、糸子という主人公にしても、先日のブログで触れたように、その「自立単独主義」的振るまいが、観る側からすれば一概に「善し」と認めるわけにはいかないように、伏線がいろいろ張ってあるのです。 ではその父善作は、どのような描かれ方をしているのか?一見、すっかり化石化し、今や戯画的にしか描かれることのない、向田邦子の寺内貫太郎的な「父性性」を踏襲しているように見えますが、それにしてはこの親父の行状はあまり芳しくない。というか、むしろ世間的には失敗者の部類に入るのではないか、と思わせるところがある(だって、自身の商売の尻拭いを嫁さんの実家にさせているのですよ)。 貫太郎には、「石工の親方」という立派な「生業」があって、威勢を張るに充分な裏付けがあったように描かれていたのが、この善作の場合は誰が見てもちょっと違うなと思うでしょう。 肝心なのは、それでもなお、なぜ彼が家でその絶対的「父権性」を振るうことが出来たのか、ということなのです。「それは、たんに時代のせいだろう」という声が返ってきそうですが、それだけではどうも腑に落ちない、何より善作以外の家族が(いろいろ文句を言いつつも)、その絶対的「父権性」を所与の前提として疑うことをしない。そのあたり、脚本を書いた渡辺あやさんの話が、どこかのブログに出ていましたが、ご自身結局よく分からなくて、役者の小林薫に解釈を「丸投げ」したそうです(ホントですかね)。で、その当の小林薫が言うには、「書いている人が分からないのに、演じている俺が分かるわけがない」と言っていたそうですが、これも何だか「?」ですね。 しかし、よく考えてみると脚本家も役者も、その人物像が必ずしもすべてわかって書いたり演じたりしていない(出来ない)というところが、かえって観る側に何やら奥行きを生じさせる(想像力を刺激させる)余地を与える。すぐれたドラマとか文学は得てして「すべては語らない」、享受する側に「一言云いたい」気分を喚起させる、というところもあるのではないか?(まあ、このあたりはいろいろ議論が、出てきそうなところではありますが) で、以下は私の考える「父性性」なるものの在りかのことなのです。― つづく ―
2011.12.13
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どういうことかと言うと、このような「大人への成熟の道程」を、もしドラマ的に明示しようとするなら、実在のモデルである小篠綾子さん像を、ヒロインは「はるかに、超えなければならない」という困難が生じてくるからです。実人生とは、言うまでもなくドラマのようなスッキリした整合性があるわけではなくて、初めも終わりもスッキリしないゴチャゴチャと錯綜したものでしょう。そこから明示性の高いエピソードを選んで重ねていくと、結果的に「実像」とはかなり隔たった「虚像」が、なぜかクッキリと現れるという仕儀になるのです。 じつは、このきれいに整序された「クッキリ度」というのが、実像から虚像が乖離して見えてしまう「罠」なので、これは例えば、いくら中味がことごとく事実そのものの拾い集めであったとしても、事実の「取捨選択」という作業自体に作り手側の「解釈」が入ることによって、すでに虚構性を生じさせているのです。で、どうせそうなるなら、最初からもっと作り手の想像力を高々と飛翔させたほうが、より明晰なメッセージを観る側に与えることが出来るのではないか?という考えかたも一方で出てくるでしょう。 ここで言うメッセージ性とは、何も「反戦」とか「ジェンダー」といったような、偏頗なイデオロギーレベルのメッセージではなく、芸術論や心理学でいう「昇華」作用の強度を指します。優れた劇やドラマというのが、「虚構」と分かっていてもずうっと支持され続けるというのは、現実には体験しようのないような衝突や破裂を、観る側の想像力を巧みに刺激することによって、擬似的に体験させてくれるからで、逆に言うと、話が巧まれているほど、つまり虚構性が高いほど、より強い「昇華」作用を観る側に与えるということがあるのです。 そのあたりのモデル(実像)とドラマ(虚像)の関係性について、おそろしく挑戦的だったのが三島由紀夫で、「金閣寺」や「宴のあと」「絹と明察」といったいわゆるモデル小説において、彼は実像あるいは実人生に充分拮抗し得る「虚構=芸術」は可能か?という命題を常に考え続けた作家でしたね。実際の金閣寺放火犯と小説に描かれた主人公にはとてつもない距離があるわけで、三島はこの小説の主人公を「完全な美に妬かれた犠牲者」として、世界文学史に残る稀代のヒーローに仕立て上げているのです。 実像とあまりに懸け離れ、しかもそれが実像よりも、はるかにクッキリとした「魅力(魔力)」を放ってしまうと、では、もともとのモデルは「いったい、何やったんやねん?」ということに当然なってきます。それがゆえに「宴のあと」はプライバシー裁判を引き起こしたのでした(当時存命中の政治家とお妾妻のスキャンダルがモデルで、しかも小説中のヒロインがとても魅力的に書かれている。それって、実像に対するものすごい皮肉じゃないですか。で、今となっては実在の人物がどういう人であったか?などということは、誰も気に留めません。作品だけが、キラキラと光芒を放っているのです)。 「カーネーション」がもし、「独立自存主義」で疾走する主人公が、我が身の「内なる邪悪の可能性」に気づき、「他者の存在」に目覚めていくというような、「成熟」の道程を語るストーリーだとすれば(分かりませんよ、たんなるジェンダー的サクセスストーリーで終始する可能性も充分あるわけです)、それは紛れもなく「自律・自己責任」から、「絆・連帯」というムードに何となく向かいつつあるらしい、東日本大震災後の日本の現状に向けた、かなり今日的なメッセージ性を強く押し出すものとなるでしょう。しかし、それは同時に小篠綾子という実在の人物から、小原糸子という虚構のヒロインが自立していくということも意味するのです。 どうもNHKの製作スタッフは、昭和から平成に到るこのヒロインの一生を、一気通観に描こうとしているらしく、となると、そのねらいはやはり今見たような予想に、かなり近いところにいくのではないか?という気もする。 しかしそうなると、これはいわゆる「朝ドラ」のレベルというか通念まで、それこそちゃぶ台返しにひっくり返してしまうくらいの、高くて重い目標になりかねませんね。 で、そのカギを握っているのが、やはり例の安岡のオバチャンじゃないかと思うのです。糸子のこれから経験していくであろう修羅場の人生に、彼女が陰に陽にどのように関わってくるのか?主人公に「他者の痛み」を気づかせるような、気の利いたエピソードをどのように持ち込むか?という展開であれば、おおいに楽しみではあります。 というのが、私が個人的にこのドラマに現段階で期待している「妄想」でした(全然、違ってたりなんかして!?)。
2011.12.10
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ふだん、特定の番組を除いては、ほとんどテレビを見ない私ですが、なぜか今回の「朝ドラ」はかなり面白い、というか、今後の展開によっては、久しぶりにハマってしまうのではないか?と予感させるところがあります。 他ならぬ「カーネーション」のことなのですが、初めのころの展開では、小篠綾子というモデルと岸和田だんじりという取り合わせから言っても、ボケとツッコミを絡めたお決まりの「浪花のド根性物語」を、多少今ふうにアレンジした話だろう、と思っていたところが、先週あたりから筋立てがおおいに冴えて、なかなか分厚いドラマになりそうだという気がするのです。断っておきますが、上のようなお定まりの展開であっても、たぶんそれはそれで「朝ドラ」として充分成り立つというか、「笑える」中味であったと思うのですが、このあたり、どうもNHK大阪の製作スタッフは、いわば定番の範疇からはみ出そうとしているかに見える。 逆に言うと、それを期待できるかもしれないから、今のうちに書いておこうと思っているので、でなければここでは取り上げません(「江」も「坂の上の雲」も、その出来ばえから言って、ここではとても取り上げる気がしません)。以下の話は実際にそうなるかどうかという予想当て話ではなくて、私が現段階でこのドラマに期待する「妄想話」だと思ってください。 その予感とは、安岡のオバチャンが「今のあんたは、勘助(息子)には毒や!」と言い放つのに対して、糸子(主人公)は理由が分からず呆然と立ち尽くす、というシーンのことなのです。このところ主人公の「絶対あきらめない」挿話の数々が、(笑えるにしても)観ている側にとって少々ハナにつきかけてきたところで、ガツンと彼女の振る舞いかたそのものに大鉄槌を打ち降ろす。「ああ、この展開はかなり以前から、意図されていたものだな」と思ったのは私だけではないでしょう。 この髪結い屋を営むオバチャン、主人公の同窓にしてライバルめいた奈津、このはなはだプライドが高くて人前では絶対弱みを見せない彼女にも、以前涙を流させたりもしている。糸子から見ればなじみのオバチャンですが、なぜか人をして「安心して心を開かせてしまう」不思議な雰囲気を感じているのです。で、しかもその理由を主人公は「これと、説明することが出来ない」。 で、今回の衝突で、その一端が明らかにされる、という仕組みになっていたのでした。こういう手法を「伏線」というらしいのですが、よく考えてみるとこのドラマ、あちこちに「伏線」がはりめぐらせてあって、しかもそれらが単線的でなく輻輳した形になっている、なかなか上手いものです。このオバチャン、例えば「源氏物語」の六条御息所のように、主人公の隠れた心理構造の写し絵として、今後とも現れるのか否か、おおいに気を揉むところではあります。 一言でいえば、安岡のオバチャンは「他者の弱さや痛みを知っているらしい大人」ということですが、独断専行でいわば「自立単独主義」で突っ走っている今の糸子には、それが「理解出来ない」。むしろ大発奮して「毒と謗られても、絶対負けへん!戦争にも絶対勝ったる!」といった受け止めと相成ります。この場合の「戦争に勝つ」とは、もちろん「鬼畜米英に勝つ」ということではなくて、「他人が勝手に引き起こした戦争になんか、私の目標は絶対邪魔させへん!」ということでしょう。これって、ほとんどスカーレット・小原(!?)のマインドですね。 「自立単独主義」とは「外部(敵)」を対置することによって、パワーがどんどん備給されるという心理構造をなしているのです。「外部」が恨みとか恐怖というかたちで、ますます立ち上がって来るほど、こういう人は「元気」になる。なぜならその間は「自身を見詰める必要がない」から。平たく言えば、これは「若さ」そのものの表象なのですが、よく考えてみると、ここ最近のありとあらゆる映画やドラマ(アメリカ映画、韓ドラを観てごらんなさい)というのは、こうした単純な対置構造のものばかりで、私はどちらかというと、いいかげん辟易していたほうです。 安岡のオバチャンが暗に指摘しているのは、「あんたの内なる悪を知れ」ということなのですが、糸子はもちろん「内心に潜む、意図せざる邪悪性」など想像もつかない。自分が「善し」と感じたことを、他人に言ったり働きかけることは、無前提に「正しいはずで、何が悪い」ということになります。このあたり、まだまだ先の話は長いので、今後どうなっていくのか想像もつきませんが、もしこのドラマのメインテーマが、「他者を知ること=己を知る旅=大人への成熟」なのだとすれば、演出家や脚本家の皆さんは、このドラマの目標をかなり高いところに置いているということになりますね(想像ですよ)。― つづく ―
2011.12.08
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一回性の出来事を、あとから言葉で再現するのはむつかしい。否、かりにコトバの専門家であっても、後づけの解説ならいくらでも並べることはできても、その時生じた事象や気分をあたかも詩人のように、ありありと正確に再現してみせられる人はそう多くはない。イチローはもちろんプロのアスリートであって、コトバの専門家ではないわけで、その時の気分とか体調を語ろうとマジメに構えれば構えるほど、おそろしい困難を感じてしまうのではあるまいか?というか、一つ一つの言葉を選ぶ彼の表情を見ていると、現実に事象は確かに生じた(クレメンスのカットボールをヒットした)のだから、それに対応する適切なコトバがあるはずなのに、結局喉元で詰まってついに出てこないというような、もどかしさがその表情に現れているように思えます。 ふつうの人間なら、ごくありきたりの形容詞で済ませてしまうところ、彼はどうしても「月並み」な表現で、それを発してしまうというのがガマンできないらしい。コトバが月並みなら、自身の身体がまさしく体現して見せた「一回性の事象」もまた「月並み」に見えてしまう、ということでしょうか。こういうとき彼は黙りこくるか、茶化してしまうという反応を、よくしますね。自身を正確に表わそうとしてそれが叶わぬ場合、この二つしか選びようがないのかもしれません。 何もイチローに限らず、こうした「一回性の事象」を適切に表現できるコトバというのは、じつはこの世に存在しないのかもしれない。言葉というのは、そもそも「事象」を一般化する(共有する)性質を持つものなので、こうした事柄を表現するにはなじまないところがあるのです。もし、「一回性の事象」に真の意味で、少しでも接近を試みるとすれば、それはむしろ回避的な「周辺からの示唆」に止まらざるを得ないかもしれない。先ほど「詩人」という言い方をしたのは、詩人は事物や事象を「コトバに置き換える」のではなく、事物や事象に「対置するようなコトバを発する」ことによって、逆にそれらの気分を示唆しようとするからです。 だれかれのごく個人的な古い体験とは、例えば、その時耳にした(らしい)「音・音声」や、眼に映じた(らしい)「映像」、身体に刻まれた(らしい)「感触」によって、より生々しく甦るわけで、いずれも正確にコトバで置き換えることは出来ません。すべてはコトバにした瞬間、「らしい」の闇に消えてしまうのです。 驚くべきことですが、イチローはそのあたりの「事象」の表れかたについて、自身の「身体から測る」というしかたを、いつ頃からか手に入れていたようです。しかし、それによって語られる彼のコトバが、インタビュアーや世間にとってチンプンカンプン、意味不明の景況を呈してしまうのは、ある意味しかたのないことでしょう。 これは何も、彼が世間に対して「天の邪鬼」に構えているということではなくて、すべての事象は「自身の身体感覚」を通して、しかと嚥下しないかぎり信じ切ることが出来ないという、ある種選ばれた「創造者」だけに烙印された特性ではないか?という気がする。紫式部も趙治勲も当代世間的に常識とされる事象を、それぞれの方法でもって「素から見詰め直す(あるいは、見詰め直さざるを得ない)」という、稀有で厄介な才能に運命づけられていたのでした。 イチローもまた、ことバッティングに関しては「素から見詰め直す」ことを、デビュー当初から続けて来たわけで、となると、それらをコトバで説明することに、いちいち困難を感じるというのは当然のことなのです。彼のバッティング「理論」は厳密に彼の身体を通して発せられているのであり、それは彼以外では代替不可能だからです。 例によって、何だか難しい話になってしまいましたね。 それにしても、これほどまでに自身が発するコトバに、彼がこだわらざるを得ないというのには、何やら今どきの時代的要請も働いているような気がする。それこそが「新自由主義」が称揚する「自律性」「自己責任」に基づく「単独主義」ではなかったか?― つづく ―
2011.12.07
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この「二度と現れることのない代替不可能性」とは、言い換えれば、人間というのがすぐれて「一方向に流れる時間性の中にある存在である」ということを示しています。つまり、身体の示す「信憑性」とは、生き物であることの「確かさ」だけを前提にしているということに他ならない。 と、ここまで来れば、イチローと「仮想マネー」の鬼っ子たち(あるいは一括りに、ヒトを「経済人」と概念化する見かた)との違いは明らかでしょう。「仮想マネー」のヒーローたちは、「貨幣」から出来るかぎり時間性を奪う(身体性を損なう)ことによって、その栄光を保持しようとしているのです。一般人が彼らに抱く「うさん臭さ」とは、まさしくこの代替不可能性を前提とした生き物の信憑を覆し、「時間」を我が物にしよう(自由に操ろう)とする彼らのマインドに、マヤカシを嗅ぎ取ってしまうからでしょう。ファンドマネージとは、言い換えれば「時間」をメシの種にしている商売なのです。 どうもこう見てくると、西欧近代の「ヒトは放っておくと、必ず自己目的的に振るまう生き物である」という規定じたいが、そもそもいかがなものであったか?という疑問が沸きあがってきますね。「経済合理性」の由って立つ根拠が、基本的に生き物としての人間を見誤っているのだとしたら、「近代経済学」は根本から見直しをせざるを得ないのではないか? しかしまあ、経済の話はともかく、イチローの話にもどりましょう。「自律性」の代表的ヒーローであるべき彼は、そうしたマヤカシめいた世間の常識とどう向き合っているのか?彼のメジャー11年の事跡とは、そうしたマヤカシが世間一般に信憑されているアメリカという社会とどう付き合って来たのだろう、という歴史でもあるのです。 彼が英語で容易にしゃべろうとしないというのは、アメリカメディアでもつとに指摘されていることで、これは人種混交の社会にあって、「我が意を常にハッキリと表明する」ことが是とされる彼の国では決して好意的には見られない。「10年以上アメリカで寄食しているなら、英語くらい話せよ」というのが彼らの本音でしょう。じつはどうも日常の意思疎通程度の英語なら、彼は別に困らないらしい。とすれば、これはたんに彼の怠惰ではなく、かなり意識的な回避がはたらいているのではないか? その原因がどこから来たものか、日米から様々論評されているようですが、要はここには彼の対人語法というか、モノをしゃべる(あるいは見るとか、会うとかでも良いのですが)ときの独特な「構え」があるような気がする。これは何も「英語をしゃべらない」といったようなレベルの話ではなくて、彼の語り口は日本人にとっても生半では理解できない種類のものなのです。 もうずいぶん以前のインタビューになりますが、彼がR・クレメンスとの対戦を振り返って言うには、「彼の投球には、カットボールのタイミングに合わせて待つ」というのがありました。盛りを過ぎたとはいえ、「ロケット」とも称される剛速球投げのピッチャーに対して、曲がる球のタイミングで待つとは、どういうことなのか?何もクレメンスに限らず、「いちばん速い球に、タイミングを合わせる」というのは、バッティングのセオリーとして誰一人疑わない種類のものです(「遅い球に合わせて待ったら、速い球には手も足も出ないはず」ということです)。 イチローはこの一見「あたりまえの常識」とされる事柄に対して、シレッと疑義を唱えます。これは「何でも常識を疑ってかかる」というような、よくある話ではなくて、その時の自身の体調(たしか、その前の守備で膝に裂傷を負っていました)、クレメンスの調子(絶好調でした)など、その場だけにしか決して現れ得ない臭いを嗅ぎ取る、そうした一回的に立ち現れる邂逅(かいこう・出会い)に対するしかた、その時その場だけに通用する話をしていたのだと思う。こうした事柄は後から言葉で説明するというのが、はなはだ難しい。一回的な事象を言葉で一般化することなど出来ない、あえて言うなら「その時は、そう感じたから」としか言いようがないものでしょう。 彼はそれを多少の衒い(あるいはサービス精神)でもって、「カットボールのタイミングで待つ」と言ったのではないか?結果からいうと、クレメンスの投げ込んでくるスピードボールを、ことごとくファウルしたイチローが、確か8球めくらいに来たカットボールをセンターにはじき返したのでした。― つづく ―
2011.12.03
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