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この大学の図書館は新しく建てられた地上8階建ての巨大なもので、その近くを歩くと、すんごいビル風に襲われる。 そのせいで、私は傘を壊した。 これがその図書館で、手前の御仁は、毛沢東先生。 だが、この図書館、年々、蔵書の数は増えているのに、日本語の本はほとんど置いてない。 だから、日本語が恋しくなったら、別の楼にある日本語資料室まで足を運ばねばならない。 日本語資料室は僅か12畳ほどの細長い部屋で、両側に壊れかけた本棚が並び、そこに日本文学全集、世界文学全集(日本語訳)などとともに、破れたり傷んだりした古本が並んでいる。 ほとんどが日本から送られたもので、その大半は河南師範大学と教育交流をしている、鳥取県境港市の教育関係者から寄贈されたものである。 境港市は人口3万人の小さな、都市とも言えないような田舎の小さな街だが、港町だけあって、国際色が非常に豊かだ。 例えば、中国語検定の試験会場は、近隣の大きな都市ではなく、鳥取県の中でも最突端(従って、不便)のこの街で行なわれるし、北朝鮮の元山市と姉妹提携もしていた(実は、北朝鮮の都市と姉妹提携をするって、口で言うほど決して簡単なことではない)。 境港市の隣には米子市という街があり、米子市と境港市を中心とする鳥取県西部地域には、「中国杜康酒会(略称:杜康酒会)」という会がある。 杜康酒とは、三国志の雄、曹操が愛飲した由緒ある中国の銘酒で、杜康酒会とは、中国の伝統的な酒を酌み交わしながら、草の根外交で日中友好を深めようという目的で作られた会である。 その杜康酒会のメンバーが、一昨年の春、河南省を訪問した際、私も同行した。 一昨年の春といえば、時あたかも反日、抗日デモの真っ盛りで、会員の中にも「時期をずらした方がいいのではないか」という声もあったが、「むしろ、こういう時期だからこそ、我々の強い友情を表すためにも、予定を変更するべきではない」という意見が大勢を占めて、中国に来たのだった。 日本のテレビで連日伝えられていた反日、抗日の雰囲気は全くなく、中国側の代表者は、そういう一部の人々のことが、さも、中国全体のことのように殊更強調されて伝えられていることを残念だと言い、しかし、そういう時期に中国を訪れてくれた我々を大歓迎してくれた。 杜康会訪中団が河南師範大学を訪れた時、中国側の学長、そして訪中団側の団長の挨拶が終わった後、杜康会の顧問をしていた、当時の私の社長から、突然、私に「中国語でスピーチをしなさい」という声がかかった。 社長に命令され、私は、学長や事務方の責任者の他、日本語学部の中国人先生や院生たちがズラリと居並ぶ前で、3分間くらい中国で話をし、最後にこう結んだ。「今、中国と日本の間にはたくさんの問題があります。しかし、私はこう考えています。日本語を話せる中国人がもっともっと増えて、中国語を話せる日本人もたくさんになれば、中日関係(中国で話しているから「日中」ではなく「中日」ね)は必ず良くなるはずです。そのために私は中国語の勉強を頑張るし、日本語を勉強したい中国人を助けたいと思っています」 その時、私が話した中国語を日本語に通訳してくださったのが、日本語学部の大御所である劉先生で、その時の私のスピーチを聞いていたのが、他の先生方そして外事弁の白麗たちである。 当時の私の中国語は決して流暢ではなかったと思うが(実は今もそうだ)、言葉などというものは、流暢でなくても気持ちを伝えることはできる。 むしろ、たどたどしいからこそ、余計に思いを感じてもらえることもある。 あの時は、日本語教師の資格もまだ持っておらず、中国でそういう仕事をすることも、まして、自分がだいそれたスピーチをした学校で、学生たちに日本語を教えるなどということは、夢にも考えていなかったが、今、私は現実に、ここにいる。 なんだか、人生って、スゴイ
2007年01月31日
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何の予定もない日。 朝、起きてからシャワーを浴びて、洗濯をし、部屋を掃除がてら、使い終わった資料などを片付け、その合間に辞書のページをめくりながら、漢語と和語を対比させてリストアップしたり、1つの言葉で3つ以上の意味があるものをノートに書き写したりした。 これは、後期の院生の授業で使う予定にしている。 既に達者な日本語を話す院生たちに、より豊かな表現を身に付けさせたいからだ。 前期の反省点は、準備が充分でないまま授業を迎えてしまったことが何回かあったこと。 漢語を和語に直したり、辞書に載っている言葉の説明から言葉を想像したり、語源を3ヒントで当てるといった、クイズ形式の授業は、ネタがなく切羽詰った状態から思いついたものだが、これなどももっとしっかり準備していれば、類義語や対義語などを合わせて紹介したり、適切な例文を例示することもできたのだ。 それを後悔している。 後悔といえば、「会話」の授業は、前期の途中から迷走状態に入っていた。 その後やり方も定着し、学生たちも私のやり方に慣れて、活気のある授業になったが、基本は、 学生たちがたくさん話してこそ、会話の授業だということ。 昨日、一緒に食事をした2年生たちは、「会話の授業に話す機会はほとんどない」と言っていた。 2年生の会話は田中先生の担当で、先生のキャラクターを活かした元気のよい授業をしておられるが、それは田中先生の元気のいい声が響くという意味での「元気のいい授業」である。 つまり、先生が教科書の例文を読んで、学生たちがそれに続いて同じ例文を読んでいるのだ。 田中先生も、これではダメだと、いろいろと考えていらっしゃるようだが、前期が終わった段階で考えているようでは、これまでの4か月は何だったのかということになる。 先生を非難するつもりは毛頭ないし、積極的に学生と触れ合おうとする姿勢は、私も見習うべきだと思っている。 それに田中先生は、この大学の日本語学部の先生の中で、唯一(英語科のスチュワートも来てくれた)、私の授業を見学に来てくれた方である。 私は日本での教師経験がないので、しきたりというものが全くわからないのだが、日本人の先生というのは、他の先生の授業を見学したり、見学した後でアドバイスをしたり、互いにディスカッションをしたり等、しないことになっているのだろうか。 それぞれの先生が治外法権の枠内で、自分だけの世界を邪魔されないように懸命になって守っているとしか思えないことがある。 以前、ある先生に、私のブログを紹介しようとした時、「私は経験があるから、別に見せて頂かなくても……」 と言われたことがあるのだが……。
2007年01月30日
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昨日は海外で、それも家族と離れて、一人で迎えた誕生日だった。 もう誕生日を無邪気に喜べる歳でもないが、初めて異国で迎えた誕生日には、やはりある種の感慨がある。 先週は一足先に院生が祝ってくれたし、三日前には上海の友だちがプレゼントをくれて、二日前はクラスの男子学生が食事に誘ってくれて、CDを手渡された。 今はそのCDを聞きながら、このブログを書いている。 聞いているのは李■杰(■は「経」の糸がない)と周杰倫。 時計が12時になって、29日になるとと同時に(時差の関係で、こちらはまだ日付が変わっていなかったが)、日本で働いている研修生からバースデー・コールがあり、今朝からは学生たちのバースデー・コールが何件かあった。そして、夜になると、また別の日本の研修生や学生、そして上海の友だちからの電話が相次いだ。 えっ 祝ってくれたのは、全部、中国人だ。 これって凄いことじゃないかと、思った。 研修生たちに日本語を教えたのは2年前のことなのに、そして日本を離れて会う機会もなくなったのに、今でも私の誕生日を覚えてくれて、電話をかけてくれるなんて、ありがたいことだね。 実は今日はパーティなんていうものはなかった。 学生も院生も、実は今週は「試験ウィーク」で、日頃にも増して勉強に熱が入っている。 仮にパーティなどを開いてもらえば、貴重な試験準備の時間を割いてくれたことに対して、こちらが恐縮して心苦しくなるだけだった。 というわけで、今日は一人でワンタンでも食べようかと思って、破街(おんぼろ街)に行ったのだが、そこで、「あっ、先生!」と声をかけられた。 見れば2年生の女子学生の2人組だった。 2年生は昨年の10月に、1回だけ特別に授業をしたことがあるが、それ以来、2年生がよく声をかけてくれる。 そこで、彼女らと一緒に食事をすることにし、食事をしながら簡単な日本語を教え、食べ終わった後は、春のようなポカポカ陽気の下、約1時間の散歩をした。 その彼女たちが、夜になって、私の部屋を訪ねてくれて、「先生、誕生日おめでとう! これはプレゼントです」と、もらったのが、これ。 誕生日とは別に、日本から送ってもらった大藪春彦の小説も、今日届いたし、なんだかんだで、侘しさや寂しさを感じることもなく、授業もないのに、ずっと誰かと話をしていた、異国での誕生日だった。 こういう誕生日も、あり、だな。
2007年01月29日
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中国に来てから変わったものといえば、金銭感覚。 特に内陸部の河南省で、しかも省都ではない新郷市では、物価は安い。 単に「安い」のではない。「非常に安い」のだ。 例えば、冬の定番、膝の長さまでのダウン・ジャケットが50元(750円)で買える。 例えば、大学の前にある破街(通称:おんぼろ街)なら、ワンタンの大碗が2元(30円)。 これと包子(バオズ:小ぶりの野菜まん)4個を1元で買って食べれば、お腹いっぱいになって、〆て3元(45円)。 大学の外国人教師食堂で1日3回、食事をしても15元。(220円) たまに火鍋を囲んで、肉を多めに注文し、ふんだんの野菜と何本かのビールをお腹に入れても、一人当たり30元(450円)から40元(600円)くらいのものである。 火鍋などを食べるのは特別の場合だから、通常使うお金は1元単位(バスも1元)である。 だから、たまに10元以上の買い物をしたり、それくらいの金額の食事をすると、 「しまった、今日はお金を使いすぎた」 という気になる。 10元って言ったってたかが150円なんだけど。 というように、金銭感覚は完全に狂っている。 ……で、そんな感覚で上海に行くと、まるで別世界に来た感じ。 上海に着いた日の夜、友だちと合流して、私が好きな雲南南路を歩き、目に付いた店に入って、メニューを見ながら注文をした。 安い料理でも、だいたい10元くらいからである。 まあ、なんだかんだ安めの料理を注文して、それがテーブルに並んだのが、この状態。 料理はすべておいしかった。 特にナスを味噌や唐辛子と一緒に土鍋で煮たような料理と、「辣子鶏(鶏肉を唐辛子で蒸し焼きにしたような料理)」は見事なくらいおいしかった。 だが、真ん中の壷のようなものの中に入っているスープは、それだけで48元である 更に2日目はもっと凄かった。 食事をした場所は浦東で、新しいビルが次々と建設されている、上海の中でも最先端の地。 食事をしたのは、右側に映っている正大広場の4階。 そこからは外灘の夜景がきれいに見えて、普段は予約を入れないと、席が確保できないほどの人気の店だという。 これがその夜景(案内された席が丁度窓際だった)。 外灘の夜景だけでなく、ナイトクルーズの船の灯りも見えて、けっこういい雰囲気。 その店で食べた料理は以下の通り。 これが前菜。 向こう側の黒っぽく見えるのは、味付けがしてある生の海老(おいしかった)。 次はこれ。 見たとおりの茄子だが、甘酸っぱくて、少しピリ辛の味付け(これもおいしかった)。 そして、その次がこれ。 椎茸とマッシュルームのオイスターソース炒め(もう言い飽きたけど、おいしかった) 中でも一番のお勧めはこれ ホクホクした肉は、何かと思ったらカエルだそうで、生まれて初めて食べたカエルは、とってもおいしいものでした。 この後に酸辣湯が出てきて、更に注文した覚えのない、アワビに似た椎茸のあんかけのようなものまで、並んで、私も彼女もおなか一杯になったのでした。 前日の雲南路とこの日の浦東での2回の食事は、〆て、私の河南省での1か月の食費に相当するほど。 だってコーラ(缶)が12元で、普段の私の1日の食事代と同じなのだから。 素敵な雰囲気の中で、贅沢な料理を食べたのだから、この日の料理の値段は、それらを全部含めたものと思えば、納得できるし、何も不満はないのだが、それでも合計金額を見た時には、心がチクリと痛んだ。 何故なら、私が払うのなら、別にどうってことはなく、喜んで払うのだが、今回の上海旅行では、私はご馳走になるばかりで、いつも彼女が支払っていたのだから。 だから次回は、是非、私が彼女をもてなそうと決意をしながら帰途に着いたのだった。
2007年01月28日
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上海は変化の早い街で、5年半前に初めて行った時と比べれば勿論だが、3年間前と比べても大きく様変わりしている。 開発がどんどん進み、ますます巨大化しつつある。 それでもこういう風景が至る所に残っているからホッとする。 これはホテルの部屋から見た風景だが、遠くに高層ビルが建ち並び、その手前は古い住宅がそのまま残っている。 そして、昔ながらのその通りでは、こういうものも売っている。 臭豆腐を売っているのだ。 臭いがきついからすぐにわかる。 今回は食べるチャンスがなかったけど、雑食性の私としては、いずれ食べてみたいと思っている。 3年ぶりの上海で驚いたことはいくつかあるが、その一つはまず自分のこと。 上海に行けばいつも迎えてくれる友達は、今は会社勤めをしているので、今回は仕事を終えた夜だけしか会うことができず、今回はその分、自分でせっせといろいろなことをこなした。 まず鄭州空港にチェックインし、飛行機に乗って上海へ。 上海空港を降りたら、タクシー乗り場の列に並んで、乗ったタクシーにホテルの名前と住所をいい、そこまで乗せて行ってくれと頼む。 ホテルでは、フロントの女性と冗談を言いながら、これも自分でチェックインし、 友だちが仕事をしている間は、一人で豫園→外灘→南京路→人民公園→ホテルと、店をひやかしたり、食堂に入って食事をしたりしながらぶらぶらしたのだった。 外国に住んでいれば、どれも当たり前のことなんだけどね、本当は。 中国に来た回数こそ7回か8回になるが、これまでは必ず付き添ってくれる誰かがいたし、或いは訪中団の一員として列の最後を歩いていただけだったので、1人だけで何かをするという経験は、これまでなかったのだ。 勿論、相手の言葉が聞き取れないことはたくさんあったが、それでも話はできるし、親しさを感じることはできる。 豫園では日本へ送るお土産を何しようかと、探しながらぶらぶら歩いていたのだけど、そこで眼に留まったのが、角っこの小さなお茶の店。 その店のお姉さんと、いろいろなお茶の効能や、好きなお茶などを教えてもらいながら、河南省から来たこと、大学で日本語を教えていることなどを話し、中国語は独学だからあまり上手くないんだと言うと、 彼女は、「私も日本語を独学しているんです」 と言って、ノートに書いた日本語を見せてくれた。 そこには「50グラム」「100グラム」「いらっしゃいませ」「さようなら」等の言葉が書いてあった(ひらがなを書き、その文字が表す音を覚えるのは外国人にとって一苦労なのだ)。 私は彼女に乞われて「どうぞお入りください」「どうぞ入ってください」「どうぞ飲んでください」を教えながら、そんなことを30分近く話をし、バラ茶50グラムを4缶とジャスミン茶50グラムを2缶買い、最後に記念撮影をしたのだった。 お姉さんは残念ながら目をつむっていた。 豫園では偽ブランドの客引きと一緒に、細い路地の奥の小さな民家に行って、時計を見せてもらった。 以前はそういう偽物市場があり、私は好きで、何回か行ってバッグや時計などを買ったのだが、今ではなくなったと聞いていたので、そういう店が残っていることが嬉しかった。 今、私が愛用している時計はオメガで、しかも日付が「星期一」と中国語で表示される、れっきとした偽物なのだが、買ってから4年経った今でも、しっかり動いている。 買ったときの値段はたしか300元(4500円)しなかったように記憶してる。 ちなみに、その時、いっしょに買った皮のカバンは450元というのを、「私は250だから、250元にしてよ」と言って、250元に値切って買った。 「250」というのは「バカ!」という意味ね。 食事は豫園から少し歩いたところにあるこの食堂で食べた。 食べたのはこれ。 ワンタン。 実は「ワンタン」の中国語の発音が私には難しくて、うまく言えないのだが、この時は通じた。 肉とニラの具がたっぷり入ったワンタンは、あっさりめでとてもおいしかった。 この店では6元(90円)だったけど、これって大学の前のおんぼろ街で食べると2元なのね。 上海に来て驚いたのは、まず、自分の中国語が通じたということ。 その次に驚いたのが、田舎と都会の物価の差を感じた……という話は、また明日にしましょう。
2007年01月28日
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帰ってきました、上海から。 まずは証拠として、お決まりの写真を。 上海空港(虹橋空港) 上海といえば定番の外灘の写真。 これも定番の東方明珠タワー。 ここは私が好きな雲南南路。 いろいろなレストランがあって、歩いているだけでも楽しい。 初日はこの店で食べた。 2泊3日。正味まる2日。 短い、短い、あっという間の旅でした。 上海には5年半前に知り合った女性がいて、彼女と出会ったおかげで、私は独学で中国語を勉強することを始め、彼女が日本語を勉強していたことで、外国人に日本語を教えることに興味を持ち、彼女が生まれた国だから、中国が好きになって、そうして今、私が中国で、つたない中国語を駆使しながら生活し、中国の大学で日本語を教えているのだ。 彼女と出会ってから、私が変わったように、彼女もこの5年半で少女から大人になっていた。 日本語は格段に上手になった。 古典や文法の知識は私が教えている院生には劣るかも知れないが、まるで日本人と会話をしているような、心地よい日本語空間を作ることができるのは、私が知っている限り彼女だけだ。 話をした相手を楽しい気持ちにさせる才能を、彼女は持っている。 冗談に敏感に反応して、口の中で転がすように笑ったり、しゃれた返事をするのは相変わらずで、そこが彼女と話していて楽しいところだが、冗談だけでなく、人生を考え、今の自分の生活を反省し、目的を探しながら、毎日を生きている。 この5年半の月日の流れを、自分と彼女に当てはめて考えると、その早さに驚くと同時に、人生を変える月日の重さを、今更ながら実感したのだった。
2007年01月27日
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終わったぁ~っ。 成績をつけて、学部主任に提出し、前期の全てが終わった。 試験もそうだったが、成績をつけるのは、もっときつかった。 成績は良いほうから「優」「良」「中」「合格」「不合格」の5段階に分かれていて、実質「優・良・中」の3段階にまとめることになっている。 何よりも頭を悩ませたのは「優」は30%以内に抑えなさいというお達しがあったこと。 更に「良」は40%、「中」を30%という指示もあった。 そんなのできるわけないじゃ~ん。 15人くらいいた「優」の候補を9人に絞れだなんて……。 じゃあ、会話の試験で、多少はたどたどしく、時制などを少しばかり間違えながらも、壮大な夢をとうとうと語った学生と、非常に流暢で、間違いがなくても、当たり障りのないことを言った学生と、どちらを上にしろっつーの? 会話って、相手と話をすることでしょ。 だったら、壮大な夢を語ってくれる人の方が、話してて楽しいんじゃないの だからと言って、きれいな発音で、流暢に答えた学生を「あなたの話には夢がない」と言って、「良」に落とせるわけもないでしょ。 作文だってそうだ。 というわけで、本当に悩んだ。 悩みながら、成績をつけた。 壮大な夢を語った学生に「優」をつけ、その分、明るい笑顔で答えていた学生を「良」に落とした。 学生たちは「先生に任せます」「気にしないでいいから」って言ってくれたのだが、それが余計に辛かったのだ。 というわけで、終わったことはきれいさっぱり忘れて、明日(いや、もう今日だ)から上海に行ってきます。 3年ぶりの上海。5回目か6回目の上海。 上海には5年前(6年前だったか?)に知り合った友達がいる。 知り合った時、彼女はまだ17歳の、日本語を勉強中の女の子だったが、今は23歳の、日本人のように日本語を話す美しい女性へと成長した。 実は6年前、河南省で仕事を済ませた我々一行が、日本に帰る際に上海に立ち寄り、その時に案内役として迎えてくれたのが、当時17歳の彼女だった。 この6年間で会ったのは3回だけ。 4年前には、上海を訪問した我々夫婦を自宅に招いてくれて、4日間ずっとあちこちを案内してくれたし、その時は、私よりもむしろ私の奥さんとよく話をしてくれた。 そういう気配りができる女性である。 私が中国の勉強を始めたばかりの頃、会社の社長の誕生パーティに、中国からの賓客が来ることになった。 その時、まだ「ニイハオ」と「シェシェ」くらいしか中国語を知らなかった私は、「中国語でスピーチをします」 と無謀にも広言してしまい、その後、慌てて彼女に、私が考えた日本語のスピーチ文を中国語に翻訳してくれるように頼んだのだった。 自分を追い詰めないと、本気になって努力しないのが、私のいいところ()だ。 2週間後、彼女から届いた手紙の中には、1本のカセット・テープが入っており、その中には、私のスピーチ文を中国で話す彼女の声が吹き込まれていた。 それから、会社までの往復2時間の通勤時間中、ずっと彼女の声を聞き続け、すっかり丸暗記した私は、約100人の招待客の前で、生まれて初めて中国語でスピーチをしたのだった。 考えてみれば、それが私の、中国語独学ライフのスタートだったし、あのことがなければ今のように、中国で日本語教師をしていることもなかったかもしれない。 人生とは偶然の積み重ねなのね。 それでは、上海に行ってきます。
2007年01月24日
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3年生2班の会話試験が終わり、これで前期の私の日程はすべて終了。 教室中の学生たちの視線を感じながら、緊張を隠して教壇に上がり、中国語で自己紹介と挨拶をしたのが、今から4か月余り前のこと。 時間が経つのは本当に速い! 日本の学校での教師経験もなく、古文や漢文に深い造詣があるわけでもない、教師と名乗るのもおこがましい私だが、そんな私でも唯一誇れることがあるとすれば、クラスの全ての学生とたくさん話をし、それぞれの学生全員に忘れがたい思い出を持っているということだ。 実は3年生を担当している日本人教師は私以外にもう一人いる。 彼女は精読の担当で、授業中、よく笑い、大きな声で元気よく話す。 日本の高校で国語教師を40年近く務めただけあって、知識は豊富だし、毎時間、授業の開始時に日本に関する話題を学生たちに紹介するなど、熱心な先生だ。 だが、彼女は、私より授業時間が多いにもかかわらず、成績の良い学生の名前しか覚えていない。 その先生がことあるごとに言うのが、「3年生は会話がダメねえ」 という言葉。 決して悪気はないのだろうし、学生たちを心配してのことだと思うが、余りにも不用意にあちこちで言いすぎるし、その言葉を聞いていい気はしない。(それに自分だって3年生の担当なんだし) 確かに、3年生の会話は上手とは言えないが、それでも9月に比べたら進歩している。それも目覚しい進歩だ。 このブログでも何度か書いたが、3年生たちは、日本語の単語を次々に覚え、文法を身につけていた去年(2年生当時)、担当の日本人教師と話をする機会はほとんどなかったという。 会話の授業は、「先生が精読の教科書を読んでいただけです」ということで、学生たちは黙ってそれを聞くだけ。教室の外でも、その先生は学生とは距離を保っていたそうで、今の3年生は覚えた日本語を話すことなく、貴重な1年間を失っていたのだ。 だから9月、私が赴任した当時は、学生たちの大半は日本語を話すことに臆病だったり、話そうとしても何をどう話せばいいかわからず、また間違えることを恥だと思っていた。 1年間、日本語を話すことを封印されていた口からは流暢な言葉が出るはずもなく、単語や文法の言い間違いや使い間違いなどが頻発していたものだ。 それが今では、学生たちと話をすれば、次から次へと話題に事欠かない。 その話題に関して、私が一つ質問すると、≪会話の基本、その3≫の原則に従って、返事+情報+逆質問が返ってくる。 だから会話が途切れない。 例えば、 「あなたの故郷はどこですか?」と質問すれば、 「私の故郷は安陽です」(≪会話の基本、その1「質問+答≫)に続いて、 「ここから列車で1時間半ぐらいです。古い名所旧跡が多くて、自然がとても豊かです」と来て、 「先生は安陽に行ったことがありますか?」まで言えるようになった。 今日の会話の試験でも、全員が1つの質問に対して1分以上、答えることができるようになっていた。しかも全員が、緊張しながらも笑顔を浮かべて、堂々と答えていた。 だから、成績なんてつけられないよお~っ。 なんで「優」が30%以内なんだよ! あ~っ、しかし、それにしても、他の先生にも見せたかったなあ、今日の会話の試験。
2007年01月24日
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一昨日の恋人同士との食事に続いて、昨夜は院生たちと一緒に食事をした。 院生たちが、私のためにひとあし速い「誕生日パーティ」を開いてくれたのだ。 メニューは火鍋。 この時点では肉を2皿食べ終わっていて、手前に残っているのが羊肉とエビ団子、一番手前の白いのはエノキ茸(こちらのエノキは太い)で、他にエリンギやきくらげも見える。 こちらは肉を食べ終わって、野菜の皿が並んだ状態。 ジャガイモや冬瓜、大根、椎茸などなど。 実は私にとって、院生の授業は当初、いくらか重荷だった。 何故なら、院生といっても、昨年の4年生から進学したのはたった1人で、他は大学で学生たちに日本語を教えている現役の日本語教師、或いは日系企業で通訳として活躍しているという、いずれも日本語学習の達人ばかりだったからである。 平均年齢は30歳を超え、笑い声が弾けまくっていた3年生と比べると、何だかやりにくいなあという感じを、私は持っていた。 私が担当している院生の授業は3つ。 「近代日本文学精読」「新聞選読」「作文」である。 「近代日本文学精読」は本来は田中先生が担当することになっていたのが、田中先生が教える自信がないと辞退されて、私にお鉢が回ってきたのだった。 その授業を担当することを承諾した時から、私は近代の所謂「名作」を読ませるということはまったく念頭になかった。 私が院生たちに紹介したかったのは、過去の名作ではなく、今、日本で多くの日本人に読まれている作品である。そして研究や学問の対象になる立派な作品ではなく、心地よい読書空間を創り出してくれる立派な大衆小説である。 だから、院生たちに初めて渡したプリントは、重松清の『カーネーション』だった。 森鴎外や永井荷風、夏目漱石、志賀直哉、梶井基次郎などの作品を予想していた院生たちは、その見慣れない作家の名前に多少困惑したようにも見えた。 重松清の作品なら院生たちにも必ずフィットするという自信めいた予感はあったが、案の定、院生たちからは「早く次を読みたい」という声があがったし、その次に村上春樹の『沈黙』を読んだ時には、「この次は『カーネーション』のような小説がいいです」というリクエストも出た。(それに応えて、群よう子の『アンパンとOL』にしたのだった) それでも暫くの間は、院生たちが私の授業をどう思っているのか、把握しかねていた。 院生たちは私の授業以外に「日本哲学」「日本古典文学」「高級聴解」「翻訳」「文献選読」「マルクス経典著作選読」「コンピュータ応用基礎」などを、著名な教授のもとに教わっている。 そういう授業に比べると、私の授業は明らかに異質だからである。 院生たちの、私に対する気持ちがわかったのは、私が強度の下痢に襲われた時のことだった。 飲まず食わずで何日か過ごし、我慢をして授業に出た時、院生たちは私を見て「痩せたあ!」「頬がこけたね」と、まるで友だちに対するように評し、次の夜、院生全員が果物を持って、私の部屋に見舞いに来てくれたのだった。 あっ、受け入れられている、と実感したのだった。 その時以来、私も、「日本語語源3ヒント・クイズ」や「礼儀作法クイズ」、「日本語教育能力試験問題」など、とても大学院の授業とは思えないが、院生が日本と日本語に興味を持てるような内容へと変えていった。 「日本語語源3ヒント・クイズ」とは、ある日本語の語源を3つのヒントで紹介し、その言葉が何なのか、早く当てるというもの。 例えば、こんな問題。1、この言葉はもともとは「立派な男」をさす言葉でした。2、中国の周の時代、1尺は22.5センチで、8尺が1丈でした。つまり1丈は180センチで、これが「立派な男」を表す基準になりました。3、現在では、「計画がうまく進んでいる時」「病気が軽いことを表す時」「危険がない時」「安心して任せてほしいという意味」など、この言葉はいろいろな意味に使われています。(正解は最後) 3年生に対してもそうだが、卒業後はほぼ確実に、それぞれの大学で日本語教師になって学士達に日本語を教えることが決まっている院生たちに対しては、楽しく知識を吸収する方法、強い印象を与えて記憶を定着させる方法などを教えたいと思っている。 そういう先生たちから日本語を学べば、日本語ファンはますます増えるだろうし、日本を好きになってくれる中国人も増えるだろうと思うからだ。 地道で先の長い話ではあるけれど……。※日本語語源クイズの正解 答=「大丈夫」 「大丈夫」はもともとは1人前に成長した立派な男を表すことばでしたが、それが安心、元気、問題ないなどの意味に転化され、用途が広がったのでした。
2007年01月23日
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1班の会話の試験が終了。 次は水曜日に2班の試験をすれば、前期の日程はすべて終わり。 学生たちはちゃんと試験の準備をして、豊富な内容を流暢に話した。 この4か月で、本当に上手になったと思う。 だが、全員が上手に話しただけに、問題は成績をどうつけるかということ。 学部主任から、成績は良い方から「優」「良」「中」「合格」「不合格」の5段階でつけろと指示が来ている。 しかも「優」は30%以内に抑えろという指示も。 だから、完璧な会話をしたとしても、その数が多ければ、「良」に落とさなければならなくなる。 なんだかヘンな話だ。 ところで、昨日はクラスの学生と食事をした。 ある女子学生に以前から、「一緒に食事をしたいと」と誘われていて、昨日がその約束の日だったのだ。 彼女とは、ある日の夜、日本語資料室で話をし、寮に帰ろうとした時、雨が降っていたので、私が持っていた傘に二人で入って、寮まで送ったことがある。 そのことを感謝しているようで、「あの時のお礼をしたいから」と律儀にも食事に誘ってくれたのだ。 といっても、私と彼女、二人だけの甘~いデートというわけではなく、彼女と同じクラスの男子学生(つまり彼女の恋人)がちゃんと同席していた。 彼氏も私のクラスの学生だが、昨年は出席日数が足らないことと、試験の成績が合格点に届かなかったことで、本来なら4年生だが、留年して今年も3年生をやっている。 彼は体が弱いようで、偏頭痛が治まらず、入退院を繰り返していて、今年も授業を欠席することが多い。 だから、教室内で友だちは少ないし、当然、日本語は上手ではなく、彼女がノートを取ったり、授業の内容を教えたりと、かいがいしく世話をしている。 実は、私は彼には思い入れがある。 赴任して1か月後の10月。 わけも分からず突っ走ってきて、少し気疲れを感じていた頃のこと。 彼が私の授業に出席した。 病気がちの彼にとっては、私の授業に出るのは、それが3回目くらいで、私も彼と話をしたこともなく、私にとっても、クラスの中でも最も疎遠な学生にしか過ぎなかった。 授業中も、私の話がわかっているのかどうか、彼はずっと無表情、無反応だったのだが、授業が終わって、私が教室を出る時、私の後について教室を出ようとしていた彼が、私に向かって、恥ずかしそうな笑顔で手を振りながら「先生、サヨナラ」と言ったのだった。 その言葉に勇気づけられた私は、スランプに陥る手前でくるりとUターンでき、再び、今まで以上に頑張ろうと思うようになったのだった。 昨日は、彼とそういう話もした。 私の話を中国語で彼に通訳しようとする彼女を制して、私は彼と努めて日本語で話をした。 同じ言葉を何度も言ったり、分かりやすい例文をあげて、それを彼に繰り返させた。 その中でこういう例文があった。「安くておいしい」 彼女が私に、「何を食べたいですか?」と質問したので、「安くておいしい」と答えたのだが、その後、彼に「夜は暗くて寒い」などの例文を教え、そしてこう言った。「あなたの彼女は、きれいで可愛い」 彼はこう繰り返した。「私の彼女は、きれいで可愛い」 確かに彼女はクラスの中でも美人だが、妬けるから、少しは謙遜しろっつーの
2007年01月22日
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昨日と今日は、部屋で学生たちの作文をパソコンに入力したり(いずれ文集を作る予定)、姜くんのための単語と例文集を作っている。 日曜日だから休みのなのは当然だが、学生たちは日曜日でも期末試験をしている。 私が担当している3年生の今日の試験は「日本の古典文学」。文法や読解など、けっこう高等な問題が出題されているらしい。 明日は朝8時から3年生1班(2班は水曜日)の会話試験。 先週は水曜日と金曜日の2回、学生たちの寮に行って、試験の練習をした。 試験の練習って……彼女たちは、その後のバカ話のほうが目的だったようだが。 まず、私が質問。「あなたは大学に入ってから、自分のどこが成長したと思いますか?」「大学に入るまでは、両親がいろいろなことをしてくれました。しかし、大学に入って寮で生活するようになってから、私は自分のことは自分でするようになりました。そして、友達と協力して問題を解決するようになりました。それが私の成長だと思います」 流暢さには若干問題があったが、内容としてはまずまず。 他の質問。「自分を誉めたいと思ったのはどういう時ですか?」「私が作った料理をおいしいと誉めてもらった時です。なぜなら中国人にとって『食べる』ことは重要なことで、みんなと一緒に食事をすることは、友情や家族の団欒も表します。そして食事の時にはおいしい料理が欠かせません。だから、料理を誉めてもらった時、私は自分を誉めたいと思いました」 なかなかいい答。 こういう、過去の経験や思い出を問う質問には、割合、良い答が返ってくるのだが、学生たちが苦手にしているのは、『自由な発想』を問う問題。 1、あなたに中国を任せると言われたら、まず何をしたいか? 2、あなたが社長なら、どういう人材を採用したいか? 3、願いが一つだけ叶うとしたら、何をしたいか? これらの問題は、誰もが一様に難しい、と顔をしかめる。 それでも、何とか考えをひねり出した学生がいた。「私は携帯電話の料金を安くしたい。それは、私は毎月、携帯電話の料金が高くて、生活が苦しい。だから、中国移動通信の料金を、今の半分くらいに安くしてほしい。そうすればおいしい料理を食べるチャンスが多くなる」 おいおい。 電話代が半分になることが夢かい……? もう一人は歌手志望の女性。「私は背中に羽がほしい」 (おっ、いいぞ)「その羽を使って……」 (うんうん)「寮から教室まで飛んで行きます」 歩いて5分のところかい! これが、狙って言ったことなら、座布団1枚だが、どうやら真面目に考えた末の発想だったようで、余計にがっくり。 まあ、とにかく明日は会話の試験。 面接官らしく、スーツをビシッと着て、教室に行こうっと。 日本から送ったスーツ、これまで一度も着るチャンスがなかったので。
2007年01月21日
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昨日も女子寮に行って、学生たちと話をしていた。 みんなよく質問をするようになった。4か月前とは大違いだ。 誰もが満遍なく私に質問したり、話したりするようになった。時にはすねたり、私をからかったりすることもある。だから発話が重なって、互いに譲り合うということが多くなった。 彼女らは「私は日本語があまり上手ではない」と言う。 私は彼女たちにこう言った。「でもね、私とあなた達はずっと日本語で話をしているんだよ。今日はもう4時間も、ずっと日本語で話をしたんだよ。4時間だよ! 2年前、『あいうえお』から覚え始めて、今は日本人の私と日本語で話をしているんだよ」 悲観的になったり、自信を失ったりすることも、最近ではなくなった。みんな前向きに考えるようになった(すくなくとも私にはそう見える)。 以前は「私はよくわかりません」「うまく話せません」「長い文章が書けません」といった声が多かったが、今では、それらの言葉の次に「先生、教えてください」が付くようになった。 私にとっても、学生と話をするとメリットは大きい。 実は、後期の作文の授業をどう展開させようか、ずっと考えていた。 学生たちは去年も授業中に、ほとんど毎週、作文を書いてきた。今年の前期も同様である。 このやり方に、私自身が飽きてきた。つまらないと感じるようになった。 まして、ずっと作文を書き続けて来た学生たちは、尚更そう思っても不思議ではない。 学生たちは、つまらないなあと思いながらも、作文の授業とはこういうものだと思い込んでいるのではないか? そんな概念を打ち破る授業はできないだろうか、もっと日本語を書きたいという気持ちにさせるやり方はないのだろうか、書くことによって会話も同時に上手になる方法はないものか……と、ずっと考えてきた。 それが昨日、学生たちと話をしていた時、突然閃いたのだった。 その一つは、中国で人気のある歌手の歌を日本語に翻訳するというもの。 それも直訳ではなく、メロディに歌詞を乗せて、日本語で歌えるようにするのだ。 日本の歌を教えて、学生たちに歌わせることは、どの先生も考えることだが、私が考えたのは、学生たちが自分で歌詞を作って、自分たちで歌うということである。 そして、それらの歌は、後期の後半に予定している『3年生をバカにするな!』(仮題:まさかこんな名前にはしないけど)という日本語パーティで、日本人教師の前で披露するのだ。 そして、もう一つ。 その日本語パーティのメインとなる日本語ドラマの脚本を、作文の時間に書かせるのだ。 まずは、出会いのシーンや別れのシーン、喧嘩のシーン、そして愛を語り合うシーンなど、場面別に書いて、最終的に一つのストーリーにし、それを会話の時間に練習をするのである。 そうすれば、文章(特に口語)の練習になり、会話とのコラボが実現する。 重要なのは、本を読むのとは違って、体を動かしながら、相手に向かって、日本語を話す機会ができるということだ。 そして、それは教科書に載っている会話例文ではなく、日本語の勉強を始めて2年半経った自分たちが考え、自分たちが書いた「会話」なのである。 これがうまくいけば、学生たちの作文授業に対する概念は大きく変るはずだ。 概念が変わり、授業は自由な発想でやっていいんだ、教科書を覚えることだけが授業じゃないんだ、授業は楽しいものなんだ、ということを学生たちが身をもって覚えれば、将来、彼や彼女らが教師になった時、素敵な授業をする愛される先生になれるだろうと思う。 後期は前期よりも、もっと面白い授業をしようぜ! そして思い出をたくさん作ろうゼイ!
2007年01月20日
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今日は、英語教師(会話、イギリス文化)のスチュワートの機嫌がなぜか悪かった。 聞けば、今日、後期の授業表をもらったのだが、そこに午後8時からの授業が2回も組み込まれたいたとのことだった。午後8時からの授業では、終了は10時になる。 その時間は、スチュワートにとっては酒を飲んでいるか学生とデートをしている時間である。彼は、「そんな時間は、学生たちが疲れていて授業にならない」 という理由を言っていたが、実は自分の大事な時間を奪われたことに腹を立てていたのだ。 スチュワートでなくても、そんな夜間授業はしたくないに決まっている。 私だって、勿論嫌だ。 スチュワートだけではない。ビルも5時からの授業が週に3回入ってきたと、こちらもニコリともせず、不満そうに言っていた。 中国の大学では近年、学生の募集人員を増やす傾向にある。 学生数が多くなれば、学科、クラスが増え、結果として総授業数が増える。 しかし、施設、教室、コンピュータなどの設備は変わっていないから、朝早くから夜遅くまで授業をしないと、履修科目をすべてこなせなくなる。そして、そのしわ寄せは教師にも及ぶということだ。 だから学生たちは朝8時から夜10時まで、ずっと授業を受けている曜日もある。 しかし、3年生になってからも「教育学」「経済学」「毛沢東理論」「英語」など、日本なら一般教養に属する科目を履修しなければならない。むしろそういった中国独自の政治的な科目の方が時間割では優先されている。 従って、日本語科にもかかわらず、日本語の授業はあまり多くない。 そういう環境で学生たちは日本語の上達に力を注いできたのである。 授業以外は、平日でも休日でも、朝7時から夜10時まで、空いた教室に行って自習をし、僅か2年間で日本語能力試験に合格できるレベルまで、能力を高めてきたのだ。(試験に合格するための授業が優先だから、会話が疎かになっていたのだ) 実は田中先生も当初の予定では、夕方5時からの授業が3つも組み込まれていた。 しかし、我々が予定表をもらったのは昨年の12月で、まだ変更が効いたのと、予定表を受け取った翌日に、田中先生が教務室に抗議に行ったので、即日、午前中の授業へと変更になって、事なきを得た。 しかし英語科は、前期が終わろうとしている今日、その予定表が配られ、今更変更はできなくなっていた。スチュワートはそのことも怒っていた。 私はといえば、幸いなことに後期はすべての授業が午前中だけに集中している。 朝8時からという曜日も多いし、午前中に4時間ぶっ通しという曜日もあるが、午後は毎日、フリーになり、翌日の授業の準備をしたり、他の先生の授業を聞きに行ったりもできる。更には校外に出かけて行動半径を広げることもできる。 もし夜の授業なら……今でも、寮に行って夜まで話をしているんだから、あんまり変わらないか。
2007年01月19日
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私は元来、社交的な人間ではない。むしろ人とうまく付き合うことがあまり得意ではない。 陽気ではないし、内省的な性格だと思っている。 誰かと会えば、楽しく話をするし、その場を盛り上げるために何でもするが、それは私のサービス精神のなせる業であって、そういう性格だからではない。 できれば、そういう場を避けるに超した事はない、と思っている。 そして他の人たちが大いに話していて、私が場を盛り上げる必要がない時は、ほとんど聞き役に徹していて、問われれば話すが、自分から話をすることは極めて少ない。 だから会社の社員旅行や忘年会、新年会、或いは住んでいる地域の行事や集会などは、苦手で、休む理由ばかりを考えていたものだ。 日本で中国人研修生に日本語を教えていたことがあるが、私の授業は(また謙遜しろよ、といわれそうだが)研修生たちに大好評だった。 面白いのだそうだ。「面白い」という基準はそれそれに違うのだろうが、一言で言えばやっぱり「面白い」ということらしい。(写真は2年生に特別授業をしたときのもの) だが、昨年、来日したばかりの研修生に日本語を教え、2週間ほど経った頃のこと。 夜、教室に行くと、一人の研修生が日本語を自習していたので、しばらく彼女と二人だけで話をした。 その時、彼女は私について、こう言った。「先生の中には二人の先生がいるように思います。1人は授業中、楽しくおしゃべりをして、冗談を言ったり、面白い動きをしたりして、私たちを楽しませてくれる先生です。もう1人は1人でいろいろなことを考えて、人と話をしない先生です」 勿論、中国で3か月ほどの日本語教育しか受けていない彼女だから、すべてを日本語で言ったわけではなく、中国語を混ぜながらの話だったが、私は聞きながら「へえ~」と思ったものだ。わかる人にはわかるものなんだなあ。 そういう私が、授業の他に、毎週2回、学生たちの寮に行って、部屋を次々にはしごしたり、一緒に食事をしたりして、何時間もぶっ通しで彼・彼女らと話をしているのだから、自分でもどうなっっちまったんだ、俺は とよく思う。 更に信じられないのは、そんなふうに周りにいつも学生がいても、まったく苦痛ではないし、疲れることもなく、むしろ楽しくて、私自身が元気になるということだ。 以前、私は授業中、「あなたたちの笑顔は私の心の栄養だ」とクサイ台詞を吐いたことがあるが、あれはまんざら嘘ではなく、ましてお世辞や格好をつけて言ったことでもない、と最近つくづくそう思う。 結局、人懐っこい学生たちにうまく乗せられているんだろうな。 日本語教師を殺すにゃ刃物は要らぬ、相槌、返事、笑顔をしなけりゃいい。(字余り)
2007年01月18日
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3年生2班の会話の授業が終わって、これで前期のすべての授業を終えたことになる。 後は来週の会話の試験(1班と2班)を残すだけ(作文の採点などはあるけど)。 毎日、授業が終われば、次の授業の準備、準備が終われば、授業と、その繰り返しで慌しく過ぎ去ったこの4か月だった。 私の担当は、3年生の「作文」(1クラス:60人)と「会話」(2クラス:各30人)。そして院生の「近代日本文学精読」「新聞選読」「作文」の合計6クラスで、このいずれも教科書はない。3年生の会話では大学から支給された教科書があるが、ほとんど実用的ではない。 だから授業の準備といっても、まず「次の授業は何をしようか」というところから始めていた。 途中では、「このままではきっと行き詰る」と思ったこともあるし、実際に、授業開始の30分前まで、何をすればいいか全くの白紙だったこともある。 そういう時に限って、いいアイディアが閃くもので、院生に「日本語語源クイズ」や「日本語能力試験記述問題」をやらせたのも、そういう切羽詰った状態の時に浮かんだアイディアだった。 そういうことは新聞記者をやっていた時、ネタが思い浮かばなくても、なんとかして紙面を埋めなければならないと、いつも追い込まれていたのと同じである。 そして、追い込まれるたびに、何かが天から降りてくる、というのも同じだった。 そんなこんなで「あっ」という間に過ぎた4か月だが、学生たちはこの僅かの期間で大きく成長した。 私のクラスに姜くんという男の学生がいる。 私は初めての授業の時、学生たちに自己紹介をさせたが、姜くんに対してはおどおどしたところのある内気な性格だな、という印象を受けた。 授業中も座るのは一番後ろの席だし、挙手をすることはなく、指名されても小さな声でぼそぼそと話すだけだった。 次々と懐いて、私を見かけては駆け寄ってきたり、笑顔で手を振ってくれたりする学生が増える中で、姜くんだけは、話をする機会もなく、1か月が過ぎていった。 姜くんと、授業中の指名以外で、初めて話をしたのは10月の、学生たちの労働授業の時だった。 私は、当時は毎日、校内で出会った学生たちの会話の相手になるために、午前と午後、それぞれ1時間ずつ校内を散歩していたが、労働授業の時も、学生たちが草取りや掃除をしているところに出かけて行って、彼らと日本語会話をしていた。 その時、姜くんがおずおずと私に話しかけてきたのだった。 写真は労働授業で草取りをしていた学生たちを写したもので、左端の男子学生が姜くん。 彼は、自分の日本語能力にコンプレックスを感じていること、迫っている日本語能力1級試験に合格したいこと、もし今年落ちても来年もう一度頑張ることなどを、半分以上は中国語で語っていたものだ。 そして、最後に「先生、教えて」と日本語で言っていた。 聞けば、1年生の時は、先生との折り合いが悪く、話をしたこともなく、クラスメートからだんだん遅れていった上に、去年の先生の授業はつまらなくて、勉強する気にならなかったという。そして、そのことを今、とても後悔しているようだった。 おとなしい印象を持った姜くんは、実はスポーツマンで、校内バスケットボール大会などではヒーローだし、時々、授業の前に教壇に立って、クラスメートに何事か指示を出している姿を見たこともある。年末のゲーム大会で司会をしたり、ゲームの小道具を用意したのも、実は彼だ。 だから、彼は決して内気ではなく、日本語コンプレックスと日本人教師に対するトラウマが原因で、話をしなかったのだということに気がついた。 ある日の作文の授業で、私は彼の字を誉めたことがある。 彼は書道が上手で、書道コンクールで入賞した経験もある。その時、彼は「先生の字はこどもだ」とニヤッと笑いながら言った。「こどもの字」というのは、崩したり流したりしないで、一画一画をきちんと書いた字のことだが、その頃から、姜くんが私に話しかけてくる回数が増えてきた。「先生、お前は中国の生活、慣れましたか?」 と言われたこともある。「お前は」って……。 でも、私と話すために覚えたんだろうなあ、と思うと苦笑よりも先に感動してしまったものだ。 私が他の先生の授業を見学に行った時は、彼と並んで授業を受けたこともあったし、寮で話をしたり、買い物に付き合ったこともある。 そして、前期の最後の作文の授業で、4つのテーマの中から『日本語と私』というテーマを選んだ彼は、「ありがとう先生」というタイトルの作文を書き、これまでの大学生活を振り返った時の後悔と、今のやる気、これからの目標などを、文章は間違いが多く、ぎこちないながらも達筆な文字で書き表していた。 先日、男子学生たちと一緒に食事をした時、彼は「私はこれまで作文は1枚でした。でもこの前は3枚書きました。あの作文は事実です」と、この時は日本語だけで言ったものだ。 気がつけば、この4か月で、彼の会話は随分(他の学生に比べればまだまだだけど)うまくなっている。会話の中に中国語を使う回数は少なくなったし、他の学生の間違いを指摘するようにもなった。 添削を終えた作文を返却し、清書させた時、彼の作文は「ありがとう先生」の「ありがとう」の後に、私の名前が入っていた。 そんなの、恥ずかしいから、やめろって言った(本当に、言ったんです)んだけど、でも彼はきかなかったんです。本当です。
2007年01月17日
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河南省は日本の三重県と友好提携をしているので、三重県からはこの大学に毎年、日本人教師が派遣されている。今年は4人の日本人教師のうち2人が三重県の先生で、昨年も三重県の先生が2人おられた。 ただ、こちらの大学から日本の高校などに派遣される教師はいない。 日本から中国に来るだけの一方通行である。 教師だけでなく、留学生の行き来もある。 今年は我が3年生の学生の中から3人が、9月に三重大学に留学する。 ただ、学生の方は、中国から日本に留学するケースはあっても、その逆に中国に留学する三重県の学生はいない(他の県の学生はいたが)。 これも一方通行である。 私は、中国から日本の工場に仕事に来る中国人に日本語を教えたり、話し相手や相談相手になっていたが、彼女らがよく訴えてきたのは、「日本人と何を話せばいいかわからない」ということだった。 まさか、いきなり政治や経済について、話題を振ることもできないだろうし、かといって日本人から話しかけられるのを待っていても、なかなか話しかけてくれない。 日本に行けば、日本人とたくさん話ができて、日本語も上手になり、日本人の友達もたくさんできるだろうと想像しながら日本に来たのだが、現実は全然違うというわけだ。 そういう悩みを聞かされた時、私はいつも同じことを答えていた。 「挨拶をしなさい」 すると研修生たちは一様に、「挨拶はしています。でもそれだけです」と不満げに答えた。 挨拶だけではだめで、大事なのは挨拶の後に続けるプラス一言である。 つまり、「おはようございます」という挨拶をした時には、それに続けて「今日は寒いですね」と付け加えなさい。そうすれば、相手の人も「寒いねえ。風邪ひいてないですか」と答えてくれる。 「おはようございます」の後に「社長のネクタイ、素敵ですね」と続ければ、社長はきっと「あなたの服もきれいだよ」と返事をしてくれる。 「さようなら」に続けて「今夜は自分で食事を作ります」といえば、「えっ、何を作るの?」「料理を作るのは好きなの?」と質問を返してくれる。 そういう質問をされたら、会話の基本の通りに、「答」+「情報」+「逆質問」をすれば、ちゃんとした会話になる。 「今日は麻婆豆腐を作ります」+「中華料理は好きですか?」 そうすれば、会話はどんどん発展し、一緒に食事を作って食べる約束もできるかもしれない。 会話は相手のキャッチボールだから、相手が捕りやすく、投げ返しやすいボールを投げることが大事なのだ。 なまじ日本語が上手な者に限って、変化球や豪速球を投げたがるから、相手も捕れないし、投げ返せないのだ。 昨日の会話の授業では、以上のような話をした(寝起きだったが)。 9月、日本に旅立つ3人には、日本に行ってから、日本人とたくさん話をし、友情を分かち合い、日本を好きになってもらたい。 そして、中国に帰ってきてから、日本のことを友達や家族にたくさん話してほしいと思っている。
2007年01月16日
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昨日、夜更かしをしたせいか、今朝はすっかり寝坊してしまった。 目覚まし時計が鳴ったのも覚えているし、部屋の外を歩く学生たちの賑やかな声も、しっかり聞こえていた。しかし、起きなかった。なぜだか、今日は日曜日だとすっかり思い込んでいたのだ。 だから、部屋のドアをノックする音と、「先生、授業に行きましょう」と呼ぶ、学生の声が聞こえたときは、「なんで、今日、授業があるんだ?」と不思議に感じていた。 正気に戻って、大慌てで身支度をし、5分後には教壇に立っていたが、冷や汗ものの、一週間のスタートとなった。まあ、授業には間に合ったし、いい経験だ。 というわけで、今日の会話の授業は、後半の30分を使って、来週行なう会話の試験の説明をした。 会話の試験は面接形式で行ない、私が面接官で学生たちが受験者。 面接だから、まず学生たちには簡単な自己紹介をしてもらい、その後、私との質疑応答に入る。 私がする質問は2つだけ。 その答の、語彙や文法の的確さ、流暢さ、論旨の整然さ、態度などを評価して、採点をつける。 質問は以下の通り。A1:大学に入ってから自分が成長したと思えるところはどこか?A2:両親が言った言葉で、最も印象に残っている言葉は何か?A3:自分を誉めたいと思ったのはどういう時か?B1:あなたに中国を任せると言われたら、まず何をしたいか?B2:あなたが会社の社長なら、どういう人材を採用したいか?B3:あなたの夢を一つだけ叶えられるとしたら、何をしたいか? Aは、記憶の中から引っ張り出して答える問題で、Bは新たに考え出す問題。 試験ではAから1つ、Bから1つを無作為に選んで、学生に問う。 私の模範(?)解答は次の通り。B1:あなたに日本を任せると言われたら、まず何をするか?「日本の中学校と高校で、中国語を必修科目にする。各学校に3人程度、中国語教師を配置すれば、全国で相当数の教師が必要になり、中国から大量の中国人教師を受け入れることになる。メリットは2つ。まず、就職難に悩んでいる大学卒業生の雇用創出になり、中国政府も助かる。もう一つは日中交流がそれによって促進されるということ。相手の国の言葉が理解できるというのは、相互交流の基本である」 中国の学生は、教師が教えたこと、或いは教科書に書いてあることを覚えることが勉強だと思っている。だから、暗記至上主義だ。 私は学生たちに、自分で考える習慣をつけさせたいと思って、授業では時にはクイズなども取り入れて「何故そうなのか?」「どうしたらそうなるのか?」という質問をよくする。 学生たちにとって、難しいのはBの問題であり、会話の採点とは別に、私が個人的に楽しみにしているのもBの問題である。 誰か、予想を超えるような、奇天烈な解答をしてくれないだろうか、と内心期待している。 しかし、ネット環境が最悪。 日記書込み画面が出るまで3時間以上、写真は取り込めず、絵文字も使えず、フォントの色も変えることができない。 昨夜、夜更かしになったのも、そのせいなのだ。 なんとかしてほしいよお。
2007年01月15日
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ネット環境、最悪……。昨日はとうとう日記書込みページに到達できなかった。 台湾の地震の影響もあるのだろうけど、この大学のサーバーにも問題があるんだろうな。 書込みできなかった日に、実は是非、書き残しておきたいことがあった。 金曜日は2班(水曜日は1班だった)の寮に行って、学生たちといろいろな話をし、その流れで夜の食事も学食で一緒に火鍋を食べた。(しかし、写真を撮るときのポーズがいつも同じだなあ(苦笑)) そして昨日は1班の男子学生たちと食事会をした。 1班の男子学生は全部で6人(女子学生は26人)。それぞれに個性的な面々ばかりである。 彼らはこの大学の日本語学科の学生の中でも、ずっと恵まれない学習環境にあったようだ。 まず彼らが1年生の時の発音の先生(日本人女性)は「とても淑やか」で「笑うときに、手で歯を隠す」という上品な方だったそうだ。 そしてそういう上品な年配の女性の先生は、個性溢れる男子学生たちと親しくなれず(学生は「あの先生は私たちをくすぐったい」と表現していたが)、教師と学生との関係が非常に疎遠だったという。 昨年の先生ともまったく交流がなかったそうだから、彼らはこれまで、日本人教師と(日本語を勉強している)中国人学生とのふれあいをまったく感じることなく3年生になっていたのである。 教室の外で教師と話をしたことがないのだから、まして教師と一緒に酒を飲むという経験があるはずがない。 そういう彼らにとって、教師(特に日本人教師)と一緒に酒を酌み交わすことはかねてからの憧れであり、またそれを言い出すことは大きな冒険だったはずだ。 そういう彼らが、全員揃って、私を食事に招いてくれて、「一緒に酒を飲みましょう」と言ってくれたのだから、教師冥利につきる。 しかも、当初はおんぼろ街でチープな中華料理をつまみながら酒を酌み交わす場面を想像していたのだが、けっこう立派なレストランの、けっこう豪華なメニューが用意されていた。 手前の皿はあらかた食べ終わっているが「家常豆腐」(厚揚げの辛味味噌炒め)。 安くておいしいので、私はよく注文する。 その隣が「京醤肉糸」。豚肉の細切りを甘辛く炒めたものと白髪ねぎを、湯葉に巻いて食べるという、北京ダックの豚肉版。これもよく注文する。 向こう側の緑の野菜は「香辣上海青」。青梗菜炒めである。 そして真ん中に置いてあるメインの料理は、鶏肉とジャガイモをこってりした辛味噌で炒めた料理。熱々で、体があったまる。 まあ、こんな料理を食べながら、ともに語り、ゲームをし、酒を酌み交わした。 ゲームは、中国の酒の席ではお馴染みのものらしく、負けたらその回数分、酒を飲むというルールらしい。無論、私も参加して、学生相手に「勝った」「負けた」で大騒ぎをした。 日本にいた時、学生と宴会ゲームをしながら酒を飲むという場面を想像していなかっただけに、嬉しさとちょっとした面映さを感じたものだ。 彼らが話したのは、主に私の授業について。そして、去年までの自分の学習態度。更に、男同士だから、勿論クラスの女子学生の話も。 わいわいと話したり食べたりした後は、彼らは急に真面目な顔になり、「私たちの性格についてどう思いますか?」という質問をしてきた。 性格よりも、私は彼ら6人の男子学生との思い出を語って、それぞれに感謝をした。 例えば、授業中、やる気がなさそうに見えた郭くんは、赴任後2回目の授業が終わった後、「先生、さようなら~」と手を振ってくれて、私に自信をつけさせてくれたし、1年生の時の先生と折り合いが悪く、勉強意欲を失っていた姜くんは、それまで原稿用紙1枚書くのがやっとだったのに、先週の作文の授業では「先生ありがとう」というタイトルで3枚にも及ぶ作文を書いてくれた(ところどころ意味不明だったが(笑))。 私の話が終わると、今度は彼らが「先生への気持ちを順番に話します」と言って、たどたどしい日本語で、私個人や私の授業に対する感想や感謝(されるほどのことはしていないのだが)を語りだした。 誰もが、日本語が上手く話せないことにもどかしさを感じ、過去の2年間を後悔し、これまで向上心を持たなかった自分に腹立たしさを感じていた。そして、これから「たくさん教えてください」と言ってくれた。 やる気さえあれば、上手になりたいという気持ちさえあれば、会話は必ず上手になる。 最後に、私は彼らにこう言った。「大丈夫。心配するな。あと半年で、あなたたちの会話は必ず上手になる!」 彼らは、こう答えた。「本当ですか?」「お願いします」 私はこう続けた。「だって、あなたたちに会話を教えているのは、この大学で一番いい先生だから」 彼らは、笑いながら、こう切り返した。「先生は日本人だろ、少しは謙遜するべきだ(笑)」 うまい! 山田くん座布団1枚持ってきなさい! そういうふうに切り返せれば、大丈夫だ!(しかし、敬語を覚えろ!)
2007年01月14日
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中国に来る前は、あれやこれやと、いろいろな不安があった。 自分が日本語教師としてやっていけるのだろうか、それも1年間という長丁場で、という不安が一番大きかったのだが、それ以外にも言葉、食事、病気、住まい、友人、同僚など、あげれば枚挙に暇がなかった。 幸いなことに今まで、困ったこともなければ、辛いと思ったことも、寂しいと思ったこともなく、住まいは快適だし、学生と一緒にいると楽しいし、風邪を引いたり、腹を壊した時でさえ、同僚の先生方や学生たちに親身になって心配してもらい、逆に嬉しい思い出になったほどだ。 特に食生活は、これまで腹を下して何日か食欲がなかった時に、日本食を食べたいなあと思ったことはあるが、回復すると同時に、また中華料理(あの時は火鍋だった)を食べ続けたものだ。 なんだ、けっこう適応力あるじゃん、などと今では思っている。 こちらに来る前は不安もあったが、逆に楽しみもあった。 その一つはやっぱり中華料理。 これまでは旅行で来ていたので、有名レストランの気取った食事ばかりだったが、今回は場末の食堂でチープな中華料理を食べられる。これが楽しみだった。 そして、もう一つが「豆乳と油条」という食事。 これは本当に楽しみにしていたのだが、大学の中にはそういうものを売っている店がなく、外に出るのも面倒くさいので、朝食はずっとりんごとバナナ、そして牛乳というメニューだった。 しかし最近、とても便利なものを見つけた。それがこれ…… 粉末豆乳である。 パッケージに「中老年」と書いてあるのが気になるが、大豆の香りがほんのりして、臭みがなく、ビタミンや食物繊維などの栄養が強化してある。飲めば甘くておいしいし、特に冬場は熱い湯を入れて、フーフーしながら飲むと体が温まる。 それにカプサイシンとイソフラボンは髪にいいという報告もあるそうだし。 カプサイシンは毎日食べる何かの料理に必ず唐辛子が入っているから、ずいぶんと摂取しているはずだから、これで豆乳を毎日飲めば、安心ということか。 いずれにしろ、海外生活というのは、言うまでもなく日本国内の生活とは違う。 思うようにならないことは多いし、習慣や文化の違いにとまどうこともある(私は、そんなもんかなあって思っていたけど)ようだ。 だから、海外生活に備えて、日本から大量の荷物を送ることもいい方法なのだろうが、なるべくなら、現地に早く適応したほうがいい。まだ4か月の経験しかないのに、こんなことを言うのもおこがましいのだが、現地に住んでいれば、自分は現地人だと思うべきなのだろう。 日本人としての矜持は当然持っているが、中国での日常生活で、日本を恋しがる必要もない。日本は、日本に帰った時に、ゆっくりとその良さを満喫すればいいだけのことだ。 写真は、肩こりの緩和のために買い求めた薬。 手前の茶色い液体が塗り薬。漢方薬らしい植物の名前がたくさん書いてあった。そのせいか、アンメルツのようなメントール系の匂いではなく、苦そうな匂いがする。 奥はプラスター(貼り薬)で、サロンパスとピップ・エレキバンと黒い物体(?)を合わせたようなもの。1回貼れば3日は大丈夫という説明を受けたが、確かに3日たってもしっかりと貼り付いていた。しかし、 はがす時に、なかなかはがれない。そして、肌まではがれるような強力な粘着力! まことに痛いのである。 パッケージには「日本の漢方」と書いてあるのだが、どこが日本で、何が漢方なのだか、理由がわからないままである。
2007年01月11日
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昨日は学生たちの寮を次から次へとはしごをして、午後3時から夜10時まで、ずっと学生たちと話をしていた。これで彼ら、彼女らの会話がすぐに上手になるとは思わないが、少なくと会話コンプレックスはなくなるだろうと思う。そして、来年の先生とも、楽しく会話ができるだろうと思う。 それくらい、昨日はよく話した。 私も話したが、学生たちもよく話し、私にたくさん話を振ってきた。 ああ、4か月前のことを思うと、すごい進歩だ。 赴任前、私は、担当する3年生たちが日本語能力1級試験を受験するということを聞かされていた。そして、それくらいのレベルなら会話も当然、上手なはずだと思い込んでいた。 だが、学生たちの会話は、私が日本で教え、日本語能力3級試験にさえ合格できなかった研修生よりも、たどたどしかったのだ。 そして、それ以前に、会話に対して臆病で、何を話していいかわからず、間違えたら恥ずかしいと思い込み、だから会話は難しいものだとはなから思い込んでいたのだった。 昨年も1週間に1回(だから今と同じ)、会話の授業はあったのだが、その時の先生は学生とはまったく会話をせず、しかも教室の外でも学生たちと交流をすることは「非常に少なかった」のだそうだ。 日本語の勉強を始めて1年、最も能力が伸びる時期に、会話をすることなく、知識だけを詰め込んで1年を過ごしてしまったのだ。だから、知識は豊富でも、何も話せないといういびつな状態になっていた。そして、知識が豊富であるがゆえに、会話が下手だという劣等感がより大きくなっていた。 だから当初、私は授業のたびに「さあ、今日もたくさん間違えよう」と言って授業を始めていた。「間違えることは恥ずかしいことではない」「教室は間違える場所だ」と何度も言っていた。 授業で、学生たちにはややレベルが高いかもしれないと思いながらロール・プレイ(というより寸劇)を取り入れたのも、体を使って会話をし、滑稽な動作をして学生を笑わせながら、教室の雰囲気を変えようと思ったからだ。 そして、教室の外では、毎日2時間ほど校内を散歩をして、偶然出会った学生と、歩きながら話をするようにした。 教室の中では、クラスメイトの目を気にして、間違えることを恥ずかしがる学生も、最初は口数が少なかったものの、次第によく話すようになった。中には、寮と教室を何往復もしながら話したこともあったし、次の授業を欠席するからもっと話をしようと言われたこともあった。そして、食事に誘われることも多くなった。 ここまででだいたい1か月かかった。 教室の雰囲気が明るくなり、自由に発言できる空気ができてからは、会話の基本形から練習を始めた。 会話の基本形とは、「質問」+「答」である。 「あなたの故郷はどこですか?」という質問に対し、「洛陽です」と答えるだけのことだ。 これは誰もが簡単にクリアーした(当然だけど)。 その次は、第2段階。「質問」+(「答」+「逆質問」)である。 「風邪をひいていませんか?」という質問に対して、「いいえ、元気です」と答え、その後、「先生はどうですか?」と学生の方から逆に質問させる。 これは毎回の授業を始める時、いろいろなパターンで何人もの学生とこの種の会話をして、習慣づけるようにした。これが習慣になれば、会話の往復回数が増えていき、そこからどんどん発展できる。 第3段階は「質問」+(「答」+「情報」、「逆質問」)。 「故郷はどこですか」という質問に対し、「洛陽です」(これが第1段階)、そして「ここから汽車で3時間ぐらいです」「牡丹が有名です」「世界遺産の龍門石窟があります」などの情報を付け加えるのである。更に「洛陽に行ったことがありますか?」という逆質問をすれば、会話は途切れることなくどんどん続いていく。 何を話していいかわからない、話題がない、だから会話は難しいという悩みは、相手が一つ質問してくれれば、それに答ながら逆質問したり、情報を付け加えるだけで、自分が話題を探さなくても解消される。 そのほかには、頻発する会話パターンや、自己紹介、名所や名産の紹介、中華料理の説明などは、少々長めの文章にして、学生たちに配り、毎回、なにがしかの文例を暗記させ、暗記させた文例が使えるような会話をこちらで用意し、学生とテンポのいい会話を展開するようにした。暗記してしまえば、考えなくてもすむので、テンポがよくなる。 我が愛する3年生は、今はまだここまでのレベルである。 後期からは、自分で考えながら会話をするロール・プレイやディベート、営業トーク、日本語ドラマなど、いろいろな方法を織り交ぜながら、もっと高度な内容へと進んでいこうと思っている。 ところで、寮で話をした時、女子寮では「先生は失恋したことがありますか?」「先生が学生の頃は?」といった話が多かったのだが、男子寮ではなぜか「日本の農業はどうですか?」という質問を受け、農業の話をしていた。 農業の話をして何が面白いんだろうと思ったが、そんな話でもしてくれるようになっただけでも、大きな進歩なのだ!
2007年01月11日
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前期も残り少なくなり、1月29日からは1週間余りの試験期間となる。 私の担当は作文と会話(院生には試験はない)だから、試験期間中のペーパー試験はなく、これからの授業時間内に試験をすることになる。 そこで、昨日の作文の授業で、試験(採点)対象になる作文を書かせた。 試験はこれ一発。これまで授業中に書かせた作文や、授業態度などは一切考慮しない。 というのは、私は授業中はいつも「たくさん間違えなさい。間違えて覚えなさい。教室は間違えるための場所です」と、学生たちに言っているからだ。教室では間違えてもいいが、試験や、社会に出てからは間違いは許されない。だから、授業中の間違いだらけの作文を成績に加味することはしない。 普段、いくら優秀でも、試験に失敗すればダメ。社会とはそういうものである。 学生たちは当初、特に会話では、間違えることを怖がって、或いは恥ずかしがって、あまり積極的に話をしなかった。私と話をしている時も、「これはなんて言うんだっけ?」と隣の友達に聞いたりして、ほとんど会話以前の状況だった。作文も、どこかの文章から引っ張ってきたり、辞書に書いてある例文をそのまま書いたようなものが、散見され、自分の言葉で自分の思いを書くということが少なかった。だが、今ではそれもなくなった。 みんな堂々と間違えて、自分の間違いを笑えるようになった。 だが、試験ともなれば、間違いは厳しく減点しなければならない。 昨日は、次の4つのテーマの中から、それぞれが書きたいものを選ばせた。 1、中国と日本 2、日本語と私 3、言葉の力 4、世界の中で 上記はあくまでもテーマだから、それをどのように膨らませて、自分の思いを書くか。私も学生たちの考えに大いに興味があった。 集まった作文の中で主なタイトルは以下の通り。(タイトルの次の数字は、上記のテーマの番号)■「ちょっと難しい」(2:日本語では「とても」の意味で「ちょっと」を使う)、■「私と日本語の恋」(2)、■「中国と日本の明日へ」(1)、■「私の選択、私の人生」(2)、■「暖流」(3)、■「私の夢」(4)、■「大事な言葉」(3)、■「ありがとう先生」(2)、■「隣の友達」(1)、■「生きることについて」(3)、■「願い」(1)、■「私は外国語を勉強したい」(4)、■「忘れない言葉」(3)、■「日本を見て湧いてくる夢」(2)、■「幸せなこと」(2)、■「同じじゃないから美しい」(1) う~ん……。 テーマをそのまま作文のタイトルにしていたものも多かったし、内容以前に、タイトルで人の関心を集めるということを、これから教えなきゃいけないなあ。 というわけで、今日は午後から、ずっと寮に行って夜まで学生と話をします。 それではそろそろ行ってきます。
2007年01月10日
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院生の近代文学精読は、他の学年に先立って、今日が前期の最後の授業。 後期の開始まで2か月もあるので、前期と後期にまたがらないように、先週と今週はやや長めのエッセイを取り上げた。 今日、読んだのは阿川佐和子の「いちばん怖いもの」というエッセイ。 院生たちは、軽妙で洒脱な彼女の文章をすんなりと受け入れて、楽しんでいたようだ。 当初は、現役の日本語教師、或いは現役の通訳、という院生たちを相手にする授業には、私自身が、やや気負っていたところもあったが、慣れた今は、細かい文法や単語の説明をしなくてすむし、語源や日本の常識など、3年生たちよりも一歩踏み込んだ話ができるので、けっこう気に入っている。 先週、院生を相手にやったのは、「語源3ヒント・クイズ」。 日本語の言葉を、その語源に遡って、1つづつヒントを出していき、それがどういう言葉なのか、早く当てるというもの。 大学院の授業でどうかとも、一瞬、思ったが、言葉を暗記するのと、語源を知って理解するのとでは、全然、違う。そして、現役の日本語教師である院生たちにとっては、語源から知りえた知識は、自分が生徒を教えるときに役に立つと思ったのだ。(本当言うと、授業のネタがなくなって、なんとなく辞書を見ていた時に、このアイディアがひらめいたのだが) 例えばこういう問題。1、昔は木の枝を折って道標にしたことから、この言葉ができた。2、江戸時代は竹を薄く削いだものや、小さな枝を巻物の間に挟んで使っていた。3、書物の間に挟んで、どこまで読んだかがわかる目印にするもの。 答は「しおり」(「枝」を「折る」から「しおり」ね) 或いはこういう問題。1、歌舞伎の舞台の奥を軸にして舞台を90度倒す技法を使う時、大太鼓が打ち鳴らされるが、その時の音からこの言葉ができた。2、この技法を使うと、それまでの床だったところが舞台の背後に立ち、床の裏に書かれていた背景が現れる。3、順調に運んでいた物事が、一瞬にしてひっくり返ることをさす言葉として使われている。 答は「どんでんがえし」(舞台を回転させるときの太鼓の音「どんでん、どんでん」から) この他にも「相槌」「背水の陣」「クルミ(中国の江南、呉から来た実。呉(くれ)の実(み)だからクルミ)」「扇(「あおぐ」から「おうぎ」になった)」などを出題した。 院生たちの正解率はあまり高くはなかったが、自分が覚えた日本語の知識を引き出そうとして、一生懸命に頭を絞っていた姿が印象的だった。中国(日本もそうだろうか?)の学校では、知識とは覚えるもので、考えるという作業が非常に少ない。「なぜですか?」 という質問に対しては、私はいつも「なぜだと思いますか?」 と逆に聞き返すようにしている。 だけど、こういう授業は、中国人を相手にやるより、日本の中学生ぐらいを相手にやるべきだと、いつも思ってしまう。 「どんでん返し」「土壇場」「愁嘆場」「おはこ」「十八番」などの言葉を教えれば、日本の伝統的な文化である歌舞伎への興味も湧く(かもしれない)。だが、今は、歌舞伎と、それをを発祥とする日本語を、日本人ではなく中国人に教えているのである。 そして、国もそうだが、学科ももっとクロスオーバーすべきだろうと思う。 歴史の教師が国語を教えれば、歴史を題材にした日本語を、語源から興味深く教えることができるだろうし、物理の先生が歴史を教えても、視点が変わった、面白い授業になりそうだ。 私の場合は、日本で教壇に立つ資格がないので、外国で教えるしかない。 授業は面白く、知識は印象深く、覚えるではなく考える……そういう授業をしたいといつも思っている。
2007年01月09日
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週の始まりは3年生1班の会話の授業。 今ではすっかり慣れて気にもしないが、最初、少し戸惑ったのは、授業を聞く生徒の態度。 あくびを堂々とするのである。 以前、日本で研修生に日本語を教えていた時も、時々、そういう場面に出くわすことがあって、その度に「あくび」「せき」「くしゃみ」「いびき」「歯ぎしり」などの日本語を関連づけて教えていたものだが、中国では「あくび」は失礼なものではないという考え方と、やっぱり失礼だという両方の考え方があるようだ。 今でも、授業中にあくびをする学生はいるが、授業がつまらないから、というわけではないようだ。だから、気にしないほうがいい。 もう一つ、日本ではあまり目にしないのは、ポケットに手を入れたまま答えている姿。これも、寒いのだから仕方がないということなのか、まあ、いちいち、相手がどう思うかなどと考えない国民性のようだ。 会話の授業では、学生たちがその都度、集中力を維持できるように、毎回、いくつかのメニューのうち、2つか3つを組み合わせながらやっている。 基本は、学生全員が、授業中に大きな声で何度も、日本語を話すということ。 今日の授業では、中国語会話のCDを聞いて、それを日本語に直しながら会話をするという(私は通訳会話法と名づけているが)練習を15分ほどやった。 学生たちは中国人だから、勿論、CDの内容は全部わかる。それを日本語に言い直しながら、二人で会話をするというものだ。簡単なようだが、時々、直訳できないフレーズがあって、そこで日本語らしい言い回しを覚えるのである。 例えば、今日はこういう言い回しがあった。「普段は線香をあげて拝みもしないが、困ったときは仏の脚にしがみつく」 日本語では「苦しいときの神頼み」 そして、もう一つは暗記会話法。 これは場面に応じて、よく交わされる会話や状況の説明を日本語の文章(約2分程度)にして、それを暗記させ、それで会話をさせるというもの。これまでには、日本人と初めて会った時、以前習った先生に電話で安否を尋ねるなどを、覚えさせた。 今日、暗記させたのは、忘年会や新年会、歓迎会、送別会などの司会者の挨拶、そして乾杯の音頭をとる人の挨拶。「皆様、本日はお忙しい中、お集まり頂きまして本当にありがとうございます。私、本日の司会進行役を務めさせて頂きます××と申します」という、例のあれだ。 乾杯の音頭の場合は「ご指名により、乾杯の音頭を取らさせて頂きます△△です。私は~」という、こちらも2分程度の内容。 謙遜表現や丁寧表現がふんだんに入っているから(というか、私が入れたのだが)、教科書だけで勉強してきた学生たちにはやや難しい内容になっている。 この2つのスピーチ文を、めいめいに大きな声を出して読ませながら暗記をさせると、最初は文章を目で追いながら読むだけだったのが、3分後くらいからは、原稿を見ないで話そうとするようになり、6分経つ頃には、ほぼ覚え終わる。そして、その間、ずっと大きな声で日本語を話し続けるのだ。 とりあえず、今は、この2つの方法と教科書の音読、そして、ロール・プレイや全員が話ができるゲームなどのうち、いくつかを織り交ぜて、会話の授業を進めている。 後期になれば、もっと自由度の高いロール・プレイやディベート、ディスカッションなども取り入れて、次第に高度な内容にしていく予定にしている。 そして、今年からは毎週2回(1班と2班それぞれ1回)、寮に行って、日本語で話をすることにした。学生たちも歓迎してくれている(多分…?)ようなので、これは続けようと思っている。 これが寮の遠景。3年生の女子寮はご覧の通り新しいが、男子寮は古くて暗い。そして外国語学部の2年生の寮も古い。だが、新しい寮はその分家賃が高いので、痛し痒しだ。 3年生の女子寮は1部屋に8人。2段ベッドが4つあって、ドアの近くに勉強机が置いてある。ベッドが大きな面積を占めているので、勉強するところは、1人が椅子1つの広さしかない。だから、学生たちはたいてい空いている教室に行って自習をする。 しかし、学生たちもそうだが、私自身も、他の先生に張り合って、あまり焦らないことが必要だ。私が彼らを担当するのはまだ半年(もう半年、ではなくて、『まだ』だ!)もあるのだから。
2007年01月08日
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今日は朝から眩しい太陽が顔を出し、しかも風がまったくない、暖かい日になった。 そういえば、昨夜は珍しく、夜空に星座が光っていた。学生と一緒に歩いていたとき、彼女が突然、空を見上げて、 「あっ、星……!」 と言ったのだった。 見れば冬の夜空にオリオン座や北斗七星が寒そうに輝いていた。 日本を発つ前、夜、近所を散歩しながら、中国での生活に思いを馳せつつ、よく夜の星座を眺めたものだった。その同じ空を、今は異国にいて見上げている。 昨夜はずっと学生と一緒に歩いていた。 毎週、土曜日は私の中国語勉強会なのだが、昨日は先生(私のクラスの学生ね)のほうで趣向を凝らしてくれて、彼女ともう一人の学生と私の3人で、食事をしながら(マーラータンだ!)、中国語を話したのだった。そして、食べ終わった後も、ずっと散歩をしながら3人で話をした。 話したことは中国の大学生と日本の大学生との違い、授業の話、日本人教師について、寮の生活、更には恋の話など。 中国の学生たちは押しなべて人懐っこい。だから、教師との距離がとても近い。 尤も、それは外国人教師に対してであり、中でも日本語科の教師に対しては、日本語を話すチャンスを確保するために、教師の世話をしてくれたり、買い物に付き合ってくれたりと、接する機会が多い。 ところが、私が担当している3年生に限っては、昨年の日本語の先生とは「交流が非常に少なかった」ということで、日本語を話す回数が根本的に不足していたという。1年間のブランクと言ってもいいだろう。 教師との交流が多かった学年やクラスは、自然と物怖じしなくなるし、会話も上手になる。 だから、私は3年生とたくさん話をしてあげなければならないのだ。 以前、学生たちの寮で話をした時のこと。 私は最後に、彼女らとこういう話をした。 「これから、1か月に1回、寮に来て話をしようか」 「もっとたくさん来てください」 「じゃ、2週間に1回」 「毎日、来てください」 「そうか、それじゃあ、私もここで(って女子寮だけど)一緒に寝泊りしようか」 その時の反応は、「いいですよ」と答えた者もいるが、大半は「……!」「それはダメです」というもの。私の冗談にだいぶ慣れてきたとはいえ、とっさの時にはやはり素の反応が出てしまう。この真面目さが中国人の学生のいいところでもあり、融通の利かないところでもある。 「一緒に寝泊りしようか」と私が言った時の、私が期待していた模範解答は、 「いいですよ。でも、私、先生を寝させません」 「嬉しい。じゃあ、私、先生の膝枕で眠りたい」 「それじゃ、私が朝ごはんを用意してあげる」 「先生はもう歳なんだから、無理しなくていいよ」 などなど。 上手な会話は語彙力とその運用能力だが、楽しい会話は機転とサービス精神なのだ。 3年生は、まだまだ鍛えがいのある原石である。
2007年01月07日
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中国では、新年はまだ1か月以上先で、その前後は大学もまる1か月以上の冬休みに入る。 といっても、他の国から来ている我々、外国人にとっては、2007年の元日はやはり特別な日だった。 英語を担当しているアメリカ人のビルは、大学を卒業したばかりの23歳で、アメリカでこの大学の英語教師募集の貼紙を見て、応募したのだそうだ。 他に知り合いもないのに、一人で中国に、それもごく軽装でやって来たのだ。 昨年の暮れには、その息子に会うために、ビルのお父さんが、こちらも一人でこの大学にやってきた。アメリカから飛行機を乗り継ぎ、随分と長旅だったが、疲れた様子もなく、外国語学部が主催した「国際交流パーティ」では、ビルは中国語劇に出演し、中国語のセリフを言い、親父さんは自分の大学の校歌を熱唱した。 新年の休みを利用して、ビルと親父さんは北京に行き、天安門や万里の長城を見学し、親子水入らずで過ごした後、親父さんはまた遠い故郷へと帰っていった。 そして、あと1週間もすれば、今度はビルのガールフレンドがやって来る。 彼女はアフリカのセネガルでずっとボランティア活動をしているそうで、一家(まだ家族ではないか?)揃って行動的な人たちだ。 日本人の中にも行動的な人はいるから、一概に言えないのだが、やはりアメリカ人やヨーロッパの人々は行動半径が広いように感じる。やはり狩猟民族のDNAがあるのだろうか、或いはアメリカ大陸に移り住んだ先祖の血のなせる業ななのだろうか。 私が日本を出る時、近所の人たちは「なんで、そんな遠くに行くのだろう?」という感じを持ったようだが、岡山空港から上海空港までは2時間半(時差があるから、1時間半)しかかからないし、何といっても隣の国である。言葉はわからなくても、字を見ればなんとなく理解できそうだし、顔も体格も変わりがない。 ところがビルは、故郷のウィスコンシン州から、飛行機を何度も乗り継ぎ、アフリカ、インド(だったっけ?)などを経由してやってきたのだ。時間も距離も、我々の比ではない。 中国は広い。確かに広いのだが、世界はもっと広いのだと、実感した新年だった。
2007年01月06日
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昨日は、去年、この大学で日本語を教えていた沢田先生が正月休みを利用して、学生たちに会いに来られ、その歓迎会と送別会(今日はもう帰国なのだ)を兼ねた食事会を、我々日本人教師とスチュワート(ビルは夜の授業があったためにやむなく欠席)とで開いた。 食べたのは、また火鍋。 おいしいことはおいしいが、こうしょっちゅだと、飽きる……かといえば、飽きずにおいしい。力士が毎日、ちゃんこ鍋を食べているようなものか。 感心したのは、周囲が全員、日本人であっても、スチュワートが喜んで参加したこと。ビルも日本人の中に混じってよく一緒に食事をするし、この二人の西洋人は本当によくできた人たちだ。 そういう彼らだからこそ、我々、日本人教師たちも、スチュワートやビルが孤立しないように、日本語よりもむしろ英語で話をするようにしている。それが礼儀というものである。特に昨日は、日本語よりも英語での話が多かったほどだ。 勿論、時制や文法、単語の使い方などとても上手とは言えない英語なのだが、スチュワートとビルは、一生懸命に話を聞いてくれるし、やさしい英語で答えてくれる。間違っても「発音が奇妙だ」などとは、彼らは決して言わない。(先日、ある中国人が日本人の中国語を形容して「発音が奇妙だ」と言っていた。) だから、我々も英語で話すことに臆病にならずにすみ、会話にビルやスチュワートを巻き込んで楽しく話ができる。 人を楽しませる話術というのは、言葉が上手かどうかではない。 外国人の前でも平気で自分の母国語を話し続ける人もいるし、外国の客人に対してではなく仲間うちだけでの話ばかりをする人もいる。 いくら外国語が流暢でも、同席した人を楽しませることができない人もいれば、外国語が下手(或いは話せない)でも周囲を楽しませることができる人もいる。 最近、そのことをつくずく感じる機会があった。 日本人の私を放って、中国人同士でずっと中国語を話したり、私には何も話しかけず、身内のただ一人の相手にだけ話す。或いは、案内をしてもらっている私の前で、案内をしている側が「ああ、疲れた」と言ったり……。 私は、自分は邪魔者なんだろうなあ、と幾度か感じたし、自分なら、日本に来た中国人に対してこういう対応は絶対しないだろうなあ、と思い、そして、決してすべきではない、と決意をしていた。 だからこそ、昨日の会で本当に救われた思いがしたのだ。 昨日の会が楽しかったのは、我々日本人が、スチュワートのために、下手であっても一生懸命に英語を話し、それに応えてスチュワートが楽しそうに振る舞ってくれたからだ。 お互いに相手に楽しんでもらいたいという温かい気持ちが溢れていたから、会の最初から最後まで、話がやむことなく(英語でだ!)、全員がずっと笑顔だったのだ。 だから私は、他人をもてなす心を知っている他の日本人先生たちを誇りに思ったし、そういう先生方と知り合えてとても良かったと思っている。 会話は、会話能力以前に、人間性が重要なのである!
2007年01月05日
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学生たちには全くその気はないのだろうが、新しい1年が始まった。 この1月が終われば、2月の第1週が試験期間になり、その後はあらためて1か月の冬休みに入る。中国人にとっては、この春節こそが新年で、年の移ろいを感じる時なのだという。 というわけで、私もそろそろ試験問題を考えなければならない時期になってきた。 教科書を使った精読の授業などでは、学生たちには、日本と同じようなペーパーテストが課せられる。そして、その問題を作るのは教師の仕事で、松嶋先生や石橋先生はもうその準備に余念がない。 私の担当は会話と作文だから、ペーパーテストなど作る必要はない。 しかし、試験はしなければならない。学生の成績の根拠となる客観的な資料を大学に提出しなければならないからだ。 では、会話の試験としてはどういう内容のものがいいのだろう。 聞くところによると、昨年の2年生(つまり、今、私が担当している3年生のことね)の時の試験は、精読の教科書を音読し、その後、簡単な会話を学生としたらしい。昨年の先生は授業にしろ試験にしろ、会話ではなく、よほど精読がお好きだったようだ。 教科書の音読は会話ではない! 私は、会話の試験は面接形式でやろうかと考えている。 まずは簡単な自己紹介。 その自己紹介文は作文の時間に書かせ、何度か手直しをした上で、学生たちに返した。それを暗記させて、自己紹介をさせ、その時に流暢さも見極める。 次に、面接官の私がいくつかの質問をし、学生に答えさせる。 最後に、学生たちがまったく予期していない、突然のアドリブも入れる。 1、暗記した内容を完璧に言えるか。 2、普通の質問に的確に答えられるか。 3、突然の出来事にどう対処するか。 この3点を勘案して成績をつけようかと思っている。 2年生の会話を担当している田中先生は、学生たちに3分間スピーチを課し、それをもって会話の試験にするのだそうだ。 私のやり方にしろ、田中先生の方法にしろ、問題は採点だな。 いずれにしろ、試験の時は、教師ではなく、学生たちの兄か親のような心境になってしまうのだろうな。それでは教師失格なのだろうけど。
2007年01月04日
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2日の朝はネットの動きが珍しく順調(といっても決して早いわけではないが)だったので、大急ぎでブログを更新して、それが終わるや河南省の省都・鄭州へと1泊2日のミニ旅行へと出発した。 鄭州は人口が300万人で、東西と南北の鉄道が交わる交通の要衝である。 私が以前、中国人研修生(日本の工場で働く労働者たち)の受入れと、日本語の先生、そして世話役や相談係をしていた頃、この鄭州にある派遣機関と業務提携をしており、その縁でほぼ毎年1回はこの街に来ていた。 その派遣会社には、私が日本で教えたり世話をしたことのある研修生たちが、日本語を教えたり、または事務員として働いている。昨年の9月にも一度行ったが、今回はその時に会えなかった教え子に会いに行ったのだ。 嬉しかったことはその派遣会社の会長と社長が、休みにもかかわらず、私のために食事の席をもうけてくださったこと。それも鄭州で最も人気があるという火鍋の店で、店の中にはテーブルが空くのを待っている客がたくさんいて、それを見ただけでも店の人気のほどがわかる。 日本の会社を辞めて中国に来た私は、もうこの派遣会社の研修生達の世話をすることもないだろうが、それでも私に気を使って、「来期は鄭州大学で日本語を教えてくれ」だとか「いや南陽の大学に来てほしい」などと、例え愛想にしろ、言ってもらえるだけでもありがたい。 その時の食事がこの火鍋。 手前のグラグラ煮えたぎっている赤い液体が辛いスープで、向こう側はあっさり味のスープ。 今回は、最初から最後まで、派遣会社の社長さんが私の皿に、赤いスープに入れた具をよそってくれたので、辛いものばかりを食べた。 私は基本的には、辛かろうが甘かろうが、なんでもOKだし、酒も強かろうが弱かろうが、注がれたら飲み、食材も鶏の脚だろうが鴨の血だろうが、気にしないで食べる。 赤いスープの中からは、赤い唐辛子と山椒の粒にまみれた肉や野菜が出てきて、見た目にも辛そうだが、食べればやっぱり辛い。 辛いからこそ、おいしい。 それはいいのだが、最初から最後まで、派遣会社の社長さんが私の皿によそってくれたので、ずっと恐縮の至りだった。 そして、用意された具材の最後は、麺のばしの実演。 実は今回、鄭州に来たのにはもう一つ理由がある。 日本語の授業について、いろいろな話をしたかったのだ。 研修生を日本に派遣する会社は、大学や日本語学校よりも、もっと実用的な日本語と、日本の習慣、文化などを教える場である。そして、1日あたりの授業時間数は大学や日本語学校の比ではない。そして、そこで教えるのは、研究対象としての日本語ではなく、より実用的な日本語だ。 なぜなら、学生の場合は、試験に合格するために日本語を勉強しているのだが、研修生たちは異国で生き抜くために日本語を身に付けなければならないからだ。 特に、会話は日本で生き抜くために必須の技術で、研修生たちの会話能力向上の秘訣を知りたかったのだ。そして、会話以外にも日本語の教え方や、勉強に対するモチベーションを維持させる方法などについても聞きたかった。 また、問われれば、私自身の授業についても例をあげながら説明しようかと思ったのだが、問われることもなく、そういう話題を取り上げる時間もなかった。 来月は、違う派遣機関日本語を教えている元教え子に乞われているので、そちらの会社で、私の授業を披露することになっている。
2007年01月03日
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昨日はとうとう「日記に書き込む」のページにたどり着けなかった。ネットの回線速度が異常に遅く、次の画面が開くまで4時間くらいかかるから、夜、ブログに書き込もうと思っても、いつの間にか深夜になる。それでも開けばいいけど、どう考えても止まっているとしか思えないから、とうとう諦めた。 それでも人生で初の、異国で、それも家族がいない新年を、楽しく過ごすことができた。 朝、学生たちの何人かから新年のあいさつの電話があり、劉華くんと一緒に昼ごはんを食べた。 劉華くんは社会人を経験してから、この大学に入り、コンピューター学部に在籍していながら、日本語科の授業を聴講し、先日の日本語能力試験1級を受験したという学生だ。 だから、他の学生とは年齢も、住んでいる寮も違い、誰かとともに日本語を勉強しあうというチャンスがないらしい。それを本人は「寂しいです」と言っていた。 私も日本で独学で中国語を勉強していた時、そして日本語教育能力試験の通信講座をやっていた時は、喜びや悩みをわかちあう相手がいなくて、寂しい(どころかほとんど鬱)思いをしたものだ。だから、試験会場に行って、他の大勢の受験者を見た時は、本当はライバルのはずなんだけど、自分は一人じゃなかったんだと、嬉しくて飛び上がりたいくらいだった。 実は、私も劉華くんには感謝をしていることがある。 赴任直後、学生たちは誰も私のことを知らなかった頃のこと。 初めての授業が終わり、次の日、2回目の授業が終わった後の午後のこと。私が校内を散歩していると、自転車に乗った学生が私のそばを通りかかかり、私を見るや「先生!」と声をかけてきたのである。そして、 「ごはんを食べましたか?」 と大きな声で言ったのだった。「ごはんを食べましたか?」は中国では、親しい人に対する挨拶である。そう声をかけられた時の嬉しさは例えようがない。その時の学生が実は劉華くんだったのだ。 だから、劉華くんを食事に誘った時、彼は本当に嬉しかったらしく、母親に電話をして、私と一緒に食事をすることを報告したらしい。 というわけで、劉華くんは「自分がおごる」と言ってきかず、またまた学生にお金を払わせることになってしまった。学生たちはとにかく、教師にはお金を払わせないのだ。 当初はおんぼろ街で食べるつもりだったが、彼はもっとおいしいものを食べさせたいらしく、まともなレストランへと案内してくれた。それでも高価な(10元を超えると高価という感じがする)料理を注文するのは気が引けるので、頼んだのがこれ。 名づけて「香茹豆腐」。 こちらでは豆腐や湯葉を使った料理が豊富で、これはその中でも味が濃くなく、わりとあっさりした醤油っぽい味。辛い味に慣れてきた舌には、少し物足りなく感じるかもしれないが、飽きずにいくらでも食べられる。 もう一つはこれ。 高菜を酢と醤油(オイスターソースかなあ?)と唐辛子で炒めたような料理。中にはさつま芋のでんぷんで作ったきしめんのような紐が入っている。名づけて「酸菜炒粉皮」。酸味と辛味がほどよくて、これはお気に入りになった。 そして主食が「蘭州牛肉麺」。 これは特にどうってこともなく、わりとあっさりしたラーメンでした。 午後からは3年生たちが迎えに来てくれたので、一緒に女子寮に行き、日本語でたくさん話した。女子寮は初めて入り口を入るときは少し緊張したが、誰も私を男と思ってないようだし(内心はわからないけど)、2回目からは男の寮に行くのと変わらず、なんの緊張もなくなった。 そして、夕方は3年生たち5人とおんぼろ街へ行き、またまた学生たちにお金を払わせて食事をしたのでした。だって、学生たちは私が差し出すお金を絶対に受け取らないんだもの。
2007年01月02日
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