太融寺は、弘仁 12 年( 821 年)に嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建した寺であるが、淳和天皇の代に、時の左大臣 源融 が七堂伽藍を建立したとされる。太融寺という寺名も源融に由来すると言われている。源氏物語の光源氏のモデルとされる人物は色々の説があるが、源融もその内の一人ですな。寺は大坂夏の陣(
1615 年)で全焼後、元禄年間に復興。しかし、昭和 20 年 (1945 年)の大空襲により全焼、戦後に復興する。まあ大阪の寺は殆どそうですが・・。 西門を入り、左に行くと片隅、奥まった処にあったのが淀殿の墓。こんな処に淀君の墓があったのですな。傍らには、淀の方の碑と藤見東陽という人の「淀殿の墓を弔う」という詩碑が建っている。
淀君は、元和元年(1615年)大阪夏の陣で、大坂城落城の折、山里曲輪の櫓に籠り、秀頼と共に自刃して果てる。遺骨は大坂城外鴫野郷弁天島(現大坂城公園内)に淀姫神社を建てて葬ったという。ところが明治10年に墓所の地を含む地域に城東練兵場を設置することとなり、墓は太融寺境内に移設されることになったのだという。
藤見東陽という人のことは知らない。墓前に線香の煙は無かったがまだ新しい花がた向けられていました。また、墓前を立ち去ろうとしている小生と入れ違いに来られた、若いサラリーマン風の男性が墓前に合掌一礼して行かれました。「墓前合掌而去誰」でありますかな。
淀君の墓から本堂の方に戻って来ると、芭蕉句碑がありました。
しら菊の目に立てゝ見る塵もなし
これは、西行の「曇りなき鏡の上にゐる塵を目に立てて見る世と思はばや」を踏まえての句であるが、門人の園女を訪ねた折の挨拶句であるから、園女を白菊になぞらえ、俗塵を離れての彼女の凛たる生きざまを讃えたものであるのでしょう。
本堂は南向き。淀殿之墓、芭蕉句碑は本堂の左(西)側にある。右(東)側に行くと三層の宝塔がある。塔内は不動堂になっていて、不動明王が安置されている。薄暗く、密教的な雰囲気。
塔の入口近くにあるのが厄除弘法大師。
厄除弘法大師の裏にあるのがマニ車。由縁などは下の説明碑をご覧下さい。お経を知らなくても、この車を回せばお経を唱えたのと同じ功徳があるという便利なものであります。マニ受けるか否かは人それぞれですが、信じなければ功徳もありませぬ。
俗塵を離れ、塵一つ見当たらないという白菊の美しさを讃えた句から何十mかこちらにやって来たら、こちらは国会期成同盟発祥之地の碑でありました。太融寺は、自由民権運動の画期をなす国会期成同盟大会の会場ともなったのですな。
もう一つ、藤井寺駅前万葉歌碑を訪ねての近隣散歩が未掲載のままとなっていますが、これはまた明日以降にでも・・。
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