ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog

PR

×

サイド自由欄

QLOOKアクセス解析

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

Verdiさん

Verdiさん

カレンダー

コメント新着

Verdiさん @ Re[1]:9/14 N響定期公演 (2024年9月 Aプロ1日目)(09/14) Maybe.さんへ >隣の席のテーブルマナ…
Maybe.@ Re:9/14 N響定期公演 (2024年9月 Aプロ1日目)(09/14) 誰がどうであれ、感動したなら構わないけ…
Verdiさん @ Re[1]:3/30 東京春祭トリスタン(04/01) emigmaさんへ ああ、ヤノフスキですね。ま…
emigma@ Re:3/30 東京春祭トリスタン(04/01) ひぇっ!ヤンソンスがN響ふったんですか!…
Verdiさん @ Re:12/3 N響定期公演 (第1971回 2022年12月Aプロ1日目(12/04) NHKで録画が放送されたのを観てみました。…

フリーページ

2017年04月09日
XML
カテゴリ: 映画
今更ですが、「君の名は。」について書いてみようと思ったのは、実は、この間の新国立劇場の「ルチア」を観て思い至ったことがあったからであります。まぁ、大したことじゃないし、もうどっかで誰かが言っていることじゃないかとは思うんですが、いい加減に検索してみた限りでは、見当たらなかったので。
 というか、素直にこれはすごいよなぁ、と思うのは、去年の夏に公開した映画が、今(2017年4月9日)現在で未だロードショー中であるという事実。未だ関東で100館以上で上映中。確かに、シネコンで一日一回上映とか、そんな感じではあるけれど、シン・ゴジラはもう数館だけ、この世界の片隅にもやっぱり10館台。素直に、未だに上映すればお客が見込まれるという事実は動かし難い。DVD出しゃそっちに行くのかも知れませんが。

 で、普段映画はあまり観ない、正直そんな暇はないぞ、という私はといえば、実はこの映画、映画館で観てません。何処で観たかというと、年末年始にANAの国際線で機内で観たのであります。たまたま行き帰り共ビジネスだったので、ゆっくりと観てきたわけですが、そういうわけで、DVD未発売だけれどほぼ個人でTVでDVD観てるのと同様のスタイルで観たという、まぁ、まだあまりない観方をしている。しかもタダ。(航空券代に含まれてるとかいうのはちょっと違うし)なので、自腹切って映画館出掛けて観たという人とは感覚は違うとは思いますが。

 で。正直言うと、私はこの映画面白いと思ったのですが、あとあとつらつらネットを眺めてみると、意外と評価が良くなかったりする。まぁ、ディスる人は何にでも一定数居るものだけれど(というか私は間違いなく通常その「一定数」の枠内)、この映画の場合、「わからない」「難解」という声が少なからずあって、実は「わからないけれど、いい」「難解だけれど、いい」という言い方もあって、意外とこれ難しいらしいのですね。まぁ、それと、件の「ルチア」の演出とが呼応したのだけれども。

 さて、では、私はこの映画どう思ったかというと、一言で言うなら「あざといなぁ」と思ったのですよ。但し、面白いとは思ったけれど。では、何があざといか?つまり、「こういう映画だと、そりゃぁまぁ若い子、中高生とか20歳前後の若者の心を鷲掴みだろうなぁ」という意味で、あざとい。じゃぁ、あざといからダメかというと、そうは思わないんですね、結局。まぁ、サントラ買っちまうくらいには気に入った。
 ただ、多分、このあざとさの本質を、この映画を「わからない」とか「難解」とかいう理由でなく、もうちょっと「理論的に」否定した人達、もっといえばキネ旬の評価だの(専門家と一般読者とを問わず)で高く評価しなかった人達は、理解できなかったんじゃないか?と思ったのですね。

 では、この映画のあざとさの本質は何か。というより、これはどういう映画なのか。
 私の意見は、「これはただの恋愛映画だ」というもの。ただそれだけ。それ以上でも以下でもない。
 で、何があざといかというと、この、「ただの恋愛映画」であることを、比較的若い人達をターゲットに据えて、徹底したんだと思うんですね。それはもうあざといくらいに。慎重に計算して。

 いや、実際そうなんですよ。というかさ。これは、映画なんですよ。フィクションなんですよ。だから、フィクションとして、恋愛映画として、徹底的に追求してみた結果だと思うわけです。それを2時間足らずで見せるわけですよ。で、その中で、フィクションとして徹底させようとしたら、突っ込もうと思えば突っ込めるところは出るんです。そこを突くのは、鋭いようで、実は読み切れていないとも言える。

 この映画がフィクションとしてよく考えてあるなぁ、あざといと感じるほどに、と思うのは、いろいろあるのですが、例えば、主人公二人の設定。片方は都心の高校に通い、お洒落な、と言ってもいいであろう生活を送り、もう一方は、相当田舎の高校に通い、遠い東京への憧れを抱きつつ、田舎のしがらみにどっぷり浸かって暮らす。
 これ、殆ど非現実に近いと思うのですよ。田舎暮らしの方はあまりよく分からないし、今の高校生の生活もよく分からない。けれども、あんな都心、それも新宿近くの学校に通い、バイトしてる身で、もう一方で日々お洒落なパンケーキなんぞ出す「カフェ」に通う男子高校生(瀧)、ってのは、ちょっとあり得ない。いや、全くあり得ない訳ではないけれど、ものごっつう少数派だと思う。つまり、現実にありそうだけれど、かなり遠い。で、その対極にいるのがもう一人の三葉の方で、これも、ここまで極端な環境にいるのは多くないと思う。つまり、この映画を観る人の殆どは、この二人の両極端な環境の間の何処かで高校生活を送っている、あるいは送っていたりこれから送る訳です。
 だから、この二人の環境は「私」からは遠いけれど、その間の何処かにいるという錯覚が、物語としての「嘘」に引き込みやすくしている。これが、「私」の境遇に近いところにあると、却ってそことの乖離が目立ってしまう。「私」から離れたところの話になってしまう。そして、そのことが、この「恋愛映画」のストーリーを成立させる一助になっている。
 一事が万事この調子で、よく練られていると思います。一方で、破綻しているように見える部分もある。例えば、実は二人の入れ違いが時間を超えて起きていることから、その時間差に入れ替わっている時に気付かないのか?と指摘する声もある。確かに「気付かないのか?」と言われればそうだけれど、お互い入れ替わった先の生活に対応するのに必死で、とかいう理由はあり得る。もっと言えば、観客がその矛盾に気付くのは、先の話なので、そこは引っ掛からなければ、通ってしまう。確かに破綻していると言えなくもないけれど。ただ、問題は、その破綻が、あるいはそれを書かないことが、この映画の本質を損ねているか?という視点だと思う。その意味で、この映画の本質は何か?と問われれば、「SF映画」ではなく「恋愛映画」なのだ、という事になる。

 ローマの休日、あれ、今、どのくらいの人が観たことあるんでしょうね。ビデオが普及して、LDが普及して、DVDが普及して、という度に、必ず出ていたし、TVでも時々放映されていた。あの映画が一種の恋愛映画であることはあまり否定されないと思うけれど、あの話も考えてみれば荒唐無稽である。何処ぞの国の王女がローマに公式訪問して、窮屈な生活を強いられているのを抜け出して....というのは、ある意味設定にも無理があるし、抜け出してのあれやこれやも随分な話も多い。けれども、少なくとも同時代の人々は、ローマの名所旧跡の映像に惹かれ、オードリー・ヘプバーンの可愛らしさに惚れ惚れし、他愛のない物語を面白がった。それは今でもそうなのじゃないかと思う。
 それで、ローマの休日をリアリティがないとか言い、それ故にこの映画はダメだ、と評価を下す人はいるのだろうか?

 君の名は。の物語に無理がある、リアリティがない、と言うのは簡単だが、個人的にはむしろこの映画を「恋愛映画」として評価出来ない方が問題だと思うのだ。それは言ってしまえば「目をつぶれ」と言っているように聞こえるのだと思う。それは分からないでもない。だが、こちとらオペラ聞きである。リアリティを言うなら、こっちは「兄に騙され強いられた結婚に同意した直後に都合よく誓い合った仲の男がやってきて詰るので、精神の均衡を失って結婚相手を殺して彷徨い歩く」なんという、荒唐無稽の度合いが指数関数的に違うのだよ、という物語に付き合っている身であり、そんなツッコミどころ満載の物語に日々付き合う身としては、そのくらいの事なら非本質的なんだからスルーしてやれよ、と思ってしまうのだ。というか、そのくらいでなきゃどんな物語にも付き合ってられないだろ、と思うのだ。
 ただ、これが、オペラの世界でも、無駄にリアリティを追求する結果、「狂った花嫁の所業を現前させる」という目的であろうか、件の花嫁に新郎の首を槍先に突き刺して振り回しながら歌わせるという、むしろ笑うしかないような舞台造りをするようなスットコドッコイまで出る始末なので、この程度のリアリティに関するツッコミ、難解さに対する批判など可愛いものなのかも知れない。

 だが、フィクションに於けるリアリティというのは、結局、どれだけ現実に近づいた姿を見せるか、ということではなく、どれだけ「物語として受け入れられる」環境を用意するものなのだと思うのだ。その意味で、如何に騙すか、だと思うのだ。
 この映画で言えば、舞台となった飛騨古川の様子や、都内の様子が、今流行りの「聖地巡礼」先になっているらしいけれど、多分作ってる側は、しょうがないから忠実に描くにせよ、本当は「そこであること」よりも「フィクションとしての現実感」を出す手段としてその風景を模しているだけなのだと思う。


 無論、「恋愛映画」としてどうなのか、という批評はあり得るし、その意味で評価しない、という意見は当然あり得る。まぁ、そこを言えば、ローマの休日がやっぱりヘプバーンを観る映画のように捉えられる面もあるように、映像美で評価される可能性もあるし、その意味でそこまでの映画じゃない、とも言えるだろうし。ただ、未だに上映が続く、ということ自体が、この映画の受け入れられ方を表しているとも言える。
 お互いに名前を忘れないように、掌に名前を書こう、と瀧が提案し、三葉の掌に名前を書く。独りに戻った三葉は村を救うべく走るが、力尽きかけて転ぶ。心が折れそうになるその時、掌に書かれた名前を見ると、「好きだ」と書いてある。これを甘すぎる!と突っ込むもよし、その心情に思いを馳せるもよし。ただ、まぁ、そのどちらであるにせよ、「これは恋愛映画だよね」という読み取りさえ出来ていれば、その文脈で観ることの妨げにはならないと思うんだけれども。

 まぁ、難解だ、分かりにくい、というのは、そうは言っても丸呑みするのにも抵抗感がある、ということだろうから、苦しいところなんでしょうけどね。でも、それが、「難解だけれどいい」という形に落ちるのなら、それもまたそれでいいんじゃないか、と思うのではあるけれど、どうなんでしょうね。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017年04月09日 02時34分25秒
コメント(0) | コメントを書く
[映画] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: