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ところで、(ナニがところでかというと、何だろう。先程まで考えていたことを文章にしてません、すみません)昔から不思議に思っていたことなのだが、よく、銃を天に向かって撃つが、あれいつかは弾が落ちてくるのではないか、危ないのではないかと思っていたら、やっぱり年間何人も空から落ちてきた弾丸で死んでいるみたいね。年間、世界中で何人もの人が病院に運ばれる、その1、掃除機を修理していた老人、掃除機が暴走して男性急所を吸い込んだ。その2、道具を拾おうとした鉄道員が掃除機のスイッチを間違って踏んでしまい、急所が吸い込まれた。その3、バスローブを着用して掃除機をかけていたら、バスローブがはだけて、大事なところが吸い込まれてスタズタになった。まだまだ事例はあるが、説明が、やたら不自然である。患者達?は、まさか、自分のグソクがプロペラまで届くなんて思ってもいなかったのであろう。掃除機メーカーもパンツを履いていない時には掃除機をかけないでくださいとい注意書きが必要であろう。ふと、昼食時に饂飩屋でテレビを見ると、去年も日本では自殺者が3万人を越えたと報道されていた。弱者はこの国では切り捨てられる。経済的な死が多いのが、この国の特徴だ。変わった自殺を調べてみた。まあ、いろいろあるんだろうけど、列車で自殺するのは、やはり度胸がいるのか、結構泥酔状態の人が多いという。統計的には、独身で健康だが学歴や資格がない若い男性が割合的に多いらしい。それに、面白いことに、列車がしょちゅう遅れる国や場所のほうが列車飛び込みは少ないらしい。死のうと待ってても、来ないじゃん!と考え直す人が多いのかも知れない。 アメリカでは、死にたいけど、死ぬ勇気がない人が、結構警官に殺してもらっているということだ。つまり、弾の入っていない銃を警官に向けながら、大声でわめきながら警官に突進していくだけである。確実に殺してくれるという按配です。チェンソーでヤラレルノハ映画でもお馴染みだが、それで自ら死ぬのは、さすがに、痛いのか、我慢できなくなるのか、数例しかないらしいが、これは考えるだけでイテエ。あとは、ガムテープやサランラップで、顔をぐるぐる巻きにするというのもあるが、それでの窒息死は、多分、自殺ではなく、掃除機と同様、快楽追求しすぎによる事故んあんだろうなあ。まあ、話は終わらなくなるのでおわり
2010.01.31
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意外と、リスボンに来たら、思わず、丘の上にある城、誰もが、暇なら、行ってみようという気になってしまうものかも知れない。 意外と、特にどこから行かなければならないという道はなく、とにかく、適当に上に向かって歩いて行けばいいという気楽さで、そのうち、いつか、着くだろうというコースなのだ。 意外と、スペインのグラナダのアルハンブラ宮殿に上って行くような感じだったというか、その反対側のアルバイシンにようだった。 意外と、感動は経験と共になくなってくるのは仕方ないか。そのグラナダの夜、結構暇で、スペインガイドブックを熟読していたのだが、どこへいっても、カテドラルなのだ。どこいっても古い教会見てるだけなら一緒ジャン、なんて思ってしまったりして。 意外と、日経関係の就職面接の不思議なことを思い出していた。就職活動なんちゃってしちゃっている大学最高学年の頃、電話があり、面接に来てくださいと。まあ、行ってもいいよ、と行って見ると、結構な高待遇で、何故だか分からないが、やたら面接官が親切で、社内をあちこち案内してくれて、何だか就職キマリってな感じの待遇で、じゃあ、今から役員面接ですといきなりいわれる。おかしい。日経ビジネスが、いきなり電話で呼び出して、役員面接? 面接に現れた学生は、どう考えても、何回も激戦を勝ち抜いてきた奴ら。1回戦ボーイはオレだけだ、もしかして特別枠か、そんなもんない。 どう考えても、当て馬だ。デキレースというか、役員面接で、一人どうしても落ちる奴ガ足りなかったのだ、と気がついたのは、役員面接しますといわれたときからだ。真相は分からないが。他の奴らは、人事レベルで内定だったのに、役員がいきなり面接はないのか、と急にいいだして人事が焦ったのかも知れない。役員面接では、私だけが的を外れた回答をしていたので、浮いたことを思い出した。役員は、なんで、こいつが役員面接まで上がってきたのか不思議に思っただろうし、人事部もアチャー、なんだこいつって思ったに違いない。すみません、日経ビジネス、面接で会社批判して。 意外と、スペインと世界と二分した宗主国も静かなものだ。 意外と、植民地のブラジルの真似してたりなんかして。宗主国系プライドは。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.30
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50分のバス漢江沿いを走る仁川市内仁川空港空港内トラ闊歩する。干潟沿いに空港ができた金浦空港上ソウル市内、地図のまんまにビビル、当たり前か。ソウルタワーが見えて、半島横断していく。気失ったら、こんなん貼られた。初めて。半島横断して、日本海越えて、中国地方縦断して四国に突入して、淡路島の大橋。神戸空港越えて。国際線に乗っていたら、気持ちが面白い。日本上空を飛んでいるのに、自分のいる機内が外国なのだ。(実際の法律も、その国の法律が及ぶ)そんな訳で、昨日はドイツからGさんの家の島を見て、今日は韓国からG-8さんの家の島を見る。そんでもって、関空が見えて、着陸する頃が、関空はいつも寂しい。スカスカだから。すごく、田舎空港に来たような気がして寂しい。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.29
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前にもポーランドって親日かよ?って疑問を呈しつつ、まあ、アジア人向こうからみたら皆、同じって思うのだが、かつてのポーランド、ロシアとプロシアとオーストリアに分断されていたが、当然、そんなことをされると、独立運動起こす地下組織が出来る。そこと、結構、日本は食い込んでいたようだ。日本の暗号の歴史というか、海外との連携にはポーランドとの結びつきが強かった。ということはある。ところで、ウクライナもそうなんだけど、ポーランドもびっくらどっこい、結構美人が多かったような気がする。これは、スラブにゲルマンにユダヤにバルト、そして、悲しいことに、ロシア系やスエーデン系が攻めてきたので、更に交じってしまった。という事情があるのだろう。人種は混じるほど、キレイになるのは、世の常か。誰でも知っている東京ディズニーランドと同じ敷地程度の世界一小さな都市国家人口1000人のバチカンである。1000人といえども、世界各地に数億人のカトリックを抱える強大な国家である。 1920年代に独立し、ムッソリーニとテラノ条約を結び、ムッソリーニはバチカンに1000億円支払ったのであるが、この資金が、バチカンの資本金になり、世界各国に投資を行ったり、損しそうになると、ムッソリーニに高値で買い取らせたりした。この頃は、GM、シェル、ガルフ石油、IBMなどの大株主になった。 テラノ条約でイタリアより無税でいたのだが、イタリアがだんだんそれにむかついてきて、1960年代、課税すると通告してきたのを機会に、イタリア金融市場から撤退したのである。資金の行った先のひとつに、ニューヨークのマフィアであるガンビーノ家の麻薬資金洗浄であった。そして、中南米の軍事政権や反響組織のための武器調達死の商人にもなっていったのである。バチカンは国家であるので、他国の捜査機関が指一本触れられない状態であった。そんな時に、教皇になったのがヨハネパウロ1世であるが、彼の短すぎる教皇期間は、このあたりの事実を知り、何か行動を起こそうとしたからかもしれない。一方、ポーランド出身のヨハネパウロ2世は、このダーティマネーが、ポーランドのワレサの「連帯」の資金にも使われていることを知り、黙認したと思われるのである。ああ、やっと、ポーランドに辿り着いた。ところで、今、とっても怪しいのがインフルエンザワクチンであるが、製薬会社の陰謀か?なんで危険レベルがあんなにあがるのだWHOも仲間か?という中、国家的に、ワクチン輸入を拒否している国がポーランド。大統領官邸を通り過ぎ、ワルシャワ大学を通り過ぎ、スタンツ宮殿を通り過ぎ、コペルニクス像を通り過ぎ、ショパン音楽アカデミーに至り、寒いので、H&Mに下着を買いにいくこととする。更に歩いていくと何の標識か分からず、共産主義的建築物名前も文化科学宮殿。もう50年もポーランドで一番高い建物だが、無意味に床面積がでかそうな建物。その光景を眺めながら、意味なく、7回も雷に打たれて、瀕死になりながらも死ななかったのに、失恋して自殺したこと男がいることを思い出した。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.28
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2008年4月25日 AFP タイ南部で、大麻を詰めたコ●ドーム60個を飲み込んで密輸しようとしたオーストラリア人男性が、コンドー●が破裂したため死亡した。地元警察が25日、明らかにした。 この男性は今月初め、パンガン島(Ko Phangan)で満月の夜に行われる「フルムーンパーティー」で大麻を売りさばこうと密輸を試みた。ところが飲み込んだコン●ームのいくつかが破裂。腹痛を訴え、11日に友人によって病院に運び込まれたが、内部感染などで19日に死亡した。治療した医師は男性の腸から大麻の詰まったコンド●ムを発見したが、いくつかは数日前に破裂していたようだったと話した。地元警察によると、医師の見立てでは男性が助かる見込みは五分五分だったという。男性が死亡したことから、警察は麻薬密輸事件としての立件を見送った・・・私はプライベートなスマッグラー(運び屋)ではないが、ほんの10年前まで、帰国前夜は徹底的に、荷物を調べなおすという癖があったのだが、それはいつ何時、誰かに変なものを忍び込ませられるか分からないからであった。 学生時代、バンコクで機内に乗り込んだ私は、まだ多少グルグル回っていたのだが、あとは、一眠りして、日本に戻るという算段であった。しかし、定刻を過ぎても飛行機は動き出す気配もなかった。 やがて制服組警官が機内に入ってきて物騒な雰囲気になったのだが、彼らは意外にも、私の前に立ち、飛行機を降りろと命令するのだった。 私は、ドンムアンの滑走路に立った。初めてバンコクに来た時は、当時の国内線が、かつての国際線であったのだが、そのとき以来の滑走路であった、いや、滑走路なんかに立つ筈がない、滑走路以外の空港建物外の敷地だね、何というんだろう。とにかく、タラップを降りたところだ。 機内に積み込む荷物が、飛行機の下に一つだけ置かれていたが、それがまさしく、私の荷物であり、私は、外で、徹底的に荷物を全部広げさせられて荷物検査されたのであった。私の風貌は怪しかったかもしれないが、この場合は、どこかで誰かが密告したのだが、その密告相手が、誰かは分からないし、私も覚えがないし、相手が間違ええて私を指摘してきたのかも知れない。それでも、私は、誰かにはめられたのではないかと、ここに、誰かが忍ばせたマヤクが出てきたら終わりだ、いや、それなら、日本に帰ってもマヤクケンによって捕まってしまうではないか、どうするんだ、ここで賄賂は効きそうになさそうだし、ああ、と随分心臓が口から出てきたのだが、幸いにも、何にも出てくることはなかった。 どうやら何かの勘違いだったようだ。警察も首をひねっている。 機内に戻る通路で、乗客の方々は私が飛行機を遅らせた犯罪者かのような暖かい敵意ある視線と奇異なものを見る目線を送ってくれた。俺は悪くないんだ!警察の野郎が何か勘違いしたんだ!と叫びたい一心にて、犯罪者のように顔に風呂敷でもかけてくれってな気分になったのであった。 それからの帰国前日の私は、自分を第三者の目線で見るような臆病なゴルゴ13になったのであった。 それにしても、ゴルゴ13まだ継続中で、米ソ時代から歴史は続くがゴルゴ13だけは年はとらないが、違和感がない。ゴルゴ13はバンコク日本人教会で全巻を3日通って読破したのだが、今はもう、さすがにゴルゴの出生の秘密シリーズはなくなった。戦後からと多く離れたのだ。 いろいろしらべたところ、おおよそ1個10グラムのブツを143個ゴムを飲み込んだのが最高か?破裂したらオダブツ間違いなしということで。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.27
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夜中にスーパーマーケット、キムズクラブに行く。24時間営業のスーパーで、とにかく、夜の1時過ぎ、意味なく、日本の物価から考えれば安いので、明日以降の食材を購入していくといった按配であり、買い物袋がないので、(袋代取られるので)、ダンボールに入れてホテルに戻るのである。その一部を公開しているが、手提げ一つで韓国に来ているので、チェックインしないため、汁物はダメである。買い物を終えて、安堵した私は、マッコリを飲むって按配。マッコリの思い出は、韓国学生と、散々飲み明かし、最後は、トラックの荷台に乗って、マッコリを飲むといった光景であった。そうこうするうちに、朝となった。ラッキーだったのは、年末ソウルはマイナス15度であり、今日はマイナス5度程度であったということで、帰国後翌日また寒波で北京やソウルの空のダイヤが大幅に乱れたことであった。寒さと寒さの中日であったよだ。(まあ、別の場所でスタックしたけど)朝、散歩すると、ストイックになってしまうときもある。当時、酒を酌み交わしながら政治を語った。伸び盛りの頃、日本も、反体制が流行って、学生運動が流行った。成長が停滞すると、敏感に若者を含めて保守化する。静かだ、どんどん歩く。初めてソウルに来た時、どこに行っていいか目的地もなく、バスを降り、テントを含む荷物が20キロ近くとなり、重く、夏、汗をかきながら、ソウル駅前に着いた。韓国新幹線は2004年創業でそれまであったソウル駅は、旧ソウル駅となった。(と思う)ビルばかりで、なんとなく、ツマラナ感漂っていたときに、ソウル駅前に屋台があった。そこで、焼酎を飲んでいると、隣に座っていた軍人2人と合流した。軍人は、チョッパリかと言った。堂々蔑称言う奴だな、と私は笑い、酒盛りを開始したのであった。歩いていくと、ソウルを流れる漢江に出た。初めてソウルに出かける前の日、十三の先輩の家で徹夜で飲んだ。朝型、淀川に出かけた。今から、このまま、韓国経由東南アジアに3ヶ月ほど出かけるのだな、と思った。20年たってすっかり気合もなくなり、仕事の合間にチョイ息抜きでいこか、そんなのになってしまった。 さて、日本に帰るか。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.26
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ソウルでは、夜な夜な、マッコリを飲みながら、ダラダラと韓国テレビ見てました、昼寝したから眠くありません、AM3時とな。もはや、この日記も、グルメ日記全開である形相。ケリーの満腹日記にしようか。飛行機で、メクチュチュセヨ、というと、韓国のビールですか、と言われた。日本人とばれてしまったのではないか、まあ、いいか、昔はOBビールしかなかったのにな~、昔は大韓航空しかなかったのになあ、とな。ルフトハンザ瓶ビール。ポーリッシュエアビール。そのアシアナ航空でチェックインすると、何だかキャンペーンでコーヒーくれた。どうやら、荷物チェックインのない人だけに配っているようである。大きな荷物は、関空のコインロッカーに預けてきたからねえ。ところで水は20円とな。今年は、リスボアでワインを飲みながら行く年来る都市ですが、あなたは寿司とな?だって、ワイン1本、スーパーで1ユーロとか2ユーロだぜ、購入して、ホテルのバーに持ち込み、これ、開けてよ、とバーテンダーに頼む、バーテンダー、オープナーをまわしながら、なんだ、この安いワインという顔をするとな?リスボンは港町、リスボアといえば、ついつい、跡マカオのホテル思い出していけねえいけねえ。ここの1枚目、3枚目、とな店の前で、海老をじっとみていると、時間が過ぎる、とな。個人的にシュリンプの飾りつけ、何となく気持ち悪いと思ってしまうんだよね、とな。食われるために生まれてきた、とな。リスボンの下町の奥のほうをブラブラ歩いていると、急に、日本語なんか見つけると、苦笑する、とな。ワルシャワでは早朝散歩をしたが、スーパーが開いていたので、ついつい朝食としてパンを購入したら、20円でした、とな。とな。やたら、であるが、ポートワインの試飲ができて、20度あるので、散歩しているうちに、ホロ酔いになるとな。一瞬本気で自分の生まれた年のポートワイン買いそうになりました、とな。2万円台。原色の食べ物は食欲を減退させます、とな。でも原色のお菓子は舌の色も変わって魅力的です、とな。アシアナの食事は、韓国料理で結構いけるというのを聞いていたのだが、数回目にして初めてそれに遭遇。まあまあ満足したとな。日本人乗務員も一人いたけど、仲間はずれのようであまり楽しそうじゃなかった、とな。夜な夜なマッコリ。キエフでは、すみません、1日ノンベエしてました。写真もありませんとな。機内食は、ベジタリアン。Mediterranean artichoke and eggplant rarout, manchego cheese,toast sourdough,lemon and thymeアーティーチョーク(朝鮮あざみ)の料理。ラグーとは、フランスの煮込みらしいね。こういう料理大好きだとな。ウマイけど量が多いとな。最後に、トゥックマンドゥ食べました、とな。キーフ空港内スタックドリンク。ミードボルシチ。ビビンバ。サンナクチ。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.25
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これはおもろい買うものなかったからカエロ。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.24
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去年行ったところの紹介ではあるが、すっかりアップを忘れていたので、この機会に(どの機会に)か分からないのだが、記録しておくのである。兵庫県加古川市にある天台宗の寺、国宝である。一応、西の法隆寺といわれている名刹とか何とか。 何故、この寺を覚えていたのかというと、小学校3年のときの春の遠足でやってきたからである。そのことを覚えている同級生は、多分、2,3人ではないだろうか、それほど、何だか地味な旅行というか、歴史好き先生の強引な引率統率によって決定されたのか、今となっては30年も前のことは分からない。 行って見たら、何一つ記憶もないのであった。多分、裏の公園で弁当を食べたのかも知れない。このときと同時ではなかったと思うのだが、春の遠足は、この近くの(といっても姫路の)的形というところの潮干狩りが定番であったように思うが、定番でなく、1回しか行っていないかも知れない。考えてみれば、潮干狩りには、今まで5,6回行ったことがあるが、全てが10歳未満のときである。最近したハンター業としてはミカン狩りぐらいなもので、その他、食べ物狩りといえば、イチゴ狩りも幼稚園の時に1回、リンゴ狩り0回、スイカ狩り0回、ジャガイモ狩り1回、セリ狩り数回、畦道沿いつくし狩り20回、ぶどう狩り0回、山イチゴ狩り何回でも、キノコ狩り何回でもってな感じである。山いちごや土筆なんかは、未だに、買うものじゃないでしょーって感覚である。あとは、パパイヤ狩りもあるが、これは、もしかしたらパクってしまっていたのかも知れない。 しかし、遠足があったおかげで、見聞を広め、集団行動と公共性が身につけることができたのであった。しかし、覚えとけよ、学校や最寄り駅で解散しようとも、家に帰るまでが遠足だぞ!その崇高な思想はイマダ私の中に受け継がれ、いまや家に帰ってもまだ旅行状態である。(別名、居場所なくなった)PS 先週震災15周年にノコノコと出かけましたが、見落としたかもしれませんが、ハイチへの義捐金箱が見当たりませんでした。復興の箱に、結構みんな札を入れているのに、その金全部回して、来年また募集すればいいじゃんと思ったのは、私だけではあるまい。いや、きっとどこかにあったに違いないよね。
2010.01.23
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インチョンでなく、金浦空港に到着した。日本から1日5便だけ、金浦に入っている。大阪からは2008年から入っている。羽田みたいな感じか、こちらのほうが、市内に近くてなんだか嬉しナツカし。最後に来たのが90年代(仁川空港開港は2001年)で、感慨深くも初めて来たのが86年だった。 金浦空港には、今は、ディスカウントスーパーと映画コンプレックスが併設されており、それなりに楽しめるところであるらしいが、ついうっかり、昔、テントを張って寝たごみ置き場を確認することもなく、そのまま地下鉄に乗った。 あの夜、荷物背負って、バスに乗り、午前0時を過ぎて空港に向かう。人は全員降り、うっかり、空港を通り過ぎた後、終点に着いてしまい、バスの運転手に空港は?と聞くと、アチャーと顔を抑えたおっちゃんの姿を覚えている。そして、乗ってけ、と何故か、バスを運転して5分ぐらい走り、空港前まで連れて行ってくれた。最終便だったのか、バスをタクシーにしてくれてありがとう。こういうことで、その国のファンになっちゃうっていう旅行者の単純さよ。 あの世、バスを降りて、空港に入ろうとすると警備員に止められて、準軍事国家だからなあ、と思ったが、もしかすると、そうではなく、単純に24時間空港でなかっただけだたのかも知れない。空港の入り口で、警備員が指差す先には、ハングルのネオンと温泉マークがあったと記憶する。考えてみれば、多少噛み付いたが、実は親切な人たちだったんだなと今は思う。 真っ暗な空港沿いをトボトボ歩き、急遽巨大な暗い広い空間が現れ、中に入り、テントを張ったが、何故、あのとき、そこが何か分からなかったのか不明だが、やたらハエが飛んでいるなあ、と思っていたことは確かで、なかなか寝付けないまま朝を迎え、おっちゃんらにテントをつつかれたのも、あのおっちゃんは、ゴミ捨て場にテント張っていた青年のことを今も覚えているのだろうか。おっちゃんらはゴミ掃除屋さんたちで、敵意も愛嬌もなかった顔を記憶する。向こうも今考えれば、怖かったのかも知れない。テントには、バカみたいに、日本語で私の名前がカタカナで嗚呼堂々とマジックで書かれていた。 そくそくとテントをたたみ、早朝空港に入り、また、空港内のベンチで寝たことを記憶する。バンコク行きの飛行機は11時台の出発だったのだ。 どういうわけか、出発40分前までチェックインさせてくれなかったのも、今考えれば、知らない間に、オープンチケットになっていたのかも知れない。おまけに、バンコクかと思いきや、台北経由であった。 当時の地下鉄は、漢字もなかったので、ハングルか、ローマ字、ローマ字はchan chon hanと、似たようなローマ字が続き、友達の家に行くのに、地下鉄に乗っても、ずっと、路線図を眺めていたと記憶する。そして、その駅で降りて、更に、路線バスに乗ったのだが、今、いったいどうやってどう乗ったのかも記憶にはない。しかし、バス亭を降りると、友達のお父さんが迎えに来てくれたことを記憶する。おじさんは、笑顔で、当時髭を生やしている若者はいない韓国社会で、髭ぼうぼうで現れた私を、アメリカンボーイ、と何故だか言って笑ったことを記憶する。ありがたかった。感謝しつつ、でも、友達の家に連れて行ってもらうと、おじさんは、笑顔で、そして、日本語で、「オマエ、タベル?」と言われ、19歳の私は怯んだことを思い出す。 そして、何故だか、未だに記憶が定かでないのだが、どこをどう間違ったのか、友達が帰ってきた。帰ってきた。私は、アッと言った。彼も、アッと言った。日本で知り合ったはずの、彼が、あれれ、何故だか、知らない人であった。 彼も、戸惑ったが、どこでどう間違ったのか、でも、いいじゃないかと、家族の皆さん、心広い性格だったと記憶する。考えれば、学生時代は、日本でもその日知り合った野郎の家に泊まったり、泊めたりした日々だったなあ、外国人が公園でテント張ってたら、ビールを持って参戦してたなと記憶する。今は、ごみための中で、殻に閉じこもって棲息していたりなんかする。 とにかく、彼の家で、テーブルの真ん中にあるキムチの山盛りをつつきながら、御飯を食べたと記憶する。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.22
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意外と、自称グルメではない。しかし、貧乏性なので、そこに行けば、そこのモノを食べなければ損した気分になるのは、仕方なくも思う。旧市街市場広場まで出ると、これらの町が世界大戦後忠実に復元されたものだとは、いったいどうやって復元させたというのだい?子供たちが時々、クビにドーナツ型パンをぶら下げていて、ブラブラしているのだが、ドーナツの穴にヒモ通して首飾りと相成る。ウ・フキエラという300年の歴史がある高級レストランは、表にあったメニュー表を見てスルーする。バーを兼ねた安い店を選択し、店に入ると、誰もいないので、不安になったが、その後15分以内に、20席ぐらいが、満席になってしまったのは、招き猫系け? 代表的なスープは2つあるそうで、ひとつは、バルシチ、ほとんどボルシチの親戚のようなものである。赤ビートを使うのは同じだが、それに、中国から伝わってきた餃子をぶち込むという算段だ。そういうわけで、白いほうのスープ、ジューレックを頼む。醗酵ライ麦スープで、味噌汁のような家庭料理で、家や店によってもかなり味に差があるようだ。ウメエよ。 プラツキジムニャチャーネ(覚えられねえよ)は、ポテトパンケーキあるいはお好み焼きのようなもので、ポーランド料理は沖縄のように、豚をあますところなく使う料理ばかりで、こちらは、鶏に、キノコ、パプリカなんかで、なんらかの何かだ。ウメエよ。 酒は、ウオッカでは、何と言っても薬草のズブロッカであるが、ここは、ビールと一緒に、ミードという蜂蜜酒を頼んでみる。アルコール度は何やかんやの16度程度、1度飲んだだけでは、分からない味であった。カツレツ。 さすがにお腹がいっぱいとなり、ビゴスという代表料理は注文が通っていなかったので、ちょうど、もういいやという感じと相成ったのであった。ミード、ハツミツ酒、ネクター、しかしミードは高すぎて飲まれるようになったのがビール。 そんな訳で、外に出ると、概ね、陽は落ちて、ワルシャワ蜂起記念碑の前に佇むのであった。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.21
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11時、さすがに本格的に飯食っている人はいないが、私は本格的に食うのである。イワシの丸焼き、だ。サルディーニャス・アッサーダスさすがにフォークとナイフでイワシを食べるのは大変で、文明の利器、割り箸を取り出し(何故か、カバンに入っていた)、食べていると、店員さんが不思議そうな顔をして、チラ見されたのであった。魚やイカやたこを串刺しにしたグリル料理店が並び、それではと気合を入れて入る。魚臭い店内をもろともせず、まずは、ワインを頼む。タラにジャガイモ、だ。タラがこの国のメインである。これは、一口食べて、笑ってしまった。夜店の屋台の懐かしいチープな味。お菓子のようだわ。さて、何の料理か忘れた。それにしても、こりゃ先入観はいけないものだ、どうも、マカオに来た気分だ。満腹になり、そして、再び、散歩は始められるのであった。全然関係ないのだが、3年ぐらい前から急に、インスタントラーメンがあまり美味しくなくなった。それも全部だ。何故だ。月1回ぐらい食べていたのに、3年前から5回ぐらいしか食べていない。夕刻に、偶然にも日本語を発見、ちょうどトイレに行きたかったので、思わず、IN。大変気合の入った説明書によると、ポルトガル語からカステラが来たのは確かなのだが、ポルトガルには、日本のカステラは存在しないとのこと。その元になったお菓子はあるそうで、それを見るも、似ても似つかないバンデローというものであった。何故か、私は、思わず、いや、またもや、20年もののポルトワインを飲む。ウメエー。え、カステラ食べろって?すみません。あなたは寿司?2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.20
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といってみたものの、「たち」ではなかった。田舎のみけさんで、半年振りぐらいにまた見てしまいました。そんでもって、これもソレ系です。ハルじさんがどうしても探せないっていうからさあ、ここからどうぞ。見ちゃやーよ。ごめん、今年に入って、3,4回ぐらいもう飲みに行っちゃったよ。そんでもって、都合のいいことに、エゲレスから妹夫婦があって、誘われるのである。部屋を片付ける暇もなく、出かけるのであった。ウクライナの国旗に思わず入りそうになってしまうのであった。坂の多い神戸ではあまりお目にかからないサスベイ式アオタさん式自転車。かなりカスタマイズされておる。大阪からの引越しの方であろう。そいうえば、朝、家を出ると、ときどき、自転車で走り抜けていく若い女性がいるのだが、その自転車にはサスベイと前後に子供を乗せられる補助席が取り付けられてあり、大変、浮いている姿を見かける。3軒目のバーについては、あまり話した内容の記憶がない。そんな訳で王室と庶民、政治、野蛮な歴史、植民地統治、ビッグバン、アンダーグラウンド、高貴な義務、など話したはずなのだが、なんだか、良く覚えていないのであった。そんな訳で、3週間ほど日本滞在した義弟は帰国していったのである。妹は、何故だか、まだ日本にしつこく居続けるつもりのようだ。
2010.01.19
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いよいよ、ウクライナでは、大統領選一騎打ちとなりましたね。あ、興味ない? 着いた日に15時頃から世界遺産ペチェルスカ大聖堂のミイラを見に行くつもりであったが、 ホテルに辿り着いたのが、税関イミグレのせいで既に18時となっており、(それは、最終日の朝にでかけるとして*行けなかったけど)ひとまず、雪の中を傘を持って様子見に行くことにした。 ウクライナは、確かに、歩いていると、美人が多い。そこらかしこに、ミラがいるというのは本当である。もう少し詳しく言うと、冷たい美人なのである。それは、ロシア語もウクライナ語も通じないので、そう感じるだけかもしれないが、あるいは、寒さで顔がこわばっているだけなのかも知れない。あるいは、長年のソ連の圧政のせいで、警戒心のとれない人々になったのかも知れない。ネットで情報を集めると、特に不親切ではないが、まったくフレンドリーではないといった意見が多いようだが、気候と圧政を考えると分からないでもない。そして美人が多いのだが、反対に、ブサイクが本当に少ないのである。まんべんなくの分布帯が極端に美人のほうへ振れているのである。サイボーグを生産しているのか、ここは?という感じである。そして、残念ながら、スラブなのかロシアなのか、おばさんになると、やがて太り始めるという状況も見られるのであった。ちょうど、歩き始めて、暫くすると、時間帯かオフィスから人々が出てくるのに遭遇するのだが、またしても美女そして美男子軍団なのである。いったいどうなっているんだ。 ネット検索してみると、やはり、売春大国でもあるようだ。91年ソ連から独立、たいした産業も教育もなく、といった中でであろうか。特に、日本も同様、欧米も近年、ビザが不要になってから、どっと押し寄せているのかも知れない。日本人はさすがにどっと押し寄せている様子はないが。とにかく、ハルジ氏以外は、「検索してはならない ウクライナ21」である。行く前に、この凄惨な殺人ビデオを見てしまった私は、結構、意味なく、ウクリーナ、こわえ~であったことを独白しておく。 キーフは、中心部が丘と谷で構成されており、足を滑らせながら丘を登って行く。車道では、車が立ち往生している。プラハは違ったがブダペストもワルシャワもここも、旧ソ連型ドデカイ通りに単一建物という印象である。雪は、さらさら型であり、幸いにも風がなく、2,3分もすれば、傘に雪が積もってくるという状態であった。ようやく、独立広場、というのが、90分ほど歩いて、街の中心ということで、辿り着いたのだが誰もいないという現実。地下道を通ると、女性二人が暗がりの中、ウオッカの立ち飲みをしていたのを見る以外に通行人がパラパラという程度であった。聖ミハイル黄金ドーム修道院。11世紀に建てられたものが、ソ連時代にびっこわされて、今、再建されてたったの10年程度の新しいものだそうですが、閉まってますし、雪で見えません。ミハイル広場。立ち止まると、雪に埋まるので、チラ見するだけです。ウクライナ心の宝博物館。イコンがいっぱいの博物館らしいですが、閉まってますし、雪で見えません。アンドレイ教会。かなりでかく見えたが、目の錯覚だったのか。エルミタージュの設計者が設計したという教会ですが、閉まってますし、雪で見えません。ソフィア大聖堂前広場。皆、広場横切る人は、人が通った轍を通り、滑らないように一直線になっています。とにかく、立ち止まると、雪に埋まるので、チラ見するだけです。ソフィア大聖堂。キエフの中心にして最古のようですが、奥まっているので見えません。イスタンブール、ビザンチンのハギアソフィアから名づけられたという教会ですが、閉まってますし、雪で見えません。メインストリート、ウラジミール通りをやたら歩いていきます。心なしか早歩きになります。人通りは、21時前というのに、まばらとなってました。何度か日本からヨーロッパ方面に飛んでいくというのに、前行ったところから数百キロしか離れていないというのも変な感じだ。もはや、ジーンズの裾野も濡れ、内部のヒートテックも冷たくなり始めた。それにしても、社会主義から離脱はじめてこの停滞。それでも、ロシアと同様、貧富の差が激しくなっている現状、そして、日本の益々、貧富の差が激しくなることを考えると、もしかすると、大きなセイフティネットが作られ、徐々にマルクスの言うとおり、資本主義を終え、共産主義的なものに変わっていくのかも知れないなあと思ってしまうのであった。益々、そのためには、国家による個人管理が出てくるのだろうなあ、とも思うのであった。買い物街ノフレシチャーチク通りは地下街があり、暖房かけまくりで、多くのウクライナ人を見た。雪も降ってないので、ゆっくり歩きました。オペラバレエ劇場。信号待ちで遂に止まってしまいました。とにかく、分かったことは、温暖化は、嘘であるということであった。アハハ、はあ。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.18
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自力、家族、知り合い、通りがかりの人に助けられた人、98パーセント。報道ヘリコプター、鬱陶しかったな。報道陣、消防や警察よりようけ来たんちゃうけ。目をそむけたくなるような死体や瀕死の負傷者光景があったのに、そこまでは報道せんかった。山口組が炊き出しをして、一般市民がやくざに頭下げてたな。緊急時に備えて食糧を備蓄していたんだねえ。宗教団体だって、支援してくれた。あの2ヵ月後事件を起こすオウムでさえ。村山首相たちが、ボオーっとテレビみてたなあ。情報の中心がテレビやラジオなんだねえ。なにしろ初めての経験でして・・・知事にも情報があがらなかった(と言い訳でしているが)ため、やたらノンビリ初期指示が大幅に遅れた。3キロ歩いてでも来いよ、車でわざわざ来て登庁大遅刻。自衛隊派遣要請も、うやむやにむやみに遅れた。援助物資はお断り、報道されているところは、物資がたまりまくり、報道されてないところは、物資が全く届かない。建物や電柱が傾いていたので、平衡感覚がおかしくなった。英国救助チームの要請を断り続け、やってきたときにはもう救助活動ほとんど終わってました、と。震災14年震災13年震災12年
2010.01.17
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一応、その国に行く時は、一人当たりの収入を調べていく。ウクライナは月収6万円ぐらいである。おおよそ、厳しい生活を考慮しても日本の半分から4分の1ぐらいで生活しているはずである。メシは、夕食を豪華にして日本で1000円から2000円程度を考えると、500円もあれば満腹になると想像された。 ホテルのウクライナ料理食べ放題バイキングが1200円であった。そこで手を打ってもよかったのだが、吹雪の中、私は夜21時に外に出て行ったのである。体力的に飛行機代はケチらなくても、メシ代はケチるというより庶民の味を目指すグルメイストイモイなのである。なんちゃってカクカクカク、アー寒っ、と。 グルメイストイモイは雪の中を目指し、2,3安い店をピックアップしていたのだが、ショートカットしてみると、全然わけのわからない道に出てしまい、簡素に言えば、迷ってしまい、ついつい、吹雪に耐えられず、そこにある危機ではなく、そこにある店に入ってしまったのであった。店は、多分、想像するところに、ちょっと小金持ち系のウクリーナがちょっとお洒落してメシ食いに行こうといったシガーバーを併設したレストランであった。つまり、1200円をオーバーする食事をしてしまったということであった。予算は300円だったのに・・・。 勿論、ウクライナに来たからには、ボルシチの発祥の地、ボルシチからはじめるのである。ボルシチはトムヤンクン、ブイヤベース、ふかひれスープと並んで3大スープである、あれ?4つだ。テーブルビート(赤カブ)を入れるわけだが(これがスープが赤くなる原因)、サワークリーム、ガーリックオイルも必然だが、まあ、これは入れなくてもうまい。パンプーシキというパンですくって食うのもよきにはからえ。あとは、キエフカツレツ、これを何というか分からず、しまった何というのか調べてくるのわすれた、といい、とにかく、キエフ料理を頼んだのであった。カツレツだと思ってたのでみたが、ちょっと違うのであった。これもなんていうか、控えてくるの忘れましたわハハハ。ビールのあとは、有無をいわさずウオッカ、ウクライナのウオッカはズブロッカ!もっと酔わないと、寒いよ、と思い、ホテルに帰る途中で、酒屋を探すが、ほとんどの店が閉まっている22時、雪の中、何とか半開きのコンビニに入り、水とビールを購入。店員に珍しい東洋人ということで話しかけられたが、お互い意思疎通ができないのに、10分程度話をして終了。それにしても、冷蔵庫に入ったビール、あれれ、冷蔵庫、電源切れてるやん、まあ、それでも、店内は0度ぐらいか・・・さ、帰ってノモ飲も。(この時点で、次の日も1日中飲むとは思わなかったわ)2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.16
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オレのことではない、公共的なことである。効果がない。意味がない標語。読んで、分かったと言って実行する人がいない。作った本人の上司や団体も忘れている。非常に見苦しいので、見るのが不快に思う人がいる。税金の無駄遣い。ばさっとやめても誰も文句は言わない。無駄な税金が安くなったり、運賃10円でも下げてくれよ、と思う。何で、こんなことするのだろうか、それに、特に誰も不快こそ思え文句言わないというか、気がついていない。まあ交通安全週間と言って警察がせっせと罰金反則金のノルマを達成するために存在すると思っている。 実は、臆病で従順だけが取り得の一匹羊を自称する私も警察に切れたことが1度ある。ある地方都市で長さ100メートルぐらいの横道があり、幅は12メートルぐらいあり、3車線ぐらいできそうな道であったが、何故かその区間だけ1方通行だったのだ。慣れないところだし、道幅も広いので、すっと入ったら警察が途中ぬっと出てきて、「ハイ、標識見えなかった?一方通行ね。」と言った。私は、心の中が煮えくり返りながらも、いつものクールビューティかつ沈着冷静に、「こんな広い道が一方通行なのは何故だか分かりませんが、何故、あなたは、これが一方通行ならば、一方通行の始まる50メートル手前でここは、一方通行だからダメだよ、といってくれないのですか?事故おこさないためじゃないのですか。これならまるで飛んではいる虫を待っているだけじゃないですか?私は、曲がってこの道に入るときに、50メートル先であなたがいるのが見えましたよ、なぜ、遠くからでもこの道ダメとゼスチャーもしてくれずに、目の前に来て、違反です、というのですか?」と矢継ぎ早に質問した。 制服警官は、なにをいうかとあれこれいったが、私は、「結局、ノルマでしょ、初めからそういってよ。庶民を守るつもりなんかこれっぽっちないように見えますよ」というと、「まあ、ノルマではないけど、安全週間で・・・」「ああ、安全週間って、警察のノルマ達成強化週間なわけね、はじめからそういってくれれば、すんなり諦めるのに、言い訳が見苦しいですよ。不愉快です」と言って、渋々、切符にサインした20年弱前であった。 そうだ、車内をからっぽにしようと思いますか?そんなこと自己責任ちゃいまっか?このステッカーがあってよかったですか?心機一転しましたか?地下鉄代1円安くなるほうが嬉しくないですか? 自己責任という言葉はないのですか? 言われなくても、困れば警察に行きませんか?張り紙があったために行き易くなりますか?犯人は誰で、誰が苦情言っているか分かっているのではないですか? 放火魔、コレ読んで、放火やめますか?住民コレ読んで放火魔止めますか?読まなくても止めます。皆さん協力して川へのポイ捨てやめますか?ポイ捨てする人、たぶん、隠れてポイ捨てします。言われて、初めてバッグ気をつけますか?このポスターがあって役立ちましたか?駆け込み乗車しようとしている急いでいる人、これ読みますか?
2010.01.15
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達人訪ロウさんが神秘体験を延べるのを拒否しているが、語ってしまうと神秘体験ではなくなってしまうからねえ。でもあってもおかしくはないと思う。 霊的な体験はない(と思うのだが)のだが、説明できない人生の7不思議は4つ目まで来ている。UFOも1度見ているが、未確認非行物体という意味で、飛行機の飛び方ではないという意味であり、隕石や流星のように速くないというだけだ。人生4不思議も、無理に説明できなくもない。1. 小学校のとき、従兄弟の住む姫路の広場の砂場に、時間がたてば、砂場の下からどんどん100円玉がでてくる怪。1回掘れば2,3枚の100円玉が出てきて、また砂を埋めて数十分たって掘り返すと100円がまた出てくるという不思議で100円玉、100枚以上掘った。←遠くで誰か大人が見ていて、私を驚かすために、私が目を離した隙に穴掘って100円入れてまた埋めた。共犯者がいて、一緒に掘った子供が、私の目を離した隙を見て、100円を入れて、砂でまぶした。2. 中学校のとき、台風の日に誰もいない海で泳いだが、大波で水中眼鏡が吹き飛ばされ、私も波に救われてアップアップしたときに、ふと、手に当たったものをつかむと、誰のか分からない(というか誰も泳いでいない)水中眼鏡だったこと。←これは、すごい偶然の確率論の問題で、海中を漂っていた水中眼鏡を、自分が波で吹き飛ばされた瞬間に偶然に広い海の中で掴んだ。3. 東京で働いているときに、大阪の経理部に交通費などの清算の書類を送ると、経理から電話がかかってきて、働いている近くにあった精神病院の患者のカルテが同封されていたこと。←これは説明が難しいが、精神病院の封筒が開いていて、私の封筒も開いていて、私が投函した瞬間にポストの中で、病院の封筒に当たり、裏返り、その中のカルテが私の封筒に入った。(確かに、経理の人は、届いた時に封筒が開いていたとは言わなかった)。または、私の封筒がちゃんと投函されておらずポストの窓口でひっかかり、次に病院に出す人かなんらかおかしい人がそれを発見して、カルテをいれてみた。4. エジプトカイロで時間が30分戻った。←私が時計を数回見たが、数回とも見間違え、そして、カウンター窓口の人も時間を間違えていた。朝起きたりしたのも、30分程度早かったが気がつかなかった。 昔は、輪廻転生ってあるのかなあ、と漠然と思っていたが、今は、過去の記憶が消えてしまうなら、生まれ変わっても、前世覚えてないのだから、意味ないと思うようになった。前世でこんなことしたから今世でこんな目に遭っているんですといわれても、納得できない。人類は野蛮なままで、生まれ変わっても、ちっとも精神的にも進化していない。相変わらずの蛮行のままである。人口が過去より増えているから、虫とか、前世で人間じゃなかった生き物が人間になっているからか?しかし、生きるため以外に殺すのは、基本、人間だけだ。まあ、来世のために現世をちゃんと生きましょうというスローガンには有効か。占いとか、スピチュアルとか、パワースポットとかマスコミやテレビが煽るようになって益々、そういうのが嫌になってきた。でも不確定な世の中、信じるもののなくなった世の中、そういうのにすがるのっも仕方ないことなんだろうか。でも、FBI超能力捜査官なんか、いないし、そんな部署なんかないのに、何故、盲目的に信じちゃうんだ。何故、前世にこんなことしたからと諭されて、信じてしまうんだ。 来世宗教もヒンズーなど大手からあるが、現状が苦しいから生まれたとしか思えない。死んだら、それで、まったく終わり、と思うのは寂しいからなのか。自殺防止に自殺の場合は必ず地獄にいくということになっている考えは多少自殺防止には有効かな。でも、恐怖体験とか不思議体験は別にして、神秘体験は、できれば、すごい修行の苦労の末にして欲しいなあ・・・死んだらどうなるのですか?仏陀は答えた。分かりません。 全然関係ないけど、小沢問題は、検察が変わってきた問題であると思う。過去、検察は、これ、昔は、はじめのこんなちっぽけな金では動かなかった。それが、多分、民主党が検察の予算か弱みを握ったり、つつこうとしたので、検察が暴走し始めたのではないか?小沢サイドも過去の前例から、この程度なら問題ない金の動きだったと踏んでいたのだろう。この程度の金で問題になるのなら、国会議員の多くが逮捕クビになるのではないか。マスコミがつついているところは、相変わらずピントずれていると思うのですが・・・これも因果か・・・。
2010.01.14
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ソウルに到着したら、とにかく目指すは、サンナクチ(サンナッチ)である。20年近く前に食べたきり、不意に昨年あたりから思い出していたのである。今回は、これを食う、てな感じで、フランクフルト関空経由でソウルにやってきましたの巻である。あんた本当に食べるのか、とオモニは言うが、オレは食べる。遂に、すみません、ユーチューブにアップしてしまいました。箸でつまんでも、まだまだ逃げようとします。タレの油に浸すと、こそばがって更に動きます。舌や口の中で吸盤が吸い付いたりなんかしちゃって、一緒に頼んだビビンパ風ヤキメシで剥がします。この画像は関係有りませんが、チャミソル、ガンガン飲んで、いい感じに単なるヨッパライ親父と化し、ホテルにチェックインに行きました。ホテルで寝ること、5時間時差ぼけと、腹が減ったことを多少確認しながら、再び、グルメの旅に出かけるのであった。蟹ではない。地下鉄で、ホテルのある高速ターミナル駅から2駅を北にズンズン震えながら歩いていくのである。野菜を食べるのである、元祖サンパッチブである。サンパは包み御飯である。24時間営業で、並ばないといけないので、23時頃行ったのは正解であり、またもや、オモニに食べ方を伝授されてしまうのである。こう巻いて食べるのよ、と。そんな訳で、有機野菜30種類の葉っぱでグルグル巻きまくり、食べまくりの600円である。勿論、ビール、マッコリ代は別ですが。ズバリ、今年、1番のおススメのお店である(1月2日現在)。野菜、名前、分かりませんが、あ、ボルシチの赤ビートまであるじゃん、の世界でした。サンチュ・カラシナ・タンポポ・コンブ・白菜・ネギ・大根の葉・キャベツ・ビーツ・セロリ・チコリ・ケール・唐辛子・ニンジン・春菊・ゴマの葉、おどりゃー!豚肉もカンナでスライスしているらしいので、ほとんど、野菜ガンガン食ってるぜってな感じの幸せというか、安いんじゃないか?っていう御得感に満たされ。ここなら毎日行きたいぞ、と。夜中1時過ぎに店を出て、あれ、地下鉄もうないじゃん、の世界でした。朝はカルグクス食べて、空港へ。すまん、キムチお代わりした。帰って、ロッテのキシリトールお土産に持って帰ってきたら、ヘッテと書かれてました。と。やられたー、ンガー!2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.13
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新聞の価格、最後の写真を見ると、値段は変わっていません。結局、何というか、去年と同じ日に、同じ場所から同じ便で日本に戻る。席は違った。朝、4時起床、リスボン、空港に向かい、6時55分発、何だか、ポルトガルだけ西ヨーロッパで時差があるという不思議。11時前フランクフルト着、14時10分フランクフルト発。この時間帯、東京、名古屋、関西と立て続けに3便飛ぶので、フランクのこのエリアは日本人だらけになるのだが、今回、ヨーロッパに来てから初めて日本人みました、と。というか、フランクで、ネクタイとか会社用カバンとか、何かと会社用品を購入したら、税金還付受けられることが判明(初めての試み)し、急いで、還付列に並ぶと、税関のはんこがないといわれ、2階のオフィスまで貰いに行くが、前の人が、やたら問題をおこしており、いろいろ調べられており(人ごとではないなとは思いながらも)、飛行機の時間が近づきつつあるのに、はやくしてくれよお、と並ぶこと30分、1000円ほど還ってくるのに30分並び、ようやく30秒ではんこを貰い、還付窓口に戻ると、あなたまたいつフランクに戻ってくるのよ?と窓口の人に質問されて、意味が分からなかった。どうやらパスポルテもみて、何回も来ているので、次回来た時の受け取りでどうだと提案したかったのではないかと後で気がついた。そんな訳で、またもや飛行機に乗り込んだのは、離陸10分前であり、もう誰も乗り込もうとしている人はおらず、リスボンを出たときは通しでチェックインしたのだが、席が確定していなかったので、カウンターの上に、ポツーンと私のツケットが置かれていたのであった。ところで、日本2時間というタイトルですが、日本に帰ってから、2時間後に韓国にメシ食いに行ったのですよ、と。見よ、あれが、モスクワの光だ。モスクワは涙を信じない。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.12
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ビデを見たら南欧を思い出す。夜中にリスボンに到着し、明日は、10時には起きて散歩をするぞ、という意気込みで、いつも使っているアニエスベーの目覚まし時計を探すと、ない。10年以上我が家で毎日、鬱陶しい日常を始めさせるために私を起こし続けた愛着ある時計であった。ウクライナのホテルに忘れてきたのだ。今まで気にしなかったが、失って初めて分かるその愛着であった。しかし、リスボンの目的はただ一つ、暖まりに来ただけだ。本当はチェニジアに行く予定だったのだが、ヨーロッパ人共、暖かいところに行きたいらしい。飛行機は満席だったため、急遽ポルトガルにしたという経緯もあり、私にはガイドブックがなく、空港で地図を手に入れたのであった。中心部だけは把握していたのだが。天気は目まぐるしく、5分単位で雨が降ったり、止んだり、太陽が出たりで、軽い雨宿りをしつつ移動するという歩き方になったのだが、そうとは知らず、9時半頃、何となく目が覚め、5分ほど少し歩くと、雨が降り、一旦ホテルに戻ろうとすると、ホテルに戻るまでに止んだ。虹が出た。虹は子供の頃から7色であったが、実際に化学では7色だが、これも場所によって、5色、3色とかある。文化の違いか。ウクライナのような寒い国というか、旧共産圏は自殺者が多い。社会不安が大きいのだろう。日本もいわゆるセイフティネットがないので、経済苦自殺が多いと思われるが、それはそうとして、日本では、人と自分は違うのではないだろうか、人と違って変ではないだろうかという不安で病気になる人が多いが、ヨーロッパでは違う。何と、自分は他人と同じではないだろうか、と同じように振舞ったり、同じように考えているのではないかと不安になって病気になる人が多い。これも文化の違いか。とにかく、朝、地下鉄に乗って。ヨーロッパの町並みは、建物の高さも均一で、色も統一、ファサードも統一、住人は花を飾ったりしている。住所は通りで決まり、京都以外の日本のように、丁目や番地ではないことから分かるように、見た目を大事にする。日本は、オレの家はまあ置いといて、家の中は靴も脱ぎ、これでもかとキレイであり、公共はどうでもよく、というか、その雑多さ、汚さに詩を感じているようだ。キレイな通り、感動するかと言うと、まあそうだねえという感じでではある。もう初めてのヨーロッパ的感動はないのである。あ、初めてのとき感動したかなあ。まあ、いいや、歩き出そう。実は、第一印象として、スペインの仲間だろ、と思っていたが、スペイン人よりデカイ。スペイン人はみんなちびっ子なのに、普通の西洋人じゃん、って感じであった。既に、辛気臭い国になってはいものの、世界の大帝国時代を何百年もゆっくり貯金使ってホソボソ生きてますって感じがいい感じであった。さて飯だ。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.11
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Zywiecポーランドビールを早速機内で飲む。早速、読み方分かりまへん。私もたいがい落ち着きがないのだが、隣のギンザザ系ポーランド人はまったく落ち着きがなく、ビールのお代わりを頼んで、到着後降りる時には、客室乗務員にやたらにこやかに言い寄っていた。 ポーランドに行ってみようと思ったのは、アウシュビッツに行くというのと、まだ行ってないから、という理由以外には、まあまあ親日的というのもあった。と、無理や理由を追加したのだが、トルコと同様、日露戦争に日本が勝ってくれたからということらしいが、その辺は本当かどうか知らない。ユダヤジンが多く、ユダヤ系ポーランド人を日本の外交官杉原さん(いわゆる日本のシンドラー)がエストニアで日本の意向を無視して、日本のトランジットビザをユダヤジンに発行したからとも、噂はある。 ただ、予想道理、行ってみれば、東洋人、同じです、の法則で、親日かどうか聞いたら、まあ、そうだよ、っていう返事が返ってくる程度ではないだろうか。国民全体で親日かどうか気にしても仕方ないのではある、が、阪神淡路大震災では、海外から1番に救助に来てくれたのは、ポーランドで、そのことを忘れちゃいけない。あのとき、政治家は、自衛隊は、マスコミは、援助は、どうしたか、我々は、忘れないぞ、と。 韓国も中国も反日といいながら、個人レベルでは、いやな目にあったことは、ほとんどないし、ヨーロッパの中ではオランダがインドネシアを取られて結構反日的であるだろうが、個人的にはそうでもないし、実際問題、国全体として親日反日は意味ないのだよね。だいたいどこの国も、自国もアイラブ、バットアイヘイトでしょう。たまたま、去年だったか、アニメなど含み、日本語ブームとかいったポーランドのニュースみたけど、一部でしょうな。大使館前で抗議行動が大々的に報じられているニュースも、実は、10人20人に規模で、パフォーマンッス的なのと同じかも知れない。 その他、ポーランドの思い出といえば、大学で、東欧経済学を専攻してちょっとだけ勉強したことと、ソリダリティ(連帯)のワレサ、ワレサに追い出されたヤルゼルスキといった政治家、そしてショパン、キューリー夫妻、コペルニクスってところか、あとは3回地図から国が消えたとか。 それにしても、国家が消えて復活する。復活まで、その意志を支えたのが言語、芸術、文化、宗教そういったところだろうが、奴隷根性ばっちりの日本なんか、アメリカに本格的に併合されると、ケロっと日本語捨てちゃったりなんかしてね。なんてことないマスコット売りに人が多く集まり、何故かスゴイい勢いで売れていく。マヤクでも入っているのか?こんなペースで売れていくお土産屋は見たことがない。ワルシャワ・フレデリックショパン空港に到着し、ホテルに到着するやいなや、出かけるのであった。旧市街にまでであるが、第2次世界大戦でメチャンコに破壊されたのを、元あったひび割れまで再現しました、という町並みであり、その努力が称えられてか、世界遺産となったという按配。そういえば、ロリコン監督ロマンポランスキーの戦場のピアニストでその様子が描かれてましたね。 寒いので、時々教会に入って、暖をとることにしながら、夕食に突入するのであった。 2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.10
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これでも、キエフ観光したんだぜ。 空港から町へ向かうタクシーのおじさん(ニコライさん)はキエフでも20年ぶりの大雪だよと言っていたのであった。(20日ぶりだったかも知れない) キエフに着いた夜だけが、唯一、散歩に出かけられた時間であった。町は大雪で、結構な坂の街であり、あちこちで、坂を滑る車がぶつかったり、立ち往生している様子が微笑ましかった。車キュリュキュルいわしながら、坂を上りたくても、徐々に下っていく様子と、後続車の運転手の焦った顔が微笑ましいのである。坂の上にあり、大統領府の前にあるのがキメラハウスである。当時最新建築技術だった鉄筋コンクリートを駆使して20世紀初めにピザールな彫刻建物が出来たのであった。ちなみに大統領府は昔、共産党の建物で、あのフルシチョフも働いていたらしいのであった。そういったわけで、前の道は車が入ることができなくなっており、警備されているのであるが、私のような優良ガイコツジンが入っていっても、警備員は微粒だにしないのであった。寒さで凍っているのかも知れない建築家はゴロデツキーという狩猟家も兼ねた男であり、アフリカでキリンを生け捕りにして、キエフの動物園に寄付するといったゴロツキでもある。完成当時は自宅として使用していたようだが、現在は医療施設のようで中は見ることができないのであった。サブー。世界で一番人口が減少している国はここウクライナだ。ソ連崩壊してから1割以上減少しているのは、移民したから?子供の出生率も香港に次ぐらしい。今後50年で世界一人口が減るそうで半分になるらしい。ああ、じっとしてたら死ぬ、先を急ごう。雪のない日中の写真ありました。キエフってこんなところだったんだねえ・・・。その2。知らなかったよ、こんなところだったなんて。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.09
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キエフの空港で、一時期市内に戻ったとはいえ、30時間近くを意味なく過ごし、遂に機上の人となったスーパーエリートイモイであった。二度とくるか、ボケっといいたいところだが、それは、人のせいじゃないからね。飛行機は、朝便の客も追加で乗せたので、昨日昼便だけでは席はかなり開いていたのだが、満席となり、多少の窮屈状態となっていたが、隣に座った女性はとてもファンキーな人で、食事が出ると、熱く、隣のファンキーおちょこちょい女性は、アチャアチャと自国語で叫び、私が、皿にかぶさっているアルミから蒸気を取るために、四隅をフォークでプチピチと穴を開ける様子を見て、彼女の頭の中に豆電球が光り、同じように穴をあけていた。暫くして彼女を見ると、片手に配られた100ミリリットルのペットボトルの水、もう片一方の手にデザートのミニトブラローネを持ってオロオロしていたが、また私が既に前ポケットにその2点を入れているのを発見し、彼女の頭の中に豆電球が光り、同じように前ポケットに入れた。夜景が見えたので、写真を撮っていたら、彼女もそれに気がつき、自分もデジカメを出して、撮るのかと思ったら、買ったばかりのようで、説明書を読んでいた。結局、話はしなかったが、愉快な女性と共に、恋は生まれなかったが、次第に睡魔が襲ってきた。やがて、幸せ噛み締めるしか脳がないまま、というか、深い眠りに陥り、2時間少々のフライトといえば、グーグーといえば、フランクフルトにドンと着陸の状態であった。 夜、フランクフルトで1泊かと思ったが、このまま、急げば直ぐにチェックイン後、リスボンの最終便に乗れることが判明。フランクフルトで急いで、足元に荷物を挟んで、1泊しかとっていなかったホテルの予約を、ネットでしたんであるが、空港のネットは高いし、変に失敗したり、途中で金が切れたりして、結局10ユーロ近くを使ってしまい、直接行った方が安かったんチャウかと思いつつ、出発40分前となってしまいそうになり、急いでチェックインしたのであった。 席に行くと、隣に座っていたのは、またもやウクライナ人、それも親子で60代母とマザコン30代息子で息子がやたら太っていて、大変だった。横の肘掛は順調に取られ、しかし、2人はずっと機内で話しており、後ろの席から五月蝿いと叱られていたが無視して、次第にベタベタしだして、一瞬こいつらカップルかと思ったほどだ。私は、疲れ果て、何度も気を失い、3時間のフライトも30分ぐらいに感じた程だ。 夜中にリスボンに到着すると、暖かく、旗を立てたカートが出迎えてくれた。 情報によると、町までたったの7キロ。これじゃ、深夜料金とはいえ、10ユーロあればいけると判断というか、公共機関はもうない。タクシー乗り場にいくと、目つきの悪い若いタクシーあんちゃんだった。これはまずい、誰か乗って、その次に並んでいるタクシーに乗ろうと思ったが、不思議なことに1分程度待ってても誰もタクシー乗りに来ない。タクシーに乗っていく人は前に3組ほど見えたのであったが。仕方なくタクシーに乗ると、ちゃんとメーター回していたが、到着すると、何だか、印刷された表を見ると、ホテル名が記載されていて、それぞれに、料金が印刷されており、22.3ユーロ(3000円!)です、といわれ、ここで、元気ならいつもように飽くまで交渉と称した喧嘩するところだったが、もう疲れ切っており、20ユーロ札しかねえよ、と渡したら、すんなり仕方ないね、いいよ、と言われた。もしかして、タクシーが空港に入るのにお金がいったのか分からないが、チェックインしてから、多少むかついてきたが、むかつきが絶頂に達する前に寝てしまったのであった。(帰りは、やっぱりタクシー9ユーロで行くことができた) 出国1週間前の予定・・・→スイス・ズーリック半日観光→ポーランド・ワルシャワ泊であったが、直前にドイツ・フランクフルト経由に変更。 出国時のマスタープラン・・・ドイツ・フランクフルト乗継→ポーランド・ワルシャワ泊→翌朝ウクライナ・キエフ、観光、泊→チェルノブイリ日帰りツアー泊→ポーランド・ワルシャワ乗継→ポーランド・クラクフ、市内観光泊→午前中アウシュビッツツアー、午後チェコプラハ観光泊→朝フランクフルト経由ポルトガル・リスボン泊→であったが、・ ・・ドイツ・フランクフルト乗継→ポーランド・ワルシャワ泊→翌朝ウクライナ・キエフ、観光、泊→大雪で1日ホテル停滞泊→キエフ空港床泊→夜フランク着そのままリスボンへ→という形で、チェルノブイリ、クラクフ、アウシュビッツ、プラハをすっ飛ばし、予定より1泊早く(正確には11時間早く)リスボンに到着し、マスタープラン日程を一気に11時間追い越すという脅威の事態になったのであった。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.08
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キエフの空港に来てから既に13時間、やっと、機内の座席に座った私であった。前回までの粗筋・・・11時に、空港までの道閉鎖を押しのけ空港に到着したが2時出発の飛行機は遅延、汽車で行くことにし、40キロ先の市内に戻るが、タクシー内で9時間でプラハに到着ではなく1日24時間+9時間で到着することが判明し、長距離バスでワルシャワに行くことに変更しバス発着場に行ったがバスが出ていない曜日であることが判明、また空港に逆戻りしたのであった。そこでまた数時間待ち、やっとチェックインした後も、また2時間以上待ち、やっと機内に入ったのであった。しかし、機内に入ったが、0時までに飛び立たないと、行き先のフランクフルト空港が2時に閉まってしまうことが判明、しかし、まだ荷物を積んでいる状態であった。はやく、荷物をさっさと積み込み離陸しやがれと願っている23時50分。しかし順調に20分程度で荷物を仕舞い終え、若干、2時に到着は遅れるものの、特別にフランクフルト着陸許可を得ましたと放送がり、エンジンがうなる。2,3分後、そして、いよいよ、飛び立つかというときに、「再び滑走路(ランウエイ)が凍結したとの報告が入り、2時を大幅に越えても規則破ってフランクで着陸していいかどうか連絡中だ」と再び機長から放送が入った。もうとにかく飛んでくれ、疲れたよ、と思うと、すかさず、またしても放送が入り、「いくら早くても飛べるのは5時フランクの空港が開くから、あと2時間あるから、多分機内でいたほうがいいよねみんな」との連絡が入り、我々乗客はホットミールを食べることになったのであった。初めて、地上で熱い機内食を食べたのであった。とにかく、機長もパーサーもなんとか帰りたいという真摯な気持ちが伝わってくるのであった。 メシを食い終わった2時過ぎ、再び機長から放送が入った。「飛び立とうとしましたが、今しがた、結局滑走路が完全に閉鎖されました。明日、フランク発6時キエフ到着便の便もキャンセルされました。明日、空港は閉鎖されたし、朝その折り返し便の10時発の人たちと一緒にフランクに行きます、従って、出発は、一番早くて明日の朝10時になりました、皆さん、ターミナルに戻ります」と無情な宣告を受け、我々は、簡単に言えば、死んだのであった。10時って、あと8時間後じゃん!朝じゃん!関東便じゃん!再び、バスでターミナルに戻されたが、ターミナルには相変わらず人でごった返していた。外にも出られないのだ。しかし、田舎空港、外に出されても、併設ホテルもなく、もっとも外に出されても困るというのがあった。チェックインした人たちを断固、外に出すつもりは当局にはないようで、荷物も当然、飛行機に積んだままである。 もはや、床で寝るしかない。空港建物内で学生時代何度も寝たが、チェックイン後、ダンボール敷いて床で寝るのは始めてである。ダンボールは免税店から貰ったもので、上下マルボロの箱にくるまって眠り続けるの家来のいない王子様状態であった。上着は荷物と一緒にチェックインしてしまい、セーター姿の私は寒く、靴下には穴が開き、尻骨や腰骨が硬い床に辺り、こんなの寝られるか!といううちに気を失った。しかし、煮を切らした乗客たちが暴動を起こし、発狂したので、私も参加した。バンバン壁を叩いて拍手が意味なく全員がハイな状態になっていたのであった。そうこうするうちに朝が来た。とうとう。朝日がまぶしく、ターミナル内を照らし、雪は止んだ。飛べるのではないか。近くの女性が泣いてどこかに電話していたが、死人はでなかったが、スリップして怪我人が出たと叫んでいた。察するに、滑走路閉鎖になった原因を作った便だなと。次に飛び立つ予定だったんだよな、おいらの便。 何故だか後便であるはずのミュンヘン行きが先に出ることになり(掲示板に表示され)、フランク行きの乗客は、はっきりいって切れた。もう切れるのは3回目ぐらいなんだけど、もう、係員に詰め寄って、発狂して大声で叫んでいる。言っても仕方ないけど、この挙げたコブシどこに下ろすんだよ、てな感じであり、ウクライナ語で一通り説明があったあと、係員は、英語で聞く人?と訪ねると私を含め3人程度が手を上げ、いや、手を挙げただけで、やっぱり、飛行機はいつ飛び立つか分かりませんということであったが、懐柔策として、食糧と水が運ばれてきた。腹が満たされると、人間多少落ち着くものである。それにしても、空港内は禁煙か、所定位置なのに、タバコももうどこでも吸いまくりの人々である。免税店の酒を買って、その場で飲みまくり状態のキャオスである。 11時、遂に、館内放送がかかり、どうやら滑走路が解除されたようで、第一便(カザフスタン航空)ボーディングの内容が入り、人々は、奇声を上げ、割れんばかりの拍手が上がった。 続いてテルアビブ便(2日前出発予定)がボーディング始まり、空き出したので、すかさず、椅子を3席占領して、再び眠り王子になるのであった。 さすがにミュンヘン行が先に出ることに怒り心頭のフランク行きの乗客は、団体行動に出よう!と団結し始めていたが、私も指を指されているのであった。こんなところに東洋人いねえよ。目立って仕方ないのである。ボーっとしているのは、私という東洋人とプーチン(似)とその息子のマットディモン(似)だけであり、フランク行乗客たちは、ロバートカーライル似の係員 に詰め寄るのであった。そのかいあってかなくてか、ミュンヘン行の時刻表示が消えた。消えただけであった。更に1時間が経過し、12時15分、遂にフランクフルト12時半ボーディングの表示が出て、私は一人拍手した。そうすると、私をタイ人と間違えた西洋人が「バンコック?」と聞いてきた。バンコク便も超遅れているのだ、しかし、タイ人は一人もいないのであった。拍手したら、また消えて、16時に変わった。もはや、拍手した自分を呪うのみであった。しかし、今度こそ、16時、本当のボーディングであった。26時間遅延である。と、思えば、本当に始まりそうで始まらないという感じで、バス口で我々は固まり、ひたすら待ったのであった。それでも、やがて17時台には、飛行機の中に着席したのであった。 さらばキエフ、何しに来たか分からない!心に渋く、爽やかに、髪の毛は油ギッシュ、一応歯磨きはしているので、歯垢溜まりはナーシ!キエフの町並み(既に夜!)を見ながら、私は機上の人。そしてフランクフルトに(へたくそに)着陸した瞬間、乗客から怒涛の拍手が起こったのであった。すかさず、機長が放送で、ダンケシェーン(ありがと)といったのでった。機内は爆笑の嵐が吹き荒れたのであった。プラハのホテル代は取られてしまった・・・(ウクライナ紀行終わり)2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.07
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キエフに来たら、空港に戻り、またバスターミナルに行き、そして改めて空港に戻るという渋い状況を繰り返したのだが、とにかく、空港に再度到着したのである。14時5分の予定の飛行機は、予定時間をほんの7時間遅れ、更に、混雑の中、待たされ、遂に21時にチェックインが始まった!私は、急いでチェックインカウンターに進むのであった。とにかく、フランクフルトは何もないところで、ハブ空港として活躍しているので、乗り継ぎの人だらけである。そのため、遅れた飛行機の乗り継ぎの調整で、チェックインには一人ひとり時間がかかって仕方ない。しかし、もう21時であり、私は、乗り継ぎを諦め、フランクに1泊することにし、朝一のプラハ便に乗ることにし、ホテル代を捨てることにして涙を飲んだのであった。 ちなみに、すぐ後ろに並んでいるのは、私以外の唯一の東洋人である、中国人で、意味なく順番を抜かされないように、私にぴったりくっついてきて鬱陶しいばかりか、ため息をつきやがり、中国人独特の臭いにおいが立ち込める。中国人の口臭は全部同じということを思い出してしまう。カックンである。カックンの前に吐き気をもよおすのであった。遂に、私の番になり、今までひたすら険しい眉間を作る美人係員は、私の乗り継ぎのない行き先を確認すると、初めての笑顔を見せるのであった。やたら、「ベリーグッドベリーグッド」といい、私のことをいたく気に入ってくれたように思えるほどであった。(証拠に、席に着いたら、後部座席独占状態となっていた。乗り継ぎないから後ろにされただけかも知れないが) 結局、チェックインに1時間かかって無事、22時過ぎに、イミグレを越えてみると、またしても、人で満杯となっていたのである。そして、悲しくも23時と先ほど書かれてあった出発時刻は、またもや消えていたのであった。人を掻き分け、とにかく、ビールをたかが飲むのも、長蛇の列であったが、頑張ったかいがあり、3ユーロも支払い、ジョッキをほんの3分程度で開けてしまうのであった。とにかく、ビールで栄養補給を行い、免税店を見たり、立ち尽くしたり、ボサーっとしていると、遂に、24時半、念願のボーディングが始まったのであった。イミグレを通過して、やがて2時間半が過ぎようとしていた。喜々とバスに乗り込み、風があまりに強くて、セーター1枚の私は、一瞬凍るのではないかと思ったが、やがて、無事飛行機に乗り込んだ。そして、出発準備を終え、扉は閉められた。しかし、荷物の積み込みがまだであった。あと5台の積み込みが必要であるとパーサーが話しているのが聞こえた。何と、イライラしたパーサーは扉を勝手に再び開け、荷物を運ぶ人々に大声で、「早くしろ!あと15分以内に飛び立たなければいけないんだ!!」と発狂していた。おいおい。勝手に開けていいのかよ、と思いながらも、既に、私は、ビールを出してもらい、空港に着いてから12時間が経過して、やっと席に座れたことに安堵しているのであった。機長からの放送があり、フランクフルト空港は2時にクローズし5時まで開かない、そのため、2時間15分をぶっとばして2時間以内にフランクまで飛ぶけど、あと10分以内に荷物が積みこめないと、フランクの空港が閉まってしまいます、と放送があった。私も、焦った、はやく、荷物を積み込み終えろ!と心の中で小さく叫ぶ。何だよ、あの大空港24時間空港じゃねえのかよと怒りも多少感じるのであった。しかし・・・間に合うのか!(続きは明日を待て!)
2010.01.06
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キエフに来たら、空港に戻り、またバスターミナルに行き、そして改めて空港に戻るという渋い状況を繰り返したのだが、とにかく、空港に再度到着したのである。14時5分の予定の飛行機は、予定時間をほんの7時間遅れ、更に、混雑の中、待たされ、遂に21時にチェックインが始まった!私は、急いでチェックインカウンターに進むのであった。とにかく、フランクフルトは何もないところで、ハブ空港として活躍しているので、乗り継ぎの人だらけである。そのため、遅れた飛行機の乗り継ぎの調整で、チェックインには一人ひとり時間がかかって仕方ない。しかし、もう21時であり、私は、乗り継ぎを諦め、フランクに1泊することにし、朝一のプラハ便に乗ることにし、ホテル代を捨てることにして涙を飲んだのであった。 ちなみに、すぐ後ろに並んでいるのは、私以外の唯一の東洋人である、中国人で、意味なく順番を抜かされないように、私にぴったりくっついてきて鬱陶しいばかりか、ため息をつきやがり、中国人独特の臭いにおいが立ち込める。中国人の口臭は全部同じということを思い出してしまう。カックンである。カックンの前に吐き気をもよおすのであった。遂に、私の番になり、今までひたすら険しい眉間を作る美人係員は、私の乗り継ぎのない行き先を確認すると、初めての笑顔を見せるのであった。やたら、「ベリーグッドベリーグッド」といい、私のことをいたく気に入ってくれたように思えるほどであった。(証拠に、席に着いたら、後部座席独占状態となっていた。乗り継ぎないから後ろにされただけかも知れないが) 結局、チェックインに1時間かかって無事、22時過ぎに、イミグレを越えてみると、またしても、人で満杯となっていたのである。そして、悲しくも23時と先ほど書かれてあった出発時刻は、またもや消えていたのであった。人を掻き分け、とにかく、ビールをたかが飲むのも、長蛇の列であったが、頑張ったかいがあり、3ユーロも支払い、ジョッキをほんの3分程度で開けてしまうのであった。とにかく、ビールで栄養補給を行い、免税店を見たり、立ち尽くしたり、ボサーっとしていると、遂に、24時半、念願のボーディングが始まったのであった。イミグレを通過して、やがて2時間半が過ぎようとしていた。喜々とバスに乗り込み、風があまりに強くて、セーター1枚の私は、一瞬凍るのではないかと思ったが、やがて、無事飛行機に乗り込んだ。そして、出発準備を終え、扉は閉められた。しかし、荷物の積み込みがまだであった。あと5台の積み込みが必要であるとパーサーが話しているのが聞こえた。何と、イライラしたパーサーは扉を勝手に再び開け、荷物を運ぶ人々に大声で、「早くしろ!あと15分以内に飛び立たなければいけないんだ!!」と発狂していた。おいおい。勝手に開けていいのかよ、と思いながらも、既に、私は、ビールを出してもらい、空港に着いてから12時間が経過して、やっと席に座れたことに安堵しているのであった。機長からの放送があり、フランクフルト空港は2時にクローズし5時まで開かない、そのため、2時間15分をぶっとばして2時間以内にフランクまで飛ぶけど、あと10分以内に荷物が積みこめないと、フランクの空港が閉まってしまいます、と放送があった。私も、焦った、はやく、荷物を積み込み終えろ!と心の中で小さく叫ぶ。何だよ、あの大空港24時間空港じゃねえのかよと怒りも多少感じるのであった。しかし・・・間に合うのか!(続きは明日を待て!)リアルセーシェル、自分史上3番目に入国厳しかったかなあ。モーリシャス→セーシェルインド洋の貴婦人と呼ばれるモーリシャスからフィリピンではなく、インド洋の真珠といわれるセーシェルに飛んだ。2国の比較はまた書くが、今回は、アイランドホッピングである。入国が一番厳しいのは、イスラエルだった。入国というかイミグレで手こずるという意味である。その次は私が悪いのだが、2番目は島国イギリスであった。初めて日本からロンドンに行って、書類をなめてて、宿泊先をジャパンエンバシーとか書いてしまい、イミグレの人が就職したばかりの真面目すぎる女性で、いろいろ厳しく聞いてきた。実は、イギリスでは迎えいに来てもらうことになっていたのだが、どうせ来てくれるからと連絡先も住所も聞いてなかったので、書いていることと違うし、どこに泊まるか答えられないので、働くものと勘違いされ、アフリカから来た青年2人と随分時間がかかったのであった。結局、空港放送で呼び出してもらい、本当に迎えに来てもらっていることを証明したのであるが。そしてまたもや島国セーシェルであり、今回失敗したのは、本数も少なく最後に列に並んだため、後ろに誰もいなかったことであった。イミグレオフィサーの男と、なんだがぶらぶらあつこちのブースに行きかう女性がいて、最後に並んだブースの人たちがターゲットになっていた。もう鬱陶しくて、ちょっとイミグレオフィサーの男はいいんじゃないのといいながら、女性がダメもっと厳しく調べてということであった。img src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/bfcd7693ea0469667c617955e9859c08d262d6ae.83.2.9.2.jpeg" border=0 alt="" name="insertImg" />一応、宿泊先とセーシェル去る予定表は提出必要だということは聞いており、それは、携帯電話の画面を見せたのだが、本当に泊まるのか、そこから宿に電話して、泊まることを確認された。所持金出せといわれて、出したのがドルが200ドルぐらいで、ユーロが100ユーロぐらい、それからとどめが円は7万円、滞在に十分だろいうと、クレジットカードは持っているかということでそれはいくらだという。あたしのクレジットカードのキャッシング限度額は100万円であるので、そういうも、ほんまかいなということで、キャッシングせよとうことであった。それで荷物はイミグレ前に置いといて、カードだけ持ってついてこいというので、いやだ荷物も持っていくというと、監視カメラがあるから大丈夫だとうので、仕方なく、イミグレオフィサーの男性ともう一人の男性と、外に出て、銀行の前に行き、キャッシングする。とりあえず、8,000円分(100セーシェルルピー)を出すと、OK分かったといって、これでよいといって、またイミグレまで戻り、うるさい女性に、こいつ金持っているよ、だから入国させていいだろ、というと、女性もうなずき、やっとハンコを押してもらった。もう30分以上たっているんですけど、てか、俺も、このイミグレの男性に憐れみを感じるのであった。私のモットー、できるだけイミグレも税関も男性のほうに並べというのが、今回は、くせ者であった。女性は真面目であり、いままで何度か大変なことになった。セ―シェル航空国内線セ―シェル航空国際線カレー味なかなかいける。分からないが、空いていた、4割ぐらいの乗車率は、今回一番割合少なかった。そういえば、イミグレの前に最近行った国を書かされるが、前に並んでいた人がケニアと書いていて、イエローカードを出せと言われて出していた。ただ、私は黄熱の注射してなくて、何かないかチェックしてると、12時間以内の滞在であれば免除であったので、それを使うことにしたのであった。それでハンコ押してもらってみたら、3日間滞在するといってら、ほんまに滞在可能期間3日で押されていた、酷いな。飛行機乗れなかったらどうするんだよ。寝過ごしたらどうするんだよ!セーシェル航空なのに、機種は何故かエティハド、2時間半のフライトでよかったが、デバイス動かず。まあ、エティハド資本だろうかからなあ。それでも動けよ。到着は暗くなる頃。そういえば、今回日本に帰ってきて、女性の税関のほとばかりだったので仕方なく、並ぶと、荷物これだけですか?アブダビには何日ですか?え、1日ですか?他にどこ行かれましたか?もう鬱陶しくなり、アメリカ、ドイツ、トルコ、モーリシャス、セーシェル、マダガスカルその他もろもろですというと、少し困った顔をして、じゃあ全部で何日ですか?といわれ、まあ一週間ですというと、首をかしげながら分かりましたとうことであった。まあ、そんな感じで餌食になった私は無事イミグレと税関を越え、セーシャル無事入国となったんであったが、9時代でもう公共バスもなく、高い物価で仕方なくタクシーで宿に向かうか、宿まで15キロぐらいだわ、グーグルで測ってきたのだが、ネット情報と違い、まあインフレとか夜もあるけど、だれももうタクシーの人もいないのだが、5000円弱である、高すぎるが誰に聞いてもそうだ。昼間首都まで300ルピー2400円、夜は1.5倍ぐらいになるといっても、2倍の600ルピーである、高い、ムカツク、が寄ってたかった一律そういうので、仕方なく両替した8000円のうちここで4800円を消費する。ただぶったくているのかどうかは分からないが、もう夜なので、スーパーかどっか寄ってくれビール買うからというが、それが25ルピー200円で、これが後日どこで買っても一律料金であった。安売りもないけど、ぼったくりもない。なんだこれ。宿は、物価の高いセーシェルで一番安いところにしたら、うわー、首都の山の上じゃん、遠い、私も運転手も不便なところだねえと呆れた、だから100程高くなるんだよ、とドライバーはいう。セーシェルはフランス語ベースのクレオール語だが英語も通じ、やたら英語のおしゃべりなドライバーだった。しかし、インド洋の真珠?めんどくさい国だな、ケチだし!タクシーも高いし!と入り口でちょとゴフマンな私であった。しかし、例外はあるけど、日本はぼったくらない国だねえ、誇りだねえ。知らないと思えば、ぼったくる、ちょとだけぼったくる、そういうのが世界スタンダードなのに、日本の誇りにしてほしいわ。ほんまか?財布落としても出てくる国は、日本ていうけど、おれも、2,3回拾ったけど、さすがに抜き取ったことないけど、ごめん、中学校のとき裸の1000円はネコババした。子供の時は100円拾って交番とどけたら、ポリスが気を使て自分の財布から100円だして、勿論何の調書もとらずに、ありがとなこれお駄賃やで、と100円くれたなあ。気が利くねエ。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.05
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ポーランド、ワルシャワショパン国際空港まで、市内から10数キロの距離である。タクシーの中で、はらはらと雪が少し舞って来た中、陳腐にも頭の中に英雄ポロネーズのピアノが鳴り響く。 空港は、新しく、空港内をぶらぶらしている中、ふと外を見ると、雪が積もり始めていた。アア、雪か、冬だからな程度に思ったのであった。機内に入ると、吹雪に近い状態になっており、飛行機が安全に飛ぶためなのか、離陸前に何かを吹きかけていた。何だあれは、おまじないか。ポーランドを離れ、東の内陸を90分行き、やがてウクライナの首都キエフに到着した。ポーランドも旧共産圏だが、ウクライナはソ連(ロシア)から独立した生粋の共産圏。勿論、チェルノブイリということもあったが、何かの本で、ウクライナは美人の産出国ということも知っていたのであった。首相も美人で有名でもある。ちなみに。 まあ、それはそうとして、共産圏の名残はしっかり残っており、イミグレは長蛇の列でもないのに、たかが1列15人程度というのに、列になっていない、割り込みしまくりで、割り込みしようものなら罵声が飛び、列を整える係員はおらず、4つしかオフィサーがいないのに、後ろは10列ぐらいになっており、前のほうは団子状態となっていた。悪い予感がした。確かに、アメリカでも下手すると飛行機の到着が重なった場合は2時間近く並んだこともあるが、いや、そのために、メキシコへの乗り継ぎも失敗したのだが、アメリカでは係員がいちいち並ばせるし、順番抜かしもないので、さほどストレスを感じないのだが、この早い者勝ち状態、インドか、という感じであった。インドでは2時間並んで、結局はスベニアのボールペンよこせ、などといわれたりするのだが、それはないとしても、久しぶりに1時間以上並んだ。それも一人3分程度並び、変な奴がいると、イミグレオフィサーが別室に連れて行き、5分ほど帰ってこないという状態である。何故か、中国人留学生数人が、ビザの問題か、片っ端に別室行きで、そのたびに、イミグレ作業が中断し、イラつかせてくれる。後ろから、空港職員にスチューデントかと中国人と間違われて、意味無く憤慨してしまった程であった。1時間少々並び、やっとイミグレを出て、荷物をピックアップして外に出ると、数人の白タクに囲まれた。正規のタクシーより安いことを確認し、20ドルでタクシーに乗ることにする。何せ、この空港はキエフの国際空港だが、一番市内から近い空港でなく、市内から40キロ離れており、周りに何もないという、やる気のない空港である。外に出ると、大雪になっていた。勿論、タクシーは、滑りそうになりながら、車を走らせ、市内に入ると渋滞に巻き込まれ、遂に、ホテルに到着する頃には、ホテルまでいく軽い坂をスリップして上れない状態となりつつあった。ホテルは、かなりロビーなどが絢爛豪華であるが、さすが旧共産圏、見得っぱりであり、部屋はなかなかショボイ状態である。まあそうやって部屋で15分程度うだうだして、ユニクロのヒートテックを上下に装備して外にでると、前が見えないほどの吹雪となっていた。2時前にキエフの着いたというのに、雪とイミグレのせいで、すでに7時前である。・・・明日、大丈夫なんだろうか・・・いいや、全然大丈夫でなかった。翌日、100キロ先のチェルノブイリツアーどころか、空港までの道さえ、道路閉鎖になっていたのである。もはや、どこにも行けず、翌日、少し外には出たものの、1日中ホテルであった。ああ?ツアー?アホか、この雪を見ろよ、そんな顔をされるのであった。(気温はマイナス数度だろう、そう死ぬほど寒くはない)もはや、朝からビール買いに行って飲むだけである。何やってんだ、俺、ホテルで一日中。2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.04
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ベリーサンハッピークリスマス今年もよろしくお願いします。去年ブダペスト一去年ロサンゼルス二去年ワシントンDC2009年正月ポーランド・ウクライナ・ポルトガル旅行 ワルシャワ逍遥 夕刻のワルシャワ ワルシャワgourmetの旅 ワルシャワガイドブック ポーランド・ワルシャワ→ウクライナ・キエフ キエフ散歩 キエフガイドブック キエフ、キメラハウス キエフ散歩 キエフgourmetの旅 リスボンで落ち着く キエフスタック1 キエフスタック2 キエフスタック、さらばキエフ3 キエフからリスボン来て気温20度アップ リスボンラビリンス リスボン、サンジョルジュ城 リスボンガイドブック リスボン、ウインドショッピン リスボン正月 リスボンgourmetの旅 フランクフルト→日本滞在2時間→ソウル ソウル1泊 ソウルgourmetの旅 ソウル1986 インチョン→関空 ドリンクの旅
2010.01.01
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