( 承前 )
今日(3月1日)は、友人の偐山頭火氏と久々に銀輪散歩を共にして参りましたので、本来ならそのことを記事にしなくてはならないのですが、昨日の銀輪散歩の記事が途中になっていますので、先ずそれをアップしてしまうこととします。
前頁の記事は物部守屋の墓で終っていましたので、そこから出発ということとします。
物部守屋の墓から数十米西に行くと大聖勝軍寺というものものしい名の寺があります。聖徳太子開基にて、単に太子堂とも呼ばれる。聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋との戦で四天王に必勝祈願し、勝たせてくれたら四天王のために寺塔を建てると誓ったことから、戦勝後に四天王寺とこの地のお堂(太子堂)が建てられたとされている。
太子町の叡福寺が「上の太子」、藤井寺市の野中寺が「中の太子」と呼ばれるのに対して、こちらは、「下の太子」と呼ばれる。当ブログにもこれで上中下の三太子が全て登場したことになる(笑)。
<参考> 大聖勝軍寺
・Wikipedia
叡福寺「 太子町銀輪散歩(その2)
」 2010.3.1.
野中寺「 銀輪万葉・藤井寺界隈
」
2009.11.22.
日本書紀崇峻天皇即位前紀秋七月の条
是の時に、厩戸皇子、(略)誓を 発
てて 言
はく「今若し我をし
て 敵
に勝たしめたまはば、必ず 護世
四王
の 奉為
に、 寺塔
を
起立
てむ」とのたまふ。蘇我馬子 大臣
、又誓を 発
てて 言
はく、
「凡そ諸天王・ 大神王等
、我を助け 衛
りて、 利益
つことを 獲
し
めたまはば、願はくは 当
に諸天と大神王との 奉為
に、 寺塔
を
起立
てて、 三宝
を 流通
へむ」といふ。
境内に一人の年配のご婦人が居られ、太子堂をスケッチされていました。
ご婦人がスケッチされていた場所の近くに、十七条の憲法の抜粋、第1条の「以和為和」と第4条の「以禮為本」が刻された碑がありました。
スケッチのご婦人にはにこやかにご挨拶(和を以って貴しと為す)はすれど、スケッチをむやみに覗き込んだりはしない(礼を以って本と為す)ヤカモチでありました(笑)。
<追記>
偐万葉というコンセプトのブログであるのに、万葉集に出ている聖徳太子の歌を掲載しなかったのは迂闊でした。掲載制限字数にまだ余裕があるようなので、追記して置くこととします。
上宮の聖徳太子、 竹原井 に 出遊 しし時、 龍田山 の 死 りし人を見て 悲傷 みて作りませる御歌1首
家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に
臥
旅人
あはれ
(聖徳太子 万葉集巻3-415)
(注)竹原の井=河内国大縣郡高井田(現、柏原市高井田)のこと。
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