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鳥インフルエンザが、宮崎や岡山で発生というニュースがあるが、何となく、またマスコミが叫んでいるという思いになった。鳥を処分するという言い方に、何となく違和感を感じたことと、鳥インフルエンザで日本人は死んでいないのではないかということ、それに、鳥インフルエンザに罹った卵や鶏肉を食っても火を通しているから大丈夫なのではないかということである。少し考えれば疑問に思うことだ。 ネットで調べてみた。やはり、日本人での死亡者はおらず、感染者は世界で265例、死亡が158例である。WHO資料参照まだ死亡者が出ていないから未然に防いでいるのだという意見もあるが、そして猛威を振るう前に、死亡者が出る前に、という意見もあるが、あえて言えば、たかだか、死亡数がこの程度なのである。それに、未然にというのであれば新種ウイルス全般に注意しなければならないはずだ。また、鶏卵、鶏肉を食べることにより、鳥インフルエンザウイルスが人に感染することは世界的にも報告されていない。処分するのは、単純に気色悪いからではないのか?何だか、学校で1人クラスで罹患者がでたら、クラス全員隔離!とか、もっといえば、車で事故が多いから自動車廃止という理屈と変わらないような気がするのだが・・・ 普通のインフルエンザでの死亡者は数百人から数千人死んでいるというのに、ことらは従来のインフルエンザなのでニュース性がないのであろう。不安を煽るのはやめようね。 この前会った同級生に聞いた。「真ん中の出来の悪い息子はどないしとんねん」「お前は猛勉強せんでええから、好きなことしとけ、水泳でもしたらどやというと、一日中泳いどるわ」今考えると、部活動があるために、やるからには勝たねばならない、勝てないなら初めから見学者になれという教育であったと思う。スポーツを楽しみ、浸透させる為には部活動を廃止しなければならないかも知れない。本当に才能のある奴は、早目にその才能を見出すことができたなら、その道に進む。そうでない人は楽しむ。日本代表の裏に、どれだけの敗れていった涙があることかそれも無駄だった涙が。それだけならいい、どれだけ、激しい運動のし過ぎで体を壊した人間がいることか。中学校高校の時激しい運動をしすぎて、今でも腰痛で苦しんでいる友達もいる。私にしたって、当時は青春だなんて思っていたが、運動のし過ぎで、気分が悪く、夜ご飯が食べられなかったのである。育ち盛りで。それだけ頑張って、日本代表というか、県大会にさえ出られない。 中学校の時、親の配慮で、知恵遅れの子が運動ぐらいさせなきゃということで、部顧問の先生に、「健康の為に適度な運動させてやって下さい。決して、大会に出て勝つということは求めませんから」といって入部してきたが、その子はクラブで浮いた。浮いて、すぐ辞めた。 私は将棋プレイヤーになるわ、とかプロ野球の選手になるとか、本気で言い出されると、大抵の親は反対するだろう。ハイリスクすぎるからだ。リスクヘッジできるお受験のほうがましだ。個性化の時代、総論賛成各論反対の、理想賛成具体反対の、世間一般で言われていること賛成自分の子供がそうするといえば反対なのである。世間とは、自分たち以外のことである。同級生は言った。「上の子は成績優秀で特待生でただで高校行っているが、バカな下の子の方が将来大物になるよ」私は、静かに頷いた。
2007.01.31
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バーゲンのシーズンである。年に2回のノルマを果たすときが来た。棚の箸から端まで総ざらいするほどあざとくはなく、そうしたいなら店を買い取ることを考える程度である。 といいつつも、既に、先日、背広は購入済みであり、背広を決めるのは15秒であったのだが、手続きでは10分程度かかり、飲み会の約束に遅刻したのであった。そして、既に、背広を引き上げたのであるが、今日着てみると、ピチピチピッチー背広なのである。上着の前ボタンも留まらないのである。ややもすると、股間が膨らんでいるのが分かりそうな勢いである。もし、私が黒人とか、ずっと興奮しっぱなし人間とか、20代とかであれば大変な問題になるところであった。ともあれ、些細なことに文字を羅列して、神聖な画面を汚してしまった。ところで、突然であるが、北朝鮮問題の6カ国協議は、北朝鮮が「アメリカが金融制裁を解除しない限り、交渉を進められない」と強硬姿勢をとったため、進展せずに終わっている状態である。金融制裁とは、マカオの銀行であるバンコ・デルタに北朝鮮の政府系組織が預金していた2400万ドルが、アメリカの命令で凍結され、引き出せなくなっている問題であり、米政府は「この預金は、北朝鮮が麻薬や武器の密輸などで儲けた不正な資金だ」と主張している問題である。 考えてみれば、マカオに預けているお金を何で、アメリカが介入できるの?何故凍結できるのかなというささやかな疑問を持ったのも私だけではないだろう。それは、ドルだからであり、簡単にいえば、現金ドルをマカオの銀行に保管している訳ではないからなのだ。そこにあるのは、数字だけである。ドルはニューヨークにあるのである。もしかしたら刷っていないかも知れない。だから決済するアメリカが嫌だ!といえば、それで終わりなのである。何だか恐ろしいことである。考えれば、私は、ある銀行で幾許かのドル預金をしているが、その預金に関して、一度もドル紙幣を見たことがない。見たことがないどころか、もし、私がドルをくれといっても、その銀行にドル紙幣がない可能性もあるのだ。そこにあるのは、円をドルに替えましたよ、という数字だけである。 ところで、金融制裁については、ニューヨークにおいて、アメリカと北朝鮮代表が会い、交渉することになっている。2400万ドルのうち、何割かは不正とは関係ないことが確定しつつようだ。その分をちょこっとづつ返して行くようである。 でよー。日本に住んでいるアメリカ軍人たちよ、NHK料金はろてくれや。それからアメリカ大使館よ、地代ぐらい正当な価格ではろたれや。ところで、「ヨン様」所得42億円で、その収入のうち、9割は日本での活動だそうで、韓国芸能人でトップとであるそうだ。ヨン様については興味はなく詳しく知らないが、その所得の約8割はイメージキャラクターを務めるロッテなどの広告ロイヤリティーやゲームやパチンコの肖像権といったものであるが、要は本業の俳優の収入は、2割で、8割が権利収入ということである。世の中そういうものである。ところで、昔からこのHPを時々見ていたのだがまあまあ、ついに、番組も終わりだね。ついでに、みのもんたのお昼のもやめれば。何から何まで健康の為と称して採ると、もう太って大変である。世の中そういうものである。ところで、今日は、ウインドウズビスタの発売。考えれば、ウインドウズ95以来のスゴイ奴ということであるが・・・
2007.01.30
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冷蔵庫の中は壮大な世界であり、時折、一生モノですからと嘯く輩もいるのは、事実なのだが、私も、そろそろ整理をしなくてはという勇気に駆られたのであった。 恥を忍んで公開するものの、ラビオリではなく、ラザーニャ用パスタは、賞味期限2002年4月21日(ということは、引越し前から持ってきたということだ)。野沢菜茶漬けは、賞味期限2005年3月1日(偶然にも、袋の中にはシリカゲルしか入ってなかった)。かつおだしは、賞味期限2004年12月1日。タピオカミルクは、賞味期限2005年2月28日(ああ、うるう年じゃなかったんだなあ)。ケチャップは賞味期限2005年5月20日(何か一回しか使ってないような気がする)。あさ漬けの元は、賞味期限2004年5月11日。味噌汁の元は、賞味期限2006年3月13日(写っていないが、味噌は2003年2月21日)。ちりめんは、賞味期限2002年3月10日(おかしいな。この冷蔵庫自体よりも年齢が古い)。 辛うじて賞味期限前なのは、辛口サラミだけだ。あと3ヶ月も有る。 困ったことに、ナンプラーに各種ねりもの(ガーリックペースト、チーズガーリックペースト、アンチョビペーストなど)は賞味期限が記載されていないので、まあ、安心だ。 そんなわけで、賞味期限切れは、捨てて、食糧、改めて、カマス!(今日にて冷蔵庫、ほぼ空)賽銭してる場合じゃねえぜ、子猫ちゃん。
2007.01.29
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まだこの回転寿司には行ったことはないのだが、電話番号は覚えやすい「くるくるセブンサンキュー」そうですか。ところで、今、華麗なる一族ってドラマが流行っているらしいけど、見てないし、見る予定もないし、テレビが壊れているので、見ることさえままならないのであるが、モデルは神戸銀行と、姫路市にある山陽特殊製鋼なんだよね。山陽特殊製鋼については、10年ちょっと前によく出入りしていて、非常におっとりした社風なんだよね。1960年代に当時破格の負債で倒産し、10年で会社更生し、さらに10年後に東証1部に復活したんだよね。丸儲けにも驚愕だが、2階の窓から傘を干すのも勘弁して欲しいと希望します。ところで、寝室の電気が切れたので、寝室が真っ暗です。仕方ないので、工事現場から昔もって来た電球を引っ張ってきてつけました。報道陣が何かを待っていると思ったら、大写真愛好家達の集まりであり、平均年齢70歳オーバーであった。趣味があるということはいいことだよ。ところで、この前、DVDで見たカンヌ映画祭で3部門受賞した「隠された記憶」という映画なんだけどさ、結構日本人には難解だったんだよなあ。それに作品は淡々と進み、答えというか見る人に「キミタチ考えろよ」ということを求めるんだなあ。エスカレーターが歪んでいるのが、香港人には楽しかったみたいで写真に撮っていたので、私も、急いで真似をして撮ってみた訳。ところで、香港の夜景は世界の中でもスゴイものだが、そんな香港人に神戸の夜景どうぞ、といっても確かにそんなに感動はなかったように思いますね。というより、他人を感動させようという気持ちをもってコトに当たるのは間違ってますね、すみません。ホープ軒では、2,3回ラーメンを食ったことがあることを報告しておく。ところで、高いものは旨くて当り前で、ラーメン屋やお好み焼きやというのは、まずくなりようがない。むっちゃ旨いかどうかは分からないが旨くて当り前。で、私の場合、ふと気がついたのだが、飯食って感動できる店は、値段の割りに、これは旨いという店であり、期待せずにいくと、嬉しく裏切られて旨い店である。旨い店の一つのジャンルに、席が少なければ少ないほど旨いという場合もある。家庭的というのが良いわけではないのだが、時々そういうのに遭遇する。実は、オランダには何度も行っているのだが、それはあくまで修行の為であり、オランダでは、まだ風車は見たことがないんです。それが自慢です。ところで、どんな修行かは秘密です。
2007.01.28
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マロは、先週に取引先と大學の友人と香港人の友達と3回飯を食う大忙しの週であったぞよ。そのうち2回はベロベロベーロに飲んだので、あまり対話の内容は覚えてないぞよ。なので断片序章なるぞよ。マロ「ああ、香港人は中国にめちゃんこやられっぱなしなので、国家を信じない訳ですよね」香港人旦那「国土も小さいし、台湾と同様、賢い人や考える人は、海外に留学したり暮らしたりするのが当り前なんですよね」マロ「正月、フィリピンのエルニドいったんけ」大學同輩「いや、3月や。正月は韓国いってきたわいや」店の人「私、沖縄いってきたあるよ、これ食べますか。山羊のぶつぎりに、山羊の血でぐるぐるに煮込んだもので、なかなか沖縄でも出す店がないですよ」マロ「これは、なかなか食べたことがない味だネエ」大學同輩「沖縄に仕事に行くこと有るねんけど、沖縄のエリートは琉球銀行と沖縄電力と、木縄市役所やねんけど、おもろい奴らやでえ。もう夜飯なったら楽しいぞ」マロ「来週あたり、キミ、嫁と子供ほったらかして、沖縄に飯食いに、酒飲んでベロンベロンになりに行かないけ」大學同輩「おお、じゃあ、そうしよう。また連絡するわ」マロ「・・・・」取引先「もう2時ですけど・・・3件目ですけど・・・あの・・・起きてください・・・」マロ「日本が好きなんですねえ。何故ですか?今回は関西ということで、京都大阪USJそして神戸ということですが、奈良は何故外したのですか」香港人嫁「公害が少なくて空気が綺麗だし、ものを買うのにいちいち交渉しなくていいのがいいわ。今回は食べる旅行なので、神戸牛を食べに来たのです。予算は1人34000円です」マロ「正月どこかいってきたのですか」取引先A「スノボに行きましたが、雨でした・・・何かお土産頂ありがとうございました。指の形したグミ気色悪かったです」マロ「正月、なにしとってん」大學後輩「いや、滋賀県と金沢、お互いの実家行っただけですわ。それに、年末に嫁ハンに勝手にえらい買い物されましたわ。」マロ「そっか、ワイは、ベルギーに行ってきたわ」大學後輩「あれれ、ネットを見ると、何だか、アムスとかワシントンとか写真がありましたが・・・」マロ「おまえ、ワシのことバカじゃない?とか思ってないやろな。飲み方足らんのちゃうけ。すみませーん、この店で一番安い、赤ワインボトルで下さい~」マロ「私が席外している時に、写メールで私の書類撮るのはやめようね」取引先部長「そんなことしてませんよー!断じて」マロ「ほうほう。どうせそんなことだろうと思って、秘密書類のふりしたけど、実は、ワナだったのだ。障子に壁もあるけど、スパイもいるぞよ」マロ「昼間に食べると半額か3割ぐらいで食べられます。どうぞ、これが神戸ステーキです」香港人一同「いただきます。モグモグモグ・・・」マロ「日本人の諺にこんなのがあります『本当に美味しいものは黙る』です。あなたは、今その状態です」香港人「勉強になりました」マロ「もう店終わりけ?」マスターの嫁(実は大學の同級生)「去年、オーストラリアに住むSさん(これまた同級生)とこいってきたけど、写真みる?」マロ「ああ、実家が火事で燃えたのう」マスターの嫁「新築してから帰ってないらしいよ。それに、旦那と別居してもう2年ぐらいたつんだよえねえ」マロ「自分、毎日楽しくやってるかい?もう電車ないぞ」取引先C「はい」
2007.01.27
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今日は会社の文体行事なのか慰労会なのか知らないが、体育館に南海キャンディーズやムシュピエール、市原利夏が来ていたので、急いで行く、とかいうことはなく、惑わされず、まっすぐに会社を後にする私であった。拡大・・・
2007.01.26
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大阪府と京都府の境目は枚方市の樟葉と京都府の八幡市である。淀川沿いに、京街道が続いており、今で言う京都府に入る京阪電車の一つ目の駅が、橋本駅である。駅前は、恐ろしいほどに寂れているが、東に接する男山の丘陵に住宅団地があり、京阪への通勤者も多い。でも八幡市と聞けば893が多いという印象の人も多い。 京阪電車と淀川に挟まれた細長い地域が、古い橋本の町であり、独特の町並景観を保っている。二階建の木造建築の形作る町並である。二階に木製の装飾手摺のついたバルコニー調のものを設けていたり、軒下に手の込んだ彫刻や細い格子がはめ込んであったりする。簡単に言えば、昔の宿場町であり、遊郭である。バルコニーから女性が手招きしていたりなんかしていたのであろうか。 かつては、淀川を挟んだ対岸、西国街道の山崎(サントリーの山崎ね)との間には渡しが往来し、その川港ともなっていた。そして男山の北麓にある石清水八幡宮の最寄の港としても賑わい、多くの人々が往来していたようだ。ここは、木津川・宇治川・桂川の三川が流れていて、それぞれの川が合流し、淀川となるパワースポット的なところでもある。(インドも川が合流するところは聖地である) 幕末には新撰組が陣屋も設けられていたほどのこの町も、川運が廃れて、町は衰微したが、売春防止法が施行されるまでは、遊郭が存在し続けていたようである。 国道(1号線)は町を外れて新たに作られたため、この花街は温存された。特別の保存もされずに原型を多く留めているということは、大都市近郊地区では珍しいのではないか。 今でも、1軒だけ、お泊り3,000円と表札があがっていたが、アレはなんであろうか。 ところで、橋本は各駅停車しか止らなく、トイレも下り方面にしかないので、注意が必要だと、老婆心ながらアドバイスさせていただく所存である。
2007.01.25
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最近、イオウトウが流行っている。勿論観光では行くことのできない場所である。あれは、若かりし18歳の春、晴れて大学の門をくぐった孤高の人、ワタシであったが、100も200もあるという部やサークルの中から奇妙なクラブに入るきっかけがこのキャッチフレーズであった。「硫黄島にいきませんか。ニューカレドニアにも3万円で行けるよ」 勿論、私は硫黄島に行く気満々となるのである。勿論、ニューカレドニアにも行く気にちょとだけなるのである。イオウトウには、自衛隊の皆様と、遺骨収集するのであった。次々回、私は、少しびびりながらも、参加する意思を持つのであった。(次回には間に合わなかったのである) 次回に参加した先輩Uさんは、後に、大學を除籍になり去って行ったのであるが)遺骨収集の会に参加して行ったのである。しかし、この人は、多少奇妙な人であった。 遺骨収集は団体行動を強いられるそうなのだが、この人は、団体行動ができない性格の人で、遺骨をしんみりと、掘り進む中、1人で、「えんやこらしょ、どっこいやったこらしょ」とドリフターズの歌を大声で歌いながら、無茶苦茶に掘り進み、自衛隊のドギモを抜いた、まではよかったのであるが、夜中に行方不明になったのである。 皆が探して、やっと見つけたときには、摺鉢山のてっぺんで、裸になり、月夜の元、ラジカセをガンガンながしながら踊っていたのである。曲は、中森明菜。 あまりの奇行に、次回より、我々の大學の参加は中止というか禁止となった次第であった。ちなみに、ニューカレドニアも遺骨収集である。 その後、Uさんは大學を去り、カメラマンになった。3年後、私がインドで知り合った男が、実家が隣の区であることが分かり、日本に帰ってからも何度か会ったのであるが、その時、彼が韓国に行った時の話をしていて、ちょうど、あのころ、竹下首相がソウルに来ていてそのホテルは厳重体制となっており、宿が近かったので、ちょっと見に行ってみると、あるカメラを持った日本人がボディガードにつまみ出されるところだったそうで、その人と、話をすると、「竹下を激写するんだ」と言っていたという。よくよく聞いていると、ああ、それは、あのU先輩なのであった。 あのUさんは、他人の実家に行って、勝手に冷蔵庫を開けて料理をしたり、勝手に風呂に入る奇行を繰り返し、その親のドギモを抜いたりして顰蹙だったのだが、相変わらずの人であった。 ところで、友人との親密度を測るには、その人の家の冷蔵庫を勝手に開けられるかどうかというところにあるかと思う。以上。
2007.01.24
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カフェアメリカン歪んだ家ダム広場 王宮中心ダム広場、マダムタッソー道にシャボン玉チベット料理駅前ビクトリアホテルキオスクのシステム道ニコラス教会アムステルダム駅ゴッホ美術館ライツ広場国立美術館eroticmuseum2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.23
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香港人が、いわば、香港から観光に来たので、日本国民しいては神戸市民を代表してありきたりの観光案内をすることに決定した。市役所は、穴場である、ただで景色を一望でき、まずは、神戸を把握してもらえる。山側。それと海側しかないということだ。海の向こうに浮かぶのが悪名高き、1981年にポートピア81が開催されたポートアイランド、その向こうが更に悪名高き空港。神戸ステーキである。ここは名に恥じない様、でも夜飯は高いので、ランチに9000円コース、いっちまう。藤原ノリカ生田神社は普段は閑散としているのにノリカ効果でエライことになっている模様。異人館、生まれて初めて行った。ビーナスブブリッジ。再度俯瞰してもらう。更に、900メートル近くまで上がって、六甲山上近くより、大阪平野も俯瞰してもらう。定番コース、ポートタワーに海洋博物館、ホテルオークラ。目の前にいたカップルにキスを強制。バックはオリエンタルホテル。モザイクにて、ブラブラ後、夕食は豆腐料理三昧へ。以上。会話の内容(会談、国家と国民とは)については明日に続く(かもしれない)
2007.01.22
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大學1年の時、勿論、受験勉強から遠く離れての話になるが、新聞に掲載されていた世界史と国語を試しにやってみたら、受験の時よりも点数が良かったという事実に、俺の受験勉強は何だったんだ!青春を返せと強く思ったのであった。世界史は時系列及び、地理的に憶えておらず、言葉を覚えるだけで限界だったという事情もある(頭の記憶力の容量事情と要領の悪さ事情である)。国語は、もうどうしようもないという諦め事情もあった。 さて、歴史の勉強を姑息にもここで始めるのであるが、今日の題目は、誰でも知っている東京ディズニーランドと同じ敷地程度の世界一小さな都市国家人口1000人のバチカンである。1000人といえども、世界各地に数億人のカトリックを抱える強大な国家である。 1920年代に独立し、ムッソリーニとテラノ条約を結び、ムッソリーニはバチカンに1000億円支払ったのであるが、この資金が、バチカンの資本金になり、ノガーラという投資家に一任し、世界各国に投資を行ったり、損しそうになると、ムッソリーニに高値で買い取らせたりした。この頃は、GM、シェル、ガルフ石油、IBMなどの大株主になった。1958年、ノガーラが死んだとき、ある枢機卿は「イエスキリストの次にカトリック教会に怒った大事件はノガーラを得たことだ」とまで述べている。 テラノ条約でイタリアより無税でいたのだが、イタリアがだんだんそれにむかついてきて、1960年代、課税すると通告してきたのを機会に、イタリア金融市場から撤退したのである。資金の行った先のひとつに、ニューヨークのマフィアであるガンビーノ家の麻薬資金洗浄であった。そして、中南米の軍事政権や反響組織のための武器調達死の商人にもなっていったのである。バチカンは国家であるので、他国の捜査機関が指一本触れられない状態であった。そんな時に、教皇になったのがヨハネパウロ1世であるが、彼の短すぎる教皇期間は、このあたりの事実を知り、何か行動を起こそうとしたからかもしれない。一方、ポーランド出身のヨハネパウロ2世は、このダーティマネーが、ポーランドのワレサの「連帯」の資金にも使われていることを知り、黙認したと思われるのである。 くう、これを高校の時に勉強していたら、世界史満点だったのになあ・・・愚かな自分を恨むぜよ。・・・・さすが、東横インの無料靴下、2回目にして無政府状態。まあ、そんなこんなで先日も「ユナイテッド93」を観たのだが、やはり、怪しい。怪しいので、いろいろググって見た。(って、今まで何回もぐぐってるけど、いつもいつもたくさん出て来るねえ)その他911について。それにしても、あまりに陰謀論に惑わせられるのもよくないが・・・・9/11以前も以後も、土木建築工学史上、鉄骨の高層ビルが火災で崩落したことがない。ならば何故一日のうちに3つものビルが火災で崩壊できたのか? どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・英BBCの報告に依ると、19人の“ハイジャッカー”のうち少なくとも5人はサウジ・アラビアで元気に生きている。しかしFBI(連邦捜査局)に言わせると、彼らは攻撃の際に死んだことになっている。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・WTCのプロジェクト・マネージャー、フランク・ディマルティーニは、同ビル群は航空機の衝突に耐える荷重再配分の能力を備えて設計されており、その効果は「蚊帳に鉛筆を突き刺す」ようなものだと語った。にもかかわらず、タワーなどは完璧に崩壊した。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・鉄の融点は約2,700度(華氏。摂氏1,482度)。だがジェット燃料の火は最適条件下でも1,800度(摂氏982度)を超えることはなく、2,000度(摂氏1,093度)で6時間耐熱後UL(損害保険者研究所)の認証を受けた鉄で造られたビルが、火災による熱で崩壊するはずはなかったのだ。どうしたらこんなことがあり得るのだろうか?・ペンタゴンに衝突したと言われている77便はオハイオとケンタッキーの州境付近でレーダーから姿を消し、ペンタゴンに衝突する少し前に、同所にとても近い場所から“再び姿を現した”。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・民間航空機を4機もハイジャックしたほどの巧妙な異国の“テロリストたち”は、ペンタゴンの西側部分への衝突では同ビルに最小限の打撃しか与えられないことを知らなかったように見受けられる。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・運輸省長官のノーマン・ミネタはホワイト・ハウスの地下壕で、航空機がペンタゴンにぐんぐん近づいているとき、チェイニー副大統領が「命令は依然として有効なのですか?」と尋ねた若い将校を厳しく非難するのを目撃した。この命令は同機を撃ち落すことではあり得なかったはずで、その反対だったはずだ。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・空軍の元総括監察官は、ペンシルヴァニアで墜落したとされる93便は「機体の残骸を一市街区以内の範囲にまき散らしたはずだった」と述べている。だがそれらは8平方マイル(約20平方キロメートル)ほどにバラまかれていた。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・9/11当日勤務していた航空管制官のインタビューを録音したカセット・テープが意図的に壊され、小さく切り刻まれ、その細かい破片は、テープの完全な破壊を保証するためにバラバラに分けて捨てられた。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?・ペンタゴンは2000年10月24日に、ボーイング757型機が同ビルに衝突するという想定の"MASCAL"という訓練を行った。しかしながら他者ともどもコンドリーザ・ライスはくり返し、国内線の航空機が武器として使われるなど「誰一人夢にも思わなかった」と言い張った。どうしたらそんなことがあり得るのだろうか?ここまで勉強していたら、世界史は120点ぐらい取れていたかもしれない。ウーン、無が有る帝国(ムガール帝国)なんて憶えていた自分が悲しい。デリー城(ムガール時代)
2007.01.21
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箕面市は、大阪北部にある環境のよい市である。箕面市の思い出1 昔、突然、家にパキスタン人が遊びに来た。何故だか分からないが、箕面の勝尾寺に連れて行った。その後、厳粛なイスラム教徒ゆえ、さすがに豚肉を食べさせるようなことはしなかったが、ビールをじゃんじゃん飲ませ、私自身生まれて初めてエロビデオを借りてきて(その後も断じて言うが借りたことはない)、彼にじゃんじゃん見せてみて反応を伺うという日本人代表のようなことをして歓待したのであった。箕面の思い出その2 箕面には、かつて白鳥というところに友達が住んでおり、よく行った。不便なところにあるのに、高級賃貸マンションであり、住民はおそらく車で主に出かけるのであろう。敷地中央にプールがありながらも、ついに、私は一度として泳がなかったのである。彼の家には、猫がいて、その猫が糖尿病であり、後ろ足が動かないという非常に辛い猫であった。箕面の思い出その3 箕面観光ホテルは、箕面駅を出ると山肌に見えるのであるが、7、8年前に組合活動の強化合宿で強制宿泊したことがある。勿論、私は、部を代表してのバリバリの組合党員であったのだが(部から押し付けられて何年もやっていたともいうが)、組合は当然ながら御用組合であり、一度だけ、ストを提案したのだが、速攻で無視されて以来、組合活動中は、私の重要な読書時間と変化したのであった。おまけに、この日は、買った車の納車日であり、沈着冷静な私も結構浮き足立っていたのである。浮き足どころか、組合活動をこっそり、抜けて、脱走し、車を取りにでかけたぐらいなのである。そのまま、車に乗って、再び箕面観光ホテルに向かったぐらいであるほどの真面目な組合員であった。 箕面の思い出その4 昨日、もみじてんぷら食ってみた。もみじまんじゅうもみじといえば、スゴイこと徳島県上勝町でおこっている。人口2000人程度ので高齢化率7割の町である。(しかしながら、寝たきり老人はわずか2人)。20年前に農協の指導員(後に町職員へ転職)が、大阪の「がんこ寿司」で、若い女性が料理に添えられた「もみじの葉」を大切に愛でているのを見かけ、田舎のどこにでもある「もみじの葉っぱが商売になるかも」と閃き、早速「葉っぱ」を集めて料亭へ売り込んだのがはじまりであった。そして、町へ帰って葉っぱを集めるようぜと町民に話したが町民には当然にバカにされ、当然全く売れなかった。そこで今度は料亭の料理人に教えを乞うたが断られた。そこで自腹でお客として2年間料亭に通い続け、最後には厨房で教えてもらえるほどになり、素材のポイント、何を求めているのか、万葉にいわれを知る、使う人の立場を理解するなど、現場のニーズをとりいれた「彩りシリーズ」を創りだし事業を軌道に乗せたのである。現在では、平均70歳の190人がこのビジネスに参加している。噂によると、平均年収は1000万円を越えるという。私も、川辺の石でも売るか。ああ、無能の人・・・
2007.01.20
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今日は、こういったニュースがあった。大阪府八尾市の近鉄八尾駅前の歩道橋から、男児(3)が投げ落とされ重傷を負った事件で、八尾署に殺人未遂で現行犯逮捕された吉岡一郎容疑者(41)が、調べに対し「悪いことをすれば警察に捕まり、仕事を辞められると思った」と供述していることがわかった。通っていた知的障害者小規模授産施設での人間関係に悩んでいたといい、同署はさらに動機を詳しく調べる。吉岡容疑者は1987年から00年にかけて、誘拐など幼児に対する事件を計6件も起こしていた。89年6月、大阪市北区の阪急百貨店で買い物中の母親から離れて遊んでいた男児(当時2歳)を連れ去ろうとしたとして、大阪府警に未成年者略取誘拐未遂容疑で逮捕されている(処分保留のまま釈放)。00年3月には、大阪府豊中市のショッピングセンター「千里セルシー」に家族と買い物に来ていた男児(当時2歳)を連れ去ったとして、未成年者誘拐の疑いで京都府警に逮捕され、懲役1年10月の実刑判決を受けている。・・こういう人間的に危ない奴は許しておけないというのは、当り前としても、問題もチラチラ見えている。まずは、セイフティネットという基盤が非常に弱いということだ。この施設も仕方なしになのか、更正を願って受け入れていたのであるが、刑務所を出た精神に異常をきたした人間に仕事がそうある訳がない。そうなれば、犯罪でもして、3食食える刑務所へ戻りたいと思う奴もいっぱいいるだろう。困った問題なのである。 捕まったり起訴されて、刑務所に行くのは2パーセントの犯罪者達である。そして、年々刑務所はいっぱいになっていって困っているというのであるが、もっと困っているのが、その犯罪者の中味である。大きくニュースで取り上げられた殺人犯、凶悪犯はむしろ減っているのに、高齢者、障害者、日本語がままならない外国人が増えているのである。その内容も、万引きとか、チンケな犯罪が多くなり、明日は食えないから、刑務所行を希望、または、刑務所に行かざる得ない犯罪者が増えているのである。そして、刑務所ではまともに作業できない受刑者が増えているのである。元気な受刑者はどこだ。 犯罪白書によると、50歳以上は3割であり、外国人と精神障害者はここ15年で4倍になっている。犯罪者の6~7割が無職で、結婚しているのが2割である。 「Always3丁目の夕日」の映画は面白かったが、古き良きノスタルジーだけではない。しかし、この頃は、戦後一番少年犯罪が多発した時代でもあり、子殺し、虐待が今の何倍も多い時代であった。 参考「少年犯罪データベース」またこんなデータもある。最近地域で犯罪が増えたか?最近日本で犯罪が増えたか?という質問に身近に犯罪が増えたという人は3パーセント、日本のどこかで犯罪が増えているという人は30パーセント。それはテレビや新聞の報道で見るからというのが過半数である。また今はインターネットの時代。遠いどこかの地域で起きた犯罪もどんどんタイムリーにデータベース化され、どこにいても見たりカウントすることができる。昔は神戸新聞に載っていた小さな犯罪は、北海道の人は知るよしもなかったのである。 地域パトロールや地域相互監視のいいところは、暇な老人がいいことをしているという自覚が持て喜べるという面も多々あると思う。同時にパトロールの服を脱ぐと、知らない子供に非常に話しかけにくいということにもなっている。 犯罪者の肩をもつつもりはないし、もう労働力にもならないのなら、もう殺してあげてもいいんじゃないのと思ってもしまうぐらいなのだが、不審者を探すという名目でパトロールされると、挙動不審の私は、とても、不安なのである。子供嫌い主義にならざるを得ないのか? ついでに飲酒運転についても苦言を呈しておくと、厳罰化に効果があるかといえば、ないとは言えないが、この最近の厳罰化キャンペーンで交通事故が減ったかといえば、ほとんど変わっていない。10年ぐらい前から徐々に減っていっているのである。おお、10年前、そうそう、シートベルト着用義務化が定着してきた頃であるし、車の安全設計が更に進んでいる頃である。そんな訳で、車の安全のために成田に行くのである。成田さんは成田でも成田空港近くの成田山ではなく、その支店である大阪市寝屋川市の成田山である。商売の町大阪からはこちらの方向は鬼門(京都からは裏鬼門)の方向なので、作られた神社ということなのである。以前住んでいた所の近くでもあるが、これは、歴史とは関係ないと推測される。千葉県の成田山には行くつもりがなかったのだが、強制的に時間ができたため、昨年お祈りを済ませている。大阪の成田山は、車ごと安全祈願してくれることで有名であり、車を並べて、一緒にお経を挙げてもらうという、シコブル愉快な企画の神社なのである。そのため、専門の祈祷殿までこしらえており、やる気満々の神社なのである。お祈りは、30分に一度10分程度開催され、その間は車が並べられないように、敷地内に信号機が設置されているのである。1度に100台まで祈祷でき、正月3が日には3万台、年間30万台も車を清めてくれるのである。(他だし、清掃はない)そんな訳で、私はポールポジションなのであった。今日、私のその時間には、6台であった。6台の中で先陣を切った私なのであった。(6台中1台はバイクであり、もしかして、ゼロヨン状態になり、負けるのではと危惧したのであるが、信号が青になっても、誰も勝負に出てこなかった。どうだ!)おまけに、3人もの坊主が出てきて、太鼓を鳴らし、何を言っているか分からない梵語を滅多切りに息継ぎ少なくがなりたてるので、だんだん、いい感じになってくる。お経が退屈で仕方なかった子供時代から考えると、成長したものだ。やっぱり、お経は、大人の味であり、耳で聞くものではなく、体で感じるものであり、それがキムチいいものであるとうのが、分かってきたのである。それとも、飛んでいる状態を一度知った人間は、飛び方のコツが分かってしまうってものなんだろうか。 ちなみに、護摩を焚くイベントも用意されており、昨年亡くなったおじいちゃんが、自宅で護摩を焚いていたことを思い出した。念じれば火事にもならないということなんだろうか。 次は、自転車を祈祷してもらうつもりだ。
2007.01.19
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空から見た風景。6343人。もう、震災を知らない神戸市民は人口の3割。何となく、神戸の震災公園に行ってみた。記帳をして、菊を一輪もらう。菊を池に投げて、何も考えず、手を合わせる。何千という菊。亡くなった方々の名前が記された震災メモリアルの屋根が、先程の献花の池になっていた。 手を合わせる人々の肩が震えている。私にも、思いがけない涙。父親が一瞬泣いたのを一度だけ見たことがある。小学校の時、父の母が亡くなった時だ。最後のお別れで、棺おけを閉めるときに、父親は、うっすら泣いていた。「みんな泣いていたので、もらい泣きしてしまったわ」と照れ隠ししていた。何かそんなことを思いだした。 その後、波止場に残された震災の時のまま残されている場所に行く。誰もいない。スケボーをしている親子が近くを通り過ぎた。 この12年を思い出した。東京の人にとっては、サリン事件のあった年だ。私が結婚した年でもあった。神戸に帰ってきて6年が過ぎた。 震災で崩れ、建て直された生田神社(別名藤原ノリカ神社)に行って、何も考えず、じっと手を合わせる。あの日は寒かった。とても寒かった。 最終更新日 Jan 18, 2005 片腕の不自由だったひょうきんな先輩が死んで10年。走って、靴が脱げて、宙を舞った姿が滑稽でした。 人気たこ焼きやで1日3時間で売り切れ閉店になる親父が死んで10年。酔ってガハハハと笑っていた真っ赤な顔をいつもしてました。 2階に住んでいた友達の家は崩れ去り、荷物の掘り出しを手伝いに行った。最後に彼は力なく「サヨナラ、ははは」と寂しく笑った。1階に住んでいた方は亡くなった。古い60年代のレコードをまだまだ運び出そうとして、彼の奥さんは、「もう危険だからやめて」と少し半狂乱に言った。 学校の体育館に見舞いに行ったのに、逆に、リンゴや握り飯をもらってしまった。 三ノ宮センター街のある店が燃えていて、ぼさっと眺めていると、大阪から自転車で来た店主がやってきて、自転車から転がり、「おおお、やっと開店した俺の店が~」と叫んで、店に入ろうとして止めた。 一緒に来た奥さんが「明日火災保険の手続き予定だったのに」とつぶやいた。 助け出した猫が、ふと、遠くのどこでもない方向を見たら、暫くして余震があった。 私は、数日で、会社勤めの為、ホテル住まいするため、神戸を離れた。逃げるような気がして、とても悪いことをしているようで申し訳なかった。 震災で、家族も地域も一体となり、にわか震災ユートピアになった。 少し郊外のコンビニに行ったら、おにぎりがパンパンに詰まっていた。 行きつけのバーもなくなったが、割れなかった数十本を取り出してきて、路上で営業していた。震えながらビールを飲んだ。 そうそう、やたら飲みにいった。金を落としたかった。煙草が切れても、大阪で買わず、我慢して神戸に帰ってきてから買った。 大学の同級生の友達の家もスペイン料理の店もなくなった。数日前、私はスペインから帰ってきて、帰りに店により、ハム置きと生ハム数種類を置いてきたばかりだったが、当然、それも埋まった。2日目に、三ノ宮を歩いていたら、前に、同級生の旦那であるマスターが呆然とたっていた。「生きてんですか、無事でしたか」と私は叫んだが、彼は、私の顔を見て自分のことはどうでもいいという感じで心配してくれた。私は本棚が落ちてきて顔面内出血していて目の周りがパンダになっていたから。 前にも書いたが、長田区に会った母の店は賃料値上げで、撤退した。その後すぐ地震が来て、開店準備中の中華料理屋が壊滅した。店に置いていた仏壇1000万円分助かった。 自宅の瓦礫になった前で受験生が勉強していた。今、震災10年を迎えて、見事、神戸は、つまらない他の街と変わらない街になった。今、10年を迎えて、いまだ建て替えでもめているマンションが2、3棟ある。家の近くにも有名なマンションがある。建て替え決議は住民の4/5の決議があれば無条件で建て替えすることができる。後ろに山、海の見える少し不便なところにあるそのマンションは今、数件だけの住民が住んでおり、裁判中で、当時のままである。通るたびに心苦しくなる。最終更新日 Jan 17, 2004阪神大震災の翌日、私は、ひとつの依頼を受けた。私が、原付を持っていたからである。まだ友達の安否も分からない頃でもあったのだが、倒壊した部屋に猫を飼っていたのだが、助け出して欲しいと。私はボストンバッグを持って原付を出した。交通は無茶苦茶で反対方向に走ったり、原付も二人乗りは当り前。警察が道を封鎖していても、原付は無視して走る。まっすぐ建っている建物がなく、三半規管がおかしくなり平衡感覚が危うくなる。 皆は、人を救助しているのに、何を猫の救助に向かっているのだと変な感覚に陥る。何をしているのか分からないが、渋滞の脇をぬって私以外にもバイクが走る。唯一開いていたガソリンスタンドに長蛇の列。倒壊する家屋。 着いて、部屋を破って中に入った。部屋の中は無茶苦茶で、猫はいなかった。と思ったら、押入れの奥にいた。「おいで」をすると、人になつくことのなさそうな猫が、そろそろ出て来て、私の足元に顔をなすりつけて、怯えている。いや、安堵している。私は、すまないと思いながらも、嫌がる猫をボストンバッグに積め、他の荷物は無視して、また部屋を出た。煙がくすぶる街の中、バイクは走り、足元のボストンバッグはもぞもぞしていた。震災3日後、私は運転手をしていた。オーストリアのTVクルーの運転手をしていた。渋滞と交通ルール無視の中、私は運転をした。そのときにふと気がついた。後部座席に座るオーストリア人は私をどういった目で感じているのか、ただの運転手なんだなと、アジア人なんだなと。そしてもしかして私もタイ等に行った時、運転手のことをどう思っているか思った。その後、学校に避難している人に、火事で燃える家の前で呆然とする人に、倒壊した瓦礫を片付ける人に、インタビュアーの質問は決まってこうだった。「これからどうしますか」そして人々の返事は決まってこうだった。「先のことはどうしていいか分かりません」私はそんな考える余裕もないわと多少憤慨もしたが、かくも西洋人っちゅうのは前向きというか、起こったことは仕方ないから対処どうするか考えるものなのだなあ、とも思った。それはそのインタビュアーの考え方だったのかも知れないが。人間は弱いものだよ。ほとんどの人が、お上を当てにしている様に感じた。仕方ないことだけれども。1月17日だけは毎年同じ日記を書いている。(再掲)前の日、神戸市兵庫区の友達の家で数人が集まり飲んでいた。木造アパートの2階だった。そこの住人の実家は私の家の近所であった。大抵は酔って面倒なので泊めてもらうのだが、その日は何となく家に帰ることにした。そこの住人もそれじゃあ、方向同じなので私と一緒に実家に帰ることになった。来ていた数人も住人が帰るので解散となった。私は、厳しくなると予想される二日酔いの中で眠りに着いた。そしてその時刻がやってきた。揺れは止まらない。地響きがすごい。世の中が終わったと思った。少なくとも関東地方は終わったと思った。止まる事を祈ったが、箪笥や本棚の下敷きになった私は、恐怖の中でも少し冷静であったように思う。パノラマ現象か、あまりに長い揺れであった。水は止まると判断した私は、フロに水を張ったりして、今出る水を確保。ラジオをつける。死者一人、、、、だれやその一人。近所の人々が、あわてて外にでてきた。「うっわわあ、あっ、おはようございます。すごかったですね~」日常があった。友達宅は全壊となった。その日帰った友達の家は2階が1階になった。阪神大震災から10年目。未だに、私は、風呂の残り湯を流してしまうことに抵抗があります。汚いから捨てなさいといわれるのですが、もし非常時に水があればたすかるじゃんって、思うのですもの。あの日、断水になるのは確実だったので、地震直後、風呂に水を張ったのは正解でした。1994年1月17日午前4時35分、ロサンゼルス大地震。死者約60名。第一報がクリントン大統領に入ったのが発生15分後。1時間後には、州兵1万人が出動、その7分後に消火活動開始。消防ヘリコプター、陸海空軍、ドクターとにかく何でもかんでも許可云々関係なく総動員された。テレビや映画でも見たことがあると思うが、トリアージドクターというのが、死んだ人、軽症の人、ヤバイ人にそれぞれシールを貼り、ほっとけ、病院行くな、最優先で病院に運べ、を判断していき、後からくる救済活動を敏速化させた。負傷者は多かったが死傷者は少なかった。しかしながら、黒人や韓国人の間で発砲事件を始とする暴動があった。1995年1月17日午前5時17分、阪神大震災。死者約6400人。第一報が村山首相に入ったのが発生110分後。行政経験もなく、それを知ってもなすすべがなかった。会議を開き、最高責任者は国土庁長官になった。自衛隊のへりは社会党は自衛隊反対の見地から出動がすぐできず、航空法で民間のヘリも着地できない。世界で3番目にヘリを保有しているというのにヘリでの救出は20人に満たない。病院は怪我の重度でなく、到着が早い者順の治療となった。圧死、窒息死。そういえば、外国からの救助犬も検疫か何かにひっかかってたっけ。総理は、当日「新春文化人懇談会」に出席して時間オーバーするほどに歓談していた。しかしながら世界が感心したのは、人々の落ち着き振りであった。火事場泥棒の少なさ、暴動どころか、助け合い、コミュニティが自然発生的にできあがっていった。
2007.01.18
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オイスターバー楽天仲間のハルジ氏がトライアスロンに挑戦、水泳をするということで思い出したのだけれども、持久力という意味では、陸上部と水泳部は似通ってて、昔から運動で一番しんどくて変哲のないスポーツは陸上の長距離と水泳の遠泳だと思っている。高校の授業の時、陸上部長距離をしていて肺活量に関しては(持久力か?)クラスメイトより自信があり、制限時間でどれくらい泳げるかというタイムトライアルがあったのだが、そのことを憶えている。かなり体力に自信のあるサッカー部の奴が300メートルで2クラスで3位。しかし、私は、その間に600メートル泳ぎ、倍の速さで泳いだのである。しかし、2位。1位の奴は水泳部で、またその倍1200メートルを泳いでいたのである。全然違うのである。 日本の中高のクラブ活動というのは、なかなか凄惨を極めているような気もする。ほんの普通の人間が選ばれた人間でもないのに、クラブ道を邁進すると、何もしていない奴より天地ほどの差がつくのである。 高校の時の1500メートル走でもそうであった。私は2日後に駅伝を控えており、体育の授業ごときに全力疾走すべきか迷ったのであるが、そのとき、体育の先生(が陸上部の顧問)が寄って来て私の耳元で囁いた。「おい、本気で走るなよ。大会はあさってやぞ」 1500メートル走が始まった。1周300メートルのグランドを5周である。本当に走りに関しては凡人の私でも、4周目まで2位につけて走っていたのだが、呼吸は鼻でしていた。仕方ないのでラストスパートしたら、残り300メートルで50メートルの差がついてしまったのであった。凡人でも専門的に鍛えればそのくらいできるのである。 しかし、運動は、ハッキリ言って、土台は才能である。(勿論、受験勉強も土台ははっきりいって才能である。)しかし、中学校までは、人間同じだけ練習したらそう変わらないものよ、なんて結構マジに思っていたのであるが、そこに入部してきたのが、1つ下の後輩である。彼は、私と同じ練習をしながらも全国大会に出場、報徳学園では高校駅伝で3年連続優勝、明治大学では箱根駅伝にも出場。別にやっかみはない。しかし、彼が、区の3000メートル走に出た時に、半場遊びながら簡単に優勝をする姿を見て、目が痙攣した。後にも先にも人を見て痙攣したのはこのときだけだ。人は違うのだと実感したのであった。 高校駅伝、全国大会も、こんな身近な奴がブラウン管の向こうで走っているのが不思議な感じだった。
2007.01.17
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何を隠そう、ミーは副業で、サラリーマンをしており、主な収入源をそこから得ている。ミーは、最近もそうだが、寝る前に3杯のコーヒーを飲むため、朝方に尿意に負けて起きてしまう。起きてトイレに行った後、布団に戻ったとき、まだ眠れると思えるのが、案外小さな幸せであったりもする。それが、サラリーマンの幸せであったりもするのである。ミーは、先日、会社の新年会で河豚を食べた。河豚が好きかと問われれば、普通だ。どちらかというと、焼き飯の方が好きである。そして、2次会にはいかないのである。もう長年会社の方々とは付き合っているので、だるいのである。こそっとスキをみて列を離れ、戦線離脱していくのである。 しかし、ミーの話はコレで終わり。ミーの大學の一番の親友の話である。今事件で騒がれているが、彼は、外資系の投資信託の会社に勤めているのであるが、年某制であり、12月は、会社との交渉で仕事にならないのである。会社に提出するのは、コミットメントとターゲットであり、コミットメントの数字を外すと首になる可能性があり、ターゲットまで数字を達成すると、8ケタ分ボーナスが増えたりするのである。首になるのは、何の前触れもない。食事から戻ると、机やパソコンがロックされているのである。会社から情報を盗られないためである。そして、2,3時間以内に荷物をまとめて帰らなければならないのである。そこで示されるのが退職パッケージABでAコースは、莫大な退職金、Bは再就職まで会社にこなくていいが在籍ということにしてくれて、退職金が減るというもの。なかなかシビアな世界である。しかし、彼いわく、いきなり収入に浮かれて、特に嫁はんがアホやったら困り、ポルシェやフェラーリ買って贅沢に慣れてしまい、そんな奴に限って翌年の収入が10分の1になったり、首になったりするんやわいや、といっていた。 そういえば、ミーの話に戻ると、ここ10年で何だか英語が意味なく増えてきている感じもする。意味はないと思うのだが、1例を挙げると、インセンティブ、シンメトリー、メリット、エビデンス、コストダウン、ベネフィット、コンセンサス・・・何だかなあ。 ところで、ミーというと、思い出すのが、タイガーマスクのミスターXである。数々のレスラーをタイガーマスクの相手に送り込むのだが、最後に交通事故で敢え無く死んでしまうんだよなあ。ちなみにミスターノーというのは、首をクイックイと鳴らすやばいやつなのであるが、こいつは、今見るとこいつはヤバイ。多分、もう再放送はしないであろう。ミーは悲しい。
2007.01.16
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トイレに入り、潔い返事に何となく、世界が平和でありますように、というフレーズを思い出した。世界が平和でありますようにの団体があるが、あれはいったいなんだろう。 ワールドピースプレイヤーソサエティという団体が建てているが、白光真宏会を元とする団体である。子供の頃から、意味のないところに、意味なく、そんなので世界平和なったらいいわなと、子供心に思わせる立て札であった。どうやら、あれは信者でなくても、1万数千円で買って、勝手に立てることができるようだ。日本だけでなく、結構世界中にちょぼちょぼ立てられているとのことである。 ところで、新興宗教で、町名がついているのは、天理市と岡山県金光町だけである。天理市には、何かと、かつて何回か行ったことがあるが、市の中心部は、巡礼者の宿舎で埋め尽くされ、「ようこそおかえりなさい」と垂れ幕が下りまくっている。この旅館は、宗教法人であるがゆえ、天理市の税収にはならないのである。その代わり、寄付を多額に受けているとのことなのだが、詳細は不明である。そして、はっぴ姿の老若男女の人々が通りを歩き回っているのであった。 天理教出身で有名なのは、中島みゆきであるが、考えれば、教祖中山みきに似ているんだなあ。関係あるのか。休息。ゴディバ、飲む。 一方、金光教である。結構ざっくばらんんな団体であり、信仰の自主、教会の独立、経済の自立の3原則があり、祈りの言葉や動作に教主の趣味が入ってもいいし、教会単位で結構すきなことをしてもいい。しかし、上納金は少なく、結構、教主がせっせと蓄えなければならないという愉快なところがある。それから、制約はあるが、教主は条件はあるにしても、一応、選挙制になっているところも愉快である。(事実上は信任投票であるが、とても変な方向へ教主が走ることを牽制する仕組みなのであろう) まあ、新興宗教で一番、興味深いというか、多くの新興宗教(「生長の家」や、「世界救世教」など。「生長の家」は前述「白光真宏会」「法の華三法行」などに影響を及ぼし、「世界救世教」は教祖死去後に分裂し「救世神教」「黎明教会」「神慈秀明会」、あるいは傍流である「世界真光文明教団」「崇教真光」(この二つは分裂したんだよね)をはじめいくつもの教団を生んでいる。)が辿ればここにたどり着くという大本だろう。亀岡や綾部と聞けば、それを思い起こす。この3つが近畿圏に幕末から現れた超ど級宗教団体であろう。まあ、かつての弾圧と分裂でかつての勢いはないのであるが・・・
2007.01.15
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ベルギーには、ベルギー語というのはなく、市民はフランス語かオランダ語を母語にしており、ほとんどすべての標識は2ヶ国語が並列されている。小学校も、どちらかに行くようになっているようである。EUの本部があり、発言力があるのは、小国ゆえであろう。当て字でいうと、白耳義である。ブリュッセルといえば、世界3大がっかりであり、ついに、私は、3つとも、見たのであった。(ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールのマーライオン)まあ、小便小僧ネタでいえば、季節により着替えが変わること、今まで2度盗まれたことぐらいか。 グランプラス大広場周辺。ここがブリュッセルの中心であります。グランプラス(世界遺産)。ギルドハウスが立ち並ぶ。カレレストラン、宝石屋、チョコレート屋、レース屋、銀行、ギャラリー、コブラン織屋、事務所。(馬の右となり2つめの端の建物が一番古いギルドハウス。馬があるのはビール博物館)グランプラス。市庁舎。15世紀建築96メートル、ゴシック。グランプラス、王の家、しかし、今のものは、まだ築20年ぐらいの代物で、博物館になっている。15世紀は木造のパン屋、王の家といわれても、王は住んだことはない。音と光の祭典グランプラス。しかし、小雨で、観客少なし。こちらの人、昔から思ってたけど、あまり傘ささないね。グランプラス広場、光の祭典・・・なんだか、観光案内ってさ、自分で書いていて面白くないね。王立モネ劇場。モネは、あの画家モネではなく、造幣局を改造したことから、お金の意味からきているからだってさ。王宮。ということ。よくあるカフェロジェ広場前の近代的ビルディングは、ビル全体がピンクや青、黄色に電飾されて光っている。何だか、観光案内は書いてて疲れてくるよなあ。というか、今日は、外に長く出ていて、体の芯から冷えて疲れているんだなあ。ピエールマルコリーニ。実はまだ創業してそんなにたっていないのである。値段は日本の3分の1くらい。 エロ街。こういう怪しいところだけに触手がいくのは悲しい性か。ちなみにブリュッセルにも、北駅線路沿いに飾り窓があるというアングラ情報を得ていたが、わざわざ、出かける私ではなかったのである。(でも泊まったのは北駅周辺であったのであった・・・やっぱ散歩鬼畜としては行った方がよかったなあ。ちょい後悔)ション弁小蔵小便少女2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.14
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ボクの財産紹介します。祇園精舎を寄進したスダッタ長者の気分でもある。スッダタはコーサラの国の太子に精舎を建てるための土地を寄進して欲しいと願い出て、「じゃあ、この敷地全体にお金で埋めると分けてあげるよ」といわれ、全財産を敷き詰めても足りず、乞食をしてまでも、お金を敷き詰める努力をしたという。ボクのペット紹介します。ペットのホッキョクグマは、北極では、食物連鎖の頂点にあるが、残念ながら、我が家では、その上に、私が鎮座するのである。しかし、ときどき、頭を齧られちょとだけ痛い目にもあう。食性は雑食で、アザラシ、セイウチなどの大型哺乳類、魚のほか、海鳥、果実、コンブや貝なども食べる。泳ぎが得意で、50キロは泳ぐことができる。また、嗅覚、聴覚も非常によく、ことに嗅覚においては氷の下を泳いでいるアザラシの臭いを判別することができるため、これらの能力を駆使して狩りをする。粗食、絶食にも耐え、アザラシ1頭で半年以上生き延びられるため、我が家では、夏で暑さにばてている時に、殴り倒したまままだ眠っている。ボクの子分紹介します。 私が号令をかけると、子分が、道を動けない程度に集まってしまい、少し困った様子。 流れが止まってしまうと、両脇の屋台の人々が活気付く。「買ってよ、かってくれよー」を連呼し、「おお、そこの眼鏡のにいちゃん、欲しそうにしているねえ」といわれ、私が振り向くと、笑顔でソバを差し出そうとしていた。少なくとも、眼鏡ではあるが、にいちゃんではないかも知れない。しかし、未だに、私に向かって子供におじちゃんとでもいわれようものなら烈火の如く怒るのは、大人気ないというか、まだ人間ができていないというか、子供の意見が間違っているというか、多分、子供は単純に無知なのであろう。ボクの彼女達紹介します。 アルバイトであろうが、巫女の条件はしょじょであるということが流布されてはいるが、そんなことはない。そんなのは間違ったキリスト教的な観念からであり、夜這いが当り前の日本にそんな歴史はなかったのである。ちなみに最近では、メイドと並び、巫女スタイルは「萌え」のジャンルに組み込まれたりなんかしているが、はじまりは、うるせいやつら、セイラームーンあたりか。 しかし、えべっさんを企画するのは、大変だったよ。今日は、道端にアンモニアの臭い。
2007.01.13
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意味なし世界一周を敢行するには、まだ半分も来ていなかった、というのに、帰国しなければならない日はあと2日しかないのであった。 ベルギー、ブリュッセル空港までは、アムステルダムのスキポール空港同様、電車で約20分程度というスコブル便利な場所にあった。12月31日、朝からフラフラしながらも、荷物を持って空港に行くのであった。 ヨーロッパからアメリカまでは、6~8時間と、日本から東南アジアに行くのと変わらない感覚であろうか。飛行機から、マンハッタンが見えた。DCから370キロである。摩天楼がうっすら見えるのだが、手前の目下はただの田舎である。ニューヨークでもそうだったのだが、ワシントンも空港に向かう時に、何航空か尋ねられ、それぞれ空港別に専用搭乗建物があるのは、広い国ならではのことなんだろうか。 アメリカには、リムジンバスのようなものがあまりない感じがする。ワシントンDCダラス空港より、乗り合いタクシーで街に向かう。私が、不意にも、良く調べず、アムステルダムのネットカフェから予約したホテルは、街の中心から2、3キロ離れていたので、バスに乗って街の中心に行くということになった。バスは1.25ドルである。 パトカーに馬が乗っていたが、私は、ホワイトハウスまでバスで行った。大統領が招いてくれているのだから、リムジンの一つでも用意して欲しかったのだなあ、としょぼく思う。 アメリカ人は大いなる田舎者と思う。学生の頃、黒人が電車の行き先と乗り方を聞いてきて、一通り教えてあげたあと、「キミはどこから来たの?」と聞いた。今までの旅行の経験からすると、国籍がでてくると思っていたのだが、彼は「ニュージャージー」と言った。なんだこいつは。と思った。急にそいつがとんでもない田舎者に見えた。 初めて行ったアメリカはニューヨークであり、ニューヨークはアメリカらしくないアメリカだよと聞いていたし、そういうものだと思っていた。今回、ワシントンDCに行き、街が徒歩サイズでないことを実感した。車サイズに人工無機的都市が形成されているのだ。 表向き、ただ美しい公園無機質都市は、アメリカでも有数の犯罪都市(ニューヨークの5倍)であり、特に殺人が多いという。アメリカには住みたくないと思う大きな理由は、銃がはびこっているということだったが、最近、カナダも同程度の銃の数があるということを知り、使い方や教育や環境に大きな問題があることを知った。といっても全体の治安が悪いわけではなく、街の中心などは、まだ安全な方だそうだ。地下鉄にも乗ったのだが、地下道というのがほとんどないというのが、ユニークで、エスカレータなどで、地下に降りるとすぐに改札になっている。治安を考慮してなのかと思うのであった。早朝、駅構内には誰もおらず、本当に地下鉄が来るのか心配になったほどだ。(あと何分で来るか表示されているのだが) 国会議事堂、ホワイトハウス、最高裁判所、そして証券・印刷局、FBI。リンカーンメモリアル、ジェファーソンメモリアルとルーズベルトメモリアルのあるワシントンメモリアル、アーリントン国立墓地、スミソニアン研究所の多数の部署どれもが無料というのはなかなかよいことではある。まあ、そんな訳で、速攻で街に出て、観光を敢行するのであった。6時間に及ぶ本業の散歩開始である。 以下、指南書USキャピトル 国会議事堂。隣接する巨大な国会図書館、最高裁判所。議事堂の北側には、壮大なユニオン駅、その隣には郵便博物館、全米日系米国人記念碑などが続く。続くがそこまでは行っていない。スミソニアン博物館のひとつ。16の美術館博物館の建物の複合群。いくらトバシヤの私といえど、1億4200万点の展示物、とても15分で見回ることはできない。そこまでは行っていない。リンカーンメモリアル。マーチンルーサーキングが「私には夢がある」と演説した場所なのだなあ、と思いながら、ここまで歩くのに何の変哲もない道を20分以上歩いたのだ。これ以上は歩けない、ということで、リンカーン像の前までは行っていない。(1月1日早朝の散歩)ワシントンモニュメントからリンカーンメモリアル方面。一応、世界で一番背の高いオベリスクまでは、歩いていったのだが、これまた結構歩くのも遠いのである。ホワイトハウスからワシントンモニュメント。芝生を横切り、ひたすら歩くのであった。ホワイトハウス悪の根源。ホワイトハウス悪の注意書きホワイトハウス横アイゼンハワーエグゼクティブオフィスビル。何でも良いけど、何となく、ヨーロッパ後のアメリカは、やっぱり新しいのである。申し訳ないけど、薄っぺらな感じもするのである。朝の散歩には、アーリントンナショナルセメタリーとペンタゴンに行った。ペンタゴンは世界最大の床面積を誇るオフィスビルである(2位はアメリカの旧パンナムビル、現メットライフビル)しかし、5角形なんかソラからしか見えないのである。オベリスクといっても記念塔。本物のオベリスクは世界に30しかないのである。 そんな訳で、朝の散歩を終えると、ケタタマシク、荷作りをして、速攻で空港に向かったのであった。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.12
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祭りあるところ、トイモイ氏ありと、往年言われたものであるが、幼い頃はそうでもなかった。幼い頃、私は、親に、正月に、リンゴアメを買ってもらったことがあり、そのりんご飴がやたら旨くて、食べるのが惜しくて、何度も舐め、そして保存し、眺めては、まだまだあると幸せを噛み締めていたのである。 暫くすると、いきなり、甘い飴が、急に、リンゴ味に変わった。表に塗られていた飴がなくなったのだ。しかし、若き私は、りんご飴全体が、リンゴの形をしているだけで、全体がこの飴でできているものと微塵の疑いもなかったのである。リンゴの表面に申し訳程度に飴が塗られているだけという真実を知り、大人への信頼感を失った若き私弱冠6歳なのであった。ドネルサンド。トルコ人張り切る、私食う。幸運小堤。人集まる、私通り過ぎる。サザエのつぼ焼きは酔っ払った後に食うと無茶旨い。必ず当たってもなあ・・・バナナチョコ、旨いか?子供には旨い。まるまる焼きだ。目が回る。ベーコンエッグタイヤキ。欲張りな食べ物である。博多の地鶏、博多の人は知らない。はしまき。箸で巻いてるだけのボレロ。〇る?サーターアンダーギー。私も遠慮なく沖縄で食った。鎧、イギリスの義弟に買ってやるか。200万円、路上で売るか。ミニタイガーバームガーデン。白蛇さま。結構疲れているんだよネエ。おばさんが白蛇に見えます。浜崎あゆみ焼き。チョコレートの泉。飛び込みたい衝動を抑えろ。銀杏、一帯が臭い。ぎんなん千切って夜をぶっ飛ばせ。七味トオガラシ、誰が買う。俺が買う。おもちゃ。水槽で飼うと大きくなり、外に出すと小さくなる代物。ギラギラハートのソバせんべい。唯一真面目なボーイスカウト主催の飴。大阪103団。私は神戸35団。銀杏ちぎるアメリカ生まれのオムレツフランクさ、そこんとこヨロシク。イタリアンスパボーさ、ナイスネーミング。ソコントコヨロシク。あゆの塩焼きつるし柿。そんなアダナの後輩がいた。岩納豆、大阪の牙城に上陸、殴りこみ。宝船マンモスの牙。いいねえ。俺の歯と交換しないか、イエイ。こいつは?岩納豆こいつは?ボーイスカウトあめ二度つけ禁止やど。
2007.01.11
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その町々の始まり方は、まずは、じっくりカフェや、チャイ屋や、道端に座り込んで、地図を見ることからである。今回は、昼時ということもあり、珍しくガイドブックをまずパラパラめくってみると面白いコメントがあった。「この店はぼったくりの店です。お勧め料理を勧められ頼んだら○○ユーロ、抗議すると急に英語は分からないといわれ、高級料理店並の料金をぼったくられました。皆様ご注意下さい」 おお!これは、私に挑戦せよということではないだろうか。今日の昼食は、ここに決定だ。神妙な顔つきをして店を確認、お客は1組いるし、ガラス張りの店なので、最悪騒いだり、ノータリンのふりをすれば追い出してくれるだろうことを確認しつつ、一番窓側の席を占領。素早く、メニューにて値段をチェックし、白ビールとまたもやムール貝バケツを注文。 すかさず、こんなのどうだとお勧め料理を勧めてきた。ほう、それは旨そうだな、とは思ったが、あいにくお腹もそんなに減っていないし、値段を確認すると、60ユーロ、そりゃ高すぎる。というか、勧める料理ならそのぐらい量も多いのだから妥当なのかも知れない。ガイドブックに投稿した人は、経済的旅行者で一晩の料理の値段をもともとおおよそ設定していたのだろうし、多分、値段を聞いていなかったのかも知れないと思い、なーんだと、思いながら、断る。 人通りは多いのだが、客は入ってこない。その後料理も運ばれ、これでぼられることもなかろうと思いながら、ちょっとまてよ、先ほど、ビールの値段だけはチェックするのを忘れたぞ。もしかして、えらいことになるのでは、と不安になりかけた頃、先客が帰ってしまった。料理も、何故か、奥に厨房があるにも関わらず、その店で作るのではなく、どこか店の外から運んでくるのであった。それに先程から、店と関係のない地元の人間がやたら出入りして、何か秘密シンジゲートの連絡場所のような気がしてきた。もしかしたら、私がフラフラしているので、そう思ったダケかも知れないが、妄想は徐々に膨らみつつ、不安も膨らみつつあった。それに関係のない奴らはやたら2階に行くので、私も勇気を決して勝手に2階に行くとそこは・・・・トイレだった。 やっと、客が入ってきたので、ここで勘定を請求。ビール代が5,000円でないことを心で祈る。そして、やってきた請求書は、何と、普通の請求だった。多分、半分は、投稿した旅行者の確認ミスではないだろうか。日本でも、蟹1匹まるごとお勧めされて、値段も確認しなかったら1万円はするだろうが、それに文句をいっているようなものかも知れないと思い、少々、普通のことだなとナットクしたのであった。細道のレストラン街に問題のレストランはあった・・・2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.10
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信号機には、自転車用もある。そういえば、オランダもある。そういえば、シーボルトはドイツ人である。しかし、日本はオランダとしか貿易していなかったので、オランダ人のふりをしていた。ある日、日本人から、おたくのくにの一番高い山は?と質問を受けてうっかり、ドイツの山の高さを答えたということだ。オランダに山なんかないちゅうに。ベルギーといえば、チョコレートのイメージが強いのであるが、朝早く散歩していると熱心に朝早くから店を開けているのはチョコレート屋ばかりである。不思議なものである。ちなみに、ベルギー王室御用達のチョコメーカーは、6社である。ゴディバ、ガレ、コード・ドール、メリー、ノイハウス、ウィッタメール。チョコレートを鼻血が出るまで食う私が、全制覇(量り売りだが)したことは、国家機密でもある。ベルギーといえば、ムール貝と白ビールというイメージが強いが、毎晩、ソレを食らう私は、観光客である。バケツにいっぱいのムール貝をバカほど食べ、ベルギービールでフラフラしている上に更にベロベロになっていくのである。ベルギーといえば、ワッフルというイメージが強いが、チョコレート以外の甘いものはちょと苦手なのである。しかし、せっかくのベルギー、一度はワッフル食べなければベルギーに来た意味がないではないか!といいつつワッフルを食らう。でも、告白すると、フラフラしていると、甘いものが、死ぬほど旨いのである。というか、飯が悪党的に、いや、圧倒的に旨いのである。本能を取り戻すのである。馬です。ということで、富豪のブルージュは終わり。ちなみに唄松田聖子、作曲細野はるおみに「ブルージュの鐘」というのがある。私の中学校高校あたりの曲である。 ところで、私、どこか行く前に、その場所をネットで検索するとき、すぐに、「○○○(地名) 邪悪」って検索してしまうのは悪い癖かしら。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.09
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仕事でではあるのだが、今日は餅つきに、ぜんざいに、お酒の振る舞い行事に参加してきたという事実があった。P.S 今夜こそ、寒いので、何とか毛布を出してきて寝るつもりである。(毛布は、掛け布団の上に敷く方が温かい) 私が、最初に、藻血つきを体験したのは、小学校の時のボーイスカウト(正確にいうと、その前身であるカブスカウト)でであった。藻血は好きかと言われると、まあ、食べるけど、別にダイスキという訳でなく、ここ数年何となく食べていない。今日も、おなかがいっぱいだったので、食べなかったのだが、驚くべきことに、昨日も、夕方に腹が減ってきて、「あ!昼飯食うの忘れてた!」と言い、朝昼抜いていてしまったのであった。その代わり、朝方、腹が減りすぎて眠れなくなり、米を炊いたのは、国家機密である。 ところで、そのボーイスカウトの前身カブスカウトではあるが、ある晩、おかんに「ちょっと一緒に出かけましょう」と言われついていくと、いきなり、カブスカウトの入団式で、「ぐわっ、騙された!」と心の中で思いながらも抵抗も出来ない小心者の私であった。 その小心者精神は今も忘れることはなく、飛行機でも、客室乗務員を呼び鈴で呼んだことはないし、ハンカチを落とした人に「オイ、コラ、ハンカチ落としたぞ」と声をかけられず、「すみません、これ落としましたよ」とその人の前まで回りこむ用意周到さである。電車の中で、社内暴力があったときも、「オイコラア!何しとんねん!やめとかんかい!」と割り込めず、「すみません、ボクはもう今ベロンベロンに酔っていて、でもあなたもベロンベロンに酔っていて、もうやめましょうや」と情けなく卑屈な仲介に入り、痴漢にあっている女性を見つけては、怖いので、痴漢とその女性の間に無理矢理割り込むという姑息な手段に訴えるままなのであった。 本当は、酒の振る舞いのおこぼれにあやかりたかったんですけど、「ちょうだい」ともいえなかった小心者の私です。そして、ぜんざいのふるまいも「ありがとうございます」といい、向こうで食べますからといい、くれた人に見えない所で、他の人にあげた小心者なんです。 ところで、ヨーロッパ人の男って、結構若はげが多いんだよなあ。あれって、酸性雨の影響か?よく小雨が降ってたなあ。
2007.01.08
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ロシアのサンクトペテルブルグ、インドネシアのメナド、イエメン、ホンジェラス、ブータンなど、いつかは行くつもりの都市はあるが、私の中でベルギーのブルージュもその一つであった。それは、数年前、大阪の問屋街でたまたま買ったチョコレートに印刷されていたのがブルージュの風景で、「屋根のない美術館ブルージュ」と記載されていたにを見て、「よし、いつかここにいこう」と私の殺すリストではなく、死ぬまでに行くリストに加えられた都市でもあった。アムステルダムからベルギーのアントワープで乗り換えて、約3時間半でブルージュに到着。まず、駅構内の観光案内所で有料という地図観光ガイドを購入。有料とは憎たらしいなと思いながら、駅から2,30分歩いて中心の方に向かっていく。 港町として発展したブルージュは、その後、港町としての中心地をアントワープ、アムステルダムへとその地位を明け渡し、死都となっていく歴史を辿った。2000年に世界遺産に街が登録され、どうやら観光都市として再度やっと盛り上がっているようである。アムステルダムの邪悪さから一転、おとぎの国に来てしまった訳である。ベルギーの多くの都市は戦火で破壊されたし、工業化が早かったので、ブルージュほど中世の雰囲気を残している場所はないのである。 私の偏見から見ると、ベネチアのような観光都市の一員らしく、歩いている人のほとんどが観光客で、住んでいる人のほとんどが観光業に従事しているようなイメージがする。 早速、荷物を置いて、いつものように8時間散歩に出かけるのである。ベルフォート鐘楼。解説:この建物が、街の中心的建物であろうか。すれ違うのも大変な階段を400段近く登っていくと90メートル程度の鐘のある頂上付近に着く。90メートルというと、日本のマンションでいうと25階建て程度であり、これが13世紀頃から造り始められている訳である。特にフラフラしている私には、なかなか楽しい登山であった。ベルフォートから街全景。まあ、こういうのを見ると、日本も中は自由にしたらいいが、外観や色は規制したらいいのになあと思うのである。そうか、私は、5年前からこの風景を見たかったのだなと思う。街の中心であるマルクト広場。解説:北と西には切妻屋根のレストラン、東はネオゴシックの州庁舎と郵便局、南側は鐘楼。何だろう、綺麗だな、おとぎの国だな、心地良いな、という快感と感想が頭の中を流れるのだが、誌的なものが浮かばない。それが、私の資質か。清潔で、物乞いも見当たらず・・・ディズニーランドの原型のようなものか。 ブルグ広場。解説:市庁舎がある広場で、マルクと広場から100メートルぐらいだが、こちらにはそんなに人が溢れているという感じがない寂寥感が良い。市庁舎、古文書館、裁判所、聖血礼拝堂に囲まれている。歴史歴史のヨーロッパ、古いものを大切にするという感覚は素晴らしいが、石が長持ちするといいながらも、1000年以上というと、そうでもないのである。法隆寺を見よ、木製も全然負けていないということを実感するのではなかろうか。明治維新以降なんだか、歴史認識がひん曲げられている気がする。 3匹の子豚、藁の家、木の家、レンガの家をそれぞれ造った子豚であるが、藁、木は崩れ、レンガの家に避難するといった物語だったと思うのだが、これってバカにしてないかと思うのである。レンガの家(=白人の家)が一番エライんだぞ、っと。州庁舎聖母教会;解説、特になし。街には、3つ程度の塔があり、どこに迷おうとも、この3つのどれかの塔を目差せば迷うことのない便利なシステム。時間がある限り、道に迷うことに何の問題もないし、その多少の不安が楽しく、何某かの発見や出会いがあるのである。ただ、私の問題点は、人生においてもフラフラしていることだろうか。シモンスティン広場。解説なし。だいたい分かった。救世主大聖堂と運河(愛の運河)。解説なし。だいたい分かった。地名に愛がついているのは、結構恥ずかしい感覚があるのだが、ヨーロッパでは愛の定義が違うのだろう。愛は神(キリスト)である。それにしても、うさんくさい十字軍が持ち帰った聖血が祭られている。十字軍は免税になるから行ったり、病気で人口が減りすぎて、人口を増やす為に女を、労働力を得る為に子供をさらうために行ったのである。聖地奪還の士気のあった人々はどのくらいいたのであろうか。ちなみに大聖堂の下部はロマネスク、上部はゴシックである。聖地って面白い。こうやって途中から作り変えられるものや、例えばイスタンブールのように、イスラムモスクを教会に替えたり。教会の建つ前は、たいてい、その地域の土着的な聖地であったことも多いのである。磁場の力というものがあるのであろう。勿論、経済的な力もあるだろうが。ベギン会修道院。解説:世界遺産認定。現在はベネジクト派の修道女が暮らしているようだ。だいたい分かった。以上//2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.07
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鉄道部品と魚釣が何故同時に売られているか、初出勤からの謎ではある。しかし、魚釣島のことを、ちうごくは釣魚島呼んでるだって。 そんな訳で、今日は、初お祈りに行った。おみくじを引いたが、小吉だった。私は占いを信じない。だから大吉が出るまで引くことにした。そうしたら2回目に出た。良かった、小銭がなくて。でもお札もなかったけど。今年も良い年になりそうだ。時差ぼけが珍しく治らず眠い。おまけに先月まで毎月20本ぐらい映画観ていたのに、飛行機でディパッドとか何とかとか6本ぐらい観てから、観る力を現在喪失中でもある。でも、今年もいい年になりそうだ。大吉だから。
2007.01.06
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ボクは、最近、オランダに行ってきました。マサコチャンも行って来た国です。でもマサコチャンのいる国のように隠された皇室ではなく、とってもオープンな皇室です。但し、じゃあくなアムステルダムには住んでいません。でも、普通にトラムに乗ったり、普通のデパートで、普通の人にまじって買い物を楽しんでいます。マサコチャンもキコちゃんのおかげで、男児産め産め強要から解放され、病状も随分よくなったと思います。オランダに療養を兼ねてということは、あんまし関係ないと個人的にはおもいます。 ところで、ボクは、ちゃんとなんちゃって観光もしたりなんかもしてます。アムステルダムは数回目ですが、運河ボートに乗ったのは初めてです。何故かというと、大抵運河が凍っていたからで、他のことに忙しかったからではないんです。今回も、頭の中はとても忙しいままだったんですが、敢えて、美術館巡りコースというボートに乗って、美術館と水遊びを併用するというごうりてきなプランを立て、実行しました。 何故か、クレジットカードでチケットを購入しようと思ったのですが、磁気の部分が細いからこのカードは使えないんだよ、と嘘なのに親切にチケットを売るおじさんは教えてくれました。勿論、あくいはないくったくのない笑顔のおじさんでしたが、いくらフラフラ歩いているからといって、そんな嘘を信じるボクではありませんでした。でも、チケットを買うときに、おじさんは何故か、そんな美術館巡りチケットを買うのかいぶしがり、100メートルぐらい離れた船着場に、出航しているか電話確認していました。そして、あと3分で出るから走れと言われました。それで、ボクは早歩きで船着場に行ったのですが、ボートの出航は適当で、もうちょっと人数集まらないかなあといった感じでボート運転手が暇そうにしていました。 いよいよ、ボートが出発しました。以下、運転手の地声での説明をしたいと思います。「ようこそ、こんなボロボートに乗ってくれたねえ。皆、ありがとう。早く降りたいだろうけど、ちょっと我慢してくれよな」「オランダには、水上ボートの上に住んでいる人がいっぱいいるんだよ。ほらあのボートを見てよ、僕の弟の住んでいるボートなんだよ。ある晩にベロンベロンに酔っ払って、川にはまったんだよ」「さて水上美術館に着いたよ。すぐ出発しないのは、サボっているからじゃないよ。時間調整しているだけだよ。時間に余裕を持たせるのがオランダのスタイルさ」「こうやって運河を作って、オランダは国土を広げていったんだよ。神が地球を創ったというけど、オランダはオランダ人が作ったんだよ(以下、オランダ自慢の連発)」「この運河がアムステル運河サ。コレガアムステルダムノナマエノユライニナッタノサ」「ここは、アンネフランクの家さ。わあ、いっぱい行列になってるね。みんな、行列が嫌いならやめておいてもいいよ。誰か降りる?降りるなら停めるよ」「あれは西インド会社の建物さ。皆、東インド会社しか知らないって?ここも特許会社だったのさ。東インド会社は世界初のカブシキガイシャで有名だけど、資本金は西インド会社の方が多かったんだ。でもずっとこちらは赤字だったんだよね」「いろいろ観光案内でしゃべってきたけど、もう疲れてきたからいいかい?」帰りにもボートに乗ると、行く時と同じ運転手。でももう午後便で彼の午前中の元気はすっかりなくなり、饒舌さはきえて、ただつまらなさそうに運転していただけなんだよね。午前中のハイはなんだろうね。 追記 昨日の日記で売春のことを書きかけたのですが、クリスマスの日にブルガリ買ってもらって、一流ホテル泊まって、セクスさせる女性も彼女であろうと、システムの問題カテゴリイなら売春だよね。ついでに援助交際も売春といって欲しいよね。やっぱ、ボクが思うに、ブルガリ買うなら40歳以降だね(意味なし理論)。でもブルガリ買うより、イタリアやバリのブルガリホテルに泊まる方がよっぽど魅力的なんだな。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.05
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オランダと言うわけではないが、ヨーロッパはSMがお盛んである。日本も一部マニアにはあるが、凡そ、東洋、酒池肉林発祥の地中国でさえマイナーなものである。これはきっとキリスト教の磔から来ているものであろう。己をさいなむことを美徳とする教え、つまり、人類の贖罪のために十字架にかけられて死んだキリストを通じ、苦しむことが美徳への道なのであろう。 鞭打ち、分からなくもない。マラソンのランナーズハイと同様、苦しみを快楽に変えるドーパミンのせいで、だんだんキムチよくなってしまうものなのだろう。確か、ルソーの告白にも出てきたのだが、子供の頃、躾で尻 鞭 打ち折檻をさんざんされて、それがそのうち快 楽になったと書いていた。ヨーロッパの子供は今も鞭 打ち折檻があるのだろうか。それが、S Mの土壌を作っている一因かも知れない。 そういえば、ヨーロッパでも、いくつかの美術館で宗教画を見たが、結構、殉教者が拷問されて恍惚の表情をしているのを、ぼーっとしているワタシが見逃すはずもない。 それから、キリスト教では生殖器にエ ロを求めることはないので、多分、S Mのようなものに走ったというのもあるのかもしれない。何せ、日本の春画は生殖器、それも拡大誇張された生殖器がお盛んであるが、上半身については無頓着で、裸でなく服をきていたりなんかする。何せ、イザナギイザナミのセクスで国ができた日本であるから、性 的行為は豊饒を意味し、それが、キョコン信仰になったのであるわな。まあ、男S M愛 好者にしてみれば、射 精がゴールだなんて、精神的つながりや精神的解放を求めないなんて、ケッっていうもんあんだろうか。まあ、いいよ。全然、オランダ紀行でもないような気もするのである。 ところで、オランダ紀行であるが、オランダでは、何度も言っているが、同姓の結婚、ソフトドラッグの解禁、尊厳死の容認に加え、売春は2002年あたりに完全合法化されたわけである。ここでの問題は、日本で売春する女性と同様、借金を返すとかもあるだろうが、一般的に好きで或いはお金の見入りがよいので働く場合が多く(多分)、アジアでよくある貧しい人たちによる経済的理由での売春ではなく(多分)、また性と人格の問題でもなく、システムの問題だといえるのかも知れない。合法化により税金をしっかり取る、アンダーグランドに金を回さない、そして観光客へのオランダ政府のしたたかなアピール。合法ということは、売春のシゴトは、ウエイトレスとかの肉体的シゴトと何ら代わりがない、いろんな職種のひとつに過ぎないということであり、それでいいのかということが言われるのかも知れない。何だろう、本来、生身の女を買ってその柔らかさとか温かさとか会話(恋人気分?)に触れたいという欲求と、お金を出したから支配してもよいという蔑んだ感覚がある人と2パターン(もっとあるかも)あるかも知れないのだが、日本以外の国では、多分、売春は1種類であり、日本のように、ラウンジの接客から、おさわりバーみたいのから、本番なしのヘルスや何だかエロいマッサージから、ソープランドと選り取りみどりなのは、日本人がマニアックであるとともに、女性との交渉が下手だからこう決められているのかも知れない。交渉が下手?口説き方が下手ということだろうか。まあ、それが日本の歴史だったのかも知れない。くどき上手な奴は、軟派野郎と男の中ではバカにされてきたし、考えれば、日本は男色社会で、特に武士社会では男色が異性との交渉より価値の高いものだった(フランシスコザビエルが日本に来て驚いたこととは男色が多すぎることであったし、まず布教に際し、禁止したのいが男色であった)。日本の農民社会ではそうではなかったのであるが、・・・いかん、話がオランダからずれてきている気もするし、主語と述語がつながってない気もしてくるので、今日はこの辺で勘弁するものとしましょう。 駅から一番近いレゲエ風コーヒーショップ。アムス滞在2時間の時にお世話になったなあ。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.04
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ここ、種屋さんアルね。昔は、ヘンプスミュージアムだったとこアルね。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 ミズパイプ屋さんあるね。なんでこんなにミズパイプが充実しているかは不明アルね。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。・・・ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。・・・やっぱちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 何故か、キノコ関連も多いのは、真面目なワタシには分からないネ。ましてやシロシビンなんか聞いたことないズら。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 紳士と淑女。さすがヨーロッパはちゃうアルなあ。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 白雪姫上映中。何だか分からないけど、小人達にキムチよくされている白雪姫のビデオ上映中。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。白雪姫にも何故だかキノコがでてくるのですが、何故だかは、ワタシにもワカリナイアルよ。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。あらゆるセクスグッズが揃っているアルね。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 ワタシ、オランダ土産買う勇気がない小心者なんだなあ。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。でも、勇気を出して、私、クマさんぬいぐるみ買おうとしたんだけど、やっぱ無理だよ。どうしたらいい?それにしてもちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 飾り窓もあちこちにあるんだねえ。白人黒人アジア系、よりどりみどりちゃんなんだねえ。でも合法だから、国家公務員なんだねえ。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。ドアーズ。ちょとだけ楽天日記に削除されないかこれは心配ないアルね。 ワタシキレイ?ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。 ワタシ、オランダの国家公務員になりました。病気の検査義務つけられてまっす。勿論、税金も払うことになりまっす。ガラス窓を拭くのもワタシのシゴト。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。グラスホッパーでコーヒー飲んだ。くさいくさい。何だか、コーヒーショップに変なにおいが充満して気分が悪いんだねえ。ちょとだけ楽天日記に削除されないか心配アルね。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.03
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あけましておめでとうございます。 とりあえず、修行の道はソドミーシティのアムステルダムから。(フランクフルトの画像が何故か1枚もないので)ゴッホははっきりいってボヨヨンです。 屋根のない美術館といわれるブルージュから、汚いアムスから一変し、おとぎの町へ。 産業は観光だけかな?ブルージュ。 ブリュッセル。EUの中心。世界三大ガッカシのションベン小僧新名所、しょんべん少女ホワイトハウス親善訪問モノリス・・・フォレストガンプなんか思い出しちゃったよ。てな訳で、多少疲れ気味のフォッグ氏と逆回りのために1日得したということもなく、80日間電気をつけっぱなしということもなく、インドで嫁を見つけることもなく、漫然としているんです。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.02
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何というか、正月の瞬間、テレヴィを見ていたって訳で、ま、海外で、新年の瞬間、外に出ていたことっていえば、ニューヨークとパリのシャンゼリゼと、スペインのコルドバ、チェコのプラハあたりで、今年は、ワシントンでテレビ観戦(但し、シャンペンならぬスペインのアスティ1本空けてほろ酔い状況でっす) 何だか、いつまでたってもシベリア上空なんだよね。多分、酸素供給量間違えて、頭が痛いんだよね。なんだか、ハルジ写真画像アップデビュー時に似ているんだよね。 何というか、ヨーロッパ上空なんだよね。冬のヨーロッパはずっと小雨なんだよね。雲がどんよりしててね、雲を飛行機が抜けると快晴になるんだよね。 何ていうか、大西洋上空なんだよね。ヨーロッパとアメリカ近いんだよね。日本からインドに行く感じかな。 何ていうか、カナダの上空なんだよね。北海道の方から日本に還るんだよね。今年も宜しくね。2007年正月旅行オランダ運河紀行 Amsterdamソドムシティにて Amsterdamソドムシティ2にて Amsterdamソドムシティ3にて Amsterdamブルッヘ観光案内 bruggeブルッヘ観光案内2 bruggeブリュッセル観光案内 Brusselsブリュッセルgourmetの旅 Brussels正月はワシントンDCで WashingtonD.C.世界一周
2007.01.01
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